2018-07-29

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Mの国家なき経済無き社会は『現状維持無限変革』の結構近そうな腕足頭スタイル持続前提の事象のようで、Mの理屈から言えばそんな社会の中からまた何か異なるものが発生する事になるけれど、それを示していない批判同様にちょっと想像つかない.ただスタイルが変化する事は多くの人が想定済み


   
           






 

別に現状維持のスタイルにこだわってはいないが、繰り返し内部発生感からは永続性もあるなと同時に史記の世界も浮かべる.史記と言えばユニークな人材がいて研究成果を書物化したらしいが取り憑いて好きなものである.


   
           






 

なんやかやで永劫回帰を浮かべるが、クンデラは未来志向的に重さを考えたと推定できるけれど、ニーチェの永劫回帰が成立するならば既に現在も永劫回帰的でなければならない理屈になると思い付く.未来に反復するのならば過去からも反復しているはずで.まあ人は未来を志向してそのように生きるものだが










 

数学はヒルベルトの夢であったはずが、ブルバキやウィーン学団からゲーデルの不完全性定理やグロタンの宇宙と来て、グロタンの宇宙は確かにそうであるが、ならばどうするかやどうすればはあり、閉塞とみればそうであり流すとすれば現象哲学になり…









 

考えるに縄文はフリーダム的で弥生はリバティ的と思える










 

自由に関してはリバティとフリーダムの違いだと昔から思っていて、リバティから見るとフリーダムの自由は秩序未発達の野蛮的に思える不快で、フリーダムから見るとリバティのやや束縛的自由は自由の抑圧的な不快となる.リバティは共同感ありで、フリーダムは個的でもある.


   
           






 

火焔土器のデザインは実用現実的なものとは思えず、少なくとも火焔土器の頃には象徴としても宗教的なものはあったと推定する.









 

その頃幼稚園児にバレンタインデーにシャツをプレゼントされて往生した記憶がある.今頃どこにであるが、思い出を訪ねて散歩に行ってもいいな










 

ヒッグスが個あるとかを読んでまさかの考えが破綻してうんざりする帰納の未決定性、だだのヒッグス場の距離関数ではないのか…とはいうものの認識論があるから個とかいいのだけれど、他者に付き合う感覚が煩わしくなる気分でもある.前提としてワンパターンや持続は不快だけれど、変化を設定せねば


   
           






 

少なくとも人の一生時間のワンパターンや持続は長すぎる疾走する別に悲しみではなく意識というわけだけれど、こうなっては対称性の破れなる元は対称がおかしくないかと思うようになる.ダークマター量が適切としてダークマターに関する対称性をどうするのかとか考えて…










 

どうも最近ペーソスがまとわりついている.このペーソスに合いそうな記憶は昔のままのミストレスだけれど、彼女の一言に強烈な反発心を持ったけれど直ぐに消えてどうでもよくなりが一応重要な寄与を齎した形と勇気がないほどに常識感もあって.


   
           






 

しかしこの最低最悪な悪魔的とも思うxxが良いわけないだろうに全く










 

ミルナーの芽の計算が無可能かもから、無可能なる言葉の存在を知るなれば非可能否可能もあることに、不可能しか考えなかった.不可能でさえ鼎立であたま混乱し整理出来かねるのに…⁈
双方ケース設定すればいいのか.









 

ある眺めにグリーンが出てくるので眺めて見た.Lや多重散乱が出てきて、ポアソンとの相関となるが、ポアソンとラプラスでKにラプラスを当てはめた時にポアソンの陰が纏い付いたけれど考慮せずにまずったのか…今はその記憶に対して超ラプラスに救いを求めての感はある.・散乱に時間は必要と気がついた









 

ただ内部の横取り?模倣?剽窃?僭主化のxx&xy達には困るけれど、それも事象として持って行く前の意識の流れの葛藤ツイートが記憶の為に多いのも確かなACではある










 

帰結は自叙だから恥的はオミット空気で-例えばカウント関数は空間のハウスドルフ性にシューベルトのセレナーデが歌える空間だった事で-つまり告白のやや瞬間深さの考察がありルソーだなだけれど、ローマの告白は知らずしてローマはウェギリウスのみとしてで、ツイートもそれに沿っている筈


   
           






 

問題はざくろの気から離れて無花果の木が池の近くにありそこで空孔とは関係無いある事を想起した事が個人的に重大な寄与を与えて色々錯誤を行使した形となった事で、しかしまざまざとリアルに見え過ぎで、論理的に繋がらない事やその先を見て、それはまだ保留にしてあるけれど…池の魚に何を見たか忘れ










 

自由ボソンに/を加えるとはそれでいいのかだけれどディラックの述べたように展開しては難しくなるが、空孔を考えた時には、自由な動きある空間と半分の左側に細分化の格子四角形平面があり、そのうちのひとつが黒く丸く変形すると空孔である浮かべに何となく繋がるような


   
           






 

リーマン面のパンツ分解図はちょっとヒントになるな









 

可換から滑らかに非可換へ移行するか.逆もあり-それともメビウスの輪かクラインの壷かダブルスタンダードととかく称されるTLの言明の根拠.共通集合なく補空間を渡る作用とか









 

ディラックの美しさは簡潔さの真理表現を示している.'物理学者は難解を平明に語るが詩人は自明・当たり前の普通を難しく表現する'は面白い視点である.笑ってしまう所だけれど言い得ているかも.










 

ディラックの'物理のほとんどと化学の全体を数学的に扱う基本法則はわかっているが、それを適用していくと複雑な解けない方程式になる事が困難なのである'これは戒めでもありサポートでもあり認識論であり熱第なのである.


   
           






 

ペンローズ図の現宇宙部位の第&第象限を参照したけれど、現宇宙内にともかくブラックホールがあるのでは無いかその反対対象なら現宇宙内にホワイトホールもあることになる.ただしブラックホール&ホワイトホールの無限遠はどこにつながっているとかは不明である.現宇宙の対象位置のものは無いと考える









 

スマホを使い過ぎたのか日前から肩甲骨が痛く身体が曲がりかねる.その他にインベーダー的存在が巣食っていて、内部を見るとあるxxである.会った時には反発した誤解を受けた無理解の無さを今ではわかる等質空間を経て自己が変な位相に位置して、これはなんだと思ったxxだったがその時には気がつかず


   
           






 

双方の立場を明確にして誤解それも極端な誤解を解けば理解可能な仲良しのはずの相変わらず憑依的なxxの位相.xxの方が意地というか倨傲なだけなので、超対称性理論を今頃やっていて-多少理解して-誤解の反省をしていると煩わしさ無しを願うけれど無理かも.


   
           






 

またあるF型xyが同じじゃないんかと同調を求めてきたのにも閉口する.最もこのxyは正に正反対の事ばかり述べた実績があるので、無知でなく自己自身を知れば同じではないことを理解する筈だが、これも巣食っている一人でしかも主体を他者と同定して歪めて、主体乗っ取りタイプで困る.










 

そんな遠慮しているとこちらが冴えずになり過ぎである.これは不自然でそんな幕を開けちゃダメとか、開けているのにおかしく頭の引き戻しを浮かばさせる潜在能力の無きxxを相変わらず記憶は想起している










 

量子力学=ディラックと言った人物がいたそうだが、ほぼそう述べても差し支えないだろうな.書物を読もうとして躊躇ったのは小学生の時の自己制御と後に遭遇した時に、頭を使っちゃダメと無意識に浮かんできた言葉の対象のxxの抑圧があったかも.頭を使うとこのxxの存在価値がなりすぎるからなのだが


   
           






 

寡黙さの単位とは笑い話だけれど.く空孔の陽電子的はあの今は無きざくろの木の側でから後に、読もうとして読めずのディラックの書物の難解さ予感にせよ体育館側ブラケットは浮かべていた頃は当然懐かしい.ディラックその才能はギフテッドのモデルがふさわしいと思う.










 

レ点的な道路を曲がりながらボーアの何か考えていた、膾炙の相補原理であるが、方程式に書けない逸話を知りなんとも.'わたしの方程式はわたしより賢い'の意味がわからないけれど、witには違いないと思う.必然的になのだろうけれど納得できない感あるモノポールから電荷はディラックだったのか


   
           






 

疾走する悲しみは溢れすぎる曲想により自らの作品をじっくり味わう暇がなく、現在の連続になってしまい刹那主義がよくわからないけれど、刹那の連続的になるので落ち着いた深みを味わえない事による









 

中学校の英語の教師が相沢忠洋-ただひろだけれどチュウヨウと発音-の名を出した記憶がある.なんだか英語の話と違い熱弁をしていたのは覚えているけれど、聞き流して岩宿の発語は辛うじて耳にした記憶がある.そんなせいか何でも高崎に赴任したと後に確かかどうか聞いたことがある.



           






 

情況は不変ではなくある有効時間を持っているものではないか.大体進歩型は不変では変化せず、不変を脇に置いて変化する対象を対象とする筈である.往々にして進歩とは有限進歩で有限自体は不変なものとして拘束的な様相を外部に呈する形なんだけれど、相転移的な変化を求めがちかな









 

男女同権から炭鉱仕事あるけれど、特攻に女性も参加した形だったなと時空を超えた過去的小説的夢思考が何故かここ数日に浮かんできた.何故なのか?、零戦くらい女性も操縦できただろうと--終戦日周年が近づいているから浮かべた?










 

思うに今までを振り返って忍耐を強いるかたちのもの遠慮を余儀なくする人々とかは否定している事を思いつく.忍耐や遠慮するケースのxx達は嫌っている事明らかで無関係無関心を欲していると.勿論自由を邪魔して来る強制や忍耐を強いるxyなども好むわけもないが









 

'局所剛性はタイヒミュラーの孤立点'とか、小学生の時に光的として直線状に線と不連続点を考えたけれど、曲線となると時空が曲がる事になる事に宇宙項自体関係していないか?、関係していないとすれば別視点要だけれど









 

あるxxに関してなんでもない事だったのに我慢忍耐と引っ張り過ぎをした愚かしすぎる無駄をした事に気がついた.ほんと名状し難い愚劣感は不快すぎるのにそれをエルゴード的にした形で、なんとも大ミスであった事に気がついたので出来るだけ埋め合わせをしないと.全く過剰に不都合を考えさせる存在で









 

必然的自由には建設的雰囲気がある.この仕事を一生するやこの人と一生添い遂げるやもっと短いスパンで日常の選択で必ず行わなければならない事態に遭遇がある筈でそれが優先されるものとか.ある視点からは感動が人を動かすもそれだな









 

臆病故にリスクが怖いでカントの物自体がさっぱりわからなくなる.勇気ないゆえに時間ゼロが怖いので次元が白け過ぎて不都合に、最も勇気は次元が低いので使いたくないとも思っていたけれど.そんな境界時間的の思い出---の続きをしなければだが









 

逆作用、例えばのz=x+yやCetなどはFvBからかもで、FのB交換作用ではなくFがF自身に対してF作用をすればいい話なので誠に不必要なFの放擲感にも困るものである










 

矛盾に対してひとつを選択しようとして選択しきれなかった存在は中途半端である.結果論的と話内容から-とは言ってもなんだか自己内部的を聞いたのでそれがトートロジー不快なんだけれど-そう推察できる存在がいていざと悩ますものである.


