2016-02-24

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超自然的必然における善悪の不条理に納得がいかず、さっぱり発生理由・根拠がわからないが、事態結果にして(他者にとっては全くそうであるが)流すか、しかし過程の時間に不都合な思考発生なので、そうしてしまうのも難しい.いずれにしても思考寄与が自動的になるはずになるはずで..

映画で英語の特徴ある長調の長セリフには息切れしてしまう.どうも日本語とは異なる共時と通時の間の距離感覚で、共時的には長く通時的には短いということか.

何を考えていたかすっかり覚えていないが、論章を描いたことは確かなNo.

超意味なき実存分析感の圧力のようなものを感じる羽目に
極限的なことは実存は嫌で嫌いだと思っていると、逆状態になってくる.こうなると嫌いなものを好むという逆をすると思い通りになるということではないか.そんな矛盾はできかねるが、そうこうしているうちに逆の成立ではトライを考えてしまう.

時過ぎ去りて思考舞台が変容しすぎてしまった事実を知った.どうするか.ただ単に個人の記憶のみで、自然の形態は人工作用以外は変わらねど・・・ショックすら感じないこの精神、意図していたことは意図していても実際となると、全く不都合しか残らないものだ.意図自体もミスッた結果になってしまった


罪刑法定主義にはあの戯れに卑小に思えたフォイエルバッハでもと思ったあの部屋の父親が深く関与していたのか、この部屋の気分を忘れはしないが変更をしないという思いで.

そうなんだな動物も見栄を虚栄をする、そうなると陰謀や詭弁もすることになる.


反復して同じ結果を得る-信頼性の意味合い.そのような人物は安定して計算できるといういいかたがある.が飽和からするとマンネリ・ワンパターンのうんざりという見方にもなる、その距離の問題で、後者は荷物になってしまう.そこにある無機荷物はずっと同じようにある・・




典型的な複雑性社会の考え型に沿っていると考える.そうであるならば思い描いていた意図とほぼ同じ形をしている.それを実行することが望みだったので、いいかな.(個人としては一人の実行者・オブジェクトにしかならないが、まあ応援・サポートと取れないこともない.)




ABC予想、同一世界の入れ子・マトリョーシカ





うぬぼれというトートロジーに対する無知、あるいは不快な記憶





水平と垂直視点の交点で見るのはミンコフスキーの現在.別に空間に焦点・時間に焦点を合わせようとなんら矛盾が生じるか?.無限遠点での視線が必要なのは射影空間的でその思考をしているだけ.それでは別に価値は射影論発生時から変化してはいない





プランク定数未満に拡がればまた価値観もまた確かに変わるだろうが、それに整合した価値意識も類は考え出すことだろう.




ラカトシュ賞メンバー業績はNo.3に採用できるはずである・・・




経験・体験時間がある程度長くなると、意識的にせよ無意識的にせよその時間に拘束されてしまうのが現実的人間といえる.


矛盾にも度合いがあって・・・と考えると、あるいは矛盾の最大値とかを設定したりする考え方とか.そもそも矛盾が成立している場というものがまずあるはずとなる.



無底の自由という西田概念は、射影空間のイメージとよく似ている影像をもたらしている.


『疲れたら交代する』のはごく普通に維持上考えることだろう、昔に論理上に当然設定(No.12~15当たりのどこか)してあるのだが、今頃研究チームが騒いでいる時間をなんとしよう・・・





一歩下がる癖がありすぎて、抵抗体に遭遇するとすぐに避ける形を取ってしまう.下位か上位とかの位相に向かう傾向は、そもそも遭遇自体が必要ないということを意味している.普通にうまくとらえると、一歩下がりはN-1次元の境界を意味して、それはその対象体・対象領域に対して、優越する位置になる





おもむろ思索で正解なら方法論が非常にまずかったことになる.時間は無駄に流れて、おろかしい気付きの長々とした時間距離の為体さ





歳時でよかった?のなら、歳の月の一様関数XXでよかったのではという思い.いまごろ何をしているだろうXX、その時にはまったく気が付かずただ会話内容に錯綜邪悪な全く必要ないことを考えてしまい、今更取り消しは心理記憶でできるが、覆水時間は元に戻らず





感性の判断においてはその時々の心理気分で妄想・奇想・夢想・幻想・空想などを行ってしまい、現実際対象・事象を見間違うことあるので、線形と非線形ケースなどを判断のよすがとすることも、現実には有効であると考えるまでもなく、当たり前か.





おもむろに考えた、歳時のパターンでいいのか?





件の人物はその身体優位性が親鸞こだわりを齎していたのは間違いないところだろう.無底の自由という言葉はNo.にせねば、ここで有限を設定するかどうか迷って、有限言語化したのだが、有限はいつでもというほどによういではないようなだが、外してよいものである.





”我々は自己の個に徹すれば徹するほど、無底の自由を自覚する。”西田哲学だそうだ、人間はすべてこの無底の自由を持っていると同様なことを述べた人物がいて、どうにもいらだつわかりかねることだったのだが、西田幾多郎の哲学そのようなことがあったのか.個体にもつながるな.

しかしふと徐精神を持って見ると、どうも自分の考えを随所に用いているような現象を想起した.まあいいのである、それが意図でもあるので.原理的に持っていたのだが..いろいろ未知・無知人間の粋がり反発を受けすぎている今までの時間といった趣表現は当然できる.そうでない人々も多かった?





ポパ00年---この値の微妙さ、これではまずペーソス退行XXは役に立ちそうになく、もっとも他の面でもそう思っているのだが、無駄を間接的を超える以上に強制した存在ではどうにもならんことは、先の時間から明らかに.ちょっと傲慢を止めて謙虚さが必要だが、どうにもそんな能力があるとは





なんか最近フォン・ノイマンに一言いいたい気分になっているということは、環界の変化によるのと自己歴史の感慨からかな.ノイマンのリングがエルゴードならちょっと何も言わないことにしよう.なぜかなんだかわからない・思考刺激をしないノイマン環もまた不思議なもの.どこかで何か接触している?





とはいうものの、明らかに大丈夫なはずなんだが、帰納の帰結設定は心理にいらいらする心持をも齎している.共時的帰納も当然あるわけだが.





市場原理でも年前に暗黒空間が出現して、思考が進まなかった.そのかなり前に、市民は希望であると思ったときに、やはり暗黒空間が出現してこれはなぜなんだが不明であった.この両者のパターンは似ている.後者は等質空間のような、前者は深淵である.さて何かのヒントになるか?





つまり交換に対して反交換的人間が、交換性の邪魔をする.少なくともある視点では、反交換は反交換であるので、それを自覚するか、両親に文句を言うか(第一義的原因は両親にある)、変容しようとするかで、交換に無理やり割り込む必要はないのだが.





怜悧という線描曲線ではないか、心理印象では参った回もの.





アルファタッチにしたらもう面倒で、永劫回帰を無限回行うとしたら、超人的生き方など空しい(皮肉にも)というか、それがどうした・気にしてもいられないというような、ニーチェのどうでもいい扇動・説得力になってしまうように思いついて.





1/∞VS∞/1のような類比をすると、孤独であるの逆は全てと親和性があるということでもある





直感では不随意運動と脊髄反射は結びつく要素を想定してしまう.あれ、不快な記憶で悩んでいるものは、脊髄反射的反応言明ではないか?、さっぱり理知的には判明しない麻痺作用であることはわかるのだが.





ある視点から蛇足に過ぎない人間もいる設定を心理にしまっているとする(良心的面から)、その視点者ではなく対象としている他者に遠慮した形の良心的心理をその視点者と設定してしまう他者認識に悩まされて、そのような愚かさが障害となるケース多すぎて.





αからの障害とするより、愚かさ達からの障害と述べたほうが良いかな.まあαからの障害もないはずもなく、愚かさ達は全く疑いようはない.


記憶に残っている不快な言明者たちには、それなりにどうも責任を与えることにした無駄な擁護を強制される・不当に歪めを強いられた思いなので、歪める以上それなりに責任を持ってもらわないと困るという理由から、明白に一人は消えているのでどうにもしょうがない、+αでもう一人いるか





しかしフランクルが超意味設定していたのは知らず、それを考えるとまた困ってしまうが、フランクルはフランクルで、むしろ超意味の設定自体を知らなかったこと自体の方が、問題(先に言えという自己弁護も)ということになって、なんだという思いもする無駄な極限想定をしたものだというそこの信号の処




『疲れたら交代する』これは思考の内に記述してあることである.




結局、他社たちXX&XYの愚かさに付き合いすぎて、愚かさ以下の生存時間を過ごしている結果になっている.まったく不都合なものだ.何たることはなく、むさくるしいXXやむくつけきXXと当人が実行していない実行すべき事柄をはやどりして、実行や実行結果あてはめをされて、しらけすぎなXY達も


ようやくウィルバーの意図をほぼ了解したかな.インテグラルという言葉は嫌いであるので疑念をもつが、(個の外面と集合の外面の短絡があるような?)、マズローにせよウィルバーにせよ、一言表現をするならば”頭がいい”という領域・範疇の人物たちである.
 
過去の解説をするより新しいことを考えると決めたウィルバーのある時、こんな文に接すると、相変わらず解説ばかりでしかもその情況がまた伸びるという時間が続きそうで、なんとも.まあそう簡単に新しいことを考えることができるほど、過去が限界的ではないという面もある.
 
しかし人がワープとか考えるのはそれなりの思考構造を持っているのかも知れない.ベルトラミ構造からはまず普通にワープ形式を思え、トーラスにもその香りはある.トンネル効果の示唆はあるかも、むしろ相転移の示唆の方が強いかな.壁の向こう側はどうなっているのかという疑問感が要請する?


しかし物理にせよ宗教にせよとにかく人々の空想力(未実証もの)には恐れ入る.追随して・容易でもないか・判断はできるが、やたらと詭弁的頭脳になりがちになってしまう難しさがある.想像力はいいが空想力はいただけない考え方で、区別が他人には困難なのかも、確かに共通する点はある.


サイクリック宇宙*無限回&仏教周期*無限回のようなケースをかんがえることができ(仏教はちょっと大げさなはったり的大きさ表現をしていないか?、実践する精神では困難を齎す予測はあるが)、これらの逆もまた考えることができる.


普通には多元宇宙の一つから別の宇宙の自己に会うときには、若き自分が老いた自分に会うというケースであり、その修正を考えていたら、ボルヘスの砂の本の中の設定とそっくりなことを思いだした.ボルヘスは多元解釈的な面があって、複雑怪奇的と、そうなると多元映画は、ボルヘスの映画化かとすでに?





現象的には、良心の呵責・罪の意識は、類続構造の圧力からくると考えられるが、無機物には当然罪の意識などないことから、罪の意識がそう内容な指示的人間は無期物体に近いものとなる現象判断ができる.病的な場合、無機的な場合、状況的な場合(戦争状態)、動物的な場合にも、多くはそう言える.





数が多いはジップの法則判断においてなのだが、自分で考えない存在は往々にして共同体思考に依存してしまう、この存在の言明が往々にして悩ますという・容易にまた判断する傾向を覚えてしまうという点が、いろんなケース設定になる.大審問官や衆愚政治&その・・・





有限叙事的粘性虚無-虚無に有限があるのは盲点だった.まったく単純に考え難い





帰納-プラスでもありマイナスでもある.





