2018-12-05

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ふと彼を知らずまた己も知らずの存在がいるのではないかと浮かんでいる.感主観的には彼を知るが己は知らない人が多いのではないか.彼を知るより己を知った方がいいと思うけれど.何でも個人情報保護法があり、彼を知りづらい状況時間でもあるので


   
           








しかし年になって、政治的な区別判断アロー的な事を考えていた時に、志向性の言葉を思い浮かべ現象学思考が発生した.その以前にする必要のないエポケーなど冗談でトライしたら現象学の混沌・その根源的と思う所に剥き出し的に移行して、頭おかしくなるというまたしても冗談が束縛という始末に


   
           








啓蒙的存在の不快さはその存在がスノッブ的でしかもスノッブにプライドを持っているからだな


   
           







逆とか模倣とか主体の歪めとか無知ゆえの才能なさゆえの非認識性能力もあるかも知らないけれど、ともかく当人はそういう事をするなと思っているのにそうする事は当人を無視していることになり、無視されている方からは何にもなしようがない.なぜなら何か反応しようにも主体の使いようがないから、


   


それが狙い?、まさかそれができるくらいなら独自の何かを行使するだろう.とてもそうとは思えない逆者達


   
           






 

権威に従って自己を同調かする存在は一般的にユダ的で厄介なものだと思っていたそれはスノッブタイプであると判明した.スノッブちょっと気持ち悪い言葉で、その存在事実はよくわからん頭錯乱してくるような存在、君自身は一体なに?で分からんもの


   
           





 

普通詩人はスノッブを軽蔑するはずで要するに大衆=一般存在はスノッブに近い存在だから人気あり、詩人は忙しき日々の営み中の一般存在には遠いもので、一般存在保身からは石を投げるということになる


   
           





 

線形も重なると難しいけれど、まさか線形有限でいいとは思わず非線形的未定問題だろうと勘違いをした事を今更取り返せないと思った時があり、それは失敗とそれなのに応用力の無さに困ると思ってしまうその後の事は、どう見てもあるxxへの落ち込み的の寄与が所々にの感じである


   
           





 

'思想はいかなる至上物から自由になりうる'これがわからない.そうである時にその思想は至上物に対して責任を持つ事はわかる.翻ったかたちかな、人間とは何かの哲学問いの答えは出ていないのはわかっていた筈だけれど今は何かレベルが下がっていて考える事かなぜかできなくなっている.


   
           






 

そんな謎を持っている現人間存在だから、およそ未来に出ると思っている答えを持っている存在として引き寄せた事を考える.単純には関係とはその謎になる.カントもアンチノミー迄で答えを出しているわけではない.カントのアンチノミーの先に謎はある.もし解けたら人間は存在しないか別のものになるだろう


   
           






 

グリー系の会社のやり方を見て、考えている事を広汎性対象でやっているとびっくりしたな、先端であると.マイノリティやダイバーシティではなく、ダイバーシティは関わるか、日常一般社会がそうなることを昔から考えている.様子見ラプスを費やしていたために現実時間に合う羽目になってしまった…


   
           






 

帰納の未完は現存在のほとんど未完に終わると連動性を持っている直感がある


   
           





 

中間存在とか叙事的存在は深さに置いてそれ以上は深くなれない.即ち認識度に置いて浅いとなり、愚かしい存在であるのに自らを愚かしい存在と認めることができない自然さを持っているのがふしぎである.自らを不快存在に擬態化とか、世界は浅いものであるとか即物的なもので不自然を自然と思う傾向がある


   
           






 

模倣して演技であった人生になったとしてもそれだけの存在でしかなかったらそうしてもなんでもないわけと気がついた.模倣者自体そんな存在なので得るものがない損失ばかりだから不快なんだけれど、模倣者に取っては快楽でしかも被模倣者が自らを卑下して遠慮して忍耐我慢をしてくれると尚更になるな…


   
           






 

ただし模倣者には責任が伴う事を考慮していない目の前快楽による短慮なので考えはしないのだけれど単に自然がそのような事を認めない筈になっているだな.何しろ不自然だからである.まあ間違っていた程に情報知識不足はあったけれどそれは別としても余りにも明白過ぎた夢故がある


   
           






 

日常の生理異常や性格の特異点があれば自己心理わ自覚するだろうけれど、どうやら無自覚者にその陶冶をしろと言っても、無自覚なので陶冶をする方向など持つわけがなかったと漸く気がついた.それで他者変化意図なのに妙な反応で変な理解による誤解を齎してきたという納得理由がある


   
           






 

模倣とか剽窃とか逆とか述べている対象者達は不快だというのは、その対象者達が無自覚による自己無知の対依存という模倣なのに気がつく才能がない無自覚自己無知で、模倣して自己自体演技者になっている事にもしかして一生気がつかないタイプか、エゴ優越感だけは本能で持っているやはり自覚なしだろう


   
           






 

まるで模倣者達にとって阿弥陀的にもなり、また逆に模倣者が阿弥陀的意識を持っているかも.啓蒙的存在はいるがやはり阿弥陀的意識で無責任な干渉妨害だにもまた気がつかない無自覚者達でもあるな.それも自己陶冶が未発達な段階であるからだけれど、それすら自覚することができない未発達中というわけか


   
           





 

また良寛云々を思い出した啓蒙意識者の不快な思い出が湧く.良寛などなぜ気にしなければならないのか全く思考外の存在で、勝手に押し付けるなと思ったまあ苦手な理解できない存在で、人に押しつけないで自分で良寛的生活でもすればいいではないか.実に自惚れた束縛者でもある無関係な割り込み者がいた


   
           





 

ブラマンクがわからないのも面白く無いので一連の絵を眺めてみた.位相空間の分離公理から離散的と考えたけれど、それから変位して多世界解釈的な一枚のキャンバスに表現したかとも思うけれど、何処かずれているような


   
           





 

しかし嫌いな存在や不快な存在や冗談存在が主体意図に反して記憶に残り過ぎる事態で、自己疎外を要求されすぎのつまらない日々を送ったものである.なぜ他者に主体を阻害される羽目になるのは平衡感覚の需給均衡的なものか、若しくは現実が虚偽で出来ているかである.仮想現実がネットでなくリアルにある


   
           






 

それで先ほど考えた、無限遠で平行線は収束するについて、無限遠またはとか無限遠にも差がある筈で一様直線もいい加減と、極点化も内容には点が無数にある事になり、そうなると新たな今のところ実用的に十分であるかの射影もより新たな視点が登場する事を予見してみる…


   
     



 

虚栄の官能快楽に染まっている事を自覚しているのかいないのか分からんしつこいxyがいて、単なる偽善者というやつだった事に気がつく.


   
           





 

大陸文化が縄文文化に対して育成変容化を行使した弥生時代からはまず間違い無いだろう歴史のその大陸文化に軸足を持っていると半島意識は強くなるだろうが、縄文遺伝子を持っている自己自身を忘れているかも.持っていない当地存在者達は異なるけれど、既に遺伝子を持っているので過剰は要らずとは思う


   
           





 

一般に嫌な嫌いな存在はやはり嫌な不快な不都合な事を齎すものである.ところが好ましい存在も嫌な不都合を齎すもので、寧ろ嫌いな存在は都合を齎しがちだけれどもとが嫌いなのでどうにも不快感がある.好ましい存在は何故無意味無駄の徒労を要請するのかな.好ましきは好ましいを齎す筈なのに…


   
           





 

ちょっと理解しがたい存在がいて、その生理本質を好まないのだけれど、位相が進んでしまいのつまらない記憶がある事にこれはなんだと思った事を後にそのまま聞く羽目になり、その以前のなんだを思い出さずそれ故にしつこく悩むことに.所謂徒労を要請する愚かしいxxなのでそれに対する返答的なものが


   
           






 

それなりにある事に、一応なんだまではわかっているので、何も徒労を要請しなくてもいいのだけれど.一般にそんなxxが多いルベーグ性を思うが意味がないものを意味付ける為に主体を歪めてしまう無駄をさせる形になるので無縁設定とならざるを得ない.要するに融和をわざわざ引き裂いている存在達なのだ


   
           






 

後存在理由的に陳腐なのに自らをそう思わずまたは思いたくないか無意識に自己弁護しているかの逆者達には困る.こちらが陳腐と思っているのに逆になると自己投射をして即ち自分を当てはめて陳腐な存在と思われる可能性がある無自覚な自己認識者にも閉口する.閉口しても一生気がつかない無自覚もありで


   
           






 

何故かずっと考えていて共同順応型の応援があればこそそこの位置にいると漸く思いついた.全く何でもないスクエア性を当てはめられずに何故こんな無駄な時間を持ったものか.余りにも無駄過ぎて麻痺させるだけなのに.そうそう退行を考えた存在とイメージが似ていてと昔の悩みもあるかもがあるのだけれど


   
           






 

ある雑誌にボロメオの結び目がありなんのことかと、そこにフィネガンズウェイクが登場して、昔は調子付いて翻訳物を手にした事あるけれどどうも原書でないとまずい作品と思う.ただし別に川流れで何のことやらでとばしているけれど.クォークの謂れ本で、ジョイスは中学生の時にダブリン市民しか浮かばず


   
           





 

そうかアフォーダンスはなんだったかなとそれでゲシュタルトへか.マッハを浮かべたあの坂道と桑畑の道でゲシュタルトを浮かべ、マッハは何故?とゲシュタルトは単なる形態要素なのだろうとずっと放っておいて、今あらましを読んで見ると面白かった.


   
           






 

連れ子がかすがいにならない時の四方山は関係に原因があると思うけれど、ゲシュタルトからハイダーのバランス理論がある事を知ったが考察はまだ.ケーラーの類人猿の洞察学習やブーバ/キキやレヴィンのツァイガルニク効果などと境界人も役に立つなと認識した桑の木の間から何十年後


   
           






 

この混沌故に帰納の未完成があると同時に可能性もある理性と想像力の境界位相.パスカルはここに憤懣あるからその実存は評価できるとしている.ベクトル想像力の混沌は今はもう味わえないので貴重な記憶であり、その後の等質遷移もまたかのうんざりさのあの頃


   
           






 

芭蕉の天の川をオマージュしたつもりが論理的になり過ぎた.想像力のベクトル混沌が理性に諦めを齎すのは体力的に切りがなくであって、何も情けなくは無いのだけれど、他者達ここにつけ込んでくる冗談を真に受ける天邪鬼性を非常に不快を味わい過ぎてそんな他者達は愚かな事はそれが証明しているが


   
           






 

タナトス型は破滅型かな、どうもタナトス型の犠牲になっているような遭遇性があるのでそれが理解できない.そもそもタナトス型は自己自身でタナトス的をやるのが必然な筈で、自己欺瞞虚偽の為にタナトス性を押し付けられても困るものである.全く嫌な存在が実在しているものだ.宿命の必然感は不自由で


   
           






 

T双対は現実に思える


   
           





 

パワハラに過少要求があるとは、トートロジーは過少要求でまた主体倒錯要求は過剰過少要求になる.ある人物から、あるxxに言っても白けるだけだと述べるのを止めた事を時間蒸し返して言われて対処にそのxx風の状態になって、その時に思った事から止めた発言を実際に述べればそのxxはそう思ったかなと


   
           






 

それである人物は非常におかしいので、理不尽非常識不条理と述べるわけだけれど、そもそもそんな発言をするとは信じがたく前提になく、まさかのトートロジー存在とは無駄な存在では無いか.でもそんな薄達に遠慮してしまう自虐心があるのは発達待ちにギャップを感じて一種のからかいをするからかな


   
           






 

でもそのおかげでコンプロマイズの自己卑下でその分は不満の不快ツイートになってしまうので、はっきり述べるべきなのだけれど、その時にはそれほどくだらない存在とは思っていなくて気がつかなかったので


   
           






 

弁証法は対立を要求して、故にどうでもいいくらいにあるのは当たり前だけれど目くじらをたてることもないと思っているのは、対立をあまり歓迎しないからと気がついた.


   
           





 

そんな存在達に要求している事を自分が要求していると思ってしまう逆な存在達の存在とはなんなんだ.まさか自分達が否定的な存在と思われるとは思いもしない傲慢な存在達だけれど、その結果非常識不条理理不尽を行なってもなんとも思わない無責任さの持ち主達で、それ故に結局否定的なんだが


   
           






 

ユダ的存在は長いものには巻かれろが自然で、特にはとんとのxx達はそんな存在だと思っているが…そうなるとミルグラム的な無責任者達となるが、そんな存在は日常多いように思う.自力思考の邪魔者達で、特に目の前の存在の内的思考を当人に言って返す存在に対処しかねて、自己を歪めてしまうのがまずい


   
           





 

目が痛く眠ろうとして少し我慢したら今度は眠れなくなってしまった.ふと夢を見ている時間で思考ツイートをしているかもと浮かぶ目の痛さを我慢しながらの今


   
           





 

世の中には皮肉嫌味のつもりがまともに受け取ってしまう存在がいて、まさかの想いをして唖然となる存在がいる.都合のいいように受け取るのか額面通りの存在論や双対意識はないのかといったところで、どう見ても非常識な事を述べたつもりなのに額面で受け取る事はその存在が非常識な存在である事になる


   
           




 

徳川代将軍において豊臣秀吉の惣無事令を要素は持っているとしても未だ発展中のものと見て、参勤交代のソフトランディングで出来上がった感を受ける


   
           





 

で昨日の新センター試験についてわからないので、シュール式やバウムクーヘン式などがある事を知る.そんな何やかやで問題と問題内容の解答過程から、感性的に機能主義的問題だなと思った.


   
           





 

しかし経験内容と未然思考内容意図を模倣して述べて来て、やる気の阻害を十分要請する存在は、それが意味のない事に一生気がつかないままの可能性があると思うと愕然とするな.いつまで愚か者達の暴言を聞かねばならないのかと.なんと表現すべきなのか、無知の狂気の不当優越感とか


   
           






 

未完と見るとフロイトが登場すると見る.未完で閃いた昔に見た精神分裂病者の絵がワンパターン模様連続でどうにも理解できない苛立つ不快感はワンパターン者の未完的なもののケースであるとすればなんとなく答えかなと.ツイートのやり取りでパターンを示唆したxxがいた事を思い出す.今もいるけれど


   
           






 

世の中にはまるで詭弁体若しくは虚偽体にかなり近い存在もいるもので、そんな存在の真実や事実観がうまく想定できない.想定できないというより真実を虚偽化的にして無責任意識の自由観を持っている台無しの虚無的なのかも知れぬ.その極限は統合失調症であるだろうが、失調症は未完的にも見えて…


   
           


 

旅行とか花の育て方とか検索するだけでなぜ少女監禁だの人妻寝盗られだの性奴隷などの広告を見せられなきゃならないの。それを問題にするとなぜ「馬鹿な女」扱いされるの。なぜこんな理不尽にNOと言えないの。








 

これら一般は背伸びをしているな、昔は本物は背伸びなどする必要なくただ単に自然であれば良いとは思っていたけれど、その後のてんやわんやや対抗心者達や模倣逆者達などでもう煩わしく面倒でわからない感情となりであまり考えなくなってしまっている.


   
           






 

相変わらず自己欺瞞xxに遭遇してその不快を我慢していると他者のしたくもない忍耐に甘えるかパワハラ意識発揮の優越感者が出現する.あのう性格悪いと思う円やか無きハードボイルドxxでマシーンなどロボットに任せたい気分なのだけれど.無駄に体力消耗するだけでこれがパワハラ的な特権性に見えるのだ


   
           






 

またxx達は当然の権利としてパワハラ志向を持っているのは特権のようにも見える.何となく人々は男女の役割を逆にしているかも.xyにしてみればこの特権感に反抗とかの可能性も視野にある.それに対してあるタイプの存在達は対抗を構築するという図式かな.そもそもこの特権的にみえる意識がなければと思う


   
           






 

タナトス意識を他人に向かわせないで自己に向かわせれば迷惑ではないのにとは思うが、いずれ自らがタナトス型である事を味わうことは必然であるとは明白過ぎるが、または無自覚のままの可能性もあるが事態は味わう事になる.当然非タナトス型も直面するけれど、生きている間に味わう必要はなく不自然で


   
           






 

なんとも残虐な言明を態度を行使してきて嫌な感情を齎している事に気がつかない無知なタナトス型タイプだった事に今では気がついているけれど.この他人に対して考えている事や自己認識している事を述べてくるxx達の非建設的意識には呆れる-無自覚-かなである.


   
           






 

昔にある存在にある不快なxxを処理しろとした意図で意識を用いたことがあるけれど、対他存在に対して保存している考えを自分だと思われてつまり無理解の誤解なんだけれど、それに親切にも乗った形でする必要のない事を思い出しこの無意味な不快を排除をしないとと思いついた.


   
           






 

リダクション-お手上げの次元の時は位相が最大値的にだったかな.次元とあ次元のセットから次元をピックした時にその次元を捨象して考えないとだったので、あたまが窮屈になり過ぎだったかな.数年前に感心した凝縮理論の最大値感は、現実の世界の方がポテンシャルが強いが落差があり深さが浅い感


   
           





 

叙事のn-が原人か動物とするとなんらかの形で暴力要素が発生する可能性はあると思いつく.この考えを洗練させて適用すると、この先は頭複雑になるので考えないことにする


   
           





 

縄文時代は文字的に先史時代になる?.それで弥生から日本の歴史が始まるとか、原日本人とかの考え方があるわけか.個人的には日本人は縄文人が真性だと思っているけれど.言葉がないのはまずいけれど、見かける弥生の文化コンプレックス感はあまり無いが、そんな意識を考えるのであることはありそう


   
           






 

まあ縄文遺伝子以外に漢系朝鮮系の遺伝子も待っているミクストだと思う視点を感じることはある.縄文遺伝子以前はとなるとグローバル性を考えねばならななくなるかな、それでもまだ区別はあるか…そこの先史時代にも文化はあった点に留意点は持つけれど


   
           






 

そうか対象に対して不快になるのはその対象に失望絶望を感じるからなんだ.変化の兆し無く、これが間主観性どこかで逆になったりすると、対象が優越感を保つためにその失望絶望感をこちらに押し付けてくるというバカらしさがあるからとなる.この無駄すぎる意味無きさの道化性は無駄に疲れる


   
           






 

ドストエフスキーの大審問官はそれが導く人から見れば自由でありそれに対して責任を持っている.その位相は説得力を持つ権威であり、その権威が齎す義務がその説得力を持続継続させる.これノブリスオブリージュの事かな?


   
           






 

液体ヘリウムの沸点は.K=-℃で、関係ないけれど車の速度はkm/hが分岐点とした直感数値を連想する.の液体ヘリウムは.Kで粘性なくなる、のフェルミオンヘリウムも年度に粘性欠如が確認されている.このことはある項目に関係する昇華utbletyに用いている


   
           





 

全く模倣を許可した覚えはないのにそうされるのが不快で、ましては主体疎外を要求してくるというわけのわからないデタラメさには閉口する強引さがある.そんな模倣存在はバイタリティだけは強く強い強制力を持つから、不自由さを強いて、無理に自己思考を強制はしないとしていると逆に強制の形を取る


   
           






 

例えば中間存在外に位置しているとすると、中間存在が多く中間存在感覚が普通当然で、過ぎたるは及ばざるが如しとして、及ばざるのように未熟のように見てくるという理不尽性を考えて見た.実際そのようなパターンが多く当てはまることがあり、なんだか啓蒙者が調子付いた経験多くある不快がある


   
           






 

なおグレードグラデーションを持っているからそこを狙った限界人間の自己主張の忍耐要請犠牲推進力にも困るのだけれど、限界以上を考えない考えられないからな.そういえば『限界外で考えてくれ』は取り入れてあった.そうなると必然自然的に自己主体が不明になるが、そもそも主体自覚が無いのもいるとか


   
           






 

模倣的に限界外で考えてもそれは模倣という無責任なのでそこのところは不快な面があるけれど…主体的な無責任を持たなくても良く発言してもいいかなと思いついた.ネヤ河に飛び込むつもりの遺書的程にドスト程に真面目に真摯に描いたつもりなので、模倣者にとって遺書ほどのものになるとは到底思えず


   
           





 

そうか今の項目はほぼ限界的で、コンピュータを次の項目展開としてもいいわけだと気がつく.様相心理から気まぐれを考えてしまい忘れてはいないけれど、この項目にその気まぐれは範囲外は明瞭で、ただ何故その気まぐれをここに持ってきたかと考えるとパスカルやカント的要素や懐かしの必然の坂道下りを


   
           





 

叙情のn-は叙事とすると、叙事のn-は何かと悩み考え思いついて、原人か類人猿かはてまた動物であるかになると.叙事的存在とってケース他者位相はn-とすると野蛮人ということになる.その時にn+の位相存在の実在に気がつかないもしくは理解できない若しくは利用価値の定数と見るかもしれない.


   
           






 

感覚経験では叙事的存在は提供的存在なのと物質的価値優位存在でもある.サプライサイドはフェルミ的と思いつく.そうだったのかあの時区別がつかずはっきりしなかったのは


   
           






 

なぜかパターナリズムを惹起させてしまう要素を持っていると無理解されがちな対他者性を持っているようでもある.他人の不幸に同情する精神を最近は止めようとしているけれど


   
           






 

思えばどうでもいいxx&xyや嫌いなxx&xyが逆になるという所謂地獄形成の憂き目にあっているかな.どうでもいい存在や嫌いな存在の存在理由や固有性など要らないのに何故か押し付けられる羽目になるのは弁証法の圧力や平衡エネルギー物理性や悪人格の欺瞞に呪われているのかも.


   
           






 

ある対象にしらけると思い発言せずに忍耐した事をどうでもいい存在から受けそのある対象設定的から発言すればそうだったのかの思いを昔にして相変わらずその事態が浮かんでくるという不快さなどがあるためなんだけれど.この存在は既に生きていないにもかかわらずしつこく悩ましているので他者達も準と


   
           






 

文句と愚痴は多いな.ルサンチマンを取り入れるか入れないか迷って入れた形にしてしまった事を思い出す.文句と愚痴だけの作品があっても面白いかなとは思うけれど.しかしだ優等生を気取っていてルサンチマンを溜め込み爆発させるかも知れない存在も多そうなんだけれど.


   
           





 

蓋し関係における直感にヘーゲル的矛盾感をパウリ的に作用とする浮かびがあるが、先進を悪酔いxxが思念を妨げている抑圧束縛の憂き目中で治らない不自由さがあり、不快感がある.これがあるからxxを選択せねばならず、第印象では判断できかねる事にもなる理由だけれど、第印象そのままパスもある


   
           






 

エントロピーの変化はホロノミーというのは一定ワンパターンの場合を考えるにしても通りの分類に当てはまらないので非常に偏った一通りになる事が欠陥的な束縛性になる…スピノルが度回転で方向が反対になるとはそんな簡単な事を思いつきもしなかった.


   
           






 

セルマーという字幕からすっかり忘れ気味のガロアの隙間があったのを思い出した.未完のこれらの項目は全てタブルような視点を持つけれど、本来は区別しなければならず.遠くの輝点もixtheventhにeconも絡まる…


   
           





 

フェルミ型に幸福感を表現していたらせせら笑いをされたことがあり、それから幸福感を出しづらくなった気分があるのは馬鹿げているのだが、そのせせら笑いをした男の性格が悪いとは思わずとにかく不快な反対意図ばかり行う存在だった.


   
           






 

その天皇制で古事記日本書紀に個人的には気にくわないところがあるのを知る.なんらかの自意識作用ゆえとも言えるけれど、それでももっと差異があっていい筈の記述になっている事を最近知り、中学生の時にお手上げの書物だとした事もそう悪い観点では無いなと自認気味


   
           





 

フロムは自由からの逃走をしない事と述べていて、権威主義が倫理の破綻とするのはもう視点が権威主義をみる地点からの文言なので、それを一生不可能な人間には無理な相談でそんな人々を不可能領域に引き込もう陥らせようとするので、そんな存在をなくす事が自由からの逃走をしなくてすむ手段である


   
           






 

つまりは誕生させない事なんだけれどまだまだ生じている.この本質的事態を考えないで条どうのこうの言っても説得はできないだろう.日本国だけでなく他の国もそうならなければだけれどなかなか.


   
           






 

時代的前に作家兼医者存在がいて、死ぬ間際にばかばかしいと述べたらしいけれど、無自覚者の可能性があるのでは無いか、そうだとすると馬鹿馬鹿しいなどと発言されるとそれこそ馬鹿馬鹿しいのだけれど.まあロウユアボートの番の人生は夢の実感だったのだろうけれど


   
           





 

するならば現状維持無限変革の言葉をパクって貰いたいものである.他にもあるけれど.なんとかクリエイティブ志向をしようと考えている人間にパクリとか述べてきたxxはそれ自体逆になりパクっていたのでは無いかと今ふと考える.いつの間にか消えてしまったのはそんな事を述べてきたからとか我田引水的に


   
           






 

テイラースウィフトはこれからくるのだったか、なんか今年しばらく前に日本に来たような印象だったけれど.ミレニアルズは理論的に個人的に関与性が自然にはあるのだけれど、愚か過ぎるかもしれない不自然意図により、変更して立ち直れず今に至る.論理整合的に説明がどうしてもつかなかったがあるのだが


   
           






 

文学部どうのこうの騒いでいるけれど、哲学事典はまず丸暗記が要請されるだろうが基準かなと思っている.ところが自分では暗記していると思った哲学事典に漏れているところが何箇所もあった事に気がついた以前のそのままにだけれども…


   
           





 

図書館に寄って科学雑誌を眺めそこでデジタルダブルの言葉を見つけた.まあそれは明示的になるな…だ自己分析をしているアナログデジタルに対して、心理の剽窃模倣から蒸し返した自己分析内容を自己分析者当人に述べても意味がないトートロジーだというのである.


   
           






 

AはAであるを指摘しても何ら余計な負荷感を冗長するだけの事でしか無い.まあ自己分析など無自覚な存在が自己分析者を自己と同様な無自覚者と見るしかできないことが問題なのだけれど.おまけに成り代わりなりすまし的存在もいてオリジナルを倒錯化要求してくる無知無茶な変態気狂い者もいたものだ


   
           






 

インストールに現実抵抗がありすぎのよたりだったのかも.要するに現行抵抗が無駄をさせたのか…それとも個人的な勇気のなさか、多幸心を怖がった時もあったその時には自己を忘れまた不当な不利益に遭遇した時も自己を忘れ、自己意図でもまた忘れたりと謙虚な姿勢と現行現実圧力を想定し過ぎたりしたか


   
           





 

例外には孤独感寂寥感が付き纏うから避けたがるなかな、ところがフェルミ型人間は孤独感たっぷりの日常を送っていて、感性的に見ただけでなんとも言えない不可能というか不快な抵抗感強を持つのはボーズ型だからかな.ところがフェルミ家庭に関わってしかもそなフェルミ意識を押し付けられる羽目になり


   
           






 

排除困難な事態になっているのは何故か…しつこく嫌悪者は取り付いてくる意図と反対になりすぎる現実があり過ぎる


   
           






 

実存の荒廃的な漆黒の旧時間位相像を見ていて全く忘れていた遭遇時とその後の暫くのあまりにも無駄な時間.荒廃過去イメージがするやはり退行的なものになるかな.一様条件ではフェルミもボーズも関係ないとあるが、それ狙いのその家庭かなで、それでは位相が明らかに違うのに同じに見るという矛盾となる


   
           






 

または理想条件か皮相認識か.皮相へ表出は思考が敷衍状態になる予定を意味していたけれども、現実にそのような面を感じないこともないけれど、なぜかわかるはずか判断する困難になっている.明瞭にわかるほどに敷衍していないという事になるかな


   
           






 

アダマールゲートは聞いたことかああるような、アダマールの人物名からそんな感じだった.マリーフランツの直感元型なものとする無意識パーコレーションを知り、ある記憶があり無意識直感解答に他者が論理解釈をして、やはり直感だけではいけないかとコンプレックスを持った事を思い出した.


