My-systemがあなたを導きます.0~30の数値の中で一つだけ自由に好きな数字を選んでください.
*初期システム構想時には場が必要だったので、目的想像はとても困難であった、ところが最近何のことはなく、おもむろに出来てしまった.意外に簡単すぎてこの気分はなんとしたものかというくらいの面持ちである.ただ時は何十年も経ているので、その間隔が単純すぎるきらいを醸しているのだと想える.もちろん思考上のこと・他者もそうなのだが・なので、現実化はまず不可だろう.これが絶望を明らかに齎すことになっているが、仮想に逃げるという仮対処を思いつく.* 2014.07.19.
久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
静かな内の沈黙が滲み出る時存在す
瞬く星の間にて微かに聴こゆ新星の
幻色の変生にたゆとう時が甦る
真白き雲の海の上眸に映える深遠を
想いつ跳ねて寝転べば昼の陽光穏やかに
「世界があるというのは神秘である・世界内存在に戻る・わからないということを知っている.」この3人の哲学者の代表的言明を記述しておく.17/21/22に関連している.
**無限に関して2012.09よりのツイート
ビッグリップやビッグクランチや熱的死は未来の出来事ではなく、すでに過去にあったことという発想をしてみた.しかも無限回すでにあったということを述べても間違いとは言えないという点が、悩ましい哲学の初期論理からの壁.
無限小と見ると見かけ上は成立する.「神は自身の形に従って人を創造した」を思いだす.こんな発想があったのだった.
たとえば無限小に無限大に近づく
いやアフィンはヒッグス粒子・域を考えるとなくてはならず、射影は無限遠を取り込むリーマン球を良く考えると、考え方は良い.ただ判断上は異なるとしている.射影の言葉自体は気に入らないが、リーマン球自体が簡易化思考としてマイ論理的にあっていることにここカップルオブデイズで気がついた.
無限小がマイナスの場合.マイナス∞とか
ブラックホールの点は無限大であるはずが無い.それは有限でなければならない.
終わりなき常は現状維持無限変革という認識と重なっている点があるな.個人的にそのように表現しているから前者の終わりなきは趣味範囲を異なるものとする.
ならば漸近線に限りなく近づく双曲線は、無限遠点漸近線地点に置いて交わるとして全く差し支えないことになる.彗星の軌道には壁が存在することになる.
「平行線は無限遠点で交わる」というのが気に入らない.無限遠点でも交わらないのが平行線である筈、それとも無限遠点の複雑性によってそうなることを示唆しているか、そんなことはなく人の知覚能力基準実践理性判断によってそのように便利に思いたい設定をしているとしか考えられない.
”射影代数多様体はその定義からつねに、「入れ物」の射影空間があって初めて定義される”どうも強引に射影空間化しがちではないか.無限の彼方なら平行線路は交わるとしてもいいだろう、有限の身体能力基準・知覚体としての人間だから--という感じを受ける.
楔とは錐の集合なのかな.どうも当たり前のところがわからない.錐自体は楔の部分の→である楔の形をしているように見える、この頭脳の動きを止めていた時間の不思議さを自己自身想う.無限小楔形とはよく言ったものではないか・・
モジュライを持ってくるのは無限遠など申しているが、絶対零度の制約が無意識にあるのではないだろうか.+兆度と-度では全くつりあわず、対称的ではない.中身比較で適合しているのだろうか.そもそも+側の温度の限界値は何度なのだろう.絶対零度の壁を破る未来が出現するかも.
δ関数が無限大でになるというのはうまい話ではない.ディラックが導入して、それで人々は無限大でを仮定するわけだ.一般に、有限を示したい時は、確かに無限大でがよい.分離した時は逆δで原点で∞・どこかで見た・極北とは違うな.核爆発の地面に近い煙の拡がりを連想する.
フーリエ級数も嫌いだとなると全く始まらないのだが、無限大の周期を持つフーリエとなると恐れ入る数学意識である.およそ考えがたくこの発想はへたな小説より有意義かも.
