2016-12-14

my ft 12142016

αは現実と通時的に傾向があり、θは現在現実と共時的に重きを置いておいた設定でかなりの長い時間αに関してpaしていた.いざ今α傾向を始める余儀が生じてやや脳内構成混乱中
   
       
 


超対称がそうさせるとも言えるが、疲れるフェルミ人間.しかし考えを内部保管しているとそれを伝心的に暴露してしまう人間が負いな、あたかもそれが自分であるかのように、しかしそれが事実のようであるが既に既視思考をしたもので、その点を人々は理解しない.逆になったような即物短絡単純者たち
   
       
 


崖にぶつかる荒波の群青色の海面はフェルミ的、単体孤独だから非可換性もあるのかな、積分はフェルミ的イメージがある.ただ叙事的にも見え権力意識が強い自然を持っているかな.愛情の潤いがあまりない点が特に面白くない.仮面カップルにはこのフェルミ的人間はなりやすいともいえそうだ.
   
       
 


ある明かにフェルミ型XYがいて、嫌いなタイプなんだがそのXYが意図の全く正反対を見事に表現するのには閉口であった.そのXYがそんな意図は全く持っていないのに内部に侵入した蚊たちで、そいつの言明が内部からいまだに湧き上がるという邪魔すぎる不快な事態が成立している.なんなんだ!
   
       
 


図書館に行ってニュートン雑誌をみた.あの頃は素粒子がいくつ発見されるんだ、ちょっとうんざりでもう様子見とした.もちろん弦理論は当然推移を見守ることにしてあるが.太さのないストリングが震動すれば確かに無数の素粒子が想定できるが、素粒子のニュアンスからは無限にある?とは
   
       
 


こんな恰もBC理論に類比できるような現象は昔からいくらでもあったはずである.実験データの結果に理論が追い付かないということは多いにありうることであって、昔の人が交換と反交換やBC理論などを知っていたはずがないにもかかわらず、現実はそれらに類する現象はいくらでもあったといえる.
   
       
 


崩れた斜面から除く地層の差異から層状組織を後年設定したあの大きな桜の木の手前の道の前に沢があって、その沢の地形がそのころには想定しなかったが、今多少想定してみるがやはりうまく想像できない.現場まで行くか行ってもそう簡易に理解できる沢の形態とは思えずゆえに躊躇う処で文が停止中
   
       
 

 
小学校年生、通学路の帰り道大きな桜の木の下で、数直線をうかべた.最近数直線は役に立つと気が付く.片側数直線は埋没費用・減衰変化を転化を考慮しなければで、普通に人はそのようにしているが.
   
       
 

 
そういえば思い出した、小学生の時に近くの家の庭先で浮かべた不思議の国のアリス・こんなでたらめについていけないと.その家への道の途中に鶏の小屋があって、鶏の赤の色といろんな赤の色の赤をどうするかと考えたことがある.どうにもならなかった、長じて分析哲学の対象にある考え方と.
   
       
 

 
冗談は単なるその場限りの遊戯で意味をそう持たないものと思っているものが現実有効になってしまう不本意な経験が多い.偽善社会においての心にもない言明は虚偽であってそれが現実という社会であると、冗談=遊戯=偽善というつながりがあるようだ.
   
       
 

 
量子脳理論-ペンローズは当然そう考えるだろうな.まさかのあの頃は無機的要素人体を考えていなかったのでペンローズはパスしていた.実体二元論において心身設定の場合、脊髄反射は明瞭に身体的であることは了解である.量子脳からは無機的歴史をどこかに持っているという考えも正当性を持つ事に?
   
       
 

 
どうも脊髄反射的想像力がある
   
       
 

 
ある女子学生が不意にモーツアルトのレクイエムといった.レクイエムとは嫌な言葉だまだ若くこれから何事かをなそうとしているのに、タナトスイメージの言葉など冗談じゃないと思ったものだ.その後モーツァルトのレクイエムは黙示録であると知った.となるといやそのあの・・と、しかし存在理由が..
   
       
 

 
どうも挫折ではなく完成が困難であると思うようになった.休止しただけで挫折ではなく再開予定だから『余裕の挫折』と表現しただけであったのだが、当然『終止符を打った』のもそう表現しただけで終止であるわけはない.
   
       
 

 
漸近的自由性(Aymptotic freedom)が出てきて、これを設定するとママ都合がいいと.対称性の破れは偏りとみるとフェルミ的現象に直感できる.果たしてこのある現実世界は偏っているといえるか.そんな人間は多数存在しているが.
   
       
 

 
色々思い浮かべてどうにも市場経済を考える時に(そうでない時もでてくるが)深淵を脊髄反射経済的と考えるとあるのかも知れないと.パーコレーションのブームやパニック現象や集団多数現象などは反射域にならないか?.まさかのパブロフの条件反射を何十年後に考慮するとは、オパーリン思案のあの頃
   
       
 


人体は素粒子まで分解できると思うが、その素粒子は燃えてしまうようなものである.放射性粒子のように長時間半減性粒子でできているとは思えない.そんなことを考えていると、無機的歴史を人はどこかに持っているのではないかとも思う.叙事的存在体のみも相変わらず発生している・・
   
       
 


生まれたての赤子は自力で生きていけないように思える.すでにいた動物の変化によって類人猿は発生したといえるのか、それならば赤子の成長も了解できる.自力で生きていけた生命力の強い赤子の子孫が現生人類というわけではなさそうだが.そうであるとしてもその赤子の発生は?となる
   
       
 


限界に達して境界状況を認知していない存在は、理不尽・不自然・非常識・狂気的な言明を発する.そんな人は当然余裕・逃げ道を残した対処などできるはずがない、何しろ当人が限界で余裕がないからである.かくしてそのような余裕のない人に余裕を残すように対処すると愚昧な不快感を味わうのだが・・
   
       
 


ふと魚偏の文字を眺めて、覚えるのには止揚状態であると思った.左右の文字が分離しているままの印象なのは止揚の分解・分離ではなくて、否定弁証法そのままであると.こんなところに無意識・自然に弁証法を用いているとの発見とは.覚える・マスターするには止揚が必要であるという帰結・・・
   
       
 


実存といえば普通にブラック域であるはずだが(実存分析は明らかにこの域)、サルトルの世界に責任を持っているというホワイト実存に直面しているときで、やや諦念・絶望の香りを携えたときに、人は風に吹かれているという感慨を持つだろうな.
   
       
 


野に咲く花を愛でる、一輪の花に永遠を見る、ジェラールのバタフライから蝶は何を求めて彷徨うように飛んでいるのかとかから、風に吹かれているがどうしたといわねば偽善になってしまう.親鸞の自覚した善人やマズローの自己実現中の存在ともみえるが、ただしそのような奮闘中の人材には好感を持つ
   
       
 


他人に要求しているつもりのことを、自分が要求していると思われるケースが多く、大体他人が不愉快で内的に要求することはその他人にとっては自己の在り方の変更ケースが多いので、個人的に不快である事象を自らが要求するわけはないのに、思考力・判断力のない他人はそれがわからないケースが多すぎ
   
       
 


”さしあたって資本主義社会は、野生と野蛮の交替にすぎず”-野生と野蛮とは妙味ある視点である.野生を野蛮人とみるその当人がその見方が野蛮なのであるが、またそのようにしか見えない野生に決めつける見方しかできない存在はまた陋劣なのだが、野蛮なだけに体力のしつこさがあるというものである.
   
       
 


小学生の時の帰り道、杉林の中の笹の根は地下に広がっていると・竹もそうらしいが、根茎とはまさにそれでスキゾの逃走線は逃走ではなく複雑系にとっては現実・カオスにとってもである.
   
       
 


中間存在はイデアルになっている
   
       
 


理論的(論理的?)には片づけてあるはずの公共性、ただそれを人々が実践できるか・するかは片づけていない.まあほとんどの社会生活者は公共理性に従って・たとえば法律など生きてはいる.公共哲学は判例暗記のようなもので片付かない、法案提出立法領域を対象としていると思うが.
   
       
 


好みの場合は飽和というファンデルワールス力が作用してしまっているか、嫌な侵入はロルーズ的なサンデル的な正が善に弱められている場合かなと.共同体思考者は不快などうにもシステム的にそこにあり無私的に消えないケースを公共理性と申すとすると、公共理性はそれほど抵抗はないのだが.
   
       
 


英単語チェック難しく、確かに漠然とした記憶しかなく、暗記は一切やめよう・暗記しないで考えるとした想いの時間が長く、記憶力はほとんど自己好みのものしか記憶しないようになっている.記憶力もどうも現実に必要であるとは認識しつつある.中学生の頃が最高に記憶力あったのが今は信じがたくある.
   
       
 

 
しらけにしらけて、あまりにもしらけるとかなりの拘束束縛与件になってしまう不自由さしか残らない.ここは全くそんな連中は無自覚ですでに分析個人は把握していることにずっと気が付かない存在と見て操りをしているとしてしまうか、個人的に意図しない操り・洗脳事象なんだが.
   
