2015-11-03

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世界に意味がないで憎悪は不毛であるを連想、人間にとって不可能とは意味が今はさっぱりわからない(故に信仰・宗教が登場する・有意味の存在者として例えば神が?).これでは哲学はナンセンスになる.




”カミュは不条理を<非合理な世界と明晰を求める人間の共存の中での対立関係>と定義”--これは想像力は理性の邪魔をするというパスカルと同じことを述べている.仏の伝統も何もあったものではないカミュの社会科学的側面を見る




無限がもつれる・ボルヘス--やはりギターは無限を離散化するように思える(単なる契機としてならある)ので、ヴァイオリンでないと無限はもつれないのではないか-個人的直感認識故もあり




ドン・キホーテという物語は一体なんなのだろう.昔姪に頼んで借りてきてもらって読もうとしたことがあったが、長すぎて読む気もせず.風車とロバとサンチョとなにか昔の騎士道小説を読んで、気がふれたというまずこのあり得ない設定がわからない.考えるに宗教コメディ物語かな.



No.24 宿業とシステムとクリプキの条件付き解決パラドックスを入れておく.




無知・無理解・誤解は意味なき弁証法作用を強制・強要する無自覚・無責任を有する.



ただし無知(一生の場合もある)な原始心性は自覚に時間がかかることもありそうな無責任は無責任である.




私は私である自我トートロジーの剽窃・模倣・乗っ取り的な所為で、対象自我存在者を歪める存在者たちは、自己欺瞞的な無責任を行っていると想定する、そうなると無責任は無責任であるというトートロジーにぶつかり、そのような所為自体の成立がなくなることになると考えた.



カントの第二のアンチノミーから、無限小の無限小はまた無限小であるので、原子命題はもちろんのこと、ペンローズのスピンネットワークも思考要請であって・・・、マルクスの対象が生きだすということになってもいいのだけれど・・



双曲線が無限遠点で漸近線に近づくということは、双曲線は無限の彼方でゼロになるというこれもまたポテンシャルと同様だったのか.3番目の懸念は無意識に双曲線を示唆していたかなという、つまらないある若き冬の日のおもむろに詩的文章を描いた内容に、自縄自縛の憂き目にあって、まだ問題点があり




超離散化といって、普通の人は差分的に思考するはごく自然な直観普通すぎることだったのだが、悟性的人間は差分思考をする・あるいは老子の俗人もまた差分思考をしそうだな.
 



いわゆるその所作は、名状しがたい不快故に発生してきているもの、このXXの実在感をなぜか他者達は想定できずの、ここにまた愚劣な馬鹿馬鹿しさが逆パンドラの上に重なって成立してくる二重三重のくだらなさというわけだ.そもそもこの無理解・誤解を行使する他者たちの存在理由は何なんだ?.



No.23 人間に傲慢があると想定外という認識が発生するか、それとも謙虚であると発生するのか
 



宗教の戒律というのは服従の強制ではないか、似たようなものをレーニンが述べていたかも



No.17 規則のパラドックスはいわゆる帰納の結論として部分的な要素を取り入れての解決というのは致し方ないだろう.極論として今ある秩序が正当なものとは言えないということにもなってしまう・・・




No.17 哲学探究は帰納の未然的結論なしからは意味がないように思うのだが、フラクタル的には十分満足できるもの.帰納は自然に現実上登場するから、その帰納過程についての考察としてならモデルとして意味がある.




芸術的な人間は勝手なことをやるものだ-という意見は、ホッブスの万人の闘争を念頭に置いていて、なおかつ自らは自由の責任を回避している発言と解釈する.




No.17「語りえぬものの前では沈黙しなければならない」から、哲学は蠅取りツボなんぞになっていないことがよくわかる.沈黙してしまっては哲学の敗退は明らか過ぎるので.ゆえに哲学探究という努力の跡の成立は評価できるが、ほぼ無意味といえなくもない.




No.21にbeingを記録しておく.与太郎や与太子たちのバカ力バイタリティによって、自らの記憶をふざけて消失させてしまうことが多き故.




立石寺のところの奥の細道文章は読ませるな.おやっと思った、奥の細道を通読してもよさそうな書物かも.その昔若き日に、書物なんぞはあとがきを読むだけで沢山だとそれ以来まあ大体そんなところだ.




「剛よく柔を断つ」は後に対句的に加えられたのか?となると今日の考えがあやふやになる.つまりこう考えた.「柔能く剛を制す」・「剛よく柔を断つ」に対して、<有機よく無機を制す・無機よく有機を断つ>にして成立しないかと、そう考えると都合よいことがあって・・




もし言葉が原初の発生時期に戻るとしたら、それは通底底流している先験的・先天的領域のなにがしかがクローズアップされた場合と考える.個人にせよ集団にせよ元型的なものは流れていると思う.




みんな同じようにというある主体の考え方は消極的自由的社会主義ともいえなくもないな.ある時代の楽園的の時経ての趣ともいえる.




現実は決断の連続とはある人物のある時の発言ということをよく覚えているのだが、それらとも関連して、情況が決定するということは事実化になったということで、例の紀伝体項目に載るというなことでもあり、結果論的には後世からは単なる事実ということになっている.ただ心理判断はそうでもない・・




共産主義が成立した世界は聖人のみ存在している世界しか今のところ考えられない・もしくは高度に道徳力ある人間たちのみの世界をしか.それを共産主義とは言わずに聖人主義とでも言えなくもない.もっとも神話における神々も争ったという話があるが、宗教の世界には高度の道徳者たちは存在してはいる
 



それにしても無限遠点のみで-∞がない実射影はどんなに0に近づいても-にはならないと想定するがどうなんだろう.常に+であるということは精神の経験時間・生理時間によって複雑になるばかりであるということでもあるか.射影-は常に有限内部に収まるが、実際に射影の消滅がないとはいえないので?
 



運動量一定は、どのような場合でも一定エネルギーしか用いないので、一定エネルギー以上の忙しく負荷のかかる処理対象に関して、他者の援用を必然とする.かくして人が増えると仕事が増えるのは運動量一定によることになる.




A期的存在は明晰を好むのだった、正確な解答の出る試験問題なら偽善色彩があろうとパスすることは可能であることにようやく気が付く.なお、うんざりするワンパターン存在も運動量一定実在とまず見ることのできる証左がわかっていたことにも気が付いた.




No.23に関してアインシュタインの相対性理論は哲学である.-という文章は成立する.




No.22とハイデッガーの原存在はヴィトゲンシュタインのTLPのある項目であってもよいとする.とにかく普通に考えると超越の壁が現存在一般に引き戻しを行うことは現状歴然としているゆえに.




No.16に関してまま妥協できるアイデアを思い付いた.でもこれは現象上似ているものが多数ある、その中でもインターネットが最も例として出せる.宇宙ケースもあるが・・




春の燕の出るころの生温かさは不気味な感触を与えるが、黒く常に夜のような人間は多少不気味さにも似て、タナトス型人間であろうと気が付いた.おそらくあたっているだろう、そのようにしか実在判断ができないから.




疎外がマルクスの言うような対象であるとするならば、疎外となった対象の歴史が唯物的始まっていることになると考えると、経済に道徳はないわけではないが、それは分けていると考えたい、そうでなければ叙事的対象である経済であるということだ.ここでは疎外対象が資本主義的に進んでいるとするが.




悪人正機説は、悪人ならより阿弥陀の慈悲心をリアルにはありがたく思うはずである(善人よりかは)という、エゴ的な親鸞を垣間見るが.エゴイズムではなく真摯な思いから悪人正機説を表現したかもしれないが.最も宿業からはそのような凡俗心は排除になるが、では宿業はなぜ成立するのかと言ったら??




無限遠点射影空間とNo.3の自由度は似ている.ニュートン的ともいえるが通底した意図はあったはず.それにしても射影型人間に一様に付随している陰険さは不快すぎる.明るさが欠如しているがバイタリティはあるな.大体バイタリティ型は身体的・パンのみが優位するタイプと相場が決まっている.




仏教にサイクリック宇宙論があったのは知らなかった、そうであるあるならば末法の世というのは単にサイクルの部分でしかないので、説得力に欠けることになるが




現宇宙は内部であるから外側を自由に動けることができると、内部を見てタイムマシンとか内部宇宙時間に対して未来も過去も見ることができる設定になる.




射影平面では平行線は存在しない--それでフェルミ型陰険存在の強調発言がしつこく追いかけてくるのか、フェルミ型はまた射影型人間ともいえるので.延々と交点化を要求するのが自然ということなんだ.辟易するしつこさと射影ユダ型はまた権力束縛をしたがるものでもある.窮屈で自然を歪め過ぎる.
 



一応拡張実数と有限実数に対して区別をするのか、拡張実数が基本であり普通でありではないのか.まああのころ・小4・数直線に無限大の付加は考えてはいなかった.ただし・・・




書は確かにアレンジだな、言うねえ.規則のアレンジ・文字もそうなのだが語を重ねて・並べて・結合させて言葉を形成しないと・待たした時があった.誰もそれを剽窃する者が今までいない.単に罪の意識の忍耐自己分析を剽窃して、それをオリジナル当人に述べる存在は多くいる.しかもそれが普通と全く否




甘えの構造を避けようとすると確かに日本ではきついものがある.プライバシーを平然と壊してくるあるいは逆が当たり前の自己疎外の要求もしてくる-この自己疎外は自己認識の大いなる邪魔になるもので、配慮がないとは常に感じている.




相転移は劈開やダイヤモンド崩壊としてみると、ペンローズ蓄積電子でもない見方をできるのではないか、相変わらずNo.16の未完の不快部分が未完ゆえに刺激している.海馬を刺激する発火反応と考えると本能が危険予知を発してくる.でもこの辺も関係してくる予感はある.脊髄反射では味がない.




そんなわけでなぜハイネなのかわからず、チェックをしていてあのボワーンとしたフィヒテやサンシモン・カントが登場したわけである.フィヒテも結構まともな考え方をしていたではないか、シェリングは最初から導入しているのだが.




その時に浮かべたハイネの名を口に出すことができず、ちょっと鬱的イメージのハイネをなぜ浮かべたのかわからず、まあ精神現象学でも読めばも浮かべたが口には出さず.ちょっと陰険体質のいささか汚い体質の個的には愚劣な存在と思った対象.睥睨カザノヴァ型かな.




定義というものの制約に悩んだ小学6年生がいた.長じて好みの女性に判断をつけることができなかった苦い思い出を持っているようである.なぜならば彼女は定義的存在と思ったからである.単純には非線形が邪魔をしたのであるが.




定言は純粋実践理性だったのか、実践理性が前提するものは物自体とは、倫理は16・17歳くらいでは難しい対象であるとその年には思ったのだが、カント的にはまず正解であると言っても差し支えないといってもいいようである.なお社会的に有利な職業は裁判官であるとその2・3年後には考えた.




そうか関係は『前提**・・・』の範疇対象でもあったことに気が付いた.というよりむしろ『前提**・・・』考察でよかったことになる.ゆえにあるX人物はどうでもいいということで、大いに無駄をしすぎたのである.結局最初からそう思っていたので、単に無意味な時間を過ごしすぎたことになった.




理性と想像力の桎梏で自己戦いをしているがどうやら双方とも自然な趣でたしなみは都合よさそうな雰囲気になることになりそうだ.哲学は芸術を認めるが、非芸術は認めないといったことも自己戦い中のことでほぼ結論は正解となりそうだ.




定性通時的メロディ線描的の厳しすぎる映像に2度も辟易したことがあるが、何のことはないいざその情態に身体感覚を覚えたら厳しくはなく快感的なものであった.所詮というか何しろ自己内部の映像で確認の結果全く厳しくはなかったのである.推定違いとは何とも時を悪戯に過ごす羽目になったものだ.
 



特にカザノヴァ型存在はそのこと・実践理性優位に関して近視眼的であろうと当然と思うことだろう.何も石をパンに変えろというのは実践理性を強調するとかいうより無視できない状態にあるという規定的なものであろう.




内部形態でバリアが強い領域があるとすると、その領域はユートピア的であることに気が付いた.何年何十年このことに関して不思議だわからないと考えたことだろう.イメージはそうでもないのだが論理的帰結はそうなる.




いろいろ悩んでいる意味なき無駄を要請する発言をした人物たちは、自己否定をするのは非常に困難だろうが、実際はそれが現実なのである.そう調子づいてエゴを発揮したけれどそのエゴはくだらないものだったのが実際の現実なのに、まず認めることはできないだろうなそんな精神レベルにすぎないから.




そんなわけで昨日から考えて、日本人には『天教』なる宗教が通底しているに至った.No.30をこれにするか、あるいは非公式に新宗教とするとか考えは弾む




宿業や思し召しや関係は位相が似ていると判断したが、まさか宗教的なものを登場させる羽目になるとは全く考えていず、気にはなるがさっぱりわからなかったわけだ.深いというよりやはり超越的な考え方であった.まず文章がつながるのでこの辺でいいだろう、なんとなく次が大変だという気もするが.




なんというかYにとって思想は宗教的な位相で、もしくは宗教の無神論的転化であるようである.これに関して第二楽章より『べらぼうという魚がいる.食べたくはないが魚のにおいがする(ちょっと幻覚的な感触を持ったが、川べりの小道を歩いていてそう思ったのであながち))』を思い出した.




現に生きている人間実在として単体的認識位相からは、個人という単体を超えた存在を考えるのはある種の人物達には必定ということだろう.また普通にひとは神も仏もいないのかという心理を誰でも持つことはできる.




ハイデッガーの世界内存在は人間関係存在的であるから、無機的宇宙を加味するならば、とりあえず宇宙内存在と人間をしてみると、人間関係存在を超えた関係の寄与を想定できる.これも個々人は有限生理・物理体であるからといえる.ここに心を持ちえた人間は手繰れば無機的宇宙に接続しているが、




Yは超理性や純粋知覚はないと言っていた、だが超理性があるとしたらどうだろうか(はっはっは..)・Yの映像から受ける後の直感では、Yは超理性の理解はできかねる実存在体人間であると認知した.




カルマか、㋅の薄雨の小林の小道を歩きながら想起した昔、きつい・深淵を抉ってしまうので考えるのをやめた歩みの先で、そぼ降る雨を眺めながら時が止まる構造を見ることになった思い出がある.この心理パターンは今でもよく使う.雨は降っているが構造を見ているので透過していると.




なるほどなるほど関係の絶対性と親鸞の宿業か、ここでスピノザの神の決定論を想起するのだがどうだろう.神の決定論を無神論の決定論と解釈してみると・・.大体宿業となると業・カルマを普通に想起する.




論理的には自由な意思の選択という相対性を成立させる場というか因子の世界というか、その位相においての思考内容というものでありそうな.




Yの関係は本質としていいかな、フッサールのエポケーは本質の前では必要ないものとするところの本質(あるときこの本質位相でさえ捨象してみたことあって、頭脳に狂いを生じさせてしまったことがある・愚かな・・・)としてみてもよさそうなNo.1




なにかペレルマンのポアンカレ予想解決側タッチになってきた.大昔(有効度合は現在的と設定中)に『位相差を持つ層状組織である』と考えてあるのに、応用・展開・結び付けがうまくいかずという面も考慮して.




フェルミ型とボーズ型で超対称性という考え方は、いまのところ弁証法の基礎を構築しているとして差し支えなさそうである.




マンハイムの思想の存在被拘束性はそう思うな.思想が自由なのはそれを本人が構築するまでで、構築した思想は捨てる・除去しない限り宗教の戒律のように本人に保存されるはずである.




あるひとつの縦構造を考えていると、ふと全体としてパーコレーション構造体になっているかなと




とにかく他者たちから不自然に自虐を要請されること多く、不快である.もっとも超常的に自己自虐をすることもあり・その理由根拠が全く分からずであるが・なのだが、やはり自己の場合は自己責任であるから忍耐できるが、他者たちのものには忍耐する気はないのだけれど、忍耐をしてしまうマズローの第6




不可能性は巷間周知の如くだが、ここに至って無可能性という考えを導入しようかと思っている.ゲーデルと強制法近辺を援用して




連続するとき、ルベーグの深淵とそう簡単ではない現実部位が数多くある.




ミクロの決死圏の難点がある知識によってしばらくしてからの結実として2・3日前にひらめいた.個人的に重要だったかな、それと定性通時メロディの厳しさを何とかしないともある.これも自己感性の才能なんだが自己的不快でもあることである.




『アンビバレンツ情態を保存する-それ自体をみる位相』と設定しているが、最近ではきつい、これはアーノルドの否定弁証法のようなものであった.




abc予想は直感が示している夢の構造にパターンが類似している.特に同心を渡る存在が




層状構造というのも『人間は位相差を持つ層状組織である』という第二楽章の中に結実した個人的考えや、夢の構造認識に対しても興味深い.またてんかんに対する閾値が低いというのもちょっと大宮赤十字病院の名前とともに気にする羽目になってしまったかも.




勝算あり、ただし長期間の実践時間を必要とする=基礎研究.このとき勝算は演繹的直感確信がある場合がほぼほとんどであるはず、人材そうやみくもに研究対象を設定するはずはない.そうでなければもともと人材ミスキャスティングである.




思い出そうとしても思い出せない何かツイートしておこうと思ったこと.-としたら思い出した、共産主義の成立には、聖人のみの世界しか考えられないということ、知る限り聖人が多く出てくるのはキリスト教専ら




一段階でも二段階でも、ロシア・中国に資本主義が十全に発達した時は?、中国はいまそうでこれからプロ独裁に向かう??、およそ想定できないのでやはりマルクスの考えは?をつける.これからある可能性もないとはいえないが、そもそも国家なく貨幣制度ない世界に普通の人々の平和な生活保証が可能か?




