2018-12-05

my ft 09302018

カフカ的なひそみ述懐を図書館でちらっと見かけた記憶があって、この辺とオシドリ感も何というか未実行前に展開された形を感じるのだけれど.全くそんな意図は全く無かったのにやりづらくてしようが無い心持ちは十全だった日々に他者達も交えての記憶の上に今も尚徒労無駄を行使してくる他者達がいる



           
 





 

ハァ〜自動表出も使っていたとは絡まってくる野郎だなという思い-どうでもいい設定なので自由的に無関係としているのに…思想は分からないけれど文脈からは地道な哲学性かあり、哲学は知力によって世界を支配しようとするものだから、絡まってくるのは致し方なきだが、ただ表現が面白くなくつまらずと



           





 

''対自的意識によって捉えられた現実を、更に対自的意識によって言語に移しかえられる時像が生み出される"-なるほど更に対自意識をな、それ以前の対自意識類を他者が用いてしまうのが非常まずく言語化に白けてしまうことになると多すぎる不快さを持つ.またそれに対して無理解誤解の多さにも


   
           
 





 

叙事的存在には自己表出は不可能に近いのかもしれないな.故に指示言語ばかり用いる事になり叙事詩を好む事になり、'女なんて'とその男は急に発した例からミソジニーは叙事的存在のコンプレックスと同時に共同体という叙事体社会において自己表出傾向強い女性の位置が捗々しくない現実がある.


   
           
 





 

中には女性において叙事的でしかなく叙情性欠如の存在もいて誠につまらない馬鹿げた理不尽な自己主張をする権力志向性もいるけれど.他者への共感思いやりの欠けた女性がそのバイタリティで出産は容易だろうが、共感思いやりのない存在が子育てなど難しいに決まっている



           
 





 

勇気の無さから次元を下げた未来に対して生起する現象の捉え方総体時間性から像変遷とした『現状維持無限変革』の謂がある.今では権威主義的志向のあるxxが像変遷に妥協させた与件を齎したと思えるけれど、多分に熱心な史記研究者の記憶がどこかにあったかも.史記を振り返れば像変遷である経過記述的で



           
 





 

全て女性は芸術品と申したある作家がいたが、叙事的xxを芸術的とは思わないし中間存在のサスペンススリル好みの狭量なxxたちも芸術的とは認識できないのだが、即物機械の指示的な現象から判断した位相からはそのように見えたのかもしれないな.それにしても単純で単様過ぎる.まあミソジニーよりましか



           





 

共同体は指示言語的世界で、指示言語を用いないと言語らしきものを語るような原人的に思えて野蛮人に映るようで、それで野蛮人と非難的な言明を衝動的な発したのか.しかしだ衝動は生理的で動物的で原人的なんだが…自らの野蛮性を虚栄意識で隠そうとしていた男がいたな.


   
           
 





 

指示言語は味のない無味乾燥的なロボットが発する言語で機械語的に思えてしょうがなく、固有名詞などは白けて使わないとした昔、地名とか人名とかで代名詞の彼や彼女は用いる許可は与えていたけれど



           
 





 

逆になると損をする非可換性がある存在は不快を当然覚える..この場合は一次的疎外だけれどそれも離散的だと不快ではある.逆になりまた自己を蒸し返しする過去他者に同一化する存在もいて、二次的疎外になる事に気がつく.問題は過去の記憶存在の蒸し返しでしか無いのに全く無茶苦茶なのは何故か



           





 

一秒間に回転する連星中性子星--あの夏の河原でたまごが高速回転をし、その後その速度増加によりとても捉えられないと思ったのはなんだったのか.回転楕円体の速度想定を諦めさせる速度は?



           





 

逆と模倣の剽窃的は寄生虫でもなく寄生獣でもなく寄生人と思いついたけれど.ある存在の自戒的言明を見ると考え方がほぼ同じで全く開陳されてしまっては困るインベーダー的様相を見る.寄生人の認識次元が低いので他者化する?、どうもこの他者化がよくわからない呆れ返ったデタラメ理不尽不条理なのだが



           





 

Eテレの動物の謝肉祭の出演者は特命に似ているな.サン=サーンスの白鳥は電話での曲名は何?の質問に綺麗な曲ですよねと言われた大宮のヤマハのいい声の女性に合わず…そんな皮肉意図が込められていたんだ.


   
           
 





 

流れでゲノム番組を見ている.中学生の時にヒトの遺伝子には無駄なものはないと思ったことがあり、ゲノム解析で無駄な列はどうなったのかな?


   
           
 





 

生命の起源からの連続に携わるは確かにロマンを感じながらやっているだろうな.ゲノム位相をデジタルと捉えているけれど、遺伝子自体が無機で出来ている解析まで行かず、単に現象学的なゲノム編集をやっているだけなのでどこかで頓挫しそうな気がしないでもない.


   
           
 





 

昨日有機体である人間が無機的意識を持てるか、無機的意識には道徳や正義や宗教の戒律などをまず気にする必要はないかなと考えて、唯物論はその傾向にある要素があるなと.人は無機的意識を持てるのか、他者を物体と見るのもまたその傾向だけれど.その例にサイコパスのシリアル者も載るな.


   
           
 





 

無機的意識とは一体何か、何かとんでもない気がしないでもない事を思いついた気がしている.



           
 





 

無機の最大値が有機が有機の最大値が無機か、現在人の動向常識では後者傾向なんだけれどそれは不快な叙事的位相になってしまうので.人は死ぬ事は確かなので他者に不幸的対処をしがちなタナトス的存在もいるのだが、そんな存在もいずれはタナトスに巻き込まれる自業自得さを持っているのだけれど


   
             
 





 

それを意識から避けるために潜在意識的に他者に負荷をかけるか、それが自然な先天性事項だからか、逆説的判断から死者もまた生きているの形を想定して見る



           
 





 

ある老境的存在からのその教条形式性を見て俗に言う石頭的感覚から、若き存在に発達障害が増加の一因た仮説を思いつく.現象的には当たっていると思う.大域的には境界的と考えるけれども.



           





 

ニッカズボンはいいと思う.ガテン系のズボンとかとにかく膝にはいいだろう.コクーンで遭遇したあるxxにその後会えないけれど、教わったガウチョもいいとは思う.何より取り敢えずスカートは膝に負担はかからなかった…まあズボンばかりが原因とは思えないけれど.



           
 





 

イドラのベーコンがそう述べるのならアリストテレスは演繹的なのだろうとはやはり感じが違うな.無限が問題になる事なのかな?.エールのリンダにも何故かこの頭ヒリヒリの思いをしてベーコンのヒリヒリと似ているな.あとある場所での頭の痛さには流石に閉口して避ける形とした場所がある.



           
 





 

帰納と経験主義はやはり結びつくな.ベーコンの何かで未完成と感じて-百科全書が踏襲したものか?-何か機関が未完成だった気がするちょっとがっかりした思い出のある青春.その時に頭ヒリヒリの心情を持ってなんとも言えずとなり…アリストテレスが演繹的⁈、アリストテレスは帰納的にしか想定しないが?


   
           
 





 

発達障害がかなりの頻度に及んでいる⁉︎の文章を見て、個人的には遅れてやってきた時間の境界と判断している
.日本は駄目になるとか結構やけな感じのツイートを見るけれど、それは境界以前がダメになるだけの話である



           





 

眠れないままにふと思いついて、駆け込み訴えという作品は弁証法止揚過程の軋轢を描いたものではと浮かぶ.



           





 

他人の事ばかり考えて人の目的や記憶や他者意識記憶などを蔑ろにする存在は、そんな事をするなと考えている人間の事を結局考えていないものだ…とくにxxはそんな事をするなと思っているのも自分だと思うから始末に悪い図々しさなのかエゴイズムなのか不快な間主観性も何もあったものではない存在かいる



           





 

個人的イメージの払拭が難しい、ベクトルを持ったエートスの複雑さがそこから無限遠に伸びてしまい


   
           
 





 

原性的変容とか純粋的変容でも曖昧さがまとい付くな.無機的要素故にはあるかあるとすれば有機と無機は異なる故にとできるか、それも普通に普通であるはずなのにモナドとエンティティ関係が乱してくる.FB粒子が専らの因ではあるけれど



           





 

擾乱と誤差と標準偏差の範囲はと標準偏差を用いるのは用いるのか…客体のみで存在すると思うけれど測定は無関係に.計算上はそうしないとかもはあるけれどなんだか狐につままれたような.揺らぎは可換では?非可換揺らぎもあると言えば考えやすい事はあるけれど多層で実在する時に非可換を想定し難く



           





 

'暗黒エネルギーをヒッグス場として見る.ブラックホールを時空に開いた穴として超弦理論での素粒子も時空の穴で大きさのない点としている'--暗黒エネルギーをヒッグス場とは考えもしなかったけれど多分にこじつけ的かも、またそう考えそうな感じはあるが、とにかく行列の複雑さにお手上げのあの頃


   
           
 





 

過去xxがアウトサイダーを提示してその意図が分からずだったけれど、何を意図したのだろう.アウト意識を持っていたのかこのxx…今でも過去とせずにそのままだったとしたらどうなっていたか今頃はと思う時代から出ない制約感が浮かび纏い付く



           
 





 

局所問題を対象としてみると、ミネルバのフクロウといえど夕暮れにも飛び立てずがある--フェルマーの定理とか.フクロウの寿命は大型で〜年だそうだけれど、ミナーヴァの助けを借りたとしても年位またはそれ以上ではとかってに想定してみると、ヘーゲルの夕暮れはまだいい方なのかも知れない


   
           
 





 

むしろミネルウァの助けを借りれば午前中または午後に可能になるはずのたとえばガロアとかがミネルバの助けを借りたとも言える神話化ができる



           
 





 

縮退的存在は他者を縮退化するのは間違っていて自らの縮退をそのままにではなく、解くべきだろう.特に非縮退的存在に対してはFB統計を混同しているかそこまでに考えが至ず、況してや超対称性などを考慮しているはずもない.何しろ考慮しているのなら縮退化要請をする理由が存在しないからである



           





 

人間とは何かは別にして、クォ・ヴァディスを人は何処へ行くかと考えると、無機物を征服する事迄は行くと思いついた.クレジオの後に残るのは無機物だけとは異なって.それぞれの銀河系オリオンとかを渡る行き来どころか恒星旅行も惑星旅行もままならず核融合ですら出来得ずの時代時間においてだけれど


   
           
 





 

理想気体の状態方程式からの恒星の輝きの仕組みは心理的に不快を齎す事に類似を見たりするけれど



           
 





 

物理的に安定に存在する系ならエネルギーの下限はあるは、ワンパターン人間に当てはまる.つまり整数的に有限で閉鎖を齎すその有限が自由の邪魔で不快となる、不定積分のプラマイ無限大範囲を設定できないからでもある.実用上定積分は有用だけれど、色即是空空即是色の自然数サイズも覚束ない事になり…



           





 

"歳過ぎても無能の場合は一生無能だ稀はあるが"には、義務教育時にだったかこのような人物に勉学を教えても無理で意味がないと思った事に似ているな.最も今では例の哲学者の現存在はほとんど未完成に終わるで代弁化としている形だけれど.


   
           





 

ユーノーの聖鳥は孔雀とは今頃知っても遅すぎで参った感がある.全く知識不足で失敗ばかりを覚えるが、『森羅万象は判明している』も序文に乗せてあるのではある



           





 

ソリトンとフラクタルは相性が悪いと考えつつあり、切断してもやはり端点を持つものはフラクタル的かな、または構造的に一定からはソリトンと結びつきそうなだけれど、ソリトンが自由に動くことはないはすで、自由動くとすれば非常に短い時間となるとするとインスタントン構成可能かとか空想してみる



           
 





 

そんな非常識な不整合さは納得出来ず、そのうちの人に納得出来ないなと会いに行ったけれど連れ合いに玄関先で追い返された?形となった記憶がある.まあ色んな社会的不都合さはこれらの主体歪曲者達に責任があるとして差し支えないと思うけれど



           
 





 

猿人原人旧人新人で二足歩行上の区別はないとすると、猿人と新人の二足歩行性は同じであるので、違いは二足歩行以前の記憶にあると乖離を考えて見る…それとも猿人以降なんらかの相転移があった?とすれば旧人と新人の差かもでもそれは説得力にかける乖離感だな.未来志向意識から来ているとするか…


   
           
 





 

最もその直接対象とすべき存在も僭主的な自己不明の棚上げ的な無知的な傲慢さを持つトートロジーに気がつかない間抜けな存在なんだけれど



           
 





 

どうもある存在の作風が閉鎖固着感ある糞詰まり的な不自由化的文章で困る.つまりその人物は自由を設定しているようで実際には自由がわかっていない存在であるとなり、全く憤慨する歪めを齎して…限界が齎した自己擁護の為の他者模倣と卑下は僭主的な倫理の弱さで、また歪めは直接対象に述べるべきで


   
           
 





 

そうは言っても肉体衝動的な脊髄反射言明は暴力的なロボット体の発言で人間的ではなく、剔抉して動物的暴言である不快を与える事に気がつかない性的人間の束縛化狭量化の世界を狭くする破壊性の非建設力は頂けないxx達の自由を邪魔する抵抗性.他者達の肉体を尊重できる筈がないのに…精神ならはある


   
           
 





 

そもそもそんなxx連中はそんな衝動条件反射的な言動は要らぬとしている人間を尊重していず認めていないので、そのように無視している存在をどのように認めるのか?取りつく島がない.ブラック志向でしかない強制強要的な非倫理存在に見える…



           
 





 

多重ゼータ・これはと思ったけれど、ホールと同じくどうも違うかなと.理屈上はファインマン経路とかそうなんだけれど…場の強さの励起的変化を客体的にしてもはある



           





 

多分利用された形は無い偶然とは思うけれど、利用される形は多いに記憶にあるので…自らが行使する前に他人が為してしまう形は受け身的に利用された形なので、特に逆になるxx&xy達の記憶が多くあるので.対自&即自の目的類は対他即他ものではなく自己のものだけれど他者が使用してしまう感があり


   
           
 





 

白けてしまいやりづらくなるこの理由がわからない.また対他即他的な事を記憶しているとそれを自己と思われる事も多いので困ってしまう.



           
 





 

"ヒトの生殖細胞の発生の仕組みには不明な点が多く"とは今日に至ってもそうなのか、小学生の時に胚の映像を浮かべた事はあるけれど、その時には考えてはいけないという思いも浮かびそのままずっと、その時にところという言葉も浮かびある市の名前は知らなかったので後に悩む事は間違いとは思う…


   
           
 





 

自己の想像深淵シーンにおいて自己理知力が追いつかず情けない、男をやっていられない程にみっともないと思った事があり、そこに他者達がつけこんで来る.他者達にこの複雑さが解けるはずもないうぬぼれが何か勘違いしているはずのものと思うのだけれど.まずはKやKやKではなく、少なくともK以上と…



           





 

発散が無いと無私の精神に至らずエゴ的である筈である.即ち肉体の重さがそこにあるような存在には無私の精神はほぼ不可能な自由の束縛をする.全くうんざりさせて尚且つうんざりさせる過剰うんざりなxxが常に出現してくる.陰湿なる言葉には無私の精神はないかな



           





 

ヒモサイズが問題で限理論=超弦理論→超限理論=?(超超弦理論のような)を考えるのは普通に人間の志向だろう



           
 





 

年以上前のアラン・コンヌのインタビューを見るが非可換はよくわからない.カルティエの宇宙群?.シュウインガー本に年掛けたは示唆的だけれど、シュウインガーやダイソンは知らぬ距離を保つな.多分にイメージが解析的で潤いがなく冷たい印象だからだろう.それはフェルミ的かな、むしろ叙事的だな.


   
           
 





 

ボヴァリー夫人のあらすじを読んで見たけれど何がいいのか分からん.単に作品過程の代表的位相価値でもないか、因みにアンナ・カレーニナのどこが評価されるのかもわからない.有名な不幸な家庭の多様因は気にはなるけれど



           





 

完備意識が不動点を探って猿的詮索人間がインベーダー的に詮索をするという経験あり不快だけれどその陳腐な猿的詮索ペーソス人間が要らぬものを放擲してそれが内部にあり実に不快な自己主体歪めの気分の悪さの逆的位相にあり、またそのような連中が逆を当然と思う馬鹿馬鹿しさがある権力志向性者達



           
 





 

叙事的なA期xxはエロスの無さを権力志向に転化する、否転化するのではなくそれが自然なのであろう.xyにもそれは間違いなく言えるかな.柔和さを剛体的に厳しさ非情で対処し得ないという.ミソジニーはその対象を認める事が出来ないのが自然に不可能的でミサンドリーはこの不可能的なxyを対象とすべきで…



           





 

その不可能的なカップルは形式的とならざるを得ずいわゆる仮面カップルの虚栄制御となるだろう.これの一方がそうではない場合はまた問題で、しかしなれどA,Aであれば過剰的になる例がある筈だけれど差し当たり思いつかない.