   
           






 

個人的に楕円曲線を試みにイメージした時はひとつの曲線に半順序サイズか乗っているようなものでその端点が不明なのは無限遠までありそうで手に負えずとサイズが旗的ではないとしただけだった.ふとある遠距離地点からの光がその間にある星々を曲がってくるとして、通過星々サイズが半順序と擬え浮かび









 

つまり名状し難い愚劣感や愚かしすぎる不都合無駄時間を過ごさせるようなxx達はそれだけその当人が愚劣な無駄な存在である事になるのだが、至って当人はその傲慢さで思わないだろうな.










 

あるxxの弟がいて、それに対処した固有な事を他のxx&xyがそのxxの弟と思い込んだ形で、その弟に対処した少なくとも固有のの一回生のものを他者が全く風車を人間と夢見ているように根本的な不当をしてくるのは愚劣な不快で、固有対処を模倣するのならそのオリジナル対象に直接すべきなのに不自然すぎる


   
           






 

そんなに他者にデタラメ荒唐無稽の強制をして非可換に酔っている無知達には、そんなにそうしたければ自己にその理不尽非条理不自然を向けて見ないと迷惑がわかりそうにないので、是非自己に向かってしてもらいたいものだ.またそうでないと不自然で自然が許さない筈なんだが…


   
           






 

自然はデタラメだとかデタラメな自然を生きているとかだと考えを変えないか考えもしないか.てんやわんやと謙遜してその洞察力を発揮した作家がいたが…










 

数ある可能性の中または二者択一からひとつを非妥協的選択の情況の事を必然的自由と言う.不条理でひとつを選択できない時には非妥協が成立しない.生理物理有限体ゆえに必然が決定が伴うのだけれど、思考観念上は無限とか想定できて必然から離れる事は出来る.要するに生理物理有限などは当たり前の事


   
           






 

無限とか仮想とか想定できる情態にする事も必然的といえばそのようにも言える.










 

フェルミオン的性質が有限に寄与で重要たは、そうなのか縮退からは有限が連想できるけれど、f型は不定積分的に直感で見えて意外で、考えてみればそうなのかも.そうであると不定積分はミスか?、経路には確実に存在するけれど不定を経路的に考えるべきだったというか、面倒で当人たちが自覚する自動性を









 

不変量を用いるのにも抵抗あるのに余不変量空間の層化とか余真空とか、物理的用語をまた叙景用語も数学で素直に用いているとは…お陰でヒントを得たけれどその理由はわからないが考えないとだ.









 

数学は得意と申したxxがいたな、今頃はミレニアム問題のひとつあたりの証明しているか未解決問題を解いているか位の事はしているだろう、がそんな話を聞いてはいないなつまり得意レベルが低すぎる突っ張りに過ぎないので、くだらない自己主張はしなくて良いと言う事だ.全く人の内部を不快に邪魔して









 

非線形方程式は難しいなと思っているところに数学は得意などと申す単純無理解なxx、得意でどうにかなるようなものでは無いはずで、別に数学は得意では無い自分だけれど.まあ俗物の完備意識、明晰志向は線形問題にしか通用しないのは明らかで、それをなぜ自覚しないのか不思議で、親鸞の悪人になるな









 

なんだドゥルーズのリゾームはエントロピーの事かと漸く気がつく.あの実証実際実行辺りの区別がつかず悩んだ小学生のとき、道路脇な杉木立に見える笹の根の曲がり具合が気になり、何か考えてリゾームについては親近感がある.実情実践は考えず実戦は考えた気がする.校庭からの下り坂道を道路に出た所で









 

あの頃の新宿紀伊国屋で考えたモンスター群には何かあるはJの事だったとしていいな.直感は作動したけれどそれに関して考察の余裕はなく、位相視点の違いと頭惑乱中から冷静に眺めることができなかった月の輝き関連.夜に見る月は純粋な輝き明月止空だけれど、関連に関しては奇跡的出現があったりで…









 

全く逆になったxx達もだけれどxy達も不快すぎるもので、なぜそんな不自然非常識を行使して平気なのかその心理がわからない.ひょっとして薄いとしていいのか、そう思うほどに自己に自信は無いが、それにしても愚かな他人達とは思う.









 

形式的には必然的は可能性の中からひとつを選択する事象で、マラルメ的なかな必然のネットワークを考えたのか可能性網羅の自由を 考えたのか、坂道を下りながらかく考えた日










 

最大値的ホモロジーとすると双対として倫理的コホモロジーが来るが、ポアンカレ双対がイーブンより相克を齎すと思えるのはねじれ群に繋がるかな.









 

対立を煽る弁証法の執念か?










 

どうもおかしい、猜疑心が強いなどとなぜかいたのか、別に猜疑などせずのはずなのに、ただ誑かしに遭遇する懸念はある.あるxyがこの頭の狭間になぜか侵入しているとしか、関係ない家庭の姉弟なのに関係結節が生じた形で?…その弟がf型で確実な事実なのに疑いを持ち、全く分からん.なんでも反対に取る


   
           






 

犬儒に楽しみはないのか、いや冷笑する事が楽しみなはずで、となるとデカルトの我冷笑すゆえに我ありとなり、シニカルに現実を見てはいない.諦観とは気がつかなかった、諦念者や諦観者は生存過程を諦めさせようとするゲーテ的には悪魔的存在であるとなるが


   
           






 

ずっとサボりすぎ、ポストモダンに酔っ払ったりして頭混乱させたりして、なんとなく紐が動けば面的とはなるほどの基本で共形をなぜ騒いでいるのかや正則写像がインスタントンとはあいかわらずわかりづらいけれど、有限ならあの時の場に特徴の横長のイメージ描像はインスタントンに関与しているとは思う









 

雨は降っているが知らないではなく、雨が降っているのは見ているけれど、内面を見ているので透過しているのケースで、例えば最近でも道路で立ち止まって静止状態でそうしていると他者からは異和感を覚えるような生命的動きが無いとかかな感じるようだ.


   
           






 

もみじが裏や表を見せて散らなくとも、風に吹かれて表裏を見せてもその枚に表裏は付随しているのであって、人の人間の超自我と自我、実質と公共の裏と表はその人人のもので、他者の実質内部の悩みや目的とかを外部他者が指摘して調子付くというケース多すぎ


   
           






 

シモーヌ・ヴェイユはまさかの生理物理体忌避性を持っていたのだろうか?その重力の悩みから.無明がわからないとはシモーヌ自身は無明を悟り的なものと想定して、無知のままで至らずであった自覚者であったとなるか…









 

観測問題に対して実在のものであったと考えてみると、既にその実在は変化していると考えてから、今見ている星光は過去に実在したものであるとなるので、なんか結びつきそうな思いがする.だだし時間は何十億光年と/^xの差異があるけれど.光子に質量なくてもニュートリノには重力があるそうで









 

まあ人はその優越原理から既にダメであっても自己をダメと思いたがらないものである.因みに何をやってもダメだから作家になったんだと表明した人物がいたようだけれど、これは苦悩に関しては人に優越できるという事を示していて、その点でプライドは高く矜持力は強い事を他者達は誤解しているかも…









 

最近模倣や逆は演技に過ぎないと漸く頭動いた感はある.なにそれは正直などと申す存在が逆になりなおかつ他者演技を強要するとはの記憶がずっと不快である.さらにそれと位相が同じ存在が多数出現して来て往生するが、これらは無知の未熟で自己自身を知らない横暴なデタラメ野蛮性を有していると思える










 

f型はパウリ的故にその本質は他者排斥による自業自得の孤独性を有していて取り付く島がない.にもかかわらずその孤独感対処出来ない時に甘えてくるので始末に悪い.スーパーチャージ感を見ているのかしつこい経験がずっとある.勝手な押し売りをして逆になりfを押しつけ、bと思い込んでいる欺瞞がありそう


   
           






 

p進は→∞でになるはその構造上そうなるのでグリーンがまたしても登場する事になる









 

嫌だ嫌だと思っているしつこいF型経験から、知らなかったスーパーチャージQを持っている事になる.大体誰がスーパーチャージを導入したのか、あの今は変形した坂道を登りながらそのしつこさに抵抗できなかった小学生の時の記憶がある.嫌いなものは嫌いで抵抗できなくても嫌で不快なものである.


   
           






 

f型が勝手にqを持てばいいだけの話でもf型自体が不快で.しかしなるほどQとはねとは思っても寧ろQに呪われているように思ってしまう位に不快感がある.感情心理を持たずに適用せずに客観的な物理者は前に進むだけでいいのだろうけれど.理論整合性ゆえの展開として










 

スターリングエンジンといえば効率の良さと永久機関的ではなかったか、それを知った時にマクスウェルの悪魔も考えた頃で、いまはその内容はどのようなものだったか思い出せない原論の自由は沈黙に対してこそあるとした頃の青春.


   
           






 

『大きいものは大きいが、小さなものは大きなものより大きい』No.より引用.適当な円柱サイズについた適当に小さな染みは円柱サイズを細くすれば円柱円周サイズまで大きくなるという後半部.第文字へのペアは寧ろNo.・にリアル的に使用できる.









 

虚無の諦念で赴いた所である対象に閃いた.全くわかっていた事に気づきが遅く結び付かないものだ.この閃きは間違いないという自己直感がある.


   
           






 

逆作用特異点をベアにする頭尾遷移において、釣り合いを加味しながらワーム移動が対生成・消滅の確率は使える
かと思ったけれど、やはり使えるかG文字に









 

武蔵美のxxを誘いきれずその後他者が設定したがる拗れた無理解白けxxのしつこさと卒業云々のミストレスの頃なのであるのと想定の何故ダメなのかの理由xxとU市での存在の軽さ的な浮かべはミス過ぎの過剰のこの認識の一般論的に惰性した頃も携えて










 

ポアンカレ双対を勘違いしていたが、誰でも見て思いつく事なのにとしていたものがポアンカレ双対だった.故に古代ギリシャ人はポアンカレ双対を考えなかったとは考え難くなる.あのガラス窓面の透明的な部屋で寝転びながら浮かべた今更ねじれとははねじれ群という事にしようと思うあの頃


   
           






 

昔陰険で見た目そうきれいでない汚い不透明なxyにアマルガムってなんだと
言われて、愚問過ぎて答える気もしないエゴイストがいたな.嫌なのでどうでもよく避けようとしているのに逆ばかりでインベーダー的に侵入してくるというタナトス的フェルミ型をそのころはそうだと思わず、いまだに邪魔な記憶に


   
           






 

当人達はナンセンスな無駄とは思わないのがミソな点である.そんな思いが多くあると親鸞の悪人をやは幸せだなとうかび、面倒なので親鸞に全て任すと思いたくなるものだ.ここで親鸞の悪人とは無自覚の事無知人間の意味としている、善人は当然悟るまでは行かずの自覚者である意味になる.










