2017-08-25

my ft 08252017

 ペンローズのように極小を考えることは容易である.対称性の破れが分岐則の特別な場合というのが今の常識なんだ.乱流の複雑さから分岐の手応えを覚えた昔、小さな群でも分岐則の既約表現重複度が無限になるはなんとか想定可.既約表現の重複度は有限となる定理があるから、ある国のユニタリ性が浮かぶ

   
           
 


超弦だけは超弦理論変化に合わせる形にしてある.他も自動追尾設定してあるが上手くいくとは.超弦者達にはマルチバースの暗示力はほぼ最初から持っていたと思うけれども.^だったかの種類の宇宙があるとは---数学数式的ではなくそう考える事のできる人の思考作用が問題でもある

   
           
 

 確率的であるマルチバースのバブル宇宙論も面白いな.ある小学生の下校中の杉林に見える笹竹の根具合からドゥルーズのリゾームになり、いまリゾーム宇宙が登場する

   
           
 


極端には自発的人間生徒にとっては教師は単にサポートをすれば良いだけで、監督性や権威発揮などは邪魔でしょうがないもので、小学生の時の校長のある陳腐な常識優等道徳共同的からの注意を流石に忘れかかってきた不快な記憶がある

   
           
 

 スペインの瞳はまだいいな.ナポリの透明な月夜と南伊の幻想シーンが.ナポリといえばシレジアのある大学図書司書が夏休みの日間でイタリアを周り(距離的には近く日もかけなかったろう…)、その際の青の洞窟の存在を教えてもらった.フィレンツェまでの写真しかみなかった女子大生もいたな

   
           
 

 空すらない仏教において無空あるいは超空はあると論理的に言える.そこでは当然ネイピア数など存在しないが、実際の所不快だがeを設定せざるを得ない.

   
           
 

 シラーには理想主義に加えて英雄主義があったのか…ケルナーの存在とゲーテと同時の日々があった存在とな.シラーのスケールの大きさには敵わんと思った坂道がある昔、ゲルマン民族の位相はやはりかなり基底存在なのかも

   
           
 

 無限小から無限大まで意識を渡る人がいるとする、有限な中間存在にとって無限小<中間存在だから、その人が無限小側にいる時に味を占めて大小観点のパワーから優越感を持つ誘惑には中間存在の精神存在理由から勝てないだろう.ところが無限大側に位置した時に有限な中間存在は優越感の破綻反応を示す

   
           
 

 局所と大域、揺らぎ分岐と系全体や一点凝縮とか述べる様だと、やはり来年は初っ端からシビアなワンパターンの日々が続くのか、やや戦々恐々中、ワンパターンがわからないが…

   
           
 

 才ではないが南十字星に怪物曲であるアバのダンシングクィーンをなぞらえた様な気がする、その情熱の衝動衝迫に呼応できなかった以上に疲れを想定してしまったことが非常な不利益になってしまい…

   
           
 


下流へ向かってで閃いた沢登り形は不問になる事を

   
           
 

 結局樹々に隠れて沢の形がわからなかった.沢登りをしないとだが、道からの取り付きを見ると人工的な丸みの石数個で小さい滝の落ち口となっていて進むのに非常な抵抗感の幻滅を味わい行けずね回り道では上手くいかずの何故か拘らせる沢なのである.下流側へ向かっては・・

   
             
 

 要するに性的な快感が生理有限を忘れさせる摂理の支配力の妙さ

   
           
 

 無限遠でなんにせよ発散や消散や収束なら単純だが、無限遠境界の場合は中途半端や過程中になるが…あれだけ閉塞的に悩んでいたものが、鮮やかな現象表現になるとは

   
           
 

 ちょっとシステム設定ミスがあるかな、人々が無名域まで考えている事は考慮していなかった…

   
           
 

 ヴェイユの無明或いは無名の領域が気になって.そもそもシモーヌ・ヴェイユは昔からどうしようかの対象のまま読まず、Yの講演から判断をする.無名域に対してヴェイユに自己こだわりの気がするのは、マイシステム構想の頃とそれを思い出すと、無名域に実在はどうかだが有名な名称を構想していた.

   
             
 

 その領域にゲーデルの定理をあてはめると不快な邪魔が発生する可能性があると考えて見る.不確定性原理をどうするか.証明反証できないものは不確定になる…

   
           
 

 人間優越からの自然利用無機物利用の無機物<有機物は別にして、無機物の遷移に過現未は不明だが超無機物を想定すると神概念に近くなりそう

   
           
 

 変化した有機物の中で人間が最終形態とは言い切れない.言い切るケースの場合はなんらかの意図を持った自己弁護であるように思う.絶対性として現れるなにかをどうにもすることはできないもやはり宗教的側面もありそうなだが自己弁護の気がする.別からはミルグラム的極限的な無責任とも見えるかな

   
           
 

 カフカは小説家なので芸術家ではないがそのぶん哲学的要素を含んでいるようである.ロートレアモンは散文家だから芸術家的だが、その反面詩学断章の哲学は頂けない.

   
           
 


そうか自発的対称性が躊躇わせるとも言える

   
           
 


フラクタルが集まってパーコレーションが成立する時にはフラクタル臨界があるかな.相転移も遷移方向に対して垂直方向の相転移事態に必要なフラクタルか揺らぎなる微粒子の短い幅で深さ任意の塊を想定してしまう.必然的自由は臨界を経て対称性の破れという選択必然集中遷移時間が成立するな.

   
           
 

 対称性の破れは臨界揺らぎが分岐方向を決定するとな、それを見る外部者には恣意的選択に見えると.確かに矛盾する対象の一つを選択するのは恣意的と思った.心理上の揺らぎが作用しているか?.明示的自発的量子的の種があり、まずは心理的揺らぎが情況を決定するとすると臨界が必要になる.

   
             
 


盲目者達の話の場合はともかく象である事を知っているわかる存在はいる.生じた事象の説明ができかねるとして、その説明できない部分は消失空間に行くとの設定になる.「奇妙な保管場所」と表現してある領域関連である.

   
           
 

 旅に出ても”自分からは逃れられない”と若いxxが述べているCMを見て、その自覚はいい境界である.「時流に任せた気楽な遊旅行」-No.**より-というわけには行きそうに無いが

   
           
 


芸術の特徴は無限であるので、実体生理有限快感は非芸術的明らかな才能でしか無い事を示しているが、当人は支配快感が快適なのでその位相を一生変えないだろう.そんな人々は息苦しい存在とカフカが述べている事を今回は知り、オンサイト時にまさかわからない筈は無い筈なのに不明だつた事を理解した.

   
           
 

 宗教のファウンダーは傲慢か傲慢化が得意なように思える.そもそも宗教はそのような特質を持っているのかも知れない.唯我独尊も俗的な表現で無茶苦茶自惚れとも見える.

   
           
 

 駆け込み訴えの作者はユダは金を返して崖から飛び降りたか木でクビ吊りをした事になっている事を知らなかったような.所詮はユダもどきだから心中に逃避できたとも言える.それにしてもマタイ伝は人気あるものだ.

   
           
 

 一冊の書を選ぶとすれば歎異抄だなる人物もいる事を知り、親鸞の歎異抄はそんなにいい書物なのか?.阿弥陀が親鸞の内部ならいいのだけれど、外部とすると阿弥陀は親鸞一人がためというセリフから受ける傲慢さが気にくわない.親鸞以外は阿弥陀力の部分的しか受け取れずと解釈して不快な気分になる.

   
           
 


ヴェイユの無明の人とは何か、森羅万象と同体化か摂理的たましいか.それとも沈黙か、語り得ぬものは沈黙せねばあたりかな.世親などはどうするか、そうだ無明は老子の道がもっとも似合うと思える.

   
           
 

 ヴェイユ-人が真理を望み真理の王国に到達する努力を怠らなければ、どんな人間も真理に到達できる-このどんな人間にもが理解しがたい.顕教の誰でも仏になれる・仏性を持っていると同様な意味と思うが…悪は当然邪魔だが善も邪魔になるは親鸞にとっては至らぬ善人で了解済みのようである.

   
             
 

 そうか他人の話を聞く事ができるといっても、まともに聞いてトートロジーを尊重する形になるので、無駄すぎるのと主体を未然化気味にしてしまうという、いかにもの自惚れた他人達の無駄な親切心という余計なお世話というやつだった.

   
           
 

 カフカを読むといいですよ-と初めてカフカなる存在を不快過ぎる束縛強要女から聞いた時に、オンサイト的に理解できなかったが、ある大学の紀要から理解できなかったのは、不条理を知りたくないと戦っていて、結局不条理は登場してしまった心理情態だったからあたりで、余計なお世話のカフカ推薦と了解

   
           
 

 ある犬の探求の中の”既存の社会的コードの網の目でできた世界-自由を束縛する息苦しいと感じる世界-を大多数の犬達は、既存の世界が快適なのである”---快適では確かに厄介で邪魔ばかりにはなるな探求犬にとっては、この世界に我慢しようかまで考えたのかカフカ、破綻は自己誠意の不壊ではないか

   
           
 

 中学生の時にニュートリノは地球をすり抜けて何処へ行くのか、宇宙の中で不明だった.今プロモを眺めていて、ブラックホールか超天体域に行く可能性を思いつく.ブラックホールは焦点収束点になり得るな.超天体は有限距離の発散無限遠に、ブラックホールも有限距離の無限遠か.両者は双対かまたは?  
 

 計算可能関数がない-チューリングマシン自体や神託機械自体の非決定性があるけれど、これらは思惟の法則から哲学になっている.ecでどれほど目に感じるのみの高速度で計算しても直感では無限回計算はできないコンピュータと思っている.

   
           
 

 そういえばある項目は人間合格のように設定してあるがだ、なぜか色々な思念の絡み合いで設定通りになつていないな、どうしてもイメージ記憶が不快で払拭出来ずがまた不快となりて、ディオニソスでもいいのだがそれも邪魔が入り…そうか彼女はアポロンだった.こんな認識すらできないように障害が入り…

   
           
 

 事象の地平線を人が持っているとすると人間とは何かの命題はほぼ意味をなさなくなり、現実に誰も死後の世界なるものを見ていないので、あたかも事象の半径の向こう側のようなものだが、人は死後の世界的なものを生きているのに持っている事になる

   
           
 


宇宙を造ったのは神という認識前提だったが、旧約に宇宙を創生した記述はなさそうで、地球生成で比喩拡大解釈している形として見たとして、問題は神に似せて人をつくったにある.これからは人は最終形態が成立するが、拡大解釈域にブラックホールがあるとして、似姿者はBを持っている事になり…

   
           
 

 ハイデッガーの超越に足をかけたが、現存在地平に戻ってしまうは確かな分析と思う.レヴィナスはこの戻った現存在について述べているに過ぎず..

   
           
 

 どうもゲーデルの不完全性定理決定不能は有限がある.中間存在を系とすると、中間存在には証明も否定の証明もできない中間存在事象があると認識せざるを得ない.

   
           
 

 ヌル無限遠で発散する.超光速で遠ざかる天体が漏れて来る.ゲーデル解では理論上時間旅行が可能になる-消失空間でもタイムトラベルができることになると考えたが…消失空間にブラックホールを登場させねばともかんがえるが、億光年の域外の宇宙が魅惑になる.神速で走る人の想像意識は昔から

   
             
 

 タイヒミュラーはナチ信奉者で従軍して歳で年にドニエプルの戦いで消えた独人であったのか.なんやかやでタイヒミュラー空間があった.ABC予想は文章的には読めるが宇宙際とはハッタリでは….宇宙際ならMは多元宇宙的思想者にはなるな.多元宇宙者なら宇宙際はハッタリではないが

   
           
 

 超対称性・フェルミ型の権力意識志向満載の自己保存をしつつ他者対象に要求巻き込みではなく、自己自身を超対称に向かわせるべきと漸く…何回も考えたか.F型はそれだけのスタミナバイタリティを持っているのだから、不可能に託けた無責任自由による蹂躙拷問残酷心理の手っ取り早い単細胞所爲はどうか

   
             
 

 カディンスキーのある一つの絵からY軸の複素振動的を…楕円曲線はX^がありアイゼンシュタイン整数は基礎であるのか.見える近時間のワンパターンシビアさを避けようとして.やはりの数学基礎論でパスなのだが、ヒューム的なものが維持時間を齎すと思える無駄性

   
           
 

 弁証法の止揚に相転移は無いものに見えるとして.A国家とB国家のパーコレーション弁証法がまたは一方の国家がパーコで他方がフラクタルである場合に戦争が発生する可能性を考えたか.互いにフラクタルでは紛争になるかと.この図式は内部に民族差異があれば内戦になるとか、関係上巻き込みも成立する

   
             
       
 

 禅のあるがままは摂理ゆえとなる

   
           
 

 存在している人間は誰でも摂理の渦中にあり、その事は存在論的に組み込まれている事は確かである.

   
           
 

 まあ未完はその内にと思っている間に時がいたずらにすぎてしまった結果を齎しているが、その内に誰がいいアイデアをの期待もあったのだが、クォリアは赤い色の区別論のようにしか捉えられず、分析哲学は表現論的に見え、チャーマーズに至ってはご苦労な事で、そんな啓蒙せずにほって置けばの思いがある

   
           
 


クォリアやチャーマーズだが、直感ではハイデッガーの原点がその現実界対象としたまま昔からずっとだが、未完成の項目の一つである.エントロピーが誘うは熱力学的にそうだが、漱石の道草・一旦生じた事は変化して続いて行くもポテンシャルの減衰変化表現と見ている.エントロピーの変化畢竟摂理である

   
           
 

 ヒュームにとって超越は経験論的立場から懐疑・断念の対象とな、カントの物自体は超越の事なのか、誰が物自体としたのか知らないが、表現が悪すぎて唯物的にも思ってしまう.人々はなんだがわからぬ解釈をしているな.取り敢えず行為の背後の自由意志は摂理としている.現象的にはそうで哲学的超越は別

   
             
 

 大文字の他者は場の事のような.現実界は個人的には生理の齎す本能気分のような.あるところの象徴界は境界時期を越えれば象徴界形成に自動的必然的に参加するので特段問題は無い.例外現象が存在する時がラカンの出番らしい.想像界はラカンにとって先達であるパスカルでいいだろう.この項考察が続く

   
           
 


人は不可能意識を内部に持っている事は確かで、さて不可能に関して何にもいえないか⁇.不可能な思想?、不可能ゆえの思想?、やはり何となく前者の空想性登場もあり不可能では論理整合性が揺らぐ.不可能の自覚自認であればと思うと不可避が出てきて、不可避可避関係が浮かび考えがまとまらず…

   
           
 

 現実界は象徴界で説明できないとはカントの物自体のようなものか?.むかし物自体はよくわからず空白とオブラートのようなものを設定した記憶がある.この辺から関係はラカンの考えと似ているところがあると見えて不可能を思いついて見た.不可能なら絶対は成立するな.

   
             
 

 消失空間とすると現在生きていることはゾンビ的となるという夢想F的とすると現在現実のタナトス性がその意味を薄める.

   
           
 


責任能力が低くて優越位相者が問題なケースが現実には多いと直感できる.マズローのは%より低いような、・を合わせてパレート的に%か?

   
           
 

 そんな事を考えていたら太宰治はカサノバタイプと浮かび、なんと全く今まで思いつかなかったものだと思う.蛇のようにしつこいイメージや日常生活のタナトスニュアンスのグチャグチャイメージも捨象である.全く無駄にエネルギーを使わせる存在だ.

   
           
 


おまけにそんな時はそんな男達は自己主体の剽窃模倣をしていて、私は君ではない、邪魔で迷惑な存在でしかないのだか、一体このような男達の認識能力は自然であるならば動物並みに低劣な精神年齢でしかないと規定でき恥の感覚も無自覚と見る.本来既に君達の価値は無いのにどうも同情してしまう面がある

   
           
 


彼女達に直接述べればいいものをとはその後に思う.彼女達に直接話しをすることを拒んではいないのに、どういう男達なのか、甘えか容易を求め楽を味わいたいのか卑劣か、いずれにしても関係への割り込みで邪魔の迷惑でしかない.彼女達の演技をするときは敬遠しているのであって避けている男達なんだが

   
             
 

 我が内部の対象意識のまたは無意識のxx達が他のxyを気にしてしまい、色々な不都合が発生する.あるいは他の男?.ともかく内部対象意識のxxは私ではなく意識しているのが私であるが、他の男たちがこの対象意識をめがけて発語してくるので、なんのことやらでまともに対処すると変な事に

   
             
 

 縦構造者は責任を縦構造システムに則るとするのと、責任は縦構造システムにあるとする無責任を有している.有名?な命令に従っただけは構造システムに責任がありを意図している無責任さであり、ミルグラマーの仮想化増進の残酷さは則る事が義務であり権利である深化かな.権力は勿論だが、権威も準ずる

   
           
 

 反抗期の始まりは既知の人間的歴史の取り込みの終局時期の始まりで、気質的な面の存在も考えられるが、ほとんどの存在は取り込みに抵抗の壁を持ち、ここを如何にスムーズに乗り切るか否かによるゆえに、境界症候群に陥る場合は失敗例だろう.一般に境界は複雑であり、対処個人差はあるが物理時間は同一
             
 

 ラカンとな、昔からその名は見かけるがフランス一流のややもするとソーカル的存在位にしか考えていなかつたなあ.クラインの投影同一視を投影非同一視としたり、唖然とする無自覚存在・厚顔無恥を想像界の住人とすると説明できそうにラカンは仏教徒ではないが役立つか.なんじゃこの文学的な概念は迄

   
             
 

 カフカは実存的特徴明らかだが、昨日からうつらにマゾヒストだったのではないかと浮かべている.そんな事を考えていたら心理関係のacに遭遇した.最初にその名を聞いた時になぜ把握しきれなかったのか、カフカの位相に合わせた、あるxxの体質的だったのではとも浮かぶ、不条理の言葉が登場した頃

   
             
 

 久しぶりに創造主の出てくる書物・マルドロールの歌を思い出したが、確か創造主にシラミが付随していて脈絡がまずわからなかった事を覚えている.ある女子大生からロートレアモンの存在を知っても、翻訳ものを読みきれず、手術台の上は後に知った.創造主とシラミでも超現実的だなと今思ったところ

   
             
 

 人が集まれば消極的時間では自然に秩序が生まれると考えていた.ホッブスは積極的時間のみを設定して万人の闘争エゴ丸出しを考えたのではと思いつく.実際に消極的自由意図対象に積極的自由者が干渉割り込み多々である.積極的自由者には消極的自由がわからない?、多分苛立つのだろう.

   
             
 

 一将功成りて万骨枯る-真理獲得のために万回の悩みを行う-パーコレーションには万のフラクタルを要する.そんなもんだ…

   
           
 

 歴史から縄文時代には鉄器はなかったようだ.たたらはあるが、メタル風鈴は弥生的で縄文の香りなく、時間スパンも短く、風土の伝統意識を遺伝子は持っているのにその特徴をやや無視気味なものとなっている.

   
           
 

 どうも個人的にメタル系は相性が悪い.アイコンの釣鐘を鳴らしてひょいと内部を覗いた時、どこか遠いところで反響音か小さな音で繰り返していた.それ自体不思議だが、メタルの湾曲はビブラートを生じているかな.ガラスはそうでもないので、鉄器時代がどうのこうのではないが、鉄器伝来は弥生からか…

   
           
 


人はある側面で優越感を原理として生きる・生きているは日常の容易な観察によって了解できるものである.優越感ねと発語してきたやはり女子大生がいたが、気がつくべき関係に気がつかなかったのはなぜなのかわからない.当面現実に巻き込まれていた?、劣位対象が邪魔な無意識記憶になっていたからかも

   
           
 

 存在理由など当たり前すぎる当然前提意識で考えもしなかったものだが、あるxxが唐突な発語したのを良く覚えている.後にも先にもそう述べた存在はひとりだけで-母集団数が少ない事も会話語彙数の少ない事もあるか.その前提意識は未解決問題として設定してある.

   
             
 

 抵抗体力者の優越から道化強要ばかり受けた・受けるのと、自らの狂言意識から・問答無用者多過ぎの優性意識からかな・ふざけてしまう面もあるな.抵抗といえば複雑構成物が直感把握困難と昔から思う事は、幾重にも重なった曲線の重なりひとつひとつが壁となり、突破するのに体力を必要とすると気づく

   
           
 

 単純に豊穣の海としての超短時間生成消滅とする宇宙の物理的要素の時間を引き伸ばして、人のエロスに生成を消滅にタナトスを類似として与えて見た.人の生に哲学が死と常に直面した形と述べるのは常にタナトスの消滅性の影があるからと.そもそも影や夜や陰とかは消滅概念的である.

   
           
 

 ベクトル空間の実像、アフィン空間の実像とベクトル空間の虚像、アフィン空間の虚像でIAを仮に設定した桑畑の小道、若き日よ

   
           
 

 ベルトラミの擬球の回転を先ほど考えたら微かに超弦の体積要素が浮かび、先日の[アフィン・リー]の浮かびからいよいよかの時間となる.意図的にはもう年経過してしまい、急激を考慮したとしても・年は過ぎ去ってしまった感がある.何れにしても頭脳調子悪いままにシビアな世界に直面するな

   
           
 

 ビートルズのノルウェイジャンウッドを聞き始めて減衰振動かいやフーリエ展開かな違うようなで、ホモロジーに間違いないなと思った、違うかな…a me&norwegian woo?迄、いつの間にか刷り込み情態で、ホモロジーかよとは思う.ある現象が竜頭蛇尾的に消える傾向は重要だが

   
           
 


自己主体を保存しようとする人間的意図者は大変なのである.無自覚な自然的存在が意図せずに動物的な態度を示してまるで悪魔であるかのような障害になるからだと考えるが、悪魔のような存在と思っている対象になぜか同一設定をして来たxx&xy達の不快さを除去しようとしている過程となっている.

   
             
 


それ以前のやる気はともかくやる気を失くしたと思った事は確かで、今でもよく覚えている.そうするとおおよそ惰性となりすったもんだの退行的乱れ登場で宜しくない結果に終わるのは経験的無意識にある.あるがその後、しらけやつまらなさを増長強要してくる対象に数多く遭遇する事になり、今もである.

   
           
 

 eのp-T図的であるだろうと不確定だが想定した事があり、そうではなかったのでやる気を失くした事がある.伝導率が無限大にや自己組織化に位相欠陥?が生じるとか、そんな話なら面白かったのにと今更で盆に返らずの時だけれど、自己慰安上は納得である.それ以前にやる気がややなかったかな?…

   
             
 

 脳構造異変とはカバーできる言葉だな、たとえば風車に突進した男は夢を見ていたのではなく、脳構造に実際は異変を持っていたと考えると煩わしさが無くなる.

   
           
 

 帰納は現実に対してアキレスと亀のアキレスで常に現実である亀に追いつけないと、帰納の未決定から考えてみると、詭弁が比喩になる.ある帰納的と推定できる存在が中途半端じゃないんかと言って来て、惑わしを形成しているのだが無自覚にせよ帰納の未決定を体感していたのかも、巻き込みはいらんのだが

   
           
 


認識不足なのかある擁護性をxxとみる父親存在がいて、それほど父親としてコンプレックスを持っているのかとしか信じがたいが思わざるを得ない.子供がいれば自動的に父親ではないのか、なんだか違うようなまたは動物的本能存在の脳構造異変者だったのかも

   
           
 


怜悧には普通まろやかさが付随しない

   
           
 

 今ではどうでもいい感触の他者達の潜在力可能性・潜在意識を意識していた時があるが、その結果はおよそ全て悲惨退行混沌超現実感しかなく、つまらぬがっかりしか記憶しかなかったな.

   
             
 

 虚無空間-その薄っぺらで怜悧性を持つ広大な領域

   
           
 

 必然的自由は当然的自然なのだが、立ち止まって考えるとその必然的自由時には他の選択を捨象していることを考慮して、その必然は正解だったのかと思うとその義務的事態の行使の理由がなくなり、必然がやわらいでしまう.

   
           
 

 twoの時には汎神論とローレンツ収縮浦島太郎を考えていた.当然素直にスピノザが登場した.アニミズムも携えての関連である.

   
           
 

 行動主義の名称を最初に知った昔に馬鹿げ過ぎる愚劣を感じたのは、人は無限を行動しない故だからと思いついた.の文字を度回転させて紙なりに筆記する行為で無限行為を身体で地面上に∞形を描けば無限行動をした事にするのかな行動主義は

   
           
 

 今更についてはヘリウム超流動境界平衡域で自己組織化を持つとかを、非平衡相転移の自由度なるタームから興味の先を見ようとして眠りこみなんらかのエポケーふざけの頃に関連記憶の夢を見て起きようとした時に、ゾンビはキリストの復活か最終審判時の死者の蘇り判断から来ているなと

   
           
 

 ある時エポケーなんぞをやる必要ないと思っているにもかかわらず、自分にエポケーをかけてしまって、直接的に現象学の行き詰まり地点を繰り返すように今もなっていてつまらなすぎる単純糞詰まり閉鎖の無駄意識強い心理情態を持ち不快な自業自得の憂き目を持つ事に.どうもふざけてしまうがそれが現実に

   

  また低次元存在は存在などの邪魔をして存在以下に見たがる意識も持っているな.存在などに取ってそれは非常に不愉快なものになるだろう

   
           
 

 アインシュタイン風にはひとは精物となり親鸞的には善悪体になる.カルマは善悪体だが

   
           
 

 ライトスタッフ的は納得できるが、先には複雑系的合理なる表現を想定して見た.多分既に複雑系的合理ライトスタッフ化思考に好むと好まざると直面している人物達は存在した・しているとは思うが.アポロ号の帰還例は当てはまるような凡そ年前の例が、映画になるような事ではなく日常的な事にと

   
           
 

 tiに関しての勇気のなさで妥協気味な未来に持続する可能性に対しての変化アイデアがついに浮かぶ.全くなんでもない考え方なのに多大な時を要した.

   
           
 

 自然的存在と人間的存在において、自然的存在自然と人間的存在自然と人間的存在意図を考えないと、他者からの理不尽誤解を受けすぎと、自然的存在が意図能力の低さで煩わしさを構築してくるかな.マルクスにとって自然的存在的自然と人間的存在自然を区別していたかどうか未チェックでわからない.

   
           
 

 ”他人の事ばかり考えているんだ”ある時ある作家のヒステリックな偽善的建前的な言明文章を見かけて問題現象与件と見ている.偽善は実際は利己主義者なんだと述べていて、建前は世間への阿りという矛盾心情が叫び的となると.勝手に考えられてもタナトス混沌者では迷惑にしかならないが.

   
             
 

 その頃には審判と変身に目を通していたのでなんとも間の抜けた話だが、実存の糞詰まりなど馬鹿げてつまらんのに、田舎への婚礼準備も上手くは行かず…そもそもカフカではなくベケットを意図していたのに思い通りに行かないもの、まあそんなxxは当然好まないが.

   
           
 

 しかしまあxx&xyは意味なき精神年齢低下を強いて来た記憶が多量にある.そんなxx&xyには道化要求やでっち上げ感覚を持つが、ひょっとして意味なき弁証法に呪われていてそれに気がつかない認識能力しか持っていなかったとか

   
           
 

 地球は回っているに過ぎないも良質と思えるのでttwに置こう.

   
           
 

 先にあるすでにある関係性的なるものは対称性性の破れであるが、人はあまり破れを気にしながら生きてはいないかな.当然その世界に存在している人間には存在論的に不可避的に組み込まれている.別に指摘はできるがどうしようかとなると困難にはなるな…

   
           
 

 自由な意志が選択するのかな、不自由な不本意な意志が選択しているように思ってしまうが…漸く思いついた孤独が一つを選択するのは対称性の破れである事を.”革命とは何かこの矛盾を断ち切れないならば”は個人への問いかけでもあり他人への問いかけでもあるが、単に専門に出来るか否かである
           
 

 だがマズローのの低次元存在が危険といっても現実に有効優位を持ってしまうケースの多いことがも確かである.つまり現実がそのレベルにしかないになる.マズロー的にはレベルアップに対してのんびりした悠長な存在で、文化的には遅れている動物傾向にある存在となるが、虚栄でカバーして欺瞞をすると

   
           
 

 権力陰謀型存在はまずマズローのの低次元位相以上になれないと直感が判断して話をしても説得をしても無駄をするだけで話を止めると、勝利した自分は正しいと自認するように思える.馬鹿馬鹿しくて止めるのだが勘違いをされるような.マズローにはやの段階のある事を全く理解出来ないようだ.

   
           
 

 自同律の不快といえば埴谷雄高だが、論理の自同律にこだわったのか?.のっぺらぼう宇宙や数千億年の数千億倍や夢魔やその他埴谷雄高特徴の自力個性力は埴谷雄高自身の自同律であるはずなのに、対外的ないいわけ気味は必要なかったのではと

   
           
 

 性的人間の線形剽窃蒸し返しかな.とにかく内部の対自呻吟記憶やもろもろを自分だと思うxx&xyが多すぎて、そんな時に限って自己記憶を忘れていて、それらの言明を尊重した形で遠慮してしまい、後にそれは既に考えていた事ではないかと気がつき、自己自身に遠慮しているというおかしな気分となると

   
           
 

 ドメインウォールと多世界解釈を結びつける存在がそのうちに出現すると予想するが、泡は柔らかいイメージなので多世界の余りにも明晰な截然さより気楽だな.エヴェレットと記憶と盲点と新知識獲得中の中高生の勉学の壁にドメインウォールがリアルに壁になっているなどと考えるのも普通な人の脳構造と

   
           
 

 あの時の深甚な黒い帯状次元はそれが有限域で不快だったが、どうやら位相欠陥なら当てはまりそうな想像意識だったと.よく分からないアクシオンを当てはめようとしてうまく行かず、スキルミオンの発生構造と-当てはめもそのうちにだ.あの埃舞う砂利道を歩きながら摂動はそこにある頃が懐かしい

   
           
 

 チャージから今度はトポロジカルチャージである.バッグ模型を知らず同境的なものが基底になるという参照基底で動かさぬばならないのか、最も中間存在との境界を実際に想定実在とするケースは考える.有限外オートマトンならばこの基底存在を想定しても普通だが

   
           
 

 聖人者のみの世界ばかりでなく芸術家のみの世界でも無階級無経済社会の成立する可能性も考えつく…

   
           
 

 無階級無経済社会はヘーゲルの絶対知に匹敵すると考えるとその先の示唆がないのも頷けるというか、マルクス的にはヘーゲルの身体的適用転化に過ぎないと、精神発展意図志向から見ると身体化は原始へ逆戻りとも考え得る

   
           
 

 ある確定領域に置いて必ずと行っていいほどに邪魔な存在が出現してくるのはゲーデルの不完全性定理から言える事になる.その確定領域系には確定できないものが成立するからである.そうなる時にハイゼンベルクの不確定性原理を持ち出せば確定領域系を脱出できるという古典-量子関係

   
           
 

 懐かしき青春の日々よ、ありとあらゆる関連要素・与件を持って説得するとした池のほとり、他者の判断能力を越えてもそれでも時の流れに委託するとしたten

   
           
 

 哲学論理的な自同律は数学の射影空間と一致すると閃く.射影はきらいだが自同律は保存したい傾向から、射影イメージを固有に持って来ればいいかなも.昔にライプニッツの充足では説得力が弱いあるいは説得力が埋まらないと悩んだ事があり、これは畢竟帰納の本質である未決定に繋がっていたと気がつく.

   
           
 

 教養対処も楽ではなく、もういいだろうととすると、帰納の未決定によるかな聞いたことも見たこともない定理や方程式名などが出現していて、世界は忙しい.モンスターやディンキンや弦は個人的には昔から保存量にしているのが、サボり中の救いとは言える.動向のさわりはなんとかと意図通りでもあるが…

   
           
 

 お気に入りを曲聴きなんだか感性が-朝会った女子中学生のイメージがする.あの小学校の音楽室に飾ってあった額縁とほぼ同じ映像を見て思い出し.この画像類はなぜここにあるのかこの画像が何か関係して来るのかと思った事を.はっきり覚えているのは楽聖ベートーベンだけ、音楽の父がバッハとか

   
           
 

 まさか関係とは命懸けや真剣の事か?、命懸けや真剣であってもダメなものはダメだが…カントの普遍立法原理に妥当する事で十分と思うが、関係設定者に聞く事を考えもしなかったな.最も人がどうのこうの言えることではないとするならば物自体か.超批判で批判は不当であるようなものになるな

   
           
 

 本来は逆なんだがある男の家にのこのこと話しに出向いて以来、その男が理解しがたい馬鹿げすぎる対象認識設定を認め、ここ数年来苛立つようになっている.またどうもその男に似たタイプがまた多い感じがして、理不尽を味わう羽目が多すぎかな.無理解者の勝手な突っ張りは道化を強要するものでもある.

   
           
 

 中間存在のゲーデルは証明可能である.最もその時は中間存在ではないのでゲーデルは生きている.

   
           
 

 ただ縄文時代は世界に置いて地理上から世界内部という世界依存的・現実的には自然依存的だったと推定想定・なユートピア性も考えることができ、サスティナブルの成立のためには条件が必要かなと考えた時に、親鸞の考えは心理的にはユートピア的かもと思いつき…

   
             
 

 非科学的な帰納的存在xx&xyはその未決定性から、理不尽発言を大いに行使するものであると経験が申している.

   
           
 

 現実は責任をキーワードとして回っていないかと考え、絶対可積分と二乗可積分の有限化から諸行無常をどうするかと思い、知った雪山偈の是生滅法で複利のe・ネイピア数はずっとある点の解釈をどうするかとシンボリクス

   
           
 

 ヴィトゲンシュタイン・最近はウィトゲンシュタインで英語パワー強しだが・の幸福だったは自己目的自立十分過ぎの生きよう視点におけるもので、普通に子供のいる家庭生活が幸福であるとする人々には理解しづらいかも知れぬ.

   
           
 

 xx&xyに限らず憑依のイメージに合うタイプが今でもかなり存在しているとは思いもしなかった.そのぶり男は憑依のイメージに合う、無茶苦茶な非常識反応の女もわからなかったが、陰険でタナトスタイプのしかも無自覚タイプのようであったな.タナトスタイプはその無自覚が多いような

   
           
 

 悟性妄想幻想俗物体がナンバーワンなのが不快なのであって名前順によるかこつけナンバーワンの嫌がりはキャンバス生活迄なのに、なんという愚かなことを述べたxxやカトレア?のようなxxなどなどに対して、やはり妄想幻想俗物xxが障害邪魔になっていることも確かで、この俗物はしつこいものである

   
           
 

 現実は嫌だ嫌だと思っている方に傾いているいままでの経験上、葉隠の武士道である裏目皮肉が現実であるといいたくなるが、他人の配慮能力のない無知甘え存在の可能性余地による無責任倫理観作用によるとも.配慮能力のある人はこの限りではないが.

   
           
 

 要するに社会関係上他人は、利益も与えるが損失も与える存在であることだ.で他人の関係が成立する象徴的数または基本数として、両親とこども人の人と人なら他人関係が成立しそうで、この人という数字はどこかで見たな…なんとなくエタニティから基本数は人となるのかもが、浮かんでいる

   
           
 

 関係や倫理は身体性とも言えるな.人間は身体的存在であるばかりでなく、精神的存在であると考えていて、身体的存在を精神的存在とみていたためわからないという視点だったような.

   
           
 

 モネの日傘の女の子供のいる絵をみて、抜群だなと刺激を受け、ふと周りをみると嵐風な雲行きに対して収めようと.残り枚の過去の追憶を亡霊・幽霊のように描くのはいただけない.ただし現在実在しているものとした動機なら理解できるが、定かではない.

   
           
 

 なんやかやである作家について、空想オブジェアブダクション性的と判断が成立した.

   
           
 

 カッシラーとして記憶している.オーストラリア北部のフィールドワークをしたのは誰だったか、カッシーラーではなかったか…ムルンギン族の分析をしたのはヴェイユだった.どうもこの分析が象徴に結び付いてしまう.あと金枝篇もカッシラーと結びつきダブルが、金枝篇迄はチェックが回らずの昔だった.

   
           
 

 通時的人間は少しはましなスパンを持っているかなと思ってもやはり中途半端でしかない記憶が蘇りやはり苛立ち不快になる.結局積極的自由しか出来ず消極的自由は不可能なのだろう.積極的自由者は消極的自由者に閉塞感の不快を齎すだけである.

   
           
 

 対他認識を発語しないで対自的に記憶していると、当面の他者がその他者対自認識記憶を自分がそう思われていると思わず、それどころか他者が自分ではなく他人・そのような認識記憶をしている当人と思い込んで発言してくるいわゆる自己投射を他人と思う他人の無自覚の間抜けさには閉口と同時に損失を覚え

   
           
 

 何モーデル予想とその証明が年度で、ファルティングスの定理とな.おもむろに考えた個の特定・特性方程式解を持つひとつの方程式は存在可能性高い事になると今頃知る.

   
           
 

 無階級社会というのは個々人間で無階級なのであって、ある国に底力風に流れていると思われる一様・集団的なものとは異なると考える.

   
           
 

 天国は宗教関係でなくても一般普通に用いるが、天国は普通上にある人間の感覚営みからヒッグス場を天国暫定と考えたりすると、ヒッグス場など思いもしない遥か昔から人は性的面のサポートも借りて、日常に用いていた事との比較仮想に他の諸々も加味して、現実生起現象に説明がつかないケースもある事に

   
           
 

 ちなみに権力ソフィスト型の明晰とカムフラージュ傾向にも困る.曖昧な無責任発揮かと思えば、不確定性原理など何処吹く風の単純明晰で他の可能性を考慮しない或いはできない頭脳者にも閉口する暴力性を見る.

   
           
 

 深い思想は正義や道徳を無視すると考えている人は当然の如く普通にモラハラと称されている事を行うだろう.挙句の果てには人に存在論的に組み込まれていてそれをどうのこうの述べることはできないという倫理を自ら蹂躙してしまう自己弁護言いわけと他者誹謗を行なう存在はエゴイスト典型と無知持ちかな

   
           
 

 ある人物の小説のタイトルは物騒だがセンスありそうなイメージの作品がある.タイトルは聖書関係から取ったと最近知り、それで無関係な感触タイトルだけ独立のイメージを持つわけだ.内容はどうも愛情の破綻心理の回復?までとかのマッチポンプ話のようでタイトルの妨げとそんな他人話はいらずで読まず

   
           
 

 人を惨めにみっともなくさせて恥の文化か優越感に浸るという存在に男女共々遭遇し過ぎて、何十年経っても今しつこく蘇り現前対処の意識の流れとしてツイートしている.自己基準からはみっともなさの度合いに無駄なエネルギーの使用度合いに比例して、それら存在はみっともなく無駄な本質を持っていると

   
           
 


わからなかったが、石垣のところの平坦な道脇に輪のスミレが咲いていた季節の記憶話.ブレイクだったか野の花に永遠を見る系の話では常にこの一輪の菫の情景を想起する.

   
           
 

 ベアトリーチェで一瞬浮かべたxxがいて、なんとそうだったかと気がつかずの昔.しかしこのxxがまた非関係の無駄原因ともあるな.暫くの時過ぎてKと…ウェギリウスの名で、

   
           
 

 歳の冬、極普通自然に現実はまあこんなもので対処しておけばいいだろうと気楽に考えた内容はどうも価値かあるに傾いてきた.時間順序が決まらない未定形なのでそれでほったらかしにしていたが、半順序なる考え方もあるという事でまたまたこれで対処すればいいやである.サポート要素対処不足である

   
           
 

 ソニックシティの谷間に突如強まる風は汗の吹き出た梅雨最中に心地よく、去りし日に見た西口からのゴッホの麦畑かと思えた三橋の見えない先の並木は、車線工事中の中央分離帯掻き出し土情景に、私立高校バスやJKバスの向かう道であった.

   
           
 

 でパーコレーションに対する線形意識なんだけれど、見方が違っていてセルオートマトンがプロジェクト的に現実は複雑系を形成するが正解であった.現在時間がそうなっているのに追随・直面中とは忸怩な思いを持つ、惨めで情けないともっと先に行っていないといけないのにと.

   
           
 

 ある経済事象を知るべき人が知ったとして見てみると、反発があるにせよ経済的事情は良くなると仮想する事があった.

   
           
 

 確かにハードボイルド・バイオレンス家庭育ちと南西の島の女性の全と無の全性への刺激がきつかったケースとはセンス位相は異なるとせねばかな

   
           
 


先ほどスラッファのあらましを読んでいる時に、直感が等速度運動慣性の法則を湧かせて、なぜなのかはもう忘れている.どこかでまた考えが進展するかも.

   
           
 

 スラッファ経済はミクロ的だったのか.昔からコブダグラスで取り敢えずはいいやでずっと、指数なので嫌いな対数を想定していたためだが、今ちょっと見て労働分配率が-αの一定になるのに偏微分を用いると知り、なんだか動いたなと述懐気分.ここにも一定か.

   
             
 

 スラッファのジェスチャーは脊髄反射的な帰納帰結伝統かな、ショックのヴィトゲンシュタインの規則の当てはめでどのようにも解釈出来るの可能性の所はどうも理解しがたい.

   
           
 

 なんだかこの記憶にあるしつこい他者の発言は心理ストーカーか.昔はこの科学発達の状況で憑依などはあり得ないと思っていたが、いまだに陰陽師の文字は見かけるのでそんなことはないなと

   
           
 


最も自己責任などに値しない存在だからというのもあるか、しかしそんな無責任存在も共同の社会集団関係から傲慢になり、理不尽を発揮してくるものである.ここにアイヒマン現象・ミルグラム実験が登場してくる事になる.つまり社会集団関係日常において、大なり小なりミルグラム事象は無数存在している

   
           
 

 まあそうでなければまたかとうんざりして、それよりこの対象はxxであるが何を考えているのかさっぱりわからない対象がほとんどで理解しがたく話も実際のところできず成し得ない.xyも昔に太陽がいっぱいという映画があって成り替わりを志向するのもいて、それが主体阻害をしてくるそれも多すぎる

   
           
 

 諸悪とは聞くけれど、そういえば諸善とは聞いた事がない.人には善は一様な地平を持つとして自然に認識しているような、そうするとトルストイのアンナ・カレーニナの有名な言葉が陳腐になってくる.少なくとも表層としても、諸悪の言葉を使える人には、不幸を悪として見てその多様性がわかる事だから

   
           
 

 どうもNAとミトコンドリアが合体したというのが気になってしょうがない.これ自体は多分間違っていないと思うけれど、暫定として諸悪の根源・諸善の根源も合体にあると言える.

   
           
 

 どうも陰謀型人間は自分は悪く無いと優等生演技をしがちで、自己の邪悪性を隠そうとするが、自然に出してしまう笑いが、他者が悪いという感触の嘲笑感を含んだものに聞こえる.問答無用に陰謀性が悪いだろうに、なぜそう思わないのか不思議でしょうがない.自覚できない愚かなのかな、その割に傲慢な

   
           
 

 光の粒子性は波が集まって粒子的に見える如くになった時と解釈している.初期に描いたのは一様な大きさの数珠を直線上にした時の数珠数・個だけだったが.その・年前にはいくらなんでも量子思考をするのは早いだろうと自己制御した年だったが、この制御意識は個人的には問題な固有性?かな.

   

             

 アゲツイだけれど表現を変えて--深淵ギャップに消えて行くガロアまたは吸い込まれて行くガロア.これを浮かべて冗談じゃない難解さ予感、整数論も時間があればで避けているわけではないのに、グロタンのモチーフに恐らく避けられないギャップと推定できるものを浮かべた短い坂道--作品化の前にツイ

   
           
 

 p進系にNo.テンのある一文章が使えそうに気がつく.どうやらこの文章項目内容は価値があり、もっと真面目に対処活用すべきだと思う青春の記念碑・第楽章の思い出やθ象徴形式

   
           
 


ちなみにヘラクレイトスは用いて変形引用している.ディオゲネスは無階級社会者とした人物はアレキサンダーとの逸話からか、普通には隠者タイプと思う.

   
           
 

 道路が歪んで見えて不思議だなと思った頃の中学生の時に、ゼノンの飛ぶ矢とアキレスと亀を浮かべてしまって苛立つ事に.今ゼノンの場所を知りショックを受ける.冷静に考えると神話的にならずに古代ギリシャ人も当然思考力はあった.ΣやΠを忘れの詭弁皮肉のゼノン強調になりすぎの多世界性がまた登場

   
           
 

 埴谷雄高の階級者の傲岸卑屈執念をなぜずっと傲岸卑屈無知とあたかも視読障害(構音障害に類して)のように見たのだろう.まず明らかにソクラテスの無知はわからない無知者と思えるから執念をΣ無知に向かう無知過程とすれば、執念を無知としても強ち間違いでもないが.

   
           
 

 叙事的な虚無ではなく深淵は抉るので束縛力が強すぎるが、退行的な事とは昔からそう思っている.

   
           
 

 なんとなく帰結のような.自由を邪魔して今尚記憶上にて悩ます存在や出現してくる存在は男女を問わず不自由な存在であると端的に表現していいような.不自由症候群なるものを考えて見た.

   
           
 

 で事実から困った小説が浮かぶ、サリンジャーのライ麦である.サリンジャーはその作品の効果性かサリンジャー個人の心理過程か双方かわからないけれど、沈黙を余儀なくされた?のは当然だろう.穿って見過ぎではないと思うけれど理由は差し控えたい心情で-現行の発達障害を増長させるかのように感じて

   
           
 

 現実自体は暴力的過ぎるが通底にはある

   
           
 

 史実上ローマ軍に依存したとされるある存在もミルグラム的位相ではないかと最近浮かべている.間接的ミルグラムで縦構造の存在によると

   
           
 


核爆発はともかく今では伝達ジャンプ過程もだが神経スパークに当てはめる構造を考え、てんかんをてんかんと見ない考え方のアイデアとか考えたりしたが、スパークが一様に持続する-生理的危険時間予感を体感したりするので、抑制も必要な記憶があるae,

セドリック・ヴィラニを知らない.プラズマ迄考える余裕はない、一応トカマク形式は記憶しておいた昔のあの頃だった.知る人は良く知っていたようだが、ムラビンスキー同様さっぱりのランダウだった.ムラビンスキーは年代に何回か来日していた…

   
           
 

 自分は悪くない他人が悪いの責任回避者には真理存在か聖人か諦観ではない釈迦的位相の悟り者でもない限り、自分が悪くないと言える存在はいない筈なんだがと言って見たいものである.

   
           
 

 ラプラスの悪魔は有限因果式知性となる.空っぽの入れ物-絶対慣性系信仰者のような重き荷重的な自己主張体の存在理由が全くわからない.どうみてもなんでもないわかりきった存在のはずだが、言語表現が出来かねるはずはないと思うのに出来ないという不快感.不透明な単なる荷物としても有限が広がり…

   
           
 

 永遠の相の下ににおいてスピノザは神の決定法則必然を齎しているか、人間もそれに従うならば一切弁明など必要なくなるのだが.まあ汎神論というか汎心論は一応考慮している.コナトゥス?、気にしたことなかったな関係のような…

   
           
 

 壮大なバイタリティにとっては感情の細やかな動きなど馬鹿らしくまた煩わしいと思うはずである.であるが実際の所は感情の細やかな動きなど考える事のできない単純頭脳の持ち主で、そこを陰謀虚偽や策謀でカムフラージュ・カバーするという、人間うまく出来ているものである.

   
           
 

 さる温泉施設で会ったような女性は価値あると思うが、到達意識の邪魔をして来る遂行型の自己主張には価値を感じず、辟易して蒸し返しあるいは虚無への誘いとしても-それ以前の壮大バイタリティ者が多いが、虚無化ではやる気を無くすだけにしかならずつまらなすぎる.

   
           
 

 華麗?で新鮮なしなやかさを持つ切れ味の岩澤理論のわかりやすい説明中途迄を読んだ.類体論の言葉が登場して、ある温泉の日帰り入浴施設であったしなやかな女性を思い出す.時間があれば考えて見ようとした整数論まるっきりの岩澤理論感.ζが収束するならば岩澤主予想はまず成立させそうに思える.

   
           
 

 ti・独立した空間単独空間時間無き空間は無変を見させる.

   
           
 

 摂理はポテンシャル-エントロピー関係にある.これは帰結であり真理であり自明である.

   
           
 

 無変を気にして見る.

   
           
 

 しかしieaのじんわりとした影響力の考え方はいいね、ケインズも明瞭化し過ぎの嫌いもないではないが-断言的まで持って行った事が.有効需要論はどこか対処できないところがあると思った昔、さてそれは何かと考えて困難だった事を思い出した.一様縦構造からは横だが、ダールの下位文化伝統か

   
           
 

 ウォーホルとディラン双方の知り合いで、イーディなる歳没の女性がいたことを、その記憶に残る俳優の顔立ちから知る.ジョプリンやモリソンと同時代、ミショーのメスカリンアンフォルメルはより前で、ミショーを発掘したのは自意識の法王庁の抜け穴で、自意識の周りに奥津城海岸線金魚となるほどな

   
           
 

 代の引きこもりは今や珍しくなく、代もいるとは大変なというか凄まじい時代になっているなと思うが、心理を別にすれば働かなくても生きて来れたのは余裕過ぎると、まあ現象的に判断できないことはない.複雑系時代現象明らかで、エントロピー増加が現実現象に転化している.後戻りはしない筈

   
             
 

 偽善や詭弁を不条理の成果物とすると、現実措定をややこじつけ的にできるかな…これはカミュだ、偽善や詭弁を発狂認定とするとキルケゴール的で個人的にはこちら側が都合いい.他者の理不尽言明をカミュ的に解釈して無駄すぎる悩みを持つ事に.しかし他者もいかにも正当のように不条理を強要するものだ

   
           
 

 ゾロアスター教は善の優位が悪に対して確定されているとな、建設は優位であると同じ考え方だったか.唯一神教と単一神教の考え方はスターリンとトロツキーの考え方の差異に似て

   
           
 

 ある視点を与えよ静止している私は光速で動いている-ある昔のギリシャの人物に潜んで・もいないか…

   
           
 

 でその感情無知な境界が詭弁や偽善として現実にみとめたくはないが認めねばならないかで、ディリクレは一般的だがノイマンやロビンなのかも.イデアルからはよくわからんコーシーなのか視点として導入.とにかく精神分裂は避けたい意向であり…この辺から史上の人物達は精神破綻へとも閃く

   
           
 

 雨がなぜか降っているその理由がよくわからず奇異な感触をもったのだが、単に梅雨の季節ゆえだった.なんだかもう梅雨の季節も忘れかかり、ただ気温が低く夏近くに肌寒いとはと無意識様況で思うのみ、そういえば冷夏のあった事は覚えている.

   
           
 

 頭・記憶にある不快を除去しようとしているからだが、主体の邪魔をした存在に忍耐力を勉強させないとの教育的視点もあるからかな.

   
           
 

 一般に境界は心理的に難解で生理的には困難な対象である事はわかっているが、だからといって道化要請や不自然要請やでたらめ発言は困る.統合失調者の発言と認定したくなる.そういえばかような存在は普通にクレイジーと思っていたのに無駄な解析で悩まねばならない心理的情態になっているのか…

   
           
 

 どうやら叙事的存在は感情に関して境界を持っていると思いついたが、その境界は自明なイデアル位相だが、内容は統合失調症的なでたらめに見える.

   
           
 

 単独で山に行く人に自己責任とか自力とかの他者の意見は過剰な無駄である.なにしろそのような人は自己判断で自己体力を用いる事は明らかだからである.

   
           
 

 支配型で模倣を無駄にしてくる嫌なもの、無機物的存在が模倣をしても馬鹿げ過ぎて頭麻痺するだけの無駄にしかならない.無機物的体質を変えろといえばそれでおしまいになる明瞭な存在なんだが、人間的感情が未熟な分、バイタリティをいつまでも一生持って長々とうんざり引っ張る存在の馬鹿らしきしらけ

   
           
 

 なんだがわからぬが対自を自分だと思う他人が多くて閉口する.即自対自ともに一人の個人のもので、他人のものではないのだが、人の落ち着きを乱すのが趣味な存在が多い.別に不自然をやるつもりもなく、道化もやるつもりはない.ただし自己主体による冗談や遊戯や狂言は否定しない.

   
           
 

 逃げない野良猫?も珍しい、直ぐに道路に猫ろんで




   
             
 

 日薬大がきばって来ていて苔テラリウム.円は高いと思ったが、育成費用も入っているとの縄文式に賛同してと秩父大滝の苔でプラントハンター費用も含まれているだろうなと.作成半分はもう彼女に頼んで、一週間持てば後は半年は密閉で大丈夫との期待アクセサリー

   
           
 

 ハイデッガーの原存在をポスト・ヒューマンとするには無理がまだあるかな.空中浮揚可能で空間をやや自在速度で飛び回れる意識体なら、原存在の革命的変転になるが、有機的存在としての生体感覚や果たして人間と言えるかどうかになってしまう.ハイデッガーの未完部分は明らかに超越との戦いだったろう

   
           
 

 非生物的な有機物?.濛々たる瘴気の中で有機化を想像したあの頃、オバーリンのコアセルベートや種の起源の知りにより.なんだかんだの今日ダーウィンをもじって保存の起源を浮かべる.

   
           
 

 人間とは何かの答えが出ると類続の必要はない予感はただししている.

   
           
 

 人に存在論的に組み込まれている-考えない人多そうゆえに絶望せよだろうな-人間とは何かをそこに存在しているだけで有る倫理としてよいし、諸々がそこから発生するとしてもよいはずで、何にせよ人間では何かを考える時には他よりトリアージ強く他を捨象している比較すれば自由な位相になっているが

   
           
 

 関係とは良く言われる人間は矛盾した存在の不条理性を生身に見たという事で、人・人間は解決不可能的なものを持っていてそれが関係で、それを盲信的に感じた自問自答から他力の親鸞にこだわりすぎたという必然的に発生した事だったかと.それは諦観の要素を見ることもできる浮かびを持つ.

   
           
 

 個人的にはマルクスの予定は人々人間が聖人君子・聖人のみの世界でしか成立しないものとしか考える事が出来ない.

   
           
 

 嫌いな宿命は必然的自由の指示的タイプかな.自由=必然と必然的自由は異なる.必然的自由のモデルとして詩人のワーズワースを契機的な直感で昔から設定しているけれど検証考察はしていない、また軽いタッチのままをそうしたい意図もあり、敢えて明晰分別することもない対象的なものとして

   
           
 

 人は誰でも必然的自由を社会的に行うケースに直面するしている.例えば対に関しては可能対象が数多い中で一人を選択するのは自由でありカップルとして成立するすると当人達にとって必然な関係になる.普通に義務的に行わなければならない免れ難き事態は主体にとって必然的自由である.

   
           
 

 セルバンテスのドンキホーテはレビー小体長きで夢をみていた時はあたまはっきりの時だったとか.あるxxがある男と誤解してドンキホーテとの発言を受けて、この発言は不当なんだがそれを擁護する形としてドンキホーテには色々悩む.とにかくこのxxには信じがたい無駄ばかりの記憶多い.その反面は?

   
           
 

 それもやはり叙事的な物理主義ゆえに成立する事だろう.それで発言を取り消せない不快な記憶が悩ますので、この複雑すぎる生理構造を持っていながら、パワハラ的が人生だなる存在は複雑構造を持ってしてもそこまでしか発達できない存在と思い至る.人間学的視点には役に立たない存在だと諦めた境地かな

   
           
 

 ビートルズのletitbeには不快な心的悩み状態にその放擲を示唆させるという思い出記憶があり今でも苛立つ.特にカントの道徳論がドメインを持って現れ--今カントの道徳論をチェックすると、その義務論が出てきて何でもなかった.自己解釈想定判断思考だけでなく、その書に接するべきだった.

   
           
 

 自分の考えといつまでも一緒と危惧したわけで、無理解剽窃的な逆作用デジャブ的な過去失念的無意識蒸し返しなど無意味と表しているだけで、既に蒸し返しである表現存在は存在自体価値が無いのに気がつかなかった昔の日々.ゆえにだめなのよとその妻に言われて夫はそれに甘える形の白々しき男の記憶あり

   
           
 

 エンタングルの明晰さかな、この動かしようのないと思える截然的位相は.多世界的がふさわしいのだが、エンタングルにヴィラソロや包絡線などを想定させる思惟形式は、単に現行の思惟の法則に則った考えにしか見えず、新案とは言えそうにないと考える.

   
           
 

 そうそう”自力ですよ”とも言われたな.それに対して沈黙していたけれど、内面では、そんな事は当然だ、そうやっていると思ったものだった.-在りし日の埴谷雄高の記憶から・

   
           
 

 吉祥寺に訪ねて行った時には玄関払いで、奥さんが何々と言って出てきたのに、おまえは下がっていなさいでつまらないものだった.折角の好奇心を発揮させればいいのに、理解力がない趣向であるだろうが、他と比較すればまあまともな埴谷雄高ではある.文章は好まないが思考内容は役立つものが多い.

   
           
 

 まあ埴谷雄高もハイティーンの頃に卒業しているのだが、埴谷雄高には電話で”女の子ですか?”と言われた事かある.??だったがなぜか男達がそのように見てくるケースが多いような.内部に…省略して置くが、不当な事は確かで、これら男達はその異性への理解力が欠如している可能性が高い.

   
           
 

 指示的言明に従うのは実際には自己無責任らしい、そうかも.敷衍すればシステムに責任があり畢竟秩序に責任があるのであって個人にはないとしている形に思考して見た.

   
           
 

 レーニンはフランス革命を踏襲か模倣をしたのではと今日は考えたりしていた.ちなみにレーニンの自由=必然は最近に近く知ったキャズムのイノベーターと位相的には同様なものと代最後の頃に考えていたな.

   
           
 

 色んな歴史条件があるにせよ遺伝子レベルで侵入しているのに、侵入系は一方的にしか遺伝子を持っていないというのは不公平である.無意識的にせよ歴史の流れに乗ってその反動が出た世紀初頭あたりから半ば付近近くまでと最近思いついた.

   
           
 

 ふと思いついて社会的な忍耐を愛情と勘違いする違いのわからない存在は、ベイトソンのダブルバインド状態を自然な事と思い込んで形成する事に気がついた.ジレンマはおよそダブルバインドで日常常に発生する.記憶のダブバを処理しきれないうちに.またダブバを勘違いして強要する存在も滅茶苦茶である

   
           
 

 個人的ではなくての意図で、幻想旅行記をプレゼントした女性がいた頃の話だ.そこのkが…mもいた.近くなのでw大の女性のnも、しかしg大の女性にある試みをしていた日々で、常識と無知知識の同情心が愚かにも決定的にやる気を無くさせた頃でもある.いまだに回復せずかな.gのは韜晦を齎し

   
           
 

 でたらめで不自然な存在-いくらなんでもそんな前提にない人物がそんな態度を取るから困りしつこくなるのである.つまり前提が間違っていたことになる.そういえば以前は他人は狂人だとしていたが、最近はその視点が弱くなっている.

   
           
 

 このしつこい存在と似たような態度の存在が多くいて、どうでもいい・邪魔だから目の前から消えろ・そんな態度を取るなと禁制的態度を心理的内面的には思っているのだが、なぜか逆の態度を取ってくるしつこい存在達、しかも男女を問わずなのはなぜか.もともと不自然なでたらめ存在なのだろう

   
           
 

 ハテナの動植物性から一次二次共生という事で花の種類の多数性記憶化のヒントを得た気がする.昆虫の多様性はとなると?だがメカニズムは同様な気がする.葉緑体は独立した別個のものだった→ミトコンドリアと似ている葉緑体の存在形態

   
           
 

 こうなるとヤスパースは頭いいだけと思っていたが、その文明論が浮上する.紀元前後年のミレニアム期間に・現行の現実を鑑みると期間はもっとのびる・宗教発生複数も歴史上の必然がありそうだ.

   
           
 

 アージーヴィカ教がジャイナ教の頃にあったのを知った.スピノザの神の決定が直ぐに登場するが、阿弥陀も結びついて来るな

   
           
 

 sixteenにおいてどうにも考えが進展しないのは乖離から、人はdnaとミトコンドリア双方を持つがその流れは一方性もあるあたりに推定を持っていく.ここに至ってニーチェの深淵は生理的面が強かったような感触を持った.

   
           
 

 ヴィトゲンシュタインが幸せだったがわからない人は建設的である子持ちという類と同じ感覚を持てる満たされた存在感による生理的快感視点から見ている.その視点では頭脳をあまり使わなくて済む経験的な明瞭さがあるケースが多い.シモーヌもそうかな.カントやニュートンはどうだろう.

   
           
 

 創作的かな:ヴィトゲンシュタイン曰く、日本には地獄の沙汰も金次第という言葉があるが、第三帝国の場合はやや多めの金塊を必要とした.

   
           
 

 小学年性の時に皮肉は考えたが、懐疑の言葉を理解できそうで漠然とした雰囲気のままの記憶がある.今考えるに皮肉はマーフィー的であり、矛盾と不条理に繋がっているなと.

   
           
 

 科学の確かさは帰納が終了するまで続く帰結になるが、公理は演繹的に見えてしょうがない.

   
           
 

 結論より中身の過程が重要なんだが、安易な処理で悩みたくないあるいは悩めない存在に配慮をしてしまう…もっとも結論は過程表現なのであるけれど.

   
           
 

 ゲーデルはNo.tfに不確定性原理もここに持ってきて、存在理由や帰納性もttと関連するがその自由性を考慮して.カルナップで議論が出来なくなった昔を今に見ると単なる完全ではなかったカルナップだった.

   
           
 

 存在主張もエゴを絡ませてあるか.存在原因を考えたはいいがきつい.曖昧で抑えられる存在理由の方が遥かに楽で、存在原因は別枠の命題の一つに関わって来る.

   
           
 

 すると存在理由以外に存在原因が登場し、存在保存がなんとなく共同的な感覚で浮かんで来たが、とにかく他人に対して優越感を持ちたがる心性は普通に見るひとは優越感のためにいきている観察結果と一致するが、それ故にかななので、存在優位とかなども入って来そうで、いい言葉が浮かんで来ない.

   
                     
 

 タナトスを超えて蘇った人物なら---絶対を使えるかも.となると生きている生理体は死後の世界を知らない位相地点はかなり説得力を持ちそうだ.「何がダメと言って論理理論のだめなところは死を体験経験していない事である」と昔からのシステム構想の頃からの明白過ぎる考えでもある.

   
           
 

 中間存在には関係の絶対はないだろう.中間の関係は権威権力や絶対空間に依存する曖昧模糊な有限限界体がそこに実在しているだけだから.アイヒマン的無責任位相かニュートン線形の明晰信仰存在に中間存在はなりやすいかもしくはそれしかできない.限界感得を絶望とし、それを絶対だとするかもはあるな

   
           
 

 エレクトロニカのカットアップやノイズグリッチは年中途からでffやln辺りが起こりなんだ.カットアップやグリッチノイズ音を用いれば明らかに複雑性は明瞭…チルアウトそうだろうな、マハラジャの名はきいたことあるがジュリアナは知らない視点から.コンピュータ環境自然なアンビエントな

   
           
 

 とにかく六法全書には常識しか載っていないはずで、非常識があれば大変なことになるゆえ.司法試験は常識力の問われる試験であり、暗記力と識別力もあるにせよ、難しいのではなく常識能力がいかほどあるかの試験である-と昔から設定している.そんな考え方なので実際に常識力ない人多数を想定できる.

   
           
 

 その頃は心理学は魂を蹂躙するので使わないとしていた、今でもそうだが、逆な発言者を思うと蹂躙どころかいつのまにか洗脳してしまっているようなものではないか.ただ埴谷の自分の考えの如くが不快でツイートもそれに関してが多いのだが、所詮間の抜けた理解力の乏しい存在達と放っておいていいか

   
           
 

 それにしても年付近は機能主義旺盛で、行動主義的な生理体優位の日々だったのか.ダダ的に頭を混乱させたポストモダンもその頃では、まだラプス中でそれほど.今は追跡中だが想定していたほどそう簡単でもないな.「先蹤者追随者」はセット的に取り入れてあるが追随はあまり意図せずでもあり

   
           
 

 腕の筋肉は思考しない、ここからその生理体を見て気持ち悪いと感じさせるその存在理由が頭脳より生理体にあるxxが登場して思考の邪魔をする事になる.この思考を妙齢の美女から言われた事があるが、その時は?で後に光栄かなと、べつに光栄でもなく、主体思考発現を邪魔する数多くの存在系だった.

   
           
 

 意識のハードプロブレム問題があって種類あるそうだ、なるほど解けたとするのはイージープロブレムとな.ある項目でイージー的に判断する事も確かであるとは書字中枢を用いている今はそうであると認識はしているが、明らかに生理との連携思考で、瞑想している時の思考形式ではない.

   
           
 

 設定システムの展開論と別枠的に三つの命題を持っていて、そのうちの一つに恐れ多くものプレッシャーを持った謙虚さが今となっては問題となる.一つは小学生以来のもので個人的なものかな、プレッシャーが家族的、クォバデス的に・ただし十字架ではなく未来の行く末的に関与すると思う共同的ものの三個

   
           
 

 とにかくxyにしろxxにせよ論理不当が多すぎる.xyの場合はあるxxに述べるべき事を言ってくるから何のことかわからなくなり、あるxx・既に他の男と一緒にいる・の模倣を強制してくるので、直接その女に言えと直接言えなければ情けない男であるか、その発言は無意味なので述べるなということ

   
           
 

 不快なのは論理的な他へや他からの当てはめは不当であるからにようやく気がついた.昔ある女性が論理不当を申したが妥協的態度を取った事を思い出す.でうまくいかないことなるが記憶にはいつまでも

   
           
 

 ベルカーブは壮大な詐欺は言い過ぎかな、宇宙から見ると地球限定の人類の歴史は卑小ではと思えて、ただし無機物関与として摂理を考慮すると人間原理的な考えというか、宇宙的自然に存在理由を持ってこれる.

   
             
 

 今は変わって来たはずだが、昔は物事は正規分布形式を形作るものであった.細かい砂粒を万個いや万個を地面に適切な速度以下で落として見るとまずベルカーブを形成するのは確かだろうと、ある時直感推定をした.それは事実で当たり前過ぎて別段強調に値するものでもなく、日常茶飯事としていた.

   
           
 

 ミルグラム・ミルグラマーをストレス増加加担症候群者・達と表現方法を思いついた.

   
           
 

 曖昧と言えば道教の太極図の双方の点も上手い表現である.多少の直感でもわかるが図式化するまでには幾らか吟味した筈と想定する.

   
           
 

 最近読んだダールのポリアーキーにはマルクス成就の国は年頃時点で歴史的に無いともあったな.アローの不可能性定理やコンドルセなどを考慮したのか法の支配の国とダールは明瞭にいわず曖昧な接近値ポリアーキー表現はプラグマと観念的の合金・アマルガム化は考慮判断結果自然設定だったのかも

   
           
 

 一段階二段階論なるややこじつけ解釈のあったことも後には知った.最もその人物は永続革命論はいいといった.永続革命論?知らぬが革命が永続することなど考えられず、詭弁にしか聞こえない、後に頭いいと思っているトロツキーの考えと知り、この潜みに刺激したつもりだったのか曖昧となる.

   
           
 

 マルクスの趣で資本主義から社会主義に移行した歴史国はないと思ってマルクスはぺてん師とある左翼系?の存在に言った事があり、その人物かなきあとも悩ます羽目になっている.客観的評価を未だに出来ていないからかな.その時は別にどうでもいい存在と思いつつ家までなぜか尋ねていった.

   
           
 

 リフレインの逆部位はある誤解をされてしまういやなxyがずっと気分の悪さを醸している.とにかくxx&xyにしろ、逆になってオリジナル思考者にイミテーションである事に気がつかずにオリジナル者にぶつけてくるというデタラメ無自覚無知典型の道化さはなんなんだ.ボードリャールも嫌味な設定を

   
           
 

 しらけたね、納得とは、複雑など他者に言おうとした事をなぜか他者からそれも当事者ではない存在から言われたりするのでおかしなことになる.主体発揮の妨害ばかり受ける.卑怯者?一体何のことだ唐突に、それは武力タイプの陰謀心理のことで、自分がそうだろうに.よこしまとか線形馬鹿ではないのか

   
           
 

 超越数とは代数方程式の解にならない複素数-最近こんな完結明瞭な文を見たことはない.昔からプラトンの時代から世紀のインドでもそうであったろうと推定するが-鮮やか過ぎる.

   
           
 

 ディオファントス近似-無理数・超越数上出現だが数学にこんなに関わるつもりはなかったのに、常識対象となり、つまりは別に個性があるのではなく、普通常識的なのである.フェルマーの余白は算術のラテン語版とは、大学ノートでもパピルスであるはずはなかった.その余白存在は小学生の時に浮かべたが

   
           
 

 平和ではなく戦争を齎す為に来たは、言葉上は宗教の大要素のひとつ流血を示しているが、ある殉教は他の殉教と相容れない分離公理ゆえとも.瞑想はどうするんだからは、戦争を齎すとは相容れないので、これは一面的になる.

   
           
 

 今日ふともしかして悩みはどんな悩みも意味が価値があるのではと浮かべて、もしそうなら非常にいいのだけれど

   
           
 

 私はショパンが好きだわよ-だったかな確かその趣旨の唐突に主張をした女性がいたな.

   
           
 

 ショパンの幻想即興のアンダンテ部分、野田線か高崎線を待つある日ある時間の大宮駅で、それと知らぬメロディが湧き、ひとりしみじみと哀愁を覚えた曲である.この転調部位のみ好みで、ここで感興を齎さないピアニストはいけない.教師として教える立場ならテクニックだけ・はしようがないと思うが

   
           
 

 最近は体たらくしている日常で言いたくないことや言い過ぎてまずい思いをすること多し、xyもだがとくに自覚なき?xxと逆になり、その無自覚を投射してそれは自己自身なのに気がつかず当たり前の特権かのようなxxが無意味を強制してくるのが原因では?、まあ消えているや他xyも同じ人格レベルか

   
           
 

 ある時ある場所で対象と非対象を初期になかった考えをしてしまい他人がそうであるべきなのに自己を他人化してしまっている…それ以前に模倣のトートロジーに気がつかず非常な屈辱感であるのにも気がつかずの人間がいまだに主体を悩ます、いつまでも傲慢・倨傲さ非倫理非常識の記憶が不愉快となっている

   
           
 

 耳が落ちたかいや叙事的不潔なxxが災いしているはず、叙事的つまり指示的xxはxxに足りない存在と思っていて誠に困る存在で、恥の文化ゆえにより支配欲によりとにかく自由の妨害をするのは必定だからでもある.身体存在自体拘束・束縛なのに二重三重ほどに妨げてくる…

   
           
 

 ユートピア思考発生を少し読んで、ユートピアが成立するためには何か外的条件に依存する必要があると思い、今でもそう思っている.そこから平和や幸福な家庭も同様ではと推定の過程中

   
           
 

 中学生自転車通学の帰り道、カレーニナの幸福な家庭は似通っているも良くわからなかったが、そのところで二等辺三角形や合同とか考え始め何故にと、今では相似からフラクタルだったとわかるが、流石に思いつかず閃かなかった.

   
           
 

 人の生的生理は胸腺発達限界時間以降一率ではないかと考えてしまう.哲学的に死と向き合っている時間を胸腺限界以降全ての生にあてはめたくなる.すなわち発達限界以降生理や環境からも短時間で消えるケースもある事になると胸腺変化をどうも止められず仕方無いと思った時の印象記憶強く

   
           
 

 しかしまともに相手して自虐弁護ばかりしてしまう無駄ばかりで笑うに笑えなくなる.とにかくマズローの低劣には困ったものである.しつこいというより一生精神年齢上がらず詭弁で補う誤魔化しを感じ、未熟に甘えて暴力発言で優越意識を保とうとする馬鹿馬鹿しさを見るのみで

   
           
 

 ミックスの手もあるが形而上的な皇帝側にして見るのもトライでありと少し未定はリアルになりすぎるが

   
           
 

 蒼空に舞い上がる真昼の透視意識は芸術的な皇帝楽章'”から秒のバックハウス.俗にいう安全パイなユートピア的で自然に好みのベートーベンの皇帝なので田園ともうしょうがないので置き換えようと思っている.ふと緑の田園だがその緑の質に少しを感じてしまったのはまずい事だったか…

   
           
 

 ベイカー年フィールズ賞受賞.そうなると腫の特性方程式も既約なので超越数そのものとは直接関係はなくなるが、独立性がほとんど成立する内含方程式にはやはり個人的発想なのでおもむろさは保存して置く.即自対自即他対他が独立人格をもった一つの人格という解釈は元数より高度かな

   
           
 

 91年生まれは今26歳で94年は23歳96年は21歳に

   
           
 

 マズローのといえば以下特に低劣なはその精神能力の低さにより、など理解できずその優越原理によって以下の存在にみたがるものである.理不尽でまあ責任はそうみたがる存在にあるが、その数値ゆえのエゴ意識を超克する事は消えるまでできず・消えてからもしつこいものである.

   
           
 

 無機物の歴史とか出てきて皮肉な事に、叙事のロボット的な指示的な縦的なやや煩わしきかな叙事詩も対象になることは必然当然自然な困惑の登場と相成って.自然科学はもともとエピック要素はあり特に最近はその要素目につくので叙情ニュアンスで見ることは緩和傾向にある

   
           
 

 無理数さっぱりがあるにせよ先の帰納余地の予測はつかないが超越数展開のもう現前時間の時と思いが浮かぶ.

   
           
 

 心理境界・最大値の原理が厳然と存在する状況を認めざるを得ない.例によって条件飛ばしゆえにより、意図的な設定予定によりが強いが、やはり多大な無駄をした形になるまで気がつかなかったという愚かさが情けないとは思うが、救いは気がつかないよりましにあるがだ…

   
           
 

 歳ではなかったかp進の小数に有界を収束を考えて見たら理解可能となった…側面を持った.あの院生にp進とはなんぞやと質問した時に短文説明は困難と、質問しかたがわるかったな有界とはと聞くべきだった.しかしこの収束意識も長きブランク的な麻痺化を.p進も乗法であったも単純過ぎる長き麻痺

   
           
 

 無駄に経過した時間を普通空白ブランクと表現することもありそうに気がつく.意図的にそうした面もあり、空白を埋めるのは大変だがなんとかはなりそう.しかし先に進むのは困難と行き詰まりを常に感じるのはあるxxの術中匂いの障害を感じなくもない、これこそはまさに無駄の要因なんだな.

   
           
 

 あるxxは最悪でそのしつこさは悪魔のようなと思っている存在となぜか同一視して、しかもその同一視内容は、その悪魔かと思えるxxに言わんとしたがしらけるので詮無いと止めたことを言われるというバカバカしさ、この存在と似た位相のxy多し、げに図々しき存在という名のある父親とその同相xy群

   
           
 

 それにしても手抜き無しの歌い方、ムンクが叫んでいるような連想をさせる基本はできている歌い方の存在は如何に.言わずと知れたムンクの叫びの美術的解釈を知らんのだが、今回の連想においてはタナトス意図であろう黒い影はないものとしている.