           





 

ほんと思い出せば権力志向型は普通には表現の自由力が無いので、他者の表現力の妨害をしてくる不快な記憶があるな.他者を妨げるのではなく自らの表現力の陶冶が建設的なのだけれどそれも不可能に近いか…



           





 

どうもよくわからないけれど退行者であるならば退化すると言えるのではないか.叙事的な暗黒の不快なザラザラさは一体なんなのか.けばけばしい現象学の根拠にも思えるそれは無機の粗い混沌もしくは稠密に粗さを付加したものか.まあ混沌まではいかない完備的な底浅な筈で、生の限界が強固な反動を醸すと


   
           
 





 

小学生の時はそこにある境界だったのに長じて無限遠の境界ななってしまったこの距離性は?.対象自体は変化しないままに領域が広がるという…



           





 

現状維持無限変革時間内においてまた地球内核エネルギー消失してバラバに瓦解してしまう前に他系利用可能になるかもの時間はありそうなのと同時に現状維持無限変革が有限変革になり人類消滅したの泡沫の露であったになるかも知れない可能性もある.



           





 

事大主義者はその位置にいないのに恰もその位置いるように思っているミルグラミストとかになるかな?.昔に厄介だと思った存在を知らなかった事大主義者といい、なんらかの依存意識がそのミルグラム意識を保証していると解釈の今頃.そもそもミルグラムは無いとされる依存・甘え意識では無いか



           
 





 

嫌いなxxに愛されるのは地獄であるとの箴言を見たことある.嫌いなxxはどこまでも嫌いだからそんな事をしても意味がないという自覚を持てなそう、またそれ故に嫌いでもある.特に逆になったりすると馬鹿馬鹿しさが過剰になり過ぎて愛する主体を嫌わないといけなくなりこの矛盾的な位相は地獄的かな


   
           
 





 

PM・MC・PMC迄は区別をつけたら、日本語がわからなくなって来た.Θ論とは何だったか忘れてしまうやハミルトニアンとの関係を判断できず



           





 

パンドラの匣の普通の話で、なぜか個人的希望を他者が横取りしているかのように逆に意図している事目的を述べてくるのだけれど、それはトートロジーで言われるのはわかっている自己目的なのでうんざりするのだけれど、まさかと気がつかないでその言明に遠慮してしまい即ち形式では自己に遠慮するという



           
 





 

なんとも意味なき無駄で、そのように述べてくる存在たちxx&xyたちには模倣的な意図しかなくなんら何もない人を卑下するものものしか持っていずに、ろくな事を考えさせない形かなと今では判断できる…つまりは逆パンドラを要請する希望が逃げて後に残るのは反希望だけのような.



           
 





 

となるとこれらの存在たちは反希望者達となる論理帰結になるのであるが、この展開を誰が理解できるか…これら存在達は自己把握をそのように思いたくないだろうな思わないだろうなの帰結が見える心理段階とかなのだろうなので.そんな意味では無駄強要の存在達でもある



           
 





 

昔の正月に急いでガレ多いブドウ沢の道を空腹のままに途中の雪を食べたりしながら降りて小屋に着き寝転んだら室内が回りて、始めてめまいの体験をした記憶と共に、影になっている小屋から日当たりの釣り橋とその周囲の地形がいわゆるほっこりに見えて、個人的に最高の思い出の場所である釣橋小屋



           





 

個人的見解において粗は目につく反面こんな構想は思いつかないなはあるドラマの脚本作者達-リアル現実をパスしていたので何かと不都合認識をするけれど.そもそもこのパスは失敗だったと最近になって思い覆水時間は戻らず埋まらない面がある惰性的を考えるが、個的時間の短さと長さの差異は設定できる



           





 

ホワイトヘッド はあるからなるだったのかそれには賛同的だけれど.オルテガの不満自然的固有存在として主張する存在はちょっとホッブスの万人の闘争にも似て.あるはスカラー的存在でなるはベクトル的存在だから方向性を持つ事をホワイトヘッド は意図していたのにオルテガの不満が少し結びつくな


   
           
 





 

この方向性を持つのはウーマンリブフェミニズムの主張する所だと思っているけれど、荷物的な事大主義的xxがいて、それに気がつかなかった時間があり忍耐した分その処理に厄介な時間を持っている.まあ多々ある不要な忍耐の処理には時間がかかり過ぎているけれど.



           
 





 

カントの二律背反に宣言から始めるというプログラム属性的志向判断もあるのか.カントのアンチノミーは理性優秀者が考え抜いた容易に考えたかもしれないけれど、哲学の正に自由なものであって、だだし極限ではある.少なくともカントのアンチノミーは正解に思える



           





 

保護法益に私生活の平穏も含まれるレイとして風鈴の音が生活騒音になるケースはどうかな.個人的法益の中で自由に対する罪の何項目かに当てはまる事態を受け過ぎている形かな.名誉に対する罪はまずある形だけれどこれは諸刃と取られる可能性もない事はないが、それは退行的とは思う.


   
           
 





 

多くの人は罪の意識なんぞは持っていないのではないか.いたずらに罪の意識を持つと持っていない人が調子付くのみである.それ自体は個人法益侵害ではあるのだけれどそれが当てはまっていると理解不可な故に不利益を被る対象が多すぎる事になるか.未必の故意はあるけれど無意識の未必とか考えてみる



           
 





 

専門家に任すとしたのはガロアの隙間の方だけれど、特性方程式の徐に描いたあの時の事に関与しているような事をやや専門的に研究している人々がいたのか…ややびっくりである.



           
 





 

アンリ・ミショーのどこかに罪の意識を持つ事ですがありよく記憶している.考えるにマズローの承認要求の段階までは罪の意識は出てこない気がする.少なくともの自己実現段階から以降だろうと.自己実現意欲者達は多数いる筈で普通に遭遇していると思うけれど、最近は認知できかねるのでつまらない



           





 

種の次変数の既約方程式は肯定である.次体全てというわけではないがガウス予想を知らなかった.どうもガウスで止まっている感のあったのはこの予想ゆえのようだ.ゼータが出てきてその大域とか素数に対するガンマ設定のこれは何と印象に残る.I分解登場か素数と直交は必要になる理屈はあるなとは思う


   
           
 





 

自然的存在・・云々は語呂感良くパターンを模倣して使うな-人間は無機的存在ばかりではなく有機的存在でもあるとか、最もこれはバンのみに生きるにあらず神の口から出る言葉によって生きるものであるとも類似させているけれど-類的存在に対しては心的存在かな……



           
 





 

マルクスに関してはあの好みの南天のそばでしほんろん巻を描いたことあるけれど、巻までは読みそうにないなと思った長さを想定した事がある.数年後に経済・哲学手稿を結局読んだだけでしかも自然的存在ばかりではなく人間的存在であると類的存在の言葉しか記憶に無いな.類的存在はよくわからないが


   
           
 





 

物象化は人間が思考したルールとしてもそれはやはり人間が考えたものなので人間存在が関与しているというアイデアの浮かびによりある想定をした.このまま記憶に保存しておくといつのまにか他人が自己思考ものとしてしまう事多過ぎている経験大なので記録しておいて…全く原動力の薄めには辟易する



           





 

薄く軽い意識をパスして重くなったリアルな意識にしか反応しないまたはリアルな重い発語しか出来ない存在のズボラな感性は徒に自由の束縛でしかない.何でも完備的に述べねばと思い込んでいる存在は俗物明晰型で無謀な点もある.寧ろ不確定性原理や解けていない予想とかを知らないのではないか.


   
           
 





 

そのようなものを明晰にしてくれるといいと思うけれど、そんな不明問題を解ける位なら、明晰発語化などをしてはいない夜郎自大か了見の狭い存在でしかなく時間の進みを遅くして退行を強要するような存在でもある.正直は無謀に繋がるケースもあるその頭の単純さかな



           
 





 

基本の明晰さを知ると馬鹿馬鹿しい思いがするが、定義xxがいる…



           





 

エンティティはIT用語にあるとは無機的ではないはずで、まあ無機をモナドのように説明はせずモナドは有機を説明していないとした要素論の限界だったあの頃なんだけれど.



           
 





 

TLPの要素命題の対象実体は要素論的でくだらないと思ったのも要素論の行き詰まりゆえだけれど、人間は無機的存在ばかりではなく有機的存在でもあるは当たり前として分子ではなく量子生物学が普通に来るとなると、要素が集まって電子的に降鎖を太虚で止めるも想定となる限界位相も設定済みの難解さ



           





 

過去問暗記の試験?、多分想定できるけれど、明晰に拘りたがる先天者には得意な事なのだろうけれど、その反面曖昧な事象自体には対処しきれずその存在を暴力的に無いものとしがちで、その辺でxx&xy達の排除しきれぬ閉口記憶あり疲れるもので、しかしそんな存在の気持ち悪さや陳腐感では然程明晰とは…



           





 

なんか変だなと個人的に思ったリツイをした…どうやら帰納的還元世界の前提で帰納的人間示唆の帰納的結果の付随する試み的で、演繹の完璧さ-ほぼ有限的-を求めていないでという内容解釈かな.一将功成りて万骨枯るの万骨をしていれば功が成るを人で行うという真理に到達するのには幾数多の悩みを行うか



           





 

細胞内共生説は震撼記憶からは当たっていると思われ、不条理の源泉はここにあるとの推定をした記憶がある



           





 

嫌いな存在に好まれる好みの存在に嫌われる-嫌いな存在が意図と逆に好みの存在が意図と逆になんだけれど、どうにもならない平行線



           





 

悪女の深情けという言葉がある以上帰納経験的には事実だろうで個人的経験からも意図通りにならない白けを齎して災い的である



           





 

あの頃にRNAから始めるかと思ったときから分子生物学は進展して捏造事件などの時代となったけれど、そもそもRNAの語感イメージは気持ち悪かった.始めるかのままなので、DNA複製や超螺旋は知らなかったな.ただ染色体のそれぞれの構造変異で多様な症候群には関心あったけれど薄れてきたな…


   
           
 





 

なんと言っても衝撃的なのは核とミトコンドリアの結合だったかな、とにかくこの結合はミステリーで、震撼的な思いをした記憶が昔にある.どんなミステリー小説より以上のものではないかと思うくらいに、胎内での存在時間に起こる出来事らしいのだが



           
 





 

どう見ても自然発生的であるでは現象無責任というか皮相認識的と思えて、心的関係意識があったと見る.一様性等価性を自然数に置いて規定した時間的なものと見るのでは整数事態の説明ができかねるかなの対象なんだけれど、自然数の場合は時間移動と空間移動で考えているかなの有限対象の過去分と移動前



           





 

普通に自由を中途半端に遮るのでなんなんだこの狭い連中はと思う.自己自身を知らない無自覚連中か自己が無い他者の模倣で生きている人間かな.



           
 





 

共同幻想的な言明に対して対幻想で条件反射をしてきた存在は一体何なのか.脊髄反射人間かやはりオランウータンなのか.自らそう述べているのに困惑したのか違いがわからないのかでたらめにも困ったものだ.ところがこの人物と同じ位相の存在が多すぎて誠に困った無知者中途半端者達である.または自惚れ達


   
           
 





 

ひとの親切心をxyではなくxxだと思う連中でもある.三角関係なんぞで悩んだらしい割には全く対幻想を知らない無知としか言いようがない.またはマズローのを理解できないの低次元存在に見えないこともないみっともない存在とも言える.まあマズローのの低次元存在は叙事的と解釈する経験がある



           





 

肉体の束縛専ら存在には知性処理感覚が弱いと見る.どう見ても肉の塊に知力が実在していると見えないからで、生理有限でどうしようもない現実感は道具を用いない動物の弱肉強食の世界や原人世界と同じで暴力的他者としか捉えられない.また肉縛存在は鬱陶しくまた気持ち悪く、そんな意識を誤魔化す事も



           





 

窮屈な束縛や煩いでかい声でエネルギーを無駄に使わせる狭量底浅のxxたちも不快なものだ.嫌いや見苦しい趣味ではないや愚劣をイメージせさるxx達は逆になって、自分がそう思われていると気にせずに、そう思っている人物をそのように思うから始末に悪い.益々気にくわないとなる.うぬぼれと図々しきかな



           





 

必要なのにどうにも眠れなくなるのが何回も続く.夜型になったというより、体内時計がずれているか心的感覚を乱すxxのしつこい記憶が妨害しているかな.そもそもこのxxは障害物なのに過去xxがリアルになって導いた形で、どうも遠慮謙遜をするとこの過去xxが登場してきたものだ.今尚その記憶が蘇る



           





 

ならばH定理でまさかの韜晦事象になっている事に先程気がつく.まあ当たり前の普通すぎる事なのだけれど



           





 

無知のワンパターンに対してソクラテスの意図とは異なるけれど有知のワンパターンを思いつく.今までワンパターンは無知に関してのtwだったが



           





 

肖りなのか僭主なのか、被僭主を歪めるのはなぜかといえば、モラル次元が低いからである.モラルの低さの誤魔化しを肖りで正当化するために被肖り者を歪めるのはまさにモラル低次元存在でしか無い.またそれに気がつかない愚かさは論外的なだけれど、現実世界の低さがそれを許容する.


   
           
 





 

明晰頭脳であるはずの肉体感が気待ち悪いxxの記憶がどうかすると浮かぶ/俗的な生理体のしつこさは纏い付く/全く嫌悪で意気消沈xx達は余計に突っ張る形を取ってくるのは、快感教の信仰者であるようなのだが、その快感質が明らかに愚劣でそもそも無いxxが自己無視のなんらかのミルグラムをするから厄介で


   
           
 





 

揚棄は普通に若者からすれば老境は古いという否定面を契機とする.つまりこの例に関わらず日常過程で頻繁にあり過ぎる当たり前すぎる事である.それを揚棄などと具象で表現しても構わないが、至って容易な現象をさも特別化するような印象を与えはするな



           





 

CFDに関して昔にimulaを浮かべたのは単にシミュレーションの言葉からだったのかな.クヌーセンとオイラーか意地を張るほどに先人が既に業績を上げていたという些か無知の間抜けさ加減の時を思い出す.


   
           
 





 

そう思うと現実のそれぞれの一応の領域というものには既に誰か着手していて、何か新機軸が難しく現実活動からモデルを引き出すのは困難だなとあれこれ想定しても既になので、どうもモデルが無いかなと思っている



           
 





 

暫く前に拘禁症だ否そうではないの騒いだ事例があったけれど、縦構造においては拘禁関係なくガンザー症候群に直面していると思う.閉所恐怖症はよりかな、鬱病はなんとなく関与しているのではとも.人々の色々な対処方法はガンザー回避の側面があるのではと



           





 

ポテンシャルの切断があれば付随は当然減少することになるけれど、この切断のイメージはけばけばしさが纏い付く.半順序があるのはいいけれど、対称がどこから出てきたのか把握していないけれど、対称ではどうかなはある.縮退も厄介な取りつく島がないそこにあるという有性で鬱陶しさがありそう



           





 

理不尽な逸脱無理解は単なる狂気か…叙事的存在が承認要求に苛立ちて、発語するでたらめ突発はクレイジーと相場を決めていて、その拘束発言は猿が得意なものとしているダサさを持ってしていた昔を長引いた時間がもうどうでもいいくらいになっているのに、強として相変わらずそんなxx&xyが登場してくる



           





 

ワンパターンのスピーディはソリトンになるがソリトンでさえその一定リズムにはうんざりする事になる.消極的自由がソリトンに直面すると忙してしょうがなく手を拱く形を取ってしまうな.強靭の一定離散パターンもソリトンかな.これが多変数テータで周期を持つと言えばソリトンは周期でもあった.


   
           
 





 

波動が波が粒子になる光子線ではないのかこの超離散は



           
 





 

あの夏の日の河原でゼロが回転速度を増して行きまさに回転が見えずの静止状況は眠っている私は光速度で動いているに似かよせて



           





 

ソリトンに透過係数と反射係数があって反射係数がゼロの時とか何だ.それが次式でいくつか他の式と似ているとなると、種の特性の既約の次を反射的に思い出すな.ここにもシューアか…KdVはともかくKPの感覚は気待ち悪い.(∞,∞/)かなるほどなんとなく得意そうなハーフ感---蒸し暑いxxの頑固な一定が


   
           
 





 

他者達に誤解を齎して不快な思いを名状し難くする愚劣感を齎しているのに、フエンかエンフ-父猿猿父・類人猿や猿人原人も父権者を行なっていた時間までロンブローゾは戻る?-や単子フェルミxxの単細胞的無理解等のそそっかしさか認識レベルの低さか理不尽に無関心の暴力さか困った存在達の記憶が促して



           
 





 

あの頃モナドエンティティの要素視点で行き詰まり、哲学を止めて漫画でも読むかと冗談自虐したある街の甲高い女主人のいるスナックやミストレスのいる喫茶店の頃から今、ネオエレメンタリズムなる言葉を浮かべて…



           





 

元の木阿弥になりそうだ、というか元が極限的なんだな



           





 

常識では→純粋法学視点では.陰陽の場合なだらかな境界がカルマの世界で陽が天国で陰が地獄とすると結構当てはまるかも.何しろ陰的存在はタナトス的に見える経験あり、またそのタナトスを押し売りされた形で.この逆化はなんなんだと理解し難くある.幸福な王子の話のようでもあり、そんなつもりは無いが



           
 





 

神話には宗教には大体天国と黄泉の国があるな.軽罪が煉獄となる中間域とするとカルマとは別か.とにかく八大地獄はハッタリの脅しだと思うけれど…もしあるとすれば常識的には万人の英雄は実際には大地獄にその死後いるだろうと想定出来る.となるとその後の歴史から例えばマルクスはどこにいるか?