 

他人の事ばかり考えているというセリフがあるけれど、無自覚な雑草俗物やグロテスクな見た目や破廉恥な見た目存在が他人の事ばかり考えると逆性で、恰も考えている他人を無自覚存在と見る可能性高くバカバカしすぎるので、いいから自分を見ろと言いたいのを我慢してロクな事にならない経験が十分ある









 

自然的生理的でないと虚偽と思うxx達は思考意図を無視しまた美的感覚も無視しがちで、思考自然美的自然を歪めるので困る.自然生理的は動物的で弱肉強食的なので、思考や美的自然にとって暴力的また発言もそれに随する形を取るケース経験多く、嫌で不快なので好める訳のないxx達









 

これはホモロジーの最大値原理構造によると考えつき、秦成立後に墨家が消えたのや初期キリスト教か教会的になった事の了解に繋がる


   
           






 

ユークリッドの点を採用すれば超弦理論は実用的である.









 

縄文人は道徳的で弥生人は洗練的に判断するだろう










 

野蛮というのは道徳モラル基準か洗練度基準かで認識が異なる.概してEUなどでは洗練度を基準にして、日本では道徳基準かな


   
           






 

日本人でも洗練度基準者は多いと思われるけれど、叙事的存在が官能を無意識に用いて洗練を基準にするのには閉口する.叙事的存在はフロムに倣えば権威主義的倫理の善意だそうだが、普通権威主義的存在者は他者を支配束縛したがるもので、支配束縛は諦念を要求しがちで、ゲーテにせよ悪魔的志向だけれど


   
           






 

リベラリズムとリバタリアニズムで印象としてリベラリズムは個人的でリバタリアニズムは集団的だったけれど違っているような…アナルコ・キャピタリズムがあるのか.リバティの対義語はフリーダムであるはずとしていた.ソーシャルリベラリズムに対してネオリベラリズムの対立的があるのか?


   
           






 

とにかくこの辺区別が困難で頭困惑してくるので整理しないと.積極的自由はパターナリズム要素なのか、どうも自由の邪魔ばかりになる積極自由には男女は関係ないけれど.スパンの長短程度の問題で、中間存在や有限存在は必然的に積極的自由に赴くものだ.










 

自由と平等が可能なのはレーニンの自由=必然で、必然的自由にはリベラリズムの香りがする.なお普通に社会生活者はカルマを持っていて他人に迷惑をかけない限りの謳い文句は不可能である.悟りを得た人物や聖人は迷惑度がかなり少ないとは思うけれども.









 

カロロンやN=・・・・や形式や超共形など考えることなどし得ずのあの頃のや次元.そもそもがまさかの空想虚偽的なものだろうの判断があり、次元も可能性はないとはいえないけれどやはりまさかの見えないものを考えずらかった.因みにYMは知らずで無理に又は大胆に考えても良かったかなと今は









 

ユークリッド化のインスタントンを以前に見てなぜユークリッドに戻るのかつまらないなと思い、暫くそのままに今インスタントンを見てさっぱり頭に入らない、理解しがたい.何がインスタントンなのか要領を得ず、バウンスは見た事があるがトンネル粒子がまた戻る発想はなく…虚時間でユークリッドだった









 

Gは少しのAを当然持っている.AがAである限りと同様にGがGである限りAを行うのには次元の差・相転移的な障壁がある.










 

A期はG期に対して欠如距離があるので、情熱がGを求める形として成立するが、ただしAがGに変容する事はちょっとの部分ではあるが、ほとんど無いと思われる.Gにしてみれば蒸し返し疲れるそのバイタリティのAであるとなる.このような結果AがAである限りにおいてはGにパワー強要バイタリティ圧力を与えがち


   
           






 

リュック・ベンソンの映画はまあどれも面白いな.ニキータを見ようか見まいか迷ったことがあり、どう見てもハードボイルド触れ込みなので見ずに.その後レオンを偶然に秋葉原のNECのミニシアターで見て面白く・回異なる形でかな見た事がある.マチルダその愛の全ては昔からなぜか刷り込みでその理由不明









 

インスタントンは年からあるとは⁈.年代か年以降にその言葉を知った記憶である.個人的なインスタントンではないかのイメージは天の川の中央線の暗い部位を回転して横にして短い部位としたものに似ている.黒さの比較で星は点状にないけれど印象度の黒部位の為に似ていると例として.









 

もう記憶が薄れてしまっているけれど、なんとなくマルコビッチの穴を思い出す昔に場の黒に特に目立つ黒で横長の領域を想定してかなり衝撃的な手応え難しさを思い出す.これをインスタントン的なものと想定していたけれど.kが〜位の想定でただしソリトンではなく連続幅領域だったけれど、なんとなく









 

間主観性は別に当たり前の日常で別に現象学で説明して貰わなくてもの対象と思う現存在空間だけれど.前意識から意識相互主観性の考え方は、無意識自我超自我と同じで別にであるが、間主観性の対象空間は共同体であるところの超自我社会であるのは明白.こんな感じで現象学は軽くつまらないものと昔から









 

エンタンクルメントの対多も進める考え方だなと思い、無限に宇宙がありそのひとつの宇宙にも無限の宇宙があるとすれば、難解な複雑さも説明できそうだが.しかし基本的粒子が無限にあり、その粒子出て来ている粒子もまあ無限にあると考えられるので、思考法は似たようなもの.これが切り無いのが問題









 

レプトンとクォークは分離以前は同じものだったとか、モノポールが電流を生じるとか、ラプス中でなんとも知らず.大統一理論は重力が含まれていない?、これ統一化は人の志向性によるな、しかし無駄な所為である視点も持っているが、認識論的には面白く…









 

とWの不変量の等価予想の証明過程中を反証ができないからといって物理又は数学的ではないとは言えない.明らかに科学的にもかかわらず過程は反証明できないので、科学の問題ではないや科学的ではないとは言えないので、ポパーも結果論的か










 

ポテンシャル切断はワンパターン人間は一定ポテンシャルでずっとしていて、減衰とかしない理屈なのでポテンシャルの切断になるが、生理体の時間経過状態とは矛盾する自然があるかな










 

結果が出てからそれに反応するは自己分析しながらだとダブルトートロジーで、磁石の&・N&Nのような反発でしかないが、出た結果は既に秒後だろうと過去のもので未来ではなく、蒸し返しでしかない事になるとは中学生の時からの思いである.










 

アローの不可能性定理について考えた時に、リベラルやラディカルや保守反動にせよ何か故にいい方策はと思ったけれど頭動かずさっぱりで、昔は市民が希望と思った事はあるが-ただし暗黒が付随していたけれど-民主主義は難しく安易なものではないなの認識が年くらい前にありそのままずっと…









 

aとbと不在のcがいて、aとcはかっての事のケースにおいて、bが自己をaと思いaをcと思い、aがcに言いそびれた自己抑制を無視して、言いそびれをaに述べるがわからない.aにしてみれば述べるならcに直接述べよなんだけれど非常識理不尽で誤解では済まされず、ここで錯認それも二重錯認を考えて見た.


   
           






 

で閃いたというか気がついた.脊髄反射ではなく反交換のギャップでフェルミ粒子とポーズ粒子の差異で当然超対称性は絡まってくると.間違いないなというかこれなら納得で漸くある項目をパスである.(しかしまだ難しさが続く設定になっている)









 

『』はその存在を数人は覚えているかもしれないが、内容は誰も知らないオリジナル文章よりの引用である.自分でも覚えていない…ただ項目当てはめがあり数人の女子大生に聞くとあるx番が多く、それはその個人にとっていいのだけれど、自己都合はそう良くなく設定一致がいないので質問をやめている…









 

ミルナー数から『接点の影に隠された無数の線を見よ』だったかな忘れた、点を見よでは無く、無数の曲線を見よ
だつたかも、接点ではなく接線だったかな.何を考えていたのかあの頃の今頃の夏の日









 

多世界解釈と次元包みは考え方としては似ているところがあると浮かぶけれど









 

自己同一性の自覚が無いか若しくは出来ない場合は汝自身を知らない事になる.一切の制約から免れているのは高々自由である事で、関係の本質は自由であり、自由が絶対であった思想はなかったとは言っても、生理体自体不自由な物理体であり生理時間体でもあるので、当然死ぬまで不自由が付き纏う


   
           






 

そんな生理の不自由の緩和は子孫への託しが生理面でのそれで、生理の有限故に自由は精神面思考面にしか取ることはできないのが、人間の現状である.生理の有限現実面から見ている限り、現状では自由は不可で緩和がそれなりにあるか、自由な思想はどこまで行っても無理だろう.










 

有界線型汎関数なるものがあるのか、盲点だったけれど中間存在一般は持っていそうでもある.汎関数が有界?とはそれでいいのか、なら'みんなそう言いますよ'は出てくるが.まあ中間存在体のみはそれしか考えられないだろう.










 

'カフカを読むといいてすよ'も不快で
-ベケットを読むといいですよ-と言うのなら多少都合いいのだけれど、やはり間違った対象はダメで全く無駄ばかり要請する原因であり責任があると思うけれど、模倣依存で無責任や無自覚で無責任を認識している傾向がある、それでは心神耗弱的ではないか.


   
           






 

因みにカフカの評価が高いのがわからない.カフカは境界的で呆れるほどの
閉鎖壁作風者で高々実存者で夢想家である










 

教条的タイプワンパターン人間は無生時には突然の切断感覚が強いのではと想定したりする.誕生はある種の断絶とも思ったり、論理的には後天性権利獲得だけれども









 

一定が消える時は普通減衰の徐々性あるいはそれなりの速度急減少でも、減衰現象はない理屈になるので、突然死を防ぐには一定に変化をつけたりすると可能性が高くなるかな?、ところが一定者はその安定感を離さないから突然の切断を行使するかも知れない.現象にあるものは一定か寄与しているかも









 

それでもそんな事は忘れて我慢していたけれど、結局間違ったやり方ではダメと同様に間違った女ではダメなのである.最も他の面では有効なんだけれどそれも信じ難く未だに認めがたい記憶がある.信じ難いより不快な気分があってだ.まあ色々齟齬を考えたりして、他者達が誤解に調子付く所がある事になり…


   
           






 

目がさめる前に思い出していたのは、そのあるxxが、電話で'みんなそう言いますよ'と言ってきた事で、その頃は今もか、クリエイティブ意識強くみんなが述べる事などはどうでもいい、なぜなら明らかにクリエイティブではないからである.このxxはなんて事を言うのか、生きていなくていい位の事を思ったな


   
           






 

あるxxが上下と発語してまさかのヴィトゲンシユタインの哲学は科学の上か下かの事かなんだかわからなかったけれど、論理学は自然科学の上か下であるだったようで.短絡ミス記憶をしていたか…モーツァルトのレクイエムには参るタナトス発言者で最ももっと会話をすべきなのに、離散抽象で終わる事になり









 

R多様体の特徴づけは代数では無理だろうを見て、以前にツイッターで代数をやりなさいはどうなるかと自分でも数学は代数と思っていたのがまずくなる事になる.まあ代数である限りは数学という一分野領域は成立するという事なんだけれど









 

ホーキングのアリストテレスからカント迄のカントは認識論故で存在論的ではないという事だろう.ヴィトゲンシユタインは哲学の凋落か、となるとポパーに対しての見解を知りたいがどうでもいいか.カントからフッサールは退歩の視点を見て妙味あるなと思う.フッサールの現象学は甘いの即直感があって


   
           






 

にもかかわらずする必要の無いエポケーなんぞを試みた事があり、実存の場のよくある深淵などを描いて止まるという無駄をしてしまった事がある.