   
           
 

 非可換や普遍グラスマンなどで展開できるかな?.フラクタル側からジュリア集合とかはだがこれも見当違いかも.何れにしても知見が及んでいないゆえに対象設定あるいは現在状態が不明な事は確かな、あの坂道で浮かべてしまったガロアに対する直感的に避けたが今少し対象化の難解事象記憶

   
           
 

 他者予想を間接呈示によるとも間主観的のようには分類しない、他人予想を間主観性と述べた人物もいるが、基本定理は自己自身のもの、最もフッサールはそう述べると都合がいいとしただけで、間主観性も自己能力と他力本願と同じく考えたい・自己の能力であると.間主観性をいうなら場を想定してしまうな

   
           
 

 アルティンLでもモジュラーでもなんでもフロベニウスで乗法なのに、またしても定義避けの条件飛ばしで漸く気がつく有様.カスブもその鋭さで避けた対象だった.分岐は難しい-カタストロフィ理論は分岐論だったのか.トムと同境は結びつかず、グロタンと仲悪かったのは結びつくが両者とも消えている

   
           
 

 昔ある喫茶店で考えていたインタナショナル・第インターとはなにと混乱、ちなみに神の代理人も何の事か想定苦しき日、ミストレスが一言非常に気にくわないことを言ったのが残念である.言いたかったよくあるわけないだろうこの女は最低最悪だよとここで発語しておこう

   
           
 

 命の樹の実を食べると…命の木がどんなものか知らないが、現行x軸を時間としたz-x射影像においてのe-p図のx時間は有限である.ただし「現状維持無限(有限?)変革」においてx軸の有限時間は伸びる方向にある.

   
           
 

 ポテンシャル曲線はx軸の時間が経つに連れてz→に近づくが、エントロピー曲線は逆でp→で上昇する一方であるが、x軸時間のある所でヘビサイド的な老齢的超越状態を描くようである.みどりごのポテンシャルが低い時のエントロピーの高さの解釈は依存度合いしか浮かばず、ここに他力が登場か?

   
           
 

 一個体を仮定して、x-z面において、ポテンシャル曲線はベルカーブ的を描く-z軸に凸である.逆にエントロピー曲線はz軸に凹であり、対称曲線を描いているものとする.特にポテンシャル曲線は生理曲線とほぼ同様と見えるのは自明的.ここから人々は積極的自由や若さ概念に飛びつく.

   
           
 

 昔は深淵を散歩できたのに今では深淵に遭遇して思考出来ずにっちもさっちも行かないが、生成消滅があれば思考出来てもいいはずだな.小学生の時に励起という言葉を浮かべ何か魅力あるイメージを持ったことがある.これを使って思考できるはずなんだか、現実対象問題として質量ギャップが絡んで来たり…

   
           
 

 深淵の場にeは見えず惰性はない.ただし生成生滅子があるとは確かに考えられない事は無い.実際には思考ができず非保存場でもあると想定中.

   
           
 

 愚劣な愚昧な存在を尊重するというピエロ・道化を強要されがちな性格に見えるようだな他人には、そんな事を考えるはずがない以上に人をピエロ化しないと立つ瀬がない人間もまたいる・はず無いと思っていたのだが、明瞭に経験上実在していたが、もう会うこともなくすでに消えている・かも

   
           
 

 私と私は私である.どうもこれがわからず、私を他人にして自分を私だと思うすでに悪あがきなそんな他人がいるはず無いと思っていたので、変に無理解な対象だなとは思ったがそのまま、後の今頃になって自分を取り返す主体阻害&疎外の修復をしないとになっている.

   
           
 

 思い出して見ればソシュールの通時と共時の間は自明であったか、共通時とでもいうべき.そんなニュアンスは持っていたはずなのに、所変われば品かわるではないが、対象変わればケース変われば対処変わるという結びつきに対しての多世界解釈的なフィルターが妨げ的に…

   
           
 

 ガロアの基本定理的な対象が現実に存在している.以前は単に区別だけの仮想的なものだったが、どうしてもノルムと汎関数の境界を考えねばならず、そんな人間や企業 が現実に実在している観察設定を持たざるを得ない、

   
           
 

 数学ね変化流れを見ているとまさにエントロピーは増大するの典型例に見える.エントロピーは乱雑さ?、語弊があるが閉鎖の束縛から自由にするもので、言ってみれば複雑さの度合いで、エントロピーが増す事は複雑さが増す事になる.

   
           
 

 今ふと思いついて不利益を齎す存在はタナトス的傾向者ではないかと、フェルミ型もその傾向ありそうな気分に、そうなるとしつこく悩ますのも理解できそうな事になり

   
           
 

 既に過去にしていた事をすっかり忘れていてあるxxに無理に集中した形が未だに尾を引いていて修正への圧力思考で不利益ばかりを要請して来る.この事は未来に対して退行明らか-既に過去ゆえにだから-なのだが、このxxに同類賛同者たちの多い事は経験上分かっている

   
           
 

 明晰志向と言えばずっと不確定性原理で日常を判断していた時期長く、当然曖昧さが伴うので明晰はないとしていた日々だった.ハイゼンベルグ的に考えねば明晰は有効な世界が広がっているが.なおペンローズなるループ思考者もいる、個人的にも限界要素を限界子を考えた事あるが、弦に飛ばすべきなのかも

   
           
 

 この昔の記憶からモチーフへの可能性がありそうな予感がしているがやはり思考する事を躊躇う心理がある.それはつまり明らかに厳しい深淵の境界を見ているからである.

   
           
 

 *そこから上がる道の途中で、複雑さが苦手だなと思った位置の傾斜上に合流する道の途中で浮かべた、ガロア対象であるはずの境界傾向位置の思考は、直感が難解過ぎを示して冗談じゃないこの対象は専門家がすべきだと避けた対象になんだか直面的になってきた昔の記憶

   
           
 

 ラングランズはその時は鋭かったのかか時が要請したのか特異点位相だったのか、多分にギフテッドのイメージが来ている.予想は実にしぶといが、そんなものがあると壮大な無駄な時間が微笑みを運んで来るというものだ.

   
           
 

 昔からの立体的・重合的複雑さのキャッチ苦手を類数フォーミュラに帰結して置く時間稼ぎ

   
           
 

 アフィンリーのディンキンがextenだって!、超弦はともかくとして、話が違って来た、それなら何も遠慮する事はなかった事になる.壮大な無駄な時間が浮かぶ.

   
           
 

 一様性の不可能は専制の拒否では?が浮かぶ.一様性の不可能があると独裁が成立するためには不条理・矛盾・理不尽的な現象がある事になる.翻って民主社会だと民主専制なる言葉も使える事になる.

   
           
 

 層序学は小学生の時から意味のある対象に直観が認定している.無機の時代もそのうちに思想に取り入れるようになるだろう.

   
           
 

 ロジャー・ベーコンを知らなかった.アクィナスの永久法・自然法・人定法・神定法とはなるほどと思う.エラスムスよりアクィナスという事で衝動的発言をある女子大生の前でしたことを思い出す.普通に冷静に話をしてよかったのだが、いろいろ思惑があって終局気が付いたが、余波がいまだにしつこい形

   
           
 

 ある山間の沢・太陽光線が届かない昼間の冷える谷へ行った帰りに、霊について脳内をよぎったことがある.どう見ても歴史時間を考慮せねばならなかったが、なんとも思考できずだった思い出がある.

   
           
 

 小学生低学年の時にとかの数値が浮かんだコンクリートの壁のある帰り道、なんだかわからないこの繰り返しなど頭おかしくなりそうでやってられないと、それから数十年漸く桁区切りの進数を見てなるほどなと.f迄用いるのはAB種類なので項目上丁度いい.六次の散発も加味して

   
           
 

 確かあの頃、の乗根は切りが無いと思ったはずでそれもあり時間があれば類体?数論ではないよななぜか忘れ気味・をだった.n乗根で実用の割には乘積やゼータとpの加算無限桁とかでは、月の連休中に終わるわけもなかった.

   
           
 

 まあ実存云々ではなく端的に( パスカル的には実存になるのか中間存在?)中間存在は未完に終わる事は明らか、トートロジー的にゆえに中間存在であるとなるが、単に日常観察や人の結果判断実証的思考から帰結要素ともするものだ.

   
           
 

 カフカは予感していたな、作品の焼却要請で.つまり本質から見るとカフカの未達作風は意味がなくナンセンスでくだらないと思われることを.人々が評価するのがわからないな、ハイデッカーを持ってくれば、現存在はほとんど未完に終わるの象徴的作風とも取れないことはないが.

   
           
 

 ほんとトルストイの明るさと比べるとドストエフスキーは陰鬱な影がつきまとう.実存でいえばサルトルには明るさがあるが、カフカには陰な閉鎖領域型で、サルトル的に実存は本質に先立つならカフカはまさに実存的で、ただひとつ本質に対して単純に届かない無知な作風である事は確かでもある.

   
           
 

 広大な虚無が閉鎖すれば深淵は素直に登場する、深淵といえば市場経済の難物として非保存系的にすぐそこにあるが、射影的には深淵な無限遠直線は遠い.ただし距離無き無限遠ドメインのこちら側からはやはり直ぐそこにある射影無限

   
           
 

 歳、ドストエフスキーの小説の中である存在タイプと自己想定をしたことがあったが今は曖昧に.作品読まず想定からアマルガムだった.スタブロの黄金時代の話は当然ミクロネシアに.虚無は信仰の一歩手前だが、最後の一線を越えるのが難しいとは示唆的な、虚無は厄介な空域でその極は閉鎖では?

   
           
 

 wのぺーの格子図の表現図像から、昔に見てどうにも苛立つそこに図があるのに説明できないジレンマを齎した精神分裂病者・統合失調者の描いたワンパターン繰り返し図を思い出した.その説明ヒントとして複素数考慮を浮かべた・複素数かありそうなまでで先の進みは折に触れてと

   
           
 

 カルダノ、チルンハウス、j、モンスター、ムーンシャイン、コンプトン、ファインマンの凡そ.のようなネットサーフィンの経路だが、偶々この経路としただけで、分岐経路は別にもあったそれはべつに冗長というわけでもない.

   
           
 

 好みの女子大生に接しても結びつける事ができずに…他にも理由はあったがその女子大生も日常遭遇しているはずに思いもよらなかったフィルターの硬さや如何に

   
           
 

 定義・そのコンパクト性により意識を避けた秋の唐松?の中堅の成長木の色とススキの暖色の校庭の外れの場所の小学年性.これにより設問の肝心基本の条件設定など軽く飛ばしたりしてしまい後に愚かにも何だと意味なき悩みの述懐をすることになる.

   
           
 

 素粒子はウェルベック年の作とな、複雑性を知った頃ならまあそのなかの気になる一文に関する時間意識は大丈夫だが、ウェルベックさすがにフランス自意識分析は充分としていいかな.複雑性のころと同じなのでやはり時代に即している存在になる.ある項目のおもむろと同様な考えを知り…

   
           
 

 全身全霊だろうが全力だろうが有限生理体としての人間には命を懸けようと限界があり不可能が成立するものであるが、精神的には仮に年生きようがそれ以上に飛び越えることが出来る.億年後に出現する存在とか、膨大時間スパンで永劫回帰する世界とか考えた宗教があるように.

   
           
 

 一意分解整域のデデキントでないとダメといった単細胞特徴やや顕著な高校生が昔いてしつこく不快な思いをしている.そんな単純明晰なら何も考える必要なく誰も悩みはしない.

   
           
 

 双極線・双極構造ばかりでまさかの楕円を考慮できなかったとは、脳内フィルターはどうなっているのかと思う.個的固有性もさることながらワンバターンxxの介在を考えねばならない記憶がある.

   
           
 

 ちょっと待てよ責任意識の主体をないがしろにしてくる存在は単にというか無責任意識存在かその志向者であるの視点を思いつく.記憶から排除しようとして悩んだ結果漸くの視点にたどり着いた.そう思っても差し支えないところに達するのに他の人なら簡単そうなのに、なぜ麻痺時間が多すぎるのかは残

   
           
 

 後にも先にもまさにやることなく空を切るような苛立ちの日々を過ごした年生終了後の春休み?の期間.苦痛なジレンマ状態を思い出した.そのような情態になったことはまずい不快な事だが、予行の挨拶と共に、後に、卒業しようがしまいがかってだろうの伏線になったかも

   
           
 

 小学校の卒業式でも今では袴を着たりするのか.小学校の卒業式の予行演習で、用紙貰った時にお辞儀をするのはいいが左右の来賓だろう、お辞儀を強制されて馬鹿馬鹿しくてやってられないと思ったことを旅立ちの日にの小学生の歌をみていて思い出した.そのせいか卒業式の記憶が全くない、参加したかな?

