2015-06-14

my ft 2013

無限時間の次に無限時間が来るという周期や、無限空間の横に無限空間のつながり続きがあると、現代集合論を援用して考えることができるが、それでも納得できない2番目の思考限界直面概念.

『奇妙な保管場所』は歴史を含むとして、歴史領域と保管場所には距離があり、この距離に無機的存在を考慮してもいいかなとは思う.歴史自体に無機は考慮しづらい.ともかくこの保管場所は誰でも持っている筈で、ゆえに普遍的意味で<わたしたちは>奇妙な保管場所を持っているといえる

現象でみる宇宙にには無機変化をしている星々が実在しているだけで、現在見れるどこに過去があるのかと考えた時に、『奇妙な保管場所』を設定した.奇妙はあえてそのような表現を用いている.もちろん設定から・保管場所・は、歴史を含んでいるものとした.(単純に歴史全てをとしたんだけれど)・・

世界外存在から世界内存在へ橋渡しをすると預言者とか神秘事象なるものが発生する理屈と考えてみる.

哲学以前に非芸術はある.普通にはほとんど非芸術生活空間である.

思想の思想たる所以を考え付いたのは中学生の時、あのお気に入りの柿の木の近くで、人はパンのみに生きるにあらずと共に、脳捻転を食らった.根拠理由をよく覚えていないが、ゆえにスラッファのスラング表現に対しての心情位置は理解できるという思いもあって、哲学探究を読まず・・

精神年齢が低い分将来性があるように見えるだけで大いなる錯覚であるだろう.実際はちっとも精神年齢が進歩していないようにみえ、叙情に関しては叙事的に退行を強要するばかりである日常を感じていいるただし.叙情的存在は意図すれば叙事的位相は持てるが、叙事的存在は叙情位相を意図しても持てない

対称性の破れも使える.南部陽一郎か・・26次元を最初に知った時、そんなばかな荒唐無稽と思い流したが記憶には残っている.6次元ならなんとかありそうだった.

科学に哲学がある状態はちょっと考えがたい.そうなるとNo.23に対してどうすべきかとなる.こうなると科学哲学一般全てはここにくることにしないといけなくなる.またそれだけでもなんとかなりそうではある.

「奇妙な保管場所」とまずは設定してあることも確か、意識問題に対して人々が何を考えているかは参考になる.

No.22は「世界があるというのは神秘である」というNo.17のモデルでもよい.世界内存在では、世界はまだ神秘に見えないだろうと推測して.

で無機の時間領域記憶があるはずという帰結から、夢の段階にもなんとやらつなぎができそうで、No.16もこれを用いてけりをつけて終了、No.21もこの領域を導入すれば他者には説得できると考えれるのでパス、No.22はべつの路線から

”太宰の「人間失格」について「この上なく卑劣な根性を持って生まれながら、自分を弱き美しきかなしい純粋な魂の持ち主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の救いの作品」とのこと”--岸田秀だそうだが全く明瞭になるほどと思えるかな.

純粋空間・No.26

悲観的帰納法に対する構造実在論に対しては、多少考え方が似ている所がある.システムのある位置付けをそのように設定している.-実在は諸々の思考タイプを援用して説得できればよいが、近似でもとして.

場の空気が爆発に作用してしまったものを重力の可能性の一つとして見る

ニュートン幾何学と量子力学に加えて、どうもユークリッド幾何学人間がいるような想いが湧いていて、ユークリッド的からソリッドステートを思いついた感じがある.少なくともニュートンは微分を知っていた.

中学校の自転車通学の帰り道、固定-気合、曲がり角を曲がってスタンダードを浮かべた.S県のA市のわからずの点は、この思い出から、ソリッドステートのイメージが合うことに了解を得た.あたっているだろう、なんのことはなく普通に人々の日常意識ではないか、なぜかわからなかった何十年..

フッサールのエポケー対して短絡してくる前存在は見方によって、単に絶望空間(ハイデッガーに対する個人的ひそみより)になるが混沌という物理空間にタッチして、なんのことはない場になる.絶望空間に哲学からタッチすれば、パスカルの実存でもよいのである.

或るとき別にそう意識したわけではないが、詩的な現実指針をおもむろに記述したことがあって、それが支配的な戦術的なものに無意識になっているような・・.特に伝統の圧力を想定した結果、日常を古典と持ち上げはいろいろ不都合を齎しているようで、しばし停止としてみる.

リアル限定で現宇宙設定とすると、超現宇宙は神的位相になってしまう.(虚宇宙などは認識限界・思考限界だろう)

多く、ほとんどの女性はこの思考形式を無視する・したがる.それは無意味である。やり直しを要請するが、単なる繰り返しにすぎないので、そんな徒労をしないで済む女性はいない・・.そんな内容のものである.

{No.04いずれにしても、かくして人はこのように決定をしていることはまちがいないはずである}

一応、類として継続しているにもかかわらず、個として存続していない理由として、自転公転陽転等周期を考えてみた.体内10ヶ月と人生80-100年あたりの数値を、周期からなんらかの形で引っ張ってこれないか?.

x>0、y>0 の第一象限のコルニュの収束像を、現宇宙に当てはめて、無限宇宙内部の収束点に近い位置に実在しているという考えが閃いた、No.23にこれは載せても十分であるな..

ラカトシュの具体的数学例・コーシー列などがあるが、それに起こされてのべるならば、単純直感初期イメージでは、コルニュの螺旋を俎上に置いている形である.理由はなく直感からである(No.23)

直感の段階であるが、S領域保持体は科学的ではなく形式的存在に向かう・そのような実在である・・

反証可能性自体の繰り返しでより妥当な科学理論になる-色んな考え方を寄せ集めての妥当性とは直交しているかな.およそ後者で気楽に考えていた池のほとり..そのように設定もしているか.(No.10)

古代のリッチフローから、複雑さを説明できそうだが、不快な封建制という言葉は旧のイメージ・腐敗色感と厳しきタイトとを想起させて-しかし心理複雑さ上には物理的に存在させることができるので、致仕方ない.イメージができるということであるから.硬直集中すると不快さを覚えることになるか

"An affine space is a vector space that's forgotten its origin"はランダム化表現を示している=アフィン空間.実際にこれがアフィン空間・擬似空間の実像だろう、がアフィン空間の虚像であるのがマイ論理.

{地球の最期は干からびて粉々に砕け散ってしまう}という幻影をすでに昔に視ている.火山活動活発な地球はまだまだその時期に達しないのは明らかである.

アカウントに含めた意味合いは、諸外国にかなり同様な考えを持っている存在がいることを最近知った.間違いないだろうと共に個性がなくなることも両立する.ネットワーク参加という手もあるが、いままで個人的なものとしていたので気楽になってしまう.だが視えるかどうか疑念があるので多少存在理由有


携挙(Rapture)-— テサロニケの信徒への手紙一 4:16-17、など多少種類のある説があり、それが日常的な信仰形態になっていることとは.
エルゴード・H定理.エルゴード仮説に中間過程を考慮しないといけない・・

仏教の三千大世界のサイクル宇宙観は知らなかった.ならば弥勒が56億7千万年後に現れても不思議ではない劫の時間感覚.末法の世は暗黒へ突き進みまた新たな世が生成するということだった.末法の先はどうなっているのかわからなかったが、サイクルとは得意の輪廻にも似て.

その存在を知ってはいたが、内容を知るにしたがい、考え方が似ていたヨハネの黙示録・特に最後の審判にはよくわかる.但し、キリスト教という考えは全く意図せずのころの話で、アポロンとディオニソスのパターンを浮かべた時の隣家の庭先を歩いていたとき..

スピノザの決定論は、死海文書・エネッセ派の神のプログラムと同じではないか、やや信じがたいが、スピノザはエネッセ派を知らなかったようである.

歴史をそこまで考えると、No.21も可能となるのだが、これは未来志向している成立なので、プルラルには障害を惹起した事があった災いの意地が未だに妨害となっている.

脊髄反射や脊髄反射思考はNo.14の方にかかるかな.

No.16に関しては有機の歴史の上に、無機の歴史を押えてならば、こちらの方がふさわしい.それは解答できていたことだった.

この1ヵ月半の悩みは、唯物論の壁であるな、無機物の壁を越えているものは昔から神として幻想されているゆえに悩むことになる.ほんとにバベルの塔の物語は良く人の心理を見ているものだ.深い、深くなければ宗教的権力の圧力・権威保持のための威嚇で強制化である.

関係の絶対性は唯物論優位ということで、唯物論者(生命が原生的疎外であるということから)にとっては得意な点であるようである.物質的な心理が優越感や得意な気分を味わうのはなぜなのか?.

睥睨型は陰謀も得意で偽善もなんのそのの無責任も得意であるから、カエルの面になんとやらで、痛痒はなしと.それが当然の一生ものなので、倫理は浮かばないことになる.経済に道徳はないという人々はこの範疇に立場をとっている.結構苦手な存在者達で邪魔・妨害・苛立ちをもつような一群.

睥睨型というのは道徳・倫理は欠如していることが伺われるので、道徳・倫理観を無知化、挙げくのはては知力も無知化しようとする.睥睨が倫理を持った方がいいはずなんだけれど、駱駝が針の穴を通るほどに困難な人材とみれる.無駄・相変わらずそんな素質者達が生まれてくる.PCの強制力は皮肉.

知能指数は機能指数か処理指数とでもいうべきもので、機能や処理ができなくなると、無視するか理不尽すぎる行為をなすようなものであることを示すものと考える.ここには感覚指数・リビドーは入ってはこないようなもの・リビドーでは知能は測れない、ゆえにいかなるXXもそれゆえか尊存するかな.

実存の不安・実存的な不安も量子的要素の内と思い至る.創発が不安に転化しているような場合を考えて.

一ヶ月半過ぎる.混沌としてきた.マタイのユダは実在人間をモデルにしているはずで、最後の審判時にキリストの復活というようには、ユダは復活しないはずである.キリストは超人間的存在設定になっているな.

ありえない空想想像かもしくは以前の時間を設定したか、これでは中間的にならざるを得ない.

現実化すると模倣になってしまう.結局ユダ的なものは内部でしかなくなる.

先人の考えを尊重してなどというより自己判断をしないと、そうした方がよいケース、前例社会に即さない時という考えが浮かぶことになる.(自分の直感を信じるときは、伝統経験を実際にはパスしていると思うが、現実には前例を意図していない形をとる)

ヨハネの黙示録と最後の審判とノストラダムスが関連している61、なんかすでに先人がいたのかおもしろくないという気分があるが、依存もしくは利用することは可能であるんだ.

若いときは弾力という言葉はなんというか当たり前すぎる言葉過ぎて過剰意識であったが、今では弾力は必要な気分である.そんなこうやらで、塑性的存在・塑性体の実在をついに設定した.

Last JudgmentにおいてThe Book of Lifeは考えられないが、すでにパスしているかも.最後の審判に似ていることを知った・気づいた「61」.

夢の3次元領域構造の認識中ということから、マトリョーシカ・MのABC予想解析論が良く似ていると思う.

初期詩篇以後、第二も可能だとおもいつつ結局無理だ.焼失したのは全く失敗・まずかったと今にして思っている.色々と時間を経て見渡すと、非常にユニークな文面で類がいないのに・・・.あのころは秘密にしようという意識もあった(模倣を警戒した?、いや抵抗を考えすぎた)..

宇宙は塵でそのひとつの塵にも宇宙があるという仏教的考えは、同心的フラクタルで、無限背進・無限前進もそれぞれ塵になる或はその逆もあり、それぞれの無限のなかの無限単位に愛とか無限とか個人とかなんでも考えることはできるものがまた無限にあるということになり・・繰り返しが永遠に続くと

精神的優位人間が極限持続をすると身体に異変が生じ、身体優位人間が極限持続をすると精神に異常を来たすと判断できる.するとヘルダーリンやネルヴァルは身体的存在だったことになる.

{一つ目小僧と自然とのS・・シーン}-たまたま、たまたまだけれど、台風が襲来したので、つい例外的に取り入れてしまった夏の第二楽章.固有名詞や事象はほとんど使わない設定のもとで・・・

コホモロジーはホモロジーの双対ということなんだけれど、とりあえずミンコフスキー空間で考えておく.

思考上の二十歳の考えていたシステムが不可能な筈と思っていたのにできてしまったことは虚無しか味わえない・虚無すら意味がないか..

現実世界が消えてしまうこと・世界があるのは不思議なこと・まさかのα&ωの認識で、ショックが20日ばかり続いている.

あれかそれかこれかやetwas und etwas

YZのABC予想か、やはりマトリョーシカを考える.

領域理論は半順序集合であるという基本があった.フッサールのエポケーを行うことには賛成ではない、ただし物事の本質をつかむことはそれをしなければならないと考えるものである.

全ての粒子がボーズ凝縮するわけではない--応用がきかなかったというより、まさかであった.けれど直感が今は示している.まさかと想うことは結構現実になってしまう.

現存在分析とあるがままの禅、明るい現象学ではなくて、直ぐに直前に行ってしまう実存の典型要素と世親の比較、ハイデッガーの原存在とパラダイムや脱構築の関係は入れ子のようで、・・・などなど大体進展が直ぐに可能ではないような対象直面が続いている

-宇宙が誕生してから重力が生まれるまでの時間-重力は横滑りと考えると、ペレルマンの葉巻のようになるか・・

”第一原理分子動力学法で扱える時間は、最大でも数ピコから数十ピコ秒程度の分子動力学しか扱えない。実時間での1秒間を実際に計算の上で再現させることは現実問題として不可能に近い。”--ということからいろんな方策が考えられているにせよまだまだであって、分子生物にもこの辺が寄与しているか

深底は深淵であっても良いが、中学生の時には底を設定したく考えていた、これには小学生の時の深淵を考えるのは止めておくという歯止めがきいていたようで、それをすっかり忘れていた.実際に深淵を動くのは気分よかった中学生の時をも底設定思考時には忘れていた.

ペレルマンにとって葉巻はないのだが、本当にないのかという想いを持っている.

創造主は一応ロートレアモンから用いているが、ホワイトヘッドの包括的な時間外存在のような少しの気分は持っていたが、大体は言葉上の修辞的面として設定、ただし救世主は現実的側面を持っている・・

△はラプラス作用素と呼ぶとは気にしなかった.そうなるとアイネ・クライネでいいことでもあった.

件の始めてあった卒業したての女性はなぜ単純な返答により無理解をしたのだろう.理解してもらわないと困るのに、魅力ありすぎる対象ではあるが、対象にならないことになる、ところが不在となった後日に・今でも思い出せば18歳の時には一緒だった.{超心理の対象のため}

{前提}として保留した対象が、分析的形而上学となっていた事を知った.そうなる現象学が現前以前とするものをホワイトヘッドの場所としてもいいかな、こころの哲学や沈黙の場所を、小学生は{奇妙な保管場所}と考えた.

某女子大卒業したての或る存在が、名簿上常に何でも一番最初にやるので、No.1はいやといった、あまりにもくだらなすぎるこじつけで、共同上No.1であることは望むべきことは当然なのに、こんな単純な考え方をするとはあきれすぎてしまったことを良く覚えている.一応優秀であるべき存在なのに

そうして俗や庶という文字も好まなかったのであるが、長じて逆にこの2個の文字にとりつかれることになる.現実は想い・意図と逆になる.個人的には無駄に次ぐ無駄をしている気分・心持である.

その結果、中学生の時には思想の思想たる所以も考え付いた.それはそれしか存在しようのない生き方のことであるが、あくまで思弁的としている.なにしろ、現実は義務教育中の実在であったから.

色々考えた結果、芸術的存在者のための金銭哲学を大雑把に提起してみた、まだ脳内に留めて置いている.証左をある程度検証したいため、もっとも安易なので他の誰か考え付いているには違いないとも思う.いずれにしても示唆まで.

結局、そんな問題(規則のパラドックスとか)は「記念碑」にある類続に置き換わってしまう<前提>で表現してある.(但し、不明である留保を持った妥協である).未だにこの問題は解けてはいない.ヴィトゲンシュタインも良くわかっていて解答はしていない筈.クリプキの神にも無理はH定理に繋がる

クリプキのパラドックス-人はいかに統合失調症になるかと、ヴィトゲンシュタインのパラドックス及び哲学探究-人はいかに統合失調症を回避するか**ということを考えてみた段階である.(これはいわゆる留保)

フラクタル多様数が無限でそのフラクタル化も無限化であるとすると、複雑が解けることになるというアイデア.

なしくずしはなぜかレリスの印象が強いけれど

無限遠の構造は自然に任すとしているのに、紀伊国屋で内部の声がそれではいけないと出現する.きつい.ところがヒグソン・コロナなるものがあって・・・を見ていた.意識をすればダイナミックに領域空間が広がる・そしてそれはきりがなく、後は身体のスタミナのみに依存すると思ったのはハイティーン.

秩序に依存して自由を放棄する代わりに安心感を得ている--秩序まで行くとあとは乱れしかなくなるか、エントロピー依存で止まる.

考えている位相存在論は、ABC予想を解いたという過程の概略を思いだすので、何らかの相似点があるかも

覇者がいるとする-世界を征服したとして、残るのは一人・自己の征服であるということになる.--ということを時間を経ずにまず思考できる.現実現象の制約が非常にあるのでなかなかそのようには考えないだろう・或はその考えに至らないのかも.自分との戦いの人物はわかっているのではないか.

事実は小説よりも奇なり--5次方程式現象が現実に出現する-という解釈をしてみた.

どうやら記憶に残っている他者達の言明は、「でたらめ」という言葉で掌握できそうだ.ところが不条理という言葉を持ってくると正当性を帯びてくるから始末に悪い.不条理より無知であるゆえの、将来非無知になる予定に対する甘えというものに近いが、しつこい束縛でしかない迷惑というものになる.

「旅立ちの日に」は出来てから20年以上、敷衍しているのは奇跡的と思えて、そんな展開になるとはとの若干の思いもある.

濃度の無限を想定しなければならないのか、柔らかみは明らか.

問題点にレジスタウィンドウという存在” プログラムが実行時にどう動くかをよく理解することは困難である。 開発者が実際に開発中に、自分が書いているコードがどれだけレジスタを使ったらよいか、どれだけをプログラムの他の部分のために残しておいたらよいかを決めるのは容易ではない。”

ブライトマンのtime to say ・・・的な面もある事態で、ところが対象とは齟齬があるようでもあり(No.x強調ゆえか).「 埴谷雄高はねえ」とは欲望感の違和感の感じの発言である思いである.他にも理由はYHあるいはHY間である・あったのだろうけれど.

埴谷雄高の「かってなくまたけしてありえないもの」それに移行する心性を持つ羽目になって、Yの埴谷雄高はねえという言明を思い出し、自己心性がYと同相情態かもと不快になる.というより今頃にそんな追体験情態を行う事態になってもまずいのだが、

ウィルスは自己の境界に人間が立ち入ってくると境界で撃退するのだったか、ともかく宿主がなくならないようにまではエボラなど流行することは間違いない.で救済すべき対象を救済してしまうと、自己活動が出来なくなる政治的所為に対して、ウィルスの活動に良く似ている.

ほぼ大失敗の待ち時間という想いがしている.出発点といって取り消した後から何年も過ぎ、出発は可能・自由な時間なのであるが、もはや根拠が薄くなってきた心脳.すでに出発していてよい、若しくは出発している筈である.希薄な意識情態でとらえようがない・・

θの内容もまず簡易に理解できる箇所は多くあり...

最近になって、ある項目に対しての反省点を見つけた.思考がそのように平板になり、なぜそのように単純に存在的に考えてしまったのか、やや常にぶつぶつと湧き上がり情態はあったが、その反面で戦争発生論が閃き、まず良識的に理解できる.他人が考えると異なった意見もあるかも知れないが.

ビッグクランチの振動宇宙論のその回数・∞としても納得が出来ない点が問題.まあビッグクランチ論ではある.ビッグクランチ・振動宇宙が無限大数でビッグフリーズに転化するというとそうであるような気もする.

20歳の別れ・21歳の・22歳の・23歳の・24歳の別れと**とかをハイライトにして時間がそのあたりで、凡庸になるゆえに.

ケルゼンは小学生の時、ゆえに小学生でも****とか.いろんな人材の束縛圧力で記憶が、支離滅裂というか薄れかかっている主体疎外感覚.ケルゼンの名は後に知ったが純粋としての判断志向に間違いはない

”高速で回転する円盤上ではローレンツ収縮により物体の長さが縮む” この文章を読んではっとした.あの時はもう知覚で追いつけない速度イメージになってしまい、そのまま放置せざるを得なかった.まさかローレンツ変換登場とは今まで考えもせず.射影では円盤状で、かならずしも円盤ではなかったが.

カミュが何か言っているがけれど、宗教は不条理を克服した形となっているが、その宗教自体が不条理を持っているので克服してはいない.カミュは克服した形と形式的に判断したのだろうか.

普通に曖昧にして、現状維持無限変革としたが、現状維持有限変革であってもなんら差し支えない.人間を越えた超人間的存在の出現を否定しはしないマイ論理

退行がいやだいやだと思っているところに、堂々と退行の憂き目に.この皮肉さはなんなのか未だにわからず、個人の固有性か家系の伝統か、他者達の圧力か共同の圧迫感か、良心の忍耐力を発揮した記憶はある、それは無駄に意味なきことであると今では思っている.ある女子学生の固有対象としたときだった

全く困ったことにある衝動を3年前に内的に発語してたので、対象が自分になることがちょっと不快すぎるのである.内的過去の情態と分離して時間差がありながら、事態は全く一致している点もまた不快なのである-ずらしをすべきか.時間差によって自己対象になってしまうことが除去できない不快となって

思うにまだまだこれだけ明晰要素のなかの現実なれば、ミス定義をおもうところである.あの時は、非線形に関して自信がなくなるので、阿呆な自分と自己当てはめをした・・・

いややはり開弦・閉弦をかんがえると、そのまま

付和雷同の意味を見るとヘーゲル的悟性存在を考えるな.また依存的存在もなんとなく・この辺は先人が色々考察しているので、煩わしさゆえにあまり考えたくないが、そうもいくまい.依存といえば宗教の信者も依存者である.客観的には依存主義者とも言える.-他力本願に繋がっていく.

しかし良く観察してみると叙事的XXの多いこと、これでは思考は単純になり、愛情も出来ずに、母性なんかない・母性って何とか言う存在がいるわけだ.叙事的存在には愛情がわからないので母性がわからないと推察できる.恋することは出来る・・.

累進課税の最高税率を挙げれば金は回る.そうするとやる気がなくなるという人がいるが、最高税率付近の当てはまるひとは、全体の20%であるはずという経験法則があるのだが.つまり上げようと上げまいと20%法則が成立していると、偏るのはこの経験法則に無意識にか支配されている・・

しかし物事は意図と反対になる.どうも意図を奪い取って他人がそれをしてしまい、挙句の果てには、意図構築の当人・本人にその奪い取った意図を向ける・・トートロジーの不快さ、意味なき不毛のナンセンスは苦痛以外のなにものでもない.そうするとこんな存在は意味なき存在なのではないかという考えに

大体ユダというのは自殺したとものの書に記されている.たとえば偽ユダでしかありえない存在ならば自殺未遂などというものは相応しくないか、そんなセオリー通りの作家がいたらしい...

政治家の要件とは、その人物の仕事に対して、後世の人間たちが如何に判断するかではなくて、後世の人間達に如何に有用な結果を残そうとしているか・であると考えたことがあり、ほぼ理想的なので現実にはという思いもあるが・・

個人を決定するののは思想の思想たる所以であることはわかっているが、個人が自由であるほどには社会は自由ではない.それゆえにレットイットビーという曲は不愉快である.

