2015-06-14

my ft 06142015

或る多数のもの与件を素早く分類しているときに、机の上にあった内容が似ている書物をどちらに分類するかで非常に悩んだことがある、瞬間的判断ができないと.グルーのパラドックス(grue paradox)は若干似ている.分別を保留という手を使わないときにだ.

昔、近所の家の鶏の小屋の前で、鶏冠のいろは赤く、赤というイメージは他にもある、考える赤という色と実際にある赤をどのように識別するかと悩んだことがある.分析哲学よりクオリア感覚か、これは心理学的に思えるが.その後知覚がまず直接的で・・その時に蓼食う虫も好き好きを浮かべて意味が?

ダルマの内部とTQFTやモチーフなどは同位相を持つだろう、マイシステムも中身は異なるが同じようなもの(最近は変名を用いた小説または散文で表現化の可能性を薄く浮かべている、それよりまず未完の項目をどうするかを楽しんで苦慮しているが)、そもそもダルマが現実・現世界から解釈したものだ.

超自然も対象XXの差異によって変化したのかも.

色即是空空即是色・・・世親だったか・・無--そうして無すらないということは、埴谷の前提・大雄と釈迦の対話は成立するのか

埴谷雄高の大雄がそこにいないのだからから、なぜ埴谷はニュートリノに執着・楽しみを覚えたのかわかるが、今ではニュートリノは質量を持っていると、むしろ光自体が質量ゼロであるという視点と埴谷の意図目的とは違っているな、質量の問題ではなさそうだ.ならば反物質作用若しくは無物質ということに

昨日の曇り空に二箇所の開いたところから光線が雲と少しの差異を持って影上に見えた.ポロックの深淵の明るい逆パターンを連想した.自然の情景にもそんな芸術的瞬間があるものである.

シェリングは確かあの女子*の時に直感で全体的に、オーラ哲学者と思ったことは採用している.
戯れは戯れで直ぐに消えてゆく意識現象と設定しているのに、対象たちはリアル充実的に束縛・拘束・抑圧的反応を行使してくる点で、思考障害を非常に感じる・しつこく偏執的事態を招くことになるからである.それはまた無駄な・無意味なナンセンスでもある点の認識を設定者に出来得ないようなのである.

イド・無意識・深層心理・自我などのタームから萌芽構造様などを設定して接続を何とか想思できるようになったような・・・

あの時、ある女性に作家になるというより詩人になる(或は、(蛇足で無名中の・未だにそう・・)作家である・詩人であると)といえばよかったかなとは何回も思い浮かべた.含意していると今認識した.思えば彼女は18歳の四月のあの一様性に浮かんだ女性だったのである.

尾状核-”脳の学習と記憶システムの重要な部分を占めていると考えられている。”---『間脳の両耳の**』No.*より---間脳など聞いた事もなかった筈のあの頃、自働記述で想起したこの文面は今、記憶関係とほぼ納得である.

ガブリエーレ・ヴェネツィアーノ、1968年

2013.03.05 オービフォールド初出ツイート

人は先天的存在であるばかりでなく、後天的存在でもある.ゆえに先天的存在顕著な人物はあたかも幽霊のような(後天的実在感が薄く・・)という思いも浮かぶ.

ここは君のためにあるが今は認めることはできない、他人は誰も来ない、やがてうごけなくなってきたので問う、まだだめなのか、君が自覚することで、君の自覚を他人がするわけではない、--カフカの掟の門風に自覚の促しが有効にならないと無知の時間を引っ張るだけ

量子もつれ的思考に関しての思い出がある、今では表現を知っているポランニーの創発と知行合一的な陽明学的な対象と外から見る自己の世界を同時時間に考えていたので、これらは結びつくかも.

GW不変量は明瞭過ぎるように使えそうでもある.1

いずれにしても思念の限界には達していることは間違いなく、ポテンシャルの情熱でなんとかなるレベルではないとは自己自覚である.16-17・21はいいとして22-28まで未完で、最近はいくらか挑戦の気分が湧出してきている.