『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』--昔、無意識に描いたこの意味は、接空間・余接空間を暗示していると検証中.




クリプキをNo.24に入れるというのはネット上にもいるが、現実にたまに遭遇するある若き存在試みがいてそれゆえにと、未完のために思考が難しいという思いの圧力を感じていることもあって、必然性に関して考えている.様相でアイデアが予感はあったが出なかった記憶に対しても必要でもある




『余裕の挫折で終止符が打たれた』--終止符ではなく休止符のつもりが筆が滑ったということなんだが、つまり未完の部分を残していても、それ以前で説得力があるはずであるという思いだった.これを当てはめると、ハイデッガーの「存在と時間」は未完にもかかわらず一定の寄与力・影響力を持っていると




それでニュートリノ研究が爆発しているわけだったのか、ニュートリノ振動.昔に、隣の家の裏の坂道を歩きながら、地球をすり抜けるニュートリノはいいけれど、この宇宙のどこに到達するのだろうか不明であると考えたことを思い出す.




この時間水平線上に想定できる無数の機会から必然情況になると考えたとき(昔、坂道を下りながらから)、この水平線を無限遠直線と考えて、無数の機会を可能世界として、平行線が一点に交わるとするリーマン球に応用すると、クリプキの可能世界全てに真であることになり、必然的ということになる.




相変わらず書店で読んだ吉本関係に、悪行をやれば悟りに近くなるが堂々と載っていた.それなら、悪魔は悟りに近く、堕天使も悟って十分のはずだが、悟ったという設定は多分どこの記述にもないだろう.




還俗して非知がいいとそれをしたのは親鸞というY論を書店で立ち読みしてきた.一体世界のどこを見ているのかYは、ソクラテスのわからないことを知っているは、どう見てもYの言う非知ではないか.世界位相のYのエゴ的展開ゆえにソクラテスは浮上しなかったと見える.




秩序と無秩序が一般的であるが、<非・極・不・否・超・優・劣・・・あと何だったか>秩序と何種類かの秩序種類を考えてみた.




そうか東京の多様による収束速度強ということで、説明が付く初期量子論への手引きから.




”いつも論文に「これは理論ではなくいまだ見取り図である」「これは実質的な主張ではなく方法論上の議論にすぎない」といった留保を付ける。”--それで説得力あるということは、『余裕の挫折』と表現しても良いクリプキとならないか.全く慎重さではなく実際にクリプキは実感している事だろうに.




-あの動かしがたい坂道での必然という束縛感の思い出が様相につながっていたとは、後に様相を考えていた時には行き詰ってしまった・ただし何らかの考え方がある予感はあった・ファジーなどかな.




”現実世界の他に無数の「可能世界」を想定し、「必然的に真」とは「あらゆる可能世界で真」、「可能的に真」とは「ある可能世界で真」と定義する”--無数の可能世界から一つを選んで必然とすることは可能性でしかない?.




どう見てもA期的な指示言語好み存在は脊髄反射が得意な観察結果を得ている.演技の偽善を行うから一見洗練の形だが、実際は弱肉強食のアフリカのサバンナを素足で走り回るか、ボルネオの密林をこれまた素足でウータンと遊びまわっても大丈夫なほどにタフとしか見えない.




個人的に困難と同時に日常空間がそうなっている筈なのだが、・・・先天的存在が過去の存在であるという人物の思考形式とはいかなるものか、全く他者である女性で、表現を剽窃した存在はいない・・・・・




先天的先験的などカントや埴谷でよく知っているのに、先天を強調する存在を見る馬鹿馬鹿しさ、ただし他者達はさほどバカバカしいと思わなそうで、これらの圧力に引きずり込まれてしまう、この先天存在は過去存在であることに全く気が付かず、自虐的忍耐をし過ぎと、過去存在とした思考形式表現が困難に




悟性と鬱感覚について何十年もわからなかった.この単純すぎる技.直感では結びつくならば諸々の不都合すぎる事柄も説明できそう.しかしこの悟性女と同一視という無茶苦茶すぎる認識誤解・性倒錯的見解をどうも理解しないまま死んでいった存在がいるとしか思えず、認識誤解はどうやら死ぬまで続くと




可能的世界の中で、機会にせよ判断にせよある選択をするということは自由で、それを選択してしまったあとではそれは必然であったかのようにになってしまうゆえに、必然的自由ということになる.これを自然に行って全く当たり前とする存在が多数いるが、どこかで疑似的・迷信を携えているケースが多い.




”何をやっても駄目だから作家になったんだ”と喚いた作家がいたらしいが、厳密には作家も何のうちに入るがそれを除いて加担的に解釈してやると、苦悩に次ぐ苦悩と絶望を他の誰よりもしたからということなのだが、そうなると他人の悩みなどは取るに足らないものだというプライドが見え隠れする.




先天的存在特に優位な存在がいて、義務的にレール上を生きていくだけというワンパターンには閉口した・つまらな過ぎる変化なし-のちに判明した過去の存在であるはずなのに、憂慮するとこの存在が出現するのはちょっとまずいのである.




傍観者効果は--ではなく傍観者は客観的認識ができるので自然科学的な観点を持っているか、最も内容が政治的な場合にはそうではないな.啓蒙のプライドに見えるが、全体に対して傍観者視点を用いると独裁的意見ともなりうる.




恥というか権威意識というか、他者の名誉心ゆえに忍耐を被るケースが多い分析結果がでた.他者の名誉心はいいが、他人は名誉心を持っていないという前提に立ってエゴを発揮する単純すぎる暴力的存在達ともいえる経験がある.




リーマン予想は知らなかったな、今でもさして興味はない.その価値を理解できないといえばそういえる.自然対数と素数の関係が一致点に近づくだろうとガウスが--ここでeの登場で、e自体の存在は無にならず不快に思っている点に示唆的なものを感じないこともない.




素数の5000万個の出現度合いはランダムであるそうだ.とりあえずランダムの根拠はここにしておこう.




”境界にフラクタルな曲線が存在する”4種の特性解は元の方程式が、多変数であるならば可能性があると気が付くが、そうであるかはわからない.多変数複素解析論のチェックをやるべきか、青春の思い出としてそのままにするか、岡潔が登場するそうだが.とりあえずそのままにしておく.




秩序に対して対抗するのは、その秩序体制に反逆する革命意識的存在と、クリエイティブな創造意識タイプがある.




不確定性原理で思ったけれど、ペンローズはUpに関してどのような位相を取っていたのかそういえば知っていない.無限下降に関してどのような見解をもっているのかも知らない.




人が二者択一対象を極限選択せねばならないとしたら、全か無かのいわゆる宗教的な信仰するかしないかの択一となる.




相対論によると光は曲がるは事実らしい、とすると光は直進するというのが直観的に普通・ノーマルで、そこに捻じれた思考・曲がった思考をしても良いことになる.そこには何らかの連結過程がある.




3次元基数域でブラウン運動はどうなっている?


人々は人間原理の部分で満足している・あきらめている・かぎ取っている・・等ゆえに、落ち着いているように見える.




ところがまたそのころ思惟の法則があればこんな・・という思いをしたこともあり、しかし思惟の法則があれば生は単純になり過ぎてそれは部分でしかなくなり面白くもないとも思ったのである.選択公理や情報理論の複雑性問題や機能主義・物理主義に対してのチェック楽しみの所以である.




想像力は理性に阻害をあたえるとはパスカルの言葉を最近に知り、苦い深淵の思い出時に知っていたならば、そんな思いはしなかったものを.しかしなれどこの複雑すぎる映像はなんだという次第である.ひょっとしてこれを絵画にしたらかなりの存在感を持つかもしれないかも.




むしろ明暗であって、多少は弾圧とは異なる配色かも、弾圧色は領域が狭くまた旧態イメージのする色であって、明暗の暗は深淵であるからである.どちらも黒色であるが、この深淵黒色が動的な場合の複雑さには理性が付いていけない苦すぎる自己内部の深淵に対しての思い出がある.




草莽崛起(そうもうくっき)と読んで、吉田松陰が唱えたとか、昔、思考の帰結が市民が希望であるになってしまった10代の頃があったが、それに付随して暗黒が去らなかった.この暗黒は今日の先ほど、弾圧の文字イメージと似ていることに気が付いた.




0を入れるか1から始めるか非常に悩んだが、なんのことはない0歳という時間をすでに持ったのだから=0として差し支えなかったということだった.




真夜中のイントクシ、梅ノ木のそばにいたのはフクロウかミミズクかムササビだったか、昔の夢時間の記憶・鮮やかに




清水寺の胎内巡りは示唆的である.小学一年生ノ冬・正月に母親の実家に行ったときに、暗い空間の中で遠い向こうに小さい明るい点が一か所あるという映像を浮かべたことがある.この時の暗さイメージは守旧的なもので封建的なものを描いたのだが、5年生の時には黒体輻射の内部から光の一点を描いたので




まあ権力型のXXも抑圧強要で全くやる気をなくさせるものだが、やる気のためにはかような存在を排除せねばならぬ・といって排除が難しく無駄に遊んで意味なき時間ばかりを構築することになる.身体の自由のために他者を抑圧するからで、永遠に足るを知ることはない存在、心の自由がわからないのかも




まあ不自然を強要して、変なことになると現実も変になるはずで、偽善的な無責任のために無責任を構築するという姿勢で、自己欺瞞主義な存在達なのかも.まあそんな部分は持っているが、そんな存在者達のようにほぼ全体としてとまではいかないから.要するに現実に生きているから諸々の要素は持っている




どうもある女子大を卒業したての存在は、SS(XX)と曲解したようだ.なぜかほとんどの存在は主体の阻害・疎外を要求して、逆を行使して時間差トートロジーを強要するのはなぜか、また主体を真似して非対象と同一化したがる存在はなんなのか.明らかに不自然・理不尽を強いられることは、不快すぎる




秘匿してしまった乱舞はどうやら無存在と人々には、事実はなかったとも思われるようである.Kが見せた2・3枚の変形まとめをゴミ箱にとっさに捨ててしまい意地でそれを拾わなかったことや、多分にミス認識の人類の悲しみを想定してしまった春うららのI市のある女子学生と遭遇中の路上などが重なり-




直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?と思い描いた小学5年生、今ではそれは光子のことと判明しているが、不思議な映像だった..このころにまだいろんな重要なことを考えていた・・それらが俗物空間で体力情動の圧力を受けすぎている今日.




例の柿の木の花が咲き、三差路に岩がおいてあり、上り路にのわきにささやかな小川が流れ、それがやや大きな沢と合流するところにプール上となった体積があり、三差路の道はそこに小橋を架けていた場所で、直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?




古今東西の宗教の創始者を鑑みるにつけ、押しなべて傲慢・極端なエゴイストが多い.これは人間存在の本質的な何かを指示していると言わざるを得ない.深いかな聖書の、”神はご自身と同じ形に人を創造された”の意味するところの含蓄は.




人々に公開とはいっても秘匿的公開だからわかれば雰囲気までを、自己に用いる羽目になってきた.




小学生だったか中学生だったか、坂道を下り歩きながら、必然という言葉にぶち当たり、果て困った身動きが取れないと思ったことがある.今日はこれに際して、システム的をとりあえず取り入れるアイデアを浮かべた.可能的世界どうのこうのもイージーなんだが、システムの還元不可能性を判断しておく.




論理ではなく理論にしようか今日考えてみた.岩のゴロゴロした川原で考えていたときは、方法論という言葉が浮かびいささかつまらない気がしたが、今日までずっとそのまま.




昔描いた夏休みに隣はしばらく姿が見えないが地球外旅行に行っているという話の映像で、未知との遭遇のある1シーンと映像がよく似ているのは多少不思議であると漠然と思っている.もちろん監督得意の漫画のようには、別に未知なるものなど登場してはいなかったが




未完項目はあるけれど、結論(遠い未来に有効な)を出していたことを昨日思いだしたというか結論にしてもいいものであったことに気が付いた.




モジュラー群に”分数 a/b, a/c, c/d と b/d がすべて既約であること”がのっていた.昔考えた4種の特性方程式である解は規約である事は条件なので、考え方自体は似ている. 直感で見るモジュラー形式ほどに単純な方程式ではなかった記憶ではあるが.




ビッグリップの前には、地球崩壊拡散は微小なものに過ぎないが、その映像を思いついた時にはちょっと困り果てた.止めることができない・・小学生3年生.その記憶は地球の軌道変更に結実したがそれもまた不可能であるが、『軌道を変更した地球に幸いあれ』を第二楽章の帰結文にしたことは間違いない




言うまでもなく中間存在は演技そのもである.上に限界を持ち下に限界を持ち、上下左右前後に有界である存在であるので、あたかも足が地についていない(足がないのと同じとすると幽霊と同じ)空中浮揚中のようなものである.その底の浅さには不快しか感じない.




まあ演技的性格者にはユダ型人間の特徴を顕著に取る.ローマ軍は神様ですとかのような、権威・権力者は神様です・依存させてくださいという長いものにまかれろ性があり、自らは権威・権力者の代理人であるかのような所為を行うクラウンのような存在でもある.根底には権力志向が流れていることになる.




セルバンテスの作品の主人公であるドン・キホーテは奇人・変人である考えが浮かんだ.




構造自体や時間の流れは自体を見るはNo.26ni導入.世親は何を述べていたか気にはなるが-大体無自体それすらないが仏教の奥義であるはずで、輪廻はそれ以下とふつう素直に考えることができる.




情況は単純にエントロピーが決定することは明瞭ではないか・何を今まで悩んでいたのだろう.ポテンシャルパワーはいろいろ思考・思念に災いとなるな.




"科学と非科学の境界設定基準という科学哲学における最大の問題"--科学哲学の最大問題は非科学との境界設定だったのか・・未完・未定のNo.23の参考にはまずなる.デルタ関数は無限を保証するか有限な無限はあるのかという素朴な直感が、頭脳分離・乖離を余儀なく構築してしまったことがあり




漸く考え付いて、その延長は退行圧力であるので、その将来結果はまずいことになるが如実で、私はそれについて何も思わないことにする・すなわち退行圧力を全く欲してはいないということで、その存在者のモラル感覚によることである--を思いついて二重虹を見た.




そんなことがあるとケルゼンを純粋法学意識を小学生の時に浮かべたのが、今では信じがたい.




荀子自体は性悪のまま馴致をしたと推測する、何らかの相転移があって善人になったという記述を見たことはない(それほどチェックしたわけではないが、それでもそんな事態があったのなら目につくように表現されているはずである、結局性悪固有のまま死去したに違いないだろう.)




太宰治は帰納的におもえるが、それと荀子的ではないかとも思える.それにしても実人生は非道徳的所為が多すぎて、作品を書けば実現実の不道徳的行為は許される実例ともいえそうだ.




共同幻想の奴隷なる言葉が朝閃いた.




利己的な遺伝子の複製優越性と人間の建設意識の相克で現実は説明できると直感がとりあえず示している.




非対称な一つの双曲線とミクロとマクロ(古典と量子)のずれた双対感あたりの関係をむすびつけようとして




『位相差を持つ層状組織』は縦構造にも、スケーリングにも使えるではないか.人間はそんな側面・層状を持っていると直感した、小学校の帰り道の崖の崩れた堆積の跡をみて、近くの沢の上部はどこにつながっているのかと考えている.地球の崩壊や男女の乖離などもこの付近で思いついたことが懐かしく




ゲーデルは位相差にありそうだが同位相に存在するか、この辺の思考に壁をもたらす件の幼児期女性なのであるゆえに、他人の母親.でもアルファ空間では人気ある・その理由も良くわかるが咄嗟の出来事で対処はできなかったな.咄嗟に判断しなくてもよかったのだが、そんな前提になかった.




(夢にもでてきたし、常に絡むようなことは、他の女性も成立する・<夢にまで見るというのは別になんでもないありふれた普通の事>)




で他人の母親になっている記憶から離れない女性に対して、しつこく浮かび来て、種の与件からこの事態はまずく、またあまり浮かぶので位相を戯れに・不本意に同値化させてしまい、なおさらまずいことになる.それでは幼児期に退行と同じくなるからである.つまりこの女性は幼児期対象存在のだ・




振り子の等時性-振動に関係あるとは思いつかなかった.何かが欠けていると思っていたの楕円積分だったか、減衰振動でも考えねばならなかった昔の話を懐かしむ.




ボーズ凝縮の最大値論には感心する




どうも人々はある女と同一視してきた不快な記憶が強すぎて、そのある女自体も逆に剽窃で自己自身を内的思考かして、疎外を要求していることに気が付かない愚かさを持っていたが、誤解・曲解・歪めなどは全く意味がなく不快なものである.それにしてもこの不快すぎるある女と同一視されるのには閉口した




この悪魔はキリストをあくまでも俗物扱いを意図している、邪念の化身として現れているようである.世界の栄華を悪魔が持っているのではなく、単に持っていると空想をしているのだろう.人間悟っている筈はなく、心理の葛藤を持っている筈であると.




指揮者・積極的自由の調節者とか、いなくても消極的自由の多様化をかなり進めて短時間調節は可能であるとすると、いくらか齟齬をきたす事柄が成立するが..




しかし全く自己疎外を強要して、逆によくわからぬXXと同一視するXYと、剽窃して自己自身の内的思考を当人に述べるXXがこうも大勢いたのだろう、今でもそんなでたらめを受けている気がする.自己疎外修復が大変である.




道すがら、人々の庭先に相変わらず桃色の花をつけた庭木が目立つ日々、時には白い色も見かけます.はて如何に猿が滑るものかと疑問に思うところです.、つきましてはギンバイカの香りなども浮かぶところでありまして、そうなりますといろいろな思念が湧いてくものであります.