 

逆というか他人の既知な思考なのにそれを気がつかないで当人に述べてくる存在は一体何なのか?.その時点では気がつかずに応対した反応から考えるに、これらの人物たちは当人を歪めるこたから、なんらかの自己嫌悪を持っていて、他者の思考でそれを隠したがりでは無いかと


   
           






 

無限遠挙動は不明と思っているのにある書店で俗物明晰なのか中間有限の即物感によるのか誰かの声ではっきりしろの内的声がした記憶がある.発散繰り込み不可なら明晰化は出来ず、ただグリーン関数が出て来るとポテンシャル論とは思う.


   
           






 

青春の日々にグリーン関数などつまらんと思った事はそのままずっとでとディラック作用を考えるのに躊躇してしなかった事はパス感を持ったけれど、過程を無視するわけにもいかないニュートリノ振動とか.あの中学生の時のニュートリノはどこへ行くはレプトンフェルミオンだったか.


   
           






 

無謀なと思ったけれどデルタの分離をしてしまい、つまらなくしてしまった心理が過去にありなぜかは分からず、楽しみを排斥するような事でなんともしょうがない衝動的なあるxxの有限があまりの面白くなさでヤケクソを起こさせた要素あるようなだけれど、重力子の発散を繰り込めないとするとこれにくるな









 

即自は真実、自己把握の対自も自己には必要な自我で、対自を複製してくる無自覚存在には参る.反映鏡映を許可した覚えは無くて.まあ対他想定や即他判断も自我で他者達の無自覚割り込みは無許可的侵入者的となるのでそれも困る不快となる.









 

超弦説明を見ていてペレルマンから差異の当てはめは歴史時間にも有効であると思いつく.または未決定の帰納の特異点的事象が発生としてそのジャンルの趣は異なるにせよノーベル賞獲得事実は価値を責任と並べる訳にも行かないかなと.かなりの長い時間エルゴード的と思われる国もある事を加味して









 

ポアンカレ逆双対を受けている気分で、ありえない対蹠を強要するからおかしくなる不快を記憶する事になる.まあ時間を不自然に遅らせているまたは乱しているので、そんな要素もあってサボるラプスをしたりして無駄を育んだ形だな.そんな他者達は意味なき障害なんだが、そのように考える判断能力は無いと










 

特異点解消定理得意のブローアップを大いに用いるのか.摂動に対数が出てくるとは全く考えず、ならソリトンは登場するは直感である.見ただけで嫌な級数展開からは当然すぎる事だったか.とにかく嫌いな嫌なもの-対数・特異点解消定理・T展開やソリトンがどんどん登場してくるがその先があるとか思いたい









 

原点を射影化するとはまさかのアイデアで、なら合格の可能性はあり実際にそうだったが、それにしても叙事的で精神分析的にはA期の幼稚さでは暴言発する限界感を設けるというわけだ.疲れる、そんな存在を肯定するのには次元を卑下しなければで迷惑圧力にしかならない


   
           






 

自己自然主張にたいしてのみではなく他者も自然主張をする事を考慮しない非可換的反交換的な位相を叙事的Aは持っている縦型特徴を示すのでこれへの対処はAを卒業させることなんだけれど、先天的に一生無理と一目でわかるので、困った存在がいるものである










 

インスタントンがピュアゲージがなんとなくわかった気がする.そうしてしばらくしてヒッグス機構は少しおかしいかもの気分は湧いたけれど、透過もありうるので.ヒッグス機構はホワイトホールのイメージで明るい白色しか浮かばない…


   
           






 

真空の振動があればΔはゼロより大きいのは帰結しそう.となるとどうにも理性を超えた場の難解さはそれだけではたまらない混沌だけれど、それ以前の真空設定ならば拠点はある事になってしまう単純さ…










 

帰納の未決定は混沌の理性以上が寄与していそうで、そうであると帰納は相対的になるけれど、現象的には脱出速度は不変の決定的でもある.これは政治関係とかは全く関係ない.









 

昔は年の繰り返しでうんざりしたけれど最近は毎日の繰り返しにうんざり気味.シジフォスの神話もやる気を無くすワンパターンでもある.今日日が終わり-今日の石上げが終わり-また明日の石上げが始まるという、この生理の食って寝て呼吸しての構造はどうにもならん.飽きない人はいいだろうけれど…









 

トートロジーを受ける存在はそれを認めていないので、僭主性に気がつかないか自然か欺瞞をしているか汝自身を知らない無自覚自己認識の持ち主で、ほぼ何かに操られているようなものだ.または先取り実践で希望をダメにする意地悪或いは横取りのモラル無き存在か.これら全ては不自然で逆であるべき事で









 

ところがそんな人物に限って自覚を一生出来ずなんだな.それら人材にとって無自覚のままの自覚に対して内部存在としてのユートピアを楽しんでいる可能性が高い.無自覚無知だから善を悪を行おうと気にせずだな.親鸞は無自覚者である悪人も救われるとしたが、阿弥陀によって他者を操るという見方もできる.









 

中間存在は無限大にはヒステリーを起こし、無限小には優越感の思い上がり的うぬぼれ的な権力性を示す.この時無限小からは中間存在は荷物に見える圧迫体にすぎないのだが、中間存在はイージー優越感の為に快感を有する.無限大に対しては逆行の引き戻し蒸し返しを齎し、どっちにした所で抵抗体でしかない











意外な盲点で経済のデフレも境界過渡期に突入だったかとあるまとめを見ながら思いついた.これは大いにあり得る.その昔面白そうと思い厚いミクロ経済本を借りて目を通そうとしたけれど複雑でやめた.その頃は公共経済だけではうまくいかずと思いさりとて何がとかなり難しく頭ヒリヒリで考えつけずだった.









 

ドーンと言えば南十字星の時に考えた事を思い出す.内容は知らない夜明け前なる書があるのは知っていて、エメラルドの夜明けとか、はて夜明けの区分は?とか考えたな、思えばいろいろ刺激をしてくれる存在だったではないか.一言の発言と人の第三者の邪魔が入りより、関係に気がつかなかった事が問題で









 

⁈'フルなヤン・ミルズ方程式の解はほとんど見つかっておらず…'、これ気になるところで、ゲージ場とガロアの隙間-左右横に伸ばせば面積はゲージ場になるかもしれない-があって、それでミレニアム問題の中では質量ギャップに最も関心がある理由は自然的に了解できる


   
           






 

そうでなければ何も自虐冗談などしていない.ただしこの時には認識論をすっかり忘れていて、エントロピーに委ねるは認識論の問題になるかとも思うけれど、それは保管場所予定が昔からある方向に向かいそうな視点がある










 

これでは昔にパスカル的な想像力v理性で自虐的な冗談をした頃から-人々には冗談をすると本当の事実と思われてしまうけれど、それで調子づいた人々は質量ギャップ問題を解く方向に向かわねばならないとは言える…-変わってはいないではないか.最も相当難しいとは思っている事はずっとで


   
           






 

理由は理解したけれど専門家でも見つかっていないでは、専門家に任すも成立せずエントロピーに委ねるしかないかな.個人的には専門家ではないが思考過程に登場しているのでどうしましょうである.












今では境界よりなんでもあり的な複雑経済なら公共に+できるとは思う.常微分方程式に偏微分方程式を+するような事で、なんのことはないその頃の昔に考えついても良い事だった…











回性のみ可能もきついけれど繰り返しのうんざりさも拷問で繰り返しも適切でないと.膜のソリトンは取り敢えず小さいので…












ワンパターンは安心・安定感の為に先ずは好む志向を持った存在がいる.ソリトンも安定していて、ワンパターン存在がソリトンである場合は常に津波に遭遇している様なものでたまったものではない意識がある.周期のフーリエの嫌いはこの辺とその繰り返しのウンザリさにある.


   
           








真理人間なら他人が悪いと言えそうだが、さすがにドストエフスキー'殺人者でさえも自己を被害者と思う'である












なんだか自分は悪くない他人が悪いとする卑劣卑怯な人が多い気がする.多分に責任回避責任転嫁をしたい無責任を欲するからだろ.お陰で責任意識が薄くなって来ている…まあ大体%の存在は自己が悪い存在でモラル感もよろしくないとは思うのだけれど-世の中に真理人間がそうそういるわけはなくで.


   
           








美意識を無視してくる存在はきつい.幻想で誤魔化す幻想に依存している存在もきつい.性的人間が自己力ではなく他力をあてにするのもきつい不自然である.











NCゲージなる滑らかなこんないいのがあったのか、いやぁサボりすぎた感をつくづく感じる.ゲージと言えばある人物が発語した「高田のババア」-そんな発想はなかつたが-にあった喫茶店で浮かべて曖昧さに保留した懐かしき日々を思い出す.面積が違うけれど質的場はガロアの隙間とゲージ理論は似ている.











このxxは子持ちだけれど子持ちをしても意味ない存在と思っていて、ここでも逆になり他にも多くある不自然な犠牲を強いられている事になり、現実は間違っているとは思っているけれど、逆を構成した存在達に責任があり取り敢えずは知らずとなる.逆者達が自覚すべきだが味しめ愚かで一生しそうにないな












非可換パラメーターとな、空間の不確定で非可換の場合特異点が消え、パラメーターをゼロに持って行くと、特異点が復活する.不確定性原理の日常性意識をその日常環境によりやめてしまって、どうも頭が変な感じである.非量子サイズのあるxxにまたしても捉われの状態かな


   
           








タナトスフェルミ型が自己押し付けていらぬタナトス感で拘束束縛をしてくる.そんなの要らぬ迷惑なので、自己に与えればいいではないかと思うのだけれど、往々にして自己逃避をして自己欺瞞をして自己自然を誤魔化しているしつこい存在の記憶がある.クーパー対でタナトス-タナトスをすれば良いのに











沈思黙考に音は邪魔である事は昔から認識済みである.












パーコレーションの接続と考えるしか浮かばない.これの逆が権威権力的なものになる構造とすると話は通りやすくならないか











嫌いなソリトンはワンパターンでもあるな.漫画の地震に乗れるデビルマンはソリトンに親和性を持っていると思いつき、そんなイメージの怪物性をあるxyに対して持った事があるが、これは自己の想像域を当てはめたが、その時のあるxyの発語は既に考えた事だったので-ただし良識から発語せずのものだった


   
           








クリプキに非正規論理があり中身は全くしらける様相ものだった.非正規は認識論的でクリブキのように表現してしまうと静的になってしまうのでつまらなくなる.がまあそう志向する精神はあるものであるが、ちょっとまずいのとあまりにも当たり前過ぎる常識過ぎかとも思う.