   
           






 

よく覚えていないけれど、ユング的には論理解釈はできていたのかもとは思ってみるけれど、論理展開の長さを思えばやはり足りなかったかとも.しかし無意識解答は全く記憶に無い事が口から出てきてしまった事だけは覚えている


   
           






 

無駄な反映をして強引な束縛を形成してくる不自由を無駄に好むxx達が災いして同類xyも自由の妨害者となる形なのかも.その時束縛形成時のxxの心的状況及び情況が問題で、生理摂理を用いてもその範囲差異の苦痛感がある事に及びもしない動物的xxが不快になるのは当然かな


   
           






 

グーグルのリッチスニペット?、セマンティックとオートエンコーダの合体をよくわからないけれど直感する


   
           





 

死後の事を考えない宗教はないとか、で先祖はどうだったかの事を考えてもなんとも思えず、祖先が死後に何を思っていたのか取りきれない.最も無神論者だったかもがあるけれど.遺伝心理としてはあるかも知れないな.個人的にはごく自然に宗教的意識に生理時間を大幅に超えた考えを持っているけれど


   
           





 

今まで地球が太陽系から逸脱軌道を持つようになるF映画は無かったのではないか.これも小学生の時の事柄からのあの時あの頃の夏の日に


   
           





 

現状維持無限変革は太陽寿命億年は考慮していないけれど、考慮した場合のひとつのエピローグとして、太陽系から軌道を外した地球の設定をしてある.しかしどうもそれも不可的で仮にそうなったとしてその先が見えず、地球存続できるか不明だけれどのFエピローグを想定済み


   
           





 

死んでも勝ってこいや獲得してこいや死ぬ気でやれば何でもできるについて考えているのは、一晩で白髪にはならないとかは未達の理屈ではとか、その気になれば日で燃え尽きてしまうと想定したことがあるので、死ぬ気になっても無理なものは無理で、命を賭けてもできないものはできないと思っている


   
           






 

ただしこれらの表現が不味く、生きる気になれば何でもできはしないができるが正解で、死ぬ気になればといってもどうせ死ぬのなら何もする必要が無いと思うのは天邪鬼かな?.冴えず落ち込み元気がない時に死んでいるよという表現を聞いたな.また自分でもこんな事をしていると死んだも同然と思った事も


   
           






 

少なくともカルマ存在が他人に迷惑をかけない事はあり得ない.そんな教育を学校でしているのか、記憶にないな.最も教師の話など小学生の時から聞く耳など待たないようにしていた.まあ耳に入ってくる関心事は記憶したつもりだけれど、自己思考の方が断然だったな


   
           





 

幸福度のパワーは不快度に関してはパレート的に%で不快嫌悪感は%のパワーを持ってくると考えると、嫌いなxxのしつこさを了解できるかなと思いつく.


   
           





 

そう多くの逆的タイプはなぜか自己投射しているのかそれは既に了解把握済みの事柄をトートロジーとして述べてくる来たのは、無知で知らない事だからの認識視点によるとしか.無知なのは逆になるタイプなんだけれど.あんまり多いと弁明出来なくなる圧力感を覚えるこの事態はなんなんだ.


   
           






 

自動模倣機械人間達となるけれど、どうもその模倣思考に付随する責任意識が欠如しているようで、その思考発想は不明な無知のミルグラム人間たちになるか.他者の心理を操るのは倫理的によろしくないとしているのに、自動で模倣するとは…それだけの価値がある事になると自認してもいいのかな


   
           






 

オリジナルが寧ろ模倣しているんだと言われそうである.自己特質の表明をしておかないといけないかな、いつかはするだろうがまだ…とある期間の自伝記述中だからそれによってある程度理解されるだろうが.それをオープンにするかどうかは不明.ある程度の弁明や特質点は既にネットに出しているけれど


   
           






 

超越的視点または絶対的視点-親鸞にとっては自覚と無自覚を真性自覚としての阿弥陀に、思弁的実在論者は主観と客観をそのようにだけれど.ある人物が元論を決定していないと言い出してこの人物も内面を標榜タイプで逆にしていたタイプと後に今は気がついていて、実に不快な無理解の侮辱を覚えるのみ


   
           






 

歴史修正とは?、聖徳太子の見解にも多様な視点があるようだけれど、和を以ってはその通りではないかと思う.その後の歴史が有為転変の形を取ったのも事実だけれど、通底には和は流れている筈である.何しろ縄文時代を考え推察してもそういえる.他民族の遺伝子の侵入がその後の歴史の彷徨いにとも思う


   
           





 

この世界には意味が欠如しているするニヒリズムは…アングリカンにとって神は自身に似せて人を造ったではないのか、神は世界に無意味を齎していることになるのはアングリカンを無視しているかのようである.それともヨブの分析か.ポストカント?


   
           






 

'思考不可能なものが存在する事は不可能ではないとは思考できる'に食ってかかったメイヤスーで狂信の擁護になるからだはなるほど…小学生の時に考えた不可知は壁になっているけれどあまり考えなかったのはカントが既にもうしていたからかな?.その時に皮肉を考えて…犬儒は不可知を原理としているか?


   
           





 

ただし最近考えた有機原理を思弁的実在論は用いている感触であるな.無機有機を截然と区別するのはも思弁的位相とすると、生命は原生的疎外とした人物は…となる.相関に対する絶対者は両価を認識する視点にも似ている.敵対双方にの漁夫の利も位相は同じことだけれど


   
           






 

批判的転回以降をポストカントと呼ぶらしいけれど批判的転回がいつ頃な事なのか知らず.批判的転回に対してシェリングの自然哲学が登場するのだけれど、シェリングを取り入れたのは昔の事で思弁的が志向するシェリングについては直感でわかり、取り入れとして置く.ある女子大生がライヒを唐突にの頃の話


   
           






 

が彷徨いが重要でがちらつきとなるの複数最小数の重要視点を取り入れたか幻想の対


   
           






 

そもそもアイデアが出てこないので解説を述べるといったツイート空間設定があったことが進みようのない事態を招いているもある.あの頃は何でも目につく対象から文書は溢れ出る感覚だったのに今ではそんな感覚は持てず…難解設定項目は相変わらず難しいけれど、一応の説明は記述項目でしてある筈で


   
           






 

その後が皆目見当もつかない展開性で背理を使うかも.後は中学生の時に有限底基底を考えたもので、不定深遠の深淵をどうするかがあり、その次はロマンなんだけれどこれは心理状態が問題な嫌悪者の排除でその次は一応できていてその後は…ゼロ記述でもいいとしているといった構想.


   
           






 

今の題材履歴物語でいい可能性を見出した.となると問題の今で、知識不足故に困難な対象項目になる.その次の要素の発案はできたけれどそれもだその次はブラマンクの不定ベクトルかザリスキやイデアルが登場しそうな理念現実もか.理念現実は流石にたの項目にもかかりそう


   
           






 

その空白は無碍にハエトリ壺とするわけにもいかない意識はあるもので


   
           





 

次も難しく結論は出ているけれど展開が難しい.難しいも何も言葉が出てこない.現存在はほとんど未完に終わるや中間存在の不快が関わるが、これも空白のある項目に関わる関連的で、その項目が櫛の隙間若しくは散在的になってしまっているか、若しくはミネルバの梟感あるかな評論傾向になってしまうかも.


   
           






 

無限遠で収束するか発散するかは普通に単純な択一なのを思い出した.妙に境界のままを考えていたことになる.最も収束と発散の間に複雑な境界事態は存在するとは思うけれど


   
           





 

その無すら存在しないと道教の太極との関係は?、仏教の無すら存在しないは衝撃的だったな、埴谷雄高の前提結論の対話の存在しないジャイナ教者との対話が成立しなくなると思うのは早計の至りかどうか…シェリングの無はどのような位相意識だったのか、忘れたシェリングの何かを用いてあるあの頃


   
           





 

ワンパターン人間はo的存在かもその周期繰り返しのうんざりさで.嫌で嫌いな存在に取り憑かれるのは地獄である箴言を見たことがある.何故か嫌悪のxx&xyが何か勘違いをした複数記憶があり、その消去ができない不自然な不快記憶がツイートに悩み過程表現を齎している.この悩み過程は地獄になるようだ


   
           






 

問題が解けていないないのに新たな問題が発生する・発見する・発明する?でどうにも苛立ちが発生する.個人的にそうなので他者からの余計な煩わしさは取り敢えず必要ないのだけれど、関わってくる存在もまた生じるのでそれは煩わしさを過剰にする.問題発生意識思考はクリエイティブ性につきものかな


   
           






 

イータ星があるのならシータ星もありそうだと見るとペルセウスとさそり座に登場.ラーマヤナにも登場でACにも見かける漠然とギリシャ文字当てはめをどうしようかと考える.あとまずい押し切り当てはめもありで.全くあまりにもナンセンスを行っている羽目になるのは信じがたく不快すぎる不都合になり過ぎ


   
           





 

お手上げしていてもしようがない.乖離場で接続しているとアイデアが閃いたその要素を取り入れるしかないというかこれは結論的か、そうであるならばシステム設定の場に関してもそうなるがあるが、物理的な位相の場と脳裡現象位相とでは趣きが異なるものとする.閃いた結論的はダークマター的になる


   
           






 

そうなると人の脳構造は物理的な宇宙を射影していると思い出す.神は自身に似せて人をつくったは見事な洞察力になる…


   
           






 

否定弁証法的な両価性認識も最近は疲れてやる気はしないのにと記述したら、一様化自体非線形考慮していたのに登場は過去xx作用明らかと思える今に、一様的で両価感を想定せずに失敗したとハタと気がつくあの頃のこと.


   
           






 

無時間と不変量は異なる.想定している無限遠の複雑境界は無時間なら捨象できて考慮しなくて済むけれど、今度は無時間が非常に問題となる限界を示してくる


   
           





 

パウリの排他律の強さは原子により異なるか…結局はフェルミ型とボーズ型の差異になるその差異についての乖離感覚は男と女の差異にも似ているように思える.


   
           






 

無知的タナトス型が自己把握無自覚で他者に自己投射してそれを自己ではなく他者の固有的なものと見る-多くの蒙昧な鏡もそのようにしがち-とタナトス型ではない存在にとっては非常に心外で、自己自身に投射して自覚しろよと言いたくなる場合がある.


   
           






 

つまりタナトス型の自己責任についてで、他者に自己投射したり鏡の反射などは無責任な迷惑で自己責任ではない.無自覚無知な人間に自己責任は無理となる.親鸞は無自覚無知な人間を悪人であると称した筈で、そのような存在に阿弥陀救済があるのなら潜在的に阿弥陀理解力を持っている事になる.


   
           






 

自覚した善人もその自覚量が足りないと申しているわけだけれど-普通当然に阿弥陀なる存在より自覚量は善人も少ないとは思えるが、救済理解力は持っているわけであるとして、親鸞はこの世には無自覚人間と中途半端自覚の人間の種類が存在していると規定したわけである


   
           






 

ミラニウムではなくミレニアム問題を想起して排他原理の強度から思考がずれてきてしまった…超選択則と観察不可能性を考慮していないから、理不尽な脳麻痺を形成した記憶上の一群達と言えそうだ.真空ゼロから最低エネルギー値なんだけれど、帰納的には陰陽の太極が存在する事の証明的なものかな?


   
           






 

太極問題はアルファ的な種のひとつとしての設定だった『前提の中の前提・根本前提』とは何か不明であるとしてのそれで、公理の根拠とか哲学の難問-カントのアンチノミーとか-としてや宗教的不条理代用とかに関しての説明である.何のことかさっぱりわからない物自体は根本前提の事か⁈と閃く


   
           






 

反映するものとは中学生の時に入院中に考えたことだけれど、鏡にも色々な種類があって当然のごとくに個性固有性があるものである.


   
           





 

叙事的な存在は経験上底が浅いので詭弁的戦略を用いる傾向があると思う.つまり悩まずに直ぐに発狂するようなもので、脊髄反射的もあるか瞬間湯沸し器とか.思うにゴルギアスの結び目に対した伝説話の存在は底が浅い悩めない人物なのでイライラして単純作用である切断を行使したのではないか.


   
           






 

そんな人物は戦闘的な征服欲だけは異常者的に持っていたとも.それが後世の然るべき存在達には英雄に映るとなる.最も知的に征服欲のある分野の人間もまた多く存在していて、ミネルバの梟に褒められるとかはある?けれど、英雄とは普通に言わないな


   
           






 

暗黒場を歩きながら世界線上人々より一歩先を行っているかある優越的世界線上にいると思えた中学生の時の心情が、今や味わえなくてつまらない.


   
           





 

市民の希望に付随する暗黒は混沌の場と理解できると思考が進む.ひとは明るい希望のみではなく暗い混沌場も有している.明暗や陰陽やアポロンとディオニソスの例のようにと言えると気がついた.


   
           





 

ワンパターンの安心不動性はブラックホール依存意識がある可能性を見る.そうなるとある項目になる考え方で、日毎に応用するとずっと不快な項目に何回も浮かんでくるのはこのアイデアが示唆していたとも思える.


   
           






 

エディントン光度で降着円盤の沈殿か、渋みの深さはまるでブラックホール的位相の訳の分からぬ苛立たせる束縛感を感じるので嫌いである.沈殿的存在は行動が鈍いただし安定はしている.ブラックホールは安定しているとも言えるただし変化するとは昔から思っている.長時間後に蒸発を構想した人物がいたな


   
           






 

真実を述べると世界が凍れるという妄想は白けとも取れるけれど、それより非常識理不尽な勘違い無理解で世界を麻痺させるという経験があるな…まあ多く明晰にしたがる線形思考者は理不尽勘違い無理解などものともせず、とにかく完備結論を無理やりに出したがるものだ.何も結論を出さずともいいものに…


   
           






 

そうそう枕草子の作者は公家の視点からの文章とここ数日に思いついた.そうであるならば全体の書式流れは納得できる.帆掛け舟の段は記憶にないけれど、TLで見た帆掛け舟が若き青春を表現しているの解釈は取りすぎではないか.そんな心情はありそうだけれど、清少納言には単なる思いつきとしか思えず


   
           





 

伝統があるのと多勢があるので、くだらないというかより思考の方法を肯定すべきなのにそれらを古典として持ち上げた別に戯れ的な思考時の一連に悩み、この悩みも既に解決は明瞭になっているのに想定xx関連のレベルが無理解位相な事をすっかり忘れていた表現なのにで、この古典持ち上げを取り下げないと


   
           






 

あるxxを見かけて、悩めるほどに頭が深く無いの考えが浮かび、当てはまる不快なxx達の記憶があるなと.そうかどちらかといえば、権威的横暴性の覇者的存在は叙事的とも似て、思考が浅いといわけだ.無知-親鸞的悪人も思考が浅いので悩む事ない神聖型と結構適切になるのかと思いつく


   
           






 

いろんな衰退滅亡観や不祥事頻発などに対して、未来は明るく無い気分などとの不気味な発想を見ると、取り下げか変更のつまり元々の考え方をしないととは思う.まあその考え方を誰も模倣せず、経験リアルな悩みなどの模倣では無意味的としているのにで、それは自己認識で了解済みの無意味反復でしか無い


   
           






 

人の事ばかり考えていると建前に迎合した阿り作家がいたらしいが、別にそんな人物に考えて貰わなくて結構だという存在には邪魔でしか無いんだが.その辺を多くの他者の事ばかり人間は考慮しないので他者の事を考えているとは言えず、単に自己エゴの押し売りをしているだけになる事に思い至らないものだ


   
           





 

個人的にはそのような存在に掴まり無駄をする羽目になっている形でで、ここにはどう見ても個人的に自己よりその存在の束縛を排除せねばにも邪魔しているので、その存在に責任があると十分に言える配慮無さ存在の記憶がある.相変わらず意図の逆の無理解存在が障害にある


   
           






 

物理や数学では無限が登場しないと話にならない…物理では無限が登場すると繰り込みしないとでまずいか、しかし無限数宇宙論とかが生じている.論理にも登場させる予定がある…


   
           





 

そんなに結果を見たければ自分自身の結果を見ろとは言いたいけれど、どこかで自己の成立している以前に自己を落として成立していないものとして自己を追いかけていた昔の意味なき日々を思い出す.どこかで自己を忘れてしまいなぜか自己を追いかけるというおかしな事態になったのは、未達他者が妨害か


   
           





 

ミスインターからベダーセンの超分子クラウンエーテルのあまりにもできすぎの対称形を知るが、そこでエンタルピーで待ったの感覚がある.閉鎖系存在のエンタルピーの美的低さとその潜在力の高さが美的に向かわないエントロピーハイの不快さの他者による倒錯意識による不条理理不尽が相変わらず登場と


   
           





 

無駄な遺伝子は無いの直感から、何十年未だ遺伝子の無為箇所の本質は捉えられていなそうである.ならばtap細胞以外にやる事もありそうな分子生物.細胞が死んでもそれを補う何かを人は持っているかどうか、なぜ映画はゾンビを登場させるのか…自己発生万能細胞を出来る骨とかからの何かは無いか…


   
           






 

テロメアが減ると生対処できかねる直感はある.テロメア維持を長引かせるのは寿命延長にはそれ故に有効だろうといえる.


   
           






 

xyはxxに対して物理的に優位と思え、xxは生理的にxyに対して優位と思える.直感ではxxは何か潜在的に特権意識を持っているようでもある.


   
           





 

既に中間存在は限界まで追い詰めている形だから、日常その反動が大きすぎて疲れまくるという事態が多すぎて辟易である.現存在は殆ど未完に終わるなは中間存在には全く当てはまり、反動圧力に妥協や遠慮しても愚劣を味わうだけの先に進めずの抵抗体が存在している形過ぎの徒労の無駄をするだけ


   
           






 

他者達は簡単に像イメージ位相を持って来ているように見えるけれど、パスカルの乖離である想像力と理性の相剋には悩む.空想力にはまあそんな事もなさそうな、空想と想像には差異があるとはしている.悩むのは中間存在の有限圧力があるからだけれど、またその数多いとしている


   
           






 

昔ある人間に少なくとも人間は有限外オートマトンと述べたことがある.人間をオートマトンと述べるのはよろしくないのだけれど、ノイマンのセルに置き換えてとか.要するに中間存在外であるべきだという主旨だったのだけれど


   
           






 

時間に依存しないから、時間依存を考えると陳腐で当たり前すぎて情けないアイデア力と思ったことがあり、それも後に遭遇したあるxxにイメージが似ていて、再度リアル意味で愚劣を招く事になってしまった事がある.ふと時間に依存しない方程式があったなと思い


   
           






 

像を描いてかなりきつい殆ど極限を味わった昔の夏の日が無残に白ける感じがあるけれど、無時間自体と時間変化無しとでは違うかな.固有を見る限り同じとするのには…不変的で無時間には不変すら考える事が出来ないもの的だったけれど


   
           






 

裸の王様の話はなんなのかよくわからなかった、マヌエル作アンデルセン翻案の童話で、複雑事情を持つ大人とそうではないストレート子供の対比もので、難点は着た王様がその服の重みを感じないという無重力服が地上に存在するという非科学的ナンセンス話な事で、有名な比喩としての使用はよくわからない


   
           






 

個人的に民主制と共和制はそのエネルギー感覚に差異があり、民主国の名を持つ国はさ暫時台湾にあったらしいけれど現在無いのでは?.民主共和国・共和国・人民共和国とかあるけれど


   
           






 

テロメアのTループループは判然としていない段階なのか…


   
           





 

ラギング&リーディングで無駄なNA存在論は今はどうなっているのか、これも直感で中学生の時には無駄なものは無いとしたので、ただ休眠中というケースは想定.全てのNAが爆発的活動を一挙にしたらとは想像つかないもしくはしたくない.恐らく超人的な現象になるだろうが…


   
           






 

NAが一本鎖になってまた結合する複製を今まで考えた事はなかった.昔には気持ち悪いRNAから始めるかなどと考えた事はあり、複製起点にNAブライマーゼがRNAプライマーを合成するのなら直感はまあまあだけれど逆転写となるとどうなっているのかで頭混乱の記憶がある岡崎フラグメントなど知らず段階での


   
           






 

自由である事を求めていると権力志向型が必ず邪魔をしてくる災いとして出現してくる.また経験上多すぎる逆になる成り代わり的存在が自由を求めている事の逆作用をしてくる事もある理不尽要請をする.間主観性も役に立つならいいけれど殆ど-作用しか来ない印象が強い.+作用は記憶に残らないがち…


   
           






 

日本書紀第神武記に太歳が天祖降跡以来万余年経った--とあるそうな.そうすると確かに降臨以来長い間経った事になるけれど…初代天皇即位のBC年の西暦対照表の日本長歴による時間計算を正しいとして、神話の話で判然とはしない初代即位の年という値がどうにも独立性に苛立ちを齎す……


   
           





 

ある事に罪の意識を持ったりして忍耐をしたりするケースにおいて、そこに付け入る存在が現れるが、そのような即物的判断しかできない人間またはその誘惑に負けてしまう人間でしかあり得ないと思われる事は念頭に無いタイプでない存在はおっやるなとは思う信頼度は高くなる存在である.


   
           






 

いつか若しくはそれなりの期間に悔い改めるだろうの翌桧明日なるだろうの期待は死ぬまで無理不可能という人間も実在している事を想定している.どうもここに親鸞が登場して不快な気分になるけれど、不可能な悪人を回避させるには自力は無理で他力的な宗教性が必要とも考えられることになるか…


   
           






 

普通にはそんな状況を楽しんでいる人物が少なくとも人は存在していると考えられるが…ある対象xxをまるで気がつかない裸的存在と思い、その発語をしないで認識記憶をしたままにしていると、自らをその対象xx的な位相に繰り込まれの形になり、全く不都合な犠牲性に追い込まれるケースが他にもありで


   
           






 

ミッドナイト・丑一つ時から丑三つ時にかけての梟が大きな目を開けて佇んでいる樹木映像のそばでの気分が尚更いいのだけれど.神聖響きで情景鮮明から.飛び立った梟は今は落ち着いて静かに枝に止まって見下ろしている…


   
           





 

ふと気がつくと秋深まりのひとりじっくりとした久しぶりに静かなひと時を過ごしている.この落ち着きを希求して待っていたんだ.ただやや閉鎖位相は芳しくはないが…


   
           





 

最近は現状維持有限変革もあり得るのと考えている.昔は単に諸行無常的に無限変革とした気分だけれど、永続革命の言葉を知り革命が永続するとはいつまで革命が続くのかと想定できず、また最近知った無限革命論も同じくいつまでとなる無責任依存性があるのではと、永続&無限革命論の永続と無限の時間は?


   
           





 

現状維持無限変革と像変遷は似ていると最近は思っている.像変遷を考える前に現状維持無限変革を考えていたのに、項目違いで忘れていて、像変遷などは当たり前すぎる陳腐な誰でも可能なアイデアに過ぎないと思ったけれど勇気が無かった.原因はあるA的フェルミ型xxのしつこき絡み意識によるとほぼ


   
           






 

ところが今では面倒になったのかこの陳腐で流すようにもなったかな.しかし像変遷には事実記録的で無限変革には有機心情も含めている差異はある.その項目に現状維持無限変革を用いればいいわけだと気がつく.時間に関しては対処が困難になるようにてんやわんや達が出現し過ぎかな、否元々難しい対象とも


   
           






 

境界ディリクレ境界の圧力を人々は普通に感じているのか、特に中間存在はそうだな.それで色々煩わしい暴力的なものを覚えるわけか


   
           





 

どうも違いというかなんだか神聖型の覇者の存在を考慮しないとになる.少し邪悪な神聖という撞着的がある存在が浮かび、パワハラ型神聖がいるとは.そういえば暴力示唆的な神聖型もいたな.神聖型は悩みをしないのが特徴だけれど体質に幸福要素を持っているからかな.となるとカレーニナの幸福は神聖感か?


   
           





 

無機物以降に人間は有機物は発生したと考えるしかこの乖離は説明がつかない


   
           






 

無自覚として本当に無知な人間であるかまたは本能的に自己の不利益を排除か隠そうと無意識作用をしているか…どうも後者程の存在とは思えない場合には無知人間の表明で後者は既に成立していない.仮に後者であるとすると演技歴然で人生は操り人形のような存在でしかない.


   
           






 

それにしても主体発揮の邪魔をする存在が必ず出現してくるのはなんなのか.弁証法に操られているのではないか


   
           






 

栄枯盛衰はエントロピー所為でそれを見ると無常感を覚えて儚さを感じるという美意識があるとか.無常がわからないとかだったかなある書のあらましを見て、別にエントロピーを見る位相なら無常は常にあり、積極的自由のスパンの短さが無常感無しにしているだけだな


   
           






 

あるxxが逆というかオリジナルの心的記憶を剽窃してそのオリジナルに述べるという無駄やナンセンスに気がつかない上に頭がいいのか悪いのかわからないという時に、そんな気がつかない愚か女だは当然頭悪くなるなるだろうと思ったのだが


   
           






 

更にその上にこの愚かなxxと同一視してくるAは非Aであるという、またしてもオリジナルを剽窃してナンセンスなxw&xy達が出現するという幾重にも重なる馬鹿馬鹿しさを味わっている.なんなんだこの汝自身を知らぬ無責任な迷惑者達は自己固有を剽窃で偽るというその固有性は愚劣でしかないのだけれど


   
           






 

そんなxx自身を知らぬ能力者が自己を偽って他者に愚かな自己を投射してまた他者を偽るそのような固有xxも大いに出現するので不快になっている記憶があり、この修正に多大な労力を有するという損失感がありすぎてしょうがない


   
           






 

用事で記憶ある存在がいて素晴らしいひと時を過ごしたけれど、石畳の道を往復して神社の帰りにちょっと話した女性がその時はカルトとは思えなかった水取りとか言い出して頭が変になる/全くどこに宗教的信念が潜んでいるかわからないものだ.折角の用事の気分の良さが台無し的に…デジャブ的かもがあるが


   
           





 

それも公共非難を避ける事からかな.集団圧力は疲れるからでもある.権威権力圧力と消極的自由が決める公共とには積極的権威権力と時間位相が同じ場合もあるけれど、ずれと説得力感パワーの差異がある束縛と自由さの差異的として


   
           






 

権威権力的存在者は巧言令色度強く、自由はルール感の無いホッブス的な赴きとして未開か野蛮的に見る可能性があるが、巧言令色こそ暴力志向の束縛好みの倫理未熟未開未発達人間なのだけれど


   
           





 

外見で判断してはを見かけるけれど、外見とは服装の事か?人相の事か?.普通人は外見と内面を分かる範囲で見ながら判断するはずだけれど.見た目は一応の要素にはなる、あと人相もである.他者に無闇に侵入してもまずいのではと思うけれど、日本では侵入した方がの感じ.しかし煩わしい干渉者はいるもので


   
           





 

あるしつこいxyはひとことで巧言令色系存在だった.機能官能を用いているのに用いていないかのような偽善が混じった啓蒙意識性も持つなんというかしぶとくそこに障害的になるもの.そういえば障害物と気がつかなかったあるxxがいてこれもしつこく邪魔をする.つまりは無駄ばかりする羽目になる存在達で


   
           






 

そのように非建設的にばかり向かわせようとする不愉快不快な存在達に出くわすものである.最も建設的なxx達にも遭遇しているのだけれど、これらが邪魔をするのと個人的意図が妨げる結果にもなりて…建設的位相者は悩まさないけれど非建設的として登場のxx&xy達は無駄ばかり要請してくるものだ


   
           






 

マズローの自己超越の番目の他者の不幸に罪悪感を抱くが非常に問題で非常に困る.人々は無駄をナンセンスを道化を要求し、権力的存在の扱いやすさにもつながるかな、また人々に甘えを増長させる事にもなるので.


