2016-08-01

my ft 08012016

表現をああだこうだと公理前提とした、物象的に対象をしている・いやそれでもいいけれど、充実した自然意識を味わえない虚構になりすぎないか.--どうもθ(しつこい雑草などはセンスが異なるが全くうんざりで強要的あてはめを変えないとだ)がかぶさってくる仏人の特徴思考・・・なんともである.
 
 
 

   
シミュラークルに対するシミュラークルは一体どうなるのか、ボードリャールは読んではいないが今少し見てみると、死の象徴交換で契機設定とある、困ったね現実をそのように見ていいのだけれど、それも有機性がややないかなと思える、要するに差異とは比較で前提が公理のような指摘に過ぎないのでは
 
 
 

   
あんまり当たり前すぎるので気にする必要はないとしていたが、中間存在という限り気にしなければならない現象考慮が必要な場合があった.定数ばかりにこだわりすぎ、人は生きているのである.ワンパターン教条的・戒律的人間や定評一定は定数的でもあるが..
 
 
 

 
心的現象論序説はいい書物なんだけれど、有機体が原生的疎外というのはいただけない、だれか疎外という見解に対して何やかやのこじつけ?的擁護をしているのを見たことあるが、唯物的思考者にとって疎外とは疎外以外の意味を持たない、そうでなければ観念的になるか、観念と唯物の中間の無責任になる
 
 
 

 
しかし予定ではそんなことは全く考慮していないので困ったことに、歪めた不当な現実が自然な現実であるかのようにしか判断できないおかしな存在たちは?、その存在たちが歪んでしまっているということになるなと気が付いた.クレイジーな狂人達か、まあ普通に人は狂気的という未熟な存在と思っているが
 
 
 


中学生の時実朝は悲劇的というか優雅の極限・はかなさの極限・哀れの極限などが迫ってきて、どうにもそれ以上実朝に関与することはできずのままがその後ずっと続いている.人々の解釈では実朝はセンスある人物となっているが、そんな悠長な心性は持てず実朝がセンスあるのかどうかは全く分からず
 
 
 


野田線や高崎線のホームでどうかすると浮かんでくる曲のある一部分がある.漸く措定できた・ベートーベンのロマンスである.どこかで聞いて記憶にしまい込んでしまっていたようであるロマンスの一部分.
 
 
 


バウンス論からは重力波とかセルンとかヒッグスとかそれは何、そんなことに大枚金をはたいて努力をした昔があったなという代物になる.こうなると無駄というのはいったい何ぞやになってしまい錯乱してくる事態になるな
 
 
 

 
”「ビッグバウンス」理論は、年に発表された”のかこれは正解だと思っている.ただし想像できかねるビッグバン.
 
 
 

 
強制ということは一方的という縦構造者になる、多分その人物も自意識で実際にそう思っていただろう.とにかくマルクス関係の翻訳ものの印象は、自動ロボット的な無責任人間を構築するように書物からは感じている.
 
 
 

 
独裁者や権威的地位や宗教創始者などは実際には政府を超えた存在真正アナーキスト(無い政府の意味で)なんだが、アナーキストとは本来それを示す存在であると思っている.そのような存在の前からは政府存在が実際は消える形でないとならない.
 
 
 

 
どうも存在論的というか時間差というか夢の中で思考・判断をしているので、現実的と思い込んでしまうような気分によくなる.
 
 
 

 
"夢は知覚の対象結果ではない"という考察がある、何この即物すぎる考え方は、即物的には当たり前すぎで、この現象学的現存在的な思考イメージは?、唯物的だからか.人は睡眠中に何らかの知覚を行使しているという未発見の何か作動をしているかも知れないではないか.とりあえずミオクロがあったり
 
 
 

 
認めずだったが認めることにすると、源氏物語とカントを結び付けて考えた存在はまずいないだろうということ.
 
 
 

 
ふと源氏物語必携を気分転換として手元にとれば、源氏物語にはモデルケースがあるとかあるではないか.なんとそう思えばさもありなんとはくるが.今の心理気分がそうさせるのか、源氏物語の文体はセロトニン豊かに感じるではないか.これもなんとと驚くが、さすればそうかと思うところはあるが認めず
 
 
 

 
未熟段階での甘えはいつか成熟の可能性余地に基づいている.未熟だから利益や不利益が生じるのはしかたがないという、よくありすぎる社会現象であるが、帰納の本質は未定にあり成熟が保証されているわけではない.帰納の未定に対するのは演繹のカバー域だが、演繹の未熟段階とは理論の不正確さか
 
 
 

 
陰謀的洗練主義は演技的性格者の得意とするところだろうが、その陰謀自体は演技に含まれるという虚偽性はともかく、その存在自体が陳腐だとエネルギーがストーカー的にしつこいバイタリティを持っていて、除去なかなかできず、自由の邪魔ばかりになるという、陳腐演技的性格者の権威・権力志向性.
 
 
 



 
   
 

 
どうも人々は言質を強要してくるな、別に言うべき意見なら述べるが、未定の意見を無理やり決定化にもっていこうとしても困る.嫌がらせにしかならない...そうではなく俗物の好む明晰さゆえの自然が要求するところのものという解釈もできないことはないが、それではその当人は俗物になってしまう-
 
 
 

 
科学の全盛かと思える時代の理由について考えてみると、宗教の物象化を科学というとかを考えて、ポパーの言わんとしたところもこのように思える.最も宗教は科学的解釈で科学的位相を持っていると弁明してそれがまた正解であるようにも思える記述を見たこともある.否定弁証法的かつ連携可能と.
 
 
 

 
神を持ち出している以上、ラプラスの悪魔・ニュートン空間思考判断がだ、が量子論で落ち着いても、スピノザはまだ有効性があるかも、すなわちペンローズあたりが電子は統合体とか申して、量子に一悶着を起こすようであるとだ.無限小から無限大まで解析できる知性というべきだったろう.
 
 
 

 
ミショーの不要情報はあまり関心ないがそれ以外はいいな.そういえば管理者の立場の存在として、ミショーの幻想旅行記をプレゼントした女性を思いだした.別になんとなくいい漠然とした感性のミショーだったが、本のタイトルはよく見ると対的だった.アジアにおける一野蛮人なるタイトルもいい.
 
 
 

 
Arnold M. Ludwig&Carle Tart-「Altered tate of concioune」を知らなかった.ベルグソンの偏在精神説も知らず、アンリ・ミショーは不要情報への挑戦を行ったということだったんだ.
 
 
 

 
宗教というのはその優越性優位性のために信仰者に強制を行うようなものに見えてしょうがない.阿片?アヘンとは何、権力の甘い汁もアヘン的といえばそういえる.演技的性格の快楽もアヘン的といえばそうではないか?
 
 
 

 
むしろ人間にパラダイムを想定したい、精神感応型と身体束縛型の混融から・どちらかというと今日も混融的な時代と思っているのだが、普通に人は精神感応型に進むと思うはずで、身体束縛型は旧式になると、ところがそうなると類続をどうするのかと不明になり、何らかの変転というパラダイムが必要と
 
 
 

 
試験管ベイビーも受精だが生理医学という科学を持ってくると、精卵結合の感情意義が薄れ出産に重きが行くことになってしまう.科学の存在・科学哲学の対象問題である.科学哲学はやはり無機的領域になってしまうか.
 
 
 

 
個人的に理由や根拠を述べ得ない直観では、与えられた形だが、現象的・事実的・本質的かな、受精・精卵結合が重要であるということになってはいるのだが.
 
 
 

 
トートロジーは無化でありしらけてやる気なくすか、いつまでも自己主体にとって不快な反発・異和としていらだちを継続させる.ここでは反語的に継続とは無駄あり徒労であることになってしまう.
 
 
 

 
不快な記憶の言明者は視点を変えて・・、普通に思考の後を記憶して保存している事柄を剽窃して蒸し返して発言してくるのは異性一般であり、特にXXであるので、これをXYが行うということは、そのXYがXX的であるではないかと、ふと思いついた.
 
 
 

 
のちに知ったアローの不可能性定理はその辺のところを示しているように思えるが、指摘だけで必要であるとする打開策は申していないと思っている.いわゆる啓蒙というやつで、最も定理的な啓蒙自体に到達するのも個人には大変な面もあるが.
 
 
 

 
民主集団が権力構造を持つと・横的水平的集団が縦的垂直的集団に変貌することになると、指導者は独裁傾向を持つ可能性があることは以前に考察してある.否定できないのである.縦構造になっても民主的集団とみる指導者からはフラットな塊に見える可能性が存在している.
 
 
 

 
ホップアトラクタそのスケーリング変容--という言葉を現象認知対象によりて考える
 
 
 

 
言論の自由というのは多くは自己利益のために申しているのではという考えから、言論の自由には自己不利益の面も含まれているなと思ってみた.
 
 
 

 
身体優位型人間は、身体存在自体が束縛を齎していると考えないのだろうか?、そんな人物に有限外と申しても全くの無駄であったかも・・
 
 
 

 
普通経験上によれば、不美なる存在はすべてを欲望対象と見がちで、対象は身体的存在であるとも見がちである.権力志向型存在も対象を身体的存在と見がちでもある.なぜならそもそもこれら存在の存在理由が身体的存在でしかないからである.
 
 
 

 
人は有限時空体であるというべきか、それは経験上明らかで作用上も明らかだが、それゆえに木の実を食べると永遠の命を獲得できるや、死者が復活したとか、また復活するとか、夢を子供に託すとか、宗教の開祖が戒律を守らせるようにするとか、芸術家が実在するとかである.
 
 
 

 
ただしいかなる個々人も有限の生理時間を保有していることは真実である.関係に規定されているという時には、この有限時間に規定されていることになる.そうなると関係とは有限時間のことか、人個々人の生にとって有限時間は絶対的なものとして存在していることは誰でもそうであるはずと思っている.
 
 
 

 
不快な記憶の言明者たちは僭主人間であると思い至る.大体権力的な不自然要求者だから人格は邪悪的で、無自覚である自己虚偽における自己投射を他者にして優越感を覚えるという他者には愚劣感を覚えさせる存在の記憶があると同時に、今なおそんな存在が登場して、思考愚劣気分になり苛立ちを覚えるのみ
 
 
 

 
水や火・数・リゾーマタ要素・アトモスとか、アナクシマンドロスが無限定・アペイロンをアルケーとしたとな、そうかアナクシマンドロスがなとは思う.アルケーとテロスをアレプとタウとも表現するらしい.これも思い出の戯れ要素はあるが、人はどうしてもαωを構想してしまうとしか言いようがない.
 
 
 

 
プラトンが幾何学からイデアという流れはよくわからない、ただドクサは当たり前の常識に思える直観という、ヘーゲルにとっては悟性だろうが.当たり前というのはプラトンは常識的な存在とみていることに.ワーズワースやヤスパースではなくて、個人的にはプラトンが人間的という考えをしているとなる
 
 
 

 
いや普通常識的に、リバティはゲゼルシャフト的でゲマインシャフトはフリーダム的な面は否めないな.確かに都会はゲゼルで地方はゲマイン的でもあるのはテンニースの考察は確かな現象事実である.ニュアンスがどうも異なるテンニース、リバティはクレバー的で、フリーダムはウィズダム的としているので
 
 
 

 
ようやく横柄なワンパターンXXが睥睨的存在であることに気が付く、ヘーゲル的悟性存在に睥睨型が実在するなど考えもせず、今ではそれ故にとも考えることもできるが.とにかく権力志向型は睥睨型であることは間違いない、ただその物理主義的叙事的イメージで、まるでロボットのようでもあるとも見える
 
 
 

 
先ほど市場原理で考えあぐねている明示領域から深淵領域へ思考ができたのにもう忘れてしまった.忘れたくないことだったのに.この明暗像は道教の陰陽もそうではないか?と思いついたところ.純粋志向の宗教・科学的困難な・でもなくて、貨幣重視の宗教も物象化で存在する理屈はある.
 
 
 

 
科学哲学が最も止まっていると思えて、憑依は科学ではないとの思い出しはヒントになるなと.コルニュの螺旋は無限小に収束方向を持っているが、妥協として地球点を想定して、スイングバイはコルニュの螺旋に類似できるのではというアイデアを先ほど持った.重力に関して脱出速度は地球上どこでも同じと
 
 
 

 
憑依-カルト・偏執狂・ストーカー・ファナティックなどを連想させる言葉、こうなると現代でもやはり成立することになる憑依的現象・存在の実在.自然がそこにあり、自然を持っていて、自然とともに生きる限り付きまといそうな現象では?、またかと思うXX達のヒステリーは実際は可愛くないがここに?
 
 
 

 
固有時空をありふれた表現化すると個性になる.固有時空から発せられたにせよ、情況は多数遭遇するもので、絶対的なものではない.その都度絶対かその都度塑性的か非可換的な記録ものになることは言える、”行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”なので.
 
 
 

 
写生はむしろ縄文的な牧歌的イメージがあるとすべきで、自然とともに育ちまた自然を慈しむ心がある存在ならば何でもない日常である.そこの生態系に詳しい存在はいて、だがしかしそのような人物が歌を詠むセンスあるとは珍しくもあるか.
 
 
 

 
”もも草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ”これが古今集当たりの作品内容とどのように異なるのか、単に明治に生きた今様性でしかないとしか思えず.もも草?とはどんなものか知らぬ.ちなみに黄檗の鮮黄色も見た記憶はない.写生の感性はワーズワース位相かヤスパース的かな?
 
 
 

 
”人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だ-ジョン・デューイ”これには賛同できるが、デューイ以外にもそう思っている人はやや多いイメージで見かけている気がする.なんのことはない多々単に平板なプラグマティズムという感じだったが、実験・協同という実験主義は気にしないと
 
 
 

 
不快な記憶者たちもそれに準ずる存在であり、なんというか人をドン・キホーテにしたがる・道化にしたがるのは、その存在人間自体が道化なんだということに気が付きつつある.とにかく理不尽な不自然な言明・人が風車に見えるようで全くこちらとしては困ってしまう対処という経験が不快すぎている.
 
 
 

 
キャロルやセルバンテンスは一応夢と気が付いたが、冗談などを真実と思い込んだまま消えた・消え去りそうな存在はまず如何ぬ存在には違いない.困ったものである
 
 
 

 
ふざけ・演技・遊戯・冗談・劣化謙遜など、意味のなく無駄でしかなく、徒労を齎すものを他人はなぜか真実と思う、また社会的にもそれらが事実になってくる--実際の真実は現れてこないことになってしまうという不快すぎる事態に直面する記憶やケースが多い.
 
 
 

 
自由の思想史にしろクオンタムユニバースにしろ世界の法律事情にしろ、今頃読むべき書物ではないと個人的には十分思うが、何しろ発行が今年なのであるという社会時間の遅さを思う.まあそのおかげで今頃書物を読もうということなんだが.
 
 
 

 
独裁者は一国家として設定して、その場所では超秩序的存在である.独裁者には秩序は他者に対しては存在するが、自己に関しては存在しないことになっている.そのとき独裁者はかなり自由な存在に近いが、それでも--.
 