マイシステムを構築・考えていた時には、いったいこれをどのように考えたらよいのかと壁を持っていた.今ふとすでに解決していたんだと妥協点を浮かべることがシステムに関してはできる.どうも自らに対して一歩下がって見てしまうので、多大な無駄なエネルギーを消費してしまう傾向があるな.
ここにいたって、パンのみに生きるにあらずを軽視しないでよそうかとおもうようになり..身体がなければこの心理・意識・精神もないのだけれど

TLPの原子命題は意味がないと思ったのは、あればモナドやエンティティの要素主義で説明できてしまうから、これで昔に行き詰っている.ペンローズも同じだ.ただし、超弦理論には妥協中.ゆえにTLPで意味があるのは、世界がある神秘や途方にくれている形とかである.

「文明は衝動の抑圧の上にのみ成り立つ」-フロイト、マルクーゼは労働と遊びが一致すると述べている.ハーバーマスは道具的理性や機能主義的理性とは異なったコミニュケーション的理性を用いるとしている.---『人間は性意識を理性に昇華できるゆえに人間である.No.29』

”われわれが理論を形成するに際しては、われわれの想像力をかきたてるありとあらゆるものが、動機となり、源泉となり得るのである。経験的事実のみならず、過去の理論、伝統、形而上学、神話、・・・そして誤解までもが源泉となり得たことは、科学史の教える事実ではないか。”ポパーのこれは使える

1946年度になってもWittgensteinは”哲学の問いを一般的なかたちでしめすとこうなる.それは「わたしは泥のなかにはまりこんだ.道がわからない」というものだ”と述べていた.TLPには哲学は途方にくれているという形をとるとあった記憶があり、Wittgensteinは無変化

なんのことはなく、昔にふと考え付いた特性方程式の半順序の順序化が今になって現実化になるような事態に思えそうなことになってきた.なんと・・SQLのケース1・ケース2--ケース4で展開すべきなのかくらいしかアイデアが湧かない.

人間とは何かの命題の結論が出ない限り、いかなる人間も存在している理由・価値がある.この対象に向かうジャンルは哲学をおいてほかにない.

末法の時代に入ったならいかなる仏教の教えも意味がなくなり、自我教え強調も説得力なく詭弁的ではないのかという思いが浮かんでいる.そのような人物は末法とは認識していないような.また世界の国全てが末法の世界とはあまり考えることができない.

スカラーが普遍構造的だからフッサールは出て来ない.出てくればパスカルの実存がハイデッガーの根源かデリダの差異場にすぐに行くので、パスカルの実存的ではなくなりヴィヴィッドになり、普通の実存になるが普通といっても、混沌の情熱になってしまい、メタ的に原存在考察対象となり、底流のままに.

個人的にはすっかり忘れていたことを対象を違えていわれることが多すぎて、その不条理を直すために多大な労力を行使中.いろんな不都合には、こんな人々のでたらめが寄与しているので、これらに対して無責任のままではまずく、責任をとらせたいということで.無駄な時間はまま他者にもよる事が多々あり

作家になるといったのがまずかった気がしている(すでに文豪的な気分であるとやや冗談的に内心思ったが)、そのときに相手が”太宰治じゃない・・”といったのでその後悩むことになった.これはある女性に冗談的に太宰治ほどにしつこい存在が似合うのではないかと以前に思ったことを受ける羽目になった

精神の精神が精神の精神で精神の精神を精神する-No.6の副題.こんな考え表現を剽窃できる女性はいない、剽窃は単に滑稽にもうつる未完の経験やミスや冗談で意味なきナンセンスを真面目に受け取るとかの、それこそ意味なき無駄ばかりを要請する形でしかない.パンのみに生きるにあらずなんだが.

