2017-02-17

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あまりにも簡単なことに盲点の束縛時間が長すぎたという愚かしくもある個人的なことなんだが、義務教育時代に坂道を歩きながら悩んで押される結果にやけくそ妥協を強いられる記憶のある対象故に時間がかかってしまったのかも.



   


 どおりで最近のコンパクトがルーズというか示しのつかないものになっているわけだ.球面とはこれでは商空間というのもわかりづらいが任意のコンパクト化の一つとみればそうなるか.Rが空間にな.これならまだ救いがあるというものである.確かにブルバキの論理からは神云々は容易に導けるな



   


 共有原始形質を古モンゴロイドは持っていて新モンゴロイドは固有派生形質を持っていると、そこが違うのか.共有祖先形質ゆえに火焔土器は世界で通用すると思うわけだと感じる.固有派生形質に関しては?、この辺からユングの元型についての中学生の時から気にしていた日本人適用性の解決を見たと思う.



   


 ゆえにこのXXの無意識・潜在能力を探索すると次元の低いというか不都合な逆行を思念することになってしまい往生することになる.謙虚に相談を持ち掛けても脊髄反射反応や他の男と誤解をしたり戦争論の弱点ではないのに弱点と思い込んでしつこく繰り返したり、なんとも無駄ばかり...



   


 このXXはヤスパース・ワーズワース的で古いというより他の世界を了解できない予測が成立していて、できる領域での思念で気になることはあるがだが、それでも視野の領域が狭いので少しまずいと.普通に%一致なら合格の妥協OKであるがそうもいかずのまま、相変わらず出現することに.



   
 

 思い出すと泣けてくる、愛おしさを沁みさせて、でもこれはまたまたまずいあるXXの心情のようで困る.このXXでは不都合なのになぜこの心情に今なってしまうのか、違うんだが・・・



   


 思えば秋の校庭脇の落葉松系の幼き木々と萱のだいだい色の世界で思った小学生、定義はいいのだけれどそのコンパクトさが不自由な面を感じさせ・覚えさせてが無意識に作用したかも知れない.



   


 定義の明晰型は好みだがまた似ているのだが、非線形に自信はないという理由のみで留保したXXは今頃どうしているだろう、忘れないがまた忘れる必要のない存在なのであり・・・



   


 まあ反交換のフェルミ型で柔軟が鞭のようなタイプは宿命型でもあるが、今ふとビクトリー型ではないかと思いつき、そうかそれなら権力志向性も判断できるとようやく閃いた.しかし叙事的思考の全くつまらん趣味に合わない感性の持ち主である、今頃どうなっているかな?



   


 太宰治はずっと作家になりたかったので、「何をやっても駄目だから作家になったんだ」は共同社会に対するよくある弁明に過ぎない.森鴎外もそんな傾向があるな.窮鼠猫を噛んだ心理状態の発語というわけだ.



   


 小学生の時に錬金術を思い気にはなるがなんともやりきれない気分になったことがある.冶金もそうだが化学の話のような想定であったかな.化学という言葉は小学生の時に知った記憶はない.中学生の時に最も印象に残ってるのは水酸化ナトリウムと付随したナトリウムで塩化ナトリウムは勿論



   


 しかしなれど青春時代の写真はなんとなくの錯乱気味になって全て燃やしてしまった。非常に不都合を齎す事になったあるxxの作用によるのだが、いまでも作用があるのでまずい事は起こり得る可能性あるが、必然の枠内のマイナス?面対象か、プラス面者はまた不都合な言明を言いすぎてまずい事になり・・



   


 現実に目覚める形はよくわかる・何しろ時間を待っていたこともありその間パス的な現実故に.--実際は現実を目覚めさせると昔の意図だったが、最近は不明錯綜になっている.昔にその時の情況を詩的表現したことがあり、なんでもないおもむろさだったがの内容がなぜか尾を引きすぎて、なんとも混乱気味



   


 今の状態からはボルヘスはまだ?明晰と言えそう



   


 現実に目覚めるはよくわかる、わかるが今は現実と思念が錯綜していて、恰もその境界的位相で混沌気味



   


 p進は下に有界で有限でいいと直感したあの時、有限は距離感覚も作用したのだったかな?.ともかくハッセにせよフェルマーにせよ、実数とp進数の関係は、∞*/∞=と簡略して見た.実数に関しては中学生の時のあの橋のたもとでπ的や循環数とかで悩んだ記憶は忘れないな・・



   


 どうなんだろうモチーフはある程度出来上がっているのかな、知らないな.ギャップをどのように克服しているのか興味ある.個人的には限界子・限子と仮想しているプランク数以下が登場していると思うが、その域では多分に人々はペンローズにヒント得ているだろうな.



   


 何だろうつながっているだろうと推定するがまだつながっていないようなp進とモンスター数.だいたいガロアのフラクタルでモチーフ困難は推定できるからだ.冗談じゃないなぜこんなことを考えてしまうのかと思ったランダムを設定する起因の場所の近くを歩きながら、この困難は深淵ギャップを想定させて



   


 小学生の時に量子現象を考えていくらなんでもまだ早すぎるだろうと自己セーブをかけたのがまずかったか、あるいは中間的な誰かがセーブをかけて中途半端なままにするといった可能性もあったな.それでも光の直進粒子位相は自然に思いついた小学生.



   


 言葉の子音にしろp進にしろすでに義務教育時代に浮かべたまではいいのだが.子音の発音がきつくてまあ別に子音などどうでも差し支えないだろうとした、が英語で子音には価値があり.などの数えきれないつながりなど思考することは人間的ではないとしたが今のコンピュータ時代になんともと



   


 あの道のコンクリートの遮蔽物のところでやとかの数値列の長さを思い浮かべたのはいいが、こんなことはやっていられるかとした義務教育の日の記憶が災いしているような?



   


 ブームは明らかにパーコ現象と考えた記憶がある.流行に対してパーコを操作できるか、そうすると意図的にブームを作り出すことが出来る.最近は日曜から月曜にかけてギャップを感じ逆パーコ・パーコ還元のような思いをなぜかするようになってきつい.ギャップを相転移的心理とすると負荷がかかりすぎる



   


 無限遠点で素なるアデールとなると紀伊国屋での無限遠点の動向に答えを出せという内部の声もこれを示唆していたのか.素とは無限遠点でゼロではなく焦点に収束することになるが、有限無限が成立してそこには制約があるというおかしな話になる



   


 固有値を個持っている方程式があるか?、特性方程式を考えているときに浮かべた個の既約方程式・既約自体は非可換であることになっているが解であることは間違いないというものはあるのかな?.



   


 有名なエピソードでキリストは単性生殖でマリアが産んだだが、ヨセフの実態はどうなのかな?は省略すれば、キリストは予測される遠い未来のXX単性生殖による存在ということになる.まさか単性生殖を新約時代に考えていたとは思えないが、キリストは遠い未来人あるという事も成り立つ.新約恐るべし?



   


 ここで反転を考えて数百年前の人類はどうであったか、現在に至るまでどのように変化したを鑑みると、現在をルーシー・アルディ&カダバのころとすると、数百万年後の人類の容態はXX単独というよりもっと変化していてもいいような気がする.果たして数百万年後に人類が存続しているかどうかも不明かな



   


 ワンパターンのあるxxがいて、どうもその持続性の変化しそうにない様相からまるで悪魔のような存在と思う-悪女の深情けを知らなかったが.ゾンビ的なアンデッド的とも表現できそうなある映画を見ながらヒントを得る.