 
 

 
睡眠をやめて起きて身体を動かしていると先手必勝的にその女性の言葉が・その状態心理が何度も想起してくる時間以上へてもいまだに邪魔な感覚で湧き上がる、何らかの心理の惑乱女で煩わしい不快な荷物的障害になる.それがXXを好まない理由になる、何しろそんな反応を好まない人材を無視している
 
 
 


スケーリング則がいつの間にかα戦線でも現実になっていたと認識することが多々ある.なんだか現実一般もそうなっているようなのだがどうもうまくキャッチできない.生政治とリゾームが普通の世界ならθの世界なんだが、αがΘに一致してきている.αのテーマは項目だけ設定したが考察は皆目せずで
 
 
 

 
物理的にはモジュラー関数関心で(Σ=Πもあるとか)、エネルギー&電荷状態の母関数なら超弦もかかわってきそうではある.この辺詳しい人はいるだろうが、空白時間が埋まらないほどに長いのと情報不足がある.モジュラーであるならばABCには必要だろうは想定できる.(対称行列はありふれすぎ)
 
 
 

 
エキスパートな楕円積分はテータ関数に関連すると、これと遠いアーベルの関連は今のところ無限乗積展開だが、無限乗積などは普通に存在するものとしてしまえば射影的で簡易だが、電子が確立でしか存在しない形をとる実際は困難になると.クォンタムユニバースは容易に見えたが読むのは難しかった.
 
 
 

 
ある夏の暑い日の河原で卵形回転が浮かんだ、地球自転よりその速度は明らかに早い設定であった.ここからテータのギリシャ文字を結びつけるのだが、意味合いはなんというか考えようとしない対象で記憶にあるのみ、宇宙の星で猛スピードで回転しているものは?--中性子星がまず
 
 
 

 
テータに平行四辺形積分モデルが出てきたが、小学生の時に平行四辺形の面積の出し方応用がわからなかった写実変形をいまだにというか常に思い出すプラトンの幾何学できねば哲学ができないというよくわかりかねる言葉に悩む.しかしだテータモデルをあの小学生の時予期したのではないかと引き寄せてみる
 
 
 

 
∞・-∞・∞-∞・∞⁺∞・∞*∞・∞*-∞・∞^∞:基数に行ってしまうテータチェック前に、メリン・ガンマ・連続体などなどの関連がABC
 
 
 

 
それ以上に西荻で不快なのは、魔弾の射手の狩人の合唱を聴きたかったが、何を勘違いしかそこにいたXXが奇天烈な反応をしたこと、?君にリクエストしたのではなく、何を自己に引き寄せて判断しているのか非常に不愉快な記憶として残っている.おかしなXX連中は多い.
 
 
 

 
XXは浦和で何かあったのではなく入試ミスでもなく単に高校卒業という転回点ゆえだったのが一番の可能性に今頃気が付いた.まったく何を疑ったのだろうと思うが、そんな生得的位相を持ったのもずれはあったということだ.
 
 
 

 
種の特性方程式はアルティン予想のように、全複素平面上で解析可能のような広い領域など考えたこともなく、K-理論と何ぞやでこれも考慮にあらず、そもそも非自明な既約ではないように考えたもので、これはもう単に個人的な戯れの対象となるな・・・
 
 
 

 
保型形式、人間の目・知覚から見てこの世界・宇宙が存在していることは確かなので、あるということは存在が持続しているということだから、その持続を保証している保型が想定されることになるという、自明についての何やかやの諸々がうんざり・煩わしいと思うときもあり・・
 
 
 

 
ある人物の理不尽によりどうも犠牲を強いられている気分である、まったくこの人物は理不尽を行うくらいだから、犠牲などする価値がない存在なんだが、無知の将来性時間というのはしつこく長時間の桎梏を形成するものである.全く徒労・無駄に呪われている-無知の余地時間の主張の長さという面倒臭さ
 
 
 

 
俗物は明晰を好む?・で閃いた、ある存在が荷物的な重さなのになぜ明晰なのかは俗物性豊かであるからだと.それでこんな明晰人物は不快でしょうがないと思っているのに、あるXXがその人物に対処した内部思考を当てはめてきて、ずっと不快に持っている.すなわち陋劣者のエゴ主張意識如実といいうやつ
 
 
 

 
ふざけるときは、対象がくだらないと思うがその対象を除去できず否定するわけにもいかないときや、その対象存在がくだらなすぎることに気がつかないときに行う.すなわちその対象存在やその対象言明やその対象との情況が陋劣である場合であるが
 
 
 

 
ふざけて自己劣化的演技をすると未来の現実がそのようになってしまう.自己劣化演技というのはその時点で敗北しているのかそれとも遊戯的か、演技は高々冗談に過ぎず直ぐに消え去る泡のように考えているのに、まともにとる存在もいるのは相当に無責任を味わいたいのだろう他人と見るしかないかな
 
 
 

 
アドルノの否定弁証法はFB関係もあるが、非可換にもつながるようでないと、それ自体の意味合いの存在性があるのかないかの判断要素にする.
 
 
 

 
いつも通りの渋滞・上尾夏祭り

 
 
 

 
”夏の日の午後、熟したリンゴが落ちて頭に当たって跳ね返ったときに、万有引力の法則が閃いた”らしい伝承があるとある、リンゴが落ちるのを見てではないではないか、この違いは個人的な閃きに結び付けることができるので大きい.個人的な閃きはなぜそのように考えたのかわからないものが多い.
 
 
 

 
あの時のどうやって無限というわけでもないけれど、有限型から繋げる・説明を設ける(その可能性は必要であるとした直感による)のか難しいと思ったもの、遠アーベルの着想をしていた人物の名をなぜか全く知らず、不思議である.類体論というしゃれたものをいつか時間があればの時に登場してもいいはず
 
 
 

 
p進についてある数学専攻院生XXに聞いた時に、短くは表現できないといわれたが、先ほど完全不連結空間という言葉に遭遇して、短く表現できるではないかと思った次第
 
   
 

 
勢いでカントの物自体に行ったけれど、はたっと考えるとこの物自体に行くというのはいい考えでパラレロを処理できるなと思ったが、素直な追随として物自体がそこにあるが、接近できず堂々巡りをしてしまう想定をした若き日を思い出してしまった.
 
 
 

 
呪われた写実の先にはカントの物自体があるとか、ブラマンクは物自体に近づいたとか出てくる.
 
 
 

 
だが、ちょっとした手違いがストレンジアトラクタ的な時間形成をして・・つまり無駄をさせて--ちょっとした手違いなのかどうにもほどけない強靭な偏執的があって、どうもちょっとした手違いでもないというより、ある存在がワンパターンで同一傾向を理不尽に発揮した蒸し返しトートロジーが問題かな
 
 
 

 
とりあえず考えた境界時間的時間でのシステムは、ミンコフスキー空間類似で、conic ectionの yperbola意識で ellipeの位相を構想したもので、現在に人は生きているとしたもの
 
 
 

 
”楕円曲線は整数点を有限個しか持たない”やモーデル予想とのファルティングスの定理なるものがある--特性方程式の種の既約方程式解を持つ一つの方程式は実在する可能性がある.それは楕円曲線のある形?なのか、なんだかおもむろに思いついた何のことはない方程式観が時間を保つ
 
 
 

 
叙事的存在やタナトス的存在をなくさないと平和はありえない.
 