ゲーデルの定理にヒッグス粒子・場の影を浮かべた

岩槻駅の階段を登りながら、身体障害者は人類の犠牲とまで考えたが納得できはしなかった.昨日、人の狂気が精神に向かえば、精神分裂・統合失調や発狂で、身体に向かえば畸形・奇形で、たぶん薄弱もそうだと考えて、現象的・実証観察経験的には帰結・納得できるかなと

身体を無視できないことを強調した-パンを石に変えてみよ-という意見がある.あとから理屈付けに用いてみた、奇形・畸形を遺伝子が身体に狂気的に出現した場合-(精神の狂気は普通歴史上に多くある・・)として思いついたのも今日の苦痛忍耐からかも.

ナロードニキはテロル方針を持っていたのか、.或る人物とあった初対面時にナロードニキのようだといわれて、<ナロードニキ?-確か農民的な・・・そうかなそんな心持はあまり考えたことないがと沈思黙考>、が記憶に残っていて忘れず、あと日本のロートレアモンとか、一体誰のことだろうと・狭量で.

超理性がわからないから、人をXX化してみてしまうXY達、またXXも曲解・誤解・未熟理解を平然としてくる.

ストレンジアトラクタでNo.16にヒントを得た.これなら一応の応答はいいのかも.

テータ関数が岩波辞典に?-楕円積分の項目かで、分岐にフラクタルを当てはめる・しかも多様フラクタルを、そうなると複雑さに閉口した深淵の多様連続も形式判断はできることになるが、主観で想像中を認識するのは困難が(パスカルの、想像力は理性の邪魔というような-これ秩序観点?)
20歳で行き詰まって、ずっとそのままの場合は・・・・・・

私的言語は成立しない-スラッファへの返答.No.17

  ・・・・非現実の現実の自由を無機物が圧迫するという埴谷の想いは、ヴェイユの重力にも似て、ここでヴェイユに期待するといった人物は、埴谷はねえ埴谷はねえと述べたのを聞いた記憶がある.別に埴谷はなんでもないので無言ではあったが.ともかくここで絡んでくる焦点的なものの存在を覚える.

諸々の数学教授の研究紹介文をみるにつけ、あまりにもタームが多く出てくるので処理が追いつかない(資料が簡易に手に入ればその限りではないかな)ために、『フラクタル・パラダイム』なる考えを設けて、これからも出てくるであろうだれそれのタームに対して、時間を稼ぐことにした.

”直線(1次元)、平面(2次元)の場合、その上のブラウン運動の粒子は確率1で何回でも原点付近に戻ってきます。しかし、空間(3次元)では、その上のブラウン運動の粒子は確率1で無限遠点に向かって飛んで行くのです。”--ちょっとこれは関心すべき事柄である.普通なのに・・・

キリスト教の理想的青年を生きることは難しく、賛美歌も本当は歌えばいいというもではない.心情が賛美意識情態にないと本来は歌えない.

昨日は久しぶりにNo.20を体感した.多少鈍味が出てきていたのは、ちょっと生理感に傾いていたか.
無機物進化論・無機的進化論でNo.16を曖昧にNo.12を用いてみると考えた.およそらくは、霊的センスも現象学的には通過できると思われ、そこまで考えなくてももあるが、考えてももある.

インナーギャラクシーで思い出した.人は胎児のうちに生命の歴史を辿るというのはまあ大体正解だろう.唯物だとしたらそれに無機物進化論が必要になる.そうしないと生きている人間の説明がつかなくなる.No.26が進展した.こんなことは誰かすでに考えているかも.生命の起源以前の過程を.

帰納の結論はパーコレーションともいえて、その結論はまた帰納的要素になって、巻き込まれ展開して行く.

帰納の結論には未然形が付きまとうのが定義なので、反面は無責任ともいえる.-これはNo.23に置く.

No.17に肝心要のソクラテスの無知を忘れていた.あまりにも当たり前すぎて・.ついでにミネルバのフクロウやショーペンの解脱なども、信じがたいがアリストの中庸・中庸といえば中国だろう.その他盛りだくさん.