   
           
 





 

無自覚とは無意識で生きる自然性または意識しているけれどもその自然のままという動物本能的か.話しても間主観性成立が一生できないという否定弁証法平行性を見るけれど.そこに射影が交差を仮想するタナトス的に反交換が押し売りをするが、タナトス単体では無理だと同時に自業自得の運命が待っている



                 





 

惨めにしたり恥をかかせたりピエロにしたがるxxとは一体?、これらは全て嫌いなのでこんなxx達を好む事はあり得ない.実質を暴露するのは去勢なのでそれも好まないが、その傾向は何なのかな.同じになりたいか忘れさせないとか、意図がそうでない存在が多くそうしてくる、意図的存在もそうしてくるが


   
           
 





 

どちらもやはり好めなくなる.実質を暴露したがる存在の実質とは何か?、普通には暴露するような実質を持っていないのではないかと考えると、価値がない性的人間・動物的非人間的だと普通に考えてしまう.アフィン的としても中間アフィンは射影原点傾向で、原点リフトはあるけれど.



           
 





 

遺伝子を脇に置いておいては?、女性差別といっても遺伝子がxxとxyでどだいが異なっている違いを棚上げした形を理解できかねる.女性差別という言葉からはxxとxyの違いも差別になるのだが…xxとxyは区別ではないのか?.xxだけが遠い将来に残るや疾病に対するxxの忍耐優位性は述べても良ければ遠近差別感



           





 

そんな中で、他者化してくるのはきついな.まあ誤解無理解のてんやわんやのでたらめカルマ存在になるが.全く猿的父親なのか他者化してくる存在もまたデタラメ父権者になるが.エンフかフエンかいな…権力の横暴的なxx&xyの叙情欠如も嫌いなもので、これは特に一生どうしようもない存在にしか見えない



           





 

ロンブローゾの退行論においては一理あるとは経験上権力志向者の例において見ているのだけれど.有意義でない過去への引き戻しをこの権力志向性者から受けそれも感性的に嫌いで妥協-自己卑下的なを強いる事がよくわかっている無知者に見えたフェルミ単子的存在からを特に-例として成立させるけれど


   
           
 





 

ラッツァラートに対しては考えを過渡期とすると適宜時間的だけれど、ミネルバのフクロウの飛び立ち時間と見る個体論者がいて、その自己疎外卑下の不快な間に他者がそれと知らぬ間にある程度思考と機械-いい書物だ-を実践している節がある.これは思い通りだけれど、俗気なくそれでいいかなしかし少しは



           





 

散乱でお手上げの上に等質偏移が続くとちょっと忌避したくなる本能が作動する.しかし不規則で位置が変わってしまう時、それがどうにかなるかなのである.等質はまあワンパターン的に繋がる予測があり単なるつまらぬ束縛不自由感だけなんだが.-∞からの流れの対称は+∞で、一点化は回避的の形として…



           





 

メラニン色素が日で抜ける物理現象は医学的にありえないらしいけれど、現実にはあったのではないか?.ポテンシャルエネルギーを日でその気になれば使い果たしてしまえるのが人間と考えた事があるので.医学者はそんな生のありたちを想定できかねるか、したくないか、そう考えるのが納得の自然なのか



           





 

命題は完備している?、そうするとTLPに関して、原子及び原始命題としたのは間違いか論考に対しては意味がないか.要素命題では確かに限界ありで、倫理の問題は外にあるの考え方はなるほど.ともかく対象が元でそれは完備しているのなら確かに要素命題を構成する形式を持てるな


   
           
 





 

セルオートマトンとカオスと哲学探究が結びつくのなら後期の必然性はわかるが、脊髄反射位相的と思える刺激は地域性の理性かもしれないとなんだか迷いが生じてくるNo.xxの未だに白紙である設定モデル者



           
 





 

ジャックとマクドナルドでマクドナルド種とマクドナルドで種になるかどうか.理屈では励起を確かに表現しているとは思うけれど、深淵を散歩できた中学生の世界線認識中なら励起もそこに見える形なんだけれど、直接局所的-共時的対象時とすると色々式を見てもなかなかとは思う.


   
           
 





 

『が必要でが登場』となれば孫の存在となる



           





 

弁証法は対立の止揚揚棄はaufhebenだ、対立を統一する意味と、否定はするが契機として保存に解釈できる通りの意味を独語は持っていて、それで揚棄とするのか.統一意味しか無くプロレタリア独裁が登場するのが不思議だったけれど揚棄側と判明.どちらも子供から見た親の存在に見え、雌雄基準論である



           





 

さすがにネットチェックをしていて幾らか進んだというかサボった時間をラプスな時を埋めようとネサフしていたのだけれども.カーソルではないソーカル事件などは別に知らなかったのだけれど、科学哲学に科学前線を知らないでは済まされないという事もありで…工学的な技術前線も良くは知らないのけれど



           
 





 

Jack多項式が登場していたのか、流石に研究者は前線である.あの頃からよく知っているスピンの例えば上下をC^の状態空間とするは盲点だった.ヴィラソロで取り敢えずは納得的なのはそうすると、全く知らぬJack多項式となるな…C^*C^と氷解的に全く簡単になるという今の心情は年前には予測出来ずと



           
 





 

葬祭ディレクター試験がありそれも回目とは全く知らず.α位相を避けていた事もあり殆ど現実的な事を知らないのだけれど、その分発見の楽しみがあると同時に今更覚えるのも苦痛だがある.設定上は否定してはいなかったのに、どこかで個的思考に拘りて.まあ色々なたしやが余計な干渉を行使したからだな



           





 

普通には中間存在多数がそのリアリズムで現実としか出来得ないのでそうしている形だけれど、超中間存在次元からは中間存在は空間に浮遊しているアフィン物的なのだけれど…その現実力から例えば仏教世界などを卑小化判断しがちである.


   
           
 





 

バブル宇宙論は中間存在を類推としたようなのとランドールの余剰次元は超中間存在の類推かも



           
 





 

不条理の前に摂理がある.運を天に任すは運を摂理に任すという事で、摂理に従う乗るという事になる.摂理は人の上下に人を作らないとは言えないと思う.摂理による災害・摂理の恵みとかと言えるけれど、摂理の仕組みに挑戦しているのは物理学かな.地球脱出速度などは摂理に従っているとなる.



           
 





 

関係の本質は摂理が最もかな?.だがしかしどうにも哲学の知的支配性だけれど、生理物理的存在の思想性は、ちょっと次元の低い知的支配性を持っていて、閉塞感で他者を卑小化する傾向が強いな.


   
           
 





 

マルクスの資本主義の後に社会主義がくるだけれど、現実にソビエトからは資本主義社会なってかとは思えずの
年でマルクスはペテン的ではと思ってそう発言した時な反応が全く関係ない逆で主体阻害で不快なxxを蒸し返し想起すら羽目になったことがしつこく悩ましているのだけれど、


   
           
 





 

あの時の市民が希望に見えるのに暗黒が付随してくるのは、昨日のNHKの歌番組を見た明るさから、この市民の希望の明るさとほぼイメージ位相度が同じである.市民希望と聞くと左的なイメージがあるけれど、右的な市民も多いわけだった.やはりどこかで個人を忘れていたようなその付近の頃、いや秘匿作故か


   
           
 





 

次はほぼメビウスの輪橋がクラインの壷橋か次元多様体橋か、ポストモダンの構造物特に建築物は解体的と思うならばダダ的にはなる弁証法転換的なもしくは反交換交換的即時間的と同時に歴史繰り返し的とも.ドゥルーズは無意識を理知化



           





 

異形配偶子の結合は弁証法の対立的とも似ているな.それで対幻想が基本とは抜け目がないか、またはまさかの『が彷徨いが重要でがちらつく』を標榜したかも.あの時徐に詩的に心情状況を表現した事柄で、その後非常に悩むことになり、頭惑乱に自らした形とになりて.最近では『が必要』を付加したいが



           





 

どしても火焔土器の世界的空間とインターネットを同相と考えたくなる、また考えている



           





 

人間が存在する前にあったのは無機物で唯物論は無機物論的になるが、既に有機物が実在している以上唯物論というのもどうかになる.まあ有機物も物として扱う事は出来るけれど、無機物に感情があるとは思えないが、人は投射する事はある.一般にそれらを一言で言えば時空とはいえ摂理となる


   
           
 





 

記憶では深い思想は正義や道徳を嫌うと述べる人は、むしろ正義感や道徳感が足りないと思える野蛮さ未熟さ卑劣さを持っていたかな.全くその支配欲で自由の邪魔を強要の記憶があって、しつこく主体の障害を行なう形が未だにある



           





 

通時的ペーソス豊かな神聖型xx&xyがいてしつこく不快な災型となる陰険もまた豊かな権力横暴的存在もいる神聖型.神聖型は光り輝く明るい存在が普通なんだけれど…



           





 

恋は水色の印象一番なのは、ある年の大雪の降った後に無謀にも出かけて、橋の下でシュラフ袋のビバークからラッセルで進んで、どう見ても予定通りにいかないと諦めて雪の上に寝転びながら冬の晴れた暖かい陽光を見ていた時の気分なのだけれど…それもあるxxがふさわしいとはその頃全く思いも予期もせず



           





 

まさかのあるxxが新興宗教の信者とは知らず、あるxyに対して年前に取った態度を、このxxから受けた事がある.なんたることか全くそれに遠慮した形となってその宗教に依存していればいいのとその宗教には関係ないのに模倣の形を取られると心外極まりない.それ以前にも同様な態度を取ったxyがいて


   
           
 





 

困ったものである.そもそもそのxyも模倣の乗っ取り的な標榜をして反交換的存在の不快な人物なのだけれど、そいつと誤解の同一視されてはたまらないのだが、そいつも内部にしつこく巣食っているようで、自我の対自感性を見るのに災いとなっている面白くなさである.なぜか人々は嫌な存在と同一視してくる


   
           
 





 

そんなわけで、不快人物達の記憶を一掃したいのだけれどなかなかそれができず、自己的には損失ばかりしているが、他者達は無知の愚かな存在で理解され得ないものだなどと思っていると、例によって逆になってそのような思われる僭主位相を持つので厄介なまた図々しいのと狡猾なのかそんな存在達である



           
 





 

'行き詰まってしまう'まあね、ある書物の'哲学は途方に暮れている形を取る'の文章を思い出した.でもそれは普通にある事なので、なおかつなんとかと頭の内部叩をしていた日々を思い出す.今は他者達による快適ではない不快なアマルガム状態なのでいかんせんその状態に持って行けず、体力の衰えもあるか



           





 

無明長夜の燈炬なり、智眼暮らしと悲しむな-別にこんな道徳心を持っている人は無数存在した存在している.他人の事を考慮しないならばエゴイストかうぬぼれ存在であるように思えない事もない.実際は自分がエゴ的でいちいち暴露するなと思っているかも.何しろ他人が標榜して表現してやり辛くする事多くて



           





 

無自覚はどちらかというとミルグラム的な無責任性を持っているので、
立場上位者という被依存者ならミルグラムから逃れるかもだけれど、そうでないと無責任者の自由対象になる可能性がある.無自覚者達に遭遇すると無駄に疲弊する事が多すぎる徒労や無意味の成立する経験がある



           





 

親鸞で何か考えついて忘れたいのを思い出した.例の悪人をやだけれど、少し自覚した存在はともかく置いておいて、無自覚の悪人が阿弥陀を必要とするは、トリアージの善人を緑とするなら、悪人は赤か黄である形に似ていると.歎異抄はトリアージ的かなと



           





 

ある考えを持っていた人物がいて、なんとなくムーンショット的な感覚から体力的に耐えられずを想定して秘匿してしまった人物を知っている.その結果その人物は内容を殆ど記憶していないけれどかなり説得力ある未完の事実だった事も知っている.その続きをしようとしている事も、何故なら自分の事なので



           
 





 

良い寛ぎなのか寛ぎは良いのか、意味曖昧存在に他者が余計な事を昔述べた事に対する悩みがひとつの視点で除去の形となる.全く無駄な事を他者は助言するもので労力の無駄をさせるものだ.おかしな低レベルプライド保有者が過小評価をして齎す言明はまず無駄でしかないのに有効だと思い込んでいる始末悪



           





 

なんだか主体を発揮しようとすると必ずといっていいほどに邪魔が入るのは何故なのかもよく分からん.他者達を調子づかせても、大した他者達ではないので単に障害物が発生するだけなのだけれど



           
 





 

そうそう地獄があるのは嫌だな、なければそれに越したことはないと考えた頃の所でもある.無神論的には地獄概念は圧力で、建設継続持続意識がそれを齎したと思う.



           
 





 

シューベルトのセレナーデは全く陰険なセレナーデでギクッというか何だこの不幸感はといった気分になる.タナトス的セレナーデなるものがあるのかと思わせるものだ.それでひんやりした空気が流れている家庭を思い出した、この冷たい感触はなんなんだという家庭でタナトス的満杯の雰囲気でどうにも如何



           





 

大江健三郎はおぞましく中身が趣味では無いな.洪水は我が魂に及びもドストエフスキー的な新生を普通に惹起させたが、あらすじではカルト的物語だった.新生を予感させる終わりはあるが、擬え的でそのようにしか表現し得ないか、なんとも白痴的な幼稚感の分裂意識とは壮大な類的物語ではなかった.



           
 





 

志貴皇子の'石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出ずる-'の新鮮な清々しさはいいね.くらい前の作である.本歌取りは縄文の伝統ではないかと浮かぶ



           





 

そうそう怒りの葡萄を買って読み始めて難しく途中でやめて他人の顔も難しいだろうと放棄したのだったな.楽しい日々の一コマである.デミアンを見ているのがいて印象ではそう見えずだけれど難しいのを読むなと嫉妬的な記憶もある.実際後に知ったデミアンの覚えていない内容は難しかった…


   
           
 





 

それにしても個人的に思った他者への未遂意図的思考志向を遭遇した他人がしてくるとは⁇、その意図的な多者達では無いのに主体を歪める侮辱をする他人達だ.なぜそうなるのかまた分からんのであるが、ただ一つわかるのは認識違いの認知能力の低い違いのわからない愚かな存在達であることだけである



           





 

そもそも譜面も苦手で読めず、全く何でもない才能者も多いけれど読めず.まあ沈黙には音自体は邪魔で障害にはなるが



           





 

世の中には居直り的存在もいるな.そう思うその存在に思考絡みの時間から冗談を設定することになり冗談はナンセンス無効なんだけれど、そのユダ的xx?にその存在について考えている事をその存在と誤解されたことがある.とにかくそのxxは残酷な理不尽を取った存在で、要らぬ残酷さなど自己に向ければと



           
 





 

昔から直感でxx一般はキリストを裏切るユダのようなものと思っていて、男のプライドを踏み躙る存在はユダ的と思えている.である作家の駆け込み訴えという作品を好む存在はまず不条理理不尽を物ともせず、プライドには邪魔妨害作用を発揮する事ほぼ必然的と認定できる.まあ大体開き直り的な存在だな


   
           
 





 

他者標榜系は依存性顕著である存在と認識、そんな存在の意味なき自己投射なんぞはまず要らぬのに強要したりする犠牲化は偽りの自己で虚言者になるが、虚言には無責任が付きまとい気楽な気分を齎す作用がある.そんな存在が多いから冗談の意味なきがリアルになつてしまう?



           





 

事実を歪める偽善的犬儒的猜疑心男は単純にデタラメな存在という事でいいのかな.全く色んな突如の非難を受けて何が何だかさっぱり分からず 反駁しようのない事が多いけれど、多分に誰かと誤解無理解想定の事なんだろう若しくは無知の自己投射か.そんな非難すべき多くの存在への反駁妨害になる事多く…



           





 

母性がさほど無くまた体格の良いxxにレディファーストは合理的ではないが、美的にも馬鹿馬鹿しさありピエロを要求する性格の悪い或いはそれ自体滑稽なxxもいるかな



           
 





 

月から心理雰囲気が変わるのが見えていて、実際そうなり少なくとも来年初期まではこのままの心理状態が続くとなっているけれど、理由は誰かxxかなと想定していたら、自覚におけるものだった.基底-ただこの言葉による事だったけれど



           





 

天地開闢の陰陽まだなき淮南子の影響があるとかの古事記・日本書紀に日本神話が載っているのか、中学校の時に古事記をちらっと見て手に負えないと思い内容をずっと知らず.なぜか八島神話を思い出し内容はどんなものかと、相変わらず難しい文字列が列をなして…別天津神の存在を知る


   
           
 





 

小学生の時の岩戸の話のアマテラスはイザナミ・イザナギの子という形だったか.ある書店で浮かべた蒸気上る海原に影的な面積が点々と的にと関連をチェックしてみてで-島産みの話は東南アジア域やポリネシアまでか洪水説話に似ているとあるな…



           
 





 

フランツ・カフカの名を初めて知った時、把握できるはずと思っていたのに結論が出なかった自己直感力としてカフカの名前はよく覚えている.その後冗談をあるxx故にする羽目になったりしたけれど、とにかくカフカの閉鎖感など気にくわない作風でしかない.


   
           
 





 

今では境界作家だとわかっているけれど、境界の揺れる『煮え切らない様』には苛立つもので不快ではある中途半端の束縛抑圧の不自由さを齎す内容でしかないな



           
 





 

源実朝は中学生の時に二階で緊張の優雅を浮かべたのだけれど、今短歌の春夏秋冬や他を眺めてもくだらなくしか思えず、あの時のエレガンス緊張は政治的寄与があり過ぎたようだ



           





 

ハムレットのto beはなんな事か不快とマクベスはある所でと真夏の夜の夢はシェイクスピアとは知らずに中学生の時には浮かべたけれど、その後にロミオとジュリエットも知ったが.そうそう小学生の時にベニスの商人で実際に血が出るのかどうか試してとか考えたけれど、どうも穴はなかった記憶がある.