 
 

 
目には目をという過剰防衛戒めにより、裏切りには裏切りを与えるという傾向を持つ.太宰治の駆け込み訴えをピックアップすれば太宰治は裏切り体質なので、XX的な要素あるかな、意識視点から駆け込み訴えの作者を認めるわけにはいかないことになる.太宰好み者達は俗に将来裏切りをする存在達となる
 
 
 

 
心射方位図法などどうも幾何的才能がないなさっぱりわからん測地線、最短距離が描けない.小学校の時に平行四辺形の面積だったか求め方がわからず、周りからわからないのかといわれた記憶があるが、やはり想定力が働かなかった.資質的面がある気がするな.ただしプラトンのイデアはよくわかる.
 
 
 

 
そうなるとワンパターン人間はマシン的存在になり辟易するパターン保持者という存在になる.人の固有性はそう変わるものではないので、その固有性を好むか好まないかを判断するものである.リアルであれば思考内容に増して感情が、生理・物理身体判断が成立するのは当然である.
 
 
 

 
なんだろうやや太宰治にも叙事的な抒情性のなさを感じる連中と同じような位相を感じるのだが、どうも底が浅いと思ってしまう思惟の法則的な思考能力というロボット・機械性を.ある意味太宰治は作品マシンとも感じることができるな.女性とだけは良さそうなだがこれもそのように考えるとやはりである
 
 
 

 
強靭さが嫌いでというかそのシビアな拷問一定力にとても不快な思いをしたことがあるので、ここではおそらく一定の強靭さに飽き飽きして拷問的なしつこさを覚えたある街のある駅での中学生というわけで.バイタリティがある存在も世の中にはいるというこの懸念が不快な存在の記憶を未だに覚えさせている
 
 
 

 
種の特性既約方程式はモジュライ性を持つと想定できたが、果たしてそんな特異と思えるひとつの既約方程式種を内包した方程式があるのだろうか、それはモジュライ方程式の可能性が高いことになる.こじつけ的に考えるとそれは次元方程式で、時間と空間方向に式を持つもの・すでにある?かどうか
 
 
 

 
秩序というのはその性質からしてエントロピーに逆行しているもの、エントロピーは増大するが、秩序は均衡を保とうとするので増大するわけではないが、増大しているエントロピーに対処しようとする均衡の度合いは増加していることになる.
 
 
 

 
「帰納は結論が出ない」と説得力ある判断であるなを見かけたのだが、誰だったか今は全く見つからないアメリカ人.懐疑は帰納の結論がないから導ける考えができたのもこの人物の寄与による、小学校の校庭で皮肉という言葉について知った頃が原点の犬儒
 
 
 

 
グロタンディークは数学史上の流れからとも、自己能力からとも、それは自然にともいえるけれどスキームは時間・空間多様体意識から、思惟の法則を当てはめて当たっていると思う
 
 
 

 
スキームの点が多様に、多様が点にについても、どうにもあちこちと揺れたのだが、たぶんよよのうたびと・千人万首から刺激を受けて、芭蕉の夢の跡もそうだが、時間多様体を空間的にみると点に、点を時間的にみると多様体になることがわかって・・思いついた.
 
 
 

 
メタ意識は普通に人は持っていて、マイナスメタ意識もあっていいはずの微細構造意識というものを考えてみる.エントロピーは実際にはマイナスメタを通常のメタにしているという矛盾的に思えるが対角性を排除して正常状態である.
 
 
 

 
普遍グラスマン多様体はライプニッツのモナド充満と似ているかな、無限素領域とも似ている、ファインマンダイアグラムも同じく散乱古代よりもほぼ同じ考え方という、思惟の法則があるとつまらないというアルゴリズムにも似てきて...
 
 
 

 
モジュライ空間における R の中で原点で交わる全ての直線に対応は、自由度と同じ考え方だった.モジュライはさすがに本質的であった.
 
 
 

 
蓮如は一体後世の人間をどのように考えたのか、大乗なのに秘書にするとは密教系に近づいたことになるではないか.蓮如は歎異抄の欠点を見抜いていた故にそうしたのかあるいは布教のための戦略だったのか、どうなんだろう.ニュアンスでは布教が強いが後世の人材をなめすぎた面を感じないこともない
 
 
 

 
これらの人間たちは何が不快かというと、当人の人格を認識レベルが低いとはいえ無視しているからである.そうして無視するのが都合いいように当人をある他人と同定設定措定してしまうという理不尽を受けた・受けるため.つまりそのセリフは言うのであれば他人と設定した人物に直接言うべきなのである.
 
 
 

 
ともかく無意識で自然なように見える、過去記憶既存もの発言者たちというのが始末に悪い.自覚させるのが大変でもう会わないので、そのようにうぬぼれ・偏見・無理解したまま死に至ることになるであろうが、無理解のままというのは不快ではある、ゆえに認識レベルの低さとかを言い出すのである.
 
 
 

 
そんな人間が多いのである、対自的な思考の記憶はその即自の持ち主のものであり、いわゆる「マネするな」ということに今ではなるのだが、その時には何のことを述べているかわからない・ただ茫然と思考が麻痺しただけ、にもかかわらずそれはすでに自己既存思考内容と思わずに、他者主体のものと対処して
 
 
 

 
”埴谷雄高はねえ埴谷雄高はねえ”といったので、唐突にそう言いだされても答えようがなかったが、最近思うに埴谷雄高なんぞは何でもないと言ってやればよかったかなと浮かぶがそれも今となっては詮無いこと.いわゆる目の上のたん瘤だったようであるな.
 
 
 

 
違ったか、夏草や兵どもが夢の跡は空間的要素が強い一様時間を覚える.すなわち歴史には瞬間が成立しないことになる.
 
 
 

 
空間的には単一時間は成立するが時間的には単一空間は成立しない.
 
 
 

 
紀伝体事実とはいえ、政権が代わるたびにあの手この手の制度を考えたり、民族勃興の歴史ありで、空間的には射影が成立するが、時間的にはパラダイム的な要素ありて、射影化は時間的に困難で結構な複雑さを、単一時間現在的には把握困難を呈するものだ.芭蕉の夏草や兵どもが夢の跡という時間性がある
 
 
 

 
同じだと自力個性がなくなるのでその点が不快なのである.それ以上にとんでもない認識違いをしたことが問題と父性的なアドバイスは自らが証左をすべきことで専制的な代物だったことも不快なこと.認識違いに関しては明らかに認識レベルの低さは明瞭なことはわかっているが、世間認知度量が圧力になると
 
 
 

 
野球のルールから考えたシジフォスの神話に、得点をあげる(石をあげ終わる)ために毎回下から(ノーランナー状態から)石(得点)を上げ始めるといった形は似ていると.TLのある人物曰く、そのような例は数多くあり不感症気味になっていると、確かに性的根拠・身体周期根拠物は多い.
 
 
 

 
B高側のスタンド最上段でヌードルを食べている、向こう側から歩いてくる若き乙女・二人連れの一人と視線が合い、もう位相設置の情態に、困ったな相手にしないとの状況明らかなだが、静かにその場を去りて...高のチアガールたちにも手をあげるかふりたかったがあまりにも厚かましいかと思い...
 