あまりやまあくだらない言明に接してその対象を無視できない時にはふざけてしまうのとあまりの抵抗の強さにどうにもならぬ堪え難さを覚える.存在の耐えられない重さしつこさくだらなさの抵抗感.抵抗強き存在はタフでバイタリティがある生理体の先入観強く知的にはがあるが、数学専門家はタフを見ると…











ファイバーバンドル-以前は気分良い言葉で今では濁った頭ゆえになんとも思えずとなり、こな濁りは汚い汚物xxのまさかの無自覚突っ張りとあるxyの全く予期せぬ不意打ち不条理デタラメによるかこのxyも無自覚矛盾無茶な発言だったが、今更の無茶苦茶な蒸し返しのおかしな思考をさせる契機もありで











フーリエの定数係数がであるものをカスプ形式といいラマヌジャンのτに関係するなどと知らなかった.この定数項が不快でしょうがなかったのだけれど、その反面が出てきてしまう事だったのか.どうにもサボりすぎて気がつくのが遅い.


   
           








グロタンディークのラインバンドルから剰余体の個数が曲線状ある点の大きさの差異に絡むようなから、無限積まで行くのかと思ったけれど素ならありか、ガロアの隙間に関係してくるようで非可換が微妙だけれど、専門家予想が部分までとの現在らしい












現実的条件とは即自的部分でまずあるだろう.正しいとか無知とか矛盾とか関与せずに衝動的な態度自然的動物的な態度域で、それを強調するのはそれに柵意識を持っている存在と見る.人は誰でも即自を持っているので殊更に強調する事もないと思うけれど











動物は音を出すことが出来る周波数感知も、これらをパロール的としても、エクリチュール文章をやや長く綴る事は出来ないので、長い文章を綴ることは現実的条件とは逆立する.いくらかその事に気がつかなかった存在がいたような気がする.最も現実的条件から距離を離そうとしていた節もあるか











どうでもいい他者は嫌いな他者になぜかマイ自我を錯覚誤解不自然無茶苦茶的に当てはめるたがるのはなぜなのか?











緩増加と急減少はローマは日にして成らず、ポンペイは日にして消えるの建設と破壊のセット的なら理解できるけれど、実際にそこから思考している可能性がある.緩減少と急増加の場合はワンパターンが緩減少かな、V字回復はドラスな急減少操作の結果の急増加のケースが多いとか他にもあるか…











とある他者達をどうでもいい無関係な対象意図として接すると、結果はしつこい意図に反する絡まりとなる結果ばかりである.どうでもいい予定者達のシミュラークルはマイナス忖度にしかならず、自己卑下ばかりで未来志向の阻害なので不快であるという対処を無駄に余儀なくされる.無知のミルグラム勘違いと











で聖人たちのみの世界を考えるけれど、寧ろこれは正解なのかも.












他力が危険から言われている無生時の幸福感を親鸞は考えていたのかそれと知らずかよく分からないけれど、敷衍化した形と思える.死時の心的情態は宗教的性がありまた人に強く作用すると思えるので、阿弥陀を無生時の代理・そのものと捉えて見る事ができるので、そう考えるとかなりうまい利用の仕方かな











他力は例え不合理不条理理不尽といえど従わねばならないの思いが昔からあり、危険であるの認識を持っている.人によりけりだけれど、意見取り入れ人物はそういない、多分パレート的に%位なものだろうの推定はある.


   
           








なりふり構わずに優越感の為なら非常識理不尽不合理不条理デタラメ錯誤誤解誤認模倣剽窃なんでもする可能性があり、実際経験記憶上よく当てはまる人材がxx&xyに少なからずいる.











ふと眩しいオレンジの夕日に手をかざして遮り、周りを見渡すと夕日の輝きが建物の壁目にあたりその残色を見て、太古よりの有機自然の営みに身体を浸し幸福な気分になる…











中間存在の中途半端が仏になれるか法華経に疑念が湧く.とすると仏とは何かになるが生きている事それ自体の人間を意味しているか優越感を意味しているか.天上天下唯我独尊は権威の優越感を示している解釈たすると、中間存在も優越志向はあるのでそれになるかと思えば、そうなるとさほどの事はない事に











そうして他人の自我を自分と思い込んでそのまま居座ると、こいつらには自我というものがないのか、あってもくだらない自我か、または無自覚そのもので自己がわからない自己把握が出来ない存在か、或いは複合で自我を隠したがる自己欺瞞者達なのかも.いずれにしても倫理的には非倫理的でよろしくないな












リーウェイ⁈、他者は自己に
無責任の自由感を覚えるて模倣なりをしてくるのか、別に他者に対してリーウェイを齎しているのではなく、超自我が自我に対してリーウェイ距離を与えているのだが、この時になぜか他者が模倣的に自我主張をしてくるのは自己疎外強要的で困るのだが、勘違いをし過ぎる他者達


   
           








モチーフも超越数証明が不可の状態でまたリーマン予想とか不可の状態でうまく行くとは思えずと考えて見た.いわゆる人の持つ哲学志向・知性で世界を支配する論志向が為せた技は理解できるけれど











ミレニアム問題が解けていないのは、少なくとも人間が設定し思いついた問題なので、人間とは何かの答えの出ていない範疇対象になる.ミレニアム問題が解けないのが人間だとは普通には誰も考えないだろう.みずから作った問題であり、問いが成立した時点で答えは出ていることでもない.











ピタゴラスの昔から無理数があり、ヒッパソスはイオニア海に消えたなる伝説なのか逸話なのかあるのだそうだ.で円周率はどうなのかといえばその超越感覚はピタゴラス以前の歴史から存在していたようで、そうなるとピタゴラスには矛盾が出てくる.出て来なければ現象学的制御の下にとなる











個人的に楽しみにしている目的を他者が発語してきてしらけてやる気無くすことが多い.それでも注視しているとその時の記憶が蘇り煩わしくてしょうがない.他者は意地悪である悪徳性に無自覚と、思い上がりで他者以外に思考していないと思い込んでいる化のように劣位相に位置していると判断せざるを得ない


   
           








どうもp進の素数が気になって来た.単位円内に稠密に素数が存在してそれを瞬時に把握するはあるけれど、要素論でライプニッツのモナドになり、ループの電子の要素は何かといえば下降接続になる.ホワイトヘッドのエンティティは現象学的な都合の良さでもあるかな.超弦の可能性はありやなしや.











何だかんだと騒いでいるうちに時間があれば類体論をと思った時から漸くにしてその香りを嗅いだ気がした.











枠内有限の要するにマクロではないミクロ経済例解析分析のように、舵を切ると散歩中に遭遇他者たちからの認識が何時もと以前と異なり圧迫感を感じ気味なのでやはり舵切りは止めるか…しかしタレブの壮大な詐欺であるベルカーブは用いているので、項目別にしないと錯綜する事になる.


   
           








自己の対自を他人が自我と思い元の対自者に自己主張をしてくるケースが多くあり、全く不都合でしょうがない.他者の対自及び即自なら考慮するが、自己対自の模倣?剽窃?洗脳?などは全く必要なく、そんな事をする他人達は意味がない存在でしかない.どう見ても自我が不明で分からない他者達としか見れず


   
           








ほんと足を引っ張ったり恥ばかりかかせるxxが多くいるな.そんなxxは本人自体既にみっともない存在である自覚はなさそうだ.その根拠は優越感保持の為に必死の可能性がある.まあxyもそうだけれど.あきらめるか恬淡でダメを自覚すると尊重出来たりするけれど、そうでないと軽蔑するしかないな











そう考えると仏教の八大地獄は脅迫的か涅槃甘露の双対概念かと考えて見る.脅迫は強制的なので自由の阻害だけれど、一応そのようなものが無いとすると、現世で対処しなければならなくなる類続の理と普通になるな.











つまり親鸞の阿弥陀はこの無生の瞬間を強調したかなと思いついて、まず誰でもも悪人だろうと善人だろうと幸福情態になるだろうと.別に親鸞はそんな事を考えたことはないかもで、他の人もその瞬間には悩まないと述べているのもある.











無生の瞬間はそれ以前に苦悩しても、生への努力奮闘意欲をしなくてもいい状態情態は推定でき、幸福情態になる事は出来ると想定可能なので、人はそれを予感出来るのではないか.












ある小説にどうせ嫌われているのだからより悪徳意地悪をするというのがあった記憶がある.開き直り居直りか、いずれにしてもそんなxx&xy達が代理人格や不条理非常識で、しつこく執念で無駄に悩ますものである.











不条理にも悪徳性のもの善意的なものがあるのでは無いか.とにかく非常識不自然な不条理の強制的押し売りを受け過ぎていてその処理が困難である.単にデタラメとして処理できればいいのだけれど、非常識は説得力をもたず認めないのに平然とと意地悪悪徳人間が無知に甘えて行うという、ミルグラムがあるな











アデールの制限直積は制限が無いとどうにもならないだろうと考えると、t数とか変容の余地があるなどとかんがえていたら、のばしたラプス時間は自己ギフト化に繋がっているかなと思う.











Gkの構造は完全に知られていない?.無限可算数の合併や無限個の素点で分岐するp進表現とかは、ガロアの隙間的なんだけれどどうにも纏まらずよくわからん











今音楽理論を眺めて長音階短音階を知り、嬰ヘ長調嬰ニ短調や変ト長調変ホ短調とかを見て、基本変形のむずかしさに直面し、あの意地の日々の撤回変更は今更できないが、音楽理論に合わせる意識を持ち出している.さる国立音大xx生に聞いた時に、嬰ヘや変ホは簡単と言われても、今頭動かずの思いである












ガロアの隙間は惰性が流れる分岐意識とずれ性もあるか、密度定理?.流れると距離に応じて収束度若しくは消散度になるけれど、場は既にあるので-一体あの時なにを考えて難しく専門家でないと-と考えたのか、記憶が薄れてしまった.











サルトルが何を言おうとどのように解釈付けしようと実存は本質に先立ち本質と異なるのなら、カフカの作品から読み取れるのは本質的に至れずに実存のまま終わる本質コンプレックスとでも言うべきものだ.











ある時の想定で有限ではないはずと思い込み、答えは簡単明晰に出ず曖昧なしたら、後に枠内で有限だったと気がつき意地で有限などどうでもいいやとして過ごした日々がある.その結果は誠に芳しくない線形に対して非線形とばかり設定していたためだけれど


   
           








伝え聞いている漢詩の少年老いやすくや国破れて山河ありのオーソドックスは悪くないけれど、中学の時の教科書にあった、遠く寒山に登ればが忘れられない.後年行った富士の登山道は石径斜めなりを思わせて、白雲ならぬ夏の薄曇りを通して見えたのは人家ではなく大きな湖が浮かんでいるかの如くであった











池塘と言えば巻機山からジャンクションへ歩いた月のまだ残雪の頃に、初めてその稜線の水たまりを見てややびっくりした事がある、何個ありても池塘その趣はあった.ジャンクションの手前を調子よくグリセードは良かったけれど、ピークまでの登り返しはややうんざり気味で、その後のコースの記憶が無い…











マーラー測度がどうも気になる.四重対数関数と例の特性既約方程式種の関係やマーラーからL関数ζ関数が出てくるのでは、この面からはお手上げのリーマン予想が絡まってくるようで











自然法爾とスピノザの神の決定論とエントロピーと摂理の差異はなんだろう?.他力本願を親鸞は自力で言い出した・法然や中国浄土教やゾロアスター教の前歴史があったにせよ・と言えないか











'自己の持つ譲渡不可能な部分は自我をやめた時に初めてそこに姿をあらわす'ドゥルーズのこれと他の類似的な考えがわからない、譲渡不可能な部分も又自我であるはずなのに、他力本願も自然法爾を述べた存在も自我が述べたとしか考えられないが、そうでないならば親鸞がそう述べたとは言えなくなる…











我思う故に我ありで、この我を侵害するものを排斥するとした傾向者ではなかったのでは、ある意味私たちといいながらその実独断者エゴイストだったとか


   
           








非妥協と非妥協の関係は絶対的とも表現できる.しかし非妥協と非妥協、存在理由と存在理由が一致するケースはある、でわたしたちか?.まあなんらかの複合は身体的頑健さ自認があるからで、そんな人は現実的なパン獲得に拘るだろうな.単純に野生の動物はパンのみに生きていると思える.