   
           






 

アジア初演が徳島での第とは知らなんだ.楽の歓喜の歌はシラーか、あそこの坂道でシラーの大胆なというか大仰というか理想の歌い上げを思い浮かべて、とてもそんなスケール気分にはなれないなと思ったスミレ咲く野の花にや帰巣本能と稲の病気対処の難しさなど考えた近くの坂道


   
           





 

ポンティの身体は対自観的な世界への投げ出されから完全認識状態への達成は哲学者にも難しいだろうは、カントを読んでないか理解していないか実存圧力による変容表現をせざるを得なかったような認識視点だな.ポンティを読もうとして読む時間を持てなかったあの頃の元論意識の疑問錯綜観を懐かしむ


   
           





 

反省するだけの表現ならは現象学に過ぎず…構造自体がそうなっているとするのでは妥協に過ぎないし、なんら代わり映えのしない当たり前でしかないので単なる日常世界意識でしかない


   
           





 

あの親鸞でさえ悪人として推定一生無自覚存在を肯定していて悪人と善人を区別していた…これを現在時間にあてはめると任意現象に区別ではなく差別だと騒ぐ人々がいる形かな


   
           






 

代理である事大者が自由からの逃走を強制する最大に馬鹿げた事象.そんな強制者の人格には見るべきものはないが、生きている事実同相故に強制をしてくるのだろうけれど、同相ならば馬鹿げた性格と思わせなくてもいいはずではないか.まあ性格変容を一生不可能とはおもうってはいるが…


   
           





 

なんだかモーツァルトのドン・ジョバンニをモチーフ的にした小説があるらしく-年の晩冬ものらしい-あらましを眺めていて、あるxxが嫌なレクイエム発言でどんな曲が知らないけれど、それならドン・ジョバンニだろうと意識した時間があったある所を思い出した…


   
           






 

レクイエム性を要求したのはそのxxに対してなんだけれど、嫌なモーツァルトの楽家なんぞ要求するわけがないだろう.他者達は他者達自身に要求している事をこちらが求めているような態度ばかり取るのは何故なんだ.それでツイートに記憶上にせよ現在的にせよ不快の文字が踊りすぎるわけで


   
           






 

第ステージを仮想していて今年のテーマは決まっていてそれに即している形を未完に注力している為に忘れ気味だけれど、一応決定的ではない仮想なのに現実は仮想的になっている事に気づく.第ステージの要請が現実事実からあるけれど生理が許容可能とするかは難しいと判断している今の時間


   
           






 

数学を人文的に解釈できる-物理的の方があの頃は正当感を持ついそうだったけれど、逆に数学が人文的なものを正当化していると気づきどっちもどっちというか、人文系は敬遠気味の数学かなだけれど、前順序からどうすると思う次のテーマに関連を思う.考えが交錯している…来年のテーマと仮想が一致せずで


   
           






 

神々の山嶺はどこかに消えたという映画観.小説原作のモデルの話は書物て読んだだけだけれど、何かと尖った性格の人物のように描かれていて悲劇的なその立場位相になってしまうという経緯は間違っていないと思い、そのような人物をモデルにした小説自体少し無理な設定になるのではと思えるものがある感


   
           





 

序説しか目を通していないので原生的疎外や純粋疎外は雑把で今では暴力的的に思えて苦痛で仕方ない.後は労働パワーとしている心的現象のミクロ展開をしているはずだけれど見た事ないな.それでもこの固いフレーム感を覚える文章展開枠的の感触自体不自由な束縛拘束感は嫌だな.思索の妨害となりて不自由


   
           





 

別にデータテーブルを作ると複雑になり処理が遅くなるのではと考えたりした仕組みは別に然程の遅延はなく、またルート選択もどこのルートであろうと全くナノピコの差でしかないから騒ぐ事ではない形式かもと判断がなぜか急に浮かび、AIの不明も行列散乱感からエールのリンダのタプル批判に似ていると


   
           





 

京都のベストか、去る日にあるxxと歩いた記憶がある.嵐山・竹林の道・南禅寺から哲学の道を通って銀閣寺だが、どうも聞き忘れたけれど宗教的な面で不便でしょうがなかったな.ある書物を求めて知りうる書店に行ったけれど無く、京大の図書館を思い出し行った時にはもう閉館的で不明のままに


   
           






 

東寺の縁日が良かったかな.どうもそこで言うべきでない言葉が口からでてしまいまずかった.三千院の苔と庭園は知らなかった.大原のある店が今は見つからず廃業したのかなの思い出とある事を考えてしまいや、今はイルミのある階段での若き女性も切符を買ってしまい時間が取れずとか…最近はそう京都も


   
           






 

嵐山で湯豆腐も食べたけれど.銀閣寺の垣根道は意外だった.なぜか金閣寺は脳裡に浮かばず見た事はないな.ある作家の小説があるのが抵抗感を齎している気分がある.


   
           






 

考えると京都の街は寺院が多く驚異的な街に思えてくる最近、寺数の街では明らかに世界一は確かだろう.京都へ行ったら冷やしそうめんを食べるのが目的で、南禅寺から近くの小さな店で人も入れなかったかな食べた夏.センスいい冷やしそうめんで文句はなかった洗練度だったな.


   
           






 

矛盾を不条理を作成したものが関係の本質でその本質は理屈論理上宗教の戒律などからも自由である事になり、それは絶対的なもので、それに関する思想はなかったとは言えるな.まさかの先の未来志向で抉るというか掘り下げるのはモンキースタイルと思っていて盲点だったところの簡単すぎる認識点だった


   
           






 

昔そんなケース的にあるxyに遭遇したことがあってなんなんだ侵入してくるなとまるで皮を剥かれているかのような気分を味わったことがある.猿的と共にインベーダーと思ったそのxyはそう侵略志向の倨傲さを持った存在で、今は内部に巣食い逆的で主体発揮の邪魔ばかりする他者からの誤解を招く邪魔となり


   
           






 

放射能の言葉はキュリー夫人で、ワルシャワ生まれとはあの青のナポリを教えてくれた女性との話にバナッハは出てきたのにキュリー夫人やショパンが出てこなかったのは何故か、有名すぎて?ワレサの名は登場したのに


   
           






 

物理学賞の人は女性だった.ならばあの家のそばの坂道を下りながらキュリー夫人の回は偉いと考えた事を思い出す.女性は人だけとは驚きの歴史で、少ないな.自然科学系は人でノーベル賞全体の女性比率は%か、フェミ系は自然科学系のノーベル賞女性獲得に力を入れないとと考える方策もあるなと


   
           






 

知識に罪とか幻想とかは生理物理身体の有限性が作用している、それ故に知識を行うので、知識は性的な快楽に必要ないなら猿人原人でもその通りで、動物植物でも構造的には例外を除いて当てはまる.とにかく現実とは生理的事象専らから来ているのは当たり前なので、それを強調するのはそれ故に以前の話


   
           





 

モーツアルトは歳にして弘法筆を選ばずの才能だったとすれば、疾走する悲しみは考えていたのと少し違うかも、溢れ出る才能が自己自身の曲を自己自身でじっくり味わえないという生き方故に客去りし後に余韻を味わう時を作れないいやもっと長い味わい時間かを持てない悲しみと考えていた


   
           






 

ハイドンとモーツァルトでは素質が違うの歴然でベートーベンは健全常識な作曲家なので他の作曲家達はそれぞれにベートーベンから分散を持っているがその分散表現可能なほどに知見はない.特に皇帝は必然的自由的に普通かな


   
           






 

啓蒙的で勝手なアドバイスを押し付けるそれは無意味で迷惑であるのに他者を考えない傲慢者は巧言令色型の邪悪系存在と不快な記憶者達に当てはめることができるなと、機能を使っているのに使わないかのようなソフィストタッチに快感を覚える多数の存在は巧言令色的だった事に気がついた感あり.


   
           






 

小学生の時に怪我をした近くで、朝に道を聞かば夕べに死すともかなりだけは浮かべて知っている.夕べで無くとも昼に決めてしまう或いはその直後か、愛する女性への決定の一目惚れはこののたまわきと同じであるオシドリ感阿吽感を想定する.又一生の仕事を発見した時の表現でもある.


   
           






 

欺瞞世界なら、嫌で嫌いなxxが好まれていると思うケース多々ありも頷ける.まあxyもそうだけれど…しかしそんな本来性ではなく虚偽的をするわけにはいかないが、このケースもしつこく記憶上不快で悩ます.虚偽をすると無責任でスムーズに世界が動くがあるから、欺瞞が成立するとか.


   
           





 

イソクラテスのエートスは特に道徳で話者の生涯と結びついている-ほぼこの図式をエートスと見たあの小道のところ.ウェーバーの外的な賞罰によるものはエートスではないのもそうだな.説得方とか関係なく倫理的態度をエートスとしていて、専門を考えるのなら例えばT大がそこで登場した形のエートスかも


   
           






 

中間存在質的エートスを見たのかも.なぜこの閉鎖感の向こう側にいけないのか、こちら側別側には広々とした世界があるのに、このポイントは渋味の重さと似ていて、渋味はエートス的なものと親和力あるけれど、深さとか簡潔さより個人の資質が寄与大きい感じだな.


   
           






 

ロゴスにはエートスが必要でパトスがあると権力的になる・・しかしエートス解けず.経験思考上ある種のxx達はウェーバー的エートスを用いるようになりそれで一生を終える解釈を持っているとするとタナトスの影があるかも、ありそうな


   
           






 

ある作家曰く人は皆先生である、ソクラテス曰く人は皆先生ではない


   
           





 

この現実が欺瞞世界なら冗談が現実になり、他者が自己を他者と思い込む洗脳された形の他者性もそれは自己欺瞞的なので成立する事になる逆になる模倣群のオリジナルに対する欺瞞化圧力も頷けると漸く理由根拠に至った.


   
           






 

創作的者には模倣群の存在根拠など必要としない立場があるのにそこに自己投射する無知化要求や第者要求の論理不当や何故か性的倒錯要求者とかが出現する一切は不愉快不当不快なものでしか無くその解除を当然必要とする


   
           






 

指示言語は共時というか現在的な離散的とのよくわからない意見を見て、そうならば全く底が浅すぎてまるで板塀が立っているようなxxや意外に通時的でスパン長さを肯定出来そうなxyがやはり単純頭展開の浅さでしか無い自由の狭さを構築してくる不快さ記憶.つまり速度を速くする思考で数をこなす積極性的


   
           


 

とにかく指示言語がその場かぎり的ならば面白い.ただし間主観性で逆になり自己投射押し付けを無自覚にする無知存在は長々とその可能性時間のなさからそうなる.それがしつこい事になり、また責任力は短的でしかないフェルミ型がよく当てはまる.そんな自己理由をフェルミ型は自覚したくなさそうで欺瞞的


   
           






 

徒労にのらわれている形だけれど、過剰でナンセンスなダブりである自己記憶の他者による蒸し返しは愚劣な無駄という他者の無知無自覚な無知覚にはしつこく悩まされる.昔の常識では、頭のいい人は馬鹿とか愚劣を使わないのが普通なんだけれど、もはや多すぎてそんな余裕を持てない記憶となった感ありで


   
           





 

フェルミ型がしつこく絡まり諸々に災い的な記憶を除去できない事もありなので、端的には相剋経験から貨幣に関してはそう言えるけれど、倫理道徳的面からは不快過ぎるxx&xy達で、まあ積分は往々にして指示言語的な統合感覚だけれど.xxとxyの双方に別位置で絡まりなので双方にクーパー対感があったのかも


   
           





 

中央・中核と半周辺と周辺の世界システム論の区分けには個人的な考えに於いて考えるところがある.人についても物理的には、個人<家族<社会の種同心円的区分を考える.


   
           





 

人の経験的な悩み思考から離れている時に何故か他者が蒸し返して恰も自己の思考のように述べてくる無理解というか図々しいというか無知というか思い上がりうぬぼれというか、どうにも不思議でしょうがない.端的に侮辱でしかないのだけれどやはり知恵が足りないか錯覚者で風車と見ているような


   
           






 

人間なのに風車に見られてはたまったものではない.夢を見ていることに気がつけばまだましだけれど、どうも一生気がつきそうにない.またそんなにそんな存在が経験的に非常に多い気がする.特に当然的にxxが理解できる範囲で逆をする事が問題だと思っている.無自覚者が多いから無知無自覚に引き込もうとか


   
           






 

あの昔に霙の中で自己を見ている自分とその自己と他者の見る自己とそのまた他者の見る自己的なある詩的人物の鮮烈な思い出が霙の降る月の天候と相まって.この頃人のミリガンを知った気がするけれど定かではない.春にはメンデルゾーンの軽く華やかなVCに酔い的なその付近で


   
           






 

経験保存記憶の横取りによって当の当人に無駄に指摘的発言をしてくる存在根拠がまだわからない.当人そのままならまだしもその当人を当人で無い他者と見るのはもう論理的ますなのはあきらで頂け無さすぎるのだけれど、足るを知るを知らずではなく足らずを知らずとしか言いようがないとなるが


   
           





 

このサルトルの考えはベルグソンの笑いを惹起させて、笑いへの解答にもなっているように見える.反省存在論は存在対自がまた存在論対自を行うやその後の逆の自由を考えざるを得ない.サルトルの幸福は乖離解離分離剥離を前提とした所にあるかなの感想を持った.何故ならそのギャップに壁を持った昔故に


   
           






 

どちらかといえば負の側面の方が結局のに今は思えるが、未来の必然性もあるのでその点はだけれど、モルモット的な面を感じないこともない.ある日病床に見舞った時に何を書いてもとかまたしても自己を忘れた質問などをした事を思い出す.


   
           






 

シギ立つ沢の夕暮れがあったな、シギは昔から題材鳥なんだな、見た事は無いかな…秋の夕暮れは今の季節より後の月になった頃の趣きか、今初めて西行と知った.幼き?若き日に西行を浮かべた小道は今は野生のままに道が消えて…


   
           






 

エーテルの話を知ったあの頃にはちょっと待てよとは思った.光媒体としてのエーテルは却下だろうけれど、ヒッグス媒体としてのダークマター・エネルギーをエーテル的なものと考えると結構良さそうなエーテル仮想なんだけれど.最もヒッグス媒体が正当かどうかは?


   
           






 

それからおかしくなった.その人物を他の存在と同一視するのは論理的に間違いとわかっていたのに、そのxxを尊重する形で…その後大いに誤解を受ける事になる太宰治など嫌いな蛇のようにしつこいイメージの存在で、仮想した手前色々その疲れる現実生活に呪われたような形となってしまう.仮想は冗談的で…


   
           






 

太宰治は父死去の時に歳だったとは、話が少し違って来る.別に太宰治に騒いでもしようがない、あるxxにしつこい太宰治を相手にすればいいのでは無いかと単に仮想した事を、そんな事はすっかり忘れていて、別のあるxxから太宰治じゃないと言われそれでヤケでもその通りとその論理不当なのに擁護で


   
           






 

スラングは格調無いので使いたくないけれど経営者変更したらしいTIME紙にはよく使われているのでどうかはある.でパクリ剽窃者達はそれが剽窃と気がつかないようなので、どうにも社会をインチキ化している要因者達となるが…実際はパクリ者達模倣者存在達は既に消化されているのだが・・


   
           





 

単純直感ではパウリの排他に乗るフェルミ型存在はその単体性から孤独を好む存在となるので、シングルはその特徴となりポーズ型がフェルミの犠牲になってシングルを行うのは不自然である.フェルミxxとフェルミxyは物理的に偶数となり成立するので、FがBにそのままで干渉するとインベーダー的にBを裂く


   
           






 

そんな妨害を受けるしつこいフェルミ型xxを小学生の時に坂道を登り歩きながら考えて辟易していたヤケクソを思い出すが、嫌いなので現実はそうならずだけれど記憶にはあるfとBの違いを知らなかった小学生の記憶.ふとxxだからその柔軟にスキルが加わっていたかもはある権力主張xxの無謀な無理解さ
の記憶


   
           






 

指示表出で騒いだかなな人物かいたけれど、指示的言語に関して『○○介在伝達』と考えていたのを思い出した.○○が思い出せないけれど、要は指示言語は伝達を主眼とするものであるとしている.形式的に有効であり、特に叙事的人間が得意な伝達言語でもある、その反面叙事的存在は自己表現は苦手となる


   
           





 

他者の保存記憶内容を自己だと思う他者達が多過ぎて、保存記憶を蔑ろにされてしまうので、取り敢えず記述してしまおうとか考えたりする始末である.それで逆とか良くツイするのだけれど、主体を発揮させないように出てくる他者達が妨害するという憂き目に遭遇するので己無知のミルグラムは困ったもの


   
           





 

尚個人的には普通日常に取るに足らない良心呵責のささやかすぎる行為や発言が多大に膨らんだ罪の意識を感じてしまう経験は多い…
この反対で罪の意識の無いと思われる存在の日常自然発言は頭に痛すぎるか心理を抉ってくる発言となるケースが多すぎる


   
           





 

女性の自然権によるのかな?自由闊達な理不尽をものともしない本能によるのか矛盾相克お構いないの発露は全体的に見ると○○○的と考えた記憶がある.何故そのような特権的エゴイズムを有しているのか自己表出体と考えるとあり得る話だけれど、中間存在や叙事的xx達の自己表出は惑乱を齎すだけにも見え


   
           






 

ただ万国の労働者諸君のような世界共和主義的なことではないけれど.何故プロレタリア獨裁は正しいと述べる人がいるのかよくわからない.資本主義の中から自然に発生するのは新人類か超人間的な存在が自然に発生するとしか考えられないので、プロレタリア独裁はルサンチマンに訴えたやり方ではないのか?


   
           





 

ヴィトゲンシユタインは幸せな『生存過程』といって死んだらしい.ある人物の意見では幸福とは思えないは、男女関係家庭家族の安寧が幸福の定義だと思えるゆえにそう判断するしか無い意見であるが、自己のやりたい事を徹底した生はそれはそれで個人的に満ち溢れていて個人的に幸福だったろうに


   
           






 

昔残るのは市民の希望だけと浮かべた事があり、しかし何故か暗黒部が付随して…ハバーマスの市民公共性は絶対主義的家父長制があるななら、それを暗黒部に当てはめる事も出来るけれど、明るさと暗さに当てはめも出来ると思いつく.(老子のタオは嫌いではないな)


   
           






 

そこの国の思想に陰陽の表裏一体的なものがあるのと市民希望時に描いた希望の明るさに対しての暗黒部位は陰と当てはめも出来るけれど、表があれば裏があるからは、市民公共性の表の明るさに対する裏側は何になるのか思いつかない-希望は共時的でそれに通時時間が付随するとなれば発展と発達的だけれど


   
           






 

他者達に倫理陶冶力を要求したケースを悉く性的意味合いに取られたのはなぜなんだろう?.そんな事を想定していないので、そのような存在は無視する必要が生じる妨害者たち妨げになるのは、所詮自己権利主張の倫理レベルでしかないからのようである


   
           





 

考慮するけれどガロアの隙間とかエートスベクトルとか難しい


   
           





 

まあコンプレックスを軽減する筈の予定が裏目に出て増長する羽目になるや心外な不自然なる攻撃を受け災い障害者達のプライドの愚かさに同情し過ぎ、つまりはこれらの存在はどうでもいい意味なき無関与としたいのに、干渉してくる妨害者に過ぎない存在達によって上手くはいかなかった歳となりてしまう


   
           






 

小学年性の時で二十歳過ぎればただの人に挑戦してみようかなと思った頃の話でもある.


   
           






 

ただし小学生の時に細胞について考えていて、『全細胞に死の浮き彫り』があってもそれを補う何かが生じないものかと思った形なんだけれど.


   
           






 

しかし中間存在的xxもまた多く、中間存在的な幅はあるにしても-それはxyも同じく極端には%そうではないかと推定してしまう-その幅は即物的に狭くさほどの時間幅価値を持っているとは思えない.


   
           





 

未来な変転していくだろう像変遷としての像は編年体の事象記述だけより、紀伝体の列までまとわりつく事象の領域までを像と意図したい、またしている.


   
           






 

鬱的と渋みとエートスのイメージは直感で似ている.となるとエートス的な存在は鬱病になりやすいか渋み的存在は鬱屈感を覚える束縛感を感じる事なのでとなる.エートス自体の生き方は道徳的に悪くないけれど、その閉鎖束縛感は苦痛でしょうがないのに、逆に自らが鬱的になるとは…いたずらに逆を受け過ぎ


   
           





 

対自化となった意識思考を対自的に展開するは複雑化と存在-存在論位相的もあるなと---なぜ遠い昔に分かりきった事を今頃こんな表現化しないとなんだの思いがある.無為な時間が長過ぎたのとその無為根拠的xxになぞらえたやけな心理混沌ゆえがある持つ必要のない変に乱れた位相を持ったからも一因かな.


   
           






 

とにかく嫌いなどうでもいいと思う存在に限って逆になり主体を阻害してくるのはなんなんだ.嫌いな存在はどこまでいっても嫌いで否定弁証法が成立するのに、弁証法の止揚を持ってくるという矛盾要請は不快でしかないのは明瞭で、どこかでこの迷惑を打ち消さないとである.


   
           






 

違和感は発達的で異和感は発展的、文化は発展的で文明は発達的、つまりソシュールの共時的は発展的で通時的は発達的な位相の事である.まあ鬱になってもしょうがなくまずいけれど、言うなれば新型形は確かだろう.やりたい事に相変わらず専念できない能力的立場に自らを追い込んだまたは自然が赴かせたも


   
           






 

とにかく逆は不当でこちらは逆者達の存在理由など全く必要としないのに、逆者達は逆を好むようで誠に心外でしかない.鬱といえばメランコリーを最近味わえないのは面白くないな.郷愁も味わい難くなるのは理不尽なxxに合わせた・専ら否定すべき存在達やその言明に合わせてしまうから鬱的にもなるとかな


   
           






 

後退ばかりで退行者に遭遇した時にも退行者であることに気がつかず合わせて、その結果酷い目にあっている形となる.叙事的存在は残酷な存在理由を持っているのだけれどそれに気がついていないかのように自然と認識しているかもしれない.しかしその反面甘えなんぞも強いので非常に困る.


   
           






 

『言語は口に描写された画像である』は自動表出ならぬ自動記述的に表現していたのを思い出した…この場合はパロール的で内的言語思考についてはそれを保存する形のイメージだったな.まあイメージ言語像自体はイメージ論など関係なく既にキャッチしていたわけだけれど.寧ろ刺激したかもである.


   
           






 

尚自伝は義務教育終了時までの予定にしてある.如何様に考えても思考は結局自己に行き着きその結果自伝になってしまうと世紀初頭の思考事から.ツイートもその対象を多くしてあり、踏襲するケース多にはなるけれど


   
           






 

汗を直ぐになぜかかくようになって、今まである事により汗をかかないと心理制御をしていたその箍が外れた感じである.いたずらに無駄な冗談に巻き込まれる事が多くあり過ぎのパターンのひとつでしたくもない不合理感を無くしていくことは健全だけれど、愚かな不合理ばかり考えさせる存在が多すぎている


   
           






 

始めたのはいいけれどじっくり集中出来ずの環境にありそれが苛立たせて妙に体調異変か復活かを齎しているか、又は父親に遠慮しての意識ありエディプス感覚に自らをした形かもしれぬ.とこんな明白根拠だけの単純な理由だけで説明できるわけではないが、思考展開の結果の論理帰結からの自伝作成中の時間


   
           






 

シュティルナー的個人位相からはランボーの私とは他人であるを人々は誤解しすぎの間主観性に利用しすぎているかな.ランボーにとって見者的なトランスを日常自我から見て恰も他人かのように自認していただけの表現で、原始宗教の祈祷師の乗り移りトランスと位相は変わらないはずで


   
           





 

クロソイド道路や台風の北極南極視点やローレンツアトラクターもさほどのアイデアでは無いので、ブラックホールとホワイトホールを結ぶ線は螺旋を描くと仮想して見るのならば、その形態不明で不当としてもアイデア自体はパスする視点がある.


   
           





 

最近思うのだけれど、キリストとユダの実力はそう差がなかったをみて、それなら十字架ではなく、一本の柱で磔くらいになった物語があっても良さそうなのに、金を返して首吊りをしたとか崖から飛び降りたとかの物語では随分違いかあり差があり過ぎるようにも思えるけれど…

my ft 09302018

カフカ的なひそみ述懐を図書館でちらっと見かけた記憶があって、この辺とオシドリ感も何というか未実行前に展開された形を感じるのだけれど.全くそんな意図は全く無かったのにやりづらくてしようが無い心持ちは十全だった日々に他者達も交えての記憶の上に今も尚徒労無駄を行使してくる他者達がいる



           
 





 

ハァ〜自動表出も使っていたとは絡まってくる野郎だなという思い-どうでもいい設定なので自由的に無関係としているのに…思想は分からないけれど文脈からは地道な哲学性かあり、哲学は知力によって世界を支配しようとするものだから、絡まってくるのは致し方なきだが、ただ表現が面白くなくつまらずと



           





 

''対自的意識によって捉えられた現実を、更に対自的意識によって言語に移しかえられる時像が生み出される"-なるほど更に対自意識をな、それ以前の対自意識類を他者が用いてしまうのが非常まずく言語化に白けてしまうことになると多すぎる不快さを持つ.またそれに対して無理解誤解の多さにも


   
           
 





 

叙事的存在には自己表出は不可能に近いのかもしれないな.故に指示言語ばかり用いる事になり叙事詩を好む事になり、'女なんて'とその男は急に発した例からミソジニーは叙事的存在のコンプレックスと同時に共同体という叙事体社会において自己表出傾向強い女性の位置が捗々しくない現実がある.