   


 不本意な忍耐を強いられる時は他者から意地悪を受けている、それが意図的だろうとそうでなかろうとである。とにかく不本意な忍耐によって調子付く存在は不快でしょうがない。主体的忍耐の邪魔でしかなく、この邪魔な記憶の消去が結構困難で無駄にエネルギーを費やす事に



   


 月の雨よ、池から流れる沢の小さき木橋を渡る小道よ、歩みて業を思う心に佇みて構造を想う雨の透過よ、傍らの群れ伸びる野草よ.(月のそぼ降る雨の中小さな沢にかかる橋を渡り、名も知らぬ群れ密集する野草の脇ににて-の幼き?若き?日の記憶から)



   


 仏教の二惑から見惑と思惑において、思惑はあまり考えたことがなかったが、事実上中間存在は限界を持つは思惑にあたる.倶舎論の一来向を家家(けけ)と称するを知り、なんだ仏教考えてあるなとまたまたミクロ見解を生じる.やたらと大げさな表現がありすぎるマクロタッチで静かになっていたのだが.



   


 まいったな問題は片付いていたことを何十年もかかって発見するとは.所々諸々の未熟な阻害が邪魔をした形だが、先達を尊重するという長いものや伝統や踏襲性にもよる要素もあるかな..



   


 現実は叙事的だけではないので覇者型が策謀意識を持つのは本能的なものであるだろうと.しかし叙事体人間には策謀体比重強き存在もいて、なんと虚偽体に映る存在も経験上顧みて遭遇した記憶がある.抒情的のみかと思えば無機物実在からそうもいかないというジレンマもある.



   


 陋劣な頭脳の持ち主のXXは気持ち悪いとは思うが、ある場所である女子大生か母親と一緒にいたので女子高生かの美女に気持ち悪いといわれたことがある.全くストレートに述べるものだ.まあ気持ち悪かったのだろうの頭脳性の状態だったのかそれが現実的に普通なのかも知れぬ・・・.しかしなぜ対象に?



   


 T大・ある小学生に捩れを齎した存在



   


 思い出して見るとカルナップの完璧主義ではなく歳の一様にその後ある駅で遭遇したことが思考進展のなさにつながっている可能性が最もの気がする.



   


 嫌いだったポアンカレから非保存量を用いて希望市民に付随する暗黒と市場原理を考える時に登場する深淵を非保存量と設定すると旨くいきそうだが、思考が進まない.基本・初等的に非保存量を知っている人材は何か考えていそうでそれを知らない・気が付かないだけか、またはやはり考えてはいないとか



   


 竜安寺の石庭の石の数は個?、ならば個人的には阿頼耶識・無意識が飛び込んでくる.禅宗の庭らしいのだが.



   


 天上天下唯我独尊表現はエゴイズムの極北と思えない事もない。この付近から他人に同情や親切にするタイプではなく、他者に傲慢・倨傲な存在が天国に結構行くものであるなる考えを類推したくなる。そんな馬鹿なな思いはあるが、神は超権力的存在と考えるのが一般なのでありなのかも。超権力的存在は倨傲



   


 法華宗の人は誰でも仏性を持っているとは、誰でも天上天下唯我独尊的であると解釈出来るのだが、複数存在が唯我独尊とは矛盾していないか?。唯我独尊を肯定するならば唯我独尊的位相で、ホッブスの懸念見解の競争があることになるが、概して現実の様相はそう見えなくもない。



   


 人は何者か判明すれば未来は必要ないと直感が述べている。



   


 人間の持つ不可侵なものとは?。それは人間とは何かの対象であり哲学的命題でもあり、また人は何処へ行くのかでもあると思える。機能・物理主義的では簡単すぎて部分しか表現していないと判断する。



   


 ある種の普通の人はパワーを自分では持っていないが他者の権威を用いて厄介な存在だと昔から直感で思っていた。数年前からハンナ・アーレントの存在を知り、何となくその種の人間はミルグラム傾向がありそうだと。



   


 ちょっと待った普遍グラスマン多様体、何となく



   


 ?味しめは優雅であることの快感者か・・.優雅など別に今更どうでもいいと思った歳を知っているが、とにかく味しめはセンスが悪く頭痛い意識構造者が多い.よく言えばスマートだが、そうスマートにも見えず.センスいい優雅ならいいのだが.



   


 気取りが快楽で味を占めてワンパターン化した存在を、官能を用いた性的な位相の幸福な安心な安全と思える感覚を持つ多数派という偽善形式者を気取りマシン・気取りロボットと認定と思いついた.ワンパターン化してどうにもならないのでもはやそれはマシン的な作用者・位相者ということに



   


 別に理性が間に合わなくてもXYがXXになるわけはないのだが、まったく付け入ってくる存在たちをからかっていることに・わざわざからかわれることをしてくる存在たちがいるものである.



   


 最も空想力が得意な人は多いが、ともかく理性が困難・カントの理性の帰結は論理的に正当にしか思えないが・な展開は成立している.パスカルのジレンマとも.



   


 人は現実において想像力を用いる.



   


 ポアンカレ・その名のずぼら?な拘束イメージが嫌いで避けざるを得なかったが、かろうじて論文修正は知っていた.カオス・体の関与者とはまあ知らなかったといえる.あの時の摂動・埃立つ道で摂動自体は摂動で、他にあるのが非保存の深淵ということの予感であった思い出.



   


 夏目漱石の小説には三角関係的記述ケースが多い.夏目漱石は永遠を希求していたことがうかがわれる.三角関係と三体問題は同じような位相を持つ可能性がある.三角関係はしないつもりが他者が干渉してくる・この他者たちは何を求めているのか、不動心不変なものに引っ張られているのか?.



   


 狗子仏性で仏性があるは常識なんだ、法華宗の寄与?.無すらないことは空がないことなのか、陰陽の太虚と無すらないとどのような差異がある?.空即是色色即是空の空がないはずの無



   


 霧藻ヶ峰にはレリーフがあって不思議なその意図は?、道に佇んで前面の景色の視野に枯れ枝だったか、サルオガセを初めて見ていい感じの高山的雰囲気を持った記憶もある.サルオガセは霧藻とも別名があるとは今知り、霧は煙霧の霧かと思っていた、確かに名前の通りの所であるな.この感慨も再度にはなく



   


 明るい市民の希望に暗黒が付随していたハイティーンのころからの、この暗黒付随が市場原理としても登場している.陰陽には完全な陽や陰はなく、五行に相生と相剋がありと知る.この暗黒はどうにも陰陽的になるが、人間的で表があれば裏があるとかにつながり、表裏一体や日向には影ができるなども.



   


 今の思考視点で物事を考えても視点レベルを下げた形になってしまう.所詮システム構想のころ以上にならない.帰納の実践思考を積み上げたところで、現在・現状時間に即しているだけにしかならず.もっとも生理的に人は現状に即して生きざるを得ないか



   


 イデアル化ザリスキー化してみてしまうからか?、しかし重なると分岐で解析困難が発生する.普通に多層多様解析判断可能な人は強制的に射影化して重ねてしまうと見た.