'まさか倫理観が強いよ'を述べてもエロス存在には意味がないトートロジーと思った事を子持ちからしかも普通にエロス存在xxではないのに言われるとは考えもせず、どの意味だと思ったものだ.どう見ても不自然不条理非常識だろう、まさかそんな発言をする愚かな人物とはいくらなんでも想定はしなかったな


   
           








子持ちで妻がいるのだから、その発言は汝の妻に述べるべきで、独身xxに述べるべき言葉ではないのは明らかな無謀な発言.ただ叙事的xxにエロスは無くただのロボット仕組み的に子持ちをやっている可能性もあるが、つまり妻である存在のエロス力欠如という場合でも、やはり無茶苦茶発言であり狂人的かな












他者を追い詰めるのは窮鼠猫を噛むでよろしくない考え意見はあるけれど、何もせずにそれだけの存在は、そうでない存在をそれだけまたはそれだけ未満にするもので、承認の要求に対してそれだけを認定する道化を要求してなおかつ他者の承認認定をしないという不平は、認定を成し得ないからがあるのだが


   
           








そんな人は多くいて、なぜか逆にしてそれだけの自己を他者に押し付ける不条理を行使するのが不快で、いらざる押し付けの無駄を齎す存在はパレート数いるのではと浮かべたがそうでもないかな?.別に犠牲や去勢なんぞを求めてはいないのだけれど.












ドゥルーズはヘーゲルの無規定に知識の肉付けか、フロイトのエス-ディオニュソス的な混沌でただしてんやわんやの現実的なもの-への肉付け的なもののようである


   
           








何も理論を知らずに挑戦した中学生の時の等質空間的な圧力がきついのも、これら理論をその時に一挙にマスターしないとのゆえと気づく.まあ無理で、中には理論どうのこうのも関係なくメロディが湧き上がる存在もいるわけだけれど.


   
           








クロイツェルソナタはトルストイではないけれど、どこかロマンのシビアさのイメージがある.テンペストは個人的な追憶場所がありマクベスを結びつけつける.そういえばハムレットは何を悩むのか不思議や肉ポンドのまあ血は出るがシェークスピアのカラクリウイットをなんとかしようとした頃が懐かしき昔











ロ短調は#*の場合とな当たっていそうなxxがいるが、ニ長調の感覚も同時にあったかな.否ニ長調は錯覚でロ短調が固有だろう.となるとあるxxはニ長調になるが共時制限がロ短調化を幾分齎すとなる.つまりロ短調はニ長調の雰囲気をカムフラージュする形になるという事だった.











ある雑誌をコンビニでパラパラとめくっていて目に入ったマズローの図式に段階の自己実現までしかなかった.意図的にまでしたのかあるいは認識力欠如か、恐らく後者だと思う.前者であればいささか良識に疑点が生じるからでもある.些少困ったけれどそこで止めるもうそんな時代でなくてもがある


   
           








x^なる数値が出てくる数やpv数関連にグリーンやハーディやポアソンやメビウスや他の名が出て来ると、種の特性方程式は微妙になるがしかしアノマリー式がある











ディードーのビュルサの牛の皮の伝説と異なる伝説をウェルギリウスが描いているとな、その内容には関心ある.中学生の時から気になる存在ウェルギリウスのアエネイアースの物語アエネーイスを読んだ事が無い.











僭主傾向者達は自己無知はあるけれど優越志向は持っているかな.自己欺瞞とカムフラージュで偽りの自己を行うのは幸福とは見えないミルグラムの横暴さで実際には服従の姿勢ではないのか.服従は事大は囚人的思想ではないかとある事象時のあるxxの眼つきから考えてしまう












中国の浄土教は悟りなどどうでもいい阿弥陀が重要なんだの依存極度の考え方らしく、それで思い出したのは禅僧であるはずの良寛の'悟りなどどうでもいい知らん'である、禅的にあるがままなのか浄土の他力を考慮していたのかわからんな.それより良寛は一応曹洞宗で漸く禅僧であった事に気がついた.


   
           








天罰やディアスポラの神罰とかなど、神さまお願いや神も仏もいないのかは普通に誰でもわかる不幸や不測の予期及び結果状態だけれど、ヨブにこだわったか-ボーボワールの存在論非難からヨブはないか-自我的人間の超克に不幸の反動か弁証法を見たのかヴェイユ











ならば良寛に騒ぐ事はなかった.
なんだ禅的人間だったのか.貞心尼で親鸞を取り入れたのかもしれないけれど、貞心尼と会う前から親鸞系心情傾向になっていたかも、よく知らぬが一応禅坊主・房主だったのならそれはそれだったので無駄な悩みを苛立ちをしたもんだとは思う.法師とは房を持たない僧侶と知る












個人的に夢に見た限りでは、莫囂円は湯けむりがあるとは言え護衛の兵士が多くいるのによろめいていないで凛としなさいとあるそのような関係にあった人物を窘めた歌と解釈できる












デタラメでなければ不条理不自然不合理な場合、なにか勘違いしているかのような想いを他者から受けることがあって.ある一応有名な存在は非常識不自然なのになにか傲慢か勘違いをして、ある発語をしてきた事がある.それをまさかの反論できかねる位相だったので擁護弁護する形になってしまい…


   
           








「不条理に呪われたxy-不条理をするxx&xy達」なる位相上のタイトルを考え出す.ツイートは自然に不条理対処が多い


   
           








嫌いな存在が模倣なり逆志向をして絡んでくることは、不条理ダブルバインド矛盾状態形成なのでそれでしつこいなか、それ以上に実存の哲学的問題になってもいるけれど.とにかく矛盾や不自然で意図通りに行かない現実は不条理な非常識者の阻害大で、およそらくは無知な無責任に任せた任意性があるのでは











摂動はずれを示している?、一致しないから摂動になると初期の昔から思っているけれど











あるxxの諦め自覚-諦めきれないのだが-を待って無為な時を過ごした日々は無駄であったと気がついた.昔から既にそれは超克していた事なのに、自らをそのxx位相以前に落としてしまうという損失をしてしまい…無為の時間の勉強を怠ったツケが確かに圧迫としてある以上に、自己問題があるのだけれど


   
           








それも他者達が成り代わり的に無責任な利用によって妨害ばかり受けて来た点は、誰も邪魔をしないという事は信じがたい阻害を受けていると思う.生理的模倣ではなく心理精神的模倣を目的としていたのと無為以前に説得力はあるはずと思っていたものである.


   
           








普通にxxは生理的存在であるのでxyの心理を齟齬にしたがるとは思っていた頃、今でもそうであるはずなんだが.誰かの何世紀かの箴言にあったな、xxはxyのプライドをダメにして快感を得ると.特に先天素質的にそんな女性に無駄ばかり強いられる事があってなかなか自己調子を出せない面がある.


   
           








そんなタイプのxyも同様だけれど、何とつまらない生存過程だと思うだけで、人災にあったと思うだけともいかないが、少なくともそう思われている事にそんな連中は頭が巡らないものだ.












粒子は波動の集まりと考えている限りフーリエは出てくるではないか.リングも集まる迄の時間と考えて見たりする.フーリエ変換にせよ嫌っている場合ではなかった…


   
           








その辺からでモンスターの相殺か収束があるかもと思いついたがそうなるか?












全く脳内を薄っぺらく他者はするもので、それは情熱の希薄化で嫌な去勢化につながるのだけれど、今までの現実は嫌な嫌いな事象ばかりになって来ていて、不本意もいいところの馬鹿馬鹿しさを持つ.こんなくだらない現実世界など知った事かとも思わざるを得なくなるものでもある.












直観アイデアに対して肉付け応用展開をされてしまうと、恰もアイデアはその人物が最初に出したものと利用されてしまう.自己表明をしておかないで内的保存をしていると他者が自分の考えと思ってしまうのは何故なのか?.それに承認の要求の面があるとしたら、陳腐な蒸し返しなので認めるわけがないのだが


   
           








昔から種の特性既約方程式を念頭にある場合があって、世界の次元はであるのが常識とすると、種を纏めた種もありそうな事になる.ここまで来るとストロミンガーの方程式が出てくる事になりそうで、ガロアの隙間の方は記憶から薄れて来てしまっている.しかしあるとなるとそれは既にとなり過去に行くか











量子ゆらぎの部分はフェルミオン化できアノマリーを除いてカイラルな場合はモジュライに正則とか、ブロックをθ関数などで示せるとは、テータはこっちの周期なのか?.そうなると全くエロス無き低温体的冷血的に思える人間に関連としていいかな、取り敢えずそれで行って見て…少し距離を置ける可能性が











超弦を眺めていて気分心情が落ち込んで来たのは何故か、そんなはずはないのに.記憶にあるだれかが不利益になりその余波を受けるという、他者への甘えを冗長させる意味無き忍耐をし過ぎた想いを浮かべる.なぜ他者がありえない有り得ない遺伝的位相に侵入して来たり、自我を疎外しようと意図してくるのか


   
           








おかげで無意味な道化をする羽目になる.まあ他者がナンセンスから脱却するのに陶冶する時間より、隣の家の青い芝を横取りするのが早いが、それ悪徳では.ナンセンスな他者達はまた歪める事頻りなのでまさに道化・道を実際に化かしている実践をしているのだが、傲慢ゆえにそんな事は露にも思わずの所作を












自由には責任がある、関係の本質は自由であるがまだそうした思想はないといえことは、責任を持った思想家が存在していない事になる.となると情況を決定するのは責任的なものになるが、当の本人が生の現実に思想は意味が無いとしている場合、責任以前の未達心的事態を示しているとしか思えず


   
           








ふと閃いてワンパターンxx達は教条や戒律や一意専心感はあるが、アスペルガーの拘り性もあるかなと、そう考えるとスムーズにいき、どうにも苛立って下に有界の普通にあるタイプがわからなかったのを既にの例と同じくとなると.自然的存在は自然数で整数を知らないか有限束縛の無私無きで疲れるとか











グラムシの「古いものが死に、新しいものが生まれるのをためらう状態」が危機とは、 の危機の表現はいかがなものか.確かに危機は往々にしてあるだろうが、境界には対象の大小を問わずそんな現象はあり、普通そんな時の状況を情況を過渡期と称するけれど.