           
 





 

ライ麦畑でつかまえてはいつまでも子供のままの未成年大人の小説だろう.子供の時から童話の記憶がない存在はどうだろう…例えばディズニーランドなどに行こうなどと思わないタイプの例とか.あと未成年大人と言えばマズローの第の承認要求の低次元存在は危険であるも未成年大人に見えるのだけれど


   
           
 





 

再三ツイートでロボット的の文言をツイートするけれど、先天的に変えようがないから放っておくかと思う.超人は好みなので神人的存在には興味あるな.「年以後」にあるらしいある文章でまたまた大失敗をした事に気がついた.


   
           
 





 

ある春の日に悲しみではないはずなのに悲しみと見させたあるxxが向こうから歩いてきた道の記憶と秘匿と悩んだ時間と辻褄の合わない時間と意図的に不自然をした事等が失敗の与件である



           
 





 

たかだか基底によって外的心理情態は落ち着いたが、内的心理にはまだ摩擦的束縛が巣食っていて苛立つ.それはともかく基底の文言によるのならば、他の対象文も基本チェックか先決となる.



           





 

種の特性既約を内含している方程式は存在しても十分いい事になるが、敢えて特殊特性と考えたので未定にしていた.YXZでもλμνでもXZとμνに対してYとλが未知設定でX&μすら考える事はせずありうる事だったのに…やや逆数学的位相だったか、局所ならぬ部分化とする存在論的として.しかしアノマリーがある…



           





 

単に基底の文字考慮が抜けていた.どうも問題文をよく読まない傾向があり、なんでも無い事に全く気がつかず既にわかりきっている事に頭麻痺させながらイライラしつつ何故こうなるのかと考える無駄な時間が多過ぎる.



           
 





 

ある値のk倍のkがインスタントン数とな、そこにビラソロが出てきている事を知る.ヴィラソロを巻き込むならある程度は納得の線がある.ミレニアムの質量ギャップに軽く関心を持っていたけれど、内容に関しては理解がたたら踏み状態で…楕円曲線にも層として登場はYMと異なるけれど益々頭は混乱になるな


   
           
 





 

やはり場に理性がついていけないで、冗談を醸したそこに漬け込んだ存在は質量ギャップやBDに対処する権利を獲得的なはずで頑張って貰いたいものであると今頃思っても遅きに失しているが、環界への寄与をセットしたいね.また追随者が相変わらず出て来ている感覚もありやはり負荷を与えないとである



           





 

管理志向存在が危険なのは、管理が行き届かなくなると無謀な処理、理不尽を必須的にしてくるケースで、本来はその当人の管理能力欠如なのに、自己をそのように思わない無知無自覚な点がまず困るものである.公務員とかは親鸞の悪人より善人の方がいいな、システムに他力するとアイヒマン問題が登場する



           





 

もんじゅ取り出し開始が今年から始まるとな、Fといい冗談でなく大変な時代ではある.ナトリウムと言えば中学生の時に潮解はなんかいいなと思った記憶がある.その反対の風解から例の坂道を下りながらの『飽和』に関しては、直感でまず空気中の水蒸気量からかな?.



           





 

そういえばトリチェリーなんてのもあったな、で水銀は嫌だと思ったものだった.小学生の時の錬金術を否定しきれないなどはすっかり忘れていた…化学はやたらな記号を見ると嫌になるがベンゼン環は印象的となれば安息香酸が出てくるか.馬尿酸は知らなかったけれど、腸内細菌叢とキナ酸は健康視点で関心が



           





 

ヒッグスの切断ではないかを浮かべて、ヒッグス切断はあるか、質量獲得は…そうかこの辺の捻れもしくは局所的思考ではとか



           





 

どうでもいいような気もする切断.その内にかな…ただ個人的なある記憶に結びつくかなと直感した為にちょっと気にする事にした対象.価値がその内に出る切断かもしれないが…時間ラプスに関して確実な今日の時間性と思った故に.そもそもラプス自体が意味なく、遠慮すべきでも無い存在に無意味に拘りて



           
 





 

ファインマンは経路に心理を与えなかったようである点が冗談的な経路となったと想定できる.



           
 





 

どうやらあの時に次元は冗談だろう余りにも仮想過ぎると思ったのが失敗だったようである.ひもを無視はしていないのに…最近-年前-Nは遂にノーベル賞を獲得した…ランドールの余剰次元は無限を許容する?、ホール来るなだがポテンシャル の切断はわからない.


   
           
 





 

ファデエフ=ポポフのゴーストは心理実在とすると、記憶に残る処理困難な不快ほぼ全てに適用出来そうである.ファインマンは面白いけれど専門家では無いので遠慮してただ確実存在だけは納得の、これもまた散乱の困難さのあの頃故にだけれど.


   
           
 





 

推定するに太宰治という作家はその生活過程からはタナトス型と判断できる.この作家を好む存在はその傾向がある事になるが、そのような事は関係なくタナトス型のxxもまた存在しているものである.そのようなxx達は遭遇記憶で無謀発言や無責任な暴言を発しがちで、疲れるのでそれを自己に向ければとか思う



           
 





 

アナルコサンドとシモーヌ・ヴェイユを知った頃が同時で、シモーヌ・ヴィーユだったけれど.気にはなるけれど取り留めなく難しい判断を要求してくるシモーヌで、どうしたものかとグズグズしている間に時の流れが過ぎて、ある人物がシモーヌ論と講演などをしているのを知り、先走り感を感じたな.



           





 

目的保留をxx&xy達に暴露もしくは利用されて先走りとかのとにかく白けてやる気の妨げが多過ぎる記憶がある.またしつこく記憶に今も絡んで邪魔でしょうがない.なぜ意図目的の妨害をするのかわからないが、誹謗的な競争意識なのかな.こちらはそんなxx&xyなどどうでもいい存在と思うからその反動かな



           





 

シモーヌ関連から、運を天に任せるの言葉を思い出し、関係はこれだなと思う.何回チャレンジしたアイデアを出してもどうもしっくりいかないので、また何か考えてしまうかも知れないけれど.孤独になって自問しても矛盾不条理を解決したとは思えず、それでもなおな場合には放擲した他に依存を取ると判断し


   
           
 





 

怪物に見えた背後の黒い部位は、例によって明暗の陰陽性的か自己のそんな意識を当てはめさせた標榜を無理解で自己のものとするタイプであるはずのその後の多くある文言から、似ているところがあるとも言えるけれど、全くそんな事はあり得ないと思っていたので困る主体な発揮の妨害になって



           





 

エクソシストか、悪女の深情けを知らずに悪魔的にしつこいxxの自己無知者がいて、一般に悪魔ではないかではなく悪女の深情けだったや、悪魔的位相に関わり過ぎた感もある上に、相変わらず出現する束縛的者達がいて…およそそんな展開は陳腐で当たり前すぎるワンパターンの飽き飽きものなんだけれど


   
           
 





 

とにかく時代を越えたがるのが思想家哲学者の常なんだけれど、時代に即しているように思えるのはそのリアル志向故だろうけれど、見た目の剛体と気持ち悪さを数年前にそんな写真映像を見て思うことになった感性があって.あの頃は幻想で見て自己疎外強要的もあり、それに合わせて投射的な無駄を冗談にで



           
 





 

数年前にある人物が天皇制無化などの文言を使っている事を知り、そんな考えを考えたこともなく、それはまず過ぎる捩れが生じるダブバ的なものだけれど、英国労働党に王制無化思考があると知り、その人物は創案ではなく誰か何処かからの引用利用の天皇制無化に違いないとは思え過ぎるのでそうしておく



           





 

やはりストロミンガーのアノマリーが良さそうなガロアの隙間と場の複雑さ



           





 

標榜でタフなxxがいてその生理ポテンシャル を使わずに表層に見えた存在はバルク性の不動の域を持っている形と、ワールス力からあのインクの染みの広がり具合を気にした小学生の時からの物理吸着から転用して判断してそうであると説明できる.単に荷物的生理の薄汚き自己を無視するバルクの裏目より



           





 

悩まないように思える.それらの場的な複雑さを想像してしまった場合には生理有限で大変である.理性がそれに追いつかないとして、情けない・女みたいなものだと自省冗談を構築すると、たかだか単細胞が本気に取るから始末に悪い事態が成立する.冗談をまともに取るような存在は元が愚劣であるとしかなく


   
           
 





 

種の既約特性方程式を持っている方程式があるものとしてのKなのでそれでイライラするわけなんだな.有限確定前提だったかはそれもありで、ここで中間存在が傲慢にしかしuxuz=ΣFuyの=が分からず、この場合種想定はYになっているが、変数無限数許容はとりあえず別にして-こっちのほうが関心を引くか…


   
           
 





 

ところがそこにその辺の思考にオブジェなどくだらないとしているある作家を入れてしまいそれもまた不都合な自家撞着的位相の構築でまた悩むと、なんらかの嫌いな他者が思考不都合を齎したか、何故か意図に反するほどにその存在にコンタクト取りすぎの結果自己投射性を当てはめた感があるとすれば良いか


   
           
 





 

縄文の遺伝子がアイヌと琉球人に多いのに火焔土器とか聞かないのはミトコンドリアが関与しているのではないかと思いついて見ると、本州に少ないMaが北海道と沖縄に多いとある、その理由は謎らしいけれどその辺に関係ありそうだ.琉球人が中国朝鮮に無いD型を持っている事は日本人である証拠ではあるが



           





 

昔のある冬の時期に自負心がよろめいてくだらない古い思考の人々に対して持ち上げて古典的存在とした古典とする時間と空間の表現をしたことがあり、結果の反動は自己卑下的な悩みを齎したのだけれど、昨日にオンオンシェルの言葉を知り、何も古典持ち上げなんぞをする事もなかったなとα位相を知らずで



           
 





 

叙事的存在もまた明晰思考であり、素直にA期的立場となって、感情に関しては暴言反応か間に合わない故の詭弁を用いる事になる.陰険な叙事的存在がなんらかの企画を思考するとまず陰謀になると文字通りの馬鹿さ加減の侵害者に取り憑かれてつまらなくてしようがない底の浅さ白けた感情の陰謀的な誤魔化し



           
 





 

社会的ケースに対してそれぞれはあるけれど、積極的時間は消極的時間には苦痛になる.逆もあるか、しかし細切れ時間をいくら重ねても生理有効時間に無限数には届かない事は明瞭なので、疲れるタイプと言えばそうである短絡タイプ



           





 

ギンツブルグの写真の第印象は埴谷雄高に似ているなでドキッと?した.超伝導の相転移は既にのランダウだったのか.有効場を消極的な感じで伸ばすとなの逸らしを入れて…対称性の破れはポテンシャル の切断的かなと…しかしどうも不思議な気分だがインスタントンとホールがさっぱりわからない浮揚的…



           





 

中途半端じゃ無いんかと言ったxxがいて非常になぜかシコリになるという事は癌的にしつこい存在でとあるか.しかし叙事的に底が浅くこのような存在の存在理由の底有限性がわからぬのだが、単純にバカな存在と言えるのかな?.でダブルバインドはその志向性が生かさず殺さずになり中間存在の自然性と気づき


   
           
 





 

誠に始末に悪い数多き存在数になる.ダブバが自然に中間存在とは気づかずの発想の転換だったけれと、非常識や理不尽を行使してくる存在は共時は普通に通時も中間存在と認定しなければならなくなる無意識のダブバ能力を持っている事となる.その自然の自覚は他者を必要とする他力性ならば悪人的な事に



           
 





 

最近は解説のつもりのストリップショーにも飽きてきて省略なんぞをして文章を不分明にしようかなとそれをしつつあるな.別に底浅のサンマやアジの開きの平板にする事もない次元存在なので、立体は極普通なんだけれど-なんだか無意識に秘匿思考をしている事に気がついた事もある、それは思い通りだが…



           





 

なんだか当の自我成り代わり的なりすまし的存在は自己無自覚的な悪人なので他者の自我様相であることにも気がつかないという、まさに他人の思考を自分が考えたものと思い込む存在者達となる.その中でも超自我なのに他者存在と誤認する蒸し返し存在の馬鹿さ加減には名状しがたい不快の蒸し返しでもある



           
 





 

取り敢えず自我は傍に置いたつもりで、超自我でxx&xyに接して見ると、いつの間にかそのどこかに置いた自我は当人のじがなのであるが、そのxw&xyが自我になっているという経験があり、それを非常に不快に思っている.傍に置いただけで他人に与えるなどと全く論外心外なので、自同律のダブバ不快は当然で


   
           
 





 

昔残った形として市民が希望であるとおもむろに浮かべた事がある遠く山並みを見ながら、まあもっと平野しかない存在が遠い山並みほどではないと思ったようだったけれど、そのときに暗黒部位もまた付随させて浮かべ、これは太極陰陽形式の明暗的なのだけれど、何故暗黒部が付随するのか理由が不明だった



           





 

無依存を考えた.社会的には無依存は考えられないけれど、かって無依存思考・思想は無かったようなで思い出すのは、色即是空空即是色の空すら無い体系の事で、空すら無いとすると太虚すら無いと言えるのかな?.空すら無ければ自由ではあると思うけれどその為に起承転滅サイクルや億年後に現れるとか


   
           
 





 

降鎖列が無限に続いても結局は無限にそれも行き着くので無限大+無限大は無限大と同じ理屈が成立する.無限小に関しても無限小+無限小は無限小の理屈である.無限小を設定したのかなある数学者が無限設定をその宇宙としたけれど、そのように考えるのは至って常識でその個人の宇宙と名がつくものではない.



           

いなっち


@inamura_politic
 

ing to @YahooNewTopic @y_namiuKe
どうせなら都立東京大学の方がわかりやすいかと



           





 

ブラックホールとQCDのアナロジーは?



           





 

位置エネルギーの落差、水は高いところから低い所へ流れるのは川流れ川流れといっても確かなのである.高位置エネルギーが低位置エネルギーとの間に平衡関係位相・志向が生じると不公平感が高位置には生じるので、その為の抵抗行為を生じるケースはある現実.低位置は高位置を低下させようとまた志向する



           





 

どうも相転移的かなの飛躍に思える式の流れが理解できない.やはり新機軸の為にはかっての過去の事象全てをマスターするのはセオリーだな.『未分化』の状態から発露する思考内容は新機軸であるはずと設定はしているが、歴史の圧力は強いものがある.


   
           
 





 

川流れ川流れを続けるつもりなくつい続けて、川流れの後に行く川の流れは絶えずしてを繋げようとした展開が出来ずだった先程、その後には月日は百代の過客にしてと川の水と時の存在者達を同相認識に繋がるあらぬ趣旨方向がジョイスを思い出させてそこで止めての意識解説なんぞを後付け的にしてみる



           





 

歴史の圧力・ペレルマンは自覚したようでそうすると偉いかとになるが、アインシュタインは自覚したかどうかは今の所の知見では疑問だな.まあ賢明な人々なのだからその辺は了解済みの例えばフィルーズ賞獲得者達とも思えるけれど、その反面そんな事は気にせずに研究に没頭して貰いたいの面もあるな



           





 

デカルトの渦動説は知らなかったけれど、ダークマター・エネルギーをどう捉えるかの点はある.まさかのエーテルはないだろうとは思っていた時には、ダークマターは知らなかったな



           





 

台風一過相転移的に晴れた.あの池のそばで黒い始祖鳥や方解石の劈開を不思議に思った頃の小学生、今ではダイヤモンドも劈開的現象を有していると漫画から、また始祖鳥は黒色ではなさそうなんだなと知識が.相転移のメカニズムはヘリウム凝縮にあるとはどこか思考分離感があるけれど、相転移自体は分離的



           





 

冗談をまともに取る存在者の根拠はその根拠自体が冗談であるとすると理屈が通る気がする.しかし意図に反して現実社会もそうだあるので、現実も冗談になってしまう同様思考が成立するので少し考慮が必要と思うけれど、経験上明らかな事多くて…



           





 

指示的存在が叙事的存在に見たがると対象は無機的ロボット的に映るだろう.最もそのように見ている存在自体がロボット無機的なのだが、自身の無機的ロボット的認知能力は感知できないようである.精密さはあるけれど往々にして思考回路は単純なので複雑さが増すとその抵抗感から単純判断化してしまうと


   
           
 





 

まあだいたいそのような反応は暴力や暴言反応現象的となるかな.心理的には理不尽や非常識や無責任的所為になるな



           
 





 

フェルミオン人間が同じではと述べた時は交換反交換ではなく、電子と陽電子の-+を前提にしていた感がある.別に陽電子ではないのだが.全く無茶苦茶な無理強いをした傲慢支配欲がいたものだ.その単純さ?のしつこさにより思考レベルが下がっているシステム依存者がいたな.システム依存といえばあるxxもだ



           





 

TLPの原子命題はプランク命題ならと思いついてヴィトゲンシユタインにまた騒がないとの時間になってしまう…ペンローズのバーコレーションも



           





 

世界に希薄の無責任は未来責任に依存する未責任とでもいえるかな


   
           
 





 