どうも落ち込みに安楽を求める形になる、ドストの人は被害者意識を持つというような気配も覚えないこともない.これが変わるのだがその時間が成立するのかの時間無意識中--変わるというかずっと昔からその位相設定なんだ...





『古典とする時間と空間』などと過去を煽てたのでその付けが出ているが、ふと思うと現実はそんな形態で、卑屈を要請される形になってしまっているが、結構人々とこれ位相が同じなのかな.あるXXがここでも卑屈感をもたらしているという過去形なんだが、自らを全く過去にしてしまう意図せざる展開





一言はよかったが旧態持続型人間に辟易していることをまた忘れてしまっていた.結構システム圧力が強いので、というか急には変われないからだが.奇形系が持続意識を持っているという矛盾が問題なのである.奇形系はそれ自体変人であるのですでに変わっている.





常識は自然に無意識に当たり前なことなので全く面白くはないが、日常では頻繁に用いる.ただし区別して覚えるのには大変な量があるものがあり、つまらないと称している暇もない場合もある.





不快な記憶は不自然の強要な事態だからであるという帰結になりそうだ.



 
心理の次元が落ちているケースでのツイートで、昔に矛盾的を指摘されたことがあった.心理の次元が落ちているというか、蒙昧な女性が対他寄与しているか、非科学的な無知存在が影響しているかな存在を、こんなケースでは思い出す、科学はいいといった人物を.大体反映なんだなこれ、しかし相手でなく




 
宮沢賢治の世界はアドレッセンス・と自分で言っていたらしい、そうかなるほどそんな趣をそうとらえるとそう思えるな.銀河鉄道の夜という作品のあらましを知ったのは小学5年生の冬の時で、とてもついていけない空想物語と思った記憶がある.まあそんな小学生もいるわけだ...




 
つまり日本はポテンシャル<エントロピーの時代にほぼ正確には0年から転換したということになる.




 
ベルグソン・ベルクソンではなんといっても全く記憶にないが、笑いの哲学に目を通したこと.微笑や共鳴笑い、哄笑などなどパターンがいくつもあるその概念・身体減少.エラン・ヴィタ-ルは単なる飛躍ではなく、共鳴もあるだろうけれど、まあ相転移的ジャンプまで行くのではないか.




 
あいつは優越感ねと理解したが、現実に意識がわからなかった.深層的事態だったのかも.で普通に何のことはなく人は優越感によって生きていると思うのは、まったく当たり前すぎる自然すぎることなのだが、人間存在に存在論的に組こまれている物は優越感とすると結構つじつまがあうかな.




 
経験上遭遇したパリサイ人は視野が狭い気がしている、それと権力的にすぐ傾いてしまう、つまり進化論的に弱肉強食の動物界人間のように見えるということである.自己自身の良心が欠けるきらいがあるので、他人も良心が欠けていると思い込んでいるような存在と




 
ここに至って,Θではなくαタッチに注力しなければならないことに、まずはホイッグ史観に直面することに、デンマークのユダヤ人のスウェーデン移送から発生.つまりは社会進化論からで、スペンサーはまずエントロピー史観と現象的には見ることができる.『エントロピー史観』--この言葉結構いいな.




 
君はあきらめるんだあきらめるんだは悪魔のささやきとしてゲーテの箴言
それにしても気にしたいXX、ほぼやる気をなくさせることしか言わないのはなぜなんだ.まさにこのXXたちは悪魔的といわねばならない.まあXXに限らずXYも模倣乗っ取りのような悪魔的存在も多くいる.




 
生きていることは常に身体的不自由に直面しているということである.




 
創造を現代ではないと述べていた評論家の意見が気になっている.確かに実際に創造は難しいが、最初の試みというのはあり、それが起源・オリジナルという記録は残る.模倣ではなく起源的な所為は記録されてしかるべきものと考える.汎関数的?なシミュラークルでもなく.




 
JKが自分の年齢だろうが何だろうが1だったのでNo.1にするべきだった.なんというかやる気をなくしている頭というべきか、劣性XXが災いをしているのでは、その気持ち悪さで、インフェリオリティはアドラーが建前で優等表現をしても、やはり反動で厄介なものであるのが現実.




 
弥生の寄与が強まると太平洋戦争なるケースが生じたことになったとか、天皇家も縄文の遺伝子を持っているはずで、本来の日本人は縄文の遺伝子的存在なので、皮相的に倫理面で世界的に無理解されているところも無きにしも非ずがあるようで.




 
憲法第条は与えられた形や死中に活やウェルズの思想より、縄文の遺伝子が引き寄せたとする考え方が日本的かな.




 
マタギのすべてを取るのではなく、来年以降を考慮して調節しながらの自然に対する意識は、多分に縄文の分かち合いの遺産ではないか.縄文時代の島国は楽園であったことは想像に難くなく、遺伝子を受け継いでいる日本人の伝統に、憲法条も乗ってきているような感触がある.当然徳川幕府の鎖国政策も





多世界ジャンピング映画、一つの世界での死は他の世界ではそうではなく、まだ生きていると、なんと離散的世界のアイデアはわかる.人はそんな多世界・他世界位相解釈能力を持っていることも知っている.SFを見ていると個的アイデアに関してうかうかしていられないという思いで、アイデアが湧くかと




 
なんだかローレンツ変換ではないかと、それならNo.でスピノザ決定は時空が関与する.浦島太郎は当然の話で、むしろ日本の昔話が相対性を予期していた点があるとも.あとNo.にはスピノザから多元があり多世界もヒントしている.まだ今日風には要素があるが、とっさに結びつきの説明がつかぬ.




 
散乱場でも南場宇宙でもいいけれど、想像・想定するだけならいいのだが、生理心理で同様なケースをリアルに覚えて、冗談を設けたらそれが本当と他者達に見られるのは不快すぎることで、そのようにみる無茶苦茶な他者達は何なのかさっぱりわからない、おかしな存在であるとしかならない.




 
人間が人間として存在しているだけで持っているものは、先天的存在かつ後天的存在だけれど(最も多少どちらかが優勢な偏り人間はいるし、また日常においてどちらかに偏るけーすもある)、そのような存在が日常生活していると、その判断はそこからやってくることに間違いはない-という現象論




 
家父長制は精神分析的にはA期的事象といえる.帝国主義・覇権というニュアンスは家父長的色彩強く、A期的とするならば、戦後によって日本はG期を行う羽目になった形である.大人になるべき・なったという現象ともいえる.




 
親鸞の悪人正機説の応用で、どうも記憶にある不快な言明者たちの分析をすると、無自覚者は他人も無自覚者と思い、くだらない自覚者は他人を無自覚者かくだらない自覚者と判断する傾向が強い.くだらない自覚者はむしろ他人を無自覚者と思いたがるかな、それぞれ主体の阻害を行使してくることになると




 
古典と量子でDとD-1次元的考えは、ボーズ凝縮論とまず似ている.





現実論的には経済は歴史の圧力である





ユーパリノスは虚無に対してソクラテスが無能感を感じる物語、虚無=叙事的無ではなかったか.建築に関しては不朽性を持つと芸術になる.





ある不動点定理から、無限点でで消散するという考え方はストレートだなとは思う.消散してどうなる、消散とは明瞭なのか、消散しているところの場の様子はどうなんだとか、自然に任さないとするとそんなことを考える.保留中からは結論を出している消散やゼロは都合を除けば無責任感触もまた浮かぶ





そういえば今まで一番のお気に入りは、ボーズ凝縮数粒子は全体粒子よりも少ないという説明であったことを思い出した.気分よくなったその論理と方程式説明の記憶がある.





夏目漱石・道草より、一度起こったことは形を変えて続いてゆく・から、ある時点での形を変える以前のエントロピーは減少している、これは日常生活上頻繁に起こっていることで、形を変えたエントロピー量は以前のエントロピー量+形変化に対するエントロピー量として、エントロピーは増大していると見る




 
去る昔、新宿紀伊国屋のFで、想定WH側の無限挙動を考えていた時に、ちょっと想像しがたいので自然に任すとした時に、はっきりしろという内面の声が?、自然に任す(とりあえず)としたのに、この内面の声は何、誰か他人の要請としか思えず・これも自己主体のなせる業というのか・不思議な・・・




 
どうもブラックホール的ではなく、ホワイトホール近くで無限遠点挙動を考えるところが違うのかな?




 
知行合一は山がそこにあるからで知先行後はそこにある山に登ろうと意図して登る-単純には本能と理性(本能的理性もあるから語弊があるが)の違いのようなもの.(倶舎論の文字はちらっとは目に入っていたが、別にというようなものだろうと、そうではなかったのだが)--朱子学や陽明学が?




 
マルクス・エンゲルスが科学的と称して、唯物弁証法を用いて共産社会実現を夢想した.仮にその夢想が成立した(国家なく貨幣制度無き社会)として、用いた弁証法の寄与が、実現によって消えてしまうような影響力しかないと考えるのは、どうも非科学的なのでやはり共産社会の止揚はなければと考えるが?




 
差分を止めたらある存在が幽霊のようになった、これは一つの解答・解決策だが、実際になぜという感じは持つ.少しでも煩わしい悩みが減るのは(過去が想起する悩みが減ることは)、その悩みエネルギーを未来への悩みに向かって使えるのでいいことなのである.




 
大体、深層心理をこと細やかに配慮しても、対象が深層心理をもっていないや、心理すらないような物象的存在もいるではないかと.ところが自らが他者の全く配慮無き発言を受けた場合はどうなるのか・・不快な言明として記憶に残っているものは明らかにその対象である.




 
体育館のそばの陽だまりの中で、ケットベクトルを想起したことは、懐かしい出来事と思うべきかという想いが過り、危ういどうしたものか・心理を変えることになりこの瞬間先が見えなくなるゆえに・・・




 
過去は時間的に過ぎ去ったことだから、あまり過去に向かうという考え方はさほど、ただし非可換でないと未来の不明が成立しない理屈.未来が可換としたら現在から未来が判明することになる.まあ地球は明日も自転・公転をするだろうは可換的であり、地球実在はてまたこの宇宙の存在持続も未来的なこと


 
時空の連続体の量子化の候補が非可換幾何学とか、非可換の連続が不確定のスラーとかなんだが、わからないミンコフスキーを破れず・・・


 
実存は苦手不快で中途半端なもの通時的な場合も心情に災いする.深淵を歩き回る世界線やパスカルの実存世界はいいはずなんだが、封建的な通時的旧式を覚えさせる実存も結局まずい.




 
要するに帰納より演繹が好みの人間がいて、ただし演繹レベルの対象差があることが問題となる.まあある特徴作家が”自力ですよ”と、過剰にわかりきっているアドバイスを無駄だがそれ事態は貴重なので記憶している."愛読者ですよ"とその妻に.別にプロットは嫌いではないが、センスは好みではなく.




 
ちょっと面白くない知らせが、なるほどと思うことはあるが、判断材料にさせてもらうのはしょうがないないだろう.まあ厄介な帰納の不確定の煩わしさも見えないことではない.帰納はエントロピーに追随しているや甘えている・エントロピーゆえにとも思いつけることに.




 
楽園・幸福情態を予想させる考え方自体が、その楽園・幸福情態を否定しなければならない要素を含んでいるということは、それはタナトス的になる.これで、若かりし日、市民が希望であるが徐に浮かんだ時に、そこに付随していた暗黒空間の理由がほぼ解けたかな.(希望になぜ暗黒が付随するのか疑問で)





「エントロビーの溜まり場J-量子系の励起モードの数(これはインスタントか)に対応の歪みとは、なるほど.やはりこの面でも時を徒に過ごしたかという側面を感じるが、時間経過における結果を待っていた意図が優位にある.





亡霊はあまり考えられない.他者の怨念・未然愛惜が意識体に?、それは他人のことなので想像しがたい.ともかくタイムマシン的だけれど未来の場合にはゴーストはある可能性がある.(個人的には近未来年時間のみとして)





出る出ると言って出たためしがないのが幽霊なんだけれど、自己の未来の影像は揺らいだ液体で構成されている人体(表現はまるで映画プレデターの透明映像とよく似ている)のように見える.人の直感・幽霊という考えは結構当たっている.今のところ過去は見たことない・実体を持っているから.





昔、亡霊ではないがある存在の影像の動きを見たことがある.今考えると自分の未来の行動形態で当てはまる状況があり、未来の自己はまさに幽霊のような映像に見える.





カラビ・マルクス現象は普通で当たり前のことである.中間存在は普通自然に工夫して、依存的自由作用を持ってくるのが厄介.





ネットを別に用いていないのかどうかT大生すべてが有能とは思えないようなネット現象を感じるものである.しかしT大生一般はあるレベル以上であることは一般的に確かでもある.(ここが小学生の時からの問題で、昨日になって閉鎖という言葉を思いついた・かなり信憑性がありそうな個人的見解である)





不快な言明の記憶ある人物は倫理観が弱い・倫理観が悪いということなんだが、その子供の倫理がよくなるはずもないので、雲孫あたりまで行っても倫理面は良くならないだろうくらい言わないとしょうがないなという気分..まあ倫理などは無いと言っているが、あるでたらめの言い訳レベルを記憶していて.


「賢者の石」―藝術及世界に就ての考察―〔「水甕」卷1號 大正年1月〕詩集轉身の頌序---によれば日夏耿之介にとって、宗教と哲学と詩は区別さるるものとある.夢と哲学と詩は区別しているものとした話をある作家にした時、夢と詩は区別できないと申した.夢は宗教的意味合いが強いのだが.





不条理が人間存在にとって必須ならば、神はなぜ悪と善をの問題は人間世界だけを見れば問題ではなくなる.何しろ不条理が必須なのだから、ここには神は不条理のない存在と見ている前提がある.





理論と実践は異なるとかの確定出ない事柄は、さすがに現実のものとして直面するようになる.どうにもそうなってしまう不可避的でこれでは生存過程が
うまくいくはずないではないか.ただそんな問題を避けて、他人転化と他人依存状態化すれば回避できる(中間存在はそうしている)





”ストロミンガーの提唱した系は、同時に解かなければならない四つの微分方程式の系から構成されており--”えっこれひょっとして昔考えた種の特性方程式と似ていないか、一つ一つの解・既約方程式が難解そうではあるが極度に難解なものをまさか想定したはずもない・・・



どこまで行っても分離しないケースとどこまで行っても結合しないケースがあると仮定する.前者は一応思考できる.





徳川時代の鎖国や黒潮の潮流や縄文時代の寄与などから、日本はどうも閉鎖的な国の雰囲気が縄文より続いているような気がしてきた.ただ戻る場合には確固とした地域ではあるが、外部に向けてはオープンとは言えなくなるような形として.





そこからRNAi・RNA干渉を知るが、忘れていたテロメアに関係しているとは冗談ではないな.ヘテロクロマチンはできるならば種にして貰いたい気分がある.昔はRNAから皮肉位相的に考えようかと思ったことがあり、miRNAは予想していなかった次元記憶があるので確信的に時の流れを感じる





前提条件に有限があることを強く意識せざるを得ない.ヒュドラがそれ以上生成できないようになる時空域、foldを一つ一つその連結を断っていくようなものと考えてしまうとまずいことにはなる.それより分岐生成力が多様分岐を処分していって分岐が生じないようにするという考え方にしよう-なるほど





時間的に複雑自体が変化するものを定点化していたことが判明、愚かな自虐を行使した問題が解けた‼(全くなんでもない単純なことで徒に時を過ごす羽目になる-徒労に呪われているのとは多少異なった面で).時の流れに平行して動けばそれはそこにある現象にしかならないよくある解析感覚と同様である.





要するにパスカルの想像力は理性の邪魔であるということなんだが、想像力がないと視野がまた進まないことも確か.問題は複雑な理性以上に複雑な想像力ということで、またその想像力はそこに意味があることにもなる.





偏屈(でなくても)XY(XXも)的権力視野剛体強情自己欺瞞性演技擬態体人間は確かに剛性を持っているので変化にぶれはしないが(ぶれる能力を持ってないという見方もできるが)、柔軟性の欠如があり、硬度硬くステム的で・・・ある消えた人物を思い出してみるとそうである傾向にあったとしか見えず





どうもケインズの幸せな時代およそ%の物価上昇率は安定で理解できるが、時代の流れがケインズの時代と異なった変化をしていると考えざるを得ないのではないか、そうなると変化率も変化させる構造が出現してくると





リーマン球が無限遠点と称するとき、連続体仮説などは考慮していないようなのだが、その辺はこれから精緻になっていく可能性はあるか?





きょう徐に考えついたが、資本主義とプロレタリアでなぜプロレタリア独裁になるのか、文献類に目を通したことがないので理屈が不分明だが、素直に弁証法を適用すると止揚とは資本主義でもプロレタリア独裁でもなく、それらを混合した新たな局面になるはずではないかと.





単に小学生の頃の思考の方程式化ともいえる.全く遠慮することはなかったという思いである.この遠慮はすでに過去としたXXが足を引っ張る形で、常に欠如感をお垂らすように作用するという、不快な無駄ばかりを要請される形となる・何しろ潜在才能が役に立たないとう時間遅れ思考を非常に経験している





シュレディンガーや不確定性、生成・消滅も必要だったのか、これはちょっと勉強しないと直感では追っていけない対象であるは、素直に思える.





冗談には遊び的があり、自由には責任が伴うのに、冗談には責任がないというのは少し変である.冗談が事実的になるのはそれが責任に転化される形となると考える.なぜ他者は冗談を真面目にとるのか?.発散解消的なものなのに、有限実在束縛にしては意図が異なる.




 
経済に道徳はないと人の述べるとき、その人物は経済は薄情であると述べている.権力的叙事的つまり統合的人間にも道徳はあまりなく、薄情であるとXX&XY双方多く存在していることよ.




 
そうなると記憶にあり、ある人物の不快な言明にはその当人に責任を負わさねばならないと考えるが、すでにその当人は故人である.なんとしようか、蒸し返しで対象が全く異なるドン・キホーテ様言明をまさか行使するとは全くその時に考えず、消えた後から思いついても意味がないが、不快は不快である.




 
ζとBでが出てくるを今頃知ったという(避けられないことだったかという想い)、相当時間の無駄・ラプスと思うが、別にそうではない?.この数値に関してはそのときには直感では意味がない・大げさと思ったゆえ(少しは意味もあるかとは思ったが・次元の頃)--潜在的は考慮の内に第二楽章




 
トヨタのCMもあってやはりリスクは動物的か-身体的というか--非妥協にはリスクが付きまとう




 
昔考えた種の特性方程式(それぞれ既約)がまさか種の基本相互作用の解というような複雑なものではなかったな.ただ種の相互作用などは考えたことは記憶になく、たまたま種の特性で、また次元特徴もあって、種の特性は結構個人的に楽しみを齎している.




 
ディラック作用素はラプラシアンの平方根だそうである.クラウジウスとディラックの精確さは対象により差異はあるが、同レベルとしてよさそうな..しかし量子の精密さとは定性の度合いが違った.クラウジウスを考えていたのに、少し時が過ぎるとすっかり忘れて、ディラックの単子ムードに躊躇った廊下




 
弁証法的な超対称性を行使しない・心理感情的に似合わないので.超対称要請もしくは阻害強制を受けていて不快でしょうがない.不快な感性のフェルミ型がボーズ型をやればいいではないか、単体的なのでエゴ丸出しが自然だが、別にそんな自然を持っていない人間もいるのである・ことに苛立っても無理.




 
いわゆる覇者的や叙事的なども無機的要素強い.唯物は当然そうなるが唯物と観念も実践と理論で思考必要だが、無機的と有機的でホワイトヘッド傾向をこの場合考える.




 
剛体的・帝国的・道具的・行動的--おおよそ無機的傾向が強いことに気が付いた.道具的=オブジェ的も成立しそうで、幻想力自体がハード要素を持っているとしているので、ある作家の想像力についておおよその見当がつくことになった.もっともこの人物の固有性を考えていた結果無機的にたどり着いた.




 
あんまり反応ないと思えるので、やはり今の若者にしか理解できないのではという思い上がり的要素もあって、それでも即物現象に飛びつく存在はどうかと思うけれど、即物社会現象自体は共時線を突っ張っている点もあり、いくらな何でも時間が過ぎてそれ以上に古くなってしまったとか、それは歴史上になり




 
類群暗示から頂点代数暗示が出てきて、Jとか8個のテンソル積とかモンスター数と共形変換とか-全く昔からのモンスター暗示はよかった(ムーンシャインで区切りにしたが)けれど、例によってfold回避という分岐に関してこの辺であるという直感試みが共形に関連しそうとは、ラプス時間が長かった




 
前のツィートから偽善体・演技的性格のすでに自己主体を亡くした存在(無自覚人間が多そうであまり自己主体がわかなくなっても差し支えなさそうな存在もいそうで)は、生理的人間の範疇に入りそうなアイデア・可能性が今まで麻痺しすぎていた現象・事象対象時間から逃れ出てきた.あまりにも単純な・・




 
中間存在や実存人間&無機的傾向人間がとにかく有限束縛をしてくるという現実.生理有限から出れない人間たちの嫉妬心がよく言う勝手に動いているとかの表現になる.XXたちの生理必須条件がなければ存続不可能という事実に依存しているような意見として.




 
未来を見ていたが遭遇した時にはそのことに全く気が付かなった.その未来が過去となった今ははっきりわかっている.まあ未然未来の連続で、ろくな成果である未来ではなかったことに、根拠がわからないという悩みがある.個人の性格遺伝子と思えばだが、それにしても変で、他者たちの災いが一番ではと





全く冗談じゃなく帰納の原理的不可能性と哲学探究の煩わしさの時間を持つとは、ベーコンのヒステリック心性感受は原理的不可能性で理解はできたが.そうなるとエールのリンダも似たイメージなので了解できることになる.その上に定性メロディも帰納的曲状となることになる.





無機物からの進化・変化が人間に意識・思考構造を齎したと考えるが、ブラックホールという無機物構造がそこに立ちはだかるという情況.それはそれで自然宇宙の似姿が人間の思考構造とできないこともない.





G宇宙は理論的、ブラックホールは実践的でその関係の別の思索方策的な事柄.





類群で不快な心理変化を余儀なく・・・構造の単純化という.グロタンディークの宇宙とブラックホールの関係でまたまた不明な行き詰まりを覚えることに.





ありゃ事象の地平線の前では、グロタン宇宙は・・という実践理性と..





NBG集合論を用いた-フェルマーの最終定理証明にグロタンディークの宇宙を用いたのか、ZFCより弱い体系でも可能ではという心情はわかる・直感できる・・・





実数のある形の複雑さ=混沌に対しての位相.客体的と主体的数学者がいて、岡潔なる人物は主体的数学者だった気がする、悩みの観点からは主体的の方がその強度は強いという意味合いを与えた形として.





それらの間のなんやかやがイメージ接近を齎していて、しかし方程式はオブジェ的にも見え、近似的とも思える.今のイメージではそれらでいけるかもという感触を得た気がすると、しらけてつまらなくなってしまったという気分も湧いているが、そうなると前進を余儀なくされるのがパターンであるが、はて?





そんなかんやで個人的な直感が志向するのは頂点作用素である.これはモンスターの流れからきているのかもだが、実際には頭痛くなる以前の記憶があり、しばらくした今またどうも対象として浮上である.





しかし個人的感性では、類体という言葉のイメージが似合う女性はいて、好むスプライン&心性を持っていると、ある温泉施設の休憩所で遭遇したことがある.それほど難しいとは思えなく、そうなると類体という言葉に対するイメージが違うか、件の女性が実際は難解なのかもかである.





その昔に、時間があったら類体論を考えるとしたが、そのような気楽?な対象ではなさそうだ.イデアル類群がまず難しく、非可換類体論の定式化は初頭でも成立してない情況で、さて今は?おそらく今もだろう.





種の固有特性解を持つ方程式はひょっとしてスツルム=リウヴィル型微分方程式のことなのかも--特性値の判断から思いついたその昔





自己主体の疎外を要求してくる存在は、承認の要求を要請しているのだと思うけれど、そんな存在に限って他人の承認をしていないので、何しろ主体疎外を要求するのだから、当然そんな存在を承認するわけがないということを無理に押し切ろうとする、バカらしさを覚えさせ無いで・という不快な記憶





初めて行った小学生の時の霧藻ヶ峰のレリーフの印象はは何十年たっても鮮やかに覚えている.誰なのだろうなぜこの岩に描かれているのだろうと、眼前の樹木にかかっている鮮やかなサルオガセの塊の鮮やかな灰白色の印象と共に




 
supermanifoldでgrassmann oddをθにするのが常識になると困る、反対の記号意図を持っていて、でもそれとは区別すればいいか、そう帰結を急ぐこともない.




 
退化因子まで登場するなら、退行強制・要請存在に対して打つ手がありそうなというより、要請存在の方で手段を構築すべきである.退化ばかり要求するにもかかわらず退化しない状態を持つことはできないだろうから.それにしても昔には厄介なXXたちが眼前に出現したものだ、記憶内容が面白くなくて..




 
そうか単振動ではなく、まず最小複数で引き込みが起こる(これも知らなければいけなかったが)、これは中学生の時の少数循環繰り返しやどこまでも続くπの展開数列意識に関連していた.今でははっきりとわかるエンタングルメントが謙虚さを要求したためか、全くこれを思い出すこともなく自己判断欠如と





世界がなくなっても一杯のお茶があればいいはおかしな言明である.一杯のお茶のある場は世界だからである.これは言わずと知れた傲慢な心性を示す人間の心理が客観世界がないという無意識を表現した形である.





ゲーデル解・年”回転する一様な粒子を仮定した解。 宇宙項を入れている。 時間が輪を描いており、過去と未来が繋がっている。”--ゲーデルはそう考えていたんだ.そんな簡単だったのか?--多少困ったな、現実人間世界を基準にすると(宗教的は結構密接した地平になるか)考えずらい.





エンタングルメントと述べてしまうとしらけてしまったかたちになるが、それに気がつかなかった当時間が問題で、何が障害になったのか思い当たるような考えが浮かばず、さっぱり相変わらず説明がつかない.エンタングルメントは考慮中に登場しているのだが、距離はそれほど長いイメージは持たなかった.





ド・ジッター宇宙は事象の地平線を予測している結果、事象の地平線でド・ジッター宇宙は有限であることになる.(余計なエポケーをしたときに即座にデリダの暗黒に到達して動きが取れなくなったことを思い出す、ここでは脱構築は困難であり、ハイデッガーの限界でもある)





バネ振動子”バネの力がわずかにフックの法則からずれている状況”は大いにありうることであり、”そうなると振動の周期が元の状態からずれる”という帰結は・事象は全くありうることである.--非常に不明だった時期があり、何のことはなく全く実存的制約に陥っていたか、劣化XXの寄与が遠くから?





単純に重力球状天体に沿って光が曲がるとき、天体は+曲率を持っているが、当の光は-の曲率と見える





慣性の法則により、空間が曲がっていると一定速度なのに加速したように感じる相対性原理ゆえに.なるほど対象により変化して来るとはアインシュタイン.慣性の法則・等直線運動を考えていたある家の裏の道を思い出す.確実特定場所の記憶はないが、およその時間記憶はある.

”臨界点近傍における物理量の臨界挙動は漸近的に冪乗則に従うことが知られており”次の場合だけれど、臨界点がまず存在するという前提があればいいのだけれど、区別がどうしてもできない悩みがある.しかし、漸近的にべき乗則に従うという考え方は使えるな





foldに関して例えば”正標数の場合は暴分岐重複ファイバーが現れる”などがあり、好きな人はいるな.そういえば何とも言えない混沌暗黒についていけない理性を持ったことがあったのを思い出した.ちらちら見る組みひも論よりはるかに複雑怪奇な混沌像だった.





ホップ・ファイブレーションでも楕円でもいいけれど、変形方法はいろいろある.素線で領域を瞬時に埋め尽くすとか-紐は弦は行き着いた形?





回転楕円体関数がある以上微分方程式は避けられないものだったと今頃気が付く.foldが苦手なので結び目と当然苦手となる、複雑で・・ところがこれらに不変量を求めて鵜の目鷹の目のごとく挑戦者がいて、またその結果を出している.




 
普通に宗教の古今東西の開祖は神人化になっているな・もう人間実在の構造自体に機縁するものとしか思えない.日本人に甘えの構造あるが、宗教に依存する他国の人間はその宗教に甘えている形という表現を常々持っている.土居健朗は他国の宗教分析をしなかったのか?--カトリック信徒だったを知った.





想像力は肯定しているので(空想力はあまり肯定しない&妄想力も、夢想力はそうでもない)、そうなるとあの小学生の時の図画における想像力部分は、選者に対して騙したような写実意識における罪悪感を持たなくてもいいではないか、選者に遠慮した形と、写実の圧力を受けた記憶が離れない.





昔にランダムを否定できずに考えていた所の近くで、頭が何らかの構造の倍率的なものを構想したことを思い出した.これは今になって理解してみると拡大に相違ならないと.するとシステム内容構築時には、ガロア拡大的要素は持っていたことになる.(表現は幼稚かもしれないが、内容は難しいかもとなる)





『層状組織』に対して、共役断層と断層帯や活断層も考慮せばならないが、それによりより現実に近くはなる.『位相差を持つ』で含めることはできるが、初期単純直感視野には、アルキメデス的なものとして認識で、それからどう変形するかは考慮の内だった.




 
No.5に帰結もしくは結論を設けても良いというアイデアが浮かんだ.潜在的にはそういうことだったが.




 
分岐素点?、どこまでスラーを分離できるのか、非可換でもスラーを導入するはずで.




 
この現宇宙は部分ではあるが、BHでオービフォールドになっていると推定表現してみる




 
トンネル効果もニュートリノに関してはどうなるか、そのうちにニュートリノ何とかができてくる可能性は否定できない-質量があると閉鎖的になる--?そうなると重力も閉鎖を考えないといけなくなる.




 
回転でが変わるなら位相を動かせばいいわけだ、これである存在たちの不快な位相うおよび言明処理方法が見つかった.次元に組みひもでは、どうも不快に敬遠する直感を持つわけだった.




 
現状、秩序の原点は対称性の破れとして見る




 
生まれて何か月の赤子は後天的には清潔だが、先天的に清潔かどうかは不分明といえる.




 
”無限遠点での特異点は、正規化(整閉)の過程により、(曲線であるために、)除去される”-つまらない.とにかくn>ではn=が成立して、対象式があるとすれば特性になるが、エキゾチックであるかもしれない.




 
リーマン球は明暗や反交換も設定できそうなことに気が付き、だれが考えたのかリーマンか?、価値がありすぎるような直感がある.タイヒミュラーというか立体楕円のもう認識できないとすると、無限速度の概念を考えついてしまう.若きあの暑い夏の日の、砂上に一輪の花が咲いている河原で想起した日よ.





任意の直線(数直線でなく)が半径無限大の時、では直径はどうなるかというとリーマン球が登場して、タイヒミュラー的にしても記号θは成立するではないかと気が付いた.リーマン球に赤道を考えた場合、C平面に原点を置いてふつう考えるが、自由な回転をすることもでき・・.





孤立保存則と対称性の破れが階層構造を齎すとなるらしい、これによると縦型構造の存在説明ができそう(前者のみだと)と一瞬直感したが、後者によりむしろ日常現実根拠がそうなっているに傾いてしまった.





本能の固有性No.だけれど、これをどのように表現するか.





それにしてもすでに過去としたXXお対象設定にしようかとしていた時間の記憶が束縛・他者も巻き込ンでいるような事態感覚がある.存在理由的には逆になっていて不自然な情態であるのは確かであるが、人々はなぜかこの不自然が自然だと思いたがっている・またそう思い込んでいる.





現実に無限が全く実在しないから





ちょっと、0年間と残りの時間の体感時間はほぼ同じといって、全くこのことがおよそ真実なら、説明のつく思考体験事実がある・それに説明がつくような.





P≠NP予想はそこにある無限域であるなという考えが




 
相殺の圧力に超流動を浮かべる-そんな考え方は現実の心理には普通一般考えないが、この普通一般化しようとする傾向は、クリエイティブではないので、困ったことに・・.いろいろ思索方向時間点がある




 
励起-この懐かしい言葉、小学生の同級生に名前が恐らく励む意味でいたが、その家に行ったときに思いついた励起の言葉・手ごたえがあった記憶がある.




 
倫理観が悪い・弱いといった点は、良心的面が強いかな、良心と正義と道徳は異なるのか、正義や道徳を嫌う思想というのは、その思想が正義や道徳であって、他の思想はそうではないことを意味している殉教性であるはず.




 
『見えない目よ粗い目よ』-クワインの信念の体系は全体として網の目をなしている-という考え方も結構いいな.『』は老子の天網の誤解からきているフィルター感覚なんだが.




 
昔から暗記などしょうがないともってそうしてきた今、さっぱり記憶容量がなく、覚えた先から忘れて行き、記憶することができなくなってきた.考えるに暗記ということはスカラーではないかと今思いつき、それなら暗記を止めたことになるほどと思うが、ある対象に関して暗記すべき・記憶すべきことが多く




 
極が個ある-昔考えた特性の種-パンルベのは5・・3・に退化するとなると、解答は出ていたのか?.微分方程式の混沌・fold・結び目(結び目自体もそうだが)等を避けていた(ある線形中間XXが中途半端を齎したような)ので、パンルベは知らなかった.




 
ビッグバンを人間は想像できないだろう(繰り込み不可能な無限個の項と無限個のパラメータ)という直感観点からは有効場は有効であると、ただ無限個には興味があり、惜しいがこれは未来のこと歴然.ここでは摂動有効なことが、あの道路から埃立つ道を歩きながら摂動を考えてた懐かしさを覚える.




 
ヒッチン (Hitchin) のファイブレーションのミラー対称性-ヒッチンは新鮮な名前で、ファイブレーションがエタールで分岐像の変換で重複を排除できるとかだと、直感で避けてしまうfoldの理解化になる、このケース他にもあり人々がそうするのは、固有の納得感から言える.