   








ある精神分析者のゾーエ・無限定の生から、昔に見た精神分裂病者の非完備な同一繰り返しパターンの理解がどうしてもできなかったのに対して、何となく説明できそうだけれど、確実とは言い難いがいくらか進んだ事は確かである.ゾーエそのものではなくビオスとの中間位相として


   
           








普通にはビオス→ゾーエであるから退行的事態であるはずだけれど、なぜか曖昧になりゾーエ→ビオスの線も浮かぶ…












先程も不思議な夢を見た.人の女性が銃を持った複数に追われていて、ある土手サイドに掘ってカバー中に犬に土を動かされてこれまでかと思ったら、なぜか犬が諦めた.その後の道路で別の女性の運転するトラックを奪って逃走を図る、助手席に男の死体らしきがあり、男のしがみつきを排除して運転から-省略











中学校の送別会で何か歌う事になり、咄嗟に出たのが鳩ぽっぽの歌で、人の事は言えないなの記憶はある.全く自分でも信じがたく他に何の歌も浮かばなかったその時の心情は何だったのだろう.みんなあっけに取られていたようで、やはり信じられない感じだったようである.


   
           








しかし自我を玉ねぎ的にするのもまずい…が、自己を猿的な所為をしている恰も毛が本足りない図式人間と思わない存在にも困るものである.往々にしてそんな詮索や他者の限界壁にまで進みたがる認識志向を持った存在は多そうである.それが許される特徴図式は男女関係だけれど、なかなかで横槍分岐などが











それで浪の医科大狙いに遭遇した事を思い出し、何も遠慮する事は無いのに失敗例を思い出した.しかし浪とはもはや怖くなり狂気の執念かカルトタッチ迄行っているかのようで、個人的にはさっさと諦めているだろう…どうも謙虚に遠慮するとあとあとロクな事にならない、そもそも対象に価値ないからか?











あの石垣の上の苺のそばでポパイのホウレンソウ-曰くあるらしい宣伝だったかな-や水兵を連想していて、なぜ玉ねぎの皮むきを考えたのだろう義務教育の日々に











すっかり忘れていて夜の神聖とかまたしても曲想が夜を想わせるなどは、contemplationであって、夢想などもその口に入る黙想であって、瞑想のmとは違いの感性が大きい事を漸く思い出した.なんなんだこの悪戯に無駄な徒労を強いる間の抜けた悩み時間の成立は、愚者達のうぬぼれが妨害しているか…











どうも一生理解不可能な存在にとっては考えられる認識による他者固有しかあり得ず、無理解などとは思いもしないかな.汚物俗物雑草が疎外感を個性と思い込むのは非常識で普通ではない自己欺瞞者とかに思える、つまりは憚りxxの位相があるもので.昇華が現実的条件化過ぎる気持ち悪さで意識停止は余儀なく











目が覚めて二人の間に第三者である女や男がいかなる言明でも述べてくると不快な邪魔でしかない馬鹿馬鹿しさが浮かびて…特にあるxxのおとうとは静かにしなくちゃとか述べてきて、うるさいのは君の姉で思考の邪魔なのにまたかまわないとのべているのにいらざる誹謗の唐変木的な割り込みとか他にも











超ユークリッド空間の超多様体とはいうものの、現実的にフェルミ型存在は嫌いである.勝手にグラスマン的なものを絡まないで単体で行なってくれるといいのだが、そもそもフェルミ型は単体的であるのに、人の親和感の妨害引き裂きとかを自然にしてしまうから特に嫌なのである.仮面傾向は故に強くなる存在











確かマジョルカ島でのサンドとの話があったのではなかったか?.なんとサンドはリスト・バクーニン・ユーゴなどと知己だったのか.マーラーの誰だったか、アルマか.ミューズかつファムファタルはまずあるな











ショパンとかモーツァルトとか過大評価には参りまする、幻想上の息吹だったのか.そもそも中学生の時におまむろ試みとして作曲に挑戦した事あったけれど、苦痛すぎてとてもじゃないができたものではないと思った事があるので、作曲は無理でまず楽譜読み込むセンス無く、シャープやフラット多でお手上げ


   
           








でも絶対音感的に一度聞けばというか聞きながら次のメロディがどうなるかを知らぬ曲でも予測できた時もあったのは?、そんな点をxxたちは見逃さなかったのかも












ある秋の浦佐駅、銅像があったような気もするけれど確信的な記憶は無い.駅前には店があったかなくらいの駅で、確かラーメン店がありそこで食したかな.水無渓谷を少し見ようと歩き出したけれど遠すぎで、ヒッチで戻り運転手は駅よりインターの方がいいとの発語記憶がある.小出にあるのではと言い切れず











事大主義はその代理性が、神の代理人でもないけれど、中世のクラウンの様に王の代理人になる可能性として、権威の代理意識を持つから厄介になる.紛いは明らかでも組織システム上簡単に行かず、畢竟ミルグラムの上界的な面もあるので…そうかミルグラムの無責任な甘えの非情性を持つ事になるので厄介に











超モジュライでプロジェクティドでない場合と推定同様に冗談を認めに他者達から冗談ではなくまともと取られる結果の原因で、また成り代わりな代理人格利用を受けるのも芝が青いからだけれど、まさかの模倣成り代わりと自覚していない愚かな存在達の無責任さに辟易であり…












'他人の事ばかり考えてている'と言い訳をした存在がいたようである.これは詭弁でというか省略で自分の為に他人の事ばかり・の自己主体性強調のエゴイズムの世間体発言である


   
           








嫌いなxx&xyに他人の事ばかり考えられると、自己主体を避けて避けて行くようになり-何しろ嫌いな存在の意見発語なので嫌いなんだなそれら-、自己を他者化にしてしまうという無駄過ぎる事ばかりを行い今取り返し中とならざるを得ない.


   
           








とにかく無知が多いというか自己把握力無しで自己を他人だと思い込んでいるとか、自己嫌悪をごまかす欺瞞などが障害物で迷惑な蹂躙者達の鏡的な侮辱心は自分達がそう思われている事なのに自己認識をしない図々しさばかり見てしまうくだらない現実












自然数を高々個の平方数の和で表すなる考え方と種の二次方程式を許容した一つの方程式はなんとなく関連あるような…











待てよ現実条件だから関係は生か死かになるのではないか.普通はそれ故に自由な意志で選択するという妥協をすると考えるけれど.生か死かの段階状態では理論思想が入るか余地は無いとは人として生きているのなら誰でもわかる事である.生か死かを常にやりながら生きれるタフな人物も中にはいるだろうな


   
           








摂理が仕向けたは理論的で実践的にはエントロピーがそうさせていると考えられる.そんな事を考えていて、日本列島改造論は時期尚早か慎重にと思ったのは、改造はおよそ無機化的だから有機原理に反する形でと納得した












そのxxの顔つきは茶碗を潰したようなもので美的にはどう見てもレベル低く、上には上が存在し過ぎるのによく言うよであったのだが、視点は奈辺にあったようで…












今更蒸し返し的にタナトスかエロスか死か生かでせめぎ合いながら生きるケースに直面することは往々にあるだろうけれど、無理に人はそう志向しないと思う.寧ろ現実条件的には一晩で黒髪が白髪になるとか、理論的には生か死かで生きるとすると日で燃え尽きてしまうことはは昔に予測した事である


   
           








そうなると生か死かで予測的には年も生きるのはいくらタフとはいえおかしな話になる.ならば夭折にもかかわらずその業績が類的に後世に残る人物の方が正解と判断する.長生きが価値あるとは一概に言えない…












人間存在に関して今の状態から+になっても-になっても人類は存在しなかっただろうの人間原理があるけれど、それなら有機原理というべきで、摂理がそのように仕向けたと考える考え方をスピノザあたりは神が決定したと宗教圧力を否めない位相設置で生きた無理もない観点を持てるかな


   
           








ケルゼンの純粋法学的な志向性は小学生の時から知っていたけれど、良寛的には小学生だからこそ知り得たのだになるのたろうが、そんな事を考えたこともないので、良寛は不快になるのである.昨日かなカールシュミットの知らなかった存在を知り、法の支配論であるパルチザン理論の存在を知った.











哲学の人間存在理由に対して生か死かではその解決は平行線を辿るだけと思える.尚人がそこに存在しているだけで倫理を持っているというのは、類続性による建設圧力を人は受けているという事なので、アガンベンの例外状態はそれに反しているのだけれど、人は無知の状態をも持つ事によるケースがあるが…











おそらく人間とは何かが判明すればそれ以降の人間の歴史は成立しないと思われるので、挑戦はいいがまた挑戦しても多分現に存在している以上結論は出ないと想定できる












''関係の絶対性はあらゆる思想にとっての課題だが、これを解決した思想は存在しなかった"と述べた当人も解決していないはずだよな、精神か物質が決まっていないと確かに聞いた.同じようなことを考えているなと思ったその時は、人の自我を対他=対自か即自として述べてきた点があると後に


   
           








まあ'永続革命はいい'などとは思わないし、'埴谷雄高はねえ'と言われても埴谷雄高は別になんでもないのでその点は違うが












哲学の課題は人間とは何かの答えであるのは昔からなんでもなく普通に当たり前の事であり、いまだにこの答えを出した有史上の存在を知らないので、関係の絶対性を解決した思想はなかったから、関係の本質とは人間とは何かの事であり、情況を決定するのは人間とは何かの視点であるとなる


   
           








個々の一生をかけても悔いのない生き方もいいのだけれど、人間の規定人間自体の存在理由の帰結が問題としてまあ考える存在が往々にして出現するものである.叙事的無機的科学的に人間を物体的に捉えて帰結とする傾向は思考をなんと帰結するかの答えは出してはいない.あたかも人間は無機物だの視点である


   
           








単細胞とはいえ単性生殖ゆえと思えるけれどミジンコの遺伝子は人間より多い-最近見かけて見間違いではないはず-とは驚愕であり、またわからなくなる.もし女性のみやや遠き未来に生き残ったとするとxxはその頃には単性生殖性を獲得している可能性がある.もしそうなったとしてだけれど.











人間が消え去った時点から見れば単細胞的判断、高々人間は無機体無機物体として消えたと確かに判断出来そう・しそうである.クレジオなども無機物が残るだけと現宇宙内有限存在として人間を判断したようではある.











なぜならば矛盾を処理していたならば他人に不自然不条理シミュラークル矛盾不合理簒奪僭主性などを強要しない筈だからと経験上から言える












A期の特徴は明晰である事でG期の特徴はそれが曖昧になる事である.なぜ曖昧になるかといえばA期に判別出来た対象がG期になると判別要素多くなり一概に言えなくなるからである.昔に聞いた言葉・大人は汚いのではなく単純な判断を出来ないだけなのである.反面単純判断をしている大人は-省略











生命が原生的疎外とはどのように取り繕うとタナトス的思考に相違ないことは明らかである.











アウステロやサヘラントも父親母親をやっていたエルゴード的には現在のミジンコ・ゾウリムシも生殖行為自体を行っている.・・カフカは詩的コンプレックスを持っていたになる-ファーザーコンプレックスとかは関係なかった…











昔p進数に関して有限で止まるものと考えた事をすっかり忘れていて、ある数学専攻の院のxxに聞いたら'一言で述べるのは難しい'と、「アデールをやって見て」で良かったのではとはいうものの、連続体濃度は成立するが順序体は成立せず選択公理に依存とか来ると混乱するな.まあ小数に有限は正解だったかな











悩まない若しくは悩めない存在は悩んでいる人間をみると面白がるかからかいたくなるかの様相を持ちがちである.'哲学は途方に暮れているという形を取る'とはある人物の言葉だが、途方を嬲りたがる存在は哲学の権利をまず保有していない実際には哲学から嬲られている存在であろう.











不条理と条理の止揚か関係の本質と弁証法的にはなると思いつく.矛盾した存在かつ条理な存在人間はほとんどの人が?思う事.この止揚状態は絶対的になるかもしれぬ.関係を絶対的とした存在は思弁的で、孤独になって矛盾を処理しようとしてもできなかった結果を関係に託した事である.


   
           








不条理と条理の止揚ではなくて逆止揚・後退作用をどうしても唯物生理強調だと考えてしまう.生理の不便さはもっと便利になっていいはずでと…唯物者は原始保存志向性がありそうで、もともと有機物の無かった無機物世界まで
逆行しがち要素あるかなと、そうすると深さは単なる後退になるけれど











つまりは老いても青春の為には子どものような大人でなければならないが、良寛が褒められるとする国では子どものような大人の存在は許容されがちになるのでは無いか.まあ精神分析的には、A期存在のまま一生を終わる存在で、まさかの子持ちでも実際にはG期を知らない存在は多くいそうだ…


   
           








なお世界的人気らしい'ライ麦畑でつかまえて'もG期を拒みがち要素強い小説と思える.一生A期のままが存在するのなら生まれた時からG期存在もいるはずだな.












ある項目から原点と騒いでいるハイデッガーに対してのモデルニュアンス当てはめ気味だった存在対象はふと昨日またもなのかやはりというべきか、無意識検討の結果正解であったに至る.











ミクソトロフ・混合栄養生物を図書館に寄って日経サイエンスで見る.単細胞プランクトンが光合成と捕食を行なっているの独立・従属・混合のパターンはシステム上のθの非可換に可換化
を施した初期設定を当然に内心思う.単細胞を知ったのは小学生の時の池のほとりでのミジンコかま最初の筈


   
           








非コンパクトで良い振る舞いをする場合を固有とするとは、で無自覚で固有の振る舞いをしているかどうか不明で気にしない存在は固有もあるだろうけれど、良い振る舞いをしないケースが多々ありそうになる事と考える.汝自身を知っていると固有になるかな、他者の固有も了解しているとすれば孫子は叶う











関係は真理の事か?、下がってと表現できるのかどうか公理がそれに準じる?.妄信を普通真理とは呼ばない…











基本有限で非コンパクトは自然数的で整数を知らないとするとボワーンとしたポテンシャルを持ち自己対象をできない様相に見える存在の記憶があるが、ローレンツが出てくると厄介なアインシュタインの方程式に繋がるので保留して、離散と不連続の両立を一般に考えるだろうとした差分意識は不味な記憶視点


   
           








ハウスドルフ空間の普通だったかな昔、俗物明晰自然悪女体は基本有限の閉鎖感がいつまでもしつこい不味さで絡まるのも過去であるxxが示唆した形でそれ自体不味い不都合の過去に有限のxx未来に有限のxx人のこの有限時間線はいずれにせよ有限の不自由さを齎すので不味いのである.


   
           








生理物理有限を強調して貰ってもしらけが増長するばかりなのである.過剰にうんざりする不自由さで、非芸術的才能のxx達で、あるオブジェ的存在と思っている発達意識段階に疑問者の文に、'女は芸術的存在である'とあり不快だ.社会科学性的に一面を強調しただけなら理解はできるが












等質を本能的に単純であるはずなのに避けた事がある.実際には単純ではなかったが.未だにある情けなさの冗談記憶を、他者がまともにとって不快な対処を余儀なくしている.不連続は離散にはなるが離散は不連続にはならないは、そもそもあの頃の一般は差分を直感した位相と同じようなである.











不本意で謙虚に謙ったりまさかのこれは一過性の冗談に過ぎないとしているものが現実になりしつこい状態を負荷してくるのは、やたらめったらの無知のあれやこれやが活発に動き回るその数が多い圧力によるものと思い至った.下手に親切心を出しても許容能力が無いとどうにもならぬもので











対他を対自と思いその対他の対他を対他と思い込む存在は何を見ているのかどのような認識構造になっているのか、無知なのか精神疾患の狂相の現れか、普通にそれを発語する事はモラハラである事に思い至らない節度の無さは未熟の甘えと見えるので、無知存在かな.しかし心身疾患の狂人的と思いたくなるな











レーニン的な自由=必然のイノベータータッチが良さそう.いわゆる最前線というやつである












不連続は自由?、今までそんな事を考えもしなかったけれど、過疎的なランダム点時間発生性となると任意で自由になるか…そうなると連続は不自由になってしまう、この辺で必然的自由に対して可能性があるのではと思った事もありで、それはランダムに繋がるけれど闇雲な弱さを経験しているので


   
           








まだ間に合う位相に位置はしているけれどミクロ具体となると、あの頃の直観論理のままで.となるとあの頃の新宿紀伊国屋で結構スマートなことを考えていたんだなと述懐する












ムーンシャインで一応の終わりかと思っていた、あの紀伊国屋でのチェックでモンスター群には意味がある・単なるかなりの大きさの数字のみではないとディンキン図を念頭に置いておいてからかなりの時間が過ぎ、jはともかくオービフォールドのがほとんど知られていない状況では何らあの頃と変化無し位で


   
           








しかしだもはや高度kmからの眺めを宇宙からとは 陳腐古くないか、それなら高度kmからの映像とか物理科学的表現でないとと思う.仮ににアンドロメダの何処からか見た地球は宇宙から見た地球としても差し支えないところかな.











好悪感を無視して嫌悪感を強制してくる存在が多い.偽りの自我を強要するのは自己嫌悪で他人願望の代理人格好みの不自然存在で、演技的性格で畢竟偽善者偽我者だから他人にも偽りの自我を要求する無駄な非論理を不当な間違いを平然と行うおかしな存在がいるものである.











多分別の何かだと思う楕円曲線を少し考えて見た時に浮かべたサイズのランダムな順序は実数な置いてなんでもない常識だった.自己思考だから特に留意はするけれど本当別に普通の話で濃度の大きさはフラッグ的ではないのであるが順序はフラッグ的となるか











xxひとりびとり全て異なる様に接するのだけれど、何かと横槍や煩わしき思い上がりが登場してくるもので、排除対処の無責任ではなく解決の責任を横ヤリやうぬぼれ人材にはとって貰わないと困るので、取るまで与える事とするとしている.











松尾芭蕉から拝借してタイトルアイデアが浮かんだ、状況が変化した故だけれど、それでハイキングに行かないとなんだの中断中











井戸と南天の木の所で資本論巻を浮かべなんとか巻までは読めても巻までは行けそうにないと考えたことがあるが、そのご巻すらカバーをめくった記憶はなく、草稿だけページをめくっただけではまずかったかなと思う.カフカの審判も何だこの物語の流れは唖然の被虐的の印象の頃で、絶対時間的記憶が…











その類的存在は人は社会的存在でヘスの有機的ネットワークならば、モデルが悪かった詩的情熱の認めはまずい事になるとは、まさかモデルが不都合存在とは全く考えず、ただどんな存在かだけはありで、未だに些少を越え過ぎる記憶がある関連、またその関連を無駄に広げるのがいて処理困難中という事に












アドバイス者は自己が悪人である事に気がついていないようで、善人にしか悪人を気がつけないのでは.他人を束縛する存在は本質的に悪であるのはそう思う.やる気の邪魔をするのもやはり悪魔的存在とゲーテなら、アドバイス者は過少評価者か尊大誇大者で、まあこの不快者すでに消えているとしても記憶に









 

無争主義無争段階とここ一両日浮かんでいて、無争ならば縄文時代はます凡そ他者の史実事象想定からそうであったはずとなる.原始共産制とさも海馬優越感を発揮しているけれど、それならば観念的が唯物の後に来るはずとなる










 

審美感で判断すると不当非常識不自然を強制してくるのが現れる.xx&xyにせよ見た目を見るのはなんでもない普通のことで、大体ちょっかい出してくるのは見た目はよろしくない存在で、xxの深情け&xyの不条理自慢とかかな









 

観念弁証法ではなくリアル身体弁証法に破れるケースもあるだろうけれど、終局弁証法は収束するのか発散するのか持続するのか.マルクスは暁には持続させたいのだろうけれど、何年何百年かそこが曖昧で無責任とでも言うべきかな









 

ラムダや項書き換えをなぜ騒いでいるのかさっぱりの抽象論理に見えた年の頃、グレブナーやシュミットは嫌なんだが、クヌース・ベンディックス完備化アルゴリズムがあり、クリティカルペアを危険対と称するのはまあ有りもあるか.全くクヌースも人の無駄なミス的悩みをスタコラと無意識で普通展開と









 

アンダーウッドとファイヤーベントか、どうもマートン以外のクーンとかも取り入れは普通常識だけれど、候補か種類あり、そこに分散区別が難しい.











国家なく経済無き状態は無争・争いが無い場合でないと成立しないとしか今のところ想定できない.今の時点では人口は少なかったとはいえ、縄文時代はまずそうであったと想定でき、後はモラル良き人々で無いと成立しそうになく、聖人のみの社会でしか無争状態は考えられない.











テータを見ていたら・・・の種らしきがあり、種の特性既約方程式はギリシャ文字の番目に当てはめを考えていた頃の話で、ガンマは勿論デルタ・ゼータまで登場するのならで、種をテータ関数に結びつけるには叙情感が必要かなのようなその時のイメージだったがストロミンガーもあるからな.









 

強引云々だけれど、昂じると摂理に同調しないでよそうかになる.この時点自体ではどこそこのRW・RCや男系伝統とか一切関与が無くなる矜持はあるが、しかし同様な存在が多くなるとそれはうまくはなくよろしくなき結果、摂理の同調圧力の勝利と認定せざるを得ないので、この点も無駄になったかとは思う









 

単純に見た限り宗教は創始者を蔑ろにする対象と思えず、その宗教内存在達は創始者未満の存在であると自己規定をしているようなもので、それがエントロピー増大則に時間的経過上合わないのではないかと考えてしまう









 

ショパンの幻想即興のアンダンテはいいのだけれど、ここでアドリブと即興でシューベルトとショパンのどちらを取るかまあ双方にしようとちょっと補助としてアイデアをの坂道はまだそう変化せずにありて…









 

演繹と帰納、理論と実践、脳と脊髄、観念と唯物、あとなんだとにかくこの対比の壁は、強引な生理物理の衝動・全身全霊的なベスト精神で個的一様一体感で過ごす過程になっている人間存在-中学生の時から強引を何時使うか使うにせよどうもの感はありて、その分強引な所為を向けてきたxx&xy類の記憶が-









 

ランボーが何を述べようと俺は俺であり私という人間はこの世に人しかいず、俺個人以外は全て他人であり、俺は俺であるは俺は他人ではないを示しているのは当たり前当然すぎる普通のことなのに、なんだか煩わしき自覚心を勘違いしたキホーテ&サンチョ症状者達に遭遇し過ぎて疲れる.