2016-06-28

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 「クォ・ヴァディス」--の答えは「不完全の除去に向かっている」と閃いた.





無矛盾を無矛盾で説明できないので不快な言明者たちは、無理矢理に説明しようとして理不尽である矛盾(すなわちでたらめな言明)を強要したり、無矛盾を無矛盾であることに気がつかないという困った存在なのである.理不尽を構築しているところの存在が対象であることは何でもない普通のことなんだが.





完全に対して人間はいくらでも不完全をまだまだ持っている・遭遇するので完全を無数行ってもまだ余裕があると判断できる.





完全はすでに不完全であるので完全を説明するのに不完全から何かを用いねばならない.完全内部では不完全を説明することはできず、完全を説明するためには不完全をもちいねばならない.すなわち完全は完全で説明できない.完全はまた一般に説明しようとしないものである.





なんだかわからず悩ませていた虚無的メロディ性もある未達的叙事者はクレバーであることになった.悩ましいクレバー存在もいたものだ、陰険であると虚偽でも理不尽でも行使してしまうという倫理観の低さであるところの存在としたもの.神聖型クレバーという固有存在も閃いた.





時間を加味すると完全になったときすでにそれが成立しているということによって不完全となっている.完全を主張できるのは心理レベルにおいて、他者がその完全を理解できない時・未達の場合である.




完璧は不完全とゲーデルは述べている?とすると帰納の帰結は出ていて、帰納は不完全であり確率的になってしまう.不完全の中の完全で人は生活をしているということである.-ここでまたしても中間存在というその人自身は完璧を設けている厄介な中途半端すなわち不完全が出てくる.




フレーゲの形式言語とペンローズのループにそれほどアイデアの差があるとは思えない、ゆえにペレルマンは隠遁したと考えられる.




そんな過程を知ると世界が窮屈になり不自由な意識を感じることになってしまう.体感性者が-パンのみ優位者と思える存在が天皇制の無化とかいうのがおかしいのである.考えるに稲作が問題で稲作の無化ならとは思うが、いまさらことさらに稲作を否定できるものではなく、代替手段もなくである.




ゲーデルの定理は単なる心理学の問題?、普通に誰でも論理流れから判断でき、中学生でも当然できると、そう考えてよいのなら中学生の時に了解していることになる.




 
伊勢神宮ににも小さな社が別にあると聞いたことが.縄文の遺伝子を今に残している日本人ゆえか-表象は弥生で通底基盤は縄文という形で、縄文の遺伝子は淘汰される運命ではなかったという、世界的遺伝子類との比較を考えた.神国日本はどこから出ているか、縄文と弥生の軋轢の後なら神国は縄文的色彩に




 
昔、太陽の二つある映像を描いたことがある.不思議・・・今では核融合生成物と納得であるようなもの、その時も人工物とすぐにわかったが、その寿命は0年だった.果たしてこれは間違いなく未来の現象であるか、あまりにも鮮やかな記憶がある.




 
XXとXYの対立においてはどうにも弁証法的で、止揚がエクスタシーというケースを想定してしまう.このケースにおいては普通に繰り返しを想定でき、これがシジフォスの神話である、対立が石を上げる上げ終わるとまた石を上げるということにつながり、神話の根拠には性的な面がかなり寄与している




 
奇人的で奇形者は非線形で複雑系者と思い観察していたが、性的関心にとられてXX&XYともに対処に非常にエネルギーのロスを設けてしまった.ならば障碍者は非線形者になるではないかと思い、奇形者はどうもたかだかアノマリーとするのがよさそうだ.そもそもマズローはで、普通であると述べている






ホッブスの万人の闘争あたりから国際関係も、現実主義やリベラリズムの複数分派主義があるんだ.国際的権力闘争はパワーが均衡するようなメカニズムとな、仮想仕事の原理ではないか、とすると思い出の彼女は均衡者になる.小学生の時の定義と中学生の時の均衡、そうしてある場所で会ったが気が付かず





権威主義に責任がない?、演技的性格者はどうも権威主義者の要素が強いな、何しろ演技に責任は無いからである.真実まで無演技まで演技にしてしまうその動向は一体何なのか、ちょっと異常?





存在理由は記憶にあるあるXXが発語したが、存在理由は探索傾向をも加味できるのと性的な面もあるので、これを存在権利や存在正当性とかにもっていくと倫理に結びつく.別に表現できないようなものではない.存在権利ならいい表現に思える、Hトライアングルにも適合するようで.





関係の本質は単なる言葉である正当性かな、それならば真理が絶対になることに.正当性は倫理に結びつくのだが、カントの定言はこれらをほぼマスターしていると思える.





樽に住んだディオゲネスは大王の質問に対して、ポリス民ではなく世界市民と言ったという話が、コスモポリタンの発祥らしい.ディオゲネスの生活態度からはむしろヒッピー要素を思いついたが.ヒッピーと隠者は・寒山拾得・など相性がよさそうである.ヒッピー→隠者的な考えとすると理解できる自己性





弥生系がふん詰まり意識を持っているのでは?、それとも日本の旧石器人がこの先に・日本の先に島が見えずを体得していて、それが遺伝として残っているか?.それでも縄文中期の頃は開かれた社会を形成していた想いが強いのだが.





常世の国の稀人に依存すると甘えが生じることになる、これは厄介な.となると扶桑の国は伊豆や小笠原ではないはずで、何らかの認知のずれでやはり日本を指しているだろう.まさか米大陸?.ともかく閃いたが、どうも稀人は閉鎖意識がある.縄文の平和は世界に対して閉じてはいなかった想いが強いのに




 
良寛は僧名で生時名は山本栄蔵または文孝というのか.なんというか嫌味な僧名をつけたものだ.子供の純真な心と貞心尼相手はいくらか異なるとは思う、そうでなければ「男女歳にして席を同じゅうすべし」になってしまう.子供というのは一体何才くらいのことか?




 
ある若き日にある存在が良寛をやればというようなことを述べてきて、なんと不快な別に良寛など模倣をするつもりなど毛頭ないが今なお全く記憶にあり邪魔である.なぜそんなことをその人物は言ったのか、自分でやればいいではないか.他者のアドバイスは自由の邪魔にしかならない.意地悪なものである.




 
親鸞も見ようによっては悪いかも、凡庸脱出意識を無自覚や中途半端な善意として人々を阿弥陀の圧力に屈服させようとしたという見方をしてみると.阿弥陀が呼んでいるのは親鸞ただ一人で他の人は選ばれていないという、宗教創始者的存在者特有の優越感・エゴイズムの傲慢者とも取れないこともない.




 
そうか、あの0代最後の頃におもむろに浮かんだ市民は希望ではある、ただスケールは大きくなく暗黒域が付随して?、ここでは深淵を市民は持っていないと考えたようである.ところが悲惨なシェークスピアの悲劇度合いのような悲しみを結構市民は持っている観察記憶を持ってはいる-ポリスで閃いた深淵




 
ある作家が”何をやってもだめだから”と言ったそうだが、そこまでなくてもだめだと自覚すればそれだけでも凡庸からの脱出息吹になるのに、勇気が足りない.もっともこの作家は建前として、何をやってもだめと思うくらいに、苦悩・呻吟をしたんだという表明なんだが、そう発するべき必要性に直面したな




 
審美的君の魅力は中途半端でこれくらいであるという認識を、自己に向けられたものとは思わず、ダメとかくじけとか発語すXXたちは、君の魅力が「ダメ」で、君の魅力アップ努力に「くじけ」ているのは君なのに、この判断を認めず、判断している人間を自己と思い投射するというオルテガ的凡庸XX達




 
自己経験と他の現象例多数から、青春の日々は人間が現在社会生活時間に一致しようとする所の境界域時間であるのは疑いようがない.そこで境界症候群なるものが登場したりするのである.うまく使えば業績を残すことはできるアドレセンスというわけで、例でランボー・当たり前でしらけるといえばしらける




 
エレーヌ・グリモーは新鮮ではないか、普通に皇帝は新鮮なんだ.共感覚・シナスタジア?-ランボーの母音は共感覚か.ランボーの見者はまだいいが、私は他人であるというのは不快である.私はあたかも他人であるかのように私であるだろう、うまく境界時間を生きたものである.その後はだめなランボー




 
深淵には音がない沈黙世界だからいいが---音楽はあの考えあぐねていた中学生時の逡巡に当てはまることは当てはまることが判明・ことに閃く.No.tsであるではないか.特にピアノという楽器は白黒でもあり.





太平洋の両側の国はおもむろに想定してみただけ、日本から、この遺伝子に個性があるのは貴重だろ思われ.アイヌ系は多少他の民族度合いが異なるが、琉球系はどうなんだとなる.





トランスナショナル者たちは、ノマドで移動・移民していてアイデンティティが引き裂かれるだけかといえば、そうではなく複合・重合要因が発生してきているのであるとはなるほど.そういえばNo.thには直積があったな-むしろNo.thにはトランスナショナルも対象となると気が付く.





諸行無常はビジネスシーン(ビジネスばかりとは限らないか・・・)において、先延ばしという弊害・副作用を有すると考えてしまった.





まあその大学にもそんな存在の存在は十分だったのだが、しかし・・・くだらずばかばかしい印象者でもある.底浅単純ロボット的な叙事的陰謀の精神年齢低き虚無的原始性存在とか、こんなのがなまじその大学に入って突っ張るから世の中おかしくなるという面は大いにある.





ある大学にマズローのの低次要求しかできない存在がいて、人にそんな発言をしても無意味だというように理解力のない人を無視するXXがいて、まさかのバカらしさを味わうとは、謙虚にしたら余計にばかばかしさを味わう羽目になった.陰険な存在は思考に陰謀の香り十分で、いかにも罪を感じた演技を





体制に対して革命かそうでないかも個人的な恨みの連鎖を国家単位にしただけともとれる.





風車に突進するのは狂人か精神分裂病者かもしくは演技者か?--セルバンテスはどうやらリアルな道化存在を設定していたようである.ドン・キホーテのこのシーンは道化なんだとようやく判断できた.全く不思議な発想をするものだとわからなかった.





あるガタイがよく頑固な面構えでグロテスク気味の物書きがいて、その原稿を見ようとして防がれたが、ちらっと見てなんと女みたいな文字を書いていて、唖然としてしまったことがある.その時にこの人物は小心者という判断を浮かべたのだが、それから数十年後最近にネットの原稿を見て、間違っていないと


   

 
論理のNo.*に関して今やいろいろ考える弊害様況があるかなと思って考えていて、宗教の戒律などにイデオロギー的な主義という転倒をしてみると、はっきり浮かび上がってきたことがある.




 
東寺へ行ったからその影響あるか空海関係を導入タッチと.京都といえば覚えているのは、今年に当てはめて結構状況に適切なNo.を書いていた記憶がある.それ以前はいつ書いたかだが、この数値はたまたま偶然そうなっただけである.




 
量子を別にして、現象的に地球の自転により昼と夜は一致しない.飛行機などを用いて移動すれば渡が、あと宇宙ステーションも関係ないように移動するが、事実としてあるので、アドルノの否定弁証法に時間位置変化というこう交互性を考慮したくなる-否定と肯定の位置はそのままに並行持続を考えていた.




 
この自然主義に対して悩んでいるところにXXのリアリズム者がついてくるのである.ふいにインチキしたなとか、演技的性格者にその言葉を与えてくれであるのに、実に嫌味なXXたちである.身体実体でしか判断できないのは、有限的存在で自由の抑圧につながるのだが.有限的母性の暴力性は困る




 
口があるだけとともに暴言的なスタミナ・バイタリティもあるから疲れる.自らは権威主義的な位相・共同体意識なので、演技でカムフラージュの傾向も強い荀子的存在と無意識自認していて、他人は野蛮な教養のない存在と見る傾向も不快である.自らを見ろと、原始的・動物的存在に見えるのだが




 
出る杭というか叙事的存在は感情に欠けるきらいがあって、不快でしょうがない.自分はできないから単なる自由の邪魔ばかりする、底の浅い思考のパターンが決まりすぎている単純さしか感じないので、寿命体であるステムがそこに立っているだけのイメージで、電信柱のようなものでなまじ口があるだけ・・




 
記憶に浮かぶ超個性的なXXに会ったことがあり、その個性な魅惑だったが生かす方向が浮かばずだった残念な月の相合傘の思い出を出さずばなるまいと刺激を受けて.




 
レスボス島はチャナッカレとイズミルの間にあるギリシャ領の島で、詩人・サッポー(サッフォーでないとしっくりこないな)からXX&XXが言われ続けてきたわけなんだ.記憶も薄れて、イズミルではないやはりチャナッカレのほうだろう.トロイの木馬の観光拠点とかの・少しの思い出が




 
「罪ある母」まで行ったボーマルシェの作品は個人的には素直に人間的なあまりに人間的なといいうるものである(エレガンスと本居宣長をどうしようというアイデアが浮かんでしまうが).存在とヤスパースと必然的自由と存在論と**などなどが後に続くのだが.




 
アドルのの否定弁証法が持続する形はまさに煉獄のようなものである.いわゆる嫌な女に(男の場合)愛されると地獄のようなものと同様なケースになるのかな?.どこへ行っても嫌な存在が必ずいるという場合は、弁証法の止揚が出現している可能性が高い.またフラット局所のまとめ上司は止揚的存在かな




 
嫌な存在がXX&XYに限らずしつこいのは、弁証法の止揚の圧力としか考えることが今のところできない.この場合の止揚など無駄と思いきっているので単にエネルギーの浪費だけにしかならない.現に心裡ではそうである.そうなるとアドルのの否定弁証法が持続する形になってしまうのでこれも浪費だけ




 
ニートではなくSNEPなる概念ができていたんだ.まあヒッピーと変わりそうもないのであまり気にしたこともないとはいうが・・だ.なにヒッピー!で閃いた、αのの難点が片付く.全くなんという時間のかかることだ閃くのに.たっぷり揺動した精神形態をもったものである.悩みは無駄だっ...




 
アドルノはおそらく量子力学の素粒子を知らなかったが、素粒子的考えはできた.




 
低い精神年齢?!--ようやく遠くに位置していた認識が脳裡近くに、そうだったのかに過ぎずのなんと愚かな遊びになることよ--徒労に呪われていることは理解していたが実際の現実時間では忘れていた.




 
例えば、パラダイムに対するパラダイムでの止揚したパラダイムというようなもの




 
そんな古典的段階を忘れて、可換に対して可換における弁証法という視点ならありえてと思いつく.非可換は非可換とスラー結合をしてもらえるとなんだが、反発・排斥が出る可能性も.




 
ヘーゲル・マルクス的弁証法である弁証法、いやヘーゲル・マルクス以前からの弁証法である圧力が、ボーズ意識に対してフェルミの記憶を強要しているとも考える.しかしフェルミの縮退の孤独性、外部励起の他力依存性など煩わしいものに過ぎない.非可換的視点からはフェルミはいいだろうな.




 
まずはフェルミとボーズの否定的弁証法位置が自然であるならば、フェルミがボーズと同じとしたがるのは不自然である.その点がしつこく不快なパラノイア的な記憶として無数回よみがえる妨害者の記憶が災い過ぎて.否定弁証法維持ではなく、止揚を要求する超対称だが、感性は全く超対称を認めず.




 
アドルノの否定弁証法は、フェルミとボーズのそのままを意味している.物理学者は超対称設定に向かう傾向はどうにも致し方ないが、現実に交換と反交換が自然ならば、それをそのまま持続させようとするときに、交換は反交換が・反交換は交換が不快だろう.交換からは反交換の孤独性は不快であるが・・・




 
フェルミ型の縮退極端者が、可換なボーズ的存在に対して、同じであろうしたり・そのような発言をする.少なくとも極端者に見えるので、超対称的存在には見えず、ただしなぜか陰険な叙事的要素あり故か、陰謀的な無茶な虚偽をしても意に介さないという性格にしか見えない.そもそも演技的生格の男だった





しかし多士多才(多士済々)がいても000年以上、国文解析できないとは、クレイ問題もあるけれど、その国文者は相当になる.ドクターを持った教授もそれ以下存在でしかないという現実問題は成立する.そのような存在が数多くいる中で突出者が発生するというこの突出者をまずはモデルにしてある.





自然の時間を変えることはできなかったという結果事実を認識せざるを得ない、何とも何でもない普通の時間経過ではないかと.





深淵展開の反エンタングルで説明はできるが、これは哲学的なので--





混沌を無意識対象として、電子散乱や実存世界でもない領域展開能力のあった人物がいる.確かに共時的なフロイト・通時的なユングの歴史もあることにはあるが、他にも心理学展開史もある要素などから、リゾーム展開と.で器官なきはニュートリノ体では?.ダークマターというわけにもいくまい.





『口に描写された画像』は原始的・または旧石器人・あるいは縄文人に当てはまることに気が付き、自己自動記述の何気ない表現であるこれを、パーコレーション化として解釈できる.この点のが言語進化に対しての初期に戻るという指示性が不愉快と思ったことだったなのだろう.
 
   


不確定性からは明晰は違うで、明晰からは不確定は頭の弱い人間になるこの差異もまた演技傾向をもたらし、また発言の理不尽な強度差異ももたらす.





しだり尾は万葉集からだったとは.雑歌は宮廷賛歌主体ならばそれでよい分類になる茜さす、なぜ戯れ歌になってしまうのか.どうも返歌はそんな戯れ心情とは思えない.雑歌にしたのは宮廷ものだったからではないか.ちょっと返歌に憎しみがなぜ出てくるのか脈絡が少し違うのでは、時間距離があるとか





もののあはれはあわれからはかなさ主眼かと思っていたが、本居宣長によるともっと深甚なもののようである.確かに風土的面を考慮に入れると、日本的本質と考えてもよいだろうが、人間性からみると、最近聴いた、外国人作曲のあるギター曲やある序曲などにも同じような位相を感じて、風土以外を思える.
 

   

 
小学生の時に何を見たのか記憶にないが、本居宣長の文面からか、明るい滑らかな明鏡止水的とでもいうか、定性的なきれいな文面のイメージを味わった思いは記憶している.これは何と表現すべきか、とにかくきれいな感じであったと.(本居宣長という名前からのイメージだったかも)
   

 
人間が超不条理体であるとすると、禅のあるがままになってしまう、でそんな禅僧に会って見たいものとは思いもするが、目の前にするとあたふたとうろたえる気もする.




 
あの頃の不条理は非線形とともに今ではまま複雑系に変容していて、不条理が齎す混沌はその蓄積において真理という単純になる理知は、今ではパーコレーション理論のパターン化にもなっている.




 
不条理は人の本質的生存関係にかかわった言葉で、無機的世界の変容には直接にかかわらない考え方であるというのが直感として深底に渦巻いている.




 
不条理なる言葉を知りたくない・考えたくはないと抵抗していた0代最後の頃、どうしても抵抗できず混沌世界に進みこんでしまった.非線形は十分だったのだから不条理も当然にしてよかったのだが、視点が・位相が異なると結構連結しないものと思い出す.




 
世阿弥の初心には箇条あったとは、考えあぐねながら第三ステージを一応設定して、それが状況に結構適している面はありであるが、そうなるとその先も今は構想・思いついていて、これは結構必然的なので、実際にそうなるかどうかはあまり信頼できないのだが、設定だけは考えておく.




 
人が条理と不条理を持っているのは間違いないので、条理と不条理が一体となっている人は超不条理を獲得しているか?、弁証法的には超不条理を獲得していることにはなるが.




 
伊勢物語をようやく目通し終えた.収穫はこれだけ・”夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里”.あと伊勢物語には用い方も考慮できることが.
 

   

 
キラーストレス--明らかにストレスで胃潰瘍になった記憶がある.矛盾構造性をよく記憶している.ストレスは人の持つ矛盾構造上避けられないので、最もの原因は人の持つ矛盾構造という判断が個人的にはできる.不条理に対していかに対処するかが問題と思うことになる.




 
またしても愚かにも過ぎたるは及ばざるがごとしをやってしまったような気がする.よくわからないがディリクレ境界がそこにあるという普通すぎる形態を、中間存在外に拘るあまり…であるかのようなに直感でふと思いついた.全くある単なる直感で考えたことが考えすぎになってミスる形になった時期があり




 
縄文の遺伝子を多く受け継いでいるのは、アイヌ人と琉球人ということはどうやら事実のようであるので、縄文の相互互助性がこの両人に作用して顕現しているか-もっと低い遺伝子の受け継ぎたちの圧力が強い・数が多いので双人には顕現してもしようがない?、または志向の異なりが存在してとか




 
「横超」忌とはこれいかに、それもないはずの概念ではないのか.「横超」があるにしてもやはり呻吟を行った結果でしか存在しないものと考える.まあ展開はしたくない位相制御感があるので..横超的面からみると「竪超」のなんと疲れることよ、この典型例に葛飾北斎をまず挙げる.




 
試行を購入していたころで印象に残っているのは浮海啓なる人物の作品である.この幻想力は卓抜でハンサムであると.よく描けたものだと思った次第.あとは記憶にないな、武道の理論化もいいがこれは卓球の世界的な存在を考えていた頃に、その可能性を少しは思ったことがあり、ただ認める才能がないだけ




 
中心的ガウス分布思考ではなくフラットな関係結節的場所であるS県と比較設定モデル化にしていたのに、比較しようがなく思い違いのようになった.まあ冗長でなければ、パーコレーション前の過程であるフラクタル文を描いた存在をカフカというと、城については言える.




 
カントの判断力批判をわかっていない傲慢なエゴイスト女がいて、審美感を性的幻想で踏みにじる・混同しているxxがいる.実に不愉快である.




 
一様性と全体性は似ているゆえに射影には全体主義の匂いが付きまとっていると思うので、特にその傾向顕著な存在はいやなのであるが、とりついてきてしまうこの憑依的意図逆現象、まあそんな志向を自分でも持っていないことはないといえばそこに来るのかもしれぬが、射影専門家ではない.




 
一様性は発散するか収束するかで持続は考えもしなかった0代、一様の持続はその時間が発散・収束時間より短い場合には成立する可能性はある.物理者が考えるビッグリップとビッグクランチのようなものである発散と収斂は.




 
森羅万象に同体化する隠者存在などマルクスには思いもしなかった俗物存在ではとも思ったが、エンゲルスとともにの共産主義の成立世界は隠者達の世界でもあるようである.どうなっているんだ!




 
間文化主義は混血の進んだ国なら、多文化主義ともどもそう問題ではないだろうが、日本のような遺伝子構造の国では、多文化→間文化移行も表層的なものと考える.ただなるようになる・諸行無常で対処するだろうが.




 
理屈からの現象結果として、パスワードに超越数を使えば..




 
境界の双対d




 
ド・ガぼっとを眺めていると、ドゥルーズは無意識的に量子論的文章を展開しているように見える.量子力学の造詣はソーカルにちらっと確か名前が出てきたのでなさそうだが、量子力学の発展に伴う時代背景にマッチした形として.




 
ただし中間存在が深淵の邪魔をする.これでは中間存在は身体的存在になってしまうではないか.




 
絶望などする必要はない、ただ深淵に位置すればいいだけの話である.




 
ある上下本があって、上のほうはなんとかなんだが下巻を読む・手に入れる・遭遇する時がなく、それが気になっていた.深淵でなんでもない(深淵自体はなんでもなくはない)はずが、何らかの中間XXの寄与が全く災いして、思考を浅くしてしまったその頃の話に、反エンタングルメントの設定でOKかなと




 
”しづやしづ倭文のをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな”白拍子のいわれ枕草子だったか徒然草かにあったな.それほどに伊勢物語は説得力があったものなんだ.透明的な紀元後の歴史は瑞穂の国あたりまででいいだろうと設定してある.今では遺伝子的に縄文が必要とアイヌと琉球の解釈要と




 
雑草系悟性豊かな俗物系も卵形で全く捕まった愚劣さがある、イメージが悪すぎていくら何でも見苦しすぎるみっともなさは、まずやる気の邪魔をする白けとその傲慢な厚顔無恥さと無自覚のそらとぼけと、何より名状しがたいいわゆる愚劣感・不快さをこまねき、持続のしつこさから修復できずの難点がある.




 
卵で思い出した、あの夏の日の河原での高速回転にはローレンツ収縮が伴うと、もはや身体知覚能力ではとらえることができないのでそのままという




 
森鴎外という作家のヒステリーは色々と厄介な煩わしさがある.全く辟易する承認要求の強さの持ち主であったと想定できる考えを設ける.そのころの抜群の人気による圧力の寄与で、やや後世の人材で洗脳気味になったのもいるような.




 
全く記憶にある不快な発言者たちは、トランスヒューマンに程遠く、演技で自己納得をしているというアタリ的には未来的ではなく現在的らしいが、個人的には陳腐な古き存在で時間を戻す・停滞する固有性を持ったもの(当人たちは偽善だろうとなんだろうと時間に追随して陳腐などとは全く思わず存在だが)




 
全く古典とする時間と空間で持ち上げただけなのに、結果巻き込みに?.古典レベルを高くという設定は歴史反転未来にしてあるが、トランスヒューマンはマズローの第的存在は明らかに類似していて、アタリの予測する超民主主義では普通の存在(エリートではなく)ではないのか?.





No.ではなくVサインだったのかもとふと蘇る.モデル化しようとしてもうまくいかない、日常に遭遇する乙女たち...




 
最後のYに太宰治について述べていたところがあって、平明な文章でかつ通俗的ではないとか--これから連想して、和して同ぜずを思い至った.はちゃめちゃな現実生活はそうすると何なんだ、演技ではと思う所に.川端康成に対する芥川賞選考時のルサンチマンは自己の権威意識の擁護という事になる




 
有心と幽玄か、幽玄と玄妙ならわかるが、玄妙を有心とみると何とも当たらずとも遠からずで、俊成の幽玄を玄妙にして有心を幽玄と個人的には見たい気もするが、そうとも言い切れない.




 
”有心体は「深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体」
幽玄体は「言葉にしていない余情を漂わせ、かすかで奥深い情趣美を追究した歌体」”-幽玄と玄妙しか浮かべず、有心は後々まで知らず、ただ”佐野の渡り”に妖艶があるか?、スポットライトがあれば妖艶もあるが.




 
枕草子の枕とは、枕詞の枕以外にないではないか、研究者は一体何を考えているんだ、とは思ったが、まあもっと弱い表現で、そうでないだろうかと推定して見るのだけれど、やはり異なってはいないだろうと想える、と記してみる.-清少納言のセンスと性格とその階層位置・位相の謙虚さに即して見て-




 
承久の乱とは天皇の権限が薄まった事件だったのか、”ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり”-しのぶは味わいが風情がある植物で好みなんだが、荒廃の象徴なのかよ...昔は何事かを思わざりけり(cf・昔は物を思はざりけり)や「兵どもが夢の跡」には感傷沈潜があって良い.




 
これら人の主体をむちゃくちゃにしたがる存在に、すべて何らかの諸々不都合現象(不都合でない現象は起こらない)の責任は存在することになるからそれに関してはいいのだけれど、他人の標榜は自己欺瞞をして無責任に味占めて楽しんでいる連中であるのにも困ったものと.標榜自体偽物であるから.




 
滅茶苦茶他者たちはひとの主体を他人化したがり、また自己主体を乗っ取られているような形で、他者たちは人の主体化と自分をしている、私はこのような他者たちではないので、困っているものである.自己主体の他者における標榜を全く許可した覚えなく、迷惑すぎて困っているという事態の続きばかり




 
全くいらざる嫌な陰険な射影人間の自己投射が相変わらず身体内部に存在している、無関係の見ず知らずの存在だったのに、不自由・不快でしょうがない.最もこの姉に関係意識ではない忍耐をしたことがあり、その余波がずっとである形.いらざる感性体でこんなの不要なんだが、嫌悪に限ってしつこすぎる




 
抒情性を持っているのが普通の人間という立場からは、叙事的存在は未熟で未来において抒情性を獲得するという将来性があるが、現行では抒情性を踏みにじる存在が多い.そんな存在は一生抒情性獲得は無理で、感情は事実・事実の塊でできているに違いない.





No.tt-記号化処理をしてしまい、その内部に有機を含んでしまう・含まざるを得ないが、内部でない有機性もある.





全責任を避けたがる・理解できない人材もいるので、そのような存在は特に他者に制限を加えざるを得ない.願わくばそのような存在は、全責任に対峙してもらいたいものだが、まず生きている間には無理という認識を、普通にずっと昔から持っている.





サルトルの全責任を負うという自由に対して、他者のまなざしが制限を加えるという、わざわざ不自由をするほど忍耐力はないという人材もいる.アジア国は工業国にならねばといった存在もいるが、アジア式というか仏教的色彩というか、森羅万象に溶け込むと、まなざしの制限は薄いものになるのだが.





叙事的存在と思うXX&XYにはその身体の硬さを鋼鉄体に感じてしまい、そこに硬い物体・鉄壁があり思考的に何も底の深さがない撥ね返し体があるだけを直接的に感じて、うんざりというか絶望的に疲れを覚えるつまらなさというか、無に溶け込むことのできない不可能さを見るのか-権力的硬さかも





射影には無限遠点でその内部に有機体を含んだものとして、有機体を記号化してしまう、その傾向は叙事的存在の心情にもあると思いつく、確かに叙事的存在も有機体なんだが、見た目には機械的・ロボット的に見えないこともない.そのような存在が人間的な感情を有する存在を記号的に見てしまうのは普通か





無限小は当然設定してあるからペンローズの思考パーコ電子もだけれど、実際に考慮すると煩わしさは、現状認識は成立してしまい、時間を必要とすることになる.





価値尺度、流通手段、価値貯蔵に関して、カントの空間についてを眺めて何かひているような直感が、対象認定と対象規定と対象の持続とその変化という.





不寛容-アタリの第四の波のネット上における光景というのは早すぎ・穿ちしすぎかな?.トランスヒューマンなる考え方があったのか、そうなることには賛成的.何しろ関心ある難病もエマージェンシー・ウイルスも見方がマイナス方向だが、強度意識上はトランスヒューマンの位相にあてはまるからである.





そんなわけで、ユークリッドとデカルトとニュートンは位相が似ているということである.





サルトルの責任は必然的自由と必然=自由と位相の度合いは異なるが、位相自体は似ている.





そんな誤解判断をする連中にはあきれてしまっていると同時にろくな存在ではないとも当然認識する・しているので、認めることができないのである.でたらめをしてもらうと、認めようとしても認める主体を無視・歪めてしまい、正当判断をさせなくするからである.まるで風車を人間と思うような存在と同じ




 
即自存在の自由を他者は制限する-そうなんだな.即自存在の自由を人は好まないというのはドストエフスキー.即自存在が中間存在であると自由は制限されたものでしかなく、また責任も世界に対して全責任を負うことはできないという存在が多くいる.




 
要するに自己主体を他人化・他人主体であるかのようにみる存在は一体何なんだということなのだが、認識・認知能力が低いことは歴然で、その割に思い上りが強く自分は低いとはい想っていないという傲慢さに対処すべきすべを構築できずずっと不快に思う羽目に.




 
即自記憶を横取りする対他存在者は、内部存在となることになるのだが、
自己記憶として内部にあるから対他存在者の反映的反応などいらず、また横取りしていることなどまさかと微塵も考えることのできない存在だからどうでもいいので、自己記憶でどうでもいいとした対象と他者措定をするという不快さ




 
対他存在者が、記憶上の即自を自己意見と思いつつ、記憶上の対他者を対他と認知して、発言してきた・今も発言してくることが不快なのである.対他存在者・君の即自などどうでもいいと思っていると、思っている人物の即自記憶を横取りして自己意見と思ってしまう対他存在者は不快で、鏡を要求していない




 
だが無機物世界であるこの宇宙が必然的に有機物体を発生させたという人間原理的考え方があり、そう想うものである.類続はここでは宇宙の意志的なものとなる.宇宙内存在より宇宙と共存しているという意識的であるかな.




 
生命が無機物の疎外であるという考え方は、確かに死後無機的骨になりその後その骨も消えてしまえば無機物になることは間違いない人間生理体だが、いわれるようにこれはタナトス的色彩の強い考え方である.何しろ無機から無機へという考えではそうなり、宇宙内存在としての人間存在の限界規定をしている




 
陰謀・策謀・武力型は消息通であり・情報獲得能力も優れているという形である.消息通・何しろ陰謀には策謀には情報が必要だからであるが、陰謀・策謀のためにでっちあげ・捏造・虚言はったりを行ってもそれが自然でああるので何とも思わないタイプでもある.普通常識では歪まった結果を齎す事も多い




 
しかしYと同位相にXX達の存在もあったことを今思い出し・描いている.なんとこの逆になっている主体阻害・主体疎外達の無理解と不自然と無責任と欺瞞感を理解してもらう・自覚させねばならないのだが.--疎外?!、悟性体は疎外的イメージがよく似合う.




 
少子化--別に独身をやる必要のない人間を独身化している障害者たちなどの方が問題で、妨害をしている人間たちに責任があるが、そんな深層心理を持ってるかどうか不明で判然としないので、そのようなことを述べても理解したがらない・理解できないのではないか.




 
縮退がそれ以下の縮退を要請するという不快さ、君の縮退をなぜ解かなければならないのか、勝手に解けばいいではないか、どうやら縮退は自らによって解けないようである.他力を必要とするのかな.世界内存在としては縮退世界内部に位置しているといってもいえ、またクォークは縮退しているともいえるが




 
不快な記憶の除去がなかなかできないということから、非可換だからできないのかもというアイデアが浮かんできた今日、不寛容も非可換性なら説明がつく・つきそうである.




 
いずれにしても建設意識なら何か結構当てはまりそうで、さっぱりわからなかった関係の本質は、やはりわかりきっていたことだった.おおよそ、わからないことわからない人物はすでに過去の対象であるという認識を持っているが、ほとんど理解できない人々である環境界とは何なのかになってくる




 
コンプライアンス意識の寄与はあるな、正義感が発生するのは建設的意識からである.建設意識?!-関係は建設意識に結び付いた倫理であると閃いた.何のことはない建設性かよ、唯物論・唯物史観は類続の保証に縋っているともいえそうであるので.




 
T家の歴史を鑑みるに、チャイテンの定数cより先、以前は神話的になってしまっている形であるという解釈の方法もある.





ほぼ同一時間・誕生日が同じ・や同一年存在たちは、時が平等なら一様に同一時間に死なねばならない理屈になるが、同一ケースはあるにせよ人はそんなことを考えてはいないはずである.同一時間に知力の差がつくや体力差は先天性で処理してしまうのか?.平等時間は物理的にしかまずは成立しない.





ある人物が人間には論評するようなことが可能ではないものを持っていると、証明不可能か人間の才能では判断できないようなものにそれはなってしまうが、それを持っているのも人間自身である.この辺は矛盾であるような気がしないでもないが、それがあるとホッブスの万人の闘争が成立することになるかな





まずいまずすぎる悟性的なけばけばしき生理質、低劣な帰納磁性色明らかな場合には、荒廃しかないではないか.乾燥するか腐るかの摩擦塑性食感というもの.





叙事性のけばり・悟性生理の廃人性感覚が、潤いを荒廃させる蒸し返し嫉妬心・嫉妬心そのものとも見えそうな感触.汚らしさを押し付けて、自己欺瞞に持っていく存在は-その家系遺伝ゆえなので、家系責任であるはずなので、別になのである.実に嫌味なかような存在・自己努力のサボタージュ明瞭





チャイテンの定数でまた惑乱となるこのXX関連からの圧力・抑圧・諦念-諦観要請-ゲーテの悪魔的・・・などなどが作用している乱雑さを齎す煩悩家たち、まったく一方的に時間が作用するのではなく多様なシジフォス情態は当然になってしまうのか.





刹那消滅という第二量子豊かな見解を述べた人物がいたそうな、刹那消滅をなぜ述べられたのか不思議になるんだが.述べる時間はないはずではないか・・・





ライプニッツのモナドやホワイトヘッドのエンティティが考察対象となるのか、まったく自明すぎる理である単に対象設定差異であるに過ぎないではないか.





まろやかな内容を想定していた徒然草、吉田(吉田に関しては後世の判断とかがあるようだ)兼好は教養が豊かなことはわかる.判断力の個性が強いことはあるが、精神年齢は低くはないと判断できるので、自説によって隠者的存在だったといえる.あと有名なのは鴨長明や西行か、松尾芭蕉はどうなんだとなる




 
ようやく枕草子を目を通し終えた.簡単に読める代物ではなかった.清少納言の美的心理過程記述なので、位相が一致している人はあえて読まずともや簡易にすらすらと読めるのだろうが.ただ時代の差・000年の時を経ても、人の心理構造は環境道具・物象・建造物などが変化だけで、変わってはいない




 
自由を十分知っている人に抑圧の窮屈さを与えようとする存在・与えた存在は、自然に対して逆らった不自然さを行使しているので、その当人たちの自然は成立しないことになるはずである.他者への抑圧が自然なる存在は始末に悪いのだが、他者もそんな自然は持っているということをまず判断できないのかも




 
関係が絶対的であるならばその関係は非相対的であるという論理対処.普通に人は必然的自由で物事に決定作用をしている.これに対して必然的不自由というのが問題になる.レーニンは、必然=自由が決定要因であるといったらしい、これはキャズムのイノベーターと同じようなものである.




 
”絡み目不変量として既約表現の数という完全に代数的な量が現れる”の背景は、ポテンシャルvsエントロピー関係ではないかと推察する.




 
絡み目は遺伝子工学に平行して存在すると単純明瞭に考えることに、化学・生理医学の問題対象図形に近い.でライデマイスターは基本中の基本P-E・E-P関係にも関係している.さて遺伝子はその鎖の畳みの有効体積利用とか続くが、ともかくRNAどうしようかでワトソンを知っていたのに何故に並行?




 
捩れを空想していた面がガラスの部屋、ムサビのレディを連れて行くのにしりあいが・理由は?・部屋にいたのを思い出し、まずった事の頃、回転のねじれさえ思いつかず、絡み目は捩れに回転をつければいいだけの話だったのに.手元にアウトドアロープワークがある、不変量固定は有効な所為になるが




 
「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」は昔に聞いたことがある、白居易の隠者生活の香りからきていることを今知る.なんなんだこれは簾を挙げて見るのがどうしたんだと思ったまま記憶のずっと思い出しもしない片隅に、枕草子にあったのか..
白居易は自説からは知力も精神年齢も高かった存在であるとなる




 
いわゆるXXに文句を言わないで・欺瞞的にダンディーを気取って、その代わりに人に八つ当たりというミュンンヒハウゼン代理の理不尽なケースであるかな.こまったなさけないXY達にならないか.ミュンヒハウゼン症候群のXX&XY達とすると、虚偽・演技的性格者の動向がフィットするような.




 
知的能力と精神年齢が比例している職業は普通に哲学者なんだが、わかりやすい例では隠者と称される存在である.




 
伏見城の戦いは家康の会津征伐との留守中を狙ったもので、既にその頃には対立していたのか、朝鮮出兵も遠因らしいが、武断派と文治派の対立が問題の主たる要因とは、それで関ケ原の戦いとなる.思うに徳川家康なる人物は驚異的な忍耐経過を持った存在に見える.それゆえに徳川は長期政権になったと.




 
シモーヌ・ヴェイユ論とかアンドロメダ忌とか多少たかり的要素を考えるのだが、実際に全く関係ないアイデアかもしれない面も.しかしいざ思考しようとすると邪魔になりしつこい災いになってしまうので、利用された感がある.こちらは全く不利で不利益で、いわゆる搾取的な存在達と思うが今は物故に




 
科学は、その還元・成果・結果形態が、叙事的・物理的、要するに無機的になるのが今のところ特徴で、それはエロス的に難点であることは否めない.ポパーの述べるように、ほぼすべての要素範疇を用いて科学的解決を設けていいのだけれど、まず難点だけは克服できそうにない.No,th




 
0億人だと億人と5億人で、こんな考えがあると戦争は叙事的存在で演技的存在がやりたがる(叙事は武力的経験要素の比重大であり、策謀・陰謀は演技的要素大だからである)のはわかりきっているが、責任論を考えると、他力的な要素0:0が行使した結果と言い訳ができる.




 
南十字星にはダンシング・クイーンも想定した.火の鳥から春の祭典や、アンドロメダとか--魅惑の女性であることは間違いないが、或る一言の発語・のちに知った・がまずかったか、最も思考的に悩んでいて、未来の労働規定時間も嫌だったとかいろいろ考えたが、今頃は?.再開すればの要素はあるXX達




 
明瞭に判明する心裡態度・行為・行動ではなく、無意識に作用する心裡意識を詳らかに検討すると、そのような帰結に到達する.歯を磨くとか一人でトイレにいくとか、人は自己認識をしながら日常生活を送っているはずなんだが、共同的には無知になるのか・自己認識している暇がない?




 
どう見ても実体とかで人の内部の剽窃暴露存在の不都合な意識薄め行為は不快である.その人物にしらけを与えていることに気が付かない得意感の快楽という無知さ・無自覚さの調子づきで、未来の希望意識としてはこの場合違うので、未来に生じることになった不都合はこのような存在に起因し原因もまたある




 
つまりマズローの段階の低次なケースがあるわけである.少なくとも日本ではそうじたばたすることは無い衆目の認知があるはずなんだが、例外やそこの境界に近い存在もまあ存在する可能性もまたあるだろうな.0:0はそうなることになっている.低次存在に関してプライドとの葛藤を要しないとかな




 
深淵はある種の人にとっては絶望かもしれないが、深淵が普通の人もいる、またある個性のある作家が得意としていた.市場原理の壁・明の領域から深淵域に進まねばと思いつつ、さっぱり考えられずは、叙事的存在が妨害している可能性があるのではないかと、それとも光円錐か.




 
フィボナッチ数列の逆数和には複数人材の結果があった.ゼッケンドルフでもいいけれど、超越数チェックはあの頃しなかった.これだけの超越数や不分明結論・過程中の段階であると、世界の現況はまだまだ変化する可能性が高くなる.




 
昔考えた種の特性規約方程式は、超越数ではないことは決まっていた.フィボナッチ数列を用いる超越数がクヌースによるということは、クヌースの業績で関連あるものはこれだった、ようやくいらだつクヌースの名前を消去できそうだ.チャイテンの定数でこれも決定済みかよ、しかし問題である.





道具論のハイデッガー、オブジェも考えてみれば道具には違いない.空想家であるのはわかっている道具的空想ファンタジー者をなぜか調子づいて記録したことがあり、不快なその排除が大変.その頃の周囲は何か勘違いをしたようで、質問に答えなったり、先輩ですよとか言ったりした質問対象者の思い出.





三体問題ゆえに?!-夏目漱石を関連付けてみたりして





いろいろな思考情態でさすがに夢も変なのを見てしまう.思うに他者たちの強いる抑圧カルマが大体においてそんなわけのわからない不利益な夢を見させるようである.





なぜか夢を見ているのだけれど、夢の中で現実・実際に起きていることのように思ってしまっているのである.これがなんとも悩ますところである.そのうちに実際になってしまうのではないかと思うが、そんなことはなく夢は夢のままであるはずなんだが、あまりにもリアルな意識を持ってしまう.





その不本意を味わったXXの発言、このXXも目の前の対象を(その時には思わなかったがちょっと前のミストレスに対する思いの未発言記憶)他者存在に認識当てはめをしたために、ある作家に対して悩む羽目になった.個人的には蛇のようにしつこくてうんざりする束縛力の強いある作家の認識であったのに





しかし件の人物はなぜそんなに親鸞にこだわったのだろう.悪意があるに違いないなどは嫉妬感を覚えるが、単に考えがまだまだ足りないか、素質的に無理だったのではないかとも思ってしまう.





枕草子を数ページ読んだところで、清少納言は生意気ではなく意外に善人のようである.ある詩人の善意爆弾という言葉を思い出すほどの生き方をしたような.紫式部と同時代性を持っているようで、天皇家形式に振り回されたというか、藤原家に結構関係した立場だった.それにして藤原家と天皇家は・・





形式でも悪法でもケルゼンの純粋法学には、正義や道徳は入っていないように見える.法実定には機械的処理ロボット的側面・論理的記号的実行的・また唯物論理物理的・形而上学的要素客観的など、深いというより無機的処理的である.なぜ深い思想が正義や道徳を嫌うのかな.単に無機的だけではないのか?
   



親鸞に関して、親鸞も悪徳があったに違いないとやや強調的と思えるように述べている人物の意見を知った.これルサンチマンのようである.この人物は何がいいたかったのか、自己の悪意を親鸞に仮託したのではないか




 
鬱的・・実存の明とばかり考えていた存在に可能性を気が付いた.曖昧さは十分なだが、枕草子は役に立つ・役にたった.嫌な清少納言だと避けていたものが役に立つとは、相変わらず想いと逆になる.あるいは毒には毒を持って制すというやつかな.




 
デルタをわざわざ収束にしない逆作用をもたらした意識は、不都合なんだがどうも無限でさえ自由の邪魔と思ったからだと思う.射影極限の平行線が交わるにも似ているデルタ関数とビッグクランチというわけで、ビッグリップへ向かわせると働いた作用.多分ビッグクランチになるだろうと思うが.




 
思い出せば等質区間的なイメージの厄介さに本能的に避けた時、それ以前にもあったような、度遭遇する羽目になったのか心裡よ.記憶が薄れてしまって、薄れるような対象の記憶ではなく、薄れるのは困るのだがなぜか思い出すのが困難な、或る街で東武線の電車を待っていた食堂・それ以前にも悩みの種が




 
とりあえずミンコフスキーの考えあぐねていたものは、構造設定問題として、妥協処理して置く.重力子とかでは三角形・デルタ形にすべて寄与するから説明上は分離化できずに、多様でもなく見かけは単純な射影構造・深度をもった図像の説明がつかずだった.幾何的には説明難点は妥協の言葉による.




 
重力子とダークマターは違うはずだよなと言いき聞かせてチェックすると、グラビトンに対しての超対称性パートナーを考えて、そのパートナー・グラビティーノがダークマター候補というAre Raklev准教授の0年度初頭記事を見た.素直に常識的にそのように考えることはできるとは思う.


   


クォーク設定の地平線を無意識化するという手段を思いついたが、その乖離感ががきついクォーク感を十分味わい過ぎたということである、実際にそれは慰今でもそうであるクォーク存在論.トップクォークは5年、タウニュートリノの発見は000年.まだ新しい事実なんだな実際は理論に対して.





ポストラモダン(どうもポストモダンと言いたくなく、揶揄かスラング的に用いてしまう)は、思想上のダダイズム的と見える.デリダの意向は明らかにダダ的という視点を設けることができる.
   


特定の他人にできたらばというくらいの感触でこうすべきだと思った事を、なんだかあずかり知らぬ人間が、自己要求しているものとして接してくるまたはその対象が.なぜ君が対象であり、またそんな反応を要求しているわけがないと理不尽・矛盾・出鱈目不自然反応をするのだろう.理解できない.





環界で複雑性圧力が自然発生して、それが直接作用してくるので結構対処能力を有する.環界は共同的・社会的な面において、まあ個人的にも圧力作用は十分受けているのだが.





個人・<個人と個人>・共同・個人と個人・個人と共同・個人と<個人と個人>・<個人と個人>と<個人と個人>・<個人と個人>と共同・共同と共同の冪的関係があって、これで世の中成立しているというものである.




 
霊は人の記憶にある死者の存在意識であるその変容と取り敢えず考えるか、そうなると伝統は霊的なものに近づいていくようである.




 
終止符は当然打ってはいず、遺書もひそみに過ぎない、バイブル(秘伝的な意味合い)はかなりリアルに近い.




 
弘法筆を選ばずと趣味が異なるは一致しなくなってくる、とすると弘法云々は技術レベルの話になるのか?.弘法筆を選ばずは人々に定評を齎す水準にあることを意味しているので、硬い毛や軟らかい毛を用いても文字のレベルは同一を意味している.そうなると、筆の選択が趣味であることになる.




 
オパーリンの生命の起源となぜか関係してパブロフの条件反射も(種の起源はその間に入っていたが)その頃の話で、悩みの発言者達の記憶は、脊髄反射・条件反射と思いつく、以前にも考えたような気もするが、その衝動反応の内容が動物的知性でもなかったと判断していたゆえ、今は模倣対処ならありうると




 
なんでだろう、ある作家にそういえば・小節メロディを考えて、献呈した記憶がある.手紙だったかな、どのように受け止めたかは知らない、気にもせずに忘れていたその家に行ったときにも.そんな態度をその作家に示すつもりは全くなく、むしろ無視したい意図だったのに逆作用をどうもしてしまった.




 
中学生のころおもむろに作曲ということをしようとして、ほんの・小節の意図を試みただけで、非常な苦痛を覚えてこれはダメだとが、無意識にあるせいか楽譜など避ける傾向によりある.後年、ショパンが好きとか若き日のモーツアルトとか述べてきたXX達がいたが、何かとんでもない幻想をしている-




 
背景画像はS県西部の鉄道終点近くの橋から見た下流方向の荒川の上流とその付近の風景である.記憶にある限り、この風景場所と京都周山街道からちょっとそれた寺の帰りに見た薄雨に煙るバスの中らの風景が、今までに日本的情緒を感じたたったか所で、そのうちの一つである




 
No.thの自己思考に悩んでいる難点は縦型設定であれば何でもない事だったことに気が付く.それにつれて横的に考えて、ある街の東口を歩きながら自虐意識的にしたことを思い出す.不利益な無駄を相対意識がさせてしまう、対象も別にそんな要求をしたわけではないが、想定しすぎという現象自覚例




 
とにかく古代よりの表現には幽玄と玄妙の中間のたしなみを感じる.




 
マクロの積極的自由はマクロの消極的自由から見るとミクロになる.




 
理解するか意図通りのXXであるかはその発言語彙表現によって明瞭にわかるのだが..いない場合は作ればよいのだが、未来夢時間上の存在は理解必然の権利を持っていてもいいはずか、もしくはかなり接近している存在・でもないか.




 
思想の思想たるゆえんはその人にとって絶対的なものであるが、そのゆえんからくる思想自体には絶対力はなく、戦いが待っているということは良くわかっているのだが.




 
それにしてもわかったようなわからずで、あいかわらず関係の絶対性の意味に納得できず.存在理由・生存本能・優越原理・全か無か・土壇場・瀬戸際・極限限界・自己本性対峙・唯独性・・・この辺の何かであるはずなんだが.




 
吉本孝明はその強情な自己言語意識で思考を展開していることから、街を歩いていて、『未分化』の状態から、思考を構築した存在であると思いつく.それならば、先人たちの業績に影響されることなく、ピュアな状態からのアイデア思考として、マイ論理の、『未分化な状態からの思考構築は新鮮』に適合する


さていよいよ暦の上では月である、しこりのテーマ類をすべて片付けていかないと何にもできず前に進まないが、難解すぎて処理にてこずり遅々として進まない.『知性などX歳で沢山だ』とした面があり、その時は危険だがと思ったのだが.その状態にただいま遭遇中となりて、空白が長すぎたこともあり





アイドル現象?-ちょっと待ったこの言葉にはある実践的な面があるかも‐そんな時間にやはりなったか.時間はいいがというかそれの持続折り返し時間があってもいいはず-ベルカーブの折り返しとPからEへは普通すぎること





平日の図書館午前ヘテロ達魅惑の翳りちらりほらりと





なんだかんだ-図書館で借りるのはいいが、返しに行くのが億劫だが-で、結局またソビエトものを借りて来てしまった.書架でぱっと目に入った”シベリア抑留50日”である.なぜかロシア関係にここしばらく集中、そのおかげで民主集中制もなぁ硬直しなければという持論の応用が閃いた.





「こころ」をようやく読み終わった.思い違いをしていた時間が長かったなという感想である.それにしても漱石の心理描写能力は鮮やか、多少弱いかなと思うところもあったが、とにかくよく展開できたものだと想うしか、そうなると例えば死の棘なんぞを読んで比較したくなるが、どうしたものかいなと





Kの告白のところだけれど、このあたりの心理描写能力は見事に実際の過程を表現していると思う.モデルはT大生明らかだが、実際に漱石は遭遇か近い情況を味わったのだろうか、漱石の小説には三角関係が多すぎるややしつこさがある.漱石は永遠コンプレックスと見ると確かに小説家である.





模倣者たちはシミュラークルとして、設定できるか.しかし自己認識の鏡を見てもトートロジーにしかならず意味はない.シミュラークル者たちは、それがシミュラでないと否定したいのか、オリジナル者の主体を異常に阻害するという事態には不快しか覚えないだろう.それとも愚かすぎて気が付かないか??





まあ単に、パンのみに生きる存在に重点を置いている立場の存在と見れば、それで射影一様度は成立するとは思うが、失格におけるいよいよのケースにおいて、矜持に対する反省的意識様は、果たしてパン型なのかロゴス的なのか判然としない疑問符状態ではある.これは関係の本質的な内在ものの様でもある.





田舎へ帰った主人公の父親の病気の危篤時に、先生からの遺書が届き主人公が汽車に飛び乗って遺書を読みだす展開のところ--この時点で先の結論を見たくはないが、昔から物騒な(厄介な)想いをしていた三角関係のイメージとは若干異なるなと.ポアンカレの三体問題像と似ていると気づく物騒な心裡





教育は生徒の自発力を伸ばすこと・自発化にすること、その一点が最ものものである.押し付け・押し売りは教育ではない.もし教育関係者で自発力開発傾向が強い教師がいたら適っていると思う.多少根気のいることでもある.





かような人物たちは自分たちが困った存在などとは露にも思わず、他人の誹謗による優越感に生きるという荀子的特徴を備えている.(全くその現実に直面しすぎるのである.何とも自己認識の無自覚者かもしくは開き直っているか)





自我と超自我&個人と社会的&ミクロとマクロ&ノルムと汎関数の関係などはトポロジー的に同相であると見る.





長編小説だったのか夏目漱石のこころ、短編で先生と私の感情のもつれを解けないしつこさを読まずにただその存在事実から直感した中学生の時-それ以来ずっと何十年も忘れてはいない心.あるいは何か紹介文でも読んだのか教科書にあったとは考え難く、先生と私と自殺が出てくる関係の記憶が鮮やかすぎる





どうも権威主義系の暴言に出くわすケースが多い、いわゆる権力系存在に変貌したというやつに.それは一種の妬み・そねみ・心の不幸のいら立ちの発露なんだろうが、原因はそのような遺伝を齎した親にまず第一義があり、迷惑な侵害である.





物質的豊饒さでは幸福になれないと言いつつ、経済に道徳はないとか.どっぷり見栄張りに浸った演技的性格系は物質的豊饒さの権威主義者で、芸術的な昇華とは異なり、どうもそのセンスの束縛性・重さが不快なのである.権威主義系から見ると昇華は深いなのだろうが、昇華の方がいいとしているので・・・





味占め気どり見栄張り専門家は一種の宗教的にしてパスしたいものだ.その宗教はカルト系に近いが.またワンパターン人間も宗教的特徴の殉教意識性と見るとやはり宗教的存在でパス・スルーとしたいものである.まあイデオロギー凝り固まりもパススルーになるかな.





最も虚無とか砂上の楼閣・投機にはそんなに重さはない.カザノヴァ的な剛体が気どりに味を占めて見栄張りを専門としているような存在は数多くいるが、所詮元が重いのでそのセンスは重くくだらないと思うが、意地力としつこさ・傲慢力は強くまことに始末悪い愚劣見栄張りセンスで突っ張るもので辟易する





叙事者は自己認識・自己把握をしないのかな?、カムフラージュで誤魔化す傾向もあるが、何より絶望すると虚無に向かいと思われ、虚無は神聖的なスピリチュアル的でもあり、神聖型は悩みを知らないので、結局虚無型も悩まず叙事型はイージーと系列が完全的になるような.





心理的に映画太陽がいっぱいのようなストーリーで、ただしどうも映画と異なって対象の発覚・愚かなさの自覚はきっと成立していないな.これらは記憶にあるのみで、とにかく人の楽しみを邪魔した存在達だ.その傾向がまだまだ出現する傾向にあるのには閉口する.





反対・強引な出鱈目を受けるのは、そもそも未熟な存在とみっともない存在と認識してしまうので、そんな存在に遠慮すると実際に未熟やみっともない存在以下に未熟にみっともなくなってしまう.逆が明らかなのにその存在は無知なバカだと思いそのままにしてしまうので自己主体が変になることが多すぎる





考え違いもあるか共同化設定をした形でプレッシャーに負けている現実と体制形式のうんざりさを予測しすぎと何かと圧力条件が発生してくる折々と、他人に意図を取られたような記憶もあり、心を薄くされてしまった形で何かと不自然を余儀なくされていて、修正がうまくいかない.負けた形が最も重要か--





ついに昔から嫌であって、遭遇した時にも不愉快な思いをして、何十年も悩ました存在がなぜそこにいたのかの理由を構築した.妖気はキーワードでそれなら可能性があると、難しかった退行者の実在は精神レベルの低さの同時性になりて.しかし時間的にも覆水盆に返らずの要素寄与大なるまさに馬鹿げた事で





ある街のある通りを歩いているときに、真昼の異空間を浮かべたことがある.ふとある時にどうにもこれはニーチェの超人位相と同じ浮かべであることを知った.がそれとルサンチマン意識は別にしてだ.





で経験上陰険な宿命的射影がしつこいことに、生理の特質を変えて貰うかその存在の消失か、それが自然・普通に誰でも自然・だが、特に強調するので自らが証左をとは思うが、時が解決しないままに消えるケースも想定できるのは、対象がハイデッガーのように未完に終わるからと考えることができる





クライン・メビウス・ベルトラミ・タイヒュミラーが同時性を持つ-これ結構望んでいるもの、それに射影という文字が付くとは.単純射影一様性が不快なだけかな.





関係は、個人と個人・個人と共同・共同と共同のパターンしかないな.





しかし意志の自由において矛盾の成立しているケースで、その矛盾を孤独に思考して解いた存在がいるらしい、矛盾や不条理や理不尽根拠を明瞭に分別できるということがわからず、信じがたい.この場合の矛盾はどうも個人と共同の齟齬であり、その人物はのちに逆立と申しているので、解いていないのでは?





ラフマニノフには、ロストロポーヴィチの秋のダーチャの哀愁イメージとも異なり、ドヴォルザークの郷愁とも異なり、チャイコフスキーのロマンとも異なり、心理的にはさすがにそれら以上のものがある.チャイコフスキーのアンダンテだけはエートスが閉鎖的ではなく、演奏家にもよるが別のものして





記憶にある宿命的存在二人とも、他人の幸福をそねむ・ねたむ・妨害をする傾向を感じるが、どうにもその不幸さ・悲惨さは叙事的な単細胞的な甘さを覚えることができ、不幸さ・悲惨さが足りないのではないか、そねむやねたむ時間があれば、もっと絶望して自己修業をすべきではかなと考えてみる.





類続のための歴史を仮想した新旧約、その仮想力はかなりの才能ものである.仏教のこれでもかと展開するあらゆる事象に対するアイデア力も大したものではある.構想力の視点からは見事なものといえる.





個体としての個人は死を余儀なくされていることが、悪魔の存在を生み出したのではないか.普通の人間存在が復活をしてしまうと新約的にはまずいことになり、また旧約的には生命の樹の実を食べると永遠を獲得できるが、それのためには悪魔を構築して神の権威の保存を設定したとか考えることができる.





”先行理解と解釈の循環である”なるほど、レヴィナス的全体の枠組みに戻らねばならないハイデッガーのガウス曲率とでも申すか.





ガダマー・ハーバーマス・デリダ何をやっているんだろう、これらの人物たちの論争視点は、高々考える人の一つの頭脳に過ぎない.真理は帰結点であり、普遍は深層より超越的であり、帰納的視点と演繹的視点は異なるものである.





結局第三ステージのNo.*で今年は早くも行きそうだの結果・成果が出る.アルファタッチに傾き掛けたが、ちょっと面倒なことは残っただけではないか、結局No.*で行きそうだが、・か月もするとすっかり忘れてしまうここ数年の思考.底流が決まってしまい、自動性が成立することに拠る.





レヴィナスの述べるように終末論は全体性・歴史の彼方におけるものであり、パラダイム的革命的新しき世界構築意識でないことは当然そうである設定だろう.別にレヴィナスにしたり顔で言われなくてもそのように考えている人は史上に多数いると見る.





今この時の風景にせよそれから敷衍域を広げるという志向性からは、その逆に広大から今このひと時に集約するという一朝風月に示唆されて、有時を接続の無数回という形式化にしてしまい・・・今のあるがままは広大のつながりを体得するという禅のある種宗の本質と見る.





武力と陰謀・策謀で人を支配しようとする存在の存在を人々は周知しているはずである.その存在理由がそうであるような存在が多く実在していることを、しかもそのような存在は、存在理由がそうでない人間はダメと思いがちなことも確かである.その存在理由から戦争・紛争がなくならない事の理由になる





わかっていながらのこの始末、その上雑なXX・消耗品系を引き連れて、これまたムダエネルギー浪費という非建設に向かわせてしまう...類続上からはこのような存在一般には圧力がかかるはずなんだが、何しろ実際には非建設的・非類続的傾向だからである.この辺の混淆から戦争・紛争が発生するのかも





空白の要素に自己自身の結果もあるが、あるXXに対してに寄与もあることになる、このXXに絡まるとどうもろくなことはない位相で接してしまう・その理由はわかっているが、このXXはアルファ位相でしかなく、今にして思えばタナトス要素強く、穏やかな破滅に向かうものと予測は十分成立していたのに





不美なるXXは性的幻想の壟断により、カントの述べる性と美は異なるの美意識を排除する・もしくは美意識がわからない・わかったとしても性的人間を優位にする存在でしかない.それゆえに実践力・実戦力が強くなりがちであるのは、ある種の人間のパターン類である.





一服の朝の風の流れに妙味を味わうのと同様に、路傍の石垣の道の間に一輪のすみれが咲いているのを見るのも悪くはない.





狗奴国の誰かが海を渡って-高千穂の名前もあり&日向も登場するということで-紀伊半島のどこかに世紀以前に上陸して、その後奈良を適切な位置と決めたという説はどうか?、何しろ邪馬台国と狗奴国は対立していたということなのである.





TLに一人モデル化したXXがいるが、No.twに関して適合生存過程がある・何も論理内容を全く教えたわけではないのに・ということで証左の確認は当然している.





ある思考形式ヒステリックな反応をするXXは十中八九中間存在体である.忍耐力・愛情力・思考力その他もろもろが中途半端な限界を有するところの存在であって..それが日常普通と思い込んでいる存在でもある.--諦めているケースもあるが、諦めているというより妥協している存在と閃いた先ほど





裂いたディラック関数の修復ができず、この無謀すぎるドン・キホーテ式は如何.デルタ単一という遂次性のどうにもあるXXの寄与が作用すると、とんでもない非常識を無意識作用させて、もっと価値のあるXXでないと..それにつれる同時化的な雑XXも、とんでもない非常識を構想させた無駄があり





超多時間の種類の微分要素は・・単なる次元化時空を表しているだけで、種類の特性方程式を含んでいる多項式ではない.ただあるとすれば次元時空にその多項式は存在することになる-あるいは人の頭脳の中にだけに





あまりにも多すぎて無限と設定したがる、Yでさえ極論的に一瞬で無限素域の把握とか述べていたはず、そもそもこの無限はかなり数が多くても、有限値に納まっていると考えることができる.実際にはこの現宇宙に存在してい粒子の数は無限ではなく有限値であり、人の意識がそう思わせたがると.





そうなんだ実際に発散との戦いで繰り込みの朝永の超多時間が気になって、光子の自己エネルギーの有限値のところが気になる箇所までのところで、別な意識のオッペンハイマーは優秀だったのかよと思いが生じ、今までは単に祭りあげられた存在のイメージが強くて.--繰り込みと無限は両立しない--と





大体思考事実を無視して、生理実感のみ判断が現実と思い込んでいる実体は有限のみといって、無限すら無視するという存在の窮屈さが苦手で、XXなら無限は当然位なはずの前提があったのだが...





しかし現状は時間が物理主義(強制エントロピー変化様の道具主義的製作化)・行動主義(共和感覚)時間で動いているかな、アルファがそのようになっているのは複雑時間的多時間のコンパクトタイムとか構想してみる





自己欺瞞保存のために他人にその不都合な内容を転化したり他人を誹謗して貶めたりする演技的性格者XXが多いかな、--アドラーの補償の反動を考えていて関連しそうな思いを途中まで考えていたところで--なぜこんなツイートをしたのかしばらく考えていた暑い5月下旬に、暑い映画を見始める.





この雑草と自分を同一視した人材に辟易している.生理構造が全く異なり、、ウームなどを持ってはいずで、なんという理不尽というかどんな知覚能力・認知能力を持っている存在なのだろうか、あまりにも見当違いすぎてその排除に困難を、そんな存在は悩んでもたいした思考内容にならないと<当然>思う





障害である雑草存在をそれとは認識しなかった遭遇時、これもあるXXの許嫁的存在ゆえの登場だが、そのXXの実在など思わず、単に存在知らず・会ったこともなく、ただし同時に成長した意識時間を持っているという存在、いまは他人の子持ちであるというそのXXのの弟が、K大狂となるという関係心理





本命はやはり本命であるXXや好きなXXは固有が似ているとか、論理一番もそうで、モデルたちのうまくいっていない記憶の展開発展を記述しようとは思っているが、果たしてできるかと不安はある.単にドキュメントの記録でも面白い心理の展開面・交錯表現となっているはずだが.





全く無茶苦茶な連中だ、海馬が発達していないか、自己把握に無知で無自覚であるのはまちがいないとか、その無知に甘えて無責任を平然堂々と行使してそれが当たり前という認識視点しか持てない存在たちでもある.まだ我々はてんやわんやであると謙虚気味に述べた作家はましな方である.自覚している故に





まさか件の人物はいくら何でもそんなでたらめ態度をとるとは思っていなかったので、判断に思考に狂いを生じてしまったのだが、あたかも普通に人々は狂気的なんだと思っていた存在達と同位相になる.そうであってもそんな局面には遭遇しないだろうとしていたが、そんなことはなくかなり遭遇した.





太陽フレアー人的発生結果の映画をみている、放射能蔓延も問題だけれど、現在的急激影響は太陽磁気嵐が地球を襲ったらが、懸念の最もなもの、陽転で銀河旅行中に不測の事態に遭遇しないとは限らない.--そんなことを考えていると、恐竜絶滅現象は銀河旅行過程中に発生した不測事態だったのかもと





アンナ・カレーニナと二等辺三角形から合同で止まってしまい、相似形を考えていたことは確かだったが、フラクタルを知らなかった中学生、幸福な家庭は一様に似ているが、不幸な家庭は多様である.不幸な家庭は直ぐにわかるが、幸福な家庭が似ているがどうもよくわからず、先ほどフラクタル幸福度で納得





漱石の明暗のタイトルにはヒントを得る形となったある日の試験の小論項目の思い出.明暗はどうやら身体優位概念で、夜には眠る・昼には起きているという形態から、地球自転構造が第一義的に影響している.この明暗というのは心理的にも事情に重要と思われ、フラクタル・フーリエの要素をまずは見つけた





硬直した奇形身体が常識を行うと、そのルサンチマン・墓の内部は狂気的であるという頑固さを、最近の遭遇経験からいまだに拘束感という窮屈さを受けている.自由をよく知っているとこれらの家父長的ミソジニスト風な味わいが障害でしょうがない.限定合理の執念深さという、視野の狭さ限定力が.





あるおもむろ単純に意図と異なった表現意味を知って以来、何とか解釈に悩んでいたが昨夜ある表現を思いついて、その表現なら意図に近いと修正設定をした.まったくこんな単なる山がそこにあるから式の自らの表現に、経験時間という北斎風は意図していなのに、かけてしまうという不快さ.理性vs想像力





逆転のパーコレーション・ゲーデルは、constという発想をする.





ルサンチマンの言葉を導入するかどうかで迷ったあのころ、確かニーチェを参照にして結局言葉を導入しておいたNo.thi.ルサンチマンは0個の煩悩・カルマ的なもので、身体的な無意識領域から発露するものは、理性的に冗談なのだがかくいう偽善演技強力場では、事実になってしまう.





演技的性格者の現実は演技-虚偽-道化-冗談の類は真実と思うようである.偽善社会なら非真実が真実になり、真実は妨害をされやすい.人はなぜか無責任の気楽さを好むようにできているようだが、XX&XYの関係は冗談ではなく真実でなければならず、これら演技的性格者には愛情が持てないことになる





 


ミソジニー者にとって母親というのはどのような存在なのか、母親はXXであること確実存在である.普通に考えて母親に対する甘えをミソジニー者も持っていると思うのだが.ミサンドリーXXを思うのは、建設的意識の邪魔をするような存在か、もしくはXXであることに巻き込み・引き寄せをしたがるXX





XYの海馬と脊髄反射の乖離とXXの海馬と脊髄反射の乖離とXYとXXの乖離がある.
 


定積分とラプラスを間違ったか、非調和のポアソンが、調和定積分に災いされた形で、定積分はどうにも有限すぎるが、今頃いくら何でも有限を自覚しているだろう、それゆえにがわかったかな.全く単なるそれだけに時間を費やして、結局それ以上に災いのXX&その弟の登場で歪め要請ばかりの無駄ばかりと





ホッブスのリヴァイアサンは考えすぎというか、すでにあるマグナカルタとかを無視して仮想が入っていないか、無秩序に人はそうならない段階ですでにホッブスの頃もそうであったはず.日本の縄文時代はそんなに自我欲望が思い思いに発揮されていた日々とは考え難いのだが.





もう小学生の時から地球は干からびて爆裂霧散してしまう予知夢をみているからな、そんなSFは大団円にならないから米国では作らない・・・いやその頃には他の星に移住してしまっているだろう.今やSWもあることであるし、あるいは純然たるSFで時間を短期にしてだれか作るかも・・・






ステージのYものが理論的(論理方法論だが)に似合うような状況・情況になっている.次のYの予想は自然にある位相になる予感はある.とにかく今までの月日の情況は数値が適合しているのである.





自己分析・自己対自の記憶はできているところまでは自らきちんと把握しているのに、鏡になって反射する必要はないのに反射をするからおかしくなる.あたかも自己の思考のように、他人の自己分析を蔑ろ、その他人を無視するような態度はいけない.その辺の無理解で無駄ばかりする羽目になる.





コメディアンというのは、他人に優越感を与える商売とすると、それもうまいやり方である--(今頃何を気がついているのだろう・述懐)
ともかく一応他人に優越感を与えるか・保証を与えるかが掌握のコツであることは間違いないだろう.それはイソップの北風ではなく太陽であるから.





太宰治じゃない**あるxX曰く、論理比定は間違いであることは十分承知していたが、君の言うことなら間違いはない・間違ってはいけない存在だが、その擁護的に内心でその通りとやけ気味に思った.確か芸術至上主義の存在と聞いていて、よく知らん存在だったが、芸術至上とは何よ、何をわざわざと.





いつまでも一緒なのは、ある人物に書いた手紙の内容のことで、多少複合意識で自力性に齟齬が生じると思って、これはまずいかなと思い、その手紙の内容をある人物に与えないで自分のものに保持して置くため.最も手紙の対象は読んでいるか、また読んでも記憶しているかどうかは聞かなかったな





どうも遺伝子的に世界の中でも個性的だから、世界は犠牲的な反応を与えがちになるという類的な潜在意識があるのかも.しかし日本人としては個性的な遺伝子を無視するわけにはいかない.





埴谷雄高の”かってなくまたけっしてありえないもの”の哲学的意地を人々は理解しているのか疑問に思うな.





0年以上の時間間隔を開けて、明治神宮に行った帰りに新宿に寄り、紀伊国屋に入口の台箱に量子家族なる書がちょうどあった時で、立ち読みしたが記憶にあるのは並行宇宙の話であったようなうろ記憶しかなく、別段で、そんな対象に誠意をもって取り組むという姿勢はSF的?、どこか引っ張る点もあるな





なんか色々剽窃されているなという、つまり利用されてしまっているなという思いがしているのである.ちょっと一応社会的に有名な存在なんぞにのこのこと会いに行くとこんな思いをしてしまうことになる.自分はどうかというと無名のままで時が遥かに過ぎ去っての過程であるのに、影響を与えた?



いずれにしてもテント縦走をする山行者には、ヴェブレンの認識違いにせよギッフェンにせよ、納得できる様相を持ち得るはずである.なお良寛のたしなみも理解しやすいはずである.炉辺一束薪の話





表現の自由という言葉をTLでよく見かけるが、沈黙の場に対して言葉を紡ぐという事に関しては自由は全く保証されている、ただしできるかどうかは保証されてはいない.普通に見かける表現の自由というのは、社会関係における発言の自由ということであると思うので、ちょっと意味上に差異がある.





自由の邪魔をする存在は、不自由な存在であるという単純事実に気がついた





ある女子大生がいてまさかの権力的暴言を発する存在などと全く考えずに、いまだに邪魔障害物になっている.その大学に関してはかくあるべしという位相を持っていて、そうでないようにこのXXはみっともなく情けなく恥さらしで荷物のような存在で、クレイジーでもある.このXXがなぜ合格したのか疑問





主体の乗っ取りにせよ模倣にせよ剽窃にせよ、その存在達には影響力を行使した形にはなっている.





その昔、ある著名作家に電話した時、低音ボイスなのに(明らかに男の声であるはず)、女の子ですかと言われたことがある.??何を言い出したのか唖然としたのだが.考えてみればこの作家も滅茶苦茶なことをと今、かなり優秀と思うのだけれど、思想的にはどうでもよく時たま役に立つ利用をするだけ





ディクレの妻はメンデルスゾーンの妹、春のメンデルゾーンの華麗に思えたポピュラーなバイオリン協奏曲に酔い、翌月のみぞれの中でに対他の対自と即自、自己の即自と対自のつの顔とかの思考を見たりしたある年のフォーシーズン.





あれ主体阻害の模倣者というか反実在意識・思考に対する認識無知者、模倣しているとは思いもしない傲慢者達、記憶に残っている不快存在者たちは、まずはったり要素あり、自己欺瞞あり(無自覚可能性高い)詐称性もあることになって、ミュンヒハンゼン症候群者達ではないかと思いつく.





超現実はすでに言葉があるので、妄想現実や空想現実はてまた夢想現実(カフカは夢想家)とか考えたりしたが、反実在要素を取り入れて、越現実という表現もあるかなと思い至っている.観念か物質か・二元論をどこかに忘れてきてしまっている・・・





積極的自由思考タイプはなぜ0年も生きるのだろうか、0年も積極的自由に生きるる体力があるのだろうが、0年となると消極的自由時間よりどう見ても長い気がする.これは矛盾である.





殿様・大名商売で依存性豊かなのに依存されると自らが殿様になったような権威力があるといい気分になってしまうという反動があるのではないか、おだてに弱いということになるかな.権威に依存する形で資金供出と権威的意識で資金を供出するという世界対象性を持っているようだ.





荀子の性悪論はマズローの段階の承認要求を出ないのではないか、段階に対して引き込む暴力性を維持しているように思う.自らが段階を上げる努力をしないとなのにせずに、下げる事ばかりしかしないようである.もっとも無理とあきらめているので努力をしないのかも、ならば暴力的でなくてもいいはず





人の主体を乗っ取り?、その人物の主体を歪めたまま消えてしまった人物に対して記憶上から不快でしょうがないので、修正を試みているがなかなか、我がこころ石にあらず面を無視してしまう、荀子的優越感に浸っているメンター的うぬぼれ人間たち.てんやわんやは優越感に浸っている君達の方だということ





パリサイ批判というより現実リアリズムからだろうが、その現実意識自体が非リアルという演技になっていることに気が付かない.その演技はこちらの主体というこの不快さはなんなんだ.なぜか人々は主体を歪めようとしてくる.主体の乗っ取りのような、昔太陽が一杯という物質的乗っ取り映画があったが.





対他存在に対する意識認識を良識・両親から発言してはいけないと思いとどまり、考えたけれどそれを発言せず記憶に保留した場合に、それを保留するという判断をしたのは自己主体なんだが、他人にこの保留内容を主体と思われることが多すぎて困った記憶を持っている.他者には対他である違いがわからない





ミストレスの店で考えていた共時・通時のソシュールはあいかわらず有用の意識ありて.それぞれを記号的に分解する・展開するはようやくにして意識にまで浮上した昨夜の出来事、何十年かかったことか.





貨幣が自然発生した時の社会の状況はどんな世界だったのか.平等社会か宗教的社会だったか縦型格差社会だったか、多分十中八九縦型格差社会で生まれたものと考えると平等という無格差社会的なものにするのは困難なものを感じる.





トランスには少し頭に雪崩を聴いての感覚で多少気にした今は無い大宮ロフトのHMV.今はいない・会わないあるXXの寄与可能性があるのではと推測する、ソリトントランスは怖い.全くその時には信じがたいソリトンツナミ構造のパターン持続がなぜ出現したのか、頭がおかしくなる可能性が制御を・・・





人工知能はそこにあるというシステム的な有ではなく東洋的な無私の情態を自ら作れるか、作れたなら共存は可能で、また現行流れ・ロボット実在多が否定できない未来にはそれが望ましい.





逆になって主体を阻害する人間すべてXX&XY双方とも認めるわけにはいかない.社会や他の人間が認めてもまず絶対というほどに個人的には認めない.ただ単に不快であるゆえにである.





今日は白鵬のまさに横綱シーンに気が付いたり、ピアニストの指の動きの見事さに感心したり、最近体力技術センスに感心するようになってきたな.今までは哲学的な思惟に関心を寄せていたのだが.





渋みエートス、その閉鎖的重さによる束縛感から煩わしい自慢屋と思う、聡明であることは了解できるが.





モーツァルトではやはり思い出のKが一番いいかも、なんという心理情態で聴けばいいのかと迷いだす、セレナーデであると見るのが相応しいか、経緯はわからんが合同の小学校の運動会の練習時に初めてその女生徒を見た・・・





現実は厳しいと言う時、社会科学者なら政策科学でもいいが、流血が必要という実証データが出ていると、精神分析・心理学者なら、ある期間流血を行う存在対象実在は明白すぎるというだろう.これらそれ以上に大気圏内に置かれている有機体である人間存続には有機体同士もあるが無機物との戦にある.





史記的歴史は過去であるけれど、未来もそのようになるであろうとして、それは一般的に誰にでも当てはまるので、あまりにも当たり前としていたのに、あるXXに遭遇してそれを想起して、こじれてしまった.あまりにも当たり前すぎることが、かなり価値を持っている海馬レベルがいるとは想定しなかった





そうか第三ステージは別にして、脈絡のないと思える項目種を同時化してみる形故からだった.+のケースもあるが.+を使えば*





そんな中間存在に対して、有限域以下に気を小さくすると馬鹿の一つ覚えのように権威主義・権力志向者であったなら、頑固な視野の狭さで人を束縛したがるものであり、有限外の自由の邪魔をする心理構築という鬼の首を取ったような、カルト戒律的な態度を示して困ったもの、頑固さだけはスタミナがあり





偽善は妥協の産物であるに傾いているが、演技的産物とすると冗談は演技であるので偽善域に絡めとられる可能性が高い、経験上冗談が本当になってしまうということから(そんな馬鹿なとは思うのだが)、偽善社会-冗談-演技の相関度は高いことになる.冗談がリアルになるというまさかの了解獲得かな





0%は選挙用の頭数的なシビアではなく単純明快なジップの経験則・パレート性が.しかも00億人いればそのうち意味があるのは0億人なので、ある存在のネット噂では時間を予測し止めたその時の静的時間ではジップ的に正解だろう、ところが0億人のうち意味があるのは億人というフラクタルが





一様性・統一性に反対する人々が結集することは一様性・統一性に他ならず、平行線を形成するというのが本質である.





まあ社会通念・偽善などもあるが、性悪人間がその性悪を自覚するのは一生無理か、動物的な弱肉強食が自然であるという思い込みならぬ、そのようにしか考えられない存在でしかないのに、社会もまたその要素強いが、社会的なんだと思い込んでいる存在がそうであるならば、その社会は海馬未発達社会である





後年唐突にニーチェを読むといいですよいった人物がいて、そんなことは勝手だろうとは思ったが発言せず、まったく自発・自力なのでそんな余計なお世話を聞くとは思ってもいないためであるが、そのころはまだニーチェのサロメが不快だったころ、またこんな記憶を持っていること自体無駄だから助言不要と





ラヴェルのボレロ・レベルなのかインデックスとしてのラベルなのか多少混乱をきたした鍾乳石身近なトンネルの自転車通学の帰り道、ニーチェにサロメが出てきて、サロメには嫌な感じがあると思ったのは誤解で、ヨハネに対するサロメとニーチェのサロメは異なることに大分後になって了解した場所付近で.





その地位に自分だけがという罪的なものに摂理を応用するのは大げさすぎな、マルクス関係の書物からは論理的経過のみでそもそも罪的な要素自体がないと思うのは個人的直感で間違いないはず.大体現行唯物的なものは無機的でロボット的であろう、ロボットに罪の意識はない.物理・行動主義にも言える.





奇形は身体的アスペルガーともいえる.その変形にこだわらざるを得ないという特徴を持つ、まあ両親の近くは遺伝子によるのだが.変人は心理的アスペルガー的、奇人は身体的アスペルガー的特徴をそれぞれ持つのでは、人それぞれ大なり小なりそんな要素を持ってはいるだろうが、それが生得的であるならば





破滅型私小説者はdegeneration型になる





generateとdegenerateで後者表現を一般にロストと称する.ロスト世代とか、generationは使うのにdegenarationは用いないのは、エントロピー増大の圧力・寄与による時間の一方性だが、むしろポテンシャルの充実感予兆・時間保証の余裕感の方の寄与が高いか





中村光夫という名を初めて見た.中村といえば真一郎で、なぜこの名前をあのころ・あの時浮かべたのか?.ジェネラル一般と、発生と減退と輪廻転生と思考が纏まらなくなった思い出がある.それで世代という言葉には結構強く思いれがある?.文体表現に終生こだわった人物か-思惟の法則の徐の頃のこと





それで私小説なる言葉をチェックしてみた・陰気な暗い摩擦多き束縛感強すぎる文章のイメージがあったが、これは破滅型でどうも調和型というのもあるらしい.とにかく写実的で本人の実経験に基づいた内容だとか.今認め中のものも自力から当然私もので、反実在を当然取り入れているが.





輪廻でも転生でも永劫回帰でもサイクリック宇宙でも正法・像法・末法・法滅の繰り返しでもいいのだけれど、これらの場合に時間は一様に流れている一つなのか、空間は一つなのかと疑問に思うが、まずそれぞれ一つとしているだろうなと考える.





5000例も染色体異常があるという事実にはちょっと奇形に関して手に負えない気がする.複雑性とはいえ個人では無理という思いである.フォビアなんぞは心理的な忌避性で、アレルギーショック者は身体的忌避性-フォビアは身体にも使うか.忌避性は奇形的とも、時間と共に変化することも予想できる





ビッグリップだとすると当然フェルミ縮退も引き裂く予測になっているな





ビッグクランチとビッグバンの繰り返しなら、末法の時代が終わりまた新たな胎動期が始まるという仏教の考え方と遜色ない.







昔、そのころの回転アイデア時代の考えで、地球をすり抜けたニュートリノはどこへ向かうかでようやく思いついた.幾分あるいは多数・無数のニュートリノがブラックホールに捉えられているはずであると、一応ニュートリノの執着点には違いない.





VFTS 0の回転速度は時速0万㎞--記号のアイデアの基となった川原でのイメージに似ている星の存在があった.秒速㎞およそ、ジェットの高速に近い噴出速度には及ばないが、ジェットは回転はしていないはず.ほかにももっと高速回転している星がないとは言えない.





アルトーから来ているドゥルーズの器官なき身体は、無機的要素で宇宙無機物と同体化させる方が常識に適っているだろう.





木星の風は時速600㎞、液体水素や金属液体水素の内部に岩石があると推定の星で、放射能一杯の星ということから、量子的位相から量子に意識があるのなら、無機的一体感から木星の構造を感知して、地獄のイメージを構成するような意識を持てる構造に人はなっている可能性を考えた.宗教表現の要因と





南十字星と遭遇している時に、春の祭典や手塚治虫の火の鳥を思い浮かべたことがる.手塚治虫は鉄腕アトムやブラックジャックが代表作で、火の鳥は漫画空想物語としていたが、やはりきっかけはストラビンスキーの火の鳥だそう、信憑性葉どうかとは思うが.フェニックス伝説がそういえばあったな.





心理的うまくいったその対象に自らが陥っているという意図とまったく逆になっているあのT市での一方性に対する配慮が浮かんでしまった時を思い出す.対象は自らの心理世界ではなく、環境世界であるはずで働きかけがふつうであるはずなのに.





反交換顕著な人材は経験上、クレイジーで暴力的である.まさかそんなクレイジーな発言をする前提になかったので、それに接したらパワー圧力によって歪められてしまった形になってしまった.これを修正するためにその存在の記憶からの消去を狙っているのだが、不条理の矛盾なのでしつこく悩まされている





現実世界・社会・現実を認めないということは、現実の側からすればそのような存在を受け付けないということにもなる.--世界は思うような世界にはなかなかならないものだ.





終末が登場してまたまた筆が進まぬ.エントロピー最大の熱的死という考えは有限平衡で終わりと称しているようにしか思えず、なぜそれで終わりなんだ、視野の大きさにちょっと疑問を感じる.エントロピー最大はフルフィルだからのようである.それは・・・





荀子型人間が悟るなどという事は無いので(直感がそう示す)、そのアドバイスは余計なお世話にしかならず、アドバイスなんぞで権威感なんぞを満足させていないで、悟る努力をしろと不快な記憶にある言明者達に言わねばならないが、行方などは露知らずゆえにその発言を取り消せとあるXXにも言えず





強靭ワンパターン人間は拷問的存在にすぎないと思った、妖気的人間がそのパターンに当てはまる.タフで情熱的に突っ走って生きて、しかし知的に足りないロボット的な人間ゆえにだなと昔から認識している(考えて想定している)-また叙事的人間とも妖気的は異なる.





退行時間の保存という事も不快なことは明らかな、複合者の誤魔化しも覚えているな、そんな人物に遭遇がまた不快だが必然性もあるので、こんな人材に遭遇する必然性は全く思ったつもりもない、単なる拷問的存在で努力なしのうぬぼれ型人間などなんの価値もないのに.煩わしいものだ.





その昔、良寛のようにとかなんだか言われたことがあり、良寛という感触は意識の瓦解を齎すので、しかも気分悪く、助言のつもりでの人物は述べたのだろうが、不快すぎる.自己の悩みを転化したのかもしれない面もあり、自力の邪魔をしないで自分が良寛のようにだったかすればいいだろうに、不快である





現状は第3ステージのある項目に年間を当てはめることが適切にできる様な様相を示している.日単位だととてもじゃないが体力が持ちそうにもないので、時間間隔を拡げて見ている.実証記憶からはそれでも当てはまった記憶があるためである.





宗教は信仰・戒律遵守と引き換えに自己自身の生存過程に無責任になるような特徴を持つもの--とどうにもまず考慮せねばと





マナの夢を小学生の時に見たことがある.いまだにその現象に遭遇したことはない、これは実際に夢であるしかないか、白昼夢とは思わず予知夢であるはずと思っていた.それにしても申命記のほぼ引用とはマタイのそれとは知らなかった.思い出の柿の木の傍で、思想について考えていた、パンのみの話.






退行XXが陳腐なのは決まっていることにようやく、遅まきながら気が付く.なんとどうするか、そばを通るその映像が臆病を惹起させたことが長い時間をかけさせた.