2017-12-27

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若き日の第2楽章はまだ通用するな.新たな思考ができるのではと第2楽章が未完なのに挑戦した事はあるが、脳内がランダム混沌錯乱気味にしかならずやめた.やめて未完を完成にしないとだが、16項目目で躓いていて処理出来ず.21も完成しないのはおかしいな.22は未完はわかる24は考え方の相違があり…












ちなみに現状維持無限変革は、二本足の形態人間がたとえば平行線が消失するような遠い時間迄性的継続を持続するの意味合いで、それ以前に変化の可能性を含意していてなおかつ二本足にはこだわっていないものである.一応地球消失に対処しなければならない存在でもある設定だが-青春のモニュメントより











こちらはxx&xy達に言いたい事を恰もそれらxx&xy達は自分達の思考として、こちらをまさにxx&xyであると見て述べている事に気がつかないのは愚かな間の抜けた存在としか…私はそれらのxx&xy達ではないのは明瞭な非常に馬鹿げた不快である.












指示的は効率的に人材を物象化しがちで、複雑問題に対して面倒と思い-実際には処理能力ないからだが-他者に転化する回避や問題自体が無かったとする省略をしがちなものである.まあそれが限界固有なんだが問題解決に対置する存在とはそれほど思えなく、自発責任の邪魔ばかりして来て不快でしょうがない.











小学生の時だったか中学生になってからだったか、つづらか終わったところで浮かべた隠者の夕暮れはお気に入りの言葉である.小学生にして先生の言う事に耳を貸さないとした自発力も極端だが、それ故長じて相当でないとやたらの助言など無意味で自発の妨害阻害で退行や停滞の無駄を惹起するだけとなる












何十年も前のxx&xyの発言して来た自己本来ではない記憶が蘇って来て恰も自分の発言のように他者から思われる可能性が大である.その発言内容はこの人のものではなくまたその発言者はこの人を無理解誤解した理不尽なものとわかる人材が素敵なのだが…不利益な模倣者擬きは相変わらず出現しているかな.











朝起きようとして脳裡に浮かんだ良寛は老子的存在ではないかと.老子的なら子供と遊んだり破廉恥で下手に見える文字や悟りなど知らんや紅葉の表裏などはさもありなんと理解できる.その昔良寛どうのこうのを述べて来た人物は自己投射をどうもして来たようで啓蒙意識の実に煩わしき迷惑な人物である.












トートロジーなんだが、自己自覚をさも逆になって当人にアドバイスをする間抜けな啓蒙的人間はハイエクの保守的優越感思い込み者というやつだ.まあそのアドバイスはナンセンスである認識レベルに達していないからな.またそんな人間は自己優位の為の無意味なアドバイスの為に対象を理不尽に卑下する












ストウ夫人にヤシの葉なる作品のあることも知り、またアンクル・トムが揶揄表現として用いられる事も知った.なんとなくそれはありそうな推定はできる、作者が作者であるので雰囲気は作品に流れている可能性ありと思えて.やはりアンクルトムも小学生の時に考えた事あるが諸事情で無意識記憶に抑圧気味と











ユネスコといえば何といっても今は無き所沢のユネスコ村の小学生の時の遠足である.多少ぼんやりした大きな池の向こう側は東京都かと佇んだ記憶はある.それと自由に行動して迷わないかなの懸念を持った思い出、結局集合地に戻れた筈で迷わなかったが、戻りの記憶は無い.












鈴木大拙によると精神には倫理はまだあるが霊性はそれを超えているとそこに宗教の発芽がだったかな-深い思想は正義や道徳を嫌うはこの霊性的なものの無神論意識である何かとなる…深いではなく超越的と判断するが、神聖な人間や神聖意識は悩みを持たないが直観認識にあり、自由な心性を持っているか?











私は他人では無いという時にランボーの私とは他人であるを不愉快不快に思い出すのだがどんな意味なのかよく知らないままではいかんな.見者の幻想状態があたかも他人や宇宙内存在的認識が他人なのか、それとも自我のみる超自我が他人か無意識が他人かまたは無意識からは自我が他人か超自我が他人か…











なんだかその時には中学生の時の事など思い出さなかったが、他者が自己記憶を同語反復ではないと思い込みながら発言してくる事この例以外にもxx&xy達多すぎて、普通に成立している筈の承認の要求を歪めて無視の侮辱ばかり受けるがそのナンセンスに気がつかない愚かで間の抜けているxx&xy達はなんなんだ











みんながそう言う事には個性がない.個性も奇人変人には個性があり、個性にも位相上の差異があり、個人的には普通常識を他者からは個性と見られるケースはあるかな.--あるxxがみんなそう言いますよと述べてきて憤慨した事がある.皆が述べる事は既にどうでもいい陳腐なもので白けものと思っていた頃











普通に他人を利用しよう利用している人間はそこに優越意識を見出していて、それには責任が伴うことになる.利用対象に対する優越感は自由性を持つので、例えば結果を利用する存在とか.そこに無責任を持てば責任のカムフラージュであり、システムに従うのもシステムを利用しているとみる事ができる.











まれびとから国津神天津神登場天津神は日向の国の高千穂峰に天孫降臨したなる話しはやはり投馬国の持ち上げ神話と見る.岩戸の段は天岩戸だからなるほど高天原の話になるな.岩戸の話を想像したのは小学生低学年の時で良く覚えている.なぜ浮かべたのか前後関係は覚えていない.












後年新宿紀伊国屋に立ち寄った時に、国土創生神話を知り、色褪せた薄黒い海に点々とした陸地と白い雲が動いている絵を想像したが、白い雲も鮮やかではなかったのは?.年齢的にも若かったので個人的な生理要因とは思えず、多分に遠い昔の時間に対する心理作用が働いたのだと思う.












コーシー分布の大数の法則が成立しない中心極限定理も成立しないは知らなかったが例は収束しない事象与件か、大数数まで行かない現象は数多くあるはずだがかその例になるのか.どこかで聞いたかも知れないけれど記憶には無い.およそらくはアトランダムにがそれかなと思えば昔から念頭にある…











消失空間から常世の国に現世からの意識が向かうと言っても昔から常世常夜はありにけりだが、タナトス面とまれびと祖霊を解釈致さんとす.量子域からまれびとを風土外部にうつしよ外部に設定せずとも可能とならないかの直感アイデアまで…単純には無機物となり宇宙があるがままに進んでしまい…











親鸞の愛情は末通らぬは如何に?.徒然草のの末通らないは泥むを当ててもとは思ったが無常ではちょっと違うか.あれほど悩んだ自動記述の泥むの意図との勘違いが、集団不可知性やある人物の有限域の向こう側に神秘の領域があるなどから、賦与意味を携えて泥むが有効に使えるとは…











古事記や日本書記などは手に負えんと中学生の時に.それから数十年漸くやや日常レベル意識に変遷してきたかな.自分ではなんとも思っていなかったのだが、当然古事記日本書紀対象ではないはずの日本の歴史の解答を教師にやや興奮気味?に褒められた事があり、キョトンと.その教師はカッコイイ存在だった












孔子の朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりは別に夕べでなくても秒後でも差し支えない、いわゆる一生の仕事を見つけた一生の伴侶を見つけたを孔子流表現化したものである-まあそんな事は小学低学年でもわかる…












魯迅の沈黙は政治的実践のようだ.『奇妙な保管場所』は当然沈黙の場で今は消失空間でなんとか展開視野の深淵でここにモチーフがどうやら絡みそうなのは昔からで、専門家が考えるべきな程に難しさを惹起しているけれど動勢チェック手段をそうもってはいず、一応考えるべきか既に…しかし超越拡大がある










横取り存在は優越感の自由ゆえにそうするのだろう.責任も横取りしなくてはならないが、そうでなければミルグラムの典型性・無責任は横取り模倣の残酷な蹂躙を対象に行うとなる.無自覚で無知ならば無自覚無知は残酷で無責任と元々ミルグラムタイプとなっている.