   


 単に正規分布のフラクタルではなくて、場における多様な正規分布のネットワークに重ねて多様フラクタルに時間フラクタルも取り入れて.ポアンカレの体がどこに登場するかなんだが



   


 記憶のワンパターン存在のイメージがスケーリング的にマイナス一のはずで、それで等速直線運動のイメージも持てない、単に負荷のみの荷物的荷重存在にしか見えない理屈は想定できるが、この登場という困難さを予期した中学生と障害の小学生



   


 正規分布も複雑系も何だった?というような蒙昧頭になっている.ある陋劣頭のXXが作用してそのような蒙昧を形成している可能性が高い.無知無自覚XXが単に生を生きてまたより行動的だと蒙昧な忙しさを強要するからな.まあ会社などのヒエラルキー構造は断面がベルカーブに見えそうだ.



   


 ある一定の大きさの小さな粒を何個か平面上に落としてみると横は正規分布形になり、全景はベルカーブを形成することは紛れもない経験事実・自然である.人々はこれゆえに正規分布思考をするのだが、それは当然で当たり前すぎる日常である.が複雑系は少し異なることを昔から何だが、まだ正規はありて



   


 例えば陰陽論にしてもその止揚は太虚しかないではないか、唯物弁証法の理想にせよ絶対知にせよそれ以前の過程の時間経過反復パターンでしかない.その反復を保証する形の造形物として人間類は存在しているのだが.



 昔のある時ある場所で未発言ながら内的思考で、あるxxに対して精神現象学を読めばと考えたときに、ハイネという曖昧な名が浮かび何故なんだと、ハイネはどうやらヘーゲルを尊敬していたような事を知り、それで合点が行ったが、そうだったのかと思考展開上に暫くの可能時間を見い出した・・



   
 

 フェルミとポーズに関しては物理的に弁証法を展開するのは難しい。超対称性しか知りえていないが。弁証法は基底本質以下のレベルでないと成立しないかも



   
 

 どうやらタナトスとエロス、陰と陽、フェルミとポーズ、宿命と運命とかパターンができ、黒い神聖は夜のフェルミ的かな?、フェルミにはタナトスの影をどちらかといえば感じる・見るが、フェルミ的は他者に押し付けても所詮意味ないのでは?、無意識自覚をしているか?と思考が進むこの感性知覚によれば



   
 

 トリックスターをユングが取り上げていた、知らずこれかユングに対しては?。あの橋のところで元型を浮かべたはいいが、その先がさっぱり進めなかった。そうかいまでは汎関数自体に汎無意識を設定してもいいかなとは思える。



   
 

 揺れるアジアと言って経済第一の見方だろうが、マルクスの述べた資本国になるべきだ・が実際にアジア式国々に展開中。この後マルクスの目論見通りに行きはしないだろう、新たな視点は宇宙自然への対処かな?、理想の後でも必要であるはずで、まあ今でも温暖化検討や陽転の寄与が想定できる



   
 

 義務の連続である殉教的存在は必然的に全ての可能世界を義務化するわけではないので、限界合理的な生を送るという結果に終わる・から現存在はほとんど未完に終わるという意見も採用できる.完結すると継続が成立しない有機性が世界があった・世界がある筈・はずだろうとなる.



   
 

 必然的自由は自然的義務であるのだが、可能世界の中でその一つの選択はかなりの束縛と思えばそうであるが、人々はそれを日常行っている.その義務に多様種類があるという生活空間.ゆえに勝手なことをしているという意見が登場する・また義務の連続が当然という殉教的実在も多くいる.



   
 

 Kのスキー滑降はまさに無茶苦茶すぎるだろうNRでさえから考えて、ナンガのシェル・ルートは容易・個人的には全く不可能だが・と思う.メスナールートで、単独でいいのだが、冬には想定していないがエクストリーム的にはそうなるか.メスナールートを冬季単独無酸素なる人物が現れるのかも.



   
 

 最大値の皮肉



   
 

 縦横無尽は超対称性の現実化



   
 

 今日現在の時点で昔からまだ少しも変化していない領域対象があることの認知をする.逆行する事もあるかもでそれも考慮しておかないとか.逆行はむしろ変化をしなかった秩序の圧力か本質の無変化とでもいうべきか、ただ時間は経過している、ただし空間はそう変化をしていない.



   
 

 ミレニアル世代、了解している理不尽不自然と個人的には矛盾が解けなかった事も踏まえて年代生まれなら、またそれ以降世代が世の中を変えるだろうと思っている。



   
 

 またまた余りにも単純に気がつくべきことに何十年も費やした事に気がつく。自分の才能ゆえにと言えばそれまでだが、なんと愚かしい思いと不条理と、だが超対称性も浮かびなんとも心理は受け付けず。超対称性は物理対象的には想定だろうが、心理的には理想か無知に思える。



   
 

 理解してみれば、理解した形とみてだが、すぐに気がついてもいいレベルの事柄に何十年も掛ける。既に把握しているのに事態はそこあるままの何故か頭脳が麻痺している情態の持続が続いて。かような苛立つがそのままが続く不快なケースは多くあり、悩む必要無いのに悩みの種になってしまう。



   
 

 俗物の質の悪さはその明晰志向によっても除去できない、欺瞞で質の悪さを隠すか無自覚で気にしないで他者の審美感に意地悪をするだけとかその他・・



   
 

 人間の存在論的ありように含まれていてそれについてどうのこうのいえるものではない--カントの物自体も確か言いえないものではなかったか-はともかくとして、それによって行使された・書かれたものについてもやや批評できない事になるのではないか?



   
 

 なんだか変で、逆になっていることに気が付かない存在たちになんだか遭遇しすぎているようである.とするとも直接に寄与していることになるが、それも無意識を用いている形で.



   
 

 しかしどうにも昔の主体の阻害要請・強要者たちの記憶が不快でしょうがない邪魔になっている.なぜこれら多くの人間は主体を歪めたがるのか??まったくわからん.意味がない上に、人の主体を歪めているとは全く思わないでどうも消えてしまった人物もいる気がする.全く無茶苦茶だ.



   
 

 面食らってしまったum、テトレーションのデザインの良さと二年生の夢のまさに童話感覚-どんぐりかそれに類するナッツ類を連想させて



   
 

 生活を変えるしかない-Wbot.全くわからない、恣意的は?、人間を変えるしかないでは?



   
 

 中身の詰まった空とは矛盾しているが、空が集まって密度・濃度をもって有が成立する運びとなった?.しかしまだ誰も知らない、ただ空であったろうと想定しているだけで.



   
 

 アベルとカインにセスという弟が傷んだ、知らなかった.どうもノアの箱舟のようで、ノアの直系先祖がセスということになっているそうだ.wa nothingとは太虚か空かどうしても人は最初は空を想定せざるを得ないようだ.中身の詰まった空でないとつじつまがあわない



   
 

 実存といえばフランクルが最も誠意があるだろうと思える.その点小説家カフカは指摘のオンパレードでくどいといえなくもない.サルトルはクリプキの可能世界がフラクタル的な多様性を持つ中からとか、これを思うと蜘蛛の糸の作者も実存性を垣間見て漠とした不安は虚無に繋がる実存性の体感であったとか



   
 

 審判を読んだというか眺めたというか昔、文庫の最後部にあった断片でテントレット(名前は確かそうだとで昔の記憶なので定かではないが、この名前が個人的には普通に通るゆえ)屋根裏部屋へ行くとかの下りは妙味を感じたが.実存が本質に足らないといえば典型的だが、一言本質が不明で事は足りるカフカ



   
 

 パスカルの中間存在である現存在は当然未完で終わるのは明白なんだが、ハイデッガーがほとんどの現存在は未完で終わるというときは本質に対する実存の定義からか、サルトルの世界の責任の引き受けは未完的存在とも思えない、そもそも未完的人間に世界の責任などという位相が持てるのか?