逆立する自己・対・共同幻想の鼎は個体が行うのでグレードは極当たり前にあるだろう.自己と共同が例えば相転移的な切り替えばかり行うなどは生理的に不可能であるから.教条的に共同に集中して家庭を顧みない状況はよくある話だが



           





 

強靭離散の時間一定はヘビサイドを思い出し、ワンパターンもそうで、ランプ関数の導関数はヘビサイドに等しいには参る.どうりでしつこいワンパターンが存在するわけだ.しかしふと考えるとこの図式はランプ発展的時間に秩序が付随する事の関係証左にもなると直感する…ヘビサイドxx質にも理性悟性差が…



           





 

ヘーゲルの理性と悟性の違いは存在する.その実例例の記憶が悩ましている経験がある.平等とは生きている間は全ての人間は生きている事に関して平等であるが、時間差はまず異なり、時間が同じでも生理物理差異はあるので、大雑把な平等で普通に見た目の違いなど無いものとする一個の無機存在対象では不快


   
           
 





 

Kにポテンシャルが出てきているとなると、P切断H減少縮小はどうなのかなとはなるが、図は描けないがこれもなんでもない事に気がつかないだけになりそうな、ニュアンスはそうではなさそうだけれど、しかしKのcohaからは…



           





 

なんの事はないY/W*既約方程式はX*既約方程式とほぼ同じでXの位置をフラットで考えていて全く頭動かずだけだった.さてとなると週の特性方程式を待つなんらかの方程式をポテンシャルとした形だからこの切断は?.あの頃なんだかごく自然に考え思いついた種の既約方程式考を類似形として使って見る…



           





 

脊髄反射に暴力性を覚えるので要注意感はある.ロボット的な発言は脊髄反射化か訓練無意識を反射的習慣にしたのか分からないけれど、ある煩く煩わしく思考の妨害事象があってやや不味い.数多き見た目分からない存在はどうやら脊髄反射得意と判断して良さそうの見解に至る煩き反応から描いて保留とする



           





 

おかげで黄疸の英語jaundiceを覚えることになった確かに黄色人種を短絡的に見ると黄疸的認識をしそうだ.ある時の入院中にある黄疸患者と同部屋で苦痛を覚えた事がトラウマになに、その年後にその苦痛を咄嗟に思い出す事態に遭遇する事になるとは、しかもそれが結構今に至りて寄与しているという心理



           





 

暗号ではないけれど意図的にそのように秘匿にしたものがあり、どうも所詮無くなったものは無かったものと同じの世間認識のようで失敗したかなのまさに無知によるそうする要因ともなったあるxxに描いた春の日の情景があるな.まあ他者xx&xyの他害的面もあるかなの頭混乱の日々よ



           
 





 

フリーライダーがシミユラークラーとして自我位相を不自然に変更したがるのは、既にそのフリーライダーの自我は駄目になっているはずの悪あがきかごまかしか背伸びがデタラメか執念などか若しくは全くの自己無知であるかである.



           





 

駆け込み訴えという作品は憎悪の作品に見えてきてならば不毛であることになるので、なぜこの作品が評価されるのかわからない.リアリズム教条からの作品だと思うけれど、キリストにどうしても接近してもなれないユダの絶望感物語で引き摺り下ろしの多数性故かな.ユダはキリストになれない事が厳然なら


   
           
 





 

ユダのエゴは屈辱故にヤケクソになるところまでで、ユダが崖からとびおりたとか首吊りをしたとかまで描かない自己都合のいいところまでの中途半端さは無いか?.だからエゴイストに見える作者はそれのカバーでジャンキーや精神病院入院などはポーズの可能性の要素はあると同時に駄目だからの言いわけも



           
 





 

思考を商売にしている人がユダ的なのはどうかなとは思う.ユダは生理物理体としての生き方を尊重するはずで、まあ作家が作品を描くのには頭脳労働としてかなりきついものがあるのも確かではあるが.


   
           
 





 

まあある作家の何をやっても-省略を含んだやや無謀な発言かな-駄目だから作家になったんだに対して、ある存在が駄目だから作家になれるに対して何もやってはいないでは無いかは経験主義の教条感あるかも



           
 





 

どうにもシユーアやマシュケから繋がらない.クィーバーからディンキンはなんとかだけれど、つまりネットワーク結合ができない成立しないのは理解できていない事である.それにしてラムダ....なら旗でフーリエだけれど、とにかく不思議でもないかネット結合出来ず、あの頃の特性方程式か浮かんできて



           





 

神の口から出る言葉によって生きる生き方はあるのでは無いか、ただしカサノヴァ的存在には理解は困難だろうけれど.映画にはよくあるな、欲望は理性に昇華できると昔に考えていたけれどもう忘れた・忘れるわけには行かないけれど…その辺の事は殆ど忘れて葛飾北斎のように生きる必要もないのだけれど


   
           
 





 

CYのサイズは^(-)cmでこれが次元とな.あの頃そんなサイズとは全く思わずただ見えないほどに小さいだけとたかだか思っていた.そんなに小さいとはこれは少し頭動きそうな感じがある.プランク定数やひもとほぼ同じなのか.理論宇宙論もかなり確信的な核心的なF小説類に見えない事も無い



           





 

エキビロティック宇宙論-ヴェネツィアーノのそれは構想だけなら楽なものだけれどもである.いつ頃考え出したのかなヴェネツィアーノは少なくとも弦論より後にはなるが、



           





 

単なる自己嫌悪で他者になりたがるのかも、その場合他者にその自己嫌悪の形容しがたい不味いものを押し付ける可能性が高いのでそんなもの誰でも要らぬすぎるあ押し付け可能性だろうに、それを考えることができないまた自己嫌悪者もいるというわけで



           
 





 

あの時考えた特性方程式個を含んだ方程式fはひとつと思っていたけれど個ある形をとる事も可能だな、内含に端的にこだわって頭動かず…?である.ひとつの方程式拘りからストロミンガーなんだけれど…しかしabadの種類のa*Xaがfになる理屈はどこか何か考え違いをしている為に不明なのかな


   
           
 





 

アンペールから漸近的対称空間の無限遠境界の放物や双極とかで、紀伊国屋での無限遠境界は分からず複雑でもあると思っているので、内面の声の明確にしろの無茶な声は不快はやはりまだ正解になるかな.あの陳腐陰険なフェルミ男の邪魔な割り込み妨害の権力的な強要性の傲慢エゴ的な俗物の明晰化暴力か



           
 





 

悪女の深情けは実際には情けなど無くスッポンの雌のような意味合いでは?.大体悪女は不細工的存在イメージでストーカー的なしつこさを待つ美的センスない存在であるかな.A期的なG期に足りない権力志向存在もその支配欲によりしつこい束縛をしたがるが、陶冶でA→Gを自己に課す事が正解なはずである



           





 

事大主義があるので被事大位相者が傲慢を行うのか事大の為に被事大を行うのか.例えばある番組からT大生' T大のブランドか個人なのか分からない'に対して T大故に傲慢なのかそれとも個人の性格かのケースで、まあそれぞれ両方を兼ねてだろうな.



           





 

阿弥陀ではないとして、神は悪人を救う?.善人も神に依存すると往生する?



           





 

自然数は減算に関して閉じていない-の自明の理にはハッとした.オイラー数に奇数が無いと来ると妙味だけれど+-交互では整数になる…ある視点からは半順序要素として見れるようにある対象に落とし込んで見てしまう.



           





 

なるほど次元と次元の関係が非可換ならば存在可能性は次元+次元とかであり思考可能性はある.との抜本的と思える差異の肯定はあの頃当然認定はしていたけれど、断絶感でお手上げだった.hall代数とか最近見かけた手段に可能性があるらしい


   
           
 





 

あの頃と今頃ではラプスの時間差があり、今頃そうでは何ら意味が現実時間に沿っているだけで無い形を持つ、これもあるxxに期待外れの無駄をした結果だけれどそれがナンセンスである事にも漸く最近気がついて無駄をしたものだと思っていて出来るだけ埋めようと意図だけれど、覆水は返らないからな…



           
 





 

再帰あの時の再帰でイライラしたのは無限ループかなで、南北回帰線は志向が異なり、原始帰納関数からチューリング問題対象とすべきだったのに…確かパンチ穴は中学生の時に・ではなく何処かでダブった記憶かも.しかし例えばは小学生の時に浮かべて、こんなのやっていられないと思ったので



           





 

世には無知ハラスメント・無知ハラがある・・



           
 





 

良寛の他者による余計な示唆で悩むこたしきり、その示唆当人が良寛をやればいいではないか何だけれど、自己投射をした啓蒙意識の権威プライドも始末に悪いが、個人的な理由からダブルバインド要請と気がつく、それと論理的な自同律無視のミスと依存形式要請の自由の邪魔でしかなく、今は対峙もできず


   
           
 





 

内心の自由を味わっていると必ず他者が侵害して来る.内心の自由なので表層または皮相に表出するものではないのだけれど、何を認知して調子付くのか分からないけれど?迷惑でしかない邪魔者となる.自己のみで味わわないと意味の無いのに、蹂躙的なので蹂躙し返さないとまず面白くない事は確かである経験


   
           
 





 

まあ時の流れの中で霧散の失念がいいのだけれど、いわゆる時が解決するというやつ.しかし時過ぎてもなかなか記憶から去らないしつこい束縛者たちがいてままならないものも多い.また時が解決してもその時間自体は即解決に比べれば余計なものでもある.なるべく早く消去したいけれどなかなか難しくて



           
 





 

生理的存在は直接ゆえに心理の間接の邪魔をするや物理的存在が直接を行使するケースありで、生理と物理の直接性がぶつかると相克が起こることが予測される.こんな事をいちいち考える必要無いのに、全く心理意図と違って相変わらず心理阻害の憂き目に遭いすぎる事多くてしょうがない.間接無視の逆直接性



           





 

新穂高は高山市で高山は飛騨高山といい飛騨地方なんだ.ある捨てた写真にほろ苦き日の高山朝市の思い出がある.白川郷は高山から離れていて白川郷自体何にも考えなかった日、行き帰りのコースを全くおぼえていないのは何故かな?



           





 

理不尽非常識な逆で主体阻害&疎外化要請はいらぬ無駄で必要なく、模倣逆をした存在達はまさかその存在達の発言が意味ないものとは全く思わずの無知達の無意味作用のままにうぬぼれて生きたまたは生きているようで、それらを尊重するというふざけ過ぎの自虐に後悔をしているの今


   
           
 





 

個人的に少しは気になるもしの展開想定があり、波及効果がそのように現れたのかと.どうなるのかなとは関心していた.Poを読んで、ロシア接近はないのではないかと思うのだけれど.どこでどのように転ぶかわからないけれど、経済波及には全くの音痴だったな.



           





 

ふと思い出して昔懐かしい?年度の奥秩父の笠取から雁峠ルート映像分ものを見ていた.広葉樹が伸びてやや様変わりだけれど草原の花々は咲きそうな様子…後輩の形のあるxyがxxと人して住んでいるとはつゆ知らずの部屋に行ってまずかった記憶が繋がる廃墟の山荘な、その時にも既に西鹿児島のxxが


   
           
 





 

唐松尾山の尾根ルートを通ってしまったxx人連れや峠に行きたいなどと語ったらしいxxに妥協出来ずの非常識態度もしくは左側通行制度をようやくにしてなんとかと--奥秩父にも行く気しない現在、奥武蔵もやや遠くの気分の平地時間が長いなの想い



           
 





 

全く不都合がどうしても出現してくる完璧でなくても満足感でさえ満たされぬ若き日々


   
           
 





 

西鹿児島のxxは春の一様関数の女性だったのに会った時には全く気がつかず、その他のxx達にも気がつかなかったのは何故なのか、なぜ馬鹿げた方向へなのか、何が壁だったのか理由がわからぬまま時過ぎて、現実を認めず意図通りになっているはずのない現実のはずの想いと、逆者達の人格の悪さが邪魔したか



           
 





 

ここ両日考えているスピノザの神の決定論なんだけれど-汎神論から仏革命から第・次世界大戦も神の決定に従ったことになり、逆らえない運命で必然的であった事になる見方をすると、戦争も人口調節作用となる…



           
 





 

全く不健全な人が邪魔ばかりする、それもとんでもない妨害を.なぜなのかどうにもよくわからない、親鸞的悪人で無自覚がないとしても変で、なぜ成り代わり的な事をするのかそうして別人を要求する形をとるのか不可思議でわけわからない.ただただ不快で修正しないと、自己無知を他人に投射している?



           





 

IQに対してEQだけれど最近はEQの文字を見かけない.ロールシャッハからはやはり心理学は自由の束縛を行使してくるという思いをまたまたして、昔の想いが復活して来た…自己分析を他者判断に委ねるや歪められるのは特に嫌いで、不利有利に関わらず自己の事なら肯定するけれど、他者と同一視者が多過ぎ



           
 





 

でリーマン時空の重力レンズでアインシュタインリングに関心で、楕円曲線に半順序を見た時や射影直線と剰余mod性とかと似ているような形とは思っている



           
 





 

ミンコフスキー時空とリーマン時空ではたと思い、ミンコフスキーの世界線までしかあの頃考えていなかったと思い出す.次元は知っていたので量子側で超弦はずっとなんだけれど、むしろ超弦は潜在化に通底させている現実のものとしているのは事実.ただ今チェックで理解困難とは少しまずいなである


   
           
 





 

余白な、リーウェイを他者は埋めるのを面白がる経験多数あり.縦構造が支配力を発揮しようとする時はほぼ常に余白を無くそうとするものである.故に人は集団体制に同調したがる存在が多いのも現実である.支配側に回って依存して自己存在を保つとか、最もそれが先天的タイプもいるが、夫婦生活はまずいと



           





 

イット革命とは何?と見るとIT革命の事だとあり、ウィットセンスは悪くないけれど公式センスはどうかなと知る.IT革命な、遠慮した個人的に種ものがあって復旧出来ず遅れを取っている間を持っている.なぜか治らないのは視点がどこか違うかも



           





 

強靭なワンパターンだけれど後から見れば一点集約の射影点的存在でmodはその当人となり、横から見ると一定の離散点をつなげた等高的な直線で、そういえば射影直線ではなく曲動は行うものだったで楕円曲線を描いたのかな、これも無限遠で消失としたディリクレ-グリーンとしたか思考の暇がなかったかで


   
           
 





 

ともかく直線にせよ曲線にせよ一定ワンパターンは前後左右上下のダイナミックな緩やかさでもいいけれど自由な次元さがないので、複雑系対処はできかねるのではないか



           
 





 

心理的に、反対称者はその存在理由から対称できそうだけれど、対称者が反対称を行う事はできそうにないな.そう考えると取り込みを行うのは反対称者でその取り込みの対称者に反対称を強要するのは反対称者にとっては自然なのか?.この辺の件が不快で自己を取り戻そうとしているのだけれど…


   
           
 





 

なんだか出てくる存在の中で次々に初対面でも逆に要望していない反主体位相を要求してくる誤解存在が多いようなおかしな感じである.個々人を区別して接していて、その人物に対処した事はその人物以外の他者達には無関与としているつもりなんだけれど



           
 





 

叙事的はA期の権力志向を鑑みると傲慢で残酷さを有するが、叙事的と帰納的は定性的で似ているイメージがある.ソシュール的に質的通時のまたイメージがあり、質的は一般に質的でありその質性から有限を想起させて、積極的作用からスピーディであるがその反面忙しく余裕がないという面を見る


   
           
 





 

質量があって量かつ質的存在が人間だけれど、質的優位の量という判断可能存在た量的優位質存在もいたりする.例えば質的優位量がワンパターンだと硬直まで行かなくても直ぐに飽きてうんざりする反面戒律の教条的にワンパターンを解釈できて色々と煩わしきこの上ない.秩序の持続継続性と変化は相克する…



           
 





 

つまり恣意性無しのためにルールを決めるだけれど、そのルールの決め方に恣意性がある場合とそのルールを恣意的に解釈する場合も往々にして歴史上あるのだけれど.恣意性はホッブスの万人の闘争を避けるためにルールを設定する的な秩序感から来ていると思うけれど.無秩序では乱れしかないとして


   
           
 





 

ところが多様性は無秩序傾向を示していて複雑的様相で一様に慣れているしがみついている形だと無秩序のまま秩序的判断はできず、無秩序を排除して秩序的にしようとするだろうけれど、複雑系や宇宙は無秩序のまま秩序的なので、宇宙は一つの抜本的視点では星々のランダムが見えず重力結節接続で見る事に



           
 





 

そのように考えると国家なく経済無き社会はプロレタリアのみならば阿弥陀に依存すれば出来ないことはない理屈を想起して見るけれど、阿弥陀自体宗教的で科学的ではなく、どこか破綻しているようで、故に国家なく経済無き社会のその先を述べる頭が無かったと言えそうなんだけれど、かといってはある…



           
 





 

国家なく経済無き社会は万人の闘争的に思えるけれどそうでないケースとしては、無自覚者がゼロで自覚者ばかりかとは言っても親鸞的には自覚者も中途半端に過ぎないから、全て悟った人間ばかりか聖人のみの社会としか考えられず、プロレタリア人間がどのように悟るのかわからない.


   
           
 





 

トロピカルチャージではなくトポロジカルチャージQのb-YM方程式解を一意に分類するとあり、その解をインスタントンと称する?、どうもはっきりしないな…マルチやアンチインスタントンがあるのか


   
           
 





 

D&-W量が等価というのはわからないけれど、そもそもモノポール存在が曖昧なのでその線上の等価性関しては、やはりどうにも曖昧感を覚えてしまう感じである.となると読むのに躊躇したディラック本はどうなるかと思うけれど、確かに見た目でディラックの業績は頷けはするけれど.