       
 

 
考察位相は大したものと先ほどは直感したが、どうも多数いるはずだなと思うとそうでもないのかも.かってに宿命的と思い込んで他人取ってはナンセンスな言明を情熱をもって発声した人物達の記憶がしつこく不快に悩ますのは、すでに自己分析した内部記憶を他人が剽窃してその当人述べるというトートロで
   
       
 

 
関係とは不可避に近いものか、不可避になってしまうのはなぜかとかあるが、宿命という言葉にはこの不可避性を感じて嫌いである.不可避の局面は総体的には人の有限性それも身体の有限性が特に作用しているものである.それで生きてもいいがそれでしか生きていないという存在も多い.
   
       
 

 
一応お気に入りで設定した曲3以上を繰り返し繰り返し聞いているとさすがに惰性感・飽和意識が忍び寄ってきたような飽きに思いがしないでもない.少し映画を本ばかり見てみると引き寄せ感が発生していた.この『飽和』は取り入れている・ただし不飽和は考慮には入れた記憶はない.暗示にはあるかな
   
       
 

 
エートスは人生を決めてしまうと思いエートスの閉鎖を考えるのはやめた神社への山道の途中で、雨は降っているが透過してみているという構造を見ていた場所の先、エートスで人生を決めてもまあ差し支えないのだが、重い女はエートス的要するに渋みを出さねば立つ瀬がないという存在.
   
       
 


       



仏教に対しての浅い知見では無限という言葉を見たことはなく、仏教の細かいこれでもかこれでもかと述べてくる記述はがんじがらめの束縛力でもあるのではとふと考えた.それともどこかで無限の言葉を用いているか?
   
       
 


しかしすでに意図している領域ではその対象は対象にならないということは意図通りであることになるが、現実との意図はそうはなっていないな・・.ちょっとよく考えずに無謀な処理・処置をしてしまったか、秘匿感もあったので、自分でも覚えていないが他人にはなおさらわからないとしてある作品.
   
       
 


なぜかダメとしたまだ合わない対象設定ゆえの話だが、時間をおいて度目にあった時には価値を見出したが、その反面にも気が付き、今では明らかにそうではないことが分かっているが、見出した価値は有効であるのでそのままの関係を持続させたらと今でも後悔?的に考えてしまう.
   
       
 


語りえぬものに沈黙しなければならないのなら理性は結構行く、徐に描いた詩に対して悩んで考えていることに哲学が成立するではないか・・、あの時の想定対象モデルで一段も二段(?)もレベルが未熟域になってしまった結果を進めようとして動かずの時間が多大に過ぎ去った.
   
       
 


曲率が周辺で大きくなる球体とすると、理解しがたき狂気的言明を球体は発する.無駄を強要・強制する形で、他人に犠牲を強いる、本来球体の才能のなさを嘆くか、才能アップのために努力しなければならないのに、短絡を行使してしまうというのもまた能力のなさの所為である.
   
       
 


宇宙が無限的に膨張するとそれは希薄になりどうも太虚的なものを想像したくなる.太虚から始まるは終わりが太虚に終わるで、むしろ逆から考えたことのようであもある.
   
       
 


プランク定数サイズのブラックホールの所作がわからない?、別に物質でもわからないのでそれは当たり前だろうに.ここでは無限沈降が有限になっていることを意味しているが、これ基準にすると無限大一般は仮想になる現状である.
   
       
 


もし昔に見た夢が正解ならば現宇宙は停留すると思われる.ただし熱的死ではない、熱を持ったままである-あれ中間存在的宇宙になってしまうなと思ったところ
   
       
 


太陽程度のBHの蒸発は宇宙年齢*^となまあそう想定できそうな値である.ただし量子サイズのBHは今まさに蒸発してその温度は兆度になるとか.あの頃考えた大きさは少なくとも人体サイズの何十倍もあった.ひょっとして宇宙空間を想定したのかもと今過った.どうも思考がポツンと変化する
   
       
 


その時に時間を想定して(時間があれば・あるだろうとして)、ブラックホールは変化するとした.ブラックホールが蒸発する時間はどのくらいか、それぞれのブラック量によって異なるか、情報は失われないとかを方程式化したものは想像もつかず・まだ見たこともないが、世界には考える人材がいるものだと
   
       
 


小学生の時に考えた老子の道はブラックホールの位相に相似している.
   
       
 


あの時きつかった民主主義ではうまく説明できないが、かといってそれに対するアイデアも全く浮かばない厳しさを味わった年ころの話、先ほどモスカの後にミルヘスを知って何のことはない理で容易な説明を見てしまった.なんというか他人はそのほか多くの事でもやはりすでに考えているなと思う今
   
       
 


必然的自由-人々がこれこれを行うのは義務またはしごく当然なことと思いつつ行うことあるいは無意識にそう思いながら行う事柄.自然にそれができる存在も部分としてはいそうであるが部分という点が難点かな.
   
       
 


何かと何かが結びつくのは奇蹟とか、ケストラーの創造論をよみがえらせるが、ホワイトではなくブラックホール側の深淵・すなわち黒き暗き方での対(昨日までは考えいた何かを忘れてしまっている・科学の結びつき思考に関連したことかな?).要するに語りえぬものは人間的視点から無意味と表現だな.
   
       
 


心の哲学も滅茶苦茶にに多様な考え方をしている人物が多いな、それが教条的なものだと思っているとは.認識論だよ明らかすぎではないか.存在論からテイラーなる人物がハイデッガーを考慮しつつ登場で、サンデルにも影響をとか出てきた.知らなかったな-追いついていないラプスの時間といえてしまう
   
       
 


どうやらあの歳の時に倫理は科学ではないからとも思ったようでもある.まろやかな人文感覚もあったが、ヴィトゲンシュタインはチャーマーズの擁護・源泉的な面もあるように思えるが.必然的自由がごく常識な倫理作用であり、中学生の時のヒューマニズムの現代的な揶揄を感じたがそれはと思った事
   
       
 


自伝・その存在足跡のために--承認の要求もあるが自己実現の要求のほうが明らかに強い.つまり子育ては自己実現力といえる.
   
       
 


”「幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自から正当化する。」(『草稿』)”-アドラーの自己満足もまあ似ている.それに老齢的超越はまさにこれだろう.
   
       
 


校長も立場上言わざるを得ないわけだが、その前提に授業押しつけ優位感があり、自由な発想の邪魔というステレオ陳腐な秩序意識を発揮して.そんな常識はわかっているのにわかっていない・実践していないという視点の不愉快さを全く忘れない.抑圧でしかない、その校長の訓読みを音読みして揶揄した日
   
       
 


小学生の・年生の時に授業中にノートにジェット機の絵を描いていたら、なぜか校長が見回りの時であって、授業中にそんなことをしてはいけないと注意されたことを思い出す.不快極まりない、そんなことをいうことは当然理解・了解している、書きたくなったのでそうしているのにと沈黙思考したものだ
   
       
 

 
また自己記憶内部のXX達と同一視してくる人々が一杯いたのだが、これらもなんだかわからない.いったいなぜそんな非自然を不自然を強要・要請するのかさっぱりででたらめであるのに.自分を気にできない?、そんなことはないだろうトイレには自分一人で行くだろうしその時には自分を気にしている
   
       
 

 
個人は独りである.ゆえに内部の記憶や目的などを他者が用いても不快になる.他人の所為であるといえて、私ではない.そのように内部意識を他人が使うことには非常に不愉快な気分になる.しかもそうしていることに気が付かない存在はなおさら不快である、そのような存在は自己の無知を押し付ける
   
       
 

 
中間存在に対して切羽詰まる・要するに反対になった倫理禁止を破ってくる道徳力のなさに完璧に遭遇して、無知ハラスメントのような不快な迷惑を被った記憶が不快でしょうがない.そのような存在は退行者になるわけだが、そうではなく現在時間に対してまさに退行しているという存在が不快である.
   
       
 

 
過ぎたるは及ばざるがごとし-ひょっとして中間存在や親鸞の悪人はその量の多さで、有限外や自覚者・善人を過ぎたるものと思っていないか.これも一つのパワハラ・量ハラスメントとも.そうなると金持ちも金ハラになってしまうか.共同体の集団パワーは明らかに個人体力を凌駕するのだから・・・
   
       
 

 
他人を避けるは嫌いもあるが、一応敬遠する、している形としているが、この言葉は野球からは明らか。敬遠は実力面では無く、不快な面からで多少皮肉も含んでいるつもりなのに、対象は単純普通に実力的解釈をしているようで、それがまた更に不快感を加えてよりしつこい対象となる、
   
       
 


平板人間が平板を気にするとどうも策謀とか虚偽を無責任に行使するようになるかも、詭弁も用いるようになるとか.詭弁にはある人物から詭弁の言葉を投げ変えられたツイート、別にリアリストではなくエレガンス地平を用いることも、形而上的な位相もなんでもありだが、空想はまあ避ける傾向にはある
   
       
 


立場的には交代でその交代に対して確かに革命的な状況は発生する可能性は想定できるが、それは立場逆転とかに見えてきた.そうして経済なく国家なき社会は人間心理が善人的存在しかいない場合のみを想定できる.現状ではアヘンである宗教がそのように考えているのでは、仏教は特にそのような傾向では?
   