   
 

 レオン最終場面・脱出もう一歩のところで(やはり封建主義では暗く遠くにみえる明るい点のところへ行かないといけないとした小学一年生.年の時には黒体輻射の内部から差し込む小さい点の穴に変貌して)現存在の多くは未完成に終わるとはハイデッガーのシチュエーションのとあるミクロタッチケーズ



   
 

 それにつけて思う叙事的人間の底の浅さ・離散単純化する暴言的思考であるエピック.歴史は事象的に叙事的な事実が残るのが常であるが、この視点に徳辺的に絡まってしまった傲慢な難物がその抒情性の不可能さをもって存在した記憶がいまだに不快すぎる物としてある.その逆でなければ無理解の典型態度が



   
 

 レーガンやジョン・レノンを撃った人物の身近にライ麦畑で捕まえてがあったとTVのセリフ、そうなんだ理由は即座には不明.ライ麦は解釈が難しかったが今のところ、境界時間を超えず、境界内に意識をとどめておく、つまりロウ・ハイティーン時代のままと解釈しているが、正解かどうかは定かではない.



   
 

 どうもバカらしさか困難さか自己諧謔をしてまたそんなことを思っているとそれが現実になる.実際は単なる空想と思っているのだが、他人から見ると無責任を堪能できるので誘惑に負けるようであるが、共同意識尊重者であるとかその他であるだろうな.



   
 

 阿弥陀は親鸞ただ一人を--選択しただったか、親鸞も相当他者に対して救済自身があったと見える.阿弥陀の身が立たぬのツイートを見たが、マズローの第段階のセリフであるようなのだが、実効力に疑問が、そうでなければ法華的内容の心情に依存している可能性が.



   
 

 現実に遭遇する事象は年間的第ステージを去年を意識する限り成立する.今年も結びつける要素があってそれゆえにそんなことを思う.それ以前の年間の記憶はない形で・結びつけが困難な心情は?



   
 

 信頼できないのではなく他者が信頼しないというケース・そうしてそれらの人々は常にやり直し・蒸し返しをして無駄な労力を要請して、歪めをを生じるものである.



   
 

 長いものには巻かれろは無責任と関係しているなと、小学生の時に近所の家の通路で浮かべた世襲も、ローマは日にしてならずと結びつくと判断できた。この両者には関連を想定できる。



   
 

 パーコレーションは創発説になるのか、ペンローズのちりも集まれば山となるではないが、なんらかの微小があつまれば電子に・ブランク距離になるという創発説パターンがあったな。無限下降により不可知であるでは怠慢にしかなってはいないが、然りとて太虚にしてしまうのも思弁的不実在論である。



   
 

 後天的な行動主義的な視点を垣間見る移動エントロピー論、優秀な発想力と共に苦肉の策も覚える。なるほどセマンやプラグマの困難さがわかる。そもそも被養育者は先天的に視線を向ける能力を持っているのであり、ロボットは心の哲学意識を持ち得ていない点が、難問としてある。



   
 

 奥秩父のある所に賽の河原と呼ばれるところがあって、昔その時には幻想的に嫌な思いをして稜線デートをしそこなった記憶がある.まあ下って登るのが嫌な場所でそれがよぎったこともあるが.賽の河原は子供用の話とは知らずに.「蜘蛛の糸」にせよ仏教も脅迫と宥め・賺しがあるもので嫌な気分が発生する



   
 

 相国寺の中庭は一瞬の良さは覚えたがそれだけの時間でしかなく、自分で作成しないといけないことになる.要するに愛着を自家薬籠にするような庭景がいいのだが、自家薬籠に関しては小学生の時に丹精を込めた梨の木が行方不明になってしまって、それ以来薬籠に関していらだち感情を持つことに.



   
 

 しかし潜在能力がない対象も困ったものである.それと潜在能力を潰すタイプにXXが多い経験がある.女性は芸術品であると言って置きながら、結婚は失敗だったと述べた作家がいたがこれも不快な例だな.自己の性意識レベルの拙さ?を棚に上げたか、その対象が悪すぎだったとかでは?.



   
 

 それがそうであると示せば、その確かな実在を、記憶してるとして明瞭に名+名とその他名くらいしか知っていないかな・・・



   
 

 (その人物はエントロピー増大に関しての試案となっているかも知れないと幾分思ったようである.この域に関して年齢は不問であるともしている)



   
 

 (その人物は他人を無視はしない、特に同じ考え方をする他人であるならば)ということを私は知っている.



   
 

 (ある人物がいて秘かにその人物の思考形を用いてみてくれと考えている.とにかく使ってみてその結果を見てから判断してもらいたいとその人物は思っているが、人は使おうとせずむしろその人物を強制的に無視する.その人物はそれらの存在達に責任があり人口減少や高齢者問題対処権利があるとしている)



   
 

 そうすると昔わからなかった精神分裂者・統合失調者の描いた絵の、ワンパターンの不変性はあるがそれを思考的に表現できなかった絵も、ベクトル的ではなくアフィン的とみて差し支えないかな.



   
 

 昔岐阜のある男子高校生の夏休みに因数分解の質問をされて一意性に迷ったことがあり、高校生にだめだ言われた記憶がある.慶応を狙っているとか言っていたがまさかとは思ったのも以心伝心的にプライドを刺激した面もあるようだったが、単項イデアルのみを考えていたような高校生・は甘いと言えないか



   
 

 ふと浮かんできて限界合理性はベクトル空間では?と.あの複雑怪奇もアフィン的にはそうだなというくらいに見えるものなんだと気が付いた.いわゆる混沌自体的なものについて.



   
 

 シンプレティック部分空間はナイスであるとしか言いようがない.行列が嫌いなので意識に上らなかった面もあるかな?.なんとなくようやく探し当てた古典論とか.冗談で古い陳腐と思う人々を持ち上げて、{古典とする時間と空間}などと表現したことがあったが、自分に跳ね返ってきた.



   
 

 斜交形式部分空間の斜交的・等方的・余等方的・ラグランジュ的の種--シンプレクティックの言葉はあの頃全く記憶にない.こじつけてみれば特性方程式の種の既約方程式が似ているようなだが、これは類体・数論傾向と思っていた.



   
 

 なんとこの書物の最後面にはヴィトゲンシュタインの個々の把握像はあるが、人々は全体像をとらえてはいないとある.まだそうなのか、eventeen/th
が空白なのもまだ救いはあるかな.『言語は口に描写された画像である』--これを記述してあるのだが、明らかにTLPの寄与があるな・・・



   
 

 さすがに戦争対峙では実存分析的要素は出てくる、実戦上においても有能なリーダーだったのは資質的に定言的人間だからの面もあったようである.身体の限界を感じていたのは戦争初期から海馬的存在だったか、あるいはどうにもならに有限性を戦争時に感じた面もありそうだ.