 
ついでに述べるならQCDの無限の向こう側には絶対暗黒とでも思えるような、漆黒が見える.QCD場・領域自体は暗くはない.





無限小を考えるときは当然のごとく暗黒空間、無限大の時は明るい空間を個人的にはごく自然に設定してしまう、原点は暗くなく白色空間で、無限遠点の反はゼロに無限に近づくても暗くはならない.射影の無限遠点は暗い領域を持っている(部分的に見ている?)-人々は無限遠点を無限大としているようだ.





分岐する局所因子か、なるほどそう表現するのか、心理的には直に暗黒複雑稠密局所対象となってしまう(いわゆる真空は充満していると同様)ので、そこの現実事態はなんでもなくありふれすぎている事実なのである対象から考えたことだった.(--『記号より因子としたいこの頃、因子の乱舞とか』--)





ある任意の曲線を描いて、その曲線上に任意の距離に特異点風な粒子的な解答的な点を描いたことがある(そこまでしか描けなかったが)、安定ベクトル束は有限化可能とはここに当てはまるではないかと、それの拡大はどうなのかなとは思ってしまうが、そう考えたい気持ちはわかる.解消定理とかあるからな





時空に関して直線設定をしたとき、中間ガわからずに--考えて思いついてここにブラックホールを置けば結構論理的説明に納得できることがわかった.現実の世界にブラックホールを置く設定は全く考え難いものがあった.人の明暗にも関与してくるかなだが、こちらはダークマターが適切だろう.





要素論で壁にぶつかったころ(原子命題とかプランク定数未満の要素でもおなじこと)の展開から、分類論的に考えてある.記号はその象徴だが、3次元までで次元以上はまだという時間なのか・・この分野の比較からは何もしていない時間・ラプスは無駄ではないということになるが・・・.





射影がこれほど出てくるのは、現実世界と人間の知力構造の間に、投射関係があることを示唆させる。(少なくともそれが全てではないかもしれないが、部分かそのような側面はある)




 
foldに対してはミラー対称性なのか、次元に関しては昔から厄介なので避けた記憶がある、ただし弦は避けたつもりはない.foldに関して直感で避けるわけだ、次元の芸術的描像の記憶と数えあげを見るとその思いを納得させられる.




 
指数定理やスキームに対して『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』は応用・関連を想起できそうだが.結構やはり直感・自動記述的な面でもOKな文章化は成立している-というように解釈度を自由化させている.




 
人類の家族史の歴史は時空的というアイデアが浮かぶ.




 
これは調和形式・対称形式志向から来ているようで・・ネーターとの絡みとかや重力子が来るかも、時空の曲がりのタイヒミュラーなど結びつかず.空子・時子なる想定をしないとか、重力はそうなると除外できそう.





チューリング賞を獲得した人物は面白く有用な気分になる.ノーベル賞などもそうなのだろう.一応マイシステム上に弱く当てはめることができるような存在たちということなのである.





記憶にある不快な他者たち(XX&XY)の言明は、どうやら構造を無視して非構造化やありえない構造(ドン・キホーテ風な目茶苦茶をされる方はたまったものではなく、ドン・キホーテは夢を見ていたと後になって気が付いたが、これらの人間達は不明・恐らく-)を描いたものであるという解釈ができる





対症薬に副作用が発生するというのは、どうも人体構造がより複雑すぎることによるという思いがしてきた.





人はトートロジーを避けたがる傾向があるか?、反発はその極限的関係か.例えば陰謀的でたらめ構築者達に陰謀的と述べないのは、その人間たちに対してトートロジーだからか、それとも偽善的無責任ゆえか、または未熟な心性ということで優越感ゆえか、それらすべてに拠るか.





ミュンヒハウゼンのトリレンマあるいはアグリッパのトリレンマについては、思考する人なら必ずぶつかる対象でまた答えはまだ出ていないものとしている.盲信的答えは中国などででているが、故に派生するのが可謬主義-デュエム-クワイン・テーゼ (Duhem-Quine thesis)より転変




 
時相論理-時間と空間.ある女性の発言を聞き取れなかったことがあり、その解析に悩む.深層心理持続を今表明したという事態なんだったが.人々は時相であるものを、非時相論理に強制する故に、脳麻痺で記憶の障害になりしつこく悩ますということになっている.




 
Voronoi diagram図を見て、一瞬狂気映像を感じた.ここからどうしても判断でき無かった昔の精神分裂病者のパターン的な図を思いだして、knotが解ける次元構造を心理的に持っているようなのかも推定すると、なんとなく理屈に合いそうな気がしてくる.



人間を矛盾体とすると、普通に不自然と述べるタイプは理不尽に気がつかないことになる.矛盾が自然であるならば、そこには理不尽が成立する条件はまず存在するからである.人間的自然には理不尽が付随する.一応人間的人間がそれを修正する形であるが、





単純に双曲は時間的とミンコフスキーから見えるので、不確定に敷衍できそうなだが、時空は?.





ホッジもホップもいいと思うけれどうまくいかない、ラングランズ・ミラーにしても、コンヌにネータを考え難く、なれば南場とか.





”古典的なスケール不変性が共形異常であることを示している”--示唆的な文章だ.古典が量子によってアノマリーを齎しているとき、奇形と称する人間が発生している形をとるとか、倫理エートス心理面からではない解釈ができそうで.





中間存在にQEDが使えないいらだちがあり、QCDと見てよいがそれにしてはでかすぎる.依存的無責任や偽善で不確定性をやってもらっても困るが、現状ではそのとおり.教条中間存在の傲慢さには当然閉口しきっているのだが、そんな認識すらしない教条型中間存在に実存が加わると拷問しかなくなる




 
いくら才能があるからと言って、今この瞬間にこの地球上の樹々・植物の葉の数すべてを正確に答えよという命題が可能な人間はいないだろう.検証も困難で大雑把な推定値は出すだろう、何しろこの宇宙に存在する素粒子の数より多い数を考える人間だから.--瞬間葉数を昔考えた見たことがある.




サヴァンの絶対視覚者は、有機的な風景、夏の暑い日に葉が萎れているようなものも混じった風景を、そのまま瞬間時間映像として記憶するか・できるのか.葉層の時間ずれをどのように・どのような時間スパンで記憶するのか、個的志向のみの対象だけではないか.





ナビ派より、想像画を必ずしも写実領域に還元して見ると、それは明らかに虚偽(リアルにないものを描いた場合)であるが、想像域視点そのままであれば虚偽云々の解釈をする必要はなくなる-写実というそのときの時間現在に束縛される必要もない観点の根拠を思いついた.





論点のすり替えを行った存在はでたらめな批判的思考を偏見前提によって行う-から、偏見による即物的脊髄反射には閉口である.個人的な場合なので、「初めに敵ありき」的な存在が議論姿勢を改めることが解決手段だが、強調記憶と瞬間が重なってしまい..





不変ハール測度人間にいらだつのである.パターンか共同体思考者、味を占めた・うぬぼれる演技的性格者などが当てはまる.美的判断からは疎外を与えるような存在が多く自己欺瞞度高すぎてこまる.





時間不可逆の結論はその過程を示唆するような結論もあって・・・だ.





例えば「種類のコホモロジーが個別に成立するが、それらが一致する大きなクラスがある」--種の特性方程式と同じ意味合いの表現である.コホモロジーだったのか.ではまだ忘れる必要にない時間でもある変化度とはいえる.





不快な主体阻害の相手は実存的で本質余裕がないのかもしれない、何しろ心理を抉って、剔抉することが快感なようで検事型タイプかな.もしくは玉ねぎを一生懸命に剥く猿型と言えなくもないのだが.そのような存在の自己主体とは盲信型殉教性者か他者記憶剽窃型自己主体者とか諦念型依存性者とか





いやで苦手なこの言葉・殉教(エートスとか自己性質的は別に、思想所以も別にして)を不意にある街に当てはめて見る閃きが湧いた.最後に残った当て嵌めで、結構納得できる.こんなことに何十年も悩み続けていたことになる.





縦Vs横の対立がほぼ現実世界を席巻している.おうおうにして現実世界は縦的なので、偽善・詭弁・陰謀・阿り・・・他が成立していることになる.これらは愛情の阻害は明らかである.これらの存在には愛情能力が欠如している、またそのことを考慮しない・考慮できない傾向がある.





左加群と右加群で異なる空間が自然という一般論--接触したかな.これではこれであるはずの結果になるも致し方ないではないかという思いも浮かぶ.まあ近似圏ではあるだろうから、どうやら納得感ができそうで、いや納得であるといってもさしつかえなさそうな.





水素原子核磁化作用による歳差運動制御--このようなことを知識ない小学生が思いつくはずもないというわけにもいかないようなことを考えていたな.黒体輻射内部や光の直線状に丸い点が飛び飛びにできるとか





人の身体を『層状組織』としたとき、アルキメデス螺旋的構造かスライス脳スキャン的かストレート葉層的のように線形的に思い描いたような胡乱な記憶がある.ただし地層は幅に差異のある構造は一目瞭然.自らの進退をスライス状に思考することはある意味、何らかのずれを持たないとである.



語りえぬもの前では沈黙しなければならないや原子命題でウィトゲンシュタインはなぜ蠅取りツボを考えたのだろう、ポパーに対する態度もそうだけれど、これらで西洋哲学が変化することはない--ただTLPには文学的な面で価値がある項目がある・そうしてそれが最も重要な一文であるとは思っている





仏教では煩悩克服に修行をすることになっていて、おそらく普通一般の人々にとって、あるがままで煩悩克服などできるとは思っていないだろう.国家なく貨幣もない世界は煩悩克服後の人々のいる世界でもあるように思えて、そんな世界に唯物弁証で到達できるのだろうか、夢想かも.




 
Whittakerという名前はなぜか気になっていた.日本語ではホイッテーカーと表示するらしい.!なんと”ホイッテーカーはまた、有名な特殊相対論のE=mc^という公式はポアンカレが既に導出していたことを証明した.”とある.

 
ススリン線は存在するの辺りで、V=Lやグロ宇宙と、やはりさすがに数学者は設定せざるを得ないものであったと思う.仮説はまあ可能性はあることになるが・・・




 
多元宇宙論は”完全に分断された宇宙の無限の集合は"完全に検証不可能である"”というように今日現実的に想定できるが、今日でも無限の集合の存在する場は唯一と仮定もできる.--多元宇宙論と人の創作構造は似ている.

 
ほぼ思考している領域すべてで境界に直面していたんだ、これではどうにもならない時間のなさを覚えざるをえなかった若き日であることが判明した.このことをどのようにとらえるべきか、フラクタル文章でもよかったのではないかと.そうだな時間をかけてミストレスに会い行く生活をしようか迷った日




 
ネットサーフィンしていると、さすがに過去的になりそうな自己発案と思えてくる時間経過を覚える.それでも発案事実は他者には未公開ながら事実であるのでそれが依拠になる.ポアソン的に思いだして述べると、ある種のミステリー小説の一文でもあるかのようになっているという解釈をしてみる.




 
ドメインウォールがあれば多世界解釈的なものが可能で、そうして世界創作時間の短さもいえそうになってくる.




 
覇者型は線形に足りないのではないかという考えが浮かんできた、そうなると真理は単純であるという以前の混沌タイプであることになる.一般にてんやわんやの世界では有効に作用する可能性はあるな.どうも覇者型は脊髄反射が得意であるというのは特徴であるように考えてきている.




 
1/BPS状態を心理的に悩んでいる?、そうではなくてモノタイプが1/BPSを考慮すればいいだけの話.




 
対数ワイブルなどが出てくると、カストロフィーを横においておいていたことを思い出す.




 
昔に考えた種の特性方程式は、マチャセビッチのディオファントスの中に存在している可能性は十分ある.考えた事実だけで証明があるので忘れるかというには惜しく、まだとっておこう.




 
無限遠ゼロを原点化するのならば、1/無限ループというアイデアも浮かべることができる.




 
NEWS ZEROを始めて見た.この若いアンカーマンはだれ?.--そんなに若くはなかった、時々ネットで見かける優秀な大蔵省出身の存在だった.考えるに線形優秀ではないのか?.そうでなければ第三者的視点・傍観的視点を持っている存在が、T大話法なる表現を発揮することはなかったろうと思え




 
アーノルド拡散は権力心理にも使えそうだ、そう考えるとある不快すぎるXYが登場するが、アーノルド拡散ほど複雑な脳構造を持っているように思えないのがいら立つ点、白けすぎる意味なき無駄の強制にしかならない退行者というXY,脊髄反射言明とも思える単純さかつ身体的位相という不快さがある.




 
三体問題でまたしても無限遠に極限速度ゼロでどうのこうのが出てくる.都合よい処理の仕方で無限遠でゼロになるのはポテンシャルであって、エントロピーは強大になると考えるのだが.





それからX十年、今頃チェックしているという遅さを優雅とみるか、さぼり過ぎとみるか、まあ後者にはちがいない.それにしてもおもむろに思い浮かべた厚生経済や因子や質量は価値があるなと個人的認知中.





ある夏の日、確かK大を目指しているG県の男子高校生がN県の親戚の家にきていて、そのときに因数分解を質問されて答えに窮してだめだしされた.その時には因数分解など全どうでもいい心情であって.個人的には因子など知らず、質量にも曖昧さの疑問を持ち、計量経済なども考えて、頭脳作用せずだった





物理も宇宙の統一理論・素粒子と相対性理論の統一・という一様性を求めていることは間違いない.それで、人にはその固有性として一様性的なものが備わっているとしか言いようがない.





あの小学生の時の権力の権の文字の辟易した強烈な硬さか、これも自身の持っている才能か・そういってもよいはずで、神聖硬さ型性格的なものである.





昔考えた種の特性方程式は拡大次数というようなものではなくて、拡大変数の都合よくいけば種のみの拡大変数というようなもので、ファントスとの関連は?ファントスほど都合よくいくようには思えず.





カッシーニの卵形線・ベルヌーイのレムニスケートをNo.に使えるか.No.ではなくてNo.に直接像として無限大記号と行くか.





おっとそうなると縦型構造ではジップの法則のグレードがある可能性を思い付いた.いやむしろ現実はグレード・スケーリングがあるのが普通のようである.





大学生が貴重ではなく大学院生が貴重であったころと比して、今では大学院の梯子存在が貴重になっているのか?.そうか大学生0%は貴重であるという経験則からの導きもある-これで小学生以来の難問が、こじれて複雑になって解けずに曖昧のまま持続していた懸念がようやく.解けた





人は脊髄反射ばかりでなく海馬を使うものである(脊髄反射以外を).





いまや実用的プログラムでも数千以上だそうで、モチーフ的にプログラム言語を解釈したい要求が、プログラム言語意味論にはあるのだろう.思惟の法則があれば悩まなくても済む(機械的だ)と思った若き日の逃避的瞬間を思い出す、幸い停止性問題は決定不可能となっているので、そこには自由がある.





あいつで領域・ドメイン思考をして、年後に再帰・回帰で(ヘンリー・ミラー)で、それから1年後に結び目でなやみ・厄介なと(ザイルの結びを解析しても、自らほどいてしまう危険性が生じそうな葛藤想定心理と次元)、今並列において登場--この辺がリンダに頭をひりひりさせたわけなのかも





"再帰プログラムの意味論が,結び目の不変量の理論と共通した構造を持つという大きな見通しであり,そしてそれを裏付けるトレース付きモノイダル圏の構造である."--だそうで、厄介な結び目が再帰(最近になって不動点の関与-そういえば回帰線などではなかったあの時)に結びつくとは




 
生理-安全-社会的-尊厳-自己実現の次に晩年になって自己超越を加えてにしたということか.仏教またはインド教などの修行・瞑想からの影響が晩年にあったと思われる時間のマズロー.まあショーペンハウアーも解脱考察はしていたわけで.




 
ベズーの定理や接空間から『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』はなんでもない数学的思考になってしまうではないか.どのような意図でそう記したのか無意識自動記述で考えてはいなかった思考の還元作用によっている.点の表現にかなりの数があるとか、勾配はこの移動によるからとか、なんだろう.




 
アービトラージが世界的に消滅してフラット化になる--ある意味日本的でまあそんな事態は構想してあるが、おそらく80%の領域では成立して残り0%は違った・』異なった趣になるだろう.最も80%のミクロ内訳はにはそれぞれ差異があるものとして構想している.





”アブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた.”から見るへの配慮はを以前の1・・3域に退行させてしまう-という可能性が大いにあるが、現行社会は人間パワーが強い面があり・・(経済に道徳は必要ないという意見..)




 
そうか不快な人々はゼロ知識の健全性を意図的・無意識的・自然的に歪めるという表現もできる.その歪められたゼロ知識性の修復を行っている面は常に持っている.わが心石にあらずかつわが心不確定石にあらず(ちょっと違うようないま閃かない)のような心境により.




 
カレビ・クルの生物記号学の目標は成立するのか、中でも、”人文諸学と自然科学の両立不可能性を解消する () 。”付近で結論が出ず何十年も悩みっ放し




 
そうかグロタンディークはあの頃、簡単だと思った圏や層の範疇存在なのである.今ではややこしい展開を見せているので、複雑である.そもそも簡単だと思ったのが間違いだったか、ワーズワースのプレリュード的なものがそう判断させたのだったが・・


 
”この群の基底は標準単体のあらゆる像の無限集合である。”-こんな文章を目にしていると、仏教の三千大世界世界や周期のおよそ寿命の倍数化で(あるだろう)で表現されているものは、はったり的とおもえないこともない.ただし同値関係はある.無限数域が一瞬のうちにという物理傾向からもいえそう.



どうやらあの時、動機はモチベーションなんだがモチーフといいなぜこの言葉を考えねばと思った建物のFの廊下の曲がり角近く、考えあぐねてロシアより愛を込めても浮かべたので、後に意識が00にずっと向かってしまった.このときにグロタンダィークの名前を知るべきだったと思い出した.





単体人間は単体であるゆえに、他人の心がわからない・理解しがたく・また心が無いとも考えるかもしれない・およそそんな面はあるが、単体結合して複体になるといくらか複雑さを増してなんとか・・・意識は素ではないのだが、むしろ意識アマルガムのような単体人間.





羞明が発生しているので、眠るかネットを避けるべき判断を要求してきている頭脳.単純に疲れてきているということだが.(このような表現をしなければならないので、使用していずに他者からの歪めを多大に被っている頭脳修復をしていかないとの時間にさしかかりて・他者たちの記憶にある不快な言明等)





多分に、天命とは今のところ素粒子という無機でできている人間が、有機意識を用いて、無機的宇宙と同値化・同体化するような場合において発生するものと考えてみる.





”then its crystalline cohomology is a free rank module over the p-adic integers”--結局、あの若き日に類体は時間が得ればと思ったことは、全くそんな余裕はなく、類体は基礎的素養でなければならないと





実際に、天命的時間を過ごしたことはあり、その現実還元がまことに不合理・くだらないものであるので、信じがたくその理由根拠に納得せず、考えてはいる.個人の性格トいうのに根拠してもそうでもなく、双対心理で現象解釈もできるがだ・・・.





古い?そんなことはなく、むしろ発言者の精神年齢が低く、精神年齢高き位相基準からは、機会費用大で経済的にはロスなのである.つまり過去に引き戻しという暴力をおこなうのだが、それが自然なので説得するのをあきらめるという形をとる.





やはり現象設定の条件では全くうまくいかない、そもそも現状は創作ではないからでもある.結局、思考条件に持っていくことになった.そうでしかなかったシステム構成から半年後過ぎて以来何年経過していることだろう.人気の圧力に耐えられないは幻想であったかも.




 
Claude Berge なる人物が1から00まで生きていた.知らなかった.あの雪道の水上から土合までのバスの中で、不意に外を見たとき写像の縮小が浮かんだことを思い出す.こんな具合のことは多くあるが、最近は乏しいのでまことにつまらない.




 
想定するに日本の縄文時代は法の支配があったと、その後も東洋思想・日本アニミズム的に、自然との調和部位・意識では日本には法の支配意識はあると思っている.特に神羅万象という言葉に代表されるところのもの.




 
演技的性格のXX/XYに悩まされ、現実真実感を邪魔される.演技を強要する不愉快な存在たちはまず愛情が欠如することになる.自己疎外化をなぜするのだろう・まずは共同性同化意識だろうが、その根拠は自己嫌悪感であるような気がしてきた.となるとアドラーの権力への意志になるな-という一案




 
とにかく自己意識を鏡像段階時間まで掘り下げることは、やってはいけない本能判断的なものが働いていたが、若さのカーニバル的自己損失系でもあった.そもそも対象の先験・先天位相者が自らを動かさないという他者歪め意識しかない単細胞頭脳者だからいけないのであるのだが、煩わしい不合理無駄発生と




 
ソーカルにおいて、ラカンの数学・科学に対する無知が露呈されたということを、ある事柄から思い起こす.数学式・物理式一般をやはり知らないと科学に関しての発言にはでっち上げ的・疑似的なものが発生するとする思いに至ったため.


 
コボルディズムは5以上ということは目にしている.現実世界は3次元なので何かうまい説明方法はないものか、普通に人は単純簡明に理解できることなのだが、それでよいとしても・例えばカフカの作品のような...・実存と本質で置換すればよいか、これなら結構説得力はある.




 
もう忘れかかっている種の異なった(脈絡を感じないところの)解を持つ特性方程式は、超越的ではなく解があるので成立することになる.混沌方程式なるものがあり、種の解を含んでいるものとするならば存在することになる.--なぜそんなことを考えたのか理由がわからない青春の日




 
::A=0



 
”岩澤理論の主予想とはp-進L-函数と円分体のイデアル類群との間の深い関係”だそうだということを知る.無理数とp進の関係は?





昔からよくわかっているのだが、ユダ型人間はとにかく他者の結論が出るとそれに対して、時間有効な結論であっても無視するように動きすぎる.自己の結論はどうするのか、虚偽空間に発散させて無責任の安心自由感を育むのは特徴的と認識している.アイヒマン裁判やミルグラム心理はここに登場する.





”・・・操作で閉じている「素晴らしい」圏である”、素晴らしいかね、この有限性にはいささか不愉快さを覚える(昔から).結論を出して先に進むためには有限は理解できるが、それでは無限が登場しない.この宇宙はとりあえず<有限中>として悪くはないのだが.





D-braneとKで結構まとまる.思い出せば素領域を自然に構築しているD膜といったところか.そうなると多次元に対してのアイデアとの関連が・・少しは浮かぶところでもあるな.これもNo.3で多次元はNo.辺り加味したいところである.