トーラスの外部から来る内部から世界へ出ることの衝撃的意識の説明に、相対性の時間速度で説明できたことはいいが、これはそもそものH定理意識ではないか.想い出の坂道の場所は良く記憶している.

ただしNo.17は空白である(モデルに関しては他者が活躍し過ぎている?).モデルは例外.或るときのフッサールでちょっと捻れたおろかさを持ってしまって.ハイデッガーのネクストテーマを記述してもよく、6.44は説明をしてそのまま導入してもよい.

”世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である。— ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』(1921年) 6. 44、土屋賢二訳”--この文章ゆえにTLPは印象であり、回想のWとこの文章からNo.17のモデルにL・Wを持ってきている.

西行の山家集の花の歌群の「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」は、呻吟と荒廃と懊悩の自己自身を憐れんで、せめて夢幻を見て差し支えないではないかと--想定したことがあった.

子供と遊ぶ良寛はソクラテスの無知をわかっていたかとも思ったが、わかっているということを知っているという形がふさわしいなと考えた.

折に触れて考えてついに射影と思いついた.射影的ならば砂の中のとも思えるが、砂の上で差し支えないと.ゆえに多く不明なものはほぼ射影空間上の存在なのではないかと思い至る.まあ射影幾何学(好まないが)は数学上結構重要だから、多分あっているだろう、折々適用してみる日常になりそうだ.

 ”ナポレオン1世はE1b1bである”DとEは兄弟的でE分布はアフリカ大陸全般にわたっている.Dは日本特有でOとどうなるのかなと考えたことが少し前にあって、無意識通底していて、Eとタイアップという手を思いついたがアフリカとは、しかしE型には顕著な有名人がいる・いた事実がある.

有限体のG^Fに対して”1の 巾根 を もっ と沢 山 含 む(無 限 次)代 数 体 を・・・”---なんとなく4個の特性方程式を考えて区別できなかったものにヒントを得たような、無限次とはまさかと考えもせずだった...

デュトワは長い気がするな、1996年から常任指揮者か、昔はアルゲリッチとで刺激的なカップルと思ったこともあるな.どっちかというと男の方の個性が弱かった気がしたが.今日は珍しくずっと聴いている.ピアニストのファッションは?-演技的かな.

フォーカルポイントについて研究していた経済学者がいた、焦点は若さに纏う楽しみの記憶があった.東京は焦点となっている今日、ゲーデルと焦点の関係はどうするかが浮かぶな

 ”物体があなたから遠くへ行けば行くほど、物体にとっての時間の進みが速くなるためです。”-ホログラフィックで円筒だそうだ.相対性理論から合理的に考えるとそうなるな、負の曲率.

ヘンレ係蹄をヘンレのワナと表現してあるのもある.プラダー・ウイリーについて間脳登場なので、これは多少論理に関係してくる.脳機序ではこの言葉のみ用いているからである.

姉が屁理屈をいうなといった、内心では論理整然としているのだが、全く女のヒステリー直感である.そのごいくらか記憶に反省点があることもあったが、無謀な冒険で怪我をして入院し、学校へ久しぶりにいって帰り道に同級生達に手を振られた姉と一緒に話ながらの小学2年生

長編作文を書いて、これはかなりの力作だと思っていた小学3年生の時に、同級生が短編を書いてそれを教師に褒められていたのをみて、迷いが生じた.短い文章でもいいのか?と.今では俳句・短歌・定型詩・自由詩・随筆&論文などを知ってはいるが、そのころ全く考えたことはなかった.

ヴィトゲンシュタインのパラドックスはNo.16の難点に関係しているような気がしてきた.そうなると次のNo.17のモデルであるヴィトゲンシュタインにつながることになる.クリプキは1982年に言及していたのか、時間が過ぎているな.

0 件のコメント: