ある対象限定に対しての考えを内部思考として発語しないでおくと、後に他者が自己をその対象と設定するケースが多く、はてなんのこと?とは瞬間迷うけれど、かっての内部思考は忘れていて相手はまともな意見と思い対処するとその後気がついて不快な思いを今でもしている.この迷惑なでたらめ認識は何?
f&b粒子もひいては否定にせよ弁証法もで、モデルは多々ありそうな構造をそのシステム構想時に、モデルなど考えず直感でギリシャ文字第番目に当てはめた人を知っている.
レビナスボットを見ていると雪隠詰めを想起して苦痛とともに不自由を覚える.ハイデッガーの原点の参考にならない.ハイデッガーのいう超越に至らずから現存在地平に戻ってしまうことについての弁明ばかりしているとしか読めず.
依存場ではなく個体的というtf
線形といえば高度成長期の建物で休業に至る対地震対策ゆえを読んで、現行システムも線形が多いのではないかと閃いた.どうにも実用上線形対処が多すぎて.まあ線形典型を正規分布に見ているわけだが、xxの反発はδ正規と盛って解釈可能かいや∞が登場するのでそれなりに.
まあほぼそうだな「自由の受難」ゆえに不快なる言葉を用いたツイートが多い事になる.知らなかったサルトルの存在と無の内容・実存のランダムには取り留めない無責任と節度への無関心を直感するので読まないとしていたが、いい言葉を知る.
他者は曖昧を明晰に・明晰を曖昧にしたがる.カウンターやゼロサムは疲れる、まさかの超対称F&Bがそこにとは考え難いが、そうであれば大昔から有機体はそのようにしていることになる.
絶対なるタブロイド的なはったり大仰な言葉を使わずとも、普通にエントロピー変化が情況決定して変化させるようになっているでいいではないか.エントロピー的に人の精神は複雑になっていくことは証左できるが、無機物は複雑になってゆくか?
そんなことを考えながら唯物史観から唯物未来史観を想定して、情況は未来史観が決定するという表現でもいいかなと顰的には試みる.絶対はスピノザの決定性でも代替は聞くはずだが、個人的にはエントロピー変化にしている.
ガロアも分岐を作ってくれるものた.この所の深淵イメージは確か難解な未保存対象だが、非保存的でお手上げで誰か好きな専門家がいるはずでその人物に任すとしてもう何年だ.モチーフができかねたのは想像つくな、いずれにせよ人はモチーフなる思考・思惟形式同様を取ってしまうものだ.
マートンノルムの中でも特に普遍性を考慮して、地球上どこへ行っても科学は同じとしている.なにやらなんとかが科学に対して政治介入や企業利益などを考慮して批判介入したらしいが、それは局所状況をあげつらっただけ、とはいうものの現実社会ではそんなケースは無数に存在している.
素領域を一瞬で見ると非可換状態と普遍グラスマン付近の関係とか、要素としてのモナドとエンティティとザリスキあたりの関係とか.ペンローズの粒子や超弦の三つの次元タイプとかエンタングルの箙性とか、色々あるがどうも決めてが無くどの地平でokできるか迷う.超弦は特別扱いとしていたが.,
京大生だろうあの有名な喫茶店昔に聞いたセリフ・人間やってx年・なる笑うに笑えないおかしみは面白いねぇ、いまだに忘れない.誰も非人間などとは思わない・思っていないだろうに.なんとなく個人的な項目のX番に対しての無音無意識雰囲気直感反応だったかもとは今ふと浮かべてみたが関係ないか-
余剰因子か、人々は頭いいなその方向は間違っていないと思う.というより流れ流れの接続・継続で自然に出てきたものだが、このことをペレルマンはなんだかよくわかりすぎていて謙虚なんだなと思う.少しは自力性に特徴が十分にあるのではと思うが、ペレルマンにはわかっていることがわからないのかも
特異点解消B-アップは不快だがそれならとは思うことはある.小平なる人物は素直に頭が切れるという感触を受ける存在だった.しかし森重文なる人物はどうも気にしなかったな.鋳造の湯の流れの分岐は有限明らかなコンパクトだがフラクタルを内蔵しているかもと思うそこにlog理論なるものがあると-
そうなんだ個人的には無意味な損失で赤字だから不快でしょうがないのである.
麻痺する存在及び対象は荷物的なはずだが、知的知見において無知なる対象は多数ありそれも理解できないとなるが、この過去的無理解は他者の自己主体の他者化で美的にトートロジーを見ると麻痺してくる事はよくありすぎることである.そもそもそんな他人のする他者化の無責任さは?、個人的には損失だが
やはりなんだかわからんツイートがあるな、前提が空想でその空想は現実としてしまっている.理想が現在を動かすとか?、ある作家の理想はもはや成立しないとの述べが気になっている.そうなのかな?と.とにかく理解しているはず?の過去なんだけれど現在的にマヒしてさっぱりわからないとなり.
脈絡のわからない人物のケースを考えるに、理解力の問題があるといえばあるのかも、幾何的アブダクションや抽象幾何絵画は全くわからずで、四角配置に色付けをした線分などは判断困難・面倒で、作者に懇切丁寧な説明をして貰いたいものだと思う.
「・・無知を維持させるために盲目を維持する態度」とファインマンが非科学に対して申している事を知る.ワンバターン者たちにはある不快な出来事からそれが何かわからないにせよ迷信を持っているとして検証したりしている.
ただし意地でプラトンは不快と、しかしイデアは好む.
戦争論で有名な人物を読もうとして読んでいないな.別の人物で弱点を突くなるのがいたが戦争論なのか、日常でしょっちゅうあることだが.まあそんな存在は往々にして弱点の多さに無自覚で攻撃は最大のに邁進傾向があるかな.隙が無いは完璧だがその完璧が隙になるというドメイン思考や心理視点がある.
最近はともかく帰納は確かに未決定的と思ったことがあり、相対性理論にとっては帰納は好都合か、光速度一定に匹敵するものはネイピア数と思ってしまう.演繹的には帰納は苛立ちの因と、光速度一定や絶対零度は演繹的かな、この演繹帰納関係が若き日にベーコンに対して苛立ちと情けなさを味わった事に
ナンガのメルクルリンネでも中央ピラーでもプレモンスーン期でいいから単独でならばパスと、当然モデル化者には不可能でそれ故に夢想した昔
承認要求なのか矜持なのかひとを狂わすような発言に矜持など設定できる・認めれるものではない.よくわからんのは深い思想は正義や道徳を嫌うと述べる人物が、しつこく親鸞に絡んだようなそれがわからん.深ければ親鸞を問題とする事もなかろうにで、この人物の深さは浅い深さである帰結になる.
まさかそんな発言をする愚かな存在とは前提していず、いや想定した面もあったが、話時間が長くなりそんなことはすっかり忘れて、なんとしらけた発言をしかもxyに向かってと思ったのだが、あまりの親切心でまともに対処したため、頭脳錯乱化をしてしまった事も問題だが、それ以外にもやる気の邪魔を
自己正当化のために他者を反措定するでっち上げ・捏造を行使するというそれは、まさかとは思うが冗談とは思わず、如何にも情熱を込めて述べたからなのだが、虚偽を恰も真実であるかのように、ナンセンス・無意味を意味あるものとするテクニックがあるが
絶対王政・絶対君主制の流れを見ていて、ふとまさかひょっとしてアフリカ的段階はひょっとする可能性を見出した、わずかながらその視点の可能性があるかなと、そうなると不快は緩和になるが、それはそれとしてもありで.ならもっと自由に行けるが、馬鹿げた事象はなんになるもある.全く無茶苦茶なで
システム・試験システムは僭主感を緩和する
それにしても逆数学的事象の未分明にこれほど時間をかけるとはまさかの予測・いや難関とも思ったことも避け気味を避けずという大体現実は意図と逆になる.異なることをしようとすると邪魔が多数存在してくるとか.出る杭の風土?、島国の嫉妬をなくすための知恵とか、最終的にはハプロDだろうが.
しかしこのようなマイナス面ばかりだと当然他者達にもまずい情況にはなるだろうとは思っている.すなわちブラス面意向を邪魔した存在達に責任があると.個人的にはごく普通になんでもなくブラス面の連続を想定していたのだが.
だが個人的本来は・・そうであるべき・そうでなければならないのだが、常に忘れているのは僭主感覚からの自己制御とやたらと邪魔存在の出現が多過ぎてうんざりと塞翁が馬性と理解できない馬鹿げ過ぎる自然性がかくあるべき形となっているとしている.しかし・・
その辺から三月下旬に会った卒業したての女性からエリートはエリートらしくしなくちゃねと困った刺激を受けて忘れない.エリート?そんな考えを持ったことはなく、またそんな生活もしていず結局今ではなれ果てのように.しかし地方新聞社がエリートかねと、一般にエリートとは省に勤める人とその頃
シヤルダンのオムニバス・アンソロジー・コンピレーションはオメガ点に集約で、ヘーゲルの絶対知とあまり変わらない視点を持つ.オメガで仏ならランボーを想起するがその志向性は、有限の圧力かタナトスによるか不快によるのかわからん.例によってクレジオの後に残るのは無機物のアッサリが登場する.
ジャルダン→シャルダンはシステム構想後、ヘーゲルもそうだが、その思想内容を知る.特にシヤルダンは丁度の時期でもあり、夏の日に不都合・都合の絡まりを見せていたがその内に忘れての記憶あり.シヤルダンのおむ
意見が同じでも美的判断力が異なることは普通にある.美的判断力を無視して意見を同じとするのはカントの判断力批判が理解できない存在である.
クォリアは近所のニワトリ小屋の側を通った時に、ニワトリの鶏冠の赤色と血の赤さとかその他の赤色を想定して区別が出来そうになく、考えるの止めたのアリス物語は頭おかしくなるの頃.分析哲学に結びつけていたが、今現象的にグラデーションでいいかともなる話近辺のようだか?、機能主義側面をも見る
エートス『余儀なくされた形』なのに自発的に行っている・自主的主体でそうしているんだと思えることのできるもの-確かそんなことも思った記憶あり
エートスその言葉自体は悪くはない、殉教要素もあるかなとは今思う.その昔月の雨を見ながら構造していた場所の先の細い山道の途中で、エートスの決定性・閉塞的性が嫌だったことを思い出す.エートスに踏み込めばそれはそれで充実感ある生を送れるはずとは想定したが
そうか詭弁は妖気にとって現実であるかもが浮かぶ、そうしてもいいと思え、ユーレカならぬコネクテッド!かな.
多くツイートはtone数値項目にかかっていることは間違いないKやスピリチュアルな詭弁相のタイト空間・怜悧的虚無だが、その辺や他と接触させてなだらかに終わっている・終わっていないかのそんな感じ・そうかやることがない・これがtoneだな.
眠る前にビッグバンの類似の設定を考えついてこれで妥協できるが、他の項目の難関が待ち受けている.
昔にとりあえず俗物的存在・権力的に高い位置にいない存在は、権威に依存するからひも解くのは容易ではないと思ったことがあり、これはアイヒマン現象・ミルグラム的な考え方と気が付いた.しかもそんな明らかに俗物的存在が皮肉にも登場してさっぱりわからないただ負荷であるという事に.
真理的人間でさえ不当な思考をするのに、普通に真理的とはいいがたい存在は当然不条理発言などお手の物だったことに今頃気が付く.それにしても主体を疎外化したがる人間が男女ともに多かった、間が抜けているのか精神年齢低いのか逆でそれは意味がないという事もわからない傲慢者が多かったな、今は?
左と右がありそれをつなぐ通路がある形を度回転させると射影・投影図的に実際は立体を想定しているが、ある形に似ていることに気が付いた.
ある不透明で陰険な虚栄逸楽者がいて、意識のパーコでないと反応せず、フラクタルなエレガンス・サトルティを破壊するズボラさには感性の狂わし、要らざるものの押し売りを受けて、つまらん感性時間を過ごす羽目に.そのズボラさが野蛮であるとはどうも自覚していないと見える構造主義的傲慢者かな
そうかハプロDでなければならないからに尽きる・に気がつきこれが歴史にある-と
今のところ最も良さそうなのはDNAとミトコンドリアの関係起因あたり
ある項目の展開で行き詰まりどうしても結びつける事ができない事が不快でずっと立ち往生している事があり、しかもそれは垂直方向的と思えば確かにそうである事としても差し支えなく、単に脊髄反射と海馬の差と見るのでは全く味のない事でありので.交換と反交換の差も候補だが既に超対称性がありで.
今時の時代だから意識と無意識が分離していて統合感覚を持てないといった存在者の存在は想定できるが、そんな考え方があるのかと、分離情態の想定は結構衝撃的に響いた.この事に対して何らかの見解を持とうとする志向性が発生した感触だが、同時に厄介さ・困難さも感じ静観しようかなとも思う.
文章理解には調和を持って為す・と閃いたが概ね当てはまらないか?.昔からコンテクスト・前後関係が重要と直感しているが、脊髄反射・条件反射的なものはその根拠が往々にしてわかりかねる.
所用がまだ発生しなくてもいいかなと思っていても不快な事に発生してしまう.これは社会構造が消極的ではなく、積極的自由専ら傾向か、正規分布時間を基準にしていてワイブルを味わう羽目になるなるとか、数多き中間存在的な中途半端・サスペンスに現実が赴いてしまうとか考えるが、全て要素だろう.
あるがままはどうもエントロピー変化に一致させること・一致していることのように思える.諸行無常よりあるがままの方がいいかな、禅宗の極意か.まあどちらもアフィン位相にどちらかというと位置している形に見える.
個人的にはハンディキャップ存在論のようなもので単に普通に二重ダブルマインド状態形成のような気もする.ザハヴィ年か、ポテンシャル理論であってしかも中庸領域有効理論であると読んだ、ハンディ存在論は取りつく島がないかも.
ハンディキャップ理論--すでにハンディを抱えているのに、それを考慮せずハンディキャップを持つなる内面の声が浮かんだあるティーンの日、それはその後に影響しているとみるとそのようかな.それ以前から徒労に呪われていると思ったことがありそれも寄与?.ところがシグナリングが出現してさて.
なんだか論理帰結があるがままになってきてしまいつまらないな・やることがないになりて.あるがままといえば禅宗で見かけて特に何宗だったかなとチェック判明する前に、禅宗自体全体にあるがままが透過している考え方と知る.老子もそう述べていたのか.
しかしなれど意味ある事は価値ある事だとしてその意向姿勢で研究なり日々を過ごすべきだとは考える.まあ昔はその線で生きていたが今は弱くなっているかな.そのような意図なく、漫然とした日々を送る人々に対してオルテガは一言述べたわけだが、それなりの自然でそのような人々も自己満足しているかも
「かつてなくまたけしてありえないもの」を掲げた作家がいたが、意識体は将来にある可能性あり、ふつうに人の夢見ることは実現するだろうから、これらはあり得ないものではないと、埴谷雄高は包摂して考えた、でよくある理解されたら年後にでも現れるなる自尊心発揮をしたという事だ.
例えばヒトが年後かそれ以降に意識体になる予測がある、ヒトが何も二本足である必要はないが、これらは人体・身体的面で、意識体の哲学は?となる.
”次元心筋モデルの不安定状態マップ:(a)頻脈,(b)心室細動”図はなる-、多少気にしている自己心臓ゆえに.地域紛争と複雑系ゆえにとか考えるけれど、簡易的にシマウマを象徴意識にしている、最近見事な縞模様と思ったこともある.ベイズの定理?何となくいいのか、超統計?ちょっと言葉が.
その辺の良心的性格を見越すたかり的存在にも悩むところもあるが、あまりにも馬鹿馬鹿しくてふざけてしまうという要素がある.中間存在一般は馬鹿馬鹿しく思い、叙事的一般もその固いロボットのような反射板的生理体もどうにもつまらん面があり、避けたい存在である.
なんだか結局の形になって、正規分布に里帰り的な心情は如何に、しかも正規分布に足りないという過程はなんと滅茶苦茶に低くなっている.あるxxがいて正規分布的存在でそいつに遠慮すると正規分布以下になるという、どうもスケープゴート的性格がある--そうして無駄の不快・徒労に呪縛されると
アリストテレスは虚無的でフェルミ的にも見える・フレキシブルもあるが・からある不快なxxの理解が可能的になったと感じる.つまりこれらの存在は風車を人間と思うような無駄な判断をし過ぎて無駄な意味無き引っ掻き回しをしているに過ぎない事にまた気がつけない認識能力の持ち主である・事になる.
アリストテレスはその雰囲気が叙事的論理展開の故にかな、長いのもある.二コマコス倫理学は気になる書物であり、中庸は叙事的展開とはイメージに差異があるのだが、アリストテレスはなんなんだとなる.多分そうあるべきとの予測設定かいわゆる形而上・記号意識・論理展開帰結的判断者という事になるか
ポーの詩の原理は表現の自由に接触しているか?、不可知論者は早々に諦めて
双対や反変がしつこい障害になるが、弁証法の圧力かあるいはフェルミ-ボーズ統計存在とか、いずれにしても徒労による疲労が大である.ほとんどの領域において双対事象が必ずと言っていいほど出現する根拠は、非調和性と現象論的には言えるかな、非可換・ハウスドルフ空間・集合公理とかの要素もあるが
先日考えた帰結によると最後まで残るのは哲学であるということになった、その思考過程を思い出すのが今は困難になっているが.
そんな意味では帰納が登場してくるが、帰納がそれ自体の本質として獲得している形態とすればそれも設定上の位相を持つ.
思い出してもゆえにいつまでも邪魔な思いをして無駄にエネルギーを使うことになっているが、なぜ意図と異なる態度をとる取ったのだろう他人は、そんなに逆を好むなら自分に対して対自でも即自でもいいから逆の態度を取ればいいではないか.
帰納的存在はそのままでなんら修正・変更の必要無い事まで変えようとする意思がある事に思い至る.むしろ陰謀的あるいは猜疑的存在ゆえの可能性もあるな.それもエントロピーは変化するに依存しているからともいえる.
個人的には昔から年という数値には不快感を持っている.あの怪我をした導水管のまあ近くの階段で見た未来に対して年は束縛・閉鎖で自由の邪魔になると.多分推定して叙事的事象の限界値であろうと.後に遭遇する事になったある不快な叙事的存在が関与しているかもはある中学生のある日の事
昨日こごみながら・かがみながら靴下を右足に履こうとした時に、突如代後半での記憶にあり普段ずっと思い出しもしなかったあるxxのフルネームが内部噴出⁈.それにしても代後半がよみがえるとはプルーストが軽薄にみえるかなとも想定.忘れ去りし記憶がよみがえりて.
時間を待っていたというどうにも意味なき時を過ごし現実過程の推移流れを知らずとは言えて、いざ直面するとやはりギャップがある.空白の日々は直ぐに埋まる予定だったがそうもいかず.所々に空白が成立するランダム構造は、モネの睡蓮の池水部位より睡蓮の花部が無い方が例えで合っているか.
小学校年生の時に、深淵はまだ気にしないでよそう、通時の腐った世界を相手にしなけれはと判断したゆえだが、すでに見ている形だけで.ただし個人的な深淵イメージによる、このイメージは今でも変わっていない.
深淵を長く覗く時深淵もまた覗いている-べつに覗いてくれなくてもとは思うがそうもいくまい.ハイデッカーの未完や現象学の即物的な源泉やパスカルの実存など、覗かれているかな.老子の道もそうであるはずだが、非保存を導くように奇妙な保管場所はそもそもそうであり
シャローム・イスラエルは中学の時に教師から覚えたはずで、キブツと一緒に記憶している.シャーロームには平和の意味があるとな.シュロイメ・アンスキーの「イディッシュ民俗学」とはそこまでイデッシュの歴史はあるのか.ナロードなある作家初対面時にナロードのようだと言われた記憶がよみがえる.
今日になって妙にシビアなパーコ心理になりなのかも、デルタ関数分離映像的が苦痛的に浮かぶ.そもそもデルタ分離は非常識な想定だったはずでまずったと思った以前・への対処が浮かんで来たとは信じがたい
がん細胞の先祖帰りなる表現がよくわからないが、そこから飛躍して宗教一般において原典に戻る・戒律を履行するは先祖帰り的?、そこからセルバンテスの有名な作品は宗教の揶揄あるいは擬似宗教的な交錯があるかなのアイデアが浮かぶ.
帰納の未決定は論理を、アブダクションは直観を考慮する.
コルニューの螺旋は焦点に近づき、焦点から焦点まで、収束から収束までで有限ではないかと気がつく.なぜこの螺旋を思いついたのか?、道路設計の知見はなかったのに、なんとなく感じたか?.それはそれとして-敷衍は出来る理屈だが-忘れている左右の定義やスイングバイなどに結び付けられるかも.
とにかくなんでもいいがウルタルのHはルパール直登に複数回挑戦したのだから、直感設定上からメスナーと共に折りに触れて登場してくる.尚取り入れているのは、チョゴリザの雪庇に消えたナンガのブールのみである.「チョゴリに消えた二本のシュプール」として鎮魂も携えて
物象化となったシステム的なものが人を生かすようになると、パン人間疎外では?、その時に理念的に生きると主体的の様に見える.
川端康成は凛としてエレガンス、それ以外はない.
負の宇宙論は非保存系に属しないか?と普通に直感が・・湧く.ポテンシャル+に対してエントロピー-の形なんだが、ただ独立しているということがあって...そうか曲率も+-の三種あるわけだ.
古事記の現代語訳を青空でスクロール、この数多く登場するかタカナは全て漢字だからとても読めたものではないと.天の岩戸の話しは古事記なんだ、この話だけは小学校低学年の時から知っている.坂道を歩きながら不思議な話があるものだと、どうにもうまく情景・辻褄をつけて浮かべずそのまま今に
そんな中で今知った乙巳の変を夢に見た事を思い出す.史実から昼間に想像を巡らした結果なのだが、経緯が曖昧な事も寄与したな.蘇我側の防護柵からの弓矢の応酬で弓矢が無くなってしまうと中臣側の蘇我は怪物的なので慎重に念には念を入れて対処の夢の記憶がある.
古事記・日本書紀・万葉集は奈良時代の産物と知る.防人の話しもその頃になるな、中学生のときに確か日本書紀はいい加減な所が多く、古事記は日本書紀よりまともの権威力あるが、文面が読みづらくて接触放棄から今に至る.二楽章の頃は奈良時代古墳時代はとても遠く、ただ豊葦原瑞穂の言葉を置いただけ
ふと大友家持検索で「春の園・・」の叙景の魅惑の作を知る.記憶で作成したような・いまその風景を見ているではなく、或いは今か?・今の時期にぴつたりで、時空を消去できる心情ロマンものがあったとは、縦構造・専制配慮余儀なくされの「海行かば」とは異なる作風と.
アダルトチルドレン-自分自身のスケープゴートになってしまう.対他XXの心情のような、卒業したてのあるXXがあいうえお順に学業時に常に最初に指名で懲りたと、でNo.はいやだと、社会的にそんな意味ではないのだが、それでは情けなくなるという女子大学生の記憶が韜晦的にあることも?
苦手のフーリエは不連続体を連続体として扱っているので、ナノの急加熱には通用しないのではとの年度のリンク論文を読み始めに見る.そうかそれならいいんだ、麻痺する苦痛の緩和になるから.
渋みの束縛か、トラークルは渋み以上の存在と思っている.ヨーヨーマのチャイコフスキー・アンダンテは渋いまたKronosQのT-Beatitudeもまあ渋いか.
巣穴と掟の門は似ているよな作品のようだ.まあカフカ自体徒労展開構築家だからな.個人的になぜか徒労に呪われているという感覚とはまた違うと思うが、徒労に呪われている-すなわち他者から無意味要請の無駄ばかりを受ける.本来本質的にそんな徒労を要請する人間は既に存在価値を否定しているんだが
昔にEUに行ったとしてもそこには本足で歩いている人間がいるだけだという認識に至っていて、あるXX曰く、フランスに行くからといっても迷ってしまう情態になる.フランス思想など大丈夫なはずで、かろうじてタヒチなら行ってもいいかなとは思った柳腰は間違いないと思える女子大生のそばで
超越数は代数方程式の解にならない-となると固有既約方程式解個を持つ方程式は超越数を持ってないことになる.そんな対象を折に触れて思い出したりしていた・・・.e+πor e-π eπ・・・・は超越数か?の証明無し.eはともかく収束する有限値であるは間違いないな...
限界に追い詰めるも何も、中間存在はもはや限界存在事実で、そのような女性は何かにつけて、脊髄反射衝動的言明をしてくるという馬鹿らしさ・無意味・無駄エネルギー消費要請が多すぎてしょうがない.日常そのようなことは多い行動・行為必然性があるので殊更がある身体であるが、ここでは精神的面の事
ハイエクの個々人がその力を発揮して全体がうまくいくはまあ普通に調和・一丸であることだが、美的判断でそれら領域全体を見ると、必ずと言っていいほど多く不調和が成立する.そうしてその領域全体が嫌になるもそうもいかないダブバが発生して疲れることになる.N-次元作用か反変が人にもあるか?
ブレンデルとは何者?、知っているようで知らない.第音で宝石の言葉が浮かび、・音で夜のが浮かぶ.夜の宝石ブレンデルのエロイカ変奏曲、珠玉の演奏を見つけた.(?彼女達は宝石のような女性達か、そうとも言えるな.べつに気にしてはいなかったが、無意識では気にしていたか-ある昔)
濁ったフェルミ型xxの低次元的スラング惹起させるような生理体には背伸びしても無理、定義なら聴けるなと考えながらブレンデルのエロイカ変奏を聴いていると、これはかのミルプラトーレディズになる.そうか彼女たちらしいが、個人的こだわりだったので、それも時間の蒸し返しになり無意味なものと…
模倣のトートロジーはシミュラークルの不快さであることに気がつく.打ち消しもできればいいが、往々にしてシミュラークル者はタフで頑固で疲れる上に、オリジナル責任がない心理気楽さがまたあり疲れる障害になる.あるいは確信的乗っ取りで罪意識の無い場合で、心理的なライセンス・特許もなくで
義務時間性がありふれている
ちほたん(・・)☆不正選挙は無効だ!! @chihointokyo
大塚耕平氏、森友疑獄にからめて今後の文書管理や情報公開関して終わったあと、稲田朋美に自衛隊の南スーダン派遣問題で追求中。(というか閣僚の無知を晒しまくり。)誰かつだってる? #国会中継
小学生の時に近所の家である雑誌の火星人の描像を見たころ、不思議の国のアリスも浮かべたが、どうもとてもついていけない物語だった.最近でも夢を見たいたらしい話のようだと知ったが、それでも良く夢物語をかけるものだと思う.今読めばまた違った感想があるかもだが、小学生の時の記憶をそのままに
他人と同じになろうとするのは和して同ぜずか?、推定なら一般的にはそうなる.忖度はちょっとあまりいい感じはしないイメージがある、斟酌ならいい感じ要素があるが、いずれにせよ同様意識は個別の「純粋性」の阻害である少なくとも対以外には同じて和せずで...
光文社と警察署も覚えている、墓地は大塚になっている.大塚は山手線の駅名で多少記憶にあるところなんだが、とにかく茗荷谷の名がいい.植物園にもう一度行ってもとは思うけれど、地下鉄駅から遠くそれが妨げる.
広尾とまた異なった明るい空間の記憶があるのは今なら理解できる存在がいたのだった.
ルサンチマンといえば悩んだ結果導入した項目がある.悩んだのはニーチェはもう古いのではと思う情況にあったため.
賛美歌を歌うのは大変なはずと思っている.単に歌うだけならいわゆる歌のうまいテクニックで歌えるが、ソウルがないとまがいになるので.スピリットで歌える人物に会った事はないので、想像がつかない.もう聴くチャンスもなく聴かなかったが、一人だけ可能性のある存在を浮かべる.
秩序は依存信頼度もあるが、言論の不自由もある.
いや〜参る、初期接点時には別にどうでもいいと軽く考えていたある人物が、あるxxに対して倫理面から発語しようとして我慢した内容をそっくり発語されて、そのxx的を強制される羽目になるとは考えもしなかった.個人的にそのxxは障害・邪魔でしかないのに.
濁ったフェルミ型人間に野蛮人と言われたことがある.自己表現だったか曖昧な言い方だつたが、感性はそんなはずは無い情態なのにとは思ったのだが.この人物は人の自己認識・意図に対して呆れるほど真逆を述べた人物だからな.最も野生を捨てようとは思わないが、最近は出せなくなって来た.
カフカの精神年齢はライ麦と同じ頃かがよぎるが、ライ麦より進んでいるな、まあ別にこの辺はなんとなくの香りまでとして.幾つになっても青春なるたとえば老境はこころにライ麦を持っている形にもなるなと、べつにサリンジャーに託ける必要なきことなのだか、サリンジャーの沈黙の意味合いにちょっと
しかし犬が探求するとは失礼な設定であるとも思い不快な気分になる.良く解釈して比喩、または他の表現を思いつかなかったか?.何れにしてもなるほどなイデツシユの倨傲さの滲みを感じた.それから見て変身も残酷物語となり、実存分析的位相は確かにあるのかも知れない.
まさかのエンタングル論登場である.実験結果に理論がとりあえず追いつく予感がする.
起承転結に悩んだ防火池側の道の小学年生を思い出してしまった.必要予定なのにすっかり忘れていた.それに分派と雨上がりの校庭の水たまりも予定への必要記憶と..
ピョンコ節⁈、トレトレ・トコ・ピコ・トンに似ているな.個人的なリズム感を表現した・ある時当てはめた他人、他人表現ではなく当てはめで、自己的ではないか・つもりだったが、序破急・起承転結・正規分布形にも似て.ちなみに当てはめたつもりだったのは、絵のない漫画と捉えた対象.
無自覚者はあるとすれば精神年齢がハイランダー的、ただ未完は踏襲ではなくて、新たな視点へ向かう事の出来る位置にある.普通には誰でもエントロピー変化に巻き込まれているが.世の移り変わり・ここではポテンシャルが非保存となり無常を醸す事になる.そこでは考古学者が活躍したりする.
ha-あまりにも短すぎるので、勇気だせず意図的に書かなかっただけ・電子写真への移行が望まれる.
芸術家に取っては金も政治も関係ないのが本質であるが、現状これらを完璧に無視することはできないだけである.マルクスの理想・意図・目的の世界は芸術家のみの世界にも似ている.そういえばマルクスの伝記に目を通した限り、マルクスは芸術家的生き方をしたと感じた.芸術家的要素がかなりあったな
散る桜は単に恬淡ものか、そうであるとすると無名の人々に無数恬淡なら存在しているはずだが.何やかやでのんびりちょっと休息を取ろうとしていたのに、非保存を考え出したりしてきついのである.もっとも狙いは非保存的保存なんだが.
あるいは類人猿からの伝統が獲得していた多様性?.今回はMイブの肌色が白くなかったとして想定するに、光の原色から白色は発生するので、人間は色的ではなく光的存在であるとするアイデアを考えた.光的存在とは?
eregnet aber Ich kann nicht ehen.合っているかな?、好みを文書化.モーツァルトの疾走する悲しみの心情の表現としてもよいかなと閃いたが.eにまとわつて思い出す穏やかな梅雨の明るい昼間の佇み
どうでもいいと思うものを対象にすると必然的に無駄になる.
老年的超越はそうだったのか”スウェーデン大学のラルス・トルンスタム教授らが提起した「老年的超越」(gerotrancendence)”エリクソンの考えがそうで、ユングにも個性化過程の理論があると、昔のユングの浮かべの必然的理由・偶然時間だったが(通底で必然あるかも?)が判明?
エントロピーが増大しているのだからエントロピー的位相で判断すればいいのだが、なかなか切り替えが難しいのかも-無自覚者やわかっていてもカルマを捨ててはいない存在という事で.老的甘えもあるか、甘えは全時間にあるが.
なればアイヒマンやミルグラム的なケースや依存者も、その対象地位や依存度合いに応じて、責任力が比例増大するとも考える事ができる.模倣だから無責任である事にはならないかな.集団及び共同体の一員的思考者は、責任を拡散している考え方もあるが、微力ながら集団の責任力アップの考えが浮かぶ.
最近の量子もつれ関係論も、いにしえのあの場所で知行合一の陽明と創発時に、エンタングルを描いてそんな馬鹿なと思った事の記憶がある.その後個人趣味的に省いている厄介な朱子学とある高名作家の陽明学とこれまた厄介の引き連れを思い出すが、多分省略だ
グラファイトの弱ワールス力により劈開完全を知る、これもあの池のそばの沢流れで描いた始祖鳥と劈開・取り敢えずの方解石?で、弱ワールス力とグラファイトなら納得する.
カーボンナノホーン・年発見を知らず、この辺は待ち時間の弊害か、フラーレン迄で.しかしフラーのドームがトンボからヒントならば、いにしえの日に大審問官・なぜかスペイン舞台のと複眼を描いた事がある.そうして後年複眼者と直感する女性に遭遇することに、果たして彼女はそうだったか?
要するにこんな迷惑な発言を他人たちはするはずがないが念頭にあって、それはもろくもの崩れを齎す結果なのだがそれでもというほどに他者たちの認識力は高くないというしかない.そんな中になると・朱に交わればというやつで、頭混乱な今付近の時間という事になってしまう.
そんな低い連中に忍耐なんぞをするとやはりろくなことはない以前の蒸し返し・以前の未熟性に逆戻りとかになる.まあ倫理や正義は浅いと申してた存在も主体を歪める発言をしたので、個人的には浅いより低いとしか思いようがない.深い人がドン・キホーテのようなでたらめ認識をするはずはないのだが.
自身は非保存予定の生きている人全て、保存はその子供たちになる.ここにも理屈上、戦いや交錯はある.子育ては非保存予定者の保存化仕事になると.先に非保存予定者が保存中優勢ならばその保存者と協調はあることにもなる.
非保存経済学は?、ランニングコストもそうだけれど埋没費用意識(機会損失とつながるが)は例として原発とか.遠い時間では文化人類学の発掘調査もそうなる.
Linearityなら定義の彼女でいいではないか、あの頃は非線形と複雑さで満杯だったので覆水生理時間は元に戻らずのただしエンタングル関係は保存中のはず-彼女たちは多粒子エンタングル関係といえるではないか、なんと.
つまり物理者の無機的対象思考展開をしている脳内変化脳内情況論の存在を『奇妙な保管場所』の対象とすることになる.この辺は宗教に目覚めた宇宙飛行士や宗教性を意図する・してしまう自然科学者達あたりの事になるな
ほんと非保存世界が目の前に広がっている.小学生の時に設定した形の『奇妙な保管場所』がどこか遠い世界の客観的対象ではなく眼前の現実に浮上でまあ厄介ではある.とても即物的は無理なので少しずつ思考していかねばならないところの対象と思っている以上の場でもあるのかあの頃のシステム構想時では
complex ytemからまたLinearityの日々になった感触を得たER=EPRによって.それでも中間存在の想像力有限性畢竟理性のそれ以下有限性は不快である・中間存在はカルマを持っているが概ねLinearity的でありと思っていて.
なんでできているかではなく関係が問題とは超弦の方向ずれ的な. Ad/CFTにガウスの驚異は適用できるか?.ガウスの驚異の定理の別の面での使い道を思いついた.境界と相転移とその辺での応用を-浮かべただけ.ポアンカレも登場してくるな.ペレルマンもよく理解しているわけでもなく...
一人複雑といったXXがいたが、それは自己記憶の自己内部認識の剽窃でそれが不快なパターンなのである.自己把握は他XXとせずの思いでありジレンマ・トートロジーの反発感と無駄なエネルギー使用を設けるのみ.端的にしらけでありやる気の減少でありなんと図々しいXXだあるいはXYだと思うのみ
つまり「複雑」の一言の想像情景だったその対象意識、想像力と理性のスタミナ比べだったが、限定合理性的な判断の若気の勢い冗談であったことに対する事柄.
なにBH同士のエンタングルでワームホールがあると日経サイエンス.多粒子のエンタングルもありの量子もつれで宇宙はできているとな、これを何十年も前に示していたなら考えることがあったのに.最もその時には冗談の冗談で冗談存在論的なことを考えたのだが、他者がまともに判断するようで困った事も
背後をつく人間は虎型で皮を残すか、そんな人材がいまだに絡まっている心理を持っている.固くオブジェ的思考はつまらない色気のなさで面白くもない論理性と.それで心理の裏側別に意識などしていなくても無意識記憶に侵入して、無茶なでたらめ認識を狂暴的に発揮するというわけだったのかも.
叙事的存在はどうも身体的でその諦念・諦観は虚無になるという判断になる.唯物的・物理主義・行動主義は当然身体的位相にある.もっとも適宜これらの形態・事態は人にとって必要になるものであるが、主義というまでもなくにおいてで.
モチーフと相転移でFBだと超対称性を考えねばとして物理の方がとらえやすい.