   
           
 





 

ホッブスは人は生れながらにして平等でありそれ故に闘争が成立すると反発心からだったんだ.しかしタナトスの恐怖から知恵として、共存平和のために理性的に考えて守った方がいいとしか思えないルールを自然法と呼ぶとは英国式が明らかに.


   
             
 





 

ロックのルールは神が与えたものとしていて、人の自然権は抵抗権-革命権等-を持っているとは…神が与えたルールなら抵抗権に対する思想責任は回避できると解釈できるな.その点から神の僕としてユートピアを思いつき、宗教はユートピアをその信仰者に与えると思いつく.なるほど宗教一般の創始者はそうか



           
 





 

コントが神学的段階では社会は軍事的段階にあるとは当たっているかな…実証で悩んだ小学生の時を思い出すコント、無神論的現実一般を実証的と考えていたようなコントと推定できるけれど、あの頃実証は定性的でそれ以上向こうへ行けず質的壁かな不自由感で苛立ち実証などどうでもいいとした記憶がある


   
           
 





 

未だにそれは健在で叙事的文はまさにそのようであり、あるxxに対して底が浅いというか鉄の壁のようにそこに実際している反芻認識はその生理体が実証的存在と気がついた.たかだか実証体の有実在は無にならず不自由な拘束束縛を齎すものだ.科学の帰納もイメージは実証に繋がるけれど



           
 





 

メンデルスゾーンの夏の夜の夢はシェークスピアの戯曲が元なんだ.中学生の時に夏の魘されるような暑さの中で真夏の夜の夢を浮かべたので、夏ではなく真夏になる.やはり蒸し暑さにまさに暑さの感触からネルヴァル的を浮かべたはずだけれど、後年にその存在を知って結びつけたのだったかな…



           





 

実証的かなと例のxxには肉感が妖気的で今一歩理性的ではなくただスタミナがありそのままの人生なんだが、妖気肉感は気持ち悪い.気持ち悪いといえばある叙事的でxxがいて、どちらかというと邪悪的位相での気持ち悪さか、前提として気持ち悪い存在はいない筈なのにその領域者達をTVで見てそうでもなく…


   
           
 





 

見た目はそんな印象を受けないこともないけれど、話はそうでもなかったかな.ともかくxx達の見た目肉感が気持ち悪いのがいて避けたいのに逆に接近してくるという反意図で先進みの妨害で寧ろ過去へ向かわせるという不快さがあり、見た目気持ち悪いのは脳内力的に弱く性的人間かなと.後悟性xxも陳腐だな



           
 





 

摂動と非摂動は粒子または理論対象差異で截然としているのでは無く、バッグ模型で内外の存在仮定があるとは、まあそれもありうるけれど別物と漠然と思ったのは埃舞う道で、摂動意図は即刻了解できたあの頃ゆえなんだけれど.所謂摂動の成立は完備でD境界対象以外である場合だった.確かにそれも部分で



           





 

ところがそんな邪魔をするのは狭小自己エゴイズム保存の為なので、責任とかに手が回らない無自覚の往生際の悪さがあり辟易するな.だいたい感性美意識はまず悪いそんな存在.



           
 





 

不快な記憶はその不快者達に利用された形で、利用したがったのか.とにかくそんな連中は自由の邪魔で、束縛したがりなお今でも狭小精神が抑圧をかけて来るそのナンセンス存在理由者が不快でしようがない.xx&xyに限らず自由の邪魔をして来る存在には責任意識をたっぷり持って貰わないとなんだけれど


   
           
 





 

金峰山-廻り目平から歩いて山荘で何か話をしてその後何処へ?、月の休みにコブシ小屋に朝時ごろついて勝手にストーブで暖をとってその後何処へ行ったか忘れ雁坂へ行ったのは間違いないけれど、懐かしくはない昔の思い出が.度目はフリクラ連中を見ながら金峰経由で瑞牆山荘泊まり瑞牆山か…



           





 

親鸞は叙事的存在を悪人、叙情的存在を善人と潜在的?に思った節を見る.因みにある人物の言葉を借りれば、叙事的存在はもっぱら指示表出的存在で、叙情的存在はもっぱら自己表出的存在となる



           





 

なんだか急にカチカチ山のTLで、小学生の頃にたぬきが出てきて背中に火をつける話しか知っていなかった.背中に火をつけるのはうさぎで、しかもばばあ汁とは残酷な話で、たぬきの化かし話などくだらないと思い今読まなくて良かったと思っている.最も童話に接した記憶は殆ど無くけれど


   
           
 





 

銀河鉄道の夜はついていけないや風の又三郎は教科書にあったのかな知っているけれど、なんなこっちゃである.だだし春の修羅とかなんとかは理解しかねる難しさを想起した小学生時の記憶があるけれど、なんだか宮沢賢治ばかりではないか.他にはと思っても浮かばない…



           
 





 

ハウスホルダー変換で鏡映とは思わない人々の模倣無自覚認識の不快なトートロジーもまた元に戻るは汎関数のノルム化的と同様な所為だけれど時間介在や空間介在位相によりずれが幾らか生じるか.つまりは意味なき無駄に過ぎないのだけれど無自覚は一方的に自己思考と確信しているようなのが始末に悪い



           





 

親鸞が聖人だったかどうかはわからないが、親鸞ただ人は違うと思われる.要するに面倒だから個々人は責任一切を阿弥陀に転化して良いという表現になる善人往生と悪人をやの意味合い.無自覚の悪人の方が相転移的に阿弥陀押し付けをしやすいと述べているのであって善人は自己判断で時間をかけやすいとか


   
           
 





 

ところが阿弥陀なるものは何?と言えば単なる仮想としかで、西方浄土もどこにそんなものがあると思えばありはしない、ただ人間精神がそのように意図できるという才能を持っている事である.つまり他力で憑き物が取れた形でもそれはその個人の能力による



           
 





 

経験上叙事的xx&xy存在の無責任パワハラ性は無自覚な悪人的で叙情者の善意は自覚的-確かに悟りまでは到達しているたは思えないが持っているとは思う-と思っていて、倫理的に叙事な次段階が叙情とも思っているので


   
           
 





 

叙事的存在の善意は小説蜘蛛の糸の蜘蛛のような感じで、叙事→叙情なら叙情は叙事をその内部に部分的に含んでいて、その内部の叙事の善意は蜘蛛の糸要素ありで、無責任なパワハラ性をそれが全ての存在より弱く有しているという分析をして見る



           
 





 

クールというよりスタイリッシュなファインマンを想定できる.まあ格子では当然無理だけれど、フェルミオンから格子を出して来たとも思える.で点関数の場合のnをにした時をnの変形とするとマイナンバーのとのマイデザイン図に応用できる形式図類似を見る.ゲージ場なのかよ…確かにイメージそうだが


   
           
 





 

物理的な客観世界ではなく心理のパスカル的理性と想像の想像場的な心理としてのゲージ場的であくまでも主観作用としてだけれど.ゲージ場は場で暗黒イメージで想像場想像域も暗黒場なんだけれど、マイナンバーの&&その他多くははホワイトホール側的な明るいものとしている



           
 





 

叙情は消極傾向に叙事は積極的傾向で、どうしても叙事的は非情さがあり倫理的には程度が劣るとしか判断しようがない.その目的テーゼで正当化を図ることはよくあるが.叙事傾向者に自己弱さ点がある時、代理ミュンヒの逆を他者に与える叙情性面を個的に出す事は権力意識の裏面となる解釈をして見る.



           





 

各インスタントン数による次元配位の解をインスタントンとしているとしてもよくわからないけれどヴィラソロが出ていてL-m等の作用となると色々結びついてしまうな.イメージして当てはまるのではとしたインスタントンは当てはまらないこともなさそうだけれどよくわからない.周りに揺らぎはあるから…


   
           
 





 

構造自体から見ると文面で使ってしまったけれどエポケーは気持ち悪い.禅宗の公案やあるがままがエポケーと何にか関係ありそうなんだけれどうまく結びつかない.あるがままの方は現存在に持ってくればいいの日常感の現存在分析を浮かばせるプラグマティズム的哲学論を匂わせるけれども



           





 

しかし構造自体を見ていると他者から見ると植物状態的にも見えるかのようで違和感奇異な感じを受けるようであり、思い出して人で笑ってしまう.瞑想的に集中しているとボケーとしているや昼間に夢を見てあるかのように思われるのもやや似ているか



           
 





 

植物状態の人間の絶対所与性は内臓や脊髄的なものと考えられる-こんな事を思いつくと正規分布の棄却域や功利主義的な効用の存在と結びつけてしまうけれど-構造自体を見るはエポケーをマスターしていると思う、いわゆる雨は降っているが知らないであるが.


   
           
 





 

間主観性を一方化する意味なき存在は一方化の対象を諦めさせようとするゲーテの悪魔的存在かなと浮かぶ.本来は一方化存在がその行為を取る事によって諦めている形なんだけれど、この錯誤を大いに利用するタイプが存在する.間主観性は相互作用であるがこれが普通なのは融和中の家族及び男女人である



           





 

エントロピーが変化するのでの作用結果だけれど、含んでいる未知以外の追随が出来ていないという事で、読書百遍その義自ずからわかるなんだけれど、開いたかどうかではラプスの時間長すぎをやはり否めない.



           
 





 

ルソーの告白は歳過ぎまでの自伝と最近知ったけれど、あの中学生の頃冬の凍った庭の側面を見ながらその存在を浮かべて考えたのは、負の側面失敗を如何に告白できるかで、プラス側面のみの虚栄やカムフラージュと潤色などだけでは誠意無きエゴイズムに過ぎないので、なかなかであるが…



           





 

秩序だけの存在にとって自由とは無視秩序の秩序以前の混沌か秩序を乱すものとしか捉えられないだろう.秩序かつ自由な存在もいるのであるが.単に自己がダメになるという優越阻害故の反応または消極的自由を積極的自由が不快に思った反応とかの例を思い出して



           





 

ある長いネット画面を見ていて、関係の本質は法の支配である事に思いついた.まず未熟な認識視点モラルの欠如の独断カムフラージュ衒学的言語性を消去して見るとたかだかそうなると閃いた.確かに法の支配は成立していないと人々は述べる.そうなると思想ではなく方法論が至らないという形かな



           





 

まさかとは思うけれどあるxyが中途半端じゃないんかと同意的発言をしてきた、この人物は意図に反発反対の態度ばかり取るので中途半端では無いことになるけれど、意図的な中途を見て想定してそう述べた感もある.帰納の未決定を中途半端と表現したほどの知力はその時点ではなかった筈で帰納者だったか


   
           
 





 

まあ数学は得意と述べたxxも人のいい加減な表層意識流れの快感的なものに飛びついてそう述べたことは了解できるけれど、非線形や類体往生している現在を全く考慮できない知力と自己色気の無さを棚上げする無知かつ無恥存在であきれ返るxx自己無視性存在かつ性的人間の未発達傲慢者でその後は全く知らず



           
 





 

有限ワンパターンは不自由である、又は他者に強要を要求する.性的人間明瞭なワンパターンのエレガンスは矛盾的になる



           





 

他人の思考を自分の思考だと思う存在の自己とは何か、自己がないのでは無いか、そこに実在している生理体はあるが.まあその生理の質が汚く汚物的で耐え難い存在には意識わ働かすことはでき得ぬが、世には意識ばかりする存在意識しかしない存在もいる.


   
           
 





 

軽く意識しているとズボラなのか強意を要求するセンスない意識人間が驕慢うぬぼれを行う偽善センスの暴力性には閉口する障害邪魔迷惑な憑依的しつこい記憶がある.だいたい卑劣な心理表情を見せて



           
 





 

このxxには魅力がないから触り的にしてと意図すると、逆になってダメと言ってくる自己棚上げと魅力無い自己をがダメなのに認めずそれを投射してくるxxの不愉快さはあり得ないが現実にある.それほどの意図はなくだけれど一応気にして見てもやはり疲れるので気にしないとすると挫けとかのxxも実在する


   
           
 





 

全く主観を蔑ろにするxx多く懲り懲りする現実もあるので、ダメならダメを認識自覚して貰わないと不快でしょうがない.まあそこまで賢いxxで無いことは瞭然でそれで中途に避ける形なのに、傲慢を押し売りする性的人間であるxxも多いのに、何か例えばxy避難ばかりでは不公平で公平ではなかろう



           
 





 

hopfとhallだけれど、ガロアの隙間に関連しているようでもある.CYにmoduliを持ってくるのは致し方ない人の有性だけれど、それはそれとして意識的になんだつまらないと理解不分明ながら思う次第となって…



           





 

同一律に対して排中律を蹴飛ばしてその上に矛盾律無視を強要する存在こそがデタラメな存在なんだが…あるxx&xy達はかな同一律を侵害する事が当然自然だと思うらしく、不快な記憶を齎してしかも同一律を破っていることに死ぬまで気がつかない可能性大の存在がxyに限らずxxにも多く存在している



           





 

パーコレーション理論はブームを説明してフラクタル受容対象に相転移を与える現象と考えるけれど、対象はフラクタルのまま的に雰囲気だけは味わえるとも考えたりする.



           





 

他人の内部思考を自分のものとしてそなオリジナルに述べるという事態を認識している存在から見れば、そな自分のものとしている存在はたかだか間抜け存在で優越感を味あわせる存在だけれど、ダブりの反発トートロジーがあると、特に嫌悪な存在がそうすると愚かさばかり感じるより、しつこい不快しか無い



           





 

巨人の肩の上に立つとは、先人の業績を用いている意味か.知らなかったな他にもありそう…先人の業績をマスターして新たなる知見を加えるのもたやすいことではないけれど.マスターしなければならずがあるが『未分化のままに思考をすると新たな知見になる』の可能性も考えてある



           





 

グレードを持って高低や分離区別の判断で判断しているものがなぜか意図とは別に一様になる羽目になり、不都合すぎる事態になってしまう.



           





 

孫を溺愛する生きがいの祖父祖母は数多くいてそれでいいではないかサン=テグジュペリと言いたいけれど.また良寛には子供が孫がいなかったのではないか、そうだとすれば巷間伝え聞く子供たちとの遊びは代理規制的であると判断できる


   
           
 





 

嫌なxxには嫌なxyがくっついて結局ダブル嫌悪になる、またこの逆も成立し嫌なxyには嫌なxxが結びつく.最も自分から見て嫌な存在を好むのは嫌な存在なのが普通であるか



           





 

見えざる手は消極的自由の帰結にも見えるけれど、帰納が単なる通過帰結点としてしまう未決定意識も持つ傾向にある点もあるな.この場合は往々にして積極的自由が帰結点を齎すので、見えざる手まで行かずの混乱困惑を齎してしまう点に問題があるのではと考える.


   
           
 





 

多様を一様と見たがる存在達はギャップ経験が無いのだろうと、ソフィスト的な偽善平等意識か共同集団視点の責任量回避的存在とみる.多様を一様と見るのはおおいなる矛盾で、一様視点では個々人を無視している事になるが、生理の必須条件は一様でもある人間存在だけれど、それでは何ら変化は無い



           
 





 

個性があると言ったxxがいた.個人的には至って常識的だと思っていたのだけれど、そのxxは古個性か低次元個性を持っていて自己を個性の一様にみている無意識を持っていたのかも.この常識と古個性のギャップが激し過ぎてしつこい悩ましを行う存在と成り果てる.



           





 

その他大勢の圧力に対して自己を保つ意識感存在を気にするけれど、今直感で責任意識の保存がそれには必要かなと思った.出る杭を打つと安楽に時を過ごせるの自己責任意識の低い存在達は集団責任量に依存するので、烏合の集とかの言葉が発生したとか.まあ常識は至って普通の意味合いを持つけれど…



           





 

新制度の具象は緩和して行動は至らずと直感したけれど、ではあの時の有効需要では何かが足りないとしたのは、行動や実験が対処するかなより、複雑系そのもの志向だったと思う.のECIのは日本でがスイスとは意外



           
 





 

葉隠から武士道サムライ的?、何しろ二者択一なら不利益の方を選択するだから不利益は葉隠的ではないか.しかし意味がないが…とにかく要らざるものを押し付けられて困る.主観意図を他者が行使してしまうのはなんなんだ邪魔ばかりである.


   
           
 





 

どうも不利益ばかり被るな. 他者に有益を与えたところで何ら意味のない存在たちと思っていると他者達は逆に意味のない存在だと思ってくるこの不快さが嫌なのだけれど.とにかく快感の邪魔をする他人たちである.他人の粗探しを見つけて優越感を味わう存在は存在自体既に粗だろうにくらいに思っている


   
           
 





 

とにかく感じ悪い人が街中では多い.最も中間存在が多いはずでまず定言的心理ではだめな一生仮言的存在を中間存在としていて、そんな中間存在中途半端のアドバイスなど要らぬのだけれど、それらはうぬぼれしたいるのが背伸びしているのか自己誇張なのか所謂親鸞の悪人存在で一生無知な存在たちとなる


   
           
 





 

最も親鸞は悪人たちにも阿弥陀に依存しろと述べたわけだけれど、この悪人を犯罪者的に解釈する無知がまたいるのにも困る典型的なそれは親鸞の悪人になっているのに、死ぬまで無知だから理解できないの悪循環の繰り返しにはなる理屈存在には辟易するのが普通だろう



           
 





 

世界に影響を与えた書で知らないものが多いな当然読んではいない.アヴェスターは善悪元論で一神教とある.ここから親鸞の阿弥陀は善悪の彼岸である形の架空の象徴となる.親鸞の他力本願にはゾロアスター教の影響が強いというか、阿弥陀はゾロアスター教のアフラ・マズダーの模倣的なものでは?