 
 

 
なぜか苗場なんだ、ところが歳の冬に、浦和で彼女は浮気をしたなどという思いをやや離れたところで想定してしまい心理に乱れを持ってしまった.今考えて入試で何かまずいことがありそのように思ってしまった気がする.そんなことは全く忘れていて会った時には聞くこともせずで、その弟は邪魔ばかり
 
 
 

 
一両日にふと中間存在の数が多すぎるので妥協しようかと思いついた..そうなると今は子持ちすぎるあるXXということになりだが、若き日の記憶しかないので・それも非常にまずすぎることも多いのだが・今の年を取った姿は知らない.亜麻色の髪の乙女をモデル化して、夏の苗場での草原でデートを夢見た
 
 
 

 
トレトレ・トコ・ピコ・トンはそのある人物に当てはめたつもりが、自己感性であったかのようだな..実際のバスケの試合ではいろいろのんびりしているわけにはいかないだろうが、ピコがシュートが決まった時で、トンは着地である.トレトレはリングに向かい拍子の助走で、トコがジャンプ
 
 
 

 
これらのXX&XYたちの認識能力自体のレベルが低いことは一目瞭然なのだが、これらはそんなことを露にも思わずと認定できる困った存在たちだ.一生レベルが上がらない可能性も高いかな.いろいろ不都合であるので、スーペリオリティ複合などが普通である生活などを強要してもらっては困る.
 
 
 

 
女としての物理・生理機能は十分持ってはいるが、叙事的指示性なので魅力がないのは明らかな存在が、権力志向で突っ張るのはマズロー曰く、承認要求の低次元位相であるということを、このXXは自覚していないのか・自覚してカムフラージュか、そんなことは愚かだという知力を持っている筈なのに・・・
 
 
 

 
流している曲の転回点で好奇心を呼び寄せるイントロが、あれこれは何だったかと.番の第楽章であった.ベートーベンの番といえば、変奏曲の味がない・出せそうにないつまらない女が共同的に突っ張ってあまりにも愚劣すぎる無理解を理解できず、ナンセンスに呪われてしまいいまだに不快すぎている
 
 
 

 
何しろ叙事的・指示的XX&XYは勘違いをしている、嫌な実在としか思っていないのに、説得力があると思っているかのような態度を取ってきて、邪魔でしょうがない.自力主体は権力志向者には不都合なのだろうが、自力意図が少なくともある人間には権力志向者は邪魔で偏執的なしつこい存在でしかない.
 
 
 

 
ジャワのスコール・バイカル湖の針葉樹・バルト海の何だったか、多分荒波・ではなったか.パタゴニアの風雪・中東の砂嵐・キリマンジェロの雪などとかも入れてもよかったが思いつかなかったな.
 
 
 

 
昔見た白昼夢的な、人工太陽はだれが作ったのだろう.核融合物体をそれも空間に浮かべることが可能でそれを00年以上続けるという構造物の時代は、当然惑星旅行は夏休みに行くところとなっていたが.未知との遭遇の一場面の映像は惑星旅行の映像を見ながらの風景に似ているところがあったな・・
 
 
 

 
ピーターパン症候群・・思い出の不快な存在の中に叙事的XXが巣くっていて煩わしいのだが、ピーターパニー症候群というのも想定できるなとは思う.大人になりたくないのではなく、大人になれないXX達の最低・最悪性というものが存在していないか、XYに関しては昔から常識的に言われていた...
 
 
 

 
これから先には遺伝子の違いを保存するか混淆するかが問題となるだろう.すでに混淆国家もあるようだが、しかしなれど米国など事象では差別は単純現象に見ることのできる区別であり、むしろ遺伝子の違いが極端な単純区別可能表層になっているからではないか.
 
 
 

 
国家が死滅して、貨幣もなくなってそれでそれがいつまで続く?のがないマルクスの科学もその先は観念・唯心的になりそうな予感があるが、いずれにせよマルクスは明示していないということで無責任のほったらかしということになる.そんな考え方でよいのなら楽なのではないか
 
 
 

 
複雑な変化はリゾーム的?、リゾームは複雑系?、ドルーズは否定弁証法的だったか?
 
 
 


坂倉登喜子もよく言うよと、単に荒沢岳が地図上に目に入って、秋の紅葉を見るのも一興のコースではと思い歩いただけの中の岳避難小屋での一フレーズをよく覚えている皮肉的な”荒沢から来た人だから”と連中はたき火を初めて、こちらがあたるわけにもいかずの秋の冷たさを忘れずの青春の一コマ
 
 
 


ヨゼフ・ピーパー「余暇と祝祭」なるトマス主義者がいたのか、ある時あるXXがエラスムスでしょうといった・(一体何のことだ、名前だけなら知っているが内容までは知らない)と思い、それならトマス・アクィナスを選択するという意味で、トマス・アクィナスと対抗発語したことがあることを思い出す
 
 
 


自由というのはリバティではない、自由に近いのはフリーダムであるが、これすら自由でもない.
 
 
 

 
ホッジに掛け算か、これでは考えれるわけもない、違いをどのように考えるかを勾配のついた道を歩きながら想定することは断念せざるを得ないとある若き日の思い出.そんな記憶から判断すると方向は良さそうだが.
 
 
 

 
フロベニオイド・・エタールテータとかなんというか、総力戦の気配があるな.楕円関数のエキスパート感触をのその後のテータまでは、ただ趣味で好きな人はいるものである.シータは角度や温度、テータはまあ大文字を使うな.(相変わらずのねじれをしつこい存在がいる)
 
 
 

 
あそこの昔は建物・人家があったのようなちょっと展望の開けるところで考えていたランダム・完全にランダムではないは、故にアトランダムという言葉が好みで、のサイドに道があるその緩やかな道を上りながら考えた、全体から全体へではあるが、その部分から部分へというのは不確かであると、
 
 
 

 
マルチバースから離散時間を思いついたエベレット性、これならうまくいくということ自体驚きなんだが.結構うまくいく長年の悩みに対して、時間自体が飛び飛びの値を持つなどとは全く考えもせずであった.
 
 
 

 
すなわち古いのはそのような陳腐な退行存在で、とにかく突っ張り往生際が悪いというか、未熟の未来余地が十分ででたらめを発揮していると思うが、現在時点で古い陳腐存在という認識を0歳付近の存在がするわけはないか.
 
 
 

 
マズロー曰く第の人間は憐れに同情する、カフカ曰く同情とはexである、カフカも無茶苦茶言うなとは思うがそんなケースは実際には多い.またマズローの場合、憐み対象者はその匂いを嗅ぎ付けるのが犬のように得意で、あたかもストーカーのようにしつこくたかり始めるものとなる傾向もまた多い.
 
 
 

 
論理的に明瞭なことはどうでもいいと思った事があり、故に線形的な事柄は排除して生きた日々がある.当然線形対象を要求されることはどうでもよいので、畢竟…そういうことになる.かといって非線形も困難なんだが.その結果どっちも駄目のまま非線形には偏ったままだが時が過ぎ去り..
 
 
 

 
理解してもらっては困ると同時に理解できないだろう理解しても歪めるだけとか思いつつ、やはり理解できないのだけれど理解してもらいたいが理解しなくてもいいなどいう思いのまま勢いでの手紙なので、遠慮のブレーキがかかったままの思考内容文面であるはずのものだったはず.
 
 
 

 
そうそう演技的性格者はどうも洗練コンプレックスであるようだと気が付いた.
 
 
 

 
”熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に、”しかもコンブレーの情景を思い出したのだったのか?・・、水道の蛇口をひねった途端に過去の記憶がよみがえった・という文章を記憶していた、なにかでそんなところを読んだのか、はてまた自分で創作してしまっていたのか
 
 
 

 
失われし時を求めては章のタイトルセンスがいい、特に「花咲く乙女たちのかげに」という、花咲く乙女たちという言葉はいい.
 
 
 

 
人はそれが未来に生じるとは気が付かず、それが現実になっている時にも気がつかず、相手のXX達は今にして思えば直感で気が付いていたと思えるが、なぜ気が付かなかったのか、現在は過去ではなく過去は未来ではなかったのだが、未来は不明かまたは障害XX達が邪魔をしたか、または自己心理が?
 
 
 

 
そんな夢物語を描いていると思い出す、消え去ったアルベルチーヌはスワン家へ行ったのかどうなのか(落馬?で死亡だった)、そんなアルベルチーヌのような女性を描いたXXがいた、かなり独身をやめようかとまで思ったが気が付かず、今では止めてもよい女性のうちの一人だったことはよくわかっている.
 
 
 

 
夢にまで見るというのは、幸福な場合と悪夢な場合と懊悩の場合と種類に大別できるかな?、もっとありそうだが、インスピレーション性もあるかも(これは起きているときの物事の結び付けが強そう)、そうか想像域での夢もある可能性が高いな.概観では夢は忍耐の反動忍耐に刺激を受けて作動するかな
 
 
 

 
アンナカレーニナの一様情態での夢にまで見るというのはまあいいでしょうというしかないが、最近では、夢を見ながらまた厄介なことにな・・た、までいかないところで目が覚めて、茫然漠然としながらしばらくして、夢だったと気が付き、幸いを感じることがよくあった.
 
 
 

 
反発心をなぜ起こそうとするのか、それはほぼ無駄なんだが.そのような存在はまず認めず、その存在は無理解であるゆえに、すなわち何らかのうぬぼれか何かで、反発励起対象を無視しているからである、無視しているような存在に何を言えばいいのかばからしいものだ.
 
 
 

 
陰陽をボーズ・フェルミ粒子になぞらえると、太極は近いものでヒッグス場か超対称空間にはなるが、まあ想定対象は異なっているのだろう、無物質を想定してあるのだから
 
 
 

 
限定合理理性は限定合理領域なら有効である.その場合に限定合理者は限定合理のために非限定を限定にしたがるので、理不尽が生じるのは明瞭なことになる.
 
 
 

 
新井白石・室鳩巣まではその名を見たことあるが、雨森芳洲は知らず.日本史も百科全書オンパレードの様呈となる.その結果の後で結局それがどうしたになる位相が到来することになるが、そこまでには時間というものが介在する.一歌--「つまびらか事案の流れいたづらに時をめぐりて位相落着き」
 
 
 

 
自分の他者にした行為を模倣して、第三者が自分に対して他者にした行為をしてくるという現象はどんなものか.まったく自分の行為はほぼ意識しているので記憶にあり、その記憶の模倣をトートロジーという不快な蒸し返しをなぜ他者・あるいは第三者から受けねばならないのか、そんな人間ばかりで・・・
 
 
 

 
諏訪根自子は知らなかったが、安川加寿子なら名前だけは知っている.アンドロメダの時に考えてはいたな.
 
 
 

 
久方の芽出度春にぬばたまの微笑みを見てもそれとなく去り--ぬばたまが出てくるとある女子大生を浮かべるのはおろかな知識の苦きゆえに..
 
 
 

 
そうなると甘えの構造の壁を破る可能性ができることになる・・.または大陸と離れてから遺伝子が変化してという考えや、また島国になったという限定風土はかなりのインパクトで、影響をもたらした歴史時間パワーは強いかも.それ以上に遺伝子の特徴が強いのは当然なので、遺伝子はどこで成立したのか?
 
 
 

 
稀人・常世の国の考え方はユートピア要素強い、依存性や甘えはこの考え方によっちえると推察.地続きの日々を忘れてしまったか、渡って来た旧石器人よ.しかし連綿と遺伝子を受け継いでいるなら、大陸と地続きであった日々の記憶をD型日本人は持っているはずである.
 
 
 

 
嫌いな対象の場合は否定弁証法が成立すべきになる.無理に普通の弁証法を行おうとして、理不尽・不条理感情などお構いなしの単細胞性が多いことになる経験を持っている.無機的叙事的指示的人間はまずそのような存在である.マクロ的視点は指示的な面が強いことは歴然としている.
 
 
 

 
他人に事ばかり考えている--普通にはその場合、その他人も君のことを考えるものである.作品を描かない代わりに他人は何かほかのことをしているが、薬中毒や自殺未遂なんぞを普通はせず、そんな存在を考えても疲れるだけで、意味がないやそんな存在に考えられても迷惑とかまず考えるだろう.
 
 
 

 
どうもそんな存在を擁護してしまいますます反対に自己自身を愚かな位相にもっていくことになってしまう.何しろ無自覚存在などどうにもならないではないか、それでもいくらかは自覚しているはずなんだが、どうも自分のことを考えずに、変な無責任というかおかしな存在を考える身にはまたなれないと
 
 
 

 
君自身をそのように思っているという対象に対して、自分がその対象をそのように思っているのだと、思考内部保存意識をもたらす存在が多すぎて、無茶苦茶に認識を乱す存在が多すぎて大変な記憶を持っている.まず間違いなく親鸞的に自己自身分析など何も無く、自己の不明な存在達を修正しないとだが.
 
 
 

 
権力的志向存在には扱いやすい事態なのかも、避けたがり遠慮するということは単純にみるしかない才能には、自己権力力の有効性の証左の思えることだろうな.個的対象とみると問題外の人格保有者なんだが、そう思われても、無自覚の親鸞的悪人ならまた考えることも何もできないことになり不愉快すぎる.
 
 
 

 
人が集まれば自然に秩序が生まれるのは想像体感している.ただ時間がかかる消極的自由的な面は確かにある.スミスは神とは言っていないらしいので、そうなれば自然成立の秩序のことを指していることになる.それを積極的自由状況で行う経済活動が時間相克を齎している形と市場を見る事も可能になる.
 
 
 

 
そうなると市民の希望も実存性を持つことになるのだが、このひらめいた実存の地平は当たっているのかもしれない.なんのことはなく悩ませた思考停滞・思考の壁は、実存へであるのならばなんとか何かアイデアを出せそうだ、というかもうそれがアイデアにはなっている.
 
 
 

 
主体を自我でも超自我でもなく、XXをXYに誤解する多くの存在と同一意識を持つ所の理由がわからない、推定すれば、かくしかじかのXX&XYたちの男女関係には同一化の欠如がまずあるなと、独身者は当然にして、子供がいて何年も育てていても愛情の欠落がないと説明がつかないことになると.
 
 
 

 
あるコーヒーのCMが登場してこの歌手はと思い勘違いをしたことはともかく、大河の一滴なる五木寛之の随筆があるとは、そもそもこの表現に対して、「揚子江に浮かぶ一枚の笹の葉」という表現を考えたことがあり、あまりにも謙虚すぎてどうかと思う人々の中でゆえに、今ではやめているがを思い出した.
 
 
 

 
山上憶良など言う存在もいたな、すっかり忘れていた.この記憶のどこかもまた楽しからずやなのだが、「世間の住り難きを哀しぶる歌」には、徒然草と方丈記を彷彿させる、多分後者たちには参考になったことだろう.”蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ”--いいね霜とは.
 
 
 

 
中学生の時に家の二階でふと、源実朝の優雅でなおかつ悲劇の憐れさにどうしょうもない感覚を味わったことがある.実朝運命の事象を詳しくは知らないが、強烈に印象にかかった人物である.近日、これは不条理ではないかと思い至り、後年に不条理いやだと思いつつ知ったが、以前に知っていたかのかもと
 
 
 

 
なんだろうこれは、味わいがあるが新古今集的感性ではない柿本人麻呂、長調的だなこれは、明るく短調の悲哀性がない人間と見た.
 
 
 

 
不透明に見える身体持ち主は荷物的障害に見え、ほぼ確定的に窮鼠猫を噛む反応をする視野の狭い人間存在である.ただしスタミナだけはあり、本能的なバイタリティ自慢から、無知である余地にも甘えて、横暴反応矛盾構築など平然とするものであるという経験はある.
 