珍奇なその関連から太ったお岩のようなイメージを齎す存在が悩ますことに、つまり一生かかっても・死ぬまで美人になれない不可能性をどうすることもできないという絶望不快感によって.グロテスクは普通には本質ではない嫌いな実存だからか、そういえばバロック趣味の時間もあったな
マルドロールの歌はある女子大生が持っていて覚えた.その時にこの漢字はなんと読むといくつかテストされたが全く読めす、例えば蟇を何とだけを覚えている粟田勇もの.創造主の言葉は悪乗りだが、ロートレアモンも何なのか全く意図がわからんウジ虫登場であったな.バオバブの樹はここで知った..
あの頃あの時、ジャワのスコール・バイカル湖の針葉樹・バルト海の・・(思い出せなかったが多分)荒波の種とこの地点をピックアップする無意識作用が働いたのか理由はわからぬがそのままでというケース.ダンツィヒの月とグダニスクのワレサとかバルト海、フィンランドからドイツ北部へ流れて、
やはり知っている限りではヴィトゲンシュタインだけかな.そこでヴェイユの無名の人が出てくるが、システム上は設定してある位相にあるはずで、無名の人はわかりづらい・想定しづらいが、仏教の阿羅漢・ニルヴァーナに達した人・成仏者がその候補かなとも.
孤独なる自由は知っていた.全く代後半に知っていることを求めようと・自分を追いかけるという愚かしい情態に全く落ち込むのである.社会的関係他者たちが災いか、すっかり忘れていた普通には悪くないらしい?XXと共にの潜在時間がそうさせた寄与が大きいかなと判断できるな.
東北太平洋地震は人の関係意識にかかわらず発生した情況である・状況であると判断する.人の意思・意志とは関係なく..無機的事態に思想の自由は効力を持たなかったといえる.去る人物は心理体対象のみと設定していたことになる.
帰納の毒牙にやられている?、人のことは言えず自分がそうか.帰納の傲慢にはまたフェルミ的帰納にはその自覚がどうだかの強烈な不快な記憶がある.しつこいがどうでもいいと思っているとやられることになって.やはり帰納の未決定に無自覚か帰納ミルグラム存在もいるようだ.
ラウンドと作用素、導来感覚を援用して.まあそれ以前にはっきりしている事になっているのだが、可能性が閉塞しないまでも視点に変化持たせるという形で.
threeのXX達が出てくるのだが、ベクトルを想定できるでそれならとは思うことがあった昨日.無意識記述にせよ大いに自己自身を悩ませる記述が出てしまって思いつかなかった全体観.(・・場合もあるのするとかの工夫を考え出したがどうするか・・結構いい処理形だが)
おおよその感覚で教育勅語は代半ばに思ったことがあるな、その時には強いられる印象を受け窮屈であると思った.それと同時に今更教育勅語の時代でもないので考えることもないだろうとしたが-、
差分とkld、デリダの差異はどうも人々はその差を持って考えているようだの簡易な認識でも示唆になっているかな.脱構築はクリエイティブで、レーニンの自由=必然やキャズムのイノベ・アリアダと同じようなものと思うが、安易すぎる?
tenあらゆる思想を動員してその正当性の証左とする設定なんだが、実用上はそこまでしなくても説得力はありそうだが、しかし帰納は未決定もある-ここに懐疑・偽善・無責任・安心・陰謀などを想定できる..
Tulipin Holland @tulip_holland
Mucari with daffodiland red tulip. Have you tayed near the flower field?
#travel to the #tulipinholland http://bit.ly/mxJT
ed
超実数によれば循環小数も有限値で収まってしまうという簡易さがあるが、中学生の時に循環や無理数超越数展開Πの形などから悪循環という言葉を想定・考えてしまったことが色々災いに寄与しているかも.思うに超実数の無限数には単なる設定的な無責任は?.無限下降を超実数化したとしても・無限数下降
確率とはと間で彷徨うものなる昔の単純さを思い出す.ディリクレ・これまた嫌いな二項分布かよ・多項分布もだが、避けていることを結局避けらずになってしまうという現実圧力
シモーヌヴェイユやヴィトゲンシュタインは不幸とは思わない、むしろその生は充実十分だったと思える.ただし個人的な面において.普通に人々は類続与件である家庭生活で子供達と共に平和な時間を過ごすことが幸福であり、幸福という事が種の同調意識にあり、疎外のなさを幸福とすると見るだろう.
競合あるいはライバル・別にいなければライバルはしょうがない無理にせっていしないは初期条件であった.今ではいない方が気楽と単純素朴におもうが、他者の同調意識がどうにも無自覚的な形で圧力・侵入・無駄な所為(他者達には無駄ではないのかもだが)として憚っている形の記憶の除去がなかなか大変
密かなまた過剰かなその時の対象の将来楽しみを他者がしてしまう面白みのなさあるいは競合あるいは・とにかく自由関心の障害となることは、今不快に思っている記憶の言明全てがそうである.とにかく未来予定の対象関心を他者が介入してきてしらけさせやる気の邪魔をしてきたこと多くあり..
ヴェイユは身体的異様障害経験体験者でそれは確かに寄与しているだろうな.例えばカフカとかもその側面はあると思っている.カフカの身体病変は最初の直感では思いも至らなかった記憶はあるが、それ以外にカフカ的特徴は先天的獲得性がまずあるだろうとは思う.確かにその時代に思想が発生はしている
ForbeJAPANVerified account @forbejapan
絶対に受けてはいけないつのはり治療
http://forbejapan.com/article/detail/ …
#はり治療 #無効化
そうなるとたとえばT大生の傲慢などは老子一般的にはよろしくないことになる.そんな漸く忘れた煩わしき事をまた思い出してしまったではないか、それゆえに不都合な与件要素の部位であった事を、ただ理由には納得できかねるが.
東日本大震災は年度発生だったのか、個人的な周期性を設定して当てはめると構想力の膨らむ可能性を思いついた.
その後今の会社が年後に消えている可能性もある.職業も消えてまた新職業が発生しているというエントロピー現象判断のみでもいいけれど、赴くところ市民にしか希望がないと思った代最後のころに、その考えに付随して暗黒域が浮かんでしまうことは、非保存量なる言葉が最も相応しいと思える.
昔は死ぬために生きているだったが、最近では死ぬまで生きていると思うようになっている.
低音・静かに始まるクレッシェンドのボレロ.中学生の時に鍾乳石露見のトンネルの近くで.レベルかラベルか同じようなと自転車に乗った帰り道、ラヴェルなら区別がついたのだが、この時サロメとヨハネでニーチェがちょっと嫌だなと思ったことがあり、全く関係はないのだが嫌な伝説を想起させるニーチェ
あっていいがまだないや妄想の顰的なカムフラージュ遠慮意識とか補足がキーになりすぎている・そんな意図はないこれらは排除して差し支えないものが、関係からの創発が不都合に出ている無意識の結果や意識的なフェアプレーもありて
精神的ユートピアが浮かんできた.宗教の信者・システム依存者・絶対空間者・中間存在・諦念者とか..
おもむろに若き日に今頃なんの抵抗もなくしたためた詩文の記憶がその後今に至って不思議なことに結論を出せない感情をずっと持ち得ていたことは、単に個人的な不条理設定を理性的に解決しようとしていたことに気が付いて、なんとも盾と矛の比喩話は時間を長持ちさせるものだと.
「オイディプス王」がソフォクレスの作で、フロイトのエディプスの語源となったとは、知らずびっくりしてしまった.作者がソフォクレスだったとは.昔に想定していたのは、ソフォクレスくらいの知力があればある大学は合格できるだろうということ.
ある有名な文言に「いわんや悪人をや」があるが、ここでこの人物はこの悪人をなくそうとはしなかったのか疑問が沸いた.善人と悪人が存在しているのはポリコレからは差別?・区別になるが、法華的に対象化していたのなら、悪人ではないことになる
感覚的に分かっても理論・論理的に説明はできず、またそうすることのできないものというのは、いまのところ人間とは何かの答えしか思い至らない.感覚的にせよこの人物は人間とは何かがわかっていることになるが、それは信じがたい.そのような設定にして詭弁的に用いたのでは?
しかし弁証法的対立の現実力もリアルには大変なエネルギーを要する.昔深く考えないで遭遇した人物に悩む羽目・不快すぎる不必要な言明を聞いたために.過小評価されるべきでないことを評価されてあるいは何とかは傲慢であるの構造判断成立者か、まあ後者と捉えたいが.この存在も内部逆で邪魔な存在に
ilencioは今はきついな、その何年かのちやはり廊下でディラックに慄いてためらって、愛を込めてのころはやる気だったのに.災い人物があるXXに位相設置させたのが問題かな.その弟の出現かも.どうも自らを一段下げて自らを追いかけるようになってしまう.その必要はないのに・・・
ロシアより愛を込めてwith love,モチベーション・動機?何か違う---くー、モチーフを知らなかった.(ある年の廊下での思跡)
クリプキの考え方は多世界的に似ていないか?.多世界が現実になった世界をまだ知らない、ただ解釈によっては哲学思想家の歴史上の個性面々をやや同一領域に同時的に集約させると成立としていいものに類似させることが出来ると現実的かな
なんやかやで・頭の痛さでいらだつばからしい思いの結果から、俗物は「しらける明晰」を好むという表現を思いつく.そもそも小学生の時から俗という文字は気持ち悪くまずく脳麻痺を起こさせる文字で使いたくない一つ、あと庶という文字も荒廃を齎し使いたくない文字である.
なにこれ昔の種の特性方程式を解説している?、”有限指数の部分群の位相に対する無限巡回群の完備化”とか見るとそのようで、モノイダルかそういえばそうだな”「有限 G-集合は G が商有限巡回群を通して作用している有限集合 X であり、X の置換を与えると特定することができる」”
クレバーの定性にせよそれは拘束性なので、共時存在論的にも拘束質はあることに気がつく。まあ繊維質もあるのだが。
抑圧を他者に与えて生きた権力型タイプは死に臨んで何を考えるだろう?。抑圧を与えて他者を排斥してきたが、とどのつまり自らが生から排斥されるという憂き目に遭うと。その昔さる国に不老不死の薬を求めたとされる権力者がいたが、この辺の事情をよくわかっていたと見える。
更級日記を読んでいると微笑ましさが伝わってくる
古代エジプトの隕石で作られた剣からプラトンのオリハルコン・オレイカルコスはここに関連していないかと推定.それにしてもプラトンはアトランティス大陸などなぜ構想したのかわからない.まあ太平洋にもムー伝説があるが、これらの話はプレートテクトニクス時代への郷愁がそうさせたと見るのが答かな
必然の認識を女性たちに理解してもらわないとという思いを今頃している・・.この意図する女性たちは偶然によるものと思っていそうな(ただし遭遇時に全く気が付かなかったのだが).その必然を偶然とするから齟齬が発生したかな、そうでない人々の圧力が災いしたとも言いうるか.
存在論的定性的共時的アブダクションと相転移の重合における空想的夢想的な道具的位相・オブジェ的な発育時間の未発達心理文章というある存在者に対する表現だが、もっと簡潔な表現が出来ず.共時的クレバーの質がある技巧的な工芸・工芸的な技巧・技巧性のある文章であるはずなんだが.
ゆえに否定弁証法状態を行うことになるが、そうなると孤独の存在を持続することになる.孤独を認知するのを避けている?、ならば反交換&反交換で偶数化すればいいだけ
意図の持続に弁証法が邪魔をする.一応の弁証法の根拠は交換と反交換の位相にしてあるが、反交換型の生理の特質がどうにも不快でしょうがない.反交換者はとにかく逆を齎す・快には不快を、意図には反意図をなど、超対称を要請するならば反交換者が超対称存在になればいいというなんでもないことだが
昔、権威に従う俗的存在は厄介だと思ったことがあり、それを事大主義と呼ぶとは知らなかった.アイヒマン-アーレントやミルグラムも関連して、畢竟他力本願も出てくるな.思想を与えるとそれに靡くと思われる視野にはいったりした想定する予備軍とかも関連しているかな.
しかしわからん模倣だけで君の固有スペクトルを見るということなのに、思考の個性がないとどうにもならないのだが、その存在の無音的な(無責任のイメージか?)領域が下部に背後に大きく控えていると見えるいらだつ存在の記憶
中国の逸話で西施の真似をして眉を顰めたXXがいるらしいではないか、一歩下がって謙遜している対象は存在唯一なのに、何かにつけて関係ない他者がその唯一としている対象の模倣をする認知がある.そんな模倣者は全くの余計な存在・余計な荷物・無意味な荷重にしか過ぎないのだが.
剽窃するな逆になるな乗っ取るな模倣をするなと思っている人を無視して実行してしまう人物が多い。その人にとってはそんな実行者の節度なき人格存在理由などいらんもので、不快だけの無駄に過ぎないのだが。実行者にとっては無自覚自然でもその人には不自然なでたらめである事を思えもしない実行者達
あの頃・あの時は、極容体しか新しいことは考えていないと謙虚に思った対外心理性.そう新しいことでもなかったかな
超固体年理論予測--極容体なら考えてある.
言語が思考を規定する、なるほどそんな見方もできるが、どうにもそれは指示的な叙事的傾向の対象に比重がかかっているように思える。
どうやらブラマンクは多少の複眼視野を一枚に表現してそれを統一化した描き方をしている・ようなと見えてきたが・・・
直感ではフーコーは叙事的存在にみえるので、フーコーが人間は終焉すると述べるのは、叙事的存在は終焉に向かうと申していると解釈する
グーデルマンの緯度はなるほど空想的におもしろい、これでは足場を与えよか、地球がおもちゃのオブジェになってしまう-キリコ的シュールにしたい.U-Xwoまだ見たことがないな.(足場はアルキメデスでユリイカもそうだった-足場は別の思考からなんだが、・日前のことをもう忘れている)
ファインマンの黒板-モーメント交換相互作用で近藤的に分離形を想定してどうのこうの・どうもよく見えない不分明だが、冗談ではないようですねMr.ファインマンということらしい.
ヤン・バクスターでうまく行きそうで行かないという代物か
スピンの演算子から、スピンは回転すると符号が変わる・向きが変わるというアイデアを思いついた、この自然界にそんな形態をとる要素がないとは言えないとか
マーゴラス=レヴィンチンは今となっては破られる方向を考えざるを得ないという個人的仮想で限子想定からだが、電子は集約物とすでに述べている人物がいる事を知っている.あの頃ははったり的であるとして流していたが、今頃浮上してくる羽目になる人物が
テグマーグはウィトゲンシュタインのTLPを理解できない・だろう予測が成立する.どこかフィラデルフィア的な感触の香りという表現にしておこう..比翼連理的存在とは・やはり離婚していた.
Zue Zを知らなかった、シミュレーテッドリアリティは敗退だと思うけれど、デジタル者にとっては野心の過程でもあるだろうな.
ニアリーな半径迄行って戻ってくるという経験は、地獄からの生還にも似て、この辺の事情から、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」の息吹を感じている、実に聖書恐るべしか?、動物類支配はさほどのことはない.
BHがエントロピーを持つことはなんでない認識である--ブラックホールに時間があると仮想した小学生がいて、それならばエントロピーは何でもなくなる.今そうなると、非保存量と市場原理や希望市民の存立が導けそうだ.ただBHの嫌なところは域内では明らかに生存できないことである.
ベイカー・シュナイダーと来てオイラーの定数となる.ガロアが出てくるが、どうにも種の既約方程式を含んだ方程式が存在するのかどうか?、待ちすぎた時間多すぎてとても思考無理な気分.この待ちすぎた時間の対象XXが意味のない存在的位相でしばしば登場してきて妨害になり・・愚かしき待ちだった
そうするとあの夏の河原でのゼロ・卵形の高高速度回転・限界を超えたスピードは何を意味しているのだろう-少なくとも地球の自転速度よりかは速かった感触の砂地に咲いた鮮やかな一本の名も知らぬ花は「砂の上の植物群」という書物に後にぶつかることになり、だが驟雨のセンスに傾きである
シルコのジェネリックとフラクタルの自然性とか、ツイートすることがないのでリンクを整理しはじめたが、なんともでもう笑ってしまう楽しいのかやけ気味なのか?、役に立つ・役に立つ必要があるとしてリンクを保存しているが.
”二つの異なる実数 a < b を取ったとき、これらの値がどんなに近い場合でも、開区間 (a,b)は R と同じ濃度の実数が含まれている”--この意味でaとbがほとんど同じでもその小さな差異の間には濃度が金太郎あめ的的に存在していて、机の上の似た書物の区別が出来ずという悩みがあり
連続体仮説はどうも騙されている気がしてならない、なぜかを表現するのは困難だが直感上からそう思う.誰か何かそのうち新案を出すのではないか
パーコとレブナーのkとかこれも役に立つというか多様なブラウン運動なんだがその未決は中学生の時の花粉の動きの逸話から.ブルバキの点化は昨夜の話.Θの原点はあの豆腐屋の横の坂道での映像なんだ、その周り込んだところで花粉を見たのだけれど.
フロイデンタールやH空間のラドン=ニコディム性とリース--ルベーグを思い出させながら役に立つこの辺.
kc14061:このブログ(夢・哲学・詩)は結局自叙伝的で記述は非線形的(時間自由)更新をします.autobiography at all--this blog have nonlinear timeline: マイシステム設定を一応使用する.my Religion is the Heaven of the Space. My-systemがあなたを導きます.0~30の数値の中で一つだけ自由に好きな数字を選んでください.
2017-04-20
2017-02-17
my ft 02172017
あまりにも簡単なことに盲点の束縛時間が長すぎたという愚かしくもある個人的なことなんだが、義務教育時代に坂道を歩きながら悩んで押される結果にやけくそ妥協を強いられる記憶のある対象故に時間がかかってしまったのかも.
どおりで最近のコンパクトがルーズというか示しのつかないものになっているわけだ.球面とはこれでは商空間というのもわかりづらいが任意のコンパクト化の一つとみればそうなるか.Rが空間にな.これならまだ救いがあるというものである.確かにブルバキの論理からは神云々は容易に導けるな
共有原始形質を古モンゴロイドは持っていて新モンゴロイドは固有派生形質を持っていると、そこが違うのか.共有祖先形質ゆえに火焔土器は世界で通用すると思うわけだと感じる.固有派生形質に関しては?、この辺からユングの元型についての中学生の時から気にしていた日本人適用性の解決を見たと思う.
ゆえにこのXXの無意識・潜在能力を探索すると次元の低いというか不都合な逆行を思念することになってしまい往生することになる.謙虚に相談を持ち掛けても脊髄反射反応や他の男と誤解をしたり戦争論の弱点ではないのに弱点と思い込んでしつこく繰り返したり、なんとも無駄ばかり...
このXXはヤスパース・ワーズワース的で古いというより他の世界を了解できない予測が成立していて、できる領域での思念で気になることはあるがだが、それでも視野の領域が狭いので少しまずいと.普通に%一致なら合格の妥協OKであるがそうもいかずのまま、相変わらず出現することに.
思い出すと泣けてくる、愛おしさを沁みさせて、でもこれはまたまたまずいあるXXの心情のようで困る.このXXでは不都合なのになぜこの心情に今なってしまうのか、違うんだが・・・
思えば秋の校庭脇の落葉松系の幼き木々と萱のだいだい色の世界で思った小学生、定義はいいのだけれどそのコンパクトさが不自由な面を感じさせ・覚えさせてが無意識に作用したかも知れない.
定義の明晰型は好みだがまた似ているのだが、非線形に自信はないという理由のみで留保したXXは今頃どうしているだろう、忘れないがまた忘れる必要のない存在なのであり・・・
まあ反交換のフェルミ型で柔軟が鞭のようなタイプは宿命型でもあるが、今ふとビクトリー型ではないかと思いつき、そうかそれなら権力志向性も判断できるとようやく閃いた.しかし叙事的思考の全くつまらん趣味に合わない感性の持ち主である、今頃どうなっているかな?
太宰治はずっと作家になりたかったので、「何をやっても駄目だから作家になったんだ」は共同社会に対するよくある弁明に過ぎない.森鴎外もそんな傾向があるな.窮鼠猫を噛んだ心理状態の発語というわけだ.
小学生の時に錬金術を思い気にはなるがなんともやりきれない気分になったことがある.冶金もそうだが化学の話のような想定であったかな.化学という言葉は小学生の時に知った記憶はない.中学生の時に最も印象に残ってるのは水酸化ナトリウムと付随したナトリウムで塩化ナトリウムは勿論
しかしなれど青春時代の写真はなんとなくの錯乱気味になって全て燃やしてしまった。非常に不都合を齎す事になったあるxxの作用によるのだが、いまでも作用があるのでまずい事は起こり得る可能性あるが、必然の枠内のマイナス?面対象か、プラス面者はまた不都合な言明を言いすぎてまずい事になり・・
現実に目覚める形はよくわかる・何しろ時間を待っていたこともありその間パス的な現実故に.--実際は現実を目覚めさせると昔の意図だったが、最近は不明錯綜になっている.昔にその時の情況を詩的表現したことがあり、なんでもないおもむろさだったがの内容がなぜか尾を引きすぎて、なんとも混乱気味
今の状態からはボルヘスはまだ?明晰と言えそう
現実に目覚めるはよくわかる、わかるが今は現実と思念が錯綜していて、恰もその境界的位相で混沌気味
p進は下に有界で有限でいいと直感したあの時、有限は距離感覚も作用したのだったかな?.ともかくハッセにせよフェルマーにせよ、実数とp進数の関係は、∞*/∞=と簡略して見た.実数に関しては中学生の時のあの橋のたもとでπ的や循環数とかで悩んだ記憶は忘れないな・・
どうなんだろうモチーフはある程度出来上がっているのかな、知らないな.ギャップをどのように克服しているのか興味ある.個人的には限界子・限子と仮想しているプランク数以下が登場していると思うが、その域では多分に人々はペンローズにヒント得ているだろうな.
何だろうつながっているだろうと推定するがまだつながっていないようなp進とモンスター数.だいたいガロアのフラクタルでモチーフ困難は推定できるからだ.冗談じゃないなぜこんなことを考えてしまうのかと思ったランダムを設定する起因の場所の近くを歩きながら、この困難は深淵ギャップを想定させて
小学生の時に量子現象を考えていくらなんでもまだ早すぎるだろうと自己セーブをかけたのがまずかったか、あるいは中間的な誰かがセーブをかけて中途半端なままにするといった可能性もあったな.それでも光の直進粒子位相は自然に思いついた小学生.
言葉の子音にしろp進にしろすでに義務教育時代に浮かべたまではいいのだが.子音の発音がきつくてまあ別に子音などどうでも差し支えないだろうとした、が英語で子音には価値があり.などの数えきれないつながりなど思考することは人間的ではないとしたが今のコンピュータ時代になんともと
あの道のコンクリートの遮蔽物のところでやとかの数値列の長さを思い浮かべたのはいいが、こんなことはやっていられるかとした義務教育の日の記憶が災いしているような?
ブームは明らかにパーコ現象と考えた記憶がある.流行に対してパーコを操作できるか、そうすると意図的にブームを作り出すことが出来る.最近は日曜から月曜にかけてギャップを感じ逆パーコ・パーコ還元のような思いをなぜかするようになってきつい.ギャップを相転移的心理とすると負荷がかかりすぎる
無限遠点で素なるアデールとなると紀伊国屋での無限遠点の動向に答えを出せという内部の声もこれを示唆していたのか.素とは無限遠点でゼロではなく焦点に収束することになるが、有限無限が成立してそこには制約があるというおかしな話になる
固有値を個持っている方程式があるか?、特性方程式を考えているときに浮かべた個の既約方程式・既約自体は非可換であることになっているが解であることは間違いないというものはあるのかな?.
有名なエピソードでキリストは単性生殖でマリアが産んだだが、ヨセフの実態はどうなのかな?は省略すれば、キリストは予測される遠い未来のXX単性生殖による存在ということになる.まさか単性生殖を新約時代に考えていたとは思えないが、キリストは遠い未来人あるという事も成り立つ.新約恐るべし?
ここで反転を考えて数百年前の人類はどうであったか、現在に至るまでどのように変化したを鑑みると、現在をルーシー・アルディ&カダバのころとすると、数百万年後の人類の容態はXX単独というよりもっと変化していてもいいような気がする.果たして数百万年後に人類が存続しているかどうかも不明かな
ワンパターンのあるxxがいて、どうもその持続性の変化しそうにない様相からまるで悪魔のような存在と思う-悪女の深情けを知らなかったが.ゾンビ的なアンデッド的とも表現できそうなある映画を見ながらヒントを得る.
不本意な忍耐を強いられる時は他者から意地悪を受けている、それが意図的だろうとそうでなかろうとである。とにかく不本意な忍耐によって調子付く存在は不快でしょうがない。主体的忍耐の邪魔でしかなく、この邪魔な記憶の消去が結構困難で無駄にエネルギーを費やす事に
月の雨よ、池から流れる沢の小さき木橋を渡る小道よ、歩みて業を思う心に佇みて構造を想う雨の透過よ、傍らの群れ伸びる野草よ.(月のそぼ降る雨の中小さな沢にかかる橋を渡り、名も知らぬ群れ密集する野草の脇ににて-の幼き?若き?日の記憶から)
仏教の二惑から見惑と思惑において、思惑はあまり考えたことがなかったが、事実上中間存在は限界を持つは思惑にあたる.倶舎論の一来向を家家(けけ)と称するを知り、なんだ仏教考えてあるなとまたまたミクロ見解を生じる.やたらと大げさな表現がありすぎるマクロタッチで静かになっていたのだが.
まいったな問題は片付いていたことを何十年もかかって発見するとは.所々諸々の未熟な阻害が邪魔をした形だが、先達を尊重するという長いものや伝統や踏襲性にもよる要素もあるかな..
現実は叙事的だけではないので覇者型が策謀意識を持つのは本能的なものであるだろうと.しかし叙事体人間には策謀体比重強き存在もいて、なんと虚偽体に映る存在も経験上顧みて遭遇した記憶がある.抒情的のみかと思えば無機物実在からそうもいかないというジレンマもある.
陋劣な頭脳の持ち主のXXは気持ち悪いとは思うが、ある場所である女子大生か母親と一緒にいたので女子高生かの美女に気持ち悪いといわれたことがある.全くストレートに述べるものだ.まあ気持ち悪かったのだろうの頭脳性の状態だったのかそれが現実的に普通なのかも知れぬ・・・.しかしなぜ対象に?
T大・ある小学生に捩れを齎した存在
思い出して見るとカルナップの完璧主義ではなく歳の一様にその後ある駅で遭遇したことが思考進展のなさにつながっている可能性が最もの気がする.
嫌いだったポアンカレから非保存量を用いて希望市民に付随する暗黒と市場原理を考える時に登場する深淵を非保存量と設定すると旨くいきそうだが、思考が進まない.基本・初等的に非保存量を知っている人材は何か考えていそうでそれを知らない・気が付かないだけか、またはやはり考えてはいないとか
竜安寺の石庭の石の数は個?、ならば個人的には阿頼耶識・無意識が飛び込んでくる.禅宗の庭らしいのだが.
天上天下唯我独尊表現はエゴイズムの極北と思えない事もない。この付近から他人に同情や親切にするタイプではなく、他者に傲慢・倨傲な存在が天国に結構行くものであるなる考えを類推したくなる。そんな馬鹿なな思いはあるが、神は超権力的存在と考えるのが一般なのでありなのかも。超権力的存在は倨傲
法華宗の人は誰でも仏性を持っているとは、誰でも天上天下唯我独尊的であると解釈出来るのだが、複数存在が唯我独尊とは矛盾していないか?。唯我独尊を肯定するならば唯我独尊的位相で、ホッブスの懸念見解の競争があることになるが、概して現実の様相はそう見えなくもない。
人は何者か判明すれば未来は必要ないと直感が述べている。
人間の持つ不可侵なものとは?。それは人間とは何かの対象であり哲学的命題でもあり、また人は何処へ行くのかでもあると思える。機能・物理主義的では簡単すぎて部分しか表現していないと判断する。
ある種の普通の人はパワーを自分では持っていないが他者の権威を用いて厄介な存在だと昔から直感で思っていた。数年前からハンナ・アーレントの存在を知り、何となくその種の人間はミルグラム傾向がありそうだと。
ちょっと待った普遍グラスマン多様体、何となく
?味しめは優雅であることの快感者か・・.優雅など別に今更どうでもいいと思った歳を知っているが、とにかく味しめはセンスが悪く頭痛い意識構造者が多い.よく言えばスマートだが、そうスマートにも見えず.センスいい優雅ならいいのだが.
気取りが快楽で味を占めてワンパターン化した存在を、官能を用いた性的な位相の幸福な安心な安全と思える感覚を持つ多数派という偽善形式者を気取りマシン・気取りロボットと認定と思いついた.ワンパターン化してどうにもならないのでもはやそれはマシン的な作用者・位相者ということに
別に理性が間に合わなくてもXYがXXになるわけはないのだが、まったく付け入ってくる存在たちをからかっていることに・わざわざからかわれることをしてくる存在たちがいるものである.
最も空想力が得意な人は多いが、ともかく理性が困難・カントの理性の帰結は論理的に正当にしか思えないが・な展開は成立している.パスカルのジレンマとも.
人は現実において想像力を用いる.
ポアンカレ・その名のずぼら?な拘束イメージが嫌いで避けざるを得なかったが、かろうじて論文修正は知っていた.カオス・体の関与者とはまあ知らなかったといえる.あの時の摂動・埃立つ道で摂動自体は摂動で、他にあるのが非保存の深淵ということの予感であった思い出.
夏目漱石の小説には三角関係的記述ケースが多い.夏目漱石は永遠を希求していたことがうかがわれる.三角関係と三体問題は同じような位相を持つ可能性がある.三角関係はしないつもりが他者が干渉してくる・この他者たちは何を求めているのか、不動心不変なものに引っ張られているのか?.
狗子仏性で仏性があるは常識なんだ、法華宗の寄与?.無すらないことは空がないことなのか、陰陽の太虚と無すらないとどのような差異がある?.空即是色色即是空の空がないはずの無
霧藻ヶ峰にはレリーフがあって不思議なその意図は?、道に佇んで前面の景色の視野に枯れ枝だったか、サルオガセを初めて見ていい感じの高山的雰囲気を持った記憶もある.サルオガセは霧藻とも別名があるとは今知り、霧は煙霧の霧かと思っていた、確かに名前の通りの所であるな.この感慨も再度にはなく
明るい市民の希望に暗黒が付随していたハイティーンのころからの、この暗黒付随が市場原理としても登場している.陰陽には完全な陽や陰はなく、五行に相生と相剋がありと知る.この暗黒はどうにも陰陽的になるが、人間的で表があれば裏があるとかにつながり、表裏一体や日向には影ができるなども.
今の思考視点で物事を考えても視点レベルを下げた形になってしまう.所詮システム構想のころ以上にならない.帰納の実践思考を積み上げたところで、現在・現状時間に即しているだけにしかならず.もっとも生理的に人は現状に即して生きざるを得ないか
イデアル化ザリスキー化してみてしまうからか?、しかし重なると分岐で解析困難が発生する.普通に多層多様解析判断可能な人は強制的に射影化して重ねてしまうと見た.
単に正規分布のフラクタルではなくて、場における多様な正規分布のネットワークに重ねて多様フラクタルに時間フラクタルも取り入れて.ポアンカレの体がどこに登場するかなんだが
記憶のワンパターン存在のイメージがスケーリング的にマイナス一のはずで、それで等速直線運動のイメージも持てない、単に負荷のみの荷物的荷重存在にしか見えない理屈は想定できるが、この登場という困難さを予期した中学生と障害の小学生
正規分布も複雑系も何だった?というような蒙昧頭になっている.ある陋劣頭のXXが作用してそのような蒙昧を形成している可能性が高い.無知無自覚XXが単に生を生きてまたより行動的だと蒙昧な忙しさを強要するからな.まあ会社などのヒエラルキー構造は断面がベルカーブに見えそうだ.
ある一定の大きさの小さな粒を何個か平面上に落としてみると横は正規分布形になり、全景はベルカーブを形成することは紛れもない経験事実・自然である.人々はこれゆえに正規分布思考をするのだが、それは当然で当たり前すぎる日常である.が複雑系は少し異なることを昔から何だが、まだ正規はありて
例えば陰陽論にしてもその止揚は太虚しかないではないか、唯物弁証法の理想にせよ絶対知にせよそれ以前の過程の時間経過反復パターンでしかない.その反復を保証する形の造形物として人間類は存在しているのだが.
昔のある時ある場所で未発言ながら内的思考で、あるxxに対して精神現象学を読めばと考えたときに、ハイネという曖昧な名が浮かび何故なんだと、ハイネはどうやらヘーゲルを尊敬していたような事を知り、それで合点が行ったが、そうだったのかと思考展開上に暫くの可能時間を見い出した・・
フェルミとポーズに関しては物理的に弁証法を展開するのは難しい。超対称性しか知りえていないが。弁証法は基底本質以下のレベルでないと成立しないかも
どうやらタナトスとエロス、陰と陽、フェルミとポーズ、宿命と運命とかパターンができ、黒い神聖は夜のフェルミ的かな?、フェルミにはタナトスの影をどちらかといえば感じる・見るが、フェルミ的は他者に押し付けても所詮意味ないのでは?、無意識自覚をしているか?と思考が進むこの感性知覚によれば
トリックスターをユングが取り上げていた、知らずこれかユングに対しては?。あの橋のところで元型を浮かべたはいいが、その先がさっぱり進めなかった。そうかいまでは汎関数自体に汎無意識を設定してもいいかなとは思える。
揺れるアジアと言って経済第一の見方だろうが、マルクスの述べた資本国になるべきだ・が実際にアジア式国々に展開中。この後マルクスの目論見通りに行きはしないだろう、新たな視点は宇宙自然への対処かな?、理想の後でも必要であるはずで、まあ今でも温暖化検討や陽転の寄与が想定できる
義務の連続である殉教的存在は必然的に全ての可能世界を義務化するわけではないので、限界合理的な生を送るという結果に終わる・から現存在はほとんど未完に終わるという意見も採用できる.完結すると継続が成立しない有機性が世界があった・世界がある筈・はずだろうとなる.
必然的自由は自然的義務であるのだが、可能世界の中でその一つの選択はかなりの束縛と思えばそうであるが、人々はそれを日常行っている.その義務に多様種類があるという生活空間.ゆえに勝手なことをしているという意見が登場する・また義務の連続が当然という殉教的実在も多くいる.
Kのスキー滑降はまさに無茶苦茶すぎるだろうNRでさえから考えて、ナンガのシェル・ルートは容易・個人的には全く不可能だが・と思う.メスナールートで、単独でいいのだが、冬には想定していないがエクストリーム的にはそうなるか.メスナールートを冬季単独無酸素なる人物が現れるのかも.
最大値の皮肉
縦横無尽は超対称性の現実化
今日現在の時点で昔からまだ少しも変化していない領域対象があることの認知をする.逆行する事もあるかもでそれも考慮しておかないとか.逆行はむしろ変化をしなかった秩序の圧力か本質の無変化とでもいうべきか、ただ時間は経過している、ただし空間はそう変化をしていない.
ミレニアル世代、了解している理不尽不自然と個人的には矛盾が解けなかった事も踏まえて年代生まれなら、またそれ以降世代が世の中を変えるだろうと思っている。
またまた余りにも単純に気がつくべきことに何十年も費やした事に気がつく。自分の才能ゆえにと言えばそれまでだが、なんと愚かしい思いと不条理と、だが超対称性も浮かびなんとも心理は受け付けず。超対称性は物理対象的には想定だろうが、心理的には理想か無知に思える。
理解してみれば、理解した形とみてだが、すぐに気がついてもいいレベルの事柄に何十年も掛ける。既に把握しているのに事態はそこあるままの何故か頭脳が麻痺している情態の持続が続いて。かような苛立つがそのままが続く不快なケースは多くあり、悩む必要無いのに悩みの種になってしまう。
俗物の質の悪さはその明晰志向によっても除去できない、欺瞞で質の悪さを隠すか無自覚で気にしないで他者の審美感に意地悪をするだけとかその他・・
人間の存在論的ありように含まれていてそれについてどうのこうのいえるものではない--カントの物自体も確か言いえないものではなかったか-はともかくとして、それによって行使された・書かれたものについてもやや批評できない事になるのではないか?
なんだか変で、逆になっていることに気が付かない存在たちになんだか遭遇しすぎているようである.とするとも直接に寄与していることになるが、それも無意識を用いている形で.
しかしどうにも昔の主体の阻害要請・強要者たちの記憶が不快でしょうがない邪魔になっている.なぜこれら多くの人間は主体を歪めたがるのか??まったくわからん.意味がない上に、人の主体を歪めているとは全く思わないでどうも消えてしまった人物もいる気がする.全く無茶苦茶だ.