   
 

 DNAトポイソメラーゼは実践的DNAトポロジー範疇か?、化学・生理学的な複雑な絡み合いなら因子多く、解析できそうではある時間を介在できるかなと.この場合時間は瞬間的とはならないが、転写構造などは結局無駄なDNAはまずないという中学校の体育館での直感の範囲であった.



   
 

 別にヴィトゲンシュタイン専らモデルなんだが、多くの人々がなんだかんだと追及・研究・調査などやエピソード論などを展開しているので、それに任せるという手段もないことはない.棚にシェリングもあって思い出す昔、ベルグソン論をちらっと、純粋持続の多様複合も『奇妙な保管場所』の参考にはなる



   
 

 どうでもいいのだが不細工なXXには幻想ごまかしまたは欲望自然で実際には審美感覚が欠如しているとしか思えず、これはカントもそう述べている・カントの判断力における欲望面しか持ってはいないということなんだが、悪人正機説的には悪人で無自覚のずぶとさを全く持っているという傲慢存在がいるのだ



   
 

 一般に渋味と言われているものはエートスであるが、どうもこのエートスは束縛力強くその方向で人生を送ってもいいのだが、鬱屈につながり体質的に好まないな.深淵・深遠とかはそれを渋味一様にはしたくはないが、渋味一様は弘法筆を選ばずの束縛的閉鎖的ではあるが一面もあるので否定もできず



   
 

 種類の戦いで心理不調になり生理的異変をもたらしたことがあるが、次方程式や次元があったのになんということかと今ふと思いつく.神聖型のイージーさがやや問題だった記憶だったが、カントの美・判断力批判からもそれもないと言う事になる.



   
 

 フェルミ人間も単体要素強く孤独的存在で、他者達の密接さを裂く可能性が高いのはその必然的固有要素による.反交換は交換の邪魔をすることは明らかである.反交換から見ればその行為は自然でも交換からは不自然なことを反交換者には想像できない・考えもつかなそうなと言ってしまいたい経験がある.



   
 

 この不思議な感覚の別離・乖離位相場は超対称位相ということになるが、現実にはフェルミ・ボーズ混淆して生きているのは当たり前なのに、超対称自体は本質的には現実とはかなり離れた位相のようである.



   
 

 フェルミ的位相者には叙事性が強い判断があるが、必ずしもフェルミ型が古いというわけではない.フェルミ型はまた縦型人間が多い.フェルミ粒子は今もそこにあり、経験上フェルミ位相・これは何と思ったことがある.そこには乖離があるのは確かだが、こんな心理位相がなぜ成立するのかと思ったものだ



   
 

 なんとか価値を見つけようとするXX達のだが、その潜在意識には意味がないケース十分すぎて



   
 

 幕を開けるとそのXXが不利になるので、潜在・無意識を探索した時に幕をあけちゃだめとそのXXが述べている形の考えが浮かび、すでに開いているのにこの愚昧さ、責任はこのXXの存在にもあると思っている.



   
 

 モノポールなき磁性体は追随性を有していると言える今のところ.ハードディスクは?、そうなるとロボットは限界を持つような、ロボットはロボットであると.



   
 

 経験上著名な作家類は抑圧しか受け取った覚えしかない.抑圧という意味なき心理の無駄をさせる束縛観点を齎したという不快記憶しか



   
 

 未完成の人間には将来性があるように見えるが、結果大したことはなく終わってしまったとかのケースは多くある.この将来性はエントロピー増大に依存の結果いえることで、ポテンシャルがあるからではない、ポテンシャルは減るのみである.-境界以降の時間の場合.



   
 

 さいたまトリエンナーレの岩槻の全く地味な目立たない建物の敷地の柿の木のそばで係りの女性と話をする・「ちょっと滅茶苦茶な生き様だからな」・「それがいい」と、一般社会とこうまで異なるものかと唖然とした去年の晩秋



   
 

 狂暴エゴの叙事的存在だが意外にも甘え能力が高すぎる存在という経験がある.ややパターン的であるはずのタイプ.



   
 

 市場原理や市民の希望に対してどうにも深淵が付随して解決できない現実心理なのだが、存在論ではなく漸近的自由性空間を導入すると説明可能になりそうなヒントを漸く得る.



   
 

 漸近的自由性類似パターン的とすると最も良いかも、超対称が絡んでくるのはそこに場の設定・存在が自然に考慮できるからの与件ありか



   
 

 アレンジや模倣なら他の結果を追うことは確かである.特に評論・批評はそうであるが、詩人も考えたが表現しなかったので即物反応であったとなる.詩人というべきだったな、最も小説にしても固有名詞は登場させないので、件の小説類も疲れる白けた気分には大いになる位相を持っている.



   
 

 全くやる気の邪魔というか無駄なエネルギーを使わす存在XX,タナトス的か優越感を覚えたい卑怯・卑劣な存在にXXが見えてしまう事になる.困った心理感覚であるのだが、そんな位相に数多く直面して不快な無駄ばかり行う羽目になっている.創作は他の結果を追わない・・



   
 

 ある女性に”太宰治じゃない”と言われて、流れの勢いで君のいう事ならそうだという論理的には間違いとは考えただったのだが、内心で”その通り”と思ったことがあり、これが寄与しているな.芸術至上主義とかも浮かべたがよくわからなかった存在、思えばしつこい蛇のような存在と思った人物ではないか



   
 

 でその自業自得だが、結局心中に終わった時点で駆け込み訴えが作品として完成したとか考えるが、何しろエピゴーネンなので個的自殺ではなく心中という甘えを設けたという結果に.心中は甘えという視点を思いついたこと.なんだかこの作者的に思われたことありで、無茶な言明をXXから聞いたものだ.



   
 

 ダンテの神曲の有名な箴言は新約聖書のマタイ福音書第章第節からとジッドの狭き門より今頃知ることとなった.狭き門への要求に答えないXXという認識だが.カフカについての説明がジッドの狭き門に述べられていると思うのは勘ぐりすぎかな?



   
 

 H曰く”愛読者ですよ”と細君に言いわけ気味に、愛読者?、確かに内容・思考内容には関心あるが、文章書体センスには興味ないが.大江健三郎だったかな、ロマン小説といったのは.確かにロマンの香りは十分ある.



   
 

 吉祥寺の南側にあるユニークな作家の家があって玄関払いを食らった記憶があるな



   
 

 南十字星でもアンドロメダでもいいが、あったのは保谷で今は西東京



   
 

 依存とか甘えは諸行無常からくるケースも考えうる.諸行無常は無責任ともいえるが、ここでは『過程』としてある.