記憶を辿ることは蒸し返しになることは当然で、不都合な場合の仮想修正をしがちな心情、そんなことをせずともいいのにというか、修正は不可能になるはずでとなると、克服ができないことになりまたそれはまずい.





とにかく自己把握無知存在が逆になって自己投射をして発言してくるので、自己投射されても理解できないというか、その自己投射存在など全くわからない対象なのに、無茶苦茶な理知現象になってしまうことを要求してくる人々.埴谷雄高のてんやわんやの謙遜はまず理解できそうにもないてんやわんや達が





埴谷雄高の死んだののは1年か、その時にはニュースなどでも気にしなかった.吉本隆明も気にせずややしばらくしてから同様に知った.まあ大体先蹤存在は煩わしい.埴谷雄高はそうでもないが、吉本隆明は全く不快すぎる思い出があっていけない.死霊は章で結局未完に終わったのか.





明らかに感性が異なるのに、「同じじゃないんか」などと申す不快さには呆れてものが言えん.--こんな言葉を思い出すとやはり逆になっていて、自己主体を第三者達に誤解されてしまう可能性が大である.全く残酷な侵入者である.(全く小説のような現実の記憶だ)





感性が狂ってしまう圧力を受ける・反交換的存在で嫌悪しか発揮しないような存在が妨げばかり行うのは当然なのだが、その邪魔さ加減を排除できないのが不快すぎる.





神聖型のきれいな単細胞から見ると、アマルガムは?なのかも.しかし神聖型もいろんな種類があって、陰険な陳腐で実存分析的存在もいて、その悲痛さ・嘆きに耐えられないほどのものを持っている存在に憑依されてしまった形・また逆になっている可能性がある人物に何十年も会わないがしつこく悩む.





0年まで宇宙ステーションの延長--ホピの予言で宇宙ステーションが空から落ちてくるという考えはどうも違うような形になってきた.太陽の裏側からの青い星はチェレンコフ光物体としか考えられないが、この宇宙というか太陽系でもそんな現象が発生しないという保証は思わない.





英雄物語には試練がつきものであるというのは誰でもわかることではないのか?.ただその試練がなぜ成立するのか不明であったが、超自然的作用によるものであったことがわかった.




 
マイナンバー制度はジャック・アタリの第三の波「超帝国」の中の、”インターネットが人を監視する技術革新が行われる。
政府からインターネットを通じて、厳しく監視される社会になる。”とよく似ている.まあ第四の波の超紛争も現実味がある時間でもある-第五は利他主義ならマズローの段階目だが




 
ちょっと待った、マイシステムにはアフリカ的段階というような設定をしてあるな.ただ先のみ・未来志向ばかりしていて・・形而上的システムというか、世界内解析というかその他で、視野は普通に原生的疎外とか称する時間以前を含んでいるのは当然のものだが、現代物理学のアイデアや仏教思考などと錯綜




 
Yの関係は単にリアリズムのことを示していると思いつく、それの極限として考えてもいいようなものでもありそうな.なんのことはなくリアリズムとは全く思い浮かばずの時間であった.考えついたYの実感は確かにリアリズム的な体幹を保有している.愚かすぎる時間を過ごしてしまった脳麻痺情況であった




 
ストークスの定理から、人間の思惟形式はジャンルが異なってもほぼ同じようなものと推察してみた.数学の諸々に思惟形式判断を入れてみると結構面白い.人の考え方・方法・方策が随所に如実に表れている.




 
間違った、フィガロの結婚からのメロディーだった.ともかくモーツアルトのレクイエムを後々にチェックしたところ、黙示録の模倣?ではないか、これではさすがのモーツアルトにもその独創センスを疑い、タナトスの宿命に倒れる・またそんな環境時間だったと考えてみる.




 
時は過ぎ去っているのに、記憶は全く時の流れを持っていない.ときめきというのだろうか、かって認識していた無時間性とも違う今の心情.ポテンシャルが強くなるという時間経過に対して逆作用のようなものだ.




 
特にそれを強調する存在は欲望型のカザノヴァ型であることは間違いなく、またこの当人もそのイメージに当てはまりすぎるという存在がいた.




 
身体的存在を否定しえず、奪うことができないものという考え方について、なぜそこに騒がなければならないのか、そんなことは当たり前で、生理の有限時間は生きている存在すべて持っている.




 
波動線が集まることによって粒子になると考えていたが、電子が波動線を持っているかととなると?、そうなると1/00万の粒子とクォーク・電子の関係などどうなるかと、熱風がさまよっている時間だそうだが、質量があると帰着点が存在するかもである.





クリフトン・ポールのトーラス(Clifton–Pohl torus)は、コンパクトであるが完備ではない擬リーマン多様体の例--これ頭を引き裂くイメージを齎した記憶に接触するような、これだけではあるいはすでに?




 
超弦をすっかり忘れていた、当然No.3には関係してくる.




myツイッターのACにはノストラダムスが関連している(と後に知った)数値を含んでいる.



No.3に直感でなぜか導入しているクロソイド曲線.





未完成の項目は構想のみで完成にしようかなと思いつつある.0.1.0




”システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。”--ルーマンのこれ意味がよくわからない.量子的現象では個々の個性があるほうが収束は速いことは現象である-複雑性もそうであるが.




急いで閉めたパンドラの蓋のように、他者達は希望を打ち砕くものである現象に数限りなく遭遇している.





なんだかんだ言っても世界・歴史は快感で動いていると浅く全体外観で思う.性的快感・優越感・感動感・・・・





有機無機の関係物が無機物として無機的有機存在がその無機物戦線を有するという現象---という表現例




ほんと、A期的XXに対してその潜在能力を推し量ってもまったく不都合な反建設的思考しかできなかったまた、顕在的に当然の如く反建設的発言を思いきり受けたものである.これからも遭遇時にはあるだろう.まったく縦思考しかできない横暴すぎる不条理・理不尽などは考慮できない物体である.




それにしても意図の完全に逆ばかり行う人材はよく理解したとして反交換的存在なのだが、そうすると反交換的存在は、交換的存在の考慮ができないのかとなる.それでは愚かではないか、まさか世の中反交換的世界しか存在していないようにしか見えないとは




この社会構成が分かったということは社会科学の地平は成立したことになるか.これはまったく長老シーンではないか.




最近、あるところで「仕事をした.」『これが俺の仕事だ』確信を得た.アルファ空間で何度かある思いである.安っぽいところでは発動しないはずなんだが--そうするとあるところはよくわからないんだが価値があることになる--.



シェマで思い出すのは隣の家で思いついたフレームという言葉、この時にひよこも考えたので意味は不明だったが、ピアジェのシェマをフレームとしてみるとかなりうまく説明できそうである.





フェルミ型は孤独で単体的を余儀なくされる先天的遺伝構造を持っていて、単体であるゆえにその生存時間の連続においてすぐに飽和する・飽きる・うんざりする形をとる.そこに承認の要求を強烈に発揮すると明らかに暴言・横暴になる.ここに白く塗りたる墓的であるとどうにもうぬぼれしかなくなる.





どうもYからは自己目的意図を実行されているような意識がないこともない.あの時の時間におもむろにYの家に行って話をしない方がよかったような、いまだに非常にいらだちを感じている悩みを持っている.あるいはY自身の才能で関係ないのかも知れないが、なんとなく感じる.





素粒子における身体意識は、よくある戦い前に、中国武術者の手などを動かして身体に焦点意識化を行うような場合をケース例としてあげる.霊に関してはどうしても歴史時間・先祖とかから続く時間を考慮せざるを得ない.





中学生の時通学自転車の帰り道で、固定-霊-気合い-スタンダードの流れの考えを思い出す.素粒子は小学生の時に自己制御して考えるのを止めよう(まだ早すぎると思って)から、その時に思い出さなかった.霊は心理的な素粒子分野・今日ではクォリアとかだが・気合は身体的な諸粒子の息吹とは思える




フェルミ型人間の分離・単体意識は、生存を連続しているという形をどのようにとらえるのか、少なくとも現象的には考えることには矛盾している.しかしYのハイイメージ論から素粒子領域まで考察していたことを知り、フェルミ型は電子・中性子がボーズ型よりはその比重が多いのだろうと推測仮定した.



集団強調ではなく集団協調の創発力は端倪すべからざるものがあると、縄文時代の名残・遺伝を考慮せざるを得ない.





田園の憂鬱は読んだことはなく、その自己的イメージ解釈がお気に入りであったのだった.今あらましをみて、佐藤春夫の感性は洗練されているなと思う.熱風の蒙昧の中、幻想中ともなんともわからぬ熱情のネルヴァルが少し過ぎった.



昨日の中学生の時からほったらかしの菊池寛だけれど、昨日ツイートした結果考えて、カーネギー流に、自分の不得手な領域は他人を利用するから、菊池寛は小説家としてはさほどなので、賞を設定して、他人の才能を発掘する側に回ったのはうまいやり方・賢明であるという解釈に、数十年ぶりに落ち着いた.





諸行無常に関しては、考えてあることがあってやはり考えからは諸行無常的になってしまう.





科学社会学や科学哲学の語からアインシュタインの本当かどうか実際にそう思っていたのか”「もしヒロシマとナガサキの事を予見していたなら、105年発見した公式は破棄していただろう」と語った。”そんなことになるはずがない夢想であるにすぎない、科学的事実はアインシュタインの夢想では消えず





関係が自己表出であるならば、吉本隆明著作すべては説明できる予感がする.吉本隆明は自己表出者とするならば・にしては指示表出者寄りに近い存在であることは明らかなので、またその点が不快なのである.





そのある作家が日本のロートレアモンとか言った、だれが?とは思ったがが問えず、いまだに曖昧のまま記憶している.ロートレアモンを参考にはしたが、関係はなく日本のなどと、世界を狭くする弁明は許しがたい.ロートレアモンの名前すらこの半年くらい前に、ある女子大生の持っていた書物で知ったこと





頑固という形で解けたと思えて、まあ全く意味ない時間を多大に過ごしたことになったのだが、ともかくこんな解答がわからず、単純にわからない存在に対してはすでに答えは出ているのに、それに対して現実浮上に時間がかかりすぎてナンセンスな時間を浪費してしまうということばかり続いている.





昨夜のネットチェックで吉本隆明は虚仮脅し造語という言葉をみかけて、おっそうだ確かにそんな面はあると.全くデジャブを剽窃の形でトートロジーとして大げさすぎるほどに言われ、まともな意見と思ってしまった(デジャブトートロジーに気が付かず)のが問題で、吉本隆明同位相の男達多すぎに辟易





哲学的行き詰まりは今もって解消しているとはいいがたい.ただし人々の考えるパラダイム的なものは、故にああそうだそうだが・・・となる.





人間ロボット化は物理主義的あるいは行動主義的また機能主義的匂いを持つ.戯れに思惟の法則ががあればと思った哲学的行き詰まりの若かったころに、それではまったくつまらない自動機械的なってしまうと、マルクスがすでに弁証法でやっていたとは知らずに.その後、経哲草だけ読んでみたが.





マチウ書試論を読んでYがシモーヌ・ヴェイユ論を描いた理由がわかった.なるほどその当人の書を読まないとある程度ダメなものだということを認識した.





弁証法が成立する背景を考えると、明らかに男女関係でその前は雄雌関係・植物でもで主体有限束縛による限定の時間繰り返し変化形なんだが、そのようにならしめている摂理の意向はよくわからない.