       
 


関係は建設的ではと思えば、さっぱりわからないがすでにわかりきっていることと同じなり、わかっているものはさっぱりわからないという多すぎる現象となりて.ともかく人類が存続する場合という条件を付けて、だがこの関係で勢い込んだ人物は類続は当然のものという立場からのようである.
   
       
 


形而上的には自己が意識を注いだ強度により比例してその対象意識は強くなる-現象学的かな?.心理学的は当然すぎるか.”特別な時間が運命にしていく”なるほど後天的所為とな.先天的もあるのだが・・.とにかく昔ある女子大生が不意に星の王子さまを言い出して、いやな思いをしたことがある.
   
       
 


インペリアル面の考慮を避けていたのは失敗だった感が生まれている.それでも叙事的人間・叙事体は底が浅すぎてどうにもならない単純思考をするとしか.曲線的膨らみを叙事体といえど持っているのに、そこにある程度の厚さの板が立っているだけのような反射感覚を覚える.厚さ3㎝?もあるかどうかの
   
       
 


反交換者は交換を認めがたい?、交換的には反交換を認めがたいが、交換者に反交換を強要する反交換者も残酷である.まず今のところどちらも認定無理で、反交換者はその孤独性から愛情が苦手である筈で、交換者の愛情をまず邪魔することは明らか.交換者といえど孤独を持たないわけではない点が狙いか
   
       
 


不自由な女・男の自由意識と逆になり男に自らの不自由を投射して、自らは男の自由を持っているものとするケースに遭遇すること多数回.これが全く不快でこんなXXは排除しようとするが、自己自身を対象とするようなもので厄介である.なんというか当然の権利であるかの如く女はこの形態を自覚している
   
       
 


過ぎたるは猶及ばざるが如し・明晰を明晰と見ないのはわからないのと同じ、つまり及んでいないことになる・のは明晰以上のアイデアがないときは特にそうである.実際にわからないものもはわからないが、
   
       
 


ホワイトホールにもブラックホールにも時間的作用がある!.ブラックホール的なものは小学生の時から考えてあったが、ホワイトホールは盲点だった.ならばtwenty-ixにこれを導入すれば差し支えないことになる.evenにも用いることにはなるだろう.
   
       
 


ヴィトゲンシュタインは或る街の小さな書店をおもむろ散策中に、回想のヴィトゲンシュタインという書物をが目に入り、何となく手にしてみたのが始まりで、分析哲学なる物との出会いシーンである.その書物の写真を見たときこの人物は本物だと思った.エリートとはこのような人物なら相応しいと
   
       
 


唯物論は無機的合理論か、科学も無神論的合理的だが.まあ人間の実体も身体は素粒子でできているがだ、その所に感情・心があるという無機的叙事的存在ばかりではなく有機的抒情的存在でもあるのだ.
   
       
 


いとこと議論ができなくなった若き昔の日に、渋谷の長閑な駅近くで、マルクスの書物は論理的に整合性を持っているように見えるが、感情がなくあたかも自動制御のバックにせよフォワードにせよ論理様況に見えた.今でもそれは確かだと思っているが、感情がないと罪の意識も持つ必要がないかなと
   
       
 


太虚だけれど陰陽が根拠とする太虚の証明は誰もしていないので、非科学的は成立する、ただし人にとって論理的には想定できる太虚でもある.太虚からなぜ今日の有があるか、太虚に密度の差が生じたからか、それは時間的な物の作用によるものと考えられる.ブラックの反対のホワイトにも時間が作用すると
   
       
 


ハエ取りの自尊心は想定出来かねる・判断がつきかねる、ウィーン学団とイギリス経験主義であらましは表現できる分析哲学だが、そのころのEU哲学思想雰囲気が加担させた面も考える.プラトンの焼き直しに楔を入れる情況だったのかな.
   
       
 


そういえばちらちらしたヴィトゲンシュタインの哲学探究もフラクタル的、ヴィトゲンシュタインは「世界があることが神秘である」-この一言に尽きる.だがポパーに対してあくまでも蠅取りを主張した火掻き棒は明らかに脅迫的な心理ものだ.
   
       
 


『これらはなぜか?』-マイ論理よりこれで帰結であると設定、ハウスドルフ次元的にフラクタル的にカオス的にかな、サンデルの公共哲学は哲学の名に騙されたような気がしてきた、政治論ではないか我慢して政治哲学であるとか.いずれにしても提起のみで結論があやふやなのは、考えに即しているかな
   
       
 


相対的平等・機会的にも老齢的超越者はもう苦悩をしなくてよいが、そうでない以前者は悩む権利を持っている.だが現在的に以前者はそのような人を見るとイライラして不快を覚える屈辱感を感じることだろう.だが老齢的超越者からは以前者など煩わしい面倒な存在でしかないのは端的表現で言える.
   
       
 


「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」この有名な言葉だけれど、正解として往生に善人と悪人の度合い・質の差異はないのか、この辺はどうなのか、親鸞は適当に阿弥陀の布教のために曖昧・いい加減にしている?
   
       
 


ヴィトゲンシュタインもヴィトゲンシュタインだ、原子命題なる要素主義的で哲学がハエ取り壺の道の示唆などは成立しない、それならば何も要素主義で悩みはしない.そもそも無限沈降を知っていたはずなのに原子命題はおかしい.哲学探究も徒労かもだ.”ヴィト系はカルト的になる”に刺激を受けて
   
       
 


松原湖?、昔、麦草峠でtwentyを味わって、白駒池へに行き違いの大阪のある街の女子大生が松原湖に行くと、どうも一緒に行く雰囲気だったのだが行かず八千穂駅で反対に.松原湖の印象はないな.、白駒池のほうがムード自体はあるだろう.今日このごろ時間的にちょうどだったと思い出している.
   
       
 


人間そうそううまくはいかないようにできていると言ってしまうのは単純すぎて、老齢的超越者はうまくいっているタイプである.
   
       
 


一生反省する必要のない生理体を見る・思考上で実際には反省していると思われるが、普通に考えてポテンシャル的で前に進むだけという存在がいる、しかし年老いて身体の動きが鈍くなってもなお前に進まねばならないという桎梏がある.そんな存在を見て無反省を想定するのも辛くまた疲れてうんざりする
   
       
 


まず自己所有権だから他者の逆作用など不快でしょうがないとも言えそうで、ましてや他の場所に実在している女性と同一視されることなど、わけのわからんでたらめで直接その女性にいうべきなのだが、その男たちの認識能力は風車に突進しているか、頭狂っているか、直接述べる勇気がないか、何だろう.
   
       
 


ある女性に対して言わんとして倫理的姿勢から忍耐した思考内容を、その後に遭遇する男たちから、それぞれの女性に忍耐した言明を、その男たちがそれら女性として忍耐した当人に述べてくるという、全くわけのわからない出鱈目不快な事態を受けるのは?、いずれににしてそれらは自己記憶のみの事柄だが?
   
       
 

 
哲学とアポロンなら成立・実存とディオニソスは相対的カルマとしておくか
   
       
 

 
成長期・小学生や中学生の時の視点と身長の伸びの止まった時点以降に、成長期の風景を再度見ると、樹木の伸びとかの変化ややや地形の変容もあるが、距離感が異なりいささか記憶との差異があって奇妙に感じるものである.
   
       
 


見た通りとはいっても見た事柄に脈絡を見ることができず、常識基準で明らかに意味のないことや意味のありそうなことが出現したことである.そもそもなぜこの通りの時間を過ごすことになったその理由がさっぱりわからない、フラクタルかカオス的離散だが連続している時間範囲という..
   
       
 


しかし滅茶苦茶なとはいえ見たとおりに推移したという時間変遷を等質空間云々より、現実の経過事象が等質推移的ではないかとも思ったり.この女性も不愉快な不都合を述べて不快になりの記憶があるが、持って行き方が悪かったかな.前提条件が成立しなかった・つまり気が付かなかったからだが、なぜが?
   
       
 


それから8年後ある女性と川上村の道路を駅まで二人して歩くとは、全く想像できずにしかしそれは当然で、この女性で終わりだったはずなのに気が付かず(その理由が全くわからん)、今にいたる羽目に、そういえばまだ無意味な事柄を例の喫茶店で見ていたことを思いだした.全く不都合なことになるものだ
   
       
 


しかし最近では世紀年代からやや兆候が過去側になってきて、世紀後半部からその傾向はましては前世紀からもあったのだが、現実的ではない傾向になっているのに今になって現実的というのは逆の立場であることに、どうも無駄な方に向かう.しかしまだまだ現実的なレガシー力は強いと.
   
       
 


現実的にも過去側にもダメな滅茶苦茶な過程記憶がトリエンナーレに行った時には、そんな人がうってつけと言われ唖然の幸福感を味わったが、常識現実に傾いている今は何とも、そこでの躊躇判断情態となっている.まあさすがに普通に現実に巻き込まれて生きている人々の世界の力は強いと最近は感じている
   
       
 


その門は校門で現在は津田塾やお茶大は沈下しているとか読んでいた.昔はどうだったかよくわからないが、津田塾は俊英が揃っている、お茶大は--まさかの一様関数だったとは夢にも思わず、ただし直前の眼前に出現していたが.まったくシステム的に関係なくただし個人的は関係ありで混迷の記憶である.
   
       
 


その結果直ちにハイデッガーの根源とは異なる意味合いの(個人的ニュアンスは同じかも?)実存点という実存分析の原点的(は等質空間推移に似ている)かデリダの差異の原点的なものを想像してしまいそこで止まったまま何年もそのままである.楕円曲線が絡んでくるような面もある直感判断もあるのだが
   
       
 


自由=必然はレーニンだけれどこれはキャズムのイノベーター的とほぼ同じ意味合いを日常において持っている.ある時フッサールの超越論的現象学の評論説明を読んでいて、自由=必然論説明を展開したものを感じ、面食らってしまったのは以前に不必要なエポケーを冗談的に試みたからなのだろう
   
       
 


ワーズワースから必然的自由を考えたことがある、それ以前に無数の可能から一つを選択した場合にはそれが必然になるという坂道での思索を思いだす.複数人間の中でシステムタッチの行為・行動は必然になる.また自体が必然的自由である存在もいるが、いかんせん教条的な束縛体にそれはなる.
   
       
 


人が限界や極限状況・土壇場において生きている限り選択するものは決定的であるはずである.情況がそのようなケースではそれが決定することになる、その状態は必然的になるはずである.結果情況を決定するのは必然になる.人は普通に必然を内部に持っているか・生自体が存在している限り必然ならばある
   
       
 


上に有界下に有界な存在を中間存在とする.下に有界以上に下になると有界者にとってはパワハラ型の権力位相を持つ形になり、ミルグラム的位相を醸すことになってしまう.視野の狭さという優越感の束縛という窮屈さ・上に有界以上であると今度は閉鎖意識がまた視野の狭さを形成して理不尽を発生させる
   
       
 


等質に対して避けていたのはホロノミーがまずあるのだった.しかし接続は問題でおもしろいのだが-あたかもシュール・超現実的な感覚を覚えて.小学生の時のある言葉をこうなるとどうしても思い出さずにはいられない.想像力を使ってなぜ罪の意識を持ったか、写実に呪われている?
   
       
 


仮にアフィンにしたけれど意味を付加してアフィンでもよかった.実際にアフィンXXが出てくるから始末に悪いというか、アフィン的に考えてベクトル意識がおろそかなおざりになるというおかしな自己心理になって妙なという日常意識を持たねばならない無意味・無駄的な事態に
   
       
 


なぜ嫌だ嫌だと思うものばかり現実的対象になってしまうのだろう.他者達は悪魔的存在か自己性質の問題か.自己性質を考慮しなければ他者達は悪魔的卑劣なしつこい悩ましい存在でしかなくなることになる.大体悪魔など嫌悪すべき存在だからである.
   
       
 


無積分あるいは不要積分なることを考え着いたが
   
       
 


エリートという言葉は疲れてしょうがないが、どうやら大審問官のような意図で件の女性は用いたようだ。そんな言葉は考えた事も無く、すでにそんな社会的位相にはないが。なにか感じたか自分に引寄せたか?。単に主体に自我にとって、自然な生き方をしようとしているだけ...
   
       
 


昇華は気化のようなもので、軽さの自由がある。
   
       
 


通時が変化してきたといえば埴谷雄高の文章は通時的で古臭いイメージをずっと持っていて、思考内容はいいがそのスタイルが疲れる認識だった.理解する人がいれば蘇るは大げさなうぬぼれでしかない先験意向者である.別に虚空のそよ風は吹いていても何ら差支えはないが.
   
       
 


コホモロジーと考えても何か変で、まさかの被積分値情態とは思えないが、論理的にそうなってしまう.そう考えるとつじつまをやや合わせることができる.そうなると積分者はどうなるだが何も考えたくはない感性趣味から外れるという形で
   
       
 


なんか環界が妙にはっきりと変化してきたことを感じるこの頃、通時的ではなく共時的もしくは存在論的な
   
       
 


ここ・3日、埴谷雄高がカップル生活をしているのにあえて子供を作らず、ただし作品の継続を他人に任せると述べていたことはどんな意図故かさっぱりわからず・さほどどうでもいいことだが・考えている.伝統の拒否・自分の子供に任せればが普通すぎる・の割には他人の家系は認めているという次第を
   
       
 


逆になって人が認識している位相を自分ではなく当の認識者の位相と自己投射をしてくる人間にも困ったものである.これらも邪魔で、自己投射どころか当の認識者を他人と同定してみた人間も複数いて、非常に無茶苦茶な認識能力としか思えない.そもそもこれらの他人達は当の認識者を無視している
   
       
 


実験データにおいて、成果・結果に対して理論が追い付いていないケースは、逆数学的要素もあるがハミルトン閉路の経過過程が判明していないということになるな.その存在以前に困難が成立していたという場合も考えてしまう.ポテンシャルが現在からみてゼロという考え方もあることはあるが.
   
       
 


枕草子の作者・清少納言はあか抜けていず洗練されていない人間や事象は嫌いという人物であったことは間違いないと認知する.
   
       
 


宗教が不変もあるが周期を考えてみると、例えば永劫回帰だが明らかに無茶な反復不変性いとであり、この人物はその当人の自己判断による道化師より宗教的存在と考えるとまともになるかな.不変周期教なる宗教を構築すると説得力あることなるな、CRA(クラー・くらー)として候補はあるのだが.
   
       
 


で末法の世でこれを信仰しないから不幸・災難にあうと説得・扇動した鎌倉時代の人物だけれど、そのスケールは怪物的にみえていたが、仏教に周期論があったので、その末法の世の説得力は効果が本質的に薄いか時間視点においてリアリズムであるかあるいはその当人は周期論を知っていなかったかである.
   
       
 


宗教は不変意図であり、信仰者は不変依存性を持っていると判断中
   
       
 


端的な例は葛飾北斎で、歳になればもっとうまくなると思っていたのは事実だろう.老齢的超越を予期していた感があるがどうやら至らずで終わったようである.普通金持ち・物質に恵まれていても心は空虚というのは、この老齢的超越である幸福である満足感を物質優越感では達し得ないからと思える
   
       
 


優越感とは老齢的超越のようなものを指すといいたい.優勢原理によって優越感を求めるのはそれはいまだ至らずと言えりと.
   
       
 


何しろ優越原理が成立しないことが直感感得するようで、無茶苦茶・理不尽が飛び出してくるものであった.隠者たちはその辺の無駄・ナンセンスをよくわかっていて、世捨て人とか庵に引きこもるとかしたのではないか?
   
       
 


being-それは幸福・満足な心情情態である.昔にすでに味わっていて、その時にはほぼ一生の時間間隔を感じた気分になった視点があった.まだ代の終わったころの話・代の前半、それゆえによもやま人材に理解できるはずもなく、邪魔・妨害ばかりしてくる自然しか持っていないのであったな
   
       
 


老齢的超越はbeingのことではないか?、マズローの段階の自己超越であるか?.人に謙遜してもその人物たちは段階の自己実現でさえ一生できず、段階の低次元要求者が多すぎるのもまた不快である.困ったものである.
   
       
 

 
K.Cは荒唐無稽・ハチャメチャに見えるが論理的には結構まともな番組.人類最大の発明は笑いとかの意見があるが、なぜ最大の発明なのか-緊張に人は耐えられないゆえにとしか帰結が見つからない.
   
       
 

 
NP完全の中にNP困難を作るとき、あるいはNP完全時間を短絡しようとする時に何らかの不規則が生じることは明らかな事実である.そうしてまた現実にそのようなケースは多々ある・・・
   
       
 

 
ファインマンもな、最もよくわかっている・自覚していたようだが、現実のこの唯一としての宇宙は今のところ有限位相にある.無限時間前を持ってくるという散乱もあの手この手を机上で考え出すものである.思考上の論理正当性がもたらすことはわかるが.
   
       
 

 
実在と存在がなければ意味がない.つまり数直線は成立しないというつまらなさだが、片側数直線を算数で行う-これはずっと一生有効であるのだが、片側ではエゴ的といえる創発雰囲気を持っている.
   
       
 

 
”調和級数の発散は非常に遅く、たとえば最初の 個の項の和は  よりも小さい”-オイラーの定数より、そうなのかそれでは対数を嫌うわけにもいかなくなる.比率は一様で結局、西鹿児島で会っただけであり・・の失念していた青春の自然性の記憶の直接性が思い出される.
   
       
 

 
ミサンドリーはどうかだがミソジニーはほぼ男と女の間にあるといわれる深淵が先ずわからない・考えられそうにないということを経験上と思考上から判断してみた.どうも現象的にしつこく不快な記憶があり確かであると思われる.
   
       
 

 
側頭葉の皮質層とは--阿頼耶識を連想してしまう.構造は昔から直感していた仏教視野であることや、層であること-層状組織であるに結びつけることもできないわけではないが、その地質層の横に沢がありその沢の地形判断中から進めていないな..
   
       
 

 
何らかの相転移ではなく結節する何かがあるのではないか、またはその乖離の成立する場自体の作用の設定ならばつながる.ixteenに関して、それでも説明であってアイデアではない思考
   
       
 

 
叙事的事実には怒りという感情の結果も含まれていることは多大にあるので感情がないということはあり得なかった.ただ融和感覚はあまり叙事的事象には登場しない.例えばこの期間は平和であったという単なる一文に終わるのは、何らかの指向性・志向性を取り入れなばなさそうである.
   
       
 


小林秀雄は断定力・独断判断が強かったのでは?、エンペドクレスは火山に飛び込んだかどうかは定かではない、ただその情熱はわかる.魂の不死ではなく情熱力だと思うが.悲しみは疾走するがどうも引用剽窃ではないと思っていたことがあり、薬籠解釈力で不遜故とも考えられるが、どうも違うのではと
   
       
 

 
中条百合子と川端康成は同じ年とな、川端康成は凛としてエレガンスな崇高性も垣間見られるような人材であったと想定する.さてなぜ遺書なき自殺したのだろうと思うと不明であるが、崇高さの未熟における優雅さの限界を持ったかやり残したことはないと自己認識したかさてまたいずくにあったものか
   
       
 

 
Yの関係についてずっと考えている-あまり考えても帰結しないのが不思議でしょうがないが、術中にはまっているかもしれない.Yの精神か物質かは決まらないとか思い出しても同じでありどうもまた逆になっているか目の前存在を無視か同調要請だったか.埴谷はねえといったが別にといえばよかったかな-
   
       
 

 
思い切らない?-のではなくやり直しの可能性が強く示唆されてためらう.後悔は先に立たないが、予知してしまうような.それともハムレット型とも言えそうな.カフカはなぜなんだろう?、実存性だからか?、実存の嫌いな本質者はどうするということだが、今は乱れすぎている心理でなんとも言えず
   
       
 


 
       
 

 
世界内存在にとって世界に責任があり世界内存在には責任がないとすると、宗教信仰者には神かその宗教創始者に責任があり、信仰者自体には責任がないことになるかな.
   
       
 

 
無責任者はナンセンスを真面目にとるという考えに、そうなると冗談が現実になることは現実が無責任であることになる.おおよそわからないものは無責任体人間ではないかという直感が作用してきている
   
       
 

 
小学生の時に天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずという言葉を浮かべて何か妙な気がした、昨日なぜか不意に「学問のすすめ」はやや荀子論ではという考えが浮かぶ.そのエリートが荀子的とかの考えが浮かばせたのは間違いないな.
   
       
 


日本でエリートという言葉をみるが、聞いたのは一度だけ、もはやそんな状況にはないが、もっと本質を忘れていたことも確かではある、その後も忘れすぎて、しかしそれゆえにということもあり、あるがだがその内容が信じがたいとかなんとかなんだが
   
       
 


tout pourはいいんだけれど、それがどうもうまくいかない災いが割り込んでいて、しかもtout pourを邪魔するように入ってきているということだ.XXからのtout pourであるが、どうも思考内容が違う・・ので困る.そんな自己思考をしなければというわけにはいかない.
   
       
 


弘法筆を選ばずは一様水平面を超えたということで、いわゆるその文字筆記技術に万人が納得できる地平に達した・万人が認める技術の持ち主になった・定評のある存在になったというものであって、他のジャンルでも同じ位相を指す.
   
       
 


演繹的現象にせよ帰納的現象にせよ皆同一のものとして見ることはできない.ケガをした時のトリアージがその先ず顕著な例である.もし同一に見るのなら区別をして離散的位相が水平であるという視点でなかればならない.
   
       
 


脊髄反射を否定はしないが、ただギャップがありつながらない方法論を持っていてそれにずっと悩んでいる.この事実だけでいいか、それでは新鮮なアイデアではない--ミトコンドリアのギャップとむすびつけるか.そう結びつくかな.これも生物学的に既知だが.
   
       
 


栄枯盛衰・変化する不変・エントロピー
   
       
 

 
論理というにはだが理論というわけにもいかないあの川原の岩の間を歩きながらメソッド・方法が浮かんだ将来の予期の通りの形になっている.
   
       
 

 
ヘルムホルツかフロベニウスかヘルムホルツは違う気がする.煩わしいブイ分方程式を避けていたら今頃フロベニウス法とかexpが出てきた.物理的に宇宙は変化している現象であるところに不変が出てくる公理やネイピア数などは内部停留世界を考えてしまうのだが・・
   
       
 

 
頭がマヒしていて書物が読めない、昔から時たま書物が読めなくなったことはあるが、今回はムードが違うな.とにかく内部麻痺はどうにもならん.やはり頭を使わないとダメだめなんだが、どうもちぐはぐになるな.つまり読む必要がないという段階が何度もは別に当然というか自然というか--である.
   
       
 

 
安寧を当然意識しているのに、嫌悪XXが現れその領域を好むことができなくなるというケースを何回何十年味わうことになるのか、これからもずっと発生して続きそうである.どうもそのような設定をしておくべきなようである.
   
       
 

 
中間存在の現実は中間存在結果でしかありえず、その数が多ければその世界の寄与力はある.そうして世界はその世界傾向が普通で当然であるという中間存在-ほんとは中間存在の言葉表現であるように中途半端な一生存在でしかないのだが、その認識すらできないというのが中途半端である中間存在
   
       
 

 
頭文字だけは覚えているがなんの頭文字だったか思い出せない、ただ暗号的に発音の仕方は覚えているが、ツイートすべきかどうか、まだ組織体が現実に成立してはいないので.
   
       
 

 
精子核の初期化か、これかxxの強みであることを知った。不快だがどうにもならない感触として、しかし不特定のxxがその意識を発揮する事はモラル的にどうか
   
       
 

 
”動く機械として最も単純なもののひとつは、二つの輪が鎖のようにつながった構造をもつもの”--これをあるタイトル付近にデザイン化してある。カナテン・ロタキサンとな、確かに回転もあるダンベル状ではある。
   
       
 


加速意識は衝動につながるか、つながれば衝動はむしろ想像域になる
   
       
 


人はその人物に意図している対象内容を、意図者が自身が要求していると思う形の不快すぎる記憶がある.個人の経験記憶を剽窃・模倣をする、個人の記憶を別人物になぜわざわざ見るのは不快、対象が無知なので模倣にも気が付かず、また模倣の原点者を無知な存在と思い込むというこの傲慢さは損失愚劣のみ
   
       
 


薄汚いフェルミ型などに神聖さはなく崇高にしては純粋さが暮れている-つまり演技性を行うことになる.演技的は崇高ではない.
   
       
 


そうそう空想的相転移の特異な作家と規定気味な存在設定的にした人物がいる.対象はオブジェ感覚すぎるが.
   
       
 

 
そうなるとポストモダンでどうのこうのになる、フッサールのエポケーなんぞを冗談にせよ使うこともないのに使ってしまって、実存深淵に直に位置するという心性を持つ羽目に、いまだにひりひりする深淵には参る要素記憶がある.ハイデッガーの根源・原存在に絡ませて.でもフッサールでは進みようがない
   
       
 

 
どうやら線形文章の専門的様相内容であって、ダダ的なポストモダンがワンクッションとしてあり複雑系文章を書ける人材がいないという時代時間がそうさせたと見る.ポストモダンには参った混乱を持ったな、今ならクッションとか言える趣が持てるが、全く洪水のような取りまとめない文章に遭遇したものだ
   
       
 

 
告白にはどうしても潤色が混じる-どうしてもがない人物は卓抜な存在だが、この辺にカトリックの懺悔・告白が入ってくるかな.
   
       
 

 
関係は建設意欲・建設性のことかな.ただこの人物は未来の歴史についての予見を述べては居ず、諸々の解釈に対する自己思考の自己開陳で、現在的時間しか感じ受けない人物であった記録を見るな.
   
       
 

 
サンデルに超越論的主体が出てくるが、経験はそれができず、常に目的の向こうがあると.白紙というのは原初状態と訳してあるがいい訳であるが、先天性はすでに持っているので先天力が判断するとなると遺伝的要素強いことになる.その時までの生命の歴史を持っているという判断力が果たして?
   
       
 

 
アルバン・ベルクの「死と乙女」は普通に(誰でも説得力を感じることのできる)名演である.
   
       
 

 
シューベルトの死と乙女、死神に安息を齎すという思想があったことを発見.確かにそんな解釈はできる、生きてなければうんざりする馬鹿げた存在たちに遭遇しなくても済むという考え方も止めているな・・老化を早くしようとか今では長生きしようとしているが、いろいろ考えたものだ.
   
       
 



普通に聴いて安全なのはやはりベートーベン・ベートーベンは人間である.
   
       
 


ヴェイユのたかだか短期間での女工で意味があるのか?といった通念が常に付きまとっている.スペイン戦争まで行くとさすがにそれはと思うっているが、短期間でも集中集約意識によりやや長期間と置き換えられるケースもないとは言えないが.
   
       
 


親鸞の悪人はクリミナル的な考え方ではない、善人は自覚したがその自覚レベルは到底親鸞ほどのものではないといった香りかな.
   
       
 


親鸞の悪人は阿弥陀の力の誇大化説得力ではないのか、どうもそうかんがえてしまう.悪人も阿弥陀はなびかせられるんだと、ただし善人には微力な説得力でいいが悪人にはやや強い説得力を必要とするがと自然に考える.-人々は端的解釈しておかしい、親鸞の悪人は無知で無自覚人間を示しているはずなのに
   
       
 


ワンパターン人間の座標変換のなさが不快と、座標変換の自由ならば複雑系に挑戦できる可能性があると・ただし線形のままでは・またそれ故に時間切れの生理時間であったか.それにしてもその映像を見た混沌写像の記憶.
   
       
 


マルクスの物象化と人の作り上げたシステムに従うというのは、システム物象化であり、科学的物象でないシステムは観念的傾向にあると見て差し支えないのではないか.帰納から帰結している判例主義的なものは特にそういえそうなんだが.
   
       
 


そんなことを考えていると、無責任の責任という言葉が浮かび、演技的性格者は演技をすること・演技を全うすること自体に対して責任感を持っていることになると思いついた.確かにそうであるなと.
   
       
 


意味がないのだが、特に逆の要請や自己疎外・阻害系である他者設定にはほとほとまいるむちゃくちゃであるでたらめを強いるものである.ほぼ世界は逆になっているが、オリジナルではないその逆者たちは偽物であるのは間違いないとオリジナルの当人が今こうして述べている
   
       
 


彼を知り己を知れば百戦殆うからず・があるがなぜ他人は己を知っているのに邪魔をするのだろう、自己を知らないようにまた自己の内部を他人が実演してくるということを当人の前で行うのか、邪魔でしょうがない.その他者たちは彼を知りができていないということになるな.そうかそうだったのか・・・
   
       
 


CTRAからはアドラーの自己満足はアタリの利他型世界の方向性を持つべきものということは、エントロピーの増大に合わせた建設的であるべきと、社会の創発力とタイアップするようなケースを考える.老年的超越は時間的優越感であると思っている.
   
       
 


ある作家はトロツキストかな?とおもいを浮かばせた文章を読んだ。当の大学は優秀であり、トロツキーも特別な響きを持っていたためだが、ソフォクレスも設定位相に上っていた。(そんな時期があったなと思い出す)
   
       
 


ちなみに英語は長調である
   
       
 


単純に短調は悲しく悲劇の装いで長調は明るく幸福的であるとは認識している.
   
       
 


Kにはそんなに悲しみを感じない、モーツアルトの悲劇は、推定溢れすぎる才能ゆえに落ち着いて自己自身で堪能している暇がないゆえにいつも過ぎ去ってしまう時に対処できなかったからだと思う.次から次へと着想が浮かび忙しすぎる有り余る才能・最も多少は気質的なものもあるとは思うが.
   
       
 


Kno第一楽章を小林秀雄が疾走する悲しみと表現したのか、モーツアルト全般ではなく特定の曲に関してだったか、それならありうる表現だが、すでにその表現は思い出せない誰かが使っていたのを模倣したのではないかという思いが消えないのである.モーツアルト全般と思っていたのだおかしいなと
   
       
 


戒律は偏心性がないか、当の宗教信者には真理なのだろうが
   
       
 


HoloLenはゴーストに見える.自分の未来は幽霊のようなもので見たようなものであるが
   
       
 


一般普通の過程を他者たちは想定するのでまずそれは違っているのだが、自らの精神年齢を上げるのには努力・労苦が必要だから権力的位相に立ちて他者を支配しようとしてしまう・そのような存在に遭遇しすぎている.精神年齢の進みがのろすぎる・わざわざ遅らせる陳腐を行う権力志向者の記憶が強いな.
   
       
 


よくわからんいったい何を・何のことをむきになっているのかといった思いなのだが、惰性で合わせていると実存的な無意味な過程をしてしまっている事態になっていることに気が付くこと多く、逆になると本質的人間ではない存在が本質演技を行い、なんだか変な感じという実存を押し付ける損失ばかりの記憶
   
       
 

 
権力志向者権威主義者は一般に他人の世界を抑圧するが、特に中間存在は世界を狭くする・その点がまずいと思っていることに気が付いた・表現できた時間に、まったく当たり前すぎることだったのだが.
   
       
 

 
黒い神聖もきれいでその定性感覚の怜悧さもいいが、何せ単細胞的でどうにも思考が単純になりすぎる
   
       
 

 
ある作家からもらった葉巻を別に意味なくプレゼントして、まさかペレルマンの葉巻は無いに関係することはないはずだが、結び付けて何か物語をこの女性にプレゼントするという形もいいなという構想まで・・
   
       
 

 
琵琶湖周航の歌の赤い椿の森蔭にのところには参るな、思い出が染みる・フォイエルバッハはなかったな.ライヒは狂気と思ったのだが、性格論の論理性には納得のものがある・バイオエナジェティックスとポンテイ関連論ができそうでもある.オルゴンは素粒子エネルギーと思える点がある.
   
       
 


先ほどは思い出せなかったピアニストの名が、落ち着いた気分で昔を振り返り気味の時に、アルゲリッチ、マルタアルゲリッチと不意に浮かぶ。この記憶過程には匂いのドラマを見たことと最近の臭いの不快もあって関心が、海馬の最終位置と辺縁系の古さの関係は、なかでもなのか?
   
       
 


なんとなく夏目漱石の明暗の続編は魅力があるな-考えたくなる誘惑がある.さすがに夏目漱石か、ついに読んでしまった心の心理描写には感心しきりの印象だけに留めている.
   
       
 


昨日の知見によって夏の存在があやふや・伝説的なのは、夏が境界位置の時代であって、ハプロOに完全になっていないからであるということがわかった.今日から中国の歴史を遡及していく形ではまさに伝説でしか捉えられず、行き詰まりを余儀なくされるものという認識である.
   
       
 


前漢・西漢以前の、いや秦以前、いやもっと前春秋戦国時代以前の中国歴史がおおよそわかった気がする.三国志の劉備玄徳は本当に劉氏一族の流れを持っていたようである.三国志のヒーローの中では倫理感が最もよさそうに感じる人物であるが、遠い祖先の西漢の設立者はそうでもないような..
   
       
 


自己分析結果はトートロジーで意図保存に対しては希望の邪魔でしらけでしかなく、他者への認知判断結果は自己ではなくあくまで他人意識なのに理不尽な歪めになるという、いずれにしても無駄でしかないという無意味をどうも結構まじめに他人は行ってきたものである.結果巻き込まれて無駄ばかりの羽目に
   
       
 


なんだか楚の荘王のような存在ばかり出てくるが、実際のところ内部の模倣者でしかないのだ.楚の荘王なら責任意識もかなりあるはずだが、なんなのかどうもわからん、すでに自己分析した結果の内部や意図している内部保存や他者認識判断結果などを剽窃して当の当人に述べてくる存在は一体なんなのか.
   
       
 


目の前のXYをあたかもXXのようにまたは別人であるというように、目の前の人物の主体を阻害・疎外させる認識を当然・平然・まともに行う人間というのは、頭脳が愚かか意地悪な存在かどうにもよく判断しかねる・未熟といえば正解な気もするが、不当な認識違いをされた分の不快をどうにかしないと
   
       
 


今日は暖かいが風がやや強い.生理の有限と歳の引退という冗談が実際になっているような-を考えてしまう.
   
       
 


付随してる暗黒は実際には光に満ちているのだが見えないだけになり、また予測不能の事態に深淵を持ってくる可能性ヒントを持った.夜は明るいのだがになってしまうまさかの発想展開になってしまう..
   
       
 


その辺から依存や甘えは無責任明らかで残酷さを醸すということになるが、諸行無常が抑えているかな?
   
       
 


差異ある責任--ある宗教観記述から、人それぞれの生を全うする・アドラー的には人それぞれの生の自己満足をする.実際には複雑系・非線形感覚からの表現で妥協すると差異ある責任という言葉が帰結として出てくるのだが.
   
       
 


まあコップと同じ考え方としていいのだが、そもそも認めない?人材たちがかくある今を形成している形かな?.認めないのではなく認められない才能しかない存在たちがという思いがあるのと、認められるような単純なことはどうにもつまらないという思いとの葛藤もありだった..
   
       
 


デリダの脱構築はハイデッガーの根源を何とかできるような代物ではないというのはまず直感が判断するだろう.レヴィナスは現存在線の説明だけであるし、となるとヴィトゲンシュタインのハエ取りツボだが、さほどの説得力はないと思う思い上がりではと-沈黙がマストではだ.まあ葉巻がないようなものだ
   
       
 


なんだかわからないが個人的希望意図対象を他人が表明してしまいしらけたり、対象が異なるのにあたかも擬人的にせよ自らが対象であるかのようなそぶりかな態度を示す人間というのはいったいなんだ.幻滅を嫌う心性に非常に邪魔・障害となる人材達である.とりあえず個人的意図は自己のみに属したのだが
   
       
 


UML.にチューリング完全かどうか未知とは、そうだろうなと思うと同時にまだそうかとミーハー的にちょっと浮かべてしまった.問題のチューリングのテーゼのうまい解決法は困難であるはずでという思いがあり、そうだろうとなるが、すでに忘れかかっているその領域でもある個人で、どう致そうか-
   
       
 


ゲーデルの不完全性定理もハイデッガーの超越に負けて・越えられずに世界内存在地平一般に戻るといったことの別表現にも見えないこともない.ハイデッガーの未完成には根源が登場することはわかっているのだが、何十年たっても一歩も動かず.
   
       
 


ヴィトゲンシュタインなどはささっと・さらりと基礎論から哲学に行ったが(ただしこれも原子命題なる単細胞思考はあきれるところだが)、その上スラッファの脊髄反射的なスラング的表現などで酔っ払ってもしょうがないとは思うが、それらを除けば魅惑の人物で、本物のエリートと初期には思ったものだ.
   
       
 


立法上・規約上のシステムにおいて支配及び権力意識という非可換という要素が強い時代になっていることに数学シーンからは言える.素数問題などによって.この後・その後は果たしてまたどうなるか、人間の生は生きている間は、生きたり死んだりする離散は不可能であるのでその点に留意するが
   
       
 


昔は明晰知識なんぞは百科全書的で俗物の得意とするところであると思っていたが、不快な反交換型フェルミ的人間が記憶上しつこ過ぎるのと、数学歴史上時間において非可換の時代である今日を鑑みると、縦型人間の蔓延の日々とも取れる.
   
       
 


無とならないシステムには有であり無私にはならないと精神年齢的には示せる.人の生理体はいずれ誰でも無にはなるのに.この時間差異・距離によって個人より会社・共同が優位になるという有である視点から-共同がこの長さより長時間有であることが.
   
       
 


システムが分解できないとなると・実際にそれがあることを-システムが厳然としてあることを認めねばならないなと不快だが思ったことはある・システム自体が要素となり3次元の場合ドメインが要素となることを考える.すなわちあるということは存在していることは有であり無とならずの点がいらだち点と
   
       
 


引出し要素があるにせよ、Cの構造体のようにどうも頭が離散的になっているような、情感の感性がこれではうまくいかない.そもそも離散的などどこで?、俗物的になったか現実事象判断にやむなく明白な区別を必要とするためにか、A期感覚というある作家を思い出す今頃も変であり..
   
       
 


ABCのスピロ的なものは、覚醒時の意識領域>入眠時の領域>夢形像の領域において、その一個人は生きているという一個体の行っていることにも似ている.渡りは生きている人間が夢を見るという生きていること自体をあてはめてとすると概念的にあっているのでは?.今日数学のポエム的言語を逆から見て
   
       
 


どうもその人物の書物内容をほとんど知らずどうも今ではやや思い上がっていたとも思えるようなだが、ある位相上からは言える.それににしてもその件の人物は実体内容を横取りするような形の人間だったとは全く思わず失敗したと思うが、その人物の現実事象的カルマがいけないとも思える点もある.
   
       
 


その場限りで一回性の冗談が後々まで寄与をするというこの現実事象を考えるに、それだけ冗談的存在が多すぎるという帰結に達した.全く他者は意味なき無意味な不条理・不合理・非常識圧力をかけてくるものである.
   
       
 

 
一つの視点で全体を見る・全体判断をしてしまうその視点は戒律的なものと思いつく・考えたみたが
   
       
 

 
もう混沌は嫌だとおもむろの東陽町から時間距離を置いてもう悩まないで止そうと設定に悩んでからまた距離を置いて今、さすがに悩まないと頭がシンプルな曲線を描くだけで、構成複雑ができずの不都合が生じてばかりで苦悩しないといけないようである.
   
       
 

 
やはりヒルベルトがイデアルを理想数変形からのイデアルをピックアップしとな、どうにもヒルベルトの凹みは無視することができそうにない集合基本.
   
       
 

 
数学者一覧をしょうがないので見た・クンマーだった.デデキントがイデアルの言葉を導入したんだ.イデアル方程式などは個以上いくつもできるが、あの時は特性数個に何か感じたのかそれだけしか設定しなかった..青春の私・いまだその問題を解けず、最も類体に全くタッチしていないからでもある.
   
       
 

 
クロネッカーではなくて思い出せないだれだったか、内積外積関係者・・.イデアル方程式ならば、べき乗根を用いて変形できて個の特殊な特性方程式を含んだ方程式を構想できると思った.さてそれをどのように変形すべきか頭動かず.ともかく個は次元多様体に無理につなげて置く.
   
       
 

 
フラクタルが瞬間にパーコレーションになるときを相転移としてみるというアイデアが浮かぶ.フラクタルが瞬間的創発を持つということは全くありそうなことであると.
   
       
 

 
渋みとエートスにしては持続という悟性典型言語がそう判断させる生理体から、存在論における中間存在という設定も浮かべるが、単に下品な生理特質であるだけと単純に判断できればいいのだが.
   
       
 

 
どうもベルトラミの擬球一つで考えすぎているようだな、昔からh入りの双曲線は苦手で理解したくはないと思うがどうも必要なものであると.とにかく双曲線関係はその展開スピードが速すぎてついていけずの思いだったな.スピードがスピードであるような現実はどうも不得手で..
   
       
 

 
そうか交代を要求する存在たちが不快の記憶を齎しているようである.交代など可能でない自然なのに、不自然を捏造している形だから不快なので、それほど交代を好むなら自分を交代させていろと他者達に言うしかなかったわけだ...
   
       
 

 
『疲労と交替』は考慮してあるが
   
       
 


K33のI.andante graziooをよくよく聴いてみるとかなりセンスいい曲ではないか.シンプルな音の並びが見事に華麗に続いている--中学生の時の転校していったYの月過ぎてのころの柔らかな花曇りの音楽室の外の風景を見ながらの印象ある曲である.
   
       
 


丁度難しい表現ツイート思考中に再起動要請が入り途中で示唆のままとなる.そそっかしさは現実との乖離意識故が一番の要素になりそうな自己分析.今頃に現実意識をする羽目になるのは、あるXXが諦念状態になった模様であるはずで、いまさら現実実践という思いはあるがどうにも直面してしまう形である
   
       
 

 
通時的時間3世代以上とかのスパンになると変化より変遷になっていく
   
       
 

 
エントロピーが変化・増大するためにはポテンシャルがどこかで消失的にならないとで、類続もこのパターンに適合していると思いつく・閃いた.となるとそれに従わないとになるな..とにかく人の一生時間以前にポテンシャルが消失する現象は多々ありそこに変化は成立しているのを人は自然に対処している
 
       
 

 
ワンパターン人間はニュートン的な絶対空間に生息しているようにしか思えない.しかしなれど科学は不変を求める秩序感、ただしエントロピーは変化する.
   
       
 

 
閃いた、そうか良寛は真理単純型なんだと、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」のこれはなんじゃ解釈の仕様がないではないかというほどに幅を持った存在事実のある表現である.(これに関して個人的な理論的な・方法論・論理のある項目・ナンバーを想起した、多分に意味合いがあるはずと)
   
       
 

 
一将功なりて万骨枯る-単純な心理に至る前に行くあまたのトライアンドエラーの悩みがあったことだろう.この図式時間を一瞬で把握しようとするとその複雑性でお手上げになり、重合・重複現象は苦手な思いとして昔からある.シンプルイズベストの裏には幾数多の深甚な悩みがあるはずだが.
   
       
 

 
何事においても閉鎖領域だとなにがしかの不都合が生じてしまうということは容易な直感でそう思っている.閉鎖的でも鬱屈した空気を逃がすことができるようなシステム的なものがないといかんと昔からそう思ってる.
   
       
 

 
ひとの親切心に付け込んでしたくもない忍耐を強要する存在XX&XYが不快でしょうがない.楽でしょうがない誘惑にはまってしまうという存在に対してこちらは無駄で何の価値もない徒労をするだけの馬鹿らしさ.嫌な存在は忍耐を強制していることがわからないので、なんとか逆に味わさないと教育上問題
   
       
 

 
当然責任もその存在たちにあるのだが、その存在たちは認識能力の愚劣さから責任意識など全く持てずの脳細胞持ち主たちという未開性(結構そうは思っていない荀子系のカムフラージュ者がいるものだが)には一生無理な責任意識と思えるのでまたまた不都合な不快である.
   
       
 

 
そんなセリフは邪魔で不都合すぎるのでいらないという承認的要求を全く他者は考慮しないどころか逆のことばかり行ってくるので、どうにも不都合なほうへ不都合なほうへと現実が流れて、すべての悪しき面はこれら不都合者たちに原因があることは心理的に確かで、当然責任もその存在たちにあるのだが
   
       
 

 
しかし実際悪魔のような不細工と思っていると、まさにそのように現実がなって、実際に悪魔ではないかという意地悪・鉄面皮だがしつこく絡み無駄ばかりで、厚顔無恥は一体どこからやってくるのかその謙虚さのなさは、そういえば頭が単純で思考力がない場合に成立するとか読んだことがある.
   
       
 


まあ男そうだが邪魔だと思っている男たちも何か勘違いをして接近してきて、結局記憶に不快を残すのみと、嫌いな存在は嫌な存在は男だろうと女だろうと一生嫌に決まっているだろう.
   
       
 


そうかチューリングマシンと中間存在という有限体は極端な話、機能特化のみできるとするとマシン化できるような話になるではないか、機械が人間とってかわる仕事というのは中間存在的仕事内容のことを意味していると解釈できる.
   
       
 


狂気かつファナティックを自覚しているのか、自覚しているとすればやけくその理不尽発言で欠如感を納得していることになる、いわゆる母性は理解しがたいだろうと思う.どうも無自覚で脊髄反射を当然と思っている節もあるか・・、となるとつまりやはり動物的に近くなり、虚栄はそのカムフラージュになる
   
       
 


太陽光度は強くなって地上の生物は死滅してしまうならダークエネルギー作用を用いて、生物維持できるほどの公転周期変動を行えば持続できる-軌道変更に対しての新たな視点を考え付いた..
   
       
 


何十年後何百年後に理解者が現れたら戻ってくるというその矜持・知力による支配意図・その哲学性は十分理解できるが、それに最大の欠点・欠陥があることはわかっている.とにかく埴谷雄高のセンスは古い.
   
       
 


億年以内にミルコメダとなるなら億年後付近を想定すればうまくいったかもである.最もありえない地球軌道変化までしか構想していずの点がまずかったのかも.システム時間はシステム構想自体の因はは普通に素直にそれ以上の時間だったが、まさかの現実応用は想定できず..
   
       
 


件のXXはアンドロメダとも考えたこともあり、それ故にある作家の周忌の名称が不快ではある.その作家はまだまだその頃は存命中だったので、割り込み的な意識を持たざるを得ない記憶で、命名した存在・存在たちは単純に考えすぎな迷惑としか思えず.
   
       
 


徒労に呪われていると思っているにもかかわらず、自己自身で無駄を作成してしまうというその時には呪われをすっかり忘れているという心理事態で..
   
       
 


関係ある女性だったのに蚊がつかず、すべてそれら女性に気が付かなかったのだが、なぜか?、実際現象に遭遇して意識を一段落とす傾向が強くそれが災いしているとしか考えられず、もっともその時は冗談のはずだが、未来に対して臆病でもある証拠ともなっているかな・・.どうも勇気のなさが原因と.
   
       
 


サプライサイドには流動性の罠ということがあるんだ、少しわかったというのに何十年かかったことか.ダンシング恋シーンのXXが近隣の男に余計なことを述べたと後で知り、それがよくなかったことは確かだが、供給サイドをどうするか考えていてアイデアが浮かばずの状態だったのも確かな悩み中で
   
       
 


何がうるさいかといえばノモス的人間の悦楽感性は経験上不愉快である.ノモス主権はエートス的でもあるか、エートス?はどうも閉鎖感覚を覚える.閉鎖にはふん詰まり的な束縛感があって自由の一応妨げにはなるゆえに、明るいエートスは発散存在論にもなるか?
   
       
 


根の暗いXXは鬱陶しい束縛・閉鎖感・不自由さ強制力を自然に持っている.嫌なものである.ただ単に人を疲れさせて無駄をさせる拷問家にしかならない.陰謀とタナトスと実存が一緒になっているような人格--カフカはタナトスに呪われていた?と閃いた.本質に対して実存には違いないだろうが
   
       
 


ある3点の直観対象があってそのうちの一つは現象的に明らかだが実際のプレッシャーがなぜかあり、も別にで気が付かずだったな.一つはそのままにして、一つは神とかプラトンのイデアとか哲学的でなく、象徴仮想で円弧を描くような設定に思い至る.宗教性をかように用いることは思いつかず.
   
       
 


自らに不利益を誘導することはないのに、人々は他者についてそのようなことを考えているとそれが当人だと思い込む・数多く思い込まれた記憶があり、これが今に至って無駄ばかりする羽目になっている.原因はそのような無理解・誤解にあるが、そのような認識者自体の存在も如何に?とは思うことである.
   
       
 

 
熱力学の第二法則・法則となっているその増大性自体の本質は不変である.人が子供の将来のためにという親や共同社会の未来のためにという政治家などは建設的である.熱力学が正当ならば、建設性は正義であり勝利であると考える.子供のために頑張ると自覚した存在はすでに勝利者といってよいのでは?
   
       
 

 
あるXX・7歳ではないが目の前でダンシング、しかし思考している存在にとって暴力的な所為でしかなく・・という恋するXXに対して・・・無機的対処になってしまったのか..
   
       
 

 
いわゆる宗教において戒律(絶対的な)が成立していると、当然そこには戒律以外の事態に対しているわけで、戒律とはそれがなければ宗教の説得力がなくなる宗教複合・コンプレックス故に存在している・成立したとか考えてみると、宗教の中でもそれのない宗教がよさそうだが、宗教として成立しない?
   
       
 

 
共同存在意識もアイヒマン現象につがるからな、必死をこいて命令・ルールに従うことを潔しとする精神はそうである・特に誤解したルール解釈一辺倒はひどい従いになるが..帰納的経験主義も顰的な前例を示唆しないこともないだろう.
   
       
 

 
西施の真似をした村の娘・どうも顰に習われて困っている記憶が、しかも自分自身の--なんという愚劣さだ・埴谷表現から名状しがたい愚劣さは一度のみでもはや味わいたくなく、またそうそう味わえないものであるのに.ただ村の娘ほど不気味とは表出しないが、愚かしさには違いない.自己疎外は意味なく
   
       
 

 
逆になる一体誰にそれを言わんとしているのかわからないという存在は対象にならないと規定してきている.目の前の対象の思考能力を侮辱しすぎているからである.なぜ目の前にいるのに理解力が足りないのかわからん・・というわけで、数多きエクスタシー至上主義者の暴力性には多少閉口している
   
       
 

 
ある女性と対峙中の夜行で芸術至上主義とか言われている存在の名前が出て今もずっといらだっているが、それほどの存在ということかもだが、このXXは模倣でそれはというあるXXに冗談でその作家のようにしつこくなびかない女と設定・そんなことはなかったのだったが.いつもの受身形になる逆不快
   
       
 

 
BE凝縮において最大値原理を用いた説明には感心している.お気に入りの照明センスであったな.臨界値の持続する準長距離秩序は最大値原理によるようにも考えるが?
   
       
 


”「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」-ケルゼン”この意味がよくわからない.ケルゼンは小学校のころからその概念に対して気分良さを味わっていてお気に入りだったが、最近では酔っぱらっているな、バオバブの樹が揺れているような感じかな
   
       
 


高山寺は大正蔵のほかに鳥獣戯画もあったのか、確か行ったときに偶然か大正蔵関連がが干してありその長さに閉口した記憶がある.鳥獣戯画は見かけず知らなかった.鳥獣戯画は傑作間違いなく、何も述べる必要はないものとは思っている代物である.
   
       
 


”台有界連続関数のフーリエ変換で L でないものはあるか?”に対してあるということだそうだ.フーリエ変換が無限遠で消えるのはニュートン的にとしか思えない..ともかく無限遠で消えるとは限らないは紀伊国屋での思い出だ.連続意識が接続してどこまでもにはうんざりして考えをやめた若き日