残暑厳しき折、久方に認める文面に、失礼を存知あげる振る舞いをご許し願いたく思います.とはいえこの部屋の暑さには、気温以上の温度差感を覚えまして、些少いらだつ気分ではありますので、文章がつながるかどうかは判断しかねる次第でございます・・・・




20-25年無駄にしたことに気が付く、なんと強烈な思いでゆえに時間がマヒしていて・・・




私の予言によれば今の20歳代前半から日本が変わる・この世代が日本を変える




いずれにしても絶対性などと絶対を使った大仰な強迫性はあまり関心しない、思想だけということではなく、『思想の思想たる所以』だけで、やんわりと対処したい.




『余儀なくされる』は用いている、ただしその心情は「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」の両価性とともに、またオープン領域への実存的とも言えなくもない.(これは中学生の時の入院中にベッドの上であることに自然に推移して、そのときの心情をもとにしている)




何しろ神はヨブにありとあらゆる厄災を与えて不幸にしようとした・・そもそも旧約の神が悪を作り出していることになる.




ナッシュ均衡から、宇宙の熱的死を連想するけれど、人々はこの現宇宙を有限なものと設定してそう考えている・そのようにして安心感を得ているともいえる.がサイクリックは回帰的もまた仏教の反復思考に似て、そんな考え方もある.この宇宙がどうなるかは結論はまだ出ない・未定であるはずと考えている




「ナッシュ」を知っていたならば取り入れたかな、ゲームの理論は好まないので入れなかっただろうな.どこかで知っていてもいいはずだったのに、ブールとか騒いでいた頃の娘の弾くピアノの音が聞こえる庭との裏側の二階の部屋・・しゃれこうべで酒を飲むも浮かべたこの庭・後に知ったバイロンではないか




中学生の時にある市のある駅の靴屋の看板文字から強靭を考えて、強靭の一定持続の厳しさに音をあげたことがある(自らの脳内のイメージではあるが).今でもそのままの意識で、他者の強靭の厳しさに拷問を感じていたが、今日、そうであるならば逆作用・反作用方向の強靭もできるはずと漸く思いついた.




ハイジャンプは見ていてなぜかスリルを感じる、女子も面白い.小学5年生の時に1mが飛べて無意識に大喜びをして走り回ったことを思い出す.同級生たちに真似をすれば飛べるとされたが、その現象自体に何かを感じて..




深淵について考えるのはやめておこうと思った小学生の時、が自然に道やブラックホール様を考えてしまい、後からチャンドラセカール限界やトルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界が付いてきた.




中性子星の外部爆発とするまではいかないだろう.”自転周期は30秒から1/100秒”ではΘの回転イメージより遅い・・・




一般に今不快すぎる思いを持っている他者たちのトートロジーに気が付かず、強制的に不自然を要望することは、次元低下要請で進歩時間遅らせは明瞭であるという決定的認識に達した.ゆえに他者たちのトートロジー言明は意味のないものとする、そうしないと『第二楽章』のレベルがままならなくなる.




とりあえずの大きさで、素粒子でできている存在が生きている--推定、素粒子でできているが”関係”でそれは生きているに対して”絶対的なもの”として現れていると考えていいのではないか.




そもそもざっとマルクスの翻訳物を眺めたとき、論理的には納得いくが、とにかくエロスがない.ほぼ自動ロボット的な感触を受けた若き日のすごく意外にひなびた渋谷のある駅のいとこカップルの部屋




『位相差を持つ層状組織』と人間精神を規定したとき、表表現として組織形態に似ていると、何十年も経て気が付いた.ピラミッド型やコーポレーショニズムとかの理論に結びつけることができる.スケーリング面もあるが別対象意識として.




とかなんとかそんなわけで、太宰治は昔に聞いた?見た?芸術至上主義者(そんな主義があったか?)なんぞではなく、マタイの述べる律法学者・パリサイ人に良く当てはまるのだが.




「想像力に科学は有用である」をNo.23に置く




荀子の性悪説だけれど、元性悪(今は?)が馴致するとなると、固有的には性悪が性悪を馴致することになり、結局性悪に終わらないか.どこで相転移が起きて善人なり馴致することになるのだろう.経験記憶の不快から、性悪人間が性悪を隠すためか、他者に対して馴致意識が高いようである.




自転車通学の帰り道、固定・気合いを考えつつ、角を曲がるとスタンダードを思いつく.そんな記憶・思い出と共に、量子現象をNo.16に取り入れて妥協点を想像ではなく、理性的に置いておく.




全く完備で有限なものを無理やり無限非完備的に考えてしまい、過ぎたるは及ばざるがごとしを堂々と行使してしまった青春の時間を思い出している.




人間は無機物内有機物として存在しているのだから、存在理由は有機体故になる.過去・現在そうしてしばらくの未来はそうだろうが、その先もそうかというとはっきりはしていない.変化の可能性がないわけではない.クレジオなどは現状維持の有機体として、有機物の後に無機物のみが残るとしているが.




大体その存在が(すでに)不明で理解し難い対象はいたずらに喚きを構築し、有限にもかかわらず、その延長としての世界領域に依存して、内面を見ずに倨傲を行使するから煩わしい.




そうなるとニーチェの永劫回帰は、キリストの復活的なものを何回もあるいは無限回繰り返すことになり、アンチキリストがねぇとなる.




記憶にあり消去したく悩んでいる他者たちの言明は「冒涜」という言葉で表現できると思いつく.冒涜を尊重する羽目にというか除去できないこの構造は問題だけれど、冒涜発言をする他者たちの存在悪性はなんというか無神経というか無自覚なのか陋劣判断能力しか持ってはいないと考えるしかないではないか




超対称まで行かずとも、F-B分離したセット形態を考慮せねばならない・・、そんな心理情態は不快でしょうがないのだが、XX-XYの乖離とともにそれぞれの関係を考慮するような形式・形態とでも表現化.




そんな存在は、男はいつまでたっても子供なのよとは言えないはずである.なぜならば自らがいつまでたっても子供だからである.傲慢な割に甘えもする極端な性格を大体感じるタイプがそうである.傲慢なパワーがあるのなら甘えなどしなくてもよいものをと.




ポテンシャルが強く、荷物に感じるうんざりする肉体の持ち主は、唯物的・物質的な存在であるという認識に至り、精神力・思考力は欠如の存在にあると見るにたどり着く--他の人々にとっては、あまりにも明白・単純すぎる事柄のような気もする.




思い出せば、覇者型の女性にかなり遭遇している.大体脊髄反射だがなんだかわからない暴言を吐いて不快な記憶を残している存在達を.今でいえばパワハラ固有性確かな、まるでロボットのような生理体を意識させるもので、暴言などより色気を出せと言うべきだったのである.まあマシーン頭には一生無理




完璧にダメではないかなんだが、どうも現実と乖離を持っている.やや最高はいいとしてやや最悪は失敗なんだけれど、それも必然的な事柄だったから、なぜの理由がわからない.最高と最悪があるということで納得が依然いかず、個人の素質かあるいは風土の障害があったのかわからず・判断がつかず.




稲垣足穂の何が面白いのか全く分からんが、一両日前に、ホモ・ファーベルと思いついて、まず間違いないところだろう.作品と晩年の毒舌が結びつかないが、気に食わない遠慮をまたしても持っていてそれが悩みの種でもある.人間的には達人の趣があることは否めないが.




超自然という言葉がある.超理性や純粋知覚はないといった人物について、昔はあまり気にせず、一つだけとんでもないことを述べられてそれの処理に悩んではいるが、その後TVの映像をみて、顔貌直感からまず純粋知覚などは無理、超理性もその欲望意識から無理とまあ納得している.




メタンハイドレート開発にシャカリキになれないのなら、核融合に向かうはずだが.現状の現実を見る限りではのんびりしているようである.『太陽が2つある』-予知夢を見ている人間として.(一つは当然空間に浮かべた核融合物体・それは太陽とそっくりである)




ある女子学生に際して、精神現象学を読めばやエロイカ変奏曲の味わいは当然ないなとかに際して浮かべたのは、ハイネの名前である.まさかハイネはないだろうと沈黙したが、そうでもなくハイネを読めるようでないとと思うべきだった.




超自然の束縛がやや最高とやや最悪の時間を持って、超自然を現実時間で渦中にいるときには想起できず・この不可思議な現象.超自然を現実化すると全く煩わしいことになってしまうので、超自然的に現実をせねばということだった.




ネーターを考えたくなるが、事実は小説よりも奇なりで、ラプラスがポアソンを内含しているように曲がっているとか.




無限大か来る双曲系1/2がデルタ関数と類似させて考える--そんな体験があって.その逆に無限大が0で原点に向かって発散する場合に積分が1になるということの又その逆で、原点からベルトラミ形を考えてその広がりは・・・全くR^3に無限加えたものが3次元球面とは簡単に表現してくれるものだ.




葉隠れの武士道をドストエフスキーのようにとらえると被害者であり、クリエイティブのとらえると秩序空間に安寧とはしていないとみてみるケース.




グロタンディーク宇宙Uを知った.グロタンディークは賢明というかまともというか常識的というか、笑ってしまう.これではなんの理屈をつけようとピレネーの田舎町に隠遁をしたくなるというものだ.-言いえぬことは沈黙しなければならないとはTLPの言明.




強烈すぎる個性のXXに対してなぜかレゾルベントとした思い出がある.強烈なのはスペクトルであるのだが、この直感は全く脈絡なく出現した.




なぜ蒸し返しや自己疎外強要をするのか無駄でしかないというのは無駄な存在か・無意味多き存在としか思いようがないではないか、無自覚傲慢者でもあるが、悟りに向かう無知過程存在者という観点もあり、困ったものである.いたずらに時間を遅らせる宇宙旅行者達でもある.




カラビ予想の解は、個人的に考えた特性解4種にヒントにはなるが、中身の豊穣さが異なる.




想像力と無限に関しての理性を考えると、ヘーゲルの論理構築の説得性しか知見していない.想像力には非線形が登場しているが、時間が一方的に流れていると、混沌の位置が真理に関して無意識にならざるを得ないが、+-のない空間であるならば、素直にカオスが登場する.




アポロンとデュオニソスと分けると、想像力と理性になるが、フロイトは超自我と無意識(自我は境界)としたろう、そうなると混沌と真理になる.そうするとというより有限理性というXXが災いしている--一般に中間存在は有限理性を行使する.




物質がそこにある以上、発生機序が複雑であろうと、有限結果(線形)は成立している-これに関して過大評価をしてドン・キホーテのように、非線形を求めたために失敗した記憶を忘れない(過ぎたるは及ばざるがごとしである)、しかしなれどその姿勢を崩しはしなかった.それが余計なアドバイス誘発に




サピア=ウォーフの仮説とチョムスキーの心的言語の間で、形式言語と宗教心を連想.サピア=ウォーフの仮説において形式言語・公理的なものと、相対宗教・宗教の多様性ではなく統一宗教心があれば、心的言語は成立するが




再帰とチューリングならここかな、埃立つ道を歩きながら摂動を考えていたころだから、非決定になるのに無限後退を考慮しない定義にいささか少しアイデアが必要ではと考える




数値予報にNS方程式が重要に用いられているとは考えもしなかったが、当然すぎるほどに当たり前のことである.この隠れマルコフ的な頭脳・・・自然科学の伝統に対しての追認はかなり困難であるであるので、人々は隠れマルコフ操作を用いるのが常であるとか考えてみる.




思い出した、ランダム設定・ランダムを考えていたあのちょっと裏道の坂を歩きながら、空間は自然に自由領域を不随させたことを、射影の無限遠を用いて掃散などと示していると、まったく思い出せずにいらいらしてしまったものである.




水分子は室温で平均でおよそ500 m/sで動き回っているとは、ブラウン運動の掃散してからということが、有限時間のやはり頭脳追跡が伴わなかったゆえにという進み具合でよさそうだ.




おおやはりネルヴァルはヨハネの黙示録から影響を受けていた.熱風の夏・中学2・3年生だったか、トイレに行きながらネルヴァルの湿度高き暑さを感じた、今はそのころの情熱が・ポテンシャルが消え失せて




マイ・システムの位相上の対象について考察している人間はいるものである.無名の領域にたいして離散的持続者は香りを持たすこともできるがとは考えている.




競争や他者に対する優越感(それが小さくても次元を落としても)などは戦いといえば戦いで、穏やかな気分は足るを知るか悟りを得るかを獲得しないと、出来えないような人間存在にとって、平和とは調和という言葉で表現しうるものだろう.




ある人物に対して他者引用してあてはめたりするのは論理的に間違いというのは認知していたはずなのに、矛盾潜在意識を前面に出して(対象の信頼ゆえに、わかっているミスを行使するというXXの責任保有性無自覚)




ラプラスはKでポアソンがよろしくない?(ふつうのカップルはポアソン的、阿吽はラプラスとしてもよいか).ブラウンの掃散はポテンシャルの限界ということになるが、どうにも不快な頭脳の鈍さがある.Sのブラウン実存的にたして太宰治ではという冗談思いに今でも悩む羽目になるとは




未来史の記述はマルコフ過程を示すだろうが普通すぎる考え方で、事実的人間にはそれが自然かつ限界であるから、強意表現を用いざるを得ないという解釈になる.その強意はエゴイズム主張にすぎない、無自覚がやけくそでもあるか退行強制ともなる.




細胞の動きが重力の影響よりブラウン運動が勝る無重力空間では奇形の発生する可能性がある-そうだ.なるほど、現地上でかような形態存在はかなりブラウン運動の影響が強く出ているものととりあえず判断できる.人類類族上の犠牲ではないかと倫理的に考えた昔を思い出す.




ポアンカレの回帰定理とダフィング方程式があの時に必要な対象であることが分かった.回帰は地球上の緯度ではなく再帰でもなく、減衰には加速度も考慮する必要があったのだった(?潜在的には十分思っていたような気もする加速度).でもカオスは考えなかった.




双極性障害はポテンシャルとエントロピーの齟齬により・・と思いついたが、そうなるとうつ病はエントロピー障害になる.(双対的にポテンシャル要請圧力とか)




別に意味はないのだが、つまり本質に対して判断停止をしても不都合な心理になるだけで、等質ならぬ深淵という非等質を形成するゆえに、進展がそのままではなくなる.まあ有限深淵という深遠ではなく深淵を持ってきてもよいNo.27なんだが.




回転楕円体には扁球と長球があるのは基本中の基本であるが、さる時間設定中に夏の川原で浮かべた時には長球回転のとらえられない速度であった.




Mathematics Genealogy Missionで思うのは、難問に挑戦して一生をあたかも棒に振ったという数学妻帯者の多くいるという推定である.




有限内オートマトンはまさにロボット的で、コンピュータがその仕事をとってかわるというのは、この有限内オートマトン的人間・仕事内容を示している.しかし、有限内オートマトンというあたかもユートピアを好む人々も多数存在している相変わらずの現状である.




乖離-相転移・フラクタル、そうして普通になってパーコレーションとこれでいいのかNo.16




フェルミ型人間はその励起のために他人を利用する・必要とする、あるいは外力を外部を---これはなんか悩んでいた全く思考が進まなかったある概念に似ている形式ではないかとも




プラトンに詩人追放論があったとは.、理屈的にはペンローズ的かな、最初に結果的なものがあってゆえにそれ以前の過程は排除する--これ自体も時間変遷論になってしまっているが、イデアが普遍であるなら時間もないので.まあイデアは永遠を示しているように想える.




筋肉を動かして判断するのは脊髄思考で、これを理性から見るとどうしょうもない乖離が存在している・その壁の消去思考が・・-No.4からNo.16に関連して.




アブダクションもあるけれど、帰納の限界とかクラインの壺とかメビウスの輪もあるので、小説が理性的(空想・空想理性ではなく)であるならば、事実は小説より奇なりはいえているのかも




国家が死滅したとして、ルールはどのように守るのだろう.やはり生の欲求があるはずだから欲望の自由がまだありそうで、結局ホッブスあたりに戻ってしまうのでは?.つまり世界を変えるのではなく人間を変えることだろう.国家が死滅しなくても人間を変えることは可能であるという想いに立ち・・・




悪人正機説の悪人・少し良くして悪人と善人の中間的なふん詰まり人間の傲慢さには閉口する.全く自覚ない束縛が当然と思い込んでいる世界の狭さには.通時と共時の中間存在にも言えて、また覇者と王者の中間存在にも言えるうんざりさ.




自己の生存過程を振り返って気に食わない時間があることに苛立っている.どうにもうまく価値をとらえることの困難な時のあることに




現状、世界に宗教は一つではなく多数ある.おそらく個々人は自己の信仰している宗教が絶対なものという認識だろうが、多数存在しているということは相対的となる.




何処へ行っても、目障りな存在が出現してくる経験をしている.これはゲーデルの不完全性定理ゆえか、それともアローの不可能性定理ゆえなのかとケース設定を試みたが、結論はまだだが接近しているのではないかとは思う.




一様関数の愚問と浦和での心理の不快な暗黒ねじれ感-後者はあるJKが一つの 大学入試に落ちた故ではないかと今日不意に・その頃は浮気を感じた(これはこれは・・)--出てきた心理葛藤




ネットのレイヤーで物理層へ行くにしたがって、暴力的になるあるいは感情が消えてゆくと、人間存在の固有性を考えて、あてはめてしまう.(小学生の時に、崩れたがけの地層の縞模様を見て、人間とは位相差を持つ層状組織であると、思いついた観点から.そのように見ても差し支えない現象は存在する)




そんなわけで今日考えたのは、無限小は無限小が無限数集まった場合に無限小になるということ、現代集合論によろしくであるのだが、この余地は第二楽章に十分とってあること




それもこれも嫌いな・苦手なポアンカレが非線形をの文を見かけて(思い出したのは3体問題の懸賞修正の話だったかな)、ヒントを得た昨日から今日の朝、本来ならば真理は単純であるは到達前に混沌から種の形成をした結果ととらえるべきだったのだが.-思考方法はスピンネットワークと同様.