   
           
 





 

中には女性において叙事的でしかなく叙情性欠如の存在もいて誠につまらない馬鹿げた理不尽な自己主張をする権力志向性もいるけれど.他者への共感思いやりの欠けた女性がそのバイタリティで出産は容易だろうが、共感思いやりのない存在が子育てなど難しいに決まっている



           
 





 

勇気の無さから次元を下げた未来に対して生起する現象の捉え方総体時間性から像変遷とした『現状維持無限変革』の謂がある.今では権威主義的志向のあるxxが像変遷に妥協させた与件を齎したと思えるけれど、多分に熱心な史記研究者の記憶がどこかにあったかも.史記を振り返れば像変遷である経過記述的で



           
 





 

全て女性は芸術品と申したある作家がいたが、叙事的xxを芸術的とは思わないし中間存在のサスペンススリル好みの狭量なxxたちも芸術的とは認識できないのだが、即物機械の指示的な現象から判断した位相からはそのように見えたのかもしれないな.それにしても単純で単様過ぎる.まあミソジニーよりましか



           





 

共同体は指示言語的世界で、指示言語を用いないと言語らしきものを語るような原人的に思えて野蛮人に映るようで、それで野蛮人と非難的な言明を衝動的な発したのか.しかしだ衝動は生理的で動物的で原人的なんだが…自らの野蛮性を虚栄意識で隠そうとしていた男がいたな.


   
           
 





 

指示言語は味のない無味乾燥的なロボットが発する言語で機械語的に思えてしょうがなく、固有名詞などは白けて使わないとした昔、地名とか人名とかで代名詞の彼や彼女は用いる許可は与えていたけれど



           
 





 

逆になると損をする非可換性がある存在は不快を当然覚える..この場合は一次的疎外だけれどそれも離散的だと不快ではある.逆になりまた自己を蒸し返しする過去他者に同一化する存在もいて、二次的疎外になる事に気がつく.問題は過去の記憶存在の蒸し返しでしか無いのに全く無茶苦茶なのは何故か



           





 

一秒間に回転する連星中性子星--あの夏の河原でたまごが高速回転をし、その後その速度増加によりとても捉えられないと思ったのはなんだったのか.回転楕円体の速度想定を諦めさせる速度は?



           





 

逆と模倣の剽窃的は寄生虫でもなく寄生獣でもなく寄生人と思いついたけれど.ある存在の自戒的言明を見ると考え方がほぼ同じで全く開陳されてしまっては困るインベーダー的様相を見る.寄生人の認識次元が低いので他者化する?、どうもこの他者化がよくわからない呆れ返ったデタラメ理不尽不条理なのだが



           





 

Eテレの動物の謝肉祭の出演者は特命に似ているな.サン=サーンスの白鳥は電話での曲名は何?の質問に綺麗な曲ですよねと言われた大宮のヤマハのいい声の女性に合わず…そんな皮肉意図が込められていたんだ.


   
           
 





 

流れでゲノム番組を見ている.中学生の時にヒトの遺伝子には無駄なものはないと思ったことがあり、ゲノム解析で無駄な列はどうなったのかな?


   
           
 





 

生命の起源からの連続に携わるは確かにロマンを感じながらやっているだろうな.ゲノム位相をデジタルと捉えているけれど、遺伝子自体が無機で出来ている解析まで行かず、単に現象学的なゲノム編集をやっているだけなのでどこかで頓挫しそうな気がしないでもない.


   
           
 





 

昨日有機体である人間が無機的意識を持てるか、無機的意識には道徳や正義や宗教の戒律などをまず気にする必要はないかなと考えて、唯物論はその傾向にある要素があるなと.人は無機的意識を持てるのか、他者を物体と見るのもまたその傾向だけれど.その例にサイコパスのシリアル者も載るな.


   
           
 





 

無機的意識とは一体何か、何かとんでもない気がしないでもない事を思いついた気がしている.



           
 





 

無機の最大値が有機が有機の最大値が無機か、現在人の動向常識では後者傾向なんだけれどそれは不快な叙事的位相になってしまうので.人は死ぬ事は確かなので他者に不幸的対処をしがちなタナトス的存在もいるのだが、そんな存在もいずれはタナトスに巻き込まれる自業自得さを持っているのだけれど


   
             
 





 

それを意識から避けるために潜在意識的に他者に負荷をかけるか、それが自然な先天性事項だからか、逆説的判断から死者もまた生きているの形を想定して見る



           
 





 

ある老境的存在からのその教条形式性を見て俗に言う石頭的感覚から、若き存在に発達障害が増加の一因た仮説を思いつく.現象的には当たっていると思う.大域的には境界的と考えるけれども.



           





 

ニッカズボンはいいと思う.ガテン系のズボンとかとにかく膝にはいいだろう.コクーンで遭遇したあるxxにその後会えないけれど、教わったガウチョもいいとは思う.何より取り敢えずスカートは膝に負担はかからなかった…まあズボンばかりが原因とは思えないけれど.



           
 





 

イドラのベーコンがそう述べるのならアリストテレスは演繹的なのだろうとはやはり感じが違うな.無限が問題になる事なのかな?.エールのリンダにも何故かこの頭ヒリヒリの思いをしてベーコンのヒリヒリと似ているな.あとある場所での頭の痛さには流石に閉口して避ける形とした場所がある.



           
 





 

帰納と経験主義はやはり結びつくな.ベーコンの何かで未完成と感じて-百科全書が踏襲したものか?-何か機関が未完成だった気がするちょっとがっかりした思い出のある青春.その時に頭ヒリヒリの心情を持ってなんとも言えずとなり…アリストテレスが演繹的⁈、アリストテレスは帰納的にしか想定しないが?


   
           
 





 

発達障害がかなりの頻度に及んでいる⁉︎の文章を見て、個人的には遅れてやってきた時間の境界と判断している
.日本は駄目になるとか結構やけな感じのツイートを見るけれど、それは境界以前がダメになるだけの話である



           





 

眠れないままにふと思いついて、駆け込み訴えという作品は弁証法止揚過程の軋轢を描いたものではと浮かぶ.



           





 

他人の事ばかり考えて人の目的や記憶や他者意識記憶などを蔑ろにする存在は、そんな事をするなと考えている人間の事を結局考えていないものだ…とくにxxはそんな事をするなと思っているのも自分だと思うから始末に悪い図々しさなのかエゴイズムなのか不快な間主観性も何もあったものではない存在かいる



           





 

個人的イメージの払拭が難しい、ベクトルを持ったエートスの複雑さがそこから無限遠に伸びてしまい


   
           
 





 

原性的変容とか純粋的変容でも曖昧さがまとい付くな.無機的要素故にはあるかあるとすれば有機と無機は異なる故にとできるか、それも普通に普通であるはずなのにモナドとエンティティ関係が乱してくる.FB粒子が専らの因ではあるけれど



           





 

擾乱と誤差と標準偏差の範囲はと標準偏差を用いるのは用いるのか…客体のみで存在すると思うけれど測定は無関係に.計算上はそうしないとかもはあるけれどなんだか狐につままれたような.揺らぎは可換では?非可換揺らぎもあると言えば考えやすい事はあるけれど多層で実在する時に非可換を想定し難く



           





 

'暗黒エネルギーをヒッグス場として見る.ブラックホールを時空に開いた穴として超弦理論での素粒子も時空の穴で大きさのない点としている'--暗黒エネルギーをヒッグス場とは考えもしなかったけれど多分にこじつけ的かも、またそう考えそうな感じはあるが、とにかく行列の複雑さにお手上げのあの頃


   
           
 





 

過去xxがアウトサイダーを提示してその意図が分からずだったけれど、何を意図したのだろう.アウト意識を持っていたのかこのxx…今でも過去とせずにそのままだったとしたらどうなっていたか今頃はと思う時代から出ない制約感が浮かび纏い付く



           
 





 

局所問題を対象としてみると、ミネルバのフクロウといえど夕暮れにも飛び立てずがある--フェルマーの定理とか.フクロウの寿命は大型で〜年だそうだけれど、ミナーヴァの助けを借りたとしても年位またはそれ以上ではとかってに想定してみると、ヘーゲルの夕暮れはまだいい方なのかも知れない


   
           
 





 

むしろミネルウァの助けを借りれば午前中または午後に可能になるはずのたとえばガロアとかがミネルバの助けを借りたとも言える神話化ができる



           
 





 

縮退的存在は他者を縮退化するのは間違っていて自らの縮退をそのままにではなく、解くべきだろう.特に非縮退的存在に対してはFB統計を混同しているかそこまでに考えが至ず、況してや超対称性などを考慮しているはずもない.何しろ考慮しているのなら縮退化要請をする理由が存在しないからである



           





 

人間とは何かは別にして、クォ・ヴァディスを人は何処へ行くかと考えると、無機物を征服する事迄は行くと思いついた.クレジオの後に残るのは無機物だけとは異なって.それぞれの銀河系オリオンとかを渡る行き来どころか恒星旅行も惑星旅行もままならず核融合ですら出来得ずの時代時間においてだけれど


   
           
 





 

理想気体の状態方程式からの恒星の輝きの仕組みは心理的に不快を齎す事に類似を見たりするけれど



           
 





 

物理的に安定に存在する系ならエネルギーの下限はあるは、ワンパターン人間に当てはまる.つまり整数的に有限で閉鎖を齎すその有限が自由の邪魔で不快となる、不定積分のプラマイ無限大範囲を設定できないからでもある.実用上定積分は有用だけれど、色即是空空即是色の自然数サイズも覚束ない事になり…



           





 

"歳過ぎても無能の場合は一生無能だ稀はあるが"には、義務教育時にだったかこのような人物に勉学を教えても無理で意味がないと思った事に似ているな.最も今では例の哲学者の現存在はほとんど未完成に終わるで代弁化としている形だけれど.


   
           





 

ユーノーの聖鳥は孔雀とは今頃知っても遅すぎで参った感がある.全く知識不足で失敗ばかりを覚えるが、『森羅万象は判明している』も序文に乗せてあるのではある



           





 

ソリトンとフラクタルは相性が悪いと考えつつあり、切断してもやはり端点を持つものはフラクタル的かな、または構造的に一定からはソリトンと結びつきそうなだけれど、ソリトンが自由に動くことはないはすで、自由動くとすれば非常に短い時間となるとするとインスタントン構成可能かとか空想してみる



           
 





 

そんな非常識な不整合さは納得出来ず、そのうちの人に納得出来ないなと会いに行ったけれど連れ合いに玄関先で追い返された?形となった記憶がある.まあ色んな社会的不都合さはこれらの主体歪曲者達に責任があるとして差し支えないと思うけれど



           
 





 

猿人原人旧人新人で二足歩行上の区別はないとすると、猿人と新人の二足歩行性は同じであるので、違いは二足歩行以前の記憶にあると乖離を考えて見る…それとも猿人以降なんらかの相転移があった?とすれば旧人と新人の差かもでもそれは説得力にかける乖離感だな.未来志向意識から来ているとするか…


   
           
 





 

最もその直接対象とすべき存在も僭主的な自己不明の棚上げ的な無知的な傲慢さを持つトートロジーに気がつかない間抜けな存在なんだけれど



           
 





 

どうもある存在の作風が閉鎖固着感ある糞詰まり的な不自由化的文章で困る.つまりその人物は自由を設定しているようで実際には自由がわかっていない存在であるとなり、全く憤慨する歪めを齎して…限界が齎した自己擁護の為の他者模倣と卑下は僭主的な倫理の弱さで、また歪めは直接対象に述べるべきで


   
           
 





 

そうは言っても肉体衝動的な脊髄反射言明は暴力的なロボット体の発言で人間的ではなく、剔抉して動物的暴言である不快を与える事に気がつかない性的人間の束縛化狭量化の世界を狭くする破壊性の非建設力は頂けないxx達の自由を邪魔する抵抗性.他者達の肉体を尊重できる筈がないのに…精神ならはある


   
           
 





 

そもそもそんなxx連中はそんな衝動条件反射的な言動は要らぬとしている人間を尊重していず認めていないので、そのように無視している存在をどのように認めるのか?取りつく島がない.ブラック志向でしかない強制強要的な非倫理存在に見える…



           
 





 

多重ゼータ・これはと思ったけれど、ホールと同じくどうも違うかなと.理屈上はファインマン経路とかそうなんだけれど…場の強さの励起的変化を客体的にしてもはある



           





 

多分利用された形は無い偶然とは思うけれど、利用される形は多いに記憶にあるので…自らが行使する前に他人が為してしまう形は受け身的に利用された形なので、特に逆になるxx&xy達の記憶が多くあるので.対自&即自の目的類は対他即他ものではなく自己のものだけれど他者が使用してしまう感があり


   
           
 





 

白けてしまいやりづらくなるこの理由がわからない.また対他即他的な事を記憶しているとそれを自己と思われる事も多いので困ってしまう.



           
 





 

"ヒトの生殖細胞の発生の仕組みには不明な点が多く"とは今日に至ってもそうなのか、小学生の時に胚の映像を浮かべた事はあるけれど、その時には考えてはいけないという思いも浮かびそのままずっと、その時にところという言葉も浮かびある市の名前は知らなかったので後に悩む事は間違いとは思う…


   
           
 





 

自己の想像深淵シーンにおいて自己理知力が追いつかず情けない、男をやっていられない程にみっともないと思った事があり、そこに他者達がつけこんで来る.他者達にこの複雑さが解けるはずもないうぬぼれが何か勘違いしているはずのものと思うのだけれど.まずはKやKやKではなく、少なくともK以上と…



           





 

発散が無いと無私の精神に至らずエゴ的である筈である.即ち肉体の重さがそこにあるような存在には無私の精神はほぼ不可能な自由の束縛をする.全くうんざりさせて尚且つうんざりさせる過剰うんざりなxxが常に出現してくる.陰湿なる言葉には無私の精神はないかな



           





 

ヒモサイズが問題で限理論=超弦理論→超限理論=?(超超弦理論のような)を考えるのは普通に人間の志向だろう



           
 





 

年以上前のアラン・コンヌのインタビューを見るが非可換はよくわからない.カルティエの宇宙群?.シュウインガー本に年掛けたは示唆的だけれど、シュウインガーやダイソンは知らぬ距離を保つな.多分にイメージが解析的で潤いがなく冷たい印象だからだろう.それはフェルミ的かな、むしろ叙事的だな.


   
           
 





 

ボヴァリー夫人のあらすじを読んで見たけれど何がいいのか分からん.単に作品過程の代表的位相価値でもないか、因みにアンナ・カレーニナのどこが評価されるのかもわからない.有名な不幸な家庭の多様因は気にはなるけれど



           





 

完備意識が不動点を探って猿的詮索人間がインベーダー的に詮索をするという経験あり不快だけれどその陳腐な猿的詮索ペーソス人間が要らぬものを放擲してそれが内部にあり実に不快な自己主体歪めの気分の悪さの逆的位相にあり、またそのような連中が逆を当然と思う馬鹿馬鹿しさがある権力志向性者達



           
 





 

叙事的なA期xxはエロスの無さを権力志向に転化する、否転化するのではなくそれが自然なのであろう.xyにもそれは間違いなく言えるかな.柔和さを剛体的に厳しさ非情で対処し得ないという.ミソジニーはその対象を認める事が出来ないのが自然に不可能的でミサンドリーはこの不可能的なxyを対象とすべきで…



           





 

その不可能的なカップルは形式的とならざるを得ずいわゆる仮面カップルの虚栄制御となるだろう.これの一方がそうではない場合はまた問題で、しかしなれどA,Aであれば過剰的になる例がある筈だけれど差し当たり思いつかない.



           





 

ほんと思い出せば権力志向型は普通には表現の自由力が無いので、他者の表現力の妨害をしてくる不快な記憶があるな.他者を妨げるのではなく自らの表現力の陶冶が建設的なのだけれどそれも不可能に近いか…



           





 

どうもよくわからないけれど退行者であるならば退化すると言えるのではないか.叙事的な暗黒の不快なザラザラさは一体なんなのか.けばけばしい現象学の根拠にも思えるそれは無機の粗い混沌もしくは稠密に粗さを付加したものか.まあ混沌まではいかない完備的な底浅な筈で、生の限界が強固な反動を醸すと


   
           
 





 

小学生の時はそこにある境界だったのに長じて無限遠の境界ななってしまったこの距離性は?.対象自体は変化しないままに領域が広がるという…



           





 

現状維持無限変革時間内においてまた地球内核エネルギー消失してバラバに瓦解してしまう前に他系利用可能になるかもの時間はありそうなのと同時に現状維持無限変革が有限変革になり人類消滅したの泡沫の露であったになるかも知れない可能性もある.



           





 

事大主義者はその位置にいないのに恰もその位置いるように思っているミルグラミストとかになるかな?.昔に厄介だと思った存在を知らなかった事大主義者といい、なんらかの依存意識がそのミルグラム意識を保証していると解釈の今頃.そもそもミルグラムは無いとされる依存・甘え意識では無いか



           
 





 

嫌いなxxに愛されるのは地獄であるとの箴言を見たことある.嫌いなxxはどこまでも嫌いだからそんな事をしても意味がないという自覚を持てなそう、またそれ故に嫌いでもある.特に逆になったりすると馬鹿馬鹿しさが過剰になり過ぎて愛する主体を嫌わないといけなくなりこの矛盾的な位相は地獄的かな


   
           
 





 

PM・MC・PMC迄は区別をつけたら、日本語がわからなくなって来た.Θ論とは何だったか忘れてしまうやハミルトニアンとの関係を判断できず



           





 

パンドラの匣の普通の話で、なぜか個人的希望を他者が横取りしているかのように逆に意図している事目的を述べてくるのだけれど、それはトートロジーで言われるのはわかっている自己目的なのでうんざりするのだけれど、まさかと気がつかないでその言明に遠慮してしまい即ち形式では自己に遠慮するという



           
 





 

なんとも意味なき無駄で、そのように述べてくる存在たちxx&xyたちには模倣的な意図しかなくなんら何もない人を卑下するものものしか持っていずに、ろくな事を考えさせない形かなと今では判断できる…つまりは逆パンドラを要請する希望が逃げて後に残るのは反希望だけのような.



           
 





 

となるとこれらの存在たちは反希望者達となる論理帰結になるのであるが、この展開を誰が理解できるか…これら存在達は自己把握をそのように思いたくないだろうな思わないだろうなの帰結が見える心理段階とかなのだろうなので.そんな意味では無駄強要の存在達でもある



           
 





 

昔の正月に急いでガレ多いブドウ沢の道を空腹のままに途中の雪を食べたりしながら降りて小屋に着き寝転んだら室内が回りて、始めてめまいの体験をした記憶と共に、影になっている小屋から日当たりの釣り橋とその周囲の地形がいわゆるほっこりに見えて、個人的に最高の思い出の場所である釣橋小屋



           





 

個人的見解において粗は目につく反面こんな構想は思いつかないなはあるドラマの脚本作者達-リアル現実をパスしていたので何かと不都合認識をするけれど.そもそもこのパスは失敗だったと最近になって思い覆水時間は戻らず埋まらない面がある惰性的を考えるが、個的時間の短さと長さの差異は設定できる



           





 

ホワイトヘッド はあるからなるだったのかそれには賛同的だけれど.オルテガの不満自然的固有存在として主張する存在はちょっとホッブスの万人の闘争にも似て.あるはスカラー的存在でなるはベクトル的存在だから方向性を持つ事をホワイトヘッド は意図していたのにオルテガの不満が少し結びつくな


   
           
 





 

この方向性を持つのはウーマンリブフェミニズムの主張する所だと思っているけれど、荷物的な事大主義的xxがいて、それに気がつかなかった時間があり忍耐した分その処理に厄介な時間を持っている.まあ多々ある不要な忍耐の処理には時間がかかり過ぎているけれど.



           
 





 

カントの二律背反に宣言から始めるというプログラム属性的志向判断もあるのか.カントのアンチノミーは理性優秀者が考え抜いた容易に考えたかもしれないけれど、哲学の正に自由なものであって、だだし極限ではある.少なくともカントのアンチノミーは正解に思える



           





 

保護法益に私生活の平穏も含まれるレイとして風鈴の音が生活騒音になるケースはどうかな.個人的法益の中で自由に対する罪の何項目かに当てはまる事態を受け過ぎている形かな.名誉に対する罪はまずある形だけれどこれは諸刃と取られる可能性もない事はないが、それは退行的とは思う.


   
           
 





 

多くの人は罪の意識なんぞは持っていないのではないか.いたずらに罪の意識を持つと持っていない人が調子付くのみである.それ自体は個人法益侵害ではあるのだけれどそれが当てはまっていると理解不可な故に不利益を被る対象が多すぎる事になるか.未必の故意はあるけれど無意識の未必とか考えてみる



           
 





 

専門家に任すとしたのはガロアの隙間の方だけれど、特性方程式の徐に描いたあの時の事に関与しているような事をやや専門的に研究している人々がいたのか…ややびっくりである.



           
 





 

アンリ・ミショーのどこかに罪の意識を持つ事ですがありよく記憶している.考えるにマズローの承認要求の段階までは罪の意識は出てこない気がする.少なくともの自己実現段階から以降だろうと.自己実現意欲者達は多数いる筈で普通に遭遇していると思うけれど、最近は認知できかねるのでつまらない



           





 

種の次変数の既約方程式は肯定である.次体全てというわけではないがガウス予想を知らなかった.どうもガウスで止まっている感のあったのはこの予想ゆえのようだ.ゼータが出てきてその大域とか素数に対するガンマ設定のこれは何と印象に残る.I分解登場か素数と直交は必要になる理屈はあるなとは思う


   
           
 





 

自然的存在・・云々は語呂感良くパターンを模倣して使うな-人間は無機的存在ばかりではなく有機的存在でもあるとか、最もこれはバンのみに生きるにあらず神の口から出る言葉によって生きるものであるとも類似させているけれど-類的存在に対しては心的存在かな……



           
 





 

マルクスに関してはあの好みの南天のそばでしほんろん巻を描いたことあるけれど、巻までは読みそうにないなと思った長さを想定した事がある.数年後に経済・哲学手稿を結局読んだだけでしかも自然的存在ばかりではなく人間的存在であると類的存在の言葉しか記憶に無いな.類的存在はよくわからないが


   
           
 





 

物象化は人間が思考したルールとしてもそれはやはり人間が考えたものなので人間存在が関与しているというアイデアの浮かびによりある想定をした.このまま記憶に保存しておくといつのまにか他人が自己思考ものとしてしまう事多過ぎている経験大なので記録しておいて…全く原動力の薄めには辟易する



           





 

薄く軽い意識をパスして重くなったリアルな意識にしか反応しないまたはリアルな重い発語しか出来ない存在のズボラな感性は徒に自由の束縛でしかない.何でも完備的に述べねばと思い込んでいる存在は俗物明晰型で無謀な点もある.寧ろ不確定性原理や解けていない予想とかを知らないのではないか.


   
           
 





 

そのようなものを明晰にしてくれるといいと思うけれど、そんな不明問題を解ける位なら、明晰発語化などをしてはいない夜郎自大か了見の狭い存在でしかなく時間の進みを遅くして退行を強要するような存在でもある.正直は無謀に繋がるケースもあるその頭の単純さかな



           
 





 

基本の明晰さを知ると馬鹿馬鹿しい思いがするが、定義xxがいる…



           





 

エンティティはIT用語にあるとは無機的ではないはずで、まあ無機をモナドのように説明はせずモナドは有機を説明していないとした要素論の限界だったあの頃なんだけれど.



           
 





 

TLPの要素命題の対象実体は要素論的でくだらないと思ったのも要素論の行き詰まりゆえだけれど、人間は無機的存在ばかりではなく有機的存在でもあるは当たり前として分子ではなく量子生物学が普通に来るとなると、要素が集まって電子的に降鎖を太虚で止めるも想定となる限界位相も設定済みの難解さ



           





 

過去問暗記の試験?、多分想定できるけれど、明晰に拘りたがる先天者には得意な事なのだろうけれど、その反面曖昧な事象自体には対処しきれずその存在を暴力的に無いものとしがちで、その辺でxx&xy達の排除しきれぬ閉口記憶あり疲れるもので、しかしそんな存在の気持ち悪さや陳腐感では然程明晰とは…



           





 

なんか変だなと個人的に思ったリツイをした…どうやら帰納的還元世界の前提で帰納的人間示唆の帰納的結果の付随する試み的で、演繹の完璧さ-ほぼ有限的-を求めていないでという内容解釈かな.一将功成りて万骨枯るの万骨をしていれば功が成るを人で行うという真理に到達するのには幾数多の悩みを行うか



           





 

細胞内共生説は震撼記憶からは当たっていると思われ、不条理の源泉はここにあるとの推定をした記憶がある



           





 

嫌いな存在に好まれる好みの存在に嫌われる-嫌いな存在が意図と逆に好みの存在が意図と逆になんだけれど、どうにもならない平行線



           





 

悪女の深情けという言葉がある以上帰納経験的には事実だろうで個人的経験からも意図通りにならない白けを齎して災い的である



           





 

あの頃にRNAから始めるかと思ったときから分子生物学は進展して捏造事件などの時代となったけれど、そもそもRNAの語感イメージは気持ち悪かった.始めるかのままなので、DNA複製や超螺旋は知らなかったな.ただ染色体のそれぞれの構造変異で多様な症候群には関心あったけれど薄れてきたな…


   
           
 





 

なんと言っても衝撃的なのは核とミトコンドリアの結合だったかな、とにかくこの結合はミステリーで、震撼的な思いをした記憶が昔にある.どんなミステリー小説より以上のものではないかと思うくらいに、胎内での存在時間に起こる出来事らしいのだが



           
 





 

どう見ても自然発生的であるでは現象無責任というか皮相認識的と思えて、心的関係意識があったと見る.一様性等価性を自然数に置いて規定した時間的なものと見るのでは整数事態の説明ができかねるかなの対象なんだけれど、自然数の場合は時間移動と空間移動で考えているかなの有限対象の過去分と移動前



           





 

普通に自由を中途半端に遮るのでなんなんだこの狭い連中はと思う.自己自身を知らない無自覚連中か自己が無い他者の模倣で生きている人間かな.



           
 





 

共同幻想的な言明に対して対幻想で条件反射をしてきた存在は一体何なのか.脊髄反射人間かやはりオランウータンなのか.自らそう述べているのに困惑したのか違いがわからないのかでたらめにも困ったものだ.ところがこの人物と同じ位相の存在が多すぎて誠に困った無知者中途半端者達である.または自惚れ達


   
           
 





 

ひとの親切心をxyではなくxxだと思う連中でもある.三角関係なんぞで悩んだらしい割には全く対幻想を知らない無知としか言いようがない.またはマズローのを理解できないの低次元存在に見えないこともないみっともない存在とも言える.まあマズローのの低次元存在は叙事的と解釈する経験がある



           





 

肉体の束縛専ら存在には知性処理感覚が弱いと見る.どう見ても肉の塊に知力が実在していると見えないからで、生理有限でどうしようもない現実感は道具を用いない動物の弱肉強食の世界や原人世界と同じで暴力的他者としか捉えられない.また肉縛存在は鬱陶しくまた気持ち悪く、そんな意識を誤魔化す事も



           





 

窮屈な束縛や煩いでかい声でエネルギーを無駄に使わせる狭量底浅のxxたちも不快なものだ.嫌いや見苦しい趣味ではないや愚劣をイメージせさるxx達は逆になって、自分がそう思われていると気にせずに、そう思っている人物をそのように思うから始末に悪い.益々気にくわないとなる.うぬぼれと図々しきかな



           





 

必要なのにどうにも眠れなくなるのが何回も続く.夜型になったというより、体内時計がずれているか心的感覚を乱すxxのしつこい記憶が妨害しているかな.そもそもこのxxは障害物なのに過去xxがリアルになって導いた形で、どうも遠慮謙遜をするとこの過去xxが登場してきたものだ.今尚その記憶が蘇る



           





 

ならばH定理でまさかの韜晦事象になっている事に先程気がつく.まあ当たり前の普通すぎる事なのだけれど



           





 

無知のワンパターンに対してソクラテスの意図とは異なるけれど有知のワンパターンを思いつく.今までワンパターンは無知に関してのtwだったが



           





 

肖りなのか僭主なのか、被僭主を歪めるのはなぜかといえば、モラル次元が低いからである.モラルの低さの誤魔化しを肖りで正当化するために被肖り者を歪めるのはまさにモラル低次元存在でしか無い.またそれに気がつかない愚かさは論外的なだけれど、現実世界の低さがそれを許容する.