   
 

 より何か新しい思考ができるかもと挑戦したことがあるが結局混乱を齎しただけでどうにもならず、今ふと思いついてみると新しい思考視点は無理で、今あるものの展開でしかないと何十年かかって了解したものとなるのかという述懐



   
 

 本質あれば実存があり、真あれば偽あり、共変あれば反変あるとかなど、道教化しなくても日常至る所にセットはあり、それをうまい形にした道教と言えなくもないが、ある志向性の方程式がこの付近で見当たらない・・



   
 

 頭を使えなく錯綜気味の日々だが、若き理解者たち<条例などなんのそのに思えるJKたち・たまったものではないが、そうでないと面白くはない・・>



   
 

 ラプス時間で現実を待っていた意識もあるが、実際にまだ成立していない現実を見てしまうという、無駄ばかり強要された形を十分感じているにもかかわらず、現実はまだ成立していないという何十年の時間・・.現実基準にすると無駄な時間ではないとは驚き、若き存在達には理解可能ではと思う漸くの日々



   
 

 最悪最低をθに見てしまい、記憶から除去できない不快な存在がアリゲーターXXによって、ただしΘは本命なのでいいのだが、この辺の構想をはっきり述べれば、それに応じるはずのXX達・セクスアリス形なんだが、今からでもそうする設定にしておこう.会うこともなく存在不明対象たちだが



   
 

 ユーロピアーナの構造は変容を余儀なくされた形としてのΘ構造によく似ている、境界・分別線をアリゲーターとしてだ.ピアナはグーグル対抗意識もあったのか、Θは現在であり、このピアナの参照が日本でも可能性ある未来段階なのかよ.実践形式として昔に設定した形のミクロ事象のマクロ性という・・



   
 

 『久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
』--気に入り自作の半分より



   
 

 緑樹の相異に閃かせた明るさが灯火として点る頃...<小学校の校庭わきの杉木立を思い出して> 川面に当たる陽光がきらめいて<思考に疲れた・気分転換の散歩中に・運命の第二楽章を想いながら>.... ***戯れ複数最小数<日本海の内側に面した小さな半島の海べりの道を歩く・・>



   
 

 自分に期待するしかなくなってくる、自己の態勢が整わないのに他者から期待される形もあるようなニュアンスがあるのだが、どうにも態勢が整わない心理内容ではその点はうまくいかないのは目に見えている.やたらと入れ替わる存在が多すぎて整理ができず、しまいには不快を常に抱えているという情態に



   
 

 どうも他人や他者の出来事関係に期待すると期待外れに終わることが多い.またも他人に期待しないとことに-それににしてもなぜ期待するようにまたなったかというと、あるXXの影が何十年も期待外れ・魅力なさ・色気のなさ最低・最悪XXと結びついてしまう形で悩ます相変わらずの所為だからなんだが



   
 

 平田篤胤の宣長の霊---そうなると清盛とか頼朝・信長とか武士の霊はどうなるのか?、特別扱いして他は万骨にするのか、まあそれでも過去へのシステム・離散で説明できないことはないシステムを考えていた今頃の昔の日々



   
 

 その存在理由が--すでにその存在理由は意味がなくなっている..だったが.



   
 

 他人は模倣だから自分には責任がないという無責任に従っているのだが、ミルグラム的なブーメランを見てもしょうがないが.いろんな意味で戦略の不分明だろうが、遭遇した人物たちも無理解・無知すぎる存在であったな.まあ認識能力がないからそんな存在は考えてもわからない・・



   
 

 結局二週間以上の時間があっても借りてきた書物を読まずにネットに向かってしまうのはやはり中毒性を通り越して無意識では、最も車など人力機械的的よりリアルマイクロ制御が自然的当然な日々を連想する.なんだか思考だからリアルな身体はいささか別にの姿勢がある人々はかっても存在したが



   
 

 とにかく他者化や抑圧を設けてダメにしたがるXXたちがほぼでの記憶があり、さすがにXXを信用できない・信頼に値する存在がいないくらいに思う、それにしてもやる気をなくす抑圧傾向のXXが多いすぎる.そのXXたちは他の男を相手にすべき存在であるとしか、邪魔をするXXを好めない



   
 

 メッキをしすぎな外連性がないか?、どうも陰謀力が強いのでごまかす対外的虚栄面意識が強い作家に思える、人相的に嫌いな権威意識と陰謀力をその写真から感じるが-そうなると覇者的存在ではないか.覇者的な抒情性のない存在はどうにも好めず、何か勘違いをしている無自覚な悪人に会いすぎるが



   
 

 結局二本足構造を否定はできない、結構このことによって矛盾が生じた意識時間だった..必ずしもこの身体構造を別に義務化する必要ない考えで、奇形は未来的か過去形なのか例外なのか.しかしなれどやはり身体の桎梏から逃れることは今日の時間段階でできず、



   
 

 行動主義なる言葉に最初に接したその昔不快な思いをその内容を知らず直感で感じたのは、人類が二本足で歩くようになってからの時間において類人猿と称される存在は行動主義者以外に考えることができないことに起因がある、さすがに意識でそこまで戻れない、空想想定はできるが.



   
 

 その昔義務教育時代に浮かべた屈原より太公望は古かった.屈原で凄惨・凄愴関連の言葉を覚えた記憶がある.耐えがたきかな屈原の人生、その点太公望には明るいイメージを持つ・渭水のほとりの釣りで.屈原でさえ遠い昔に思った記憶あり、なぜに今その名を浮かべるのかと.太公望はいつのころ記憶に?



   
 

 嫌で邪魔で障害物であり妨害者を避けようと意図していると、逆に好んでいるかのような無言の態度をとってしまうようで誤解されっぱしの記憶修正がなかなかできず.確かにピエロを要求してくるXXたちの記憶もあるな.本来はオルテガの示唆的人間ではなくマズローの段階アップの努力をすべきなのに



   
 

 今年は去年と比べて年末の時間が過ぎるのが速すぎる。もう日である、やりたいことではなく、やるべき事(頭を使う事)が多過ぎる上に新たに発生して、温かく寝ていると頭痛が強烈に刺激してくるという.度の部屋。何事も進まん折角の自由時間の日々



 

 卵の上に醤油をかける、その軌跡はポロックの一枚の絵の初期の初期と同じようなと浮かぶ



   
 

 世には行動的人間が多いものである。行動主義は愚劣と思った人間には、行動的人間はうんざり、特に行動的xxの反発がきつい。そういえば”行動する馬鹿ほど”なる箴言があつたな、行動主義が不快な人間には、行動的人間は単純に思えて、粗暴的に思いがちだが、ゲーテは優秀な存在もいると述べている



   
 

 間違ったというか変換を当然成立する・しているものとして見ていなかった.恣意の法則と様相はほぼ一致する.帰納の未定にプログラムの場合他者の介入がどうしても意図すれば存在する理由がある.可能世界や必然性も入ってくるt-foかな.けがの功名の恣意の法則はクリプキの可能世界論が近いか?



   
 

 フロイトの領域は存在すると思うな、いわゆるリビドータッチの情熱が理性思考を惑わす経験は堪能しすぎている.リビドーの熱気が渦巻いている情態で理性的対象問題を解くのは困難を要する.



   
 

 波動関数が無限遠でになると仮定して--グリーンかよ.なんとも矛盾なかとか.波動線が集まると粒子的に存在すると見たのは小学生の時、弦・超弦の紐は波動線的なだが太さはないと.



   
 

 意識は意識領域を意識するのは必須的な前提にしてある-『奇妙な保管場所』という表現で『奇妙な』はクォリア問題にオマージュ(別に持ってはいないが、予期した形で・他者を考慮した、この世界生存者立ち・社会を考慮してそうした昔の記憶がある)を与えた点もあるが、自己対象未来を尊重した.



   
 

 現象判断のパラドックスは面白い、シュレディンガーの猫のマクロ的現象があるとは?.随伴説はなるほど・・、新神秘主義の自然の構造がそうなっている-のまあ皮相的には立場が考えが似ているな.



   
 

 ヒルベルトの境界というかM&Dの境界というべき設定を思いつく.