モナドやエンティティでちょっと行き詰まり、そのころスピンネットワークは・ペンローズはインチキ臭いと思っていて(今日ではガンマーバースト観察で証明可能だそうだ)だが、ふと構想自体は了解する羽目になってしまった.(超弦はそれが本命だったのだが)




1990年代でよかったのか、自然が自然であるならば思い当たることがある、そのことに関して結びつきを思わなかったのはミスというより、現実の倫理が作用したことになる.




どうも昔、密着空間に対して無理に区別しようとして、身体異変を構築したようである.かって・・今も?、密着位相の国があるようで、密着の圧力があったか、まだ覚えているある女性の”みんなそういいますよ”は事大主義の同調圧力当然のもでもあったか.しかしクリエイティブに対してはまずい...




生成文法は少しは考えざるを得ないほどに有名人がいるが、認知文法はそうでもない.さて認知文法のグラデーションと普遍性の畳み込み様況を如何にするか.形式主義は部分でしかなくなる、あるいは理不尽が被さっている可能性がある.




イギリスの海岸線はとりあえず不確定まで行けば測れ、その値は有限となる.今日ではプランク定数以下サイズも思考要件になっているが.




”無限集合S に対し、補集合が有限であるようなS の部分集合すべての集まりは S 上のフレシェフィルターと呼ばれる”-無限に対して有限である中間存在はこのようになる.(数学上の文章の解釈によってすでに明瞭な形が出ている、だが数学者はそんな解釈はしていないだろう)




?!間脳の両耳なども考えていた・・・そういえば




精神か肉体か・・昔に少し筋肉などを動かして決定していると端緒は考えていた事に思い至る.今では脳内細胞を意識しつつ判断するという方向も考えられるが、内観にそのようなことを考えたくはない面の方が強くある.




No.4---かくして人は筋肉も動かすのだがその形で決定していることは間違いない




”吉本隆明・言葉はその発生原点に戻るケースがある”いやそれ以上、言葉無き時間まで戻るだろうに、そこには沈黙が生じているかな、なにしろ『奇妙な保管場所』はそういうものだから.ゆえに言語の限界が世界の限界というのは理解しがたいTLP・沈黙しなければならないのは理解できるが.




もっと純度高くとは自己をとらえないのか、そうであるために邪悪なイメージを齎す虚偽意識を発揮(詭弁か虚偽・その演技)するか、カムフラージュのために神聖感覚に依存するのかもしれないが、それ自体やはり下賎なイメージであるので、どうにも先天的資質生理から不可能としかいえそうにない.




全く遅すぎる量子確率、これではある諦念女の生理時間と一致しているに過ぎないではないか、おもしろくもないが時間を待っていた事もあり・・それにしても失敗した灰燼である.証左が残っていないということはないに等しいと普通に人々は考えるだろう.今はその思考形式を用いる感性を全く使っていない




0と1の間でさまようのは古典的とか、確かに0と1には確率がないのは当たり前過ぎていた.がフラクタルと不確定は全く何十年もまえから取り入れ・表明してある.『・・これらはなぜか』は帰結文である.『あれか・これか・それか』も帰結文.今日量子確率過程を考えようという時代になってきたらしい




試験問題で他者に答えのわかっているものをまた不明なものとして考え・記述することは馬鹿馬鹿しい(これが無意識量子力学の寄与)としたあのころ-量子確率論.




フェルミ型は結構偽善にとりつかれているのかも.この陰険生理男は男の演技的性格で、四六時中気取っていたな.不快な陰険生理をごまかすために気取っているのではないかと・・.演技していることがすでにわからない?.もっとも演技をすると責任をとらずに済み気楽に生きていける点が一番なのだろう.




フェルミ粒子自体がどうにも濁ったイメージで、アポロンはもっと清潔な透明体である.またそんなアポロン女性も存在しているのであるが.ゆえに陰険汚濁的生理体に野蛮人いわれるのは心外であるが、野性力は別に捨てない.ただ記憶上障害の言明で不愉快すぎる.こんなタイプは不快な言明を必ず齎す.




陰険な薄汚い身体感覚のある女性もいて、なぜかしつこく憑依的に取り付いている感触を持つしつこい拷問者のようなもの.その濁った生理色をもっときれいにならないものか、濁った生理には毒があるというものなのに.そんな人物はバイタリティはまず強い.傲慢な覇者型人間のパターンをみている事になる




?!フラクタルのエントロピー、エントロピーのフラクタルは漱石の道草で、それは日常ありふれた減衰の転換点




杉林の中の笹は地下茎が発達している筈の小学生はそれをもっとダイナミックに想像した.後に知るDのリゾームに似たイメージを、結局こんな手しかないのか、最も並列形式は当然とは思っている.(知事選が近くなってきたような・・)




過日、調子に乗ったわけでもないが、自伝的(大体自伝的はどこかで宣言してある)な不用意的ツイートをしてしまって、今心理対策を抗じる羽目になっている.削除すべきか、時過ぎればなんでもなくなるでもなさそうな予感もある.というか現実生活に寄与反応が出現してしまって.追憶なのに今に影響が出




ロシアが独自の宇宙ステーションを計画中?、上海機構の協力事案だろう.中国との折衝が問題となるが、宇宙移住が2億人になる時代の後にくる予測上の意識体人間はまずAD3000年でも無理だと今日直感した.ささやかには、行動主義心理学のその名称を初見しただけで愚劣感を覚えた昔があり...




いわゆる破滅型と称される太宰治がそれなりの世代に何故人気あるのか急に- 閃いた感.境界域の場合、境界以前の時間を消去するように境界以後は作用するからという、極普通の事柄なんだけれど.破滅傾向を境界以前と照合させる形として.




そもそも子音を浮かべたとき、キツイのでどうでもいいやとおもった時点で、ハーバード云々は消えていたのでは、その後中学生の時には、英語など誰でも使えるからどうでもいいとも思い、まずこれでだめだ.さらにある学校と教科書が同じと聞いて、これでへんに矜持を発揮して、結局英語は苦手となる.




このどうでもいいやあたりから惰性になったのかも・まさに蛇尾というか・・・.目的はあったのに全くすっかり忘れてしまっていたあのころ、但し無意識には持続していた.そんななんやかやで一歩間違えればあのような人生になったかもというあるギフテッド者の言明の対象者的生存過程を行使している・・




昔ハーバードにいこうかな、とおもいつつ日本の大学などとは言い切れずの思いをしたことがあり、そもそも大を学ぶ?・今でもよくわからない.その後、これを使えばT大に受かる筈(その証左は個人的秘匿として)とおもいつつ、T大にいって何をするのか目的が浮かばず、どうでもいいやとしてしまった→




デュフィのニースの窓辺かな?、昔見た画像で鮮やか過ぎる海の色が印象に残っているタイトルは、今見てみるとニースの窓辺はそんなに鮮やかではないな.サントリーニ島の写真を見ると、デュフィはフォーブでギリシャまで足を伸ばすことは考えなかったのだろうか.




偽善者も善意力(建設的・たとえば類続性とか)を実際にわかっている筈で、責任逃れ的要素が実際には強く作用していそうだ(諸行無常という言葉もあるが、これは宗教用語だったのでは?).演技的性格者はそれゆえ無責任主義ともいえる.XYにもいるので、そんな人物はやはり責任逃れを志向している筈




建設的な事柄は善意であるはずだが、存在証明ならぬ仕事証明や権威にむくつけきもあり、なかなか建設的社会とはいい難い.しかしなれど偽善を齎すその根拠は性意識・いわゆるリビドーにしか求められないと思っていたが、体質自体のセンスや人の存在原理である優越感・優越意識が作用するかもとも.




通時的定性曲線はなんのことはないα型-共同体的であったことに全く気がつかず.ずっとΘ的に考えていたから、いまはα的からθを見てしまっているので、まずい心理情態である.なぜそうであるかはある確実な心理経験があって・である.間違いない自然なのにある存在によって無駄すぎる時間を・・・




プラトンの立体の基本形は正四面体で黄金螺旋とフィットすると、コルニュの螺旋を黄金螺旋に変化させても全く問題はないNo.23.プラトンの幾何学意識がNo.23にくるとはこれは多少問題になる--アブダクション如実で面白みが出現・可能性が登場したということ.




昔に色んな人からアドバイス的な言明を受けたが、それが障害記憶となって煩わしいものになっていて、除去するのが困難な不快となっている.別にそんなものを要求した覚えもなく、余計なお世話として自力観点から邪魔になっている.




中間存在のバイタリティはとにかく自由の邪魔をする・中間存在は中途の制約を受けていて、世界がユートピア事大かニュートン絶対空間(中間存在に無限は不可)に依存している不自由な存在だからなのだが.




逆反応を考えた日に、対称性の破れの案者が5日に死去の記事を読む.交換の意図に反交換はほぼ必ず逆の応答をする.交換からみると疲れてしょうがない.対立は先天的特質上消えず、反交換は交換をできずに交換を引き裂くように反応・応答をするために.




昔ES、遊びながらコンクリートの防護壁のところで、0101・・11111・・・とかの羅列を浮かべたとき、とてもこんな記号値を気にすることはできないと思ったのである.それが16進数表現とかになっている今日以前から.--久しぶりにちょっと古き数学辞典を開いてみようとして記憶を思いだす




摂動に対して、ゆらぎかフラクタルかといったところだな.摂動自体はそれはそれでよかったが、摂動以外の示唆もまた強かった.なぜそのとき回帰を考えたのか以前に少し理解を持った気がするが、忘れている.摂動域以外でもっと詳しくといった想い.




”アインシュタイン-観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在する”-これは当たり前だろう.これを認めないのは屁理屈を述べているとしか考えられない.観測したときに実在するは、実在していたものをその時に捉えたということで、単に独立した世界を普段は全く気にしていないということ




フラクソンは1961年だったか、摂動はいいとして回帰を考えてしまう場合は超流動へのいざないだったか.摂動に関してフラクタル的意図であったように思う.これは完備の1形式を想起させて.




マイスナー効果・1933年--帰納はここでは成立しないという感触を得たが・・




因果律の証明はむずかしいところもあるが、独立に存在していることは否定できない.ただし人はそれを行使しているにもかかわらず無視することもできる点で、すったもんだが出てくる.




英語はSVであるが実際にSVではないかと漸く捉えた.説明というのとは方向が違うのではないか.後は関係分析がある.ちなみに子音で悩んだのは小学校5年生の時であるから、個人的基準からは小学校5年生から英語を始めてもよいのではないかと思うのである.




メラトニンで思いだす昔は、限りなく鮮やかなブルーのクロノスイメージ




ESで遠慮しなければよかったと思うことは、量子に関していくらなんでもまだはやいだろうと思って考えるのを止めてしまったこと(通底では進んでいたかな)と子音の連続を浮かべたときキツイので、別これは意味ないだろうと思ってやめたこと(その結果英語が苦手に・英語の成り立ちなど知る由なく)




基本的発想のほとんどは義務教育時代、それからx年も重要だが・・・




日本という国は釈迦にとって特筆すべき国なのか、特異点なのか.末法的状況なら縄文末期がそのようなはずで、もっとも仏教などはまだ存在していなかった.日本に宗教があるのなら縄文教がもっともふさわしいはず.在日諸外国人の違和感は縄文教とでもいうべき底流を取り込むことができないからだろう




昔、深淵に方向が別にあると浮かべた時きつかった.可換のインスタントンと非可換のインスタントンは異なると今--インスタントンの線形感覚が気になっていたが、不確定的インスタントンはおもしろい.




クォークが見えず、無限力がそれを示唆しているとすると、すでに小さな領域に無限が成立していることになる.クォークの無限遠は内部であるという仮定が..(無限力雰囲気想定で)




小学生の時から天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずが疑念で、告白を浮かべたのは中学生になってからだが、或る書物に教育を受けなければ・・とあるらしい.つまり教育や勉強をしない人もまま多くいるはずで、その書物はそのような人に対しては造ることになる.




インスタントンはディラックにでてくる.結局あの建物の2階の廊下でディラックをどうしようかで保留・避けた形は、今頃になって避けられないものとなっている.3次元のラプラシアンを考えていなかったような雲間草、k/4では彼女はまとまりすぎていたかも.




真理に関してはある女性がいてむしろ専門的存在とみて、真理発言をしても貰わないとだが、擁護して真理域思考をするのにも疲れて止めたことがある.この女性は自らの才能の自覚をそのときにはしていなかったが、潜在的には確証していたようである.今は?.




ハイデッガーの詩は、存在の真理に近づく考えや発言で、バタイユのように想像力を用いた神話象徴のものではないと、そんな考え方もあったのか、このところで非常に悩んでいる自ら徐に記述した・考えた詩的言明について、ハイデッガー風には問題のないことになる.




ミラー対称性?!、特性方程式にちょっとはヒントの要素があるかなと、がしかし違うな.カオスではなくて混沌方程式があれば、しかしながらブルバキなんぞがあって、方程式は整序力が強く.




深淵の双対--超準の無限小の双対はやはり想像しがたいというか、考えたくない何か抑制力が働いている.双対より表裏・補空間か鏡映か.鏡映より共役?




ペンローズによってまた煩わしくも深淵の双対などを考えてしまった.考え自体はおもしろいのだが.ペンローズのようにホワイトホールになってしまうことも考えるなやはり.それで相転移に無限がなんらかの形で関係しているのではとも思いつく.ありそうな話では?.




”完全な無限級数が考慮される極限においてのみ、時空は”突然に”曲がるのである.”--この辺から深淵の双対を思いつく.深淵の双対ならばなんらかのものが実在するかも知れないので.複素よりここは深淵に対してブラックホールをどうするかの方が浮かぶが、これも物理学者達がすでに考えている筈




まあ見えない6次元もその考え方自体は浮かべたが、その先の思考は止めてしまった若き日があるから、近年に見るヤンミルの図像は何か芸術的とも思ったことがある.




人文と自然科学がインスタントンで結びつきそうな考えが浮かんできた.社会科学がインスタントン化をしているのではとか(実際にはインスタントンはよくわからない、イメージで追っている.インスタントン的なある何かといったところで).




ただその思いつきを考えていた暗黒空間での差異の映像時はきつく、途中で思考を止めてしまったまま-が、インスタントンで思い出させるとは.(大体、強靭は柔軟対処はいいのだけれど、一定パターンの連続の閉鎖束縛はきつく、不愉快な有限障害意識がそこにあって)




パラメーターが極限0で可換になる--昔考えた4種の特性方程式について、関係ありそうな気もあるけれど、イメージが異なる.インスタントンは裏の建物の2階で思いついてしまった暗黒空間の一定値連続のイメージである.これは強靭のイメージとも似ている.それでおもしろくないと思った-




神の能力は自由自在で万能ということになっているのに、それぞれの宗教には戒律とかの制約があり、不自由の束縛があるのは神意識にずれがあるのではないか.神自体に多様性があるとしか設定できないことになる.宗教多様論が成立する.




『余裕の挫折で終止符が打たれた』と筆が滑ったことに関して例を述べれば、マルクスの資本論とハイデッガーの存在と時間が浮かんだ.これらは未完成にもかかわらず、今日「説得力を持って膾炙されている」ものである.前者は追記述があったらしいが.そんなつもりであったが、諸々ゆえに秘匿に・・・




ヘーゲルのようにシャルダン的にオメガ点を設定してはいないがしかし・・




なぜ阿弥陀でなければならないのか、日蓮も強制的なことを述べている.これは宗教という存在に絶対的力意識を持たせる本質的出来事のようである.心理学は魂をもてあそぶところがないかと若き日に思った事がある、それを宗教にあてはめると魂の自由を強制的に束縛してしまう・・・




超弦の進み方はまず遅いはずであると昔に、それは他者まかせであるのだがかなりの比重を意識してある.これNo.23に十分来ることに気がつく.




20:80で80の方が中間存在とすると、マルクスが世界を変えるという時の倣いから、20を中間存在として80を中間存在以外とすれば、確実に世界は変わる.がその方法と時間のかかり方は未定




ペンローズ図は形式的にネーターでそろえたのか、中身は対称的意味合いだけれど.特異点と別宇宙の関係が未定のキーポイントという想いである.




今となっては不必要な忍耐をしていたのだが、そのしがらみを自己自身で作って漸く外れた.何年かかったことだろう.覚悟が必要だったのだが、出来得ない心理感情があった(雑念といえば雑念であるが)




昔、史記狂の人物がいたな、全く変わった人物なのかスケールが大きいのか判然とはしなかった.なんらかの実績をそのごあげたみたいだが、史記があれだけ述べていても、それ以外にも多書あるのに現中国は他聞によれば、さほど昔と変わってはいなそうだ.人間は徐々にしか変化しないものと見える.




No.26に勇気のなさで、妥協した『像変遷』という言葉での認識、あまりにも当たり前過ぎてつまらないとは思ったが、その後どうしてもこの言葉が消えない.それだけ有効ということなんだけれど・・.編年体や紀伝体で未来の事象も記述されることは、しばらくの間確かなことである.




時間には、心理的・生理的・物理的がある、ゆえに身体も心理的か生理的か物理的かであるような特徴優位の人間が実在する.