   
           
 





 

明晰頭脳であるはずの肉体感が気待ち悪いxxの記憶がどうかすると浮かぶ/俗的な生理体のしつこさは纏い付く/全く嫌悪で意気消沈xx達は余計に突っ張る形を取ってくるのは、快感教の信仰者であるようなのだが、その快感質が明らかに愚劣でそもそも無いxxが自己無視のなんらかのミルグラムをするから厄介で


   
           
 





 

揚棄は普通に若者からすれば老境は古いという否定面を契機とする.つまりこの例に関わらず日常過程で頻繁にあり過ぎる当たり前すぎる事である.それを揚棄などと具象で表現しても構わないが、至って容易な現象をさも特別化するような印象を与えはするな



           





 

CFDに関して昔にimulaを浮かべたのは単にシミュレーションの言葉からだったのかな.クヌーセンとオイラーか意地を張るほどに先人が既に業績を上げていたという些か無知の間抜けさ加減の時を思い出す.


   
           
 





 

そう思うと現実のそれぞれの一応の領域というものには既に誰か着手していて、何か新機軸が難しく現実活動からモデルを引き出すのは困難だなとあれこれ想定しても既になので、どうもモデルが無いかなと思っている



           
 





 

暫く前に拘禁症だ否そうではないの騒いだ事例があったけれど、縦構造においては拘禁関係なくガンザー症候群に直面していると思う.閉所恐怖症はよりかな、鬱病はなんとなく関与しているのではとも.人々の色々な対処方法はガンザー回避の側面があるのではと



           





 

ポテンシャルの切断があれば付随は当然減少することになるけれど、この切断のイメージはけばけばしさが纏い付く.半順序があるのはいいけれど、対称がどこから出てきたのか把握していないけれど、対称ではどうかなはある.縮退も厄介な取りつく島がないそこにあるという有性で鬱陶しさがありそう



           





 

理不尽な逸脱無理解は単なる狂気か…叙事的存在が承認要求に苛立ちて、発語するでたらめ突発はクレイジーと相場を決めていて、その拘束発言は猿が得意なものとしているダサさを持ってしていた昔を長引いた時間がもうどうでもいいくらいになっているのに、強として相変わらずそんなxx&xyが登場してくる



           





 

ワンパターンのスピーディはソリトンになるがソリトンでさえその一定リズムにはうんざりする事になる.消極的自由がソリトンに直面すると忙してしょうがなく手を拱く形を取ってしまうな.強靭の一定離散パターンもソリトンかな.これが多変数テータで周期を持つと言えばソリトンは周期でもあった.


   
           
 





 

波動が波が粒子になる光子線ではないのかこの超離散は



           
 





 

あの夏の日の河原でゼロが回転速度を増して行きまさに回転が見えずの静止状況は眠っている私は光速度で動いているに似かよせて



           





 

ソリトンに透過係数と反射係数があって反射係数がゼロの時とか何だ.それが次式でいくつか他の式と似ているとなると、種の特性の既約の次を反射的に思い出すな.ここにもシューアか…KdVはともかくKPの感覚は気待ち悪い.(∞,∞/)かなるほどなんとなく得意そうなハーフ感---蒸し暑いxxの頑固な一定が


   
           
 





 

他者達に誤解を齎して不快な思いを名状し難くする愚劣感を齎しているのに、フエンかエンフ-父猿猿父・類人猿や猿人原人も父権者を行なっていた時間までロンブローゾは戻る?-や単子フェルミxxの単細胞的無理解等のそそっかしさか認識レベルの低さか理不尽に無関心の暴力さか困った存在達の記憶が促して



           
 





 

あの頃モナドエンティティの要素視点で行き詰まり、哲学を止めて漫画でも読むかと冗談自虐したある街の甲高い女主人のいるスナックやミストレスのいる喫茶店の頃から今、ネオエレメンタリズムなる言葉を浮かべて…



           





 

元の木阿弥になりそうだ、というか元が極限的なんだな



           





 

常識では→純粋法学視点では.陰陽の場合なだらかな境界がカルマの世界で陽が天国で陰が地獄とすると結構当てはまるかも.何しろ陰的存在はタナトス的に見える経験あり、またそのタナトスを押し売りされた形で.この逆化はなんなんだと理解し難くある.幸福な王子の話のようでもあり、そんなつもりは無いが



           
 





 

神話には宗教には大体天国と黄泉の国があるな.軽罪が煉獄となる中間域とするとカルマとは別か.とにかく八大地獄はハッタリの脅しだと思うけれど…もしあるとすれば常識的には万人の英雄は実際には大地獄にその死後いるだろうと想定出来る.となるとその後の歴史から例えばマルクスはどこにいるか?


   
           
 





 

無自覚とは無意識で生きる自然性または意識しているけれどもその自然のままという動物本能的か.話しても間主観性成立が一生できないという否定弁証法平行性を見るけれど.そこに射影が交差を仮想するタナトス的に反交換が押し売りをするが、タナトス単体では無理だと同時に自業自得の運命が待っている



                 





 

惨めにしたり恥をかかせたりピエロにしたがるxxとは一体?、これらは全て嫌いなのでこんなxx達を好む事はあり得ない.実質を暴露するのは去勢なのでそれも好まないが、その傾向は何なのかな.同じになりたいか忘れさせないとか、意図がそうでない存在が多くそうしてくる、意図的存在もそうしてくるが


   
           
 





 

どちらもやはり好めなくなる.実質を暴露したがる存在の実質とは何か?、普通には暴露するような実質を持っていないのではないかと考えると、価値がない性的人間・動物的非人間的だと普通に考えてしまう.アフィン的としても中間アフィンは射影原点傾向で、原点リフトはあるけれど.



           
 





 

遺伝子を脇に置いておいては?、女性差別といっても遺伝子がxxとxyでどだいが異なっている違いを棚上げした形を理解できかねる.女性差別という言葉からはxxとxyの違いも差別になるのだが…xxとxyは区別ではないのか?.xxだけが遠い将来に残るや疾病に対するxxの忍耐優位性は述べても良ければ遠近差別感



           





 

そんな中で、他者化してくるのはきついな.まあ誤解無理解のてんやわんやのでたらめカルマ存在になるが.全く猿的父親なのか他者化してくる存在もまたデタラメ父権者になるが.エンフかフエンかいな…権力の横暴的なxx&xyの叙情欠如も嫌いなもので、これは特に一生どうしようもない存在にしか見えない



           





 

ロンブローゾの退行論においては一理あるとは経験上権力志向者の例において見ているのだけれど.有意義でない過去への引き戻しをこの権力志向性者から受けそれも感性的に嫌いで妥協-自己卑下的なを強いる事がよくわかっている無知者に見えたフェルミ単子的存在からを特に-例として成立させるけれど


   
           
 





 

ラッツァラートに対しては考えを過渡期とすると適宜時間的だけれど、ミネルバのフクロウの飛び立ち時間と見る個体論者がいて、その自己疎外卑下の不快な間に他者がそれと知らぬ間にある程度思考と機械-いい書物だ-を実践している節がある.これは思い通りだけれど、俗気なくそれでいいかなしかし少しは



           





 

散乱でお手上げの上に等質偏移が続くとちょっと忌避したくなる本能が作動する.しかし不規則で位置が変わってしまう時、それがどうにかなるかなのである.等質はまあワンパターン的に繋がる予測があり単なるつまらぬ束縛不自由感だけなんだが.-∞からの流れの対称は+∞で、一点化は回避的の形として…



           





 

メラニン色素が日で抜ける物理現象は医学的にありえないらしいけれど、現実にはあったのではないか?.ポテンシャルエネルギーを日でその気になれば使い果たしてしまえるのが人間と考えた事があるので.医学者はそんな生のありたちを想定できかねるか、したくないか、そう考えるのが納得の自然なのか



           





 

命題は完備している?、そうするとTLPに関して、原子及び原始命題としたのは間違いか論考に対しては意味がないか.要素命題では確かに限界ありで、倫理の問題は外にあるの考え方はなるほど.ともかく対象が元でそれは完備しているのなら確かに要素命題を構成する形式を持てるな


   
           
 





 

セルオートマトンとカオスと哲学探究が結びつくのなら後期の必然性はわかるが、脊髄反射位相的と思える刺激は地域性の理性かもしれないとなんだか迷いが生じてくるNo.xxの未だに白紙である設定モデル者



           
 





 

ジャックとマクドナルドでマクドナルド種とマクドナルドで種になるかどうか.理屈では励起を確かに表現しているとは思うけれど、深淵を散歩できた中学生の世界線認識中なら励起もそこに見える形なんだけれど、直接局所的-共時的対象時とすると色々式を見てもなかなかとは思う.


   
           
 





 

『が必要でが登場』となれば孫の存在となる



           





 

弁証法は対立の止揚揚棄はaufhebenだ、対立を統一する意味と、否定はするが契機として保存に解釈できる通りの意味を独語は持っていて、それで揚棄とするのか.統一意味しか無くプロレタリア独裁が登場するのが不思議だったけれど揚棄側と判明.どちらも子供から見た親の存在に見え、雌雄基準論である



           





 

さすがにネットチェックをしていて幾らか進んだというかサボった時間をラプスな時を埋めようとネサフしていたのだけれども.カーソルではないソーカル事件などは別に知らなかったのだけれど、科学哲学に科学前線を知らないでは済まされないという事もありで…工学的な技術前線も良くは知らないのけれど



           
 





 

Jack多項式が登場していたのか、流石に研究者は前線である.あの頃からよく知っているスピンの例えば上下をC^の状態空間とするは盲点だった.ヴィラソロで取り敢えずは納得的なのはそうすると、全く知らぬJack多項式となるな…C^*C^と氷解的に全く簡単になるという今の心情は年前には予測出来ずと



           
 





 

葬祭ディレクター試験がありそれも回目とは全く知らず.α位相を避けていた事もあり殆ど現実的な事を知らないのだけれど、その分発見の楽しみがあると同時に今更覚えるのも苦痛だがある.設定上は否定してはいなかったのに、どこかで個的思考に拘りて.まあ色々なたしやが余計な干渉を行使したからだな



           





 

普通には中間存在多数がそのリアリズムで現実としか出来得ないのでそうしている形だけれど、超中間存在次元からは中間存在は空間に浮遊しているアフィン物的なのだけれど…その現実力から例えば仏教世界などを卑小化判断しがちである.


   
           
 





 

バブル宇宙論は中間存在を類推としたようなのとランドールの余剰次元は超中間存在の類推かも



           
 





 

不条理の前に摂理がある.運を天に任すは運を摂理に任すという事で、摂理に従う乗るという事になる.摂理は人の上下に人を作らないとは言えないと思う.摂理による災害・摂理の恵みとかと言えるけれど、摂理の仕組みに挑戦しているのは物理学かな.地球脱出速度などは摂理に従っているとなる.



           
 





 

関係の本質は摂理が最もかな?.だがしかしどうにも哲学の知的支配性だけれど、生理物理的存在の思想性は、ちょっと次元の低い知的支配性を持っていて、閉塞感で他者を卑小化する傾向が強いな.


   
           
 





 

マルクスの資本主義の後に社会主義がくるだけれど、現実にソビエトからは資本主義社会なってかとは思えずの
年でマルクスはペテン的ではと思ってそう発言した時な反応が全く関係ない逆で主体阻害で不快なxxを蒸し返し想起すら羽目になったことがしつこく悩ましているのだけれど、


   
           
 





 

あの時の市民が希望に見えるのに暗黒が付随してくるのは、昨日のNHKの歌番組を見た明るさから、この市民の希望の明るさとほぼイメージ位相度が同じである.市民希望と聞くと左的なイメージがあるけれど、右的な市民も多いわけだった.やはりどこかで個人を忘れていたようなその付近の頃、いや秘匿作故か


   
           
 





 

次はほぼメビウスの輪橋がクラインの壷橋か次元多様体橋か、ポストモダンの構造物特に建築物は解体的と思うならばダダ的にはなる弁証法転換的なもしくは反交換交換的即時間的と同時に歴史繰り返し的とも.ドゥルーズは無意識を理知化



           





 

異形配偶子の結合は弁証法の対立的とも似ているな.それで対幻想が基本とは抜け目がないか、またはまさかの『が彷徨いが重要でがちらつく』を標榜したかも.あの時徐に詩的に心情状況を表現した事柄で、その後非常に悩むことになり、頭惑乱に自らした形とになりて.最近では『が必要』を付加したいが



           





 

どしても火焔土器の世界的空間とインターネットを同相と考えたくなる、また考えている



           





 

人間が存在する前にあったのは無機物で唯物論は無機物論的になるが、既に有機物が実在している以上唯物論というのもどうかになる.まあ有機物も物として扱う事は出来るけれど、無機物に感情があるとは思えないが、人は投射する事はある.一般にそれらを一言で言えば時空とはいえ摂理となる


   
           
 





 

記憶では深い思想は正義や道徳を嫌うと述べる人は、むしろ正義感や道徳感が足りないと思える野蛮さ未熟さ卑劣さを持っていたかな.全くその支配欲で自由の邪魔を強要の記憶があって、しつこく主体の障害を行なう形が未だにある



           





 

通時的ペーソス豊かな神聖型xx&xyがいてしつこく不快な災型となる陰険もまた豊かな権力横暴的存在もいる神聖型.神聖型は光り輝く明るい存在が普通なんだけれど…



           





 

恋は水色の印象一番なのは、ある年の大雪の降った後に無謀にも出かけて、橋の下でシュラフ袋のビバークからラッセルで進んで、どう見ても予定通りにいかないと諦めて雪の上に寝転びながら冬の晴れた暖かい陽光を見ていた時の気分なのだけれど…それもあるxxがふさわしいとはその頃全く思いも予期もせず



           





 

まさかのあるxxが新興宗教の信者とは知らず、あるxyに対して年前に取った態度を、このxxから受けた事がある.なんたることか全くそれに遠慮した形となってその宗教に依存していればいいのとその宗教には関係ないのに模倣の形を取られると心外極まりない.それ以前にも同様な態度を取ったxyがいて


   
           
 





 

困ったものである.そもそもそのxyも模倣の乗っ取り的な標榜をして反交換的存在の不快な人物なのだけれど、そいつと誤解の同一視されてはたまらないのだが、そいつも内部にしつこく巣食っているようで、自我の対自感性を見るのに災いとなっている面白くなさである.なぜか人々は嫌な存在と同一視してくる


   
           
 





 

そんなわけで、不快人物達の記憶を一掃したいのだけれどなかなかそれができず、自己的には損失ばかりしているが、他者達は無知の愚かな存在で理解され得ないものだなどと思っていると、例によって逆になってそのような思われる僭主位相を持つので厄介なまた図々しいのと狡猾なのかそんな存在達である



           
 





 

'行き詰まってしまう'まあね、ある書物の'哲学は途方に暮れている形を取る'の文章を思い出した.でもそれは普通にある事なので、なおかつなんとかと頭の内部叩をしていた日々を思い出す.今は他者達による快適ではない不快なアマルガム状態なのでいかんせんその状態に持って行けず、体力の衰えもあるか



           





 

無明長夜の燈炬なり、智眼暮らしと悲しむな-別にこんな道徳心を持っている人は無数存在した存在している.他人の事を考慮しないならばエゴイストかうぬぼれ存在であるように思えない事もない.実際は自分がエゴ的でいちいち暴露するなと思っているかも.何しろ他人が標榜して表現してやり辛くする事多くて



           





 

無自覚はどちらかというとミルグラム的な無責任性を持っているので、
立場上位者という被依存者ならミルグラムから逃れるかもだけれど、そうでないと無責任者の自由対象になる可能性がある.無自覚者達に遭遇すると無駄に疲弊する事が多すぎる徒労や無意味の成立する経験がある



           





 

親鸞で何か考えついて忘れたいのを思い出した.例の悪人をやだけれど、少し自覚した存在はともかく置いておいて、無自覚の悪人が阿弥陀を必要とするは、トリアージの善人を緑とするなら、悪人は赤か黄である形に似ていると.歎異抄はトリアージ的かなと



           





 

ある考えを持っていた人物がいて、なんとなくムーンショット的な感覚から体力的に耐えられずを想定して秘匿してしまった人物を知っている.その結果その人物は内容を殆ど記憶していないけれどかなり説得力ある未完の事実だった事も知っている.その続きをしようとしている事も、何故なら自分の事なので



           
 





 

良い寛ぎなのか寛ぎは良いのか、意味曖昧存在に他者が余計な事を昔述べた事に対する悩みがひとつの視点で除去の形となる.全く無駄な事を他者は助言するもので労力の無駄をさせるものだ.おかしな低レベルプライド保有者が過小評価をして齎す言明はまず無駄でしかないのに有効だと思い込んでいる始末悪



           





 

なんだか主体を発揮しようとすると必ずといっていいほどに邪魔が入るのは何故なのかもよく分からん.他者達を調子づかせても、大した他者達ではないので単に障害物が発生するだけなのだけれど



           
 





 

そうそう地獄があるのは嫌だな、なければそれに越したことはないと考えた頃の所でもある.無神論的には地獄概念は圧力で、建設継続持続意識がそれを齎したと思う.



           
 





 

シューベルトのセレナーデは全く陰険なセレナーデでギクッというか何だこの不幸感はといった気分になる.タナトス的セレナーデなるものがあるのかと思わせるものだ.それでひんやりした空気が流れている家庭を思い出した、この冷たい感触はなんなんだという家庭でタナトス的満杯の雰囲気でどうにも如何



           





 

大江健三郎はおぞましく中身が趣味では無いな.洪水は我が魂に及びもドストエフスキー的な新生を普通に惹起させたが、あらすじではカルト的物語だった.新生を予感させる終わりはあるが、擬え的でそのようにしか表現し得ないか、なんとも白痴的な幼稚感の分裂意識とは壮大な類的物語ではなかった.



           
 





 

志貴皇子の'石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出ずる-'の新鮮な清々しさはいいね.くらい前の作である.本歌取りは縄文の伝統ではないかと浮かぶ



           





 

そうそう怒りの葡萄を買って読み始めて難しく途中でやめて他人の顔も難しいだろうと放棄したのだったな.楽しい日々の一コマである.デミアンを見ているのがいて印象ではそう見えずだけれど難しいのを読むなと嫉妬的な記憶もある.実際後に知ったデミアンの覚えていない内容は難しかった…


   
           
 





 

それにしても個人的に思った他者への未遂意図的思考志向を遭遇した他人がしてくるとは⁇、その意図的な多者達では無いのに主体を歪める侮辱をする他人達だ.なぜそうなるのかまた分からんのであるが、ただ一つわかるのは認識違いの認知能力の低い違いのわからない愚かな存在達であることだけである



           





 

そもそも譜面も苦手で読めず、全く何でもない才能者も多いけれど読めず.まあ沈黙には音自体は邪魔で障害にはなるが



           





 

世の中には居直り的存在もいるな.そう思うその存在に思考絡みの時間から冗談を設定することになり冗談はナンセンス無効なんだけれど、そのユダ的xx?にその存在について考えている事をその存在と誤解されたことがある.とにかくそのxxは残酷な理不尽を取った存在で、要らぬ残酷さなど自己に向ければと



           
 





 

昔から直感でxx一般はキリストを裏切るユダのようなものと思っていて、男のプライドを踏み躙る存在はユダ的と思えている.である作家の駆け込み訴えという作品を好む存在はまず不条理理不尽を物ともせず、プライドには邪魔妨害作用を発揮する事ほぼ必然的と認定できる.まあ大体開き直り的な存在だな


   
           
 





 

他者標榜系は依存性顕著である存在と認識、そんな存在の意味なき自己投射なんぞはまず要らぬのに強要したりする犠牲化は偽りの自己で虚言者になるが、虚言には無責任が付きまとい気楽な気分を齎す作用がある.そんな存在が多いから冗談の意味なきがリアルになつてしまう?



           





 

事実を歪める偽善的犬儒的猜疑心男は単純にデタラメな存在という事でいいのかな.全く色んな突如の非難を受けて何が何だかさっぱり分からず 反駁しようのない事が多いけれど、多分に誰かと誤解無理解想定の事なんだろう若しくは無知の自己投射か.そんな非難すべき多くの存在への反駁妨害になる事多く…



           





 

母性がさほど無くまた体格の良いxxにレディファーストは合理的ではないが、美的にも馬鹿馬鹿しさありピエロを要求する性格の悪い或いはそれ自体滑稽なxxもいるかな



           
 





 

月から心理雰囲気が変わるのが見えていて、実際そうなり少なくとも来年初期まではこのままの心理状態が続くとなっているけれど、理由は誰かxxかなと想定していたら、自覚におけるものだった.基底-ただこの言葉による事だったけれど



           





 

天地開闢の陰陽まだなき淮南子の影響があるとかの古事記・日本書紀に日本神話が載っているのか、中学校の時に古事記をちらっと見て手に負えないと思い内容をずっと知らず.なぜか八島神話を思い出し内容はどんなものかと、相変わらず難しい文字列が列をなして…別天津神の存在を知る


   
           
 





 

小学生の時の岩戸の話のアマテラスはイザナミ・イザナギの子という形だったか.ある書店で浮かべた蒸気上る海原に影的な面積が点々と的にと関連をチェックしてみてで-島産みの話は東南アジア域やポリネシアまでか洪水説話に似ているとあるな…



           
 





 

フランツ・カフカの名を初めて知った時、把握できるはずと思っていたのに結論が出なかった自己直感力としてカフカの名前はよく覚えている.その後冗談をあるxx故にする羽目になったりしたけれど、とにかくカフカの閉鎖感など気にくわない作風でしかない.


   
           
 





 

今では境界作家だとわかっているけれど、境界の揺れる『煮え切らない様』には苛立つもので不快ではある中途半端の束縛抑圧の不自由さを齎す内容でしかないな



           
 





 

源実朝は中学生の時に二階で緊張の優雅を浮かべたのだけれど、今短歌の春夏秋冬や他を眺めてもくだらなくしか思えず、あの時のエレガンス緊張は政治的寄与があり過ぎたようだ



           





 

ハムレットのto beはなんな事か不快とマクベスはある所でと真夏の夜の夢はシェイクスピアとは知らずに中学生の時には浮かべたけれど、その後にロミオとジュリエットも知ったが.そうそう小学生の時にベニスの商人で実際に血が出るのかどうか試してとか考えたけれど、どうも穴はなかった記憶がある.



           
 





 

ライ麦畑でつかまえてはいつまでも子供のままの未成年大人の小説だろう.子供の時から童話の記憶がない存在はどうだろう…例えばディズニーランドなどに行こうなどと思わないタイプの例とか.あと未成年大人と言えばマズローの第の承認要求の低次元存在は危険であるも未成年大人に見えるのだけれど


   
           
 





 

再三ツイートでロボット的の文言をツイートするけれど、先天的に変えようがないから放っておくかと思う.超人は好みなので神人的存在には興味あるな.「年以後」にあるらしいある文章でまたまた大失敗をした事に気がついた.


   
           
 





 

ある春の日に悲しみではないはずなのに悲しみと見させたあるxxが向こうから歩いてきた道の記憶と秘匿と悩んだ時間と辻褄の合わない時間と意図的に不自然をした事等が失敗の与件である



           
 





 

たかだか基底によって外的心理情態は落ち着いたが、内的心理にはまだ摩擦的束縛が巣食っていて苛立つ.それはともかく基底の文言によるのならば、他の対象文も基本チェックか先決となる.



           





 

種の特性既約を内含している方程式は存在しても十分いい事になるが、敢えて特殊特性と考えたので未定にしていた.YXZでもλμνでもXZとμνに対してYとλが未知設定でX&μすら考える事はせずありうる事だったのに…やや逆数学的位相だったか、局所ならぬ部分化とする存在論的として.しかしアノマリーがある…



           





 

単に基底の文字考慮が抜けていた.どうも問題文をよく読まない傾向があり、なんでも無い事に全く気がつかず既にわかりきっている事に頭麻痺させながらイライラしつつ何故こうなるのかと考える無駄な時間が多過ぎる.



           
 





 

ある値のk倍のkがインスタントン数とな、そこにビラソロが出てきている事を知る.ヴィラソロを巻き込むならある程度は納得の線がある.ミレニアムの質量ギャップに軽く関心を持っていたけれど、内容に関しては理解がたたら踏み状態で…楕円曲線にも層として登場はYMと異なるけれど益々頭は混乱になるな


   
           
 





 

やはり場に理性がついていけないで、冗談を醸したそこに漬け込んだ存在は質量ギャップやBDに対処する権利を獲得的なはずで頑張って貰いたいものであると今頃思っても遅きに失しているが、環界への寄与をセットしたいね.また追随者が相変わらず出て来ている感覚もありやはり負荷を与えないとである



           





 

管理志向存在が危険なのは、管理が行き届かなくなると無謀な処理、理不尽を必須的にしてくるケースで、本来はその当人の管理能力欠如なのに、自己をそのように思わない無知無自覚な点がまず困るものである.公務員とかは親鸞の悪人より善人の方がいいな、システムに他力するとアイヒマン問題が登場する



           





 

もんじゅ取り出し開始が今年から始まるとな、Fといい冗談でなく大変な時代ではある.ナトリウムと言えば中学生の時に潮解はなんかいいなと思った記憶がある.その反対の風解から例の坂道を下りながらの『飽和』に関しては、直感でまず空気中の水蒸気量からかな?.



           





 

そういえばトリチェリーなんてのもあったな、で水銀は嫌だと思ったものだった.小学生の時の錬金術を否定しきれないなどはすっかり忘れていた…化学はやたらな記号を見ると嫌になるがベンゼン環は印象的となれば安息香酸が出てくるか.馬尿酸は知らなかったけれど、腸内細菌叢とキナ酸は健康視点で関心が



           





 

ヒッグスの切断ではないかを浮かべて、ヒッグス切断はあるか、質量獲得は…そうかこの辺の捻れもしくは局所的思考ではとか



           





 

どうでもいいような気もする切断.その内にかな…ただ個人的なある記憶に結びつくかなと直感した為にちょっと気にする事にした対象.価値がその内に出る切断かもしれないが…時間ラプスに関して確実な今日の時間性と思った故に.そもそもラプス自体が意味なく、遠慮すべきでも無い存在に無意味に拘りて



           
 





 

ファインマンは経路に心理を与えなかったようである点が冗談的な経路となったと想定できる.



           
 





 

どうやらあの時に次元は冗談だろう余りにも仮想過ぎると思ったのが失敗だったようである.ひもを無視はしていないのに…最近-年前-Nは遂にノーベル賞を獲得した…ランドールの余剰次元は無限を許容する?、ホール来るなだがポテンシャル の切断はわからない.