           





 

善悪の彼岸や親鸞的には善悪の彼方に阿弥陀とかは弁証法的には善悪対立の止揚であるが、抜本的弁証法とでもいうべきものになる



           





 

取り込み現象を初めて知った.埴谷雄高の嘆きではなさそうな他人の思考を自分の思考だと思ってしまう存在の他人の無視なんだけれど、無視しているとも思わない間主観性の生業.この無視しているとも思わないという他人の事を考えないまたは考えることのできない存在がとにかく不快なのである



           





 

単純に円周上に指数べきの逆極限を並べて行っても円になるのは∞乗根なら埋め尽くすと考える考え方を直感している



           





 

優秀な専門家にさえ不分明なものを非専門家にわかるわけが無いと普通には言える.そんな位相性を持って書かれたものは専門知識が欠如していようと難しいものになるかな



           





 

どうやらガロアの隙間はガロアの逆問題とされているものとほぼ同じように思える.直感した時には難しさの苦痛感を覚えたけれど、例外?を除いて選択がはっきりしていないらしい.それなら難解さを思ったのもまあ頷けるという事になる.



           





 

他人の事ばかり考えるといっても、そな当人が不満を持って他人の事を考えるケースにおいて、他人の不満を考えずまた他人に不満不快を与えている事を考えない存在とはなんなんだ、そんなケースのxxがいたな.欲望型には美意識が欠けるのはカント的に正解で、また棚上げはエゴイストの証左であるかな


   
           
 





 

神輿は軽い方がいいというけれど叙事的で深情け的xxの大柄が上に行くと疲れてしょうがないというか馬鹿げてしょうがないのである.最も深さがないから煙りと同じかも.なれば愚劣感を覚えるだけで単なる荷物的でしかない事に.名状しがたい味わいはしたくないけれど、他者達は蒸し返して繰り返し的かな


   
           





 

一方的代替不可ならば縦構造システムのある内的位置の存在に個人性は有界に存在するか、それと中間存在は結びつくな.接触している外的位置者が不安を持った実存者や外的責任を持つ事をそのような立場者は孤独であると表現する事を見かけるな.境界位相にもなっている時ディリクレでは内的になる…


   
           
 





 

そうならばなんだかガロアの隙間に非可換幾何は似合うような気がする.そうだなこの辟易する難解さと思った昔に今のところ合いそうなのは非可換幾何論的なもので、モチーフはどうするのかこの非可換をとか考えてしまうが、よくわからない初期の手に負え無さと専門家依存意識感があって.超弦もあるのだが



           
 





 

どうもいろいろ連想接続から、'何をやってもダメだから作家に'のセリフ者が不快でしょうがないが一両日またしても浮かんで来ている.単なる何らかの言い訳のようだけれど-苦悩度経験体験の自信だったかな-何をやってもダメなうちに作家も入りまた心中も入るのでこの言い訳の中途半端さを如何とすべきか



           





 

中学生の時にある橋の上を歩きながら安寿と厨子王の話は厳しすぎると耐え難いと思ったこたがあり、その作家に意味なき心的投射わ何故が後年する羽目になったりしたが、何でもある状況の時にその人物は'馬鹿らしい'と言ったとか言わなかったとか、少なくとも煙り立ったのは確かそうなので


   
           
 





 

この人物の悟り至らずのそれこそ馬鹿らしさを他者に与える事の配慮なきエゴイズムを考えるか、多数の意味があるかも知らないけれど、少なくとも自己認識の愚かさは表現していると思われる.なお安寿と厨子王丸の説話があったと初に知り、それなら尚更不快が交響楽的でもなく重奏位か発生する



           
 





 

ニイチェの歴史観の超歴史は時間的には共時なんだけれど歴史事実を振り返って見た奢り悪乗り表現かなとも.最もマイシステムでも位相は異なる事にしてあるけれど



           





 

最後の本質を理解するはこれ以上の言葉はないかなと思うくらいの締めだった.そうなんだな何が対象でもいいけれどとにかく何が何でも第一に本質を把握する事であり、そうするとフッサールのエポケー何ぞは意味がない事になる.まあ間違って必要ないエポケー何ぞをした無駄経験あるけれど.


   
           
 





 

最近は昔ほど本質志向が強くなくなって惰性的面が強くはなっているけれど、昔はとにかく面倒なので諸々に対して本質ばかりターゲットしていた…



           
 





 

天上大風の文字はどう見ても下手にしか見えない.なんだか良寛が書いたからの神話に踊っていないかのネット論を見る.この文字を書いたからといって凧が上がるわけではないし、突風でも吹いてそれに乗ったか.風はシラミの文字に似ているなと思いつき、それから中気を連想してそのような存在が書いたか



           





 

あの馬鹿が唐突に良寛がどうのこうの言い出したから悪いのである.別に他者依存他力本願より自力的な人間に他者介在示唆を出したから良寛などどうでもいい邪魔に過ぎぬと思うわけである.やや中気的な心理者が書いた天上大風の文字ならまあ納得の認識である.ちなみに自力型は自己依存をする



           





 

底の浅い帰納人間が決定を強要してくる不快ケースによく遭遇する.ミスはそれら強制的人間達が悪いとか



           
 





 

中学生の頃にある山道の凍った感触の道で、それからを使う文章はどうもうまくないのではないか、なら接続詞ををどうするかとか考えたこたがあり、そこでそれからを浮かべて確か熊本の方が出てくるのではと思った道にはやはり続きがあった事を自覚する.牧場への道とは異なるけれど、その道の先を知らず


   
           
 





 

それからと行人は別部作なのか、同じと思っていた.彼岸過ぎまでが名作だって?、いつか読んで見るか.今まで読む気になれず演繹的に勘違いしていた主人公の違いの最近読んだ心の心理描写には感心した、よく書けたものだとまず論理破綻が無かった記憶がある.



           
 





 

それからの接続関係では小学生の時に繫辞を浮かべていた本居宣長の滑らかすぎるイメージの頃なのはすっかり忘れていたそれからの中学生の頃だった.熊本が出てくるのは草枕だったかな、草枕も最近読んで大袈裟な四字熟語には意味わからず閉口はする冒頭のシーンは有名だけれど.


   
           
 





 

漱石はなぜネチネチと三角関係的な内容のものが多いのか、内容を見れば博愛性ないことはないが、永遠コンプレックス者と思うゆえに確かに詩人ではなく小説家ではあるなになる根拠となる理由と見る



           
 





 

ジョセフ・バトラーなる存在を知らないけれど、あの店で神の代理人がさっぱりわからなかった恐らく塩野七生からだったろうの位相に、良心を神の代理人としていた人物がいたとは…その店の思い出はアカシヤの大連の内容は知らずのイメージだけの鮮烈な清々しさが印象にある.



           





 

阿難陀・アーナンダコーナンダソーナンダはあるな『あれかこれかそれか』で.仏教用語も面白く見ると面白いのが多そう.お釈迦の他にお陀仏もあったな、


   
           
 





 

真実は見方によるのはカント的にはそな対象は仮言的なものだはないか.しかし確かに宗教では戒律も違い内容も異なり宗教的に真実は異なるのかも知れずとその哲学者は考えを引き出したかも知れず



           





 

ある女子大生が唐突にその知らなかった名を出してきてその存在名だけでその女子大生に興味をなくした抵抗感を覚えた事がある.なお昨日の大風から虱の文字を浮かべたのもこの女子大生から知ったマルドロールの歌を思い出したので.マルドロールの歌と星の王子さまでは落差ある面持ちだけれど



           
 





 

神聖な叙事的存在もいると狂気というかクレイジーな衝動?衝撃発言をして人を停滞させる嫌なのもいる.束縛支配したがるのか夢を邪魔する妨害者なのかよく分からんが障害になる事は確かで、神聖でも倫理感の悪いのがいるな.まあ叙事的存在のxx&xyは倫理道徳感が悪く低く、それを自覚しないで横暴を行う



           





 

無縄自縛はシャレているな、自縄自縛と必然的自由は関わりがあるように思うけれど、傍目では自縄自縛の拷問さを覚える単調さと継続は力なりだけれどもともと中途で出来ている継続をしてもはある.ハイデッガー曰く現存在はほとんど中途半端に終わるとあるが、これは中間存在が多数である事を示している



           





 

ワイルでもコクセターでもいいのだけれどとかなんとか考えて腐りと拷問さと自縛の必然性の継続さのそれぞれの有限が解けないけれどどうやら右逆でその逆は成立しないの任意の右逆に対しての選択公理になんらかのというか理不尽な形で捉えられているか


   
           
 





 

バナッハ=タルスキーのパラドックスの質が違う二つの球が一つの質であるとしているようなもので、別に気にしなくてもなんだけれど何かと侵入の不快障害がありの展開があって、なんだこの粘着はというものがありえないのにあるとなる…この辺が他者達が逆を自然と思い込んで多数存在する関係性の所かな



           
 





 

他者に内的に邪魔だの所為や陶冶的で禁止所為を内的にすると性的な意識と他者達は取ってくる経験がある.論理的または形而上的な判断か間接作用を意図しているけれど、自己がそんな対象と思わない他者達でこれが自分は正しいと思っている他者達の反応なのかな、全くそれはナンセンスなのに悪貨は強くて



           





 

よく分からないが考えるに交替を取り入れないと成立しないだろう、元気疲労の交替ではなく上下の交替で、交替のダイナミックさはカオスに叶わないだろう.今の所正規分布+カオス系しかで、フラット感覚はその中にそこにいる幸福感安心感はあるだろうけれど、情勢の動きエントロピーが変化するので…



           
 





 

いわゆる他人の実質個人をターゲットにする現実主義というかリアル感を自己のリアルとしてしまうのが理不尽で、そうしてしまう当人の実質はなんなんだと、模倣意識模倣化でしかなくリアルの何があるのかとなる.他人の実質を見ると他人からも実質を見るので固有のスペクトルが必要になるのだが


   
           
 





 

なんだか圏論的図式で圏論など簡単だと思ったあの頃から今、面食らっている.等化子が異なるではなくて等化子が同じで余等化子が異なるとかなんとか…差核がないのにあるのは零対象と分離しているのに分離していないのではなくやはり分離しているとか、余核が問題でなんらかのズレがあるスペクトルの差



           
 





 

模倣するなら『現状維持無限変革』とかを模倣して貰いたいのだが、かって誰もいない…



           





 

帰納は未決定であるといったのは誰だったか覚えていず分からないけれど、未決定とはつまりそこに責任を持てないという事である.因果関係の不明や公共謝罪が効力を持たない場合にはこの帰納の未決定に乗っている可能性が強い



           





 

嫌な陰険なxyは帰納的存在だったか、それにしても内部記憶を模倣して模倣と気がつかずに-まさかとそのような存在は思っているようだが何故かわからない-被模倣者に述べてくるその間抜けさ加減で親切に対応していると主体歪めの理不尽は認めないので不快となるのである.そんな人物が多いのは何故なんだ



           





 

これちょっと不快に思う.シジフォスのせっかく上げた石を蹴落としてまた上げさせようとする事に近いので.ただしこれはAのG複合とは異なってG&Gで発生する事としての話で



           
 





 

明白を表すのにマニフェストだったかエビデントだったか、恐らくエビデントを用いたあの頃.エビデンスといえば女性の平均寿命が世界的に長い事実は女性が不当な位置に置かれているとは普通の感覚からは考え難い.既に成立した事を持続継続しようとしてもそれを切断してしまうのが女性である感覚がある


   
           
 





 

『現状維持無限変革に対して、現状維持有限変革は現状不維持であり、現状不維持となると現状不維持無限変革より現状不維持有限変革になる.類人猿から原人から現人になった歴史は現状不維持有限変革がふさわしく、現状維持無限変革は万年続けば一応言えそうだけれどそれほどとは思えずだけれど』



           





 

あの頃考えていたシステムでは、キリストや仏陀は『離散的持続者』としてある



           





 

醜いのもあるけれど、強烈にセンス無いxxも世の中にはいる.なぜかそんな存在がいわゆる憚りになるという極端な愚劣さ



           





 

分子原子電子ニュートリノと続く最大値としてn-の次元ならばポテンシャルの切断は考えることができる.次元現行サイズの最大値で^-まで行くのには相当なギャップがありわからなかったが、ふとサイズ変化があった事は既に常識なのでそう考えていいはずと気がついた.それとは別に心理的な事があって



           





 

以心伝心を許容してもそれは主体を損なわないもので換骨奪胎全体化までするほどの設定はしていず、換骨奪胎に気がつかないのか意図的にそうしてまたそうしていないようにするために換骨奪胎の対象主体を他者化した主体と見るのか、気がつかずに他者化主体とするそんな意図は全くない対象存在が多過ぎて


   
           
 





 

脳幹の太さや染色体の差異は類の歴史が作り上げたものなので良しとして、脳幹太ければ左右展開は速いと思うのだけれと、その先の展開が読めないところがある.そこはxxとxyの違いが寄与しているかも.そんな事を考えると人間の構造はこのままではなくどこかで変わるかも…『現状不維持無限変革』となるか



           
 





 

無限個の素点の分岐や合併が可算無限集合をわたるのであれば、ガロアの隙間は説明できる理屈になるが、はてどう考えたものか、それならそれでいいとしてやはり専門家に任せるが正解となる…l進グロタンでは少し違うかなはあり、がモチーフなら意図は隙間を埋める…



           





 

最も他者化された主体当人ではないので、他者化されない主体から見れば洗脳的か心理を模倣させた人物達と思えなくもないが、自己同一性自同律的には不快なものである.



           





 

のベキ根は単位円上にあるはガウスか、となると無限遠射影の円形と『スリーの自由度無限』が重なってくる、そうだったのか、あの時は数直線で考えてきりが無いにした記憶があり…



           





 

ダブルバインド現象の整合化意識ツイートが昨今多いな.矛盾構造不条理の哲学問題はあるけれど、個人的な思いと共同数的一般に対して、個人はエゴ的要素で共同的数的存在が希薄になる時がある.もし個人が共同的とするとその個人が消える時には幾ばくかの共同数も消えねばでそれは一般に非常識



           





 

全射のかそうで無いかで分岐不分岐とは.分岐は流体の流れで渦とか乱流を浮かべて複雑過ぎると思って無意識に保留している形を取った以前.特異点の任意とか、公共+αの経済政策にも相転移かと思えるかなの分岐感覚を覚える所などに見つけた感覚



           





 

優越原理が整理感覚からピンチであるかのような想定をする老境に対するTLのやや多さを見て、生理ポテンシャル優位で生きてきたタイプなのかなとアイデアが浮かぶ.当然自然に生理パワーが衰えるとその反動は生じる生存過程時間に直面するだろうな.


   
           
 





 

そこである先天的存在優位の作家の少しは自覚していたようだけれどいざ直面しての悪あがきとその悪あがきを崇めるように思える人材のナンセンスさをずっと不快に感じている



           
 





 

でよもやまの憲法制定時の条逸話?の死中に活は分からず考えて奇跡期待の表現だったかも…ならば神国民としての宗教的特徴は成立するかなと思いつく.個人的には辻褄が合わず失敗した形の年を見てしまった事もあるので一応判断の意識には上る



           
 





 

川崎の千年の頃神奈川のある所の家の人物に芥川龍之介に似ていると言われ、冗談じゃない自殺なんぞ御免被ると思ったものだ.良寛とか芥川龍之介とかだいぶ違うだろう.太宰治はあるxxのしぶとさに大宰治的にしつこいねじれた存在が似合うのでは無いかとの未発言をこのxxと誤解同相がしたものだけれど


   
           
 





 

やけくそ気味ですがにそうだと思ったことがあるある否定し難いxx故に.論理的に間違っているとは思っていたのに、この女性も否定しなければか、くだらない事にかこつけてNo.を嫌がった誤解者でもある.ちなみに大宰治は嫌いな作家で内容をその頃知らなかった.実人生が目茶苦茶な存在で辟易する存在



           
 





 

カンダタxxの廃人的存在はろくな事を言わんな、全く無駄に消耗させる事のみであり、色々周囲に誤解を与えた記憶はいまだに残っているのも過去xxがある雑草xyに誤解を齎す白けた態度を取らせた事によるが、ある過去xxもまた遅くラプスの要因で、過渡期に十分沿った時間の持ち主であるのは明白で責任は?



           





 

あの窮屈な実証の言葉を用いた政治理論があるのか.実証はそのままの現象学的な位相で事実がそこにあるだけの定性的なものでつまりはしない不快気味なものと確か小学生の時に思ったはずだな.ゲームの理論は考えたく無い…ともかく数理と計量が科学的な所為なんだ.確かにデータは判別しやすいが



           





 

誰が先かとかの話でどうにかなるではなくアセンション系で一杯いた.最も意識体を考想する人間は多数存在しているは想定内だったけれど、内容とその数は別に考えもせずだった.あの頃のシステム意識は何か忘れていたけれどそれはそれとしてまあ一応その時空的な考えをしたのだから保存化としている



           
 





 

キリストやブッダが高次元存在との宗教本かあるのかなんだろうな、同じような事を考えている存在がいたのか、あるいは何らかの刺激を間接に与えたか時間的に先はどっちか知りたいものでいつ頃考えたのかな?