抵抗権の担い手に公権力もなる・・とは、それ以前の市民的不服従は承認に値する原理に国家が依拠している場合のみとハーバーマス.--しかしアローの定理が成立するので、承認に値する原理は全体を被覆しない.さてそれならばとするとむずかしい.




悪魔は、人は呼吸しなければ生きていけないということを強調したとした表現と解釈してみると、そんなことは誰でも知っていることであり、誰でも同じことであるをことさら人々は日常において強調自覚を別にしていない.

”神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)”--聖書でもっとも重要なと思うこの”ご自身のかたちとして創造された”から、人の脳内現象は現宇宙の現象と似ているなと最近考え出している.




宇宙・・・地球上の類としての存在は単純明快に宇宙の摂理によって動いていると認識できる.もろもろの現象も・情況もその根拠を摂理に拠っているとしても間違いではないと現宇宙的には考えることができる.




”国家に奉仕するという方が通りがよい”そうだな、それで厄介な秩序維持者=共同体同調思考が幅を持っているわけだ.それらの人々にとっては権力・権威保持者になる形なので、優越感をまたそうでない人々に持てるからでもある.被対象者がいなければ無理やりにも作り出す傾向のあるところもあり...




意味を汲み取ろうとするが果てしなき徒労を齎すだけ




倒錯思考・でたらめ思考の主張などに同情する無意味すぎる6段階


個人・個体の生存を決定する・決定しているのは、思想の思想たる所以ということは、***の時からわかっている.たとえば人の考えを変える事はできないは、ここから演繹できる.




ともかく1972年・から2.3年も用意して・が転換点という考えの根拠がわからない.個人的にはそうだとすると有益になるが、早くその考え方を知れば徒労をせずに済んだものをという想いも当然ある.つい最近に知ったばかり・・・

南部の自発的対称性の破れには価値のあることがわかった.




300人でも多いのではないか?・は、システムから容易(?)に登場してくる




そもそも性悪はどこまでいっても性悪ではないのか、仏教の修行ならなんとかかもだが、ふつうに煩悩の塊はなかなかで、現存在は未完に終わるや中間存在は一生中間という中途半端にしかならないことが決定している・またその数が多く80%かも.ゆえに形式上修業終わりという○○が繁栄することになる?



ゲーデルの不完全性定理を離散4種・フラクタル化とか思いついた.若き日の特性方程式の4種は4次元や5次方程式解不可や3次元球面とかに結びつけることができると考え付き、全くあの寮の近くでよく(ごく自然にだが)浮かべたものだ.




ディラックや微分方程式を避けていた事が時間ロスを構築したことは否めない.ブラケット浮かべは権利十分ではないか.有限時間で爆発する方程式を最近知ったばかり、ナイスな事だ.




惰性群より極大イデアル意識なのだろうけれど、違うのである.アルファの色彩がそうさせていることはわかる.




俊才・俊才はどうでも・・遠い昔に考えたことがおぼろに有りて、何年かかって思いついたことか、ある大学に俊才ならなんとかでなくても合格することはできるはずであると.全く昔に処理していたことがわからず何十年も無意味・無駄な時を過ごしてしまうのである.惰性を要請するXX達の一人としての




αは共同的、Θは個体的、αはまず誰でも対処する筈で、、構想はしたけれどΘ専らしか考えていない.時代はαがΘに近づいてきているのは読みどおりだ.




ハイイメージ論の南島ものは少し頭脳に刺激域を齎すのでいいかなとは思ったが、実存的暗黒で頭痛き刺激がしているようで(文章の硬さ・固さが趣味に合わない)、その部位意識を消去しないと




境界域までに人間の歴史を辿るのならば、言語発生時期も通過するはずで、無論無言語時間も通過することになっている.経過に持っている言語発生時期を思い出せば、理性言語ではなくて未発達言語を人は用いることは可能である.遡れば沈黙は無言語時期ともいえるが、空間意識が入っていない考え方とも




ゆえに中間存在は絶対空間のユートピアンと思える.それは無限に対して抑圧を齎す.(有限身体がそのように考えている)-抑圧・あたかも有限身体は有限しか考えないのは当然であるかのように.




おっと気がついた、デイラックのδ分離はランダム・ウォークの消散象徴形式としてもよいのではないか.




逆というより乗っ取り的存在も多く、自我の妨害をしてくるものである.今まで乗っ取り的存在に気がつかず尊重して自我疎外を構築し過ぎてしまって、その修正を試みているがその傲岸な塊体により困難を来たしている.



 30
揺らぎ成分が斥力を透過的にして原点に戻るというニュートリノ的要素を考えることができるので、ある人物の言葉が退行以上をして発生起源点に戻るという考え方ができないわけでもなさそうだ.でも場を直ぐに考えてしまうな.あるいは時間経過を.




射影としての筒集合を中間存在に設定できる-拡大ができるとなると、実際にそうなればだが、内部存在として拡大意識はニュートン的心理を伺う.


「かってなく、また決してありえないもの」は埴谷雄高の不滅に対する哲学的意識・自己矜持なことは明らか過ぎる.




思いだすのは『余裕の挫折で終止符が打たれた』などと筆が滑ってしまったことである.別に挫折したわけでも終止したわけでもないのに、ちょっとした現状補足を付け足したもろもろの事柄が、非常に重要な意味合いを帯びてしまう・のはまたなぜなのか.




”大江健三郎--『死霊』は未定稿をふくむ九章で完結したのであり、この作品は「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」だ”これはいえる.ロマンス小説とも.”『死霊』を書きつぐ埴谷さんの力の終りを意味しても、『死霊』の終りを意味しない”という意見も賛同できる.




自由運動から自発的対称の破れで何処かで相転移が起きて有限になる-中間存在は相転移の結果?、で有限な中間存在に自由を与えようとするのは逆行になる?などと考えてしまう相転移.相転移に関して思いつくのはパーコレーション傾向、ただその細かさはペンローズのように小さいかも.-限子なる考え-




”たとえば粒子1が原点に固定されているような場合には,右辺の 2 倍の因子が現れない”--こんな文章が非常にヒントになる.揺動力は全く思いもしなかったというか、気がつかなかった.十分その視点意識は多面では持っていたのに.




他者の言明によって頭が麻痺するということは、調和・均衡の視点からは、他者が麻痺的存在であるということになる.




オルガネラのブラウン運動に対する重力の影響発生事象が存在すると・・でちょっと個体差が生じるとは直ぐに考えられて、心理的な判断からはなかなかとらえられなかった視点を得たことになる.




爆発方程式の時間や離散構造などを眺めていると、「芸術は爆発だ」といった人物の言明は当たっている.




fleshボディの不快さがある.強靭な粘性柔軟肉の不透明さは、邪悪でなければ未熟という未達明らかすぎるだろう.一般に無私は透明的




今、メルロ・ポンティの概要を眺めていると、メルロ・ポンティは小説家としてすばらしいという想いがしている.めずらしく数多き面白い意味ある文章内容の小説として.


幼き日に、Kの道の他家の畑の縁で、蓼食う虫も好き好きが浮かんだ時、感覚ではなくて知覚をどうするかも浮かんだ.この感覚的なもののリアルな意識を.若き日に知覚の現象学を読む時間がなくてはこのことに起因しているようだ.




”それは二つの存在の間において、「事物の言葉」として──すなわち「沈黙の声」の呼びかけとして──生まれてくるような超越的な意味である。”--沈黙の声の呼びかけか、システムの場は一応沈黙している.ただし動くと複雑すぎる.




ロシアαリトアニア侵攻でも明瞭な決断ができなかった、それに対して以上に個人的予知を思っていたからでもあるが、ソビエト変化は昔から考えていて、その後にその示唆意識は内的顕在化として個人的流血意識を持ったことは、不自然であることにさほどの意識を持たなかったことも、今では大失敗だった.




”街々の建築のかげで風は突然生理のようにおちていった”此の文章を目にしたとき、不快なおもいを感じたのは、生理のようにという表現で、そこには叙事的認識を感じたからに違いない.なんというか抒情感がない生理構造の持ち主としておもしろみがないと.




別の作家に何回か会って、そのときの話の中で、世界を狭くする言明を聞いて、その処理に長いことかかったが、ふと
昨日に<しらけた言明>ということで処理できた感がある.<しらけた言明>を受けているケースは他にも多くあるが、記憶の邪魔は複数ある.確かに<しらけ>で統一はできるが.




そういえばその面において若き日にそんな性格面もあることを思い出した.鋭さというのは切断をしてそれで終わりで延長がないのでおもしろくないと思ったのは、義務教育の日.その後に極点というものがあり、少なくともこの極点を理解・了解していたと考えられる作家に一度短分会ったことがある.


考えると宗教戦争は他宗教との殉教の戦いであった.流血が最も特徴なのは女性の生理構造であるのだが、理念から・ほぼ殉教的色彩を帯びた・戦いが始まることもあった.




常微分は複雑混沌を予期させるので敬遠して、非線形をとか若き日.非線形の方が困難なのは日常当たり前には思っていることになっているが、常微分の混沌複雑に際して、爆発を思い出してチェックしてみると、なんというか値が∞になるということではないか、半線形・準線形など・・


覇者型や叙事的人間・A期的は征服欲強いが、思考はどうも単純素直なところがある.これは男女にもいえる・つまり女性にもA期・G期以前しか認知できない・存在が数多くいるようである.単純素直さで足りないところはひねりや虚偽性が入ってくるが、ともかく直情的傾向は強い.




宗教戦争は言わずもがなで、戦争は宗教の流血特徴からくると、世界の宗教パワーから判断してみた.




「智に働けば角が立つ」は智を働かすのは20%で角を立てるのは80%という例の法則を考えてみた.情に棹さして流血自体を数多く構築し、意地を通せばは偽善の要求が強すぎると、(意地を通せないので窮屈である考え方もあるのだが)




中間存在のブラウン頭・映像はどうみても原点回帰するゆえに、いつまでも不自由な不快さを感じることという解釈になる.消散する頭は非自然科学的なイメージを持つと思えるが判然としないので・おそらくそうだろうと.(-苛立つXX種に対する考察-)




記憶からは減衰振動と消散が浮かぶ.縮小・縮減であるならばそうであるが、実際にそのように考えるらしい.位置エネルギー・ポテンシャルが消えるということと考えると、別に相転移的は領域カバーによるとなって・・(大体解けたかな・・)




アンナ・カレーニナの分析は、双対がまず浮かび、アンナカップルはランダム粒子で極大イデアルが登場する場面もあるらしい(読んだことはないが、有名すぎる「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」自体よくわからない.幸福とは一様であることになるが・・)


”三次元以上のブラウン運動の軌道は、 時間の経過とともに無限遠点に消散すること-1944年・角谷静夫”なんと1944年とは、相似はフラクタルを意図していたような.アンナカレーニナの幸福な家庭は・・を考えていた場所で、合同とか考えていた中学生、フラクタルは知らなかった.




摂理は人の場合鮮やかに快感を与えて制御している.




自由には責任があるから、宗教に責任があるまでいくことになる.


まあ限界外でなくても理解可能なものもあるが、時間短縮作用も十分なので、展開すると何十年も有効であるようにしたものが、No.xで示すところのもの.(有効であるか否かは毎日チェック中).タイトルを不明にしておいて、推理のミステリアス保存もたしなみとして展開中・およそ推測がつく場合も?


アドレッセンスといえば、べつにそうではない認識であるが、昔に『限界外で判断してくれ、そうすればそこにいる』と宣言していた筈が、内面で個人的に思っていただけのようであった.普通人は限界外で思考できないのだが・・さすれば理解できると.




私とは他人である-ランボー、私とはあたかも他人に思えるほどに私であるという解釈しかできない.私が死体になると実際には他人が死んだことになる事は全くありえないことである.




自由には責任がある--から、自由には自己責任があるとすると、権力的自由責任に犠牲があるわけではない.優越感にも自己責任がある・・



 
”ブラウン運動の非保存性は、(フーリエの熱方程式に従う)熱や確率過程が無限伝播速度をもつことと密接に関係します”--ヒント




グルーのパラドックスは超準解析が無限小をいっても、ペンローズがフラクタル素子を述べても、デデキントが切断をしても区別ができない思考対象をかって設定せざるを得ず、無限下降の哲学対象の存在となりて.




”規則は、われわれが受け入れたくない推理をもたらすとき、修正され、推理は、われわれが修正したくない規則を破るとき、拒絶される”--拒絶される・・前提にある、理解されない・その実践も困難は.


”小説家の幸田露伴は贄川宿から望む情景はスイスに似ていると「知々夫紀行」に記している”--多分にこの風景のところ、今まで行ったところではここと、京都・周山街道の小雨に煙る京北の道を振り返ったところの2箇所のみ、日本画の風景が実際にあるなと想ったところなのである.




しかし内的時空などと考えて『保管場所』を意図すると物理主義的になってつまらなくなるものである.安易な気分になる事は確かだが、深淵の快楽はなくなる...




エントロピーという概念は一様だけれど、エントロピーの内容は一様ではない.一様に変化はしない.




心的現象論序説の覚醒時の領域⊃入眠時の領域⊃夢形像の領域という同心円図を考えて(個別考察は目にしていない中で)、夢を覚えている場合はこれら3種が一点域に集まっているとすると、同心円構造からはずれる.ABC予想のように同心円を動ける第4の構造を直感しているが.それは段階より構造的




内的時空なるアイデアが浮かんだ.No.23あたりに使える.人が持っている歴史が保管されている場所を客観的に表現した場合であるから、心理的な懊悩はあまり気にしなくてすむ.




宗教の特徴は瞑想と流血と殉教だから、これを宗教に限らず現実の事象に全く適用して差し支えない.また現実はこれらの組み合わせになることもまた多いのである.




昔、坂道を登りながらかく考えた、殉教-わからない・確信を得ない.(信仰に殉じて死去することとあるが)、生きているので実際には体感出来得ないということだったのか..生前に対する・生きている当人に対する殉教意識は・・そうか戒律ということなのか・・はともかく信仰=生存のように設定すると




中間存在は不快といいつつ、身体の生存には中庸・バランスが必要で、ただ芸術的観点からは中間存在は否というしかない.芸術は役に立たないというのは非芸術的数があまりにも多くいるからではないか.とにかく日常には芸術はあまりでてこない、芸術的といえる技術・才能がそう多くいるとは思えない




システムネットワークで3次元+1を設定してみると思いついたらこれを思いだした--『見えない目よ粗い目よ-No.10より』


はっと気がついた、脊髄反射は行動以外には考えられないではないか、行動主義の文字を最初にみたときに苦笑の愚劣さを感じたのは・・




縄文中期のみならず、ネアンデルタール・デニソワ人以前の原人も弁証法を用いていたことは確かだろう.

2015-06-14

my ft 2013

無限時間の次に無限時間が来るという周期や、無限空間の横に無限空間のつながり続きがあると、現代集合論を援用して考えることができるが、それでも納得できない2番目の思考限界直面概念.

『奇妙な保管場所』は歴史を含むとして、歴史領域と保管場所には距離があり、この距離に無機的存在を考慮してもいいかなとは思う.歴史自体に無機は考慮しづらい.ともかくこの保管場所は誰でも持っている筈で、ゆえに普遍的意味で<わたしたちは>奇妙な保管場所を持っているといえる

現象でみる宇宙にには無機変化をしている星々が実在しているだけで、現在見れるどこに過去があるのかと考えた時に、『奇妙な保管場所』を設定した.奇妙はあえてそのような表現を用いている.もちろん設定から・保管場所・は、歴史を含んでいるものとした.(単純に歴史全てをとしたんだけれど)・・

世界外存在から世界内存在へ橋渡しをすると預言者とか神秘事象なるものが発生する理屈と考えてみる.

哲学以前に非芸術はある.普通にはほとんど非芸術生活空間である.

思想の思想たる所以を考え付いたのは中学生の時、あのお気に入りの柿の木の近くで、人はパンのみに生きるにあらずと共に、脳捻転を食らった.根拠理由をよく覚えていないが、ゆえにスラッファのスラング表現に対しての心情位置は理解できるという思いもあって、哲学探究を読まず・・

精神年齢が低い分将来性があるように見えるだけで大いなる錯覚であるだろう.実際はちっとも精神年齢が進歩していないようにみえ、叙情に関しては叙事的に退行を強要するばかりである日常を感じていいるただし.叙情的存在は意図すれば叙事的位相は持てるが、叙事的存在は叙情位相を意図しても持てない

対称性の破れも使える.南部陽一郎か・・26次元を最初に知った時、そんなばかな荒唐無稽と思い流したが記憶には残っている.6次元ならなんとかありそうだった.

科学に哲学がある状態はちょっと考えがたい.そうなるとNo.23に対してどうすべきかとなる.こうなると科学哲学一般全てはここにくることにしないといけなくなる.またそれだけでもなんとかなりそうではある.

「奇妙な保管場所」とまずは設定してあることも確か、意識問題に対して人々が何を考えているかは参考になる.

No.22は「世界があるというのは神秘である」というNo.17のモデルでもよい.世界内存在では、世界はまだ神秘に見えないだろうと推測して.

で無機の時間領域記憶があるはずという帰結から、夢の段階にもなんとやらつなぎができそうで、No.16もこれを用いてけりをつけて終了、No.21もこの領域を導入すれば他者には説得できると考えれるのでパス、No.22はべつの路線から

”太宰の「人間失格」について「この上なく卑劣な根性を持って生まれながら、自分を弱き美しきかなしい純粋な魂の持ち主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の救いの作品」とのこと”--岸田秀だそうだが全く明瞭になるほどと思えるかな.

