2016-12-14

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αは現実と通時的に傾向があり、θは現在現実と共時的に重きを置いておいた設定でかなりの長い時間αに関してpaしていた.いざ今α傾向を始める余儀が生じてやや脳内構成混乱中
   
       
 


超対称がそうさせるとも言えるが、疲れるフェルミ人間.しかし考えを内部保管しているとそれを伝心的に暴露してしまう人間が負いな、あたかもそれが自分であるかのように、しかしそれが事実のようであるが既に既視思考をしたもので、その点を人々は理解しない.逆になったような即物短絡単純者たち
   
       
 


崖にぶつかる荒波の群青色の海面はフェルミ的、単体孤独だから非可換性もあるのかな、積分はフェルミ的イメージがある.ただ叙事的にも見え権力意識が強い自然を持っているかな.愛情の潤いがあまりない点が特に面白くない.仮面カップルにはこのフェルミ的人間はなりやすいともいえそうだ.
   
       
 


ある明かにフェルミ型XYがいて、嫌いなタイプなんだがそのXYが意図の全く正反対を見事に表現するのには閉口であった.そのXYがそんな意図は全く持っていないのに内部に侵入した蚊たちで、そいつの言明が内部からいまだに湧き上がるという邪魔すぎる不快な事態が成立している.なんなんだ!
   
       
 


図書館に行ってニュートン雑誌をみた.あの頃は素粒子がいくつ発見されるんだ、ちょっとうんざりでもう様子見とした.もちろん弦理論は当然推移を見守ることにしてあるが.太さのないストリングが震動すれば確かに無数の素粒子が想定できるが、素粒子のニュアンスからは無限にある?とは
   
       
 


こんな恰もBC理論に類比できるような現象は昔からいくらでもあったはずである.実験データの結果に理論が追い付かないということは多いにありうることであって、昔の人が交換と反交換やBC理論などを知っていたはずがないにもかかわらず、現実はそれらに類する現象はいくらでもあったといえる.
   
       
 


崩れた斜面から除く地層の差異から層状組織を後年設定したあの大きな桜の木の手前の道の前に沢があって、その沢の地形がそのころには想定しなかったが、今多少想定してみるがやはりうまく想像できない.現場まで行くか行ってもそう簡易に理解できる沢の形態とは思えずゆえに躊躇う処で文が停止中
   
       
 

 
小学校年生、通学路の帰り道大きな桜の木の下で、数直線をうかべた.最近数直線は役に立つと気が付く.片側数直線は埋没費用・減衰変化を転化を考慮しなければで、普通に人はそのようにしているが.
   
       
 

 
そういえば思い出した、小学生の時に近くの家の庭先で浮かべた不思議の国のアリス・こんなでたらめについていけないと.その家への道の途中に鶏の小屋があって、鶏の赤の色といろんな赤の色の赤をどうするかと考えたことがある.どうにもならなかった、長じて分析哲学の対象にある考え方と.
   
       
 

 
冗談は単なるその場限りの遊戯で意味をそう持たないものと思っているものが現実有効になってしまう不本意な経験が多い.偽善社会においての心にもない言明は虚偽であってそれが現実という社会であると、冗談=遊戯=偽善というつながりがあるようだ.
   
       
 

 
量子脳理論-ペンローズは当然そう考えるだろうな.まさかのあの頃は無機的要素人体を考えていなかったのでペンローズはパスしていた.実体二元論において心身設定の場合、脊髄反射は明瞭に身体的であることは了解である.量子脳からは無機的歴史をどこかに持っているという考えも正当性を持つ事に?
   
       
 

 
どうも脊髄反射的想像力がある
   
       
 

 
ある女子学生が不意にモーツアルトのレクイエムといった.レクイエムとは嫌な言葉だまだ若くこれから何事かをなそうとしているのに、タナトスイメージの言葉など冗談じゃないと思ったものだ.その後モーツァルトのレクイエムは黙示録であると知った.となるといやそのあの・・と、しかし存在理由が..
   
       
 

 
どうも挫折ではなく完成が困難であると思うようになった.休止しただけで挫折ではなく再開予定だから『余裕の挫折』と表現しただけであったのだが、当然『終止符を打った』のもそう表現しただけで終止であるわけはない.
   
       
 

 
漸近的自由性(Aymptotic freedom)が出てきて、これを設定するとママ都合がいいと.対称性の破れは偏りとみるとフェルミ的現象に直感できる.果たしてこのある現実世界は偏っているといえるか.そんな人間は多数存在しているが.
   
       
 

 
色々思い浮かべてどうにも市場経済を考える時に(そうでない時もでてくるが)深淵を脊髄反射経済的と考えるとあるのかも知れないと.パーコレーションのブームやパニック現象や集団多数現象などは反射域にならないか?.まさかのパブロフの条件反射を何十年後に考慮するとは、オパーリン思案のあの頃
   
       
 


人体は素粒子まで分解できると思うが、その素粒子は燃えてしまうようなものである.放射性粒子のように長時間半減性粒子でできているとは思えない.そんなことを考えていると、無機的歴史を人はどこかに持っているのではないかとも思う.叙事的存在体のみも相変わらず発生している・・
   
       
 


生まれたての赤子は自力で生きていけないように思える.すでにいた動物の変化によって類人猿は発生したといえるのか、それならば赤子の成長も了解できる.自力で生きていけた生命力の強い赤子の子孫が現生人類というわけではなさそうだが.そうであるとしてもその赤子の発生は?となる
   
       
 


限界に達して境界状況を認知していない存在は、理不尽・不自然・非常識・狂気的な言明を発する.そんな人は当然余裕・逃げ道を残した対処などできるはずがない、何しろ当人が限界で余裕がないからである.かくしてそのような余裕のない人に余裕を残すように対処すると愚昧な不快感を味わうのだが・・
   
       
 


ふと魚偏の文字を眺めて、覚えるのには止揚状態であると思った.左右の文字が分離しているままの印象なのは止揚の分解・分離ではなくて、否定弁証法そのままであると.こんなところに無意識・自然に弁証法を用いているとの発見とは.覚える・マスターするには止揚が必要であるという帰結・・・
   
       
 


実存といえば普通にブラック域であるはずだが(実存分析は明らかにこの域)、サルトルの世界に責任を持っているというホワイト実存に直面しているときで、やや諦念・絶望の香りを携えたときに、人は風に吹かれているという感慨を持つだろうな.
   
       
 


野に咲く花を愛でる、一輪の花に永遠を見る、ジェラールのバタフライから蝶は何を求めて彷徨うように飛んでいるのかとかから、風に吹かれているがどうしたといわねば偽善になってしまう.親鸞の自覚した善人やマズローの自己実現中の存在ともみえるが、ただしそのような奮闘中の人材には好感を持つ
   
       
 


他人に要求しているつもりのことを、自分が要求していると思われるケースが多く、大体他人が不愉快で内的に要求することはその他人にとっては自己の在り方の変更ケースが多いので、個人的に不快である事象を自らが要求するわけはないのに、思考力・判断力のない他人はそれがわからないケースが多すぎ
   
       
 


”さしあたって資本主義社会は、野生と野蛮の交替にすぎず”-野生と野蛮とは妙味ある視点である.野生を野蛮人とみるその当人がその見方が野蛮なのであるが、またそのようにしか見えない野生に決めつける見方しかできない存在はまた陋劣なのだが、野蛮なだけに体力のしつこさがあるというものである.
   
       
 


小学生の時の帰り道、杉林の中の笹の根は地下に広がっていると・竹もそうらしいが、根茎とはまさにそれでスキゾの逃走線は逃走ではなく複雑系にとっては現実・カオスにとってもである.
   
       
 


中間存在はイデアルになっている
   
       
 


理論的(論理的?)には片づけてあるはずの公共性、ただそれを人々が実践できるか・するかは片づけていない.まあほとんどの社会生活者は公共理性に従って・たとえば法律など生きてはいる.公共哲学は判例暗記のようなもので片付かない、法案提出立法領域を対象としていると思うが.
   
       
 


好みの場合は飽和というファンデルワールス力が作用してしまっているか、嫌な侵入はロルーズ的なサンデル的な正が善に弱められている場合かなと.共同体思考者は不快などうにもシステム的にそこにあり無私的に消えないケースを公共理性と申すとすると、公共理性はそれほど抵抗はないのだが.
   
       
 


英単語チェック難しく、確かに漠然とした記憶しかなく、暗記は一切やめよう・暗記しないで考えるとした想いの時間が長く、記憶力はほとんど自己好みのものしか記憶しないようになっている.記憶力もどうも現実に必要であるとは認識しつつある.中学生の頃が最高に記憶力あったのが今は信じがたくある.
   
       
 

 
しらけにしらけて、あまりにもしらけるとかなりの拘束束縛与件になってしまう不自由さしか残らない.ここは全くそんな連中は無自覚ですでに分析個人は把握していることにずっと気が付かない存在と見て操りをしているとしてしまうか、個人的に意図しない操り・洗脳事象なんだが.
   
       
 

 
考察位相は大したものと先ほどは直感したが、どうも多数いるはずだなと思うとそうでもないのかも.かってに宿命的と思い込んで他人取ってはナンセンスな言明を情熱をもって発声した人物達の記憶がしつこく不快に悩ますのは、すでに自己分析した内部記憶を他人が剽窃してその当人述べるというトートロで
   
       
 

 
関係とは不可避に近いものか、不可避になってしまうのはなぜかとかあるが、宿命という言葉にはこの不可避性を感じて嫌いである.不可避の局面は総体的には人の有限性それも身体の有限性が特に作用しているものである.それで生きてもいいがそれでしか生きていないという存在も多い.
   
       
 

 
一応お気に入りで設定した曲3以上を繰り返し繰り返し聞いているとさすがに惰性感・飽和意識が忍び寄ってきたような飽きに思いがしないでもない.少し映画を本ばかり見てみると引き寄せ感が発生していた.この『飽和』は取り入れている・ただし不飽和は考慮には入れた記憶はない.暗示にはあるかな
   
       
 

 
エートスは人生を決めてしまうと思いエートスの閉鎖を考えるのはやめた神社への山道の途中で、雨は降っているが透過してみているという構造を見ていた場所の先、エートスで人生を決めてもまあ差し支えないのだが、重い女はエートス的要するに渋みを出さねば立つ瀬がないという存在.
   
       
 


       



仏教に対しての浅い知見では無限という言葉を見たことはなく、仏教の細かいこれでもかこれでもかと述べてくる記述はがんじがらめの束縛力でもあるのではとふと考えた.それともどこかで無限の言葉を用いているか?
   
       
 


しかしすでに意図している領域ではその対象は対象にならないということは意図通りであることになるが、現実との意図はそうはなっていないな・・.ちょっとよく考えずに無謀な処理・処置をしてしまったか、秘匿感もあったので、自分でも覚えていないが他人にはなおさらわからないとしてある作品.
   
       
 


なぜかダメとしたまだ合わない対象設定ゆえの話だが、時間をおいて度目にあった時には価値を見出したが、その反面にも気が付き、今では明らかにそうではないことが分かっているが、見出した価値は有効であるのでそのままの関係を持続させたらと今でも後悔?的に考えてしまう.
   
       
 


語りえぬものに沈黙しなければならないのなら理性は結構行く、徐に描いた詩に対して悩んで考えていることに哲学が成立するではないか・・、あの時の想定対象モデルで一段も二段(?)もレベルが未熟域になってしまった結果を進めようとして動かずの時間が多大に過ぎ去った.
   
       
 


曲率が周辺で大きくなる球体とすると、理解しがたき狂気的言明を球体は発する.無駄を強要・強制する形で、他人に犠牲を強いる、本来球体の才能のなさを嘆くか、才能アップのために努力しなければならないのに、短絡を行使してしまうというのもまた能力のなさの所為である.
   
       
 


宇宙が無限的に膨張するとそれは希薄になりどうも太虚的なものを想像したくなる.太虚から始まるは終わりが太虚に終わるで、むしろ逆から考えたことのようであもある.
   
       
 


プランク定数サイズのブラックホールの所作がわからない?、別に物質でもわからないのでそれは当たり前だろうに.ここでは無限沈降が有限になっていることを意味しているが、これ基準にすると無限大一般は仮想になる現状である.
   
       
 


もし昔に見た夢が正解ならば現宇宙は停留すると思われる.ただし熱的死ではない、熱を持ったままである-あれ中間存在的宇宙になってしまうなと思ったところ
   
       
 


太陽程度のBHの蒸発は宇宙年齢*^となまあそう想定できそうな値である.ただし量子サイズのBHは今まさに蒸発してその温度は兆度になるとか.あの頃考えた大きさは少なくとも人体サイズの何十倍もあった.ひょっとして宇宙空間を想定したのかもと今過った.どうも思考がポツンと変化する
   
       
 


その時に時間を想定して(時間があれば・あるだろうとして)、ブラックホールは変化するとした.ブラックホールが蒸発する時間はどのくらいか、それぞれのブラック量によって異なるか、情報は失われないとかを方程式化したものは想像もつかず・まだ見たこともないが、世界には考える人材がいるものだと
   
       
 


小学生の時に考えた老子の道はブラックホールの位相に相似している.
   
       
 


あの時きつかった民主主義ではうまく説明できないが、かといってそれに対するアイデアも全く浮かばない厳しさを味わった年ころの話、先ほどモスカの後にミルヘスを知って何のことはない理で容易な説明を見てしまった.なんというか他人はそのほか多くの事でもやはりすでに考えているなと思う今
   
       
 


必然的自由-人々がこれこれを行うのは義務またはしごく当然なことと思いつつ行うことあるいは無意識にそう思いながら行う事柄.自然にそれができる存在も部分としてはいそうであるが部分という点が難点かな.
   
       
 


何かと何かが結びつくのは奇蹟とか、ケストラーの創造論をよみがえらせるが、ホワイトではなくブラックホール側の深淵・すなわち黒き暗き方での対(昨日までは考えいた何かを忘れてしまっている・科学の結びつき思考に関連したことかな?).要するに語りえぬものは人間的視点から無意味と表現だな.
   
       
 


心の哲学も滅茶苦茶にに多様な考え方をしている人物が多いな、それが教条的なものだと思っているとは.認識論だよ明らかすぎではないか.存在論からテイラーなる人物がハイデッガーを考慮しつつ登場で、サンデルにも影響をとか出てきた.知らなかったな-追いついていないラプスの時間といえてしまう
   
       
 


どうやらあの歳の時に倫理は科学ではないからとも思ったようでもある.まろやかな人文感覚もあったが、ヴィトゲンシュタインはチャーマーズの擁護・源泉的な面もあるように思えるが.必然的自由がごく常識な倫理作用であり、中学生の時のヒューマニズムの現代的な揶揄を感じたがそれはと思った事
   
       
 


自伝・その存在足跡のために--承認の要求もあるが自己実現の要求のほうが明らかに強い.つまり子育ては自己実現力といえる.
   
       
 


”「幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自から正当化する。」(『草稿』)”-アドラーの自己満足もまあ似ている.それに老齢的超越はまさにこれだろう.
   
       
 


校長も立場上言わざるを得ないわけだが、その前提に授業押しつけ優位感があり、自由な発想の邪魔というステレオ陳腐な秩序意識を発揮して.そんな常識はわかっているのにわかっていない・実践していないという視点の不愉快さを全く忘れない.抑圧でしかない、その校長の訓読みを音読みして揶揄した日
   
       
 


小学生の・年生の時に授業中にノートにジェット機の絵を描いていたら、なぜか校長が見回りの時であって、授業中にそんなことをしてはいけないと注意されたことを思い出す.不快極まりない、そんなことをいうことは当然理解・了解している、書きたくなったのでそうしているのにと沈黙思考したものだ
   
       
 

 
また自己記憶内部のXX達と同一視してくる人々が一杯いたのだが、これらもなんだかわからない.いったいなぜそんな非自然を不自然を強要・要請するのかさっぱりででたらめであるのに.自分を気にできない?、そんなことはないだろうトイレには自分一人で行くだろうしその時には自分を気にしている
   
       
 

 
個人は独りである.ゆえに内部の記憶や目的などを他者が用いても不快になる.他人の所為であるといえて、私ではない.そのように内部意識を他人が使うことには非常に不愉快な気分になる.しかもそうしていることに気が付かない存在はなおさら不快である、そのような存在は自己の無知を押し付ける
   
       
 

 
中間存在に対して切羽詰まる・要するに反対になった倫理禁止を破ってくる道徳力のなさに完璧に遭遇して、無知ハラスメントのような不快な迷惑を被った記憶が不快でしょうがない.そのような存在は退行者になるわけだが、そうではなく現在時間に対してまさに退行しているという存在が不快である.
   
       
 

 
過ぎたるは及ばざるがごとし-ひょっとして中間存在や親鸞の悪人はその量の多さで、有限外や自覚者・善人を過ぎたるものと思っていないか.これも一つのパワハラ・量ハラスメントとも.そうなると金持ちも金ハラになってしまうか.共同体の集団パワーは明らかに個人体力を凌駕するのだから・・・
   
       
 

 
他人を避けるは嫌いもあるが、一応敬遠する、している形としているが、この言葉は野球からは明らか。敬遠は実力面では無く、不快な面からで多少皮肉も含んでいるつもりなのに、対象は単純普通に実力的解釈をしているようで、それがまた更に不快感を加えてよりしつこい対象となる、
   
       
 


平板人間が平板を気にするとどうも策謀とか虚偽を無責任に行使するようになるかも、詭弁も用いるようになるとか.詭弁にはある人物から詭弁の言葉を投げ変えられたツイート、別にリアリストではなくエレガンス地平を用いることも、形而上的な位相もなんでもありだが、空想はまあ避ける傾向にはある
   
       
 


立場的には交代でその交代に対して確かに革命的な状況は発生する可能性は想定できるが、それは立場逆転とかに見えてきた.そうして経済なく国家なき社会は人間心理が善人的存在しかいない場合のみを想定できる.現状ではアヘンである宗教がそのように考えているのでは、仏教は特にそのような傾向では?
   
       
 


関係は建設的ではと思えば、さっぱりわからないがすでにわかりきっていることと同じなり、わかっているものはさっぱりわからないという多すぎる現象となりて.ともかく人類が存続する場合という条件を付けて、だがこの関係で勢い込んだ人物は類続は当然のものという立場からのようである.
   
       
 


形而上的には自己が意識を注いだ強度により比例してその対象意識は強くなる-現象学的かな?.心理学的は当然すぎるか.”特別な時間が運命にしていく”なるほど後天的所為とな.先天的もあるのだが・・.とにかく昔ある女子大生が不意に星の王子さまを言い出して、いやな思いをしたことがある.
   
       
 


インペリアル面の考慮を避けていたのは失敗だった感が生まれている.それでも叙事的人間・叙事体は底が浅すぎてどうにもならない単純思考をするとしか.曲線的膨らみを叙事体といえど持っているのに、そこにある程度の厚さの板が立っているだけのような反射感覚を覚える.厚さ3㎝?もあるかどうかの
   
       
 


反交換者は交換を認めがたい?、交換的には反交換を認めがたいが、交換者に反交換を強要する反交換者も残酷である.まず今のところどちらも認定無理で、反交換者はその孤独性から愛情が苦手である筈で、交換者の愛情をまず邪魔することは明らか.交換者といえど孤独を持たないわけではない点が狙いか
   
       
 


不自由な女・男の自由意識と逆になり男に自らの不自由を投射して、自らは男の自由を持っているものとするケースに遭遇すること多数回.これが全く不快でこんなXXは排除しようとするが、自己自身を対象とするようなもので厄介である.なんというか当然の権利であるかの如く女はこの形態を自覚している
   
       
 


過ぎたるは猶及ばざるが如し・明晰を明晰と見ないのはわからないのと同じ、つまり及んでいないことになる・のは明晰以上のアイデアがないときは特にそうである.実際にわからないものもはわからないが、
   
       
 


ホワイトホールにもブラックホールにも時間的作用がある!.ブラックホール的なものは小学生の時から考えてあったが、ホワイトホールは盲点だった.ならばtwenty-ixにこれを導入すれば差し支えないことになる.evenにも用いることにはなるだろう.
   
       
 


ヴィトゲンシュタインは或る街の小さな書店をおもむろ散策中に、回想のヴィトゲンシュタインという書物をが目に入り、何となく手にしてみたのが始まりで、分析哲学なる物との出会いシーンである.その書物の写真を見たときこの人物は本物だと思った.エリートとはこのような人物なら相応しいと
   
       
 


唯物論は無機的合理論か、科学も無神論的合理的だが.まあ人間の実体も身体は素粒子でできているがだ、その所に感情・心があるという無機的叙事的存在ばかりではなく有機的抒情的存在でもあるのだ.
   
       
 


いとこと議論ができなくなった若き昔の日に、渋谷の長閑な駅近くで、マルクスの書物は論理的に整合性を持っているように見えるが、感情がなくあたかも自動制御のバックにせよフォワードにせよ論理様況に見えた.今でもそれは確かだと思っているが、感情がないと罪の意識も持つ必要がないかなと
   
       
 


太虚だけれど陰陽が根拠とする太虚の証明は誰もしていないので、非科学的は成立する、ただし人にとって論理的には想定できる太虚でもある.太虚からなぜ今日の有があるか、太虚に密度の差が生じたからか、それは時間的な物の作用によるものと考えられる.ブラックの反対のホワイトにも時間が作用すると
   
       
 


ハエ取りの自尊心は想定出来かねる・判断がつきかねる、ウィーン学団とイギリス経験主義であらましは表現できる分析哲学だが、そのころのEU哲学思想雰囲気が加担させた面も考える.プラトンの焼き直しに楔を入れる情況だったのかな.
   
       
 


そういえばちらちらしたヴィトゲンシュタインの哲学探究もフラクタル的、ヴィトゲンシュタインは「世界があることが神秘である」-この一言に尽きる.だがポパーに対してあくまでも蠅取りを主張した火掻き棒は明らかに脅迫的な心理ものだ.
   
       
 


『これらはなぜか?』-マイ論理よりこれで帰結であると設定、ハウスドルフ次元的にフラクタル的にカオス的にかな、サンデルの公共哲学は哲学の名に騙されたような気がしてきた、政治論ではないか我慢して政治哲学であるとか.いずれにしても提起のみで結論があやふやなのは、考えに即しているかな
   
       
 


相対的平等・機会的にも老齢的超越者はもう苦悩をしなくてよいが、そうでない以前者は悩む権利を持っている.だが現在的に以前者はそのような人を見るとイライラして不快を覚える屈辱感を感じることだろう.だが老齢的超越者からは以前者など煩わしい面倒な存在でしかないのは端的表現で言える.
   
       
 


「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」この有名な言葉だけれど、正解として往生に善人と悪人の度合い・質の差異はないのか、この辺はどうなのか、親鸞は適当に阿弥陀の布教のために曖昧・いい加減にしている?
   
       
 


ヴィトゲンシュタインもヴィトゲンシュタインだ、原子命題なる要素主義的で哲学がハエ取り壺の道の示唆などは成立しない、それならば何も要素主義で悩みはしない.そもそも無限沈降を知っていたはずなのに原子命題はおかしい.哲学探究も徒労かもだ.”ヴィト系はカルト的になる”に刺激を受けて
   
       
 


松原湖?、昔、麦草峠でtwentyを味わって、白駒池へに行き違いの大阪のある街の女子大生が松原湖に行くと、どうも一緒に行く雰囲気だったのだが行かず八千穂駅で反対に.松原湖の印象はないな.、白駒池のほうがムード自体はあるだろう.今日このごろ時間的にちょうどだったと思い出している.
   
       
 


人間そうそううまくはいかないようにできていると言ってしまうのは単純すぎて、老齢的超越者はうまくいっているタイプである.
   
       
 


一生反省する必要のない生理体を見る・思考上で実際には反省していると思われるが、普通に考えてポテンシャル的で前に進むだけという存在がいる、しかし年老いて身体の動きが鈍くなってもなお前に進まねばならないという桎梏がある.そんな存在を見て無反省を想定するのも辛くまた疲れてうんざりする
   
       
 


まず自己所有権だから他者の逆作用など不快でしょうがないとも言えそうで、ましてや他の場所に実在している女性と同一視されることなど、わけのわからんでたらめで直接その女性にいうべきなのだが、その男たちの認識能力は風車に突進しているか、頭狂っているか、直接述べる勇気がないか、何だろう.
   
       
 


ある女性に対して言わんとして倫理的姿勢から忍耐した思考内容を、その後に遭遇する男たちから、それぞれの女性に忍耐した言明を、その男たちがそれら女性として忍耐した当人に述べてくるという、全くわけのわからない出鱈目不快な事態を受けるのは?、いずれににしてそれらは自己記憶のみの事柄だが?
   
       
 

 
哲学とアポロンなら成立・実存とディオニソスは相対的カルマとしておくか
   
       
 

 
成長期・小学生や中学生の時の視点と身長の伸びの止まった時点以降に、成長期の風景を再度見ると、樹木の伸びとかの変化ややや地形の変容もあるが、距離感が異なりいささか記憶との差異があって奇妙に感じるものである.
   
       
 


見た通りとはいっても見た事柄に脈絡を見ることができず、常識基準で明らかに意味のないことや意味のありそうなことが出現したことである.そもそもなぜこの通りの時間を過ごすことになったその理由がさっぱりわからない、フラクタルかカオス的離散だが連続している時間範囲という..
   
       
 


しかし滅茶苦茶なとはいえ見たとおりに推移したという時間変遷を等質空間云々より、現実の経過事象が等質推移的ではないかとも思ったり.この女性も不愉快な不都合を述べて不快になりの記憶があるが、持って行き方が悪かったかな.前提条件が成立しなかった・つまり気が付かなかったからだが、なぜが?
   
       
 


それから8年後ある女性と川上村の道路を駅まで二人して歩くとは、全く想像できずにしかしそれは当然で、この女性で終わりだったはずなのに気が付かず(その理由が全くわからん)、今にいたる羽目に、そういえばまだ無意味な事柄を例の喫茶店で見ていたことを思いだした.全く不都合なことになるものだ
   
       
 


しかし最近では世紀年代からやや兆候が過去側になってきて、世紀後半部からその傾向はましては前世紀からもあったのだが、現実的ではない傾向になっているのに今になって現実的というのは逆の立場であることに、どうも無駄な方に向かう.しかしまだまだ現実的なレガシー力は強いと.
   
       
 


現実的にも過去側にもダメな滅茶苦茶な過程記憶がトリエンナーレに行った時には、そんな人がうってつけと言われ唖然の幸福感を味わったが、常識現実に傾いている今は何とも、そこでの躊躇判断情態となっている.まあさすがに普通に現実に巻き込まれて生きている人々の世界の力は強いと最近は感じている
   
       
 


その門は校門で現在は津田塾やお茶大は沈下しているとか読んでいた.昔はどうだったかよくわからないが、津田塾は俊英が揃っている、お茶大は--まさかの一様関数だったとは夢にも思わず、ただし直前の眼前に出現していたが.まったくシステム的に関係なくただし個人的は関係ありで混迷の記憶である.
   
       
 


その結果直ちにハイデッガーの根源とは異なる意味合いの(個人的ニュアンスは同じかも?)実存点という実存分析の原点的(は等質空間推移に似ている)かデリダの差異の原点的なものを想像してしまいそこで止まったまま何年もそのままである.楕円曲線が絡んでくるような面もある直感判断もあるのだが
   
       
 


自由=必然はレーニンだけれどこれはキャズムのイノベーター的とほぼ同じ意味合いを日常において持っている.ある時フッサールの超越論的現象学の評論説明を読んでいて、自由=必然論説明を展開したものを感じ、面食らってしまったのは以前に不必要なエポケーを冗談的に試みたからなのだろう
   
       
 


ワーズワースから必然的自由を考えたことがある、それ以前に無数の可能から一つを選択した場合にはそれが必然になるという坂道での思索を思いだす.複数人間の中でシステムタッチの行為・行動は必然になる.また自体が必然的自由である存在もいるが、いかんせん教条的な束縛体にそれはなる.
   
       
 


人が限界や極限状況・土壇場において生きている限り選択するものは決定的であるはずである.情況がそのようなケースではそれが決定することになる、その状態は必然的になるはずである.結果情況を決定するのは必然になる.人は普通に必然を内部に持っているか・生自体が存在している限り必然ならばある
   
       
 


上に有界下に有界な存在を中間存在とする.下に有界以上に下になると有界者にとってはパワハラ型の権力位相を持つ形になり、ミルグラム的位相を醸すことになってしまう.視野の狭さという優越感の束縛という窮屈さ・上に有界以上であると今度は閉鎖意識がまた視野の狭さを形成して理不尽を発生させる
   
       
 


等質に対して避けていたのはホロノミーがまずあるのだった.しかし接続は問題でおもしろいのだが-あたかもシュール・超現実的な感覚を覚えて.小学生の時のある言葉をこうなるとどうしても思い出さずにはいられない.想像力を使ってなぜ罪の意識を持ったか、写実に呪われている?
   
       
 


仮にアフィンにしたけれど意味を付加してアフィンでもよかった.実際にアフィンXXが出てくるから始末に悪いというか、アフィン的に考えてベクトル意識がおろそかなおざりになるというおかしな自己心理になって妙なという日常意識を持たねばならない無意味・無駄的な事態に
   
       
 


なぜ嫌だ嫌だと思うものばかり現実的対象になってしまうのだろう.他者達は悪魔的存在か自己性質の問題か.自己性質を考慮しなければ他者達は悪魔的卑劣なしつこい悩ましい存在でしかなくなることになる.大体悪魔など嫌悪すべき存在だからである.
   
       
 


無積分あるいは不要積分なることを考え着いたが
   
       
 


エリートという言葉は疲れてしょうがないが、どうやら大審問官のような意図で件の女性は用いたようだ。そんな言葉は考えた事も無く、すでにそんな社会的位相にはないが。なにか感じたか自分に引寄せたか?。単に主体に自我にとって、自然な生き方をしようとしているだけ...
   
       
 


昇華は気化のようなもので、軽さの自由がある。
   
       
 


通時が変化してきたといえば埴谷雄高の文章は通時的で古臭いイメージをずっと持っていて、思考内容はいいがそのスタイルが疲れる認識だった.理解する人がいれば蘇るは大げさなうぬぼれでしかない先験意向者である.別に虚空のそよ風は吹いていても何ら差支えはないが.
   
       
 


コホモロジーと考えても何か変で、まさかの被積分値情態とは思えないが、論理的にそうなってしまう.そう考えるとつじつまをやや合わせることができる.そうなると積分者はどうなるだが何も考えたくはない感性趣味から外れるという形で
   
       
 


なんか環界が妙にはっきりと変化してきたことを感じるこの頃、通時的ではなく共時的もしくは存在論的な
   
       
 


ここ・3日、埴谷雄高がカップル生活をしているのにあえて子供を作らず、ただし作品の継続を他人に任せると述べていたことはどんな意図故かさっぱりわからず・さほどどうでもいいことだが・考えている.伝統の拒否・自分の子供に任せればが普通すぎる・の割には他人の家系は認めているという次第を
   
       
 


逆になって人が認識している位相を自分ではなく当の認識者の位相と自己投射をしてくる人間にも困ったものである.これらも邪魔で、自己投射どころか当の認識者を他人と同定してみた人間も複数いて、非常に無茶苦茶な認識能力としか思えない.そもそもこれらの他人達は当の認識者を無視している
   
       
 


実験データにおいて、成果・結果に対して理論が追い付いていないケースは、逆数学的要素もあるがハミルトン閉路の経過過程が判明していないということになるな.その存在以前に困難が成立していたという場合も考えてしまう.ポテンシャルが現在からみてゼロという考え方もあることはあるが.
   
       
 


枕草子の作者・清少納言はあか抜けていず洗練されていない人間や事象は嫌いという人物であったことは間違いないと認知する.
   
       
 


宗教が不変もあるが周期を考えてみると、例えば永劫回帰だが明らかに無茶な反復不変性いとであり、この人物はその当人の自己判断による道化師より宗教的存在と考えるとまともになるかな.不変周期教なる宗教を構築すると説得力あることなるな、CRA(クラー・くらー)として候補はあるのだが.
   
       
 


で末法の世でこれを信仰しないから不幸・災難にあうと説得・扇動した鎌倉時代の人物だけれど、そのスケールは怪物的にみえていたが、仏教に周期論があったので、その末法の世の説得力は効果が本質的に薄いか時間視点においてリアリズムであるかあるいはその当人は周期論を知っていなかったかである.
   
       
 


宗教は不変意図であり、信仰者は不変依存性を持っていると判断中
   
       
 


端的な例は葛飾北斎で、歳になればもっとうまくなると思っていたのは事実だろう.老齢的超越を予期していた感があるがどうやら至らずで終わったようである.普通金持ち・物質に恵まれていても心は空虚というのは、この老齢的超越である幸福である満足感を物質優越感では達し得ないからと思える
   
       
 


優越感とは老齢的超越のようなものを指すといいたい.優勢原理によって優越感を求めるのはそれはいまだ至らずと言えりと.
   
       
 


何しろ優越原理が成立しないことが直感感得するようで、無茶苦茶・理不尽が飛び出してくるものであった.隠者たちはその辺の無駄・ナンセンスをよくわかっていて、世捨て人とか庵に引きこもるとかしたのではないか?
   
       
 


being-それは幸福・満足な心情情態である.昔にすでに味わっていて、その時にはほぼ一生の時間間隔を感じた気分になった視点があった.まだ代の終わったころの話・代の前半、それゆえによもやま人材に理解できるはずもなく、邪魔・妨害ばかりしてくる自然しか持っていないのであったな
   
       
 


老齢的超越はbeingのことではないか?、マズローの段階の自己超越であるか?.人に謙遜してもその人物たちは段階の自己実現でさえ一生できず、段階の低次元要求者が多すぎるのもまた不快である.困ったものである.
   
       
 

 
K.Cは荒唐無稽・ハチャメチャに見えるが論理的には結構まともな番組.人類最大の発明は笑いとかの意見があるが、なぜ最大の発明なのか-緊張に人は耐えられないゆえにとしか帰結が見つからない.
   
       
 

 
NP完全の中にNP困難を作るとき、あるいはNP完全時間を短絡しようとする時に何らかの不規則が生じることは明らかな事実である.そうしてまた現実にそのようなケースは多々ある・・・
   
       
 

 
ファインマンもな、最もよくわかっている・自覚していたようだが、現実のこの唯一としての宇宙は今のところ有限位相にある.無限時間前を持ってくるという散乱もあの手この手を机上で考え出すものである.思考上の論理正当性がもたらすことはわかるが.
   
       
 

 
実在と存在がなければ意味がない.つまり数直線は成立しないというつまらなさだが、片側数直線を算数で行う-これはずっと一生有効であるのだが、片側ではエゴ的といえる創発雰囲気を持っている.
   
       
 

 
”調和級数の発散は非常に遅く、たとえば最初の 個の項の和は  よりも小さい”-オイラーの定数より、そうなのかそれでは対数を嫌うわけにもいかなくなる.比率は一様で結局、西鹿児島で会っただけであり・・の失念していた青春の自然性の記憶の直接性が思い出される.
   
       
 

 
ミサンドリーはどうかだがミソジニーはほぼ男と女の間にあるといわれる深淵が先ずわからない・考えられそうにないということを経験上と思考上から判断してみた.どうも現象的にしつこく不快な記憶があり確かであると思われる.
   
       
 

 
側頭葉の皮質層とは--阿頼耶識を連想してしまう.構造は昔から直感していた仏教視野であることや、層であること-層状組織であるに結びつけることもできないわけではないが、その地質層の横に沢がありその沢の地形判断中から進めていないな..
   
       
 

 
何らかの相転移ではなく結節する何かがあるのではないか、またはその乖離の成立する場自体の作用の設定ならばつながる.ixteenに関して、それでも説明であってアイデアではない思考
   
       
 

 
叙事的事実には怒りという感情の結果も含まれていることは多大にあるので感情がないということはあり得なかった.ただ融和感覚はあまり叙事的事象には登場しない.例えばこの期間は平和であったという単なる一文に終わるのは、何らかの指向性・志向性を取り入れなばなさそうである.
   
       
 


小林秀雄は断定力・独断判断が強かったのでは?、エンペドクレスは火山に飛び込んだかどうかは定かではない、ただその情熱はわかる.魂の不死ではなく情熱力だと思うが.悲しみは疾走するがどうも引用剽窃ではないと思っていたことがあり、薬籠解釈力で不遜故とも考えられるが、どうも違うのではと
   
       
 

 
中条百合子と川端康成は同じ年とな、川端康成は凛としてエレガンスな崇高性も垣間見られるような人材であったと想定する.さてなぜ遺書なき自殺したのだろうと思うと不明であるが、崇高さの未熟における優雅さの限界を持ったかやり残したことはないと自己認識したかさてまたいずくにあったものか
   
       
 

 
Yの関係についてずっと考えている-あまり考えても帰結しないのが不思議でしょうがないが、術中にはまっているかもしれない.Yの精神か物質かは決まらないとか思い出しても同じでありどうもまた逆になっているか目の前存在を無視か同調要請だったか.埴谷はねえといったが別にといえばよかったかな-
   
       
 

 
思い切らない?-のではなくやり直しの可能性が強く示唆されてためらう.後悔は先に立たないが、予知してしまうような.それともハムレット型とも言えそうな.カフカはなぜなんだろう?、実存性だからか?、実存の嫌いな本質者はどうするということだが、今は乱れすぎている心理でなんとも言えず
   
       
 


 
       
 

 
世界内存在にとって世界に責任があり世界内存在には責任がないとすると、宗教信仰者には神かその宗教創始者に責任があり、信仰者自体には責任がないことになるかな.
   
       
 

 
無責任者はナンセンスを真面目にとるという考えに、そうなると冗談が現実になることは現実が無責任であることになる.おおよそわからないものは無責任体人間ではないかという直感が作用してきている
   
       
 

 
小学生の時に天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずという言葉を浮かべて何か妙な気がした、昨日なぜか不意に「学問のすすめ」はやや荀子論ではという考えが浮かぶ.そのエリートが荀子的とかの考えが浮かばせたのは間違いないな.
   
       
 


日本でエリートという言葉をみるが、聞いたのは一度だけ、もはやそんな状況にはないが、もっと本質を忘れていたことも確かではある、その後も忘れすぎて、しかしそれゆえにということもあり、あるがだがその内容が信じがたいとかなんとかなんだが
   
       
 


tout pourはいいんだけれど、それがどうもうまくいかない災いが割り込んでいて、しかもtout pourを邪魔するように入ってきているということだ.XXからのtout pourであるが、どうも思考内容が違う・・ので困る.そんな自己思考をしなければというわけにはいかない.
   
       
 


弘法筆を選ばずは一様水平面を超えたということで、いわゆるその文字筆記技術に万人が納得できる地平に達した・万人が認める技術の持ち主になった・定評のある存在になったというものであって、他のジャンルでも同じ位相を指す.
   
       
 


演繹的現象にせよ帰納的現象にせよ皆同一のものとして見ることはできない.ケガをした時のトリアージがその先ず顕著な例である.もし同一に見るのなら区別をして離散的位相が水平であるという視点でなかればならない.
   
       
 


脊髄反射を否定はしないが、ただギャップがありつながらない方法論を持っていてそれにずっと悩んでいる.この事実だけでいいか、それでは新鮮なアイデアではない--ミトコンドリアのギャップとむすびつけるか.そう結びつくかな.これも生物学的に既知だが.
   
       
 


栄枯盛衰・変化する不変・エントロピー
   
       
 

 
論理というにはだが理論というわけにもいかないあの川原の岩の間を歩きながらメソッド・方法が浮かんだ将来の予期の通りの形になっている.
   
       
 

 
ヘルムホルツかフロベニウスかヘルムホルツは違う気がする.煩わしいブイ分方程式を避けていたら今頃フロベニウス法とかexpが出てきた.物理的に宇宙は変化している現象であるところに不変が出てくる公理やネイピア数などは内部停留世界を考えてしまうのだが・・
   
       
 

 
頭がマヒしていて書物が読めない、昔から時たま書物が読めなくなったことはあるが、今回はムードが違うな.とにかく内部麻痺はどうにもならん.やはり頭を使わないとダメだめなんだが、どうもちぐはぐになるな.つまり読む必要がないという段階が何度もは別に当然というか自然というか--である.
   
       
 

 
安寧を当然意識しているのに、嫌悪XXが現れその領域を好むことができなくなるというケースを何回何十年味わうことになるのか、これからもずっと発生して続きそうである.どうもそのような設定をしておくべきなようである.
   
       
 

 
中間存在の現実は中間存在結果でしかありえず、その数が多ければその世界の寄与力はある.そうして世界はその世界傾向が普通で当然であるという中間存在-ほんとは中間存在の言葉表現であるように中途半端な一生存在でしかないのだが、その認識すらできないというのが中途半端である中間存在
   
       
 

 
頭文字だけは覚えているがなんの頭文字だったか思い出せない、ただ暗号的に発音の仕方は覚えているが、ツイートすべきかどうか、まだ組織体が現実に成立してはいないので.
   
       
 

 
精子核の初期化か、これかxxの強みであることを知った。不快だがどうにもならない感触として、しかし不特定のxxがその意識を発揮する事はモラル的にどうか
   
       
 

 
”動く機械として最も単純なもののひとつは、二つの輪が鎖のようにつながった構造をもつもの”--これをあるタイトル付近にデザイン化してある。カナテン・ロタキサンとな、確かに回転もあるダンベル状ではある。
   
       
 


加速意識は衝動につながるか、つながれば衝動はむしろ想像域になる
   
       
 


人はその人物に意図している対象内容を、意図者が自身が要求していると思う形の不快すぎる記憶がある.個人の経験記憶を剽窃・模倣をする、個人の記憶を別人物になぜわざわざ見るのは不快、対象が無知なので模倣にも気が付かず、また模倣の原点者を無知な存在と思い込むというこの傲慢さは損失愚劣のみ
   
       
 


薄汚いフェルミ型などに神聖さはなく崇高にしては純粋さが暮れている-つまり演技性を行うことになる.演技的は崇高ではない.
   
       
 


そうそう空想的相転移の特異な作家と規定気味な存在設定的にした人物がいる.対象はオブジェ感覚すぎるが.
   
       
 

 
そうなるとポストモダンでどうのこうのになる、フッサールのエポケーなんぞを冗談にせよ使うこともないのに使ってしまって、実存深淵に直に位置するという心性を持つ羽目に、いまだにひりひりする深淵には参る要素記憶がある.ハイデッガーの根源・原存在に絡ませて.でもフッサールでは進みようがない
   
       
 

 
どうやら線形文章の専門的様相内容であって、ダダ的なポストモダンがワンクッションとしてあり複雑系文章を書ける人材がいないという時代時間がそうさせたと見る.ポストモダンには参った混乱を持ったな、今ならクッションとか言える趣が持てるが、全く洪水のような取りまとめない文章に遭遇したものだ
   
       
 

 
告白にはどうしても潤色が混じる-どうしてもがない人物は卓抜な存在だが、この辺にカトリックの懺悔・告白が入ってくるかな.
   
       
 

 
関係は建設意欲・建設性のことかな.ただこの人物は未来の歴史についての予見を述べては居ず、諸々の解釈に対する自己思考の自己開陳で、現在的時間しか感じ受けない人物であった記録を見るな.
   
       
 

 
サンデルに超越論的主体が出てくるが、経験はそれができず、常に目的の向こうがあると.白紙というのは原初状態と訳してあるがいい訳であるが、先天性はすでに持っているので先天力が判断するとなると遺伝的要素強いことになる.その時までの生命の歴史を持っているという判断力が果たして?
   
       
 

 
アルバン・ベルクの「死と乙女」は普通に(誰でも説得力を感じることのできる)名演である.
   
       
 

 
シューベルトの死と乙女、死神に安息を齎すという思想があったことを発見.確かにそんな解釈はできる、生きてなければうんざりする馬鹿げた存在たちに遭遇しなくても済むという考え方も止めているな・・老化を早くしようとか今では長生きしようとしているが、いろいろ考えたものだ.
   
       
 



普通に聴いて安全なのはやはりベートーベン・ベートーベンは人間である.
   
       
 


ヴェイユのたかだか短期間での女工で意味があるのか?といった通念が常に付きまとっている.スペイン戦争まで行くとさすがにそれはと思うっているが、短期間でも集中集約意識によりやや長期間と置き換えられるケースもないとは言えないが.
   
       
 


親鸞の悪人はクリミナル的な考え方ではない、善人は自覚したがその自覚レベルは到底親鸞ほどのものではないといった香りかな.
   
       
 


親鸞の悪人は阿弥陀の力の誇大化説得力ではないのか、どうもそうかんがえてしまう.悪人も阿弥陀はなびかせられるんだと、ただし善人には微力な説得力でいいが悪人にはやや強い説得力を必要とするがと自然に考える.-人々は端的解釈しておかしい、親鸞の悪人は無知で無自覚人間を示しているはずなのに
   
       
 


ワンパターン人間の座標変換のなさが不快と、座標変換の自由ならば複雑系に挑戦できる可能性があると・ただし線形のままでは・またそれ故に時間切れの生理時間であったか.それにしてもその映像を見た混沌写像の記憶.
   
       
 


マルクスの物象化と人の作り上げたシステムに従うというのは、システム物象化であり、科学的物象でないシステムは観念的傾向にあると見て差し支えないのではないか.帰納から帰結している判例主義的なものは特にそういえそうなんだが.
   
       
 


そんなことを考えていると、無責任の責任という言葉が浮かび、演技的性格者は演技をすること・演技を全うすること自体に対して責任感を持っていることになると思いついた.確かにそうであるなと.
   
       
 


意味がないのだが、特に逆の要請や自己疎外・阻害系である他者設定にはほとほとまいるむちゃくちゃであるでたらめを強いるものである.ほぼ世界は逆になっているが、オリジナルではないその逆者たちは偽物であるのは間違いないとオリジナルの当人が今こうして述べている
   
       
 


彼を知り己を知れば百戦殆うからず・があるがなぜ他人は己を知っているのに邪魔をするのだろう、自己を知らないようにまた自己の内部を他人が実演してくるということを当人の前で行うのか、邪魔でしょうがない.その他者たちは彼を知りができていないということになるな.そうかそうだったのか・・・
   
       
 


CTRAからはアドラーの自己満足はアタリの利他型世界の方向性を持つべきものということは、エントロピーの増大に合わせた建設的であるべきと、社会の創発力とタイアップするようなケースを考える.老年的超越は時間的優越感であると思っている.
   
       
 


ある作家はトロツキストかな?とおもいを浮かばせた文章を読んだ。当の大学は優秀であり、トロツキーも特別な響きを持っていたためだが、ソフォクレスも設定位相に上っていた。(そんな時期があったなと思い出す)
   
       
 


ちなみに英語は長調である
   
       
 


単純に短調は悲しく悲劇の装いで長調は明るく幸福的であるとは認識している.
   
       
 


Kにはそんなに悲しみを感じない、モーツアルトの悲劇は、推定溢れすぎる才能ゆえに落ち着いて自己自身で堪能している暇がないゆえにいつも過ぎ去ってしまう時に対処できなかったからだと思う.次から次へと着想が浮かび忙しすぎる有り余る才能・最も多少は気質的なものもあるとは思うが.
   
       
 


Kno第一楽章を小林秀雄が疾走する悲しみと表現したのか、モーツアルト全般ではなく特定の曲に関してだったか、それならありうる表現だが、すでにその表現は思い出せない誰かが使っていたのを模倣したのではないかという思いが消えないのである.モーツアルト全般と思っていたのだおかしいなと
   
       
 


戒律は偏心性がないか、当の宗教信者には真理なのだろうが
   
       
 


HoloLenはゴーストに見える.自分の未来は幽霊のようなもので見たようなものであるが
   
       
 


一般普通の過程を他者たちは想定するのでまずそれは違っているのだが、自らの精神年齢を上げるのには努力・労苦が必要だから権力的位相に立ちて他者を支配しようとしてしまう・そのような存在に遭遇しすぎている.精神年齢の進みがのろすぎる・わざわざ遅らせる陳腐を行う権力志向者の記憶が強いな.
   
       
 


よくわからんいったい何を・何のことをむきになっているのかといった思いなのだが、惰性で合わせていると実存的な無意味な過程をしてしまっている事態になっていることに気が付くこと多く、逆になると本質的人間ではない存在が本質演技を行い、なんだか変な感じという実存を押し付ける損失ばかりの記憶
   
       
 

 
権力志向者権威主義者は一般に他人の世界を抑圧するが、特に中間存在は世界を狭くする・その点がまずいと思っていることに気が付いた・表現できた時間に、まったく当たり前すぎることだったのだが.
   
       
 

 
黒い神聖もきれいでその定性感覚の怜悧さもいいが、何せ単細胞的でどうにも思考が単純になりすぎる
   
       
 

 
ある作家からもらった葉巻を別に意味なくプレゼントして、まさかペレルマンの葉巻は無いに関係することはないはずだが、結び付けて何か物語をこの女性にプレゼントするという形もいいなという構想まで・・
   
       
 

 
琵琶湖周航の歌の赤い椿の森蔭にのところには参るな、思い出が染みる・フォイエルバッハはなかったな.ライヒは狂気と思ったのだが、性格論の論理性には納得のものがある・バイオエナジェティックスとポンテイ関連論ができそうでもある.オルゴンは素粒子エネルギーと思える点がある.
   
       
 


先ほどは思い出せなかったピアニストの名が、落ち着いた気分で昔を振り返り気味の時に、アルゲリッチ、マルタアルゲリッチと不意に浮かぶ。この記憶過程には匂いのドラマを見たことと最近の臭いの不快もあって関心が、海馬の最終位置と辺縁系の古さの関係は、なかでもなのか?
   
       
 


なんとなく夏目漱石の明暗の続編は魅力があるな-考えたくなる誘惑がある.さすがに夏目漱石か、ついに読んでしまった心の心理描写には感心しきりの印象だけに留めている.
   
       
 


昨日の知見によって夏の存在があやふや・伝説的なのは、夏が境界位置の時代であって、ハプロOに完全になっていないからであるということがわかった.今日から中国の歴史を遡及していく形ではまさに伝説でしか捉えられず、行き詰まりを余儀なくされるものという認識である.
   
       
 


前漢・西漢以前の、いや秦以前、いやもっと前春秋戦国時代以前の中国歴史がおおよそわかった気がする.三国志の劉備玄徳は本当に劉氏一族の流れを持っていたようである.三国志のヒーローの中では倫理感が最もよさそうに感じる人物であるが、遠い祖先の西漢の設立者はそうでもないような..
   
       
 


自己分析結果はトートロジーで意図保存に対しては希望の邪魔でしらけでしかなく、他者への認知判断結果は自己ではなくあくまで他人意識なのに理不尽な歪めになるという、いずれにしても無駄でしかないという無意味をどうも結構まじめに他人は行ってきたものである.結果巻き込まれて無駄ばかりの羽目に
   
       
 


なんだか楚の荘王のような存在ばかり出てくるが、実際のところ内部の模倣者でしかないのだ.楚の荘王なら責任意識もかなりあるはずだが、なんなのかどうもわからん、すでに自己分析した結果の内部や意図している内部保存や他者認識判断結果などを剽窃して当の当人に述べてくる存在は一体なんなのか.
   
       
 


目の前のXYをあたかもXXのようにまたは別人であるというように、目の前の人物の主体を阻害・疎外させる認識を当然・平然・まともに行う人間というのは、頭脳が愚かか意地悪な存在かどうにもよく判断しかねる・未熟といえば正解な気もするが、不当な認識違いをされた分の不快をどうにかしないと
   
       
 


今日は暖かいが風がやや強い.生理の有限と歳の引退という冗談が実際になっているような-を考えてしまう.
   
       
 


付随してる暗黒は実際には光に満ちているのだが見えないだけになり、また予測不能の事態に深淵を持ってくる可能性ヒントを持った.夜は明るいのだがになってしまうまさかの発想展開になってしまう..
   
       
 


その辺から依存や甘えは無責任明らかで残酷さを醸すということになるが、諸行無常が抑えているかな?
   
       
 


差異ある責任--ある宗教観記述から、人それぞれの生を全うする・アドラー的には人それぞれの生の自己満足をする.実際には複雑系・非線形感覚からの表現で妥協すると差異ある責任という言葉が帰結として出てくるのだが.
   
       
 


まあコップと同じ考え方としていいのだが、そもそも認めない?人材たちがかくある今を形成している形かな?.認めないのではなく認められない才能しかない存在たちがという思いがあるのと、認められるような単純なことはどうにもつまらないという思いとの葛藤もありだった..
   
       
 


デリダの脱構築はハイデッガーの根源を何とかできるような代物ではないというのはまず直感が判断するだろう.レヴィナスは現存在線の説明だけであるし、となるとヴィトゲンシュタインのハエ取りツボだが、さほどの説得力はないと思う思い上がりではと-沈黙がマストではだ.まあ葉巻がないようなものだ
   
       
 


なんだかわからないが個人的希望意図対象を他人が表明してしまいしらけたり、対象が異なるのにあたかも擬人的にせよ自らが対象であるかのようなそぶりかな態度を示す人間というのはいったいなんだ.幻滅を嫌う心性に非常に邪魔・障害となる人材達である.とりあえず個人的意図は自己のみに属したのだが
   
       
 


UML.にチューリング完全かどうか未知とは、そうだろうなと思うと同時にまだそうかとミーハー的にちょっと浮かべてしまった.問題のチューリングのテーゼのうまい解決法は困難であるはずでという思いがあり、そうだろうとなるが、すでに忘れかかっているその領域でもある個人で、どう致そうか-
   
       
 


ゲーデルの不完全性定理もハイデッガーの超越に負けて・越えられずに世界内存在地平一般に戻るといったことの別表現にも見えないこともない.ハイデッガーの未完成には根源が登場することはわかっているのだが、何十年たっても一歩も動かず.
   
       
 


ヴィトゲンシュタインなどはささっと・さらりと基礎論から哲学に行ったが(ただしこれも原子命題なる単細胞思考はあきれるところだが)、その上スラッファの脊髄反射的なスラング的表現などで酔っ払ってもしょうがないとは思うが、それらを除けば魅惑の人物で、本物のエリートと初期には思ったものだ.
   
       
 


立法上・規約上のシステムにおいて支配及び権力意識という非可換という要素が強い時代になっていることに数学シーンからは言える.素数問題などによって.この後・その後は果たしてまたどうなるか、人間の生は生きている間は、生きたり死んだりする離散は不可能であるのでその点に留意するが
   
       
 


昔は明晰知識なんぞは百科全書的で俗物の得意とするところであると思っていたが、不快な反交換型フェルミ的人間が記憶上しつこ過ぎるのと、数学歴史上時間において非可換の時代である今日を鑑みると、縦型人間の蔓延の日々とも取れる.
   
       
 


無とならないシステムには有であり無私にはならないと精神年齢的には示せる.人の生理体はいずれ誰でも無にはなるのに.この時間差異・距離によって個人より会社・共同が優位になるという有である視点から-共同がこの長さより長時間有であることが.
   
       
 


システムが分解できないとなると・実際にそれがあることを-システムが厳然としてあることを認めねばならないなと不快だが思ったことはある・システム自体が要素となり3次元の場合ドメインが要素となることを考える.すなわちあるということは存在していることは有であり無とならずの点がいらだち点と
   
       
 


引出し要素があるにせよ、Cの構造体のようにどうも頭が離散的になっているような、情感の感性がこれではうまくいかない.そもそも離散的などどこで?、俗物的になったか現実事象判断にやむなく明白な区別を必要とするためにか、A期感覚というある作家を思い出す今頃も変であり..
   
       
 


ABCのスピロ的なものは、覚醒時の意識領域>入眠時の領域>夢形像の領域において、その一個人は生きているという一個体の行っていることにも似ている.渡りは生きている人間が夢を見るという生きていること自体をあてはめてとすると概念的にあっているのでは?.今日数学のポエム的言語を逆から見て
   
       
 


どうもその人物の書物内容をほとんど知らずどうも今ではやや思い上がっていたとも思えるようなだが、ある位相上からは言える.それににしてもその件の人物は実体内容を横取りするような形の人間だったとは全く思わず失敗したと思うが、その人物の現実事象的カルマがいけないとも思える点もある.
   
       
 


その場限りで一回性の冗談が後々まで寄与をするというこの現実事象を考えるに、それだけ冗談的存在が多すぎるという帰結に達した.全く他者は意味なき無意味な不条理・不合理・非常識圧力をかけてくるものである.
   
       
 

 
一つの視点で全体を見る・全体判断をしてしまうその視点は戒律的なものと思いつく・考えたみたが
   
       
 

 
もう混沌は嫌だとおもむろの東陽町から時間距離を置いてもう悩まないで止そうと設定に悩んでからまた距離を置いて今、さすがに悩まないと頭がシンプルな曲線を描くだけで、構成複雑ができずの不都合が生じてばかりで苦悩しないといけないようである.
   
       
 

 
やはりヒルベルトがイデアルを理想数変形からのイデアルをピックアップしとな、どうにもヒルベルトの凹みは無視することができそうにない集合基本.
   
       
 

 
数学者一覧をしょうがないので見た・クンマーだった.デデキントがイデアルの言葉を導入したんだ.イデアル方程式などは個以上いくつもできるが、あの時は特性数個に何か感じたのかそれだけしか設定しなかった..青春の私・いまだその問題を解けず、最も類体に全くタッチしていないからでもある.
   
       
 

 
クロネッカーではなくて思い出せないだれだったか、内積外積関係者・・.イデアル方程式ならば、べき乗根を用いて変形できて個の特殊な特性方程式を含んだ方程式を構想できると思った.さてそれをどのように変形すべきか頭動かず.ともかく個は次元多様体に無理につなげて置く.
   
       
 

 
フラクタルが瞬間にパーコレーションになるときを相転移としてみるというアイデアが浮かぶ.フラクタルが瞬間的創発を持つということは全くありそうなことであると.
   
       
 

 
渋みとエートスにしては持続という悟性典型言語がそう判断させる生理体から、存在論における中間存在という設定も浮かべるが、単に下品な生理特質であるだけと単純に判断できればいいのだが.
   
       
 

 
どうもベルトラミの擬球一つで考えすぎているようだな、昔からh入りの双曲線は苦手で理解したくはないと思うがどうも必要なものであると.とにかく双曲線関係はその展開スピードが速すぎてついていけずの思いだったな.スピードがスピードであるような現実はどうも不得手で..
   
       
 

 
そうか交代を要求する存在たちが不快の記憶を齎しているようである.交代など可能でない自然なのに、不自然を捏造している形だから不快なので、それほど交代を好むなら自分を交代させていろと他者達に言うしかなかったわけだ...
   
       
 

 
『疲労と交替』は考慮してあるが
   
       
 


K33のI.andante graziooをよくよく聴いてみるとかなりセンスいい曲ではないか.シンプルな音の並びが見事に華麗に続いている--中学生の時の転校していったYの月過ぎてのころの柔らかな花曇りの音楽室の外の風景を見ながらの印象ある曲である.
   
       
 


丁度難しい表現ツイート思考中に再起動要請が入り途中で示唆のままとなる.そそっかしさは現実との乖離意識故が一番の要素になりそうな自己分析.今頃に現実意識をする羽目になるのは、あるXXが諦念状態になった模様であるはずで、いまさら現実実践という思いはあるがどうにも直面してしまう形である
   
       
 

 
通時的時間3世代以上とかのスパンになると変化より変遷になっていく
   
       
 

 
エントロピーが変化・増大するためにはポテンシャルがどこかで消失的にならないとで、類続もこのパターンに適合していると思いつく・閃いた.となるとそれに従わないとになるな..とにかく人の一生時間以前にポテンシャルが消失する現象は多々ありそこに変化は成立しているのを人は自然に対処している
 
       
 

 
ワンパターン人間はニュートン的な絶対空間に生息しているようにしか思えない.しかしなれど科学は不変を求める秩序感、ただしエントロピーは変化する.
   
       
 

 
閃いた、そうか良寛は真理単純型なんだと、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」のこれはなんじゃ解釈の仕様がないではないかというほどに幅を持った存在事実のある表現である.(これに関して個人的な理論的な・方法論・論理のある項目・ナンバーを想起した、多分に意味合いがあるはずと)
   
       
 

 
一将功なりて万骨枯る-単純な心理に至る前に行くあまたのトライアンドエラーの悩みがあったことだろう.この図式時間を一瞬で把握しようとするとその複雑性でお手上げになり、重合・重複現象は苦手な思いとして昔からある.シンプルイズベストの裏には幾数多の深甚な悩みがあるはずだが.
   
       
 

 
何事においても閉鎖領域だとなにがしかの不都合が生じてしまうということは容易な直感でそう思っている.閉鎖的でも鬱屈した空気を逃がすことができるようなシステム的なものがないといかんと昔からそう思ってる.
   
       
 

 
ひとの親切心に付け込んでしたくもない忍耐を強要する存在XX&XYが不快でしょうがない.楽でしょうがない誘惑にはまってしまうという存在に対してこちらは無駄で何の価値もない徒労をするだけの馬鹿らしさ.嫌な存在は忍耐を強制していることがわからないので、なんとか逆に味わさないと教育上問題
   
       
 

 
当然責任もその存在たちにあるのだが、その存在たちは認識能力の愚劣さから責任意識など全く持てずの脳細胞持ち主たちという未開性(結構そうは思っていない荀子系のカムフラージュ者がいるものだが)には一生無理な責任意識と思えるのでまたまた不都合な不快である.
   
       
 

 
そんなセリフは邪魔で不都合すぎるのでいらないという承認的要求を全く他者は考慮しないどころか逆のことばかり行ってくるので、どうにも不都合なほうへ不都合なほうへと現実が流れて、すべての悪しき面はこれら不都合者たちに原因があることは心理的に確かで、当然責任もその存在たちにあるのだが
   
       
 

 
しかし実際悪魔のような不細工と思っていると、まさにそのように現実がなって、実際に悪魔ではないかという意地悪・鉄面皮だがしつこく絡み無駄ばかりで、厚顔無恥は一体どこからやってくるのかその謙虚さのなさは、そういえば頭が単純で思考力がない場合に成立するとか読んだことがある.
   
       
 


まあ男そうだが邪魔だと思っている男たちも何か勘違いをして接近してきて、結局記憶に不快を残すのみと、嫌いな存在は嫌な存在は男だろうと女だろうと一生嫌に決まっているだろう.
   
       
 


そうかチューリングマシンと中間存在という有限体は極端な話、機能特化のみできるとするとマシン化できるような話になるではないか、機械が人間とってかわる仕事というのは中間存在的仕事内容のことを意味していると解釈できる.
   
       
 


狂気かつファナティックを自覚しているのか、自覚しているとすればやけくその理不尽発言で欠如感を納得していることになる、いわゆる母性は理解しがたいだろうと思う.どうも無自覚で脊髄反射を当然と思っている節もあるか・・、となるとつまりやはり動物的に近くなり、虚栄はそのカムフラージュになる
   
       
 


太陽光度は強くなって地上の生物は死滅してしまうならダークエネルギー作用を用いて、生物維持できるほどの公転周期変動を行えば持続できる-軌道変更に対しての新たな視点を考え付いた..
   
       
 


何十年後何百年後に理解者が現れたら戻ってくるというその矜持・知力による支配意図・その哲学性は十分理解できるが、それに最大の欠点・欠陥があることはわかっている.とにかく埴谷雄高のセンスは古い.
   
       
 


億年以内にミルコメダとなるなら億年後付近を想定すればうまくいったかもである.最もありえない地球軌道変化までしか構想していずの点がまずかったのかも.システム時間はシステム構想自体の因はは普通に素直にそれ以上の時間だったが、まさかの現実応用は想定できず..
   
       
 


件のXXはアンドロメダとも考えたこともあり、それ故にある作家の周忌の名称が不快ではある.その作家はまだまだその頃は存命中だったので、割り込み的な意識を持たざるを得ない記憶で、命名した存在・存在たちは単純に考えすぎな迷惑としか思えず.
   
       
 


徒労に呪われていると思っているにもかかわらず、自己自身で無駄を作成してしまうというその時には呪われをすっかり忘れているという心理事態で..
   
       
 


関係ある女性だったのに蚊がつかず、すべてそれら女性に気が付かなかったのだが、なぜか?、実際現象に遭遇して意識を一段落とす傾向が強くそれが災いしているとしか考えられず、もっともその時は冗談のはずだが、未来に対して臆病でもある証拠ともなっているかな・・.どうも勇気のなさが原因と.
   
       
 


サプライサイドには流動性の罠ということがあるんだ、少しわかったというのに何十年かかったことか.ダンシング恋シーンのXXが近隣の男に余計なことを述べたと後で知り、それがよくなかったことは確かだが、供給サイドをどうするか考えていてアイデアが浮かばずの状態だったのも確かな悩み中で
   
       
 


何がうるさいかといえばノモス的人間の悦楽感性は経験上不愉快である.ノモス主権はエートス的でもあるか、エートス?はどうも閉鎖感覚を覚える.閉鎖にはふん詰まり的な束縛感があって自由の一応妨げにはなるゆえに、明るいエートスは発散存在論にもなるか?
   
       
 


根の暗いXXは鬱陶しい束縛・閉鎖感・不自由さ強制力を自然に持っている.嫌なものである.ただ単に人を疲れさせて無駄をさせる拷問家にしかならない.陰謀とタナトスと実存が一緒になっているような人格--カフカはタナトスに呪われていた?と閃いた.本質に対して実存には違いないだろうが
   
       
 


ある3点の直観対象があってそのうちの一つは現象的に明らかだが実際のプレッシャーがなぜかあり、も別にで気が付かずだったな.一つはそのままにして、一つは神とかプラトンのイデアとか哲学的でなく、象徴仮想で円弧を描くような設定に思い至る.宗教性をかように用いることは思いつかず.
   
       
 


自らに不利益を誘導することはないのに、人々は他者についてそのようなことを考えているとそれが当人だと思い込む・数多く思い込まれた記憶があり、これが今に至って無駄ばかりする羽目になっている.原因はそのような無理解・誤解にあるが、そのような認識者自体の存在も如何に?とは思うことである.
   
       
 

 
熱力学の第二法則・法則となっているその増大性自体の本質は不変である.人が子供の将来のためにという親や共同社会の未来のためにという政治家などは建設的である.熱力学が正当ならば、建設性は正義であり勝利であると考える.子供のために頑張ると自覚した存在はすでに勝利者といってよいのでは?
   
       
 

 
あるXX・7歳ではないが目の前でダンシング、しかし思考している存在にとって暴力的な所為でしかなく・・という恋するXXに対して・・・無機的対処になってしまったのか..
   
       
 

 
いわゆる宗教において戒律(絶対的な)が成立していると、当然そこには戒律以外の事態に対しているわけで、戒律とはそれがなければ宗教の説得力がなくなる宗教複合・コンプレックス故に存在している・成立したとか考えてみると、宗教の中でもそれのない宗教がよさそうだが、宗教として成立しない?
   
       
 

 
共同存在意識もアイヒマン現象につがるからな、必死をこいて命令・ルールに従うことを潔しとする精神はそうである・特に誤解したルール解釈一辺倒はひどい従いになるが..帰納的経験主義も顰的な前例を示唆しないこともないだろう.
   
       
 

 
西施の真似をした村の娘・どうも顰に習われて困っている記憶が、しかも自分自身の--なんという愚劣さだ・埴谷表現から名状しがたい愚劣さは一度のみでもはや味わいたくなく、またそうそう味わえないものであるのに.ただ村の娘ほど不気味とは表出しないが、愚かしさには違いない.自己疎外は意味なく
   
       
 

 
逆になる一体誰にそれを言わんとしているのかわからないという存在は対象にならないと規定してきている.目の前の対象の思考能力を侮辱しすぎているからである.なぜ目の前にいるのに理解力が足りないのかわからん・・というわけで、数多きエクスタシー至上主義者の暴力性には多少閉口している
   
       
 

 
ある女性と対峙中の夜行で芸術至上主義とか言われている存在の名前が出て今もずっといらだっているが、それほどの存在ということかもだが、このXXは模倣でそれはというあるXXに冗談でその作家のようにしつこくなびかない女と設定・そんなことはなかったのだったが.いつもの受身形になる逆不快
   
       
 

 
BE凝縮において最大値原理を用いた説明には感心している.お気に入りの照明センスであったな.臨界値の持続する準長距離秩序は最大値原理によるようにも考えるが?
   
       
 


”「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」-ケルゼン”この意味がよくわからない.ケルゼンは小学校のころからその概念に対して気分良さを味わっていてお気に入りだったが、最近では酔っぱらっているな、バオバブの樹が揺れているような感じかな
   
       
 


高山寺は大正蔵のほかに鳥獣戯画もあったのか、確か行ったときに偶然か大正蔵関連がが干してありその長さに閉口した記憶がある.鳥獣戯画は見かけず知らなかった.鳥獣戯画は傑作間違いなく、何も述べる必要はないものとは思っている代物である.
   
       
 


”台有界連続関数のフーリエ変換で L でないものはあるか?”に対してあるということだそうだ.フーリエ変換が無限遠で消えるのはニュートン的にとしか思えない..ともかく無限遠で消えるとは限らないは紀伊国屋での思い出だ.連続意識が接続してどこまでもにはうんざりして考えをやめた若き日

2016-10-02

my ft 10022016

しかしどうも人間的に不自由で不快な有限束縛を考えてしまうが、脊髄反射は共通時にもあり、妙な感触の通時のサスペンスも措定せねば、あたりまえのスリルとなっているように見ていたが、リアルより間接的にで.数がどうも多い圧力がある.普通に仏教などで悟りのできる人間は数少なく、人々はそれ以下


XXに限らずXYも.人のふんどしで相撲を取っている・しかもその持ち主の当人を前にして堂々と語るために、持ち主の当人を他人に措定するという非常に当人にとっては迷惑な存在たちXYが不快で、この気分の悪さの除去が必要と何十回となくツイートしているのは、不快の除去がまだできないためである




いろいろ話を聞いていると、どうも縄文の伝統故という考えが浮かんだ.




人間の身体構造は医学的に明らかに複雑だが、その身体構造をもってしても単純な線形思考とその逸脱しか持っていない人間存在の多さを想定できる.実験結果に理論が追いつかいように、現実事象も単純化してしまえばの観点はあるが、難しい局面があるはずである.そこに単純頭脳がぶつかると理不尽などが




が方法論的に当事者同士で話をしていても埒が明かないのでその元と話をするという考え方はある.事象の周辺をさまよっているより本質を先に獲得するという方策は有用である.




経験--そうか英国のEU離脱は、大陸と判例の考え方・哲学の違いがあるな、演繹的な大陸EUと英国の帰納式コモン・ローの哲学的違いが.
   



弁証法でも二大政党制でもなんでも『交替』という考え方は否定していない・取り入れているので、とりあえずは交替なんだが、ある国のある時期疲れた?政権が交替した時が一度あった・・・
   



「他人の金で政策を行うものが善政をするはずがない」という欲望的存在前提確信的な発言を知った.他人が作った法律・規則を遵守する人間もそのようなことが言えて、大なり小なりアイヒマン現象のグレードを持っているとみる.実際に横暴な権力者権威主義者がいるだろう.作成する人間はどうかな?
   



今でもよく覚えているある祭り的な事象の場で、道長を浮かべた小学5年生、ただしその時に九州の方に島流しにあった信西だったか鎮西だったかあいまいな人物も浮かべたのであるなぜか..島流しにあったのは信西ではないまた時代が違った.鎮西八郎も道長より100年後以上の存在ではないか・・時間が
   



さすがにハイデッガーも存在と時間は未完に終わっている.根源論が展開できなかったからだろうと推定-超越壁からの戻りで、それは昔からわかっていたが何十年たっても進展しない.レヴィナスがわかりづらいのは根源に抵触しているからだが、全体論にしかできなかったという、やはり超越が難点
   



シュペルヴィエルの名を久方に見て、ネルヴァルを思い出す.カバラやヨハネ黙示録も登場とはやはり身体を使った詩人といえば、ロートレアモン・ランボーよりネルヴァルだろうと思う.蒸し暑い夏の蒙昧の身体的不調の時に引き寄せた昔の記憶が今やわずかにだがあり..
   



そのxxはあるXYと一緒にもはやすでになっているのだが むちゃくちゃな過去形蒸し返しを人々はしたものである.そんな態度をとると虚偽で無責任の甘えが成立するからか?、そのときは結構まともな認識・発言で、経緯を知らないXX&XY達はしたものと見えた.不可解.そのxxは排斥したいのに




深淵が介在する乖離はフェルミ存在体感時に思ったこと、この通常と異なるこの世界はいったいなんだ、まったく信じがたく通常に戻せるかと思ったものだ.それがのちに今でも邪魔になっているあるXXの存在実在のそっくりな体感だったとは..




竹取物語を浮かべたのは家の前のまさにちいさな竹林だった、それより49=*をその時に考えたことが不思議である.この数字には何か意味が有りそうだがと、何十年後の今、不意に竹取物語のあらすじを眺めたのは、なぜか・・49のイメージに合う記憶存在がいる、女王としたのはミスあきらか.




Izumo1-Juno複合体が分かりつつあるという時間ーーこの構造がある感情に寄与するとして何十年。今迄よくわからなかったのか、まあ心情としては不明なままが良い方向だが、何らかの病変要請があると致し方ない面もある。
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自己伝記も相当でないと潤色がまざる・告白懺悔は個的にできかねるものだも義務教育時代に意図設定したこと.告白・これはルソーではないかな、アウグスチヌスは別世界的なので.(告白のあらましを見ると別世界でもなかった読み物ではないかと)、Yが転校した頃ウェルギリウスが浮かんだのに13の春
   



そのころのすったもんだをようやく処理できたかなで、ずっとまずかった時間の修正を追い求めて可能になるか、挑戦は当然するというか、埋めないと気分悪いが埋まるかどうかは難しい.生理の時間は確実に覆水であり..
   



それにしてもある時ある場所でみた悲しみではなかったのかもの映像が寄与しているか、脱却できず.そのXXはアルファ的には十分・ちょっと信じがたいがそうであることははっきりしている体感があるが、θを意図してしているためこの時の想像イメージにより別のXXに非常に不都合が生じまずい事態に
   



最後の帰り道で同志社の女子に聞く、ヨット部ある?あると、昔の琵琶湖のヨット話は事実間違いなく、まあ疑いもしなかったが金持ちの話を出されても困った0歳の記憶.いまでもそうだが、その反対でもいいのだったが、今ではプレッシャー大を感じることに、なんというか色々無駄要請の圧力強すぎ
   



パンのみに生きるにあらずは、身体と心を人間(動物にも子供を守るという考え方?はある)なら双方用いて生きていることで、心が行き詰った時には神の口から出る言葉が有用になるということなので、神の口の言葉は身体は受容できない.身体があるのは当然だが、身体強調の場合はひねくれすぎと思う
   



関係の本質自体を根源として根源から出る諸々を関係としていると判断、ただ根源自体の証左が観念的なもので出来かねるという視点・観点から、表現できないものとしたと、または認知力限界とも取れないこともないが.根源ではなくて根元ではないだろうなまさか、原点的な意味合いではなかろうとは思う
   



しかし文章の感じからはYは現存在的でハイデッガーの方が根源的に思える.




根源があるとしてサル型人間が一生懸命玉ねぎの皮をむくように侵入してくる経験がある.インベーダーの頭は一体どのような構造なのか、単純なロボット的なプラマイ的に想定できて、まったくつまらん頭を持っていると、そんなものはどうでもいい単に無駄を要求するだけの馬鹿馬鹿でしかないと思うが




交換と反交換の弁証法的止揚を知らない・考えたくもない.感性が乱れて非常に不便な思いをするだけであり、わざわざ楽しみをなくすような無駄・悩む必要もない.悩みなんぞは自力でいくらでも作れるので他者作用は余計なお世話・負荷でしかあらず.そもそも他者が悩みから逃れようとしているのでは?