面食らってしまったum、テトレーションのデザインの良さと二年生の夢のまさに童話感覚-どんぐりかそれに類するナッツ類を連想させて
生活を変えるしかない-Wbot.全くわからない、恣意的は?、人間を変えるしかないでは?
中身の詰まった空とは矛盾しているが、空が集まって密度・濃度をもって有が成立する運びとなった?.しかしまだ誰も知らない、ただ空であったろうと想定しているだけで.
アベルとカインにセスという弟が傷んだ、知らなかった.どうもノアの箱舟のようで、ノアの直系先祖がセスということになっているそうだ.wa nothingとは太虚か空かどうしても人は最初は空を想定せざるを得ないようだ.中身の詰まった空でないとつじつまがあわない
実存といえばフランクルが最も誠意があるだろうと思える.その点小説家カフカは指摘のオンパレードでくどいといえなくもない.サルトルはクリプキの可能世界がフラクタル的な多様性を持つ中からとか、これを思うと蜘蛛の糸の作者も実存性を垣間見て漠とした不安は虚無に繋がる実存性の体感であったとか
審判を読んだというか眺めたというか昔、文庫の最後部にあった断片でテントレット(名前は確かそうだとで昔の記憶なので定かではないが、この名前が個人的には普通に通るゆえ)屋根裏部屋へ行くとかの下りは妙味を感じたが.実存が本質に足らないといえば典型的だが、一言本質が不明で事は足りるカフカ
パスカルの中間存在である現存在は当然未完で終わるのは明白なんだが、ハイデッガーがほとんどの現存在は未完で終わるというときは本質に対する実存の定義からか、サルトルの世界の責任の引き受けは未完的存在とも思えない、そもそも未完的人間に世界の責任などという位相が持てるのか?
レオン最終場面・脱出もう一歩のところで(やはり封建主義では暗く遠くにみえる明るい点のところへ行かないといけないとした小学一年生.年の時には黒体輻射の内部から差し込む小さい点の穴に変貌して)現存在の多くは未完成に終わるとはハイデッガーのシチュエーションのとあるミクロタッチケーズ
それにつけて思う叙事的人間の底の浅さ・離散単純化する暴言的思考であるエピック.歴史は事象的に叙事的な事実が残るのが常であるが、この視点に徳辺的に絡まってしまった傲慢な難物がその抒情性の不可能さをもって存在した記憶がいまだに不快すぎる物としてある.その逆でなければ無理解の典型態度が
レーガンやジョン・レノンを撃った人物の身近にライ麦畑で捕まえてがあったとTVのセリフ、そうなんだ理由は即座には不明.ライ麦は解釈が難しかったが今のところ、境界時間を超えず、境界内に意識をとどめておく、つまりロウ・ハイティーン時代のままと解釈しているが、正解かどうかは定かではない.
どうもバカらしさか困難さか自己諧謔をしてまたそんなことを思っているとそれが現実になる.実際は単なる空想と思っているのだが、他人から見ると無責任を堪能できるので誘惑に負けるようであるが、共同意識尊重者であるとかその他であるだろうな.
阿弥陀は親鸞ただ一人を--選択しただったか、親鸞も相当他者に対して救済自身があったと見える.阿弥陀の身が立たぬのツイートを見たが、マズローの第段階のセリフであるようなのだが、実効力に疑問が、そうでなければ法華的内容の心情に依存している可能性が.
現実に遭遇する事象は年間的第ステージを去年を意識する限り成立する.今年も結びつける要素があってそれゆえにそんなことを思う.それ以前の年間の記憶はない形で・結びつけが困難な心情は?
信頼できないのではなく他者が信頼しないというケース・そうしてそれらの人々は常にやり直し・蒸し返しをして無駄な労力を要請して、歪めをを生じるものである.
長いものには巻かれろは無責任と関係しているなと、小学生の時に近所の家の通路で浮かべた世襲も、ローマは日にしてならずと結びつくと判断できた。この両者には関連を想定できる。
パーコレーションは創発説になるのか、ペンローズのちりも集まれば山となるではないが、なんらかの微小があつまれば電子に・ブランク距離になるという創発説パターンがあったな。無限下降により不可知であるでは怠慢にしかなってはいないが、然りとて太虚にしてしまうのも思弁的不実在論である。
後天的な行動主義的な視点を垣間見る移動エントロピー論、優秀な発想力と共に苦肉の策も覚える。なるほどセマンやプラグマの困難さがわかる。そもそも被養育者は先天的に視線を向ける能力を持っているのであり、ロボットは心の哲学意識を持ち得ていない点が、難問としてある。
奥秩父のある所に賽の河原と呼ばれるところがあって、昔その時には幻想的に嫌な思いをして稜線デートをしそこなった記憶がある.まあ下って登るのが嫌な場所でそれがよぎったこともあるが.賽の河原は子供用の話とは知らずに.「蜘蛛の糸」にせよ仏教も脅迫と宥め・賺しがあるもので嫌な気分が発生する
相国寺の中庭は一瞬の良さは覚えたがそれだけの時間でしかなく、自分で作成しないといけないことになる.要するに愛着を自家薬籠にするような庭景がいいのだが、自家薬籠に関しては小学生の時に丹精を込めた梨の木が行方不明になってしまって、それ以来薬籠に関していらだち感情を持つことに.
しかし潜在能力がない対象も困ったものである.それと潜在能力を潰すタイプにXXが多い経験がある.女性は芸術品であると言って置きながら、結婚は失敗だったと述べた作家がいたがこれも不快な例だな.自己の性意識レベルの拙さ?を棚に上げたか、その対象が悪すぎだったとかでは?.
それがそうであると示せば、その確かな実在を、記憶してるとして明瞭に名+名とその他名くらいしか知っていないかな・・・
(その人物はエントロピー増大に関しての試案となっているかも知れないと幾分思ったようである.この域に関して年齢は不問であるともしている)
(その人物は他人を無視はしない、特に同じ考え方をする他人であるならば)ということを私は知っている.
(ある人物がいて秘かにその人物の思考形を用いてみてくれと考えている.とにかく使ってみてその結果を見てから判断してもらいたいとその人物は思っているが、人は使おうとせずむしろその人物を強制的に無視する.その人物はそれらの存在達に責任があり人口減少や高齢者問題対処権利があるとしている)
そうすると昔わからなかった精神分裂者・統合失調者の描いた絵の、ワンパターンの不変性はあるがそれを思考的に表現できなかった絵も、ベクトル的ではなくアフィン的とみて差し支えないかな.
昔岐阜のある男子高校生の夏休みに因数分解の質問をされて一意性に迷ったことがあり、高校生にだめだ言われた記憶がある.慶応を狙っているとか言っていたがまさかとは思ったのも以心伝心的にプライドを刺激した面もあるようだったが、単項イデアルのみを考えていたような高校生・は甘いと言えないか
ふと浮かんできて限界合理性はベクトル空間では?と.あの複雑怪奇もアフィン的にはそうだなというくらいに見えるものなんだと気が付いた.いわゆる混沌自体的なものについて.
シンプレティック部分空間はナイスであるとしか言いようがない.行列が嫌いなので意識に上らなかった面もあるかな?.なんとなくようやく探し当てた古典論とか.冗談で古い陳腐と思う人々を持ち上げて、{古典とする時間と空間}などと表現したことがあったが、自分に跳ね返ってきた.
斜交形式部分空間の斜交的・等方的・余等方的・ラグランジュ的の種--シンプレクティックの言葉はあの頃全く記憶にない.こじつけてみれば特性方程式の種の既約方程式が似ているようなだが、これは類体・数論傾向と思っていた.
なんとこの書物の最後面にはヴィトゲンシュタインの個々の把握像はあるが、人々は全体像をとらえてはいないとある.まだそうなのか、eventeen/th
が空白なのもまだ救いはあるかな.『言語は口に描写された画像である』--これを記述してあるのだが、明らかにTLPの寄与があるな・・・
さすがに戦争対峙では実存分析的要素は出てくる、実戦上においても有能なリーダーだったのは資質的に定言的人間だからの面もあったようである.身体の限界を感じていたのは戦争初期から海馬的存在だったか、あるいはどうにもならに有限性を戦争時に感じた面もありそうだ.
DNAトポイソメラーゼは実践的DNAトポロジー範疇か?、化学・生理学的な複雑な絡み合いなら因子多く、解析できそうではある時間を介在できるかなと.この場合時間は瞬間的とはならないが、転写構造などは結局無駄なDNAはまずないという中学校の体育館での直感の範囲であった.
別にヴィトゲンシュタイン専らモデルなんだが、多くの人々がなんだかんだと追及・研究・調査などやエピソード論などを展開しているので、それに任せるという手段もないことはない.棚にシェリングもあって思い出す昔、ベルグソン論をちらっと、純粋持続の多様複合も『奇妙な保管場所』の参考にはなる
どうでもいいのだが不細工なXXには幻想ごまかしまたは欲望自然で実際には審美感覚が欠如しているとしか思えず、これはカントもそう述べている・カントの判断力における欲望面しか持ってはいないということなんだが、悪人正機説的には悪人で無自覚のずぶとさを全く持っているという傲慢存在がいるのだ
一般に渋味と言われているものはエートスであるが、どうもこのエートスは束縛力強くその方向で人生を送ってもいいのだが、鬱屈につながり体質的に好まないな.深淵・深遠とかはそれを渋味一様にはしたくはないが、渋味一様は弘法筆を選ばずの束縛的閉鎖的ではあるが一面もあるので否定もできず
種類の戦いで心理不調になり生理的異変をもたらしたことがあるが、次方程式や次元があったのになんということかと今ふと思いつく.神聖型のイージーさがやや問題だった記憶だったが、カントの美・判断力批判からもそれもないと言う事になる.
フェルミ人間も単体要素強く孤独的存在で、他者達の密接さを裂く可能性が高いのはその必然的固有要素による.反交換は交換の邪魔をすることは明らかである.反交換から見ればその行為は自然でも交換からは不自然なことを反交換者には想像できない・考えもつかなそうなと言ってしまいたい経験がある.
この不思議な感覚の別離・乖離位相場は超対称位相ということになるが、現実にはフェルミ・ボーズ混淆して生きているのは当たり前なのに、超対称自体は本質的には現実とはかなり離れた位相のようである.
フェルミ的位相者には叙事性が強い判断があるが、必ずしもフェルミ型が古いというわけではない.フェルミ型はまた縦型人間が多い.フェルミ粒子は今もそこにあり、経験上フェルミ位相・これは何と思ったことがある.そこには乖離があるのは確かだが、こんな心理位相がなぜ成立するのかと思ったものだ
なんとか価値を見つけようとするXX達のだが、その潜在意識には意味がないケース十分すぎて
幕を開けるとそのXXが不利になるので、潜在・無意識を探索した時に幕をあけちゃだめとそのXXが述べている形の考えが浮かび、すでに開いているのにこの愚昧さ、責任はこのXXの存在にもあると思っている.
モノポールなき磁性体は追随性を有していると言える今のところ.ハードディスクは?、そうなるとロボットは限界を持つような、ロボットはロボットであると.
経験上著名な作家類は抑圧しか受け取った覚えしかない.抑圧という意味なき心理の無駄をさせる束縛観点を齎したという不快記憶しか
未完成の人間には将来性があるように見えるが、結果大したことはなく終わってしまったとかのケースは多くある.この将来性はエントロピー増大に依存の結果いえることで、ポテンシャルがあるからではない、ポテンシャルは減るのみである.-境界以降の時間の場合.
さいたまトリエンナーレの岩槻の全く地味な目立たない建物の敷地の柿の木のそばで係りの女性と話をする・「ちょっと滅茶苦茶な生き様だからな」・「それがいい」と、一般社会とこうまで異なるものかと唖然とした去年の晩秋
狂暴エゴの叙事的存在だが意外にも甘え能力が高すぎる存在という経験がある.ややパターン的であるはずのタイプ.
市場原理や市民の希望に対してどうにも深淵が付随して解決できない現実心理なのだが、存在論ではなく漸近的自由性空間を導入すると説明可能になりそうなヒントを漸く得る.
漸近的自由性類似パターン的とすると最も良いかも、超対称が絡んでくるのはそこに場の設定・存在が自然に考慮できるからの与件ありか
アレンジや模倣なら他の結果を追うことは確かである.特に評論・批評はそうであるが、詩人も考えたが表現しなかったので即物反応であったとなる.詩人というべきだったな、最も小説にしても固有名詞は登場させないので、件の小説類も疲れる白けた気分には大いになる位相を持っている.
全くやる気の邪魔というか無駄なエネルギーを使わす存在XX,タナトス的か優越感を覚えたい卑怯・卑劣な存在にXXが見えてしまう事になる.困った心理感覚であるのだが、そんな位相に数多く直面して不快な無駄ばかり行う羽目になっている.創作は他の結果を追わない・・
ある女性に”太宰治じゃない”と言われて、流れの勢いで君のいう事ならそうだという論理的には間違いとは考えただったのだが、内心で”その通り”と思ったことがあり、これが寄与しているな.芸術至上主義とかも浮かべたがよくわからなかった存在、思えばしつこい蛇のような存在と思った人物ではないか
でその自業自得だが、結局心中に終わった時点で駆け込み訴えが作品として完成したとか考えるが、何しろエピゴーネンなので個的自殺ではなく心中という甘えを設けたという結果に.心中は甘えという視点を思いついたこと.なんだかこの作者的に思われたことありで、無茶な言明をXXから聞いたものだ.
ダンテの神曲の有名な箴言は新約聖書のマタイ福音書第章第節からとジッドの狭き門より今頃知ることとなった.狭き門への要求に答えないXXという認識だが.カフカについての説明がジッドの狭き門に述べられていると思うのは勘ぐりすぎかな?
H曰く”愛読者ですよ”と細君に言いわけ気味に、愛読者?、確かに内容・思考内容には関心あるが、文章書体センスには興味ないが.大江健三郎だったかな、ロマン小説といったのは.確かにロマンの香りは十分ある.
吉祥寺の南側にあるユニークな作家の家があって玄関払いを食らった記憶があるな
南十字星でもアンドロメダでもいいが、あったのは保谷で今は西東京
依存とか甘えは諸行無常からくるケースも考えうる.諸行無常は無責任ともいえるが、ここでは『過程』としてある.
より何か新しい思考ができるかもと挑戦したことがあるが結局混乱を齎しただけでどうにもならず、今ふと思いついてみると新しい思考視点は無理で、今あるものの展開でしかないと何十年かかって了解したものとなるのかという述懐
本質あれば実存があり、真あれば偽あり、共変あれば反変あるとかなど、道教化しなくても日常至る所にセットはあり、それをうまい形にした道教と言えなくもないが、ある志向性の方程式がこの付近で見当たらない・・
頭を使えなく錯綜気味の日々だが、若き理解者たち<条例などなんのそのに思えるJKたち・たまったものではないが、そうでないと面白くはない・・>
ラプス時間で現実を待っていた意識もあるが、実際にまだ成立していない現実を見てしまうという、無駄ばかり強要された形を十分感じているにもかかわらず、現実はまだ成立していないという何十年の時間・・.現実基準にすると無駄な時間ではないとは驚き、若き存在達には理解可能ではと思う漸くの日々
最悪最低をθに見てしまい、記憶から除去できない不快な存在がアリゲーターXXによって、ただしΘは本命なのでいいのだが、この辺の構想をはっきり述べれば、それに応じるはずのXX達・セクスアリス形なんだが、今からでもそうする設定にしておこう.会うこともなく存在不明対象たちだが
ユーロピアーナの構造は変容を余儀なくされた形としてのΘ構造によく似ている、境界・分別線をアリゲーターとしてだ.ピアナはグーグル対抗意識もあったのか、Θは現在であり、このピアナの参照が日本でも可能性ある未来段階なのかよ.実践形式として昔に設定した形のミクロ事象のマクロ性という・・
『久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
』--気に入り自作の半分より
緑樹の相異に閃かせた明るさが灯火として点る頃...<小学校の校庭わきの杉木立を思い出して> 川面に当たる陽光がきらめいて<思考に疲れた・気分転換の散歩中に・運命の第二楽章を想いながら>.... ***戯れ複数最小数<日本海の内側に面した小さな半島の海べりの道を歩く・・>
自分に期待するしかなくなってくる、自己の態勢が整わないのに他者から期待される形もあるようなニュアンスがあるのだが、どうにも態勢が整わない心理内容ではその点はうまくいかないのは目に見えている.やたらと入れ替わる存在が多すぎて整理ができず、しまいには不快を常に抱えているという情態に
どうも他人や他者の出来事関係に期待すると期待外れに終わることが多い.またも他人に期待しないとことに-それににしてもなぜ期待するようにまたなったかというと、あるXXの影が何十年も期待外れ・魅力なさ・色気のなさ最低・最悪XXと結びついてしまう形で悩ます相変わらずの所為だからなんだが
平田篤胤の宣長の霊---そうなると清盛とか頼朝・信長とか武士の霊はどうなるのか?、特別扱いして他は万骨にするのか、まあそれでも過去へのシステム・離散で説明できないことはないシステムを考えていた今頃の昔の日々
その存在理由が--すでにその存在理由は意味がなくなっている..だったが.
他人は模倣だから自分には責任がないという無責任に従っているのだが、ミルグラム的なブーメランを見てもしょうがないが.いろんな意味で戦略の不分明だろうが、遭遇した人物たちも無理解・無知すぎる存在であったな.まあ認識能力がないからそんな存在は考えてもわからない・・
結局二週間以上の時間があっても借りてきた書物を読まずにネットに向かってしまうのはやはり中毒性を通り越して無意識では、最も車など人力機械的的よりリアルマイクロ制御が自然的当然な日々を連想する.なんだか思考だからリアルな身体はいささか別にの姿勢がある人々はかっても存在したが
とにかく他者化や抑圧を設けてダメにしたがるXXたちがほぼでの記憶があり、さすがにXXを信用できない・信頼に値する存在がいないくらいに思う、それにしてもやる気をなくす抑圧傾向のXXが多いすぎる.そのXXたちは他の男を相手にすべき存在であるとしか、邪魔をするXXを好めない
メッキをしすぎな外連性がないか?、どうも陰謀力が強いのでごまかす対外的虚栄面意識が強い作家に思える、人相的に嫌いな権威意識と陰謀力をその写真から感じるが-そうなると覇者的存在ではないか.覇者的な抒情性のない存在はどうにも好めず、何か勘違いをしている無自覚な悪人に会いすぎるが
結局二本足構造を否定はできない、結構このことによって矛盾が生じた意識時間だった..必ずしもこの身体構造を別に義務化する必要ない考えで、奇形は未来的か過去形なのか例外なのか.しかしなれどやはり身体の桎梏から逃れることは今日の時間段階でできず、
行動主義なる言葉に最初に接したその昔不快な思いをその内容を知らず直感で感じたのは、人類が二本足で歩くようになってからの時間において類人猿と称される存在は行動主義者以外に考えることができないことに起因がある、さすがに意識でそこまで戻れない、空想想定はできるが.
その昔義務教育時代に浮かべた屈原より太公望は古かった.屈原で凄惨・凄愴関連の言葉を覚えた記憶がある.耐えがたきかな屈原の人生、その点太公望には明るいイメージを持つ・渭水のほとりの釣りで.屈原でさえ遠い昔に思った記憶あり、なぜに今その名を浮かべるのかと.太公望はいつのころ記憶に?
嫌で邪魔で障害物であり妨害者を避けようと意図していると、逆に好んでいるかのような無言の態度をとってしまうようで誤解されっぱしの記憶修正がなかなかできず.確かにピエロを要求してくるXXたちの記憶もあるな.本来はオルテガの示唆的人間ではなくマズローの段階アップの努力をすべきなのに
今年は去年と比べて年末の時間が過ぎるのが速すぎる。もう日である、やりたいことではなく、やるべき事(頭を使う事)が多過ぎる上に新たに発生して、温かく寝ていると頭痛が強烈に刺激してくるという.度の部屋。何事も進まん折角の自由時間の日々
卵の上に醤油をかける、その軌跡はポロックの一枚の絵の初期の初期と同じようなと浮かぶ
世には行動的人間が多いものである。行動主義は愚劣と思った人間には、行動的人間はうんざり、特に行動的xxの反発がきつい。そういえば”行動する馬鹿ほど”なる箴言があつたな、行動主義が不快な人間には、行動的人間は単純に思えて、粗暴的に思いがちだが、ゲーテは優秀な存在もいると述べている
間違ったというか変換を当然成立する・しているものとして見ていなかった.恣意の法則と様相はほぼ一致する.帰納の未定にプログラムの場合他者の介入がどうしても意図すれば存在する理由がある.可能世界や必然性も入ってくるt-foかな.けがの功名の恣意の法則はクリプキの可能世界論が近いか?
フロイトの領域は存在すると思うな、いわゆるリビドータッチの情熱が理性思考を惑わす経験は堪能しすぎている.リビドーの熱気が渦巻いている情態で理性的対象問題を解くのは困難を要する.
波動関数が無限遠でになると仮定して--グリーンかよ.なんとも矛盾なかとか.波動線が集まると粒子的に存在すると見たのは小学生の時、弦・超弦の紐は波動線的なだが太さはないと.
意識は意識領域を意識するのは必須的な前提にしてある-『奇妙な保管場所』という表現で『奇妙な』はクォリア問題にオマージュ(別に持ってはいないが、予期した形で・他者を考慮した、この世界生存者立ち・社会を考慮してそうした昔の記憶がある)を与えた点もあるが、自己対象未来を尊重した.
現象判断のパラドックスは面白い、シュレディンガーの猫のマクロ的現象があるとは?.随伴説はなるほど・・、新神秘主義の自然の構造がそうなっている-のまあ皮相的には立場が考えが似ているな.
ヒルベルトの境界というかM&Dの境界というべき設定を思いつく.
妖気とか悟性とか虚無的柔軟・官能性とか--不快だが事実現実としてある
”「全体帰属性(自己超越性)」の情緒はより大きな存在と溶けあうことによる鎮静としてあらわれ”-これ親鸞の阿弥陀を連想させる.”人間にあっては「全体帰属性」が誤って攻撃性と結びけられ、神、大義、民族、信条、偉大な指導者の名のもとに大量殺戮が行われてきた”は叙事的人間を語っている.
幼形成熟と幼形生殖から言語発生に共同意識獲得時間設定はどうしたもあるが、原始に戻るは意味付けできそうだ.原始状態を発露することができるであって、戻るのではない.単に戻るというと時間は可逆になってしまう.要するに保存形態なので使うことができる能力を人は持っているということだ.
単に宗教の寄与力か?、簡易表現をとるとすればだが、その宗教の存在自体は無心論者にとっては決定的な場合もあるようで
儀式と疑似科学・F物語映画とかの関連を考えているところ、迷信の作用から発展したものとか
/の成功とは個の失敗ではなく個の成功の上に成り立つ成果と言えることになる.
起きていようとしても視線が刺激して目が痛くなり、睡眠を取れという生理要請に素直に従って・・、人は眠らなければいけないは、性的力補充か回復・増強とかの要素があることは了解している。あるいはそれが主たる要因かも
惰性-流路と分岐・鋳造の場合の流れの難しさとガロア拡大というかフロべ自己同型とか類想してもいいかな?.類体に関してペンローズ類似も浮かぶので、あの頃のペンローズの直感的ないかさま風と思ったこと・ただしタイルはそうとは思わず・と類体保留意識はなかったなと惰性群により判明したひと時
なんだかんだ考えていると『現状維持無限変革』は宗教関係者に都合のいい考え方と思いついた.ホモ・サピエンス限定という.
今からの推察だがそのころには地球は無機物体になっているようだったな.
他星への完全な移住という手段もそのころにはあるはずだが、さすがに小学・年生、異星人からの人間操作漫画に寄与されていたか(地球に生きているある人間そっくりな母親が宇宙からの通信手段で何語かわからない会話をしている漫画に脅威として畏怖感を覚えていたころの話なので)
地球崩壊は当然考慮してあってどうにもならないがそれでも何らかの無機的サポートを期待しての意図による希求文で終結している--記念碑
地球が破壊するとすれば内部マントルが干からびて消散してしまうこと・その時間は生理体時間からは遠い遠い未来だろうが、それ以外に地球消滅は無いものと見ている.
『人口太陽が年持つ』--この予見に似たような映画はまだ無いようだが、温暖化現象なのになぜ人口太陽・核融合人口体だが、いつの時間なのか世紀の話ではなさそうで、世紀以降になって温暖化現象はどうなっているかな?
人にはリアルに写実世界・現実世界に存在しているのだが、それを忘れてしまう能力が備わっているというしかない.
なんだか小説に一文章を筆記しているかのようなツイートになっている.自己主体の普通自然さを取り戻そうとしているが、虚無の海のような陰険フェルミ型がしつこく災いの記憶となって、つまり主体を歪めてきた記憶の除去を意図しているが、内部的にそのフェルミ的位相になってしまう不快さがありすぎ
思弁的な当てはめは現象的に合うのだが心理的に合わないというケースに遭遇してやはり普通にはいかず選択の必要があるかな、リアリズムというオルテガ懸念をなんとも知らないような性的人間タッチの記憶.
個人的にはナンセンスな無駄なんだが、他者達にとっては未熟な過程の無駄ではないのかもしれないが、そうなると進歩速度が遅く機会論上やはり無駄である存在になるが、普通はそうなのかも.さっと通過すると普通に何でもないことが、蒸し返しの苦痛になってしまうのである.
自分ではあるときにある場所の位置関係の差がmもなかったかの場所だが、その位置移動によって徒労を味わい、徒労に呪われる将来可能性の高いことを思った小学生の時?だったかな.結果その通りになっている現在、だが昨日不当な理不尽を設ける他者達もどうやら徒労をしていると判断できた.
よりわかりやすい特徴は縦構造は指示表出傾向強く、横構造は自己表出傾向が強いと言う事である.
普通の日常生活において法華経が何を言おうと悟りには遠い存在が生きているので、特に叙事的な存在はEQ指数が歴然と低いのは明かであり、共同幻想には叙事的なEQの低さを感じるためである.指示表出と自己表出の考え方はいいんじゃないか、別にどうと言う事はない普通な当たり前と思う.
ある女子大生が共同幻想論を携えて現れた事態があったことがある.何それ嫌な書物であると思ったのと同時に彼女は意外にそんなのを読むのか?と、単なる飾りだったかもしれない昔の思い出.直感で叙事的内容を示唆していると思われて、叙事的内容なら六法全書という書物がある.
ふと落ち着いた椅子上で聞こえてきた魔弾の射手の冒頭のラルゴタッチはいいね、ベームかなと思ったらアーノンクールだった.魔弾の射手序曲はアーノンクールが最もだな(指揮者の違いなどよく分からんのだが).セロトニン一杯を堪能できる.
どうも駆け込み訴えの作者の執念のペンネームは不快で、結局、何をやっても駄目だは、常識的な心理論理判断から、生きても駄目死んでも駄目と考えられて、当然作家という職業もその内部に位置している筈で、妙な特別意識を持っていたようだが、レベルを下げていることにつながるなと思いついた.
孤独なる自由は唯一性でクリエイティブ的でもある.この命題はすでに成立していた日々だった思い出がある.フェルミ的単体は唯一性があるのかどうか、唯一性を発揮するのはフェルミ型は得意なのかもしれぬ.まあそれならそうすればよいので、交換を単体化しようとする不自然は頂けない.超対称はなしで
形態の鼎は現象的に必ずしも対立するものではなく、そのうちの項は協調するケースもある。
そのxxは減衰振動存在に見えている存在なんだが、未来の為には意味が価値が無いと判断しているそのxx存在の思うツボに移行してしまう、まずい。最近このxxが悪魔なのかと思うようになってきた。世間の人々はそうは思わず魅力ある存在とみるようなんだが
個別にxy&xxを区別して日常接するが、またまた良く行く店に苦痛な存在が目立つようになった。自虐的に自己の歴史のある事をなかったものとしてみると、などと考えてしまったため。あるxxが不利になることは明白で、そのxx
あれハインリッヒを倍にして失敗例ではなく成功側にたとえた近似値ではないか・/は回に一回の平均値になるからである./というといかにも多くの無駄をする気分になったものだが、指数分布の普通からの逆でまとまる時、頻度が高い時間の短さの場合もある・・
/は個人的に今年の流行語大賞であるなと思う次第.比率的には回成功すると英雄になれる?、一将が功なるのは人の犠牲があることを思う.真理が単純になるのは回の思考悩みがあることに.漠然と真理が単純になるのは苦悩を数多くしないと思っていたが、数値が出たか
反物質の代わりに人は意識を持っている?
まあ呻吟・懊悩・苦悩を何をやってもだめだという位に絶望的事態を通過した作家としての専門意識の他者に対する説得力発露で認知要請であることは理解できるがだ.
とにかく森鴎外とか太宰治の切羽詰まった形の叫びはなんなんだ、非常に迷惑を感じている.死に臨んでばかばかしとか言ったらしい自己認識力の鍛錬のなさと依存ができなくなる・今までの依存の無意味さを感じたに違いない愚かしさ表現や、何をやってもだめだからの作家も対象のうちなのにの中途半端さ
駆け込み訴えでパンを用意したと作者は描いているが、当の作者がそんな現実能力があるとは到底思えず、もしそれが可能だったのなら集団を用いて用意したに違いない.ただここでは作者が自己生活を考慮せずに思念で実践優位を述べているという虚構性に引っかかる.
写実に呪われている--畢竟身体優位にだ.なぜあの時に罪の意識を・虚構だからそう思ったのか、きっとそうに違いない.真実に対する虚偽・事実に対して正直であることを潜在的に持つことの起因であるかのような思い出.今ではカザノヴァ型の欲望性が絡んできてなんとも不都合な心理自由になる羽目に
熊襲でもなく隼人でもなく投馬国に住んでいた人々に対する一様表現はなんなのだろう、邪馬台国などと同じ存在か?
サンデルの書物にある公共理性とケルゼンの純粋法学は似ていないか、心情的に検事なる職業はどうもケルゼン的な位相を持っている・持っていないとのように思える.
今頃自然の逆襲にあっていることを希求したい.最も意図していることは特にそのような存在にとっては非自然・不自然ににはなっているだろうな.となると意図に関して他人から逆襲を受けていた・個人的に無意味な犠牲を強いられていたということだが、他者に対する意図は無意味とは思っていない.
自分にとっては自然だが他人にとっては非自然・不自然ということが考えられない人が多すぎる経験がある.
ある数値内容がある周期時間でその内容に一致する記憶がある-現実を考慮するとこれは確かである.とするとその今から後のその周期時間になるとその数値内容の発生が成立することは確かにになる.ただしどのようなことかは判然としていない.
あの頃は思惟の法則通りに生きると全くつまらないうんざり飽き飽きするものだと考えていた.思惟の法則があるとつまらないと、しかしなれど超弦の超対称性はFvBの止揚で物質・反物質も弁証要素-陰陽もそうなるなと思うと全く思惟作用的にはつまらなすぎる.
無機的な人間が生きているとその要素・特徴はタナトス的でエロス性に欠けるといわねば、ある人物は原生的疎外と申したのでどうやらこの人物はエロス的よりタナトス側に傾いていたといわねば.「風は突然生理のように-」の生理のところの表現がひっかかってしょうがないがタナトス的ならば納得性がある
で明晰は現行の不確定性原理からいえなくなってしまう.もし区別ができるとすればプランク定数未満の大きさであり、そこに明晰判断要素があるのかどうか、イメージでは混沌だが.ヒッグスから弦の考え方が趨勢になっている.
直観では唯物的・叙事的・フェルミ的・覇者的人間は無機的存在に近いと認識する.
昔に机の上に同じような書物がありどのように区別するかで悩んだことがある.どのように考えても区別ができないと、今思いついたストレートにプランク定数まで行って判断すべきと-悩むことは大体必要ないことなんだが、悩むのは無駄をなタイプの人間がいる)・不確定性原理にあると現行帰結となる.
イライラする星の王子様という作品には解釈の仕様が多く合って読者自身にゆだねるという意見を見た、童話的作品は少なくとも記憶のある時から関心を寄せたことはないので、全くなんというかいら立つだけである.だから良寛も気持ち悪い感触を覚え、ディズニーランドなんぞに行く気はしない.
秩序を保たねばならないが資本動向は変化している.秩序というのは変化を好まない維持を求めるが、がん細胞はそれとは反対に増殖を繰り返すのは秩序的ではないので、これは秩序と変化の間で秩序に対する変化ががん細胞として生理に出しているとか、ふと考えてしまった.
考える市場の世界と深淵域がつながったと思いついたのにそれを全く思い出せない.なぜなのか茫洋としたリビドータッチ?の壁ができてしまって?
またまた自分を消す方向に向かってしまった.不快なXXになって自己滅却をそのXXが意図している優越意識のために、自己諧謔を重要なことなのに意味のない方向にしてしまうというナンセンスを形成・醸してしまう.そのXXは時間の無駄で時間を停滞させている退行的存在の自覚がない原始位相と.
だが、XXとXYによってその子供誕生も止揚的対象と見えなくもないので、そうなると類人猿も弁証法をしていたことに、いわんや動物・植物にせよ有機続にはほぼこの形式である.ただしパターン時間が進化や変化があるにせよやや長いかな.
反交換の圧力はAはAであるの把持を妨害するはよかったのだが、思惟形式から弁証法を思いつく.F粒子とB粒子が現存しているのは否定弁証法・超弦が超対称性を標榜するのは弁証法のF&Bの止揚という形であることになる.結果として反交換の圧力は止揚の圧力になり高々弁証法形式という昔からの事に
ある人物の愚痴の中で、いやな女で避けている・顔を見たくないという存在に限って会ってしまうという・それ以上に極端な希求も聞いたが・ことはよく覚えのあることで不快なことに記憶が残ってるというのと同じような.それで考えていたが、意図と反対の形は反交換なので、どうも反交換の圧力があるなと
知らなければそんな風車を人間と間違えるような明らかに誰でも違いの分かる発言をするなと言いたかった人々が多くいる.なぜなのか、女性に意見を言うことができない存在達なのか?.それは子宮に甘えた男達であるのだが、XXでもその勘違い・風車突進を行ったということは?、ドン・キホーテは名作だ
この数学は得意と述べたXXとなぜか間違われる.そもそもXXとXYでは異なるのに、人々はわけのわからんそうして誰にものを言っているのかわからんという理不尽ばかり受けてきた記憶がある.なぜなのかこの数学は得意といったXXに直接いうべきことなのに、もっともその存在を知らないだろうが・・
それでたまに見かける異形の存在も複雑系に即しているので現在的と思ったりしていたが、とにかくその連中が線形頭思考を志向しがちな集団一致の疎外対処をするのでは始まらない.結局線形視点による疎外意識で避けるという形になる・・.『異常こそ正常だ』は線形に対して非線形思考のことである.
昔は道路の複雑な状況に対してこれでは事故がそこでなくても別のところで起きるなと考えていたが、複雑性的側面からは道路の複雑さは適切であると考えるようになった.応用視点把握が遅すぎる・線形ではなく非線形性を設定していたのに.ただスキーの場合はリカバリー能力という境界対処は想定していた
指示的人間と言えばXXにもそのような存在が思い起こせば多く(そのころはまさかで全くそんなことは考えていなかった)、ミソジニーXX型という分類になる存在達はとどのつまりパワハラ発言になるという経験記憶があり不快でしょうがない.ミソジニーXX型はなんか矛盾していないか、
どおりで最近のコンパクトがルーズというか示しのつかないものになっているわけだ.球面とはこれでは商空間というのもわかりづらいが任意のコンパクト化の一つとみればそうなるか.Rが空間にな.これならまだ救いがあるというものである.確かにブルバキの論理からは神云々は容易に導けるな
共有原始形質を古モンゴロイドは持っていて新モンゴロイドは固有派生形質を持っていると、そこが違うのか.共有祖先形質ゆえに火焔土器は世界で通用すると思うわけだと感じる.固有派生形質に関しては?、この辺からユングの元型についての中学生の時から気にしていた日本人適用性の解決を見たと思う.
ゆえにこのXXの無意識・潜在能力を探索すると次元の低いというか不都合な逆行を思念することになってしまい往生することになる.謙虚に相談を持ち掛けても脊髄反射反応や他の男と誤解をしたり戦争論の弱点ではないのに弱点と思い込んでしつこく繰り返したり、なんとも無駄ばかり...
このXXはヤスパース・ワーズワース的で古いというより他の世界を了解できない予測が成立していて、できる領域での思念で気になることはあるがだが、それでも視野の領域が狭いので少しまずいと.普通に%一致なら合格の妥協OKであるがそうもいかずのまま、相変わらず出現することに.