純粋空間・No.26

悲観的帰納法に対する構造実在論に対しては、多少考え方が似ている所がある.システムのある位置付けをそのように設定している.-実在は諸々の思考タイプを援用して説得できればよいが、近似でもとして.

場の空気が爆発に作用してしまったものを重力の可能性の一つとして見る

ニュートン幾何学と量子力学に加えて、どうもユークリッド幾何学人間がいるような想いが湧いていて、ユークリッド的からソリッドステートを思いついた感じがある.少なくともニュートンは微分を知っていた.

中学校の自転車通学の帰り道、固定-気合、曲がり角を曲がってスタンダードを浮かべた.S県のA市のわからずの点は、この思い出から、ソリッドステートのイメージが合うことに了解を得た.あたっているだろう、なんのことはなく普通に人々の日常意識ではないか、なぜかわからなかった何十年..

フッサールのエポケー対して短絡してくる前存在は見方によって、単に絶望空間(ハイデッガーに対する個人的ひそみより)になるが混沌という物理空間にタッチして、なんのことはない場になる.絶望空間に哲学からタッチすれば、パスカルの実存でもよいのである.

或るとき別にそう意識したわけではないが、詩的な現実指針をおもむろに記述したことがあって、それが支配的な戦術的なものに無意識になっているような・・.特に伝統の圧力を想定した結果、日常を古典と持ち上げはいろいろ不都合を齎しているようで、しばし停止としてみる.

リアル限定で現宇宙設定とすると、超現宇宙は神的位相になってしまう.(虚宇宙などは認識限界・思考限界だろう)

多く、ほとんどの女性はこの思考形式を無視する・したがる.それは無意味である。やり直しを要請するが、単なる繰り返しにすぎないので、そんな徒労をしないで済む女性はいない・・.そんな内容のものである.

{No.04いずれにしても、かくして人はこのように決定をしていることはまちがいないはずである}

一応、類として継続しているにもかかわらず、個として存続していない理由として、自転公転陽転等周期を考えてみた.体内10ヶ月と人生80-100年あたりの数値を、周期からなんらかの形で引っ張ってこれないか?.

x>0、y>0 の第一象限のコルニュの収束像を、現宇宙に当てはめて、無限宇宙内部の収束点に近い位置に実在しているという考えが閃いた、No.23にこれは載せても十分であるな..

ラカトシュの具体的数学例・コーシー列などがあるが、それに起こされてのべるならば、単純直感初期イメージでは、コルニュの螺旋を俎上に置いている形である.理由はなく直感からである(No.23)

直感の段階であるが、S領域保持体は科学的ではなく形式的存在に向かう・そのような実在である・・

反証可能性自体の繰り返しでより妥当な科学理論になる-色んな考え方を寄せ集めての妥当性とは直交しているかな.およそ後者で気楽に考えていた池のほとり..そのように設定もしているか.(No.10)

古代のリッチフローから、複雑さを説明できそうだが、不快な封建制という言葉は旧のイメージ・腐敗色感と厳しきタイトとを想起させて-しかし心理複雑さ上には物理的に存在させることができるので、致仕方ない.イメージができるということであるから.硬直集中すると不快さを覚えることになるか

"An affine space is a vector space that's forgotten its origin"はランダム化表現を示している=アフィン空間.実際にこれがアフィン空間・擬似空間の実像だろう、がアフィン空間の虚像であるのがマイ論理.

{地球の最期は干からびて粉々に砕け散ってしまう}という幻影をすでに昔に視ている.火山活動活発な地球はまだまだその時期に達しないのは明らかである.

アカウントに含めた意味合いは、諸外国にかなり同様な考えを持っている存在がいることを最近知った.間違いないだろうと共に個性がなくなることも両立する.ネットワーク参加という手もあるが、いままで個人的なものとしていたので気楽になってしまう.だが視えるかどうか疑念があるので多少存在理由有


携挙(Rapture)-— テサロニケの信徒への手紙一 4:16-17、など多少種類のある説があり、それが日常的な信仰形態になっていることとは.
エルゴード・H定理.エルゴード仮説に中間過程を考慮しないといけない・・

仏教の三千大世界のサイクル宇宙観は知らなかった.ならば弥勒が56億7千万年後に現れても不思議ではない劫の時間感覚.末法の世は暗黒へ突き進みまた新たな世が生成するということだった.末法の先はどうなっているのかわからなかったが、サイクルとは得意の輪廻にも似て.

その存在を知ってはいたが、内容を知るにしたがい、考え方が似ていたヨハネの黙示録・特に最後の審判にはよくわかる.但し、キリスト教という考えは全く意図せずのころの話で、アポロンとディオニソスのパターンを浮かべた時の隣家の庭先を歩いていたとき..

スピノザの決定論は、死海文書・エネッセ派の神のプログラムと同じではないか、やや信じがたいが、スピノザはエネッセ派を知らなかったようである.

歴史をそこまで考えると、No.21も可能となるのだが、これは未来志向している成立なので、プルラルには障害を惹起した事があった災いの意地が未だに妨害となっている.

脊髄反射や脊髄反射思考はNo.14の方にかかるかな.

No.16に関しては有機の歴史の上に、無機の歴史を押えてならば、こちらの方がふさわしい.それは解答できていたことだった.

この1ヵ月半の悩みは、唯物論の壁であるな、無機物の壁を越えているものは昔から神として幻想されているゆえに悩むことになる.ほんとにバベルの塔の物語は良く人の心理を見ているものだ.深い、深くなければ宗教的権力の圧力・権威保持のための威嚇で強制化である.

関係の絶対性は唯物論優位ということで、唯物論者(生命が原生的疎外であるということから)にとっては得意な点であるようである.物質的な心理が優越感や得意な気分を味わうのはなぜなのか?.

睥睨型は陰謀も得意で偽善もなんのそのの無責任も得意であるから、カエルの面になんとやらで、痛痒はなしと.それが当然の一生ものなので、倫理は浮かばないことになる.経済に道徳はないという人々はこの範疇に立場をとっている.結構苦手な存在者達で邪魔・妨害・苛立ちをもつような一群.

睥睨型というのは道徳・倫理は欠如していることが伺われるので、道徳・倫理観を無知化、挙げくのはては知力も無知化しようとする.睥睨が倫理を持った方がいいはずなんだけれど、駱駝が針の穴を通るほどに困難な人材とみれる.無駄・相変わらずそんな素質者達が生まれてくる.PCの強制力は皮肉.

知能指数は機能指数か処理指数とでもいうべきもので、機能や処理ができなくなると、無視するか理不尽すぎる行為をなすようなものであることを示すものと考える.ここには感覚指数・リビドーは入ってはこないようなもの・リビドーでは知能は測れない、ゆえにいかなるXXもそれゆえか尊存するかな.

実存の不安・実存的な不安も量子的要素の内と思い至る.創発が不安に転化しているような場合を考えて.

一ヶ月半過ぎる.混沌としてきた.マタイのユダは実在人間をモデルにしているはずで、最後の審判時にキリストの復活というようには、ユダは復活しないはずである.キリストは超人間的存在設定になっているな.

ありえない空想想像かもしくは以前の時間を設定したか、これでは中間的にならざるを得ない.

現実化すると模倣になってしまう.結局ユダ的なものは内部でしかなくなる.

先人の考えを尊重してなどというより自己判断をしないと、そうした方がよいケース、前例社会に即さない時という考えが浮かぶことになる.(自分の直感を信じるときは、伝統経験を実際にはパスしていると思うが、現実には前例を意図していない形をとる)

ヨハネの黙示録と最後の審判とノストラダムスが関連している61、なんかすでに先人がいたのかおもしろくないという気分があるが、依存もしくは利用することは可能であるんだ.

若いときは弾力という言葉はなんというか当たり前すぎる言葉過ぎて過剰意識であったが、今では弾力は必要な気分である.そんなこうやらで、塑性的存在・塑性体の実在をついに設定した.

Last JudgmentにおいてThe Book of Lifeは考えられないが、すでにパスしているかも.最後の審判に似ていることを知った・気づいた「61」.

夢の3次元領域構造の認識中ということから、マトリョーシカ・MのABC予想解析論が良く似ていると思う.

初期詩篇以後、第二も可能だとおもいつつ結局無理だ.焼失したのは全く失敗・まずかったと今にして思っている.色々と時間を経て見渡すと、非常にユニークな文面で類がいないのに・・・.あのころは秘密にしようという意識もあった(模倣を警戒した?、いや抵抗を考えすぎた)..

宇宙は塵でそのひとつの塵にも宇宙があるという仏教的考えは、同心的フラクタルで、無限背進・無限前進もそれぞれ塵になる或はその逆もあり、それぞれの無限のなかの無限単位に愛とか無限とか個人とかなんでも考えることはできるものがまた無限にあるということになり・・繰り返しが永遠に続くと

精神的優位人間が極限持続をすると身体に異変が生じ、身体優位人間が極限持続をすると精神に異常を来たすと判断できる.するとヘルダーリンやネルヴァルは身体的存在だったことになる.

{一つ目小僧と自然とのS・・シーン}-たまたま、たまたまだけれど、台風が襲来したので、つい例外的に取り入れてしまった夏の第二楽章.固有名詞や事象はほとんど使わない設定のもとで・・・

コホモロジーはホモロジーの双対ということなんだけれど、とりあえずミンコフスキー空間で考えておく.

思考上の二十歳の考えていたシステムが不可能な筈と思っていたのにできてしまったことは虚無しか味わえない・虚無すら意味がないか..

現実世界が消えてしまうこと・世界があるのは不思議なこと・まさかのα&ωの認識で、ショックが20日ばかり続いている.

あれかそれかこれかやetwas und etwas

YZのABC予想か、やはりマトリョーシカを考える.

領域理論は半順序集合であるという基本があった.フッサールのエポケーを行うことには賛成ではない、ただし物事の本質をつかむことはそれをしなければならないと考えるものである.

全ての粒子がボーズ凝縮するわけではない--応用がきかなかったというより、まさかであった.けれど直感が今は示している.まさかと想うことは結構現実になってしまう.

現存在分析とあるがままの禅、明るい現象学ではなくて、直ぐに直前に行ってしまう実存の典型要素と世親の比較、ハイデッガーの原存在とパラダイムや脱構築の関係は入れ子のようで、・・・などなど大体進展が直ぐに可能ではないような対象直面が続いている

-宇宙が誕生してから重力が生まれるまでの時間-重力は横滑りと考えると、ペレルマンの葉巻のようになるか・・

”第一原理分子動力学法で扱える時間は、最大でも数ピコから数十ピコ秒程度の分子動力学しか扱えない。実時間での1秒間を実際に計算の上で再現させることは現実問題として不可能に近い。”--ということからいろんな方策が考えられているにせよまだまだであって、分子生物にもこの辺が寄与しているか

深底は深淵であっても良いが、中学生の時には底を設定したく考えていた、これには小学生の時の深淵を考えるのは止めておくという歯止めがきいていたようで、それをすっかり忘れていた.実際に深淵を動くのは気分よかった中学生の時をも底設定思考時には忘れていた.

ペレルマンにとって葉巻はないのだが、本当にないのかという想いを持っている.

創造主は一応ロートレアモンから用いているが、ホワイトヘッドの包括的な時間外存在のような少しの気分は持っていたが、大体は言葉上の修辞的面として設定、ただし救世主は現実的側面を持っている・・

△はラプラス作用素と呼ぶとは気にしなかった.そうなるとアイネ・クライネでいいことでもあった.

件の始めてあった卒業したての女性はなぜ単純な返答により無理解をしたのだろう.理解してもらわないと困るのに、魅力ありすぎる対象ではあるが、対象にならないことになる、ところが不在となった後日に・今でも思い出せば18歳の時には一緒だった.{超心理の対象のため}

{前提}として保留した対象が、分析的形而上学となっていた事を知った.そうなる現象学が現前以前とするものをホワイトヘッドの場所としてもいいかな、こころの哲学や沈黙の場所を、小学生は{奇妙な保管場所}と考えた.

某女子大卒業したての或る存在が、名簿上常に何でも一番最初にやるので、No.1はいやといった、あまりにもくだらなすぎるこじつけで、共同上No.1であることは望むべきことは当然なのに、こんな単純な考え方をするとはあきれすぎてしまったことを良く覚えている.一応優秀であるべき存在なのに

そうして俗や庶という文字も好まなかったのであるが、長じて逆にこの2個の文字にとりつかれることになる.現実は想い・意図と逆になる.個人的には無駄に次ぐ無駄をしている気分・心持である.

その結果、中学生の時には思想の思想たる所以も考え付いた.それはそれしか存在しようのない生き方のことであるが、あくまで思弁的としている.なにしろ、現実は義務教育中の実在であったから.

色々考えた結果、芸術的存在者のための金銭哲学を大雑把に提起してみた、まだ脳内に留めて置いている.証左をある程度検証したいため、もっとも安易なので他の誰か考え付いているには違いないとも思う.いずれにしても示唆まで.

結局、そんな問題(規則のパラドックスとか)は「記念碑」にある類続に置き換わってしまう<前提>で表現してある.(但し、不明である留保を持った妥協である).未だにこの問題は解けてはいない.ヴィトゲンシュタインも良くわかっていて解答はしていない筈.クリプキの神にも無理はH定理に繋がる

クリプキのパラドックス-人はいかに統合失調症になるかと、ヴィトゲンシュタインのパラドックス及び哲学探究-人はいかに統合失調症を回避するか**ということを考えてみた段階である.(これはいわゆる留保)

フラクタル多様数が無限でそのフラクタル化も無限化であるとすると、複雑が解けることになるというアイデア.

なしくずしはなぜかレリスの印象が強いけれど

無限遠の構造は自然に任すとしているのに、紀伊国屋で内部の声がそれではいけないと出現する.きつい.ところがヒグソン・コロナなるものがあって・・・を見ていた.意識をすればダイナミックに領域空間が広がる・そしてそれはきりがなく、後は身体のスタミナのみに依存すると思ったのはハイティーン.

秩序に依存して自由を放棄する代わりに安心感を得ている--秩序まで行くとあとは乱れしかなくなるか、エントロピー依存で止まる.

考えている位相存在論は、ABC予想を解いたという過程の概略を思いだすので、何らかの相似点があるかも

覇者がいるとする-世界を征服したとして、残るのは一人・自己の征服であるということになる.--ということを時間を経ずにまず思考できる.現実現象の制約が非常にあるのでなかなかそのようには考えないだろう・或はその考えに至らないのかも.自分との戦いの人物はわかっているのではないか.

事実は小説よりも奇なり--5次方程式現象が現実に出現する-という解釈をしてみた.

どうやら記憶に残っている他者達の言明は、「でたらめ」という言葉で掌握できそうだ.ところが不条理という言葉を持ってくると正当性を帯びてくるから始末に悪い.不条理より無知であるゆえの、将来非無知になる予定に対する甘えというものに近いが、しつこい束縛でしかない迷惑というものになる.

「旅立ちの日に」は出来てから20年以上、敷衍しているのは奇跡的と思えて、そんな展開になるとはとの若干の思いもある.

濃度の無限を想定しなければならないのか、柔らかみは明らか.

問題点にレジスタウィンドウという存在” プログラムが実行時にどう動くかをよく理解することは困難である。 開発者が実際に開発中に、自分が書いているコードがどれだけレジスタを使ったらよいか、どれだけをプログラムの他の部分のために残しておいたらよいかを決めるのは容易ではない。”

ブライトマンのtime to say ・・・的な面もある事態で、ところが対象とは齟齬があるようでもあり(No.x強調ゆえか).「 埴谷雄高はねえ」とは欲望感の違和感の感じの発言である思いである.他にも理由はYHあるいはHY間である・あったのだろうけれど.

埴谷雄高の「かってなくまたけしてありえないもの」それに移行する心性を持つ羽目になって、Yの埴谷雄高はねえという言明を思い出し、自己心性がYと同相情態かもと不快になる.というより今頃にそんな追体験情態を行う事態になってもまずいのだが、

ウィルスは自己の境界に人間が立ち入ってくると境界で撃退するのだったか、ともかく宿主がなくならないようにまではエボラなど流行することは間違いない.で救済すべき対象を救済してしまうと、自己活動が出来なくなる政治的所為に対して、ウィルスの活動に良く似ている.

ほぼ大失敗の待ち時間という想いがしている.出発点といって取り消した後から何年も過ぎ、出発は可能・自由な時間なのであるが、もはや根拠が薄くなってきた心脳.すでに出発していてよい、若しくは出発している筈である.希薄な意識情態でとらえようがない・・

θの内容もまず簡易に理解できる箇所は多くあり...

最近になって、ある項目に対しての反省点を見つけた.思考がそのように平板になり、なぜそのように単純に存在的に考えてしまったのか、やや常にぶつぶつと湧き上がり情態はあったが、その反面で戦争発生論が閃き、まず良識的に理解できる.他人が考えると異なった意見もあるかも知れないが.

ビッグクランチの振動宇宙論のその回数・∞としても納得が出来ない点が問題.まあビッグクランチ論ではある.ビッグクランチ・振動宇宙が無限大数でビッグフリーズに転化するというとそうであるような気もする.

20歳の別れ・21歳の・22歳の・23歳の・24歳の別れと**とかをハイライトにして時間がそのあたりで、凡庸になるゆえに.

ケルゼンは小学生の時、ゆえに小学生でも****とか.いろんな人材の束縛圧力で記憶が、支離滅裂というか薄れかかっている主体疎外感覚.ケルゼンの名は後に知ったが純粋としての判断志向に間違いはない

”高速で回転する円盤上ではローレンツ収縮により物体の長さが縮む” この文章を読んではっとした.あの時はもう知覚で追いつけない速度イメージになってしまい、そのまま放置せざるを得なかった.まさかローレンツ変換登場とは今まで考えもせず.射影では円盤状で、かならずしも円盤ではなかったが.