まだないを今にリアルとして捉えることでは無かったのに、このことがこの単なる付則文が結構寄与したかも、排除しておいて..

ついにヒルベルトに関して、懸念を除去したと思った.多分に間違いないだろう.C*環・・・ノイマン環もパスした(理由は速やかに忘却)と思った.こんなことを気がつくのに非常にエネルギーを用いた感が強い.

No.16と脊髄反射は関係ありそうなことになりそう.オパーリンとパブロフ考慮となるのか.最も印象なのはベートーベンNo.5のどこかにあらわれるスラー現象部位.

プレイスにはその量子物質から無機質領域も持っているとする.

クザーヌス・神の視点にならば、中世の時点でシャルダンのような考え方ではないか

若き二十歳のころ、考えること考えること考えてしまうことと勢いで想った人物を知っている.どうも未だに考えてはいるようだ.

中間存在・あたかも浮遊している存在のようで、足の無い幽霊のようでもある.そんなことを考えていると、本質的に中間存在はサスペンスから逃れられない.すなわち安心は中間存在をやめないと得られない事になる.

91年94年96年の計算で22・19・17の値となる.

ビッグリップやビッグクランチや熱的死は未来の出来事ではなく、すでに過去にあったことという発想をしてみた.しかも無限回すでにあったということを述べても間違いとは言えないという点が、悩ましい哲学の初期論理からの壁.

無限小と見ると見かけ上は成立する.「神は自身の形に従って人を創造した」を思いだす.こんな発想があったのだった.

”グラスマン多様体がドメインウォールを含んでいる・ウォールを近づけると衝突やすり抜けもあり、ソリトンの複合が互いに関係している”のなら、この意識知性の説明外の複雑混沌ダイナミズム漆黒場のメロディをソリトンという嫌いな言葉で、その程度には説明できるかも.

非公式固有存在が公式をやらねばならない社会的構図

厳密に解けない場合は近似解で、所作を収める.ナビエストークスの方程式がまず流線型に対して浮かぶ、当然、ポアンカレの挑戦も記憶に置かねばか.

あの夏の部屋で捩れの位置を二面透明ガラスの部屋で思い描いた思い出、ムサビのお嬢様は箒を買って帰ってしまった..

数学基礎論でパスしてしまうにはもったいない複雑内容である.基礎論自体の韜晦は哲学的には良くわかっている.わかってはいるが解答はもっていない.最近強引な想像力・演繹力によって想定値を出した感がある.ハイデッガーの暗部束縛に対して仮想・架空もいいところのそれである.

情況を決定するのは関係の絶対性(いまだによくわからん)かもしれないが、人生を決定するのは思想の思想たる所以である.存在していることに対する固有の倫理が人それぞれに同じとは言いがたい.使命感やわが心石に非ずはその辺のことを表現している.存在理由とは思想の思想たる所以を了解すること

未来の私は亡霊のような透明存在だがそこに確かにいる-まさかのそんな認識瞬間を思い出した.これから先の時間に再現は困難な思いをしているかっての記憶.

convergence&divergence・収斂-発散で湧き出しをどうするかといったところで、コホモロジーを思いついた.ツイストは回転となる.

事象自体の意味からホーリートライアングル関連で、ノストラダムスの予言に日の国から現れるがあるらしい.ちょっと覚えが..

漸近的自由ポテンシャル.ホモロ・コホモロジー

ハプロDはどうなるかに対して、今日一応D型は貴重なものであるということに傾いた.理由は単にO型より数が少ないという経済観点からである.宝石は貴重ゆえに・・.

まさかの量子非局所性--多分に無機的自然

超高層マンションとは、空間土地発生を全くあの頃思いつかなかった.今日、思いついて全くの盲点となっていた時間・・.

ディミトリス・スグロスだ.ようやく再度その名を記憶した.ピアノはつまらないといってコンピューターに転向した人物、その後が良くわからない.ラフマニノフの交響曲第3番のなんとも表現しがたい繰り返しフレーズ・モチーフが印象で.

93ex

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