思い出すと泣けてくる、愛おしさを沁みさせて、でもこれはまたまたまずいあるXXの心情のようで困る.このXXでは不都合なのになぜこの心情に今なってしまうのか、違うんだが・・・
思えば秋の校庭脇の落葉松系の幼き木々と萱のだいだい色の世界で思った小学生、定義はいいのだけれどそのコンパクトさが不自由な面を感じさせ・覚えさせてが無意識に作用したかも知れない.
定義の明晰型は好みだがまた似ているのだが、非線形に自信はないという理由のみで留保したXXは今頃どうしているだろう、忘れないがまた忘れる必要のない存在なのであり・・・
まあ反交換のフェルミ型で柔軟が鞭のようなタイプは宿命型でもあるが、今ふとビクトリー型ではないかと思いつき、そうかそれなら権力志向性も判断できるとようやく閃いた.しかし叙事的思考の全くつまらん趣味に合わない感性の持ち主である、今頃どうなっているかな?
太宰治はずっと作家になりたかったので、「何をやっても駄目だから作家になったんだ」は共同社会に対するよくある弁明に過ぎない.森鴎外もそんな傾向があるな.窮鼠猫を噛んだ心理状態の発語というわけだ.
小学生の時に錬金術を思い気にはなるがなんともやりきれない気分になったことがある.冶金もそうだが化学の話のような想定であったかな.化学という言葉は小学生の時に知った記憶はない.中学生の時に最も印象に残ってるのは水酸化ナトリウムと付随したナトリウムで塩化ナトリウムは勿論
しかしなれど青春時代の写真はなんとなくの錯乱気味になって全て燃やしてしまった。非常に不都合を齎す事になったあるxxの作用によるのだが、いまでも作用があるのでまずい事は起こり得る可能性あるが、必然の枠内のマイナス?面対象か、プラス面者はまた不都合な言明を言いすぎてまずい事になり・・
現実に目覚める形はよくわかる・何しろ時間を待っていたこともありその間パス的な現実故に.--実際は現実を目覚めさせると昔の意図だったが、最近は不明錯綜になっている.昔にその時の情況を詩的表現したことがあり、なんでもないおもむろさだったがの内容がなぜか尾を引きすぎて、なんとも混乱気味
今の状態からはボルヘスはまだ?明晰と言えそう
現実に目覚めるはよくわかる、わかるが今は現実と思念が錯綜していて、恰もその境界的位相で混沌気味
p進は下に有界で有限でいいと直感したあの時、有限は距離感覚も作用したのだったかな?.ともかくハッセにせよフェルマーにせよ、実数とp進数の関係は、∞*/∞=と簡略して見た.実数に関しては中学生の時のあの橋のたもとでπ的や循環数とかで悩んだ記憶は忘れないな・・
どうなんだろうモチーフはある程度出来上がっているのかな、知らないな.ギャップをどのように克服しているのか興味ある.個人的には限界子・限子と仮想しているプランク数以下が登場していると思うが、その域では多分に人々はペンローズにヒント得ているだろうな.
何だろうつながっているだろうと推定するがまだつながっていないようなp進とモンスター数.だいたいガロアのフラクタルでモチーフ困難は推定できるからだ.冗談じゃないなぜこんなことを考えてしまうのかと思ったランダムを設定する起因の場所の近くを歩きながら、この困難は深淵ギャップを想定させて
小学生の時に量子現象を考えていくらなんでもまだ早すぎるだろうと自己セーブをかけたのがまずかったか、あるいは中間的な誰かがセーブをかけて中途半端なままにするといった可能性もあったな.それでも光の直進粒子位相は自然に思いついた小学生.
言葉の子音にしろp進にしろすでに義務教育時代に浮かべたまではいいのだが.子音の発音がきつくてまあ別に子音などどうでも差し支えないだろうとした、が英語で子音には価値があり.などの数えきれないつながりなど思考することは人間的ではないとしたが今のコンピュータ時代になんともと
あの道のコンクリートの遮蔽物のところでやとかの数値列の長さを思い浮かべたのはいいが、こんなことはやっていられるかとした義務教育の日の記憶が災いしているような?
ブームは明らかにパーコ現象と考えた記憶がある.流行に対してパーコを操作できるか、そうすると意図的にブームを作り出すことが出来る.最近は日曜から月曜にかけてギャップを感じ逆パーコ・パーコ還元のような思いをなぜかするようになってきつい.ギャップを相転移的心理とすると負荷がかかりすぎる
無限遠点で素なるアデールとなると紀伊国屋での無限遠点の動向に答えを出せという内部の声もこれを示唆していたのか.素とは無限遠点でゼロではなく焦点に収束することになるが、有限無限が成立してそこには制約があるというおかしな話になる
固有値を個持っている方程式があるか?、特性方程式を考えているときに浮かべた個の既約方程式・既約自体は非可換であることになっているが解であることは間違いないというものはあるのかな?.
有名なエピソードでキリストは単性生殖でマリアが産んだだが、ヨセフの実態はどうなのかな?は省略すれば、キリストは予測される遠い未来のXX単性生殖による存在ということになる.まさか単性生殖を新約時代に考えていたとは思えないが、キリストは遠い未来人あるという事も成り立つ.新約恐るべし?
ここで反転を考えて数百年前の人類はどうであったか、現在に至るまでどのように変化したを鑑みると、現在をルーシー・アルディ&カダバのころとすると、数百万年後の人類の容態はXX単独というよりもっと変化していてもいいような気がする.果たして数百万年後に人類が存続しているかどうかも不明かな
ワンパターンのあるxxがいて、どうもその持続性の変化しそうにない様相からまるで悪魔のような存在と思う-悪女の深情けを知らなかったが.ゾンビ的なアンデッド的とも表現できそうなある映画を見ながらヒントを得る.
不本意な忍耐を強いられる時は他者から意地悪を受けている、それが意図的だろうとそうでなかろうとである。とにかく不本意な忍耐によって調子付く存在は不快でしょうがない。主体的忍耐の邪魔でしかなく、この邪魔な記憶の消去が結構困難で無駄にエネルギーを費やす事に
月の雨よ、池から流れる沢の小さき木橋を渡る小道よ、歩みて業を思う心に佇みて構造を想う雨の透過よ、傍らの群れ伸びる野草よ.(月のそぼ降る雨の中小さな沢にかかる橋を渡り、名も知らぬ群れ密集する野草の脇ににて-の幼き?若き?日の記憶から)
仏教の二惑から見惑と思惑において、思惑はあまり考えたことがなかったが、事実上中間存在は限界を持つは思惑にあたる.倶舎論の一来向を家家(けけ)と称するを知り、なんだ仏教考えてあるなとまたまたミクロ見解を生じる.やたらと大げさな表現がありすぎるマクロタッチで静かになっていたのだが.
まいったな問題は片付いていたことを何十年もかかって発見するとは.所々諸々の未熟な阻害が邪魔をした形だが、先達を尊重するという長いものや伝統や踏襲性にもよる要素もあるかな..
現実は叙事的だけではないので覇者型が策謀意識を持つのは本能的なものであるだろうと.しかし叙事体人間には策謀体比重強き存在もいて、なんと虚偽体に映る存在も経験上顧みて遭遇した記憶がある.抒情的のみかと思えば無機物実在からそうもいかないというジレンマもある.
陋劣な頭脳の持ち主のXXは気持ち悪いとは思うが、ある場所である女子大生か母親と一緒にいたので女子高生かの美女に気持ち悪いといわれたことがある.全くストレートに述べるものだ.まあ気持ち悪かったのだろうの頭脳性の状態だったのかそれが現実的に普通なのかも知れぬ・・・.しかしなぜ対象に?
T大・ある小学生に捩れを齎した存在
思い出して見るとカルナップの完璧主義ではなく歳の一様にその後ある駅で遭遇したことが思考進展のなさにつながっている可能性が最もの気がする.
嫌いだったポアンカレから非保存量を用いて希望市民に付随する暗黒と市場原理を考える時に登場する深淵を非保存量と設定すると旨くいきそうだが、思考が進まない.基本・初等的に非保存量を知っている人材は何か考えていそうでそれを知らない・気が付かないだけか、またはやはり考えてはいないとか
竜安寺の石庭の石の数は個?、ならば個人的には阿頼耶識・無意識が飛び込んでくる.禅宗の庭らしいのだが.
天上天下唯我独尊表現はエゴイズムの極北と思えない事もない。この付近から他人に同情や親切にするタイプではなく、他者に傲慢・倨傲な存在が天国に結構行くものであるなる考えを類推したくなる。そんな馬鹿なな思いはあるが、神は超権力的存在と考えるのが一般なのでありなのかも。超権力的存在は倨傲
法華宗の人は誰でも仏性を持っているとは、誰でも天上天下唯我独尊的であると解釈出来るのだが、複数存在が唯我独尊とは矛盾していないか?。唯我独尊を肯定するならば唯我独尊的位相で、ホッブスの懸念見解の競争があることになるが、概して現実の様相はそう見えなくもない。
人は何者か判明すれば未来は必要ないと直感が述べている。
人間の持つ不可侵なものとは?。それは人間とは何かの対象であり哲学的命題でもあり、また人は何処へ行くのかでもあると思える。機能・物理主義的では簡単すぎて部分しか表現していないと判断する。
ある種の普通の人はパワーを自分では持っていないが他者の権威を用いて厄介な存在だと昔から直感で思っていた。数年前からハンナ・アーレントの存在を知り、何となくその種の人間はミルグラム傾向がありそうだと。
ちょっと待った普遍グラスマン多様体、何となく
?味しめは優雅であることの快感者か・・.優雅など別に今更どうでもいいと思った歳を知っているが、とにかく味しめはセンスが悪く頭痛い意識構造者が多い.よく言えばスマートだが、そうスマートにも見えず.センスいい優雅ならいいのだが.
気取りが快楽で味を占めてワンパターン化した存在を、官能を用いた性的な位相の幸福な安心な安全と思える感覚を持つ多数派という偽善形式者を気取りマシン・気取りロボットと認定と思いついた.ワンパターン化してどうにもならないのでもはやそれはマシン的な作用者・位相者ということに
別に理性が間に合わなくてもXYがXXになるわけはないのだが、まったく付け入ってくる存在たちをからかっていることに・わざわざからかわれることをしてくる存在たちがいるものである.
最も空想力が得意な人は多いが、ともかく理性が困難・カントの理性の帰結は論理的に正当にしか思えないが・な展開は成立している.パスカルのジレンマとも.
人は現実において想像力を用いる.
ポアンカレ・その名のずぼら?な拘束イメージが嫌いで避けざるを得なかったが、かろうじて論文修正は知っていた.カオス・体の関与者とはまあ知らなかったといえる.あの時の摂動・埃立つ道で摂動自体は摂動で、他にあるのが非保存の深淵ということの予感であった思い出.
夏目漱石の小説には三角関係的記述ケースが多い.夏目漱石は永遠を希求していたことがうかがわれる.三角関係と三体問題は同じような位相を持つ可能性がある.三角関係はしないつもりが他者が干渉してくる・この他者たちは何を求めているのか、不動心不変なものに引っ張られているのか?.
狗子仏性で仏性があるは常識なんだ、法華宗の寄与?.無すらないことは空がないことなのか、陰陽の太虚と無すらないとどのような差異がある?.空即是色色即是空の空がないはずの無
霧藻ヶ峰にはレリーフがあって不思議なその意図は?、道に佇んで前面の景色の視野に枯れ枝だったか、サルオガセを初めて見ていい感じの高山的雰囲気を持った記憶もある.サルオガセは霧藻とも別名があるとは今知り、霧は煙霧の霧かと思っていた、確かに名前の通りの所であるな.この感慨も再度にはなく
明るい市民の希望に暗黒が付随していたハイティーンのころからの、この暗黒付随が市場原理としても登場している.陰陽には完全な陽や陰はなく、五行に相生と相剋がありと知る.この暗黒はどうにも陰陽的になるが、人間的で表があれば裏があるとかにつながり、表裏一体や日向には影ができるなども.
今の思考視点で物事を考えても視点レベルを下げた形になってしまう.所詮システム構想のころ以上にならない.帰納の実践思考を積み上げたところで、現在・現状時間に即しているだけにしかならず.もっとも生理的に人は現状に即して生きざるを得ないか
イデアル化ザリスキー化してみてしまうからか?、しかし重なると分岐で解析困難が発生する.普通に多層多様解析判断可能な人は強制的に射影化して重ねてしまうと見た.
単に正規分布のフラクタルではなくて、場における多様な正規分布のネットワークに重ねて多様フラクタルに時間フラクタルも取り入れて.ポアンカレの体がどこに登場するかなんだが
記憶のワンパターン存在のイメージがスケーリング的にマイナス一のはずで、それで等速直線運動のイメージも持てない、単に負荷のみの荷物的荷重存在にしか見えない理屈は想定できるが、この登場という困難さを予期した中学生と障害の小学生
正規分布も複雑系も何だった?というような蒙昧頭になっている.ある陋劣頭のXXが作用してそのような蒙昧を形成している可能性が高い.無知無自覚XXが単に生を生きてまたより行動的だと蒙昧な忙しさを強要するからな.まあ会社などのヒエラルキー構造は断面がベルカーブに見えそうだ.
ある一定の大きさの小さな粒を何個か平面上に落としてみると横は正規分布形になり、全景はベルカーブを形成することは紛れもない経験事実・自然である.人々はこれゆえに正規分布思考をするのだが、それは当然で当たり前すぎる日常である.が複雑系は少し異なることを昔から何だが、まだ正規はありて
例えば陰陽論にしてもその止揚は太虚しかないではないか、唯物弁証法の理想にせよ絶対知にせよそれ以前の過程の時間経過反復パターンでしかない.その反復を保証する形の造形物として人間類は存在しているのだが.
昔のある時ある場所で未発言ながら内的思考で、あるxxに対して精神現象学を読めばと考えたときに、ハイネという曖昧な名が浮かび何故なんだと、ハイネはどうやらヘーゲルを尊敬していたような事を知り、それで合点が行ったが、そうだったのかと思考展開上に暫くの可能時間を見い出した・・
フェルミとポーズに関しては物理的に弁証法を展開するのは難しい。超対称性しか知りえていないが。弁証法は基底本質以下のレベルでないと成立しないかも
どうやらタナトスとエロス、陰と陽、フェルミとポーズ、宿命と運命とかパターンができ、黒い神聖は夜のフェルミ的かな?、フェルミにはタナトスの影をどちらかといえば感じる・見るが、フェルミ的は他者に押し付けても所詮意味ないのでは?、無意識自覚をしているか?と思考が進むこの感性知覚によれば
トリックスターをユングが取り上げていた、知らずこれかユングに対しては?。あの橋のところで元型を浮かべたはいいが、その先がさっぱり進めなかった。そうかいまでは汎関数自体に汎無意識を設定してもいいかなとは思える。
揺れるアジアと言って経済第一の見方だろうが、マルクスの述べた資本国になるべきだ・が実際にアジア式国々に展開中。この後マルクスの目論見通りに行きはしないだろう、新たな視点は宇宙自然への対処かな?、理想の後でも必要であるはずで、まあ今でも温暖化検討や陽転の寄与が想定できる
義務の連続である殉教的存在は必然的に全ての可能世界を義務化するわけではないので、限界合理的な生を送るという結果に終わる・から現存在はほとんど未完に終わるという意見も採用できる.完結すると継続が成立しない有機性が世界があった・世界がある筈・はずだろうとなる.
必然的自由は自然的義務であるのだが、可能世界の中でその一つの選択はかなりの束縛と思えばそうであるが、人々はそれを日常行っている.その義務に多様種類があるという生活空間.ゆえに勝手なことをしているという意見が登場する・また義務の連続が当然という殉教的実在も多くいる.
Kのスキー滑降はまさに無茶苦茶すぎるだろうNRでさえから考えて、ナンガのシェル・ルートは容易・個人的には全く不可能だが・と思う.メスナールートで、単独でいいのだが、冬には想定していないがエクストリーム的にはそうなるか.メスナールートを冬季単独無酸素なる人物が現れるのかも.
最大値の皮肉
縦横無尽は超対称性の現実化
今日現在の時点で昔からまだ少しも変化していない領域対象があることの認知をする.逆行する事もあるかもでそれも考慮しておかないとか.逆行はむしろ変化をしなかった秩序の圧力か本質の無変化とでもいうべきか、ただ時間は経過している、ただし空間はそう変化をしていない.
ミレニアル世代、了解している理不尽不自然と個人的には矛盾が解けなかった事も踏まえて年代生まれなら、またそれ以降世代が世の中を変えるだろうと思っている。
またまた余りにも単純に気がつくべきことに何十年も費やした事に気がつく。自分の才能ゆえにと言えばそれまでだが、なんと愚かしい思いと不条理と、だが超対称性も浮かびなんとも心理は受け付けず。超対称性は物理対象的には想定だろうが、心理的には理想か無知に思える。
理解してみれば、理解した形とみてだが、すぐに気がついてもいいレベルの事柄に何十年も掛ける。既に把握しているのに事態はそこあるままの何故か頭脳が麻痺している情態の持続が続いて。かような苛立つがそのままが続く不快なケースは多くあり、悩む必要無いのに悩みの種になってしまう。
俗物の質の悪さはその明晰志向によっても除去できない、欺瞞で質の悪さを隠すか無自覚で気にしないで他者の審美感に意地悪をするだけとかその他・・
人間の存在論的ありように含まれていてそれについてどうのこうのいえるものではない--カントの物自体も確か言いえないものではなかったか-はともかくとして、それによって行使された・書かれたものについてもやや批評できない事になるのではないか?
なんだか変で、逆になっていることに気が付かない存在たちになんだか遭遇しすぎているようである.とするとも直接に寄与していることになるが、それも無意識を用いている形で.
しかしどうにも昔の主体の阻害要請・強要者たちの記憶が不快でしょうがない邪魔になっている.なぜこれら多くの人間は主体を歪めたがるのか??まったくわからん.意味がない上に、人の主体を歪めているとは全く思わないでどうも消えてしまった人物もいる気がする.全く無茶苦茶だ.
面食らってしまったum、テトレーションのデザインの良さと二年生の夢のまさに童話感覚-どんぐりかそれに類するナッツ類を連想させて
生活を変えるしかない-Wbot.全くわからない、恣意的は?、人間を変えるしかないでは?
中身の詰まった空とは矛盾しているが、空が集まって密度・濃度をもって有が成立する運びとなった?.しかしまだ誰も知らない、ただ空であったろうと想定しているだけで.
アベルとカインにセスという弟が傷んだ、知らなかった.どうもノアの箱舟のようで、ノアの直系先祖がセスということになっているそうだ.wa nothingとは太虚か空かどうしても人は最初は空を想定せざるを得ないようだ.中身の詰まった空でないとつじつまがあわない
実存といえばフランクルが最も誠意があるだろうと思える.その点小説家カフカは指摘のオンパレードでくどいといえなくもない.サルトルはクリプキの可能世界がフラクタル的な多様性を持つ中からとか、これを思うと蜘蛛の糸の作者も実存性を垣間見て漠とした不安は虚無に繋がる実存性の体感であったとか
審判を読んだというか眺めたというか昔、文庫の最後部にあった断片でテントレット(名前は確かそうだとで昔の記憶なので定かではないが、この名前が個人的には普通に通るゆえ)屋根裏部屋へ行くとかの下りは妙味を感じたが.実存が本質に足らないといえば典型的だが、一言本質が不明で事は足りるカフカ
パスカルの中間存在である現存在は当然未完で終わるのは明白なんだが、ハイデッガーがほとんどの現存在は未完で終わるというときは本質に対する実存の定義からか、サルトルの世界の責任の引き受けは未完的存在とも思えない、そもそも未完的人間に世界の責任などという位相が持てるのか?
レオン最終場面・脱出もう一歩のところで(やはり封建主義では暗く遠くにみえる明るい点のところへ行かないといけないとした小学一年生.年の時には黒体輻射の内部から差し込む小さい点の穴に変貌して)現存在の多くは未完成に終わるとはハイデッガーのシチュエーションのとあるミクロタッチケーズ
それにつけて思う叙事的人間の底の浅さ・離散単純化する暴言的思考であるエピック.歴史は事象的に叙事的な事実が残るのが常であるが、この視点に徳辺的に絡まってしまった傲慢な難物がその抒情性の不可能さをもって存在した記憶がいまだに不快すぎる物としてある.その逆でなければ無理解の典型態度が
レーガンやジョン・レノンを撃った人物の身近にライ麦畑で捕まえてがあったとTVのセリフ、そうなんだ理由は即座には不明.ライ麦は解釈が難しかったが今のところ、境界時間を超えず、境界内に意識をとどめておく、つまりロウ・ハイティーン時代のままと解釈しているが、正解かどうかは定かではない.
どうもバカらしさか困難さか自己諧謔をしてまたそんなことを思っているとそれが現実になる.実際は単なる空想と思っているのだが、他人から見ると無責任を堪能できるので誘惑に負けるようであるが、共同意識尊重者であるとかその他であるだろうな.
阿弥陀は親鸞ただ一人を--選択しただったか、親鸞も相当他者に対して救済自身があったと見える.阿弥陀の身が立たぬのツイートを見たが、マズローの第段階のセリフであるようなのだが、実効力に疑問が、そうでなければ法華的内容の心情に依存している可能性が.
現実に遭遇する事象は年間的第ステージを去年を意識する限り成立する.今年も結びつける要素があってそれゆえにそんなことを思う.それ以前の年間の記憶はない形で・結びつけが困難な心情は?
信頼できないのではなく他者が信頼しないというケース・そうしてそれらの人々は常にやり直し・蒸し返しをして無駄な労力を要請して、歪めをを生じるものである.
長いものには巻かれろは無責任と関係しているなと、小学生の時に近所の家の通路で浮かべた世襲も、ローマは日にしてならずと結びつくと判断できた。この両者には関連を想定できる。
パーコレーションは創発説になるのか、ペンローズのちりも集まれば山となるではないが、なんらかの微小があつまれば電子に・ブランク距離になるという創発説パターンがあったな。無限下降により不可知であるでは怠慢にしかなってはいないが、然りとて太虚にしてしまうのも思弁的不実在論である。
後天的な行動主義的な視点を垣間見る移動エントロピー論、優秀な発想力と共に苦肉の策も覚える。なるほどセマンやプラグマの困難さがわかる。そもそも被養育者は先天的に視線を向ける能力を持っているのであり、ロボットは心の哲学意識を持ち得ていない点が、難問としてある。
奥秩父のある所に賽の河原と呼ばれるところがあって、昔その時には幻想的に嫌な思いをして稜線デートをしそこなった記憶がある.まあ下って登るのが嫌な場所でそれがよぎったこともあるが.賽の河原は子供用の話とは知らずに.「蜘蛛の糸」にせよ仏教も脅迫と宥め・賺しがあるもので嫌な気分が発生する
相国寺の中庭は一瞬の良さは覚えたがそれだけの時間でしかなく、自分で作成しないといけないことになる.要するに愛着を自家薬籠にするような庭景がいいのだが、自家薬籠に関しては小学生の時に丹精を込めた梨の木が行方不明になってしまって、それ以来薬籠に関していらだち感情を持つことに.
しかし潜在能力がない対象も困ったものである.それと潜在能力を潰すタイプにXXが多い経験がある.女性は芸術品であると言って置きながら、結婚は失敗だったと述べた作家がいたがこれも不快な例だな.自己の性意識レベルの拙さ?を棚に上げたか、その対象が悪すぎだったとかでは?.
それがそうであると示せば、その確かな実在を、記憶してるとして明瞭に名+名とその他名くらいしか知っていないかな・・・
(その人物はエントロピー増大に関しての試案となっているかも知れないと幾分思ったようである.この域に関して年齢は不問であるともしている)
(その人物は他人を無視はしない、特に同じ考え方をする他人であるならば)ということを私は知っている.
(ある人物がいて秘かにその人物の思考形を用いてみてくれと考えている.とにかく使ってみてその結果を見てから判断してもらいたいとその人物は思っているが、人は使おうとせずむしろその人物を強制的に無視する.その人物はそれらの存在達に責任があり人口減少や高齢者問題対処権利があるとしている)
そうすると昔わからなかった精神分裂者・統合失調者の描いた絵の、ワンパターンの不変性はあるがそれを思考的に表現できなかった絵も、ベクトル的ではなくアフィン的とみて差し支えないかな.
昔岐阜のある男子高校生の夏休みに因数分解の質問をされて一意性に迷ったことがあり、高校生にだめだ言われた記憶がある.慶応を狙っているとか言っていたがまさかとは思ったのも以心伝心的にプライドを刺激した面もあるようだったが、単項イデアルのみを考えていたような高校生・は甘いと言えないか
ふと浮かんできて限界合理性はベクトル空間では?と.あの複雑怪奇もアフィン的にはそうだなというくらいに見えるものなんだと気が付いた.いわゆる混沌自体的なものについて.
シンプレティック部分空間はナイスであるとしか言いようがない.行列が嫌いなので意識に上らなかった面もあるかな?.なんとなくようやく探し当てた古典論とか.冗談で古い陳腐と思う人々を持ち上げて、{古典とする時間と空間}などと表現したことがあったが、自分に跳ね返ってきた.
斜交形式部分空間の斜交的・等方的・余等方的・ラグランジュ的の種--シンプレクティックの言葉はあの頃全く記憶にない.こじつけてみれば特性方程式の種の既約方程式が似ているようなだが、これは類体・数論傾向と思っていた.
なんとこの書物の最後面にはヴィトゲンシュタインの個々の把握像はあるが、人々は全体像をとらえてはいないとある.まだそうなのか、eventeen/th
が空白なのもまだ救いはあるかな.『言語は口に描写された画像である』--これを記述してあるのだが、明らかにTLPの寄与があるな・・・
さすがに戦争対峙では実存分析的要素は出てくる、実戦上においても有能なリーダーだったのは資質的に定言的人間だからの面もあったようである.身体の限界を感じていたのは戦争初期から海馬的存在だったか、あるいはどうにもならに有限性を戦争時に感じた面もありそうだ.
DNAトポイソメラーゼは実践的DNAトポロジー範疇か?、化学・生理学的な複雑な絡み合いなら因子多く、解析できそうではある時間を介在できるかなと.この場合時間は瞬間的とはならないが、転写構造などは結局無駄なDNAはまずないという中学校の体育館での直感の範囲であった.
別にヴィトゲンシュタイン専らモデルなんだが、多くの人々がなんだかんだと追及・研究・調査などやエピソード論などを展開しているので、それに任せるという手段もないことはない.棚にシェリングもあって思い出す昔、ベルグソン論をちらっと、純粋持続の多様複合も『奇妙な保管場所』の参考にはなる
どうでもいいのだが不細工なXXには幻想ごまかしまたは欲望自然で実際には審美感覚が欠如しているとしか思えず、これはカントもそう述べている・カントの判断力における欲望面しか持ってはいないということなんだが、悪人正機説的には悪人で無自覚のずぶとさを全く持っているという傲慢存在がいるのだ
一般に渋味と言われているものはエートスであるが、どうもこのエートスは束縛力強くその方向で人生を送ってもいいのだが、鬱屈につながり体質的に好まないな.深淵・深遠とかはそれを渋味一様にはしたくはないが、渋味一様は弘法筆を選ばずの束縛的閉鎖的ではあるが一面もあるので否定もできず
種類の戦いで心理不調になり生理的異変をもたらしたことがあるが、次方程式や次元があったのになんということかと今ふと思いつく.神聖型のイージーさがやや問題だった記憶だったが、カントの美・判断力批判からもそれもないと言う事になる.
フェルミ人間も単体要素強く孤独的存在で、他者達の密接さを裂く可能性が高いのはその必然的固有要素による.反交換は交換の邪魔をすることは明らかである.反交換から見ればその行為は自然でも交換からは不自然なことを反交換者には想像できない・考えもつかなそうなと言ってしまいたい経験がある.
この不思議な感覚の別離・乖離位相場は超対称位相ということになるが、現実にはフェルミ・ボーズ混淆して生きているのは当たり前なのに、超対称自体は本質的には現実とはかなり離れた位相のようである.
フェルミ的位相者には叙事性が強い判断があるが、必ずしもフェルミ型が古いというわけではない.フェルミ型はまた縦型人間が多い.フェルミ粒子は今もそこにあり、経験上フェルミ位相・これは何と思ったことがある.そこには乖離があるのは確かだが、こんな心理位相がなぜ成立するのかと思ったものだ
なんとか価値を見つけようとするXX達のだが、その潜在意識には意味がないケース十分すぎて
幕を開けるとそのXXが不利になるので、潜在・無意識を探索した時に幕をあけちゃだめとそのXXが述べている形の考えが浮かび、すでに開いているのにこの愚昧さ、責任はこのXXの存在にもあると思っている.
モノポールなき磁性体は追随性を有していると言える今のところ.ハードディスクは?、そうなるとロボットは限界を持つような、ロボットはロボットであると.
経験上著名な作家類は抑圧しか受け取った覚えしかない.抑圧という意味なき心理の無駄をさせる束縛観点を齎したという不快記憶しか
未完成の人間には将来性があるように見えるが、結果大したことはなく終わってしまったとかのケースは多くある.この将来性はエントロピー増大に依存の結果いえることで、ポテンシャルがあるからではない、ポテンシャルは減るのみである.-境界以降の時間の場合.
さいたまトリエンナーレの岩槻の全く地味な目立たない建物の敷地の柿の木のそばで係りの女性と話をする・「ちょっと滅茶苦茶な生き様だからな」・「それがいい」と、一般社会とこうまで異なるものかと唖然とした去年の晩秋
狂暴エゴの叙事的存在だが意外にも甘え能力が高すぎる存在という経験がある.ややパターン的であるはずのタイプ.
市場原理や市民の希望に対してどうにも深淵が付随して解決できない現実心理なのだが、存在論ではなく漸近的自由性空間を導入すると説明可能になりそうなヒントを漸く得る.
漸近的自由性類似パターン的とすると最も良いかも、超対称が絡んでくるのはそこに場の設定・存在が自然に考慮できるからの与件ありか
アレンジや模倣なら他の結果を追うことは確かである.特に評論・批評はそうであるが、詩人も考えたが表現しなかったので即物反応であったとなる.詩人というべきだったな、最も小説にしても固有名詞は登場させないので、件の小説類も疲れる白けた気分には大いになる位相を持っている.
全くやる気の邪魔というか無駄なエネルギーを使わす存在XX,タナトス的か優越感を覚えたい卑怯・卑劣な存在にXXが見えてしまう事になる.困った心理感覚であるのだが、そんな位相に数多く直面して不快な無駄ばかり行う羽目になっている.創作は他の結果を追わない・・
ある女性に”太宰治じゃない”と言われて、流れの勢いで君のいう事ならそうだという論理的には間違いとは考えただったのだが、内心で”その通り”と思ったことがあり、これが寄与しているな.芸術至上主義とかも浮かべたがよくわからなかった存在、思えばしつこい蛇のような存在と思った人物ではないか
でその自業自得だが、結局心中に終わった時点で駆け込み訴えが作品として完成したとか考えるが、何しろエピゴーネンなので個的自殺ではなく心中という甘えを設けたという結果に.心中は甘えという視点を思いついたこと.なんだかこの作者的に思われたことありで、無茶な言明をXXから聞いたものだ.
ダンテの神曲の有名な箴言は新約聖書のマタイ福音書第章第節からとジッドの狭き門より今頃知ることとなった.狭き門への要求に答えないXXという認識だが.カフカについての説明がジッドの狭き門に述べられていると思うのは勘ぐりすぎかな?
H曰く”愛読者ですよ”と細君に言いわけ気味に、愛読者?、確かに内容・思考内容には関心あるが、文章書体センスには興味ないが.大江健三郎だったかな、ロマン小説といったのは.確かにロマンの香りは十分ある.
吉祥寺の南側にあるユニークな作家の家があって玄関払いを食らった記憶があるな
南十字星でもアンドロメダでもいいが、あったのは保谷で今は西東京
依存とか甘えは諸行無常からくるケースも考えうる.諸行無常は無責任ともいえるが、ここでは『過程』としてある.
より何か新しい思考ができるかもと挑戦したことがあるが結局混乱を齎しただけでどうにもならず、今ふと思いついてみると新しい思考視点は無理で、今あるものの展開でしかないと何十年かかって了解したものとなるのかという述懐
本質あれば実存があり、真あれば偽あり、共変あれば反変あるとかなど、道教化しなくても日常至る所にセットはあり、それをうまい形にした道教と言えなくもないが、ある志向性の方程式がこの付近で見当たらない・・
頭を使えなく錯綜気味の日々だが、若き理解者たち<条例などなんのそのに思えるJKたち・たまったものではないが、そうでないと面白くはない・・>
ラプス時間で現実を待っていた意識もあるが、実際にまだ成立していない現実を見てしまうという、無駄ばかり強要された形を十分感じているにもかかわらず、現実はまだ成立していないという何十年の時間・・.現実基準にすると無駄な時間ではないとは驚き、若き存在達には理解可能ではと思う漸くの日々
最悪最低をθに見てしまい、記憶から除去できない不快な存在がアリゲーターXXによって、ただしΘは本命なのでいいのだが、この辺の構想をはっきり述べれば、それに応じるはずのXX達・セクスアリス形なんだが、今からでもそうする設定にしておこう.会うこともなく存在不明対象たちだが
ユーロピアーナの構造は変容を余儀なくされた形としてのΘ構造によく似ている、境界・分別線をアリゲーターとしてだ.ピアナはグーグル対抗意識もあったのか、Θは現在であり、このピアナの参照が日本でも可能性ある未来段階なのかよ.実践形式として昔に設定した形のミクロ事象のマクロ性という・・
『久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
』--気に入り自作の半分より
緑樹の相異に閃かせた明るさが灯火として点る頃...<小学校の校庭わきの杉木立を思い出して> 川面に当たる陽光がきらめいて<思考に疲れた・気分転換の散歩中に・運命の第二楽章を想いながら>.... ***戯れ複数最小数<日本海の内側に面した小さな半島の海べりの道を歩く・・>
自分に期待するしかなくなってくる、自己の態勢が整わないのに他者から期待される形もあるようなニュアンスがあるのだが、どうにも態勢が整わない心理内容ではその点はうまくいかないのは目に見えている.やたらと入れ替わる存在が多すぎて整理ができず、しまいには不快を常に抱えているという情態に
どうも他人や他者の出来事関係に期待すると期待外れに終わることが多い.またも他人に期待しないとことに-それににしてもなぜ期待するようにまたなったかというと、あるXXの影が何十年も期待外れ・魅力なさ・色気のなさ最低・最悪XXと結びついてしまう形で悩ます相変わらずの所為だからなんだが
平田篤胤の宣長の霊---そうなると清盛とか頼朝・信長とか武士の霊はどうなるのか?、特別扱いして他は万骨にするのか、まあそれでも過去へのシステム・離散で説明できないことはないシステムを考えていた今頃の昔の日々
その存在理由が--すでにその存在理由は意味がなくなっている..だったが.
他人は模倣だから自分には責任がないという無責任に従っているのだが、ミルグラム的なブーメランを見てもしょうがないが.いろんな意味で戦略の不分明だろうが、遭遇した人物たちも無理解・無知すぎる存在であったな.まあ認識能力がないからそんな存在は考えてもわからない・・
結局二週間以上の時間があっても借りてきた書物を読まずにネットに向かってしまうのはやはり中毒性を通り越して無意識では、最も車など人力機械的的よりリアルマイクロ制御が自然的当然な日々を連想する.なんだか思考だからリアルな身体はいささか別にの姿勢がある人々はかっても存在したが
とにかく他者化や抑圧を設けてダメにしたがるXXたちがほぼでの記憶があり、さすがにXXを信用できない・信頼に値する存在がいないくらいに思う、それにしてもやる気をなくす抑圧傾向のXXが多いすぎる.そのXXたちは他の男を相手にすべき存在であるとしか、邪魔をするXXを好めない
メッキをしすぎな外連性がないか?、どうも陰謀力が強いのでごまかす対外的虚栄面意識が強い作家に思える、人相的に嫌いな権威意識と陰謀力をその写真から感じるが-そうなると覇者的存在ではないか.覇者的な抒情性のない存在はどうにも好めず、何か勘違いをしている無自覚な悪人に会いすぎるが
結局二本足構造を否定はできない、結構このことによって矛盾が生じた意識時間だった..必ずしもこの身体構造を別に義務化する必要ない考えで、奇形は未来的か過去形なのか例外なのか.しかしなれどやはり身体の桎梏から逃れることは今日の時間段階でできず、
行動主義なる言葉に最初に接したその昔不快な思いをその内容を知らず直感で感じたのは、人類が二本足で歩くようになってからの時間において類人猿と称される存在は行動主義者以外に考えることができないことに起因がある、さすがに意識でそこまで戻れない、空想想定はできるが.
その昔義務教育時代に浮かべた屈原より太公望は古かった.屈原で凄惨・凄愴関連の言葉を覚えた記憶がある.耐えがたきかな屈原の人生、その点太公望には明るいイメージを持つ・渭水のほとりの釣りで.屈原でさえ遠い昔に思った記憶あり、なぜに今その名を浮かべるのかと.太公望はいつのころ記憶に?
嫌で邪魔で障害物であり妨害者を避けようと意図していると、逆に好んでいるかのような無言の態度をとってしまうようで誤解されっぱしの記憶修正がなかなかできず.確かにピエロを要求してくるXXたちの記憶もあるな.本来はオルテガの示唆的人間ではなくマズローの段階アップの努力をすべきなのに
今年は去年と比べて年末の時間が過ぎるのが速すぎる。もう日である、やりたいことではなく、やるべき事(頭を使う事)が多過ぎる上に新たに発生して、温かく寝ていると頭痛が強烈に刺激してくるという.度の部屋。何事も進まん折角の自由時間の日々
卵の上に醤油をかける、その軌跡はポロックの一枚の絵の初期の初期と同じようなと浮かぶ
世には行動的人間が多いものである。行動主義は愚劣と思った人間には、行動的人間はうんざり、特に行動的xxの反発がきつい。そういえば”行動する馬鹿ほど”なる箴言があつたな、行動主義が不快な人間には、行動的人間は単純に思えて、粗暴的に思いがちだが、ゲーテは優秀な存在もいると述べている
間違ったというか変換を当然成立する・しているものとして見ていなかった.恣意の法則と様相はほぼ一致する.帰納の未定にプログラムの場合他者の介入がどうしても意図すれば存在する理由がある.可能世界や必然性も入ってくるt-foかな.けがの功名の恣意の法則はクリプキの可能世界論が近いか?
フロイトの領域は存在すると思うな、いわゆるリビドータッチの情熱が理性思考を惑わす経験は堪能しすぎている.リビドーの熱気が渦巻いている情態で理性的対象問題を解くのは困難を要する.
波動関数が無限遠でになると仮定して--グリーンかよ.なんとも矛盾なかとか.波動線が集まると粒子的に存在すると見たのは小学生の時、弦・超弦の紐は波動線的なだが太さはないと.
意識は意識領域を意識するのは必須的な前提にしてある-『奇妙な保管場所』という表現で『奇妙な』はクォリア問題にオマージュ(別に持ってはいないが、予期した形で・他者を考慮した、この世界生存者立ち・社会を考慮してそうした昔の記憶がある)を与えた点もあるが、自己対象未来を尊重した.
現象判断のパラドックスは面白い、シュレディンガーの猫のマクロ的現象があるとは?.随伴説はなるほど・・、新神秘主義の自然の構造がそうなっている-のまあ皮相的には立場が考えが似ているな.
ヒルベルトの境界というかM&Dの境界というべき設定を思いつく.
妖気とか悟性とか虚無的柔軟・官能性とか--不快だが事実現実としてある
”「全体帰属性(自己超越性)」の情緒はより大きな存在と溶けあうことによる鎮静としてあらわれ”-これ親鸞の阿弥陀を連想させる.”人間にあっては「全体帰属性」が誤って攻撃性と結びけられ、神、大義、民族、信条、偉大な指導者の名のもとに大量殺戮が行われてきた”は叙事的人間を語っている.
幼形成熟と幼形生殖から言語発生に共同意識獲得時間設定はどうしたもあるが、原始に戻るは意味付けできそうだ.原始状態を発露することができるであって、戻るのではない.単に戻るというと時間は可逆になってしまう.要するに保存形態なので使うことができる能力を人は持っているということだ.
単に宗教の寄与力か?、簡易表現をとるとすればだが、その宗教の存在自体は無心論者にとっては決定的な場合もあるようで
儀式と疑似科学・F物語映画とかの関連を考えているところ、迷信の作用から発展したものとか
/の成功とは個の失敗ではなく個の成功の上に成り立つ成果と言えることになる.
起きていようとしても視線が刺激して目が痛くなり、睡眠を取れという生理要請に素直に従って・・、人は眠らなければいけないは、性的力補充か回復・増強とかの要素があることは了解している。あるいはそれが主たる要因かも
惰性-流路と分岐・鋳造の場合の流れの難しさとガロア拡大というかフロべ自己同型とか類想してもいいかな?.類体に関してペンローズ類似も浮かぶので、あの頃のペンローズの直感的ないかさま風と思ったこと・ただしタイルはそうとは思わず・と類体保留意識はなかったなと惰性群により判明したひと時
なんだかんだ考えていると『現状維持無限変革』は宗教関係者に都合のいい考え方と思いついた.ホモ・サピエンス限定という.
今からの推察だがそのころには地球は無機物体になっているようだったな.
他星への完全な移住という手段もそのころにはあるはずだが、さすがに小学・年生、異星人からの人間操作漫画に寄与されていたか(地球に生きているある人間そっくりな母親が宇宙からの通信手段で何語かわからない会話をしている漫画に脅威として畏怖感を覚えていたころの話なので)
地球崩壊は当然考慮してあってどうにもならないがそれでも何らかの無機的サポートを期待しての意図による希求文で終結している--記念碑
地球が破壊するとすれば内部マントルが干からびて消散してしまうこと・その時間は生理体時間からは遠い遠い未来だろうが、それ以外に地球消滅は無いものと見ている.
『人口太陽が年持つ』--この予見に似たような映画はまだ無いようだが、温暖化現象なのになぜ人口太陽・核融合人口体だが、いつの時間なのか世紀の話ではなさそうで、世紀以降になって温暖化現象はどうなっているかな?
人にはリアルに写実世界・現実世界に存在しているのだが、それを忘れてしまう能力が備わっているというしかない.
なんだか小説に一文章を筆記しているかのようなツイートになっている.自己主体の普通自然さを取り戻そうとしているが、虚無の海のような陰険フェルミ型がしつこく災いの記憶となって、つまり主体を歪めてきた記憶の除去を意図しているが、内部的にそのフェルミ的位相になってしまう不快さがありすぎ
思弁的な当てはめは現象的に合うのだが心理的に合わないというケースに遭遇してやはり普通にはいかず選択の必要があるかな、リアリズムというオルテガ懸念をなんとも知らないような性的人間タッチの記憶.
個人的にはナンセンスな無駄なんだが、他者達にとっては未熟な過程の無駄ではないのかもしれないが、そうなると進歩速度が遅く機会論上やはり無駄である存在になるが、普通はそうなのかも.さっと通過すると普通に何でもないことが、蒸し返しの苦痛になってしまうのである.
自分ではあるときにある場所の位置関係の差がmもなかったかの場所だが、その位置移動によって徒労を味わい、徒労に呪われる将来可能性の高いことを思った小学生の時?だったかな.結果その通りになっている現在、だが昨日不当な理不尽を設ける他者達もどうやら徒労をしていると判断できた.
よりわかりやすい特徴は縦構造は指示表出傾向強く、横構造は自己表出傾向が強いと言う事である.
普通の日常生活において法華経が何を言おうと悟りには遠い存在が生きているので、特に叙事的な存在はEQ指数が歴然と低いのは明かであり、共同幻想には叙事的なEQの低さを感じるためである.指示表出と自己表出の考え方はいいんじゃないか、別にどうと言う事はない普通な当たり前と思う.
ある女子大生が共同幻想論を携えて現れた事態があったことがある.何それ嫌な書物であると思ったのと同時に彼女は意外にそんなのを読むのか?と、単なる飾りだったかもしれない昔の思い出.直感で叙事的内容を示唆していると思われて、叙事的内容なら六法全書という書物がある.
ふと落ち着いた椅子上で聞こえてきた魔弾の射手の冒頭のラルゴタッチはいいね、ベームかなと思ったらアーノンクールだった.魔弾の射手序曲はアーノンクールが最もだな(指揮者の違いなどよく分からんのだが).セロトニン一杯を堪能できる.
どうも駆け込み訴えの作者の執念のペンネームは不快で、結局、何をやっても駄目だは、常識的な心理論理判断から、生きても駄目死んでも駄目と考えられて、当然作家という職業もその内部に位置している筈で、妙な特別意識を持っていたようだが、レベルを下げていることにつながるなと思いついた.
孤独なる自由は唯一性でクリエイティブ的でもある.この命題はすでに成立していた日々だった思い出がある.フェルミ的単体は唯一性があるのかどうか、唯一性を発揮するのはフェルミ型は得意なのかもしれぬ.まあそれならそうすればよいので、交換を単体化しようとする不自然は頂けない.超対称はなしで
形態の鼎は現象的に必ずしも対立するものではなく、そのうちの項は協調するケースもある。
そのxxは減衰振動存在に見えている存在なんだが、未来の為には意味が価値が無いと判断しているそのxx存在の思うツボに移行してしまう、まずい。最近このxxが悪魔なのかと思うようになってきた。世間の人々はそうは思わず魅力ある存在とみるようなんだが
個別にxy&xxを区別して日常接するが、またまた良く行く店に苦痛な存在が目立つようになった。自虐的に自己の歴史のある事をなかったものとしてみると、などと考えてしまったため。あるxxが不利になることは明白で、そのxx
あれハインリッヒを倍にして失敗例ではなく成功側にたとえた近似値ではないか・/は回に一回の平均値になるからである./というといかにも多くの無駄をする気分になったものだが、指数分布の普通からの逆でまとまる時、頻度が高い時間の短さの場合もある・・
/は個人的に今年の流行語大賞であるなと思う次第.比率的には回成功すると英雄になれる?、一将が功なるのは人の犠牲があることを思う.真理が単純になるのは回の思考悩みがあることに.漠然と真理が単純になるのは苦悩を数多くしないと思っていたが、数値が出たか
反物質の代わりに人は意識を持っている?
まあ呻吟・懊悩・苦悩を何をやってもだめだという位に絶望的事態を通過した作家としての専門意識の他者に対する説得力発露で認知要請であることは理解できるがだ.
とにかく森鴎外とか太宰治の切羽詰まった形の叫びはなんなんだ、非常に迷惑を感じている.死に臨んでばかばかしとか言ったらしい自己認識力の鍛錬のなさと依存ができなくなる・今までの依存の無意味さを感じたに違いない愚かしさ表現や、何をやってもだめだからの作家も対象のうちなのにの中途半端さ
駆け込み訴えでパンを用意したと作者は描いているが、当の作者がそんな現実能力があるとは到底思えず、もしそれが可能だったのなら集団を用いて用意したに違いない.ただここでは作者が自己生活を考慮せずに思念で実践優位を述べているという虚構性に引っかかる.
写実に呪われている--畢竟身体優位にだ.なぜあの時に罪の意識を・虚構だからそう思ったのか、きっとそうに違いない.真実に対する虚偽・事実に対して正直であることを潜在的に持つことの起因であるかのような思い出.今ではカザノヴァ型の欲望性が絡んできてなんとも不都合な心理自由になる羽目に
熊襲でもなく隼人でもなく投馬国に住んでいた人々に対する一様表現はなんなのだろう、邪馬台国などと同じ存在か?
サンデルの書物にある公共理性とケルゼンの純粋法学は似ていないか、心情的に検事なる職業はどうもケルゼン的な位相を持っている・持っていないとのように思える.
今頃自然の逆襲にあっていることを希求したい.最も意図していることは特にそのような存在にとっては非自然・不自然ににはなっているだろうな.となると意図に関して他人から逆襲を受けていた・個人的に無意味な犠牲を強いられていたということだが、他者に対する意図は無意味とは思っていない.
自分にとっては自然だが他人にとっては非自然・不自然ということが考えられない人が多すぎる経験がある.
ある数値内容がある周期時間でその内容に一致する記憶がある-現実を考慮するとこれは確かである.とするとその今から後のその周期時間になるとその数値内容の発生が成立することは確かにになる.ただしどのようなことかは判然としていない.
あの頃は思惟の法則通りに生きると全くつまらないうんざり飽き飽きするものだと考えていた.思惟の法則があるとつまらないと、しかしなれど超弦の超対称性はFvBの止揚で物質・反物質も弁証要素-陰陽もそうなるなと思うと全く思惟作用的にはつまらなすぎる.
無機的な人間が生きているとその要素・特徴はタナトス的でエロス性に欠けるといわねば、ある人物は原生的疎外と申したのでどうやらこの人物はエロス的よりタナトス側に傾いていたといわねば.「風は突然生理のように-」の生理のところの表現がひっかかってしょうがないがタナトス的ならば納得性がある
で明晰は現行の不確定性原理からいえなくなってしまう.もし区別ができるとすればプランク定数未満の大きさであり、そこに明晰判断要素があるのかどうか、イメージでは混沌だが.ヒッグスから弦の考え方が趨勢になっている.
直観では唯物的・叙事的・フェルミ的・覇者的人間は無機的存在に近いと認識する.
昔に机の上に同じような書物がありどのように区別するかで悩んだことがある.どのように考えても区別ができないと、今思いついたストレートにプランク定数まで行って判断すべきと-悩むことは大体必要ないことなんだが、悩むのは無駄をなタイプの人間がいる)・不確定性原理にあると現行帰結となる.
イライラする星の王子様という作品には解釈の仕様が多く合って読者自身にゆだねるという意見を見た、童話的作品は少なくとも記憶のある時から関心を寄せたことはないので、全くなんというかいら立つだけである.だから良寛も気持ち悪い感触を覚え、ディズニーランドなんぞに行く気はしない.
秩序を保たねばならないが資本動向は変化している.秩序というのは変化を好まない維持を求めるが、がん細胞はそれとは反対に増殖を繰り返すのは秩序的ではないので、これは秩序と変化の間で秩序に対する変化ががん細胞として生理に出しているとか、ふと考えてしまった.
考える市場の世界と深淵域がつながったと思いついたのにそれを全く思い出せない.なぜなのか茫洋としたリビドータッチ?の壁ができてしまって?
またまた自分を消す方向に向かってしまった.不快なXXになって自己滅却をそのXXが意図している優越意識のために、自己諧謔を重要なことなのに意味のない方向にしてしまうというナンセンスを形成・醸してしまう.そのXXは時間の無駄で時間を停滞させている退行的存在の自覚がない原始位相と.
だが、XXとXYによってその子供誕生も止揚的対象と見えなくもないので、そうなると類人猿も弁証法をしていたことに、いわんや動物・植物にせよ有機続にはほぼこの形式である.ただしパターン時間が進化や変化があるにせよやや長いかな.
反交換の圧力はAはAであるの把持を妨害するはよかったのだが、思惟形式から弁証法を思いつく.F粒子とB粒子が現存しているのは否定弁証法・超弦が超対称性を標榜するのは弁証法のF&Bの止揚という形であることになる.結果として反交換の圧力は止揚の圧力になり高々弁証法形式という昔からの事に
ある人物の愚痴の中で、いやな女で避けている・顔を見たくないという存在に限って会ってしまうという・それ以上に極端な希求も聞いたが・ことはよく覚えのあることで不快なことに記憶が残ってるというのと同じような.それで考えていたが、意図と反対の形は反交換なので、どうも反交換の圧力があるなと
知らなければそんな風車を人間と間違えるような明らかに誰でも違いの分かる発言をするなと言いたかった人々が多くいる.なぜなのか、女性に意見を言うことができない存在達なのか?.それは子宮に甘えた男達であるのだが、XXでもその勘違い・風車突進を行ったということは?、ドン・キホーテは名作だ
この数学は得意と述べたXXとなぜか間違われる.そもそもXXとXYでは異なるのに、人々はわけのわからんそうして誰にものを言っているのかわからんという理不尽ばかり受けてきた記憶がある.なぜなのかこの数学は得意といったXXに直接いうべきことなのに、もっともその存在を知らないだろうが・・
それでたまに見かける異形の存在も複雑系に即しているので現在的と思ったりしていたが、とにかくその連中が線形頭思考を志向しがちな集団一致の疎外対処をするのでは始まらない.結局線形視点による疎外意識で避けるという形になる・・.『異常こそ正常だ』は線形に対して非線形思考のことである.
昔は道路の複雑な状況に対してこれでは事故がそこでなくても別のところで起きるなと考えていたが、複雑性的側面からは道路の複雑さは適切であると考えるようになった.応用視点把握が遅すぎる・線形ではなく非線形性を設定していたのに.ただスキーの場合はリカバリー能力という境界対処は想定していた
指示的人間と言えばXXにもそのような存在が思い起こせば多く(そのころはまさかで全くそんなことは考えていなかった)、ミソジニーXX型という分類になる存在達はとどのつまりパワハラ発言になるという経験記憶があり不快でしょうがない.ミソジニーXX型はなんか矛盾していないか、
2016-12-14
my ft 12142016
αは現実と通時的に傾向があり、θは現在現実と共時的に重きを置いておいた設定でかなりの長い時間αに関してpaしていた.いざ今α傾向を始める余儀が生じてやや脳内構成混乱中
超対称がそうさせるとも言えるが、疲れるフェルミ人間.しかし考えを内部保管しているとそれを伝心的に暴露してしまう人間が負いな、あたかもそれが自分であるかのように、しかしそれが事実のようであるが既に既視思考をしたもので、その点を人々は理解しない.逆になったような即物短絡単純者たち
崖にぶつかる荒波の群青色の海面はフェルミ的、単体孤独だから非可換性もあるのかな、積分はフェルミ的イメージがある.ただ叙事的にも見え権力意識が強い自然を持っているかな.愛情の潤いがあまりない点が特に面白くない.仮面カップルにはこのフェルミ的人間はなりやすいともいえそうだ.
ある明かにフェルミ型XYがいて、嫌いなタイプなんだがそのXYが意図の全く正反対を見事に表現するのには閉口であった.そのXYがそんな意図は全く持っていないのに内部に侵入した蚊たちで、そいつの言明が内部からいまだに湧き上がるという邪魔すぎる不快な事態が成立している.なんなんだ!
図書館に行ってニュートン雑誌をみた.あの頃は素粒子がいくつ発見されるんだ、ちょっとうんざりでもう様子見とした.もちろん弦理論は当然推移を見守ることにしてあるが.太さのないストリングが震動すれば確かに無数の素粒子が想定できるが、素粒子のニュアンスからは無限にある?とは
こんな恰もBC理論に類比できるような現象は昔からいくらでもあったはずである.実験データの結果に理論が追い付かないということは多いにありうることであって、昔の人が交換と反交換やBC理論などを知っていたはずがないにもかかわらず、現実はそれらに類する現象はいくらでもあったといえる.
崩れた斜面から除く地層の差異から層状組織を後年設定したあの大きな桜の木の手前の道の前に沢があって、その沢の地形がそのころには想定しなかったが、今多少想定してみるがやはりうまく想像できない.現場まで行くか行ってもそう簡易に理解できる沢の形態とは思えずゆえに躊躇う処で文が停止中
小学校年生、通学路の帰り道大きな桜の木の下で、数直線をうかべた.最近数直線は役に立つと気が付く.片側数直線は埋没費用・減衰変化を転化を考慮しなければで、普通に人はそのようにしているが.
そういえば思い出した、小学生の時に近くの家の庭先で浮かべた不思議の国のアリス・こんなでたらめについていけないと.その家への道の途中に鶏の小屋があって、鶏の赤の色といろんな赤の色の赤をどうするかと考えたことがある.どうにもならなかった、長じて分析哲学の対象にある考え方と.
冗談は単なるその場限りの遊戯で意味をそう持たないものと思っているものが現実有効になってしまう不本意な経験が多い.偽善社会においての心にもない言明は虚偽であってそれが現実という社会であると、冗談=遊戯=偽善というつながりがあるようだ.
量子脳理論-ペンローズは当然そう考えるだろうな.まさかのあの頃は無機的要素人体を考えていなかったのでペンローズはパスしていた.実体二元論において心身設定の場合、脊髄反射は明瞭に身体的であることは了解である.量子脳からは無機的歴史をどこかに持っているという考えも正当性を持つ事に?
どうも脊髄反射的想像力がある
ある女子学生が不意にモーツアルトのレクイエムといった.レクイエムとは嫌な言葉だまだ若くこれから何事かをなそうとしているのに、タナトスイメージの言葉など冗談じゃないと思ったものだ.その後モーツァルトのレクイエムは黙示録であると知った.となるといやそのあの・・と、しかし存在理由が..
どうも挫折ではなく完成が困難であると思うようになった.休止しただけで挫折ではなく再開予定だから『余裕の挫折』と表現しただけであったのだが、当然『終止符を打った』のもそう表現しただけで終止であるわけはない.
漸近的自由性(Aymptotic freedom)が出てきて、これを設定するとママ都合がいいと.対称性の破れは偏りとみるとフェルミ的現象に直感できる.果たしてこのある現実世界は偏っているといえるか.そんな人間は多数存在しているが.
色々思い浮かべてどうにも市場経済を考える時に(そうでない時もでてくるが)深淵を脊髄反射経済的と考えるとあるのかも知れないと.パーコレーションのブームやパニック現象や集団多数現象などは反射域にならないか?.まさかのパブロフの条件反射を何十年後に考慮するとは、オパーリン思案のあの頃
人体は素粒子まで分解できると思うが、その素粒子は燃えてしまうようなものである.放射性粒子のように長時間半減性粒子でできているとは思えない.そんなことを考えていると、無機的歴史を人はどこかに持っているのではないかとも思う.叙事的存在体のみも相変わらず発生している・・
生まれたての赤子は自力で生きていけないように思える.すでにいた動物の変化によって類人猿は発生したといえるのか、それならば赤子の成長も了解できる.自力で生きていけた生命力の強い赤子の子孫が現生人類というわけではなさそうだが.そうであるとしてもその赤子の発生は?となる
限界に達して境界状況を認知していない存在は、理不尽・不自然・非常識・狂気的な言明を発する.そんな人は当然余裕・逃げ道を残した対処などできるはずがない、何しろ当人が限界で余裕がないからである.かくしてそのような余裕のない人に余裕を残すように対処すると愚昧な不快感を味わうのだが・・
ふと魚偏の文字を眺めて、覚えるのには止揚状態であると思った.左右の文字が分離しているままの印象なのは止揚の分解・分離ではなくて、否定弁証法そのままであると.こんなところに無意識・自然に弁証法を用いているとの発見とは.覚える・マスターするには止揚が必要であるという帰結・・・
実存といえば普通にブラック域であるはずだが(実存分析は明らかにこの域)、サルトルの世界に責任を持っているというホワイト実存に直面しているときで、やや諦念・絶望の香りを携えたときに、人は風に吹かれているという感慨を持つだろうな.
野に咲く花を愛でる、一輪の花に永遠を見る、ジェラールのバタフライから蝶は何を求めて彷徨うように飛んでいるのかとかから、風に吹かれているがどうしたといわねば偽善になってしまう.親鸞の自覚した善人やマズローの自己実現中の存在ともみえるが、ただしそのような奮闘中の人材には好感を持つ
他人に要求しているつもりのことを、自分が要求していると思われるケースが多く、大体他人が不愉快で内的に要求することはその他人にとっては自己の在り方の変更ケースが多いので、個人的に不快である事象を自らが要求するわけはないのに、思考力・判断力のない他人はそれがわからないケースが多すぎ
”さしあたって資本主義社会は、野生と野蛮の交替にすぎず”-野生と野蛮とは妙味ある視点である.野生を野蛮人とみるその当人がその見方が野蛮なのであるが、またそのようにしか見えない野生に決めつける見方しかできない存在はまた陋劣なのだが、野蛮なだけに体力のしつこさがあるというものである.
小学生の時の帰り道、杉林の中の笹の根は地下に広がっていると・竹もそうらしいが、根茎とはまさにそれでスキゾの逃走線は逃走ではなく複雑系にとっては現実・カオスにとってもである.
中間存在はイデアルになっている
理論的(論理的?)には片づけてあるはずの公共性、ただそれを人々が実践できるか・するかは片づけていない.まあほとんどの社会生活者は公共理性に従って・たとえば法律など生きてはいる.公共哲学は判例暗記のようなもので片付かない、法案提出立法領域を対象としていると思うが.
好みの場合は飽和というファンデルワールス力が作用してしまっているか、嫌な侵入はロルーズ的なサンデル的な正が善に弱められている場合かなと.共同体思考者は不快などうにもシステム的にそこにあり無私的に消えないケースを公共理性と申すとすると、公共理性はそれほど抵抗はないのだが.
英単語チェック難しく、確かに漠然とした記憶しかなく、暗記は一切やめよう・暗記しないで考えるとした想いの時間が長く、記憶力はほとんど自己好みのものしか記憶しないようになっている.記憶力もどうも現実に必要であるとは認識しつつある.中学生の頃が最高に記憶力あったのが今は信じがたくある.
しらけにしらけて、あまりにもしらけるとかなりの拘束束縛与件になってしまう不自由さしか残らない.ここは全くそんな連中は無自覚ですでに分析個人は把握していることにずっと気が付かない存在と見て操りをしているとしてしまうか、個人的に意図しない操り・洗脳事象なんだが.
考察位相は大したものと先ほどは直感したが、どうも多数いるはずだなと思うとそうでもないのかも.かってに宿命的と思い込んで他人取ってはナンセンスな言明を情熱をもって発声した人物達の記憶がしつこく不快に悩ますのは、すでに自己分析した内部記憶を他人が剽窃してその当人述べるというトートロで
関係とは不可避に近いものか、不可避になってしまうのはなぜかとかあるが、宿命という言葉にはこの不可避性を感じて嫌いである.不可避の局面は総体的には人の有限性それも身体の有限性が特に作用しているものである.それで生きてもいいがそれでしか生きていないという存在も多い.
一応お気に入りで設定した曲3以上を繰り返し繰り返し聞いているとさすがに惰性感・飽和意識が忍び寄ってきたような飽きに思いがしないでもない.少し映画を本ばかり見てみると引き寄せ感が発生していた.この『飽和』は取り入れている・ただし不飽和は考慮には入れた記憶はない.暗示にはあるかな
エートスは人生を決めてしまうと思いエートスの閉鎖を考えるのはやめた神社への山道の途中で、雨は降っているが透過してみているという構造を見ていた場所の先、エートスで人生を決めてもまあ差し支えないのだが、重い女はエートス的要するに渋みを出さねば立つ瀬がないという存在.
仏教に対しての浅い知見では無限という言葉を見たことはなく、仏教の細かいこれでもかこれでもかと述べてくる記述はがんじがらめの束縛力でもあるのではとふと考えた.それともどこかで無限の言葉を用いているか?
しかしすでに意図している領域ではその対象は対象にならないということは意図通りであることになるが、現実との意図はそうはなっていないな・・.ちょっとよく考えずに無謀な処理・処置をしてしまったか、秘匿感もあったので、自分でも覚えていないが他人にはなおさらわからないとしてある作品.
なぜかダメとしたまだ合わない対象設定ゆえの話だが、時間をおいて度目にあった時には価値を見出したが、その反面にも気が付き、今では明らかにそうではないことが分かっているが、見出した価値は有効であるのでそのままの関係を持続させたらと今でも後悔?的に考えてしまう.
語りえぬものに沈黙しなければならないのなら理性は結構行く、徐に描いた詩に対して悩んで考えていることに哲学が成立するではないか・・、あの時の想定対象モデルで一段も二段(?)もレベルが未熟域になってしまった結果を進めようとして動かずの時間が多大に過ぎ去った.
曲率が周辺で大きくなる球体とすると、理解しがたき狂気的言明を球体は発する.無駄を強要・強制する形で、他人に犠牲を強いる、本来球体の才能のなさを嘆くか、才能アップのために努力しなければならないのに、短絡を行使してしまうというのもまた能力のなさの所為である.
宇宙が無限的に膨張するとそれは希薄になりどうも太虚的なものを想像したくなる.太虚から始まるは終わりが太虚に終わるで、むしろ逆から考えたことのようであもある.
プランク定数サイズのブラックホールの所作がわからない?、別に物質でもわからないのでそれは当たり前だろうに.ここでは無限沈降が有限になっていることを意味しているが、これ基準にすると無限大一般は仮想になる現状である.
もし昔に見た夢が正解ならば現宇宙は停留すると思われる.ただし熱的死ではない、熱を持ったままである-あれ中間存在的宇宙になってしまうなと思ったところ
太陽程度のBHの蒸発は宇宙年齢*^となまあそう想定できそうな値である.ただし量子サイズのBHは今まさに蒸発してその温度は兆度になるとか.あの頃考えた大きさは少なくとも人体サイズの何十倍もあった.ひょっとして宇宙空間を想定したのかもと今過った.どうも思考がポツンと変化する
その時に時間を想定して(時間があれば・あるだろうとして)、ブラックホールは変化するとした.ブラックホールが蒸発する時間はどのくらいか、それぞれのブラック量によって異なるか、情報は失われないとかを方程式化したものは想像もつかず・まだ見たこともないが、世界には考える人材がいるものだと
小学生の時に考えた老子の道はブラックホールの位相に相似している.
あの時きつかった民主主義ではうまく説明できないが、かといってそれに対するアイデアも全く浮かばない厳しさを味わった年ころの話、先ほどモスカの後にミルヘスを知って何のことはない理で容易な説明を見てしまった.なんというか他人はそのほか多くの事でもやはりすでに考えているなと思う今
必然的自由-人々がこれこれを行うのは義務またはしごく当然なことと思いつつ行うことあるいは無意識にそう思いながら行う事柄.自然にそれができる存在も部分としてはいそうであるが部分という点が難点かな.
何かと何かが結びつくのは奇蹟とか、ケストラーの創造論をよみがえらせるが、ホワイトではなくブラックホール側の深淵・すなわち黒き暗き方での対(昨日までは考えいた何かを忘れてしまっている・科学の結びつき思考に関連したことかな?).要するに語りえぬものは人間的視点から無意味と表現だな.
心の哲学も滅茶苦茶にに多様な考え方をしている人物が多いな、それが教条的なものだと思っているとは.認識論だよ明らかすぎではないか.存在論からテイラーなる人物がハイデッガーを考慮しつつ登場で、サンデルにも影響をとか出てきた.知らなかったな-追いついていないラプスの時間といえてしまう
どうやらあの歳の時に倫理は科学ではないからとも思ったようでもある.まろやかな人文感覚もあったが、ヴィトゲンシュタインはチャーマーズの擁護・源泉的な面もあるように思えるが.必然的自由がごく常識な倫理作用であり、中学生の時のヒューマニズムの現代的な揶揄を感じたがそれはと思った事
自伝・その存在足跡のために--承認の要求もあるが自己実現の要求のほうが明らかに強い.つまり子育ては自己実現力といえる.
”「幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自から正当化する。」(『草稿』)”-アドラーの自己満足もまあ似ている.それに老齢的超越はまさにこれだろう.
校長も立場上言わざるを得ないわけだが、その前提に授業押しつけ優位感があり、自由な発想の邪魔というステレオ陳腐な秩序意識を発揮して.そんな常識はわかっているのにわかっていない・実践していないという視点の不愉快さを全く忘れない.抑圧でしかない、その校長の訓読みを音読みして揶揄した日
小学生の・年生の時に授業中にノートにジェット機の絵を描いていたら、なぜか校長が見回りの時であって、授業中にそんなことをしてはいけないと注意されたことを思い出す.不快極まりない、そんなことをいうことは当然理解・了解している、書きたくなったのでそうしているのにと沈黙思考したものだ
また自己記憶内部のXX達と同一視してくる人々が一杯いたのだが、これらもなんだかわからない.いったいなぜそんな非自然を不自然を強要・要請するのかさっぱりででたらめであるのに.自分を気にできない?、そんなことはないだろうトイレには自分一人で行くだろうしその時には自分を気にしている
個人は独りである.ゆえに内部の記憶や目的などを他者が用いても不快になる.他人の所為であるといえて、私ではない.そのように内部意識を他人が使うことには非常に不愉快な気分になる.しかもそうしていることに気が付かない存在はなおさら不快である、そのような存在は自己の無知を押し付ける
中間存在に対して切羽詰まる・要するに反対になった倫理禁止を破ってくる道徳力のなさに完璧に遭遇して、無知ハラスメントのような不快な迷惑を被った記憶が不快でしょうがない.そのような存在は退行者になるわけだが、そうではなく現在時間に対してまさに退行しているという存在が不快である.
過ぎたるは及ばざるがごとし-ひょっとして中間存在や親鸞の悪人はその量の多さで、有限外や自覚者・善人を過ぎたるものと思っていないか.これも一つのパワハラ・量ハラスメントとも.そうなると金持ちも金ハラになってしまうか.共同体の集団パワーは明らかに個人体力を凌駕するのだから・・・
他人を避けるは嫌いもあるが、一応敬遠する、している形としているが、この言葉は野球からは明らか。敬遠は実力面では無く、不快な面からで多少皮肉も含んでいるつもりなのに、対象は単純普通に実力的解釈をしているようで、それがまた更に不快感を加えてよりしつこい対象となる、
平板人間が平板を気にするとどうも策謀とか虚偽を無責任に行使するようになるかも、詭弁も用いるようになるとか.詭弁にはある人物から詭弁の言葉を投げ変えられたツイート、別にリアリストではなくエレガンス地平を用いることも、形而上的な位相もなんでもありだが、空想はまあ避ける傾向にはある
立場的には交代でその交代に対して確かに革命的な状況は発生する可能性は想定できるが、それは立場逆転とかに見えてきた.そうして経済なく国家なき社会は人間心理が善人的存在しかいない場合のみを想定できる.現状ではアヘンである宗教がそのように考えているのでは、仏教は特にそのような傾向では?
関係は建設的ではと思えば、さっぱりわからないがすでにわかりきっていることと同じなり、わかっているものはさっぱりわからないという多すぎる現象となりて.ともかく人類が存続する場合という条件を付けて、だがこの関係で勢い込んだ人物は類続は当然のものという立場からのようである.
形而上的には自己が意識を注いだ強度により比例してその対象意識は強くなる-現象学的かな?.心理学的は当然すぎるか.”特別な時間が運命にしていく”なるほど後天的所為とな.先天的もあるのだが・・.とにかく昔ある女子大生が不意に星の王子さまを言い出して、いやな思いをしたことがある.
インペリアル面の考慮を避けていたのは失敗だった感が生まれている.それでも叙事的人間・叙事体は底が浅すぎてどうにもならない単純思考をするとしか.曲線的膨らみを叙事体といえど持っているのに、そこにある程度の厚さの板が立っているだけのような反射感覚を覚える.厚さ3㎝?もあるかどうかの
反交換者は交換を認めがたい?、交換的には反交換を認めがたいが、交換者に反交換を強要する反交換者も残酷である.まず今のところどちらも認定無理で、反交換者はその孤独性から愛情が苦手である筈で、交換者の愛情をまず邪魔することは明らか.交換者といえど孤独を持たないわけではない点が狙いか
不自由な女・男の自由意識と逆になり男に自らの不自由を投射して、自らは男の自由を持っているものとするケースに遭遇すること多数回.これが全く不快でこんなXXは排除しようとするが、自己自身を対象とするようなもので厄介である.なんというか当然の権利であるかの如く女はこの形態を自覚している
過ぎたるは猶及ばざるが如し・明晰を明晰と見ないのはわからないのと同じ、つまり及んでいないことになる・のは明晰以上のアイデアがないときは特にそうである.実際にわからないものもはわからないが、
ホワイトホールにもブラックホールにも時間的作用がある!.ブラックホール的なものは小学生の時から考えてあったが、ホワイトホールは盲点だった.ならばtwenty-ixにこれを導入すれば差し支えないことになる.evenにも用いることにはなるだろう.
ヴィトゲンシュタインは或る街の小さな書店をおもむろ散策中に、回想のヴィトゲンシュタインという書物をが目に入り、何となく手にしてみたのが始まりで、分析哲学なる物との出会いシーンである.その書物の写真を見たときこの人物は本物だと思った.エリートとはこのような人物なら相応しいと
唯物論は無機的合理論か、科学も無神論的合理的だが.まあ人間の実体も身体は素粒子でできているがだ、その所に感情・心があるという無機的叙事的存在ばかりではなく有機的抒情的存在でもあるのだ.
いとこと議論ができなくなった若き昔の日に、渋谷の長閑な駅近くで、マルクスの書物は論理的に整合性を持っているように見えるが、感情がなくあたかも自動制御のバックにせよフォワードにせよ論理様況に見えた.今でもそれは確かだと思っているが、感情がないと罪の意識も持つ必要がないかなと
太虚だけれど陰陽が根拠とする太虚の証明は誰もしていないので、非科学的は成立する、ただし人にとって論理的には想定できる太虚でもある.太虚からなぜ今日の有があるか、太虚に密度の差が生じたからか、それは時間的な物の作用によるものと考えられる.ブラックの反対のホワイトにも時間が作用すると
ハエ取りの自尊心は想定出来かねる・判断がつきかねる、ウィーン学団とイギリス経験主義であらましは表現できる分析哲学だが、そのころのEU哲学思想雰囲気が加担させた面も考える.プラトンの焼き直しに楔を入れる情況だったのかな.