カミュが何か言っているがけれど、宗教は不条理を克服した形となっているが、その宗教自体が不条理を持っているので克服してはいない.カミュは克服した形と形式的に判断したのだろうか.

普通に曖昧にして、現状維持無限変革としたが、現状維持有限変革であってもなんら差し支えない.人間を越えた超人間的存在の出現を否定しはしないマイ論理

退行がいやだいやだと思っているところに、堂々と退行の憂き目に.この皮肉さはなんなのか未だにわからず、個人の固有性か家系の伝統か、他者達の圧力か共同の圧迫感か、良心の忍耐力を発揮した記憶はある、それは無駄に意味なきことであると今では思っている.ある女子学生の固有対象としたときだった

全く困ったことにある衝動を3年前に内的に発語してたので、対象が自分になることがちょっと不快すぎるのである.内的過去の情態と分離して時間差がありながら、事態は全く一致している点もまた不快なのである-ずらしをすべきか.時間差によって自己対象になってしまうことが除去できない不快となって

思うにまだまだこれだけ明晰要素のなかの現実なれば、ミス定義をおもうところである.あの時は、非線形に関して自信がなくなるので、阿呆な自分と自己当てはめをした・・・

いややはり開弦・閉弦をかんがえると、そのまま

付和雷同の意味を見るとヘーゲル的悟性存在を考えるな.また依存的存在もなんとなく・この辺は先人が色々考察しているので、煩わしさゆえにあまり考えたくないが、そうもいくまい.依存といえば宗教の信者も依存者である.客観的には依存主義者とも言える.-他力本願に繋がっていく.

しかし良く観察してみると叙事的XXの多いこと、これでは思考は単純になり、愛情も出来ずに、母性なんかない・母性って何とか言う存在がいるわけだ.叙事的存在には愛情がわからないので母性がわからないと推察できる.恋することは出来る・・.

累進課税の最高税率を挙げれば金は回る.そうするとやる気がなくなるという人がいるが、最高税率付近の当てはまるひとは、全体の20%であるはずという経験法則があるのだが.つまり上げようと上げまいと20%法則が成立していると、偏るのはこの経験法則に無意識にか支配されている・・

しかし物事は意図と反対になる.どうも意図を奪い取って他人がそれをしてしまい、挙句の果てには、意図構築の当人・本人にその奪い取った意図を向ける・・トートロジーの不快さ、意味なき不毛のナンセンスは苦痛以外のなにものでもない.そうするとこんな存在は意味なき存在なのではないかという考えに

大体ユダというのは自殺したとものの書に記されている.たとえば偽ユダでしかありえない存在ならば自殺未遂などというものは相応しくないか、そんなセオリー通りの作家がいたらしい...

政治家の要件とは、その人物の仕事に対して、後世の人間たちが如何に判断するかではなくて、後世の人間達に如何に有用な結果を残そうとしているか・であると考えたことがあり、ほぼ理想的なので現実にはという思いもあるが・・

個人を決定するののは思想の思想たる所以であることはわかっているが、個人が自由であるほどには社会は自由ではない.それゆえにレットイットビーという曲は不愉快である.

まだないを今にリアルとして捉えることでは無かったのに、このことがこの単なる付則文が結構寄与したかも、排除しておいて..

ついにヒルベルトに関して、懸念を除去したと思った.多分に間違いないだろう.C*環・・・ノイマン環もパスした(理由は速やかに忘却)と思った.こんなことを気がつくのに非常にエネルギーを用いた感が強い.

No.16と脊髄反射は関係ありそうなことになりそう.オパーリンとパブロフ考慮となるのか.最も印象なのはベートーベンNo.5のどこかにあらわれるスラー現象部位.

プレイスにはその量子物質から無機質領域も持っているとする.

クザーヌス・神の視点にならば、中世の時点でシャルダンのような考え方ではないか

若き二十歳のころ、考えること考えること考えてしまうことと勢いで想った人物を知っている.どうも未だに考えてはいるようだ.

中間存在・あたかも浮遊している存在のようで、足の無い幽霊のようでもある.そんなことを考えていると、本質的に中間存在はサスペンスから逃れられない.すなわち安心は中間存在をやめないと得られない事になる.

91年94年96年の計算で22・19・17の値となる.

ビッグリップやビッグクランチや熱的死は未来の出来事ではなく、すでに過去にあったことという発想をしてみた.しかも無限回すでにあったということを述べても間違いとは言えないという点が、悩ましい哲学の初期論理からの壁.

無限小と見ると見かけ上は成立する.「神は自身の形に従って人を創造した」を思いだす.こんな発想があったのだった.

”グラスマン多様体がドメインウォールを含んでいる・ウォールを近づけると衝突やすり抜けもあり、ソリトンの複合が互いに関係している”のなら、この意識知性の説明外の複雑混沌ダイナミズム漆黒場のメロディをソリトンという嫌いな言葉で、その程度には説明できるかも.

非公式固有存在が公式をやらねばならない社会的構図

厳密に解けない場合は近似解で、所作を収める.ナビエストークスの方程式がまず流線型に対して浮かぶ、当然、ポアンカレの挑戦も記憶に置かねばか.

あの夏の部屋で捩れの位置を二面透明ガラスの部屋で思い描いた思い出、ムサビのお嬢様は箒を買って帰ってしまった..

数学基礎論でパスしてしまうにはもったいない複雑内容である.基礎論自体の韜晦は哲学的には良くわかっている.わかってはいるが解答はもっていない.最近強引な想像力・演繹力によって想定値を出した感がある.ハイデッガーの暗部束縛に対して仮想・架空もいいところのそれである.

情況を決定するのは関係の絶対性(いまだによくわからん)かもしれないが、人生を決定するのは思想の思想たる所以である.存在していることに対する固有の倫理が人それぞれに同じとは言いがたい.使命感やわが心石に非ずはその辺のことを表現している.存在理由とは思想の思想たる所以を了解すること

未来の私は亡霊のような透明存在だがそこに確かにいる-まさかのそんな認識瞬間を思い出した.これから先の時間に再現は困難な思いをしているかっての記憶.

convergence&divergence・収斂-発散で湧き出しをどうするかといったところで、コホモロジーを思いついた.ツイストは回転となる.

事象自体の意味からホーリートライアングル関連で、ノストラダムスの予言に日の国から現れるがあるらしい.ちょっと覚えが..

漸近的自由ポテンシャル.ホモロ・コホモロジー

ハプロDはどうなるかに対して、今日一応D型は貴重なものであるということに傾いた.理由は単にO型より数が少ないという経済観点からである.宝石は貴重ゆえに・・.

まさかの量子非局所性--多分に無機的自然

超高層マンションとは、空間土地発生を全くあの頃思いつかなかった.今日、思いついて全くの盲点となっていた時間・・.

ディミトリス・スグロスだ.ようやく再度その名を記憶した.ピアノはつまらないといってコンピューターに転向した人物、その後が良くわからない.ラフマニノフの交響曲第3番のなんとも表現しがたい繰り返しフレーズ・モチーフが印象で.

93ex

my ft 06142015

或る多数のもの与件を素早く分類しているときに、机の上にあった内容が似ている書物をどちらに分類するかで非常に悩んだことがある、瞬間的判断ができないと.グルーのパラドックス(grue paradox)は若干似ている.分別を保留という手を使わないときにだ.

昔、近所の家の鶏の小屋の前で、鶏冠のいろは赤く、赤というイメージは他にもある、考える赤という色と実際にある赤をどのように識別するかと悩んだことがある.分析哲学よりクオリア感覚か、これは心理学的に思えるが.その後知覚がまず直接的で・・その時に蓼食う虫も好き好きを浮かべて意味が?

ダルマの内部とTQFTやモチーフなどは同位相を持つだろう、マイシステムも中身は異なるが同じようなもの(最近は変名を用いた小説または散文で表現化の可能性を薄く浮かべている、それよりまず未完の項目をどうするかを楽しんで苦慮しているが)、そもそもダルマが現実・現世界から解釈したものだ.

超自然も対象XXの差異によって変化したのかも.

色即是空空即是色・・・世親だったか・・無--そうして無すらないということは、埴谷の前提・大雄と釈迦の対話は成立するのか

埴谷雄高の大雄がそこにいないのだからから、なぜ埴谷はニュートリノに執着・楽しみを覚えたのかわかるが、今ではニュートリノは質量を持っていると、むしろ光自体が質量ゼロであるという視点と埴谷の意図目的とは違っているな、質量の問題ではなさそうだ.ならば反物質作用若しくは無物質ということに

昨日の曇り空に二箇所の開いたところから光線が雲と少しの差異を持って影上に見えた.ポロックの深淵の明るい逆パターンを連想した.自然の情景にもそんな芸術的瞬間があるものである.

シェリングは確かあの女子*の時に直感で全体的に、オーラ哲学者と思ったことは採用している.
戯れは戯れで直ぐに消えてゆく意識現象と設定しているのに、対象たちはリアル充実的に束縛・拘束・抑圧的反応を行使してくる点で、思考障害を非常に感じる・しつこく偏執的事態を招くことになるからである.それはまた無駄な・無意味なナンセンスでもある点の認識を設定者に出来得ないようなのである.

イド・無意識・深層心理・自我などのタームから萌芽構造様などを設定して接続を何とか想思できるようになったような・・・

あの時、ある女性に作家になるというより詩人になる(或は、(蛇足で無名中の・未だにそう・・)作家である・詩人であると)といえばよかったかなとは何回も思い浮かべた.含意していると今認識した.思えば彼女は18歳の四月のあの一様性に浮かんだ女性だったのである.

尾状核-”脳の学習と記憶システムの重要な部分を占めていると考えられている。”---『間脳の両耳の**』No.*より---間脳など聞いた事もなかった筈のあの頃、自働記述で想起したこの文面は今、記憶関係とほぼ納得である.

ガブリエーレ・ヴェネツィアーノ、1968年

2013.03.05 オービフォールド初出ツイート

人は先天的存在であるばかりでなく、後天的存在でもある.ゆえに先天的存在顕著な人物はあたかも幽霊のような(後天的実在感が薄く・・)という思いも浮かぶ.

ここは君のためにあるが今は認めることはできない、他人は誰も来ない、やがてうごけなくなってきたので問う、まだだめなのか、君が自覚することで、君の自覚を他人がするわけではない、--カフカの掟の門風に自覚の促しが有効にならないと無知の時間を引っ張るだけ

量子もつれ的思考に関しての思い出がある、今では表現を知っているポランニーの創発と知行合一的な陽明学的な対象と外から見る自己の世界を同時時間に考えていたので、これらは結びつくかも.

GW不変量は明瞭過ぎるように使えそうでもある.1

いずれにしても思念の限界には達していることは間違いなく、ポテンシャルの情熱でなんとかなるレベルではないとは自己自覚である.16-17・21はいいとして22-28まで未完で、最近はいくらか挑戦の気分が湧出してきている.

マイシステムを構築・考えていた時には、いったいこれをどのように考えたらよいのかと壁を持っていた.今ふとすでに解決していたんだと妥協点を浮かべることがシステムに関してはできる.どうも自らに対して一歩下がって見てしまうので、多大な無駄なエネルギーを消費してしまう傾向があるな.
ここにいたって、パンのみに生きるにあらずを軽視しないでよそうかとおもうようになり..身体がなければこの心理・意識・精神もないのだけれど

TLPの原子命題は意味がないと思ったのは、あればモナドやエンティティの要素主義で説明できてしまうから、これで昔に行き詰っている.ペンローズも同じだ.ただし、超弦理論には妥協中.ゆえにTLPで意味があるのは、世界がある神秘や途方にくれている形とかである.

「文明は衝動の抑圧の上にのみ成り立つ」-フロイト、マルクーゼは労働と遊びが一致すると述べている.ハーバーマスは道具的理性や機能主義的理性とは異なったコミニュケーション的理性を用いるとしている.---『人間は性意識を理性に昇華できるゆえに人間である.No.29』

”われわれが理論を形成するに際しては、われわれの想像力をかきたてるありとあらゆるものが、動機となり、源泉となり得るのである。経験的事実のみならず、過去の理論、伝統、形而上学、神話、・・・そして誤解までもが源泉となり得たことは、科学史の教える事実ではないか。”ポパーのこれは使える

1946年度になってもWittgensteinは”哲学の問いを一般的なかたちでしめすとこうなる.それは「わたしは泥のなかにはまりこんだ.道がわからない」というものだ”と述べていた.TLPには哲学は途方にくれているという形をとるとあった記憶があり、Wittgensteinは無変化

なんのことはなく、昔にふと考え付いた特性方程式の半順序の順序化が今になって現実化になるような事態に思えそうなことになってきた.なんと・・SQLのケース1・ケース2--ケース4で展開すべきなのかくらいしかアイデアが湧かない.

人間とは何かの命題の結論が出ない限り、いかなる人間も存在している理由・価値がある.この対象に向かうジャンルは哲学をおいてほかにない.

末法の時代に入ったならいかなる仏教の教えも意味がなくなり、自我教え強調も説得力なく詭弁的ではないのかという思いが浮かんでいる.そのような人物は末法とは認識していないような.また世界の国全てが末法の世界とはあまり考えることができない.

スカラーが普遍構造的だからフッサールは出て来ない.出てくればパスカルの実存がハイデッガーの根源かデリダの差異場にすぐに行くので、パスカルの実存的ではなくなりヴィヴィッドになり、普通の実存になるが普通といっても、混沌の情熱になってしまい、メタ的に原存在考察対象となり、底流のままに.

個人的にはすっかり忘れていたことを対象を違えていわれることが多すぎて、その不条理を直すために多大な労力を行使中.いろんな不都合には、こんな人々のでたらめが寄与しているので、これらに対して無責任のままではまずく、責任をとらせたいということで.無駄な時間はまま他者にもよる事が多々あり

作家になるといったのがまずかった気がしている(すでに文豪的な気分であるとやや冗談的に内心思ったが)、そのときに相手が”太宰治じゃない・・”といったのでその後悩むことになった.これはある女性に冗談的に太宰治ほどにしつこい存在が似合うのではないかと以前に思ったことを受ける羽目になった

精神の精神が精神の精神で精神の精神を精神する-No.6の副題.こんな考え表現を剽窃できる女性はいない、剽窃は単に滑稽にもうつる未完の経験やミスや冗談で意味なきナンセンスを真面目に受け取るとかの、それこそ意味なき無駄ばかりを要請する形でしかない.パンのみに生きるにあらずなんだが.

ゲーデルの定理にヒッグス粒子・場の影を浮かべた

岩槻駅の階段を登りながら、身体障害者は人類の犠牲とまで考えたが納得できはしなかった.昨日、人の狂気が精神に向かえば、精神分裂・統合失調や発狂で、身体に向かえば畸形・奇形で、たぶん薄弱もそうだと考えて、現象的・実証観察経験的には帰結・納得できるかなと

身体を無視できないことを強調した-パンを石に変えてみよ-という意見がある.あとから理屈付けに用いてみた、奇形・畸形を遺伝子が身体に狂気的に出現した場合-(精神の狂気は普通歴史上に多くある・・)として思いついたのも今日の苦痛忍耐からかも.

ナロードニキはテロル方針を持っていたのか、.或る人物とあった初対面時にナロードニキのようだといわれて、<ナロードニキ?-確か農民的な・・・そうかなそんな心持はあまり考えたことないがと沈思黙考>、が記憶に残っていて忘れず、あと日本のロートレアモンとか、一体誰のことだろうと・狭量で.

超理性がわからないから、人をXX化してみてしまうXY達、またXXも曲解・誤解・未熟理解を平然としてくる.

ストレンジアトラクタでNo.16にヒントを得た.これなら一応の応答はいいのかも.

テータ関数が岩波辞典に?-楕円積分の項目かで、分岐にフラクタルを当てはめる・しかも多様フラクタルを、そうなると複雑さに閉口した深淵の多様連続も形式判断はできることになるが、主観で想像中を認識するのは困難が(パスカルの、想像力は理性の邪魔というような-これ秩序観点?)
20歳で行き詰まって、ずっとそのままの場合は・・・・・・

私的言語は成立しない-スラッファへの返答.No.17

  ・・・・非現実の現実の自由を無機物が圧迫するという埴谷の想いは、ヴェイユの重力にも似て、ここでヴェイユに期待するといった人物は、埴谷はねえ埴谷はねえと述べたのを聞いた記憶がある.別に埴谷はなんでもないので無言ではあったが.ともかくここで絡んでくる焦点的なものの存在を覚える.

諸々の数学教授の研究紹介文をみるにつけ、あまりにもタームが多く出てくるので処理が追いつかない(資料が簡易に手に入ればその限りではないかな)ために、『フラクタル・パラダイム』なる考えを設けて、これからも出てくるであろうだれそれのタームに対して、時間を稼ぐことにした.

”直線(1次元)、平面(2次元)の場合、その上のブラウン運動の粒子は確率1で何回でも原点付近に戻ってきます。しかし、空間(3次元)では、その上のブラウン運動の粒子は確率1で無限遠点に向かって飛んで行くのです。”--ちょっとこれは関心すべき事柄である.普通なのに・・・

キリスト教の理想的青年を生きることは難しく、賛美歌も本当は歌えばいいというもではない.心情が賛美意識情態にないと本来は歌えない.