   
 

 妖気とか悟性とか虚無的柔軟・官能性とか--不快だが事実現実としてある



   
 

 ”「全体帰属性(自己超越性)」の情緒はより大きな存在と溶けあうことによる鎮静としてあらわれ”-これ親鸞の阿弥陀を連想させる.”人間にあっては「全体帰属性」が誤って攻撃性と結びけられ、神、大義、民族、信条、偉大な指導者の名のもとに大量殺戮が行われてきた”は叙事的人間を語っている.



   
 

 幼形成熟と幼形生殖から言語発生に共同意識獲得時間設定はどうしたもあるが、原始に戻るは意味付けできそうだ.原始状態を発露することができるであって、戻るのではない.単に戻るというと時間は可逆になってしまう.要するに保存形態なので使うことができる能力を人は持っているということだ.



   
 

 単に宗教の寄与力か?、簡易表現をとるとすればだが、その宗教の存在自体は無心論者にとっては決定的な場合もあるようで



   
 

 儀式と疑似科学・F物語映画とかの関連を考えているところ、迷信の作用から発展したものとか



   
 

 /の成功とは個の失敗ではなく個の成功の上に成り立つ成果と言えることになる.



   
 

 起きていようとしても視線が刺激して目が痛くなり、睡眠を取れという生理要請に素直に従って・・、人は眠らなければいけないは、性的力補充か回復・増強とかの要素があることは了解している。あるいはそれが主たる要因かも



   
 

 惰性-流路と分岐・鋳造の場合の流れの難しさとガロア拡大というかフロべ自己同型とか類想してもいいかな?.類体に関してペンローズ類似も浮かぶので、あの頃のペンローズの直感的ないかさま風と思ったこと・ただしタイルはそうとは思わず・と類体保留意識はなかったなと惰性群により判明したひと時



   
 

 なんだかんだ考えていると『現状維持無限変革』は宗教関係者に都合のいい考え方と思いついた.ホモ・サピエンス限定という.



   
 

 今からの推察だがそのころには地球は無機物体になっているようだったな.



   
 

 他星への完全な移住という手段もそのころにはあるはずだが、さすがに小学・年生、異星人からの人間操作漫画に寄与されていたか(地球に生きているある人間そっくりな母親が宇宙からの通信手段で何語かわからない会話をしている漫画に脅威として畏怖感を覚えていたころの話なので)



   
 

 地球崩壊は当然考慮してあってどうにもならないがそれでも何らかの無機的サポートを期待しての意図による希求文で終結している--記念碑



   
 

 地球が破壊するとすれば内部マントルが干からびて消散してしまうこと・その時間は生理体時間からは遠い遠い未来だろうが、それ以外に地球消滅は無いものと見ている.



   
 

 『人口太陽が年持つ』--この予見に似たような映画はまだ無いようだが、温暖化現象なのになぜ人口太陽・核融合人口体だが、いつの時間なのか世紀の話ではなさそうで、世紀以降になって温暖化現象はどうなっているかな?



   
 

 人にはリアルに写実世界・現実世界に存在しているのだが、それを忘れてしまう能力が備わっているというしかない.



   
 

 なんだか小説に一文章を筆記しているかのようなツイートになっている.自己主体の普通自然さを取り戻そうとしているが、虚無の海のような陰険フェルミ型がしつこく災いの記憶となって、つまり主体を歪めてきた記憶の除去を意図しているが、内部的にそのフェルミ的位相になってしまう不快さがありすぎ



   
 

 思弁的な当てはめは現象的に合うのだが心理的に合わないというケースに遭遇してやはり普通にはいかず選択の必要があるかな、リアリズムというオルテガ懸念をなんとも知らないような性的人間タッチの記憶.



   
 

 個人的にはナンセンスな無駄なんだが、他者達にとっては未熟な過程の無駄ではないのかもしれないが、そうなると進歩速度が遅く機会論上やはり無駄である存在になるが、普通はそうなのかも.さっと通過すると普通に何でもないことが、蒸し返しの苦痛になってしまうのである.



   
 

 自分ではあるときにある場所の位置関係の差がmもなかったかの場所だが、その位置移動によって徒労を味わい、徒労に呪われる将来可能性の高いことを思った小学生の時?だったかな.結果その通りになっている現在、だが昨日不当な理不尽を設ける他者達もどうやら徒労をしていると判断できた.



   
 

 よりわかりやすい特徴は縦構造は指示表出傾向強く、横構造は自己表出傾向が強いと言う事である.



   
 

 普通の日常生活において法華経が何を言おうと悟りには遠い存在が生きているので、特に叙事的な存在はEQ指数が歴然と低いのは明かであり、共同幻想には叙事的なEQの低さを感じるためである.指示表出と自己表出の考え方はいいんじゃないか、別にどうと言う事はない普通な当たり前と思う.



   
 

 ある女子大生が共同幻想論を携えて現れた事態があったことがある.何それ嫌な書物であると思ったのと同時に彼女は意外にそんなのを読むのか?と、単なる飾りだったかもしれない昔の思い出.直感で叙事的内容を示唆していると思われて、叙事的内容なら六法全書という書物がある.



   
 

 ふと落ち着いた椅子上で聞こえてきた魔弾の射手の冒頭のラルゴタッチはいいね、ベームかなと思ったらアーノンクールだった.魔弾の射手序曲はアーノンクールが最もだな(指揮者の違いなどよく分からんのだが).セロトニン一杯を堪能できる.



   
 

 どうも駆け込み訴えの作者の執念のペンネームは不快で、結局、何をやっても駄目だは、常識的な心理論理判断から、生きても駄目死んでも駄目と考えられて、当然作家という職業もその内部に位置している筈で、妙な特別意識を持っていたようだが、レベルを下げていることにつながるなと思いついた.



   
 

 孤独なる自由は唯一性でクリエイティブ的でもある.この命題はすでに成立していた日々だった思い出がある.フェルミ的単体は唯一性があるのかどうか、唯一性を発揮するのはフェルミ型は得意なのかもしれぬ.まあそれならそうすればよいので、交換を単体化しようとする不自然は頂けない.超対称はなしで



   
 

 形態の鼎は現象的に必ずしも対立するものではなく、そのうちの項は協調するケースもある。



   
 

 そのxxは減衰振動存在に見えている存在なんだが、未来の為には意味が価値が無いと判断しているそのxx存在の思うツボに移行してしまう、まずい。最近このxxが悪魔なのかと思うようになってきた。世間の人々はそうは思わず魅力ある存在とみるようなんだが



   
 

 個別にxy&xxを区別して日常接するが、またまた良く行く店に苦痛な存在が目立つようになった。自虐的に自己の歴史のある事をなかったものとしてみると、などと考えてしまったため。あるxxが不利になることは明白で、そのxx



   
 

 あれハインリッヒを倍にして失敗例ではなく成功側にたとえた近似値ではないか・/は回に一回の平均値になるからである./というといかにも多くの無駄をする気分になったものだが、指数分布の普通からの逆でまとまる時、頻度が高い時間の短さの場合もある・・



   
 

 /は個人的に今年の流行語大賞であるなと思う次第.比率的には回成功すると英雄になれる?、一将が功なるのは人の犠牲があることを思う.真理が単純になるのは回の思考悩みがあることに.漠然と真理が単純になるのは苦悩を数多くしないと思っていたが、数値が出たか



   
 

 反物質の代わりに人は意識を持っている?