そういえばちらちらしたヴィトゲンシュタインの哲学探究もフラクタル的、ヴィトゲンシュタインは「世界があることが神秘である」-この一言に尽きる.だがポパーに対してあくまでも蠅取りを主張した火掻き棒は明らかに脅迫的な心理ものだ.
『これらはなぜか?』-マイ論理よりこれで帰結であると設定、ハウスドルフ次元的にフラクタル的にカオス的にかな、サンデルの公共哲学は哲学の名に騙されたような気がしてきた、政治論ではないか我慢して政治哲学であるとか.いずれにしても提起のみで結論があやふやなのは、考えに即しているかな
相対的平等・機会的にも老齢的超越者はもう苦悩をしなくてよいが、そうでない以前者は悩む権利を持っている.だが現在的に以前者はそのような人を見るとイライラして不快を覚える屈辱感を感じることだろう.だが老齢的超越者からは以前者など煩わしい面倒な存在でしかないのは端的表現で言える.
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」この有名な言葉だけれど、正解として往生に善人と悪人の度合い・質の差異はないのか、この辺はどうなのか、親鸞は適当に阿弥陀の布教のために曖昧・いい加減にしている?
ヴィトゲンシュタインもヴィトゲンシュタインだ、原子命題なる要素主義的で哲学がハエ取り壺の道の示唆などは成立しない、それならば何も要素主義で悩みはしない.そもそも無限沈降を知っていたはずなのに原子命題はおかしい.哲学探究も徒労かもだ.”ヴィト系はカルト的になる”に刺激を受けて
松原湖?、昔、麦草峠でtwentyを味わって、白駒池へに行き違いの大阪のある街の女子大生が松原湖に行くと、どうも一緒に行く雰囲気だったのだが行かず八千穂駅で反対に.松原湖の印象はないな.、白駒池のほうがムード自体はあるだろう.今日このごろ時間的にちょうどだったと思い出している.
人間そうそううまくはいかないようにできていると言ってしまうのは単純すぎて、老齢的超越者はうまくいっているタイプである.
一生反省する必要のない生理体を見る・思考上で実際には反省していると思われるが、普通に考えてポテンシャル的で前に進むだけという存在がいる、しかし年老いて身体の動きが鈍くなってもなお前に進まねばならないという桎梏がある.そんな存在を見て無反省を想定するのも辛くまた疲れてうんざりする
まず自己所有権だから他者の逆作用など不快でしょうがないとも言えそうで、ましてや他の場所に実在している女性と同一視されることなど、わけのわからんでたらめで直接その女性にいうべきなのだが、その男たちの認識能力は風車に突進しているか、頭狂っているか、直接述べる勇気がないか、何だろう.
ある女性に対して言わんとして倫理的姿勢から忍耐した思考内容を、その後に遭遇する男たちから、それぞれの女性に忍耐した言明を、その男たちがそれら女性として忍耐した当人に述べてくるという、全くわけのわからない出鱈目不快な事態を受けるのは?、いずれににしてそれらは自己記憶のみの事柄だが?
哲学とアポロンなら成立・実存とディオニソスは相対的カルマとしておくか
成長期・小学生や中学生の時の視点と身長の伸びの止まった時点以降に、成長期の風景を再度見ると、樹木の伸びとかの変化ややや地形の変容もあるが、距離感が異なりいささか記憶との差異があって奇妙に感じるものである.
見た通りとはいっても見た事柄に脈絡を見ることができず、常識基準で明らかに意味のないことや意味のありそうなことが出現したことである.そもそもなぜこの通りの時間を過ごすことになったその理由がさっぱりわからない、フラクタルかカオス的離散だが連続している時間範囲という..
しかし滅茶苦茶なとはいえ見たとおりに推移したという時間変遷を等質空間云々より、現実の経過事象が等質推移的ではないかとも思ったり.この女性も不愉快な不都合を述べて不快になりの記憶があるが、持って行き方が悪かったかな.前提条件が成立しなかった・つまり気が付かなかったからだが、なぜが?
それから8年後ある女性と川上村の道路を駅まで二人して歩くとは、全く想像できずにしかしそれは当然で、この女性で終わりだったはずなのに気が付かず(その理由が全くわからん)、今にいたる羽目に、そういえばまだ無意味な事柄を例の喫茶店で見ていたことを思いだした.全く不都合なことになるものだ
しかし最近では世紀年代からやや兆候が過去側になってきて、世紀後半部からその傾向はましては前世紀からもあったのだが、現実的ではない傾向になっているのに今になって現実的というのは逆の立場であることに、どうも無駄な方に向かう.しかしまだまだ現実的なレガシー力は強いと.
現実的にも過去側にもダメな滅茶苦茶な過程記憶がトリエンナーレに行った時には、そんな人がうってつけと言われ唖然の幸福感を味わったが、常識現実に傾いている今は何とも、そこでの躊躇判断情態となっている.まあさすがに普通に現実に巻き込まれて生きている人々の世界の力は強いと最近は感じている
その門は校門で現在は津田塾やお茶大は沈下しているとか読んでいた.昔はどうだったかよくわからないが、津田塾は俊英が揃っている、お茶大は--まさかの一様関数だったとは夢にも思わず、ただし直前の眼前に出現していたが.まったくシステム的に関係なくただし個人的は関係ありで混迷の記憶である.
その結果直ちにハイデッガーの根源とは異なる意味合いの(個人的ニュアンスは同じかも?)実存点という実存分析の原点的(は等質空間推移に似ている)かデリダの差異の原点的なものを想像してしまいそこで止まったまま何年もそのままである.楕円曲線が絡んでくるような面もある直感判断もあるのだが
自由=必然はレーニンだけれどこれはキャズムのイノベーター的とほぼ同じ意味合いを日常において持っている.ある時フッサールの超越論的現象学の評論説明を読んでいて、自由=必然論説明を展開したものを感じ、面食らってしまったのは以前に不必要なエポケーを冗談的に試みたからなのだろう
ワーズワースから必然的自由を考えたことがある、それ以前に無数の可能から一つを選択した場合にはそれが必然になるという坂道での思索を思いだす.複数人間の中でシステムタッチの行為・行動は必然になる.また自体が必然的自由である存在もいるが、いかんせん教条的な束縛体にそれはなる.
人が限界や極限状況・土壇場において生きている限り選択するものは決定的であるはずである.情況がそのようなケースではそれが決定することになる、その状態は必然的になるはずである.結果情況を決定するのは必然になる.人は普通に必然を内部に持っているか・生自体が存在している限り必然ならばある
上に有界下に有界な存在を中間存在とする.下に有界以上に下になると有界者にとってはパワハラ型の権力位相を持つ形になり、ミルグラム的位相を醸すことになってしまう.視野の狭さという優越感の束縛という窮屈さ・上に有界以上であると今度は閉鎖意識がまた視野の狭さを形成して理不尽を発生させる
等質に対して避けていたのはホロノミーがまずあるのだった.しかし接続は問題でおもしろいのだが-あたかもシュール・超現実的な感覚を覚えて.小学生の時のある言葉をこうなるとどうしても思い出さずにはいられない.想像力を使ってなぜ罪の意識を持ったか、写実に呪われている?
仮にアフィンにしたけれど意味を付加してアフィンでもよかった.実際にアフィンXXが出てくるから始末に悪いというか、アフィン的に考えてベクトル意識がおろそかなおざりになるというおかしな自己心理になって妙なという日常意識を持たねばならない無意味・無駄的な事態に
なぜ嫌だ嫌だと思うものばかり現実的対象になってしまうのだろう.他者達は悪魔的存在か自己性質の問題か.自己性質を考慮しなければ他者達は悪魔的卑劣なしつこい悩ましい存在でしかなくなることになる.大体悪魔など嫌悪すべき存在だからである.
無積分あるいは不要積分なることを考え着いたが
エリートという言葉は疲れてしょうがないが、どうやら大審問官のような意図で件の女性は用いたようだ。そんな言葉は考えた事も無く、すでにそんな社会的位相にはないが。なにか感じたか自分に引寄せたか?。単に主体に自我にとって、自然な生き方をしようとしているだけ...
昇華は気化のようなもので、軽さの自由がある。
通時が変化してきたといえば埴谷雄高の文章は通時的で古臭いイメージをずっと持っていて、思考内容はいいがそのスタイルが疲れる認識だった.理解する人がいれば蘇るは大げさなうぬぼれでしかない先験意向者である.別に虚空のそよ風は吹いていても何ら差支えはないが.
コホモロジーと考えても何か変で、まさかの被積分値情態とは思えないが、論理的にそうなってしまう.そう考えるとつじつまをやや合わせることができる.そうなると積分者はどうなるだが何も考えたくはない感性趣味から外れるという形で
なんか環界が妙にはっきりと変化してきたことを感じるこの頃、通時的ではなく共時的もしくは存在論的な
ここ・3日、埴谷雄高がカップル生活をしているのにあえて子供を作らず、ただし作品の継続を他人に任せると述べていたことはどんな意図故かさっぱりわからず・さほどどうでもいいことだが・考えている.伝統の拒否・自分の子供に任せればが普通すぎる・の割には他人の家系は認めているという次第を
逆になって人が認識している位相を自分ではなく当の認識者の位相と自己投射をしてくる人間にも困ったものである.これらも邪魔で、自己投射どころか当の認識者を他人と同定してみた人間も複数いて、非常に無茶苦茶な認識能力としか思えない.そもそもこれらの他人達は当の認識者を無視している
実験データにおいて、成果・結果に対して理論が追い付いていないケースは、逆数学的要素もあるがハミルトン閉路の経過過程が判明していないということになるな.その存在以前に困難が成立していたという場合も考えてしまう.ポテンシャルが現在からみてゼロという考え方もあることはあるが.
枕草子の作者・清少納言はあか抜けていず洗練されていない人間や事象は嫌いという人物であったことは間違いないと認知する.
宗教が不変もあるが周期を考えてみると、例えば永劫回帰だが明らかに無茶な反復不変性いとであり、この人物はその当人の自己判断による道化師より宗教的存在と考えるとまともになるかな.不変周期教なる宗教を構築すると説得力あることなるな、CRA(クラー・くらー)として候補はあるのだが.
で末法の世でこれを信仰しないから不幸・災難にあうと説得・扇動した鎌倉時代の人物だけれど、そのスケールは怪物的にみえていたが、仏教に周期論があったので、その末法の世の説得力は効果が本質的に薄いか時間視点においてリアリズムであるかあるいはその当人は周期論を知っていなかったかである.
宗教は不変意図であり、信仰者は不変依存性を持っていると判断中
端的な例は葛飾北斎で、歳になればもっとうまくなると思っていたのは事実だろう.老齢的超越を予期していた感があるがどうやら至らずで終わったようである.普通金持ち・物質に恵まれていても心は空虚というのは、この老齢的超越である幸福である満足感を物質優越感では達し得ないからと思える
優越感とは老齢的超越のようなものを指すといいたい.優勢原理によって優越感を求めるのはそれはいまだ至らずと言えりと.
何しろ優越原理が成立しないことが直感感得するようで、無茶苦茶・理不尽が飛び出してくるものであった.隠者たちはその辺の無駄・ナンセンスをよくわかっていて、世捨て人とか庵に引きこもるとかしたのではないか?
being-それは幸福・満足な心情情態である.昔にすでに味わっていて、その時にはほぼ一生の時間間隔を感じた気分になった視点があった.まだ代の終わったころの話・代の前半、それゆえによもやま人材に理解できるはずもなく、邪魔・妨害ばかりしてくる自然しか持っていないのであったな
老齢的超越はbeingのことではないか?、マズローの段階の自己超越であるか?.人に謙遜してもその人物たちは段階の自己実現でさえ一生できず、段階の低次元要求者が多すぎるのもまた不快である.困ったものである.
K.Cは荒唐無稽・ハチャメチャに見えるが論理的には結構まともな番組.人類最大の発明は笑いとかの意見があるが、なぜ最大の発明なのか-緊張に人は耐えられないゆえにとしか帰結が見つからない.
NP完全の中にNP困難を作るとき、あるいはNP完全時間を短絡しようとする時に何らかの不規則が生じることは明らかな事実である.そうしてまた現実にそのようなケースは多々ある・・・
ファインマンもな、最もよくわかっている・自覚していたようだが、現実のこの唯一としての宇宙は今のところ有限位相にある.無限時間前を持ってくるという散乱もあの手この手を机上で考え出すものである.思考上の論理正当性がもたらすことはわかるが.
実在と存在がなければ意味がない.つまり数直線は成立しないというつまらなさだが、片側数直線を算数で行う-これはずっと一生有効であるのだが、片側ではエゴ的といえる創発雰囲気を持っている.
”調和級数の発散は非常に遅く、たとえば最初の 個の項の和は よりも小さい”-オイラーの定数より、そうなのかそれでは対数を嫌うわけにもいかなくなる.比率は一様で結局、西鹿児島で会っただけであり・・の失念していた青春の自然性の記憶の直接性が思い出される.
ミサンドリーはどうかだがミソジニーはほぼ男と女の間にあるといわれる深淵が先ずわからない・考えられそうにないということを経験上と思考上から判断してみた.どうも現象的にしつこく不快な記憶があり確かであると思われる.
側頭葉の皮質層とは--阿頼耶識を連想してしまう.構造は昔から直感していた仏教視野であることや、層であること-層状組織であるに結びつけることもできないわけではないが、その地質層の横に沢がありその沢の地形判断中から進めていないな..
何らかの相転移ではなく結節する何かがあるのではないか、またはその乖離の成立する場自体の作用の設定ならばつながる.ixteenに関して、それでも説明であってアイデアではない思考
叙事的事実には怒りという感情の結果も含まれていることは多大にあるので感情がないということはあり得なかった.ただ融和感覚はあまり叙事的事象には登場しない.例えばこの期間は平和であったという単なる一文に終わるのは、何らかの指向性・志向性を取り入れなばなさそうである.
小林秀雄は断定力・独断判断が強かったのでは?、エンペドクレスは火山に飛び込んだかどうかは定かではない、ただその情熱はわかる.魂の不死ではなく情熱力だと思うが.悲しみは疾走するがどうも引用剽窃ではないと思っていたことがあり、薬籠解釈力で不遜故とも考えられるが、どうも違うのではと
中条百合子と川端康成は同じ年とな、川端康成は凛としてエレガンスな崇高性も垣間見られるような人材であったと想定する.さてなぜ遺書なき自殺したのだろうと思うと不明であるが、崇高さの未熟における優雅さの限界を持ったかやり残したことはないと自己認識したかさてまたいずくにあったものか
Yの関係についてずっと考えている-あまり考えても帰結しないのが不思議でしょうがないが、術中にはまっているかもしれない.Yの精神か物質かは決まらないとか思い出しても同じでありどうもまた逆になっているか目の前存在を無視か同調要請だったか.埴谷はねえといったが別にといえばよかったかな-
思い切らない?-のではなくやり直しの可能性が強く示唆されてためらう.後悔は先に立たないが、予知してしまうような.それともハムレット型とも言えそうな.カフカはなぜなんだろう?、実存性だからか?、実存の嫌いな本質者はどうするということだが、今は乱れすぎている心理でなんとも言えず
世界内存在にとって世界に責任があり世界内存在には責任がないとすると、宗教信仰者には神かその宗教創始者に責任があり、信仰者自体には責任がないことになるかな.
無責任者はナンセンスを真面目にとるという考えに、そうなると冗談が現実になることは現実が無責任であることになる.おおよそわからないものは無責任体人間ではないかという直感が作用してきている
小学生の時に天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずという言葉を浮かべて何か妙な気がした、昨日なぜか不意に「学問のすすめ」はやや荀子論ではという考えが浮かぶ.そのエリートが荀子的とかの考えが浮かばせたのは間違いないな.
日本でエリートという言葉をみるが、聞いたのは一度だけ、もはやそんな状況にはないが、もっと本質を忘れていたことも確かではある、その後も忘れすぎて、しかしそれゆえにということもあり、あるがだがその内容が信じがたいとかなんとかなんだが
tout pourはいいんだけれど、それがどうもうまくいかない災いが割り込んでいて、しかもtout pourを邪魔するように入ってきているということだ.XXからのtout pourであるが、どうも思考内容が違う・・ので困る.そんな自己思考をしなければというわけにはいかない.
弘法筆を選ばずは一様水平面を超えたということで、いわゆるその文字筆記技術に万人が納得できる地平に達した・万人が認める技術の持ち主になった・定評のある存在になったというものであって、他のジャンルでも同じ位相を指す.
演繹的現象にせよ帰納的現象にせよ皆同一のものとして見ることはできない.ケガをした時のトリアージがその先ず顕著な例である.もし同一に見るのなら区別をして離散的位相が水平であるという視点でなかればならない.
脊髄反射を否定はしないが、ただギャップがありつながらない方法論を持っていてそれにずっと悩んでいる.この事実だけでいいか、それでは新鮮なアイデアではない--ミトコンドリアのギャップとむすびつけるか.そう結びつくかな.これも生物学的に既知だが.
栄枯盛衰・変化する不変・エントロピー
論理というにはだが理論というわけにもいかないあの川原の岩の間を歩きながらメソッド・方法が浮かんだ将来の予期の通りの形になっている.
ヘルムホルツかフロベニウスかヘルムホルツは違う気がする.煩わしいブイ分方程式を避けていたら今頃フロベニウス法とかexpが出てきた.物理的に宇宙は変化している現象であるところに不変が出てくる公理やネイピア数などは内部停留世界を考えてしまうのだが・・
頭がマヒしていて書物が読めない、昔から時たま書物が読めなくなったことはあるが、今回はムードが違うな.とにかく内部麻痺はどうにもならん.やはり頭を使わないとダメだめなんだが、どうもちぐはぐになるな.つまり読む必要がないという段階が何度もは別に当然というか自然というか--である.
安寧を当然意識しているのに、嫌悪XXが現れその領域を好むことができなくなるというケースを何回何十年味わうことになるのか、これからもずっと発生して続きそうである.どうもそのような設定をしておくべきなようである.
中間存在の現実は中間存在結果でしかありえず、その数が多ければその世界の寄与力はある.そうして世界はその世界傾向が普通で当然であるという中間存在-ほんとは中間存在の言葉表現であるように中途半端な一生存在でしかないのだが、その認識すらできないというのが中途半端である中間存在
頭文字だけは覚えているがなんの頭文字だったか思い出せない、ただ暗号的に発音の仕方は覚えているが、ツイートすべきかどうか、まだ組織体が現実に成立してはいないので.
精子核の初期化か、これかxxの強みであることを知った。不快だがどうにもならない感触として、しかし不特定のxxがその意識を発揮する事はモラル的にどうか
”動く機械として最も単純なもののひとつは、二つの輪が鎖のようにつながった構造をもつもの”--これをあるタイトル付近にデザイン化してある。カナテン・ロタキサンとな、確かに回転もあるダンベル状ではある。
加速意識は衝動につながるか、つながれば衝動はむしろ想像域になる
人はその人物に意図している対象内容を、意図者が自身が要求していると思う形の不快すぎる記憶がある.個人の経験記憶を剽窃・模倣をする、個人の記憶を別人物になぜわざわざ見るのは不快、対象が無知なので模倣にも気が付かず、また模倣の原点者を無知な存在と思い込むというこの傲慢さは損失愚劣のみ
薄汚いフェルミ型などに神聖さはなく崇高にしては純粋さが暮れている-つまり演技性を行うことになる.演技的は崇高ではない.
そうそう空想的相転移の特異な作家と規定気味な存在設定的にした人物がいる.対象はオブジェ感覚すぎるが.
そうなるとポストモダンでどうのこうのになる、フッサールのエポケーなんぞを冗談にせよ使うこともないのに使ってしまって、実存深淵に直に位置するという心性を持つ羽目に、いまだにひりひりする深淵には参る要素記憶がある.ハイデッガーの根源・原存在に絡ませて.でもフッサールでは進みようがない
どうやら線形文章の専門的様相内容であって、ダダ的なポストモダンがワンクッションとしてあり複雑系文章を書ける人材がいないという時代時間がそうさせたと見る.ポストモダンには参った混乱を持ったな、今ならクッションとか言える趣が持てるが、全く洪水のような取りまとめない文章に遭遇したものだ
告白にはどうしても潤色が混じる-どうしてもがない人物は卓抜な存在だが、この辺にカトリックの懺悔・告白が入ってくるかな.
関係は建設意欲・建設性のことかな.ただこの人物は未来の歴史についての予見を述べては居ず、諸々の解釈に対する自己思考の自己開陳で、現在的時間しか感じ受けない人物であった記録を見るな.
サンデルに超越論的主体が出てくるが、経験はそれができず、常に目的の向こうがあると.白紙というのは原初状態と訳してあるがいい訳であるが、先天性はすでに持っているので先天力が判断するとなると遺伝的要素強いことになる.その時までの生命の歴史を持っているという判断力が果たして?
アルバン・ベルクの「死と乙女」は普通に(誰でも説得力を感じることのできる)名演である.
シューベルトの死と乙女、死神に安息を齎すという思想があったことを発見.確かにそんな解釈はできる、生きてなければうんざりする馬鹿げた存在たちに遭遇しなくても済むという考え方も止めているな・・老化を早くしようとか今では長生きしようとしているが、いろいろ考えたものだ.
普通に聴いて安全なのはやはりベートーベン・ベートーベンは人間である.
ヴェイユのたかだか短期間での女工で意味があるのか?といった通念が常に付きまとっている.スペイン戦争まで行くとさすがにそれはと思うっているが、短期間でも集中集約意識によりやや長期間と置き換えられるケースもないとは言えないが.
親鸞の悪人はクリミナル的な考え方ではない、善人は自覚したがその自覚レベルは到底親鸞ほどのものではないといった香りかな.
親鸞の悪人は阿弥陀の力の誇大化説得力ではないのか、どうもそうかんがえてしまう.悪人も阿弥陀はなびかせられるんだと、ただし善人には微力な説得力でいいが悪人にはやや強い説得力を必要とするがと自然に考える.-人々は端的解釈しておかしい、親鸞の悪人は無知で無自覚人間を示しているはずなのに
ワンパターン人間の座標変換のなさが不快と、座標変換の自由ならば複雑系に挑戦できる可能性があると・ただし線形のままでは・またそれ故に時間切れの生理時間であったか.それにしてもその映像を見た混沌写像の記憶.
マルクスの物象化と人の作り上げたシステムに従うというのは、システム物象化であり、科学的物象でないシステムは観念的傾向にあると見て差し支えないのではないか.帰納から帰結している判例主義的なものは特にそういえそうなんだが.
そんなことを考えていると、無責任の責任という言葉が浮かび、演技的性格者は演技をすること・演技を全うすること自体に対して責任感を持っていることになると思いついた.確かにそうであるなと.
意味がないのだが、特に逆の要請や自己疎外・阻害系である他者設定にはほとほとまいるむちゃくちゃであるでたらめを強いるものである.ほぼ世界は逆になっているが、オリジナルではないその逆者たちは偽物であるのは間違いないとオリジナルの当人が今こうして述べている
彼を知り己を知れば百戦殆うからず・があるがなぜ他人は己を知っているのに邪魔をするのだろう、自己を知らないようにまた自己の内部を他人が実演してくるということを当人の前で行うのか、邪魔でしょうがない.その他者たちは彼を知りができていないということになるな.そうかそうだったのか・・・
CTRAからはアドラーの自己満足はアタリの利他型世界の方向性を持つべきものということは、エントロピーの増大に合わせた建設的であるべきと、社会の創発力とタイアップするようなケースを考える.老年的超越は時間的優越感であると思っている.
ある作家はトロツキストかな?とおもいを浮かばせた文章を読んだ。当の大学は優秀であり、トロツキーも特別な響きを持っていたためだが、ソフォクレスも設定位相に上っていた。(そんな時期があったなと思い出す)
ちなみに英語は長調である
単純に短調は悲しく悲劇の装いで長調は明るく幸福的であるとは認識している.
Kにはそんなに悲しみを感じない、モーツアルトの悲劇は、推定溢れすぎる才能ゆえに落ち着いて自己自身で堪能している暇がないゆえにいつも過ぎ去ってしまう時に対処できなかったからだと思う.次から次へと着想が浮かび忙しすぎる有り余る才能・最も多少は気質的なものもあるとは思うが.
Kno第一楽章を小林秀雄が疾走する悲しみと表現したのか、モーツアルト全般ではなく特定の曲に関してだったか、それならありうる表現だが、すでにその表現は思い出せない誰かが使っていたのを模倣したのではないかという思いが消えないのである.モーツアルト全般と思っていたのだおかしいなと
戒律は偏心性がないか、当の宗教信者には真理なのだろうが
HoloLenはゴーストに見える.自分の未来は幽霊のようなもので見たようなものであるが
一般普通の過程を他者たちは想定するのでまずそれは違っているのだが、自らの精神年齢を上げるのには努力・労苦が必要だから権力的位相に立ちて他者を支配しようとしてしまう・そのような存在に遭遇しすぎている.精神年齢の進みがのろすぎる・わざわざ遅らせる陳腐を行う権力志向者の記憶が強いな.
よくわからんいったい何を・何のことをむきになっているのかといった思いなのだが、惰性で合わせていると実存的な無意味な過程をしてしまっている事態になっていることに気が付くこと多く、逆になると本質的人間ではない存在が本質演技を行い、なんだか変な感じという実存を押し付ける損失ばかりの記憶
権力志向者権威主義者は一般に他人の世界を抑圧するが、特に中間存在は世界を狭くする・その点がまずいと思っていることに気が付いた・表現できた時間に、まったく当たり前すぎることだったのだが.
黒い神聖もきれいでその定性感覚の怜悧さもいいが、何せ単細胞的でどうにも思考が単純になりすぎる
ある作家からもらった葉巻を別に意味なくプレゼントして、まさかペレルマンの葉巻は無いに関係することはないはずだが、結び付けて何か物語をこの女性にプレゼントするという形もいいなという構想まで・・
琵琶湖周航の歌の赤い椿の森蔭にのところには参るな、思い出が染みる・フォイエルバッハはなかったな.ライヒは狂気と思ったのだが、性格論の論理性には納得のものがある・バイオエナジェティックスとポンテイ関連論ができそうでもある.オルゴンは素粒子エネルギーと思える点がある.
先ほどは思い出せなかったピアニストの名が、落ち着いた気分で昔を振り返り気味の時に、アルゲリッチ、マルタアルゲリッチと不意に浮かぶ。この記憶過程には匂いのドラマを見たことと最近の臭いの不快もあって関心が、海馬の最終位置と辺縁系の古さの関係は、なかでもなのか?
なんとなく夏目漱石の明暗の続編は魅力があるな-考えたくなる誘惑がある.さすがに夏目漱石か、ついに読んでしまった心の心理描写には感心しきりの印象だけに留めている.
昨日の知見によって夏の存在があやふや・伝説的なのは、夏が境界位置の時代であって、ハプロOに完全になっていないからであるということがわかった.今日から中国の歴史を遡及していく形ではまさに伝説でしか捉えられず、行き詰まりを余儀なくされるものという認識である.
前漢・西漢以前の、いや秦以前、いやもっと前春秋戦国時代以前の中国歴史がおおよそわかった気がする.三国志の劉備玄徳は本当に劉氏一族の流れを持っていたようである.三国志のヒーローの中では倫理感が最もよさそうに感じる人物であるが、遠い祖先の西漢の設立者はそうでもないような..
自己分析結果はトートロジーで意図保存に対しては希望の邪魔でしらけでしかなく、他者への認知判断結果は自己ではなくあくまで他人意識なのに理不尽な歪めになるという、いずれにしても無駄でしかないという無意味をどうも結構まじめに他人は行ってきたものである.結果巻き込まれて無駄ばかりの羽目に
なんだか楚の荘王のような存在ばかり出てくるが、実際のところ内部の模倣者でしかないのだ.楚の荘王なら責任意識もかなりあるはずだが、なんなのかどうもわからん、すでに自己分析した結果の内部や意図している内部保存や他者認識判断結果などを剽窃して当の当人に述べてくる存在は一体なんなのか.
目の前のXYをあたかもXXのようにまたは別人であるというように、目の前の人物の主体を阻害・疎外させる認識を当然・平然・まともに行う人間というのは、頭脳が愚かか意地悪な存在かどうにもよく判断しかねる・未熟といえば正解な気もするが、不当な認識違いをされた分の不快をどうにかしないと
今日は暖かいが風がやや強い.生理の有限と歳の引退という冗談が実際になっているような-を考えてしまう.
付随してる暗黒は実際には光に満ちているのだが見えないだけになり、また予測不能の事態に深淵を持ってくる可能性ヒントを持った.夜は明るいのだがになってしまうまさかの発想展開になってしまう..
その辺から依存や甘えは無責任明らかで残酷さを醸すということになるが、諸行無常が抑えているかな?
差異ある責任--ある宗教観記述から、人それぞれの生を全うする・アドラー的には人それぞれの生の自己満足をする.実際には複雑系・非線形感覚からの表現で妥協すると差異ある責任という言葉が帰結として出てくるのだが.
まあコップと同じ考え方としていいのだが、そもそも認めない?人材たちがかくある今を形成している形かな?.認めないのではなく認められない才能しかない存在たちがという思いがあるのと、認められるような単純なことはどうにもつまらないという思いとの葛藤もありだった..
デリダの脱構築はハイデッガーの根源を何とかできるような代物ではないというのはまず直感が判断するだろう.レヴィナスは現存在線の説明だけであるし、となるとヴィトゲンシュタインのハエ取りツボだが、さほどの説得力はないと思う思い上がりではと-沈黙がマストではだ.まあ葉巻がないようなものだ
なんだかわからないが個人的希望意図対象を他人が表明してしまいしらけたり、対象が異なるのにあたかも擬人的にせよ自らが対象であるかのようなそぶりかな態度を示す人間というのはいったいなんだ.幻滅を嫌う心性に非常に邪魔・障害となる人材達である.とりあえず個人的意図は自己のみに属したのだが
UML.にチューリング完全かどうか未知とは、そうだろうなと思うと同時にまだそうかとミーハー的にちょっと浮かべてしまった.問題のチューリングのテーゼのうまい解決法は困難であるはずでという思いがあり、そうだろうとなるが、すでに忘れかかっているその領域でもある個人で、どう致そうか-
ゲーデルの不完全性定理もハイデッガーの超越に負けて・越えられずに世界内存在地平一般に戻るといったことの別表現にも見えないこともない.ハイデッガーの未完成には根源が登場することはわかっているのだが、何十年たっても一歩も動かず.
ヴィトゲンシュタインなどはささっと・さらりと基礎論から哲学に行ったが(ただしこれも原子命題なる単細胞思考はあきれるところだが)、その上スラッファの脊髄反射的なスラング的表現などで酔っ払ってもしょうがないとは思うが、それらを除けば魅惑の人物で、本物のエリートと初期には思ったものだ.
立法上・規約上のシステムにおいて支配及び権力意識という非可換という要素が強い時代になっていることに数学シーンからは言える.素数問題などによって.この後・その後は果たしてまたどうなるか、人間の生は生きている間は、生きたり死んだりする離散は不可能であるのでその点に留意するが
昔は明晰知識なんぞは百科全書的で俗物の得意とするところであると思っていたが、不快な反交換型フェルミ的人間が記憶上しつこ過ぎるのと、数学歴史上時間において非可換の時代である今日を鑑みると、縦型人間の蔓延の日々とも取れる.
無とならないシステムには有であり無私にはならないと精神年齢的には示せる.人の生理体はいずれ誰でも無にはなるのに.この時間差異・距離によって個人より会社・共同が優位になるという有である視点から-共同がこの長さより長時間有であることが.
システムが分解できないとなると・実際にそれがあることを-システムが厳然としてあることを認めねばならないなと不快だが思ったことはある・システム自体が要素となり3次元の場合ドメインが要素となることを考える.すなわちあるということは存在していることは有であり無とならずの点がいらだち点と
引出し要素があるにせよ、Cの構造体のようにどうも頭が離散的になっているような、情感の感性がこれではうまくいかない.そもそも離散的などどこで?、俗物的になったか現実事象判断にやむなく明白な区別を必要とするためにか、A期感覚というある作家を思い出す今頃も変であり..
ABCのスピロ的なものは、覚醒時の意識領域>入眠時の領域>夢形像の領域において、その一個人は生きているという一個体の行っていることにも似ている.渡りは生きている人間が夢を見るという生きていること自体をあてはめてとすると概念的にあっているのでは?.今日数学のポエム的言語を逆から見て
どうもその人物の書物内容をほとんど知らずどうも今ではやや思い上がっていたとも思えるようなだが、ある位相上からは言える.それににしてもその件の人物は実体内容を横取りするような形の人間だったとは全く思わず失敗したと思うが、その人物の現実事象的カルマがいけないとも思える点もある.
その場限りで一回性の冗談が後々まで寄与をするというこの現実事象を考えるに、それだけ冗談的存在が多すぎるという帰結に達した.全く他者は意味なき無意味な不条理・不合理・非常識圧力をかけてくるものである.
一つの視点で全体を見る・全体判断をしてしまうその視点は戒律的なものと思いつく・考えたみたが
もう混沌は嫌だとおもむろの東陽町から時間距離を置いてもう悩まないで止そうと設定に悩んでからまた距離を置いて今、さすがに悩まないと頭がシンプルな曲線を描くだけで、構成複雑ができずの不都合が生じてばかりで苦悩しないといけないようである.
やはりヒルベルトがイデアルを理想数変形からのイデアルをピックアップしとな、どうにもヒルベルトの凹みは無視することができそうにない集合基本.
数学者一覧をしょうがないので見た・クンマーだった.デデキントがイデアルの言葉を導入したんだ.イデアル方程式などは個以上いくつもできるが、あの時は特性数個に何か感じたのかそれだけしか設定しなかった..青春の私・いまだその問題を解けず、最も類体に全くタッチしていないからでもある.
クロネッカーではなくて思い出せないだれだったか、内積外積関係者・・.イデアル方程式ならば、べき乗根を用いて変形できて個の特殊な特性方程式を含んだ方程式を構想できると思った.さてそれをどのように変形すべきか頭動かず.ともかく個は次元多様体に無理につなげて置く.
フラクタルが瞬間にパーコレーションになるときを相転移としてみるというアイデアが浮かぶ.フラクタルが瞬間的創発を持つということは全くありそうなことであると.
渋みとエートスにしては持続という悟性典型言語がそう判断させる生理体から、存在論における中間存在という設定も浮かべるが、単に下品な生理特質であるだけと単純に判断できればいいのだが.
どうもベルトラミの擬球一つで考えすぎているようだな、昔からh入りの双曲線は苦手で理解したくはないと思うがどうも必要なものであると.とにかく双曲線関係はその展開スピードが速すぎてついていけずの思いだったな.スピードがスピードであるような現実はどうも不得手で..
そうか交代を要求する存在たちが不快の記憶を齎しているようである.交代など可能でない自然なのに、不自然を捏造している形だから不快なので、それほど交代を好むなら自分を交代させていろと他者達に言うしかなかったわけだ...
『疲労と交替』は考慮してあるが
K33のI.andante graziooをよくよく聴いてみるとかなりセンスいい曲ではないか.シンプルな音の並びが見事に華麗に続いている--中学生の時の転校していったYの月過ぎてのころの柔らかな花曇りの音楽室の外の風景を見ながらの印象ある曲である.
丁度難しい表現ツイート思考中に再起動要請が入り途中で示唆のままとなる.そそっかしさは現実との乖離意識故が一番の要素になりそうな自己分析.今頃に現実意識をする羽目になるのは、あるXXが諦念状態になった模様であるはずで、いまさら現実実践という思いはあるがどうにも直面してしまう形である
通時的時間3世代以上とかのスパンになると変化より変遷になっていく
エントロピーが変化・増大するためにはポテンシャルがどこかで消失的にならないとで、類続もこのパターンに適合していると思いつく・閃いた.となるとそれに従わないとになるな..とにかく人の一生時間以前にポテンシャルが消失する現象は多々ありそこに変化は成立しているのを人は自然に対処している
ワンパターン人間はニュートン的な絶対空間に生息しているようにしか思えない.しかしなれど科学は不変を求める秩序感、ただしエントロピーは変化する.
閃いた、そうか良寛は真理単純型なんだと、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」のこれはなんじゃ解釈の仕様がないではないかというほどに幅を持った存在事実のある表現である.(これに関して個人的な理論的な・方法論・論理のある項目・ナンバーを想起した、多分に意味合いがあるはずと)
一将功なりて万骨枯る-単純な心理に至る前に行くあまたのトライアンドエラーの悩みがあったことだろう.この図式時間を一瞬で把握しようとするとその複雑性でお手上げになり、重合・重複現象は苦手な思いとして昔からある.シンプルイズベストの裏には幾数多の深甚な悩みがあるはずだが.