昨日は久しぶりにNo.20を体感した.多少鈍味が出てきていたのは、ちょっと生理感に傾いていたか.
無機物進化論・無機的進化論でNo.16を曖昧にNo.12を用いてみると考えた.およそらくは、霊的センスも現象学的には通過できると思われ、そこまで考えなくてももあるが、考えてももある.

インナーギャラクシーで思い出した.人は胎児のうちに生命の歴史を辿るというのはまあ大体正解だろう.唯物だとしたらそれに無機物進化論が必要になる.そうしないと生きている人間の説明がつかなくなる.No.26が進展した.こんなことは誰かすでに考えているかも.生命の起源以前の過程を.

帰納の結論はパーコレーションともいえて、その結論はまた帰納的要素になって、巻き込まれ展開して行く.

帰納の結論には未然形が付きまとうのが定義なので、反面は無責任ともいえる.-これはNo.23に置く.

No.17に肝心要のソクラテスの無知を忘れていた.あまりにも当たり前すぎて・.ついでにミネルバのフクロウやショーペンの解脱なども、信じがたいがアリストの中庸・中庸といえば中国だろう.その他盛りだくさん.

トーラスの外部から来る内部から世界へ出ることの衝撃的意識の説明に、相対性の時間速度で説明できたことはいいが、これはそもそものH定理意識ではないか.想い出の坂道の場所は良く記憶している.

ただしNo.17は空白である(モデルに関しては他者が活躍し過ぎている?).モデルは例外.或るときのフッサールでちょっと捻れたおろかさを持ってしまって.ハイデッガーのネクストテーマを記述してもよく、6.44は説明をしてそのまま導入してもよい.

”世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である。— ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』(1921年) 6. 44、土屋賢二訳”--この文章ゆえにTLPは印象であり、回想のWとこの文章からNo.17のモデルにL・Wを持ってきている.

西行の山家集の花の歌群の「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」は、呻吟と荒廃と懊悩の自己自身を憐れんで、せめて夢幻を見て差し支えないではないかと--想定したことがあった.

子供と遊ぶ良寛はソクラテスの無知をわかっていたかとも思ったが、わかっているということを知っているという形がふさわしいなと考えた.

折に触れて考えてついに射影と思いついた.射影的ならば砂の中のとも思えるが、砂の上で差し支えないと.ゆえに多く不明なものはほぼ射影空間上の存在なのではないかと思い至る.まあ射影幾何学(好まないが)は数学上結構重要だから、多分あっているだろう、折々適用してみる日常になりそうだ.

 ”ナポレオン1世はE1b1bである”DとEは兄弟的でE分布はアフリカ大陸全般にわたっている.Dは日本特有でOとどうなるのかなと考えたことが少し前にあって、無意識通底していて、Eとタイアップという手を思いついたがアフリカとは、しかしE型には顕著な有名人がいる・いた事実がある.

有限体のG^Fに対して”1の 巾根 を もっ と沢 山 含 む(無 限 次)代 数 体 を・・・”---なんとなく4個の特性方程式を考えて区別できなかったものにヒントを得たような、無限次とはまさかと考えもせずだった...

デュトワは長い気がするな、1996年から常任指揮者か、昔はアルゲリッチとで刺激的なカップルと思ったこともあるな.どっちかというと男の方の個性が弱かった気がしたが.今日は珍しくずっと聴いている.ピアニストのファッションは?-演技的かな.

フォーカルポイントについて研究していた経済学者がいた、焦点は若さに纏う楽しみの記憶があった.東京は焦点となっている今日、ゲーデルと焦点の関係はどうするかが浮かぶな

 ”物体があなたから遠くへ行けば行くほど、物体にとっての時間の進みが速くなるためです。”-ホログラフィックで円筒だそうだ.相対性理論から合理的に考えるとそうなるな、負の曲率.

ヘンレ係蹄をヘンレのワナと表現してあるのもある.プラダー・ウイリーについて間脳登場なので、これは多少論理に関係してくる.脳機序ではこの言葉のみ用いているからである.

姉が屁理屈をいうなといった、内心では論理整然としているのだが、全く女のヒステリー直感である.そのごいくらか記憶に反省点があることもあったが、無謀な冒険で怪我をして入院し、学校へ久しぶりにいって帰り道に同級生達に手を振られた姉と一緒に話ながらの小学2年生

長編作文を書いて、これはかなりの力作だと思っていた小学3年生の時に、同級生が短編を書いてそれを教師に褒められていたのをみて、迷いが生じた.短い文章でもいいのか?と.今では俳句・短歌・定型詩・自由詩・随筆&論文などを知ってはいるが、そのころ全く考えたことはなかった.

ヴィトゲンシュタインのパラドックスはNo.16の難点に関係しているような気がしてきた.そうなると次のNo.17のモデルであるヴィトゲンシュタインにつながることになる.クリプキは1982年に言及していたのか、時間が過ぎているな.

2015-02-11

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ファノ-Y軸-中間-ゲーデルで実際に三角形Δが成立するとは、思索不足明らか.そもそもΔ自体の成立は明らかでファノ的中点が3箇所取れるかが問題、2箇所まではOKで残り一つが解けない.擬リーマンで強引に時空ゆがみとはいっても結びつかず.

幣原某はたとえば今日の中国の増強軍事力を--考えていたな...即物的現在として情況は変化しているに対して、神国という言葉の展開がうまくできない、?!・宗教観視点か・・・・

そういうことかそうなるとこういうことを考えることになり、結局、観念論的唯物論であるようになった.

無機物があるいは全時空が・「地球を造った」・とは考えた.無神論の前者、全時空の後者はその判然としていないて領域から精神的なものとして.


日本で安全度がやや劣化してきたは、非可換の時代になってきたからであると思いついた.


今日は、なぜかまだと思っていた思考が結構リアルに即していたように考えてしまう時


超越の壁に阻まれて汎現存在に舞い戻る---ハイデッガーの未完までの核心と思っている.そんなわけでNo.22の困難が判明する・している.


出発点だといったがある懸念があって過渡期と言い直した.それから検証への時間が過ぎ去って出発点としてもよかったと思う次第である.このいい直しがいろいろ問題を惹起したのかも知れぬ.


羊毛状渦巻銀河(Flocculent spiral galaxy)は事実肉眼でそのように見えるので、羊毛的螺旋は実在するといって差し支えないだろう.


端的に唯物論は人はパンのみに生きるものである主義ではないのか、共産社会成就した場合を描くと、どうも神の口から出る言葉によって生きるものであるという考えの強くなっている社会を描いてしまう.


直感では閉鎖システムは糞詰まりゆえに暴力的要素を発生する.暴力の軽減には閉鎖感の緩和がまずは有効である筈である.ところが権力は人を閉鎖化したがる、特に睥睨人間はそうであるので、平和には睥睨人間の緩和が必要である認識を持っている.


システムは要素に還元できないならばある体積・面積を持って存在することになる.無意識からこれは障害である.けだし無限システムはまず存在しない.特に生理的観点からみた人システム時間は有限である、その有限時間を基準にするから放射能半減時間は、無限時間ほどではないが多大なものになる.


経験から不細工なXXはリアル力が強い、秩序意識からは不細工は混沌に近く、美的にはきれいではない・すなわち現実はきれいなものではないということができる.そこに偽善の発する余地がある.秩序意識をもった不細工は性的依存人間かつ偽善依存人間になりやすい.


悪人正機説の悪人を叙事的ストレートあるいは俗物的単純にいわゆる悪事行為者としてなぜ捉えてしまうのか.自覚するかしないかただその問題であるはずなのに.無分別を考慮しながら分別を相対化していく--鈴木大拙はそんな考え方か、これは無限域において完備を考える数学と同じと考えるが.


日本神話に3神あれば真ん中の神は何もしないのが基本ならば、システムで考えたことに適合するではないか..無意識があったのか?


正確かつ清潔好きという分析範疇の単語について、正確に関して不確定性原理を考えてみたら、ずっと上部の単位が大きい領域での対象にしかならないのではないかと思いつく.もっとも日常次元ではそれでいいのだろうが、すでにかなり時間のたっていることなので.--まあヒッグス発見とかは事実化要請だ


叙事は相当考えた結果、ポテンシャルに帰結した.絶望をすれば虚無に向かうといったことで、全くなんのことはなくなんでもなさ過ぎることに、何十年も悩んだ


ある不快なアドバイスを今日ようやく処理できた・だろう.全く無駄な時間を実際にすぎさせるものだ、多分そんな意図もあったはずだが、それゆえになおさら不快な時間を過ごしたことになる.まだほかにも別人に処理すべきことがある.不利益を強要されることはまず不快なことは明らかで..


カフカの名を最初に聞いたときには把握できなかった・普通には把握できると思っていた若いころ-サルトル曰く、実存は本質に先立つ、カフカを見れば、実存は本質にたどり着けないことばかりを表現している.本質からみるとあまりにも馬鹿げすぎている.-実存のみ存在など考慮したことなかったな.


曖昧に誤解・誤読を与えるような表現は、親鸞ただ一人の阿弥陀の自負心と宗教的意図もあるかなであろう.阿弥陀の他力など毛頭考えるつもりはないが、ただ阿弥陀の他力を意図できることはその当人の自力能力ゆえ・またそれ自身であるとも考えている..


「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」--親鸞の悪人正機説など読むつもりも読んだこともないが、あまりにも有名すぎるので.これは単に、無自覚を悪人と称していて、善人は自覚をしている人、悪人をやは、自覚した悪人ならば往生できるというごく普通のことをのべているのである.


紀伝体でも編年体でもなんでもいいけれど、結局叙事的事実で歴史記述となることは全く普通すぎることであることに、妥協をしたことが今もって悩みの種となっている.


ハイデッガーは述べた・現存在のほとんどは未完に終わると、なれば中間存在はほとんど無自覚に終わるといいたい.親鸞は無自覚は悪人であると述べたが、畢竟これは巻き込み意図もありそうだ.


Θのモデルは地球ではないが、一応当てはまる.なんというか想定的なもので自然発生した幼き夏の川原に遊んでいたときに浮かんだモデルをギリシャ文字に当てはめた展開をしているということ.


芸術家は絶対にそんなことはいわないが、芸術レベルからみると日常物はさほど高くないと、芸術は役に立たないは日常の多数派の圧力的姿勢ともとれる.


特性の4式にゲーデルの定理を当てはめてみるとなんとなく・・というほどにうまくいくか.そもそも4個の既約方程式が解になるような元の方程式があるかどうか怪しくなってきた.なぜこんなことを思いついたのか若き日.円分でも4個につながりが想定できない..相変わらず選択出来得ず.


前頭側頭葉変性症・frontotemporal lobar dengeration (FTLD)か、これは使える.どうにもワンパターンの人間がいてさっぱり了解不可にたいして、FTLD視点を用いると結構説明がつくのである.


モジュライパラメーターの数多き存在はある街である女子学生と歩いているときに想定したシーン・乱舞にアナロジーを用いることはまず考える・ように展開していることは当然のこと.


『大きいものは大きい、小さいものは大きいものより大きい』No.10より--自働記述で思考しながら筆記したもの、額面どおりに受け取るとでたらめに思われる文章である.ところが最大値の原理において、前者は定数の場合後者は境界を意味している表現として成立していることを発見した.


そういえば知覚は一般に人間的初期の感覚であるとされるが、あの古の道すがらで考えてだした知覚と、なぜか蓼食う虫も好き好きが不随した昔の記憶がある.なんらかの展開があるはずだが考察は止めている.マクダウェルを眺めながら思い出した.


終生の友として十分可能な彼女達という一群を考えている.しかし彼女達が互いに遭遇したという事態はわかってはいない.


ソリトンが散逸系の場合を知った、そうなるとやはりワンパターンは古典的で古い存在であることの証左ではないか、1987年とはそれでも遅すぎるが、知った時間自体は遅すぎた....


有機体は無機物の進歩・進化または超越であると考える.とりあえずは超新星爆発のような馬鹿力を人間は持っているとはいえないが.


ヴィトゲンシュタイン・アンスコムにいったらしいのは変だが、アンスコムの記憶を見たのだったかな、女性哲学者とは結婚しないほうがいいと.何故だろうと考えるに、哲学者だからとしかというか、エロス面からの忠告に相違ないだろう.


数学基礎論から簡単に哲学にいったというような話ならいいが、どうもそうは考えられない.要素単位で攻めていくと簡単にいけるのである.だいたい無限小の実在があるとして、電子になるのに無限時間かかるかも知れないという想定もできる(ゆえにクォークが存在する?)ので→


個人的に全くわからないナンセンスシーンはサヴァン的傾向ゆえかも知れぬ


イデアルの最大値とかを考え出して、これは冗談じゃない話になってきたと、D・H・Q・n・h...M


無駄な時間を必然的不可避に過ごすことになったのは事実なんだが、弁別的自己対象項目によって、思考の連関ができなかったことになる・それゆえに無駄なときを過ごしたともいえなくもないが、必然的に登場してくるXX達の才能によったともいえる-いずれにしても不可避現象でその成立自体が謎


不連続な弁別的事実は何のことはなく、現状維持無限変革の範疇に全く入っていることに気がつく.そうなると穴としての不連続な弁別的事実はなくなり、妥協的所為ゆえに、或る存在に絡んでずっと悩む羽目になったことは意味がなくなってしまう.見事に無駄な時間を過ぎさせたものだ.


2014年12月中旬-終わった18・19・20日頃


冷静にきちんとした把握能力のある存在は認識を誤解しない場合があるが、多くは逆になり無理解をする・模倣は無責任で自動機械みたいなものだと思うが、逆になったり、過去の話で忘れていることを他者により蒸し返されても、何のことだと思考麻痺を被り、理解に苦しんでいる次第である.


先取りデジャブは本来は他人が述べることで、被対象であるのかなと最近は考えるようになった.しかし内容はすでに過去になっているという認知能力を無視してもらっては困る.このような事象が多くの遭遇した男女達にあり、主体の歪み・阻害・疎外的なものを被っていることが不快なのである.


とにかく理解をすべき女性達が無理解を強要・強制してきて、退行シーンを形成し無駄な時間ばかり作り上げることになっている.なんというか他人と誤解するような人材は認めるわけにはいかない.たとえ社会が認めても.


作家になる--別に太宰治ではない・君はある有名大学を卒業したばかりではないか(芸者ではない).すでに未完だけれど十分な作品があって、君はまだ目にしてはいないので、批評はできない.部分を見た人物はいるけれど全体がわかる人物はいない、秘密となりて自分でも覚えてはいない・・追憶と共に


未完成が伝統を破ることはあるか、『自然に未完位相が越えている情態』を設定してあるけれど.そのような認識で現状日常を見ても得るものはないか.あれ?・STAP細胞云々はこの条件に当てはまるような.


なんだかおおよそパスで、あとは個人的特異箇所集中意識になってしまった.リンク整理の必要云々をツイートしていたここ2・3日なのに、急にそんなことになったのは、代数関連を眺めていた事による.


アフィン空間の虚像に射影空間を設定した覚えは全くない.射影空間は邪魔でしかないものとして感じている..


予知夢があまりにも明晰すぎて(一応、明晰の弊害)、自己自然を意図的に歪めてしまい、いまだ立ち直れず.ほぼそうしなくても大丈夫であったようである情勢だったのだが.ともかく自然を歪めなければ1991年以降に誕生した存在(全てとはいわずなにがしかの)に希望が持てるはずである認識がある.


至って平明な漢字しか用いていない文面をなぜしかるべき女性達は剽窃できないのだろう.行動経験・体験などの性的心性部位によるしか剽窃できないようなのである.思考内容の剽窃ができない女性達はパスしてきている.証左はボキャブラリーが特異であるので直ぐにわかる・・・.時の流れの帰結点は未然


無限時間の次に無限時間が来るという周期や、無限空間の横に無限空間のつながり続きがあると、現代集合論を援用して考えることができるが、それでも納得できない2番目の思考限界直面概念.


『奇妙な保管場所』は歴史を含むとして、歴史領域と保管場所には距離があり、この距離に無機的存在を考慮してもいいかなとは思う.歴史自体に無機は考慮しづらい.ともかくこの保管場所は誰でも持っている筈で、ゆえに普遍的意味で<わたしたちは>奇妙な保管場所を持っているといえる.


現象でみる宇宙にには無機変化をしている星々が実在しているだけで、現在見れるどこに過去があるのかと考えた時に、『奇妙な保管場所』を設定した.奇妙はあえてそのような表現を用いている.もちろん設定から・保管場所・は、歴史を含んでいるものとした.(単純に歴史全てをとしたんだけれど)・・


世界外存在から世界内存在へ橋渡しをすると預言者とか神秘事象なるものが発生する理屈と考えてみる.


哲学以前に非芸術はある.普通にはほとんど非芸術生活空間である.


思想の思想たる所以を考え付いたのは中学生の時、あのお気に入りの柿の木の近くで、人はパンのみに生きるにあらずと共に、脳捻転を食らった.根拠理由をよく覚えていないが、ゆえにスラッファのスラング表現に対しての心情位置は理解できるという思いもあって、哲学探究を読まず・・


あの他家の山道のところでマッハを浮かべたんだ.なぜマッハなのか漸くわかった気がする.マッハは健全な常識スタイルなのである.


叙事的-統合・叙情的-総合の色強く、困難なのは総合.面倒くさいということで統合意識・統一意識をまず人々は発揮する.それしか持っていない存在も多くいるので、平和のためにはここを変えないと.手段は理不尽ではなくライトスタッフ的として.

なんだか知らんがいろいろな新興宗教が日本にも多い.その辺でなにか話したりする強固な抵抗体は、結構さまざまな宗教の信仰者の可能性を最近は感じている.宗教多様性という言葉でくくることはできるが、個別区分は疲れそうだ.