   
           
 

 twelve発動してしまった、が間に合わず・・
結局ワンクッション置くという人間的心理で自然一体感が相変わらずずれている感覚

   
           
 

 カッシーニは土星探索機だったか、太陽圏の話はボイジャーだった.号は年度以降ついに[星間宇宙に瞬く星々たち]を見ているか、いや人工物のみなので人のように楽しんではいないはずだ.テレシコワの[片道切符]も悪く無く、また空想でっち上げだが大人気有名映画もあるが、まだ実際に人は

   
           
 

 ア-マンは本当に凡庸だったのか?.ハ-リヒもしくはそれ以上の階級存在に自己擬えをその状況時にしていた可能性はある.その状況去りし日々には実際にそうしたかどうか(従事内容からは可能性は高い)は関与しない個人として、命令に従っただけだなる弁明表現は可能と想定できる.擬えが問題に

   
           
 

 しかも現実実際に厄介なxxが複数単体出現してしつこく記憶を悩ます羽目になって無駄をする事に-翻って考えればそれら存在は個人的位相からは、全くの役立たずで荷物でしかないxx達となるが.まあxyの場合は単細胞的と判断できるので、しかし公務員の場合は厄介なケースを想定できる.

   
           
 

 凡庸な小役人とアーレント以外にも衆目は一致していたんだ.権威への依存者は実際は違うのに自らをその権威になぞらえてしまうから、権威と依存者では無く、権威と準権威のようなものに対処せねばならなくなり厄介だと若き日に考えた事がありそのまま時は数十年過ぎ、いつ知ったかミルグラムと同様だと

   
           
 

 思えばあの豆腐屋の横の坂道で後にあてはめる定理的思考を基本的にしている.この付近では夏目漱石の心を避けたことやブラウン運動-顕微鏡の花粉の動きを浮かべたところである.(まとめ中に必ず登場予定のY転校後の歳が進んでいない.空白にしておいて後に埋める手段を思いついている崖記号)

   
           
 

 ミンコフスキーの定理、ネーター、タンジェント曲線、双極&などある事に気がつく.頭が固すぎるのは殉教性あるいわゆるぶれない石頭一方xxがここにきてやはり思った通りに障害物の形によりなって麻痺を生じている形かな.とにかく幾らか進展-結合要素が浮かんで来た.

   
           
 

 K市の無意味予想はそうでは無く当然の権利保有者なんだが、総じて他者たちはなぜか当然の権利をないがしろにしてくること無数なほどに、まあそんな現象に関しては一切責任をもたないからいいのだが、つまり歪めてくる他者達に責任があるということで.

   
           
 

 春の日の花と輝くはトマス・ムアのビリーブ・ミーでFairarvarであり、賛美歌番である.堀内敬三訳の詩文ではない記憶があり、影も見えないひばりを自然に思い出したあるxxと人乗りをしたカブの高原時を今思い出し重ね重ねなぜ気がつかなかったのだろうと.

   
           
 

 史記は実際には見た事ない、紀伝体とかの表現を見るが史実ものは叙事的なものとしか考えられない.史記に取り憑かれて一生ものの研究対象とした存在もいるようだが--ふと気がついて事実で記述される未来の歴史も叙事的な言語紡ぎではないか、全く発想視点のこの固着具合はなんなのだろう.

   
           
 

 個人的にツイートは公開日記のような思いが浮かぶ、最近は確かにそんな感じだな、ねじを回転させているつもりもなにやら変化しているようで.まあ日記ならいつかの日に読み返す楽しみはあるが、還元化への過程と還元への過程はまた電圧の上昇下降にも似て、逆か同等並行距離位相か

   
           
 

 ケーリー・ハミルトンやNの補題はあの個性者ではなく、不都合な過去的なxx存在側だった.ちなみにこの不都合なxxにはその子供・孫は意味がないと直感していてそんな存在がいるために、プラスマイナス双方に不都合が生じている面がある.

   
           
 

 歴史に残るのは事実としての記録のみで、感情は残らないが、音楽はやや情感を残せるジャンルかな、ここもあまりにも当たり前過ぎてしらけてもいかんともしがたい行き詰まりである.

   
           
 

 なぜか先程からある個性的な女性を思い出している.遭遇している頃はレゾルベントなる言葉が浮かんでいたが、ケイリー・ハミルトンの女と表現では足りないか?の今までに遭遇した個性No.の女性を.

   
           
 

 そういえばやや遅き境界時間時にそこにその辺にある対象から物語を紡ぐ事が出来ると感じたことがある.多すぎてどうにもならないが.今ではそんな気分にはならないが痕跡は持っていると思う.

   
           
 

 高木関数はフラクタルと最近見たがまずは概観のみ.昔、風の便りに何処からか漂って来た高木貞治の解析概論・めくってみたが後半読み通す素養がないのと、忙しすぎて集中している暇がないと設定したが、今頃になりまたは漸くか、結局対処せねばになる.その頃確か時間があればやって見るとした筈のもの

   
           
 

 エントロピーにもサスペンスをまた通時態にもサスペンスを想定できると浮かべた.サスペンスは中間存在の専売特許であることは間違いないが、時間的に未定の将来発生事案は決定ではない事は明白だった.帰納との関係は?単に帰納は未然な内的時間に位置していることになる.

   
           
 

 かつて他者に述べようとした発言内容をそれは非道徳的非常識的と判断して発語は詮無いものとして控えて忘れてしまっていたことを、のちに別の他者から受けその時にはかっての思考内容とは気がつかなかった事態.それで別の他者が自己主体的となり、自己主体がかっての他者的になってしまう事の修復要と

   
             
         
 

 領域内部定数をニュートン的と解釈していて中間存在はその対象としている.中間存在にしてみれば他の生き方は不可能であると(自覚していない可能性があるか?-親鸞的悪人かな)するのはわかり、一方的な遠さ一般に依存するのは自覚の要素になっているとしてよいかな(これを親鸞的善人と見れるとは)

   
           
 

 絶対零度でも止まっていず揺らいでいるので固定は無く、静止・固定していると光速度で動いているという連係関係がまだ(?一様が).北極星は太陽や地球より速い速度で移動している理屈になる考えが浮かび、ニュートン的図式で北極星不動動かずだろうが、反面はかなり必要と思った事あり相対的要素かな

   
           
 

 とにかく短絡結論の為に他者は常識思考なし合理性なし条理なしの非常識不条理発言をしてきてその記憶処理に抵抗を齎す.さすがに不条理は処理困難である.どうやらそんな記憶のある発言他者達はそれが不条理と思わず、常識・条理と思っているようで、不条理を自覚させればよかったのかと思いついた.

   
           
 

 そんな事から小学生の時に接してその物語のわけのわからない展開について行けなかった不思議の国のアリスは夢の話ではなく、複雑系物語なら理解出来そうと思いついた.その頃に複雑系物語はあったのであり、そのうちにアリスはなんでもなく特筆な対象ではなくなるのでは?.ボルヘスにも言えそうだ…

   
           
 

 とにかく専門に思考しないと間に合わないと思っているのにそれが出来ない・至っていない人間としては忸怩たる思いがある.最も基礎地平はできているのであとは肉付けなんだが、この肉付けが難物ときている.

   
           
 

 自立は昔考えて何か曖昧な結果に終わった記憶がある.自律・自律神経とか副交感神経とか明瞭にならずの杉木立ちの所の小道の中学生

   
           
 

 ボットから田辺元の種を媒介するの種とはなんだろうと、分有や分立が出てくるが、パブロで良さそうな、そうするとユングの元型を日本にあてはめるとやはりパブロを設定できる事に気がつく.中学生の時には考えても思い至らず、遺伝子の特異性?は知りえずだった.

   
           
 

 根拠はあるが、何も気にしないで定理を採用していた.普通の発展・発達の現実にコホモロジー的なものを援用して解釈応用が出来たような、原理的とも思えるそのそれ.

   
           
 

 あの時出発点を過渡期といい直した心理は問題だが、既に時は過ぎ今過渡期・境界時間現象が世界で発生している.

   
           
 

 数学が得意は性的人間の短絡な筈で、アドレッセンスの単細胞無知であることは明らかな、非線形意識の無視と言う明晰かぶれ人間の傲慢な暴力性というやつなんだが、非線形無視の無理解が不快で、他の愚かな存在にその時に非線形を意識していなかったと思われてしまう懸念があるので不快であるのだった.

   
           
 

 ガロアの五次があり四次元の特性から、種の既約解方程式はそれらを持っている混合方程式があり、それは混合モチーフに繋がる何らかの要素を持っていないかと考えた.具体的な方程式は覚えて・連想していないが、青春のおもむろな夢想を忘れず.

   
           
 

 真夏の夜の夢がまさに夏のある日に浮かんだ中学生.蒸し暑くうんざりする気温のなかで、長い物語と思いまたうんざり以上に何か不気味な印象を持った.長じて知ったメンデルスゾーンに有名な曲があるとも知らず、マクベス的なイメージはそれ以前に持っていたので多分にシェイクスピアの方からだったろう

   
           
 

 叙事的存在はビクトリーにたいして有能な面がある反面EQ能力は低い.逆に抒情的存在はEQ能力は高いがビクトリー能力関心度は低い.このことは定理以上かも.よくある映画のセリフ、その情け力が弱点は叙事的状況意図の発言またはそのような存在であることの証左である.共和国は普通叙事的である.

   
           
 

 抽象画の四角の描像は固すぎるが、カンディンスキーやミロなら我慢できる.具象もややわからんが、カンディンスキーやミロには楽しい形而上的な作風を見る.

   
           
 

 驟雨といえば隣家の柚子の木の前の雨に濡れる季節を思い出す.この作家を知った時には優雅が特徴的で別に読む気はしないだったが、タイトルは気に入りの記憶を連想させる.ちなみにあらすじをみれば驟雨はプラトニック・ラブ的である.原色の街は小雨に煙る燻った工場のある地帯を連想する.

   
           
 

 砂の上の植物群はクレーの作品からだそうだが、そのクレーの作品がさっぱりわからず、個人的にその情景が設定できず、砂漠に咲いている花達なのか、砂漠心理の反映ではないな.夏の川原の端に小さな乾いた砂地がありそこに一輪の植物がcmくらいに伸びていた昔の記憶風景を思い出す.

   
           
 

 自律的でも他者存在介在の他者の固有度によっては道化的になってしまう・なんだかそれが多すぎる・強すぎる記憶ありで、その処理が大変・中でもまず一人を対処できた形で波及した存在たちは当然その波及元にならうことになると-気分の良さ・快感が未来へ向かわせているのでそれを戻すということだが.

   
           
 

 そうかカントの道徳哲学によればXXから受けるXYもまあそうだが、動物的反応的な反発心は他律的様を感じるので、自律が麻痺を設けるという事になるかな.自由を意図するときに他律などは当然障害となる-その時に身体・生理条件に満たされてるこの身体構造も当然障害・束縛要件になる.


 女性の多くの反発言明は脊髄反射なのか動物的本能なのか身体的反動なのかともかく頭脳を麻痺させて思考が出来なくなる.思考できないという事は判断できないという事で存在認識できなくなる、動物的・原始的・自律神経的を要請されても困るというものである.自然的存在より人間的自然存在というものが

 上下非対称なら電圧高低も&として中央線を設けて設定できる.

   
           
 

 なお直立ゼロと中央直線において上下点を+-無限遠点にすることもできる.無限遠点に+-を考えない主義もあるが、膨らませるとリーマン・変形でタイヒミュラーとかも可能かな.そんなわけでギリシャ文字番目である.

   
           
 

 ゼロを中点から度傾け上下差を持つとするとプロスペクト曲線になり、上下対象とするとクロソイド螺旋を設定できる.度回転させると人の脳の上からの射影的模式図にもなる.

   
           
 

 寝ようとして考えた.数字のゼロ中央に直線を引いてその中点をとする原点の場合を設定する.上部と下部が出来的に中央直線を実軸として上下を虚部としてもよいし、対称ではなく上下に差を設ける(システム構想時にはそう考えた)と弁証法のある主義の上部構造&下部構造と設定できる.

   
           
 

 精神分析位相からは、昔によく聞いた形のXX側からの”男はいつまでたっても子供なのよ”というセリフは叙事的XYにこそ当てはまる言葉だろう、ところがXXにも叙事的存在でしかないのもいて、どうにもならない甘えと傲慢・残酷を行うことに無知であるという存在を考慮せざるを得ない.