何事においても閉鎖領域だとなにがしかの不都合が生じてしまうということは容易な直感でそう思っている.閉鎖的でも鬱屈した空気を逃がすことができるようなシステム的なものがないといかんと昔からそう思ってる.
ひとの親切心に付け込んでしたくもない忍耐を強要する存在XX&XYが不快でしょうがない.楽でしょうがない誘惑にはまってしまうという存在に対してこちらは無駄で何の価値もない徒労をするだけの馬鹿らしさ.嫌な存在は忍耐を強制していることがわからないので、なんとか逆に味わさないと教育上問題
当然責任もその存在たちにあるのだが、その存在たちは認識能力の愚劣さから責任意識など全く持てずの脳細胞持ち主たちという未開性(結構そうは思っていない荀子系のカムフラージュ者がいるものだが)には一生無理な責任意識と思えるのでまたまた不都合な不快である.
そんなセリフは邪魔で不都合すぎるのでいらないという承認的要求を全く他者は考慮しないどころか逆のことばかり行ってくるので、どうにも不都合なほうへ不都合なほうへと現実が流れて、すべての悪しき面はこれら不都合者たちに原因があることは心理的に確かで、当然責任もその存在たちにあるのだが
しかし実際悪魔のような不細工と思っていると、まさにそのように現実がなって、実際に悪魔ではないかという意地悪・鉄面皮だがしつこく絡み無駄ばかりで、厚顔無恥は一体どこからやってくるのかその謙虚さのなさは、そういえば頭が単純で思考力がない場合に成立するとか読んだことがある.
まあ男そうだが邪魔だと思っている男たちも何か勘違いをして接近してきて、結局記憶に不快を残すのみと、嫌いな存在は嫌な存在は男だろうと女だろうと一生嫌に決まっているだろう.
そうかチューリングマシンと中間存在という有限体は極端な話、機能特化のみできるとするとマシン化できるような話になるではないか、機械が人間とってかわる仕事というのは中間存在的仕事内容のことを意味していると解釈できる.
狂気かつファナティックを自覚しているのか、自覚しているとすればやけくその理不尽発言で欠如感を納得していることになる、いわゆる母性は理解しがたいだろうと思う.どうも無自覚で脊髄反射を当然と思っている節もあるか・・、となるとつまりやはり動物的に近くなり、虚栄はそのカムフラージュになる
太陽光度は強くなって地上の生物は死滅してしまうならダークエネルギー作用を用いて、生物維持できるほどの公転周期変動を行えば持続できる-軌道変更に対しての新たな視点を考え付いた..
何十年後何百年後に理解者が現れたら戻ってくるというその矜持・知力による支配意図・その哲学性は十分理解できるが、それに最大の欠点・欠陥があることはわかっている.とにかく埴谷雄高のセンスは古い.
億年以内にミルコメダとなるなら億年後付近を想定すればうまくいったかもである.最もありえない地球軌道変化までしか構想していずの点がまずかったのかも.システム時間はシステム構想自体の因はは普通に素直にそれ以上の時間だったが、まさかの現実応用は想定できず..
件のXXはアンドロメダとも考えたこともあり、それ故にある作家の周忌の名称が不快ではある.その作家はまだまだその頃は存命中だったので、割り込み的な意識を持たざるを得ない記憶で、命名した存在・存在たちは単純に考えすぎな迷惑としか思えず.
徒労に呪われていると思っているにもかかわらず、自己自身で無駄を作成してしまうというその時には呪われをすっかり忘れているという心理事態で..
関係ある女性だったのに蚊がつかず、すべてそれら女性に気が付かなかったのだが、なぜか?、実際現象に遭遇して意識を一段落とす傾向が強くそれが災いしているとしか考えられず、もっともその時は冗談のはずだが、未来に対して臆病でもある証拠ともなっているかな・・.どうも勇気のなさが原因と.
サプライサイドには流動性の罠ということがあるんだ、少しわかったというのに何十年かかったことか.ダンシング恋シーンのXXが近隣の男に余計なことを述べたと後で知り、それがよくなかったことは確かだが、供給サイドをどうするか考えていてアイデアが浮かばずの状態だったのも確かな悩み中で
何がうるさいかといえばノモス的人間の悦楽感性は経験上不愉快である.ノモス主権はエートス的でもあるか、エートス?はどうも閉鎖感覚を覚える.閉鎖にはふん詰まり的な束縛感があって自由の一応妨げにはなるゆえに、明るいエートスは発散存在論にもなるか?
根の暗いXXは鬱陶しい束縛・閉鎖感・不自由さ強制力を自然に持っている.嫌なものである.ただ単に人を疲れさせて無駄をさせる拷問家にしかならない.陰謀とタナトスと実存が一緒になっているような人格--カフカはタナトスに呪われていた?と閃いた.本質に対して実存には違いないだろうが
ある3点の直観対象があってそのうちの一つは現象的に明らかだが実際のプレッシャーがなぜかあり、も別にで気が付かずだったな.一つはそのままにして、一つは神とかプラトンのイデアとか哲学的でなく、象徴仮想で円弧を描くような設定に思い至る.宗教性をかように用いることは思いつかず.
自らに不利益を誘導することはないのに、人々は他者についてそのようなことを考えているとそれが当人だと思い込む・数多く思い込まれた記憶があり、これが今に至って無駄ばかりする羽目になっている.原因はそのような無理解・誤解にあるが、そのような認識者自体の存在も如何に?とは思うことである.
熱力学の第二法則・法則となっているその増大性自体の本質は不変である.人が子供の将来のためにという親や共同社会の未来のためにという政治家などは建設的である.熱力学が正当ならば、建設性は正義であり勝利であると考える.子供のために頑張ると自覚した存在はすでに勝利者といってよいのでは?
あるXX・7歳ではないが目の前でダンシング、しかし思考している存在にとって暴力的な所為でしかなく・・という恋するXXに対して・・・無機的対処になってしまったのか..
いわゆる宗教において戒律(絶対的な)が成立していると、当然そこには戒律以外の事態に対しているわけで、戒律とはそれがなければ宗教の説得力がなくなる宗教複合・コンプレックス故に存在している・成立したとか考えてみると、宗教の中でもそれのない宗教がよさそうだが、宗教として成立しない?
共同存在意識もアイヒマン現象につがるからな、必死をこいて命令・ルールに従うことを潔しとする精神はそうである・特に誤解したルール解釈一辺倒はひどい従いになるが..帰納的経験主義も顰的な前例を示唆しないこともないだろう.
西施の真似をした村の娘・どうも顰に習われて困っている記憶が、しかも自分自身の--なんという愚劣さだ・埴谷表現から名状しがたい愚劣さは一度のみでもはや味わいたくなく、またそうそう味わえないものであるのに.ただ村の娘ほど不気味とは表出しないが、愚かしさには違いない.自己疎外は意味なく
逆になる一体誰にそれを言わんとしているのかわからないという存在は対象にならないと規定してきている.目の前の対象の思考能力を侮辱しすぎているからである.なぜ目の前にいるのに理解力が足りないのかわからん・・というわけで、数多きエクスタシー至上主義者の暴力性には多少閉口している
ある女性と対峙中の夜行で芸術至上主義とか言われている存在の名前が出て今もずっといらだっているが、それほどの存在ということかもだが、このXXは模倣でそれはというあるXXに冗談でその作家のようにしつこくなびかない女と設定・そんなことはなかったのだったが.いつもの受身形になる逆不快
BE凝縮において最大値原理を用いた説明には感心している.お気に入りの照明センスであったな.臨界値の持続する準長距離秩序は最大値原理によるようにも考えるが?
”「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」-ケルゼン”この意味がよくわからない.ケルゼンは小学校のころからその概念に対して気分良さを味わっていてお気に入りだったが、最近では酔っぱらっているな、バオバブの樹が揺れているような感じかな
高山寺は大正蔵のほかに鳥獣戯画もあったのか、確か行ったときに偶然か大正蔵関連がが干してありその長さに閉口した記憶がある.鳥獣戯画は見かけず知らなかった.鳥獣戯画は傑作間違いなく、何も述べる必要はないものとは思っている代物である.
”台有界連続関数のフーリエ変換で L でないものはあるか?”に対してあるということだそうだ.フーリエ変換が無限遠で消えるのはニュートン的にとしか思えない..ともかく無限遠で消えるとは限らないは紀伊国屋での思い出だ.連続意識が接続してどこまでもにはうんざりして考えをやめた若き日
超対称がそうさせるとも言えるが、疲れるフェルミ人間.しかし考えを内部保管しているとそれを伝心的に暴露してしまう人間が負いな、あたかもそれが自分であるかのように、しかしそれが事実のようであるが既に既視思考をしたもので、その点を人々は理解しない.逆になったような即物短絡単純者たち
崖にぶつかる荒波の群青色の海面はフェルミ的、単体孤独だから非可換性もあるのかな、積分はフェルミ的イメージがある.ただ叙事的にも見え権力意識が強い自然を持っているかな.愛情の潤いがあまりない点が特に面白くない.仮面カップルにはこのフェルミ的人間はなりやすいともいえそうだ.
ある明かにフェルミ型XYがいて、嫌いなタイプなんだがそのXYが意図の全く正反対を見事に表現するのには閉口であった.そのXYがそんな意図は全く持っていないのに内部に侵入した蚊たちで、そいつの言明が内部からいまだに湧き上がるという邪魔すぎる不快な事態が成立している.なんなんだ!
図書館に行ってニュートン雑誌をみた.あの頃は素粒子がいくつ発見されるんだ、ちょっとうんざりでもう様子見とした.もちろん弦理論は当然推移を見守ることにしてあるが.太さのないストリングが震動すれば確かに無数の素粒子が想定できるが、素粒子のニュアンスからは無限にある?とは
こんな恰もBC理論に類比できるような現象は昔からいくらでもあったはずである.実験データの結果に理論が追い付かないということは多いにありうることであって、昔の人が交換と反交換やBC理論などを知っていたはずがないにもかかわらず、現実はそれらに類する現象はいくらでもあったといえる.
崩れた斜面から除く地層の差異から層状組織を後年設定したあの大きな桜の木の手前の道の前に沢があって、その沢の地形がそのころには想定しなかったが、今多少想定してみるがやはりうまく想像できない.現場まで行くか行ってもそう簡易に理解できる沢の形態とは思えずゆえに躊躇う処で文が停止中
小学校年生、通学路の帰り道大きな桜の木の下で、数直線をうかべた.最近数直線は役に立つと気が付く.片側数直線は埋没費用・減衰変化を転化を考慮しなければで、普通に人はそのようにしているが.
そういえば思い出した、小学生の時に近くの家の庭先で浮かべた不思議の国のアリス・こんなでたらめについていけないと.その家への道の途中に鶏の小屋があって、鶏の赤の色といろんな赤の色の赤をどうするかと考えたことがある.どうにもならなかった、長じて分析哲学の対象にある考え方と.
冗談は単なるその場限りの遊戯で意味をそう持たないものと思っているものが現実有効になってしまう不本意な経験が多い.偽善社会においての心にもない言明は虚偽であってそれが現実という社会であると、冗談=遊戯=偽善というつながりがあるようだ.
量子脳理論-ペンローズは当然そう考えるだろうな.まさかのあの頃は無機的要素人体を考えていなかったのでペンローズはパスしていた.実体二元論において心身設定の場合、脊髄反射は明瞭に身体的であることは了解である.量子脳からは無機的歴史をどこかに持っているという考えも正当性を持つ事に?
どうも脊髄反射的想像力がある
ある女子学生が不意にモーツアルトのレクイエムといった.レクイエムとは嫌な言葉だまだ若くこれから何事かをなそうとしているのに、タナトスイメージの言葉など冗談じゃないと思ったものだ.その後モーツァルトのレクイエムは黙示録であると知った.となるといやそのあの・・と、しかし存在理由が..
どうも挫折ではなく完成が困難であると思うようになった.休止しただけで挫折ではなく再開予定だから『余裕の挫折』と表現しただけであったのだが、当然『終止符を打った』のもそう表現しただけで終止であるわけはない.
漸近的自由性(Aymptotic freedom)が出てきて、これを設定するとママ都合がいいと.対称性の破れは偏りとみるとフェルミ的現象に直感できる.果たしてこのある現実世界は偏っているといえるか.そんな人間は多数存在しているが.
色々思い浮かべてどうにも市場経済を考える時に(そうでない時もでてくるが)深淵を脊髄反射経済的と考えるとあるのかも知れないと.パーコレーションのブームやパニック現象や集団多数現象などは反射域にならないか?.まさかのパブロフの条件反射を何十年後に考慮するとは、オパーリン思案のあの頃
人体は素粒子まで分解できると思うが、その素粒子は燃えてしまうようなものである.放射性粒子のように長時間半減性粒子でできているとは思えない.そんなことを考えていると、無機的歴史を人はどこかに持っているのではないかとも思う.叙事的存在体のみも相変わらず発生している・・
生まれたての赤子は自力で生きていけないように思える.すでにいた動物の変化によって類人猿は発生したといえるのか、それならば赤子の成長も了解できる.自力で生きていけた生命力の強い赤子の子孫が現生人類というわけではなさそうだが.そうであるとしてもその赤子の発生は?となる
限界に達して境界状況を認知していない存在は、理不尽・不自然・非常識・狂気的な言明を発する.そんな人は当然余裕・逃げ道を残した対処などできるはずがない、何しろ当人が限界で余裕がないからである.かくしてそのような余裕のない人に余裕を残すように対処すると愚昧な不快感を味わうのだが・・
ふと魚偏の文字を眺めて、覚えるのには止揚状態であると思った.左右の文字が分離しているままの印象なのは止揚の分解・分離ではなくて、否定弁証法そのままであると.こんなところに無意識・自然に弁証法を用いているとの発見とは.覚える・マスターするには止揚が必要であるという帰結・・・
実存といえば普通にブラック域であるはずだが(実存分析は明らかにこの域)、サルトルの世界に責任を持っているというホワイト実存に直面しているときで、やや諦念・絶望の香りを携えたときに、人は風に吹かれているという感慨を持つだろうな.
野に咲く花を愛でる、一輪の花に永遠を見る、ジェラールのバタフライから蝶は何を求めて彷徨うように飛んでいるのかとかから、風に吹かれているがどうしたといわねば偽善になってしまう.親鸞の自覚した善人やマズローの自己実現中の存在ともみえるが、ただしそのような奮闘中の人材には好感を持つ
他人に要求しているつもりのことを、自分が要求していると思われるケースが多く、大体他人が不愉快で内的に要求することはその他人にとっては自己の在り方の変更ケースが多いので、個人的に不快である事象を自らが要求するわけはないのに、思考力・判断力のない他人はそれがわからないケースが多すぎ
”さしあたって資本主義社会は、野生と野蛮の交替にすぎず”-野生と野蛮とは妙味ある視点である.野生を野蛮人とみるその当人がその見方が野蛮なのであるが、またそのようにしか見えない野生に決めつける見方しかできない存在はまた陋劣なのだが、野蛮なだけに体力のしつこさがあるというものである.
小学生の時の帰り道、杉林の中の笹の根は地下に広がっていると・竹もそうらしいが、根茎とはまさにそれでスキゾの逃走線は逃走ではなく複雑系にとっては現実・カオスにとってもである.
中間存在はイデアルになっている
理論的(論理的?)には片づけてあるはずの公共性、ただそれを人々が実践できるか・するかは片づけていない.まあほとんどの社会生活者は公共理性に従って・たとえば法律など生きてはいる.公共哲学は判例暗記のようなもので片付かない、法案提出立法領域を対象としていると思うが.
好みの場合は飽和というファンデルワールス力が作用してしまっているか、嫌な侵入はロルーズ的なサンデル的な正が善に弱められている場合かなと.共同体思考者は不快などうにもシステム的にそこにあり無私的に消えないケースを公共理性と申すとすると、公共理性はそれほど抵抗はないのだが.
英単語チェック難しく、確かに漠然とした記憶しかなく、暗記は一切やめよう・暗記しないで考えるとした想いの時間が長く、記憶力はほとんど自己好みのものしか記憶しないようになっている.記憶力もどうも現実に必要であるとは認識しつつある.中学生の頃が最高に記憶力あったのが今は信じがたくある.
しらけにしらけて、あまりにもしらけるとかなりの拘束束縛与件になってしまう不自由さしか残らない.ここは全くそんな連中は無自覚ですでに分析個人は把握していることにずっと気が付かない存在と見て操りをしているとしてしまうか、個人的に意図しない操り・洗脳事象なんだが.
考察位相は大したものと先ほどは直感したが、どうも多数いるはずだなと思うとそうでもないのかも.かってに宿命的と思い込んで他人取ってはナンセンスな言明を情熱をもって発声した人物達の記憶がしつこく不快に悩ますのは、すでに自己分析した内部記憶を他人が剽窃してその当人述べるというトートロで
関係とは不可避に近いものか、不可避になってしまうのはなぜかとかあるが、宿命という言葉にはこの不可避性を感じて嫌いである.不可避の局面は総体的には人の有限性それも身体の有限性が特に作用しているものである.それで生きてもいいがそれでしか生きていないという存在も多い.
一応お気に入りで設定した曲3以上を繰り返し繰り返し聞いているとさすがに惰性感・飽和意識が忍び寄ってきたような飽きに思いがしないでもない.少し映画を本ばかり見てみると引き寄せ感が発生していた.この『飽和』は取り入れている・ただし不飽和は考慮には入れた記憶はない.暗示にはあるかな
エートスは人生を決めてしまうと思いエートスの閉鎖を考えるのはやめた神社への山道の途中で、雨は降っているが透過してみているという構造を見ていた場所の先、エートスで人生を決めてもまあ差し支えないのだが、重い女はエートス的要するに渋みを出さねば立つ瀬がないという存在.
仏教に対しての浅い知見では無限という言葉を見たことはなく、仏教の細かいこれでもかこれでもかと述べてくる記述はがんじがらめの束縛力でもあるのではとふと考えた.それともどこかで無限の言葉を用いているか?
しかしすでに意図している領域ではその対象は対象にならないということは意図通りであることになるが、現実との意図はそうはなっていないな・・.ちょっとよく考えずに無謀な処理・処置をしてしまったか、秘匿感もあったので、自分でも覚えていないが他人にはなおさらわからないとしてある作品.
なぜかダメとしたまだ合わない対象設定ゆえの話だが、時間をおいて度目にあった時には価値を見出したが、その反面にも気が付き、今では明らかにそうではないことが分かっているが、見出した価値は有効であるのでそのままの関係を持続させたらと今でも後悔?的に考えてしまう.
語りえぬものに沈黙しなければならないのなら理性は結構行く、徐に描いた詩に対して悩んで考えていることに哲学が成立するではないか・・、あの時の想定対象モデルで一段も二段(?)もレベルが未熟域になってしまった結果を進めようとして動かずの時間が多大に過ぎ去った.
曲率が周辺で大きくなる球体とすると、理解しがたき狂気的言明を球体は発する.無駄を強要・強制する形で、他人に犠牲を強いる、本来球体の才能のなさを嘆くか、才能アップのために努力しなければならないのに、短絡を行使してしまうというのもまた能力のなさの所為である.
宇宙が無限的に膨張するとそれは希薄になりどうも太虚的なものを想像したくなる.太虚から始まるは終わりが太虚に終わるで、むしろ逆から考えたことのようであもある.
プランク定数サイズのブラックホールの所作がわからない?、別に物質でもわからないのでそれは当たり前だろうに.ここでは無限沈降が有限になっていることを意味しているが、これ基準にすると無限大一般は仮想になる現状である.
もし昔に見た夢が正解ならば現宇宙は停留すると思われる.ただし熱的死ではない、熱を持ったままである-あれ中間存在的宇宙になってしまうなと思ったところ
太陽程度のBHの蒸発は宇宙年齢*^となまあそう想定できそうな値である.ただし量子サイズのBHは今まさに蒸発してその温度は兆度になるとか.あの頃考えた大きさは少なくとも人体サイズの何十倍もあった.ひょっとして宇宙空間を想定したのかもと今過った.どうも思考がポツンと変化する
その時に時間を想定して(時間があれば・あるだろうとして)、ブラックホールは変化するとした.ブラックホールが蒸発する時間はどのくらいか、それぞれのブラック量によって異なるか、情報は失われないとかを方程式化したものは想像もつかず・まだ見たこともないが、世界には考える人材がいるものだと
小学生の時に考えた老子の道はブラックホールの位相に相似している.
あの時きつかった民主主義ではうまく説明できないが、かといってそれに対するアイデアも全く浮かばない厳しさを味わった年ころの話、先ほどモスカの後にミルヘスを知って何のことはない理で容易な説明を見てしまった.なんというか他人はそのほか多くの事でもやはりすでに考えているなと思う今
必然的自由-人々がこれこれを行うのは義務またはしごく当然なことと思いつつ行うことあるいは無意識にそう思いながら行う事柄.自然にそれができる存在も部分としてはいそうであるが部分という点が難点かな.
何かと何かが結びつくのは奇蹟とか、ケストラーの創造論をよみがえらせるが、ホワイトではなくブラックホール側の深淵・すなわち黒き暗き方での対(昨日までは考えいた何かを忘れてしまっている・科学の結びつき思考に関連したことかな?).要するに語りえぬものは人間的視点から無意味と表現だな.
心の哲学も滅茶苦茶にに多様な考え方をしている人物が多いな、それが教条的なものだと思っているとは.認識論だよ明らかすぎではないか.存在論からテイラーなる人物がハイデッガーを考慮しつつ登場で、サンデルにも影響をとか出てきた.知らなかったな-追いついていないラプスの時間といえてしまう
どうやらあの歳の時に倫理は科学ではないからとも思ったようでもある.まろやかな人文感覚もあったが、ヴィトゲンシュタインはチャーマーズの擁護・源泉的な面もあるように思えるが.必然的自由がごく常識な倫理作用であり、中学生の時のヒューマニズムの現代的な揶揄を感じたがそれはと思った事
自伝・その存在足跡のために--承認の要求もあるが自己実現の要求のほうが明らかに強い.つまり子育ては自己実現力といえる.
”「幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自から正当化する。」(『草稿』)”-アドラーの自己満足もまあ似ている.それに老齢的超越はまさにこれだろう.
校長も立場上言わざるを得ないわけだが、その前提に授業押しつけ優位感があり、自由な発想の邪魔というステレオ陳腐な秩序意識を発揮して.そんな常識はわかっているのにわかっていない・実践していないという視点の不愉快さを全く忘れない.抑圧でしかない、その校長の訓読みを音読みして揶揄した日
小学生の・年生の時に授業中にノートにジェット機の絵を描いていたら、なぜか校長が見回りの時であって、授業中にそんなことをしてはいけないと注意されたことを思い出す.不快極まりない、そんなことをいうことは当然理解・了解している、書きたくなったのでそうしているのにと沈黙思考したものだ
また自己記憶内部のXX達と同一視してくる人々が一杯いたのだが、これらもなんだかわからない.いったいなぜそんな非自然を不自然を強要・要請するのかさっぱりででたらめであるのに.自分を気にできない?、そんなことはないだろうトイレには自分一人で行くだろうしその時には自分を気にしている
個人は独りである.ゆえに内部の記憶や目的などを他者が用いても不快になる.他人の所為であるといえて、私ではない.そのように内部意識を他人が使うことには非常に不愉快な気分になる.しかもそうしていることに気が付かない存在はなおさら不快である、そのような存在は自己の無知を押し付ける
中間存在に対して切羽詰まる・要するに反対になった倫理禁止を破ってくる道徳力のなさに完璧に遭遇して、無知ハラスメントのような不快な迷惑を被った記憶が不快でしょうがない.そのような存在は退行者になるわけだが、そうではなく現在時間に対してまさに退行しているという存在が不快である.
過ぎたるは及ばざるがごとし-ひょっとして中間存在や親鸞の悪人はその量の多さで、有限外や自覚者・善人を過ぎたるものと思っていないか.これも一つのパワハラ・量ハラスメントとも.そうなると金持ちも金ハラになってしまうか.共同体の集団パワーは明らかに個人体力を凌駕するのだから・・・
他人を避けるは嫌いもあるが、一応敬遠する、している形としているが、この言葉は野球からは明らか。敬遠は実力面では無く、不快な面からで多少皮肉も含んでいるつもりなのに、対象は単純普通に実力的解釈をしているようで、それがまた更に不快感を加えてよりしつこい対象となる、
平板人間が平板を気にするとどうも策謀とか虚偽を無責任に行使するようになるかも、詭弁も用いるようになるとか.詭弁にはある人物から詭弁の言葉を投げ変えられたツイート、別にリアリストではなくエレガンス地平を用いることも、形而上的な位相もなんでもありだが、空想はまあ避ける傾向にはある
立場的には交代でその交代に対して確かに革命的な状況は発生する可能性は想定できるが、それは立場逆転とかに見えてきた.そうして経済なく国家なき社会は人間心理が善人的存在しかいない場合のみを想定できる.現状ではアヘンである宗教がそのように考えているのでは、仏教は特にそのような傾向では?
関係は建設的ではと思えば、さっぱりわからないがすでにわかりきっていることと同じなり、わかっているものはさっぱりわからないという多すぎる現象となりて.ともかく人類が存続する場合という条件を付けて、だがこの関係で勢い込んだ人物は類続は当然のものという立場からのようである.
形而上的には自己が意識を注いだ強度により比例してその対象意識は強くなる-現象学的かな?.心理学的は当然すぎるか.”特別な時間が運命にしていく”なるほど後天的所為とな.先天的もあるのだが・・.とにかく昔ある女子大生が不意に星の王子さまを言い出して、いやな思いをしたことがある.
インペリアル面の考慮を避けていたのは失敗だった感が生まれている.それでも叙事的人間・叙事体は底が浅すぎてどうにもならない単純思考をするとしか.曲線的膨らみを叙事体といえど持っているのに、そこにある程度の厚さの板が立っているだけのような反射感覚を覚える.厚さ3㎝?もあるかどうかの
反交換者は交換を認めがたい?、交換的には反交換を認めがたいが、交換者に反交換を強要する反交換者も残酷である.まず今のところどちらも認定無理で、反交換者はその孤独性から愛情が苦手である筈で、交換者の愛情をまず邪魔することは明らか.交換者といえど孤独を持たないわけではない点が狙いか
不自由な女・男の自由意識と逆になり男に自らの不自由を投射して、自らは男の自由を持っているものとするケースに遭遇すること多数回.これが全く不快でこんなXXは排除しようとするが、自己自身を対象とするようなもので厄介である.なんというか当然の権利であるかの如く女はこの形態を自覚している
過ぎたるは猶及ばざるが如し・明晰を明晰と見ないのはわからないのと同じ、つまり及んでいないことになる・のは明晰以上のアイデアがないときは特にそうである.実際にわからないものもはわからないが、
ホワイトホールにもブラックホールにも時間的作用がある!.ブラックホール的なものは小学生の時から考えてあったが、ホワイトホールは盲点だった.ならばtwenty-ixにこれを導入すれば差し支えないことになる.evenにも用いることにはなるだろう.
ヴィトゲンシュタインは或る街の小さな書店をおもむろ散策中に、回想のヴィトゲンシュタインという書物をが目に入り、何となく手にしてみたのが始まりで、分析哲学なる物との出会いシーンである.その書物の写真を見たときこの人物は本物だと思った.エリートとはこのような人物なら相応しいと
唯物論は無機的合理論か、科学も無神論的合理的だが.まあ人間の実体も身体は素粒子でできているがだ、その所に感情・心があるという無機的叙事的存在ばかりではなく有機的抒情的存在でもあるのだ.
いとこと議論ができなくなった若き昔の日に、渋谷の長閑な駅近くで、マルクスの書物は論理的に整合性を持っているように見えるが、感情がなくあたかも自動制御のバックにせよフォワードにせよ論理様況に見えた.今でもそれは確かだと思っているが、感情がないと罪の意識も持つ必要がないかなと
太虚だけれど陰陽が根拠とする太虚の証明は誰もしていないので、非科学的は成立する、ただし人にとって論理的には想定できる太虚でもある.太虚からなぜ今日の有があるか、太虚に密度の差が生じたからか、それは時間的な物の作用によるものと考えられる.ブラックの反対のホワイトにも時間が作用すると
ハエ取りの自尊心は想定出来かねる・判断がつきかねる、ウィーン学団とイギリス経験主義であらましは表現できる分析哲学だが、そのころのEU哲学思想雰囲気が加担させた面も考える.プラトンの焼き直しに楔を入れる情況だったのかな.
そういえばちらちらしたヴィトゲンシュタインの哲学探究もフラクタル的、ヴィトゲンシュタインは「世界があることが神秘である」-この一言に尽きる.だがポパーに対してあくまでも蠅取りを主張した火掻き棒は明らかに脅迫的な心理ものだ.
『これらはなぜか?』-マイ論理よりこれで帰結であると設定、ハウスドルフ次元的にフラクタル的にカオス的にかな、サンデルの公共哲学は哲学の名に騙されたような気がしてきた、政治論ではないか我慢して政治哲学であるとか.いずれにしても提起のみで結論があやふやなのは、考えに即しているかな
相対的平等・機会的にも老齢的超越者はもう苦悩をしなくてよいが、そうでない以前者は悩む権利を持っている.だが現在的に以前者はそのような人を見るとイライラして不快を覚える屈辱感を感じることだろう.だが老齢的超越者からは以前者など煩わしい面倒な存在でしかないのは端的表現で言える.
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」この有名な言葉だけれど、正解として往生に善人と悪人の度合い・質の差異はないのか、この辺はどうなのか、親鸞は適当に阿弥陀の布教のために曖昧・いい加減にしている?
ヴィトゲンシュタインもヴィトゲンシュタインだ、原子命題なる要素主義的で哲学がハエ取り壺の道の示唆などは成立しない、それならば何も要素主義で悩みはしない.そもそも無限沈降を知っていたはずなのに原子命題はおかしい.哲学探究も徒労かもだ.”ヴィト系はカルト的になる”に刺激を受けて
松原湖?、昔、麦草峠でtwentyを味わって、白駒池へに行き違いの大阪のある街の女子大生が松原湖に行くと、どうも一緒に行く雰囲気だったのだが行かず八千穂駅で反対に.松原湖の印象はないな.、白駒池のほうがムード自体はあるだろう.今日このごろ時間的にちょうどだったと思い出している.
人間そうそううまくはいかないようにできていると言ってしまうのは単純すぎて、老齢的超越者はうまくいっているタイプである.
一生反省する必要のない生理体を見る・思考上で実際には反省していると思われるが、普通に考えてポテンシャル的で前に進むだけという存在がいる、しかし年老いて身体の動きが鈍くなってもなお前に進まねばならないという桎梏がある.そんな存在を見て無反省を想定するのも辛くまた疲れてうんざりする
まず自己所有権だから他者の逆作用など不快でしょうがないとも言えそうで、ましてや他の場所に実在している女性と同一視されることなど、わけのわからんでたらめで直接その女性にいうべきなのだが、その男たちの認識能力は風車に突進しているか、頭狂っているか、直接述べる勇気がないか、何だろう.
ある女性に対して言わんとして倫理的姿勢から忍耐した思考内容を、その後に遭遇する男たちから、それぞれの女性に忍耐した言明を、その男たちがそれら女性として忍耐した当人に述べてくるという、全くわけのわからない出鱈目不快な事態を受けるのは?、いずれににしてそれらは自己記憶のみの事柄だが?
哲学とアポロンなら成立・実存とディオニソスは相対的カルマとしておくか
成長期・小学生や中学生の時の視点と身長の伸びの止まった時点以降に、成長期の風景を再度見ると、樹木の伸びとかの変化ややや地形の変容もあるが、距離感が異なりいささか記憶との差異があって奇妙に感じるものである.
見た通りとはいっても見た事柄に脈絡を見ることができず、常識基準で明らかに意味のないことや意味のありそうなことが出現したことである.そもそもなぜこの通りの時間を過ごすことになったその理由がさっぱりわからない、フラクタルかカオス的離散だが連続している時間範囲という..
しかし滅茶苦茶なとはいえ見たとおりに推移したという時間変遷を等質空間云々より、現実の経過事象が等質推移的ではないかとも思ったり.この女性も不愉快な不都合を述べて不快になりの記憶があるが、持って行き方が悪かったかな.前提条件が成立しなかった・つまり気が付かなかったからだが、なぜが?
それから8年後ある女性と川上村の道路を駅まで二人して歩くとは、全く想像できずにしかしそれは当然で、この女性で終わりだったはずなのに気が付かず(その理由が全くわからん)、今にいたる羽目に、そういえばまだ無意味な事柄を例の喫茶店で見ていたことを思いだした.全く不都合なことになるものだ
しかし最近では世紀年代からやや兆候が過去側になってきて、世紀後半部からその傾向はましては前世紀からもあったのだが、現実的ではない傾向になっているのに今になって現実的というのは逆の立場であることに、どうも無駄な方に向かう.しかしまだまだ現実的なレガシー力は強いと.
現実的にも過去側にもダメな滅茶苦茶な過程記憶がトリエンナーレに行った時には、そんな人がうってつけと言われ唖然の幸福感を味わったが、常識現実に傾いている今は何とも、そこでの躊躇判断情態となっている.まあさすがに普通に現実に巻き込まれて生きている人々の世界の力は強いと最近は感じている
その門は校門で現在は津田塾やお茶大は沈下しているとか読んでいた.昔はどうだったかよくわからないが、津田塾は俊英が揃っている、お茶大は--まさかの一様関数だったとは夢にも思わず、ただし直前の眼前に出現していたが.まったくシステム的に関係なくただし個人的は関係ありで混迷の記憶である.
その結果直ちにハイデッガーの根源とは異なる意味合いの(個人的ニュアンスは同じかも?)実存点という実存分析の原点的(は等質空間推移に似ている)かデリダの差異の原点的なものを想像してしまいそこで止まったまま何年もそのままである.楕円曲線が絡んでくるような面もある直感判断もあるのだが
自由=必然はレーニンだけれどこれはキャズムのイノベーター的とほぼ同じ意味合いを日常において持っている.ある時フッサールの超越論的現象学の評論説明を読んでいて、自由=必然論説明を展開したものを感じ、面食らってしまったのは以前に不必要なエポケーを冗談的に試みたからなのだろう
ワーズワースから必然的自由を考えたことがある、それ以前に無数の可能から一つを選択した場合にはそれが必然になるという坂道での思索を思いだす.複数人間の中でシステムタッチの行為・行動は必然になる.また自体が必然的自由である存在もいるが、いかんせん教条的な束縛体にそれはなる.
人が限界や極限状況・土壇場において生きている限り選択するものは決定的であるはずである.情況がそのようなケースではそれが決定することになる、その状態は必然的になるはずである.結果情況を決定するのは必然になる.人は普通に必然を内部に持っているか・生自体が存在している限り必然ならばある
上に有界下に有界な存在を中間存在とする.下に有界以上に下になると有界者にとってはパワハラ型の権力位相を持つ形になり、ミルグラム的位相を醸すことになってしまう.視野の狭さという優越感の束縛という窮屈さ・上に有界以上であると今度は閉鎖意識がまた視野の狭さを形成して理不尽を発生させる
等質に対して避けていたのはホロノミーがまずあるのだった.しかし接続は問題でおもしろいのだが-あたかもシュール・超現実的な感覚を覚えて.小学生の時のある言葉をこうなるとどうしても思い出さずにはいられない.想像力を使ってなぜ罪の意識を持ったか、写実に呪われている?
仮にアフィンにしたけれど意味を付加してアフィンでもよかった.実際にアフィンXXが出てくるから始末に悪いというか、アフィン的に考えてベクトル意識がおろそかなおざりになるというおかしな自己心理になって妙なという日常意識を持たねばならない無意味・無駄的な事態に
なぜ嫌だ嫌だと思うものばかり現実的対象になってしまうのだろう.他者達は悪魔的存在か自己性質の問題か.自己性質を考慮しなければ他者達は悪魔的卑劣なしつこい悩ましい存在でしかなくなることになる.大体悪魔など嫌悪すべき存在だからである.
無積分あるいは不要積分なることを考え着いたが
エリートという言葉は疲れてしょうがないが、どうやら大審問官のような意図で件の女性は用いたようだ。そんな言葉は考えた事も無く、すでにそんな社会的位相にはないが。なにか感じたか自分に引寄せたか?。単に主体に自我にとって、自然な生き方をしようとしているだけ...
昇華は気化のようなもので、軽さの自由がある。
通時が変化してきたといえば埴谷雄高の文章は通時的で古臭いイメージをずっと持っていて、思考内容はいいがそのスタイルが疲れる認識だった.理解する人がいれば蘇るは大げさなうぬぼれでしかない先験意向者である.別に虚空のそよ風は吹いていても何ら差支えはないが.
コホモロジーと考えても何か変で、まさかの被積分値情態とは思えないが、論理的にそうなってしまう.そう考えるとつじつまをやや合わせることができる.そうなると積分者はどうなるだが何も考えたくはない感性趣味から外れるという形で
なんか環界が妙にはっきりと変化してきたことを感じるこの頃、通時的ではなく共時的もしくは存在論的な
ここ・3日、埴谷雄高がカップル生活をしているのにあえて子供を作らず、ただし作品の継続を他人に任せると述べていたことはどんな意図故かさっぱりわからず・さほどどうでもいいことだが・考えている.伝統の拒否・自分の子供に任せればが普通すぎる・の割には他人の家系は認めているという次第を
逆になって人が認識している位相を自分ではなく当の認識者の位相と自己投射をしてくる人間にも困ったものである.これらも邪魔で、自己投射どころか当の認識者を他人と同定してみた人間も複数いて、非常に無茶苦茶な認識能力としか思えない.そもそもこれらの他人達は当の認識者を無視している
実験データにおいて、成果・結果に対して理論が追い付いていないケースは、逆数学的要素もあるがハミルトン閉路の経過過程が判明していないということになるな.その存在以前に困難が成立していたという場合も考えてしまう.ポテンシャルが現在からみてゼロという考え方もあることはあるが.
枕草子の作者・清少納言はあか抜けていず洗練されていない人間や事象は嫌いという人物であったことは間違いないと認知する.
宗教が不変もあるが周期を考えてみると、例えば永劫回帰だが明らかに無茶な反復不変性いとであり、この人物はその当人の自己判断による道化師より宗教的存在と考えるとまともになるかな.不変周期教なる宗教を構築すると説得力あることなるな、CRA(クラー・くらー)として候補はあるのだが.
で末法の世でこれを信仰しないから不幸・災難にあうと説得・扇動した鎌倉時代の人物だけれど、そのスケールは怪物的にみえていたが、仏教に周期論があったので、その末法の世の説得力は効果が本質的に薄いか時間視点においてリアリズムであるかあるいはその当人は周期論を知っていなかったかである.
宗教は不変意図であり、信仰者は不変依存性を持っていると判断中
端的な例は葛飾北斎で、歳になればもっとうまくなると思っていたのは事実だろう.老齢的超越を予期していた感があるがどうやら至らずで終わったようである.普通金持ち・物質に恵まれていても心は空虚というのは、この老齢的超越である幸福である満足感を物質優越感では達し得ないからと思える
優越感とは老齢的超越のようなものを指すといいたい.優勢原理によって優越感を求めるのはそれはいまだ至らずと言えりと.
何しろ優越原理が成立しないことが直感感得するようで、無茶苦茶・理不尽が飛び出してくるものであった.隠者たちはその辺の無駄・ナンセンスをよくわかっていて、世捨て人とか庵に引きこもるとかしたのではないか?
being-それは幸福・満足な心情情態である.昔にすでに味わっていて、その時にはほぼ一生の時間間隔を感じた気分になった視点があった.まだ代の終わったころの話・代の前半、それゆえによもやま人材に理解できるはずもなく、邪魔・妨害ばかりしてくる自然しか持っていないのであったな
老齢的超越はbeingのことではないか?、マズローの段階の自己超越であるか?.人に謙遜してもその人物たちは段階の自己実現でさえ一生できず、段階の低次元要求者が多すぎるのもまた不快である.困ったものである.
K.Cは荒唐無稽・ハチャメチャに見えるが論理的には結構まともな番組.人類最大の発明は笑いとかの意見があるが、なぜ最大の発明なのか-緊張に人は耐えられないゆえにとしか帰結が見つからない.
NP完全の中にNP困難を作るとき、あるいはNP完全時間を短絡しようとする時に何らかの不規則が生じることは明らかな事実である.そうしてまた現実にそのようなケースは多々ある・・・
ファインマンもな、最もよくわかっている・自覚していたようだが、現実のこの唯一としての宇宙は今のところ有限位相にある.無限時間前を持ってくるという散乱もあの手この手を机上で考え出すものである.思考上の論理正当性がもたらすことはわかるが.
実在と存在がなければ意味がない.つまり数直線は成立しないというつまらなさだが、片側数直線を算数で行う-これはずっと一生有効であるのだが、片側ではエゴ的といえる創発雰囲気を持っている.
”調和級数の発散は非常に遅く、たとえば最初の 個の項の和は よりも小さい”-オイラーの定数より、そうなのかそれでは対数を嫌うわけにもいかなくなる.比率は一様で結局、西鹿児島で会っただけであり・・の失念していた青春の自然性の記憶の直接性が思い出される.
ミサンドリーはどうかだがミソジニーはほぼ男と女の間にあるといわれる深淵が先ずわからない・考えられそうにないということを経験上と思考上から判断してみた.どうも現象的にしつこく不快な記憶があり確かであると思われる.
側頭葉の皮質層とは--阿頼耶識を連想してしまう.構造は昔から直感していた仏教視野であることや、層であること-層状組織であるに結びつけることもできないわけではないが、その地質層の横に沢がありその沢の地形判断中から進めていないな..
何らかの相転移ではなく結節する何かがあるのではないか、またはその乖離の成立する場自体の作用の設定ならばつながる.ixteenに関して、それでも説明であってアイデアではない思考
叙事的事実には怒りという感情の結果も含まれていることは多大にあるので感情がないということはあり得なかった.ただ融和感覚はあまり叙事的事象には登場しない.例えばこの期間は平和であったという単なる一文に終わるのは、何らかの指向性・志向性を取り入れなばなさそうである.
小林秀雄は断定力・独断判断が強かったのでは?、エンペドクレスは火山に飛び込んだかどうかは定かではない、ただその情熱はわかる.魂の不死ではなく情熱力だと思うが.悲しみは疾走するがどうも引用剽窃ではないと思っていたことがあり、薬籠解釈力で不遜故とも考えられるが、どうも違うのではと
中条百合子と川端康成は同じ年とな、川端康成は凛としてエレガンスな崇高性も垣間見られるような人材であったと想定する.さてなぜ遺書なき自殺したのだろうと思うと不明であるが、崇高さの未熟における優雅さの限界を持ったかやり残したことはないと自己認識したかさてまたいずくにあったものか
Yの関係についてずっと考えている-あまり考えても帰結しないのが不思議でしょうがないが、術中にはまっているかもしれない.Yの精神か物質かは決まらないとか思い出しても同じでありどうもまた逆になっているか目の前存在を無視か同調要請だったか.埴谷はねえといったが別にといえばよかったかな-
思い切らない?-のではなくやり直しの可能性が強く示唆されてためらう.後悔は先に立たないが、予知してしまうような.それともハムレット型とも言えそうな.カフカはなぜなんだろう?、実存性だからか?、実存の嫌いな本質者はどうするということだが、今は乱れすぎている心理でなんとも言えず
世界内存在にとって世界に責任があり世界内存在には責任がないとすると、宗教信仰者には神かその宗教創始者に責任があり、信仰者自体には責任がないことになるかな.
無責任者はナンセンスを真面目にとるという考えに、そうなると冗談が現実になることは現実が無責任であることになる.おおよそわからないものは無責任体人間ではないかという直感が作用してきている
小学生の時に天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずという言葉を浮かべて何か妙な気がした、昨日なぜか不意に「学問のすすめ」はやや荀子論ではという考えが浮かぶ.そのエリートが荀子的とかの考えが浮かばせたのは間違いないな.
日本でエリートという言葉をみるが、聞いたのは一度だけ、もはやそんな状況にはないが、もっと本質を忘れていたことも確かではある、その後も忘れすぎて、しかしそれゆえにということもあり、あるがだがその内容が信じがたいとかなんとかなんだが
tout pourはいいんだけれど、それがどうもうまくいかない災いが割り込んでいて、しかもtout pourを邪魔するように入ってきているということだ.XXからのtout pourであるが、どうも思考内容が違う・・ので困る.そんな自己思考をしなければというわけにはいかない.
弘法筆を選ばずは一様水平面を超えたということで、いわゆるその文字筆記技術に万人が納得できる地平に達した・万人が認める技術の持ち主になった・定評のある存在になったというものであって、他のジャンルでも同じ位相を指す.
演繹的現象にせよ帰納的現象にせよ皆同一のものとして見ることはできない.ケガをした時のトリアージがその先ず顕著な例である.もし同一に見るのなら区別をして離散的位相が水平であるという視点でなかればならない.
脊髄反射を否定はしないが、ただギャップがありつながらない方法論を持っていてそれにずっと悩んでいる.この事実だけでいいか、それでは新鮮なアイデアではない--ミトコンドリアのギャップとむすびつけるか.そう結びつくかな.これも生物学的に既知だが.
栄枯盛衰・変化する不変・エントロピー
論理というにはだが理論というわけにもいかないあの川原の岩の間を歩きながらメソッド・方法が浮かんだ将来の予期の通りの形になっている.
ヘルムホルツかフロベニウスかヘルムホルツは違う気がする.煩わしいブイ分方程式を避けていたら今頃フロベニウス法とかexpが出てきた.物理的に宇宙は変化している現象であるところに不変が出てくる公理やネイピア数などは内部停留世界を考えてしまうのだが・・
頭がマヒしていて書物が読めない、昔から時たま書物が読めなくなったことはあるが、今回はムードが違うな.とにかく内部麻痺はどうにもならん.やはり頭を使わないとダメだめなんだが、どうもちぐはぐになるな.つまり読む必要がないという段階が何度もは別に当然というか自然というか--である.
安寧を当然意識しているのに、嫌悪XXが現れその領域を好むことができなくなるというケースを何回何十年味わうことになるのか、これからもずっと発生して続きそうである.どうもそのような設定をしておくべきなようである.
中間存在の現実は中間存在結果でしかありえず、その数が多ければその世界の寄与力はある.そうして世界はその世界傾向が普通で当然であるという中間存在-ほんとは中間存在の言葉表現であるように中途半端な一生存在でしかないのだが、その認識すらできないというのが中途半端である中間存在
頭文字だけは覚えているがなんの頭文字だったか思い出せない、ただ暗号的に発音の仕方は覚えているが、ツイートすべきかどうか、まだ組織体が現実に成立してはいないので.
精子核の初期化か、これかxxの強みであることを知った。不快だがどうにもならない感触として、しかし不特定のxxがその意識を発揮する事はモラル的にどうか
”動く機械として最も単純なもののひとつは、二つの輪が鎖のようにつながった構造をもつもの”--これをあるタイトル付近にデザイン化してある。カナテン・ロタキサンとな、確かに回転もあるダンベル状ではある。
加速意識は衝動につながるか、つながれば衝動はむしろ想像域になる
人はその人物に意図している対象内容を、意図者が自身が要求していると思う形の不快すぎる記憶がある.個人の経験記憶を剽窃・模倣をする、個人の記憶を別人物になぜわざわざ見るのは不快、対象が無知なので模倣にも気が付かず、また模倣の原点者を無知な存在と思い込むというこの傲慢さは損失愚劣のみ
薄汚いフェルミ型などに神聖さはなく崇高にしては純粋さが暮れている-つまり演技性を行うことになる.演技的は崇高ではない.
そうそう空想的相転移の特異な作家と規定気味な存在設定的にした人物がいる.対象はオブジェ感覚すぎるが.
そうなるとポストモダンでどうのこうのになる、フッサールのエポケーなんぞを冗談にせよ使うこともないのに使ってしまって、実存深淵に直に位置するという心性を持つ羽目に、いまだにひりひりする深淵には参る要素記憶がある.ハイデッガーの根源・原存在に絡ませて.でもフッサールでは進みようがない
どうやら線形文章の専門的様相内容であって、ダダ的なポストモダンがワンクッションとしてあり複雑系文章を書ける人材がいないという時代時間がそうさせたと見る.ポストモダンには参った混乱を持ったな、今ならクッションとか言える趣が持てるが、全く洪水のような取りまとめない文章に遭遇したものだ
告白にはどうしても潤色が混じる-どうしてもがない人物は卓抜な存在だが、この辺にカトリックの懺悔・告白が入ってくるかな.
関係は建設意欲・建設性のことかな.ただこの人物は未来の歴史についての予見を述べては居ず、諸々の解釈に対する自己思考の自己開陳で、現在的時間しか感じ受けない人物であった記録を見るな.
サンデルに超越論的主体が出てくるが、経験はそれができず、常に目的の向こうがあると.白紙というのは原初状態と訳してあるがいい訳であるが、先天性はすでに持っているので先天力が判断するとなると遺伝的要素強いことになる.その時までの生命の歴史を持っているという判断力が果たして?
アルバン・ベルクの「死と乙女」は普通に(誰でも説得力を感じることのできる)名演である.
シューベルトの死と乙女、死神に安息を齎すという思想があったことを発見.確かにそんな解釈はできる、生きてなければうんざりする馬鹿げた存在たちに遭遇しなくても済むという考え方も止めているな・・老化を早くしようとか今では長生きしようとしているが、いろいろ考えたものだ.
普通に聴いて安全なのはやはりベートーベン・ベートーベンは人間である.
ヴェイユのたかだか短期間での女工で意味があるのか?といった通念が常に付きまとっている.スペイン戦争まで行くとさすがにそれはと思うっているが、短期間でも集中集約意識によりやや長期間と置き換えられるケースもないとは言えないが.
親鸞の悪人はクリミナル的な考え方ではない、善人は自覚したがその自覚レベルは到底親鸞ほどのものではないといった香りかな.
親鸞の悪人は阿弥陀の力の誇大化説得力ではないのか、どうもそうかんがえてしまう.悪人も阿弥陀はなびかせられるんだと、ただし善人には微力な説得力でいいが悪人にはやや強い説得力を必要とするがと自然に考える.-人々は端的解釈しておかしい、親鸞の悪人は無知で無自覚人間を示しているはずなのに
ワンパターン人間の座標変換のなさが不快と、座標変換の自由ならば複雑系に挑戦できる可能性があると・ただし線形のままでは・またそれ故に時間切れの生理時間であったか.それにしてもその映像を見た混沌写像の記憶.
マルクスの物象化と人の作り上げたシステムに従うというのは、システム物象化であり、科学的物象でないシステムは観念的傾向にあると見て差し支えないのではないか.帰納から帰結している判例主義的なものは特にそういえそうなんだが.
そんなことを考えていると、無責任の責任という言葉が浮かび、演技的性格者は演技をすること・演技を全うすること自体に対して責任感を持っていることになると思いついた.確かにそうであるなと.
意味がないのだが、特に逆の要請や自己疎外・阻害系である他者設定にはほとほとまいるむちゃくちゃであるでたらめを強いるものである.ほぼ世界は逆になっているが、オリジナルではないその逆者たちは偽物であるのは間違いないとオリジナルの当人が今こうして述べている
彼を知り己を知れば百戦殆うからず・があるがなぜ他人は己を知っているのに邪魔をするのだろう、自己を知らないようにまた自己の内部を他人が実演してくるということを当人の前で行うのか、邪魔でしょうがない.その他者たちは彼を知りができていないということになるな.そうかそうだったのか・・・
CTRAからはアドラーの自己満足はアタリの利他型世界の方向性を持つべきものということは、エントロピーの増大に合わせた建設的であるべきと、社会の創発力とタイアップするようなケースを考える.老年的超越は時間的優越感であると思っている.
ある作家はトロツキストかな?とおもいを浮かばせた文章を読んだ。当の大学は優秀であり、トロツキーも特別な響きを持っていたためだが、ソフォクレスも設定位相に上っていた。(そんな時期があったなと思い出す)
ちなみに英語は長調である
単純に短調は悲しく悲劇の装いで長調は明るく幸福的であるとは認識している.
Kにはそんなに悲しみを感じない、モーツアルトの悲劇は、推定溢れすぎる才能ゆえに落ち着いて自己自身で堪能している暇がないゆえにいつも過ぎ去ってしまう時に対処できなかったからだと思う.次から次へと着想が浮かび忙しすぎる有り余る才能・最も多少は気質的なものもあるとは思うが.
Kno第一楽章を小林秀雄が疾走する悲しみと表現したのか、モーツアルト全般ではなく特定の曲に関してだったか、それならありうる表現だが、すでにその表現は思い出せない誰かが使っていたのを模倣したのではないかという思いが消えないのである.モーツアルト全般と思っていたのだおかしいなと
戒律は偏心性がないか、当の宗教信者には真理なのだろうが
HoloLenはゴーストに見える.自分の未来は幽霊のようなもので見たようなものであるが
一般普通の過程を他者たちは想定するのでまずそれは違っているのだが、自らの精神年齢を上げるのには努力・労苦が必要だから権力的位相に立ちて他者を支配しようとしてしまう・そのような存在に遭遇しすぎている.精神年齢の進みがのろすぎる・わざわざ遅らせる陳腐を行う権力志向者の記憶が強いな.
よくわからんいったい何を・何のことをむきになっているのかといった思いなのだが、惰性で合わせていると実存的な無意味な過程をしてしまっている事態になっていることに気が付くこと多く、逆になると本質的人間ではない存在が本質演技を行い、なんだか変な感じという実存を押し付ける損失ばかりの記憶
権力志向者権威主義者は一般に他人の世界を抑圧するが、特に中間存在は世界を狭くする・その点がまずいと思っていることに気が付いた・表現できた時間に、まったく当たり前すぎることだったのだが.
黒い神聖もきれいでその定性感覚の怜悧さもいいが、何せ単細胞的でどうにも思考が単純になりすぎる
ある作家からもらった葉巻を別に意味なくプレゼントして、まさかペレルマンの葉巻は無いに関係することはないはずだが、結び付けて何か物語をこの女性にプレゼントするという形もいいなという構想まで・・
琵琶湖周航の歌の赤い椿の森蔭にのところには参るな、思い出が染みる・フォイエルバッハはなかったな.ライヒは狂気と思ったのだが、性格論の論理性には納得のものがある・バイオエナジェティックスとポンテイ関連論ができそうでもある.オルゴンは素粒子エネルギーと思える点がある.
先ほどは思い出せなかったピアニストの名が、落ち着いた気分で昔を振り返り気味の時に、アルゲリッチ、マルタアルゲリッチと不意に浮かぶ。この記憶過程には匂いのドラマを見たことと最近の臭いの不快もあって関心が、海馬の最終位置と辺縁系の古さの関係は、なかでもなのか?
なんとなく夏目漱石の明暗の続編は魅力があるな-考えたくなる誘惑がある.さすがに夏目漱石か、ついに読んでしまった心の心理描写には感心しきりの印象だけに留めている.
昨日の知見によって夏の存在があやふや・伝説的なのは、夏が境界位置の時代であって、ハプロOに完全になっていないからであるということがわかった.今日から中国の歴史を遡及していく形ではまさに伝説でしか捉えられず、行き詰まりを余儀なくされるものという認識である.
前漢・西漢以前の、いや秦以前、いやもっと前春秋戦国時代以前の中国歴史がおおよそわかった気がする.三国志の劉備玄徳は本当に劉氏一族の流れを持っていたようである.三国志のヒーローの中では倫理感が最もよさそうに感じる人物であるが、遠い祖先の西漢の設立者はそうでもないような..
自己分析結果はトートロジーで意図保存に対しては希望の邪魔でしらけでしかなく、他者への認知判断結果は自己ではなくあくまで他人意識なのに理不尽な歪めになるという、いずれにしても無駄でしかないという無意味をどうも結構まじめに他人は行ってきたものである.結果巻き込まれて無駄ばかりの羽目に
なんだか楚の荘王のような存在ばかり出てくるが、実際のところ内部の模倣者でしかないのだ.楚の荘王なら責任意識もかなりあるはずだが、なんなのかどうもわからん、すでに自己分析した結果の内部や意図している内部保存や他者認識判断結果などを剽窃して当の当人に述べてくる存在は一体なんなのか.
目の前のXYをあたかもXXのようにまたは別人であるというように、目の前の人物の主体を阻害・疎外させる認識を当然・平然・まともに行う人間というのは、頭脳が愚かか意地悪な存在かどうにもよく判断しかねる・未熟といえば正解な気もするが、不当な認識違いをされた分の不快をどうにかしないと
今日は暖かいが風がやや強い.生理の有限と歳の引退という冗談が実際になっているような-を考えてしまう.
付随してる暗黒は実際には光に満ちているのだが見えないだけになり、また予測不能の事態に深淵を持ってくる可能性ヒントを持った.夜は明るいのだがになってしまうまさかの発想展開になってしまう..
その辺から依存や甘えは無責任明らかで残酷さを醸すということになるが、諸行無常が抑えているかな?
差異ある責任--ある宗教観記述から、人それぞれの生を全うする・アドラー的には人それぞれの生の自己満足をする.実際には複雑系・非線形感覚からの表現で妥協すると差異ある責任という言葉が帰結として出てくるのだが.
まあコップと同じ考え方としていいのだが、そもそも認めない?人材たちがかくある今を形成している形かな?.認めないのではなく認められない才能しかない存在たちがという思いがあるのと、認められるような単純なことはどうにもつまらないという思いとの葛藤もありだった..
デリダの脱構築はハイデッガーの根源を何とかできるような代物ではないというのはまず直感が判断するだろう.レヴィナスは現存在線の説明だけであるし、となるとヴィトゲンシュタインのハエ取りツボだが、さほどの説得力はないと思う思い上がりではと-沈黙がマストではだ.まあ葉巻がないようなものだ
なんだかわからないが個人的希望意図対象を他人が表明してしまいしらけたり、対象が異なるのにあたかも擬人的にせよ自らが対象であるかのようなそぶりかな態度を示す人間というのはいったいなんだ.幻滅を嫌う心性に非常に邪魔・障害となる人材達である.とりあえず個人的意図は自己のみに属したのだが
UML.にチューリング完全かどうか未知とは、そうだろうなと思うと同時にまだそうかとミーハー的にちょっと浮かべてしまった.問題のチューリングのテーゼのうまい解決法は困難であるはずでという思いがあり、そうだろうとなるが、すでに忘れかかっているその領域でもある個人で、どう致そうか-
ゲーデルの不完全性定理もハイデッガーの超越に負けて・越えられずに世界内存在地平一般に戻るといったことの別表現にも見えないこともない.ハイデッガーの未完成には根源が登場することはわかっているのだが、何十年たっても一歩も動かず.
ヴィトゲンシュタインなどはささっと・さらりと基礎論から哲学に行ったが(ただしこれも原子命題なる単細胞思考はあきれるところだが)、その上スラッファの脊髄反射的なスラング的表現などで酔っ払ってもしょうがないとは思うが、それらを除けば魅惑の人物で、本物のエリートと初期には思ったものだ.
立法上・規約上のシステムにおいて支配及び権力意識という非可換という要素が強い時代になっていることに数学シーンからは言える.素数問題などによって.この後・その後は果たしてまたどうなるか、人間の生は生きている間は、生きたり死んだりする離散は不可能であるのでその点に留意するが
昔は明晰知識なんぞは百科全書的で俗物の得意とするところであると思っていたが、不快な反交換型フェルミ的人間が記憶上しつこ過ぎるのと、数学歴史上時間において非可換の時代である今日を鑑みると、縦型人間の蔓延の日々とも取れる.
無とならないシステムには有であり無私にはならないと精神年齢的には示せる.人の生理体はいずれ誰でも無にはなるのに.この時間差異・距離によって個人より会社・共同が優位になるという有である視点から-共同がこの長さより長時間有であることが.
システムが分解できないとなると・実際にそれがあることを-システムが厳然としてあることを認めねばならないなと不快だが思ったことはある・システム自体が要素となり3次元の場合ドメインが要素となることを考える.すなわちあるということは存在していることは有であり無とならずの点がいらだち点と
引出し要素があるにせよ、Cの構造体のようにどうも頭が離散的になっているような、情感の感性がこれではうまくいかない.そもそも離散的などどこで?、俗物的になったか現実事象判断にやむなく明白な区別を必要とするためにか、A期感覚というある作家を思い出す今頃も変であり..
ABCのスピロ的なものは、覚醒時の意識領域>入眠時の領域>夢形像の領域において、その一個人は生きているという一個体の行っていることにも似ている.渡りは生きている人間が夢を見るという生きていること自体をあてはめてとすると概念的にあっているのでは?.今日数学のポエム的言語を逆から見て
どうもその人物の書物内容をほとんど知らずどうも今ではやや思い上がっていたとも思えるようなだが、ある位相上からは言える.それににしてもその件の人物は実体内容を横取りするような形の人間だったとは全く思わず失敗したと思うが、その人物の現実事象的カルマがいけないとも思える点もある.
その場限りで一回性の冗談が後々まで寄与をするというこの現実事象を考えるに、それだけ冗談的存在が多すぎるという帰結に達した.全く他者は意味なき無意味な不条理・不合理・非常識圧力をかけてくるものである.
一つの視点で全体を見る・全体判断をしてしまうその視点は戒律的なものと思いつく・考えたみたが
もう混沌は嫌だとおもむろの東陽町から時間距離を置いてもう悩まないで止そうと設定に悩んでからまた距離を置いて今、さすがに悩まないと頭がシンプルな曲線を描くだけで、構成複雑ができずの不都合が生じてばかりで苦悩しないといけないようである.
やはりヒルベルトがイデアルを理想数変形からのイデアルをピックアップしとな、どうにもヒルベルトの凹みは無視することができそうにない集合基本.
数学者一覧をしょうがないので見た・クンマーだった.デデキントがイデアルの言葉を導入したんだ.イデアル方程式などは個以上いくつもできるが、あの時は特性数個に何か感じたのかそれだけしか設定しなかった..青春の私・いまだその問題を解けず、最も類体に全くタッチしていないからでもある.
クロネッカーではなくて思い出せないだれだったか、内積外積関係者・・.イデアル方程式ならば、べき乗根を用いて変形できて個の特殊な特性方程式を含んだ方程式を構想できると思った.さてそれをどのように変形すべきか頭動かず.ともかく個は次元多様体に無理につなげて置く.
フラクタルが瞬間にパーコレーションになるときを相転移としてみるというアイデアが浮かぶ.フラクタルが瞬間的創発を持つということは全くありそうなことであると.
渋みとエートスにしては持続という悟性典型言語がそう判断させる生理体から、存在論における中間存在という設定も浮かべるが、単に下品な生理特質であるだけと単純に判断できればいいのだが.
どうもベルトラミの擬球一つで考えすぎているようだな、昔からh入りの双曲線は苦手で理解したくはないと思うがどうも必要なものであると.とにかく双曲線関係はその展開スピードが速すぎてついていけずの思いだったな.スピードがスピードであるような現実はどうも不得手で..
そうか交代を要求する存在たちが不快の記憶を齎しているようである.交代など可能でない自然なのに、不自然を捏造している形だから不快なので、それほど交代を好むなら自分を交代させていろと他者達に言うしかなかったわけだ...
『疲労と交替』は考慮してあるが
K33のI.andante graziooをよくよく聴いてみるとかなりセンスいい曲ではないか.シンプルな音の並びが見事に華麗に続いている--中学生の時の転校していったYの月過ぎてのころの柔らかな花曇りの音楽室の外の風景を見ながらの印象ある曲である.
丁度難しい表現ツイート思考中に再起動要請が入り途中で示唆のままとなる.そそっかしさは現実との乖離意識故が一番の要素になりそうな自己分析.今頃に現実意識をする羽目になるのは、あるXXが諦念状態になった模様であるはずで、いまさら現実実践という思いはあるがどうにも直面してしまう形である
通時的時間3世代以上とかのスパンになると変化より変遷になっていく
エントロピーが変化・増大するためにはポテンシャルがどこかで消失的にならないとで、類続もこのパターンに適合していると思いつく・閃いた.となるとそれに従わないとになるな..とにかく人の一生時間以前にポテンシャルが消失する現象は多々ありそこに変化は成立しているのを人は自然に対処している
ワンパターン人間はニュートン的な絶対空間に生息しているようにしか思えない.しかしなれど科学は不変を求める秩序感、ただしエントロピーは変化する.
閃いた、そうか良寛は真理単純型なんだと、「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」のこれはなんじゃ解釈の仕様がないではないかというほどに幅を持った存在事実のある表現である.(これに関して個人的な理論的な・方法論・論理のある項目・ナンバーを想起した、多分に意味合いがあるはずと)
一将功なりて万骨枯る-単純な心理に至る前に行くあまたのトライアンドエラーの悩みがあったことだろう.この図式時間を一瞬で把握しようとするとその複雑性でお手上げになり、重合・重複現象は苦手な思いとして昔からある.シンプルイズベストの裏には幾数多の深甚な悩みがあるはずだが.
何事においても閉鎖領域だとなにがしかの不都合が生じてしまうということは容易な直感でそう思っている.閉鎖的でも鬱屈した空気を逃がすことができるようなシステム的なものがないといかんと昔からそう思ってる.
ひとの親切心に付け込んでしたくもない忍耐を強要する存在XX&XYが不快でしょうがない.楽でしょうがない誘惑にはまってしまうという存在に対してこちらは無駄で何の価値もない徒労をするだけの馬鹿らしさ.嫌な存在は忍耐を強制していることがわからないので、なんとか逆に味わさないと教育上問題
当然責任もその存在たちにあるのだが、その存在たちは認識能力の愚劣さから責任意識など全く持てずの脳細胞持ち主たちという未開性(結構そうは思っていない荀子系のカムフラージュ者がいるものだが)には一生無理な責任意識と思えるのでまたまた不都合な不快である.
そんなセリフは邪魔で不都合すぎるのでいらないという承認的要求を全く他者は考慮しないどころか逆のことばかり行ってくるので、どうにも不都合なほうへ不都合なほうへと現実が流れて、すべての悪しき面はこれら不都合者たちに原因があることは心理的に確かで、当然責任もその存在たちにあるのだが
しかし実際悪魔のような不細工と思っていると、まさにそのように現実がなって、実際に悪魔ではないかという意地悪・鉄面皮だがしつこく絡み無駄ばかりで、厚顔無恥は一体どこからやってくるのかその謙虚さのなさは、そういえば頭が単純で思考力がない場合に成立するとか読んだことがある.
まあ男そうだが邪魔だと思っている男たちも何か勘違いをして接近してきて、結局記憶に不快を残すのみと、嫌いな存在は嫌な存在は男だろうと女だろうと一生嫌に決まっているだろう.
そうかチューリングマシンと中間存在という有限体は極端な話、機能特化のみできるとするとマシン化できるような話になるではないか、機械が人間とってかわる仕事というのは中間存在的仕事内容のことを意味していると解釈できる.
狂気かつファナティックを自覚しているのか、自覚しているとすればやけくその理不尽発言で欠如感を納得していることになる、いわゆる母性は理解しがたいだろうと思う.どうも無自覚で脊髄反射を当然と思っている節もあるか・・、となるとつまりやはり動物的に近くなり、虚栄はそのカムフラージュになる
太陽光度は強くなって地上の生物は死滅してしまうならダークエネルギー作用を用いて、生物維持できるほどの公転周期変動を行えば持続できる-軌道変更に対しての新たな視点を考え付いた..
何十年後何百年後に理解者が現れたら戻ってくるというその矜持・知力による支配意図・その哲学性は十分理解できるが、それに最大の欠点・欠陥があることはわかっている.とにかく埴谷雄高のセンスは古い.
億年以内にミルコメダとなるなら億年後付近を想定すればうまくいったかもである.最もありえない地球軌道変化までしか構想していずの点がまずかったのかも.システム時間はシステム構想自体の因はは普通に素直にそれ以上の時間だったが、まさかの現実応用は想定できず..
件のXXはアンドロメダとも考えたこともあり、それ故にある作家の周忌の名称が不快ではある.その作家はまだまだその頃は存命中だったので、割り込み的な意識を持たざるを得ない記憶で、命名した存在・存在たちは単純に考えすぎな迷惑としか思えず.
徒労に呪われていると思っているにもかかわらず、自己自身で無駄を作成してしまうというその時には呪われをすっかり忘れているという心理事態で..
関係ある女性だったのに蚊がつかず、すべてそれら女性に気が付かなかったのだが、なぜか?、実際現象に遭遇して意識を一段落とす傾向が強くそれが災いしているとしか考えられず、もっともその時は冗談のはずだが、未来に対して臆病でもある証拠ともなっているかな・・.どうも勇気のなさが原因と.
サプライサイドには流動性の罠ということがあるんだ、少しわかったというのに何十年かかったことか.ダンシング恋シーンのXXが近隣の男に余計なことを述べたと後で知り、それがよくなかったことは確かだが、供給サイドをどうするか考えていてアイデアが浮かばずの状態だったのも確かな悩み中で
何がうるさいかといえばノモス的人間の悦楽感性は経験上不愉快である.ノモス主権はエートス的でもあるか、エートス?はどうも閉鎖感覚を覚える.閉鎖にはふん詰まり的な束縛感があって自由の一応妨げにはなるゆえに、明るいエートスは発散存在論にもなるか?
根の暗いXXは鬱陶しい束縛・閉鎖感・不自由さ強制力を自然に持っている.嫌なものである.ただ単に人を疲れさせて無駄をさせる拷問家にしかならない.陰謀とタナトスと実存が一緒になっているような人格--カフカはタナトスに呪われていた?と閃いた.本質に対して実存には違いないだろうが
ある3点の直観対象があってそのうちの一つは現象的に明らかだが実際のプレッシャーがなぜかあり、も別にで気が付かずだったな.一つはそのままにして、一つは神とかプラトンのイデアとか哲学的でなく、象徴仮想で円弧を描くような設定に思い至る.宗教性をかように用いることは思いつかず.
自らに不利益を誘導することはないのに、人々は他者についてそのようなことを考えているとそれが当人だと思い込む・数多く思い込まれた記憶があり、これが今に至って無駄ばかりする羽目になっている.原因はそのような無理解・誤解にあるが、そのような認識者自体の存在も如何に?とは思うことである.
熱力学の第二法則・法則となっているその増大性自体の本質は不変である.人が子供の将来のためにという親や共同社会の未来のためにという政治家などは建設的である.熱力学が正当ならば、建設性は正義であり勝利であると考える.子供のために頑張ると自覚した存在はすでに勝利者といってよいのでは?
あるXX・7歳ではないが目の前でダンシング、しかし思考している存在にとって暴力的な所為でしかなく・・という恋するXXに対して・・・無機的対処になってしまったのか..
いわゆる宗教において戒律(絶対的な)が成立していると、当然そこには戒律以外の事態に対しているわけで、戒律とはそれがなければ宗教の説得力がなくなる宗教複合・コンプレックス故に存在している・成立したとか考えてみると、宗教の中でもそれのない宗教がよさそうだが、宗教として成立しない?
共同存在意識もアイヒマン現象につがるからな、必死をこいて命令・ルールに従うことを潔しとする精神はそうである・特に誤解したルール解釈一辺倒はひどい従いになるが..帰納的経験主義も顰的な前例を示唆しないこともないだろう.
西施の真似をした村の娘・どうも顰に習われて困っている記憶が、しかも自分自身の--なんという愚劣さだ・埴谷表現から名状しがたい愚劣さは一度のみでもはや味わいたくなく、またそうそう味わえないものであるのに.ただ村の娘ほど不気味とは表出しないが、愚かしさには違いない.自己疎外は意味なく
逆になる一体誰にそれを言わんとしているのかわからないという存在は対象にならないと規定してきている.目の前の対象の思考能力を侮辱しすぎているからである.なぜ目の前にいるのに理解力が足りないのかわからん・・というわけで、数多きエクスタシー至上主義者の暴力性には多少閉口している
ある女性と対峙中の夜行で芸術至上主義とか言われている存在の名前が出て今もずっといらだっているが、それほどの存在ということかもだが、このXXは模倣でそれはというあるXXに冗談でその作家のようにしつこくなびかない女と設定・そんなことはなかったのだったが.いつもの受身形になる逆不快
BE凝縮において最大値原理を用いた説明には感心している.お気に入りの照明センスであったな.臨界値の持続する準長距離秩序は最大値原理によるようにも考えるが?
”「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」-ケルゼン”この意味がよくわからない.ケルゼンは小学校のころからその概念に対して気分良さを味わっていてお気に入りだったが、最近では酔っぱらっているな、バオバブの樹が揺れているような感じかな
高山寺は大正蔵のほかに鳥獣戯画もあったのか、確か行ったときに偶然か大正蔵関連がが干してありその長さに閉口した記憶がある.鳥獣戯画は見かけず知らなかった.鳥獣戯画は傑作間違いなく、何も述べる必要はないものとは思っている代物である.
”台有界連続関数のフーリエ変換で L でないものはあるか?”に対してあるということだそうだ.フーリエ変換が無限遠で消えるのはニュートン的にとしか思えない..ともかく無限遠で消えるとは限らないは紀伊国屋での思い出だ.連続意識が接続してどこまでもにはうんざりして考えをやめた若き日
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