忍耐など全くしたくない邪魔な存在であるのは当然で、排除したい存在は明らかなのにこの不愉快すぎる不快な心理事態が気に食わないのである.何か勘違いをされている.反交換は嫌いを好みと受け取るような態度をどうも示してくる.ほぼ経験上は間違いないな、だまっていても反交換者のセリフは好まない




他者に対して自己主体を発揮しているときにその他者が反応しない、しょうがないなと我慢・忍耐をするとそこに同様な反対セリフを逆に突っ込んでくるというばからしさを最近ポアソン的もっと確率が高いか、味わう.思い出すのはYのことで同じような、あるいはドンキホのセリフの弟で、いずれも意図邪魔




今日の若い製作スタッフーの”めぼしいものが出ない”これに尽きるな、確かにそうでありそう思う.この他者女性の反応のセリフでは今年度最高のセリフはまず間違いないな、何しろ生まれる以前の存在からの流れを把握して?、対話の話者に時間を合わせた形か、それでもそのセリフは鮮やかである.




シーシュポスの神話は徒労を意味するのか、馬鹿げていると思いつつしかしなれど個人的には徒労に呪われているとは思っている.実際無駄ばかり要請される・そんなことを思っているから単純頭脳が面白がってしまうことも大いにありそうだな.




ようやく小学生の時のしかしT大を無視できないと思った時のT大のイメージは閉鎖的で複雑さがそこに横切っている像判断とできた.この閉鎖が問題だが優美にとらえると悪くはない.まあ複雑さも問題だが、複雑さはないと困るだろう.
   



すでに幕は開いているのにわざわざ制約をかけてくる時代の遅さをずっと待って=空白で、今頃自己の諦念使用に気が付いているはずだが・・、その諦念使用ゆえに不快な存在なんだ君は、がしつこく記憶にはある.バカバカしい時間を無駄に、浪費をさせる人間のうちの一人である.徒労に呪われている・・・
   



グロクえぐいXYなんぞをモデルにしても良識的モデルにはならない、その時だけのはずが、しつこい不細工である理想存在からほど遠いカザノヴァ欲望者など疲れるだけでストレス構築だけと.
   



えぐいグロテスクな不細工XYにはギリシャの健全なる精神-やキリスト教の理想的男性像の実践・実行が大変なことがわからんようにしか見えないという不快な言明の残っているモデルがいる
   



ダザイもその辺のところはわかっていて、斜陽のママンの品の良さは演技などする必要のない本物と述べている.いやどれほど上品な存在だったか人それぞれの判断能力・美意識・エートスによって異なるから、実際に遭遇してみないことにはなんともいえん.




日本人は他人に対して優越感を持ちたがる傾向が強い?!、そうかな全然わからないが、思い出した昔は何のこともなくごく自然に、人は優越感によって生きると思っていたことを、ほぼ原理かな・優越原理として.これに関してYが以心伝心的に”優越感ね”と覚えている.それ以上に不快を述べたことも




人はだれでも好き嫌いの感覚を人・動物・植物・物象に対して持っている.これを肯定と否定とすると弁証法と何ぞやになり、唯物弁証法とは心の偏りになっていないかと考えてみた.
 



人は唯一的かつ超越的存在として内部把持している存在であるか?
 



叙事の香りから、或る昔から蛇のようにしつこい存在の直感を持っていた存在に対して、偏執的存在と浮かんできた.駆け込み訴えにはその要素があるかな.結局、叙事的な陰謀的色彩イメージがあってロマン性にかける存在なんだと.虚栄心がたっぷりあるようにも見えてきた.
 



遠アーベルとは発散境界とまずイメージしているが消散するとは限らず、境界分岐があることが答えの出ない不可解さを持っていて、紀伊国屋で内部の声が結論をだせと、明晰信仰主義者がいら立ったのかなぜだろうな?.それほど明晰をしたいのなら到達不能基数を何とかするべきだろうと今考えた・・
 



またソロで深甚になってきた、そうそうマーラーといえば真摯性のイメージがあったのを思いだした.
 



単純普通に無限鎖列を構想すると到達不可が出てきて、到達不能とする宇宙が人名などを用いるようなものではなく、普通常識思考域である.グロタンディークの思い上がりか意地かそれとはわからぬ当然の自然なものだったか、おそらくはグロタンディークにとっては自然なものだったろうと推定できる.
 



宇宙際は遠アーベルということで、グロタンディーク宇宙なるものがあったのを思い出して顰にならったか?.”グロタンディーク宇宙が到達不能基数と同値なため”--つまり無限小の先の無限沈降や超準の超実数の周りに超実数が無数にあるといっても、到達不能基数という中途半端でその先は不明と同じ
 



必然的偶然か偶然的必然かMahlerを流すのもそんな心情になっているからだと思いつく.悪乗りで3番バーンスタインと行くか.必然的自由には偶然空間の収束であることは昔から設定していたが、ふと偶然的自由も考えねばと別に思わなくてよいか、永遠とか.まあ普通ににはクロノスの深遠がいい
 



全体主義という言葉はまだ見かけるが、戦前は帝国主義で帝国主義という言葉をここずっと見かけない.確か京大の学者と聞いたが、ボットから政治的な面にはイデオロギーの影があると、イデオロギーという言葉も見かけないがそうかもなと漠然と.平和強調者も何らかの教条的な信念を持っている気がして.
 



無限小の基数ということ、超準は気楽である.”超実数 x, y に対し x − y が無限小超実数のとき、x と y とは互いに無限に近い”--無限に近いだけで分離はしていない.
 



交代形式に呪われているとか、これそれも違うとは思うが畢竟フェルミ粒子とボーズ粒子で、厳密には分離は無限沈降になってしまう.どうしても区別することができないということで、途中で諦めるか妥協するかそうしてその先はあいまいな不明となるとしか出来得ず.
 



サスペンスという境界--の設定をせざるを得ないようだ.どうにも量の圧力がある位相を無視できない形である.




他力はおいどうもエントロピーのことではないかと自我に超自我があるいは自我が自我に自我が超自我に語り掛けるアイデアを浮かべると、そうなるとスピノザの決定論もエントロピーでいいのではないかと、当面現宇宙においてはだと、そうなる.(自我=個人的・超自我=共同的)




そうかあの中学校の校舎の渡り廊下で思った液晶はまだ早いは全くどうでもいいことだった.どうもあるXXの制約が効いているようで、このXXの潜在意識ではろくなアイデアをもたらさない、最も他の女性軍もほとんど同様にそうである故喪あるが、もたらさないどころかそれ以下に制約をかけてくる.




中間存在は自分が中間存在認識しかできないので、そうでない場合の障害になる.また例えば嫉妬心などを持ち出すのも普通である.トライアングル関係で悩まないためには永遠を知ることである.(種々の小説にこの悩みを扱ったものが多すぎるな・・独言)




中間存在が永遠を理解するのは難しいだろう、サスペンスやスリルで日常を生きる面が多いはずである.それゆえに自由を知らないのではという意見が出る、しかもパレート的に80%の人間がこのタイプという信じがたい考えに行き着いてしまうのだが.




俗に?普通に言うホーリートライアングルは字義を考えると神聖的なものではないか、別に永遠の関係だと思っていた.最もソウルタイプの人間は神聖タイプではなく、神聖タイプはスピリチュアルである.思うにソウルタイプは苦悩するが、神聖タイプは悩まないように見える.実際そうだろうと思っている.




読んではいなかった、むしろ読めなかった読みたくなかった夏目漱石の心が中学生の時から年頭にあって、最近読んでみたが、先生と私の関係ではなく、若き日の先生のデルタ形関係の話であったが、やはりその関係物語には違いないなかった.デルタ形関係はしない方がいい考えだが、どうも他者が割り込む




チュブリンはある考えている項目の覚えているうちの図式デザインに直感が意図したので、生理医学的観点からこれを導入しようかと浮かべている.全く観念的であるはずの項目のはずなのに、考えている時は腕の筋肉と神経の流れを浮かべていたことから、チュブリンに関心を持った.普通に自動性が出てくる




強靭には中学生の時からそのシビアさに辟易したイメージで、繊維質もしつこいものは不快である、ソウル繊維なら何かと美人者はいるがだ.まず直感がと小学生の時の胚にも参り、どうも想像が進まなかったが、5日目ということだった.Sはミトコンドリアを持っているとは驚きで、その他にも特質があった




対象を過大評価しすぎる悪い癖がある.評価なき存在には過大評価のために自己卑下しすぎるとか.課題評価すべきものは当然評価するが、自己卑下心理を狙うものが多い・この心理の実際は、君はこんな愚劣な思いをするだけの評価しか与えていないという意味なんだが、勘違いして逆に人々はほぼ受け取るな
   



結局はぎりぎりパスで成立で、もう今更成立したところで感慨はない・ほぼパスするだろうとの思いで、だがらしくない活力のなさは相変わらずやる気を邪魔した存在たちの記憶がこびりついているとしかいいようがないか、それとも体力的な面かな?.思えば時間を無駄にしたものだ.
   



地上に楽園が成立するか、発展した科学が宇宙に人類生存を保護する形ならありそうだが.それなら地上でも同じか、これをマルクスは予想していたかとなると疑問・核燃料廃棄物問題もあるし、マルクスの夢は空想?幻想?夢想?理想?、唯物とはいえ理想なら空想共産主義といえるのだが.
   



源氏物語その内容を読んでみると多少は異なって小説的に思えるかもしれないがどうもあらまし上はつまらない.しかし多くの人々は貴族に憧れとまた殿上人の家系存在の子孫は日常的な話なのだろうが、とにかくあこがれという権威主義者歴然者達はいかがかなと.優雅複合などがある可能性強くありそうだ
   



ビッグリップにはこだわる高校クイズ、角谷の不動点定理も思惟の法則的には同様に見えるのだが、哲学的には同じかなと
   



トロツキーの永続革命論はソビエトを中心にした国際的中央集権的論に見える.トロツキーは頭いいというのが念頭にあるが、こんな正規分布思考ではさほどになってしまう.ある理不尽男が、永続革命論はいいといった.トロツキーの頭の良さの念頭に衒ったかなと.ともかく左の全体主義的な要素は否めない
   



ユートピアとか楽園とかはどうしても内部で何かに守られている場合にしか成立しないように思えてならない.マルクスの共産主義の国家の死滅・貨幣の消去の世界を誰が守るのだろう.台風は来る・偏西風は蛇行する・常夏・常春・春夏秋冬の変化のある気候の地上で、恰も天国のような世界が成立するか?
   



小林秀雄の何かは関係ないな、小学生の時に小林秀雄なる名前を浮かべた記憶はまったくない.なんでも本居宣長の何かが長すぎてじっくりと組まないと考察できないと思った記憶はある.
 



世界霊魂なる考えを見ると本居宣長の霊魂の位置は?となる.本居宣長・小学生の時にはこのきれいなセクシー感触を将来時間の取れるときに対処しようと思ったが、結局今まで対処したことはない.
 



宗教はアヘンはノヴァーリスの引用とはマルクス、共産主義宣言も世界理性を契機とした論展開ではないのかと考えてしまう.青い花はは京都の夜の青いしじまを思い出すが、これは写実的イメージではないものと青い花とは違うかな?
 



自由を求める・自由を味わう・自由を保存する--これらのケースにおいて他者はすべからく災いとなった.それで不快な言明が不快であり除去しようとしている.権力志向者や叙事的存在や中間存在はまず自由の邪魔をする.
 



それでよくよく考えてみると、人々は平然とビッグリップなどを考えるが、ビッグリップを保証する領域は何と思うとビッグリッパーは何も呈示していないようなのだが、無限の場が保証するとしか考えようがないが、有限の無責任がニュートン的に依って無現場を提示しないということなのか?
 



関係とは世界理性のことかな、なんと関係の本質をノヴァーリスが述べていたとか今は直感しているが、この直感は整合してるかはちょっと時間をおいて考察の結果を待つ.時限性---インターナショナルの世界線ならありそうな話でもある.
 



なんだがしかし信じられない乖離である.家系の伝統もよくは知らないがあるのかな、それがあるにしてもそれ以上の構想があるがそれをどのように説明するとなる.乖離か双対か正反対に引き裂かれた形の一人の個人ということだが、人々にはまさかのプライドの壁の障害があるかな?.別に理屈はいらない?
 



まあというわけではなく何回も見ず知らずの人間に不愉快・不都合な誹謗讒言言葉を別に自由に歩いている街中ですれ違い時に言われることはあった.こんな存在がほかにいるのか?、いろいろ考えているからでもあるとは思うが、それにしても不快なことは確かで、無理解力を強調・才能限界を強調せずとも
 



おかげでカントの道徳論がわからなかった悩みを持ったその後、しかし定言なんぞは何でもないはずに、不快なフェルミ型あるいはそのあるXXや悟性の不快さXX&XYとかレベルを下げたか歪めた--あるいは逆に無知な自己投射を受けて無自覚者が自己投射をしているなどと思わない勘違いをしたかな?
   



正しさは人それぞれのような、自分だけが正しいと思っているとストレスがたまるというツイを見た.正解はそれぞれ異なるというほど正解が複数あるか?、正解に対してグレード小分けをしているのではないか、それとも帰納主義的な無責任結論によるとか
   



和泉式部の短歌は頭にとげとげしさ・引っかかりをそう持たずに読める、とにかく短歌を追いづらいのが多くある万首.和泉式部が随一の歌人だったという意見から、スムーズな作品は優秀であり、いわゆるスマートな対象というのは頭をずきずきさせる引っかかりであり、スマートというのはレベルが低い事に
   



空蝉とは現世の意味とな、確かはかないこの世の感触を示した言葉の印象記憶があるが.源氏物語はつまらないというか住んでいる世界が違い、またそんなチイチイパパや丁々発止はちょっと耐え難い.藤原道長や鎮西は小学5年生の時に浮かべたが、摂政とはなにかよくわからなかった.
   



所詮才能ない存在に責任感を与えても破たんするだけという懸念が払しょくできない.特に叙事的XXなんぞに責任感を与えると無謀なやけくそ理不尽責任しか取れず、それは責任とは言わない代物でしかない.特に危険でこれをマズローは低次元の承認要求と称したようだ.確かに何を言うか不明の怖さがある
   



一生不可能な存在にその不可能を要求はしていないが、要求する形になっているのに、価値倒錯でこれが逆認識になっているという、主体阻害者たちの詐欺的態度とか
   



こんな予定ではなかったのに結局あるXXの成長時間・生理時間に合わせる羽目になってしまった.このXXに原因・起因があるとすると大いに当てはまる事象記憶がある.この合わせる時間というのはまずい、そのXXの弟も価値倒錯要請で原因となっているかな--原因・起因者には責任がまつわるはずだが
   



ダークマターを無機的意識・無機的空気とすると、強い・弱い、厚い・薄い、濃い・淡いの差ができそうでランドール的銀河にダークディスクが存在してもよかろうということになりそう.ダーク粒子は量子論のアナロジーに過ぎないのではないか?、ランドールの固有時空は接続にある哲学かなと
   



自らの叙事的存在という精神年齢の低さ・汝自身を知らない無自覚者かな?、それゆえに凶暴暴力的言明をしてくるという限界性?の持ち主たち.体力根性ともに動物力あるのに価値倒錯を洗練演技でカムフラージュしているかのような存在たち.
   



ところがおよそ体力のある存在は根性もあるはずだが、演技に走って気取ってしまう存在も多い.自らの野蛮さを隠そうとしてだろうが、XX&XY共々叙事的存在は体力があり、ボルネオの密林でオランウータンと共に裸足で走り回るのがふさわしいと言いたくてしょうがない権力的邪魔ばかりしてくる
   



冗談・無責任・説得力のないことを真剣的に述べる他者はすでに頭がおかしいとその時に思えばよかった(精神年齢が低いのはおかしいことではない解釈だが)、最も大体の人物は狂人というのは思っていたはずで、どこか頭の隅か深いところにしまい込んでいたようでもある.
   



他者から受ける価値倒錯は他者にとっては冗談の無責任的でなんでもないことと推定してみると、すなわち冗談は説得力がないのだが、他者はかなり真剣に述べたような様相記憶がありそれで不快で除去に悩んでいるというか、他者の精神年齢が低かったからと言えばそれまでなんだが.
   



確か人間失格だったかな、そんな述懐の記述文を目にしたことがある.マルコのこれ”金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい”、駆け込み訴えで喚こうと所詮は・・であるとか.そもそも人間失格なるタイトル自体、人は殺人者でも被害者意識を持つものだに則っているのでは?
   



太宰治・いかように生きても津軽の金持ちの家生まれの権威主義的優越意識を払拭した生ではなかったと思える.
   



どうもむかしから富士には月見草がよく似合うというセリフが引っかかってしょうがない.射影的な近距離と遠距離の対比映像感とは画像的に思ったが、太宰のひねくれたタナトス的ねじれ陰感覚がありそうだ.
   



レンブラントの肖像画も今ではさほどに見えず、カレーの市民の鋳型が1体という、彫刻も模造化の成立があったか、となるとウォーホールが浮かんでしまう.ターナーの幻想画もいいのだが、瞬間の記憶が大事で、その他絵はすべて再見してもいいが、瞬時印象によるかな、人は1秒で異性を飽きるとか.
   



埴谷雄高はブレイクファンだった記述記憶があり、昨日図書館でブレイク評伝を手にしたがやはりブレイクなんぞに趣味はなくつまらない.天地創造の迫力眼には印象があるが、プラトンの幾何学・コンパスデザインの意図がありそうな構図の記憶あり
   



人は意識を持っている.無機物域の意識をダークマターと称するとか、ランドールもこのアイデアは持っていないのではないか?.そんなアイデアはアインシュタインの宇宙項だと述べるかも知れぬ..
   



それを言ってはいけないと考えても発言はまずいだろうというものを、ある種の人々は発言する・してくる、発言する対象が間違っているのだが、勝手に自己優越感の塊のような夜郎自大的倫理意識のような存在で、気が付かずにまともに取り合いいまだにしつこい記憶としてそれらの除去に四苦八苦中
 



要するに駆け込み訴えのユダはキリストにリアルな文句ばかり述べてるが、・特に食物を用意したというところは疑問の追随創作だろうな・だが、個人的にユダ的存在は他者のあらを攻撃するが、ユダ自身もあらばっかりのつじつま合わないでたらめ箇所多き存在で、今更追及もうんざりするしらけといった感触
   



脊髄反射という自由な無責任
   



まあ大体ほとんど行っても差し支えないが、他者に対する超自我判断はその対象他者に魅力がないという判断しかしないので、当の対象他者はそれを他者当人の自我とは認めづらいだろうな、そうした判断を逆にしてくるから許しがたくXX&XYともども不快でしょうがなく修正や除去・消去したいのである
   



超自我・自我以外の新味・新鮮さを必要とするのだが、了解・理解している自我を鏡反応してもらってもつまらないことこの上ない.もっとも鏡反応してもらいたいものはあるが・・人々はしないな.超自我判断を自我的あるいは自己投射または他者設定として反応してもらっても意味なく、超自我反応ならばだ
   



超自我使用時にも自我は自我のままで、個人内対立していようがそれはその通りなのである.実質・実際とかそれも自我のことであり、超自我時と自我を同時には用いないが、超自我時に身体的XXは自我・実質を反応する・結構XYもそうでこれはいかに?だが、その実質・実体は自我・超自我了解済みだよ
   



他人を信じない認めない?、そうではない他人が認めないのである.それはしょうがない.なんだか超自我的対処を他者にしても、自我もまた自己の自我なんだが、超自我的対処時になぜか他人が自我を剽窃?の形で自我当人に述べることは意味がないトートロジーだが、多くの他者はそれに気が付かなかった
   



ペース大学の名を聞いたことがかった、まあマンハッタンなどに行ったこともないからでもあるが、たぶんこれからも行かないだろうな.なぜかアイビーではコーネルが雪解けの春の雰囲気を想定していまい名前だけは印象である.
   



チャーマーズの名を久しぶりで見た.春秋社から翻訳の・意識の諸相が下旬に出ると.しかしなんだなやや滑稽なものだ、叙事的存在に科学か絡んだ形と見た物理主義は無機的な身体必要性が生に対して完全にある場合が多いが、正常意識では・平時ではチャーマーズの弁明など必としないのは当然だろう
   



唯一者とその所有や天上天下唯我独尊とかはその実際感覚としての存在理由は自由を示していると思える.独裁国家はあるがそうなると人は誰でも独裁者であるということになる.孤独が自問するときそれは独りで判断するので、独裁というより人は誰でも独判者であるということか.
   



どうも納得できないので発想の転換をして・・・自由が情況を決定するはいくらか矛盾しているようであるが、前束縛状況に対して自由が反論する形ということになるかな.人間と人間の極限の関係設定条件においては自由が妨げられることが十分想定でき、自由が反論すると.
   



昔横で金がないと叫んだ・強調発言をした人物がいた.言ってもむり、オレも金など持ってはいない.未だにだが、そのころそいつは野垂れ死にするんじゃないかともいった.一体どんな意味だ、仕事だとかも言ってとにかく邪魔でしょうがない、何か扇動的所為.そいつの姉がややの対対象で、今は他妻である
 



何しろ主体を壊す--原始人的反応を要請かもしくは主体乱しということはその対象が不明になり判断できなくなるということで、対象とすることもできなくなるということである.それでしょうがないのでその対象を無視することになるが、それをわからずに味を占めてしつこい存在の除去が困難となっている
 



身体的存在が何かと煩わしいが、最初にロゴスありきという言葉もあり、演繹的クリエイティブは成立する.
 



マルクスの世界を変えるというのは、今までの哲学者は世界を解釈してきただけに過ぎないゆえにということだったのか、スカラーからベクトル化へかな
 



価値倒錯者たちは他人にでたらめを強要しないで、自らの価値倒錯でもしていれば少なくとも他人には迷惑が掛からないだろうという帰結を導いた.
 



人類が存続する必要性がある限り建設的な事柄は勝利するは帰納的帰結より演繹的帰結か
 


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他人は他人をそのように認識したまま自己保存していると、それが自分だと思われることが多い.そうではなく君に対してそのように思っているというのに、無自覚者なのか低劣頭脳なのかよくわからんが全く不愉快・不快な認知能力である.




権力的傾向者の精神年齢は釈迦の手のひらの孫悟空のようであるが、権力志向者自体は自分が釈迦の手のひらになって、いかなる人も・精神年齢など自分より高かろうと関係なく、孫悟空化しようとする・するからそこに相克がある.
   



そのXXはそれがあるいは極端に倫理的にくだらないあるいは原始的存在だという自覚はなさそうで困ったもの.ただ傲慢なうぬぼれ・・ん?、面子意識があるかと今思いつき、一応の地平のプライドメンツ故があるなと気が付いた.普通にそんなことは簡単に思いつくだろうといわれそうだが、それができず
   



バフチンのカーニバルとドストエフスキーがどう結びつくのか近来にちょっと読んだときはわからなかったが、カーニバルとポリフォニーは別の視点なようである.ポリフォニー・確かにカラマーゾフの兄弟の登場人物の設定はポリフォニー的である、それ故に帰納的な状態しか受け取られず互いに離散的未決と
   



どうも帰納的存在が中途半端じゃないかと申したことがある.中途半端なものは中途半端徹底すべきものは徹底で中途半端という考えは演繹的にしない.帰納的な場合はすべて中途半端と思うのかもしれない.ほぼ帰結的に帰納は結論を出せないという帰結は正確であるように思えて.
   



それでもちょっと理解しがたいXXがいて、今では退行的存在は明らかだが今頃自覚しているかどうか追跡不明でわからないが、記憶上煩わしい.陰謀力で自己欺瞞をすでに理解していて行使したか?、あるいは権威主義だが低劣権威の発揮だったとか.離散単体にXXホルモン力が柔軟のスキル知性を与えた?
   



無理解ゆえの甘えと将来理解可能性を持って要るという猶予ゆえにどうも忍耐をしてしまうが、一生無理解のままだとすると将来性なんぞはないという、またそんな存在は積極的自由者なので、消極的自由な時間を延ばしたところで困った事態でしかない.単純化に引き戻したがる低精神年齢者達
   



総じてやや無価値な存在が優越感のためにカーニバル・価値倒錯を用いるということがある.でもそれらはでたらめで秩序の圧力がその後かかっていないか?、その後の検証をしていないので不分明、まあ価値倒錯に気が付かないようであるままくたばったのもいるな.無理解のママは不快だがしょうがないね.
   



今は気が付いているいまだにしつこいでたらめ理不尽倒錯をなぜその存在達はしたのか?と、無知である点がひとつ、精神年齢が低いことが一つ、何らかのコンプレックス保持者か、ルサンチマン現象かとか考え着くが、意味なき無駄なのでそれは価値倒錯であるという認識視点を育むべきと当然そうなる.
   



バフチンのカーニバルはまあ最近知ったところだが、昔からの不快な言明で悩んでいる除去できかねる他者達の言葉は一様的には、カーニバルにおける価値倒錯的なものであるということができ、それに倒錯はないという擁護をした・まさかの倒錯とはその直面時間では考えなかったためだが、いまだにしつこい
   



相転移は脊髄反射と理性反応の壁では?
   



共和国と名の着く国はハードボイルドもちろんで、下剋上のオンパレードのイメージがある.政権転覆など日常茶飯事はいいすぎだが、まずそんなイメージである.
   



順調な時には結論が出ないで、出たときには情況・環界が変化しているというちぐはぐばかり行っている.現実のスムーズにさせない何らかの足を引っ張る圧力が作用してしまう・そのようなものに遭遇してしまうという無駄ばかり行う羽目になる.個人的自覚では悩み・特にペーソス的なものは何かの間違いと
   



中学生の時にどこからともなく真夏の夜の夢という言葉が寄ってきた、夏の夜は蒸し暑くてかなわんと思ったものだ.確かシェイクスピアにあったはずで、メンデルゾーンの有名な曲は散歩曲に導入しているが、かような世界事象があったことはその時には知らなかった.とにかく蒸し暑さは妄想・妄念的だ.
   



向こう数年間おとなしくしていたいな、個人的にはそうもいかない頭脳が作用するかな、とりあえず来年になってみてだ.本来は全く違う意図なのになんだが逆になってしまう.最大値の原理も顔を出すが双対もしつこく絡まるものである.
   



正規分布の領域は想定より少ないとかの文章を見た、いつの文章だったかチェック忘れたがそんな認識を持った人物がすでにいることは悪いことではない.フェルミ型人間は単体・モナドや素数的色彩を覚えるが、ホワイトヘッドは関係なく有機的でないとで、反交換は好まない.素数展開は眺めることは眺める




最大値の原理はいろんなところで顔を出す、とりあえずその多くは不都合であるように、ゆえに疲れまくる.?!-顔を出すはNo.3にある文章だが...




時間があればの類体は非可換とは想定していなかった.時はすでに非可換だったのだが(銅鐸は類似させるなら正規分布的明らかだろう).頭痛くないスマートな柔軟性が類体のイメージだった頃のことで、それは今でも相変わらずの素敵な女性というわけだ.




boron・ボロン鋼を全く知らなかった.しかもボロンの焼き入れ効果は1930年代に知られていたとは.ホウ素の同位体素となると、アモルファスの小学生はホウ素だったことを何年も後から発見する事に.中学生の時に液晶を考えるのはまだ早いと思ってしまったのはなぜか?・今ではうやむやに・・




フェムト・アト→ゼプト・ヨクトとか考えないとすでにの状況になってきたような、フェムタートもはや現実化?で、ゼプ話としないと、まさかの話などでは全くない近未来にそうなるはずで.ゼプの話とは何?-アボガドロの話ということか・化学が変わるかも・そうなると錬金術で悩んだ小学生も意味がある




演技的性格者は捏造やでっち上げをする可能性が高いと思いつく.普通の人にとっては冗談や遊戯的な意味な事柄を、真面目に自然に行うという可能性を




しかしだ漸くにして地平線の構築ができた.不本意な表現は不本意であってそれは意図外で意味なき冗句・遊戯的なものだが、それが真実だと思う存在が多くいすぎたような、なぜ不本意など認めるわけがないことを人々は理解しなかったのだろうと今にして思っても意味はないが、つまり不本意とは意味がない




ことごとくやる気の邪魔をしてきたXXたちというなんと予定外かつ無駄な時間を過ごさせて・・すべての責任はこの意図の邪魔をしたXXたちにある・おっとXYたちもいて責任はそれらにあるとしてよいだろう.しかしこれが他者に理解されるとは思えないかも、現象判断で煩わしく思いそうで.




ABC予想論において入れ子間を自由に動けるもの-睡眠時のであるが生きている意識とか、リアルな物象と直接しているが時空の記憶があるやはり生きていることという現実意識がそれかな.




存在論的ありように組み込まれていてそこから立ち上がってくるその領域を表現しかねるものであろうと、それは体制的だろうと反体制的だろうとそうでなかろうとすべてに通用する考えではないか、自由な意志が絶対的なものするときに、立ち上がっている自由な意志はないのかとも考えるが.




別に作家ばかりが悩むのではない、それぞれの立場・多様な仕事上それなりの苦悩を経た人をどうも評価する.




共感能力はわかる、EQ指数というやつだから、今まではいわゆる身体障碍者と言われていた存在はその立場上悩み多く、苦悩度を評価できるくらいに思っていたのだがどうも違うな、悩めない障碍者もやはり多くいると、中間存在が悩めないように.




自己主体を出さないで保存しているとそれを他者が自己の思考だと思い込んで当人に述べてくるという、当人への無理解と無視とその他者の無自覚・無知と認識能力の低さなど(当人には愚劣で無駄で馬鹿らしくなぜこんな理不尽極まりない認知言明をするのかさっぱりわからず-世の中に実際に馬鹿がいる?)




正規分布がそのままの時代と異なって複雑系が表面に出てきていると、その時間に老境も接触しなければならず、あるルポライターの書物を目にして面白すぎるのと役に立つ実質・ミクロ現象内容である.一様視点を設けるとすれば老人たちの現象は複雑系ゆえにと表現できる.




丈高しが虚無に流れて幸福な味わいという風情




ランドールはT大で来日して講演なんぞをしたんだ.RS理論のあらましがわかった.ダークディスクに直交振動する地球ゆえに異変・恐竜絶滅とかが発生したという考えとダーク粒子は影響を及ぼすとか、なんとか考え出すものである.やはりブライトマンと同じようにわかりそうでわからない好感性の女性




意図がなぜか境界情況に達してしまう、中間的現実に遭遇すということが繰り返し起きると不快になる・そもそも境界域に達すること自体が不快なのに輪をかける形に.なんなんだ経済は中間存在的なのか、いや積極的時間である場合の経済が中間的なのかも.




そのあるXXを対象とすることはそのあるXXに直接言えと、別に言うなとは全く述べていず、常識を悪戯に乱されると余計に変に誤解が増えてしまうという無知にの甘えなる無責任依存症候群者達.




人々の誤解しまくっているあるXXはなぜ認識されないのか・その点が不思議である.認識するどころかそのXXではないのにそのXXだと思い込んでしまう人々の認識能力・認知能力は一体何なのだ??.無責任なでたらめを気が付かずにまともに相手にしたためいつまでも不快が付きまとう記憶を持つ羽目に




権力志向者あるいは権威主義的によくヒステリーという窮鼠猫を噛んだような理不尽的な不快な反応を受けて、思考力が乱れる.全く要らざるすぎる反応など困ったものだ.思考発展に別に何の役にもたたない権力志向形態.最も日本は格差社会である前に階級社会であるらしく、そんな存在が多く疲れると.




そうするとあの市民の希望という明るさの空間に付随してしまう暗黒域はタナトス・人の寿命ということになる.市場原理経済にもタナトス域は付随しているということは、考慮に生理の有限時間を与えないといけないことになると、悩んだ市場原理から暗黒域ヘ進めなかった年前、弁証融合的に現象学的に




いつも思う誰でもそのタイプ・タナトス体人間の無機的硬さという思考マヒする単純さ.死神とかの歴史上に説話はある、鎌を持った魔女とか他、ゾンビやホラー映画はタナトス範疇に入るものとなりて..




例のパターンでもないか、小学生の時に悩んだままどうにもならなかった権力的色彩の硬さはタナトス的と言えそうだ.定義も似てはいる明晰さもそうであるが.




貨幣的に0:80で分かれて、その80がまた0:80で分かれて、その80が0:80でまた分かれて--そうであったこの説明なら納得がいくかな、機会の平等といってもパレート最適を、ジップの経験則に対しての見解を述べないとどうかと思う.




ある店で短くも燃えの楽章を聴いていたら、その屋内の制約感ゆえかとても良く聴こえた.これはNo.0のレベルにあると認定してもよいかなと.普段聞いている限りではそんなことは思わずまあ聞いても悪くない曲であるのと飽きない点が良いが、環境によって優れすぎるほどになるとはさすがの1番




運命の第二楽章は慰安になることを発見した.確かにあの夏の日は思考の戦いの後の散歩時にイメージが良く合ったことから意識しているが、今更に5番に関しては慰めの曲である.または武士道とは死ぬことと見つけたりが合うかもとも思ったが違うか・・・




マートンのノルムは当然当たり前で、そこにザイマンの戦争論的弱点主義があるがそれも現象的現実的に言えるだろうが、それがどうしたとごく普通の当たり前のことだろう.この限りでは現象学的根源がそうしてそのパラダイムが--相変わらず無いままに人々は現実をその日を競争をしながら生きている.




脳幹の太さは短絡と積極的自由を想起させ、脊髄反射的な様相も思い出させる




散歩中に聞くのにどれを選ぼうかと迷う1番、パーシーフェイスのムーランルージュは哀しい曲調だ、まああまり・・、その昔従姉と新宿などをデート(?)中に、ロートレックを好きだろうと言われて閉口したことがある.ロートレックには興味なく、従姉はロートレック好みかも




損益分岐点の心理面---こんな考えを浮かべたので中間存在は積極的自由しかままできず、消極的自由ができかねると思いつくと、親の子供成長という消極的時間に対して、虐待なる現象も発生する要因のうちの一つとか、共和国一般は積極的自由主にの国であるとか・を思いつく.




森羅万象と同体化しているとあるがままになると納得したのではなかったかな.第二楽章前文では、『森羅万象は判明している』としてある.前文で急にヘーゲルが浮かんだが、哲学も意味しているが作品なので.




なんだかんだでドン・キホーテなる店に行ってショッピングをしてしまった.ある女がドン・キホーテと叫んでまずい誤解を受けてしまった記憶に悩んだ時間が大きすぎて.ある男に対してドン・キホーテじゃないんかと思ったことを、あたかもその男であるかのように述べる例の逆・主体疎外&阻害パターンで




ちなみにロメロのアルハンブラ・ヨーヨーマのアンダンテ・ミルズの詩人と私・キュヒの森に夢見る…モーリアの蒼いノクターン・ベートーベンのシレンシオなど、散歩中に良く聴く気に入り曲




科学に哲学があるとすればまさかの思いもよらなかったが、認識論がそれに当てはまってくると見えてきている




ざっとポパーの科学論は第二法則的な言明と見た.単純にエントロピー増大に則って表現しているだけなんだが、反証がよくわからない.弁証法の否定意識からきているか、集合論の補集合か




普通には規則に従う人々80%・従わない人々0%と区分できて、従わない0%と規則を作る0%は比率が同じことになる.ここに社会の煩悶の生じる起因があると、パレート最適観点からいえることと考えた.




社会一般を見ていると人々は規則に忠実なのである.そんなに規則を理解している優秀な存在が多いはずはないと思っていてこの理由は何かと考えると、0%が法律を規則を作り、80%の社会の人々はその規則に忠実に従っているだけという帰結を思った.そうでないと説明がつかぬ.




どうも人は個人存在のみでパレートの法則を持っているという考えに行き着いている.多くはその領域全体を示してパレート最適を当てはめた形だが、それなら個的にも当てはまるはずであると.




普通の人間である場合まことにくだらない・くだらなすぎる人間であるのだが、くだらなすぎるのでくだらない存在であることに気が付くことができないというばかばかしさがある.親鸞は親切で、いわんや悪人おやと救済意識を与えてはいるこのくだらなすぎる人間たちに対しても.




身体を持っている以上この乖離感覚・精髄反射から人は逃れられない.




唯物的観念的・パンのみに生きるか=唯物的・神の口から出ることば=観念・精神的であるかだが、脊髄反射と理性判断の乖離感覚からは、どうにもならない.どうにもならないが衝動が区別・判断を行う人間身体になっている場合は唯物的であることは間違いない.




というか、その現実者が理解していてくれるべき筈というのが正解なんだが、いまだに理解してないかも.そんな人物ばかりで困っている・無駄ばかりするはめになっているということ.




脊髄反射を理性的に判断することには乖離をかんじたことがあった.これは何だなぜこのような位相に変転してしまったのかといった思いで、これを自分が対象となっているから不快なのである.すでに体験了解済みをすっかり忘れていて、現実際に遭遇してむちゃくちゃ乱れてしまった




0と1には確率は存在しない、0と1を無と全と見ることもできる.量子確率は存在するが、量子確率の確率は存在しないという設定である.最も0と1の間でさ迷う存在の確率も存在しない.




個体自身が持っている位置エネルギーと運動エネルギーがある..盲点の社会生活・共同性であった.




科学・もっぱら自然科学を示す、その基底である.--それはいいがそれからさっぱり進まない、科学哲学なるものがあることも不思議には思える科学に対する意識を持っている..哲学があるとすれば帰納的と演繹面の融合したもの・妥協したものは即物現実的とか考えてみるが.




あまりにも下らい・愚劣すぎるXXに位相を合わせる・反位相的な冗談・不本意をしたらそれが現実になってしまうという二重・存在論的くだらなさ.一回限りのその場でしかないはずの意図・予定のものが、その不本意・愚劣さを携えていつまでも持続するという意図反対現実に強烈な束縛を覚えていることに




演技的性格者を帰納面から追うと、真実に対して・その無責任的位相ゆえにミルグラム実験のアイヒマン側に位置することになる.ちなみに偽善もそこには善に対して無責任があるので、やはり善人に対してアイヒマン側に位置することになる.この世の中・現実には残酷シーンがランダムに発生する与件がある




マルクス・エンゲルスの共産社会成立の世界の先には、どうも観念的事象しか残っていないとしか考えられず、その後を述べていないのは唯物の不成立を見たからではないのか?、人間がカルマを持たない状況は、聖人のみか悟り者のみの世界でしか想定できず.




実際にパレート最適はあり得ない、机上や法律・規則上ではあるだろう、なぜなら普通に他者に迷惑をかけない人間などカルマ的生活者にありえないからである.




信頼度確率はワイブルに従うことは確かだろう.いわゆるベル・カーブより先に・短い時間で頂点が来るというのはやりにくいなと思っている.社会の人々の行動を見ていると、どうも脊髄反射的側面が多大にあると思え、この信頼度と脊髄反射行動は結びつくように思えるが、定かではない.




人はパンのみに生きる-マルクスは人間は自然的存在ばかりでなく人間的存在でもあると述べているが、唯物論が科学だろうと実践的弁証法だろうと、明らかにパンのみに生きるを優位に置いた考え方ではないかと思いつく.飛躍して、成立した共産社会のその後を述べないのは無責任とも考えた.




神はそのような自己保存できる傲慢・倨傲存在を好み、そのような存在がむしろ天国に行くという理不尽と思える考えをよく見る.ヨブをむしろ神は悪魔を派遣したりしないで素直に好めばよいではないか、ここには横暴な宗教権力という存在を考えざるを得ない.神もさぼって単細胞的人間を好むという愚劣さ




権力志向型人間に責任意識をと言っても単細胞的責任しか取れない懸念があるので逡巡するところである.バイタリティがあるのだから複雑細胞的責任意識を持ってもと思うが、それほど精神年齢が進むわけではなく、暴力的な凶暴処理しかできないのでどうしたものかということ、その存在自体がまずい結論に




弁証法的を考えると有機物の発生自体は止揚で、無機物と有機物の止揚が人間に心を齎していると考えることは唯物史観者も否定しないだろうと思うが..




歴史の意味があるから、小学生の時からどうしても設定せざるを得ない『奇妙な保管場所』と敢えた表現をしているものところに関係してくることは明らか.




となるとハイティーンの時の市民は希望だけれど、暗黒域が付きまとい消えないというのは、埋没になるとする.そうするとここに現在同時の場合は現実がそこに存在しているということで、埋没はタイムラグを予期させるから当然歴史事実が頭を擡げてくる.ここに歴史の意味がある...




叙事的人間には一生抒情性が無理だから叙事的XX&XYに関してそれだけなんだが、叙事的なXX&XYは抒情を持てないので、異性に関して専制的なのが普通と思っているようで、束縛をする自由の邪魔ばかりにしかならないが、少しは抒情性のなさを自覚はしているかもしれない.




市場原理で明示空間のみで成立するようにしか考えられないが、深淵領域が隣にあってこの関係を全くどうすることもできずに年、たった今憲法法律なる文面を見ていて、埋没費用というアイデアが閃いた.埋没費用ならばなんとか深淵に組み込めることも間違いはないなとは思うが、現象的な事象だけ




個別にその存在のみに対しての損失・無駄・意味なき遊戯的なものなのに、他者が絡んできて延々自己対象となるような位相を受ける、全く不快なことで敷衍する意図はないのに、逆を行使してくるという個人的にも社会的にも損失なことを人々はなぜ行使するのか、非建設的能力が豊かなのだろう.




帰納は結論を出さないといった説得力を感じた米国人が誰だったか見つからない、これから導けるのは、帰納的人間は無責任的存在が明瞭であることになる.これに続いて無責任を前提としている演技的性格者も帰納的存在に近くなる.




ヘーゲルとマルクスの弁証法位置づけ差異は別にして、対立構造を自然に持っているのなら、秩序に反逆することは秩序に対立することであるから弁証法的に当たり前にもなる.弁証法教条主義とか、弁証法はなぜ発生したのかの論を見ていないかも、発生するべくしての理屈だけかな?




思想にとって弁証法とは何かというタイトルものがよかったのかも.弁証論序説とか、有機体は何らかの無機物と無機物の止揚として今日存在しているともいえて、無機物の疎外としてとはタナトス結果論を引用している.




非線形形式はどうも例として浮かぶペンローズのループに刺激を受けているか、パーコレーションとなった電子すら非線形的挙動・散乱し過ぎであるが.電子それ以前でも無限小までは行かずの何らかの中途からの想定でしかないはずで.




ある人物いわく、結局子供に裏切られて死んでいく-よくある普通のことで認識的に本質的だなと感じたものだが、どうも弁証法展開の否定的なままということになるなと.でこの人物の関係は唯物的というより身体的弁証法な色彩のものとドグマ的な位相と見た.ドグマは他者に理不尽を与える事がある




で形式だが、最近非線形形式という視点を考え付いている.線形化という単純さ・それを余儀なくせざるを得ないシステム・システム化だったが、それで対処できないケース過多の日々・時代には考えるのもよろしいのではと、漠然とだがやはり非線形でもとりあえず有限要素として非線形要素設定とおぼろに




皇太子が天皇になればハーバードの香り云々をまあ大体言えなくなりそうで、マスコミされていた心理面での葛藤は消えていく形になりそうと考える.名実の位相から逃れることはできないので、自然にそうなるだろう.--むしろ役に立つこともある可能性もあるか、対外的には.少し皇室がやはり変化しそう




リアリズムの限界かな?、リアルの限界は物事に決定的な面を設けるのは自然かつ必然とか.でもそれは自然に普通に必然的自由で成立しすぎている普通に個々の生き方なのだが.




この体力の限界をさてどのように表現すべきか.女性の場合は特にこの意識が強いと思え、それで嘘ばっかりとか述べるわけだ.特に欲望型ありありのXXはだ.そういえば今ではそれゆえの精神的存在力を優位にしている.どうも体力的限界と精神的自由の関係から、人は生理的限界を持っているが肝心かも




ベートーベンのロマンス50はどうも悲しすぎる、ロマンスではない、よく言えば失恋の癒しの様である.シューベルトのセレナーデも悲劇的過ぎてセレナーデにはなっていない.ダメなんだ史実が伝えるところにおけるその生存過程の異性意識動向から、やはりロマンスやセレナーデものを描いたところで




条件反射は海馬使用を用いないケースが多いと見えることは、海馬使用者に対して蹂躙的な位相を持ちやすいと同時に原始的時間への巻き込みをするために、演技の快感により原始時間のカムフラージュをするという複合があると分析.




意識で不明な対象と感覚的に不明な対象を区別しないとにオリンピックに刺激を受けつつ気が付いた形




叙事的権力志向の不快な存在が頭脳視野にいて不快で、時たま昔のしつこい記憶者が常にだな割り込み邪魔をしているので、不快ツイートが出る.なぜか嫌いで避けようとしているのに割り込んでくる嫌な傾向の存在者達であるのはなぜなのか、無茶苦茶な感情無視の動物的弱肉強食の非人間的しかできない存在




オールトの雲からの隕石や銀河を揺動する太陽系か、人は考えるものだ.銀河回転と太陽の位置と地球に及ぼす熱の関連が知りたいところ、その辺で縄文の海進や北極海の氷の量とかやや説明できると思うのだが.




仮象夢像はいい線である、思考構造は現宇宙現象学的かな-ランドール




迷える子羊・現代宇宙物理理論学者達、




身体をシンプ・精神をウィンプとする類似を考えてしまう.ランドールは面白い.なんというか刺激剤なんだがダークマター、ランドールは夢を見すぎているがガウス的面のみには正解といえるかな.




シンプ・矮小銀河の朦朧体は絵画的には悪くない.




”ダークマターが母親、世界を作った助けてくれた”(これが何でもない普通の教養になっている時間とは、空白時間はまずかったか)この考えはまず正解で、人間は単純に陋劣ではないことの証明であるとは思う.




琉球政府の暗部はほかに何があるのだろう、権力に暗部はつきものとは素直に了解できるが、明示空間の市民存在に暗部が付いているのはなぜか?




イゾラドは推定500人くらいだとか、ヤノマミ他など、まもなく地上から完全な周辺地域がなくなりそうだ、その時人類史上のエポックは成立するだろうか、多様な文化時間差異のまま変転して行きそうでもある.



燈火
@lakudya とても昔からあるのには驚きますね。そう考えると沖縄の独立運動は欧米勢力は確実に絡んでいると思います。やり方が英仏がやっているのと似ていますからね。 だから「中国がー」は罠でしょうね。もちろん関与はしていますが、欧米も一緒に叩く必要はあると思います。
 1 month  in reply to lakudya





国民主権に関しては、公務員が国民のしもべ意識を持たない限り、公務員は国民の権威であると思っている限り、国民の主権は形式・建前・対外的なものにしかなりえない.




もうあまり聞くこともないだろう「恋は水色」を聞いたらさすがに、古の想い出がよみがえる.月の大雪の後に一人奥秩父十文字峠に行こうなどと無謀なことを実行して、結局一夜のビバークの後の正午時に諦めて、雪の上に寝転んで休んでいるこの気分は恋は水色がよく似合うのも鳥栖彼女故だったかな?




朝の鳥栖駅のホームでいろいろな心理の錯綜故に糸が切れたままになってしまったが、列車を降りて人で歩く駅のホームのイメージはさすがにNo.0のさわやかさが思い出される.




割り込み当然とするのは何なんだ、三角関係なる疲労をなぜしなければならないのか、そのような人は関係に関してそのような関係でないと依存をできずに確信的なものを持ちえないからだろう.所詮は持ちえない存在で悪あがきにしかならないのではないか、いずれにしても乱暴な疲れる欠如関係者たちだろう




ポールモーリアもさすがに遠い昔になりゆく・・・、恋は水色はは途中で切断してしまったにもかかわらず相変わらずの想起である.一様関数は?の問いは愚問で発散するは明らかだが、ケースがある場合は前提がそもそも特殊になっているだろう.一様関数は結局成立せずの割り込み邪魔が入った鳥栖駅で..




判例法は帰納的、制定法は演繹的と哲学論理的に判断できるが、米国学者がパリに行って抗議して多少の戸惑いを覚えるという、いまだにある事実はいかがなものかと思う.完璧心理が齎すものはどうも明らかに帰納的と言える判例領域になるな.帰納が演繹を曖昧にするした経験があり困ってしまう目白駅歩き




レヴィナスは誰か芸術家に知り合いはいなかったのか?、いささかげんなりしてきたな.




人が嫌がっているのを嫌な対象は全く気にしないか好まれていると勘違いをなぜかよくされるのはなぜだろう?、あまのじゃくたちなのか?.人の親切心を利用しているだけの悪徳者達か、親切心を愛情と思っているかも、その場合別に特定の人に親切なのではない.むしろ嫌なのに親切にせねばと韜晦強く困惑




実存もその本質が本質以前なので不快でしょうがない、人々は勝手に実存を要求してくるし、まあカルマは実存的豊かではある.帰納も確信の邪魔をして不安定をもたらすことでもあるし、演繹かつ本質的人間もいるのである.カフカはふとなんという無駄な作品を描いたのだろうと最近思うことがある.




真理は単純である、真理のシンプルさに到達するまでに無数の葛藤があるというパーコレーション理論を用いるべきかと思う.そうなると単純にα空間・歴史の流れに従って生きるだけという形になるだけになってしまうので、少し位相を考えるだろう、そのように認識できる人は.




実存の暗さと明るさ、市場原理を考えたときに明るさの部位でしか思考ができす、くらい深淵がすぐ隣に十分な領域を持っているのに、どうしても使えず何とも頭が動かない.陰陽も普通には暗さと明るさを連想させる・ここからだと地球の自転による昼と夜になってしまうが




パスカルがどうかしたのかニーチェによると?、実存の無神論者という設定の合理化のために発狂とは、89年のコジマへの手紙はカルト的すぎる.まあそう思うくらいの想像思考をしたともいえるが.ニーチェは実存主義者だったのか、実存には暗さと明るさがあるのはわかっている.




直感が気楽にコルニュをなんだが、無限小と斜交方向性をシンプレクティックをこじつけてとかも考えることができるな.まあ作品内容具体的ミクロ感表現だが.




困ったコルニュの螺旋、超多時間の壁がもう一方の螺旋を結び付けてと、有限なので繰りこみをマスターしているとか理屈を考えるが、有限は中間的・・だが待てよ、消失点は中間を超えて無限小に向かっているではないか・・・No.th




レオノーレ序曲にイメージしていたXXがいた、中間存在というか中学生の時に非常に苦痛を感じた苦い思い出を思い出して、その時の対象は男だったので、XXの場合は異なるかとはその時には考えなかった.帰納ではなく演繹、最初にロゴスありきで、先に思考が成立しないと行動は伴わないという演繹




踏襲人間は秩序的で、秩序といえば六法全書か判例集以上のものを秩序的人間は考えないはずである.考えれば少なくとも現在時間の秩序にそぐわないからである.なまじそんな人間も喜怒哀楽を持っていて煩わしいので、六法全書でも見ている方が煩わしくなくて済むという方策もある.




しかし天邪鬼たちは全く逆な態度をとったものである.別に無駄や問題は十分自分で作りや発見をしているので、他人から弁証法的対立など余計なものでしかなく、また嫌悪を強調させないでもらいたいものである.嫌な存在で邪魔で厄介な荷物で関わりたくないという存在に限って干渉してくるという愚劣さ




ガス灯-バーグマンではこの映画がカサブランカより気になる.ガスライティングを受けすぎている結果、ツイートに愚痴が出る.主体を取り戻そうとしてだが、 それにしても無知をいいことに人々は迷惑な主体疎外を強制してくるものだ.少し考えればわかることなのに、主体疎外なんぞを要求する筈がない




恥知らずというかそのプライド自体の価値が低いことを認めようとはまあ普通の人はしないが、分別あるならば低いものは低いと了解できるはずである.




徒労に呪われているとは若き義務教育時代の付近からそうてしていたことだが、個人的判断によるものならいいが、他者から最もおよそ徒労は他者から受けやすいもので、徒労を受けるその他者の存在価値は低いもの・その強度により低すぎるものと思うことに最近はしている.




役に立つセリフならいいんだが、これら啓蒙専制バカたちは、役に立つ・価値あるセリフと思い込んでいるようで、まだそれだけならいいが、でたらめ・理不尽を述べてくるのもいたから困ったもので、足を引っ張られてばかりとなり、散々な目にあった始末となっている.




思い出してみると、荀子的な知識者たちが啓蒙意識なのかその知識力開陳で邪魔ばかりしてきたな.うぬぼれに思えるが、伝統的システム順守における知識獲得意識がそうさせるだけで、新たな視点構築意識はない評論家意識にしかなっていないので邪魔というしかないのである.




昔ニーチェを読むといいですよといった男がいて余計なお世話の邪魔なセリフとして覚えているが、アポロン的ディオニソス的はよく知っていたので余計に不快に思ったか、また真昼の太陽もある街で味わっているのに、余計なセリフを述べてくる人材達は全く、人の認知能力を侮辱しすぎのうぬぼれ陋劣者達だ




後ろを振り返るなは伊弉諾伊弉冉神話に後ろを振り返るなが確かあったような、ソドムとゴモラの話で個人的には記憶していたが、確かさを確認ししてはいない.




01年度アバランチ的に女性登場となるとNo.5的であるのも確かな現象と考察できる..




不可能に対して不可抗力.st




クレイダーマンの渚のアデリーヌを聞くと、夏の早朝湘南の他に人のいない浜辺で水と戯れている乙女をそばで見ている気分になる.蒼いノクターンは高層階のレストランで夜景を見ている変奏の似合う女性をやはりそばで見ている気分を描く.




身体的即物的には物価を下げるや消費税を下げるはエントロピー的で、そうするとGDPが一定線であまり変化しないと、相対的に成長したと錯覚を時間することだろう.エントロピー的とは希薄に成長するということで、個体的よりより液体的に液体的よりより気体的に成長するということでGDPを上げる-




積極的自由処理をしないといけない政治要請もあるが、人々は目の前進歩・実感・若さのポテンシャルに食いつきたくなる傾向が当然の如く普通にしてあるので、ここにエントロピー要素を入れるのは難しいだろうが、現実はそれを要請している.




仮に歌会始の歌を万葉的に編集すると雑歌に含まれることになるのでは?、歌会始の精神は戯れてはいないと思えるが、時を経ても位相上の位置づけは同じようなものであろう.もっとも平安時代に天皇家付近で慰安的な歌会があったのかもしれない・そうなると時代区分をつけねばならないが、戯れ歌は不快




茜さす紫野をとその返歌であるとしている歌が雑歌にあることから、宴会でのざれ歌にしたという解釈、天皇家系の歌は恋歌・挽歌以外雑歌にあるということで、万葉集の編者もいささか区分に無理があるなとは思う.戯れ歌という表現が気に食わないのかも、茜さす紫野は戯れにしては洒落すぎている.




複雑な現象の重なりを一瞬でとらえようとするとさすがに無理で錯乱気味になってしまう、人々のよくやるようにそのような対象は排除して・あることを否定して・あるとも考えずに・あったとしても他者に任せて・自己が関与しても依存を活用してとかするという態度もある.ゆとりといえばゆとりであるな.




なぜ剽窃に気が付かない人や対象ではないという誤解などを形成してしまう人間が多いのだろう.日本的集産主義と個人的主体的の欠如によることはわかっているが、あまりにも滅茶苦茶なでたらめを受けているかな.ひとが忍耐しているとそこには無責任の自由があってその誘惑に負けて侵入したがる人が多い




著作人格権・思考内容脳内保存中のものには人格権は成立しないとはいうものの、プレ侵害的なものを受けて逆に人格権の移動のようなことは全く不快である.自虐する優越感という自己道化化という単なるふざけがしつこく悩ますという事態に直面しすぎ.しかし今も影が自己主体発揮の邪魔をしている..




なんか言いたい事をツイートし終わったという気分である.ネットリンクの処理が全く終わっていないのに、パス的に終了か?、どうもそういうことになってしまいこれはどんな現象なのかと不思議な想いにもとらわれるが、実際にそんな気分になっている.ツイッターを止めるつもりは全くないが




先取りした心理がいざ現実になるとあたかもやはり先取りは現実にかなわないという形になってしまうが、現実者が先取り事態を考慮しない・考慮できない頭脳の持ち主のようである.考慮で来たらよかったのだが..




ユーモア・機知で場の展開をするのはいいが、してほしくないときにそれが発生するのは強制となり不快なものだ.人の思惑気分などを加味しないようにTVなどで感じるが、その場では楽しいことなのか、あるいはブラックユーモア・ブラック機知を狙ったタナトス不快的な面もあるのではないか.




バウンス論で量子が寄与したというありそうな希望的見解を述べたチームがいたが、ヒッグス時に量子はなかったのではないか?、後からのこじ付け的に思えないこともない.一番のバウンス寄与はダークマターに他ならないだろうに.そもそもダークマター自体が不明だから、物理学者何も言えんと.




あるXXを悪魔のような奴だと頭の中で思考したまま保存していると、他者から悪魔のような男だと思われる可能性が従来の様々な経験遭遇上から判断できることに気が付いた.そう思われているかも、とにかく無知な認識能力者に誤解やでっち上げ歪みを想定されすぎて、困っているもので.




平田篤胤にとって本居宣長は特別な存在だったのかもしれないが、他の多くの人は本居宣長ではないはずなので、魂に差異があることを思わせる縦型構造思考が伺われる.そうはいっても始まらないが・・・




まったく知らずの政治内実状況だったが、考えられなかったがいくらか考えが進んだ..さてである、TLで見かけたカルト教とかでアジテート的感情反意でなく考えが必要かと思う、宗教の特徴は瞑想と流血と殉教であるので、そのうちの一つが強意になると、偏向的になるのは否めないところがカルトと?




一概な単細胞的ではなく、多様なケースにおいて多様な対処意識を持つのは普通だろう、むろん一様性・射影頼みのみ人間は不快ではあるが、などは単純であるはずなのに、種々の見解からこじれてきているな.もっともの原因は演技型の陰謀強要自然当然意識がそれ、非常識ということが不明な無自覚陰謀型




なんでも推定疎外感を受けているようで、好奇心で存在理由を考えると勘違いされてしまうことが常にである.別に趣味でないスタイルセンスは嫌いなんだが、つまり実験の結果が明らかにこのように生じているのに、その説明が理論的にできないというケースである.他人には理解できてもどうにもわからない




アーレントに普通の悪の凡庸さ特筆があるが、極端・過剰な依存性を凡庸な人でも持ちえないか、個人的に始末に悪いのは、他者の思考に過度に依存してその個人自体には魅力ないのに、自己欺瞞持であるところの持ち上げをせざるを得ない補償か複合かという存在.




べつに荀子的性悪人間に教育関係を要請される理屈を持っていず、そんなものはいらない.むしろ性善を性悪とみてしまうその固有性を変えろと言いたいのである.




ニューソートがあり、エマーソンは「個人の無限性」や市民的不服従はソローのだったとかを知ることになった.無限の愛はわからず、愛の無限ならわかるがで、無限の愛は他力的ユートピア的汎神論ではないのか?




荀子的性悪型が性善説型人間を性悪人間と規定しそれに伴う判断言明を行う時、間の抜けた勘違いか、自己投射を行っているかである.自己自然がそうなら他者の自然も他者自然とみるのが普通である.そうしない性悪人間は不当な理不尽を行っているのだが、これに気が付かない性悪が多すぎる嫌いがある




積極的自由の不当な、倫理・節度を欠いた思考が深いと思い込んでいるような存在が浮かばないこともない.倫理・節度を嫌う深い思想とかなんとかの理不尽さ肯定の言い訳のような、原始的存在は倫理・節度意識はどうしても未発達としか考えようがなく、深いというのは時間過去遡及の原始時代のことでは?




小学生の時に姉と行った霧霧藻ヶ峰で見たサルオガセの幽山深谷の雰囲気がいい-渋みのイメージにも似ている.確かここで初めてかなシノブを見た・認知した記憶なんだけれど.霧藻ヶ峰の岩肌になぜ人物像のレリーフがあるのか、そもそもここは一体どこなんだ・地理比較ができなかったのも記憶にある.




XXが反映しても・普通にXXはそうしてしまうものだが、許可していないXXの反映にはほとほと後々のコンディション調整が困難になって困るのである.そもそも必要な考察をした反映ならいいのだが、単純反応など自己反映十分容易なので不必要な代物なのである
しかしどうも人間的に不自由で不快な有限束縛を考えてしまうが、脊髄反射は共通時にもあり、妙な感触の通時のサスペンスも措定せねば、あたりまえのスリルとなっているように見ていたが、リアルより間接的にで.数がどうも多い圧力がある.普通に仏教などで悟りのできる人間は数少なく、人々はそれ以下

XXに限らずXYも.人のふんどしで相撲を取っている・しかもその持ち主の当人を前にして堂々と語るために、持ち主の当人を他人に措定するという非常に当人にとっては迷惑な存在たちXYが不快で、この気分の悪さの除去が必要と何十回となくツイートしているのは、不快の除去がまだできないためである




いろいろ話を聞いていると、どうも縄文の伝統故という考えが浮かんだ.




人間の身体構造は医学的に明らかに複雑だが、その身体構造をもってしても単純な線形思考とその逸脱しか持っていない人間存在の多さを想定できる.実験結果に理論が追いつかいように、現実事象も単純化してしまえばの観点はあるが、難しい局面があるはずである.そこに単純頭脳がぶつかると理不尽などが




が方法論的に当事者同士で話をしていても埒が明かないのでその元と話をするという考え方はある.事象の周辺をさまよっているより本質を先に獲得するという方策は有用である.




経験--そうか英国のEU離脱は、大陸と判例の考え方・哲学の違いがあるな、演繹的な大陸EUと英国の帰納式コモン・ローの哲学的違いが.
   



弁証法でも二大政党制でもなんでも『交替』という考え方は否定していない・取り入れているので、とりあえずは交替なんだが、ある国のある時期疲れた?政権が交替した時が一度あった・・・
   



「他人の金で政策を行うものが善政をするはずがない」という欲望的存在前提確信的な発言を知った.他人が作った法律・規則を遵守する人間もそのようなことが言えて、大なり小なりアイヒマン現象のグレードを持っているとみる.実際に横暴な権力者権威主義者がいるだろう.作成する人間はどうかな?
   



今でもよく覚えているある祭り的な事象の場で、道長を浮かべた小学5年生、ただしその時に九州の方に島流しにあった信西だったか鎮西だったかあいまいな人物も浮かべたのであるなぜか..島流しにあったのは信西ではないまた時代が違った.鎮西八郎も道長より100年後以上の存在ではないか・・時間が
   



さすがにハイデッガーも存在と時間は未完に終わっている.根源論が展開できなかったからだろうと推定-超越壁からの戻りで、それは昔からわかっていたが何十年たっても進展しない.レヴィナスがわかりづらいのは根源に抵触しているからだが、全体論にしかできなかったという、やはり超越が難点
   



シュペルヴィエルの名を久方に見て、ネルヴァルを思い出す.カバラやヨハネ黙示録も登場とはやはり身体を使った詩人といえば、ロートレアモン・ランボーよりネルヴァルだろうと思う.蒸し暑い夏の蒙昧の身体的不調の時に引き寄せた昔の記憶が今やわずかにだがあり..
   



そのxxはあるXYと一緒にもはやすでになっているのだが むちゃくちゃな過去形蒸し返しを人々はしたものである.そんな態度をとると虚偽で無責任の甘えが成立するからか?、そのときは結構まともな認識・発言で、経緯を知らないXX&XY達はしたものと見えた.不可解.そのxxは排斥したいのに




深淵が介在する乖離はフェルミ存在体感時に思ったこと、この通常と異なるこの世界はいったいなんだ、まったく信じがたく通常に戻せるかと思ったものだ.それがのちに今でも邪魔になっているあるXXの存在実在のそっくりな体感だったとは..




竹取物語を浮かべたのは家の前のまさにちいさな竹林だった、それより49=*をその時に考えたことが不思議である.この数字には何か意味が有りそうだがと、何十年後の今、不意に竹取物語のあらすじを眺めたのは、なぜか・・49のイメージに合う記憶存在がいる、女王としたのはミスあきらか.




Izumo1-Juno複合体が分かりつつあるという時間ーーこの構造がある感情に寄与するとして何十年。今迄よくわからなかったのか、まあ心情としては不明なままが良い方向だが、何らかの病変要請があると致し方ない面もある。
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自己伝記も相当でないと潤色がまざる・告白懺悔は個的にできかねるものだも義務教育時代に意図設定したこと.告白・これはルソーではないかな、アウグスチヌスは別世界的なので.(告白のあらましを見ると別世界でもなかった読み物ではないかと)、Yが転校した頃ウェルギリウスが浮かんだのに13の春
   



そのころのすったもんだをようやく処理できたかなで、ずっとまずかった時間の修正を追い求めて可能になるか、挑戦は当然するというか、埋めないと気分悪いが埋まるかどうかは難しい.生理の時間は確実に覆水であり..
   



それにしてもある時ある場所でみた悲しみではなかったのかもの映像が寄与しているか、脱却できず.そのXXはアルファ的には十分・ちょっと信じがたいがそうであることははっきりしている体感があるが、θを意図してしているためこの時の想像イメージにより別のXXに非常に不都合が生じまずい事態に
   



最後の帰り道で同志社の女子に聞く、ヨット部ある?あると、昔の琵琶湖のヨット話は事実間違いなく、まあ疑いもしなかったが金持ちの話を出されても困った0歳の記憶.いまでもそうだが、その反対でもいいのだったが、今ではプレッシャー大を感じることに、なんというか色々無駄要請の圧力強すぎ
   



パンのみに生きるにあらずは、身体と心を人間(動物にも子供を守るという考え方?はある)なら双方用いて生きていることで、心が行き詰った時には神の口から出る言葉が有用になるということなので、神の口の言葉は身体は受容できない.身体があるのは当然だが、身体強調の場合はひねくれすぎと思う
   



関係の本質自体を根源として根源から出る諸々を関係としていると判断、ただ根源自体の証左が観念的なもので出来かねるという視点・観点から、表現できないものとしたと、または認知力限界とも取れないこともないが.根源ではなくて根元ではないだろうなまさか、原点的な意味合いではなかろうとは思う
   



しかし文章の感じからはYは現存在的でハイデッガーの方が根源的に思える.




根源があるとしてサル型人間が一生懸命玉ねぎの皮をむくように侵入してくる経験がある.インベーダーの頭は一体どのような構造なのか、単純なロボット的なプラマイ的に想定できて、まったくつまらん頭を持っていると、そんなものはどうでもいい単に無駄を要求するだけの馬鹿馬鹿でしかないと思うが




交換と反交換の弁証法的止揚を知らない・考えたくもない.感性が乱れて非常に不便な思いをするだけであり、わざわざ楽しみをなくすような無駄・悩む必要もない.悩みなんぞは自力でいくらでも作れるので他者作用は余計なお世話・負荷でしかあらず.そもそも他者が悩みから逃れようとしているのでは?




忍耐など全くしたくない邪魔な存在であるのは当然で、排除したい存在は明らかなのにこの不愉快すぎる不快な心理事態が気に食わないのである.何か勘違いをされている.反交換は嫌いを好みと受け取るような態度をどうも示してくる.ほぼ経験上は間違いないな、だまっていても反交換者のセリフは好まない




他者に対して自己主体を発揮しているときにその他者が反応しない、しょうがないなと我慢・忍耐をするとそこに同様な反対セリフを逆に突っ込んでくるというばからしさを最近ポアソン的もっと確率が高いか、味わう.思い出すのはYのことで同じような、あるいはドンキホのセリフの弟で、いずれも意図邪魔




今日の若い製作スタッフーの”めぼしいものが出ない”これに尽きるな、確かにそうでありそう思う.この他者女性の反応のセリフでは今年度最高のセリフはまず間違いないな、何しろ生まれる以前の存在からの流れを把握して?、対話の話者に時間を合わせた形か、それでもそのセリフは鮮やかである.




シーシュポスの神話は徒労を意味するのか、馬鹿げていると思いつつしかしなれど個人的には徒労に呪われているとは思っている.実際無駄ばかり要請される・そんなことを思っているから単純頭脳が面白がってしまうことも大いにありそうだな.




ようやく小学生の時のしかしT大を無視できないと思った時のT大のイメージは閉鎖的で複雑さがそこに横切っている像判断とできた.この閉鎖が問題だが優美にとらえると悪くはない.まあ複雑さも問題だが、複雑さはないと困るだろう.
   



すでに幕は開いているのにわざわざ制約をかけてくる時代の遅さをずっと待って=空白で、今頃自己の諦念使用に気が付いているはずだが・・、その諦念使用ゆえに不快な存在なんだ君は、がしつこく記憶にはある.バカバカしい時間を無駄に、浪費をさせる人間のうちの一人である.徒労に呪われている・・・
   



グロクえぐいXYなんぞをモデルにしても良識的モデルにはならない、その時だけのはずが、しつこい不細工である理想存在からほど遠いカザノヴァ欲望者など疲れるだけでストレス構築だけと.
   



えぐいグロテスクな不細工XYにはギリシャの健全なる精神-やキリスト教の理想的男性像の実践・実行が大変なことがわからんようにしか見えないという不快な言明の残っているモデルがいる
   



ダザイもその辺のところはわかっていて、斜陽のママンの品の良さは演技などする必要のない本物と述べている.いやどれほど上品な存在だったか人それぞれの判断能力・美意識・エートスによって異なるから、実際に遭遇してみないことにはなんともいえん.




日本人は他人に対して優越感を持ちたがる傾向が強い?!、そうかな全然わからないが、思い出した昔は何のこともなくごく自然に、人は優越感によって生きると思っていたことを、ほぼ原理かな・優越原理として.これに関してYが以心伝心的に”優越感ね”と覚えている.それ以上に不快を述べたことも




人はだれでも好き嫌いの感覚を人・動物・植物・物象に対して持っている.これを肯定と否定とすると弁証法と何ぞやになり、唯物弁証法とは心の偏りになっていないかと考えてみた.
 



人は唯一的かつ超越的存在として内部把持している存在であるか?
 



叙事の香りから、或る昔から蛇のようにしつこい存在の直感を持っていた存在に対して、偏執的存在と浮かんできた.駆け込み訴えにはその要素があるかな.結局、叙事的な陰謀的色彩イメージがあってロマン性にかける存在なんだと.虚栄心がたっぷりあるようにも見えてきた.
 



遠アーベルとは発散境界とまずイメージしているが消散するとは限らず、境界分岐があることが答えの出ない不可解さを持っていて、紀伊国屋で内部の声が結論をだせと、明晰信仰主義者がいら立ったのかなぜだろうな?.それほど明晰をしたいのなら到達不能基数を何とかするべきだろうと今考えた・・
 



またソロで深甚になってきた、そうそうマーラーといえば真摯性のイメージがあったのを思いだした.
 



単純普通に無限鎖列を構想すると到達不可が出てきて、到達不能とする宇宙が人名などを用いるようなものではなく、普通常識思考域である.グロタンディークの思い上がりか意地かそれとはわからぬ当然の自然なものだったか、おそらくはグロタンディークにとっては自然なものだったろうと推定できる.
 



宇宙際は遠アーベルということで、グロタンディーク宇宙なるものがあったのを思い出して顰にならったか?.”グロタンディーク宇宙が到達不能基数と同値なため”--つまり無限小の先の無限沈降や超準の超実数の周りに超実数が無数にあるといっても、到達不能基数という中途半端でその先は不明と同じ
 



必然的偶然か偶然的必然かMahlerを流すのもそんな心情になっているからだと思いつく.悪乗りで3番バーンスタインと行くか.必然的自由には偶然空間の収束であることは昔から設定していたが、ふと偶然的自由も考えねばと別に思わなくてよいか、永遠とか.まあ普通ににはクロノスの深遠がいい
 



全体主義という言葉はまだ見かけるが、戦前は帝国主義で帝国主義という言葉をここずっと見かけない.確か京大の学者と聞いたが、ボットから政治的な面にはイデオロギーの影があると、イデオロギーという言葉も見かけないがそうかもなと漠然と.平和強調者も何らかの教条的な信念を持っている気がして.
 



無限小の基数ということ、超準は気楽である.”超実数 x, y に対し x − y が無限小超実数のとき、x と y とは互いに無限に近い”--無限に近いだけで分離はしていない.
 



交代形式に呪われているとか、これそれも違うとは思うが畢竟フェルミ粒子とボーズ粒子で、厳密には分離は無限沈降になってしまう.どうしても区別することができないということで、途中で諦めるか妥協するかそうしてその先はあいまいな不明となるとしか出来得ず.
 



サスペンスという境界--の設定をせざるを得ないようだ.どうにも量の圧力がある位相を無視できない形である.




他力はおいどうもエントロピーのことではないかと自我に超自我があるいは自我が自我に自我が超自我に語り掛けるアイデアを浮かべると、そうなるとスピノザの決定論もエントロピーでいいのではないかと、当面現宇宙においてはだと、そうなる.(自我=個人的・超自我=共同的)




そうかあの中学校の校舎の渡り廊下で思った液晶はまだ早いは全くどうでもいいことだった.どうもあるXXの制約が効いているようで、このXXの潜在意識ではろくなアイデアをもたらさない、最も他の女性軍もほとんど同様にそうである故喪あるが、もたらさないどころかそれ以下に制約をかけてくる.




中間存在は自分が中間存在認識しかできないので、そうでない場合の障害になる.また例えば嫉妬心などを持ち出すのも普通である.トライアングル関係で悩まないためには永遠を知ることである.(種々の小説にこの悩みを扱ったものが多すぎるな・・独言)




中間存在が永遠を理解するのは難しいだろう、サスペンスやスリルで日常を生きる面が多いはずである.それゆえに自由を知らないのではという意見が出る、しかもパレート的に80%の人間がこのタイプという信じがたい考えに行き着いてしまうのだが.




俗に?普通に言うホーリートライアングルは字義を考えると神聖的なものではないか、別に永遠の関係だと思っていた.最もソウルタイプの人間は神聖タイプではなく、神聖タイプはスピリチュアルである.思うにソウルタイプは苦悩するが、神聖タイプは悩まないように見える.実際そうだろうと思っている.




読んではいなかった、むしろ読めなかった読みたくなかった夏目漱石の心が中学生の時から年頭にあって、最近読んでみたが、先生と私の関係ではなく、若き日の先生のデルタ形関係の話であったが、やはりその関係物語には違いないなかった.デルタ形関係はしない方がいい考えだが、どうも他者が割り込む




チュブリンはある考えている項目の覚えているうちの図式デザインに直感が意図したので、生理医学的観点からこれを導入しようかと浮かべている.全く観念的であるはずの項目のはずなのに、考えている時は腕の筋肉と神経の流れを浮かべていたことから、チュブリンに関心を持った.普通に自動性が出てくる




強靭には中学生の時からそのシビアさに辟易したイメージで、繊維質もしつこいものは不快である、ソウル繊維なら何かと美人者はいるがだ.まず直感がと小学生の時の胚にも参り、どうも想像が進まなかったが、5日目ということだった.Sはミトコンドリアを持っているとは驚きで、その他にも特質があった




対象を過大評価しすぎる悪い癖がある.評価なき存在には過大評価のために自己卑下しすぎるとか.課題評価すべきものは当然評価するが、自己卑下心理を狙うものが多い・この心理の実際は、君はこんな愚劣な思いをするだけの評価しか与えていないという意味なんだが、勘違いして逆に人々はほぼ受け取るな
   



結局はぎりぎりパスで成立で、もう今更成立したところで感慨はない・ほぼパスするだろうとの思いで、だがらしくない活力のなさは相変わらずやる気を邪魔した存在たちの記憶がこびりついているとしかいいようがないか、それとも体力的な面かな?.思えば時間を無駄にしたものだ.
   



地上に楽園が成立するか、発展した科学が宇宙に人類生存を保護する形ならありそうだが.それなら地上でも同じか、これをマルクスは予想していたかとなると疑問・核燃料廃棄物問題もあるし、マルクスの夢は空想?幻想?夢想?理想?、唯物とはいえ理想なら空想共産主義といえるのだが.
   



源氏物語その内容を読んでみると多少は異なって小説的に思えるかもしれないがどうもあらまし上はつまらない.しかし多くの人々は貴族に憧れとまた殿上人の家系存在の子孫は日常的な話なのだろうが、とにかくあこがれという権威主義者歴然者達はいかがかなと.優雅複合などがある可能性強くありそうだ
   



ビッグリップにはこだわる高校クイズ、角谷の不動点定理も思惟の法則的には同様に見えるのだが、哲学的には同じかなと
   



トロツキーの永続革命論はソビエトを中心にした国際的中央集権的論に見える.トロツキーは頭いいというのが念頭にあるが、こんな正規分布思考ではさほどになってしまう.ある理不尽男が、永続革命論はいいといった.トロツキーの頭の良さの念頭に衒ったかなと.ともかく左の全体主義的な要素は否めない
   



ユートピアとか楽園とかはどうしても内部で何かに守られている場合にしか成立しないように思えてならない.マルクスの共産主義の国家の死滅・貨幣の消去の世界を誰が守るのだろう.台風は来る・偏西風は蛇行する・常夏・常春・春夏秋冬の変化のある気候の地上で、恰も天国のような世界が成立するか?
   



小林秀雄の何かは関係ないな、小学生の時に小林秀雄なる名前を浮かべた記憶はまったくない.なんでも本居宣長の何かが長すぎてじっくりと組まないと考察できないと思った記憶はある.
 



世界霊魂なる考えを見ると本居宣長の霊魂の位置は?となる.本居宣長・小学生の時にはこのきれいなセクシー感触を将来時間の取れるときに対処しようと思ったが、結局今まで対処したことはない.
 



宗教はアヘンはノヴァーリスの引用とはマルクス、共産主義宣言も世界理性を契機とした論展開ではないのかと考えてしまう.青い花はは京都の夜の青いしじまを思い出すが、これは写実的イメージではないものと青い花とは違うかな?
 



自由を求める・自由を味わう・自由を保存する--これらのケースにおいて他者はすべからく災いとなった.それで不快な言明が不快であり除去しようとしている.権力志向者や叙事的存在や中間存在はまず自由の邪魔をする.
 



それでよくよく考えてみると、人々は平然とビッグリップなどを考えるが、ビッグリップを保証する領域は何と思うとビッグリッパーは何も呈示していないようなのだが、無限の場が保証するとしか考えようがないが、有限の無責任がニュートン的に依って無現場を提示しないということなのか?
 



関係とは世界理性のことかな、なんと関係の本質をノヴァーリスが述べていたとか今は直感しているが、この直感は整合してるかはちょっと時間をおいて考察の結果を待つ.時限性---インターナショナルの世界線ならありそうな話でもある.
 



なんだがしかし信じられない乖離である.家系の伝統もよくは知らないがあるのかな、それがあるにしてもそれ以上の構想があるがそれをどのように説明するとなる.乖離か双対か正反対に引き裂かれた形の一人の個人ということだが、人々にはまさかのプライドの壁の障害があるかな?.別に理屈はいらない?
 



まあというわけではなく何回も見ず知らずの人間に不愉快・不都合な誹謗讒言言葉を別に自由に歩いている街中ですれ違い時に言われることはあった.こんな存在がほかにいるのか?、いろいろ考えているからでもあるとは思うが、それにしても不快なことは確かで、無理解力を強調・才能限界を強調せずとも
 



おかげでカントの道徳論がわからなかった悩みを持ったその後、しかし定言なんぞは何でもないはずに、不快なフェルミ型あるいはそのあるXXや悟性の不快さXX&XYとかレベルを下げたか歪めた--あるいは逆に無知な自己投射を受けて無自覚者が自己投射をしているなどと思わない勘違いをしたかな?
   



正しさは人それぞれのような、自分だけが正しいと思っているとストレスがたまるというツイを見た.正解はそれぞれ異なるというほど正解が複数あるか?、正解に対してグレード小分けをしているのではないか、それとも帰納主義的な無責任結論によるとか
   



和泉式部の短歌は頭にとげとげしさ・引っかかりをそう持たずに読める、とにかく短歌を追いづらいのが多くある万首.和泉式部が随一の歌人だったという意見から、スムーズな作品は優秀であり、いわゆるスマートな対象というのは頭をずきずきさせる引っかかりであり、スマートというのはレベルが低い事に
   



空蝉とは現世の意味とな、確かはかないこの世の感触を示した言葉の印象記憶があるが.源氏物語はつまらないというか住んでいる世界が違い、またそんなチイチイパパや丁々発止はちょっと耐え難い.藤原道長や鎮西は小学5年生の時に浮かべたが、摂政とはなにかよくわからなかった.
   



所詮才能ない存在に責任感を与えても破たんするだけという懸念が払しょくできない.特に叙事的XXなんぞに責任感を与えると無謀なやけくそ理不尽責任しか取れず、それは責任とは言わない代物でしかない.特に危険でこれをマズローは低次元の承認要求と称したようだ.確かに何を言うか不明の怖さがある
   



一生不可能な存在にその不可能を要求はしていないが、要求する形になっているのに、価値倒錯でこれが逆認識になっているという、主体阻害者たちの詐欺的態度とか
   



こんな予定ではなかったのに結局あるXXの成長時間・生理時間に合わせる羽目になってしまった.このXXに原因・起因があるとすると大いに当てはまる事象記憶がある.この合わせる時間というのはまずい、そのXXの弟も価値倒錯要請で原因となっているかな--原因・起因者には責任がまつわるはずだが
   



ダークマターを無機的意識・無機的空気とすると、強い・弱い、厚い・薄い、濃い・淡いの差ができそうでランドール的銀河にダークディスクが存在してもよかろうということになりそう.ダーク粒子は量子論のアナロジーに過ぎないのではないか?、ランドールの固有時空は接続にある哲学かなと
   



自らの叙事的存在という精神年齢の低さ・汝自身を知らない無自覚者かな?、それゆえに凶暴暴力的言明をしてくるという限界性?の持ち主たち.体力根性ともに動物力あるのに価値倒錯を洗練演技でカムフラージュしているかのような存在たち.
   



ところがおよそ体力のある存在は根性もあるはずだが、演技に走って気取ってしまう存在も多い.自らの野蛮さを隠そうとしてだろうが、XX&XY共々叙事的存在は体力があり、ボルネオの密林でオランウータンと共に裸足で走り回るのがふさわしいと言いたくてしょうがない権力的邪魔ばかりしてくる
   



冗談・無責任・説得力のないことを真剣的に述べる他者はすでに頭がおかしいとその時に思えばよかった(精神年齢が低いのはおかしいことではない解釈だが)、最も大体の人物は狂人というのは思っていたはずで、どこか頭の隅か深いところにしまい込んでいたようでもある.
   



他者から受ける価値倒錯は他者にとっては冗談の無責任的でなんでもないことと推定してみると、すなわち冗談は説得力がないのだが、他者はかなり真剣に述べたような様相記憶がありそれで不快で除去に悩んでいるというか、他者の精神年齢が低かったからと言えばそれまでなんだが.
   



確か人間失格だったかな、そんな述懐の記述文を目にしたことがある.マルコのこれ”金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい”、駆け込み訴えで喚こうと所詮は・・であるとか.そもそも人間失格なるタイトル自体、人は殺人者でも被害者意識を持つものだに則っているのでは?
   



太宰治・いかように生きても津軽の金持ちの家生まれの権威主義的優越意識を払拭した生ではなかったと思える.
   



どうもむかしから富士には月見草がよく似合うというセリフが引っかかってしょうがない.射影的な近距離と遠距離の対比映像感とは画像的に思ったが、太宰のひねくれたタナトス的ねじれ陰感覚がありそうだ.
   



レンブラントの肖像画も今ではさほどに見えず、カレーの市民の鋳型が1体という、彫刻も模造化の成立があったか、となるとウォーホールが浮かんでしまう.ターナーの幻想画もいいのだが、瞬間の記憶が大事で、その他絵はすべて再見してもいいが、瞬時印象によるかな、人は1秒で異性を飽きるとか.
   



埴谷雄高はブレイクファンだった記述記憶があり、昨日図書館でブレイク評伝を手にしたがやはりブレイクなんぞに趣味はなくつまらない.天地創造の迫力眼には印象があるが、プラトンの幾何学・コンパスデザインの意図がありそうな構図の記憶あり
   



人は意識を持っている.無機物域の意識をダークマターと称するとか、ランドールもこのアイデアは持っていないのではないか?.そんなアイデアはアインシュタインの宇宙項だと述べるかも知れぬ..
   



それを言ってはいけないと考えても発言はまずいだろうというものを、ある種の人々は発言する・してくる、発言する対象が間違っているのだが、勝手に自己優越感の塊のような夜郎自大的倫理意識のような存在で、気が付かずにまともに取り合いいまだにしつこい記憶としてそれらの除去に四苦八苦中
 



要するに駆け込み訴えのユダはキリストにリアルな文句ばかり述べてるが、・特に食物を用意したというところは疑問の追随創作だろうな・だが、個人的にユダ的存在は他者のあらを攻撃するが、ユダ自身もあらばっかりのつじつま合わないでたらめ箇所多き存在で、今更追及もうんざりするしらけといった感触
   



脊髄反射という自由な無責任
   



まあ大体ほとんど行っても差し支えないが、他者に対する超自我判断はその対象他者に魅力がないという判断しかしないので、当の対象他者はそれを他者当人の自我とは認めづらいだろうな、そうした判断を逆にしてくるから許しがたくXX&XYともども不快でしょうがなく修正や除去・消去したいのである
   



超自我・自我以外の新味・新鮮さを必要とするのだが、了解・理解している自我を鏡反応してもらってもつまらないことこの上ない.もっとも鏡反応してもらいたいものはあるが・・人々はしないな.超自我判断を自我的あるいは自己投射または他者設定として反応してもらっても意味なく、超自我反応ならばだ
   



超自我使用時にも自我は自我のままで、個人内対立していようがそれはその通りなのである.実質・実際とかそれも自我のことであり、超自我時と自我を同時には用いないが、超自我時に身体的XXは自我・実質を反応する・結構XYもそうでこれはいかに?だが、その実質・実体は自我・超自我了解済みだよ
   



他人を信じない認めない?、そうではない他人が認めないのである.それはしょうがない.なんだか超自我的対処を他者にしても、自我もまた自己の自我なんだが、超自我的対処時になぜか他人が自我を剽窃?の形で自我当人に述べることは意味がないトートロジーだが、多くの他者はそれに気が付かなかった
   



ペース大学の名を聞いたことがかった、まあマンハッタンなどに行ったこともないからでもあるが、たぶんこれからも行かないだろうな.なぜかアイビーではコーネルが雪解けの春の雰囲気を想定していまい名前だけは印象である.
   



チャーマーズの名を久しぶりで見た.春秋社から翻訳の・意識の諸相が下旬に出ると.しかしなんだなやや滑稽なものだ、叙事的存在に科学か絡んだ形と見た物理主義は無機的な身体必要性が生に対して完全にある場合が多いが、正常意識では・平時ではチャーマーズの弁明など必としないのは当然だろう
   



唯一者とその所有や天上天下唯我独尊とかはその実際感覚としての存在理由は自由を示していると思える.独裁国家はあるがそうなると人は誰でも独裁者であるということになる.孤独が自問するときそれは独りで判断するので、独裁というより人は誰でも独判者であるということか.
   



どうも納得できないので発想の転換をして・・・自由が情況を決定するはいくらか矛盾しているようであるが、前束縛状況に対して自由が反論する形ということになるかな.人間と人間の極限の関係設定条件においては自由が妨げられることが十分想定でき、自由が反論すると.
   



昔横で金がないと叫んだ・強調発言をした人物がいた.言ってもむり、オレも金など持ってはいない.未だにだが、そのころそいつは野垂れ死にするんじゃないかともいった.一体どんな意味だ、仕事だとかも言ってとにかく邪魔でしょうがない、何か扇動的所為.そいつの姉がややの対対象で、今は他妻である
 



何しろ主体を壊す--原始人的反応を要請かもしくは主体乱しということはその対象が不明になり判断できなくなるということで、対象とすることもできなくなるということである.それでしょうがないのでその対象を無視することになるが、それをわからずに味を占めてしつこい存在の除去が困難となっている
 



身体的存在が何かと煩わしいが、最初にロゴスありきという言葉もあり、演繹的クリエイティブは成立する.
 



マルクスの世界を変えるというのは、今までの哲学者は世界を解釈してきただけに過ぎないゆえにということだったのか、スカラーからベクトル化へかな
 



価値倒錯者たちは他人にでたらめを強要しないで、自らの価値倒錯でもしていれば少なくとも他人には迷惑が掛からないだろうという帰結を導いた.
 



人類が存続する必要性がある限り建設的な事柄は勝利するは帰納的帰結より演繹的帰結か
 


他人は他人をそのように認識したまま自己保存していると、それが自分だと思われることが多い.そうではなく君に対してそのように思っているというのに、無自覚者なのか低劣頭脳なのかよくわからんが全く不愉快・不快な認知能力である.




権力的傾向者の精神年齢は釈迦の手のひらの孫悟空のようであるが、権力志向者自体は自分が釈迦の手のひらになって、いかなる人も・精神年齢など自分より高かろうと関係なく、孫悟空化しようとする・するからそこに相克がある.
   



そのXXはそれがあるいは極端に倫理的にくだらないあるいは原始的存在だという自覚はなさそうで困ったもの.ただ傲慢なうぬぼれ・・ん?、面子意識があるかと今思いつき、一応の地平のプライドメンツ故があるなと気が付いた.普通にそんなことは簡単に思いつくだろうといわれそうだが、それができず
   



バフチンのカーニバルとドストエフスキーがどう結びつくのか近来にちょっと読んだときはわからなかったが、カーニバルとポリフォニーは別の視点なようである.ポリフォニー・確かにカラマーゾフの兄弟の登場人物の設定はポリフォニー的である、それ故に帰納的な状態しか受け取られず互いに離散的未決と
   



どうも帰納的存在が中途半端じゃないかと申したことがある.中途半端なものは中途半端徹底すべきものは徹底で中途半端という考えは演繹的にしない.帰納的な場合はすべて中途半端と思うのかもしれない.ほぼ帰結的に帰納は結論を出せないという帰結は正確であるように思えて.
   



それでもちょっと理解しがたいXXがいて、今では退行的存在は明らかだが今頃自覚しているかどうか追跡不明でわからないが、記憶上煩わしい.陰謀力で自己欺瞞をすでに理解していて行使したか?、あるいは権威主義だが低劣権威の発揮だったとか.離散単体にXXホルモン力が柔軟のスキル知性を与えた?
   



無理解ゆえの甘えと将来理解可能性を持って要るという猶予ゆえにどうも忍耐をしてしまうが、一生無理解のままだとすると将来性なんぞはないという、またそんな存在は積極的自由者なので、消極的自由な時間を延ばしたところで困った事態でしかない.単純化に引き戻したがる低精神年齢者達
   



総じてやや無価値な存在が優越感のためにカーニバル・価値倒錯を用いるということがある.でもそれらはでたらめで秩序の圧力がその後かかっていないか?、その後の検証をしていないので不分明、まあ価値倒錯に気が付かないようであるままくたばったのもいるな.無理解のママは不快だがしょうがないね.
   



今は気が付いているいまだにしつこいでたらめ理不尽倒錯をなぜその存在達はしたのか?と、無知である点がひとつ、精神年齢が低いことが一つ、何らかのコンプレックス保持者か、ルサンチマン現象かとか考え着くが、意味なき無駄なのでそれは価値倒錯であるという認識視点を育むべきと当然そうなる.
   



バフチンのカーニバルはまあ最近知ったところだが、昔からの不快な言明で悩んでいる除去できかねる他者達の言葉は一様的には、カーニバルにおける価値倒錯的なものであるということができ、それに倒錯はないという擁護をした・まさかの倒錯とはその直面時間では考えなかったためだが、いまだにしつこい
   



相転移は脊髄反射と理性反応の壁では?
   



共和国と名の着く国はハードボイルドもちろんで、下剋上のオンパレードのイメージがある.政権転覆など日常茶飯事はいいすぎだが、まずそんなイメージである.
   



順調な時には結論が出ないで、出たときには情況・環界が変化しているというちぐはぐばかり行っている.現実のスムーズにさせない何らかの足を引っ張る圧力が作用してしまう・そのようなものに遭遇してしまうという無駄ばかり行う羽目になる.個人的自覚では悩み・特にペーソス的なものは何かの間違いと
   



中学生の時にどこからともなく真夏の夜の夢という言葉が寄ってきた、夏の夜は蒸し暑くてかなわんと思ったものだ.確かシェイクスピアにあったはずで、メンデルゾーンの有名な曲は散歩曲に導入しているが、かような世界事象があったことはその時には知らなかった.とにかく蒸し暑さは妄想・妄念的だ.
   



向こう数年間おとなしくしていたいな、個人的にはそうもいかない頭脳が作用するかな、とりあえず来年になってみてだ.本来は全く違う意図なのになんだが逆になってしまう.最大値の原理も顔を出すが双対もしつこく絡まるものである.
   



正規分布の領域は想定より少ないとかの文章を見た、いつの文章だったかチェック忘れたがそんな認識を持った人物がすでにいることは悪いことではない.フェルミ型人間は単体・モナドや素数的色彩を覚えるが、ホワイトヘッドは関係なく有機的でないとで、反交換は好まない.素数展開は眺めることは眺める




最大値の原理はいろんなところで顔を出す、とりあえずその多くは不都合であるように、ゆえに疲れまくる.?!-顔を出すはNo.3にある文章だが...




時間があればの類体は非可換とは想定していなかった.時はすでに非可換だったのだが(銅鐸は類似させるなら正規分布的明らかだろう).頭痛くないスマートな柔軟性が類体のイメージだった頃のことで、それは今でも相変わらずの素敵な女性というわけだ.




boron・ボロン鋼を全く知らなかった.しかもボロンの焼き入れ効果は1930年代に知られていたとは.ホウ素の同位体素となると、アモルファスの小学生はホウ素だったことを何年も後から発見する事に.中学生の時に液晶を考えるのはまだ早いと思ってしまったのはなぜか?・今ではうやむやに・・




フェムト・アト→ゼプト・ヨクトとか考えないとすでにの状況になってきたような、フェムタートもはや現実化?で、ゼプ話としないと、まさかの話などでは全くない近未来にそうなるはずで.ゼプの話とは何?-アボガドロの話ということか・化学が変わるかも・そうなると錬金術で悩んだ小学生も意味がある




演技的性格者は捏造やでっち上げをする可能性が高いと思いつく.普通の人にとっては冗談や遊戯的な意味な事柄を、真面目に自然に行うという可能性を




しかしだ漸くにして地平線の構築ができた.不本意な表現は不本意であってそれは意図外で意味なき冗句・遊戯的なものだが、それが真実だと思う存在が多くいすぎたような、なぜ不本意など認めるわけがないことを人々は理解しなかったのだろうと今にして思っても意味はないが、つまり不本意とは意味がない




ことごとくやる気の邪魔をしてきたXXたちというなんと予定外かつ無駄な時間を過ごさせて・・すべての責任はこの意図の邪魔をしたXXたちにある・おっとXYたちもいて責任はそれらにあるとしてよいだろう.しかしこれが他者に理解されるとは思えないかも、現象判断で煩わしく思いそうで.




ABC予想論において入れ子間を自由に動けるもの-睡眠時のであるが生きている意識とか、リアルな物象と直接しているが時空の記憶があるやはり生きていることという現実意識がそれかな.




存在論的ありように組み込まれていてそこから立ち上がってくるその領域を表現しかねるものであろうと、それは体制的だろうと反体制的だろうとそうでなかろうとすべてに通用する考えではないか、自由な意志が絶対的なものするときに、立ち上がっている自由な意志はないのかとも考えるが.




別に作家ばかりが悩むのではない、それぞれの立場・多様な仕事上それなりの苦悩を経た人をどうも評価する.




共感能力はわかる、EQ指数というやつだから、今まではいわゆる身体障碍者と言われていた存在はその立場上悩み多く、苦悩度を評価できるくらいに思っていたのだがどうも違うな、悩めない障碍者もやはり多くいると、中間存在が悩めないように.




自己主体を出さないで保存しているとそれを他者が自己の思考だと思い込んで当人に述べてくるという、当人への無理解と無視とその他者の無自覚・無知と認識能力の低さなど(当人には愚劣で無駄で馬鹿らしくなぜこんな理不尽極まりない認知言明をするのかさっぱりわからず-世の中に実際に馬鹿がいる?)




正規分布がそのままの時代と異なって複雑系が表面に出てきていると、その時間に老境も接触しなければならず、あるルポライターの書物を目にして面白すぎるのと役に立つ実質・ミクロ現象内容である.一様視点を設けるとすれば老人たちの現象は複雑系ゆえにと表現できる.




丈高しが虚無に流れて幸福な味わいという風情




ランドールはT大で来日して講演なんぞをしたんだ.RS理論のあらましがわかった.ダークディスクに直交振動する地球ゆえに異変・恐竜絶滅とかが発生したという考えとダーク粒子は影響を及ぼすとか、なんとか考え出すものである.やはりブライトマンと同じようにわかりそうでわからない好感性の女性




意図がなぜか境界情況に達してしまう、中間的現実に遭遇すということが繰り返し起きると不快になる・そもそも境界域に達すること自体が不快なのに輪をかける形に.なんなんだ経済は中間存在的なのか、いや積極的時間である場合の経済が中間的なのかも.




そのあるXXを対象とすることはそのあるXXに直接言えと、別に言うなとは全く述べていず、常識を悪戯に乱されると余計に変に誤解が増えてしまうという無知にの甘えなる無責任依存症候群者達.




人々の誤解しまくっているあるXXはなぜ認識されないのか・その点が不思議である.認識するどころかそのXXではないのにそのXXだと思い込んでしまう人々の認識能力・認知能力は一体何なのだ??.無責任なでたらめを気が付かずにまともに相手にしたためいつまでも不快が付きまとう記憶を持つ羽目に




権力志向者あるいは権威主義的によくヒステリーという窮鼠猫を噛んだような理不尽的な不快な反応を受けて、思考力が乱れる.全く要らざるすぎる反応など困ったものだ.思考発展に別に何の役にもたたない権力志向形態.最も日本は格差社会である前に階級社会であるらしく、そんな存在が多く疲れると.




そうするとあの市民の希望という明るさの空間に付随してしまう暗黒域はタナトス・人の寿命ということになる.市場原理経済にもタナトス域は付随しているということは、考慮に生理の有限時間を与えないといけないことになると、悩んだ市場原理から暗黒域ヘ進めなかった年前、弁証融合的に現象学的に




いつも思う誰でもそのタイプ・タナトス体人間の無機的硬さという思考マヒする単純さ.死神とかの歴史上に説話はある、鎌を持った魔女とか他、ゾンビやホラー映画はタナトス範疇に入るものとなりて..




例のパターンでもないか、小学生の時に悩んだままどうにもならなかった権力的色彩の硬さはタナトス的と言えそうだ.定義も似てはいる明晰さもそうであるが.




貨幣的に0:80で分かれて、その80がまた0:80で分かれて、その80が0:80でまた分かれて--そうであったこの説明なら納得がいくかな、機会の平等といってもパレート最適を、ジップの経験則に対しての見解を述べないとどうかと思う.




ある店で短くも燃えの楽章を聴いていたら、その屋内の制約感ゆえかとても良く聴こえた.これはNo.0のレベルにあると認定してもよいかなと.普段聞いている限りではそんなことは思わずまあ聞いても悪くない曲であるのと飽きない点が良いが、環境によって優れすぎるほどになるとはさすがの1番




運命の第二楽章は慰安になることを発見した.確かにあの夏の日は思考の戦いの後の散歩時にイメージが良く合ったことから意識しているが、今更に5番に関しては慰めの曲である.または武士道とは死ぬことと見つけたりが合うかもとも思ったが違うか・・・




マートンのノルムは当然当たり前で、そこにザイマンの戦争論的弱点主義があるがそれも現象的現実的に言えるだろうが、それがどうしたとごく普通の当たり前のことだろう.この限りでは現象学的根源がそうしてそのパラダイムが--相変わらず無いままに人々は現実をその日を競争をしながら生きている.




脳幹の太さは短絡と積極的自由を想起させ、脊髄反射的な様相も思い出させる




散歩中に聞くのにどれを選ぼうかと迷う1番、パーシーフェイスのムーランルージュは哀しい曲調だ、まああまり・・、その昔従姉と新宿などをデート(?)中に、ロートレックを好きだろうと言われて閉口したことがある.ロートレックには興味なく、従姉はロートレック好みかも




損益分岐点の心理面---こんな考えを浮かべたので中間存在は積極的自由しかままできず、消極的自由ができかねると思いつくと、親の子供成長という消極的時間に対して、虐待なる現象も発生する要因のうちの一つとか、共和国一般は積極的自由主にの国であるとか・を思いつく.




森羅万象と同体化しているとあるがままになると納得したのではなかったかな.第二楽章前文では、『森羅万象は判明している』としてある.前文で急にヘーゲルが浮かんだが、哲学も意味しているが作品なので.




なんだかんだでドン・キホーテなる店に行ってショッピングをしてしまった.ある女がドン・キホーテと叫んでまずい誤解を受けてしまった記憶に悩んだ時間が大きすぎて.ある男に対してドン・キホーテじゃないんかと思ったことを、あたかもその男であるかのように述べる例の逆・主体疎外&阻害パターンで




ちなみにロメロのアルハンブラ・ヨーヨーマのアンダンテ・ミルズの詩人と私・キュヒの森に夢見る…モーリアの蒼いノクターン・ベートーベンのシレンシオなど、散歩中に良く聴く気に入り曲




科学に哲学があるとすればまさかの思いもよらなかったが、認識論がそれに当てはまってくると見えてきている




ざっとポパーの科学論は第二法則的な言明と見た.単純にエントロピー増大に則って表現しているだけなんだが、反証がよくわからない.弁証法の否定意識からきているか、集合論の補集合か




普通には規則に従う人々80%・従わない人々0%と区分できて、従わない0%と規則を作る0%は比率が同じことになる.ここに社会の煩悶の生じる起因があると、パレート最適観点からいえることと考えた.




社会一般を見ていると人々は規則に忠実なのである.そんなに規則を理解している優秀な存在が多いはずはないと思っていてこの理由は何かと考えると、0%が法律を規則を作り、80%の社会の人々はその規則に忠実に従っているだけという帰結を思った.そうでないと説明がつかぬ.




どうも人は個人存在のみでパレートの法則を持っているという考えに行き着いている.多くはその領域全体を示してパレート最適を当てはめた形だが、それなら個的にも当てはまるはずであると.




普通の人間である場合まことにくだらない・くだらなすぎる人間であるのだが、くだらなすぎるのでくだらない存在であることに気が付くことができないというばかばかしさがある.親鸞は親切で、いわんや悪人おやと救済意識を与えてはいるこのくだらなすぎる人間たちに対しても.




身体を持っている以上この乖離感覚・精髄反射から人は逃れられない.




唯物的観念的・パンのみに生きるか=唯物的・神の口から出ることば=観念・精神的であるかだが、脊髄反射と理性判断の乖離感覚からは、どうにもならない.どうにもならないが衝動が区別・判断を行う人間身体になっている場合は唯物的であることは間違いない.




というか、その現実者が理解していてくれるべき筈というのが正解なんだが、いまだに理解してないかも.そんな人物ばかりで困っている・無駄ばかりするはめになっているということ.




脊髄反射を理性的に判断することには乖離をかんじたことがあった.これは何だなぜこのような位相に変転してしまったのかといった思いで、これを自分が対象となっているから不快なのである.すでに体験了解済みをすっかり忘れていて、現実際に遭遇してむちゃくちゃ乱れてしまった




0と1には確率は存在しない、0と1を無と全と見ることもできる.量子確率は存在するが、量子確率の確率は存在しないという設定である.最も0と1の間でさ迷う存在の確率も存在しない.




個体自身が持っている位置エネルギーと運動エネルギーがある..盲点の社会生活・共同性であった.




科学・もっぱら自然科学を示す、その基底である.--それはいいがそれからさっぱり進まない、科学哲学なるものがあることも不思議には思える科学に対する意識を持っている..哲学があるとすれば帰納的と演繹面の融合したもの・妥協したものは即物現実的とか考えてみるが.




あまりにも下らい・愚劣すぎるXXに位相を合わせる・反位相的な冗談・不本意をしたらそれが現実になってしまうという二重・存在論的くだらなさ.一回限りのその場でしかないはずの意図・予定のものが、その不本意・愚劣さを携えていつまでも持続するという意図反対現実に強烈な束縛を覚えていることに




演技的性格者を帰納面から追うと、真実に対して・その無責任的位相ゆえにミルグラム実験のアイヒマン側に位置することになる.ちなみに偽善もそこには善に対して無責任があるので、やはり善人に対してアイヒマン側に位置することになる.この世の中・現実には残酷シーンがランダムに発生する与件がある




マルクス・エンゲルスの共産社会成立の世界の先には、どうも観念的事象しか残っていないとしか考えられず、その後を述べていないのは唯物の不成立を見たからではないのか?、人間がカルマを持たない状況は、聖人のみか悟り者のみの世界でしか想定できず.




実際にパレート最適はあり得ない、机上や法律・規則上ではあるだろう、なぜなら普通に他者に迷惑をかけない人間などカルマ的生活者にありえないからである.




信頼度確率はワイブルに従うことは確かだろう.いわゆるベル・カーブより先に・短い時間で頂点が来るというのはやりにくいなと思っている.社会の人々の行動を見ていると、どうも脊髄反射的側面が多大にあると思え、この信頼度と脊髄反射行動は結びつくように思えるが、定かではない.




人はパンのみに生きる-マルクスは人間は自然的存在ばかりでなく人間的存在でもあると述べているが、唯物論が科学だろうと実践的弁証法だろうと、明らかにパンのみに生きるを優位に置いた考え方ではないかと思いつく.飛躍して、成立した共産社会のその後を述べないのは無責任とも考えた.




神はそのような自己保存できる傲慢・倨傲存在を好み、そのような存在がむしろ天国に行くという理不尽と思える考えをよく見る.ヨブをむしろ神は悪魔を派遣したりしないで素直に好めばよいではないか、ここには横暴な宗教権力という存在を考えざるを得ない.神もさぼって単細胞的人間を好むという愚劣さ




権力志向型人間に責任意識をと言っても単細胞的責任しか取れない懸念があるので逡巡するところである.バイタリティがあるのだから複雑細胞的責任意識を持ってもと思うが、それほど精神年齢が進むわけではなく、暴力的な凶暴処理しかできないのでどうしたものかということ、その存在自体がまずい結論に




弁証法的を考えると有機物の発生自体は止揚で、無機物と有機物の止揚が人間に心を齎していると考えることは唯物史観者も否定しないだろうと思うが..




歴史の意味があるから、小学生の時からどうしても設定せざるを得ない『奇妙な保管場所』と敢えた表現をしているものところに関係してくることは明らか.




となるとハイティーンの時の市民は希望だけれど、暗黒域が付きまとい消えないというのは、埋没になるとする.そうするとここに現在同時の場合は現実がそこに存在しているということで、埋没はタイムラグを予期させるから当然歴史事実が頭を擡げてくる.ここに歴史の意味がある...




叙事的人間には一生抒情性が無理だから叙事的XX&XYに関してそれだけなんだが、叙事的なXX&XYは抒情を持てないので、異性に関して専制的なのが普通と思っているようで、束縛をする自由の邪魔ばかりにしかならないが、少しは抒情性のなさを自覚はしているかもしれない.




市場原理で明示空間のみで成立するようにしか考えられないが、深淵領域が隣にあってこの関係を全くどうすることもできずに年、たった今憲法法律なる文面を見ていて、埋没費用というアイデアが閃いた.埋没費用ならばなんとか深淵に組み込めることも間違いはないなとは思うが、現象的な事象だけ




個別にその存在のみに対しての損失・無駄・意味なき遊戯的なものなのに、他者が絡んできて延々自己対象となるような位相を受ける、全く不快なことで敷衍する意図はないのに、逆を行使してくるという個人的にも社会的にも損失なことを人々はなぜ行使するのか、非建設的能力が豊かなのだろう.




帰納は結論を出さないといった説得力を感じた米国人が誰だったか見つからない、これから導けるのは、帰納的人間は無責任的存在が明瞭であることになる.これに続いて無責任を前提としている演技的性格者も帰納的存在に近くなる.




ヘーゲルとマルクスの弁証法位置づけ差異は別にして、対立構造を自然に持っているのなら、秩序に反逆することは秩序に対立することであるから弁証法的に当たり前にもなる.弁証法教条主義とか、弁証法はなぜ発生したのかの論を見ていないかも、発生するべくしての理屈だけかな?




思想にとって弁証法とは何かというタイトルものがよかったのかも.弁証論序説とか、有機体は何らかの無機物と無機物の止揚として今日存在しているともいえて、無機物の疎外としてとはタナトス結果論を引用している.




非線形形式はどうも例として浮かぶペンローズのループに刺激を受けているか、パーコレーションとなった電子すら非線形的挙動・散乱し過ぎであるが.電子それ以前でも無限小までは行かずの何らかの中途からの想定でしかないはずで.




ある人物いわく、結局子供に裏切られて死んでいく-よくある普通のことで認識的に本質的だなと感じたものだが、どうも弁証法展開の否定的なままということになるなと.でこの人物の関係は唯物的というより身体的弁証法な色彩のものとドグマ的な位相と見た.ドグマは他者に理不尽を与える事がある



で形式だが、最近非線形形式という視点を考え付いている.線形化という単純さ・それを余儀なくせざるを得ないシステム・システム化だったが、それで対処できないケース過多の日々・時代には考えるのもよろしいのではと、漠然とだがやはり非線形でもとりあえず有限要素として非線形要素設定とおぼろに




皇太子が天皇になればハーバードの香り云々をまあ大体言えなくなりそうで、マスコミされていた心理面での葛藤は消えていく形になりそうと考える.名実の位相から逃れることはできないので、自然にそうなるだろう.--むしろ役に立つこともある可能性もあるか、対外的には.少し皇室がやはり変化しそう




リアリズムの限界かな?、リアルの限界は物事に決定的な面を設けるのは自然かつ必然とか.でもそれは自然に普通に必然的自由で成立しすぎている普通に個々の生き方なのだが.




この体力の限界をさてどのように表現すべきか.女性の場合は特にこの意識が強いと思え、それで嘘ばっかりとか述べるわけだ.特に欲望型ありありのXXはだ.そういえば今ではそれゆえの精神的存在力を優位にしている.どうも体力的限界と精神的自由の関係から、人は生理的限界を持っているが肝心かも




ベートーベンのロマンス50はどうも悲しすぎる、ロマンスではない、よく言えば失恋の癒しの様である.シューベルトのセレナーデも悲劇的過ぎてセレナーデにはなっていない.ダメなんだ史実が伝えるところにおけるその生存過程の異性意識動向から、やはりロマンスやセレナーデものを描いたところで





条件反射は海馬使用を用いないケースが多いと見えることは、海馬使用者に対して蹂躙的な位相を持ちやすいと同時に原始的時間への巻き込みをするために、演技の快感により原始時間のカムフラージュをするという複合があると分析.




意識で不明な対象と感覚的に不明な対象を区別しないとにオリンピックに刺激を受けつつ気が付いた形




叙事的権力志向の不快な存在が頭脳視野にいて不快で、時たま昔のしつこい記憶者が常にだな割り込み邪魔をしているので、不快ツイートが出る.なぜか嫌いで避けようとしているのに割り込んでくる嫌な傾向の存在者達であるのはなぜなのか、無茶苦茶な感情無視の動物的弱肉強食の非人間的しかできない存在




オールトの雲からの隕石や銀河を揺動する太陽系か、人は考えるものだ.銀河回転と太陽の位置と地球に及ぼす熱の関連が知りたいところ、その辺で縄文の海進や北極海の氷の量とかやや説明できると思うのだが.




仮象夢像はいい線である、思考構造は現宇宙現象学的かな-ランドール




迷える子羊・現代宇宙物理理論学者達、




身体をシンプ・精神をウィンプとする類似を考えてしまう.ランドールは面白い.なんというか刺激剤なんだがダークマター、ランドールは夢を見すぎているがガウス的面のみには正解といえるかな.




シンプ・矮小銀河の朦朧体は絵画的には悪くない.




”ダークマターが母親、世界を作った助けてくれた”(これが何でもない普通の教養になっている時間とは、空白時間はまずかったか)この考えはまず正解で、人間は単純に陋劣ではないことの証明であるとは思う.




琉球政府の暗部はほかに何があるのだろう、権力に暗部はつきものとは素直に了解できるが、明示空間の市民存在に暗部が付いているのはなぜか?




イゾラドは推定500人くらいだとか、ヤノマミ他など、まもなく地上から完全な周辺地域がなくなりそうだ、その時人類史上のエポックは成立するだろうか、多様な文化時間差異のまま変転して行きそうでもある.




国民主権に関しては、公務員が国民のしもべ意識を持たない限り、公務員は国民の権威であると思っている限り、国民の主権は形式・建前・対外的なものにしかなりえない.




もうあまり聞くこともないだろう「恋は水色」を聞いたらさすがに、古の想い出がよみがえる.月の大雪の後に一人奥秩父十文字峠に行こうなどと無謀なことを実行して、結局一夜のビバークの後の正午時に諦めて、雪の上に寝転んで休んでいるこの気分は恋は水色がよく似合うのも鳥栖彼女故だったかな?




朝の鳥栖駅のホームでいろいろな心理の錯綜故に糸が切れたままになってしまったが、列車を降りて人で歩く駅のホームのイメージはさすがにNo.0のさわやかさが思い出される.




割り込み当然とするのは何なんだ、三角関係なる疲労をなぜしなければならないのか、そのような人は関係に関してそのような関係でないと依存をできずに確信的なものを持ちえないからだろう.所詮は持ちえない存在で悪あがきにしかならないのではないか、いずれにしても乱暴な疲れる欠如関係者たちだろう




ポールモーリアもさすがに遠い昔になりゆく・・・、恋は水色はは途中で切断してしまったにもかかわらず相変わらずの想起である.一様関数は?の問いは愚問で発散するは明らかだが、ケースがある場合は前提がそもそも特殊になっているだろう.一様関数は結局成立せずの割り込み邪魔が入った鳥栖駅で..




判例法は帰納的、制定法は演繹的と哲学論理的に判断できるが、米国学者がパリに行って抗議して多少の戸惑いを覚えるという、いまだにある事実はいかがなものかと思う.完璧心理が齎すものはどうも明らかに帰納的と言える判例領域になるな.帰納が演繹を曖昧にするした経験があり困ってしまう目白駅歩き




レヴィナスは誰か芸術家に知り合いはいなかったのか?、いささかげんなりしてきたな.




人が嫌がっているのを嫌な対象は全く気にしないか好まれていると勘違いをなぜかよくされるのはなぜだろう?、あまのじゃくたちなのか?.人の親切心を利用しているだけの悪徳者達か、親切心を愛情と思っているかも、その場合別に特定の人に親切なのではない.むしろ嫌なのに親切にせねばと韜晦強く困惑




実存もその本質が本質以前なので不快でしょうがない、人々は勝手に実存を要求してくるし、まあカルマは実存的豊かではある.帰納も確信の邪魔をして不安定をもたらすことでもあるし、演繹かつ本質的人間もいるのである.カフカはふとなんという無駄な作品を描いたのだろうと最近思うことがある.




真理は単純である、真理のシンプルさに到達するまでに無数の葛藤があるというパーコレーション理論を用いるべきかと思う.そうなると単純にα空間・歴史の流れに従って生きるだけという形になるだけになってしまうので、少し位相を考えるだろう、そのように認識できる人は.




実存の暗さと明るさ、市場原理を考えたときに明るさの部位でしか思考ができす、くらい深淵がすぐ隣に十分な領域を持っているのに、どうしても使えず何とも頭が動かない.陰陽も普通には暗さと明るさを連想させる・ここからだと地球の自転による昼と夜になってしまうが




パスカルがどうかしたのかニーチェによると?、実存の無神論者という設定の合理化のために発狂とは、89年のコジマへの手紙はカルト的すぎる.まあそう思うくらいの想像思考をしたともいえるが.ニーチェは実存主義者だったのか、実存には暗さと明るさがあるのはわかっている.




直感が気楽にコルニュをなんだが、無限小と斜交方向性をシンプレクティックをこじつけてとかも考えることができるな.まあ作品内容具体的ミクロ感表現だが.




困ったコルニュの螺旋、超多時間の壁がもう一方の螺旋を結び付けてと、有限なので繰りこみをマスターしているとか理屈を考えるが、有限は中間的・・だが待てよ、消失点は中間を超えて無限小に向かっているではないか・・・No.th




レオノーレ序曲にイメージしていたXXがいた、中間存在というか中学生の時に非常に苦痛を感じた苦い思い出を思い出して、その時の対象は男だったので、XXの場合は異なるかとはその時には考えなかった.帰納ではなく演繹、最初にロゴスありきで、先に思考が成立しないと行動は伴わないという演繹




踏襲人間は秩序的で、秩序といえば六法全書か判例集以上のものを秩序的人間は考えないはずである.考えれば少なくとも現在時間の秩序にそぐわないからである.なまじそんな人間も喜怒哀楽を持っていて煩わしいので、六法全書でも見ている方が煩わしくなくて済むという方策もある.




しかし天邪鬼たちは全く逆な態度をとったものである.別に無駄や問題は十分自分で作りや発見をしているので、他人から弁証法的対立など余計なものでしかなく、また嫌悪を強調させないでもらいたいものである.嫌な存在で邪魔で厄介な荷物で関わりたくないという存在に限って干渉してくるという愚劣さ




ガス灯-バーグマンではこの映画がカサブランカより気になる.ガスライティングを受けすぎている結果、ツイートに愚痴が出る.主体を取り戻そうとしてだが、 それにしても無知をいいことに人々は迷惑な主体疎外を強制してくるものだ.少し考えればわかることなのに、主体疎外なんぞを要求する筈がない




恥知らずというかそのプライド自体の価値が低いことを認めようとはまあ普通の人はしないが、分別あるならば低いものは低いと了解できるはずである.




徒労に呪われているとは若き義務教育時代の付近からそうてしていたことだが、個人的判断によるものならいいが、他者から最もおよそ徒労は他者から受けやすいもので、徒労を受けるその他者の存在価値は低いもの・その強度により低すぎるものと思うことに最近はしている.




役に立つセリフならいいんだが、これら啓蒙専制バカたちは、役に立つ・価値あるセリフと思い込んでいるようで、まだそれだけならいいが、でたらめ・理不尽を述べてくるのもいたから困ったもので、足を引っ張られてばかりとなり、散々な目にあった始末となっている.




思い出してみると、荀子的な知識者たちが啓蒙意識なのかその知識力開陳で邪魔ばかりしてきたな.うぬぼれに思えるが、伝統的システム順守における知識獲得意識がそうさせるだけで、新たな視点構築意識はない評論家意識にしかなっていないので邪魔というしかないのである.




昔ニーチェを読むといいですよといった男がいて余計なお世話の邪魔なセリフとして覚えているが、アポロン的ディオニソス的はよく知っていたので余計に不快に思ったか、また真昼の太陽もある街で味わっているのに、余計なセリフを述べてくる人材達は全く、人の認知能力を侮辱しすぎのうぬぼれ陋劣者達だ




後ろを振り返るなは伊弉諾伊弉冉神話に後ろを振り返るなが確かあったような、ソドムとゴモラの話で個人的には記憶していたが、確かさを確認ししてはいない.




01年度アバランチ的に女性登場となるとNo.5的であるのも確かな現象と考察できる..




不可能に対して不可抗力.st




クレイダーマンの渚のアデリーヌを聞くと、夏の早朝湘南の他に人のいない浜辺で水と戯れている乙女をそばで見ている気分になる.蒼いノクターンは高層階のレストランで夜景を見ている変奏の似合う女性をやはりそばで見ている気分を描く.




身体的即物的には物価を下げるや消費税を下げるはエントロピー的で、そうするとGDPが一定線であまり変化しないと、相対的に成長したと錯覚を時間することだろう.エントロピー的とは希薄に成長するということで、個体的よりより液体的に液体的よりより気体的に成長するということでGDPを上げる-




積極的自由処理をしないといけない政治要請もあるが、人々は目の前進歩・実感・若さのポテンシャルに食いつきたくなる傾向が当然の如く普通にしてあるので、ここにエントロピー要素を入れるのは難しいだろうが、現実はそれを要請している.




仮に歌会始の歌を万葉的に編集すると雑歌に含まれることになるのでは?、歌会始の精神は戯れてはいないと思えるが、時を経ても位相上の位置づけは同じようなものであろう.もっとも平安時代に天皇家付近で慰安的な歌会があったのかもしれない・そうなると時代区分をつけねばならないが、戯れ歌は不快




茜さす紫野をとその返歌であるとしている歌が雑歌にあることから、宴会でのざれ歌にしたという解釈、天皇家系の歌は恋歌・挽歌以外雑歌にあるということで、万葉集の編者もいささか区分に無理があるなとは思う.戯れ歌という表現が気に食わないのかも、茜さす紫野は戯れにしては洒落すぎている.




複雑な現象の重なりを一瞬でとらえようとするとさすがに無理で錯乱気味になってしまう、人々のよくやるようにそのような対象は排除して・あることを否定して・あるとも考えずに・あったとしても他者に任せて・自己が関与しても依存を活用してとかするという態度もある.ゆとりといえばゆとりであるな.




なぜ剽窃に気が付かない人や対象ではないという誤解などを形成してしまう人間が多いのだろう.日本的集産主義と個人的主体的の欠如によることはわかっているが、あまりにも滅茶苦茶なでたらめを受けているかな.ひとが忍耐しているとそこには無責任の自由があってその誘惑に負けて侵入したがる人が多い




著作人格権・思考内容脳内保存中のものには人格権は成立しないとはいうものの、プレ侵害的なものを受けて逆に人格権の移動のようなことは全く不快である.自虐する優越感という自己道化化という単なるふざけがしつこく悩ますという事態に直面しすぎ.しかし今も影が自己主体発揮の邪魔をしている..




なんか言いたい事をツイートし終わったという気分である.ネットリンクの処理が全く終わっていないのに、パス的に終了か?、どうもそういうことになってしまいこれはどんな現象なのかと不思議な想いにもとらわれるが、実際にそんな気分になっている.ツイッターを止めるつもりは全くないが




先取りした心理がいざ現実になるとあたかもやはり先取りは現実にかなわないという形になってしまうが、現実者が先取り事態を考慮しない・考慮できない頭脳の持ち主のようである.考慮で来たらよかったのだが..




ユーモア・機知で場の展開をするのはいいが、してほしくないときにそれが発生するのは強制となり不快なものだ.人の思惑気分などを加味しないようにTVなどで感じるが、その場では楽しいことなのか、あるいはブラックユーモア・ブラック機知を狙ったタナトス不快的な面もあるのではないか.




バウンス論で量子が寄与したというありそうな希望的見解を述べたチームがいたが、ヒッグス時に量子はなかったのではないか?、後からのこじ付け的に思えないこともない.一番のバウンス寄与はダークマターに他ならないだろうに.そもそもダークマター自体が不明だから、物理学者何も言えんと.




あるXXを悪魔のような奴だと頭の中で思考したまま保存していると、他者から悪魔のような男だと思われる可能性が従来の様々な経験遭遇上から判断できることに気が付いた.そう思われているかも、とにかく無知な認識能力者に誤解やでっち上げ歪みを想定されすぎて、困っているもので.




平田篤胤にとって本居宣長は特別な存在だったのかもしれないが、他の多くの人は本居宣長ではないはずなので、魂に差異があることを思わせる縦型構造思考が伺われる.そうはいっても始まらないが・・・




まったく知らずの政治内実状況だったが、考えられなかったがいくらか考えが進んだ..さてである、TLで見かけたカルト教とかでアジテート的感情反意でなく考えが必要かと思う、宗教の特徴は瞑想と流血と殉教であるので、そのうちの一つが強意になると、偏向的になるのは否めないところがカルトと?




一概な単細胞的ではなく、多様なケースにおいて多様な対処意識を持つのは普通だろう、むろん一様性・射影頼みのみ人間は不快ではあるが、などは単純であるはずなのに、種々の見解からこじれてきているな.もっともの原因は演技型の陰謀強要自然当然意識がそれ、非常識ということが不明な無自覚陰謀型




なんでも推定疎外感を受けているようで、好奇心で存在理由を考えると勘違いされてしまうことが常にである.別に趣味でないスタイルセンスは嫌いなんだが、つまり実験の結果が明らかにこのように生じているのに、その説明が理論的にできないというケースである.他人には理解できてもどうにもわからない




アーレントに普通の悪の凡庸さ特筆があるが、極端・過剰な依存性を凡庸な人でも持ちえないか、個人的に始末に悪いのは、他者の思考に過度に依存してその個人自体には魅力ないのに、自己欺瞞持であるところの持ち上げをせざるを得ない補償か複合かという存在.




べつに荀子的性悪人間に教育関係を要請される理屈を持っていず、そんなものはいらない.むしろ性善を性悪とみてしまうその固有性を変えろと言いたいのである.




ニューソートがあり、エマーソンは「個人の無限性」や市民的不服従はソローのだったとかを知ることになった.無限の愛はわからず、愛の無限ならわかるがで、無限の愛は他力的ユートピア的汎神論ではないのか?




荀子的性悪型が性善説型人間を性悪人間と規定しそれに伴う判断言明を行う時、間の抜けた勘違いか、自己投射を行っているかである.自己自然がそうなら他者の自然も他者自然とみるのが普通である.そうしない性悪人間は不当な理不尽を行っているのだが、これに気が付かない性悪が多すぎる嫌いがある




積極的自由の不当な、倫理・節度を欠いた思考が深いと思い込んでいるような存在が浮かばないこともない.倫理・節度を嫌う深い思想とかなんとかの理不尽さ肯定の言い訳のような、原始的存在は倫理・節度意識はどうしても未発達としか考えようがなく、深いというのは時間過去遡及の原始時代のことでは?




小学生の時に姉と行った霧霧藻ヶ峰で見たサルオガセの幽山深谷の雰囲気がいい-渋みのイメージにも似ている.確かここで初めてかなシノブを見た・認知した記憶なんだけれど.霧藻ヶ峰の岩肌になぜ人物像のレリーフがあるのか、そもそもここは一体どこなんだ・地理比較ができなかったのも記憶にある.




XXが反映しても・普通にXXはそうしてしまうものだが、許可していないXXの反映にはほとほと後々のコンディション調整が困難になって困るのである.そもそも必要な考察をした反映ならいいのだが、単純反応など自己反映十分容易なので不必要な代物なのである