   
           
 





 

ファデエフ=ポポフのゴーストは心理実在とすると、記憶に残る処理困難な不快ほぼ全てに適用出来そうである.ファインマンは面白いけれど専門家では無いので遠慮してただ確実存在だけは納得の、これもまた散乱の困難さのあの頃故にだけれど.


   
           
 





 

推定するに太宰治という作家はその生活過程からはタナトス型と判断できる.この作家を好む存在はその傾向がある事になるが、そのような事は関係なくタナトス型のxxもまた存在しているものである.そのようなxx達は遭遇記憶で無謀発言や無責任な暴言を発しがちで、疲れるのでそれを自己に向ければとか思う



           
 





 

アナルコサンドとシモーヌ・ヴェイユを知った頃が同時で、シモーヌ・ヴィーユだったけれど.気にはなるけれど取り留めなく難しい判断を要求してくるシモーヌで、どうしたものかとグズグズしている間に時の流れが過ぎて、ある人物がシモーヌ論と講演などをしているのを知り、先走り感を感じたな.



           





 

目的保留をxx&xy達に暴露もしくは利用されて先走りとかのとにかく白けてやる気の妨げが多過ぎる記憶がある.またしつこく記憶に今も絡んで邪魔でしょうがない.なぜ意図目的の妨害をするのかわからないが、誹謗的な競争意識なのかな.こちらはそんなxx&xyなどどうでもいい存在と思うからその反動かな



           





 

シモーヌ関連から、運を天に任せるの言葉を思い出し、関係はこれだなと思う.何回チャレンジしたアイデアを出してもどうもしっくりいかないので、また何か考えてしまうかも知れないけれど.孤独になって自問しても矛盾不条理を解決したとは思えず、それでもなおな場合には放擲した他に依存を取ると判断し


   
           
 





 

怪物に見えた背後の黒い部位は、例によって明暗の陰陽性的か自己のそんな意識を当てはめさせた標榜を無理解で自己のものとするタイプであるはずのその後の多くある文言から、似ているところがあるとも言えるけれど、全くそんな事はあり得ないと思っていたので困る主体な発揮の妨害になって



           





 

エクソシストか、悪女の深情けを知らずに悪魔的にしつこいxxの自己無知者がいて、一般に悪魔ではないかではなく悪女の深情けだったや、悪魔的位相に関わり過ぎた感もある上に、相変わらず出現する束縛的者達がいて…およそそんな展開は陳腐で当たり前すぎるワンパターンの飽き飽きものなんだけれど


   
           
 





 

とにかく時代を越えたがるのが思想家哲学者の常なんだけれど、時代に即しているように思えるのはそのリアル志向故だろうけれど、見た目の剛体と気持ち悪さを数年前にそんな写真映像を見て思うことになった感性があって.あの頃は幻想で見て自己疎外強要的もあり、それに合わせて投射的な無駄を冗談にで



           
 





 

数年前にある人物が天皇制無化などの文言を使っている事を知り、そんな考えを考えたこともなく、それはまず過ぎる捩れが生じるダブバ的なものだけれど、英国労働党に王制無化思考があると知り、その人物は創案ではなく誰か何処かからの引用利用の天皇制無化に違いないとは思え過ぎるのでそうしておく



           





 

やはりストロミンガーのアノマリーが良さそうなガロアの隙間と場の複雑さ



           





 

標榜でタフなxxがいてその生理ポテンシャル を使わずに表層に見えた存在はバルク性の不動の域を持っている形と、ワールス力からあのインクの染みの広がり具合を気にした小学生の時からの物理吸着から転用して判断してそうであると説明できる.単に荷物的生理の薄汚き自己を無視するバルクの裏目より



           





 

悩まないように思える.それらの場的な複雑さを想像してしまった場合には生理有限で大変である.理性がそれに追いつかないとして、情けない・女みたいなものだと自省冗談を構築すると、たかだか単細胞が本気に取るから始末に悪い事態が成立する.冗談をまともに取るような存在は元が愚劣であるとしかなく


   
           
 





 

種の既約特性方程式を持っている方程式があるものとしてのKなのでそれでイライラするわけなんだな.有限確定前提だったかはそれもありで、ここで中間存在が傲慢にしかしuxuz=ΣFuyの=が分からず、この場合種想定はYになっているが、変数無限数許容はとりあえず別にして-こっちのほうが関心を引くか…


   
           
 





 

ところがそこにその辺の思考にオブジェなどくだらないとしているある作家を入れてしまいそれもまた不都合な自家撞着的位相の構築でまた悩むと、なんらかの嫌いな他者が思考不都合を齎したか、何故か意図に反するほどにその存在にコンタクト取りすぎの結果自己投射性を当てはめた感があるとすれば良いか


   
           
 





 

縄文の遺伝子がアイヌと琉球人に多いのに火焔土器とか聞かないのはミトコンドリアが関与しているのではないかと思いついて見ると、本州に少ないMaが北海道と沖縄に多いとある、その理由は謎らしいけれどその辺に関係ありそうだ.琉球人が中国朝鮮に無いD型を持っている事は日本人である証拠ではあるが



           





 

昔のある冬の時期に自負心がよろめいてくだらない古い思考の人々に対して持ち上げて古典的存在とした古典とする時間と空間の表現をしたことがあり、結果の反動は自己卑下的な悩みを齎したのだけれど、昨日にオンオンシェルの言葉を知り、何も古典持ち上げなんぞをする事もなかったなとα位相を知らずで



           
 





 

叙事的存在もまた明晰思考であり、素直にA期的立場となって、感情に関しては暴言反応か間に合わない故の詭弁を用いる事になる.陰険な叙事的存在がなんらかの企画を思考するとまず陰謀になると文字通りの馬鹿さ加減の侵害者に取り憑かれてつまらなくてしようがない底の浅さ白けた感情の陰謀的な誤魔化し



           
 





 

社会的ケースに対してそれぞれはあるけれど、積極的時間は消極的時間には苦痛になる.逆もあるか、しかし細切れ時間をいくら重ねても生理有効時間に無限数には届かない事は明瞭なので、疲れるタイプと言えばそうである短絡タイプ



           





 

ギンツブルグの写真の第印象は埴谷雄高に似ているなでドキッと?した.超伝導の相転移は既にのランダウだったのか.有効場を消極的な感じで伸ばすとなの逸らしを入れて…対称性の破れはポテンシャル の切断的かなと…しかしどうも不思議な気分だがインスタントンとホールがさっぱりわからない浮揚的…



           





 

中途半端じゃ無いんかと言ったxxがいて非常になぜかシコリになるという事は癌的にしつこい存在でとあるか.しかし叙事的に底が浅くこのような存在の存在理由の底有限性がわからぬのだが、単純にバカな存在と言えるのかな?.でダブルバインドはその志向性が生かさず殺さずになり中間存在の自然性と気づき


   
           
 





 

誠に始末に悪い数多き存在数になる.ダブバが自然に中間存在とは気づかずの発想の転換だったけれと、非常識や理不尽を行使してくる存在は共時は普通に通時も中間存在と認定しなければならなくなる無意識のダブバ能力を持っている事となる.その自然の自覚は他者を必要とする他力性ならば悪人的な事に



           
 





 

最近は解説のつもりのストリップショーにも飽きてきて省略なんぞをして文章を不分明にしようかなとそれをしつつあるな.別に底浅のサンマやアジの開きの平板にする事もない次元存在なので、立体は極普通なんだけれど-なんだか無意識に秘匿思考をしている事に気がついた事もある、それは思い通りだが…



           





 

なんだか当の自我成り代わり的なりすまし的存在は自己無自覚的な悪人なので他者の自我様相であることにも気がつかないという、まさに他人の思考を自分が考えたものと思い込む存在者達となる.その中でも超自我なのに他者存在と誤認する蒸し返し存在の馬鹿さ加減には名状しがたい不快の蒸し返しでもある



           
 





 

取り敢えず自我は傍に置いたつもりで、超自我でxx&xyに接して見ると、いつの間にかそのどこかに置いた自我は当人のじがなのであるが、そのxw&xyが自我になっているという経験があり、それを非常に不快に思っている.傍に置いただけで他人に与えるなどと全く論外心外なので、自同律のダブバ不快は当然で


   
           
 





 

昔残った形として市民が希望であるとおもむろに浮かべた事がある遠く山並みを見ながら、まあもっと平野しかない存在が遠い山並みほどではないと思ったようだったけれど、そのときに暗黒部位もまた付随させて浮かべ、これは太極陰陽形式の明暗的なのだけれど、何故暗黒部が付随するのか理由が不明だった



           





 

無依存を考えた.社会的には無依存は考えられないけれど、かって無依存思考・思想は無かったようなで思い出すのは、色即是空空即是色の空すら無い体系の事で、空すら無いとすると太虚すら無いと言えるのかな?.空すら無ければ自由ではあると思うけれどその為に起承転滅サイクルや億年後に現れるとか


   
           
 





 

降鎖列が無限に続いても結局は無限にそれも行き着くので無限大+無限大は無限大と同じ理屈が成立する.無限小に関しても無限小+無限小は無限小の理屈である.無限小を設定したのかなある数学者が無限設定をその宇宙としたけれど、そのように考えるのは至って常識でその個人の宇宙と名がつくものではない.



           

いなっち


@inamura_politic
 

ing to @YahooNewTopic @y_namiuKe
どうせなら都立東京大学の方がわかりやすいかと



           





 

ブラックホールとQCDのアナロジーは?



           





 

位置エネルギーの落差、水は高いところから低い所へ流れるのは川流れ川流れといっても確かなのである.高位置エネルギーが低位置エネルギーとの間に平衡関係位相・志向が生じると不公平感が高位置には生じるので、その為の抵抗行為を生じるケースはある現実.低位置は高位置を低下させようとまた志向する



           





 

どうも相転移的かなの飛躍に思える式の流れが理解できない.やはり新機軸の為にはかっての過去の事象全てをマスターするのはセオリーだな.『未分化』の状態から発露する思考内容は新機軸であるはずと設定はしているが、歴史の圧力は強いものがある.


   
           
 





 

川流れ川流れを続けるつもりなくつい続けて、川流れの後に行く川の流れは絶えずしてを繋げようとした展開が出来ずだった先程、その後には月日は百代の過客にしてと川の水と時の存在者達を同相認識に繋がるあらぬ趣旨方向がジョイスを思い出させてそこで止めての意識解説なんぞを後付け的にしてみる



           





 

歴史の圧力・ペレルマンは自覚したようでそうすると偉いかとになるが、アインシュタインは自覚したかどうかは今の所の知見では疑問だな.まあ賢明な人々なのだからその辺は了解済みの例えばフィルーズ賞獲得者達とも思えるけれど、その反面そんな事は気にせずに研究に没頭して貰いたいの面もあるな



           





 

デカルトの渦動説は知らなかったけれど、ダークマター・エネルギーをどう捉えるかの点はある.まさかのエーテルはないだろうとは思っていた時には、ダークマターは知らなかったな



           





 

台風一過相転移的に晴れた.あの池のそばで黒い始祖鳥や方解石の劈開を不思議に思った頃の小学生、今ではダイヤモンドも劈開的現象を有していると漫画から、また始祖鳥は黒色ではなさそうなんだなと知識が.相転移のメカニズムはヘリウム凝縮にあるとはどこか思考分離感があるけれど、相転移自体は分離的



           





 

冗談をまともに取る存在者の根拠はその根拠自体が冗談であるとすると理屈が通る気がする.しかし意図に反して現実社会もそうだあるので、現実も冗談になってしまう同様思考が成立するので少し考慮が必要と思うけれど、経験上明らかな事多くて…



           





 

指示的存在が叙事的存在に見たがると対象は無機的ロボット的に映るだろう.最もそのように見ている存在自体がロボット無機的なのだが、自身の無機的ロボット的認知能力は感知できないようである.精密さはあるけれど往々にして思考回路は単純なので複雑さが増すとその抵抗感から単純判断化してしまうと


   
           
 





 

まあだいたいそのような反応は暴力や暴言反応現象的となるかな.心理的には理不尽や非常識や無責任的所為になるな



           
 





 

フェルミオン人間が同じではと述べた時は交換反交換ではなく、電子と陽電子の-+を前提にしていた感がある.別に陽電子ではないのだが.全く無茶苦茶な無理強いをした傲慢支配欲がいたものだ.その単純さ?のしつこさにより思考レベルが下がっているシステム依存者がいたな.システム依存といえばあるxxもだ



           





 

TLPの原子命題はプランク命題ならと思いついてヴィトゲンシユタインにまた騒がないとの時間になってしまう…ペンローズのバーコレーションも



           





 

世界に希薄の無責任は未来責任に依存する未責任とでもいえるかな


   
           
 





 

逆立する自己・対・共同幻想の鼎は個体が行うのでグレードは極当たり前にあるだろう.自己と共同が例えば相転移的な切り替えばかり行うなどは生理的に不可能であるから.教条的に共同に集中して家庭を顧みない状況はよくある話だが



           





 

強靭離散の時間一定はヘビサイドを思い出し、ワンパターンもそうで、ランプ関数の導関数はヘビサイドに等しいには参る.どうりでしつこいワンパターンが存在するわけだ.しかしふと考えるとこの図式はランプ発展的時間に秩序が付随する事の関係証左にもなると直感する…ヘビサイドxx質にも理性悟性差が…



           





 

ヘーゲルの理性と悟性の違いは存在する.その実例例の記憶が悩ましている経験がある.平等とは生きている間は全ての人間は生きている事に関して平等であるが、時間差はまず異なり、時間が同じでも生理物理差異はあるので、大雑把な平等で普通に見た目の違いなど無いものとする一個の無機存在対象では不快


   
           
 





 

Kにポテンシャルが出てきているとなると、P切断H減少縮小はどうなのかなとはなるが、図は描けないがこれもなんでもない事に気がつかないだけになりそうな、ニュアンスはそうではなさそうだけれど、しかしKのcohaからは…



           





 

なんの事はないY/W*既約方程式はX*既約方程式とほぼ同じでXの位置をフラットで考えていて全く頭動かずだけだった.さてとなると週の特性方程式を待つなんらかの方程式をポテンシャルとした形だからこの切断は?.あの頃なんだかごく自然に考え思いついた種の既約方程式考を類似形として使って見る…



           





 

脊髄反射に暴力性を覚えるので要注意感はある.ロボット的な発言は脊髄反射化か訓練無意識を反射的習慣にしたのか分からないけれど、ある煩く煩わしく思考の妨害事象があってやや不味い.数多き見た目分からない存在はどうやら脊髄反射得意と判断して良さそうの見解に至る煩き反応から描いて保留とする



           





 

おかげで黄疸の英語jaundiceを覚えることになった確かに黄色人種を短絡的に見ると黄疸的認識をしそうだ.ある時の入院中にある黄疸患者と同部屋で苦痛を覚えた事がトラウマになに、その年後にその苦痛を咄嗟に思い出す事態に遭遇する事になるとは、しかもそれが結構今に至りて寄与しているという心理



           





 

暗号ではないけれど意図的にそのように秘匿にしたものがあり、どうも所詮無くなったものは無かったものと同じの世間認識のようで失敗したかなのまさに無知によるそうする要因ともなったあるxxに描いた春の日の情景があるな.まあ他者xx&xyの他害的面もあるかなの頭混乱の日々よ



           
 





 

フリーライダーがシミユラークラーとして自我位相を不自然に変更したがるのは、既にそのフリーライダーの自我は駄目になっているはずの悪あがきかごまかしか背伸びがデタラメか執念などか若しくは全くの自己無知であるかである.



           





 

駆け込み訴えという作品は憎悪の作品に見えてきてならば不毛であることになるので、なぜこの作品が評価されるのかわからない.リアリズム教条からの作品だと思うけれど、キリストにどうしても接近してもなれないユダの絶望感物語で引き摺り下ろしの多数性故かな.ユダはキリストになれない事が厳然なら


   
           
 





 

ユダのエゴは屈辱故にヤケクソになるところまでで、ユダが崖からとびおりたとか首吊りをしたとかまで描かない自己都合のいいところまでの中途半端さは無いか?.だからエゴイストに見える作者はそれのカバーでジャンキーや精神病院入院などはポーズの可能性の要素はあると同時に駄目だからの言いわけも



           
 





 

思考を商売にしている人がユダ的なのはどうかなとは思う.ユダは生理物理体としての生き方を尊重するはずで、まあ作家が作品を描くのには頭脳労働としてかなりきついものがあるのも確かではあるが.


   
           
 





 

まあある作家の何をやっても-省略を含んだやや無謀な発言かな-駄目だから作家になったんだに対して、ある存在が駄目だから作家になれるに対して何もやってはいないでは無いかは経験主義の教条感あるかも



           
 





 

どうにもシユーアやマシュケから繋がらない.クィーバーからディンキンはなんとかだけれど、つまりネットワーク結合ができない成立しないのは理解できていない事である.それにしてラムダ....なら旗でフーリエだけれど、とにかく不思議でもないかネット結合出来ず、あの頃の特性方程式か浮かんできて



           





 

神の口から出る言葉によって生きる生き方はあるのでは無いか、ただしカサノヴァ的存在には理解は困難だろうけれど.映画にはよくあるな、欲望は理性に昇華できると昔に考えていたけれどもう忘れた・忘れるわけには行かないけれど…その辺の事は殆ど忘れて葛飾北斎のように生きる必要もないのだけれど


   
           
 





 

CYのサイズは^(-)cmでこれが次元とな.あの頃そんなサイズとは全く思わずただ見えないほどに小さいだけとたかだか思っていた.そんなに小さいとはこれは少し頭動きそうな感じがある.プランク定数やひもとほぼ同じなのか.理論宇宙論もかなり確信的な核心的なF小説類に見えない事も無い



           





 

エキビロティック宇宙論-ヴェネツィアーノのそれは構想だけなら楽なものだけれどもである.いつ頃考え出したのかなヴェネツィアーノは少なくとも弦論より後にはなるが、



           





 

単なる自己嫌悪で他者になりたがるのかも、その場合他者にその自己嫌悪の形容しがたい不味いものを押し付ける可能性が高いのでそんなもの誰でも要らぬすぎるあ押し付け可能性だろうに、それを考えることができないまた自己嫌悪者もいるというわけで



           
 





 

あの時考えた特性方程式個を含んだ方程式fはひとつと思っていたけれど個ある形をとる事も可能だな、内含に端的にこだわって頭動かず…?である.ひとつの方程式拘りからストロミンガーなんだけれど…しかしabadの種類のa*Xaがfになる理屈はどこか何か考え違いをしている為に不明なのかな


   
           
 





 

アンペールから漸近的対称空間の無限遠境界の放物や双極とかで、紀伊国屋での無限遠境界は分からず複雑でもあると思っているので、内面の声の明確にしろの無茶な声は不快はやはりまだ正解になるかな.あの陳腐陰険なフェルミ男の邪魔な割り込み妨害の権力的な強要性の傲慢エゴ的な俗物の明晰化暴力か



           
 





 

悪女の深情けは実際には情けなど無くスッポンの雌のような意味合いでは?.大体悪女は不細工的存在イメージでストーカー的なしつこさを待つ美的センスない存在であるかな.A期的なG期に足りない権力志向存在もその支配欲によりしつこい束縛をしたがるが、陶冶でA→Gを自己に課す事が正解なはずである



           





 

事大主義があるので被事大位相者が傲慢を行うのか事大の為に被事大を行うのか.例えばある番組からT大生' T大のブランドか個人なのか分からない'に対して T大故に傲慢なのかそれとも個人の性格かのケースで、まあそれぞれ両方を兼ねてだろうな.



           





 

阿弥陀ではないとして、神は悪人を救う?.善人も神に依存すると往生する?



           





 

自然数は減算に関して閉じていない-の自明の理にはハッとした.オイラー数に奇数が無いと来ると妙味だけれど+-交互では整数になる…ある視点からは半順序要素として見れるようにある対象に落とし込んで見てしまう.



           





 

なるほど次元と次元の関係が非可換ならば存在可能性は次元+次元とかであり思考可能性はある.との抜本的と思える差異の肯定はあの頃当然認定はしていたけれど、断絶感でお手上げだった.hall代数とか最近見かけた手段に可能性があるらしい


   
           
 





 

あの頃と今頃ではラプスの時間差があり、今頃そうでは何ら意味が現実時間に沿っているだけで無い形を持つ、これもあるxxに期待外れの無駄をした結果だけれどそれがナンセンスである事にも漸く最近気がついて無駄をしたものだと思っていて出来るだけ埋めようと意図だけれど、覆水は返らないからな…



           
 





 

再帰あの時の再帰でイライラしたのは無限ループかなで、南北回帰線は志向が異なり、原始帰納関数からチューリング問題対象とすべきだったのに…確かパンチ穴は中学生の時に・ではなく何処かでダブった記憶かも.しかし例えばは小学生の時に浮かべて、こんなのやっていられないと思ったので



           





 

世には無知ハラスメント・無知ハラがある・・



           
 





 

良寛の他者による余計な示唆で悩むこたしきり、その示唆当人が良寛をやればいいではないか何だけれど、自己投射をした啓蒙意識の権威プライドも始末に悪いが、個人的な理由からダブルバインド要請と気がつく、それと論理的な自同律無視のミスと依存形式要請の自由の邪魔でしかなく、今は対峙もできず


   
           
 





 

内心の自由を味わっていると必ず他者が侵害して来る.内心の自由なので表層または皮相に表出するものではないのだけれど、何を認知して調子付くのか分からないけれど?迷惑でしかない邪魔者となる.自己のみで味わわないと意味の無いのに、蹂躙的なので蹂躙し返さないとまず面白くない事は確かである経験


   
           
 





 

まあ時の流れの中で霧散の失念がいいのだけれど、いわゆる時が解決するというやつ.しかし時過ぎてもなかなか記憶から去らないしつこい束縛者たちがいてままならないものも多い.また時が解決してもその時間自体は即解決に比べれば余計なものでもある.なるべく早く消去したいけれどなかなか難しくて



           
 





 

生理的存在は直接ゆえに心理の間接の邪魔をするや物理的存在が直接を行使するケースありで、生理と物理の直接性がぶつかると相克が起こることが予測される.こんな事をいちいち考える必要無いのに、全く心理意図と違って相変わらず心理阻害の憂き目に遭いすぎる事多くてしょうがない.間接無視の逆直接性



           





 

新穂高は高山市で高山は飛騨高山といい飛騨地方なんだ.ある捨てた写真にほろ苦き日の高山朝市の思い出がある.白川郷は高山から離れていて白川郷自体何にも考えなかった日、行き帰りのコースを全くおぼえていないのは何故かな?



           





 

理不尽非常識な逆で主体阻害&疎外化要請はいらぬ無駄で必要なく、模倣逆をした存在達はまさかその存在達の発言が意味ないものとは全く思わずの無知達の無意味作用のままにうぬぼれて生きたまたは生きているようで、それらを尊重するというふざけ過ぎの自虐に後悔をしているの今


   
           
 





 

個人的に少しは気になるもしの展開想定があり、波及効果がそのように現れたのかと.どうなるのかなとは関心していた.Poを読んで、ロシア接近はないのではないかと思うのだけれど.どこでどのように転ぶかわからないけれど、経済波及には全くの音痴だったな.



           





 

ふと思い出して昔懐かしい?年度の奥秩父の笠取から雁峠ルート映像分ものを見ていた.広葉樹が伸びてやや様変わりだけれど草原の花々は咲きそうな様子…後輩の形のあるxyがxxと人して住んでいるとはつゆ知らずの部屋に行ってまずかった記憶が繋がる廃墟の山荘な、その時にも既に西鹿児島のxxが


   
           
 





 

唐松尾山の尾根ルートを通ってしまったxx人連れや峠に行きたいなどと語ったらしいxxに妥協出来ずの非常識態度もしくは左側通行制度をようやくにしてなんとかと--奥秩父にも行く気しない現在、奥武蔵もやや遠くの気分の平地時間が長いなの想い



           
 





 

全く不都合がどうしても出現してくる完璧でなくても満足感でさえ満たされぬ若き日々


   
           
 





 

西鹿児島のxxは春の一様関数の女性だったのに会った時には全く気がつかず、その他のxx達にも気がつかなかったのは何故なのか、なぜ馬鹿げた方向へなのか、何が壁だったのか理由がわからぬまま時過ぎて、現実を認めず意図通りになっているはずのない現実のはずの想いと、逆者達の人格の悪さが邪魔したか



           
 





 

ここ両日考えているスピノザの神の決定論なんだけれど-汎神論から仏革命から第・次世界大戦も神の決定に従ったことになり、逆らえない運命で必然的であった事になる見方をすると、戦争も人口調節作用となる…



           
 





 

全く不健全な人が邪魔ばかりする、それもとんでもない妨害を.なぜなのかどうにもよくわからない、親鸞的悪人で無自覚がないとしても変で、なぜ成り代わり的な事をするのかそうして別人を要求する形をとるのか不可思議でわけわからない.ただただ不快で修正しないと、自己無知を他人に投射している?



           





 

IQに対してEQだけれど最近はEQの文字を見かけない.ロールシャッハからはやはり心理学は自由の束縛を行使してくるという思いをまたまたして、昔の想いが復活して来た…自己分析を他者判断に委ねるや歪められるのは特に嫌いで、不利有利に関わらず自己の事なら肯定するけれど、他者と同一視者が多過ぎ



           
 





 

でリーマン時空の重力レンズでアインシュタインリングに関心で、楕円曲線に半順序を見た時や射影直線と剰余mod性とかと似ているような形とは思っている



           
 





 

ミンコフスキー時空とリーマン時空ではたと思い、ミンコフスキーの世界線までしかあの頃考えていなかったと思い出す.次元は知っていたので量子側で超弦はずっとなんだけれど、むしろ超弦は潜在化に通底させている現実のものとしているのは事実.ただ今チェックで理解困難とは少しまずいなである


   
           
 





 

余白な、リーウェイを他者は埋めるのを面白がる経験多数あり.縦構造が支配力を発揮しようとする時はほぼ常に余白を無くそうとするものである.故に人は集団体制に同調したがる存在が多いのも現実である.支配側に回って依存して自己存在を保つとか、最もそれが先天的タイプもいるが、夫婦生活はまずいと



           





 

イット革命とは何?と見るとIT革命の事だとあり、ウィットセンスは悪くないけれど公式センスはどうかなと知る.IT革命な、遠慮した個人的に種ものがあって復旧出来ず遅れを取っている間を持っている.なぜか治らないのは視点がどこか違うかも



           





 

強靭なワンパターンだけれど後から見れば一点集約の射影点的存在でmodはその当人となり、横から見ると一定の離散点をつなげた等高的な直線で、そういえば射影直線ではなく曲動は行うものだったで楕円曲線を描いたのかな、これも無限遠で消失としたディリクレ-グリーンとしたか思考の暇がなかったかで


   
           
 





 

ともかく直線にせよ曲線にせよ一定ワンパターンは前後左右上下のダイナミックな緩やかさでもいいけれど自由な次元さがないので、複雑系対処はできかねるのではないか



           
 





 

心理的に、反対称者はその存在理由から対称できそうだけれど、対称者が反対称を行う事はできそうにないな.そう考えると取り込みを行うのは反対称者でその取り込みの対称者に反対称を強要するのは反対称者にとっては自然なのか?.この辺の件が不快で自己を取り戻そうとしているのだけれど…


   
           
 





 

なんだか出てくる存在の中で次々に初対面でも逆に要望していない反主体位相を要求してくる誤解存在が多いようなおかしな感じである.個々人を区別して接していて、その人物に対処した事はその人物以外の他者達には無関与としているつもりなんだけれど



           
 





 

叙事的はA期の権力志向を鑑みると傲慢で残酷さを有するが、叙事的と帰納的は定性的で似ているイメージがある.ソシュール的に質的通時のまたイメージがあり、質的は一般に質的でありその質性から有限を想起させて、積極的作用からスピーディであるがその反面忙しく余裕がないという面を見る


   
           
 





 

質量があって量かつ質的存在が人間だけれど、質的優位の量という判断可能存在た量的優位質存在もいたりする.例えば質的優位量がワンパターンだと硬直まで行かなくても直ぐに飽きてうんざりする反面戒律の教条的にワンパターンを解釈できて色々と煩わしきこの上ない.秩序の持続継続性と変化は相克する…



           
 





 

つまり恣意性無しのためにルールを決めるだけれど、そのルールの決め方に恣意性がある場合とそのルールを恣意的に解釈する場合も往々にして歴史上あるのだけれど.恣意性はホッブスの万人の闘争を避けるためにルールを設定する的な秩序感から来ていると思うけれど.無秩序では乱れしかないとして


   
           
 





 

ところが多様性は無秩序傾向を示していて複雑的様相で一様に慣れているしがみついている形だと無秩序のまま秩序的判断はできず、無秩序を排除して秩序的にしようとするだろうけれど、複雑系や宇宙は無秩序のまま秩序的なので、宇宙は一つの抜本的視点では星々のランダムが見えず重力結節接続で見る事に



           
 





 

そのように考えると国家なく経済無き社会はプロレタリアのみならば阿弥陀に依存すれば出来ないことはない理屈を想起して見るけれど、阿弥陀自体宗教的で科学的ではなく、どこか破綻しているようで、故に国家なく経済無き社会のその先を述べる頭が無かったと言えそうなんだけれど、かといってはある…



           
 





 

国家なく経済無き社会は万人の闘争的に思えるけれどそうでないケースとしては、無自覚者がゼロで自覚者ばかりかとは言っても親鸞的には自覚者も中途半端に過ぎないから、全て悟った人間ばかりか聖人のみの社会としか考えられず、プロレタリア人間がどのように悟るのかわからない.


   
           
 





 

トロピカルチャージではなくトポロジカルチャージQのb-YM方程式解を一意に分類するとあり、その解をインスタントンと称する?、どうもはっきりしないな…マルチやアンチインスタントンがあるのか


   
           
 





 

D&-W量が等価というのはわからないけれど、そもそもモノポール存在が曖昧なのでその線上の等価性関しては、やはりどうにも曖昧感を覚えてしまう感じである.となると読むのに躊躇したディラック本はどうなるかと思うけれど、確かに見た目でディラックの業績は頷けはするけれど.


   
           
 





 

ホッブスは人は生れながらにして平等でありそれ故に闘争が成立すると反発心からだったんだ.しかしタナトスの恐怖から知恵として、共存平和のために理性的に考えて守った方がいいとしか思えないルールを自然法と呼ぶとは英国式が明らかに.


   
             
 





 

ロックのルールは神が与えたものとしていて、人の自然権は抵抗権-革命権等-を持っているとは…神が与えたルールなら抵抗権に対する思想責任は回避できると解釈できるな.その点から神の僕としてユートピアを思いつき、宗教はユートピアをその信仰者に与えると思いつく.なるほど宗教一般の創始者はそうか



           
 





 

コントが神学的段階では社会は軍事的段階にあるとは当たっているかな…実証で悩んだ小学生の時を思い出すコント、無神論的現実一般を実証的と考えていたようなコントと推定できるけれど、あの頃実証は定性的でそれ以上向こうへ行けず質的壁かな不自由感で苛立ち実証などどうでもいいとした記憶がある


   
           
 





 

未だにそれは健在で叙事的文はまさにそのようであり、あるxxに対して底が浅いというか鉄の壁のようにそこに実際している反芻認識はその生理体が実証的存在と気がついた.たかだか実証体の有実在は無にならず不自由な拘束束縛を齎すものだ.科学の帰納もイメージは実証に繋がるけれど



           
 





 

メンデルスゾーンの夏の夜の夢はシェークスピアの戯曲が元なんだ.中学生の時に夏の魘されるような暑さの中で真夏の夜の夢を浮かべたので、夏ではなく真夏になる.やはり蒸し暑さにまさに暑さの感触からネルヴァル的を浮かべたはずだけれど、後年にその存在を知って結びつけたのだったかな…



           





 

実証的かなと例のxxには肉感が妖気的で今一歩理性的ではなくただスタミナがありそのままの人生なんだが、妖気肉感は気持ち悪い.気持ち悪いといえばある叙事的でxxがいて、どちらかというと邪悪的位相での気持ち悪さか、前提として気持ち悪い存在はいない筈なのにその領域者達をTVで見てそうでもなく…


   
           
 





 

見た目はそんな印象を受けないこともないけれど、話はそうでもなかったかな.ともかくxx達の見た目肉感が気持ち悪いのがいて避けたいのに逆に接近してくるという反意図で先進みの妨害で寧ろ過去へ向かわせるという不快さがあり、見た目気持ち悪いのは脳内力的に弱く性的人間かなと.後悟性xxも陳腐だな



           
 





 

摂動と非摂動は粒子または理論対象差異で截然としているのでは無く、バッグ模型で内外の存在仮定があるとは、まあそれもありうるけれど別物と漠然と思ったのは埃舞う道で、摂動意図は即刻了解できたあの頃ゆえなんだけれど.所謂摂動の成立は完備でD境界対象以外である場合だった.確かにそれも部分で



           





 

ところがそんな邪魔をするのは狭小自己エゴイズム保存の為なので、責任とかに手が回らない無自覚の往生際の悪さがあり辟易するな.だいたい感性美意識はまず悪いそんな存在.



           
 





 

不快な記憶はその不快者達に利用された形で、利用したがったのか.とにかくそんな連中は自由の邪魔で、束縛したがりなお今でも狭小精神が抑圧をかけて来るそのナンセンス存在理由者が不快でしようがない.xx&xyに限らず自由の邪魔をして来る存在には責任意識をたっぷり持って貰わないとなんだけれど


   
           
 





 

金峰山-廻り目平から歩いて山荘で何か話をしてその後何処へ?、月の休みにコブシ小屋に朝時ごろついて勝手にストーブで暖をとってその後何処へ行ったか忘れ雁坂へ行ったのは間違いないけれど、懐かしくはない昔の思い出が.度目はフリクラ連中を見ながら金峰経由で瑞牆山荘泊まり瑞牆山か…



           





 

親鸞は叙事的存在を悪人、叙情的存在を善人と潜在的?に思った節を見る.因みにある人物の言葉を借りれば、叙事的存在はもっぱら指示表出的存在で、叙情的存在はもっぱら自己表出的存在となる



           





 

なんだか急にカチカチ山のTLで、小学生の頃にたぬきが出てきて背中に火をつける話しか知っていなかった.背中に火をつけるのはうさぎで、しかもばばあ汁とは残酷な話で、たぬきの化かし話などくだらないと思い今読まなくて良かったと思っている.最も童話に接した記憶は殆ど無くけれど


   
           
 





 

銀河鉄道の夜はついていけないや風の又三郎は教科書にあったのかな知っているけれど、なんなこっちゃである.だだし春の修羅とかなんとかは理解しかねる難しさを想起した小学生時の記憶があるけれど、なんだか宮沢賢治ばかりではないか.他にはと思っても浮かばない…



           
 





 

ハウスホルダー変換で鏡映とは思わない人々の模倣無自覚認識の不快なトートロジーもまた元に戻るは汎関数のノルム化的と同様な所為だけれど時間介在や空間介在位相によりずれが幾らか生じるか.つまりは意味なき無駄に過ぎないのだけれど無自覚は一方的に自己思考と確信しているようなのが始末に悪い



           





 

親鸞が聖人だったかどうかはわからないが、親鸞ただ人は違うと思われる.要するに面倒だから個々人は責任一切を阿弥陀に転化して良いという表現になる善人往生と悪人をやの意味合い.無自覚の悪人の方が相転移的に阿弥陀押し付けをしやすいと述べているのであって善人は自己判断で時間をかけやすいとか


   
           
 





 

ところが阿弥陀なるものは何?と言えば単なる仮想としかで、西方浄土もどこにそんなものがあると思えばありはしない、ただ人間精神がそのように意図できるという才能を持っている事である.つまり他力で憑き物が取れた形でもそれはその個人の能力による



           
 





 

経験上叙事的xx&xy存在の無責任パワハラ性は無自覚な悪人的で叙情者の善意は自覚的-確かに悟りまでは到達しているたは思えないが持っているとは思う-と思っていて、倫理的に叙事な次段階が叙情とも思っているので


   
           
 





 

叙事的存在の善意は小説蜘蛛の糸の蜘蛛のような感じで、叙事→叙情なら叙情は叙事をその内部に部分的に含んでいて、その内部の叙事の善意は蜘蛛の糸要素ありで、無責任なパワハラ性をそれが全ての存在より弱く有しているという分析をして見る



           
 





 

クールというよりスタイリッシュなファインマンを想定できる.まあ格子では当然無理だけれど、フェルミオンから格子を出して来たとも思える.で点関数の場合のnをにした時をnの変形とするとマイナンバーのとのマイデザイン図に応用できる形式図類似を見る.ゲージ場なのかよ…確かにイメージそうだが


   
           
 





 

物理的な客観世界ではなく心理のパスカル的理性と想像の想像場的な心理としてのゲージ場的であくまでも主観作用としてだけれど.ゲージ場は場で暗黒イメージで想像場想像域も暗黒場なんだけれど、マイナンバーの&&その他多くははホワイトホール側的な明るいものとしている



           
 





 

叙情は消極傾向に叙事は積極的傾向で、どうしても叙事的は非情さがあり倫理的には程度が劣るとしか判断しようがない.その目的テーゼで正当化を図ることはよくあるが.叙事傾向者に自己弱さ点がある時、代理ミュンヒの逆を他者に与える叙情性面を個的に出す事は権力意識の裏面となる解釈をして見る.



           





 

各インスタントン数による次元配位の解をインスタントンとしているとしてもよくわからないけれどヴィラソロが出ていてL-m等の作用となると色々結びついてしまうな.イメージして当てはまるのではとしたインスタントンは当てはまらないこともなさそうだけれどよくわからない.周りに揺らぎはあるから…


   
           
 





 

構造自体から見ると文面で使ってしまったけれどエポケーは気持ち悪い.禅宗の公案やあるがままがエポケーと何にか関係ありそうなんだけれどうまく結びつかない.あるがままの方は現存在に持ってくればいいの日常感の現存在分析を浮かばせるプラグマティズム的哲学論を匂わせるけれども



           





 

しかし構造自体を見ていると他者から見ると植物状態的にも見えるかのようで違和感奇異な感じを受けるようであり、思い出して人で笑ってしまう.瞑想的に集中しているとボケーとしているや昼間に夢を見てあるかのように思われるのもやや似ているか



           
 





 

植物状態の人間の絶対所与性は内臓や脊髄的なものと考えられる-こんな事を思いつくと正規分布の棄却域や功利主義的な効用の存在と結びつけてしまうけれど-構造自体を見るはエポケーをマスターしていると思う、いわゆる雨は降っているが知らないであるが.


   
           
 





 

間主観性を一方化する意味なき存在は一方化の対象を諦めさせようとするゲーテの悪魔的存在かなと浮かぶ.本来は一方化存在がその行為を取る事によって諦めている形なんだけれど、この錯誤を大いに利用するタイプが存在する.間主観性は相互作用であるがこれが普通なのは融和中の家族及び男女人である



           





 

エントロピーが変化するのでの作用結果だけれど、含んでいる未知以外の追随が出来ていないという事で、読書百遍その義自ずからわかるなんだけれど、開いたかどうかではラプスの時間長すぎをやはり否めない.



           
 





 

ルソーの告白は歳過ぎまでの自伝と最近知ったけれど、あの中学生の頃冬の凍った庭の側面を見ながらその存在を浮かべて考えたのは、負の側面失敗を如何に告白できるかで、プラス側面のみの虚栄やカムフラージュと潤色などだけでは誠意無きエゴイズムに過ぎないので、なかなかであるが…



           





 

秩序だけの存在にとって自由とは無視秩序の秩序以前の混沌か秩序を乱すものとしか捉えられないだろう.秩序かつ自由な存在もいるのであるが.単に自己がダメになるという優越阻害故の反応または消極的自由を積極的自由が不快に思った反応とかの例を思い出して



           





 

ある長いネット画面を見ていて、関係の本質は法の支配である事に思いついた.まず未熟な認識視点モラルの欠如の独断カムフラージュ衒学的言語性を消去して見るとたかだかそうなると閃いた.確かに法の支配は成立していないと人々は述べる.そうなると思想ではなく方法論が至らないという形かな



           





 

まさかとは思うけれどあるxyが中途半端じゃないんかと同意的発言をしてきた、この人物は意図に反発反対の態度ばかり取るので中途半端では無いことになるけれど、意図的な中途を見て想定してそう述べた感もある.帰納の未決定を中途半端と表現したほどの知力はその時点ではなかった筈で帰納者だったか


   
           
 





 

まあ数学は得意と述べたxxも人のいい加減な表層意識流れの快感的なものに飛びついてそう述べたことは了解できるけれど、非線形や類体往生している現在を全く考慮できない知力と自己色気の無さを棚上げする無知かつ無恥存在であきれ返るxx自己無視性存在かつ性的人間の未発達傲慢者でその後は全く知らず



           
 





 

有限ワンパターンは不自由である、又は他者に強要を要求する.性的人間明瞭なワンパターンのエレガンスは矛盾的になる



           





 

他人の思考を自分の思考だと思う存在の自己とは何か、自己がないのでは無いか、そこに実在している生理体はあるが.まあその生理の質が汚く汚物的で耐え難い存在には意識わ働かすことはでき得ぬが、世には意識ばかりする存在意識しかしない存在もいる.


   
           
 





 

軽く意識しているとズボラなのか強意を要求するセンスない意識人間が驕慢うぬぼれを行う偽善センスの暴力性には閉口する障害邪魔迷惑な憑依的しつこい記憶がある.だいたい卑劣な心理表情を見せて



           
 





 

このxxには魅力がないから触り的にしてと意図すると、逆になってダメと言ってくる自己棚上げと魅力無い自己をがダメなのに認めずそれを投射してくるxxの不愉快さはあり得ないが現実にある.それほどの意図はなくだけれど一応気にして見てもやはり疲れるので気にしないとすると挫けとかのxxも実在する


   
           
 





 

全く主観を蔑ろにするxx多く懲り懲りする現実もあるので、ダメならダメを認識自覚して貰わないと不快でしょうがない.まあそこまで賢いxxで無いことは瞭然でそれで中途に避ける形なのに、傲慢を押し売りする性的人間であるxxも多いのに、何か例えばxy避難ばかりでは不公平で公平ではなかろう



           
 





 

hopfとhallだけれど、ガロアの隙間に関連しているようでもある.CYにmoduliを持ってくるのは致し方ない人の有性だけれど、それはそれとして意識的になんだつまらないと理解不分明ながら思う次第となって…



           





 

同一律に対して排中律を蹴飛ばしてその上に矛盾律無視を強要する存在こそがデタラメな存在なんだが…あるxx&xy達はかな同一律を侵害する事が当然自然だと思うらしく、不快な記憶を齎してしかも同一律を破っていることに死ぬまで気がつかない可能性大の存在がxyに限らずxxにも多く存在している



           





 

パーコレーション理論はブームを説明してフラクタル受容対象に相転移を与える現象と考えるけれど、対象はフラクタルのまま的に雰囲気だけは味わえるとも考えたりする.



           





 

他人の内部思考を自分のものとしてそなオリジナルに述べるという事態を認識している存在から見れば、そな自分のものとしている存在はたかだか間抜け存在で優越感を味あわせる存在だけれど、ダブりの反発トートロジーがあると、特に嫌悪な存在がそうすると愚かさばかり感じるより、しつこい不快しか無い



           





 

巨人の肩の上に立つとは、先人の業績を用いている意味か.知らなかったな他にもありそう…先人の業績をマスターして新たなる知見を加えるのもたやすいことではないけれど.マスターしなければならずがあるが『未分化のままに思考をすると新たな知見になる』の可能性も考えてある



           





 

グレードを持って高低や分離区別の判断で判断しているものがなぜか意図とは別に一様になる羽目になり、不都合すぎる事態になってしまう.



           





 

孫を溺愛する生きがいの祖父祖母は数多くいてそれでいいではないかサン=テグジュペリと言いたいけれど.また良寛には子供が孫がいなかったのではないか、そうだとすれば巷間伝え聞く子供たちとの遊びは代理規制的であると判断できる


   
           
 





 

嫌なxxには嫌なxyがくっついて結局ダブル嫌悪になる、またこの逆も成立し嫌なxyには嫌なxxが結びつく.最も自分から見て嫌な存在を好むのは嫌な存在なのが普通であるか



           





 

見えざる手は消極的自由の帰結にも見えるけれど、帰納が単なる通過帰結点としてしまう未決定意識も持つ傾向にある点もあるな.この場合は往々にして積極的自由が帰結点を齎すので、見えざる手まで行かずの混乱困惑を齎してしまう点に問題があるのではと考える.


   
           
 





 

多様を一様と見たがる存在達はギャップ経験が無いのだろうと、ソフィスト的な偽善平等意識か共同集団視点の責任量回避的存在とみる.多様を一様と見るのはおおいなる矛盾で、一様視点では個々人を無視している事になるが、生理の必須条件は一様でもある人間存在だけれど、それでは何ら変化は無い



           
 





 

個性があると言ったxxがいた.個人的には至って常識的だと思っていたのだけれど、そのxxは古個性か低次元個性を持っていて自己を個性の一様にみている無意識を持っていたのかも.この常識と古個性のギャップが激し過ぎてしつこい悩ましを行う存在と成り果てる.



           





 

その他大勢の圧力に対して自己を保つ意識感存在を気にするけれど、今直感で責任意識の保存がそれには必要かなと思った.出る杭を打つと安楽に時を過ごせるの自己責任意識の低い存在達は集団責任量に依存するので、烏合の集とかの言葉が発生したとか.まあ常識は至って普通の意味合いを持つけれど…



           





 

新制度の具象は緩和して行動は至らずと直感したけれど、ではあの時の有効需要では何かが足りないとしたのは、行動や実験が対処するかなより、複雑系そのもの志向だったと思う.のECIのは日本でがスイスとは意外



           
 





 

葉隠から武士道サムライ的?、何しろ二者択一なら不利益の方を選択するだから不利益は葉隠的ではないか.しかし意味がないが…とにかく要らざるものを押し付けられて困る.主観意図を他者が行使してしまうのはなんなんだ邪魔ばかりである.


   
           
 





 

どうも不利益ばかり被るな. 他者に有益を与えたところで何ら意味のない存在たちと思っていると他者達は逆に意味のない存在だと思ってくるこの不快さが嫌なのだけれど.とにかく快感の邪魔をする他人たちである.他人の粗探しを見つけて優越感を味わう存在は存在自体既に粗だろうにくらいに思っている


   
           
 





 

とにかく感じ悪い人が街中では多い.最も中間存在が多いはずでまず定言的心理ではだめな一生仮言的存在を中間存在としていて、そんな中間存在中途半端のアドバイスなど要らぬのだけれど、それらはうぬぼれしたいるのが背伸びしているのか自己誇張なのか所謂親鸞の悪人存在で一生無知な存在たちとなる


   
           
 





 

最も親鸞は悪人たちにも阿弥陀に依存しろと述べたわけだけれど、この悪人を犯罪者的に解釈する無知がまたいるのにも困る典型的なそれは親鸞の悪人になっているのに、死ぬまで無知だから理解できないの悪循環の繰り返しにはなる理屈存在には辟易するのが普通だろう



           
 





 

世界に影響を与えた書で知らないものが多いな当然読んではいない.アヴェスターは善悪元論で一神教とある.ここから親鸞の阿弥陀は善悪の彼岸である形の架空の象徴となる.親鸞の他力本願にはゾロアスター教の影響が強いというか、阿弥陀はゾロアスター教のアフラ・マズダーの模倣的なものでは?



           





 

善悪の彼岸や親鸞的には善悪の彼方に阿弥陀とかは弁証法的には善悪対立の止揚であるが、抜本的弁証法とでもいうべきものになる



           





 

取り込み現象を初めて知った.埴谷雄高の嘆きではなさそうな他人の思考を自分の思考だと思ってしまう存在の他人の無視なんだけれど、無視しているとも思わない間主観性の生業.この無視しているとも思わないという他人の事を考えないまたは考えることのできない存在がとにかく不快なのである



           





 

単純に円周上に指数べきの逆極限を並べて行っても円になるのは∞乗根なら埋め尽くすと考える考え方を直感している



           





 

優秀な専門家にさえ不分明なものを非専門家にわかるわけが無いと普通には言える.そんな位相性を持って書かれたものは専門知識が欠如していようと難しいものになるかな



           





 

どうやらガロアの隙間はガロアの逆問題とされているものとほぼ同じように思える.直感した時には難しさの苦痛感を覚えたけれど、例外?を除いて選択がはっきりしていないらしい.それなら難解さを思ったのもまあ頷けるという事になる.



           





 

他人の事ばかり考えるといっても、そな当人が不満を持って他人の事を考えるケースにおいて、他人の不満を考えずまた他人に不満不快を与えている事を考えない存在とはなんなんだ、そんなケースのxxがいたな.欲望型には美意識が欠けるのはカント的に正解で、また棚上げはエゴイストの証左であるかな


   
           
 





 

神輿は軽い方がいいというけれど叙事的で深情け的xxの大柄が上に行くと疲れてしょうがないというか馬鹿げてしょうがないのである.最も深さがないから煙りと同じかも.なれば愚劣感を覚えるだけで単なる荷物的でしかない事に.名状しがたい味わいはしたくないけれど、他者達は蒸し返して繰り返し的かな


   
           





 

一方的代替不可ならば縦構造システムのある内的位置の存在に個人性は有界に存在するか、それと中間存在は結びつくな.接触している外的位置者が不安を持った実存者や外的責任を持つ事をそのような立場者は孤独であると表現する事を見かけるな.境界位相にもなっている時ディリクレでは内的になる…


   
           
 





 

そうならばなんだかガロアの隙間に非可換幾何は似合うような気がする.そうだなこの辟易する難解さと思った昔に今のところ合いそうなのは非可換幾何論的なもので、モチーフはどうするのかこの非可換をとか考えてしまうが、よくわからない初期の手に負え無さと専門家依存意識感があって.超弦もあるのだが



           
 





 

どうもいろいろ連想接続から、'何をやってもダメだから作家に'のセリフ者が不快でしょうがないが一両日またしても浮かんで来ている.単なる何らかの言い訳のようだけれど-苦悩度経験体験の自信だったかな-何をやってもダメなうちに作家も入りまた心中も入るのでこの言い訳の中途半端さを如何とすべきか



           





 

中学生の時にある橋の上を歩きながら安寿と厨子王の話は厳しすぎると耐え難いと思ったこたがあり、その作家に意味なき心的投射わ何故が後年する羽目になったりしたが、何でもある状況の時にその人物は'馬鹿らしい'と言ったとか言わなかったとか、少なくとも煙り立ったのは確かそうなので


   
           
 





 

この人物の悟り至らずのそれこそ馬鹿らしさを他者に与える事の配慮なきエゴイズムを考えるか、多数の意味があるかも知らないけれど、少なくとも自己認識の愚かさは表現していると思われる.なお安寿と厨子王丸の説話があったと初に知り、それなら尚更不快が交響楽的でもなく重奏位か発生する



           
 





 

ニイチェの歴史観の超歴史は時間的には共時なんだけれど歴史事実を振り返って見た奢り悪乗り表現かなとも.最もマイシステムでも位相は異なる事にしてあるけれど



           





 

最後の本質を理解するはこれ以上の言葉はないかなと思うくらいの締めだった.そうなんだな何が対象でもいいけれどとにかく何が何でも第一に本質を把握する事であり、そうするとフッサールのエポケー何ぞは意味がない事になる.まあ間違って必要ないエポケー何ぞをした無駄経験あるけれど.


   
           
 





 

最近は昔ほど本質志向が強くなくなって惰性的面が強くはなっているけれど、昔はとにかく面倒なので諸々に対して本質ばかりターゲットしていた…



           
 





 

天上大風の文字はどう見ても下手にしか見えない.なんだか良寛が書いたからの神話に踊っていないかのネット論を見る.この文字を書いたからといって凧が上がるわけではないし、突風でも吹いてそれに乗ったか.風はシラミの文字に似ているなと思いつき、それから中気を連想してそのような存在が書いたか



           





 

あの馬鹿が唐突に良寛がどうのこうの言い出したから悪いのである.別に他者依存他力本願より自力的な人間に他者介在示唆を出したから良寛などどうでもいい邪魔に過ぎぬと思うわけである.やや中気的な心理者が書いた天上大風の文字ならまあ納得の認識である.ちなみに自力型は自己依存をする



           





 

底の浅い帰納人間が決定を強要してくる不快ケースによく遭遇する.ミスはそれら強制的人間達が悪いとか



           
 





 

中学生の頃にある山道の凍った感触の道で、それからを使う文章はどうもうまくないのではないか、なら接続詞ををどうするかとか考えたこたがあり、そこでそれからを浮かべて確か熊本の方が出てくるのではと思った道にはやはり続きがあった事を自覚する.牧場への道とは異なるけれど、その道の先を知らず


   
           
 





 

それからと行人は別部作なのか、同じと思っていた.彼岸過ぎまでが名作だって?、いつか読んで見るか.今まで読む気になれず演繹的に勘違いしていた主人公の違いの最近読んだ心の心理描写には感心した、よく書けたものだとまず論理破綻が無かった記憶がある.



           
 





 

それからの接続関係では小学生の時に繫辞を浮かべていた本居宣長の滑らかすぎるイメージの頃なのはすっかり忘れていたそれからの中学生の頃だった.熊本が出てくるのは草枕だったかな、草枕も最近読んで大袈裟な四字熟語には意味わからず閉口はする冒頭のシーンは有名だけれど.


   
           
 





 

漱石はなぜネチネチと三角関係的な内容のものが多いのか、内容を見れば博愛性ないことはないが、永遠コンプレックス者と思うゆえに確かに詩人ではなく小説家ではあるなになる根拠となる理由と見る



           
 





 

ジョセフ・バトラーなる存在を知らないけれど、あの店で神の代理人がさっぱりわからなかった恐らく塩野七生からだったろうの位相に、良心を神の代理人としていた人物がいたとは…その店の思い出はアカシヤの大連の内容は知らずのイメージだけの鮮烈な清々しさが印象にある.



           





 

阿難陀・アーナンダコーナンダソーナンダはあるな『あれかこれかそれか』で.仏教用語も面白く見ると面白いのが多そう.お釈迦の他にお陀仏もあったな、


   
           
 





 

真実は見方によるのはカント的にはそな対象は仮言的なものだはないか.しかし確かに宗教では戒律も違い内容も異なり宗教的に真実は異なるのかも知れずとその哲学者は考えを引き出したかも知れず



           





 

ある女子大生が唐突にその知らなかった名を出してきてその存在名だけでその女子大生に興味をなくした抵抗感を覚えた事がある.なお昨日の大風から虱の文字を浮かべたのもこの女子大生から知ったマルドロールの歌を思い出したので.マルドロールの歌と星の王子さまでは落差ある面持ちだけれど



           
 





 

神聖な叙事的存在もいると狂気というかクレイジーな衝動?衝撃発言をして人を停滞させる嫌なのもいる.束縛支配したがるのか夢を邪魔する妨害者なのかよく分からんが障害になる事は確かで、神聖でも倫理感の悪いのがいるな.まあ叙事的存在のxx&xyは倫理道徳感が悪く低く、それを自覚しないで横暴を行う



           





 

無縄自縛はシャレているな、自縄自縛と必然的自由は関わりがあるように思うけれど、傍目では自縄自縛の拷問さを覚える単調さと継続は力なりだけれどもともと中途で出来ている継続をしてもはある.ハイデッガー曰く現存在はほとんど中途半端に終わるとあるが、これは中間存在が多数である事を示している



           





 

ワイルでもコクセターでもいいのだけれどとかなんとか考えて腐りと拷問さと自縛の必然性の継続さのそれぞれの有限が解けないけれどどうやら右逆でその逆は成立しないの任意の右逆に対しての選択公理になんらかのというか理不尽な形で捉えられているか


   
           
 





 

バナッハ=タルスキーのパラドックスの質が違う二つの球が一つの質であるとしているようなもので、別に気にしなくてもなんだけれど何かと侵入の不快障害がありの展開があって、なんだこの粘着はというものがありえないのにあるとなる…この辺が他者達が逆を自然と思い込んで多数存在する関係性の所かな



           
 





 

他者に内的に邪魔だの所為や陶冶的で禁止所為を内的にすると性的な意識と他者達は取ってくる経験がある.論理的または形而上的な判断か間接作用を意図しているけれど、自己がそんな対象と思わない他者達でこれが自分は正しいと思っている他者達の反応なのかな、全くそれはナンセンスなのに悪貨は強くて



           





 

よく分からないが考えるに交替を取り入れないと成立しないだろう、元気疲労の交替ではなく上下の交替で、交替のダイナミックさはカオスに叶わないだろう.今の所正規分布+カオス系しかで、フラット感覚はその中にそこにいる幸福感安心感はあるだろうけれど、情勢の動きエントロピーが変化するので…



           
 





 

いわゆる他人の実質個人をターゲットにする現実主義というかリアル感を自己のリアルとしてしまうのが理不尽で、そうしてしまう当人の実質はなんなんだと、模倣意識模倣化でしかなくリアルの何があるのかとなる.他人の実質を見ると他人からも実質を見るので固有のスペクトルが必要になるのだが


   
           
 





 

なんだか圏論的図式で圏論など簡単だと思ったあの頃から今、面食らっている.等化子が異なるではなくて等化子が同じで余等化子が異なるとかなんとか…差核がないのにあるのは零対象と分離しているのに分離していないのではなくやはり分離しているとか、余核が問題でなんらかのズレがあるスペクトルの差



           
 





 

模倣するなら『現状維持無限変革』とかを模倣して貰いたいのだが、かって誰もいない…



           





 

帰納は未決定であるといったのは誰だったか覚えていず分からないけれど、未決定とはつまりそこに責任を持てないという事である.因果関係の不明や公共謝罪が効力を持たない場合にはこの帰納の未決定に乗っている可能性が強い



           





 

嫌な陰険なxyは帰納的存在だったか、それにしても内部記憶を模倣して模倣と気がつかずに-まさかとそのような存在は思っているようだが何故かわからない-被模倣者に述べてくるその間抜けさ加減で親切に対応していると主体歪めの理不尽は認めないので不快となるのである.そんな人物が多いのは何故なんだ



           





 

これちょっと不快に思う.シジフォスのせっかく上げた石を蹴落としてまた上げさせようとする事に近いので.ただしこれはAのG複合とは異なってG&Gで発生する事としての話で



           
 





 

明白を表すのにマニフェストだったかエビデントだったか、恐らくエビデントを用いたあの頃.エビデンスといえば女性の平均寿命が世界的に長い事実は女性が不当な位置に置かれているとは普通の感覚からは考え難い.既に成立した事を持続継続しようとしてもそれを切断してしまうのが女性である感覚がある


   
           
 





 

『現状維持無限変革に対して、現状維持有限変革は現状不維持であり、現状不維持となると現状不維持無限変革より現状不維持有限変革になる.類人猿から原人から現人になった歴史は現状不維持有限変革がふさわしく、現状維持無限変革は万年続けば一応言えそうだけれどそれほどとは思えずだけれど』



           





 

あの頃考えていたシステムでは、キリストや仏陀は『離散的持続者』としてある



           





 

醜いのもあるけれど、強烈にセンス無いxxも世の中にはいる.なぜかそんな存在がいわゆる憚りになるという極端な愚劣さ



           





 

分子原子電子ニュートリノと続く最大値としてn-の次元ならばポテンシャルの切断は考えることができる.次元現行サイズの最大値で^-まで行くのには相当なギャップがありわからなかったが、ふとサイズ変化があった事は既に常識なのでそう考えていいはずと気がついた.それとは別に心理的な事があって



           





 

以心伝心を許容してもそれは主体を損なわないもので換骨奪胎全体化までするほどの設定はしていず、換骨奪胎に気がつかないのか意図的にそうしてまたそうしていないようにするために換骨奪胎の対象主体を他者化した主体と見るのか、気がつかずに他者化主体とするそんな意図は全くない対象存在が多過ぎて


   
           
 





 

脳幹の太さや染色体の差異は類の歴史が作り上げたものなので良しとして、脳幹太ければ左右展開は速いと思うのだけれと、その先の展開が読めないところがある.そこはxxとxyの違いが寄与しているかも.そんな事を考えると人間の構造はこのままではなくどこかで変わるかも…『現状不維持無限変革』となるか



           
 





 

無限個の素点の分岐や合併が可算無限集合をわたるのであれば、ガロアの隙間は説明できる理屈になるが、はてどう考えたものか、それならそれでいいとしてやはり専門家に任せるが正解となる…l進グロタンでは少し違うかなはあり、がモチーフなら意図は隙間を埋める…



           





 

最も他者化された主体当人ではないので、他者化されない主体から見れば洗脳的か心理を模倣させた人物達と思えなくもないが、自己同一性自同律的には不快なものである.



           





 

のベキ根は単位円上にあるはガウスか、となると無限遠射影の円形と『スリーの自由度無限』が重なってくる、そうだったのか、あの時は数直線で考えてきりが無いにした記憶があり…



           





 

ダブルバインド現象の整合化意識ツイートが昨今多いな.矛盾構造不条理の哲学問題はあるけれど、個人的な思いと共同数的一般に対して、個人はエゴ的要素で共同的数的存在が希薄になる時がある.もし個人が共同的とするとその個人が消える時には幾ばくかの共同数も消えねばでそれは一般に非常識



           





 

全射のかそうで無いかで分岐不分岐とは.分岐は流体の流れで渦とか乱流を浮かべて複雑過ぎると思って無意識に保留している形を取った以前.特異点の任意とか、公共+αの経済政策にも相転移かと思えるかなの分岐感覚を覚える所などに見つけた感覚



           





 

優越原理が整理感覚からピンチであるかのような想定をする老境に対するTLのやや多さを見て、生理ポテンシャル優位で生きてきたタイプなのかなとアイデアが浮かぶ.当然自然に生理パワーが衰えるとその反動は生じる生存過程時間に直面するだろうな.


   
           
 





 

そこである先天的存在優位の作家の少しは自覚していたようだけれどいざ直面しての悪あがきとその悪あがきを崇めるように思える人材のナンセンスさをずっと不快に感じている



           
 





 

でよもやまの憲法制定時の条逸話?の死中に活は分からず考えて奇跡期待の表現だったかも…ならば神国民としての宗教的特徴は成立するかなと思いつく.個人的には辻褄が合わず失敗した形の年を見てしまった事もあるので一応判断の意識には上る



           
 





 

川崎の千年の頃神奈川のある所の家の人物に芥川龍之介に似ていると言われ、冗談じゃない自殺なんぞ御免被ると思ったものだ.良寛とか芥川龍之介とかだいぶ違うだろう.太宰治はあるxxのしぶとさに大宰治的にしつこいねじれた存在が似合うのでは無いかとの未発言をこのxxと誤解同相がしたものだけれど


   
           
 





 

やけくそ気味ですがにそうだと思ったことがあるある否定し難いxx故に.論理的に間違っているとは思っていたのに、この女性も否定しなければか、くだらない事にかこつけてNo.を嫌がった誤解者でもある.ちなみに大宰治は嫌いな作家で内容をその頃知らなかった.実人生が目茶苦茶な存在で辟易する存在



           
 





 

カンダタxxの廃人的存在はろくな事を言わんな、全く無駄に消耗させる事のみであり、色々周囲に誤解を与えた記憶はいまだに残っているのも過去xxがある雑草xyに誤解を齎す白けた態度を取らせた事によるが、ある過去xxもまた遅くラプスの要因で、過渡期に十分沿った時間の持ち主であるのは明白で責任は?



           





 

あの窮屈な実証の言葉を用いた政治理論があるのか.実証はそのままの現象学的な位相で事実がそこにあるだけの定性的なものでつまりはしない不快気味なものと確か小学生の時に思ったはずだな.ゲームの理論は考えたく無い…ともかく数理と計量が科学的な所為なんだ.確かにデータは判別しやすいが



           





 

誰が先かとかの話でどうにかなるではなくアセンション系で一杯いた.最も意識体を考想する人間は多数存在しているは想定内だったけれど、内容とその数は別に考えもせずだった.あの頃のシステム意識は何か忘れていたけれどそれはそれとしてまあ一応その時空的な考えをしたのだから保存化としている



           
 





 

キリストやブッダが高次元存在との宗教本かあるのかなんだろうな、同じような事を考えている存在がいたのか、あるいは何らかの刺激を間接に与えたか時間的に先はどっちか知りたいものでいつ頃考えたのかな?


   
           
 





 

次元が内部は高次元を考えると何でもない事のようで、ネットに一杯あった.カラビヤウは見えないコンパクト化だからサイズ感では外部にあると思った昔だけれど次元内部的なものであるはずではないか…


   
           
 





 

ガロアの隙間とタイヒミュラーは似ているような、タイヒミュラーの幅は?、極値の間に納まるでは展開しかない形のようでその辺は未考



           





 

ラプス中に量子群なるものができていて、イデールのゼータとくるとズレがあるのかなと、しかしRの持ちようでイーブンと出来そうな気はする.なんだかゼータも知らずそもそも嫌いな形式的で、そんな専門家的な物はあの頃、思考する暇なくまたは権利なくと思っていたな.今はそれでは色々まずいけれど



           





 

どうもポテンシャルの切断がわからないので次元は次元の内部にあるとかの発想を考えてしまう.



           





 

単に人口数懸念意見に対してから功利主義観点について騒いでいるようだけれど、問題は功利主義の正規分布の棄却域に繋がる話で答えは難しくある.『交替』がやや自在にできれば良いかなとしか考えてはいないあの頃、最も疲労交替で疲れたら休むからなんだけれど


   
           





 

左回りに度傾けないと空間がない事になると思いつき、まさに&象限になり、向きが逆になると何かを思う形である.これなら時空をペンローズ的に設定可能になるが、左右の+重ね合わせからやはり何かを思い、このカオスを考えると複雑散乱を描く事が出来そうである



           
 





 

もみじの散る裏表は裏も表も無い精神状態かと思っていて、表裏一体を見ると元が同じとある、その意味なら弁証法の止揚の逆になるなと思うのである



           





 

中間存在に'カフカを読むといいですよ'といわれ、その名を最初に聞いたときに把握出来かねたからだけれど、カフカの作品内容は未達感満載とは知らずまた境界的存在とも知らずにそうとはまさかで考えなかった.しかし把握出来ずにつけ込んで調子づいた中間存在の間抜けさはなんなんだ.



           
 





 

発見は謙虚で開拓でなく導入も同じく開発ではないとはこの辺微妙では無さそうなだけれど差異があるななんとなくの一般感からは.固有ベクトルか…しかし隠遁印象のグラタンディークの名をあの頃全く知らなかった.



           





 

全く自分で読むべきなのに、無自覚のうぬぼれのアホさ加減とはつける薬がないに等しくなる.今頃はカフカ的事象に直面しているはずだな.が以前カフカの作品的立場を自覚はしていないかも.カフカは境界的位相な作品を残した人物でその数多い中間存在社会では意味があるので燃やさなくてもいいものだ.



           
 





 

叙事的物が残りやすい歴史環境においては、歴史の教訓から学ばないという事態は発生しやすくなる事になる.その辺を緩和するのは哲学になるけれど、G期から見ればA期は無知なので天国は無知に容易の神権からそうなる事にもなる.この無知がキリスト教に作用した形を思いついた.


   
           
 





 

反対にそのセリフは使える事になる.若いとミーハー的な依存形式者の自己無視の他者の事ばかりという障害形成者でもありそうなアドレッセンスはあるかな.世情は騒ぐけれど心理抑圧の内面を考慮しないミルグラム無責任の暴力的な側面に繋がるかだけれど、先天性の違いを如何にする事もできずの視点がある



           
 





 

美的に遠いxxがカフカの発言をするとその内容は例えば掟のなんとやらや城など美的に不可能的となるのでいくらか自覚無知に自業自得の愚かさのカント的な判断力の無理解で、その視点では当のxxがカフカ作品を既に読まなければならないという間の抜けさ加減がある.そのような存在の意見は迷惑すぎるかな


   
           
 





 

剽窃模倣に気がつかない存在達はそれが当然位に思っているようで、ひとつくらい固有発言をするのは、まるで蜘蛛の糸のカンダタのようなものだな.そんな猿真似のような人間も猿ではなく人間でロボットでもないが、むくつけき存在感しか無いかな



           
 





 

他者を誹謗してその存在を貶めるを考えてみると、無理解誤解理不尽を行使して来た存在達はその対象のようで、誹謗を受けた側からはそんなの要らぬし、そんなに誹謗したければ自分達にしていろといいたいもので、迷惑しきりない.


   
           
 





 

そうした不都合な受容できないxx&xy達の発語が記憶にあり時々そのままに蘇るので、その後の他者達には自らがそんな発語をすると思われる可能性が高くなってしまう.しつこく意味のない無駄をさせる存在達で、畢竟これらの存在は存在自体が意味の無いものと解釈せざるを得なくなる



           





 

ミンコフスキー空間の双極図を右周りに度傾けた斜体にしたコルニューの逆図として見ることだった.開閉はまあ必要的で…時空は互いに被覆も必要かな


   
           
 





 

こんな事を考えていたのか、重複がカラビヤウ図にもあるはずだけれど想定困難で、複雑さを解けないと思った昔は重複点が瞬間複雑写像投射的深度ではわからないゆえであるが



           
 





 

部分が同じで変形するだけなら対称は無数に存在する事にならないか



           
 





 

なんのことはなくサボった分のキャッチアップをしているだけでもある.アルファは他人が行うから様子見だけだけれど、残りの完成-それまででも十分だとは思っているけれども-の為にツイートをそれなりに交えながらしているとなり、なかなか終わらないだけ.そう容易な事でも無かったのでまあそれは当然と



           





 

------こんな並びか、構想はしてあるのでただ集中するだけだけれど、その集中に模倣や逆や諸々の障害が無理解誤解理不尽となる現実社会であって.実際の所キャッチアップなど容易と思っていたが実際は年以上であり、ややこんなはずではもあるけれど、位相視点を困難化しながらの感もある



           





 

セルバンテスは夢を見ていたと表明したはずだな、となると風車に突進は夢想によることになり、夢ならばそんな事は頻繁に起こるありふれたものと漸く気がつく.アリスもそうであるがキャロルは良く荒唐無稽をかけたものである.荒唐無稽を描いても良ければかけるけれどそれも楽しそう


   
           
 





 

結構夢想を生きているかも、それはそれで大変な事は分かっているつもりだな.つじつまが合わない的ツイートを一度指摘されたことがありその事態はよく覚えている.何気無かったのだけれど、多重性的面で過去xx的で今尚そんな面を行う思い出しすぎている.全く劣化位相に束縛感を覚えるのも不快xyありで



           
 





 

他人の足を引っ張ってはいけないと思っていたけれど読んだところでは、日本人は何が何でも優越感を保つ為に他人を劣位に置きたがるとは思っても見なかったけれど、どうもそのような傾向があるらしい.これは縄文の遺伝子が閉鎖感を形成しているとも思えて、負の側面があるかと…まずいな



           





 

しかし火焔土器はどう見ても世界的レベルで、世界に交流無くても開かれていたから縄文の負性はどんなものか.それより縄文を征服した弥生系の技術を見た事あるけれど、そこにはむろん諏訪大社とかの軋轢は十分にあったらしい.世界に特筆的な縄文の遺伝子を/は持っていて、またアイヌ系と沖縄は多くと


   
           
 





 

弥生系も移動して来て弥生系移動に関してふん詰まり的であるように思える島を通過して米大陸迄行くとかは太平洋広くできなかったか.ミクメラポリ展開の種族は異なるわけだ.そうするとより弥生系に取って閉鎖感を感じる島になっていないか?.縄文人に取っては長く住んでいるので閉鎖感とかは無いだろう



           
 





 

沖縄に火焔土器的な発見物は無いのかな?.無いとすれば火焔土器発見地域とは何かが異なる事になる…そんなわけで弥生系が征服気味をしたのなら、どちらかといえばその後の正負のなんらかの事象には弥生系に責任がある事になるのではと想定してみた.


   
           
 





 

アデールとイデールの一致のズレと濃度としての体積関係とか、単点は素数の濃度はとか、ガロアの隙間とタイヒミュラーとか.結局難解なガロアの隙間を去年からかなりきつい情況設定が予測でき実際にそうなってしまっている事にふと気がつく.別に専門家では無いが結局は昔に浮かべたのでそうなる…



           
 





 

修正して別に専門家・・と記述していたら書きたいことを忘れてしまいどうしても思い出せない.秒も過ぎていないのにどうなっているのかこの頭『間脳の両脇の煮え切らぬさま』は導入記述中の悶々表現か未解疑問に対しての筈だけれど、右感が…あの楽章の頃間脳も知らず脳構造など全く知らずだったのに



           





 

ミラーをなぜ直観したかわからない.典型図のカラビヤウ図を見たのはいつ頃だったかな.サンタフェの頃ではなかったか、見た目芸術的に見えたけれどどこか違和感もあった.ヤウの年度でその証明努力は尽力を思わせる.若き頃の複雑さと典型図は図の分見分け差異があり、しかも交点傾向だと尚更かな



           





 

全体的に当てはまるとは限らないが部分では有用である事を保証するの直観は全体を見なかっただけの話か、とはいうもののそれにずっと遠慮していた即物的現実面はあるが、今更どうのこうのの話でも無く、やはり狭小に陥っていたのは遠慮があったからか.しかしそれは現在時間的というか個人過程と異なり


   
           
 





 

コールドスポットにパラレル宇宙のアイデアか、ブラックホールがパラレル宇宙への接続かな位に思っていたけれど.ダークマターは雰囲気か空気のようなものになるかな.こうなるとダークマターがその成分余波になる圧力の残余的になるか



           





 

唐突にそう言われても理解し難くなんのことかと、多分事例パターンしか思いつかず、自戒していたらそんな発言を受ける羽目に、しかし何も知らずのオンサイト的に直感を発動できる才能は才能あるのでは…合理理性の後付け利用者の社会的還元力の集団圧力同調者的の不愉快な発言でもある.



           
 





 

''ミラー対称性は物理学者の直感から純数学者は深く理解しつつある''--この事態のレベル位相は異なるけれど同相パターンの記憶思い出があり、その対象者にかわいそうと言われたことを思い出しているとちょうど例が見つかった.どちらかというとそう言った人物はチンケ側に見えないことはないのだが


   
           
 





 

区別差異は一応プランクの定数で止まっている形だけれど、今は突破した思考もだった.単純にゼロ化とできないのはなぜだろう.無限小差異でもいいはずというかそれでいいことに気がつく.単純なのにほんのちょっとした近傍深度から少しずれる事は難しいものだ.人は習慣から離れるのは困難を呈するように



           
 





 

良心の自由の生起条件には謝罪性の道徳感とかはなさそうで、その帰結にも無いという同一性かな.とすると良心の呵責や自責の念や罪の意識はどこからで皮相的なのかな.法の支配の理念は良心的であるはずで、法の支配に道徳感が無いとはいえずと思う.


   
           
 





 

存在しているだけで倫理があるという時の倫理は建設的意識の事と思われて、建設意識以外を排除する時に罪の意識とか呵責とかをやはり排除すると考えると、排除と認定する道徳や正義を嫌うという形をとる事になると考えたのかも.或いは独善意識によるか.



           
 





 

自己欺瞞者達の言明は事実または真実では無いので不快な記憶としてしつこく苛立たせているけれど、仮言的存在でしか無いと思えばではあるが、現実感の重さ遅さワンパターンさにうんざりもする面倒くささがある.



           
 





 

火車は獄卒の亡者を運ぶ火の車の設定なのか、天使の乗る車の意識があるのは小説からだったかな?.まあ炎に包まれたイメージなく強いては白馬の白い馬車だけれど.ワルキューレは天馬に乗るだったか、白鳥に変身するもあるとサン=サーンスの曲を浮かべる.エッダで漸くオーディンの存在と箴言存在を知る.



           





 

高野山は密教系で顕教系では無いはずとは考えるけれど、昨日僧侶の怒り記事を見て面白いと思った.一度高野山に行ったはずだけれどその記憶なく、ただ後に火車の出てくる伝奇小説と高野山を結びつけて読んだ記憶がある.高野山に行った時に何か考えたような時間追遡を描いた気がするのは当然空海認識故に



           





 

建設意識は定言として、仮言的存在諸々にそれぞれの独善性がある形を取っている現実かな



           





 

『接点の影に隠れた無数の曲線を見よ』はベズーの定理とは知らなかった.なんだか知らんが浮かんだので…ここにチャーンが登場してなるほどホモトピーとな.しかし数学者も何に押されているのかこんな複雑形を考えたがるものと感心する.逆に違いのある類似形の区別ができないがある.


   
           
 





 

捻くり出して関係の本質を無圧として見てどうかとしばらく様子を見る.大仰な即物時代的に考えねば意識体は無圧的だけれど、意固地勇気の独断盲信要素がないとも限らない不明線を鑑みて



           





 

次元は明らかに現実意識様相とは関係が寸断的なので取り付く島がないとして保留した昔、ポテンシャルの切断がわからないけれどただその言葉は個人的に重要だと思えるので色々と考えざるを得ない.この切断が有効なら今まで無為な時間を過ごした事を後悔しなければならないが数学は念頭対象にはなかった



           





 

エアコンずっと故か頭温度今は低いけれどどこかスッキリしない熱源があるような気がする.なぜ今年になって急激にと思える程に変化した形なのだろう.理由がどうもわからない.単に体力が落ちただけかな.それもどこか異なる心理生理面があるはずで、不都合な記憶を処理中だけれどしつこい他者達がいて



           





 

それにしても昔に良寛どうのこうの言った教師の話的記憶が蘇ってしようがない.別に良寛的なところはそれはそれとして、天井大風の汚い膨満感の文字の苛立ちはポテンシャルの中途半端の不快感かな.その教師は人に転化しないで自ら良寛やればいいだけの話で、勝ってに束縛して貰ってもは自由の邪魔だ



           





 

宗教の信者は面とは述べないけれど、潜在的にその宗教の集団圧力を用いていると考えてしつこい模倣を誤解を理不尽をある信者から受けたことがあり、その処理に困惑している.その宗教の信者ではないので無意識自然として模倣逆になっても困るというもので.その宗教に関わりなど全く持ちたくなく…



           





 

シジフォスの石上げ降ろしの繰り返しは明らかに無駄で冗談じゃないな.矛盾を不条理を解決できるとは思えず、解決したは無責任な盲信以外にないはずで、それは解決ではなく妄想ではないか.まあ自殺となんとか付き合って行くの種はそうだろうとは思う.



           
 





 

嫌いは好みを好みは嫌いを演出するなは否定弁証形成してどうにも共通は成立しなくなる.矛盾や逆や対立をなぜ形成したがるのかわからない.対立は弁証法により予定止揚を目論んでいると考えられる.対立打ち消しならば最初から対立が無い方が疲れない.またシジフォスの神話を形成したがる存在多いな


   
           
 





 

ヒルベルトのz=x+yでもなくミラー対称性の感じだな.嫌いな二項係数とか出てくる…数学には嫌いなものが多いけれど無視するわけには行かないとなりて…対数フーリエとあと何だったかも忘れてしまうが.ポアンカレが趣味に合わないけれどその業績は多大なものがあり.昔のガウスの解析優秀で止まっているか



           





 

何かを検索しようとして位置をちょっとずらして秒も経ない間に忘れてしまう心性、自分でもこの暗記できなさはなんなのか、この辺も熱射の朦朧感に繋がっているか、もしくはエヴェレットの多世界的とも、個人的にそんな秒世界を昔に描いたことがあるのだけれど



           





 
太陽発電で畳か、畳かもっと広い予定があるけれど、テントか…流行りの聖地にしてそのままにするとかも考え出して



           





 

だが未発達者はそれが未発達なので自覚なく、未発達を変えようと他者働きかけを行うと自己に向けられたものとそれを思わないで、反対に反鏡のように要求していると思い返してくるこの不快さは何だろう.自己過信で他者卑下視なのだけれど、倫理的には感心しないが、無知未熟の可能性への甘えがあり


   
           
 





 

あの時の考えに少しプラスして考えると、ダイナミックに日でリッチプアが成立しそれが多少の頻度繰り返しその領域にまとわりつく変化因子も変容を余儀なくする形なので安定という言葉から少し離れてしまう…形が全体的にあり安定は公共事業的な支持があるという事になる.市場経済的かな?小さな政府?



           
 





 

LJの不完全ガンマか、ポテンシャル論などどうでもいいやとしていたツケが回って来ているかな.ある文章の'ポテンシャルの切断'が衝撃的に作用して心理記憶を呼び覚ましてしまい.減少・縮小はまあありうるがその切断という事の現在時間における位相が問題なのである.どうやら時間は過ぎ去りて漸くならば


   
           
 





 

熱射頭で朦朧的な上に誰か記憶存在が思考意識を妨げているように麻痺意識もありで、頭動かずの体がありこの内部不快が解けない情態がやや長く続いて.摩擦…ハード束縛は中途半端に過ぎず



           





 

ある事に対して余りにもギャップがあり過ぎて幾ら何でもと謙虚にやめた事がある.今にしてみればやめることはなかったけれど、自己自身を忘れていたのと愚か者への同情心が強かったこともあり、くだらない人物ばかりに遭遇した結果もあるか.また日本国内だけで判断していて世界を見なかった事もありで