単純には関係責任論・関係責任主義とでもいえて、個人主体無責任論となり、主体はなんら責任を感じることなく突っ張って物事を述べることができるようなもの.マルクスの書物を眺めた昔の記憶では、マルクス書は論理的に正当性を見たことがある.がしかし色気がないのでちょっととは思ったものだった.





永劫回帰は一回の人生の繰り返し、輪廻転生は場が変転するということで、場の中に生きている存在・場とともに生きている存在も変転する、永劫回帰には場は当然のもので、考慮されてはいないのでは?.まあ永劫回帰は願望上のもの、輪廻もそうだが.





非妥協であるとするならば、偽善は妥協の産物であることになる





深淵を散歩できると陰陽は同等意識を持てるが、フッサールのエポケーなど使う必要がないのに、エポケー以上をエポケー化してしまった、ほとんど冗談が実際の現実になってしまうという、全く不快な事象.いわゆる名状しがたい愚劣さは二度と味わうつもりはないのに、類的状況が多く発生してくる.





カフカの城に法言語なるものを設定できるのか、法言語とは何だろう.法の支配用の言葉なのかな?.どうせカフカの城は例によって未到達の物語だろうから読む気もしない.こうなるとカフカはひねくれていて消耗文章を専ら描いたとしか言いようがなくなってきている.なぜ人々が評価するのかわからない.





フランツ・カフカはイデッシュとしての位相と、シオニズム勃興時の存在寄与もあったので、欠如文学とでもいう、本質に至らない実存情態作品になったということでは・・結核の影響は晩年からだった.





呪縛という言葉がある、あるからといって別にきにしなかったが、どうも現代でも有効に用いることができそうである.そうであるならば憑依という言葉も当然あることになる.呪縛-幻想の実存的混沌を描かせる言葉を、あるよく納得できない対象にも用いることができるか判断に未決定を持つ.





なるほど焦点化すると盲点もそれなりに発生する・確かに.明暗の解釈いまだ至らず、別に陰陽論でもないのだが、ふと陰陽の同等意識が疑念を想起してきた.



身体的優位か精神的優位かでその人の脳細胞活躍キャパシティは変化するものと考えて、身体的優位のタイプはやはり海馬をそれほど使わないだろうと考えてしまう.





誰にも言わなかったから疑念を持たれてもしょうがない.述べなかった・記述しなかった理由は必然的だったのか今でも判断はつきかねるが、述べなかったという事実は明らかである.そのことでまことに潜在的に悩む羽目にもなっている・この現実社会仕組みに遠慮して..





多分に推定である種の人間は迷信を信頼しているのは非科学的であるとともにシャーマン的であることに気が付いた.憑依という言葉は少なくとも平安時代のころの話で、0世紀には揶揄的な表現として考えていたのだが、憑依のように悩ますしつこい人間が多数存在しているとは...





中途半端が悩ましている?その結果は幻滅以外にありえず..





ネグリのマルチチュードもなるほど気になるものがある.シミュラークルも多少役に立つ点がある.しかしこれらはせいぜい評論家の指摘であるに過ぎないということだけは、了解できる.しかしなれど認識している人物たちがいるものだ.




哲学的XXが少ないとすると、想像力を用いて不条理をかなり自由に行う首尾一貫性のない発言を特徴とし過ぎる存在でもあることになる.その場合の責任力は?





XX/XYである前に人間であると考えると、XXにおいてもさほどの存在がいるとは思えなくなる観察経験を持っている.





X染色体の遺伝子は8個、Y染色体は8個とは、Yは少ないな.これから単純に病気的には、遺伝子疾病はX染色体の寄与が大きいかな、未来の可能性に関しても大きいともいえるか.





ハイデッガーは世界内存在、サルトルは世界存在---もしある存在が地位に罪の意識を持たないことが自然であるならば、悲惨な位置も自然であるのか、そうなると解釈をしたくなくなるのだが.世界の要請によることになり・・・





死?-死が不快なのはまず自己の死の後に生きている存在がいることで、最高に理想なのは最後の死者となることであることは明らかな人の存在というか、カルマの理由. No.1&No.&



日本全体を見ると謂われているように、諸行無常ばかりではなく、恥の文化も特徴としているゆえに、責任がアバウトにあるいは個に希薄さを齎しているのかも.





経済面でも、市場経済に対して考えると、その先側に暗黒域が登場してにっちもさっちもアイデアが浮かばなくなり、最近では考えることすらしなくなっている.ただベーシック・インカムは成立できないだろう・経済自体がなりたたくなることになるまでは予測推定考察している.




その昔、これからは卑小だけれど市民(陽的、明るい場所の)が価値を得る・希望であるようになるとおもったが、それに付随して陰陽的なのか、暗黒域も考えざるを得なかった.この暗黒域の存在はわからぬ、漱石に明暗という小説があるが、その頃は明と暗に結構こだわる時間だった.





ボードレールのシミュラークルはポストモダン用語であるか、ちょっと気になる視点を思い付いたのと、ペンローズのスピンネットワークの視点も考慮に値するかなとも.





インターフェロンは15年日本人による発見だったのか、0年代になって抗がん剤としてとは、この言葉は中学生の時にしったが、知りたかったもう何かは、サイトカインであったと思える.





陰日なたを陰陽とすると陰日なたなくは太極ということになる.陰陽論からは混沌ではなく調和とみるべきなのだろう.




蜘蛛の糸の主人公に対してから美徳に対する欠陥指摘をする存在に対して、ではその存在の指摘以外の部分はその自身の指摘と同一位相であるはずで・超克.小学生の帰りの階段状の道以来だ.





SF的に考えるに、宇宙線を燃料に使えるロケットはできないのか、宇宙線なら全くなくなることはロケット飛行にはありえないほどあるはずで.ついでにニュートリノ推進物体などができると抵抗がほとんどなくなり、デブリも関係ない.ただしニュートリノ構造物以外に乗せることはできない.





通時的だからスパンが長くゆとりがあると思っていると、結構中途半端なのである.そうなると通時的有限を導入しなければならない.むしろ通時的有限者が多く実在しているのが現実である.





科学に哲学が必要などとは全く考えもしなかったが、哲学から見ると科学に哲学がないのは不快というだろう.





根も葉もない植物は寄生の典型で、マタイ伝に登場するある存在は特にそのような存在と認識している.でも結局自殺したらしいので罪の意識はあったようである、後悔先に立たずという例証ともいえる.





自己主体の歪めを要請され、逆になり疎外ばかり受けるこの不自然・でたらめさ、逆を認めてはいない.むしろ模倣を不快すぎると思っている.なぜ当人に当人の模倣を知らすのか、トートロジー無知か頭脳の空っぽかうぬぼれか無責任の自由か--いずれにしても自己分析能力の侮辱であることはまちがない.





しかしだ、三千大世界とか輪廻は考えるか、中間存在という閉鎖域存在者達に考えることができるのか?.仏になれないないのではないか?.あれ中間存在は閉鎖人間たちだったか・・・.それでは他者に対するいじめ・抑圧はなくならず、(何しろ、原因は閉鎖的からくるという直感があり)




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yin yang symbol--太虚と言ってしまうのは、不条理の受け入れか盲信かはてまた?ちょっとどうにもならない無限下降対処である想いがあって.




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”サルトルは「我々は自由の刑に処せられている」”と言ったそうだが、芸術にとってはまず自由が前提であるのだが.




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扁桃体( Amygdala)かな『両耳の違和感的な感触』を覚えたときか設定してしまったか.




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カルマがあったとしてもなおかつ奇跡に対して再度の要求をするということはどういうことかと考えると、わからなかった内なる神がそれを言わせる・人々はすべて天上天下唯我独尊を持っているとすると説明がつく.人は仏になれるもそうであることになる.





父親をやめたらいい--ついに返し言葉を思い付いた-ある不愉快言明を受けた父親存在についてなのだが、位相を真似する人材が多くて、個別対処をする必要がない面白くなさ・不利益さ大ゆえによって.ある存在に対して女をやめたらよいもついでに関連できる.





無限の身体は人にはないが、これからもないだろうが、無限の精神なら人にはある.故に物理主義的考え方は無限を無視している物体的な思考法と考える.





埴谷の虚体・虚空のそよ風は吹いているのは知っている、懐かしい青春の日々.死霊は故に難しいということは別になく、普通の小説であった.





No.1より引用『・・余儀なくされるおまえ、それを考えると恐ろしいきがするのですが・・』





パンを石に変えろ、という問いは、身体の必要性も含んでいるが、パンのみに生きるにあらずからは、身体の有限性を意味していると考える.





つまり無限の身体は存在しない.身体が有限であるから関係において差異が生じている.ただ命の樹の実を食べたなら身体に死は存在しなくなるそうだ(多分これは幻想).





人間が存在しているだけで持っている倫理は命であることは明白なんだが、そのような言葉を敢えて用いなかった人物がいた.関係の本質とは、まだ考えているが、命がけもしくは命的なものであるに相違ない.





帰納の解決について不可能に近い結論を出した人物を最近チェックしたのだが忘れてしまい見つからず.グッドマンでないことは確かだが.全く帰納法とは・・さりとて演繹





整礎( well-founded)-問題のNo.,悩んだ中学生・・小学生で深淵はだが、老子の道は肯定しているのに--などを考慮すると、定義とあいまみえてNo.が出てくるな.





権力的存在が愛情を無視すると、魂を無視するようなもので、こうなると愛情を無視する権力的存在の性格自体も魂といえるようなものとは普通には思わないが、魂とすると同列設定ができることになると考えざるを得なくなって.





コンビニで小雨の情景を見ながら佇んでいた今閃いて、不条理解釈もそうだけれど、不確定性原理からNo.1の難点を克服できるとして、センス上差し支えないことに気が付いた.




自我と超自我をミクロ的とマクロ的とすると、自己弁証法を個体において構築できると考えているので、他者による結果待ち・結果無視・結果超克はかなり不快に思えるものである.この場合、対自・即自を他人に対して持ち、他者の対他即自・対他対自を考慮するように配慮するものとしている.


異邦人のムルソーの過程表現が単に太陽がまぶしかったからというわけではないのは明らかなのだが、太陽がまぶしかった点に強調留意して、不確定性原理から時間をかなり短くしたときの心理状態を形成したと考えてみると、人間の精神形態から太陽のまぶしさに連関した行為を行う可能性が十分ある




潜在モデルが悪いと詩など未然的欠落思想を述べて全くの桎梏になってしまう思いをしている.閉鎖中間存在がモデルでは全く不自由な面白くないものになる.ただし本義的本来的でなければ中間存在にとっては有用なのかもしれない---と今浮かんでびっくりしている.考えたこともなかった.





猿と人のDNAの違いはほんの数パーセントらしいから、ホモ・ナレディを読みながらアトラクタシーンを思い付いた.間違いないのではないかな.





常微分や常差分でレスラーやエノンと--そうだったか.常微分と非線形なら常微分を避ける必要もなかったのだが、フォールドしてくる混沌はさすがに一瞬の答えは出ずであったので.サドルノードはまあありそうな話し過ぎる.





身体意識の精神レベル低み存在は、乱暴で時間の蒸し返し過去帰りやり直しになり無駄なのだが、当人にとっては現在時間の充実時間の情動発露による発言だろうがが多すぎて、厄介な気分のナンセンスな体力消耗要請にしかならない無駄が全くやはり多すぎる日常.





器官なき身体は、フロイトのリビドーを客観させてこの現実・宇宙に当てはめたようなものか、エントロピーではないか.
02242016