 
 

 
最悪な雑草俗物の即物存在なのに持続力苦痛や、冷たい空気しかないエゴ家庭・家族とか、特に不快な記憶を覚えすぎ、そもそも持続者という言葉には一定無変化の苦痛イメージと低レベル身体イメージしかなく、美的要素がない特殊存在に見える.きっと美学はないハード処理型うんざり授与者なのだ.
 
 
 

 
その昔著名で少なくとも評価の対象としたした人物に、今頃になって不快な事柄を知り、胃に否定弁証法持続的なストレスを覚え、他の要素も応援してるだろうが、ムカついて苦痛を感じている.全く他者には苦痛を覚える存在多すぎる気がする.
 
 
 

 
旧約最大の疑問は、命の木の実を食べると永遠を得るとあるが、不死の身体になるのか?それとも永遠性のことか、後者なら何でもないのだが.
 
 
 

 
つまり地球は特権を持った星ではなく、宇宙にある一つの星でしかない.地球は回っているのである.
 
 
 

 
タレブのベル・カーブは壮大な詐欺というのは言い過ぎとは思うが、線形に一石を投じたことはまちがいないが、遅すぎている.ツイッターの反応は線形意識者の数が多かったか、無理解者たちに辟易したかのタレブと推定できる.そうなるとサンタフェもやや遅きにであったことに行き着いてくる..
 
 
 

 
「影媛の青丹つかまり坂東へ」-歴史の紐解き時間を多少となったが、豊葦原瑞穂国は神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称とは、であるならば古事記・日本書紀の成立時を指すと思っていたので、これでは勘違いだがそうならば都合は非常にいいことになる.
 
 
 

 
民主の数の同一性を考えるとその領域自体は全体的であるな確かに、全会一致という考え方で一致自体がバイアスという場合もあるという考え方もあると.全体が来ると確かに権力の強制面を感じる.問題は民主主義でも駄目であるということの先が生まれていない?ことにある.
 
 
 

 
ビュリダンのロバとネーターの定理の強度差同相を示唆される書物を読み始めて面白い.新潮に選書があったんだ.山吹の坂を上って神楽坂の駅に向かった時に、右手に新潮社の看板が見えた昔、こんなところに新潮社がという意外性・今でもそのままのようだ.
 
 
 

 
積極的自由と消極的自由はバーリンなる人物が言い出したそうだ.この人物は知らないが、この言葉は本質的なのでよく用いる.国家が単一性で多様ではないとか、書物を読みだすと楽しい発見があるものだな.ビュリダンのロバ
と宇治の平等院は幾何的な位置は同様だが、心理加味のあるなしがある.
 
 
 

 
今日どこかで見たのにもう忘れている、「エジプトで奴隷生活が00年も続くだろう」という予言性はいかにもでまさかと思い、旧約聖書の成立時期を調べると、出エジプトが全Cで旧約自体は前・Cあたりから書き始められたようなので、それなら理解できると同時にその所の神秘性はなくなる--
 
 
 

 
有限有限と有限にこだわりすぎた嫌いに気が付く.有限的存在は数多く実際問題として存在事実はわかっているが、直接位相をそう持ちたくないということで.生理の有限は明らかすぎるがそれゆえにその有限を不快とする.
 
 
 

 
混沌とした/・/・//とかの遺伝子形態の行く末は知らない、またそれが単純化する周期的なのかも、より混沌度が増せば同一性はなくなっていき、互いの差異でホッブス的に争うようになるかも、その辺は均衡点・平衡点で止まるのだろうと思う.
 
 
 

 
「大相七兄爪謁気」は昔夢に見た限り、情景が浮かんだときには、兵士たち多数が近づいてきていますよ節度を保ってではなったかな・記憶が些少よみがえってきた.---そして何事もなかったようにそこに凛ととしてお立ち下さいと想像したはず.
 
 
 

 
粋とは九鬼周藏によれば寸止めのできること、すなわち衝迫力ということで、それが実際のリアルになる前の趣とか確か述べていたと記憶している.紫式部にはそれがありそうなのである.源氏物語のタイトルにはこれはいいなと思うそばからいやだめだという・ダメというより少し欠けているというもの多く
 
 
 

 
” めくりあひてみしやそれとも分ぬまに 雲かくれにしよはの月哉
”と”よをこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさし

”あふさかの関はうんざりするほど昔に聞いた・見たものだ.これは洗練狂の積極的自由の清少納言だったのか.紫式部は粋の余韻で消極的自由者と見た.
 
 
 

 
諸行無常は天にその責任を委託しているとも思え、すなわち想定外という責任外意識をもたらす結果も生じるかなと.
 
 
 

 
思考の自由-軽い気分および広い空間で・を肉体体現化してしまう欲望的存在がいる.肉体が広い空間で軽く動き回ることはありえず、不自由な束縛をする存在となる.自覚すればよいがそれが自然かつ当たり前と思っている存在は親鸞的に悪人である.
 
 
 

 
実践という言葉には多少古さを感じないこともない、叙事的虚無的な色彩も感じる.実行や実際や実質には等質空間の現在性を覚えるがである.それにしても実際の空間では有象無象のカルマ実態が強制的に出現してくるので煩わしさは免れない.
 
 
 

 
極楽浄土の明るさと地獄の暗さ、希望の市民の明るい風景とそれに付随なぜか暗黒、市場原理の明示空間と深淵へ進む必要はと考えるも、深淵の暗い領域アイデア浮かばず--これらは地球の自転の昼と夜、暗黒場とそこにきらめく星々たちなどが寄与しているのでは?.明暗とは宇宙形態が示唆している様態か
 
 
 

 
弥勒は妄想より空想的だな、ところがこれを否定しきれない宗教の存在束縛性というものがある.万が一出現するかもという奇跡事項が.(弥勒や奈落何ぞを導入してることを思い出した、ナラカは調子に乗りすぎたか?、自力から当然とりあえず密教ではあった.)
 
 
 

 
公務員というか司法的になぞらえたが、仏教において閻魔とはどこから発生したものなのだろう.仏教の開祖である釈迦が前史を参照したところで、釈迦の内部に閻魔がいないとおかしくならないか?.神の存在と悪の存在にも比して、あるいは剣のキリストか.涅槃と地獄では道教の陰陽的でもある.
 
 
 

 
ふと考えるけれど、動物愛護と人の差別・コンプライアンスをあてはめてみて、キュートな子猫と成長したライオン・虎・ゴリラ・熊などを愛護しなければならないのか?、理屈上はそうなってしまうので、人間も多様な感性と体力差があって同一地平で見るのは、記号的側面からしか成立しないかなと.
 
 
 

 
トマトの色はそういえば鈍い赤色をしている.しかしEUなどでは十分すぎるほどに料理に用いられているらしい.このような色は大体邪悪なイメージを持ってしまうのだが、そうでないものがあるか.邪悪というか、噂の妖刀村正を昔に想定したことがあり、どうにも妖気的人間からは類似を想定してしまう
 
 
 

 
無自覚な存在または自己分析能力の低い存在は自己固有性を他者に投影して、それは自己であるにも関わらず他人と認識してしまう傾向が強い.投影される方は大体どうでもいい煩わしい存在で下らないくらいに思っているので、自己卑下もいいとこ損ばかり・赤字ばかりになる.そんなものはいらないのに
 
 
 

 
交換的存在には反交換的存在が、反交換的存在には交換的存在が不快となるのは自然である今のところの状況・情況である.ただそのことに無自覚なのが多く拗れが生じることになる.
 
 
 


柿本朝臣人麻呂-柿本人麻呂なる人物がいたな、あまりにもオーソドックスですっかり忘れていた.山部赤人や藤原不比等も同時代か、大友家持は?やや遅れで、その父・旅人と同時代となるか.大友家持は今のところ、長きものには巻かれよが憑依のように見えている.ともかく秩父の銅発見のころの話か
 
 
 


莫囂圓隣之は、夜の風景の中で何事なかったかのようにそこにお立ち下さい--そんな情景を想像したことがある.たぶんこの額田王のこれの情景に違いない.となるとたぶん合っているな、男女の関係性が確か絡んでいるかいなかったかよく思い出せない?、いや絡んでいなかったかな?--白い装束も見た
 
 
 


高天ヶ原は明るく、八島は泥土の色鈍き土くれが所々にで、古色過ぎ。それにしても八島神話自体知らずだったので、困った。ただ古事記と日本書紀をほぼ同時期に編纂とは賢い。この仕組みに思い当たるxxイメージを持っている・当てはめたくなる記憶があり、そう解釈したい気分のある事...
 
 
 

 
人間原理ならぬ宇宙原理があると思いつく-クロ現+
 
 
 

 
フラクタルと中途半端は意識上異なるものと考えている.それにしてもようやくフラクタル心理学化、時代はますます意図通りになってきた.ようやくであるが.空白はこのためにしていたと考えることもできる.ちなみに結論は出たの女性は、プロポーズ要請ものであるが、残念だが関係に気が付かなった
 
 
 

 
何!、フラクタル心理学とな・いいじゃないか.もっと早くできるべき代物と、ただ使いこなせる能力を必要とするので扱い者が問題になりそう.ある去る昔、あるXXが結論が出たと発語してきた.不意に言われても何のことか、すでに結論は出ている・なぜならばフラクタルだからであると未発語の思い出
 
 
 

 
像変遷など別に古典で有名な書物など関係なく、誰でも当たり前に普通の事としていることである.方丈記はどちらかというとその時代の叙事的記録であると一瞥的一読からはそう思ったな.ただ無名抄なる隠し技があったとは知らなかった.そのうち深草の里ものだけは知ったが.悪くはない深草の里もの.
 
 
 

 
政治学者はなるほど、市民が希望だけれど暗黒が付随していると思ったあの若き時の不明を、簡明に説明しているようである.民主主義の負の側面を当てはめると一応の説明はできそうだ...数年前に考えて民主主義も欠陥があるがどうもそれに対してアイデアが浮かばずアローの定理で妥協としていた.
 
 
 

 
ある映画監督による000後に紫式部の意図がわかるといったやや手前的な見解にも刺激を受けて、光源氏は男の<ファム・ファタル>というべき存在になることになる.
 
 
 

 
後、与えると玉ねぎの皮を一生懸命剥き始める猿のような侵入性もあり、インベーダーのイメージに近い存在であるが、カムフラージュもまた特異な演技力があってだ・・・自己欺瞞をするという倫理の弱さから他人の親切心を利用する傾向があるという経験に基づく認識をできる.無知の無自覚かもともあるが
 
 
 

 
ゲーデルの定理はこうも言っている.人間は人間に対して説明できかねるので哲学は未完か徒労に終わる.人は他人を説明できない・理解できない可能性が非常に高い.犯罪には迷宮入りが付きまとう可能性がある・・などなど
 
 
 

 
しかし当人から見ると、古く旧式な陳腐な支配思考様式の存在が、支配しようとして・権威や権力を行使しようとして、自由意識を邪魔する結果、徒労及び無駄をする羽目になってしまっているようにしか思えず・である.
 
 
 

 
憎悪は不毛である、無駄をしたければ他人を憎めばいいということになるが、徒労に呪われているように思っている人は、他人を憎んでいるか?、どうもそのような帰結になってきた...
 
 
 

 
げーでるによれば、系において必ず説明できない現象が生じる・すなわち判断不能で曖昧なものが必ず存在している・と述べている.ということはそれを判断すれば必ず理不尽になるということである.つまりそれを判断する必要がないというのが他者に迷惑にならないということになる.
 
 
 

 
人々はなぜ関係を破壊するように不条理を齎してくるのだろう、愚かなとしか言いようがない.しつこい否定弁証法構築者たち、いつまでも反発平行線を持続・継続するだけの無駄なエネルギーのロスでしかない.
 
 
 

 
どうでもいいという対象は嫌いで邪魔で不快でその存在など見たくもないというのが実際なんだが、対象はなぜかその逆に非常にしつこく価値存在承認を要求してくるケースになってしまう.不条理で不条理は認めない、認めることはできない・認める必要はないその矛盾本質からである.
 
 
 

 
稲垣足穂の幾何ではなく吉田一穂の幾何ならなので、プラトンの幾何学云々もどうかと思いたい.
 
 
 

 
↓重力波のフィルターがかかっているものとすると適合するような
 
 
 

 
玄妙は等質空間の微妙な風の流れや芳しい風-宇宙空間の重力波のそれにも似て、幽玄はたまゆら的な音なき光の映像-宇宙に瞬く星が神秘的に見えるもの(ハッブルで見るものではなく)・昴と言いたいところだが、その趣を知らないので.
 
 
 

 
後世に残って000年近くも恥をさらしているとまで考えてしまった鶉、鴨長明の話は実際かどうかはわからぬが、俊成の代表作とはそれもありうる.またそれだけなのかとも、要するに平安・鎌倉の貴族・公家は立場上からくる要請であって、必ずしも芸術家たちではなく、その歌が多く残っていると
 
 
 

 
”野とならば鶉となりて鳴きをらむ. かりにだにやは君は来ざらむ”これ伊勢物語にあったな、幽玄と玄妙を合わせて?、幽妙という言葉・表現があったとは全く思いつかず.幽妙は幽玄自体の感覚表現に近いな.幽妙と玄妙を合わせたものが幽玄と言いたいところではある.
 
 
 

 
開き直れば誰でも理解可能な状況になってきた時間とも言えて、秘匿する必要もないことになる、最も秘匿も何も記憶すらしていない今の時間.事実が残っているのみで、その事実もほとんど誰も知らず、せいぜい・人でその人物らも記憶もしていない可能性が高いとなっている時間でもある.
 
 
 

 
ルパール壁の人物はローツェ南壁物にも挑戦しているそうで、視線はよくわかるが、ローツェの場合はおそらくなのでどうかなという思いを持つ.エベレスト南西壁もK対象もいいけれど、No.はルパールに設定していたので、ここを舞台にするとは時間が過ぎたなとしみじみ.ローツェはバリエーション
 
 
 

 
なんとなく人々から稲垣足穂的に見られた可能性の記憶がある.全くつまらないオブジェ型思考者の認識でしかないのだが、これだから他人を承認できないのである.何しろ誰のことを言っているんだ、目の前の対象について述べているのに、目の前に存在していない存在と認知しても何のことかわからない

   
 

 
北原白秋はカラマツとこの道しか知らないがまあそれくらいでも十分なのだ.西脇順三郎は怪物に見えて手が付かんが、超現実なら滝口修三・・やはり西脇順三郎はどこかの大学の教授ではないのかと想えるようにさらりと、奥深い思考内容を述べていたではないか、なんと本質をよく了解していた存在だった.
 
 
 

 
昔は塚本邦雄なんぞは絢爛な感性に見えたのだが、最近見た限りではほぼなんの感興もわかないつまらないものになっていた.ポテンシャル豊な時にはその幻想力も豊かで錯覚という潤色力も豊かなのであると言わざるを得ない.いわゆる若さというやつで、夭折の詩人とか持て囃される例の対象がこれ.