リーマンの極北で無限の場合、は無限であるということにもなる.このところでアンビエントの香りがする感覚.
双曲線は双曲面外の一点で軸と交わるという仮想をしてみる.-無限遠点から.ニュートリノの消失点はあるか・最初の一個の発生点があるのならばそこが消失点となるが、発生点が無数に近くあるとなるとランダムになる..
”無限遠点は無数にあり、平面の周りをぐるりと囲んでいる” ならば無数の無限遠点は円を描く?.たとえば直径mの円に無限遠点全てを縮影してもよくないか---そんな説明を考えたNo.の自由度について.
管理の本質は有限であるから、有限体が管理をすると対象はより有限化を強いられ、狭小になって行く.狭小の極限・無限小は当然有限体にはわからない.無限を有限が管理すると全く不快な事態にしかならない.
”無限次元の射影空間をターゲットとする位相的シグマモデルは、可算無限個の自由度を持つと考えられる”--これ何故射影空間なのか.芸術家は射影空間者になるのか.芸術家にはごく当たり前の場論だろう.
ユークリッド無限空間は、ニュートン絶対座標が無限の場合?として想定する普通の事態なのか.この辺困惑するな.無限遠点空間にはユークリッド空間は存在しないことになっている・・繋がっているようには考えているな.
無限遠点はユークリッド平面の外に存在する.どこまで行ってもそうなるかユークリッド無限平面を簡単に考えてしまう.
役に立つ有限者が有限外を行うことは、他者の利用や依存あるいは宗教的なこととかあるわけか.どうも有限者は無限を考慮しないものといった感が強くて、役に立たないという時には無限的なものを指していると思いがちなのである.
無限遠でという過程は・仮定はどうも必要になってきた./無限遠は原点か原点近くで無限大になることになる(距離設定として).δ関数がそうだけれど値はでしかない・・
次元の場合には, 局所的に 次元球面が収縮して特異点が生じ, 解の無限時間存在が言え
ない. --この場合手術を行う.--無限域での挙動における複雑イメージは特異点によるものであったかと類推して逆行する先程とのツイート
そもそもサーストンの分類自体の必然性は理解できない点もある.--無限時間存在するのなら単純・自然としてよいかも.なるほど.
現象消滅を崩壊として捨象していくと残るのは非崩壊の物として自然で単純といことは、現実の消滅・崩壊現象のエントロピーは他の物に転化されて行くから、無限遠で単純になるかどうかは不明のはず.そう考えると都合いいとしている人は多いが、現象の消滅を崩壊という方程式表現観点言語はいささか
後、無限遠で単純かつ自然というところに疑念がある.そんな場合もあるだろうけれど、詳細は相変わらずイメージしていない、あの無限域の挙動は自然に任せてみるのではなくて、結論をといった内的声の紀伊国屋と重なる事柄なので.
どうでもいいことに無限の価値を置くとは、キルケゴール印象がまた転回する.どうでもいい人間がおおいということで、生きているのでどうでもいいことの数が多くなると言う解釈である.実践からの判断者がかように述べているのか・・
真理は単純にしたいだけかもしれない.たとえば円周率は無限に続く無理数-円周と直径の比率という単純さが端的な数値にはならない.
そうすると、これらを示す一言は要素しかなく、それは分子論的な大きさを想起させて、皮相を齎すものとなる・・は、哲学的思考は止めてマンガでも読むかと冗談に思ったスナックのキュートな声過ぎる女性のいた店でのことだった.その後無限小は概念に入れておかねばならないとした事は当然(マイ論理)
止まない雨は無いが、無限に続く晴れ間もない.冬来たりなば春遠からじだけれど、春が来て夏の向こう秋の先にまた冬が来る.--どうなんだろう.箴言に周期性はないのかな.不可逆のエントロピー増大に乗ってしまったから周期は無いということなのか、例の神話回避示唆だろう.
ライプニッツ・ホワイトヘッドで瓦解する頭.ペンローズに関しては個人的見解アリでよろしいのだ.そんなわけでパレート改善が何を考えるかというと、「無限小瞬時深底」等という表現になる.超準のオブジェより物理的なもの.
思い出の減衰振動・消失点.非線形振動-リミットサイクルまで頭が回らずであった.その予期する複雑さによって.”次や次でもカオス的挙動が確認されている離散力学系””「位相空間に無限の密度でリミットサイクルを持つ領域が存在する」”-あの萌黄色の薄く中身の濃い書物は・・
射影・無限遠を原点とすると、座標原点は無限遠になる.今の位置が無限遠であること..
無限遠点で平行線は交わる-射影空間はアフィン空間を含む-こんな意図でアフィンを気軽に意識したわけではないのだが、射影が嫌いでアフィンの自由を弁護するに、射影幾何学の常識が不愉快でしょうがない.無限遠点で交わること自体空想と考えるために、ファノ平面・リーマン球・グラスマンと来る..
数字のを度回転すると∞になる.無限は簡単で幾何的に度回転でできるというような考え方を否定するものではない-ここライトノベルと関係ありそうであるのだが.
どうにもやはりどこかうまくはないデデキント無限かな、いや可算では素直に・・.このあたり-無限大÷無限大は~無限大まで-これでいいのかもでもないな.
デデキント無限と選択公理--これは・・
差分ができれば悩まないといった感がある.無限複雑度で処理して知れぬということにはならない・・”良い系は 良さを保ちつつ第 量子化でき, 更に差分(格子場)化できる 「はず」というわけである. 超幾何関数や q 解析, 更にLanglands 哲学までもそうだったように、”
不思議なこと---計算世界では結構精密展開をしていくと近接世界であったということなのだろう.この混沌を追えずに、果てまた漆黒の次々と登場する時間には、さすがに参り、避けた思い出の画像.他者からの無限対称とかの思考客観があればいささか抑えられたのだろうけれど、審美的判断だったあの頃
「無限の対称性に支えられた無限次元の空間」--そうか無限に対称があるとするとソリトンは考えることができる.
ちょっと気になるな・・”こういう大きな代数(無限変数, 次数付けが正負の両側に無限に広がっている)の上でホモ
ロジー代数をやろうとすると、-”
無限遠点はリーマン球の寄与・相当強いな.無限小遠点がになると世界は有限になるが、その決定は誰もしていない.もっとも∞があるので有限は半.こちらも想定を良くするもの・・
あの紀伊国屋付近での、無限遠での挙動は自然に任せると思っているところに、それではなく結論をという声がする内部意識に対して、無限遠でゼロや平行線が交わるという考え方は、連続体仮説の表現から、任せるのは自由である筈.
ストレンジアトラクターと非加算無限集合を用いると意味論的味わいが出てくる.
中間存在の自由と責任はやはり中間的なものにしかならない.有限責任・有限自由しか了解できない.そうすると中間存在が無限責任を行う存在となっているのは弊害が発生することになる..
フェルマーの余白で十分であるの若きの勘違いは、無限降下法の勘違いだろうということらしい.代数なんだとは思うけれど、フェルマーの定理の証明は厄介なもの.
中間存在は中間量・その身体実在は上下に有限とする.無限小へ向かって中間有限を越えている認識の場合には、認識者に対して中間存在はパータなリズムを使いがちになる.認識者から見れば荷物であることになるのだが.減衰の消失点か自然との融合が出来るほどに広がらないと、やはり荷物情況である.
ジャイナ教のカルマの大きさはどのくらいのものか.無限小?.人が何かに触る時、触らずに限りなく近づく場合に無限小の距離は存在しているが、人はいとも簡単に無限小を越えて物に触れることができる.
魂ははじまりがなく,u--mこの考え方”ジャイナ教では、全ての魂は本来固有の理想的な状態においては純粋なものであり、無限の知識、無限の認識、無限の幸福、無限の活力といった性質を持っているとされる.-魂は始まりがなく無限に続く時間を通じてこのようにしてカルマと結びついてきた”
限子・・素粒子未満があれば自動的にそれを示すようなものとして考えた.無限小を超準では考えていない.光子が基調な光ある世界.弦に膜があるというように一方では当然取り入れている.それも進み具合を見ている.
リンダはカオスを持っていたか、非決定性チューリングで・・・まで考えないとだったのかも.なぜか頭がきりきりした記憶のあるリンダタプル.こうなると問題はうやむやになり、無限遠での仮定ならぬ、
複雑挙動を極北に持ってきたような目の前現実・現前のようになってくるな.
幾何学は直感だろう.思惟的には思えない.直感で把握できないところもあるけれど、無限遠で平行線が交わるや三角形の内角の和は度より大きいというのは直感的なんだけれど.プラトンの正確な意味をしらない.
「帰納的可算でない集合は非可算個存在しており」-チューリングマシンは発散中とするか、無限器械がないことを示し、マクスウェルの悪魔は存在しない.結果、思惟の法則が成立するようなことは部分にしかならない.
妥協がでてくるならば哲学的思考が必要と、マイ論理から考えて見た.離散--不動点で無限操作できるとかなので、連続体のカセツあたりを用いる要がでて来ると想定している。。
無限権力があるとすればそれは神と呼ばれるものになるだろう.
処理マシーン・叙事的人間・積極的ニヒリズム・ニーチェの超人という流れで、永劫回帰は無限未満・有限的思考であるだろう.無限から見れば処理マシーンは無駄な労力・カフカ的とも取れる.
ミネルバの梟は夕べに飛び立ったその後・・ヘーゲルの悟性論や自由と無限論は有用であると思って用いる.ただ絶対存在は志向するけれど、そのようには考えない.そんなところで、最近キルケゴールのパンからの思想意識にはがっかりした.で人材をまず思い当たらないことになっている.
こうなるともはや全や無限を用いてみたくなる.それでもではどうなんだという結果になってしまうが.
有限大を超えたところが∞で、これに対置するとすると、無限小は有限小を越えたところにあるものになる事に気がついた.ネーターが浮かぶ.なぜ半直線の延長のみを考えていたのだろう.少なくとも内部だからという存在実在感の大きさから判断していたようである.漠然とp進に関係してくるような・・
個体の身体は有限であることは間違いない.”何らかの意味の無限論的考察はそこで一つの有力な役割を演ずる。
しかしそれを学問的社会の中に客観的に定着させること,それにはどうしても何
らかの意味で有限的なものがないとだめだ。”
アフィン+無限遠=射影という考え方ではなかったのだけれど・・でネオ-アフィンとかネクスト-アフィンを考えて見た.超射影は不快な反交換が出てくるようであるし、超アフィン is not 射影のようなもの.
”貨幣需要が貨幣供給に応じて無限に増大する。”この表現がわからない.そもそも貨幣が無限にあることはありえないので、その需要も無限になる事はない.飽和点が存在するという考え方なら理解できる.
述語論理で無限モデルの濃度を説明しきれない..健全・完全・実効性を満たす二階は存在しない-( Henkin semantics?)
タルスキーのパラドックスは仮想線を描いてよければ直感で簡単に見れる.内部問題として.無限であるならばより仮想線は描きやすい.(あっけないので意味を取り違えている可能性大・思考アイデアとしてなら・・)--計算式の説明で、はみ出る部分が一致するややこしい証明説明を見たことがあるが..
これ必読教養pdfかも.数学における無限と有限の弁証法 http//t.co/tWQtAZu
曲線が垂直であるというのは言葉的にはおかしい.何を意味しているのか.デルタ関数が分離して無限遠まで垂直というのも考えがたいのである.あるいは直交関係で内積をいじっているか.資源が有限である制約に無限は発生しない自然量・自然数.
”現れる各位の数字の全体は自然数全体の成す集合と一対一対応を付けることができる”/とか全くあの川べりの中学生の時に悩んだ悪循環に行ってしまったこと.数値を自然数と対置できて可算とは../は無限数まで突入するけれど、
なんだかよくわからん、倫理がないといえばそうであるかも知れない.波動関数は無限遠でを仮定するや無限遠であるならば平行線は交わると仮想するも良くわからない.ヘーゲル × レヴィナス 全体性の哲学 http//t.co/PZtfDbX
悪無限はヘーゲルの無間地獄であった.ソリトンは悪無限に見えるので苦手なのである.有限の否定と発生の繰り返し.
悪無限や原抑圧なる言葉や ”たとえば錐体外路系の未発達による寄る辺なさ”とかは新鮮.ただ出生児はその現実実在に権利を持っていることは、幾億回繰り返されてきた営みなので成立しているのではないか.寄る辺はなくとも生きる権利を持っていると.
今はまた自己自身の思索全てを無にするように自己自身を裏切る形の思考をしてしまった.なんというわけのわからない心性になるのか.規定狂は偽善の無意味の反動なるか.有限バカというか無限を拒否する傲慢さ・慢心は価値を偏心させる.
ちょっとした試み中のことであまり気にしないでください.勉強不足のまま言葉を用いていて、集合論の順序数から意識の濃さを示すのに都合いいと思っただけです.無限時限財空間とかの言葉があるために.
ふむ?.ytb_at_twt カントール以後、数学における無限というと高次無限/実無限的なのが当たり前だが、最近の余帰納的理論と、何よりも非古典論理上の素朴集合論では、強い循環性に支えられた潜在無限的な要素が強く見えるようになってきた。あまりにも謎すぎる。
無限というのは時間に関しては長いこと・空間に関しては広いことを意味している..不確定性原理の均衡ということも考慮してみる.
熱的死は人類の歴史を考えるとそう思いたくなるのが普通だろう.宇宙は無限に膨張するという考え方があっても悪くは無いSF的・である.
そんな無限や定言はあるけれど、常ではあることを思いながらで有限生活をしないとという生理優位の言明を見た.まあ大体女性はそう考えるものであろう.しかし・・命のの実を食べると永遠がやってくるのは男女共通だろう.
そんな真理は多く唯物的・事実的現象で無機物優位の思考形式・定言を認識できる人の頭脳を無視して人間を物体的・生理的存在と見ていないか.死による有限的実在は確かであることから.有限だけれど無限がわかるのが人間的存在なのだけれど.
欲望的存在は有限を強調する.有限が無限に消失することに抵抗をするために、心理サイズ的に不自然を強要する.特に悟性的存在はそうである.意味のない無駄なエネルギーのロスなのだけれど.
この考え方も取り入れている・・離散的持続者として”<空間的牽引という感性的観念は牽引される一者の流れを絶やさない。即ち牽引点において消失する原子に代って他の一群の原子が、それも云わば無限に、空虚の中から立ち現われて来るのである。 ヘーゲル>”
ヘーゲルは悪無限と真無限の区別をしていた.無限をわからない有限者がいることが・・・<有限者は無限者の中で消失するのであり、従ってそこに存在するものは無限者のみである ヘーゲル>
中間存在が無限をこのように見るから・・”無限者の存在を直接性の形態から見るとそれは有限者の否定である。そこで両者は独立に存在するものとして質的関係に立ち、さらに進んで相互に他者として対立することになる。<-この無限者は悪無限、または悟性の無限と呼ばれるべきもの>である。ヘーゲル”
中間存在は有限である.有限から権力に迎合しがちとなる.中間存在が諦念を持ってまだなおかつ諦めないのは中間存在という無限に対する不可能性を持っていることにもよる.ならば恬淡をすべきと思う.願わくば女性は中間存在でないことを
共同幻想は何故芸術をコントロールできないか.芸術は無限のもの・共同幻想は有限の物であるからである.現在的パワーで比較すると個人パワーより共同幻想パワーの方が強い・強力・大ではある.
無限遠でゼロを仮定することは漸近的自由の考え方にも見える.
交叉はどこかで取り入れそうだけれど、均衡を考える時には有限的であるかエントロピー最大が言えるときと考えて、線形ではどうかなのところに視点の着想を必要とするはずと・・無限次元財空間モデルについて http//t.co/skwxaRq
関係の絶対性ということだはどうも邪魔になっている.腐ってくるなこの言葉.絶対というのは無限空間で何を示すのだろうか.神のことか?.関係の神的なもの--そうであるならば絶対という感覚をもつかもしれない.思想の意義のこととどうにも結びつかない中途半端な省略・認識不足がないか.
無限ノルムなどを考えると、人間中心に思考が向かってしまっている.なぜか.不毛な実体が頑固すぎて悪夢を普通と意地を出しているからか.
複雑/複雑=となるように考えることができる.ダイナミック発展がなくなるので考えたくなかったが、平行線は無限遠で交わるといううるさい人々がいるので(あと無限遠でになるとか)-基数に逃げるという手もある.GAGAの原理のいわれはなんだろう.
無限数の濃度の違いもまた自然数値化できて-いわゆる対応.---さすがにアイデアが全然浮かばない.冪のアレフの時には一致させるようなことは考えて見たが、その先の可能性がズレを必要するだけにしかなっていない.時空はまだあるから確実に成立するけれど.
連続体で可算に+をしても無限に+をする可算をゲーデルは嫌った..円周率πを考えてみると、無限域に入っていても数値は伸びているけれど、可算を証明できない・想定できない.そもそも数値が無限で伸びることも想定しがたいけれど、事実の筈である.---完備の消滅的なことの次元
統一体の全体という志向から全微分は明らかにある.高階ならぬ無限回までの身体は無いと推定する.これNo.の結論であっても良いかな.むしろ原因であるか.そのひとつのパターンの回数の持続を思考停止・無間地獄的なもの・ソリトン類似とする.このときH定理を・・
無限素点は・・グロタンディークの名はしばらく前に知ったので、空白がある..時間を埋めてその後の落ち着きを.
ハイエクのエリートによる理性至上主義の傲慢な全体主義(共産主義やファシズムの集産主義に対して)というのは何か引っかかる.有限を根本においているのはハイエクも同じではないか・・有限と無限のかかわりが気になっていたようだ.ここから一般意志は有限的には構築できないだろうと予測.
時間が短くなればそこに出現する.無限遠で発生しても近距離では関与しない.この変形エルゴード的なもの.
領土という野心もあるでしょうが、燃料問題が最も大きいでしょう尖閣.民族保存・存続に集中中と見るので、ハプロO型予測や家族主義志向とかを考えるわけである.億人いても最高統治者は一人だから、最高権力者はどんな気分なのだろう.虚無とか無限でみるとさほど関係ないことか.
つまりソリトンは無限ではない前提がある.無間地獄までは行かないが、あるということに対する動きの不変的なものになって認識パワーに消耗を齎すように感じる.空間が次元はしょうがないインスタントン.有限ということはソリトンが消失点があるので、消失点のみだとソリト
ンは無いことになる.
質量場ではなくヒッグス場を無意識に粒子自由ということは空という無限に近いものと考えてしまうのか、否、これは漸近的自由思考である.
変換のツイートを良き見たが、今になって漸く時間を虚数に変える必要が、静的有限エネルギー条件から来ることを認識.それにしても無限遠鏡映反射的に考えたがる現宇宙思考に、無限遠を仮想しなくてもとはつい考えてしまう.
種数のトーラスを∞とする.単に形象からは.無限濃度を考えると単純になる無関係外部位相からは.
減衰が非周期は潜在的にはあるはずだけれど考えた記憶はない.非線形振動で保留したから.”位相空間に無限の密度でリミットサイクルを持つ領域が存在する”こんな文章を読むとはっとする.ちょっと接触している考えを雰囲気で用いた所・時もあった..
身体が有限であることは寿命があることからわかる.無限など無いといっている人は身体的に考えている、頭で考えないとわからないだろう.色即是空、空即是色をどのように考えるのだろうか.
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