ヒューマニズムは中学生の時に今更古い…ルネサンスか・Cのヨーロッパ恐らくフランスを連想しながらそう思ったはずだけれど.しかしヒューマニズムを古いはずと思いつつ無視する事は出来なかった.その後のいつの日か哲学テーゼを獲得したのはこの傾向からと推測できる…











個人的にはある鉄道駅で中学生の時に靴屋の看板を見ながら靭の漢字を辛うじて覚えた記憶あり、その駅の近くを歩きながら強靭なワンパターンの繰り返しに耐えられず拷問を覚え、その後や今尚そんなしぶとい人間が現れ過ぎて辟易中.またそんな人間は面白がって接してくるような…












人が孤独に人矛盾に対して自問する時に置かれる情況は殉教性ではないか、全くこんな事に何年も気がつかなかった.一生をかけるに値する仕事や生まれ変わってもこの人とのオシドリなどが例である.被殉教性の無責任者も多いが、長いものに巻かれる事大者の錯覚優越感など.個人は共同体圧力には弱いので











正規分布かそれ以外かそれとも双方かの仕方で世界となっている












逆というか模倣が追随か何れにしてもトートロジーは平行でまず有限では交わりは無く交点を持たない.無限遠で交わるも都合いいからそのように考えるだけで、収束があれば発散もありなので無限遠で離れて行くも言える事になる











最近考えるにどうも荀子は甘いのではないか、性悪人間はいつまでたっても一生性悪のままに終わると思える人間が多そうで.善人は生まれついて善人だが











関係の何々を解決した思想はないそうで、孤独になり自問をしてもそう述べる当人は当然解決していないと自己認識をしなかったような.挙句の果てに人間にどうする事も出来ないでは解決に対して矛盾ダブルバインドを自らこしらえた事にも気がつかなかったようである.












リアルな現実がそうである事実であっても自己気に入りのように思うように判断をしてしまう傾向にあるから良く事実を見間違える脳内変換をするな.そんな時に指摘してくる存在はまあ冷静とか.現実や事実が間違いなる思いもある事もありで.まあ単に自然を歪めてくる他者達は認識間違いも度が酷すぎだが











億光年の太陽の億倍のBHか、大体の見当では名残だからやはり繋ぎの要素か、なぜか人の想像には手に余るは昔から.その後の昔は億光年のクェーサーに乗って遊ぶとは思ったがそれでも合点は行かなかった距離、億光年な…











利用といえば逆になり主体疎外者達には利用された形で、別に疎外者達などいらんのに損をするばかりの事になり、不快なxx&xy達ではある.












逡巡したヴェイユの目的か目標はよくわからないが、それを除けば理解した.逡巡時に先走り傾向で利用された気分がなんとなくありの別にどうでもいいはずの存在がいたような…












検索にあった「シモーヌ・ヴェイユにおける摂食障碍と博愛思想」を読んでみた.重力とはなんのことかで物理的なものではなかった.ある人物の身体が否定し得ない事の強調や原像とヴェイユの無域が希望とは矛盾か断絶か神学かどちらかが虚偽かピックなのか、その人物はヴェイユ的な位相を元からとも思えず











それを発言発語してはだめだという事を述べるxx&xyは陶冶力が不足しているか限界に達していてそれ以上を望めないかの人格である.











例では情況を決定するのはカントの定言でもいいと思う.仮言に対して定言は類的に説得力を持っていると思える.情況が共同的でもなく類的歴史的情況となるならせるのならば、仮言事実は参考でないか反面として残る事になる












トコロテンメカニズムは思いつかなかった.作用機序が外部によるとは…内部のみだと行き詰まりになるわけか、まてよ信号の狂言があったがこれは機序単純なトコロテン式にもなる











二重に知識不足の記憶がある事になるが、個人的性格が齎したのだからでもいいが、それでも失敗かな.今では対象位相の認識が分かっていず、既にだったのに未然にとか現在とか狂言状態情態を行う事態になり、それが他者に自然と認識されるとなり…は自己問題より他者理解力のなき傲岸無知が問題と思う…












帰納の未決定と現実.現実物象には常にサスペンスがあり、また発生する現状.ワンパターンにふさわしいのは持続の言葉.持続と継続をニュアンス的に間違ったかの思い出.漱石道草には継続が適切











人々はなぜ戦争がなくならないのかとか人間は歴史的に見て繰り返し反省をしないとか風が吹いているだけとか述べるけれど、覇者的存在を無くすという意見は見た事がない.












『未分化である事と等均質平等境界膜を越えて-』.未分化はまだ先例を知らずその先例を無視する形.境界膜を越えては一様地平面から脱却している位置--青春の記念碑より











ハイデッガーの本来性?、見た事ないな、超越の壁から戻る現存在空間がその実体と捉えているが、時間論は講義だけで手が付いていないのが存在と時間か.時間に相転移意識はあったのかな、ハイデッガーの未完部は原存在論が描けるかどうかだと思っていた.本来性より原存在の方が根源的としている…











今のところのそんな他人は違いのわからない認識力愚かな操り存在で汝自身の自覚無き存在のまるでロボットのような自己疎外的不自然な存在に見えるが、自己本質がくだらない存在であるならば模倣や不自然をやった方がマシとこの点は自覚しているのかも知れない.












権利無き他人であると思っていると、意図の逆だから他人は権利あると思っている事になり、不自然で現実は実際に歪んでいる事になる.この歪みを訂正したいが難しく、しかしどこかでそんな不自然は訂正される筈だとは思っている.-訂正意図の目的を逆に他人が仕掛けてくるという無茶がありすぎる












何故自己不都合な冗談的なものがリアルまさに現実になってくるのか数多いがわからない.現実は自己不都合な不利益で意図や目的の逆であるものと判断したくないが、そうなっているのでそう判断せざるを得ない.自己が損をしていることは他人が得をしている事であるが、ただ得をする権利無き他人なのに












決定とは一概に言えない判断だけれど、こと情況に関しては有限に成らざるを得ない.どうも情況より状況的なイメージのある人物がいて、逆とその上に疎外を行使されて、その辺でしつこく悩む羽目になり、その多くは無駄な時間を過ごすまさか単にひと時の冗談に過ぎないとその時に判断した事がである











芸術にはホーリートライアングルの要素はどうも考慮せねばの事態にはある.別に使わないに越した事はないのだが、ここに関係の絶対性なる趣味ではない共和的なハードボイルド概念感覚の存在の記憶が悩ましを齎していて排除困難な不快がある.












ちなみに哲学はソクラテスであり、これも他の男の優越感を刺激するので使いづらくなるといった不自由になる記憶がある.プラトンのイデアにはソクラテスならイデアは芸術であると述べただろうの推測を持つ.












『見えない目よ粗い目よ』は記述してある一文である.












交易のKula・クラのネットワークの網の目には応用点から気にはなるとはあるが、CRAでクラ〜と発音すると個人的なリリジョン感風のものがあり












単純明快に人間とは何かはまだ帰結結論は出ていない.宗教はこの命題に対して逃避感ある盲信的なものとある実存者からは言える.ゲーデル的には人間として収まっている限り解決できない事になる.---この辺りで無機物を作り有機を予定していたものが神になる.空虚から開始とするならその空虚の設定存在











面がガラス張りの部屋で仰向けになっているとふとねじれが浮かんでなぜねじれに今更意味があるかと.空間でならば平行のまま直交形式を取ってもまじわらないが、射影・平面にした時には交わるとさほどの事はない理屈を考えた記憶をメカノクロミズムに際して思い出した.後折り紙の数学も











とすると昔自らにダメさを皮相断定した形は相転移でその辺の経緯は結局自然に間に合った事になったなと思い出している.











エビデンスが普及?.it's evidentで用いている.evidenceがいいのかな.フラクタル余韻効果を暗示したつもりで.これを取り入れた頃はやや仰々しさがあったが…











自分は悪くないとして他人に転化や誹謗の存在はカルマ存在である限り成立せず意味をなさない.自分は悪くないと思う人間は真理人間か聖人以外に存在しないはずである.日常一般に社会生活をしている存在が真理体や聖人であるはずがないので、あまりにも馬鹿げて白け過ぎる現象が成立している.












無駄な忍耐力はないのに忍耐を強要するので自ら忍耐をしてみろといいたいが底の浅い単純精神なので忍耐力も浅いものでしかないという非可換の不公平さがあるものだ.そんな人物は世代後でも間に合わず世代位かかって自らの愚かさに気がつくのだろうという底の浅い気の短さがあるのに気の長い話がある











種の特性方程式を考えた頃に、のべき根の数にはきりがないとして考えるのやめたとした事を思い出した.今ではあるxがあり、そのXに^∞となる事になるで…X^∞=










種の特性既約解に次方程式があっても良いので、なんの意味なくあの時に浮かべた対象はクリフォードやカシミール、ディッラックもなんだか出てきて意味があるのかな?.近いのはSである事を知ったが、単に冗談かどうかわからない遊び感覚であるが.











直交射影なら高次でもハウスドルフ空間的にと判断できるけれど内積は明瞭では無いはずで、ここで冗談を使った事が他者に自然かつ真実の意識と思われたところ.冗談は冗談で空想空虚なものでリアルで無いのは当たり前すぎるのに、なぜ人々はリアルと思うのかさっぱりで不思議で、無責任に飛びついた?











フラクタルと対自意識を用いた場合で中途で意識を外すやめる時に、xxが挫けとかダメとか述べてくる.前提にそのxxらの魅力が中途半端に過ぎないとしているまず主観を無視している事、対自を即自だと思うこと、主観の前提を逆になり自己自身の魅力の無さをそう思っている存在に投影してしまう不快さ












冗談で要素論は成立しないといきづまり哲学をやめて漫画でも読むかや、思惟の法則があれば物事は思考は自動で簡単になるのにとか考えていた数十年前の今頃、しかし様相で悩んだ川原の時もあり対象になっている.思惟の法則があるとなんと世の中つまらないものだとはした…












どうも相対的にこの環境で生まれたにしては考えることがかけ離れているなと思った小学年生、しかしこの環境で生まれた事は確かであり事実である.











アクシオンがCP関係でダークマターの可能性は既になので、反粒子達をダークが吸収しているアイデアは珍しくも無くそれほど意味の無いものだった.となると昔の暗黒場の中の強烈な波状有限エネルギー様はディラトン的になりそうな.












南天の木麗しく空孔を浮かべ愛おしき梨の木の植木鉢を誰かに排除された近くのFで量子を考えるのは流石にまだ早いと自制した小学生のその後に浮かべたこの波状は何かと.同級生の名前から励起をその家に行った時に浮かべ何となく気分いい言葉と思った思い出.












幸福な家庭は水平的で不幸な家庭は垂直的な事に今更閃いて、小説家トルストイも哲学者ではないから、わかりきった自明の理を暗示的に表現しただけの、例によってわからないものは既にわかっている範疇のものにかなりの時間を費やしたというパターンとして判明した.












中学生だった、自転車での帰り道のある所で、三角形を浮かべ二等辺や合同を今更考えねばならぬのかと思ったのは相似で後に知るが全く思いもよらぬフラクタル予感だった事は今ではわかる.その同じ所同じ時に浮かべたアンナカレーニナの幸福な家庭は一様だが不幸な家庭は様々だがわからなかったが…





BPS?-クリフォードからガンマ行列を今頃知り、スピンは度で虚変するや超対称性粒子はダークマターが吸収しているなどとSF・Sci-Fiのアイデアを思いつく.





頂点と共形の対応、統計からのスケーリングや幾何方策等不明やミラーも初期もののみと、共形作用素側の存在的表現をして…それならラプス時間を埋められる事になっていると思う.新宿紀伊国屋でのモンスターの時から何十年でおもむろ冗談的にモンスターには何か意味がある筈とした直感を思い出す.











プラマイ/は良かったが度は知らなかったあの頃、思い出しても結局間に合わずだった事になる.リングから波の集まったものが粒子としていいのかや現実が定数数ならとかの凝縮に行く前にそうかなんだか忘れてしまったではないかH定理を現象記号象徴した原場所は面影を残していて












過去xxには他人の子供がいるが意味なく滅亡運命にある筈なんだが、若き意識の勢いで冷静さを欠いていた面がある.それに付随する女も似ている筈で、全くナンセンスな犠牲を行っていることになるな.












ある年にニーチェ自ら道化師と述べている文章に接して、サロメで悩んだ中学生の時が馬鹿らしくなったものだ.それ以前にニーチェを読むといいですよと述べて来た存在がいてなんとも.読もうと読むまいとかってだろうにこの啓蒙優越感意識者も不快でたまらん.一般にそんな存在は思考の邪魔になるだけ












人々のデタラメな思い通りにしていると数の圧力でそれが正解になる嘘も多数だと事実になる?.むしろマズローの的人間が愚かで無知な思い上がりの甘え存在達に同情するからという優越感の双対的な謙虚さによるものとの分析を理解できる.











矛盾の成立している場成立させている場なら絶対性は矛盾に対して現れて、場なら情況を決定するなと閃いた.場なら深く深淵をイメージさせるが、ゲージはあるしこの場合現象学の位相を齎す浅さを覚えない事もないがだ、ともかく直感で不可侵的な自己弁護自己保存要素意識関係設定はまずこんなものだろう











偽善社会な表現を見る.偽善はだいたい虚偽で冗談性もあり、不本意な要求もある建前公共性の長いものにまかれろの結果と集団親和感の幸福性などが重合しているので、冗談の筈が現実になるのは偽善の圧力と気がつくが既に遅いかな?.しかし不本意が現実になりすぎ…相当な数のごまかし者がいる事になる












ものをよく考える人は新しい時代とか思潮に流されないようなものを考えたくなるものだが.古い新しいは無くカントの定言的位相なものを.あるxxが時に対して遅い意識の保存を忘れた頃に古いたと突如と発語して不快な余計なお世話意地悪をしてきた記憶がある.かような低次元存在が思考の邪魔をする











で不条理だけれど、実存者が逃避と盲信と受容のパターンを挙げている.弁証法においては、条理と不条理の止揚揚棄ではなく、条理を観念と物質に分けてヘーゲルとマルクスの観念的か物質的かの対立で、一方に対称性の破れを盲信化した形である.












ある人物が精神か物質かわからない決まらないと確か申して、同じく考えをしているなと思った事がある.その上に受容から全くの不条理を述べてきて思考の邪魔をされた事も、今ではその不条理はかつて考えた事で、ただしxx一般にせめて述べるべき事で、自分が受ける筈の無いものとわかっている…












この存在はなんなんだ.受容の狂気で人のなりすましをしている形…ただし対象設定が違っているが.その後強引な同じくなりすまし型人間の多数に直面する事になるのだが.これらの存在たちはすでに狂っているのでは無いかと考えてみた今日この頃.そうすると処理しやすく、煩わしさの軽減になるため












そういえば以前に自分以外は狂人だなるツイートをした事あるな.今では"わたしの弟はわたしより凄いわよ"と言った面白くなさすぎる馬鹿馬鹿しき過去xxの蘇り状態のまたまたナンセンスやけくそ位相にした単純短絡判断に陥っていて…そいつの弟は感性が気に食わずまた逆のなりすましタイプの不快だが











そうしてとなると、孤独で悩んだ矛盾対処者は、その後生きていたので対称性の破れを使っただけからそのあとは自由に考えた左ではなく右側的な意見者傾向になったかな.関係は盲信で受容に気がつかなかった所詮な存在では?.トロツキーは頭いい印象があったが知らぬ永続革命はいいなどと承認要求を











新約に則る限りユダは金を返して反省して首吊りか崖から飛び降りたはずで、作者は口述できる位だからそんな記述も知っていたはずなのに、中途半端に自分の都合いいところでやめている.フェアではないのでは?所詮カルマ人間だからそれもありか…ルサンチマンの勢いある吐露を新約に仮託した例である.












漸く探し当てたデュフィだ、あの海の青が印象に残った第一印象が今や最近見ても昔の記憶にある印象ほどではない鮮やかな青色のはどこへ行ったのか不思議なんだが、マチスは依然明るい影響下にあったデュフィか…シャガールもデュフィと同じく最近では色褪せて見える.











超流動構造における相転移にも参るね.何にも説明していないと思えて、そのうちにクォークを援用するかも.ペンローズの粒子も超準的には中途半端歴然という無限小意識











『無限小瞬時心底』-あの夏の日のターム華やかりし日々のひと項目が突如蘇る.











ケツァルコアトルの言葉は印象深い.ナワトル語とある.池に注ぐせせらぎの杉の木の所で、征服と方解石の劈開と黒い始祖鳥が空を飛んでいる想像をした同時間的でも脈絡のない連合事象の小学生の時があった.











生前他者に依存して生きていていざ死に直面すると自力で行なう羽目になるのでなんと馬鹿馬鹿しい事だろうや結局生まれた事実において先天性に気がついて馬鹿馬鹿しさをまた追加する要件になっていた思いをしたと思われる人物が明治の頃にいた…この人物に関しても冗談の筈が時間を無駄にする羽目に











有限、上下大小に有界なもの.謙虚に有界以下に位置していると、普通な有界者には小さいので優越感を味わっているところに、上に大に有界以上を出すと中間存在xxがヒステリーを起こす.何も中間存在の優越感のために存在しているわけではない.また中間に限定してくるから始末に悪い.











今思うと不思議なんだが、実証実際実行あたりの区別で悩んでいた小学生の頃、ポーの黄金虫で英語で最も多い文字はeとあったのを記憶している.何かで手に入れて読んだのかな?.中学生になって入院中に読んだポー巻ものでは渦や振子や崩壊建物しか記憶に無いが…











有限は制約だからだが、有機物は無機物の内部存在であって無機物の制約を受けている関係は絶対的なものである.ただ神は自身と同じ形に人間を作ったなる考えがあるように、そこには人に有限外を設定している事になる.












ホッブスの秩序だけれどとにかく制約が多いな現実.有限外ならぬ有限内が%を占めているとすると、現実には優秀な存在がいないからではなく、有限内者が多く制約があるのが自然なのだ、制約に何にも感じず当たり前と思う存在が多数と考えるべきなようだ












ある項目に直感象徴としてコルニュの螺旋を設定している.その理由根拠はなんとなく甘いのではないか、または不思議だとしていた.連星のインスパイラルから妥協できる直感の満足感正当感正解感を与えて見る.大質量星が光速度に近い速度で運動するなどとまさかにでも考えた事無く…












遠い星から見えない地球も側へ行って見れば球体で人間は球面平面を歩いている事が分かる対応の表現.問題は整数を知らない自然数人間で、そんな人間ばかりでxx&xy共に何を考えているのかさっぱりわからない事にある.考えていたとしても大した内容ではないのだが、取り付く島もない.











ホーキングとペンローズの特異点定理的人間には影がないか、影のない人間はバリアーを持っているか深淵無き底の浅い人間か消失空間無き現在的マルコフ人間か.後ろを見る時には回転をする.











ふと徐にひょっとするとひょっとするかもが浮かんだ.日本には縄文性もあるなと.それで思い出したのは台の終わり頃に意識していなかった山がある程度遠くにある平野部で、その領域は狭い懸念あるけれど希望は市民にあると考えてしまった事を.但し付随する暗部も同時に.明暗の言葉に集中した頃…












無限遠方で高々指数増大する関数に対して年ラプラス超函数とな.無限遠方で収束するとは判断がつかなかったある時の新宿紀伊国屋.ラプラス方程式辺りでいいだろうとしたk子は新宿と発語したその意味は?.ムンクの服を着たプーベルテート的肢体は画像より良く、ラプラス超函数は思いつかず











地質学上の区分億年以上前の冥生代に有機物が誕生したのだろうと言う説.オパーリンの瘴気の濛々たるシーンを思い描いていたあの頃は億年前を想定していたことになるのか…万年は類人から想定つくがよくよく億年を想定してみると長い.大量絶滅は有機史の革命のような、ビッグなものは回か











スキナーが仏教の縁をかなり考えた⁈、それなのに昔行動主義の言葉を知った時頭の腐るような不快な愚劣感を味わったのだろう.必然の縁とそれに続く対応の縁とななるほど.そんなことは当たり前な前提に入っていて考慮する程のものではないと考える迄もなく思っていた節がある.無縁の縁なら導入済み











クルスカルスゼッケル座標系とシュワルツシルト半径.シュワルツシルトにそんな座標系あったか、カーはベクトル的なでシュワルツシルトはスカラー的位にしか漠然と記憶していなかった.陥ちこむ動的心理はシュワルツシルト半径の手前で戻って来たを極限的に地獄よりの生還になぞらえていた日々よ











小学生の時の展覧会に出品してやや高い評価を得た作品に仮想部を導入した事を気にし過ぎていたが、空想を許可解禁すればなんでもない事に気がついた.そうなるとやたらに多い普通の人々の空想力が圧力で圧迫してくるような気がする.気がするだけで杞憂かも.











どうも数直線の左側で深淵を設定してしまい射影の無限円はここなら考えやすい傾向がある.いわゆる負の領域である.過去の消失空間は負的でもあるが、スカラー感覚はバーコフからか…双対のホワイトホールはバンをそのように思って見るとかってあったになる仮想…











なんの事かわからないがインベーダーと指定する不快な人間が多いが、オルテガの垂直的侵入者とはまさにそれで、自由を邪魔する蒸し返しや歪めをする存在で、その特徴は法の支配の時間を遅らせる事にある'











意味なき無駄ばかりする思考をさせる存在と知っていたのに気がつかずすっかり忘れていて忍耐しすぎた結果にもよるのだが、そのような無駄ばかりでなく建設的に有効が信じられず、そのxxを基準にすると現在が過渡期境界域となる推定ができ、遅き過渡期とした様子見の出発点を言い直した昔のあの時は…












無限遠でゼロ収束を仮定するから無理が生じるのではないか.ある時のデルタ分離心理行為も発散消散を考えるとそんな無謀な無意味な心理思考行動を行い悩む事もなかったと気がついたが、その時には情動の勢いがそうさせた…これは誰かxxの寄与があり多分まるでダメ子にも見えた定積分かな.












企業の不祥事が表層に続いているな.遅れてやってきた過渡期ならぬ現実的に自然な時間なのかも知れない.それならばとやきもきする所だが、かっての思考が持続する展開を得たので、今までのように過度のストレスを感じることもないはずだが、来年早々からワンパターンが続くイメージは持続展開の事かな











故郷の廃家がなぜ中学生なのに気になったかと言えば、エントロピーの変化に愛惜愛おしみ的なものを感じたからと理解する.人のランニングパワーを活用しないと人家などは朽ちて自然の生態系に巻き込まれる事になるエントロピー増加だけれど、エントロピーは増加しているのでかならすしも斉一では無い.








パレート的として極端には%は有限オートマトン的としたくなる窮屈な束縛を行使する規則に忠実にでミルグラム的なエゴを%一般の量数雰囲気に依って.アフィンリーは次元を一つ増加した有限外オートマトンであるので、頑固で自由を阻害してくる有限オートマトンのみ存在は次元が一つ欠如となる











ムンクの叫びはある瞬間、当然前後時間関係はあるが、タナトスに襲われた瞬間を描いたものと見る.











有限オートマトンではなくせめて有限外オートマトンであるべきだと言ったのは昔.有限外と言っても生理が物理身体が有限だからは絶対的に現れては来るがだ.有限オートマトンと推定できるミルグラムの無責任は他力責任やシステム責任と考えると甘えや依存の影がちらつく.











またはまさかの『根本前提』か、『根本前提』を知っている哲学者にかって遭遇した事はない.












地球的自然に於いて正規分布を関係としたか?.或いは宇宙的自然を持ってきたか?.宇宙的自然は一般に摂理というが、およそらくは正規分布も人は左右せず自然になるケースが、摂理なら尚更人間がタッチできないだろう.まあ人は摂理を持っているとは言える.












アポロニウスはペルガのと言われて紀元前の存在で円錐曲線の考察者とは、アポロニウスの円は聞いた事なく幾何学は仮想の罪意識が災いなのかそうでないのか、リアリズムの圧力を何故にそんなにとは思う小学生の時の制約意識が強かった.プラトンの幾何学何々は不快ではあるが










サイリスタはよく分からないが、pnは正孔と電子濃度制御でcmosは*年代になってからの話とな.ccdのアナログの方が取っつきやすいが閉鎖限界のイメージを持つ.それはともかく*年代の実用化はまあ予測通りなんだが、原理は*年代とは知識不足で失敗したなの思いがある事はある.












ようやく意向が進展して境界以降の世界が暫く続く事になるで成立である.トライして見てばかりでまずそのトライ内容の日々が続くまではまさか烏滸がましくて考えなかったが、どうも今になって個人の生存時間位は少なくとも続くが見え思い至った.












モーゼとアロンの二度打ちは水の為か、見ているマナの話とは違うな.このマナの見像はどう見てもありそうにないが、奇跡的な現象として%位の可能性は保持している.二度打ちの話はスリリングな展開と時間を詰めた形で思うけれど、単に殉教性の警鐘示唆物語ではある.











懐かしいサイリスタで階の照明を階に居たまま制御出来るを聞いた時?不思議だなと、今でもよく分からないがなんとなくの怒りの葡萄を読もうとして買ったはいいが内容の濃密などぎつさに止めた頃の話で、デミアンなどを読んでいる存在にやや嫉妬心を覚えた頃の他人の顔とはなんだろうもあったな.












嫉妬心というかデミアンを読む人物は異様な存在ではないかとカルトの言葉を知らなかったローティーン.ところでデミアンの内容はなんだったか…カインとアベルの話しか、直感では不潔な話で忌み嫌う記憶があるように印象は無く、アロンとモーゼなら意識にある.エデンの東はカインとアベル系か












エデンの東はやはりぐちゃぐちゃした話のイメージでこんな話は嫌だと避ける.ヘッセのデミアンは西洋の没落程に世界的に読まれたのか、しかし嫌だな.西洋の没落といえば中学年生の時に危機感はあるだろうけれど没落はありえないとしたな.年後西洋の没落とだけ叫んだxyがいて年前の話だが…












なんやかやで実名を用いた小説なりを描く事はあるかな…その昔要請された事でもあるし、しかし相変わらず困難な事態情態にありて描きそうにも無いが、彼女たちへの弁明をしたい気分はありだが、今度は表現が難しく手が回らない…











結節点はnodal pointだった.ノルダムが語感に気分よくイメージも適合していてそのように変容していたな.ノーダルポイントでは自由はあるが締まりが無い.なぜノルダムにしたかな独語ではnordは北domをつけても北の国にしかならず…いずれにしてもあるxxに調子づいた頃の事












まあ単純にnoをnorにしてdalのlをmに聞き間違えた形だろうな、それにしてもありふれた単語と思い込んでいたノルダムが実際には無いとは意外過ぎる.ラテン語関連はどうかな、やはり無いな…まあいいか個人的な造語センスとまみえて、もはや暗記をせず人の話は相変わらず聞かなかった頃で












調べてナードだった.ノマドは例の意味で、セルダムポイントではなく、ノルダムポイントに関連しているかな.ルーターはノルダム・サーバーはセルダムとも言えそうなネットワーク.あの頃結節点が気分良く思えた後数十年後ネットが自然な世界となる-仏教の無縁の縁は個人情報保護の時代に成りて












猿の惑星でヘストンが地球に気がつくシーンは個人的には映画上の名場面として印象記憶にある一つである.コバルト爆弾で地球が崩壊溶けるか?、分からんがそうであるにしても見ている地球最後のシーンは違うな.これを防ぐ事がどうもできないので回避を考えて見ているが、それが可能とは難しい.











過去xxが示唆させた形だが、この過去xxは遠慮謙虚謙ると登場して来た事に今では気がついているけれど、この悪魔的な雑草xx粗大ゴミのような悟性対象と他人が見てきてその他人が自分と同様な思考をしたというxx&xyたちの誤解能力とまさかそんな事はあり得ないと思い込んでいる馬鹿馬鹿しさ












個人的に考えて全く思考の進まない市場に付随する暗黒を最近はランベルトのW関数が使えそうと直感している.なんだかあるA期的な叙事的なフェルミ型xx女子大生が思考を進ませない障害である生理スペクトルを持っているのは子供力強きの表現通りは正解の筈の底浅の頭脳の単純さがそうさせていたかな












朝のサーフ中にどこかで見てアノマリーが今や気楽に俎上に上がっているのかと、哲学探究もミクロ解や弱解示唆表現形態を取っていると思えばそうで、中途半端ではの浪人や結論出たの女子大生は何を申しているのか『・・これらはなぜか』で結論なのである.『あれか、これか、それか』もそうだが.











聖人や阿羅漢でなく一般普通にただ一つの例外は愛情である.












スカラーベクトルでベクトル空間で見なくてよかったか、そうなると過去としてまた不愉快な自縛として嫌ったのはミスになる?のも変だな.ベクトルを用いるのは原点使用だから射影的になるのに射影は嫌いと.ユークリッドのベクトルの話で、普通荷物はそこにあるだけのスカラーでありベクトルはないと…











その昔ある人物に『人間とは有限外オートマトンである』と言った事がある.せめて有限外であるべきだありたい場合には有限外へのベクトル指向が必要で、有限外でオートマトンである必要もないが・の意味で.なんなれば次元を一つ足したアフィンの考え方だったと知らずにいて最近見かけたルートに際して












そう言えば自動的に皮相へ表出する設定にしていたことを思い出した.無理というかトライしてもどうもうまくいかない結果の形で暫く忘れていた.なんやかやのやたらめったらで表出しているのかどうか判断出来かねる情況で、ただ公務員試験に合格すればいいでは間に合わないはひとつの証左要素ではある











メルクリウスとユングの話は知らぬがメルクリウスが止揚存在で無意識象徴とな.賢者の石とは…小学生の時に錬金術は不当なものとは思ったが捨てきれずヘルメス主義が登場して来た今.ヘルメスといえば酒があり太陽神を連想していたあの頃は若かった.












日本は年からデフレが始まり確かに今尚続いているかな、そこで年という年に個人的関心があるともなんとも











ウィロイド?、中学生の時に思いつき考えた稲の病気への対処はさっぱりの限界だった.知らなかったウィロイドの気持ち悪いRNAらしきとなるとおもむろにRNAから始めるかとなんら環境手段を持たないのに考えた頃から数十年にして、あのその時のおもむろは正解の気分を持った…











原始重力波か、あらゆるものを透過する?、よくわからないが、膜が崩れるアイデアに寄与した.











要するに主体を無視した意見は相手に出来得ない、一体誰にものを述べているのか分からずわけの分からんデタラメでしかなく、話続けようにもできなくなるからである.私は私であり逆や模倣を提示する他人は私は私である人間に取って意味無く無駄でしかなく、それらは意味なく無駄な存在理由者達になる…











楕円型ルートとテータやwzwとか共形場がか.リー括弧は遠慮しておくの青春日.しかしディンキンモンスターは紀伊国屋での新宿駅東口の頃も記憶にあるしかない変貌となり…なんだか今日華やかりし日々のアフィンリーでは無いか











どうもある種の明の境界で暗が登場で良さそうになる.そうすると高々明暗と言う事になり、心理の痛み感イメージをずっと記憶していたのはなんだったのかになってしまう.しかし日本一のプレミアのついている大学なのでそう単純な話では無いと思う気分がある.












ミルグラム者も無責任があれば潜在能力を発揮するのでこれを責任を持って能力発揮にしなければなのだろう.道徳感が制御している覇者性がモデルのように見えるけれど、もともと生まれついての覇者型はどうなる.ミルグラムなど関係なく無責任をやるやっているだろう.なかなか自然だからとは行かない.











小学年生の5年生だったか、行けるものならハーバードいや行こうとした時に日本の大学はと思った時にやはり東大が登場して、境界が複雑に絡んで解けないイメージを浮かべ、その後数十年ずっとそのまま.今解いて見ようと浮かんでいるがなんとなく興奮発生でそのままにして置こうかの禁止心理も浮かぶ











長じてハーバードはおろか英語もままならない事態である.最もハーバードなど青春成長期には全く意図することはなかったが、春の日の花と輝くは好みの曲だった事は覚えている.自発力要請の講義法白熱教室が少し前にあったな.教授は確か…サンデルと少し集中して思い出す.

















プルーストの失われし時を求めてはロマンの香り芳しき作品の想いはするが中間で何か変な感じも受ける例えばサイン曲線のようである.あるxx南十字星として置く存在にこの作品を当てはめ失踪したアルベルチーヌはつまりリアルな『彼女が行方不明になった』になってしまい実際にそうで結論を見ると…











ヘンリー・ジェイムズとジェイムズ・ジョイスでジェイムズから混同していたようだ.いずれにしてもフロイト華やかりし日々の頃の一群の話となる・・・












ジョイスにダブリン市民なる作品があるのは中学生の時に浮かべていた.ユリシーズもなんとなくだが今明瞭に知り、意識の流れはジョイスなのかネジの回転の作者が印象にある.ユリシーズは見た読んだことないな、失われし時を求めてのタイトルはいいが長すぎてあらましだけはあるが、ユリシーズは無い…












紅茶に一片のマドレーヌだったのか、水道の栓を捻った時に記憶が蘇ったとして何かで読んで記憶していた…ふとある人物のお母さまの冒頭シーンはプルーストのマドレーヌの模倣ではなる考えが浮かんだ.色々な作品に登場する人物の名前のセンスが悪いなダサいなと感じるのはスノビズムであるからが判明











人間とは何かの答えは出ていない.この哲学の命題から人間は謎であり、全ての人間は不明を持っている.即ち不明が倫理であり謎が関係で、この何かが決定権を持っていてしかも自由であるという、全く理解できなかった関係は既にわかっていた事にきがついた.またしてもわからないものは既に知っているに











カントの物自体は人間の不明さを示している事になる.論理的にこの不明は既にあるものを否定する位相を持っているゆえに自由であるといえば自由である.行動主義が不快なのはこの不明から逃避しすぎているから愚劣を感じたと説明がつく.即ち人はこの不明を持ちながら対峙せずに生きられるものである












nimbusと苦し紛れの雰囲気発散に対して「私とは雰囲気である」とした自縄xxからの寄与束縛は過去のものであった筈をすっかり忘れていた**才の閉鎖への落ち込み記憶.所が意識対象上明らかに未来対象与件があり、過去であるはずなのに未来とは、折に触れて浮かんでくる.現状は過去状態で












サイパ的存在の他人への感情がない傾向から叙事的無機的傾向者の要素あると思う.無機的存在はまず感情無さそうで冷淡さがあると推定.いわゆるニヒリストも冷淡かな.しかし心の逸脱としたらちょっと不気味で怖い感覚を想定する.無機的だとタナトス的タイプにもなるが抒情性の未発達と見る側面も…












レヴィナスの他者は親鸞にとって阿弥陀のようなだが、ユダヤ性からはレヴィナスにとって他者は希望する希求する私であり、その希望希求の現在の私との差異が時間であるとしている.すなわち目的の私に私が作用しているので、私と私の関係を時間と称している.












この黙示録はノストラダムス共に個人的記憶に結びつけれるものがある.昔にあるxxが向こう側から歩いて来た時に描いた同情心を黙示録の内容を知っていたならば持たなかっただろうの後悔的な思いがある.のは黙示録に結びつけた数値として設定している象徴値となっている.












黙示録を読んで見る.:にマナが出て来て思い出記憶はあるが、その発生現象を見た事はない.なんとなく性的幻想の比喩かもの可能性を考えない事も無い-ようなマナシーンの記憶











しかし世の中無駄な忍耐をさせる人間が多く絶え間ないものだ.有効な忍耐を勘違いするのも無駄な忍耐になる.有効な忍耐は当然肯定だけれど、無駄な忍耐要請者達がまたしつこ過ぎて.どのようなカムフラージュをしようと無駄な忍耐をさせる存在は意味無き無用な存在の荷物にしか見ない.














レヴィナスの時間が他者との関係であるから、マタイ伝のユダヤ人的見方を知った.











『氷河は流れる分派は派生する氷河は流れる分派は派生する時は現在に近づく…』-かって悠久の時の流れをかように表現したのは第十三番目であったはず…












円の面積はπr^で平行四辺形若しくは長方形で積分的に考えるとした小学校の記憶は全くない.小学生で普通に積分概念をやっていたか?算数.そもそも円の面積の公式自体記憶になかった.ちょっとこれは第三の自由度に関係して来るな.次元を一つ+も応用にはなる…もっとも氷河は流れるは三年生












社会は不自然に歪んでいることになる主体疎外不自然被要請者から見ると、責任は疎外要請者にあり自然が自然であるならば今頃是正意図をしなくても自然から報復を受けていてもいいはずの時間と思えない事も無い.












フッサールの現象学の直観的な原点やデリダの差異基盤は人の持っている消失空間範囲内と考えて今の時間で対処可能なもので、遡行は必要ないとするが、直観的原点域が原始性を含んでいる可能性はある.胎児時代に過ぎ去る意識から原始を持ち出したになるな.エルゴード的に現在からなぜ対象反射可能より












新たな言語発生には原始的形態を要するで、デリダ的な差異以前イメージを持ったのだが、その原始的位相の対象は指示言語域のものではないかと思いつき、自己表出の変容では原始的位相を持たなくて可能であるのように思う.脱構築が原始に戻るか?.












yによるヴェイユの領域は無明ではなく無名の領域とある安藤昌益とともにを読んでどうもきになるやはりヴェイユの無名の領域は過日のツイートでよかった.そんな考えを持っていた女性だったのかヴェイユ、ヴェイユをどうするかとしたまま若き日から時は過ぎ去りて.なお安藤昌益は縄文的思考法に見える











-知らなかったがまさかの聖徳太子は胎内ヶ月で言葉を喋った伝説があるのか-あの頃体内でしゃべる胎児かいると未来になら出現する可能性があるとして、空想的設定でいくらなんでもこれはないだろうと思いつつ取り入れてある或る年の夏の日.まさにまさかの聖徳太子の伝説とは未来の不明にならずに…











そうするな・そうするはずがないと他者に沈黙態度を取ると反対に取られた事多し.反対は主体意図主体を無視している事なので反対を認めるはずがない.認めてもその認めを無視するはずなのでやはり認める事にはならない.











高麗神社はほぼその位置で溶け込んでいる感あり、年の歴史があったのか.近年に建造されたものらはどうかな…夢にみた物部氏へ蘇我氏の立て篭もり場に槍や弓での攻撃シーンを浮かべる.夢に見たといえば額田王の温泉シーンもまさに幻想として-












額田王曰く、誘惑なさるな兵士はそばにいる、あなたは毅然としていなければならない--が簡略発語としての意味合いだった記憶はある.












現象の無化を構造自体としている











ネヤ河に飛び込もうとした存在の記述ものは遺書のような遺作というか一般に、それを確かあの時浮かべて別に関係ない位相で心理位相意図は似ているが、そんな心理が今に蘇っている.別にでもなく意外にしつこい存在だった.なにかと文章が長い存在で面倒だが、一杯のお茶は記憶にあるネットか書物から












ある人物に(個人的な私的な)バイブルのようなものだと言った事がある.その人物は夢と詩は同じか同じようなものだと返答してきた.個人的には差異を持っていたはずだが、そんな意見を聞くと惑乱してくる曖昧さを持つようになってしまう.意義に差異があるはずの想像域と理性域、宗教と芸術












これこれの事を他者に行う事は倫理道徳感に反すると思い内部に止めた考えや行為をなぜか反対に他者たちxx&xyから後に受ける羽目になる.まずそれはトートロジーの不快であり、他者による自己主体の無視か無理解認識無知か模倣かなんだが、意味はない無駄であり理不尽である.主体発揮の邪魔多い…












生活騒音の縮めをしろとは言っていない、ただ意識は仕方ない面があるとはしている-2楽章より、ある項目のある部分の説明として










哲学的でも詩的でも無く夢もあるので、夢的に『天国への片道切符』は見てあった・・.











天国への片道切符とはさすがに考えてはいない.地獄からの生還ならあるが.だいたい天国地獄は生きている人間のための概念である意向がある.あと遺伝子が親の思想を付随させる事は考慮する、その前のその前のが続いて先祖一般に繋がる事も考慮する.












『地獄への片道切符』だったかな、もうちよっと異なる表現の記憶があるが一方性を取り入れてある.時間の長短やケースを考慮して---第二楽章あるいは13番目の論理または記念碑・・など











幼き思考の場所、今や見る影もなし、記憶に残るのみ












不条理矛盾から決断する時に盲信にせよ判断は唯一だから盲信をするではないか












考えるに関係は唯一の事であって、唯一性や唯一化と.事例では一期一会や一生に一回や殉教性やその他類するものと思いつく.まあ誰でも持っているかな唯一感、唯一を別にとやかく表現しても.固有時だけではなく空間を考慮して固有時空を持っているはず












必然的自由はそれがそのようであるそのようになる時空経過だけれど、かなり強い束縛力による集中力を用いるので、あるとすればの他の可能性を無視する事を考えてしまって、集中感を弱めたままかなりの時間を過ごしている.他者がそうである場合はゆえに窮屈すぎる拷問力を感じる事になり避ける事になる












先にあるとすれば自発的な対称性の破れで、無機に対して有機・生命(全体)は唯一性を持っていると言えて、原生的疎外なるタナトス的唯物性感覚表現ではなく、生命は関係的であるとしてみたいものだ.












まるで暗黒域で遠くにある明るい点が音に黒体内部で光侵入点を音の様に見る暗い釣鐘内部を深淵化した指数距離とか、信じ難い体験だった.












ポパーの寛容のパラドックスかなるほど.思えば不快な記憶にあるのは不寛容なものに寛容を使った事にあるな・・・.不寛容なものに寛容を使えばなぜ滅ぼされてしまうのか?その理由の証明解説は?.歴史事象などからの経験論ではよくわからず.悪貨の駆逐やわざわざ病気になる必要はないとかは想起する












ノーベル文学賞といえば夫人がほめたという異邦人の字幕ものを見ようとしているがなかなか…ちらっと見た最初はママンがいいでは無いかと思ったが、そのご通読してなんだかストーリー破綻ものでなんだかわからずいい小説とは思えず












ベケットもやはり通読して見るとなんだかわからずつまらんものになる.ならジョイスのフィネガンだが、せいぜい翻訳ものに意気込んだだけで理解できる代物ではないが、小説としてはそんなに悪くはないな.ダブリン市民を中学生の時に浮かべて…












直感では知っている限りソクラテスに結びつける存在としてヴィトゲンシュタインのみを浮かべた.まあ恐らく他には存在しないだろう.その結合線関連性を後に考えるかも知れないが、考えなくてもいい主体位相も考える.










最もギリシャ文字第番目を象徴させた時の意図心理情態は・・・での現実でありなんだが.












熱力学の第一法則で解答は出ていたのかとしていいのかな…でているとするとそれは何を意味するかの哲学が生じる.宗教的には似せて人をつくったになり、なんというかこれだけをピック状態だと創世記の作者は頭良くとても優秀になる.ヨハネ福音書.--神は霊である・・と明瞭な記述もあるのか…











アリストテレスは通時の香りのする定積分哲学となり、有限要素色彩の強いものとみるが、通時的からは境界要素色彩があるか.何れにしても感覚的に趣味でないのと長々長々と著作品があるだけで閉口するが、二コマコス倫理の中庸だけは考慮する.中庸も一定持続連続を現実に適用すると厳しい事になるが…












垢抜けては普通に考えて優雅であり、洗練は神聖気分の感性であるが、思想的に合一でないとがある.仮に見た目印象が%良しとしても、残り%の抵抗が酷すぎる現象事象に最近遭遇し過ぎて、第一印象も考えものだと思う.もっとも不快は昔からあり記憶が悩まし過ぎてもいるな.











思うにどうも現実は美<不美の比重であるようだ.美人薄命はそれを端的に物語っていると思える.心理内面的には数多き不美のバイタリティ圧力が強過ぎてと推察.美<不美が正当なら現実は汚いが優勢になる











どう見てもパレート的には中間存在が多く、それらの人々は動物的な本能衝動力は極自然に用いるはずと思うのだけれどそれがどうにもうまく認識できない.煩わしい他者が要領を用いて頭を狂わせているかあるいはそんな人々はどうでもいいとしているからか











わからない事を知っているが論理的におかしくわけのわからない事と述べる人間は不可知系か?.ソクラテスのわからない事を知っているを当たり前と思っていると、わけのわからない事というのはわかりずらいな..












アリストテレスは自然に真空はないものとして、無と無限を認めなかったとは量子の海ならいいが、実際には不便かな.現実にはアリストテレスは有効だが感性的には嫌いであるのでゼロ無しはひとつの契機になる.いずれにせエジプトギリシャローマにゼロがなかったのは重要な事に思え欠陥にはなるかな…


 s








引錐刺股は戦国時代の蘇秦で、ならばその頃に浮かべた屈原はというと蘇秦より少し後か.屈原で凄愴の言葉をしったが愴の文字の違いがよくわからず蒼の文字とか瘡など思い浮かべた記憶がある.なんだか知らんが蛍雪は新しく頭に入りづらい面があるな…因みに心理に影響があるのは理由失念の呉越時代













中学生の時に関心したのは徒然草で、冒頭の書き出しがいいと思ったが今は忘れて”ひぐらしすずりにむかいて”しか思い出せない.ちなみに行く川の流れは絶えずしては趣味では無い.月日は百代の過客にしては難しく判断困難である.西行はその名を浮かべたので一応だけれど、如月はいいが望月は俗かな…











重層的非決定やランドサット視点や自立などくだらない白けと思うけれど、名残あるとする無意識の大衆の原像にとってはくだらなくないかも知れぬ.アフリカ的段階はくそ意地とでもいうべきかな地政的位置に置いての意欲意識ではあろう.











妙にここカップル日にゴッホが流れてくる.仕方なく点描派ならぬ線描派とゴッホに与えてしまう.ブラマンクの臨場感はベクトルがないと成立しないと気がついたので、ある文章のブラマンクが好きの女性表現は野獣派における情熱示唆以外にない事になる.その人物がブラマンクの本質を捉えていたとは?











”あなたはだめよ”-でもなく不備の消去はいいのでは、もっとも人間は自然にそうする.自然的存在以上に自然を自然に作るは本当はまずいのだけれど、増大するエントロピーがそうする.アジア的にとは有機自然との融和感であるその雰囲気は東や東南、南まで及んでいる…問題の年に際して少し-











システム・システム体系に責任があると想定できる存在が、ゆえに自分には責任が無いと述べたらしい.考えるにシステムに使われていたとも言える…











V→V'→Vがある.フェルミてハードコアボソンはクーパー対をできるはずでそちら側だな.反交換が反交換の反交換を考えないから今までの記憶に不快が残っていると思った.











アインシュタインのエピソードは面白い.宇宙定数Λは<だろうが、生涯の失敗ではなく生涯の快挙でアインシュタインの優秀さを物語っている.











まさかとは思うけれど、昔おもむろに考えた特性方程式で、既約だけれど個の既約解方程式を含んだ方程式はあるか?だったけれど、ストロミンガー方程式(ツイ度目)は条件をマスターしているように思える.











”宇宙背景放射は.Kの黒体放射と一致している”-興味深い文章である.そもそも暗黒域から遠くの小さな明るい点を目指すは空洞黒体内部に位置していて小さな孔を目指しそこから外に出ると明るい日常世界が広がっている事でそうなると希望があると.然し老子の道やブラックホールは黒体に近い











gsixの店内を歩きながら、ここはどこ私は私の気分になった.諸々を消失してしまう気分はどうかするとあったような.明瞭に記憶しているのはある小さな島のホテルのプールサイドとある山へ向かうあるアプローチの山道を独り歩いている時…世界は誰も私の存在を知らない当然私も世界を知らない












電子相関の相関とリゾームと最近のエンタングルの考え方と仏教の無縁の縁の相関関係カプラーを直観が志向する.電子相関の相関の所にはもっとモデルが入るはずが思いつかない…











理想流体があればで気体の理想気体に相転移が無いと…年BE凝縮転移温度にゼータが来るのか.最大値は見事で感心しているがリーマンのζが来ると関係は厄介そうだけれど、何らかの思考結果はありそうだ.超個体と中間と超流動のスタイルはいいのだか、話はそのようになっていると抵触しそう…











反交換的でなくてもわざわざ無意識か何かで反交換を形成するのにもまいるが、弁証法を持ち出さなくてもである.取り敢えずの時間というか無限遠など持ち得ない有限生理意識者の平行意識もまいる.何しろ平行線は交わらない距離だからでありで.あとトートロジーは反発距離を齎すとか考慮しないxx類












経験上遠慮して様子見などをする対象には結局挫折の結果失敗に終わる事になるが、とくにカオスの初期値的な遠慮はまずい事に気がついた.












システムは還元できないのなら要素や単子は可能にならない.今のところクォークを分解できない…











不連続や普遍グラスマンなどから、安易にあの頃普通の人は差分を普通に用いているとしたのは正解になってしまうが、どうもハウスドルフ空間がそれと知らずに念頭にあったような、それならば差分のイメージは不快なので人は明晰を好むの方がいい.灰色の俗物xxが関与したかな.












この灰色xxを知らず蒸し返してあたかも風車に突進する男のようにxx&xy他人は認識して来た事にその時々は気がつかず自己に引き寄せて他者による自己分析保存を対他として対自とした即自にやられるという理不尽を行使した事に.












他者達の即自としてもそれは蒸し返しに過ぎず既に意味無きものになっているのだが、他者達は意味無き存在とは認めたくないので、灰色xxと同一視してきた理不尽か悪あがき多過ぎ、灰色xx自体白けた保存自己分析を即自と思い込んだという理不尽さという無知具合がしつこく悩ます…












その昔義務教育のある日に冒険的探検的にある道の沢に架かる橋からほんの短い滝状の落下位置の滝壺を見て深淵をその沢の雰囲気もあったろう見た記憶あり件の文章に繋げてしまう.確かこの沢の上流に行った帰りがけに霊とはなんぞやを考えてしまいその辺も関係あるか.












幸福目的でない場合は牢獄より精神病院化か、卓見かも知れないが実証を相見えて考えておこう.なんとなく楽しく浮き浮きして来た.あの悪循環を考えたあの場所でユングのパターンを日本人に適用しようとして考えきれなかった中学生の時のユングは役に立つのかライバルなのか悩んでいたが役立ちそうで











元型は集合的無意識のパターン要素であるのか.心理学は人の魂を操作するとして避けていたが、その何年か前にユングの元型を浮かべていたので、この設定には難点があったな.中学生の時に考えた日本人の集合的無意識は考えられずそこには漆黒の闇があっただけだった.これは思考の未然かまたは?












それで思い出したある昔に見てどうしても説明できない精神分裂病統合失調者の絵について食中毒のようなジレンマを思い出した.ある一つのパターンの連続図一枚なんだが、そのパターンが妙な事にそこに厳然と絵の印刷があるにもかかわらず判断説明解釈了解ができないとは苛立ちで、できないのが正解か…












神も世界も私も実在しないという空は無ではないのか、悟った存在もいずれ消えゆく運命にあるゆえに空を考え出したと考えて見たのだが…











無数の宇宙がありその一つ一つが無限を持っている⁉︎.----実数は0-1の間に無限にあり実数は無数にある











ガイアはどこから発生した?.古代からのリッチフローや-∞からの時間は処理しやすい考え方だが、マイナス∞の境界はと考えると、昔から結論の出ない実用理論的な哲学問題なんだな.根拠がないという










ザリスキにTは無くTはありそうとなんとなくの直感でいにしえの複雑さ抵抗感はこの辺から解答か進むものと思える事に、となると類対論とかクレイ問題に進みそうで…










時ならぬ春雪に渡り廊下に見る竹達もたわわな今日の日に…後は覚えていないこれは自分で書いた送る冒頭には手を回さねば-うっトリプル水素を急に思い出すアイソが浮かんでいた頃.そういえば校庭に群れ飛ぶトンボの季節の記録ものがどこかにあった筈









蛍のともしび積む白雪はいいね中学校時代を思い出す.しかし演説の原稿は担任が描いたものを暗記しただけなのに庸子先輩の質問に自分で書いたと嘘をついてしまった事を表明しておくか.よく暗記したものだとそれが手伝って.全く担任も明らかに中学生が使う語彙ではないものを一杯用いて、疑念は当然に











アルトーの器官無き身体はなんぞやを理解してドルーズもなんというかソーカルあるわけだとも思ったが具体は差し控える.セザンヌはわからずロートレックのどこがで.ルノワールの豊満は幸福でいいとは思うが.











自己幻想対幻想共同幻想かあるのなら、自己妄想対妄想共同妄想(パニックとか?)や自己夢想対夢想共同夢想(宗教とか?)があってもいいわけだと思いつく.そもそも幻想とはどんな意味なんだ、幻でリアルではないと普通考える幻想自体の意味合い.個人的には幻想のハードイメージは好めないが











模倣者による、雑草鏡や俗物鏡・自惚れ鏡などxx&xy総じて自己欺瞞ゆえに、主体疎外の自己欺瞞を要求要請強制強要の理屈付けを漸く思いついた.











ソクラテスは普通に考える優秀ではなかった→ソクラテスは普通に考える優秀以上に優秀であった-の意味である.











プラトンはソクラテスの注釈ではとソクラテスに毒された面があるのではとも考えてみた.











ケリーバッグでもあるバゴンギの色でダリが褒めたデザイナーとは知らず、ベルベット性頭を中学生の時以来使ってみようと思わせたロベルタ、封印的意識が忘れていたが気にさせた事がわかった.












量子力学にとっては不確定性・Pコンスタントは日常だけれど、現実サイズは触手を触れてはいるだろうがまだなので、技術特異点は当分来そうに無い.










模糊/=逡巡とは面白い.フェムトアトの次のゼプトヨクトにもう直ぐ入るな.サイトカインはピコモルで反応するより-.ヨクトは涅槃寂静で刹那とはアトなので刹那の時間様相反応を現実は示しているはずだが、日常的にはまず気にしないかも.何れにしてもプランクの定数は当分無理な現実世相










ベルカーブを壮大な詐欺と言った決めつけ的は誰-そうそうタレブだった.重力ある地上で現象的に正規分布は有効である.ただし人の収斂意識にとってで、現象に見る無機トレミーはそうではない筈.?太陽から見ると太陽系は正規分布か…いややはりハウスドルフ次元の異なる多様フラクタル性があるのでは












多様フラクタル性!、なんと対処しきれなかったあまりの複雑さの簡易表現が想定的に.











全くフレキシブルフェルミはA感覚的指示者で権力突っ張りとさも道徳感覚の罪演技をトートロジー的にしてもらうよりその退行性を自覚してやけくそにならずに対処すべきなんだが、擁護するためにはこちらが惨めになり過ぎで、そのぶんだけみっともない存在だが、権力意識が機能して快感だの存在部類











市場経済を考えた時に漱石道草的な明るい空間はいいけれど付随する色褪せた感覚の深淵は叙事的フェルミ的退行xxをモデルにしているようで進みようがないのか.埋没費用だけではで消失空間を導入すればなんとかなりそうだ.このやや腐った感じの暗黒はまさに旧態感覚そのものの封建の暗黒とは違う.











プラトンのイデアは永遠位相のものとしか考えた事しかないな









色々知見が及ぶに連れて昔からの自力思考に個性がなくなってくる.古代ギリシャも半端ではなかったな.しかしだ個性はなくなるがそれと同等の実力があった事になるが…











よく考えて気がついた中間存在は生きている以上排他性を持つ事になると.中間存在と中庸がどこかでダブりそう.中間存在は無限不可で依存するが無限は中間存在を行う事は当然可能である.











宮本武蔵は歳以前で立会いをやめたのか、やや年齢基準は異なるがフィールズ賞を連想した.『時流に任せた気楽な遊旅行』- 空の巻・違うか…










しばらく音信無かった事がありアクシデントかと、EUネットワークの不調だった.なんだか武蔵の五輪書が出てきたが、読んだ事なく内容さっぱりで、そのような状況に意味があるようでもあったが.日本人に似ているような見かける日本女性よりチャーミングな女性に見えたな








なんだか優秀なできている人間ほど現実に役に立たない傾向を感じる事が時たまありさてソクラテスの無知位相はとなる.明らかにわからない事を知っているソクラテスより他の人々は理解力が無い事を無知の知は意味しているが、ギリシャのその時代の神に対して卑小はよくわかるそんな背景があったんだ.











読書感想文のネット売買に即して、中学生のある時に読書感想文に対して考えた事がある.それ以前に読書感想文を書いたかどうかの記憶は全く無いのだけれど.その時には読書感想文は息苦しく何を書けばいいのか悩んだ.別に感想など無いしあれば自己意見しか書けずの結果、随筆ならいいかなと以来ずっと











前にも述べたけれど、マルクスの簡易伝記を読んでマルクスは芸術家タイプである認識を持ったので、資本論なるリアル経済分析考え方法を取ったにせよ、無意識的な芸術性が国家無き経済無き社会結論を出したと考えて整合する.共産の社会は聖人のみもあるが芸術家のみの世界・社会が浮上する










アナーキストは正しいと述べた女子大生がいて、相手にすべき存在だったのに、左翼政治的な側面しか考えず女性性を考慮できなかった…相手にせずは武士道的に不利益を選択した事になり葉隠は無駄ではないなというものの明らかに無駄でしかない方向に進んでしまった現実の圧力自然必然には納得できない.