   
 

 まあ呻吟・懊悩・苦悩を何をやってもだめだという位に絶望的事態を通過した作家としての専門意識の他者に対する説得力発露で認知要請であることは理解できるがだ.



   
 

 とにかく森鴎外とか太宰治の切羽詰まった形の叫びはなんなんだ、非常に迷惑を感じている.死に臨んでばかばかしとか言ったらしい自己認識力の鍛錬のなさと依存ができなくなる・今までの依存の無意味さを感じたに違いない愚かしさ表現や、何をやってもだめだからの作家も対象のうちなのにの中途半端さ



   
 

 駆け込み訴えでパンを用意したと作者は描いているが、当の作者がそんな現実能力があるとは到底思えず、もしそれが可能だったのなら集団を用いて用意したに違いない.ただここでは作者が自己生活を考慮せずに思念で実践優位を述べているという虚構性に引っかかる.



   
 

 写実に呪われている--畢竟身体優位にだ.なぜあの時に罪の意識を・虚構だからそう思ったのか、きっとそうに違いない.真実に対する虚偽・事実に対して正直であることを潜在的に持つことの起因であるかのような思い出.今ではカザノヴァ型の欲望性が絡んできてなんとも不都合な心理自由になる羽目に



   
 

 熊襲でもなく隼人でもなく投馬国に住んでいた人々に対する一様表現はなんなのだろう、邪馬台国などと同じ存在か?



   
 

 サンデルの書物にある公共理性とケルゼンの純粋法学は似ていないか、心情的に検事なる職業はどうもケルゼン的な位相を持っている・持っていないとのように思える.



   
 

 今頃自然の逆襲にあっていることを希求したい.最も意図していることは特にそのような存在にとっては非自然・不自然ににはなっているだろうな.となると意図に関して他人から逆襲を受けていた・個人的に無意味な犠牲を強いられていたということだが、他者に対する意図は無意味とは思っていない.



   
 

 自分にとっては自然だが他人にとっては非自然・不自然ということが考えられない人が多すぎる経験がある.



   
 

 ある数値内容がある周期時間でその内容に一致する記憶がある-現実を考慮するとこれは確かである.とするとその今から後のその周期時間になるとその数値内容の発生が成立することは確かにになる.ただしどのようなことかは判然としていない.



   
 

 あの頃は思惟の法則通りに生きると全くつまらないうんざり飽き飽きするものだと考えていた.思惟の法則があるとつまらないと、しかしなれど超弦の超対称性はFvBの止揚で物質・反物質も弁証要素-陰陽もそうなるなと思うと全く思惟作用的にはつまらなすぎる.



   
 

 無機的な人間が生きているとその要素・特徴はタナトス的でエロス性に欠けるといわねば、ある人物は原生的疎外と申したのでどうやらこの人物はエロス的よりタナトス側に傾いていたといわねば.「風は突然生理のように-」の生理のところの表現がひっかかってしょうがないがタナトス的ならば納得性がある



   
 

 で明晰は現行の不確定性原理からいえなくなってしまう.もし区別ができるとすればプランク定数未満の大きさであり、そこに明晰判断要素があるのかどうか、イメージでは混沌だが.ヒッグスから弦の考え方が趨勢になっている.



   
 

 直観では唯物的・叙事的・フェルミ的・覇者的人間は無機的存在に近いと認識する.



   
 

 昔に机の上に同じような書物がありどのように区別するかで悩んだことがある.どのように考えても区別ができないと、今思いついたストレートにプランク定数まで行って判断すべきと-悩むことは大体必要ないことなんだが、悩むのは無駄をなタイプの人間がいる)・不確定性原理にあると現行帰結となる.



   
 

 イライラする星の王子様という作品には解釈の仕様が多く合って読者自身にゆだねるという意見を見た、童話的作品は少なくとも記憶のある時から関心を寄せたことはないので、全くなんというかいら立つだけである.だから良寛も気持ち悪い感触を覚え、ディズニーランドなんぞに行く気はしない.



   
 

 秩序を保たねばならないが資本動向は変化している.秩序というのは変化を好まない維持を求めるが、がん細胞はそれとは反対に増殖を繰り返すのは秩序的ではないので、これは秩序と変化の間で秩序に対する変化ががん細胞として生理に出しているとか、ふと考えてしまった.



   
 

 考える市場の世界と深淵域がつながったと思いついたのにそれを全く思い出せない.なぜなのか茫洋としたリビドータッチ?の壁ができてしまって?



   
 

 またまた自分を消す方向に向かってしまった.不快なXXになって自己滅却をそのXXが意図している優越意識のために、自己諧謔を重要なことなのに意味のない方向にしてしまうというナンセンスを形成・醸してしまう.そのXXは時間の無駄で時間を停滞させている退行的存在の自覚がない原始位相と.



   
 

 だが、XXとXYによってその子供誕生も止揚的対象と見えなくもないので、そうなると類人猿も弁証法をしていたことに、いわんや動物・植物にせよ有機続にはほぼこの形式である.ただしパターン時間が進化や変化があるにせよやや長いかな.



   
 

 反交換の圧力はAはAであるの把持を妨害するはよかったのだが、思惟形式から弁証法を思いつく.F粒子とB粒子が現存しているのは否定弁証法・超弦が超対称性を標榜するのは弁証法のF&Bの止揚という形であることになる.結果として反交換の圧力は止揚の圧力になり高々弁証法形式という昔からの事に



   
 

 ある人物の愚痴の中で、いやな女で避けている・顔を見たくないという存在に限って会ってしまうという・それ以上に極端な希求も聞いたが・ことはよく覚えのあることで不快なことに記憶が残ってるというのと同じような.それで考えていたが、意図と反対の形は反交換なので、どうも反交換の圧力があるなと



   
 

 知らなければそんな風車を人間と間違えるような明らかに誰でも違いの分かる発言をするなと言いたかった人々が多くいる.なぜなのか、女性に意見を言うことができない存在達なのか?.それは子宮に甘えた男達であるのだが、XXでもその勘違い・風車突進を行ったということは?、ドン・キホーテは名作だ



   
 

 この数学は得意と述べたXXとなぜか間違われる.そもそもXXとXYでは異なるのに、人々はわけのわからんそうして誰にものを言っているのかわからんという理不尽ばかり受けてきた記憶がある.なぜなのかこの数学は得意といったXXに直接いうべきことなのに、もっともその存在を知らないだろうが・・



   
 

 それでたまに見かける異形の存在も複雑系に即しているので現在的と思ったりしていたが、とにかくその連中が線形頭思考を志向しがちな集団一致の疎外対処をするのでは始まらない.結局線形視点による疎外意識で避けるという形になる・・.『異常こそ正常だ』は線形に対して非線形思考のことである.



   
 

 昔は道路の複雑な状況に対してこれでは事故がそこでなくても別のところで起きるなと考えていたが、複雑性的側面からは道路の複雑さは適切であると考えるようになった.応用視点把握が遅すぎる・線形ではなく非線形性を設定していたのに.ただスキーの場合はリカバリー能力という境界対処は想定していた



   
 

 指示的人間と言えばXXにもそのような存在が思い起こせば多く(そのころはまさかで全くそんなことは考えていなかった)、ミソジニーXX型という分類になる存在達はとどのつまりパワハラ発言になるという経験記憶があり不快でしょうがない.ミソジニーXX型はなんか矛盾していないか、