   
           
 





 

次元が内部は高次元を考えると何でもない事のようで、ネットに一杯あった.カラビヤウは見えないコンパクト化だからサイズ感では外部にあると思った昔だけれど次元内部的なものであるはずではないか…


   
           
 





 

ガロアの隙間とタイヒミュラーは似ているような、タイヒミュラーの幅は?、極値の間に納まるでは展開しかない形のようでその辺は未考



           





 

ラプス中に量子群なるものができていて、イデールのゼータとくるとズレがあるのかなと、しかしRの持ちようでイーブンと出来そうな気はする.なんだかゼータも知らずそもそも嫌いな形式的で、そんな専門家的な物はあの頃、思考する暇なくまたは権利なくと思っていたな.今はそれでは色々まずいけれど



           





 

どうもポテンシャルの切断がわからないので次元は次元の内部にあるとかの発想を考えてしまう.



           





 

単に人口数懸念意見に対してから功利主義観点について騒いでいるようだけれど、問題は功利主義の正規分布の棄却域に繋がる話で答えは難しくある.『交替』がやや自在にできれば良いかなとしか考えてはいないあの頃、最も疲労交替で疲れたら休むからなんだけれど


   
           





 

左回りに度傾けないと空間がない事になると思いつき、まさに&象限になり、向きが逆になると何かを思う形である.これなら時空をペンローズ的に設定可能になるが、左右の+重ね合わせからやはり何かを思い、このカオスを考えると複雑散乱を描く事が出来そうである



           
 





 

もみじの散る裏表は裏も表も無い精神状態かと思っていて、表裏一体を見ると元が同じとある、その意味なら弁証法の止揚の逆になるなと思うのである



           





 

中間存在に'カフカを読むといいですよ'といわれ、その名を最初に聞いたときに把握出来かねたからだけれど、カフカの作品内容は未達感満載とは知らずまた境界的存在とも知らずにそうとはまさかで考えなかった.しかし把握出来ずにつけ込んで調子づいた中間存在の間抜けさはなんなんだ.



           
 





 

発見は謙虚で開拓でなく導入も同じく開発ではないとはこの辺微妙では無さそうなだけれど差異があるななんとなくの一般感からは.固有ベクトルか…しかし隠遁印象のグラタンディークの名をあの頃全く知らなかった.



           





 

全く自分で読むべきなのに、無自覚のうぬぼれのアホさ加減とはつける薬がないに等しくなる.今頃はカフカ的事象に直面しているはずだな.が以前カフカの作品的立場を自覚はしていないかも.カフカは境界的位相な作品を残した人物でその数多い中間存在社会では意味があるので燃やさなくてもいいものだ.



           
 





 

叙事的物が残りやすい歴史環境においては、歴史の教訓から学ばないという事態は発生しやすくなる事になる.その辺を緩和するのは哲学になるけれど、G期から見ればA期は無知なので天国は無知に容易の神権からそうなる事にもなる.この無知がキリスト教に作用した形を思いついた.


   
           
 





 

反対にそのセリフは使える事になる.若いとミーハー的な依存形式者の自己無視の他者の事ばかりという障害形成者でもありそうなアドレッセンスはあるかな.世情は騒ぐけれど心理抑圧の内面を考慮しないミルグラム無責任の暴力的な側面に繋がるかだけれど、先天性の違いを如何にする事もできずの視点がある



           
 





 

美的に遠いxxがカフカの発言をするとその内容は例えば掟のなんとやらや城など美的に不可能的となるのでいくらか自覚無知に自業自得の愚かさのカント的な判断力の無理解で、その視点では当のxxがカフカ作品を既に読まなければならないという間の抜けさ加減がある.そのような存在の意見は迷惑すぎるかな


   
           
 





 

剽窃模倣に気がつかない存在達はそれが当然位に思っているようで、ひとつくらい固有発言をするのは、まるで蜘蛛の糸のカンダタのようなものだな.そんな猿真似のような人間も猿ではなく人間でロボットでもないが、むくつけき存在感しか無いかな



           
 





 

他者を誹謗してその存在を貶めるを考えてみると、無理解誤解理不尽を行使して来た存在達はその対象のようで、誹謗を受けた側からはそんなの要らぬし、そんなに誹謗したければ自分達にしていろといいたいもので、迷惑しきりない.


   
           
 





 

そうした不都合な受容できないxx&xy達の発語が記憶にあり時々そのままに蘇るので、その後の他者達には自らがそんな発語をすると思われる可能性が高くなってしまう.しつこく意味のない無駄をさせる存在達で、畢竟これらの存在は存在自体が意味の無いものと解釈せざるを得なくなる



           





 

ミンコフスキー空間の双極図を右周りに度傾けた斜体にしたコルニューの逆図として見ることだった.開閉はまあ必要的で…時空は互いに被覆も必要かな


   
           
 





 

こんな事を考えていたのか、重複がカラビヤウ図にもあるはずだけれど想定困難で、複雑さを解けないと思った昔は重複点が瞬間複雑写像投射的深度ではわからないゆえであるが



           
 





 

部分が同じで変形するだけなら対称は無数に存在する事にならないか



           
 





 

なんのことはなくサボった分のキャッチアップをしているだけでもある.アルファは他人が行うから様子見だけだけれど、残りの完成-それまででも十分だとは思っているけれども-の為にツイートをそれなりに交えながらしているとなり、なかなか終わらないだけ.そう容易な事でも無かったのでまあそれは当然と



           





 

------こんな並びか、構想はしてあるのでただ集中するだけだけれど、その集中に模倣や逆や諸々の障害が無理解誤解理不尽となる現実社会であって.実際の所キャッチアップなど容易と思っていたが実際は年以上であり、ややこんなはずではもあるけれど、位相視点を困難化しながらの感もある



           





 

セルバンテスは夢を見ていたと表明したはずだな、となると風車に突進は夢想によることになり、夢ならばそんな事は頻繁に起こるありふれたものと漸く気がつく.アリスもそうであるがキャロルは良く荒唐無稽をかけたものである.荒唐無稽を描いても良ければかけるけれどそれも楽しそう


   
           
 





 

結構夢想を生きているかも、それはそれで大変な事は分かっているつもりだな.つじつまが合わない的ツイートを一度指摘されたことがありその事態はよく覚えている.何気無かったのだけれど、多重性的面で過去xx的で今尚そんな面を行う思い出しすぎている.全く劣化位相に束縛感を覚えるのも不快xyありで



           
 





 

他人の足を引っ張ってはいけないと思っていたけれど読んだところでは、日本人は何が何でも優越感を保つ為に他人を劣位に置きたがるとは思っても見なかったけれど、どうもそのような傾向があるらしい.これは縄文の遺伝子が閉鎖感を形成しているとも思えて、負の側面があるかと…まずいな



           





 

しかし火焔土器はどう見ても世界的レベルで、世界に交流無くても開かれていたから縄文の負性はどんなものか.それより縄文を征服した弥生系の技術を見た事あるけれど、そこにはむろん諏訪大社とかの軋轢は十分にあったらしい.世界に特筆的な縄文の遺伝子を/は持っていて、またアイヌ系と沖縄は多くと


   
           
 





 

弥生系も移動して来て弥生系移動に関してふん詰まり的であるように思える島を通過して米大陸迄行くとかは太平洋広くできなかったか.ミクメラポリ展開の種族は異なるわけだ.そうするとより弥生系に取って閉鎖感を感じる島になっていないか?.縄文人に取っては長く住んでいるので閉鎖感とかは無いだろう



           
 





 

沖縄に火焔土器的な発見物は無いのかな?.無いとすれば火焔土器発見地域とは何かが異なる事になる…そんなわけで弥生系が征服気味をしたのなら、どちらかといえばその後の正負のなんらかの事象には弥生系に責任がある事になるのではと想定してみた.


   
           
 





 

アデールとイデールの一致のズレと濃度としての体積関係とか、単点は素数の濃度はとか、ガロアの隙間とタイヒミュラーとか.結局難解なガロアの隙間を去年からかなりきつい情況設定が予測でき実際にそうなってしまっている事にふと気がつく.別に専門家では無いが結局は昔に浮かべたのでそうなる…



           
 





 

修正して別に専門家・・と記述していたら書きたいことを忘れてしまいどうしても思い出せない.秒も過ぎていないのにどうなっているのかこの頭『間脳の両脇の煮え切らぬさま』は導入記述中の悶々表現か未解疑問に対しての筈だけれど、右感が…あの楽章の頃間脳も知らず脳構造など全く知らずだったのに



           





 

ミラーをなぜ直観したかわからない.典型図のカラビヤウ図を見たのはいつ頃だったかな.サンタフェの頃ではなかったか、見た目芸術的に見えたけれどどこか違和感もあった.ヤウの年度でその証明努力は尽力を思わせる.若き頃の複雑さと典型図は図の分見分け差異があり、しかも交点傾向だと尚更かな



           





 

全体的に当てはまるとは限らないが部分では有用である事を保証するの直観は全体を見なかっただけの話か、とはいうもののそれにずっと遠慮していた即物的現実面はあるが、今更どうのこうのの話でも無く、やはり狭小に陥っていたのは遠慮があったからか.しかしそれは現在時間的というか個人過程と異なり


   
           
 





 

コールドスポットにパラレル宇宙のアイデアか、ブラックホールがパラレル宇宙への接続かな位に思っていたけれど.ダークマターは雰囲気か空気のようなものになるかな.こうなるとダークマターがその成分余波になる圧力の残余的になるか



           





 

唐突にそう言われても理解し難くなんのことかと、多分事例パターンしか思いつかず、自戒していたらそんな発言を受ける羽目に、しかし何も知らずのオンサイト的に直感を発動できる才能は才能あるのでは…合理理性の後付け利用者の社会的還元力の集団圧力同調者的の不愉快な発言でもある.



           
 





 

''ミラー対称性は物理学者の直感から純数学者は深く理解しつつある''--この事態のレベル位相は異なるけれど同相パターンの記憶思い出があり、その対象者にかわいそうと言われたことを思い出しているとちょうど例が見つかった.どちらかというとそう言った人物はチンケ側に見えないことはないのだが


   
           
 





 

区別差異は一応プランクの定数で止まっている形だけれど、今は突破した思考もだった.単純にゼロ化とできないのはなぜだろう.無限小差異でもいいはずというかそれでいいことに気がつく.単純なのにほんのちょっとした近傍深度から少しずれる事は難しいものだ.人は習慣から離れるのは困難を呈するように



           
 





 

良心の自由の生起条件には謝罪性の道徳感とかはなさそうで、その帰結にも無いという同一性かな.とすると良心の呵責や自責の念や罪の意識はどこからで皮相的なのかな.法の支配の理念は良心的であるはずで、法の支配に道徳感が無いとはいえずと思う.


   
           
 





 

存在しているだけで倫理があるという時の倫理は建設的意識の事と思われて、建設意識以外を排除する時に罪の意識とか呵責とかをやはり排除すると考えると、排除と認定する道徳や正義を嫌うという形をとる事になると考えたのかも.或いは独善意識によるか.



           
 





 

自己欺瞞者達の言明は事実または真実では無いので不快な記憶としてしつこく苛立たせているけれど、仮言的存在でしか無いと思えばではあるが、現実感の重さ遅さワンパターンさにうんざりもする面倒くささがある.



           
 





 

火車は獄卒の亡者を運ぶ火の車の設定なのか、天使の乗る車の意識があるのは小説からだったかな?.まあ炎に包まれたイメージなく強いては白馬の白い馬車だけれど.ワルキューレは天馬に乗るだったか、白鳥に変身するもあるとサン=サーンスの曲を浮かべる.エッダで漸くオーディンの存在と箴言存在を知る.



           





 

高野山は密教系で顕教系では無いはずとは考えるけれど、昨日僧侶の怒り記事を見て面白いと思った.一度高野山に行ったはずだけれどその記憶なく、ただ後に火車の出てくる伝奇小説と高野山を結びつけて読んだ記憶がある.高野山に行った時に何か考えたような時間追遡を描いた気がするのは当然空海認識故に



           





 

建設意識は定言として、仮言的存在諸々にそれぞれの独善性がある形を取っている現実かな



           





 

『接点の影に隠れた無数の曲線を見よ』はベズーの定理とは知らなかった.なんだか知らんが浮かんだので…ここにチャーンが登場してなるほどホモトピーとな.しかし数学者も何に押されているのかこんな複雑形を考えたがるものと感心する.逆に違いのある類似形の区別ができないがある.


   
           
 





 

捻くり出して関係の本質を無圧として見てどうかとしばらく様子を見る.大仰な即物時代的に考えねば意識体は無圧的だけれど、意固地勇気の独断盲信要素がないとも限らない不明線を鑑みて



           





 

次元は明らかに現実意識様相とは関係が寸断的なので取り付く島がないとして保留した昔、ポテンシャルの切断がわからないけれどただその言葉は個人的に重要だと思えるので色々と考えざるを得ない.この切断が有効なら今まで無為な時間を過ごした事を後悔しなければならないが数学は念頭対象にはなかった



           





 

エアコンずっと故か頭温度今は低いけれどどこかスッキリしない熱源があるような気がする.なぜ今年になって急激にと思える程に変化した形なのだろう.理由がどうもわからない.単に体力が落ちただけかな.それもどこか異なる心理生理面があるはずで、不都合な記憶を処理中だけれどしつこい他者達がいて



           





 

それにしても昔に良寛どうのこうの言った教師の話的記憶が蘇ってしようがない.別に良寛的なところはそれはそれとして、天井大風の汚い膨満感の文字の苛立ちはポテンシャルの中途半端の不快感かな.その教師は人に転化しないで自ら良寛やればいいだけの話で、勝ってに束縛して貰ってもは自由の邪魔だ



           





 

宗教の信者は面とは述べないけれど、潜在的にその宗教の集団圧力を用いていると考えてしつこい模倣を誤解を理不尽をある信者から受けたことがあり、その処理に困惑している.その宗教の信者ではないので無意識自然として模倣逆になっても困るというもので.その宗教に関わりなど全く持ちたくなく…



           





 

シジフォスの石上げ降ろしの繰り返しは明らかに無駄で冗談じゃないな.矛盾を不条理を解決できるとは思えず、解決したは無責任な盲信以外にないはずで、それは解決ではなく妄想ではないか.まあ自殺となんとか付き合って行くの種はそうだろうとは思う.



           
 





 

嫌いは好みを好みは嫌いを演出するなは否定弁証形成してどうにも共通は成立しなくなる.矛盾や逆や対立をなぜ形成したがるのかわからない.対立は弁証法により予定止揚を目論んでいると考えられる.対立打ち消しならば最初から対立が無い方が疲れない.またシジフォスの神話を形成したがる存在多いな


   
           
 





 

ヒルベルトのz=x+yでもなくミラー対称性の感じだな.嫌いな二項係数とか出てくる…数学には嫌いなものが多いけれど無視するわけには行かないとなりて…対数フーリエとあと何だったかも忘れてしまうが.ポアンカレが趣味に合わないけれどその業績は多大なものがあり.昔のガウスの解析優秀で止まっているか



           





 

何かを検索しようとして位置をちょっとずらして秒も経ない間に忘れてしまう心性、自分でもこの暗記できなさはなんなのか、この辺も熱射の朦朧感に繋がっているか、もしくはエヴェレットの多世界的とも、個人的にそんな秒世界を昔に描いたことがあるのだけれど



           





 
太陽発電で畳か、畳かもっと広い予定があるけれど、テントか…流行りの聖地にしてそのままにするとかも考え出して



           





 

だが未発達者はそれが未発達なので自覚なく、未発達を変えようと他者働きかけを行うと自己に向けられたものとそれを思わないで、反対に反鏡のように要求していると思い返してくるこの不快さは何だろう.自己過信で他者卑下視なのだけれど、倫理的には感心しないが、無知未熟の可能性への甘えがあり


   
           
 





 

あの時の考えに少しプラスして考えると、ダイナミックに日でリッチプアが成立しそれが多少の頻度繰り返しその領域にまとわりつく変化因子も変容を余儀なくする形なので安定という言葉から少し離れてしまう…形が全体的にあり安定は公共事業的な支持があるという事になる.市場経済的かな?小さな政府?



           
 





 

LJの不完全ガンマか、ポテンシャル論などどうでもいいやとしていたツケが回って来ているかな.ある文章の'ポテンシャルの切断'が衝撃的に作用して心理記憶を呼び覚ましてしまい.減少・縮小はまあありうるがその切断という事の現在時間における位相が問題なのである.どうやら時間は過ぎ去りて漸くならば


   
           
 





 

熱射頭で朦朧的な上に誰か記憶存在が思考意識を妨げているように麻痺意識もありで、頭動かずの体がありこの内部不快が解けない情態がやや長く続いて.摩擦…ハード束縛は中途半端に過ぎず



           





 

ある事に対して余りにもギャップがあり過ぎて幾ら何でもと謙虚にやめた事がある.今にしてみればやめることはなかったけれど、自己自身を忘れていたのと愚か者への同情心が強かったこともあり、くだらない人物ばかりに遭遇した結果もあるか.また日本国内だけで判断していて世界を見なかった事もありで

0 件のコメント: