しかしどうも人間的に不自由で不快な有限束縛を考えてしまうが、脊髄反射は共通時にもあり、妙な感触の通時のサスペンスも措定せねば、あたりまえのスリルとなっているように見ていたが、リアルより間接的にで.数がどうも多い圧力がある.普通に仏教などで悟りのできる人間は数少なく、人々はそれ以下
XXに限らずXYも.人のふんどしで相撲を取っている・しかもその持ち主の当人を前にして堂々と語るために、持ち主の当人を他人に措定するという非常に当人にとっては迷惑な存在たちXYが不快で、この気分の悪さの除去が必要と何十回となくツイートしているのは、不快の除去がまだできないためである
いろいろ話を聞いていると、どうも縄文の伝統故という考えが浮かんだ.
人間の身体構造は医学的に明らかに複雑だが、その身体構造をもってしても単純な線形思考とその逸脱しか持っていない人間存在の多さを想定できる.実験結果に理論が追いつかいように、現実事象も単純化してしまえばの観点はあるが、難しい局面があるはずである.そこに単純頭脳がぶつかると理不尽などが
が方法論的に当事者同士で話をしていても埒が明かないのでその元と話をするという考え方はある.事象の周辺をさまよっているより本質を先に獲得するという方策は有用である.
経験--そうか英国のEU離脱は、大陸と判例の考え方・哲学の違いがあるな、演繹的な大陸EUと英国の帰納式コモン・ローの哲学的違いが.
弁証法でも二大政党制でもなんでも『交替』という考え方は否定していない・取り入れているので、とりあえずは交替なんだが、ある国のある時期疲れた?政権が交替した時が一度あった・・・
「他人の金で政策を行うものが善政をするはずがない」という欲望的存在前提確信的な発言を知った.他人が作った法律・規則を遵守する人間もそのようなことが言えて、大なり小なりアイヒマン現象のグレードを持っているとみる.実際に横暴な権力者権威主義者がいるだろう.作成する人間はどうかな?
今でもよく覚えているある祭り的な事象の場で、道長を浮かべた小学5年生、ただしその時に九州の方に島流しにあった信西だったか鎮西だったかあいまいな人物も浮かべたのであるなぜか..島流しにあったのは信西ではないまた時代が違った.鎮西八郎も道長より100年後以上の存在ではないか・・時間が
さすがにハイデッガーも存在と時間は未完に終わっている.根源論が展開できなかったからだろうと推定-超越壁からの戻りで、それは昔からわかっていたが何十年たっても進展しない.レヴィナスがわかりづらいのは根源に抵触しているからだが、全体論にしかできなかったという、やはり超越が難点
シュペルヴィエルの名を久方に見て、ネルヴァルを思い出す.カバラやヨハネ黙示録も登場とはやはり身体を使った詩人といえば、ロートレアモン・ランボーよりネルヴァルだろうと思う.蒸し暑い夏の蒙昧の身体的不調の時に引き寄せた昔の記憶が今やわずかにだがあり..
そのxxはあるXYと一緒にもはやすでになっているのだが むちゃくちゃな過去形蒸し返しを人々はしたものである.そんな態度をとると虚偽で無責任の甘えが成立するからか?、そのときは結構まともな認識・発言で、経緯を知らないXX&XY達はしたものと見えた.不可解.そのxxは排斥したいのに
深淵が介在する乖離はフェルミ存在体感時に思ったこと、この通常と異なるこの世界はいったいなんだ、まったく信じがたく通常に戻せるかと思ったものだ.それがのちに今でも邪魔になっているあるXXの存在実在のそっくりな体感だったとは..
竹取物語を浮かべたのは家の前のまさにちいさな竹林だった、それより49=*をその時に考えたことが不思議である.この数字には何か意味が有りそうだがと、何十年後の今、不意に竹取物語のあらすじを眺めたのは、なぜか・・49のイメージに合う記憶存在がいる、女王としたのはミスあきらか.
Izumo1-Juno複合体が分かりつつあるという時間ーーこの構造がある感情に寄与するとして何十年。今迄よくわからなかったのか、まあ心情としては不明なままが良い方向だが、何らかの病変要請があると致し方ない面もある。
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自己伝記も相当でないと潤色がまざる・告白懺悔は個的にできかねるものだも義務教育時代に意図設定したこと.告白・これはルソーではないかな、アウグスチヌスは別世界的なので.(告白のあらましを見ると別世界でもなかった読み物ではないかと)、Yが転校した頃ウェルギリウスが浮かんだのに13の春
そのころのすったもんだをようやく処理できたかなで、ずっとまずかった時間の修正を追い求めて可能になるか、挑戦は当然するというか、埋めないと気分悪いが埋まるかどうかは難しい.生理の時間は確実に覆水であり..
それにしてもある時ある場所でみた悲しみではなかったのかもの映像が寄与しているか、脱却できず.そのXXはアルファ的には十分・ちょっと信じがたいがそうであることははっきりしている体感があるが、θを意図してしているためこの時の想像イメージにより別のXXに非常に不都合が生じまずい事態に
最後の帰り道で同志社の女子に聞く、ヨット部ある?あると、昔の琵琶湖のヨット話は事実間違いなく、まあ疑いもしなかったが金持ちの話を出されても困った0歳の記憶.いまでもそうだが、その反対でもいいのだったが、今ではプレッシャー大を感じることに、なんというか色々無駄要請の圧力強すぎ
パンのみに生きるにあらずは、身体と心を人間(動物にも子供を守るという考え方?はある)なら双方用いて生きていることで、心が行き詰った時には神の口から出る言葉が有用になるということなので、神の口の言葉は身体は受容できない.身体があるのは当然だが、身体強調の場合はひねくれすぎと思う
関係の本質自体を根源として根源から出る諸々を関係としていると判断、ただ根源自体の証左が観念的なもので出来かねるという視点・観点から、表現できないものとしたと、または認知力限界とも取れないこともないが.根源ではなくて根元ではないだろうなまさか、原点的な意味合いではなかろうとは思う
しかし文章の感じからはYは現存在的でハイデッガーの方が根源的に思える.
根源があるとしてサル型人間が一生懸命玉ねぎの皮をむくように侵入してくる経験がある.インベーダーの頭は一体どのような構造なのか、単純なロボット的なプラマイ的に想定できて、まったくつまらん頭を持っていると、そんなものはどうでもいい単に無駄を要求するだけの馬鹿馬鹿でしかないと思うが
交換と反交換の弁証法的止揚を知らない・考えたくもない.感性が乱れて非常に不便な思いをするだけであり、わざわざ楽しみをなくすような無駄・悩む必要もない.悩みなんぞは自力でいくらでも作れるので他者作用は余計なお世話・負荷でしかあらず.そもそも他者が悩みから逃れようとしているのでは?
忍耐など全くしたくない邪魔な存在であるのは当然で、排除したい存在は明らかなのにこの不愉快すぎる不快な心理事態が気に食わないのである.何か勘違いをされている.反交換は嫌いを好みと受け取るような態度をどうも示してくる.ほぼ経験上は間違いないな、だまっていても反交換者のセリフは好まない
他者に対して自己主体を発揮しているときにその他者が反応しない、しょうがないなと我慢・忍耐をするとそこに同様な反対セリフを逆に突っ込んでくるというばからしさを最近ポアソン的もっと確率が高いか、味わう.思い出すのはYのことで同じような、あるいはドンキホのセリフの弟で、いずれも意図邪魔
今日の若い製作スタッフーの”めぼしいものが出ない”これに尽きるな、確かにそうでありそう思う.この他者女性の反応のセリフでは今年度最高のセリフはまず間違いないな、何しろ生まれる以前の存在からの流れを把握して?、対話の話者に時間を合わせた形か、それでもそのセリフは鮮やかである.
シーシュポスの神話は徒労を意味するのか、馬鹿げていると思いつつしかしなれど個人的には徒労に呪われているとは思っている.実際無駄ばかり要請される・そんなことを思っているから単純頭脳が面白がってしまうことも大いにありそうだな.
ようやく小学生の時のしかしT大を無視できないと思った時のT大のイメージは閉鎖的で複雑さがそこに横切っている像判断とできた.この閉鎖が問題だが優美にとらえると悪くはない.まあ複雑さも問題だが、複雑さはないと困るだろう.
すでに幕は開いているのにわざわざ制約をかけてくる時代の遅さをずっと待って=空白で、今頃自己の諦念使用に気が付いているはずだが・・、その諦念使用ゆえに不快な存在なんだ君は、がしつこく記憶にはある.バカバカしい時間を無駄に、浪費をさせる人間のうちの一人である.徒労に呪われている・・・
グロクえぐいXYなんぞをモデルにしても良識的モデルにはならない、その時だけのはずが、しつこい不細工である理想存在からほど遠いカザノヴァ欲望者など疲れるだけでストレス構築だけと.
えぐいグロテスクな不細工XYにはギリシャの健全なる精神-やキリスト教の理想的男性像の実践・実行が大変なことがわからんようにしか見えないという不快な言明の残っているモデルがいる
ダザイもその辺のところはわかっていて、斜陽のママンの品の良さは演技などする必要のない本物と述べている.いやどれほど上品な存在だったか人それぞれの判断能力・美意識・エートスによって異なるから、実際に遭遇してみないことにはなんともいえん.
日本人は他人に対して優越感を持ちたがる傾向が強い?!、そうかな全然わからないが、思い出した昔は何のこともなくごく自然に、人は優越感によって生きると思っていたことを、ほぼ原理かな・優越原理として.これに関してYが以心伝心的に”優越感ね”と覚えている.それ以上に不快を述べたことも
人はだれでも好き嫌いの感覚を人・動物・植物・物象に対して持っている.これを肯定と否定とすると弁証法と何ぞやになり、唯物弁証法とは心の偏りになっていないかと考えてみた.
人は唯一的かつ超越的存在として内部把持している存在であるか?
叙事の香りから、或る昔から蛇のようにしつこい存在の直感を持っていた存在に対して、偏執的存在と浮かんできた.駆け込み訴えにはその要素があるかな.結局、叙事的な陰謀的色彩イメージがあってロマン性にかける存在なんだと.虚栄心がたっぷりあるようにも見えてきた.
遠アーベルとは発散境界とまずイメージしているが消散するとは限らず、境界分岐があることが答えの出ない不可解さを持っていて、紀伊国屋で内部の声が結論をだせと、明晰信仰主義者がいら立ったのかなぜだろうな?.それほど明晰をしたいのなら到達不能基数を何とかするべきだろうと今考えた・・
またソロで深甚になってきた、そうそうマーラーといえば真摯性のイメージがあったのを思いだした.
単純普通に無限鎖列を構想すると到達不可が出てきて、到達不能とする宇宙が人名などを用いるようなものではなく、普通常識思考域である.グロタンディークの思い上がりか意地かそれとはわからぬ当然の自然なものだったか、おそらくはグロタンディークにとっては自然なものだったろうと推定できる.
宇宙際は遠アーベルということで、グロタンディーク宇宙なるものがあったのを思い出して顰にならったか?.”グロタンディーク宇宙が到達不能基数と同値なため”--つまり無限小の先の無限沈降や超準の超実数の周りに超実数が無数にあるといっても、到達不能基数という中途半端でその先は不明と同じ
必然的偶然か偶然的必然かMahlerを流すのもそんな心情になっているからだと思いつく.悪乗りで3番バーンスタインと行くか.必然的自由には偶然空間の収束であることは昔から設定していたが、ふと偶然的自由も考えねばと別に思わなくてよいか、永遠とか.まあ普通ににはクロノスの深遠がいい
全体主義という言葉はまだ見かけるが、戦前は帝国主義で帝国主義という言葉をここずっと見かけない.確か京大の学者と聞いたが、ボットから政治的な面にはイデオロギーの影があると、イデオロギーという言葉も見かけないがそうかもなと漠然と.平和強調者も何らかの教条的な信念を持っている気がして.
無限小の基数ということ、超準は気楽である.”超実数 x, y に対し x − y が無限小超実数のとき、x と y とは互いに無限に近い”--無限に近いだけで分離はしていない.
交代形式に呪われているとか、これそれも違うとは思うが畢竟フェルミ粒子とボーズ粒子で、厳密には分離は無限沈降になってしまう.どうしても区別することができないということで、途中で諦めるか妥協するかそうしてその先はあいまいな不明となるとしか出来得ず.
サスペンスという境界--の設定をせざるを得ないようだ.どうにも量の圧力がある位相を無視できない形である.
他力はおいどうもエントロピーのことではないかと自我に超自我があるいは自我が自我に自我が超自我に語り掛けるアイデアを浮かべると、そうなるとスピノザの決定論もエントロピーでいいのではないかと、当面現宇宙においてはだと、そうなる.(自我=個人的・超自我=共同的)
そうかあの中学校の校舎の渡り廊下で思った液晶はまだ早いは全くどうでもいいことだった.どうもあるXXの制約が効いているようで、このXXの潜在意識ではろくなアイデアをもたらさない、最も他の女性軍もほとんど同様にそうである故喪あるが、もたらさないどころかそれ以下に制約をかけてくる.
中間存在は自分が中間存在認識しかできないので、そうでない場合の障害になる.また例えば嫉妬心などを持ち出すのも普通である.トライアングル関係で悩まないためには永遠を知ることである.(種々の小説にこの悩みを扱ったものが多すぎるな・・独言)
中間存在が永遠を理解するのは難しいだろう、サスペンスやスリルで日常を生きる面が多いはずである.それゆえに自由を知らないのではという意見が出る、しかもパレート的に80%の人間がこのタイプという信じがたい考えに行き着いてしまうのだが.
俗に?普通に言うホーリートライアングルは字義を考えると神聖的なものではないか、別に永遠の関係だと思っていた.最もソウルタイプの人間は神聖タイプではなく、神聖タイプはスピリチュアルである.思うにソウルタイプは苦悩するが、神聖タイプは悩まないように見える.実際そうだろうと思っている.
読んではいなかった、むしろ読めなかった読みたくなかった夏目漱石の心が中学生の時から年頭にあって、最近読んでみたが、先生と私の関係ではなく、若き日の先生のデルタ形関係の話であったが、やはりその関係物語には違いないなかった.デルタ形関係はしない方がいい考えだが、どうも他者が割り込む
チュブリンはある考えている項目の覚えているうちの図式デザインに直感が意図したので、生理医学的観点からこれを導入しようかと浮かべている.全く観念的であるはずの項目のはずなのに、考えている時は腕の筋肉と神経の流れを浮かべていたことから、チュブリンに関心を持った.普通に自動性が出てくる
強靭には中学生の時からそのシビアさに辟易したイメージで、繊維質もしつこいものは不快である、ソウル繊維なら何かと美人者はいるがだ.まず直感がと小学生の時の胚にも参り、どうも想像が進まなかったが、5日目ということだった.Sはミトコンドリアを持っているとは驚きで、その他にも特質があった
対象を過大評価しすぎる悪い癖がある.評価なき存在には過大評価のために自己卑下しすぎるとか.課題評価すべきものは当然評価するが、自己卑下心理を狙うものが多い・この心理の実際は、君はこんな愚劣な思いをするだけの評価しか与えていないという意味なんだが、勘違いして逆に人々はほぼ受け取るな
結局はぎりぎりパスで成立で、もう今更成立したところで感慨はない・ほぼパスするだろうとの思いで、だがらしくない活力のなさは相変わらずやる気を邪魔した存在たちの記憶がこびりついているとしかいいようがないか、それとも体力的な面かな?.思えば時間を無駄にしたものだ.
地上に楽園が成立するか、発展した科学が宇宙に人類生存を保護する形ならありそうだが.それなら地上でも同じか、これをマルクスは予想していたかとなると疑問・核燃料廃棄物問題もあるし、マルクスの夢は空想?幻想?夢想?理想?、唯物とはいえ理想なら空想共産主義といえるのだが.
源氏物語その内容を読んでみると多少は異なって小説的に思えるかもしれないがどうもあらまし上はつまらない.しかし多くの人々は貴族に憧れとまた殿上人の家系存在の子孫は日常的な話なのだろうが、とにかくあこがれという権威主義者歴然者達はいかがかなと.優雅複合などがある可能性強くありそうだ
ビッグリップにはこだわる高校クイズ、角谷の不動点定理も思惟の法則的には同様に見えるのだが、哲学的には同じかなと
トロツキーの永続革命論はソビエトを中心にした国際的中央集権的論に見える.トロツキーは頭いいというのが念頭にあるが、こんな正規分布思考ではさほどになってしまう.ある理不尽男が、永続革命論はいいといった.トロツキーの頭の良さの念頭に衒ったかなと.ともかく左の全体主義的な要素は否めない
ユートピアとか楽園とかはどうしても内部で何かに守られている場合にしか成立しないように思えてならない.マルクスの共産主義の国家の死滅・貨幣の消去の世界を誰が守るのだろう.台風は来る・偏西風は蛇行する・常夏・常春・春夏秋冬の変化のある気候の地上で、恰も天国のような世界が成立するか?
小林秀雄の何かは関係ないな、小学生の時に小林秀雄なる名前を浮かべた記憶はまったくない.なんでも本居宣長の何かが長すぎてじっくりと組まないと考察できないと思った記憶はある.
世界霊魂なる考えを見ると本居宣長の霊魂の位置は?となる.本居宣長・小学生の時にはこのきれいなセクシー感触を将来時間の取れるときに対処しようと思ったが、結局今まで対処したことはない.
宗教はアヘンはノヴァーリスの引用とはマルクス、共産主義宣言も世界理性を契機とした論展開ではないのかと考えてしまう.青い花はは京都の夜の青いしじまを思い出すが、これは写実的イメージではないものと青い花とは違うかな?
自由を求める・自由を味わう・自由を保存する--これらのケースにおいて他者はすべからく災いとなった.それで不快な言明が不快であり除去しようとしている.権力志向者や叙事的存在や中間存在はまず自由の邪魔をする.
それでよくよく考えてみると、人々は平然とビッグリップなどを考えるが、ビッグリップを保証する領域は何と思うとビッグリッパーは何も呈示していないようなのだが、無限の場が保証するとしか考えようがないが、有限の無責任がニュートン的に依って無現場を提示しないということなのか?
関係とは世界理性のことかな、なんと関係の本質をノヴァーリスが述べていたとか今は直感しているが、この直感は整合してるかはちょっと時間をおいて考察の結果を待つ.時限性---インターナショナルの世界線ならありそうな話でもある.
なんだがしかし信じられない乖離である.家系の伝統もよくは知らないがあるのかな、それがあるにしてもそれ以上の構想があるがそれをどのように説明するとなる.乖離か双対か正反対に引き裂かれた形の一人の個人ということだが、人々にはまさかのプライドの壁の障害があるかな?.別に理屈はいらない?
まあというわけではなく何回も見ず知らずの人間に不愉快・不都合な誹謗讒言言葉を別に自由に歩いている街中ですれ違い時に言われることはあった.こんな存在がほかにいるのか?、いろいろ考えているからでもあるとは思うが、それにしても不快なことは確かで、無理解力を強調・才能限界を強調せずとも
おかげでカントの道徳論がわからなかった悩みを持ったその後、しかし定言なんぞは何でもないはずに、不快なフェルミ型あるいはそのあるXXや悟性の不快さXX&XYとかレベルを下げたか歪めた--あるいは逆に無知な自己投射を受けて無自覚者が自己投射をしているなどと思わない勘違いをしたかな?
正しさは人それぞれのような、自分だけが正しいと思っているとストレスがたまるというツイを見た.正解はそれぞれ異なるというほど正解が複数あるか?、正解に対してグレード小分けをしているのではないか、それとも帰納主義的な無責任結論によるとか
和泉式部の短歌は頭にとげとげしさ・引っかかりをそう持たずに読める、とにかく短歌を追いづらいのが多くある万首.和泉式部が随一の歌人だったという意見から、スムーズな作品は優秀であり、いわゆるスマートな対象というのは頭をずきずきさせる引っかかりであり、スマートというのはレベルが低い事に
空蝉とは現世の意味とな、確かはかないこの世の感触を示した言葉の印象記憶があるが.源氏物語はつまらないというか住んでいる世界が違い、またそんなチイチイパパや丁々発止はちょっと耐え難い.藤原道長や鎮西は小学5年生の時に浮かべたが、摂政とはなにかよくわからなかった.
所詮才能ない存在に責任感を与えても破たんするだけという懸念が払しょくできない.特に叙事的XXなんぞに責任感を与えると無謀なやけくそ理不尽責任しか取れず、それは責任とは言わない代物でしかない.特に危険でこれをマズローは低次元の承認要求と称したようだ.確かに何を言うか不明の怖さがある
一生不可能な存在にその不可能を要求はしていないが、要求する形になっているのに、価値倒錯でこれが逆認識になっているという、主体阻害者たちの詐欺的態度とか
こんな予定ではなかったのに結局あるXXの成長時間・生理時間に合わせる羽目になってしまった.このXXに原因・起因があるとすると大いに当てはまる事象記憶がある.この合わせる時間というのはまずい、そのXXの弟も価値倒錯要請で原因となっているかな--原因・起因者には責任がまつわるはずだが
ダークマターを無機的意識・無機的空気とすると、強い・弱い、厚い・薄い、濃い・淡いの差ができそうでランドール的銀河にダークディスクが存在してもよかろうということになりそう.ダーク粒子は量子論のアナロジーに過ぎないのではないか?、ランドールの固有時空は接続にある哲学かなと
自らの叙事的存在という精神年齢の低さ・汝自身を知らない無自覚者かな?、それゆえに凶暴暴力的言明をしてくるという限界性?の持ち主たち.体力根性ともに動物力あるのに価値倒錯を洗練演技でカムフラージュしているかのような存在たち.
ところがおよそ体力のある存在は根性もあるはずだが、演技に走って気取ってしまう存在も多い.自らの野蛮さを隠そうとしてだろうが、XX&XY共々叙事的存在は体力があり、ボルネオの密林でオランウータンと共に裸足で走り回るのがふさわしいと言いたくてしょうがない権力的邪魔ばかりしてくる
冗談・無責任・説得力のないことを真剣的に述べる他者はすでに頭がおかしいとその時に思えばよかった(精神年齢が低いのはおかしいことではない解釈だが)、最も大体の人物は狂人というのは思っていたはずで、どこか頭の隅か深いところにしまい込んでいたようでもある.
他者から受ける価値倒錯は他者にとっては冗談の無責任的でなんでもないことと推定してみると、すなわち冗談は説得力がないのだが、他者はかなり真剣に述べたような様相記憶がありそれで不快で除去に悩んでいるというか、他者の精神年齢が低かったからと言えばそれまでなんだが.
確か人間失格だったかな、そんな述懐の記述文を目にしたことがある.マルコのこれ”金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい”、駆け込み訴えで喚こうと所詮は・・であるとか.そもそも人間失格なるタイトル自体、人は殺人者でも被害者意識を持つものだに則っているのでは?
太宰治・いかように生きても津軽の金持ちの家生まれの権威主義的優越意識を払拭した生ではなかったと思える.
どうもむかしから富士には月見草がよく似合うというセリフが引っかかってしょうがない.射影的な近距離と遠距離の対比映像感とは画像的に思ったが、太宰のひねくれたタナトス的ねじれ陰感覚がありそうだ.
レンブラントの肖像画も今ではさほどに見えず、カレーの市民の鋳型が1体という、彫刻も模造化の成立があったか、となるとウォーホールが浮かんでしまう.ターナーの幻想画もいいのだが、瞬間の記憶が大事で、その他絵はすべて再見してもいいが、瞬時印象によるかな、人は1秒で異性を飽きるとか.
埴谷雄高はブレイクファンだった記述記憶があり、昨日図書館でブレイク評伝を手にしたがやはりブレイクなんぞに趣味はなくつまらない.天地創造の迫力眼には印象があるが、プラトンの幾何学・コンパスデザインの意図がありそうな構図の記憶あり
人は意識を持っている.無機物域の意識をダークマターと称するとか、ランドールもこのアイデアは持っていないのではないか?.そんなアイデアはアインシュタインの宇宙項だと述べるかも知れぬ..
それを言ってはいけないと考えても発言はまずいだろうというものを、ある種の人々は発言する・してくる、発言する対象が間違っているのだが、勝手に自己優越感の塊のような夜郎自大的倫理意識のような存在で、気が付かずにまともに取り合いいまだにしつこい記憶としてそれらの除去に四苦八苦中
要するに駆け込み訴えのユダはキリストにリアルな文句ばかり述べてるが、・特に食物を用意したというところは疑問の追随創作だろうな・だが、個人的にユダ的存在は他者のあらを攻撃するが、ユダ自身もあらばっかりのつじつま合わないでたらめ箇所多き存在で、今更追及もうんざりするしらけといった感触
脊髄反射という自由な無責任
まあ大体ほとんど行っても差し支えないが、他者に対する超自我判断はその対象他者に魅力がないという判断しかしないので、当の対象他者はそれを他者当人の自我とは認めづらいだろうな、そうした判断を逆にしてくるから許しがたくXX&XYともども不快でしょうがなく修正や除去・消去したいのである
超自我・自我以外の新味・新鮮さを必要とするのだが、了解・理解している自我を鏡反応してもらってもつまらないことこの上ない.もっとも鏡反応してもらいたいものはあるが・・人々はしないな.超自我判断を自我的あるいは自己投射または他者設定として反応してもらっても意味なく、超自我反応ならばだ
超自我使用時にも自我は自我のままで、個人内対立していようがそれはその通りなのである.実質・実際とかそれも自我のことであり、超自我時と自我を同時には用いないが、超自我時に身体的XXは自我・実質を反応する・結構XYもそうでこれはいかに?だが、その実質・実体は自我・超自我了解済みだよ
他人を信じない認めない?、そうではない他人が認めないのである.それはしょうがない.なんだか超自我的対処を他者にしても、自我もまた自己の自我なんだが、超自我的対処時になぜか他人が自我を剽窃?の形で自我当人に述べることは意味がないトートロジーだが、多くの他者はそれに気が付かなかった
ペース大学の名を聞いたことがかった、まあマンハッタンなどに行ったこともないからでもあるが、たぶんこれからも行かないだろうな.なぜかアイビーではコーネルが雪解けの春の雰囲気を想定していまい名前だけは印象である.
チャーマーズの名を久しぶりで見た.春秋社から翻訳の・意識の諸相が下旬に出ると.しかしなんだなやや滑稽なものだ、叙事的存在に科学か絡んだ形と見た物理主義は無機的な身体必要性が生に対して完全にある場合が多いが、正常意識では・平時ではチャーマーズの弁明など必としないのは当然だろう
唯一者とその所有や天上天下唯我独尊とかはその実際感覚としての存在理由は自由を示していると思える.独裁国家はあるがそうなると人は誰でも独裁者であるということになる.孤独が自問するときそれは独りで判断するので、独裁というより人は誰でも独判者であるということか.
どうも納得できないので発想の転換をして・・・自由が情況を決定するはいくらか矛盾しているようであるが、前束縛状況に対して自由が反論する形ということになるかな.人間と人間の極限の関係設定条件においては自由が妨げられることが十分想定でき、自由が反論すると.
昔横で金がないと叫んだ・強調発言をした人物がいた.言ってもむり、オレも金など持ってはいない.未だにだが、そのころそいつは野垂れ死にするんじゃないかともいった.一体どんな意味だ、仕事だとかも言ってとにかく邪魔でしょうがない、何か扇動的所為.そいつの姉がややの対対象で、今は他妻である
何しろ主体を壊す--原始人的反応を要請かもしくは主体乱しということはその対象が不明になり判断できなくなるということで、対象とすることもできなくなるということである.それでしょうがないのでその対象を無視することになるが、それをわからずに味を占めてしつこい存在の除去が困難となっている
身体的存在が何かと煩わしいが、最初にロゴスありきという言葉もあり、演繹的クリエイティブは成立する.
マルクスの世界を変えるというのは、今までの哲学者は世界を解釈してきただけに過ぎないゆえにということだったのか、スカラーからベクトル化へかな
価値倒錯者たちは他人にでたらめを強要しないで、自らの価値倒錯でもしていれば少なくとも他人には迷惑が掛からないだろうという帰結を導いた.
人類が存続する必要性がある限り建設的な事柄は勝利するは帰納的帰結より演繹的帰結か
Maria Jesús Galdos
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他人は他人をそのように認識したまま自己保存していると、それが自分だと思われることが多い.そうではなく君に対してそのように思っているというのに、無自覚者なのか低劣頭脳なのかよくわからんが全く不愉快・不快な認知能力である.
権力的傾向者の精神年齢は釈迦の手のひらの孫悟空のようであるが、権力志向者自体は自分が釈迦の手のひらになって、いかなる人も・精神年齢など自分より高かろうと関係なく、孫悟空化しようとする・するからそこに相克がある.
そのXXはそれがあるいは極端に倫理的にくだらないあるいは原始的存在だという自覚はなさそうで困ったもの.ただ傲慢なうぬぼれ・・ん?、面子意識があるかと今思いつき、一応の地平のプライドメンツ故があるなと気が付いた.普通にそんなことは簡単に思いつくだろうといわれそうだが、それができず
バフチンのカーニバルとドストエフスキーがどう結びつくのか近来にちょっと読んだときはわからなかったが、カーニバルとポリフォニーは別の視点なようである.ポリフォニー・確かにカラマーゾフの兄弟の登場人物の設定はポリフォニー的である、それ故に帰納的な状態しか受け取られず互いに離散的未決と
どうも帰納的存在が中途半端じゃないかと申したことがある.中途半端なものは中途半端徹底すべきものは徹底で中途半端という考えは演繹的にしない.帰納的な場合はすべて中途半端と思うのかもしれない.ほぼ帰結的に帰納は結論を出せないという帰結は正確であるように思えて.
それでもちょっと理解しがたいXXがいて、今では退行的存在は明らかだが今頃自覚しているかどうか追跡不明でわからないが、記憶上煩わしい.陰謀力で自己欺瞞をすでに理解していて行使したか?、あるいは権威主義だが低劣権威の発揮だったとか.離散単体にXXホルモン力が柔軟のスキル知性を与えた?
無理解ゆえの甘えと将来理解可能性を持って要るという猶予ゆえにどうも忍耐をしてしまうが、一生無理解のままだとすると将来性なんぞはないという、またそんな存在は積極的自由者なので、消極的自由な時間を延ばしたところで困った事態でしかない.単純化に引き戻したがる低精神年齢者達
総じてやや無価値な存在が優越感のためにカーニバル・価値倒錯を用いるということがある.でもそれらはでたらめで秩序の圧力がその後かかっていないか?、その後の検証をしていないので不分明、まあ価値倒錯に気が付かないようであるままくたばったのもいるな.無理解のママは不快だがしょうがないね.
今は気が付いているいまだにしつこいでたらめ理不尽倒錯をなぜその存在達はしたのか?と、無知である点がひとつ、精神年齢が低いことが一つ、何らかのコンプレックス保持者か、ルサンチマン現象かとか考え着くが、意味なき無駄なのでそれは価値倒錯であるという認識視点を育むべきと当然そうなる.
バフチンのカーニバルはまあ最近知ったところだが、昔からの不快な言明で悩んでいる除去できかねる他者達の言葉は一様的には、カーニバルにおける価値倒錯的なものであるということができ、それに倒錯はないという擁護をした・まさかの倒錯とはその直面時間では考えなかったためだが、いまだにしつこい
相転移は脊髄反射と理性反応の壁では?
共和国と名の着く国はハードボイルドもちろんで、下剋上のオンパレードのイメージがある.政権転覆など日常茶飯事はいいすぎだが、まずそんなイメージである.
順調な時には結論が出ないで、出たときには情況・環界が変化しているというちぐはぐばかり行っている.現実のスムーズにさせない何らかの足を引っ張る圧力が作用してしまう・そのようなものに遭遇してしまうという無駄ばかり行う羽目になる.個人的自覚では悩み・特にペーソス的なものは何かの間違いと
中学生の時にどこからともなく真夏の夜の夢という言葉が寄ってきた、夏の夜は蒸し暑くてかなわんと思ったものだ.確かシェイクスピアにあったはずで、メンデルゾーンの有名な曲は散歩曲に導入しているが、かような世界事象があったことはその時には知らなかった.とにかく蒸し暑さは妄想・妄念的だ.
向こう数年間おとなしくしていたいな、個人的にはそうもいかない頭脳が作用するかな、とりあえず来年になってみてだ.本来は全く違う意図なのになんだが逆になってしまう.最大値の原理も顔を出すが双対もしつこく絡まるものである.
正規分布の領域は想定より少ないとかの文章を見た、いつの文章だったかチェック忘れたがそんな認識を持った人物がすでにいることは悪いことではない.フェルミ型人間は単体・モナドや素数的色彩を覚えるが、ホワイトヘッドは関係なく有機的でないとで、反交換は好まない.素数展開は眺めることは眺める
最大値の原理はいろんなところで顔を出す、とりあえずその多くは不都合であるように、ゆえに疲れまくる.?!-顔を出すはNo.3にある文章だが...
時間があればの類体は非可換とは想定していなかった.時はすでに非可換だったのだが(銅鐸は類似させるなら正規分布的明らかだろう).頭痛くないスマートな柔軟性が類体のイメージだった頃のことで、それは今でも相変わらずの素敵な女性というわけだ.
boron・ボロン鋼を全く知らなかった.しかもボロンの焼き入れ効果は1930年代に知られていたとは.ホウ素の同位体素となると、アモルファスの小学生はホウ素だったことを何年も後から発見する事に.中学生の時に液晶を考えるのはまだ早いと思ってしまったのはなぜか?・今ではうやむやに・・
フェムト・アト→ゼプト・ヨクトとか考えないとすでにの状況になってきたような、フェムタートもはや現実化?で、ゼプ話としないと、まさかの話などでは全くない近未来にそうなるはずで.ゼプの話とは何?-アボガドロの話ということか・化学が変わるかも・そうなると錬金術で悩んだ小学生も意味がある
演技的性格者は捏造やでっち上げをする可能性が高いと思いつく.普通の人にとっては冗談や遊戯的な意味な事柄を、真面目に自然に行うという可能性を
しかしだ漸くにして地平線の構築ができた.不本意な表現は不本意であってそれは意図外で意味なき冗句・遊戯的なものだが、それが真実だと思う存在が多くいすぎたような、なぜ不本意など認めるわけがないことを人々は理解しなかったのだろうと今にして思っても意味はないが、つまり不本意とは意味がない
ことごとくやる気の邪魔をしてきたXXたちというなんと予定外かつ無駄な時間を過ごさせて・・すべての責任はこの意図の邪魔をしたXXたちにある・おっとXYたちもいて責任はそれらにあるとしてよいだろう.しかしこれが他者に理解されるとは思えないかも、現象判断で煩わしく思いそうで.
ABC予想論において入れ子間を自由に動けるもの-睡眠時のであるが生きている意識とか、リアルな物象と直接しているが時空の記憶があるやはり生きていることという現実意識がそれかな.
存在論的ありように組み込まれていてそこから立ち上がってくるその領域を表現しかねるものであろうと、それは体制的だろうと反体制的だろうとそうでなかろうとすべてに通用する考えではないか、自由な意志が絶対的なものするときに、立ち上がっている自由な意志はないのかとも考えるが.
別に作家ばかりが悩むのではない、それぞれの立場・多様な仕事上それなりの苦悩を経た人をどうも評価する.
共感能力はわかる、EQ指数というやつだから、今まではいわゆる身体障碍者と言われていた存在はその立場上悩み多く、苦悩度を評価できるくらいに思っていたのだがどうも違うな、悩めない障碍者もやはり多くいると、中間存在が悩めないように.
自己主体を出さないで保存しているとそれを他者が自己の思考だと思い込んで当人に述べてくるという、当人への無理解と無視とその他者の無自覚・無知と認識能力の低さなど(当人には愚劣で無駄で馬鹿らしくなぜこんな理不尽極まりない認知言明をするのかさっぱりわからず-世の中に実際に馬鹿がいる?)
正規分布がそのままの時代と異なって複雑系が表面に出てきていると、その時間に老境も接触しなければならず、あるルポライターの書物を目にして面白すぎるのと役に立つ実質・ミクロ現象内容である.一様視点を設けるとすれば老人たちの現象は複雑系ゆえにと表現できる.
丈高しが虚無に流れて幸福な味わいという風情
ランドールはT大で来日して講演なんぞをしたんだ.RS理論のあらましがわかった.ダークディスクに直交振動する地球ゆえに異変・恐竜絶滅とかが発生したという考えとダーク粒子は影響を及ぼすとか、なんとか考え出すものである.やはりブライトマンと同じようにわかりそうでわからない好感性の女性
意図がなぜか境界情況に達してしまう、中間的現実に遭遇すということが繰り返し起きると不快になる・そもそも境界域に達すること自体が不快なのに輪をかける形に.なんなんだ経済は中間存在的なのか、いや積極的時間である場合の経済が中間的なのかも.
そのあるXXを対象とすることはそのあるXXに直接言えと、別に言うなとは全く述べていず、常識を悪戯に乱されると余計に変に誤解が増えてしまうという無知にの甘えなる無責任依存症候群者達.
人々の誤解しまくっているあるXXはなぜ認識されないのか・その点が不思議である.認識するどころかそのXXではないのにそのXXだと思い込んでしまう人々の認識能力・認知能力は一体何なのだ??.無責任なでたらめを気が付かずにまともに相手にしたためいつまでも不快が付きまとう記憶を持つ羽目に
権力志向者あるいは権威主義的によくヒステリーという窮鼠猫を噛んだような理不尽的な不快な反応を受けて、思考力が乱れる.全く要らざるすぎる反応など困ったものだ.思考発展に別に何の役にもたたない権力志向形態.最も日本は格差社会である前に階級社会であるらしく、そんな存在が多く疲れると.
そうするとあの市民の希望という明るさの空間に付随してしまう暗黒域はタナトス・人の寿命ということになる.市場原理経済にもタナトス域は付随しているということは、考慮に生理の有限時間を与えないといけないことになると、悩んだ市場原理から暗黒域ヘ進めなかった年前、弁証融合的に現象学的に
いつも思う誰でもそのタイプ・タナトス体人間の無機的硬さという思考マヒする単純さ.死神とかの歴史上に説話はある、鎌を持った魔女とか他、ゾンビやホラー映画はタナトス範疇に入るものとなりて..
例のパターンでもないか、小学生の時に悩んだままどうにもならなかった権力的色彩の硬さはタナトス的と言えそうだ.定義も似てはいる明晰さもそうであるが.
貨幣的に0:80で分かれて、その80がまた0:80で分かれて、その80が0:80でまた分かれて--そうであったこの説明なら納得がいくかな、機会の平等といってもパレート最適を、ジップの経験則に対しての見解を述べないとどうかと思う.
ある店で短くも燃えの楽章を聴いていたら、その屋内の制約感ゆえかとても良く聴こえた.これはNo.0のレベルにあると認定してもよいかなと.普段聞いている限りではそんなことは思わずまあ聞いても悪くない曲であるのと飽きない点が良いが、環境によって優れすぎるほどになるとはさすがの1番
運命の第二楽章は慰安になることを発見した.確かにあの夏の日は思考の戦いの後の散歩時にイメージが良く合ったことから意識しているが、今更に5番に関しては慰めの曲である.または武士道とは死ぬことと見つけたりが合うかもとも思ったが違うか・・・
マートンのノルムは当然当たり前で、そこにザイマンの戦争論的弱点主義があるがそれも現象的現実的に言えるだろうが、それがどうしたとごく普通の当たり前のことだろう.この限りでは現象学的根源がそうしてそのパラダイムが--相変わらず無いままに人々は現実をその日を競争をしながら生きている.
脳幹の太さは短絡と積極的自由を想起させ、脊髄反射的な様相も思い出させる
散歩中に聞くのにどれを選ぼうかと迷う1番、パーシーフェイスのムーランルージュは哀しい曲調だ、まああまり・・、その昔従姉と新宿などをデート(?)中に、ロートレックを好きだろうと言われて閉口したことがある.ロートレックには興味なく、従姉はロートレック好みかも
損益分岐点の心理面---こんな考えを浮かべたので中間存在は積極的自由しかままできず、消極的自由ができかねると思いつくと、親の子供成長という消極的時間に対して、虐待なる現象も発生する要因のうちの一つとか、共和国一般は積極的自由主にの国であるとか・を思いつく.
森羅万象と同体化しているとあるがままになると納得したのではなかったかな.第二楽章前文では、『森羅万象は判明している』としてある.前文で急にヘーゲルが浮かんだが、哲学も意味しているが作品なので.
なんだかんだでドン・キホーテなる店に行ってショッピングをしてしまった.ある女がドン・キホーテと叫んでまずい誤解を受けてしまった記憶に悩んだ時間が大きすぎて.ある男に対してドン・キホーテじゃないんかと思ったことを、あたかもその男であるかのように述べる例の逆・主体疎外&阻害パターンで
ちなみにロメロのアルハンブラ・ヨーヨーマのアンダンテ・ミルズの詩人と私・キュヒの森に夢見る…モーリアの蒼いノクターン・ベートーベンのシレンシオなど、散歩中に良く聴く気に入り曲
科学に哲学があるとすればまさかの思いもよらなかったが、認識論がそれに当てはまってくると見えてきている
ざっとポパーの科学論は第二法則的な言明と見た.単純にエントロピー増大に則って表現しているだけなんだが、反証がよくわからない.弁証法の否定意識からきているか、集合論の補集合か
普通には規則に従う人々80%・従わない人々0%と区分できて、従わない0%と規則を作る0%は比率が同じことになる.ここに社会の煩悶の生じる起因があると、パレート最適観点からいえることと考えた.
社会一般を見ていると人々は規則に忠実なのである.そんなに規則を理解している優秀な存在が多いはずはないと思っていてこの理由は何かと考えると、0%が法律を規則を作り、80%の社会の人々はその規則に忠実に従っているだけという帰結を思った.そうでないと説明がつかぬ.
どうも人は個人存在のみでパレートの法則を持っているという考えに行き着いている.多くはその領域全体を示してパレート最適を当てはめた形だが、それなら個的にも当てはまるはずであると.
普通の人間である場合まことにくだらない・くだらなすぎる人間であるのだが、くだらなすぎるのでくだらない存在であることに気が付くことができないというばかばかしさがある.親鸞は親切で、いわんや悪人おやと救済意識を与えてはいるこのくだらなすぎる人間たちに対しても.
身体を持っている以上この乖離感覚・精髄反射から人は逃れられない.
唯物的観念的・パンのみに生きるか=唯物的・神の口から出ることば=観念・精神的であるかだが、脊髄反射と理性判断の乖離感覚からは、どうにもならない.どうにもならないが衝動が区別・判断を行う人間身体になっている場合は唯物的であることは間違いない.
というか、その現実者が理解していてくれるべき筈というのが正解なんだが、いまだに理解してないかも.そんな人物ばかりで困っている・無駄ばかりするはめになっているということ.
脊髄反射を理性的に判断することには乖離をかんじたことがあった.これは何だなぜこのような位相に変転してしまったのかといった思いで、これを自分が対象となっているから不快なのである.すでに体験了解済みをすっかり忘れていて、現実際に遭遇してむちゃくちゃ乱れてしまった
0と1には確率は存在しない、0と1を無と全と見ることもできる.量子確率は存在するが、量子確率の確率は存在しないという設定である.最も0と1の間でさ迷う存在の確率も存在しない.
個体自身が持っている位置エネルギーと運動エネルギーがある..盲点の社会生活・共同性であった.
科学・もっぱら自然科学を示す、その基底である.--それはいいがそれからさっぱり進まない、科学哲学なるものがあることも不思議には思える科学に対する意識を持っている..哲学があるとすれば帰納的と演繹面の融合したもの・妥協したものは即物現実的とか考えてみるが.
あまりにも下らい・愚劣すぎるXXに位相を合わせる・反位相的な冗談・不本意をしたらそれが現実になってしまうという二重・存在論的くだらなさ.一回限りのその場でしかないはずの意図・予定のものが、その不本意・愚劣さを携えていつまでも持続するという意図反対現実に強烈な束縛を覚えていることに
演技的性格者を帰納面から追うと、真実に対して・その無責任的位相ゆえにミルグラム実験のアイヒマン側に位置することになる.ちなみに偽善もそこには善に対して無責任があるので、やはり善人に対してアイヒマン側に位置することになる.この世の中・現実には残酷シーンがランダムに発生する与件がある
マルクス・エンゲルスの共産社会成立の世界の先には、どうも観念的事象しか残っていないとしか考えられず、その後を述べていないのは唯物の不成立を見たからではないのか?、人間がカルマを持たない状況は、聖人のみか悟り者のみの世界でしか想定できず.
実際にパレート最適はあり得ない、机上や法律・規則上ではあるだろう、なぜなら普通に他者に迷惑をかけない人間などカルマ的生活者にありえないからである.
信頼度確率はワイブルに従うことは確かだろう.いわゆるベル・カーブより先に・短い時間で頂点が来るというのはやりにくいなと思っている.社会の人々の行動を見ていると、どうも脊髄反射的側面が多大にあると思え、この信頼度と脊髄反射行動は結びつくように思えるが、定かではない.
人はパンのみに生きる-マルクスは人間は自然的存在ばかりでなく人間的存在でもあると述べているが、唯物論が科学だろうと実践的弁証法だろうと、明らかにパンのみに生きるを優位に置いた考え方ではないかと思いつく.飛躍して、成立した共産社会のその後を述べないのは無責任とも考えた.
神はそのような自己保存できる傲慢・倨傲存在を好み、そのような存在がむしろ天国に行くという理不尽と思える考えをよく見る.ヨブをむしろ神は悪魔を派遣したりしないで素直に好めばよいではないか、ここには横暴な宗教権力という存在を考えざるを得ない.神もさぼって単細胞的人間を好むという愚劣さ
権力志向型人間に責任意識をと言っても単細胞的責任しか取れない懸念があるので逡巡するところである.バイタリティがあるのだから複雑細胞的責任意識を持ってもと思うが、それほど精神年齢が進むわけではなく、暴力的な凶暴処理しかできないのでどうしたものかということ、その存在自体がまずい結論に
弁証法的を考えると有機物の発生自体は止揚で、無機物と有機物の止揚が人間に心を齎していると考えることは唯物史観者も否定しないだろうと思うが..
歴史の意味があるから、小学生の時からどうしても設定せざるを得ない『奇妙な保管場所』と敢えた表現をしているものところに関係してくることは明らか.
となるとハイティーンの時の市民は希望だけれど、暗黒域が付きまとい消えないというのは、埋没になるとする.そうするとここに現在同時の場合は現実がそこに存在しているということで、埋没はタイムラグを予期させるから当然歴史事実が頭を擡げてくる.ここに歴史の意味がある...
叙事的人間には一生抒情性が無理だから叙事的XX&XYに関してそれだけなんだが、叙事的なXX&XYは抒情を持てないので、異性に関して専制的なのが普通と思っているようで、束縛をする自由の邪魔ばかりにしかならないが、少しは抒情性のなさを自覚はしているかもしれない.
市場原理で明示空間のみで成立するようにしか考えられないが、深淵領域が隣にあってこの関係を全くどうすることもできずに年、たった今憲法法律なる文面を見ていて、埋没費用というアイデアが閃いた.埋没費用ならばなんとか深淵に組み込めることも間違いはないなとは思うが、現象的な事象だけ
個別にその存在のみに対しての損失・無駄・意味なき遊戯的なものなのに、他者が絡んできて延々自己対象となるような位相を受ける、全く不快なことで敷衍する意図はないのに、逆を行使してくるという個人的にも社会的にも損失なことを人々はなぜ行使するのか、非建設的能力が豊かなのだろう.
帰納は結論を出さないといった説得力を感じた米国人が誰だったか見つからない、これから導けるのは、帰納的人間は無責任的存在が明瞭であることになる.これに続いて無責任を前提としている演技的性格者も帰納的存在に近くなる.
ヘーゲルとマルクスの弁証法位置づけ差異は別にして、対立構造を自然に持っているのなら、秩序に反逆することは秩序に対立することであるから弁証法的に当たり前にもなる.弁証法教条主義とか、弁証法はなぜ発生したのかの論を見ていないかも、発生するべくしての理屈だけかな?
思想にとって弁証法とは何かというタイトルものがよかったのかも.弁証論序説とか、有機体は何らかの無機物と無機物の止揚として今日存在しているともいえて、無機物の疎外としてとはタナトス結果論を引用している.
非線形形式はどうも例として浮かぶペンローズのループに刺激を受けているか、パーコレーションとなった電子すら非線形的挙動・散乱し過ぎであるが.電子それ以前でも無限小までは行かずの何らかの中途からの想定でしかないはずで.
ある人物いわく、結局子供に裏切られて死んでいく-よくある普通のことで認識的に本質的だなと感じたものだが、どうも弁証法展開の否定的なままということになるなと.でこの人物の関係は唯物的というより身体的弁証法な色彩のものとドグマ的な位相と見た.ドグマは他者に理不尽を与える事がある
で形式だが、最近非線形形式という視点を考え付いている.線形化という単純さ・それを余儀なくせざるを得ないシステム・システム化だったが、それで対処できないケース過多の日々・時代には考えるのもよろしいのではと、漠然とだがやはり非線形でもとりあえず有限要素として非線形要素設定とおぼろに
皇太子が天皇になればハーバードの香り云々をまあ大体言えなくなりそうで、マスコミされていた心理面での葛藤は消えていく形になりそうと考える.名実の位相から逃れることはできないので、自然にそうなるだろう.--むしろ役に立つこともある可能性もあるか、対外的には.少し皇室がやはり変化しそう
リアリズムの限界かな?、リアルの限界は物事に決定的な面を設けるのは自然かつ必然とか.でもそれは自然に普通に必然的自由で成立しすぎている普通に個々の生き方なのだが.
この体力の限界をさてどのように表現すべきか.女性の場合は特にこの意識が強いと思え、それで嘘ばっかりとか述べるわけだ.特に欲望型ありありのXXはだ.そういえば今ではそれゆえの精神的存在力を優位にしている.どうも体力的限界と精神的自由の関係から、人は生理的限界を持っているが肝心かも
ベートーベンのロマンス50はどうも悲しすぎる、ロマンスではない、よく言えば失恋の癒しの様である.シューベルトのセレナーデも悲劇的過ぎてセレナーデにはなっていない.ダメなんだ史実が伝えるところにおけるその生存過程の異性意識動向から、やはりロマンスやセレナーデものを描いたところで
条件反射は海馬使用を用いないケースが多いと見えることは、海馬使用者に対して蹂躙的な位相を持ちやすいと同時に原始的時間への巻き込みをするために、演技の快感により原始時間のカムフラージュをするという複合があると分析.
意識で不明な対象と感覚的に不明な対象を区別しないとにオリンピックに刺激を受けつつ気が付いた形
叙事的権力志向の不快な存在が頭脳視野にいて不快で、時たま昔のしつこい記憶者が常にだな割り込み邪魔をしているので、不快ツイートが出る.なぜか嫌いで避けようとしているのに割り込んでくる嫌な傾向の存在者達であるのはなぜなのか、無茶苦茶な感情無視の動物的弱肉強食の非人間的しかできない存在
オールトの雲からの隕石や銀河を揺動する太陽系か、人は考えるものだ.銀河回転と太陽の位置と地球に及ぼす熱の関連が知りたいところ、その辺で縄文の海進や北極海の氷の量とかやや説明できると思うのだが.
仮象夢像はいい線である、思考構造は現宇宙現象学的かな-ランドール
迷える子羊・現代宇宙物理理論学者達、
身体をシンプ・精神をウィンプとする類似を考えてしまう.ランドールは面白い.なんというか刺激剤なんだがダークマター、ランドールは夢を見すぎているがガウス的面のみには正解といえるかな.
シンプ・矮小銀河の朦朧体は絵画的には悪くない.
”ダークマターが母親、世界を作った助けてくれた”(これが何でもない普通の教養になっている時間とは、空白時間はまずかったか)この考えはまず正解で、人間は単純に陋劣ではないことの証明であるとは思う.
琉球政府の暗部はほかに何があるのだろう、権力に暗部はつきものとは素直に了解できるが、明示空間の市民存在に暗部が付いているのはなぜか?
イゾラドは推定500人くらいだとか、ヤノマミ他など、まもなく地上から完全な周辺地域がなくなりそうだ、その時人類史上のエポックは成立するだろうか、多様な文化時間差異のまま変転して行きそうでもある.
燈火
@lakudya とても昔からあるのには驚きますね。そう考えると沖縄の独立運動は欧米勢力は確実に絡んでいると思います。やり方が英仏がやっているのと似ていますからね。 だから「中国がー」は罠でしょうね。もちろん関与はしていますが、欧米も一緒に叩く必要はあると思います。
1 month in reply to lakudya
国民主権に関しては、公務員が国民のしもべ意識を持たない限り、公務員は国民の権威であると思っている限り、国民の主権は形式・建前・対外的なものにしかなりえない.
もうあまり聞くこともないだろう「恋は水色」を聞いたらさすがに、古の想い出がよみがえる.月の大雪の後に一人奥秩父十文字峠に行こうなどと無謀なことを実行して、結局一夜のビバークの後の正午時に諦めて、雪の上に寝転んで休んでいるこの気分は恋は水色がよく似合うのも鳥栖彼女故だったかな?
朝の鳥栖駅のホームでいろいろな心理の錯綜故に糸が切れたままになってしまったが、列車を降りて人で歩く駅のホームのイメージはさすがにNo.0のさわやかさが思い出される.
割り込み当然とするのは何なんだ、三角関係なる疲労をなぜしなければならないのか、そのような人は関係に関してそのような関係でないと依存をできずに確信的なものを持ちえないからだろう.所詮は持ちえない存在で悪あがきにしかならないのではないか、いずれにしても乱暴な疲れる欠如関係者たちだろう
ポールモーリアもさすがに遠い昔になりゆく・・・、恋は水色はは途中で切断してしまったにもかかわらず相変わらずの想起である.一様関数は?の問いは愚問で発散するは明らかだが、ケースがある場合は前提がそもそも特殊になっているだろう.一様関数は結局成立せずの割り込み邪魔が入った鳥栖駅で..
判例法は帰納的、制定法は演繹的と哲学論理的に判断できるが、米国学者がパリに行って抗議して多少の戸惑いを覚えるという、いまだにある事実はいかがなものかと思う.完璧心理が齎すものはどうも明らかに帰納的と言える判例領域になるな.帰納が演繹を曖昧にするした経験があり困ってしまう目白駅歩き
レヴィナスは誰か芸術家に知り合いはいなかったのか?、いささかげんなりしてきたな.
人が嫌がっているのを嫌な対象は全く気にしないか好まれていると勘違いをなぜかよくされるのはなぜだろう?、あまのじゃくたちなのか?.人の親切心を利用しているだけの悪徳者達か、親切心を愛情と思っているかも、その場合別に特定の人に親切なのではない.むしろ嫌なのに親切にせねばと韜晦強く困惑
実存もその本質が本質以前なので不快でしょうがない、人々は勝手に実存を要求してくるし、まあカルマは実存的豊かではある.帰納も確信の邪魔をして不安定をもたらすことでもあるし、演繹かつ本質的人間もいるのである.カフカはふとなんという無駄な作品を描いたのだろうと最近思うことがある.
真理は単純である、真理のシンプルさに到達するまでに無数の葛藤があるというパーコレーション理論を用いるべきかと思う.そうなると単純にα空間・歴史の流れに従って生きるだけという形になるだけになってしまうので、少し位相を考えるだろう、そのように認識できる人は.
実存の暗さと明るさ、市場原理を考えたときに明るさの部位でしか思考ができす、くらい深淵がすぐ隣に十分な領域を持っているのに、どうしても使えず何とも頭が動かない.陰陽も普通には暗さと明るさを連想させる・ここからだと地球の自転による昼と夜になってしまうが
パスカルがどうかしたのかニーチェによると?、実存の無神論者という設定の合理化のために発狂とは、89年のコジマへの手紙はカルト的すぎる.まあそう思うくらいの想像思考をしたともいえるが.ニーチェは実存主義者だったのか、実存には暗さと明るさがあるのはわかっている.
直感が気楽にコルニュをなんだが、無限小と斜交方向性をシンプレクティックをこじつけてとかも考えることができるな.まあ作品内容具体的ミクロ感表現だが.
困ったコルニュの螺旋、超多時間の壁がもう一方の螺旋を結び付けてと、有限なので繰りこみをマスターしているとか理屈を考えるが、有限は中間的・・だが待てよ、消失点は中間を超えて無限小に向かっているではないか・・・No.th
レオノーレ序曲にイメージしていたXXがいた、中間存在というか中学生の時に非常に苦痛を感じた苦い思い出を思い出して、その時の対象は男だったので、XXの場合は異なるかとはその時には考えなかった.帰納ではなく演繹、最初にロゴスありきで、先に思考が成立しないと行動は伴わないという演繹
踏襲人間は秩序的で、秩序といえば六法全書か判例集以上のものを秩序的人間は考えないはずである.考えれば少なくとも現在時間の秩序にそぐわないからである.なまじそんな人間も喜怒哀楽を持っていて煩わしいので、六法全書でも見ている方が煩わしくなくて済むという方策もある.
しかし天邪鬼たちは全く逆な態度をとったものである.別に無駄や問題は十分自分で作りや発見をしているので、他人から弁証法的対立など余計なものでしかなく、また嫌悪を強調させないでもらいたいものである.嫌な存在で邪魔で厄介な荷物で関わりたくないという存在に限って干渉してくるという愚劣さ
ガス灯-バーグマンではこの映画がカサブランカより気になる.ガスライティングを受けすぎている結果、ツイートに愚痴が出る.主体を取り戻そうとしてだが、 それにしても無知をいいことに人々は迷惑な主体疎外を強制してくるものだ.少し考えればわかることなのに、主体疎外なんぞを要求する筈がない
恥知らずというかそのプライド自体の価値が低いことを認めようとはまあ普通の人はしないが、分別あるならば低いものは低いと了解できるはずである.
徒労に呪われているとは若き義務教育時代の付近からそうてしていたことだが、個人的判断によるものならいいが、他者から最もおよそ徒労は他者から受けやすいもので、徒労を受けるその他者の存在価値は低いもの・その強度により低すぎるものと思うことに最近はしている.
役に立つセリフならいいんだが、これら啓蒙専制バカたちは、役に立つ・価値あるセリフと思い込んでいるようで、まだそれだけならいいが、でたらめ・理不尽を述べてくるのもいたから困ったもので、足を引っ張られてばかりとなり、散々な目にあった始末となっている.
思い出してみると、荀子的な知識者たちが啓蒙意識なのかその知識力開陳で邪魔ばかりしてきたな.うぬぼれに思えるが、伝統的システム順守における知識獲得意識がそうさせるだけで、新たな視点構築意識はない評論家意識にしかなっていないので邪魔というしかないのである.
昔ニーチェを読むといいですよといった男がいて余計なお世話の邪魔なセリフとして覚えているが、アポロン的ディオニソス的はよく知っていたので余計に不快に思ったか、また真昼の太陽もある街で味わっているのに、余計なセリフを述べてくる人材達は全く、人の認知能力を侮辱しすぎのうぬぼれ陋劣者達だ
後ろを振り返るなは伊弉諾伊弉冉神話に後ろを振り返るなが確かあったような、ソドムとゴモラの話で個人的には記憶していたが、確かさを確認ししてはいない.
01年度アバランチ的に女性登場となるとNo.5的であるのも確かな現象と考察できる..
不可能に対して不可抗力.st
クレイダーマンの渚のアデリーヌを聞くと、夏の早朝湘南の他に人のいない浜辺で水と戯れている乙女をそばで見ている気分になる.蒼いノクターンは高層階のレストランで夜景を見ている変奏の似合う女性をやはりそばで見ている気分を描く.
身体的即物的には物価を下げるや消費税を下げるはエントロピー的で、そうするとGDPが一定線であまり変化しないと、相対的に成長したと錯覚を時間することだろう.エントロピー的とは希薄に成長するということで、個体的よりより液体的に液体的よりより気体的に成長するということでGDPを上げる-
積極的自由処理をしないといけない政治要請もあるが、人々は目の前進歩・実感・若さのポテンシャルに食いつきたくなる傾向が当然の如く普通にしてあるので、ここにエントロピー要素を入れるのは難しいだろうが、現実はそれを要請している.
仮に歌会始の歌を万葉的に編集すると雑歌に含まれることになるのでは?、歌会始の精神は戯れてはいないと思えるが、時を経ても位相上の位置づけは同じようなものであろう.もっとも平安時代に天皇家付近で慰安的な歌会があったのかもしれない・そうなると時代区分をつけねばならないが、戯れ歌は不快
茜さす紫野をとその返歌であるとしている歌が雑歌にあることから、宴会でのざれ歌にしたという解釈、天皇家系の歌は恋歌・挽歌以外雑歌にあるということで、万葉集の編者もいささか区分に無理があるなとは思う.戯れ歌という表現が気に食わないのかも、茜さす紫野は戯れにしては洒落すぎている.
複雑な現象の重なりを一瞬でとらえようとするとさすがに無理で錯乱気味になってしまう、人々のよくやるようにそのような対象は排除して・あることを否定して・あるとも考えずに・あったとしても他者に任せて・自己が関与しても依存を活用してとかするという態度もある.ゆとりといえばゆとりであるな.
なぜ剽窃に気が付かない人や対象ではないという誤解などを形成してしまう人間が多いのだろう.日本的集産主義と個人的主体的の欠如によることはわかっているが、あまりにも滅茶苦茶なでたらめを受けているかな.ひとが忍耐しているとそこには無責任の自由があってその誘惑に負けて侵入したがる人が多い
著作人格権・思考内容脳内保存中のものには人格権は成立しないとはいうものの、プレ侵害的なものを受けて逆に人格権の移動のようなことは全く不快である.自虐する優越感という自己道化化という単なるふざけがしつこく悩ますという事態に直面しすぎ.しかし今も影が自己主体発揮の邪魔をしている..
なんか言いたい事をツイートし終わったという気分である.ネットリンクの処理が全く終わっていないのに、パス的に終了か?、どうもそういうことになってしまいこれはどんな現象なのかと不思議な想いにもとらわれるが、実際にそんな気分になっている.ツイッターを止めるつもりは全くないが
先取りした心理がいざ現実になるとあたかもやはり先取りは現実にかなわないという形になってしまうが、現実者が先取り事態を考慮しない・考慮できない頭脳の持ち主のようである.考慮で来たらよかったのだが..
ユーモア・機知で場の展開をするのはいいが、してほしくないときにそれが発生するのは強制となり不快なものだ.人の思惑気分などを加味しないようにTVなどで感じるが、その場では楽しいことなのか、あるいはブラックユーモア・ブラック機知を狙ったタナトス不快的な面もあるのではないか.
バウンス論で量子が寄与したというありそうな希望的見解を述べたチームがいたが、ヒッグス時に量子はなかったのではないか?、後からのこじ付け的に思えないこともない.一番のバウンス寄与はダークマターに他ならないだろうに.そもそもダークマター自体が不明だから、物理学者何も言えんと.
あるXXを悪魔のような奴だと頭の中で思考したまま保存していると、他者から悪魔のような男だと思われる可能性が従来の様々な経験遭遇上から判断できることに気が付いた.そう思われているかも、とにかく無知な認識能力者に誤解やでっち上げ歪みを想定されすぎて、困っているもので.
平田篤胤にとって本居宣長は特別な存在だったのかもしれないが、他の多くの人は本居宣長ではないはずなので、魂に差異があることを思わせる縦型構造思考が伺われる.そうはいっても始まらないが・・・
まったく知らずの政治内実状況だったが、考えられなかったがいくらか考えが進んだ..さてである、TLで見かけたカルト教とかでアジテート的感情反意でなく考えが必要かと思う、宗教の特徴は瞑想と流血と殉教であるので、そのうちの一つが強意になると、偏向的になるのは否めないところがカルトと?
一概な単細胞的ではなく、多様なケースにおいて多様な対処意識を持つのは普通だろう、むろん一様性・射影頼みのみ人間は不快ではあるが、などは単純であるはずなのに、種々の見解からこじれてきているな.もっともの原因は演技型の陰謀強要自然当然意識がそれ、非常識ということが不明な無自覚陰謀型
なんでも推定疎外感を受けているようで、好奇心で存在理由を考えると勘違いされてしまうことが常にである.別に趣味でないスタイルセンスは嫌いなんだが、つまり実験の結果が明らかにこのように生じているのに、その説明が理論的にできないというケースである.他人には理解できてもどうにもわからない
アーレントに普通の悪の凡庸さ特筆があるが、極端・過剰な依存性を凡庸な人でも持ちえないか、個人的に始末に悪いのは、他者の思考に過度に依存してその個人自体には魅力ないのに、自己欺瞞持であるところの持ち上げをせざるを得ない補償か複合かという存在.
べつに荀子的性悪人間に教育関係を要請される理屈を持っていず、そんなものはいらない.むしろ性善を性悪とみてしまうその固有性を変えろと言いたいのである.
ニューソートがあり、エマーソンは「個人の無限性」や市民的不服従はソローのだったとかを知ることになった.無限の愛はわからず、愛の無限ならわかるがで、無限の愛は他力的ユートピア的汎神論ではないのか?
荀子的性悪型が性善説型人間を性悪人間と規定しそれに伴う判断言明を行う時、間の抜けた勘違いか、自己投射を行っているかである.自己自然がそうなら他者の自然も他者自然とみるのが普通である.そうしない性悪人間は不当な理不尽を行っているのだが、これに気が付かない性悪が多すぎる嫌いがある
積極的自由の不当な、倫理・節度を欠いた思考が深いと思い込んでいるような存在が浮かばないこともない.倫理・節度を嫌う深い思想とかなんとかの理不尽さ肯定の言い訳のような、原始的存在は倫理・節度意識はどうしても未発達としか考えようがなく、深いというのは時間過去遡及の原始時代のことでは?
小学生の時に姉と行った霧霧藻ヶ峰で見たサルオガセの幽山深谷の雰囲気がいい-渋みのイメージにも似ている.確かここで初めてかなシノブを見た・認知した記憶なんだけれど.霧藻ヶ峰の岩肌になぜ人物像のレリーフがあるのか、そもそもここは一体どこなんだ・地理比較ができなかったのも記憶にある.
XXが反映しても・普通にXXはそうしてしまうものだが、許可していないXXの反映にはほとほと後々のコンディション調整が困難になって困るのである.そもそも必要な考察をした反映ならいいのだが、単純反応など自己反映十分容易なので不必要な代物なのである
しかしどうも人間的に不自由で不快な有限束縛を考えてしまうが、脊髄反射は共通時にもあり、妙な感触の通時のサスペンスも措定せねば、あたりまえのスリルとなっているように見ていたが、リアルより間接的にで.数がどうも多い圧力がある.普通に仏教などで悟りのできる人間は数少なく、人々はそれ以下
XXに限らずXYも.人のふんどしで相撲を取っている・しかもその持ち主の当人を前にして堂々と語るために、持ち主の当人を他人に措定するという非常に当人にとっては迷惑な存在たちXYが不快で、この気分の悪さの除去が必要と何十回となくツイートしているのは、不快の除去がまだできないためである
いろいろ話を聞いていると、どうも縄文の伝統故という考えが浮かんだ.
人間の身体構造は医学的に明らかに複雑だが、その身体構造をもってしても単純な線形思考とその逸脱しか持っていない人間存在の多さを想定できる.実験結果に理論が追いつかいように、現実事象も単純化してしまえばの観点はあるが、難しい局面があるはずである.そこに単純頭脳がぶつかると理不尽などが
が方法論的に当事者同士で話をしていても埒が明かないのでその元と話をするという考え方はある.事象の周辺をさまよっているより本質を先に獲得するという方策は有用である.
経験--そうか英国のEU離脱は、大陸と判例の考え方・哲学の違いがあるな、演繹的な大陸EUと英国の帰納式コモン・ローの哲学的違いが.
弁証法でも二大政党制でもなんでも『交替』という考え方は否定していない・取り入れているので、とりあえずは交替なんだが、ある国のある時期疲れた?政権が交替した時が一度あった・・・
「他人の金で政策を行うものが善政をするはずがない」という欲望的存在前提確信的な発言を知った.他人が作った法律・規則を遵守する人間もそのようなことが言えて、大なり小なりアイヒマン現象のグレードを持っているとみる.実際に横暴な権力者権威主義者がいるだろう.作成する人間はどうかな?
今でもよく覚えているある祭り的な事象の場で、道長を浮かべた小学5年生、ただしその時に九州の方に島流しにあった信西だったか鎮西だったかあいまいな人物も浮かべたのであるなぜか..島流しにあったのは信西ではないまた時代が違った.鎮西八郎も道長より100年後以上の存在ではないか・・時間が
さすがにハイデッガーも存在と時間は未完に終わっている.根源論が展開できなかったからだろうと推定-超越壁からの戻りで、それは昔からわかっていたが何十年たっても進展しない.レヴィナスがわかりづらいのは根源に抵触しているからだが、全体論にしかできなかったという、やはり超越が難点
シュペルヴィエルの名を久方に見て、ネルヴァルを思い出す.カバラやヨハネ黙示録も登場とはやはり身体を使った詩人といえば、ロートレアモン・ランボーよりネルヴァルだろうと思う.蒸し暑い夏の蒙昧の身体的不調の時に引き寄せた昔の記憶が今やわずかにだがあり..
そのxxはあるXYと一緒にもはやすでになっているのだが むちゃくちゃな過去形蒸し返しを人々はしたものである.そんな態度をとると虚偽で無責任の甘えが成立するからか?、そのときは結構まともな認識・発言で、経緯を知らないXX&XY達はしたものと見えた.不可解.そのxxは排斥したいのに
深淵が介在する乖離はフェルミ存在体感時に思ったこと、この通常と異なるこの世界はいったいなんだ、まったく信じがたく通常に戻せるかと思ったものだ.それがのちに今でも邪魔になっているあるXXの存在実在のそっくりな体感だったとは..
竹取物語を浮かべたのは家の前のまさにちいさな竹林だった、それより49=*をその時に考えたことが不思議である.この数字には何か意味が有りそうだがと、何十年後の今、不意に竹取物語のあらすじを眺めたのは、なぜか・・49のイメージに合う記憶存在がいる、女王としたのはミスあきらか.
Izumo1-Juno複合体が分かりつつあるという時間ーーこの構造がある感情に寄与するとして何十年。今迄よくわからなかったのか、まあ心情としては不明なままが良い方向だが、何らかの病変要請があると致し方ない面もある。
Twitter for iPhone
自己伝記も相当でないと潤色がまざる・告白懺悔は個的にできかねるものだも義務教育時代に意図設定したこと.告白・これはルソーではないかな、アウグスチヌスは別世界的なので.(告白のあらましを見ると別世界でもなかった読み物ではないかと)、Yが転校した頃ウェルギリウスが浮かんだのに13の春
そのころのすったもんだをようやく処理できたかなで、ずっとまずかった時間の修正を追い求めて可能になるか、挑戦は当然するというか、埋めないと気分悪いが埋まるかどうかは難しい.生理の時間は確実に覆水であり..
それにしてもある時ある場所でみた悲しみではなかったのかもの映像が寄与しているか、脱却できず.そのXXはアルファ的には十分・ちょっと信じがたいがそうであることははっきりしている体感があるが、θを意図してしているためこの時の想像イメージにより別のXXに非常に不都合が生じまずい事態に
最後の帰り道で同志社の女子に聞く、ヨット部ある?あると、昔の琵琶湖のヨット話は事実間違いなく、まあ疑いもしなかったが金持ちの話を出されても困った0歳の記憶.いまでもそうだが、その反対でもいいのだったが、今ではプレッシャー大を感じることに、なんというか色々無駄要請の圧力強すぎ
パンのみに生きるにあらずは、身体と心を人間(動物にも子供を守るという考え方?はある)なら双方用いて生きていることで、心が行き詰った時には神の口から出る言葉が有用になるということなので、神の口の言葉は身体は受容できない.身体があるのは当然だが、身体強調の場合はひねくれすぎと思う
関係の本質自体を根源として根源から出る諸々を関係としていると判断、ただ根源自体の証左が観念的なもので出来かねるという視点・観点から、表現できないものとしたと、または認知力限界とも取れないこともないが.根源ではなくて根元ではないだろうなまさか、原点的な意味合いではなかろうとは思う
しかし文章の感じからはYは現存在的でハイデッガーの方が根源的に思える.
根源があるとしてサル型人間が一生懸命玉ねぎの皮をむくように侵入してくる経験がある.インベーダーの頭は一体どのような構造なのか、単純なロボット的なプラマイ的に想定できて、まったくつまらん頭を持っていると、そんなものはどうでもいい単に無駄を要求するだけの馬鹿馬鹿でしかないと思うが
交換と反交換の弁証法的止揚を知らない・考えたくもない.感性が乱れて非常に不便な思いをするだけであり、わざわざ楽しみをなくすような無駄・悩む必要もない.悩みなんぞは自力でいくらでも作れるので他者作用は余計なお世話・負荷でしかあらず.そもそも他者が悩みから逃れようとしているのでは?
忍耐など全くしたくない邪魔な存在であるのは当然で、排除したい存在は明らかなのにこの不愉快すぎる不快な心理事態が気に食わないのである.何か勘違いをされている.反交換は嫌いを好みと受け取るような態度をどうも示してくる.ほぼ経験上は間違いないな、だまっていても反交換者のセリフは好まない
他者に対して自己主体を発揮しているときにその他者が反応しない、しょうがないなと我慢・忍耐をするとそこに同様な反対セリフを逆に突っ込んでくるというばからしさを最近ポアソン的もっと確率が高いか、味わう.思い出すのはYのことで同じような、あるいはドンキホのセリフの弟で、いずれも意図邪魔
今日の若い製作スタッフーの”めぼしいものが出ない”これに尽きるな、確かにそうでありそう思う.この他者女性の反応のセリフでは今年度最高のセリフはまず間違いないな、何しろ生まれる以前の存在からの流れを把握して?、対話の話者に時間を合わせた形か、それでもそのセリフは鮮やかである.
シーシュポスの神話は徒労を意味するのか、馬鹿げていると思いつつしかしなれど個人的には徒労に呪われているとは思っている.実際無駄ばかり要請される・そんなことを思っているから単純頭脳が面白がってしまうことも大いにありそうだな.
ようやく小学生の時のしかしT大を無視できないと思った時のT大のイメージは閉鎖的で複雑さがそこに横切っている像判断とできた.この閉鎖が問題だが優美にとらえると悪くはない.まあ複雑さも問題だが、複雑さはないと困るだろう.
すでに幕は開いているのにわざわざ制約をかけてくる時代の遅さをずっと待って=空白で、今頃自己の諦念使用に気が付いているはずだが・・、その諦念使用ゆえに不快な存在なんだ君は、がしつこく記憶にはある.バカバカしい時間を無駄に、浪費をさせる人間のうちの一人である.徒労に呪われている・・・
グロクえぐいXYなんぞをモデルにしても良識的モデルにはならない、その時だけのはずが、しつこい不細工である理想存在からほど遠いカザノヴァ欲望者など疲れるだけでストレス構築だけと.
えぐいグロテスクな不細工XYにはギリシャの健全なる精神-やキリスト教の理想的男性像の実践・実行が大変なことがわからんようにしか見えないという不快な言明の残っているモデルがいる
ダザイもその辺のところはわかっていて、斜陽のママンの品の良さは演技などする必要のない本物と述べている.いやどれほど上品な存在だったか人それぞれの判断能力・美意識・エートスによって異なるから、実際に遭遇してみないことにはなんともいえん.
日本人は他人に対して優越感を持ちたがる傾向が強い?!、そうかな全然わからないが、思い出した昔は何のこともなくごく自然に、人は優越感によって生きると思っていたことを、ほぼ原理かな・優越原理として.これに関してYが以心伝心的に”優越感ね”と覚えている.それ以上に不快を述べたことも
人はだれでも好き嫌いの感覚を人・動物・植物・物象に対して持っている.これを肯定と否定とすると弁証法と何ぞやになり、唯物弁証法とは心の偏りになっていないかと考えてみた.
人は唯一的かつ超越的存在として内部把持している存在であるか?
叙事の香りから、或る昔から蛇のようにしつこい存在の直感を持っていた存在に対して、偏執的存在と浮かんできた.駆け込み訴えにはその要素があるかな.結局、叙事的な陰謀的色彩イメージがあってロマン性にかける存在なんだと.虚栄心がたっぷりあるようにも見えてきた.
遠アーベルとは発散境界とまずイメージしているが消散するとは限らず、境界分岐があることが答えの出ない不可解さを持っていて、紀伊国屋で内部の声が結論をだせと、明晰信仰主義者がいら立ったのかなぜだろうな?.それほど明晰をしたいのなら到達不能基数を何とかするべきだろうと今考えた・・
またソロで深甚になってきた、そうそうマーラーといえば真摯性のイメージがあったのを思いだした.
単純普通に無限鎖列を構想すると到達不可が出てきて、到達不能とする宇宙が人名などを用いるようなものではなく、普通常識思考域である.グロタンディークの思い上がりか意地かそれとはわからぬ当然の自然なものだったか、おそらくはグロタンディークにとっては自然なものだったろうと推定できる.
宇宙際は遠アーベルということで、グロタンディーク宇宙なるものがあったのを思い出して顰にならったか?.”グロタンディーク宇宙が到達不能基数と同値なため”--つまり無限小の先の無限沈降や超準の超実数の周りに超実数が無数にあるといっても、到達不能基数という中途半端でその先は不明と同じ
必然的偶然か偶然的必然かMahlerを流すのもそんな心情になっているからだと思いつく.悪乗りで3番バーンスタインと行くか.必然的自由には偶然空間の収束であることは昔から設定していたが、ふと偶然的自由も考えねばと別に思わなくてよいか、永遠とか.まあ普通ににはクロノスの深遠がいい
全体主義という言葉はまだ見かけるが、戦前は帝国主義で帝国主義という言葉をここずっと見かけない.確か京大の学者と聞いたが、ボットから政治的な面にはイデオロギーの影があると、イデオロギーという言葉も見かけないがそうかもなと漠然と.平和強調者も何らかの教条的な信念を持っている気がして.
無限小の基数ということ、超準は気楽である.”超実数 x, y に対し x − y が無限小超実数のとき、x と y とは互いに無限に近い”--無限に近いだけで分離はしていない.
交代形式に呪われているとか、これそれも違うとは思うが畢竟フェルミ粒子とボーズ粒子で、厳密には分離は無限沈降になってしまう.どうしても区別することができないということで、途中で諦めるか妥協するかそうしてその先はあいまいな不明となるとしか出来得ず.
サスペンスという境界--の設定をせざるを得ないようだ.どうにも量の圧力がある位相を無視できない形である.
他力はおいどうもエントロピーのことではないかと自我に超自我があるいは自我が自我に自我が超自我に語り掛けるアイデアを浮かべると、そうなるとスピノザの決定論もエントロピーでいいのではないかと、当面現宇宙においてはだと、そうなる.(自我=個人的・超自我=共同的)
そうかあの中学校の校舎の渡り廊下で思った液晶はまだ早いは全くどうでもいいことだった.どうもあるXXの制約が効いているようで、このXXの潜在意識ではろくなアイデアをもたらさない、最も他の女性軍もほとんど同様にそうである故喪あるが、もたらさないどころかそれ以下に制約をかけてくる.
中間存在は自分が中間存在認識しかできないので、そうでない場合の障害になる.また例えば嫉妬心などを持ち出すのも普通である.トライアングル関係で悩まないためには永遠を知ることである.(種々の小説にこの悩みを扱ったものが多すぎるな・・独言)
中間存在が永遠を理解するのは難しいだろう、サスペンスやスリルで日常を生きる面が多いはずである.それゆえに自由を知らないのではという意見が出る、しかもパレート的に80%の人間がこのタイプという信じがたい考えに行き着いてしまうのだが.
俗に?普通に言うホーリートライアングルは字義を考えると神聖的なものではないか、別に永遠の関係だと思っていた.最もソウルタイプの人間は神聖タイプではなく、神聖タイプはスピリチュアルである.思うにソウルタイプは苦悩するが、神聖タイプは悩まないように見える.実際そうだろうと思っている.
読んではいなかった、むしろ読めなかった読みたくなかった夏目漱石の心が中学生の時から年頭にあって、最近読んでみたが、先生と私の関係ではなく、若き日の先生のデルタ形関係の話であったが、やはりその関係物語には違いないなかった.デルタ形関係はしない方がいい考えだが、どうも他者が割り込む
チュブリンはある考えている項目の覚えているうちの図式デザインに直感が意図したので、生理医学的観点からこれを導入しようかと浮かべている.全く観念的であるはずの項目のはずなのに、考えている時は腕の筋肉と神経の流れを浮かべていたことから、チュブリンに関心を持った.普通に自動性が出てくる
強靭には中学生の時からそのシビアさに辟易したイメージで、繊維質もしつこいものは不快である、ソウル繊維なら何かと美人者はいるがだ.まず直感がと小学生の時の胚にも参り、どうも想像が進まなかったが、5日目ということだった.Sはミトコンドリアを持っているとは驚きで、その他にも特質があった
対象を過大評価しすぎる悪い癖がある.評価なき存在には過大評価のために自己卑下しすぎるとか.課題評価すべきものは当然評価するが、自己卑下心理を狙うものが多い・この心理の実際は、君はこんな愚劣な思いをするだけの評価しか与えていないという意味なんだが、勘違いして逆に人々はほぼ受け取るな
結局はぎりぎりパスで成立で、もう今更成立したところで感慨はない・ほぼパスするだろうとの思いで、だがらしくない活力のなさは相変わらずやる気を邪魔した存在たちの記憶がこびりついているとしかいいようがないか、それとも体力的な面かな?.思えば時間を無駄にしたものだ.
地上に楽園が成立するか、発展した科学が宇宙に人類生存を保護する形ならありそうだが.それなら地上でも同じか、これをマルクスは予想していたかとなると疑問・核燃料廃棄物問題もあるし、マルクスの夢は空想?幻想?夢想?理想?、唯物とはいえ理想なら空想共産主義といえるのだが.
源氏物語その内容を読んでみると多少は異なって小説的に思えるかもしれないがどうもあらまし上はつまらない.しかし多くの人々は貴族に憧れとまた殿上人の家系存在の子孫は日常的な話なのだろうが、とにかくあこがれという権威主義者歴然者達はいかがかなと.優雅複合などがある可能性強くありそうだ
ビッグリップにはこだわる高校クイズ、角谷の不動点定理も思惟の法則的には同様に見えるのだが、哲学的には同じかなと
トロツキーの永続革命論はソビエトを中心にした国際的中央集権的論に見える.トロツキーは頭いいというのが念頭にあるが、こんな正規分布思考ではさほどになってしまう.ある理不尽男が、永続革命論はいいといった.トロツキーの頭の良さの念頭に衒ったかなと.ともかく左の全体主義的な要素は否めない
ユートピアとか楽園とかはどうしても内部で何かに守られている場合にしか成立しないように思えてならない.マルクスの共産主義の国家の死滅・貨幣の消去の世界を誰が守るのだろう.台風は来る・偏西風は蛇行する・常夏・常春・春夏秋冬の変化のある気候の地上で、恰も天国のような世界が成立するか?
小林秀雄の何かは関係ないな、小学生の時に小林秀雄なる名前を浮かべた記憶はまったくない.なんでも本居宣長の何かが長すぎてじっくりと組まないと考察できないと思った記憶はある.
世界霊魂なる考えを見ると本居宣長の霊魂の位置は?となる.本居宣長・小学生の時にはこのきれいなセクシー感触を将来時間の取れるときに対処しようと思ったが、結局今まで対処したことはない.
宗教はアヘンはノヴァーリスの引用とはマルクス、共産主義宣言も世界理性を契機とした論展開ではないのかと考えてしまう.青い花はは京都の夜の青いしじまを思い出すが、これは写実的イメージではないものと青い花とは違うかな?
自由を求める・自由を味わう・自由を保存する--これらのケースにおいて他者はすべからく災いとなった.それで不快な言明が不快であり除去しようとしている.権力志向者や叙事的存在や中間存在はまず自由の邪魔をする.
それでよくよく考えてみると、人々は平然とビッグリップなどを考えるが、ビッグリップを保証する領域は何と思うとビッグリッパーは何も呈示していないようなのだが、無限の場が保証するとしか考えようがないが、有限の無責任がニュートン的に依って無現場を提示しないということなのか?
関係とは世界理性のことかな、なんと関係の本質をノヴァーリスが述べていたとか今は直感しているが、この直感は整合してるかはちょっと時間をおいて考察の結果を待つ.時限性---インターナショナルの世界線ならありそうな話でもある.
なんだがしかし信じられない乖離である.家系の伝統もよくは知らないがあるのかな、それがあるにしてもそれ以上の構想があるがそれをどのように説明するとなる.乖離か双対か正反対に引き裂かれた形の一人の個人ということだが、人々にはまさかのプライドの壁の障害があるかな?.別に理屈はいらない?
まあというわけではなく何回も見ず知らずの人間に不愉快・不都合な誹謗讒言言葉を別に自由に歩いている街中ですれ違い時に言われることはあった.こんな存在がほかにいるのか?、いろいろ考えているからでもあるとは思うが、それにしても不快なことは確かで、無理解力を強調・才能限界を強調せずとも
おかげでカントの道徳論がわからなかった悩みを持ったその後、しかし定言なんぞは何でもないはずに、不快なフェルミ型あるいはそのあるXXや悟性の不快さXX&XYとかレベルを下げたか歪めた--あるいは逆に無知な自己投射を受けて無自覚者が自己投射をしているなどと思わない勘違いをしたかな?
正しさは人それぞれのような、自分だけが正しいと思っているとストレスがたまるというツイを見た.正解はそれぞれ異なるというほど正解が複数あるか?、正解に対してグレード小分けをしているのではないか、それとも帰納主義的な無責任結論によるとか
和泉式部の短歌は頭にとげとげしさ・引っかかりをそう持たずに読める、とにかく短歌を追いづらいのが多くある万首.和泉式部が随一の歌人だったという意見から、スムーズな作品は優秀であり、いわゆるスマートな対象というのは頭をずきずきさせる引っかかりであり、スマートというのはレベルが低い事に
空蝉とは現世の意味とな、確かはかないこの世の感触を示した言葉の印象記憶があるが.源氏物語はつまらないというか住んでいる世界が違い、またそんなチイチイパパや丁々発止はちょっと耐え難い.藤原道長や鎮西は小学5年生の時に浮かべたが、摂政とはなにかよくわからなかった.
所詮才能ない存在に責任感を与えても破たんするだけという懸念が払しょくできない.特に叙事的XXなんぞに責任感を与えると無謀なやけくそ理不尽責任しか取れず、それは責任とは言わない代物でしかない.特に危険でこれをマズローは低次元の承認要求と称したようだ.確かに何を言うか不明の怖さがある
一生不可能な存在にその不可能を要求はしていないが、要求する形になっているのに、価値倒錯でこれが逆認識になっているという、主体阻害者たちの詐欺的態度とか
こんな予定ではなかったのに結局あるXXの成長時間・生理時間に合わせる羽目になってしまった.このXXに原因・起因があるとすると大いに当てはまる事象記憶がある.この合わせる時間というのはまずい、そのXXの弟も価値倒錯要請で原因となっているかな--原因・起因者には責任がまつわるはずだが
ダークマターを無機的意識・無機的空気とすると、強い・弱い、厚い・薄い、濃い・淡いの差ができそうでランドール的銀河にダークディスクが存在してもよかろうということになりそう.ダーク粒子は量子論のアナロジーに過ぎないのではないか?、ランドールの固有時空は接続にある哲学かなと
自らの叙事的存在という精神年齢の低さ・汝自身を知らない無自覚者かな?、それゆえに凶暴暴力的言明をしてくるという限界性?の持ち主たち.体力根性ともに動物力あるのに価値倒錯を洗練演技でカムフラージュしているかのような存在たち.
ところがおよそ体力のある存在は根性もあるはずだが、演技に走って気取ってしまう存在も多い.自らの野蛮さを隠そうとしてだろうが、XX&XY共々叙事的存在は体力があり、ボルネオの密林でオランウータンと共に裸足で走り回るのがふさわしいと言いたくてしょうがない権力的邪魔ばかりしてくる
冗談・無責任・説得力のないことを真剣的に述べる他者はすでに頭がおかしいとその時に思えばよかった(精神年齢が低いのはおかしいことではない解釈だが)、最も大体の人物は狂人というのは思っていたはずで、どこか頭の隅か深いところにしまい込んでいたようでもある.
他者から受ける価値倒錯は他者にとっては冗談の無責任的でなんでもないことと推定してみると、すなわち冗談は説得力がないのだが、他者はかなり真剣に述べたような様相記憶がありそれで不快で除去に悩んでいるというか、他者の精神年齢が低かったからと言えばそれまでなんだが.
確か人間失格だったかな、そんな述懐の記述文を目にしたことがある.マルコのこれ”金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい”、駆け込み訴えで喚こうと所詮は・・であるとか.そもそも人間失格なるタイトル自体、人は殺人者でも被害者意識を持つものだに則っているのでは?
太宰治・いかように生きても津軽の金持ちの家生まれの権威主義的優越意識を払拭した生ではなかったと思える.
どうもむかしから富士には月見草がよく似合うというセリフが引っかかってしょうがない.射影的な近距離と遠距離の対比映像感とは画像的に思ったが、太宰のひねくれたタナトス的ねじれ陰感覚がありそうだ.
レンブラントの肖像画も今ではさほどに見えず、カレーの市民の鋳型が1体という、彫刻も模造化の成立があったか、となるとウォーホールが浮かんでしまう.ターナーの幻想画もいいのだが、瞬間の記憶が大事で、その他絵はすべて再見してもいいが、瞬時印象によるかな、人は1秒で異性を飽きるとか.
埴谷雄高はブレイクファンだった記述記憶があり、昨日図書館でブレイク評伝を手にしたがやはりブレイクなんぞに趣味はなくつまらない.天地創造の迫力眼には印象があるが、プラトンの幾何学・コンパスデザインの意図がありそうな構図の記憶あり
人は意識を持っている.無機物域の意識をダークマターと称するとか、ランドールもこのアイデアは持っていないのではないか?.そんなアイデアはアインシュタインの宇宙項だと述べるかも知れぬ..
それを言ってはいけないと考えても発言はまずいだろうというものを、ある種の人々は発言する・してくる、発言する対象が間違っているのだが、勝手に自己優越感の塊のような夜郎自大的倫理意識のような存在で、気が付かずにまともに取り合いいまだにしつこい記憶としてそれらの除去に四苦八苦中
要するに駆け込み訴えのユダはキリストにリアルな文句ばかり述べてるが、・特に食物を用意したというところは疑問の追随創作だろうな・だが、個人的にユダ的存在は他者のあらを攻撃するが、ユダ自身もあらばっかりのつじつま合わないでたらめ箇所多き存在で、今更追及もうんざりするしらけといった感触
脊髄反射という自由な無責任
まあ大体ほとんど行っても差し支えないが、他者に対する超自我判断はその対象他者に魅力がないという判断しかしないので、当の対象他者はそれを他者当人の自我とは認めづらいだろうな、そうした判断を逆にしてくるから許しがたくXX&XYともども不快でしょうがなく修正や除去・消去したいのである
超自我・自我以外の新味・新鮮さを必要とするのだが、了解・理解している自我を鏡反応してもらってもつまらないことこの上ない.もっとも鏡反応してもらいたいものはあるが・・人々はしないな.超自我判断を自我的あるいは自己投射または他者設定として反応してもらっても意味なく、超自我反応ならばだ
超自我使用時にも自我は自我のままで、個人内対立していようがそれはその通りなのである.実質・実際とかそれも自我のことであり、超自我時と自我を同時には用いないが、超自我時に身体的XXは自我・実質を反応する・結構XYもそうでこれはいかに?だが、その実質・実体は自我・超自我了解済みだよ
他人を信じない認めない?、そうではない他人が認めないのである.それはしょうがない.なんだか超自我的対処を他者にしても、自我もまた自己の自我なんだが、超自我的対処時になぜか他人が自我を剽窃?の形で自我当人に述べることは意味がないトートロジーだが、多くの他者はそれに気が付かなかった
ペース大学の名を聞いたことがかった、まあマンハッタンなどに行ったこともないからでもあるが、たぶんこれからも行かないだろうな.なぜかアイビーではコーネルが雪解けの春の雰囲気を想定していまい名前だけは印象である.
チャーマーズの名を久しぶりで見た.春秋社から翻訳の・意識の諸相が下旬に出ると.しかしなんだなやや滑稽なものだ、叙事的存在に科学か絡んだ形と見た物理主義は無機的な身体必要性が生に対して完全にある場合が多いが、正常意識では・平時ではチャーマーズの弁明など必としないのは当然だろう
唯一者とその所有や天上天下唯我独尊とかはその実際感覚としての存在理由は自由を示していると思える.独裁国家はあるがそうなると人は誰でも独裁者であるということになる.孤独が自問するときそれは独りで判断するので、独裁というより人は誰でも独判者であるということか.
どうも納得できないので発想の転換をして・・・自由が情況を決定するはいくらか矛盾しているようであるが、前束縛状況に対して自由が反論する形ということになるかな.人間と人間の極限の関係設定条件においては自由が妨げられることが十分想定でき、自由が反論すると.
昔横で金がないと叫んだ・強調発言をした人物がいた.言ってもむり、オレも金など持ってはいない.未だにだが、そのころそいつは野垂れ死にするんじゃないかともいった.一体どんな意味だ、仕事だとかも言ってとにかく邪魔でしょうがない、何か扇動的所為.そいつの姉がややの対対象で、今は他妻である
何しろ主体を壊す--原始人的反応を要請かもしくは主体乱しということはその対象が不明になり判断できなくなるということで、対象とすることもできなくなるということである.それでしょうがないのでその対象を無視することになるが、それをわからずに味を占めてしつこい存在の除去が困難となっている
身体的存在が何かと煩わしいが、最初にロゴスありきという言葉もあり、演繹的クリエイティブは成立する.
マルクスの世界を変えるというのは、今までの哲学者は世界を解釈してきただけに過ぎないゆえにということだったのか、スカラーからベクトル化へかな
価値倒錯者たちは他人にでたらめを強要しないで、自らの価値倒錯でもしていれば少なくとも他人には迷惑が掛からないだろうという帰結を導いた.
人類が存続する必要性がある限り建設的な事柄は勝利するは帰納的帰結より演繹的帰結か
他人は他人をそのように認識したまま自己保存していると、それが自分だと思われることが多い.そうではなく君に対してそのように思っているというのに、無自覚者なのか低劣頭脳なのかよくわからんが全く不愉快・不快な認知能力である.
権力的傾向者の精神年齢は釈迦の手のひらの孫悟空のようであるが、権力志向者自体は自分が釈迦の手のひらになって、いかなる人も・精神年齢など自分より高かろうと関係なく、孫悟空化しようとする・するからそこに相克がある.
そのXXはそれがあるいは極端に倫理的にくだらないあるいは原始的存在だという自覚はなさそうで困ったもの.ただ傲慢なうぬぼれ・・ん?、面子意識があるかと今思いつき、一応の地平のプライドメンツ故があるなと気が付いた.普通にそんなことは簡単に思いつくだろうといわれそうだが、それができず
バフチンのカーニバルとドストエフスキーがどう結びつくのか近来にちょっと読んだときはわからなかったが、カーニバルとポリフォニーは別の視点なようである.ポリフォニー・確かにカラマーゾフの兄弟の登場人物の設定はポリフォニー的である、それ故に帰納的な状態しか受け取られず互いに離散的未決と
どうも帰納的存在が中途半端じゃないかと申したことがある.中途半端なものは中途半端徹底すべきものは徹底で中途半端という考えは演繹的にしない.帰納的な場合はすべて中途半端と思うのかもしれない.ほぼ帰結的に帰納は結論を出せないという帰結は正確であるように思えて.
それでもちょっと理解しがたいXXがいて、今では退行的存在は明らかだが今頃自覚しているかどうか追跡不明でわからないが、記憶上煩わしい.陰謀力で自己欺瞞をすでに理解していて行使したか?、あるいは権威主義だが低劣権威の発揮だったとか.離散単体にXXホルモン力が柔軟のスキル知性を与えた?
無理解ゆえの甘えと将来理解可能性を持って要るという猶予ゆえにどうも忍耐をしてしまうが、一生無理解のままだとすると将来性なんぞはないという、またそんな存在は積極的自由者なので、消極的自由な時間を延ばしたところで困った事態でしかない.単純化に引き戻したがる低精神年齢者達
総じてやや無価値な存在が優越感のためにカーニバル・価値倒錯を用いるということがある.でもそれらはでたらめで秩序の圧力がその後かかっていないか?、その後の検証をしていないので不分明、まあ価値倒錯に気が付かないようであるままくたばったのもいるな.無理解のママは不快だがしょうがないね.
今は気が付いているいまだにしつこいでたらめ理不尽倒錯をなぜその存在達はしたのか?と、無知である点がひとつ、精神年齢が低いことが一つ、何らかのコンプレックス保持者か、ルサンチマン現象かとか考え着くが、意味なき無駄なのでそれは価値倒錯であるという認識視点を育むべきと当然そうなる.
バフチンのカーニバルはまあ最近知ったところだが、昔からの不快な言明で悩んでいる除去できかねる他者達の言葉は一様的には、カーニバルにおける価値倒錯的なものであるということができ、それに倒錯はないという擁護をした・まさかの倒錯とはその直面時間では考えなかったためだが、いまだにしつこい
相転移は脊髄反射と理性反応の壁では?
共和国と名の着く国はハードボイルドもちろんで、下剋上のオンパレードのイメージがある.政権転覆など日常茶飯事はいいすぎだが、まずそんなイメージである.
順調な時には結論が出ないで、出たときには情況・環界が変化しているというちぐはぐばかり行っている.現実のスムーズにさせない何らかの足を引っ張る圧力が作用してしまう・そのようなものに遭遇してしまうという無駄ばかり行う羽目になる.個人的自覚では悩み・特にペーソス的なものは何かの間違いと
中学生の時にどこからともなく真夏の夜の夢という言葉が寄ってきた、夏の夜は蒸し暑くてかなわんと思ったものだ.確かシェイクスピアにあったはずで、メンデルゾーンの有名な曲は散歩曲に導入しているが、かような世界事象があったことはその時には知らなかった.とにかく蒸し暑さは妄想・妄念的だ.
向こう数年間おとなしくしていたいな、個人的にはそうもいかない頭脳が作用するかな、とりあえず来年になってみてだ.本来は全く違う意図なのになんだが逆になってしまう.最大値の原理も顔を出すが双対もしつこく絡まるものである.
正規分布の領域は想定より少ないとかの文章を見た、いつの文章だったかチェック忘れたがそんな認識を持った人物がすでにいることは悪いことではない.フェルミ型人間は単体・モナドや素数的色彩を覚えるが、ホワイトヘッドは関係なく有機的でないとで、反交換は好まない.素数展開は眺めることは眺める
最大値の原理はいろんなところで顔を出す、とりあえずその多くは不都合であるように、ゆえに疲れまくる.?!-顔を出すはNo.3にある文章だが...
時間があればの類体は非可換とは想定していなかった.時はすでに非可換だったのだが(銅鐸は類似させるなら正規分布的明らかだろう).頭痛くないスマートな柔軟性が類体のイメージだった頃のことで、それは今でも相変わらずの素敵な女性というわけだ.
boron・ボロン鋼を全く知らなかった.しかもボロンの焼き入れ効果は1930年代に知られていたとは.ホウ素の同位体素となると、アモルファスの小学生はホウ素だったことを何年も後から発見する事に.中学生の時に液晶を考えるのはまだ早いと思ってしまったのはなぜか?・今ではうやむやに・・
フェムト・アト→ゼプト・ヨクトとか考えないとすでにの状況になってきたような、フェムタートもはや現実化?で、ゼプ話としないと、まさかの話などでは全くない近未来にそうなるはずで.ゼプの話とは何?-アボガドロの話ということか・化学が変わるかも・そうなると錬金術で悩んだ小学生も意味がある
演技的性格者は捏造やでっち上げをする可能性が高いと思いつく.普通の人にとっては冗談や遊戯的な意味な事柄を、真面目に自然に行うという可能性を
しかしだ漸くにして地平線の構築ができた.不本意な表現は不本意であってそれは意図外で意味なき冗句・遊戯的なものだが、それが真実だと思う存在が多くいすぎたような、なぜ不本意など認めるわけがないことを人々は理解しなかったのだろうと今にして思っても意味はないが、つまり不本意とは意味がない
ことごとくやる気の邪魔をしてきたXXたちというなんと予定外かつ無駄な時間を過ごさせて・・すべての責任はこの意図の邪魔をしたXXたちにある・おっとXYたちもいて責任はそれらにあるとしてよいだろう.しかしこれが他者に理解されるとは思えないかも、現象判断で煩わしく思いそうで.
ABC予想論において入れ子間を自由に動けるもの-睡眠時のであるが生きている意識とか、リアルな物象と直接しているが時空の記憶があるやはり生きていることという現実意識がそれかな.
存在論的ありように組み込まれていてそこから立ち上がってくるその領域を表現しかねるものであろうと、それは体制的だろうと反体制的だろうとそうでなかろうとすべてに通用する考えではないか、自由な意志が絶対的なものするときに、立ち上がっている自由な意志はないのかとも考えるが.
別に作家ばかりが悩むのではない、それぞれの立場・多様な仕事上それなりの苦悩を経た人をどうも評価する.
共感能力はわかる、EQ指数というやつだから、今まではいわゆる身体障碍者と言われていた存在はその立場上悩み多く、苦悩度を評価できるくらいに思っていたのだがどうも違うな、悩めない障碍者もやはり多くいると、中間存在が悩めないように.
自己主体を出さないで保存しているとそれを他者が自己の思考だと思い込んで当人に述べてくるという、当人への無理解と無視とその他者の無自覚・無知と認識能力の低さなど(当人には愚劣で無駄で馬鹿らしくなぜこんな理不尽極まりない認知言明をするのかさっぱりわからず-世の中に実際に馬鹿がいる?)
正規分布がそのままの時代と異なって複雑系が表面に出てきていると、その時間に老境も接触しなければならず、あるルポライターの書物を目にして面白すぎるのと役に立つ実質・ミクロ現象内容である.一様視点を設けるとすれば老人たちの現象は複雑系ゆえにと表現できる.
丈高しが虚無に流れて幸福な味わいという風情
ランドールはT大で来日して講演なんぞをしたんだ.RS理論のあらましがわかった.ダークディスクに直交振動する地球ゆえに異変・恐竜絶滅とかが発生したという考えとダーク粒子は影響を及ぼすとか、なんとか考え出すものである.やはりブライトマンと同じようにわかりそうでわからない好感性の女性
意図がなぜか境界情況に達してしまう、中間的現実に遭遇すということが繰り返し起きると不快になる・そもそも境界域に達すること自体が不快なのに輪をかける形に.なんなんだ経済は中間存在的なのか、いや積極的時間である場合の経済が中間的なのかも.
そのあるXXを対象とすることはそのあるXXに直接言えと、別に言うなとは全く述べていず、常識を悪戯に乱されると余計に変に誤解が増えてしまうという無知にの甘えなる無責任依存症候群者達.
人々の誤解しまくっているあるXXはなぜ認識されないのか・その点が不思議である.認識するどころかそのXXではないのにそのXXだと思い込んでしまう人々の認識能力・認知能力は一体何なのだ??.無責任なでたらめを気が付かずにまともに相手にしたためいつまでも不快が付きまとう記憶を持つ羽目に
権力志向者あるいは権威主義的によくヒステリーという窮鼠猫を噛んだような理不尽的な不快な反応を受けて、思考力が乱れる.全く要らざるすぎる反応など困ったものだ.思考発展に別に何の役にもたたない権力志向形態.最も日本は格差社会である前に階級社会であるらしく、そんな存在が多く疲れると.
そうするとあの市民の希望という明るさの空間に付随してしまう暗黒域はタナトス・人の寿命ということになる.市場原理経済にもタナトス域は付随しているということは、考慮に生理の有限時間を与えないといけないことになると、悩んだ市場原理から暗黒域ヘ進めなかった年前、弁証融合的に現象学的に
いつも思う誰でもそのタイプ・タナトス体人間の無機的硬さという思考マヒする単純さ.死神とかの歴史上に説話はある、鎌を持った魔女とか他、ゾンビやホラー映画はタナトス範疇に入るものとなりて..
例のパターンでもないか、小学生の時に悩んだままどうにもならなかった権力的色彩の硬さはタナトス的と言えそうだ.定義も似てはいる明晰さもそうであるが.
貨幣的に0:80で分かれて、その80がまた0:80で分かれて、その80が0:80でまた分かれて--そうであったこの説明なら納得がいくかな、機会の平等といってもパレート最適を、ジップの経験則に対しての見解を述べないとどうかと思う.
ある店で短くも燃えの楽章を聴いていたら、その屋内の制約感ゆえかとても良く聴こえた.これはNo.0のレベルにあると認定してもよいかなと.普段聞いている限りではそんなことは思わずまあ聞いても悪くない曲であるのと飽きない点が良いが、環境によって優れすぎるほどになるとはさすがの1番
運命の第二楽章は慰安になることを発見した.確かにあの夏の日は思考の戦いの後の散歩時にイメージが良く合ったことから意識しているが、今更に5番に関しては慰めの曲である.または武士道とは死ぬことと見つけたりが合うかもとも思ったが違うか・・・
マートンのノルムは当然当たり前で、そこにザイマンの戦争論的弱点主義があるがそれも現象的現実的に言えるだろうが、それがどうしたとごく普通の当たり前のことだろう.この限りでは現象学的根源がそうしてそのパラダイムが--相変わらず無いままに人々は現実をその日を競争をしながら生きている.
脳幹の太さは短絡と積極的自由を想起させ、脊髄反射的な様相も思い出させる
散歩中に聞くのにどれを選ぼうかと迷う1番、パーシーフェイスのムーランルージュは哀しい曲調だ、まああまり・・、その昔従姉と新宿などをデート(?)中に、ロートレックを好きだろうと言われて閉口したことがある.ロートレックには興味なく、従姉はロートレック好みかも
損益分岐点の心理面---こんな考えを浮かべたので中間存在は積極的自由しかままできず、消極的自由ができかねると思いつくと、親の子供成長という消極的時間に対して、虐待なる現象も発生する要因のうちの一つとか、共和国一般は積極的自由主にの国であるとか・を思いつく.
森羅万象と同体化しているとあるがままになると納得したのではなかったかな.第二楽章前文では、『森羅万象は判明している』としてある.前文で急にヘーゲルが浮かんだが、哲学も意味しているが作品なので.
なんだかんだでドン・キホーテなる店に行ってショッピングをしてしまった.ある女がドン・キホーテと叫んでまずい誤解を受けてしまった記憶に悩んだ時間が大きすぎて.ある男に対してドン・キホーテじゃないんかと思ったことを、あたかもその男であるかのように述べる例の逆・主体疎外&阻害パターンで
ちなみにロメロのアルハンブラ・ヨーヨーマのアンダンテ・ミルズの詩人と私・キュヒの森に夢見る…モーリアの蒼いノクターン・ベートーベンのシレンシオなど、散歩中に良く聴く気に入り曲
科学に哲学があるとすればまさかの思いもよらなかったが、認識論がそれに当てはまってくると見えてきている
ざっとポパーの科学論は第二法則的な言明と見た.単純にエントロピー増大に則って表現しているだけなんだが、反証がよくわからない.弁証法の否定意識からきているか、集合論の補集合か
普通には規則に従う人々80%・従わない人々0%と区分できて、従わない0%と規則を作る0%は比率が同じことになる.ここに社会の煩悶の生じる起因があると、パレート最適観点からいえることと考えた.
社会一般を見ていると人々は規則に忠実なのである.そんなに規則を理解している優秀な存在が多いはずはないと思っていてこの理由は何かと考えると、0%が法律を規則を作り、80%の社会の人々はその規則に忠実に従っているだけという帰結を思った.そうでないと説明がつかぬ.
どうも人は個人存在のみでパレートの法則を持っているという考えに行き着いている.多くはその領域全体を示してパレート最適を当てはめた形だが、それなら個的にも当てはまるはずであると.
普通の人間である場合まことにくだらない・くだらなすぎる人間であるのだが、くだらなすぎるのでくだらない存在であることに気が付くことができないというばかばかしさがある.親鸞は親切で、いわんや悪人おやと救済意識を与えてはいるこのくだらなすぎる人間たちに対しても.
身体を持っている以上この乖離感覚・精髄反射から人は逃れられない.
唯物的観念的・パンのみに生きるか=唯物的・神の口から出ることば=観念・精神的であるかだが、脊髄反射と理性判断の乖離感覚からは、どうにもならない.どうにもならないが衝動が区別・判断を行う人間身体になっている場合は唯物的であることは間違いない.
というか、その現実者が理解していてくれるべき筈というのが正解なんだが、いまだに理解してないかも.そんな人物ばかりで困っている・無駄ばかりするはめになっているということ.
脊髄反射を理性的に判断することには乖離をかんじたことがあった.これは何だなぜこのような位相に変転してしまったのかといった思いで、これを自分が対象となっているから不快なのである.すでに体験了解済みをすっかり忘れていて、現実際に遭遇してむちゃくちゃ乱れてしまった
0と1には確率は存在しない、0と1を無と全と見ることもできる.量子確率は存在するが、量子確率の確率は存在しないという設定である.最も0と1の間でさ迷う存在の確率も存在しない.
個体自身が持っている位置エネルギーと運動エネルギーがある..盲点の社会生活・共同性であった.
科学・もっぱら自然科学を示す、その基底である.--それはいいがそれからさっぱり進まない、科学哲学なるものがあることも不思議には思える科学に対する意識を持っている..哲学があるとすれば帰納的と演繹面の融合したもの・妥協したものは即物現実的とか考えてみるが.
あまりにも下らい・愚劣すぎるXXに位相を合わせる・反位相的な冗談・不本意をしたらそれが現実になってしまうという二重・存在論的くだらなさ.一回限りのその場でしかないはずの意図・予定のものが、その不本意・愚劣さを携えていつまでも持続するという意図反対現実に強烈な束縛を覚えていることに
演技的性格者を帰納面から追うと、真実に対して・その無責任的位相ゆえにミルグラム実験のアイヒマン側に位置することになる.ちなみに偽善もそこには善に対して無責任があるので、やはり善人に対してアイヒマン側に位置することになる.この世の中・現実には残酷シーンがランダムに発生する与件がある
マルクス・エンゲルスの共産社会成立の世界の先には、どうも観念的事象しか残っていないとしか考えられず、その後を述べていないのは唯物の不成立を見たからではないのか?、人間がカルマを持たない状況は、聖人のみか悟り者のみの世界でしか想定できず.
実際にパレート最適はあり得ない、机上や法律・規則上ではあるだろう、なぜなら普通に他者に迷惑をかけない人間などカルマ的生活者にありえないからである.
信頼度確率はワイブルに従うことは確かだろう.いわゆるベル・カーブより先に・短い時間で頂点が来るというのはやりにくいなと思っている.社会の人々の行動を見ていると、どうも脊髄反射的側面が多大にあると思え、この信頼度と脊髄反射行動は結びつくように思えるが、定かではない.
人はパンのみに生きる-マルクスは人間は自然的存在ばかりでなく人間的存在でもあると述べているが、唯物論が科学だろうと実践的弁証法だろうと、明らかにパンのみに生きるを優位に置いた考え方ではないかと思いつく.飛躍して、成立した共産社会のその後を述べないのは無責任とも考えた.
神はそのような自己保存できる傲慢・倨傲存在を好み、そのような存在がむしろ天国に行くという理不尽と思える考えをよく見る.ヨブをむしろ神は悪魔を派遣したりしないで素直に好めばよいではないか、ここには横暴な宗教権力という存在を考えざるを得ない.神もさぼって単細胞的人間を好むという愚劣さ
権力志向型人間に責任意識をと言っても単細胞的責任しか取れない懸念があるので逡巡するところである.バイタリティがあるのだから複雑細胞的責任意識を持ってもと思うが、それほど精神年齢が進むわけではなく、暴力的な凶暴処理しかできないのでどうしたものかということ、その存在自体がまずい結論に
弁証法的を考えると有機物の発生自体は止揚で、無機物と有機物の止揚が人間に心を齎していると考えることは唯物史観者も否定しないだろうと思うが..
歴史の意味があるから、小学生の時からどうしても設定せざるを得ない『奇妙な保管場所』と敢えた表現をしているものところに関係してくることは明らか.
となるとハイティーンの時の市民は希望だけれど、暗黒域が付きまとい消えないというのは、埋没になるとする.そうするとここに現在同時の場合は現実がそこに存在しているということで、埋没はタイムラグを予期させるから当然歴史事実が頭を擡げてくる.ここに歴史の意味がある...
叙事的人間には一生抒情性が無理だから叙事的XX&XYに関してそれだけなんだが、叙事的なXX&XYは抒情を持てないので、異性に関して専制的なのが普通と思っているようで、束縛をする自由の邪魔ばかりにしかならないが、少しは抒情性のなさを自覚はしているかもしれない.
市場原理で明示空間のみで成立するようにしか考えられないが、深淵領域が隣にあってこの関係を全くどうすることもできずに年、たった今憲法法律なる文面を見ていて、埋没費用というアイデアが閃いた.埋没費用ならばなんとか深淵に組み込めることも間違いはないなとは思うが、現象的な事象だけ
個別にその存在のみに対しての損失・無駄・意味なき遊戯的なものなのに、他者が絡んできて延々自己対象となるような位相を受ける、全く不快なことで敷衍する意図はないのに、逆を行使してくるという個人的にも社会的にも損失なことを人々はなぜ行使するのか、非建設的能力が豊かなのだろう.
帰納は結論を出さないといった説得力を感じた米国人が誰だったか見つからない、これから導けるのは、帰納的人間は無責任的存在が明瞭であることになる.これに続いて無責任を前提としている演技的性格者も帰納的存在に近くなる.
ヘーゲルとマルクスの弁証法位置づけ差異は別にして、対立構造を自然に持っているのなら、秩序に反逆することは秩序に対立することであるから弁証法的に当たり前にもなる.弁証法教条主義とか、弁証法はなぜ発生したのかの論を見ていないかも、発生するべくしての理屈だけかな?
思想にとって弁証法とは何かというタイトルものがよかったのかも.弁証論序説とか、有機体は何らかの無機物と無機物の止揚として今日存在しているともいえて、無機物の疎外としてとはタナトス結果論を引用している.
非線形形式はどうも例として浮かぶペンローズのループに刺激を受けているか、パーコレーションとなった電子すら非線形的挙動・散乱し過ぎであるが.電子それ以前でも無限小までは行かずの何らかの中途からの想定でしかないはずで.
ある人物いわく、結局子供に裏切られて死んでいく-よくある普通のことで認識的に本質的だなと感じたものだが、どうも弁証法展開の否定的なままということになるなと.でこの人物の関係は唯物的というより身体的弁証法な色彩のものとドグマ的な位相と見た.ドグマは他者に理不尽を与える事がある
で形式だが、最近非線形形式という視点を考え付いている.線形化という単純さ・それを余儀なくせざるを得ないシステム・システム化だったが、それで対処できないケース過多の日々・時代には考えるのもよろしいのではと、漠然とだがやはり非線形でもとりあえず有限要素として非線形要素設定とおぼろに
皇太子が天皇になればハーバードの香り云々をまあ大体言えなくなりそうで、マスコミされていた心理面での葛藤は消えていく形になりそうと考える.名実の位相から逃れることはできないので、自然にそうなるだろう.--むしろ役に立つこともある可能性もあるか、対外的には.少し皇室がやはり変化しそう
リアリズムの限界かな?、リアルの限界は物事に決定的な面を設けるのは自然かつ必然とか.でもそれは自然に普通に必然的自由で成立しすぎている普通に個々の生き方なのだが.
この体力の限界をさてどのように表現すべきか.女性の場合は特にこの意識が強いと思え、それで嘘ばっかりとか述べるわけだ.特に欲望型ありありのXXはだ.そういえば今ではそれゆえの精神的存在力を優位にしている.どうも体力的限界と精神的自由の関係から、人は生理的限界を持っているが肝心かも
ベートーベンのロマンス50はどうも悲しすぎる、ロマンスではない、よく言えば失恋の癒しの様である.シューベルトのセレナーデも悲劇的過ぎてセレナーデにはなっていない.ダメなんだ史実が伝えるところにおけるその生存過程の異性意識動向から、やはりロマンスやセレナーデものを描いたところで
条件反射は海馬使用を用いないケースが多いと見えることは、海馬使用者に対して蹂躙的な位相を持ちやすいと同時に原始的時間への巻き込みをするために、演技の快感により原始時間のカムフラージュをするという複合があると分析.
意識で不明な対象と感覚的に不明な対象を区別しないとにオリンピックに刺激を受けつつ気が付いた形
叙事的権力志向の不快な存在が頭脳視野にいて不快で、時たま昔のしつこい記憶者が常にだな割り込み邪魔をしているので、不快ツイートが出る.なぜか嫌いで避けようとしているのに割り込んでくる嫌な傾向の存在者達であるのはなぜなのか、無茶苦茶な感情無視の動物的弱肉強食の非人間的しかできない存在
オールトの雲からの隕石や銀河を揺動する太陽系か、人は考えるものだ.銀河回転と太陽の位置と地球に及ぼす熱の関連が知りたいところ、その辺で縄文の海進や北極海の氷の量とかやや説明できると思うのだが.
仮象夢像はいい線である、思考構造は現宇宙現象学的かな-ランドール
迷える子羊・現代宇宙物理理論学者達、
身体をシンプ・精神をウィンプとする類似を考えてしまう.ランドールは面白い.なんというか刺激剤なんだがダークマター、ランドールは夢を見すぎているがガウス的面のみには正解といえるかな.
シンプ・矮小銀河の朦朧体は絵画的には悪くない.
”ダークマターが母親、世界を作った助けてくれた”(これが何でもない普通の教養になっている時間とは、空白時間はまずかったか)この考えはまず正解で、人間は単純に陋劣ではないことの証明であるとは思う.
琉球政府の暗部はほかに何があるのだろう、権力に暗部はつきものとは素直に了解できるが、明示空間の市民存在に暗部が付いているのはなぜか?
イゾラドは推定500人くらいだとか、ヤノマミ他など、まもなく地上から完全な周辺地域がなくなりそうだ、その時人類史上のエポックは成立するだろうか、多様な文化時間差異のまま変転して行きそうでもある.
国民主権に関しては、公務員が国民のしもべ意識を持たない限り、公務員は国民の権威であると思っている限り、国民の主権は形式・建前・対外的なものにしかなりえない.
もうあまり聞くこともないだろう「恋は水色」を聞いたらさすがに、古の想い出がよみがえる.月の大雪の後に一人奥秩父十文字峠に行こうなどと無謀なことを実行して、結局一夜のビバークの後の正午時に諦めて、雪の上に寝転んで休んでいるこの気分は恋は水色がよく似合うのも鳥栖彼女故だったかな?
朝の鳥栖駅のホームでいろいろな心理の錯綜故に糸が切れたままになってしまったが、列車を降りて人で歩く駅のホームのイメージはさすがにNo.0のさわやかさが思い出される.
割り込み当然とするのは何なんだ、三角関係なる疲労をなぜしなければならないのか、そのような人は関係に関してそのような関係でないと依存をできずに確信的なものを持ちえないからだろう.所詮は持ちえない存在で悪あがきにしかならないのではないか、いずれにしても乱暴な疲れる欠如関係者たちだろう
ポールモーリアもさすがに遠い昔になりゆく・・・、恋は水色はは途中で切断してしまったにもかかわらず相変わらずの想起である.一様関数は?の問いは愚問で発散するは明らかだが、ケースがある場合は前提がそもそも特殊になっているだろう.一様関数は結局成立せずの割り込み邪魔が入った鳥栖駅で..
判例法は帰納的、制定法は演繹的と哲学論理的に判断できるが、米国学者がパリに行って抗議して多少の戸惑いを覚えるという、いまだにある事実はいかがなものかと思う.完璧心理が齎すものはどうも明らかに帰納的と言える判例領域になるな.帰納が演繹を曖昧にするした経験があり困ってしまう目白駅歩き
レヴィナスは誰か芸術家に知り合いはいなかったのか?、いささかげんなりしてきたな.
人が嫌がっているのを嫌な対象は全く気にしないか好まれていると勘違いをなぜかよくされるのはなぜだろう?、あまのじゃくたちなのか?.人の親切心を利用しているだけの悪徳者達か、親切心を愛情と思っているかも、その場合別に特定の人に親切なのではない.むしろ嫌なのに親切にせねばと韜晦強く困惑
実存もその本質が本質以前なので不快でしょうがない、人々は勝手に実存を要求してくるし、まあカルマは実存的豊かではある.帰納も確信の邪魔をして不安定をもたらすことでもあるし、演繹かつ本質的人間もいるのである.カフカはふとなんという無駄な作品を描いたのだろうと最近思うことがある.
真理は単純である、真理のシンプルさに到達するまでに無数の葛藤があるというパーコレーション理論を用いるべきかと思う.そうなると単純にα空間・歴史の流れに従って生きるだけという形になるだけになってしまうので、少し位相を考えるだろう、そのように認識できる人は.
実存の暗さと明るさ、市場原理を考えたときに明るさの部位でしか思考ができす、くらい深淵がすぐ隣に十分な領域を持っているのに、どうしても使えず何とも頭が動かない.陰陽も普通には暗さと明るさを連想させる・ここからだと地球の自転による昼と夜になってしまうが
パスカルがどうかしたのかニーチェによると?、実存の無神論者という設定の合理化のために発狂とは、89年のコジマへの手紙はカルト的すぎる.まあそう思うくらいの想像思考をしたともいえるが.ニーチェは実存主義者だったのか、実存には暗さと明るさがあるのはわかっている.
直感が気楽にコルニュをなんだが、無限小と斜交方向性をシンプレクティックをこじつけてとかも考えることができるな.まあ作品内容具体的ミクロ感表現だが.
困ったコルニュの螺旋、超多時間の壁がもう一方の螺旋を結び付けてと、有限なので繰りこみをマスターしているとか理屈を考えるが、有限は中間的・・だが待てよ、消失点は中間を超えて無限小に向かっているではないか・・・No.th
レオノーレ序曲にイメージしていたXXがいた、中間存在というか中学生の時に非常に苦痛を感じた苦い思い出を思い出して、その時の対象は男だったので、XXの場合は異なるかとはその時には考えなかった.帰納ではなく演繹、最初にロゴスありきで、先に思考が成立しないと行動は伴わないという演繹
踏襲人間は秩序的で、秩序といえば六法全書か判例集以上のものを秩序的人間は考えないはずである.考えれば少なくとも現在時間の秩序にそぐわないからである.なまじそんな人間も喜怒哀楽を持っていて煩わしいので、六法全書でも見ている方が煩わしくなくて済むという方策もある.
しかし天邪鬼たちは全く逆な態度をとったものである.別に無駄や問題は十分自分で作りや発見をしているので、他人から弁証法的対立など余計なものでしかなく、また嫌悪を強調させないでもらいたいものである.嫌な存在で邪魔で厄介な荷物で関わりたくないという存在に限って干渉してくるという愚劣さ
ガス灯-バーグマンではこの映画がカサブランカより気になる.ガスライティングを受けすぎている結果、ツイートに愚痴が出る.主体を取り戻そうとしてだが、 それにしても無知をいいことに人々は迷惑な主体疎外を強制してくるものだ.少し考えればわかることなのに、主体疎外なんぞを要求する筈がない
恥知らずというかそのプライド自体の価値が低いことを認めようとはまあ普通の人はしないが、分別あるならば低いものは低いと了解できるはずである.
徒労に呪われているとは若き義務教育時代の付近からそうてしていたことだが、個人的判断によるものならいいが、他者から最もおよそ徒労は他者から受けやすいもので、徒労を受けるその他者の存在価値は低いもの・その強度により低すぎるものと思うことに最近はしている.
役に立つセリフならいいんだが、これら啓蒙専制バカたちは、役に立つ・価値あるセリフと思い込んでいるようで、まだそれだけならいいが、でたらめ・理不尽を述べてくるのもいたから困ったもので、足を引っ張られてばかりとなり、散々な目にあった始末となっている.
思い出してみると、荀子的な知識者たちが啓蒙意識なのかその知識力開陳で邪魔ばかりしてきたな.うぬぼれに思えるが、伝統的システム順守における知識獲得意識がそうさせるだけで、新たな視点構築意識はない評論家意識にしかなっていないので邪魔というしかないのである.
昔ニーチェを読むといいですよといった男がいて余計なお世話の邪魔なセリフとして覚えているが、アポロン的ディオニソス的はよく知っていたので余計に不快に思ったか、また真昼の太陽もある街で味わっているのに、余計なセリフを述べてくる人材達は全く、人の認知能力を侮辱しすぎのうぬぼれ陋劣者達だ
後ろを振り返るなは伊弉諾伊弉冉神話に後ろを振り返るなが確かあったような、ソドムとゴモラの話で個人的には記憶していたが、確かさを確認ししてはいない.
01年度アバランチ的に女性登場となるとNo.5的であるのも確かな現象と考察できる..
不可能に対して不可抗力.st
クレイダーマンの渚のアデリーヌを聞くと、夏の早朝湘南の他に人のいない浜辺で水と戯れている乙女をそばで見ている気分になる.蒼いノクターンは高層階のレストランで夜景を見ている変奏の似合う女性をやはりそばで見ている気分を描く.
身体的即物的には物価を下げるや消費税を下げるはエントロピー的で、そうするとGDPが一定線であまり変化しないと、相対的に成長したと錯覚を時間することだろう.エントロピー的とは希薄に成長するということで、個体的よりより液体的に液体的よりより気体的に成長するということでGDPを上げる-
積極的自由処理をしないといけない政治要請もあるが、人々は目の前進歩・実感・若さのポテンシャルに食いつきたくなる傾向が当然の如く普通にしてあるので、ここにエントロピー要素を入れるのは難しいだろうが、現実はそれを要請している.
仮に歌会始の歌を万葉的に編集すると雑歌に含まれることになるのでは?、歌会始の精神は戯れてはいないと思えるが、時を経ても位相上の位置づけは同じようなものであろう.もっとも平安時代に天皇家付近で慰安的な歌会があったのかもしれない・そうなると時代区分をつけねばならないが、戯れ歌は不快
茜さす紫野をとその返歌であるとしている歌が雑歌にあることから、宴会でのざれ歌にしたという解釈、天皇家系の歌は恋歌・挽歌以外雑歌にあるということで、万葉集の編者もいささか区分に無理があるなとは思う.戯れ歌という表現が気に食わないのかも、茜さす紫野は戯れにしては洒落すぎている.
複雑な現象の重なりを一瞬でとらえようとするとさすがに無理で錯乱気味になってしまう、人々のよくやるようにそのような対象は排除して・あることを否定して・あるとも考えずに・あったとしても他者に任せて・自己が関与しても依存を活用してとかするという態度もある.ゆとりといえばゆとりであるな.
なぜ剽窃に気が付かない人や対象ではないという誤解などを形成してしまう人間が多いのだろう.日本的集産主義と個人的主体的の欠如によることはわかっているが、あまりにも滅茶苦茶なでたらめを受けているかな.ひとが忍耐しているとそこには無責任の自由があってその誘惑に負けて侵入したがる人が多い
著作人格権・思考内容脳内保存中のものには人格権は成立しないとはいうものの、プレ侵害的なものを受けて逆に人格権の移動のようなことは全く不快である.自虐する優越感という自己道化化という単なるふざけがしつこく悩ますという事態に直面しすぎ.しかし今も影が自己主体発揮の邪魔をしている..
なんか言いたい事をツイートし終わったという気分である.ネットリンクの処理が全く終わっていないのに、パス的に終了か?、どうもそういうことになってしまいこれはどんな現象なのかと不思議な想いにもとらわれるが、実際にそんな気分になっている.ツイッターを止めるつもりは全くないが
先取りした心理がいざ現実になるとあたかもやはり先取りは現実にかなわないという形になってしまうが、現実者が先取り事態を考慮しない・考慮できない頭脳の持ち主のようである.考慮で来たらよかったのだが..
ユーモア・機知で場の展開をするのはいいが、してほしくないときにそれが発生するのは強制となり不快なものだ.人の思惑気分などを加味しないようにTVなどで感じるが、その場では楽しいことなのか、あるいはブラックユーモア・ブラック機知を狙ったタナトス不快的な面もあるのではないか.
バウンス論で量子が寄与したというありそうな希望的見解を述べたチームがいたが、ヒッグス時に量子はなかったのではないか?、後からのこじ付け的に思えないこともない.一番のバウンス寄与はダークマターに他ならないだろうに.そもそもダークマター自体が不明だから、物理学者何も言えんと.
あるXXを悪魔のような奴だと頭の中で思考したまま保存していると、他者から悪魔のような男だと思われる可能性が従来の様々な経験遭遇上から判断できることに気が付いた.そう思われているかも、とにかく無知な認識能力者に誤解やでっち上げ歪みを想定されすぎて、困っているもので.
平田篤胤にとって本居宣長は特別な存在だったのかもしれないが、他の多くの人は本居宣長ではないはずなので、魂に差異があることを思わせる縦型構造思考が伺われる.そうはいっても始まらないが・・・
まったく知らずの政治内実状況だったが、考えられなかったがいくらか考えが進んだ..さてである、TLで見かけたカルト教とかでアジテート的感情反意でなく考えが必要かと思う、宗教の特徴は瞑想と流血と殉教であるので、そのうちの一つが強意になると、偏向的になるのは否めないところがカルトと?
一概な単細胞的ではなく、多様なケースにおいて多様な対処意識を持つのは普通だろう、むろん一様性・射影頼みのみ人間は不快ではあるが、などは単純であるはずなのに、種々の見解からこじれてきているな.もっともの原因は演技型の陰謀強要自然当然意識がそれ、非常識ということが不明な無自覚陰謀型
なんでも推定疎外感を受けているようで、好奇心で存在理由を考えると勘違いされてしまうことが常にである.別に趣味でないスタイルセンスは嫌いなんだが、つまり実験の結果が明らかにこのように生じているのに、その説明が理論的にできないというケースである.他人には理解できてもどうにもわからない
アーレントに普通の悪の凡庸さ特筆があるが、極端・過剰な依存性を凡庸な人でも持ちえないか、個人的に始末に悪いのは、他者の思考に過度に依存してその個人自体には魅力ないのに、自己欺瞞持であるところの持ち上げをせざるを得ない補償か複合かという存在.
べつに荀子的性悪人間に教育関係を要請される理屈を持っていず、そんなものはいらない.むしろ性善を性悪とみてしまうその固有性を変えろと言いたいのである.
ニューソートがあり、エマーソンは「個人の無限性」や市民的不服従はソローのだったとかを知ることになった.無限の愛はわからず、愛の無限ならわかるがで、無限の愛は他力的ユートピア的汎神論ではないのか?
荀子的性悪型が性善説型人間を性悪人間と規定しそれに伴う判断言明を行う時、間の抜けた勘違いか、自己投射を行っているかである.自己自然がそうなら他者の自然も他者自然とみるのが普通である.そうしない性悪人間は不当な理不尽を行っているのだが、これに気が付かない性悪が多すぎる嫌いがある
積極的自由の不当な、倫理・節度を欠いた思考が深いと思い込んでいるような存在が浮かばないこともない.倫理・節度を嫌う深い思想とかなんとかの理不尽さ肯定の言い訳のような、原始的存在は倫理・節度意識はどうしても未発達としか考えようがなく、深いというのは時間過去遡及の原始時代のことでは?
小学生の時に姉と行った霧霧藻ヶ峰で見たサルオガセの幽山深谷の雰囲気がいい-渋みのイメージにも似ている.確かここで初めてかなシノブを見た・認知した記憶なんだけれど.霧藻ヶ峰の岩肌になぜ人物像のレリーフがあるのか、そもそもここは一体どこなんだ・地理比較ができなかったのも記憶にある.
XXが反映しても・普通にXXはそうしてしまうものだが、許可していないXXの反映にはほとほと後々のコンディション調整が困難になって困るのである.そもそも必要な考察をした反映ならいいのだが、単純反応など自己反映十分容易なので不必要な代物なのである
kc14061:このブログ(夢・哲学・詩)は結局自叙伝的で記述は非線形的(時間自由)更新をします.autobiography at all--this blog have nonlinear timeline: マイシステム設定を一応使用する.my Religion is the Heaven of the Space. My-systemがあなたを導きます.0~30の数値の中で一つだけ自由に好きな数字を選んでください.
2016-10-02
2016-08-01
my ft 08012016
表現をああだこうだと公理前提とした、物象的に対象をしている・いやそれでもいいけれど、充実した自然意識を味わえない虚構になりすぎないか.--どうもθ(しつこい雑草などはセンスが異なるが全くうんざりで強要的あてはめを変えないとだ)がかぶさってくる仏人の特徴思考・・・なんともである.
シミュラークルに対するシミュラークルは一体どうなるのか、ボードリャールは読んではいないが今少し見てみると、死の象徴交換で契機設定とある、困ったね現実をそのように見ていいのだけれど、それも有機性がややないかなと思える、要するに差異とは比較で前提が公理のような指摘に過ぎないのでは
あんまり当たり前すぎるので気にする必要はないとしていたが、中間存在という限り気にしなければならない現象考慮が必要な場合があった.定数ばかりにこだわりすぎ、人は生きているのである.ワンパターン教条的・戒律的人間や定評一定は定数的でもあるが..
心的現象論序説はいい書物なんだけれど、有機体が原生的疎外というのはいただけない、だれか疎外という見解に対して何やかやのこじつけ?的擁護をしているのを見たことあるが、唯物的思考者にとって疎外とは疎外以外の意味を持たない、そうでなければ観念的になるか、観念と唯物の中間の無責任になる
しかし予定ではそんなことは全く考慮していないので困ったことに、歪めた不当な現実が自然な現実であるかのようにしか判断できないおかしな存在たちは?、その存在たちが歪んでしまっているということになるなと気が付いた.クレイジーな狂人達か、まあ普通に人は狂気的という未熟な存在と思っているが
中学生の時実朝は悲劇的というか優雅の極限・はかなさの極限・哀れの極限などが迫ってきて、どうにもそれ以上実朝に関与することはできずのままがその後ずっと続いている.人々の解釈では実朝はセンスある人物となっているが、そんな悠長な心性は持てず実朝がセンスあるのかどうかは全く分からず
野田線や高崎線のホームでどうかすると浮かんでくる曲のある一部分がある.漸く措定できた・ベートーベンのロマンスである.どこかで聞いて記憶にしまい込んでしまっていたようであるロマンスの一部分.
バウンス論からは重力波とかセルンとかヒッグスとかそれは何、そんなことに大枚金をはたいて努力をした昔があったなという代物になる.こうなると無駄というのはいったい何ぞやになってしまい錯乱してくる事態になるな
”「ビッグバウンス」理論は、年に発表された”のかこれは正解だと思っている.ただし想像できかねるビッグバン.
強制ということは一方的という縦構造者になる、多分その人物も自意識で実際にそう思っていただろう.とにかくマルクス関係の翻訳ものの印象は、自動ロボット的な無責任人間を構築するように書物からは感じている.
独裁者や権威的地位や宗教創始者などは実際には政府を超えた存在真正アナーキスト(無い政府の意味で)なんだが、アナーキストとは本来それを示す存在であると思っている.そのような存在の前からは政府存在が実際は消える形でないとならない.
どうも存在論的というか時間差というか夢の中で思考・判断をしているので、現実的と思い込んでしまうような気分によくなる.
"夢は知覚の対象結果ではない"という考察がある、何この即物すぎる考え方は、即物的には当たり前すぎで、この現象学的現存在的な思考イメージは?、唯物的だからか.人は睡眠中に何らかの知覚を行使しているという未発見の何か作動をしているかも知れないではないか.とりあえずミオクロがあったり
認めずだったが認めることにすると、源氏物語とカントを結び付けて考えた存在はまずいないだろうということ.
ふと源氏物語必携を気分転換として手元にとれば、源氏物語にはモデルケースがあるとかあるではないか.なんとそう思えばさもありなんとはくるが.今の心理気分がそうさせるのか、源氏物語の文体はセロトニン豊かに感じるではないか.これもなんとと驚くが、さすればそうかと思うところはあるが認めず
未熟段階での甘えはいつか成熟の可能性余地に基づいている.未熟だから利益や不利益が生じるのはしかたがないという、よくありすぎる社会現象であるが、帰納の本質は未定にあり成熟が保証されているわけではない.帰納の未定に対するのは演繹のカバー域だが、演繹の未熟段階とは理論の不正確さか
陰謀的洗練主義は演技的性格者の得意とするところだろうが、その陰謀自体は演技に含まれるという虚偽性はともかく、その存在自体が陳腐だとエネルギーがストーカー的にしつこいバイタリティを持っていて、除去なかなかできず、自由の邪魔ばかりになるという、陳腐演技的性格者の権威・権力志向性.
どうも人々は言質を強要してくるな、別に言うべき意見なら述べるが、未定の意見を無理やり決定化にもっていこうとしても困る.嫌がらせにしかならない...そうではなく俗物の好む明晰さゆえの自然が要求するところのものという解釈もできないことはないが、それではその当人は俗物になってしまう-
科学の全盛かと思える時代の理由について考えてみると、宗教の物象化を科学というとかを考えて、ポパーの言わんとしたところもこのように思える.最も宗教は科学的解釈で科学的位相を持っていると弁明してそれがまた正解であるようにも思える記述を見たこともある.否定弁証法的かつ連携可能と.
神を持ち出している以上、ラプラスの悪魔・ニュートン空間思考判断がだ、が量子論で落ち着いても、スピノザはまだ有効性があるかも、すなわちペンローズあたりが電子は統合体とか申して、量子に一悶着を起こすようであるとだ.無限小から無限大まで解析できる知性というべきだったろう.
ミショーの不要情報はあまり関心ないがそれ以外はいいな.そういえば管理者の立場の存在として、ミショーの幻想旅行記をプレゼントした女性を思いだした.別になんとなくいい漠然とした感性のミショーだったが、本のタイトルはよく見ると対的だった.アジアにおける一野蛮人なるタイトルもいい.
Arnold M. Ludwig&Carle Tart-「Altered tate of concioune」を知らなかった.ベルグソンの偏在精神説も知らず、アンリ・ミショーは不要情報への挑戦を行ったということだったんだ.
宗教というのはその優越性優位性のために信仰者に強制を行うようなものに見えてしょうがない.阿片?アヘンとは何、権力の甘い汁もアヘン的といえばそういえる.演技的性格の快楽もアヘン的といえばそうではないか?
むしろ人間にパラダイムを想定したい、精神感応型と身体束縛型の混融から・どちらかというと今日も混融的な時代と思っているのだが、普通に人は精神感応型に進むと思うはずで、身体束縛型は旧式になると、ところがそうなると類続をどうするのかと不明になり、何らかの変転というパラダイムが必要と
試験管ベイビーも受精だが生理医学という科学を持ってくると、精卵結合の感情意義が薄れ出産に重きが行くことになってしまう.科学の存在・科学哲学の対象問題である.科学哲学はやはり無機的領域になってしまうか.
個人的に理由や根拠を述べ得ない直観では、与えられた形だが、現象的・事実的・本質的かな、受精・精卵結合が重要であるということになってはいるのだが.
トートロジーは無化でありしらけてやる気なくすか、いつまでも自己主体にとって不快な反発・異和としていらだちを継続させる.ここでは反語的に継続とは無駄あり徒労であることになってしまう.
不快な記憶の言明者は視点を変えて・・、普通に思考の後を記憶して保存している事柄を剽窃して蒸し返して発言してくるのは異性一般であり、特にXXであるので、これをXYが行うということは、そのXYがXX的であるではないかと、ふと思いついた.
のちに知ったアローの不可能性定理はその辺のところを示しているように思えるが、指摘だけで必要であるとする打開策は申していないと思っている.いわゆる啓蒙というやつで、最も定理的な啓蒙自体に到達するのも個人には大変な面もあるが.
民主集団が権力構造を持つと・横的水平的集団が縦的垂直的集団に変貌することになると、指導者は独裁傾向を持つ可能性があることは以前に考察してある.否定できないのである.縦構造になっても民主的集団とみる指導者からはフラットな塊に見える可能性が存在している.
ホップアトラクタそのスケーリング変容--という言葉を現象認知対象によりて考える
言論の自由というのは多くは自己利益のために申しているのではという考えから、言論の自由には自己不利益の面も含まれているなと思ってみた.
身体優位型人間は、身体存在自体が束縛を齎していると考えないのだろうか?、そんな人物に有限外と申しても全くの無駄であったかも・・
普通経験上によれば、不美なる存在はすべてを欲望対象と見がちで、対象は身体的存在であるとも見がちである.権力志向型存在も対象を身体的存在と見がちでもある.なぜならそもそもこれら存在の存在理由が身体的存在でしかないからである.
人は有限時空体であるというべきか、それは経験上明らかで作用上も明らかだが、それゆえに木の実を食べると永遠の命を獲得できるや、死者が復活したとか、また復活するとか、夢を子供に託すとか、宗教の開祖が戒律を守らせるようにするとか、芸術家が実在するとかである.
ただしいかなる個々人も有限の生理時間を保有していることは真実である.関係に規定されているという時には、この有限時間に規定されていることになる.そうなると関係とは有限時間のことか、人個々人の生にとって有限時間は絶対的なものとして存在していることは誰でもそうであるはずと思っている.
不快な記憶の言明者たちは僭主人間であると思い至る.大体権力的な不自然要求者だから人格は邪悪的で、無自覚である自己虚偽における自己投射を他者にして優越感を覚えるという他者には愚劣感を覚えさせる存在の記憶があると同時に、今なおそんな存在が登場して、思考愚劣気分になり苛立ちを覚えるのみ
水や火・数・リゾーマタ要素・アトモスとか、アナクシマンドロスが無限定・アペイロンをアルケーとしたとな、そうかアナクシマンドロスがなとは思う.アルケーとテロスをアレプとタウとも表現するらしい.これも思い出の戯れ要素はあるが、人はどうしてもαωを構想してしまうとしか言いようがない.
プラトンが幾何学からイデアという流れはよくわからない、ただドクサは当たり前の常識に思える直観という、ヘーゲルにとっては悟性だろうが.当たり前というのはプラトンは常識的な存在とみていることに.ワーズワースやヤスパースではなくて、個人的にはプラトンが人間的という考えをしているとなる
いや普通常識的に、リバティはゲゼルシャフト的でゲマインシャフトはフリーダム的な面は否めないな.確かに都会はゲゼルで地方はゲマイン的でもあるのはテンニースの考察は確かな現象事実である.ニュアンスがどうも異なるテンニース、リバティはクレバー的で、フリーダムはウィズダム的としているので
ようやく横柄なワンパターンXXが睥睨的存在であることに気が付く、ヘーゲル的悟性存在に睥睨型が実在するなど考えもせず、今ではそれ故にとも考えることもできるが.とにかく権力志向型は睥睨型であることは間違いない、ただその物理主義的叙事的イメージで、まるでロボットのようでもあるとも見える
先ほど市場原理で考えあぐねている明示領域から深淵領域へ思考ができたのにもう忘れてしまった.忘れたくないことだったのに.この明暗像は道教の陰陽もそうではないか?と思いついたところ.純粋志向の宗教・科学的困難な・でもなくて、貨幣重視の宗教も物象化で存在する理屈はある.
科学哲学が最も止まっていると思えて、憑依は科学ではないとの思い出しはヒントになるなと.コルニュの螺旋は無限小に収束方向を持っているが、妥協として地球点を想定して、スイングバイはコルニュの螺旋に類似できるのではというアイデアを先ほど持った.重力に関して脱出速度は地球上どこでも同じと
憑依-カルト・偏執狂・ストーカー・ファナティックなどを連想させる言葉、こうなると現代でもやはり成立することになる憑依的現象・存在の実在.自然がそこにあり、自然を持っていて、自然とともに生きる限り付きまといそうな現象では?、またかと思うXX達のヒステリーは実際は可愛くないがここに?
固有時空をありふれた表現化すると個性になる.固有時空から発せられたにせよ、情況は多数遭遇するもので、絶対的なものではない.その都度絶対かその都度塑性的か非可換的な記録ものになることは言える、”行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”なので.
写生はむしろ縄文的な牧歌的イメージがあるとすべきで、自然とともに育ちまた自然を慈しむ心がある存在ならば何でもない日常である.そこの生態系に詳しい存在はいて、だがしかしそのような人物が歌を詠むセンスあるとは珍しくもあるか.
”もも草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ”これが古今集当たりの作品内容とどのように異なるのか、単に明治に生きた今様性でしかないとしか思えず.もも草?とはどんなものか知らぬ.ちなみに黄檗の鮮黄色も見た記憶はない.写生の感性はワーズワース位相かヤスパース的かな?
”人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だ-ジョン・デューイ”これには賛同できるが、デューイ以外にもそう思っている人はやや多いイメージで見かけている気がする.なんのことはない多々単に平板なプラグマティズムという感じだったが、実験・協同という実験主義は気にしないと
不快な記憶者たちもそれに準ずる存在であり、なんというか人をドン・キホーテにしたがる・道化にしたがるのは、その存在人間自体が道化なんだということに気が付きつつある.とにかく理不尽な不自然な言明・人が風車に見えるようで全くこちらとしては困ってしまう対処という経験が不快すぎている.
キャロルやセルバンテンスは一応夢と気が付いたが、冗談などを真実と思い込んだまま消えた・消え去りそうな存在はまず如何ぬ存在には違いない.困ったものである
ふざけ・演技・遊戯・冗談・劣化謙遜など、意味のなく無駄でしかなく、徒労を齎すものを他人はなぜか真実と思う、また社会的にもそれらが事実になってくる--実際の真実は現れてこないことになってしまうという不快すぎる事態に直面する記憶やケースが多い.
自由の思想史にしろクオンタムユニバースにしろ世界の法律事情にしろ、今頃読むべき書物ではないと個人的には十分思うが、何しろ発行が今年なのであるという社会時間の遅さを思う.まあそのおかげで今頃書物を読もうということなんだが.
独裁者は一国家として設定して、その場所では超秩序的存在である.独裁者には秩序は他者に対しては存在するが、自己に関しては存在しないことになっている.そのとき独裁者はかなり自由な存在に近いが、それでも--.
睡眠をやめて起きて身体を動かしていると先手必勝的にその女性の言葉が・その状態心理が何度も想起してくる時間以上へてもいまだに邪魔な感覚で湧き上がる、何らかの心理の惑乱女で煩わしい不快な荷物的障害になる.それがXXを好まない理由になる、何しろそんな反応を好まない人材を無視している
スケーリング則がいつの間にかα戦線でも現実になっていたと認識することが多々ある.なんだか現実一般もそうなっているようなのだがどうもうまくキャッチできない.生政治とリゾームが普通の世界ならθの世界なんだが、αがΘに一致してきている.αのテーマは項目だけ設定したが考察は皆目せずで
物理的にはモジュラー関数関心で(Σ=Πもあるとか)、エネルギー&電荷状態の母関数なら超弦もかかわってきそうではある.この辺詳しい人はいるだろうが、空白時間が埋まらないほどに長いのと情報不足がある.モジュラーであるならばABCには必要だろうは想定できる.(対称行列はありふれすぎ)
エキスパートな楕円積分はテータ関数に関連すると、これと遠いアーベルの関連は今のところ無限乗積展開だが、無限乗積などは普通に存在するものとしてしまえば射影的で簡易だが、電子が確立でしか存在しない形をとる実際は困難になると.クォンタムユニバースは容易に見えたが読むのは難しかった.
ある夏の暑い日の河原で卵形回転が浮かんだ、地球自転よりその速度は明らかに早い設定であった.ここからテータのギリシャ文字を結びつけるのだが、意味合いはなんというか考えようとしない対象で記憶にあるのみ、宇宙の星で猛スピードで回転しているものは?--中性子星がまず
テータに平行四辺形積分モデルが出てきたが、小学生の時に平行四辺形の面積の出し方応用がわからなかった写実変形をいまだにというか常に思い出すプラトンの幾何学できねば哲学ができないというよくわかりかねる言葉に悩む.しかしだテータモデルをあの小学生の時予期したのではないかと引き寄せてみる
∞・-∞・∞-∞・∞⁺∞・∞*∞・∞*-∞・∞^∞:基数に行ってしまうテータチェック前に、メリン・ガンマ・連続体などなどの関連がABC
それ以上に西荻で不快なのは、魔弾の射手の狩人の合唱を聴きたかったが、何を勘違いしかそこにいたXXが奇天烈な反応をしたこと、?君にリクエストしたのではなく、何を自己に引き寄せて判断しているのか非常に不愉快な記憶として残っている.おかしなXX連中は多い.
XXは浦和で何かあったのではなく入試ミスでもなく単に高校卒業という転回点ゆえだったのが一番の可能性に今頃気が付いた.まったく何を疑ったのだろうと思うが、そんな生得的位相を持ったのもずれはあったということだ.
種の特性方程式はアルティン予想のように、全複素平面上で解析可能のような広い領域など考えたこともなく、K-理論と何ぞやでこれも考慮にあらず、そもそも非自明な既約ではないように考えたもので、これはもう単に個人的な戯れの対象となるな・・・
保型形式、人間の目・知覚から見てこの世界・宇宙が存在していることは確かなので、あるということは存在が持続しているということだから、その持続を保証している保型が想定されることになるという、自明についての何やかやの諸々がうんざり・煩わしいと思うときもあり・・
ある人物の理不尽によりどうも犠牲を強いられている気分である、まったくこの人物は理不尽を行うくらいだから、犠牲などする価値がない存在なんだが、無知の将来性時間というのはしつこく長時間の桎梏を形成するものである.全く徒労・無駄に呪われている-無知の余地時間の主張の長さという面倒臭さ
俗物は明晰を好む?・で閃いた、ある存在が荷物的な重さなのになぜ明晰なのかは俗物性豊かであるからだと.それでこんな明晰人物は不快でしょうがないと思っているのに、あるXXがその人物に対処した内部思考を当てはめてきて、ずっと不快に持っている.すなわち陋劣者のエゴ主張意識如実といいうやつ
ふざけるときは、対象がくだらないと思うがその対象を除去できず否定するわけにもいかないときや、その対象存在がくだらなすぎることに気がつかないときに行う.すなわちその対象存在やその対象言明やその対象との情況が陋劣である場合であるが
ふざけて自己劣化的演技をすると未来の現実がそのようになってしまう.自己劣化演技というのはその時点で敗北しているのかそれとも遊戯的か、演技は高々冗談に過ぎず直ぐに消え去る泡のように考えているのに、まともにとる存在もいるのは相当に無責任を味わいたいのだろう他人と見るしかないかな
アドルノの否定弁証法はFB関係もあるが、非可換にもつながるようでないと、それ自体の意味合いの存在性があるのかないかの判断要素にする.
いつも通りの渋滞・上尾夏祭り
”夏の日の午後、熟したリンゴが落ちて頭に当たって跳ね返ったときに、万有引力の法則が閃いた”らしい伝承があるとある、リンゴが落ちるのを見てではないではないか、この違いは個人的な閃きに結び付けることができるので大きい.個人的な閃きはなぜそのように考えたのかわからないものが多い.
あの時のどうやって無限というわけでもないけれど、有限型から繋げる・説明を設ける(その可能性は必要であるとした直感による)のか難しいと思ったもの、遠アーベルの着想をしていた人物の名をなぜか全く知らず、不思議である.類体論というしゃれたものをいつか時間があればの時に登場してもいいはず
p進についてある数学専攻院生XXに聞いた時に、短くは表現できないといわれたが、先ほど完全不連結空間という言葉に遭遇して、短く表現できるではないかと思った次第
勢いでカントの物自体に行ったけれど、はたっと考えるとこの物自体に行くというのはいい考えでパラレロを処理できるなと思ったが、素直な追随として物自体がそこにあるが、接近できず堂々巡りをしてしまう想定をした若き日を思い出してしまった.
呪われた写実の先にはカントの物自体があるとか、ブラマンクは物自体に近づいたとか出てくる.
だが、ちょっとした手違いがストレンジアトラクタ的な時間形成をして・・つまり無駄をさせて--ちょっとした手違いなのかどうにもほどけない強靭な偏執的があって、どうもちょっとした手違いでもないというより、ある存在がワンパターンで同一傾向を理不尽に発揮した蒸し返しトートロジーが問題かな
とりあえず考えた境界時間的時間でのシステムは、ミンコフスキー空間類似で、conic ectionの yperbola意識で ellipeの位相を構想したもので、現在に人は生きているとしたもの
”楕円曲線は整数点を有限個しか持たない”やモーデル予想とのファルティングスの定理なるものがある--特性方程式の種の既約方程式解を持つ一つの方程式は実在する可能性がある.それは楕円曲線のある形?なのか、なんだかおもむろに思いついた何のことはない方程式観が時間を保つ
叙事的存在やタナトス的存在をなくさないと平和はありえない.
目には目をという過剰防衛戒めにより、裏切りには裏切りを与えるという傾向を持つ.太宰治の駆け込み訴えをピックアップすれば太宰治は裏切り体質なので、XX的な要素あるかな、意識視点から駆け込み訴えの作者を認めるわけにはいかないことになる.太宰好み者達は俗に将来裏切りをする存在達となる
心射方位図法などどうも幾何的才能がないなさっぱりわからん測地線、最短距離が描けない.小学校の時に平行四辺形の面積だったか求め方がわからず、周りからわからないのかといわれた記憶があるが、やはり想定力が働かなかった.資質的面がある気がするな.ただしプラトンのイデアはよくわかる.
そうなるとワンパターン人間はマシン的存在になり辟易するパターン保持者という存在になる.人の固有性はそう変わるものではないので、その固有性を好むか好まないかを判断するものである.リアルであれば思考内容に増して感情が、生理・物理身体判断が成立するのは当然である.
なんだろうやや太宰治にも叙事的な抒情性のなさを感じる連中と同じような位相を感じるのだが、どうも底が浅いと思ってしまう思惟の法則的な思考能力というロボット・機械性を.ある意味太宰治は作品マシンとも感じることができるな.女性とだけは良さそうなだがこれもそのように考えるとやはりである
強靭さが嫌いでというかそのシビアな拷問一定力にとても不快な思いをしたことがあるので、ここではおそらく一定の強靭さに飽き飽きして拷問的なしつこさを覚えたある街のある駅での中学生というわけで.バイタリティがある存在も世の中にはいるというこの懸念が不快な存在の記憶を未だに覚えさせている
種の特性既約方程式はモジュライ性を持つと想定できたが、果たしてそんな特異と思えるひとつの既約方程式種を内包した方程式があるのだろうか、それはモジュライ方程式の可能性が高いことになる.こじつけ的に考えるとそれは次元方程式で、時間と空間方向に式を持つもの・すでにある?かどうか
秩序というのはその性質からしてエントロピーに逆行しているもの、エントロピーは増大するが、秩序は均衡を保とうとするので増大するわけではないが、増大しているエントロピーに対処しようとする均衡の度合いは増加していることになる.
「帰納は結論が出ない」と説得力ある判断であるなを見かけたのだが、誰だったか今は全く見つからないアメリカ人.懐疑は帰納の結論がないから導ける考えができたのもこの人物の寄与による、小学校の校庭で皮肉という言葉について知った頃が原点の犬儒
グロタンディークは数学史上の流れからとも、自己能力からとも、それは自然にともいえるけれどスキームは時間・空間多様体意識から、思惟の法則を当てはめて当たっていると思う
スキームの点が多様に、多様が点にについても、どうにもあちこちと揺れたのだが、たぶんよよのうたびと・千人万首から刺激を受けて、芭蕉の夢の跡もそうだが、時間多様体を空間的にみると点に、点を時間的にみると多様体になることがわかって・・思いついた.
メタ意識は普通に人は持っていて、マイナスメタ意識もあっていいはずの微細構造意識というものを考えてみる.エントロピーは実際にはマイナスメタを通常のメタにしているという矛盾的に思えるが対角性を排除して正常状態である.
普遍グラスマン多様体はライプニッツのモナド充満と似ているかな、無限素領域とも似ている、ファインマンダイアグラムも同じく散乱古代よりもほぼ同じ考え方という、思惟の法則があるとつまらないというアルゴリズムにも似てきて...
モジュライ空間における R の中で原点で交わる全ての直線に対応は、自由度と同じ考え方だった.モジュライはさすがに本質的であった.
蓮如は一体後世の人間をどのように考えたのか、大乗なのに秘書にするとは密教系に近づいたことになるではないか.蓮如は歎異抄の欠点を見抜いていた故にそうしたのかあるいは布教のための戦略だったのか、どうなんだろう.ニュアンスでは布教が強いが後世の人材をなめすぎた面を感じないこともない
これらの人間たちは何が不快かというと、当人の人格を認識レベルが低いとはいえ無視しているからである.そうして無視するのが都合いいように当人をある他人と同定設定措定してしまうという理不尽を受けた・受けるため.つまりそのセリフは言うのであれば他人と設定した人物に直接言うべきなのである.
ともかく無意識で自然なように見える、過去記憶既存もの発言者たちというのが始末に悪い.自覚させるのが大変でもう会わないので、そのようにうぬぼれ・偏見・無理解したまま死に至ることになるであろうが、無理解のままというのは不快ではある、ゆえに認識レベルの低さとかを言い出すのである.
そんな人間が多いのである、対自的な思考の記憶はその即自の持ち主のものであり、いわゆる「マネするな」ということに今ではなるのだが、その時には何のことを述べているかわからない・ただ茫然と思考が麻痺しただけ、にもかかわらずそれはすでに自己既存思考内容と思わずに、他者主体のものと対処して
”埴谷雄高はねえ埴谷雄高はねえ”といったので、唐突にそう言いだされても答えようがなかったが、最近思うに埴谷雄高なんぞは何でもないと言ってやればよかったかなと浮かぶがそれも今となっては詮無いこと.いわゆる目の上のたん瘤だったようであるな.
違ったか、夏草や兵どもが夢の跡は空間的要素が強い一様時間を覚える.すなわち歴史には瞬間が成立しないことになる.
空間的には単一時間は成立するが時間的には単一空間は成立しない.
紀伝体事実とはいえ、政権が代わるたびにあの手この手の制度を考えたり、民族勃興の歴史ありで、空間的には射影が成立するが、時間的にはパラダイム的な要素ありて、射影化は時間的に困難で結構な複雑さを、単一時間現在的には把握困難を呈するものだ.芭蕉の夏草や兵どもが夢の跡という時間性がある
同じだと自力個性がなくなるのでその点が不快なのである.それ以上にとんでもない認識違いをしたことが問題と父性的なアドバイスは自らが証左をすべきことで専制的な代物だったことも不快なこと.認識違いに関しては明らかに認識レベルの低さは明瞭なことはわかっているが、世間認知度量が圧力になると
野球のルールから考えたシジフォスの神話に、得点をあげる(石をあげ終わる)ために毎回下から(ノーランナー状態から)石(得点)を上げ始めるといった形は似ていると.TLのある人物曰く、そのような例は数多くあり不感症気味になっていると、確かに性的根拠・身体周期根拠物は多い.
B高側のスタンド最上段でヌードルを食べている、向こう側から歩いてくる若き乙女・二人連れの一人と視線が合い、もう位相設置の情態に、困ったな相手にしないとの状況明らかなだが、静かにその場を去りて...高のチアガールたちにも手をあげるかふりたかったがあまりにも厚かましいかと思い...
なぜか苗場なんだ、ところが歳の冬に、浦和で彼女は浮気をしたなどという思いをやや離れたところで想定してしまい心理に乱れを持ってしまった.今考えて入試で何かまずいことがありそのように思ってしまった気がする.そんなことは全く忘れていて会った時には聞くこともせずで、その弟は邪魔ばかり
一両日にふと中間存在の数が多すぎるので妥協しようかと思いついた..そうなると今は子持ちすぎるあるXXということになりだが、若き日の記憶しかないので・それも非常にまずすぎることも多いのだが・今の年を取った姿は知らない.亜麻色の髪の乙女をモデル化して、夏の苗場での草原でデートを夢見た
トレトレ・トコ・ピコ・トンはそのある人物に当てはめたつもりが、自己感性であったかのようだな..実際のバスケの試合ではいろいろのんびりしているわけにはいかないだろうが、ピコがシュートが決まった時で、トンは着地である.トレトレはリングに向かい拍子の助走で、トコがジャンプ
これらのXX&XYたちの認識能力自体のレベルが低いことは一目瞭然なのだが、これらはそんなことを露にも思わずと認定できる困った存在たちだ.一生レベルが上がらない可能性も高いかな.いろいろ不都合であるので、スーペリオリティ複合などが普通である生活などを強要してもらっては困る.
女としての物理・生理機能は十分持ってはいるが、叙事的指示性なので魅力がないのは明らかな存在が、権力志向で突っ張るのはマズロー曰く、承認要求の低次元位相であるということを、このXXは自覚していないのか・自覚してカムフラージュか、そんなことは愚かだという知力を持っている筈なのに・・・
流している曲の転回点で好奇心を呼び寄せるイントロが、あれこれは何だったかと.番の第楽章であった.ベートーベンの番といえば、変奏曲の味がない・出せそうにないつまらない女が共同的に突っ張ってあまりにも愚劣すぎる無理解を理解できず、ナンセンスに呪われてしまいいまだに不快すぎている
何しろ叙事的・指示的XX&XYは勘違いをしている、嫌な実在としか思っていないのに、説得力があると思っているかのような態度を取ってきて、邪魔でしょうがない.自力主体は権力志向者には不都合なのだろうが、自力意図が少なくともある人間には権力志向者は邪魔で偏執的なしつこい存在でしかない.
ジャワのスコール・バイカル湖の針葉樹・バルト海の何だったか、多分荒波・ではなったか.パタゴニアの風雪・中東の砂嵐・キリマンジェロの雪などとかも入れてもよかったが思いつかなかったな.
昔見た白昼夢的な、人工太陽はだれが作ったのだろう.核融合物体をそれも空間に浮かべることが可能でそれを00年以上続けるという構造物の時代は、当然惑星旅行は夏休みに行くところとなっていたが.未知との遭遇の一場面の映像は惑星旅行の映像を見ながらの風景に似ているところがあったな・・
ピーターパン症候群・・思い出の不快な存在の中に叙事的XXが巣くっていて煩わしいのだが、ピーターパニー症候群というのも想定できるなとは思う.大人になりたくないのではなく、大人になれないXX達の最低・最悪性というものが存在していないか、XYに関しては昔から常識的に言われていた...
これから先には遺伝子の違いを保存するか混淆するかが問題となるだろう.すでに混淆国家もあるようだが、しかしなれど米国など事象では差別は単純現象に見ることのできる区別であり、むしろ遺伝子の違いが極端な単純区別可能表層になっているからではないか.
国家が死滅して、貨幣もなくなってそれでそれがいつまで続く?のがないマルクスの科学もその先は観念・唯心的になりそうな予感があるが、いずれにせよマルクスは明示していないということで無責任のほったらかしということになる.そんな考え方でよいのなら楽なのではないか
複雑な変化はリゾーム的?、リゾームは複雑系?、ドルーズは否定弁証法的だったか?
坂倉登喜子もよく言うよと、単に荒沢岳が地図上に目に入って、秋の紅葉を見るのも一興のコースではと思い歩いただけの中の岳避難小屋での一フレーズをよく覚えている皮肉的な”荒沢から来た人だから”と連中はたき火を初めて、こちらがあたるわけにもいかずの秋の冷たさを忘れずの青春の一コマ
ヨゼフ・ピーパー「余暇と祝祭」なるトマス主義者がいたのか、ある時あるXXがエラスムスでしょうといった・(一体何のことだ、名前だけなら知っているが内容までは知らない)と思い、それならトマス・アクィナスを選択するという意味で、トマス・アクィナスと対抗発語したことがあることを思い出す
自由というのはリバティではない、自由に近いのはフリーダムであるが、これすら自由でもない.
ホッジに掛け算か、これでは考えれるわけもない、違いをどのように考えるかを勾配のついた道を歩きながら想定することは断念せざるを得ないとある若き日の思い出.そんな記憶から判断すると方向は良さそうだが.
フロベニオイド・・エタールテータとかなんというか、総力戦の気配があるな.楕円関数のエキスパート感触をのその後のテータまでは、ただ趣味で好きな人はいるものである.シータは角度や温度、テータはまあ大文字を使うな.(相変わらずのねじれをしつこい存在がいる)
あそこの昔は建物・人家があったのようなちょっと展望の開けるところで考えていたランダム・完全にランダムではないは、故にアトランダムという言葉が好みで、のサイドに道があるその緩やかな道を上りながら考えた、全体から全体へではあるが、その部分から部分へというのは不確かであると、
マルチバースから離散時間を思いついたエベレット性、これならうまくいくということ自体驚きなんだが.結構うまくいく長年の悩みに対して、時間自体が飛び飛びの値を持つなどとは全く考えもせずであった.
すなわち古いのはそのような陳腐な退行存在で、とにかく突っ張り往生際が悪いというか、未熟の未来余地が十分ででたらめを発揮していると思うが、現在時点で古い陳腐存在という認識を0歳付近の存在がするわけはないか.
マズロー曰く第の人間は憐れに同情する、カフカ曰く同情とはexである、カフカも無茶苦茶言うなとは思うがそんなケースは実際には多い.またマズローの場合、憐み対象者はその匂いを嗅ぎ付けるのが犬のように得意で、あたかもストーカーのようにしつこくたかり始めるものとなる傾向もまた多い.
論理的に明瞭なことはどうでもいいと思った事があり、故に線形的な事柄は排除して生きた日々がある.当然線形対象を要求されることはどうでもよいので、畢竟…そういうことになる.かといって非線形も困難なんだが.その結果どっちも駄目のまま非線形には偏ったままだが時が過ぎ去り..
理解してもらっては困ると同時に理解できないだろう理解しても歪めるだけとか思いつつ、やはり理解できないのだけれど理解してもらいたいが理解しなくてもいいなどいう思いのまま勢いでの手紙なので、遠慮のブレーキがかかったままの思考内容文面であるはずのものだったはず.
そうそう演技的性格者はどうも洗練コンプレックスであるようだと気が付いた.
”熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に、”しかもコンブレーの情景を思い出したのだったのか?・・、水道の蛇口をひねった途端に過去の記憶がよみがえった・という文章を記憶していた、なにかでそんなところを読んだのか、はてまた自分で創作してしまっていたのか
失われし時を求めては章のタイトルセンスがいい、特に「花咲く乙女たちのかげに」という、花咲く乙女たちという言葉はいい.
人はそれが未来に生じるとは気が付かず、それが現実になっている時にも気がつかず、相手のXX達は今にして思えば直感で気が付いていたと思えるが、なぜ気が付かなかったのか、現在は過去ではなく過去は未来ではなかったのだが、未来は不明かまたは障害XX達が邪魔をしたか、または自己心理が?
そんな夢物語を描いていると思い出す、消え去ったアルベルチーヌはスワン家へ行ったのかどうなのか(落馬?で死亡だった)、そんなアルベルチーヌのような女性を描いたXXがいた、かなり独身をやめようかとまで思ったが気が付かず、今では止めてもよい女性のうちの一人だったことはよくわかっている.
夢にまで見るというのは、幸福な場合と悪夢な場合と懊悩の場合と種類に大別できるかな?、もっとありそうだが、インスピレーション性もあるかも(これは起きているときの物事の結び付けが強そう)、そうか想像域での夢もある可能性が高いな.概観では夢は忍耐の反動忍耐に刺激を受けて作動するかな
アンナカレーニナの一様情態での夢にまで見るというのはまあいいでしょうというしかないが、最近では、夢を見ながらまた厄介なことにな・・た、までいかないところで目が覚めて、茫然漠然としながらしばらくして、夢だったと気が付き、幸いを感じることがよくあった.
反発心をなぜ起こそうとするのか、それはほぼ無駄なんだが.そのような存在はまず認めず、その存在は無理解であるゆえに、すなわち何らかのうぬぼれか何かで、反発励起対象を無視しているからである、無視しているような存在に何を言えばいいのかばからしいものだ.
陰陽をボーズ・フェルミ粒子になぞらえると、太極は近いものでヒッグス場か超対称空間にはなるが、まあ想定対象は異なっているのだろう、無物質を想定してあるのだから
限定合理理性は限定合理領域なら有効である.その場合に限定合理者は限定合理のために非限定を限定にしたがるので、理不尽が生じるのは明瞭なことになる.
新井白石・室鳩巣まではその名を見たことあるが、雨森芳洲は知らず.日本史も百科全書オンパレードの様呈となる.その結果の後で結局それがどうしたになる位相が到来することになるが、そこまでには時間というものが介在する.一歌--「つまびらか事案の流れいたづらに時をめぐりて位相落着き」
自分の他者にした行為を模倣して、第三者が自分に対して他者にした行為をしてくるという現象はどんなものか.まったく自分の行為はほぼ意識しているので記憶にあり、その記憶の模倣をトートロジーという不快な蒸し返しをなぜ他者・あるいは第三者から受けねばならないのか、そんな人間ばかりで・・・
諏訪根自子は知らなかったが、安川加寿子なら名前だけは知っている.アンドロメダの時に考えてはいたな.
久方の芽出度春にぬばたまの微笑みを見てもそれとなく去り--ぬばたまが出てくるとある女子大生を浮かべるのはおろかな知識の苦きゆえに..
そうなると甘えの構造の壁を破る可能性ができることになる・・.または大陸と離れてから遺伝子が変化してという考えや、また島国になったという限定風土はかなりのインパクトで、影響をもたらした歴史時間パワーは強いかも.それ以上に遺伝子の特徴が強いのは当然なので、遺伝子はどこで成立したのか?
稀人・常世の国の考え方はユートピア要素強い、依存性や甘えはこの考え方によっちえると推察.地続きの日々を忘れてしまったか、渡って来た旧石器人よ.しかし連綿と遺伝子を受け継いでいるなら、大陸と地続きであった日々の記憶をD型日本人は持っているはずである.
嫌いな対象の場合は否定弁証法が成立すべきになる.無理に普通の弁証法を行おうとして、理不尽・不条理感情などお構いなしの単細胞性が多いことになる経験を持っている.無機的叙事的指示的人間はまずそのような存在である.マクロ的視点は指示的な面が強いことは歴然としている.
他人に事ばかり考えている--普通にはその場合、その他人も君のことを考えるものである.作品を描かない代わりに他人は何かほかのことをしているが、薬中毒や自殺未遂なんぞを普通はせず、そんな存在を考えても疲れるだけで、意味がないやそんな存在に考えられても迷惑とかまず考えるだろう.
どうもそんな存在を擁護してしまいますます反対に自己自身を愚かな位相にもっていくことになってしまう.何しろ無自覚存在などどうにもならないではないか、それでもいくらかは自覚しているはずなんだが、どうも自分のことを考えずに、変な無責任というかおかしな存在を考える身にはまたなれないと
君自身をそのように思っているという対象に対して、自分がその対象をそのように思っているのだと、思考内部保存意識をもたらす存在が多すぎて、無茶苦茶に認識を乱す存在が多すぎて大変な記憶を持っている.まず間違いなく親鸞的に自己自身分析など何も無く、自己の不明な存在達を修正しないとだが.
権力的志向存在には扱いやすい事態なのかも、避けたがり遠慮するということは単純にみるしかない才能には、自己権力力の有効性の証左の思えることだろうな.個的対象とみると問題外の人格保有者なんだが、そう思われても、無自覚の親鸞的悪人ならまた考えることも何もできないことになり不愉快すぎる.
人が集まれば自然に秩序が生まれるのは想像体感している.ただ時間がかかる消極的自由的な面は確かにある.スミスは神とは言っていないらしいので、そうなれば自然成立の秩序のことを指していることになる.それを積極的自由状況で行う経済活動が時間相克を齎している形と市場を見る事も可能になる.
そうなると市民の希望も実存性を持つことになるのだが、このひらめいた実存の地平は当たっているのかもしれない.なんのことはなく悩ませた思考停滞・思考の壁は、実存へであるのならばなんとか何かアイデアを出せそうだ、というかもうそれがアイデアにはなっている.
主体を自我でも超自我でもなく、XXをXYに誤解する多くの存在と同一意識を持つ所の理由がわからない、推定すれば、かくしかじかのXX&XYたちの男女関係には同一化の欠如がまずあるなと、独身者は当然にして、子供がいて何年も育てていても愛情の欠落がないと説明がつかないことになると.
あるコーヒーのCMが登場してこの歌手はと思い勘違いをしたことはともかく、大河の一滴なる五木寛之の随筆があるとは、そもそもこの表現に対して、「揚子江に浮かぶ一枚の笹の葉」という表現を考えたことがあり、あまりにも謙虚すぎてどうかと思う人々の中でゆえに、今ではやめているがを思い出した.
山上憶良など言う存在もいたな、すっかり忘れていた.この記憶のどこかもまた楽しからずやなのだが、「世間の住り難きを哀しぶる歌」には、徒然草と方丈記を彷彿させる、多分後者たちには参考になったことだろう.”蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ”--いいね霜とは.
中学生の時に家の二階でふと、源実朝の優雅でなおかつ悲劇の憐れさにどうしょうもない感覚を味わったことがある.実朝運命の事象を詳しくは知らないが、強烈に印象にかかった人物である.近日、これは不条理ではないかと思い至り、後年に不条理いやだと思いつつ知ったが、以前に知っていたかのかもと
なんだろうこれは、味わいがあるが新古今集的感性ではない柿本人麻呂、長調的だなこれは、明るく短調の悲哀性がない人間と見た.
不透明に見える身体持ち主は荷物的障害に見え、ほぼ確定的に窮鼠猫を噛む反応をする視野の狭い人間存在である.ただしスタミナだけはあり、本能的なバイタリティ自慢から、無知である余地にも甘えて、横暴反応矛盾構築など平然とするものであるという経験はある.
最悪な雑草俗物の即物存在なのに持続力苦痛や、冷たい空気しかないエゴ家庭・家族とか、特に不快な記憶を覚えすぎ、そもそも持続者という言葉には一定無変化の苦痛イメージと低レベル身体イメージしかなく、美的要素がない特殊存在に見える.きっと美学はないハード処理型うんざり授与者なのだ.
その昔著名で少なくとも評価の対象としたした人物に、今頃になって不快な事柄を知り、胃に否定弁証法持続的なストレスを覚え、他の要素も応援してるだろうが、ムカついて苦痛を感じている.全く他者には苦痛を覚える存在多すぎる気がする.
旧約最大の疑問は、命の木の実を食べると永遠を得るとあるが、不死の身体になるのか?それとも永遠性のことか、後者なら何でもないのだが.
つまり地球は特権を持った星ではなく、宇宙にある一つの星でしかない.地球は回っているのである.
タレブのベル・カーブは壮大な詐欺というのは言い過ぎとは思うが、線形に一石を投じたことはまちがいないが、遅すぎている.ツイッターの反応は線形意識者の数が多かったか、無理解者たちに辟易したかのタレブと推定できる.そうなるとサンタフェもやや遅きにであったことに行き着いてくる..
「影媛の青丹つかまり坂東へ」-歴史の紐解き時間を多少となったが、豊葦原瑞穂国は神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称とは、であるならば古事記・日本書紀の成立時を指すと思っていたので、これでは勘違いだがそうならば都合は非常にいいことになる.
民主の数の同一性を考えるとその領域自体は全体的であるな確かに、全会一致という考え方で一致自体がバイアスという場合もあるという考え方もあると.全体が来ると確かに権力の強制面を感じる.問題は民主主義でも駄目であるということの先が生まれていない?ことにある.
ビュリダンのロバとネーターの定理の強度差同相を示唆される書物を読み始めて面白い.新潮に選書があったんだ.山吹の坂を上って神楽坂の駅に向かった時に、右手に新潮社の看板が見えた昔、こんなところに新潮社がという意外性・今でもそのままのようだ.
積極的自由と消極的自由はバーリンなる人物が言い出したそうだ.この人物は知らないが、この言葉は本質的なのでよく用いる.国家が単一性で多様ではないとか、書物を読みだすと楽しい発見があるものだな.ビュリダンのロバ
と宇治の平等院は幾何的な位置は同様だが、心理加味のあるなしがある.
今日どこかで見たのにもう忘れている、「エジプトで奴隷生活が00年も続くだろう」という予言性はいかにもでまさかと思い、旧約聖書の成立時期を調べると、出エジプトが全Cで旧約自体は前・Cあたりから書き始められたようなので、それなら理解できると同時にその所の神秘性はなくなる--
有限有限と有限にこだわりすぎた嫌いに気が付く.有限的存在は数多く実際問題として存在事実はわかっているが、直接位相をそう持ちたくないということで.生理の有限は明らかすぎるがそれゆえにその有限を不快とする.
混沌とした/・/・//とかの遺伝子形態の行く末は知らない、またそれが単純化する周期的なのかも、より混沌度が増せば同一性はなくなっていき、互いの差異でホッブス的に争うようになるかも、その辺は均衡点・平衡点で止まるのだろうと思う.
「大相七兄爪謁気」は昔夢に見た限り、情景が浮かんだときには、兵士たち多数が近づいてきていますよ節度を保ってではなったかな・記憶が些少よみがえってきた.---そして何事もなかったようにそこに凛ととしてお立ち下さいと想像したはず.
粋とは九鬼周藏によれば寸止めのできること、すなわち衝迫力ということで、それが実際のリアルになる前の趣とか確か述べていたと記憶している.紫式部にはそれがありそうなのである.源氏物語のタイトルにはこれはいいなと思うそばからいやだめだという・ダメというより少し欠けているというもの多く
” めくりあひてみしやそれとも分ぬまに 雲かくれにしよはの月哉
”と”よをこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさし
”あふさかの関はうんざりするほど昔に聞いた・見たものだ.これは洗練狂の積極的自由の清少納言だったのか.紫式部は粋の余韻で消極的自由者と見た.
諸行無常は天にその責任を委託しているとも思え、すなわち想定外という責任外意識をもたらす結果も生じるかなと.
思考の自由-軽い気分および広い空間で・を肉体体現化してしまう欲望的存在がいる.肉体が広い空間で軽く動き回ることはありえず、不自由な束縛をする存在となる.自覚すればよいがそれが自然かつ当たり前と思っている存在は親鸞的に悪人である.
実践という言葉には多少古さを感じないこともない、叙事的虚無的な色彩も感じる.実行や実際や実質には等質空間の現在性を覚えるがである.それにしても実際の空間では有象無象のカルマ実態が強制的に出現してくるので煩わしさは免れない.
極楽浄土の明るさと地獄の暗さ、希望の市民の明るい風景とそれに付随なぜか暗黒、市場原理の明示空間と深淵へ進む必要はと考えるも、深淵の暗い領域アイデア浮かばず--これらは地球の自転の昼と夜、暗黒場とそこにきらめく星々たちなどが寄与しているのでは?.明暗とは宇宙形態が示唆している様態か
弥勒は妄想より空想的だな、ところがこれを否定しきれない宗教の存在束縛性というものがある.万が一出現するかもという奇跡事項が.(弥勒や奈落何ぞを導入してることを思い出した、ナラカは調子に乗りすぎたか?、自力から当然とりあえず密教ではあった.)
公務員というか司法的になぞらえたが、仏教において閻魔とはどこから発生したものなのだろう.仏教の開祖である釈迦が前史を参照したところで、釈迦の内部に閻魔がいないとおかしくならないか?.神の存在と悪の存在にも比して、あるいは剣のキリストか.涅槃と地獄では道教の陰陽的でもある.
ふと考えるけれど、動物愛護と人の差別・コンプライアンスをあてはめてみて、キュートな子猫と成長したライオン・虎・ゴリラ・熊などを愛護しなければならないのか?、理屈上はそうなってしまうので、人間も多様な感性と体力差があって同一地平で見るのは、記号的側面からしか成立しないかなと.
トマトの色はそういえば鈍い赤色をしている.しかしEUなどでは十分すぎるほどに料理に用いられているらしい.このような色は大体邪悪なイメージを持ってしまうのだが、そうでないものがあるか.邪悪というか、噂の妖刀村正を昔に想定したことがあり、どうにも妖気的人間からは類似を想定してしまう
無自覚な存在または自己分析能力の低い存在は自己固有性を他者に投影して、それは自己であるにも関わらず他人と認識してしまう傾向が強い.投影される方は大体どうでもいい煩わしい存在で下らないくらいに思っているので、自己卑下もいいとこ損ばかり・赤字ばかりになる.そんなものはいらないのに
交換的存在には反交換的存在が、反交換的存在には交換的存在が不快となるのは自然である今のところの状況・情況である.ただそのことに無自覚なのが多く拗れが生じることになる.
柿本朝臣人麻呂-柿本人麻呂なる人物がいたな、あまりにもオーソドックスですっかり忘れていた.山部赤人や藤原不比等も同時代か、大友家持は?やや遅れで、その父・旅人と同時代となるか.大友家持は今のところ、長きものには巻かれよが憑依のように見えている.ともかく秩父の銅発見のころの話か
莫囂圓隣之は、夜の風景の中で何事なかったかのようにそこにお立ち下さい--そんな情景を想像したことがある.たぶんこの額田王のこれの情景に違いない.となるとたぶん合っているな、男女の関係性が確か絡んでいるかいなかったかよく思い出せない?、いや絡んでいなかったかな?--白い装束も見た
高天ヶ原は明るく、八島は泥土の色鈍き土くれが所々にで、古色過ぎ。それにしても八島神話自体知らずだったので、困った。ただ古事記と日本書紀をほぼ同時期に編纂とは賢い。この仕組みに思い当たるxxイメージを持っている・当てはめたくなる記憶があり、そう解釈したい気分のある事...
人間原理ならぬ宇宙原理があると思いつく-クロ現+
フラクタルと中途半端は意識上異なるものと考えている.それにしてもようやくフラクタル心理学化、時代はますます意図通りになってきた.ようやくであるが.空白はこのためにしていたと考えることもできる.ちなみに結論は出たの女性は、プロポーズ要請ものであるが、残念だが関係に気が付かなった
何!、フラクタル心理学とな・いいじゃないか.もっと早くできるべき代物と、ただ使いこなせる能力を必要とするので扱い者が問題になりそう.ある去る昔、あるXXが結論が出たと発語してきた.不意に言われても何のことか、すでに結論は出ている・なぜならばフラクタルだからであると未発語の思い出
像変遷など別に古典で有名な書物など関係なく、誰でも当たり前に普通の事としていることである.方丈記はどちらかというとその時代の叙事的記録であると一瞥的一読からはそう思ったな.ただ無名抄なる隠し技があったとは知らなかった.そのうち深草の里ものだけは知ったが.悪くはない深草の里もの.
政治学者はなるほど、市民が希望だけれど暗黒が付随していると思ったあの若き時の不明を、簡明に説明しているようである.民主主義の負の側面を当てはめると一応の説明はできそうだ...数年前に考えて民主主義も欠陥があるがどうもそれに対してアイデアが浮かばずアローの定理で妥協としていた.
ある映画監督による000後に紫式部の意図がわかるといったやや手前的な見解にも刺激を受けて、光源氏は男の<ファム・ファタル>というべき存在になることになる.
後、与えると玉ねぎの皮を一生懸命剥き始める猿のような侵入性もあり、インベーダーのイメージに近い存在であるが、カムフラージュもまた特異な演技力があってだ・・・自己欺瞞をするという倫理の弱さから他人の親切心を利用する傾向があるという経験に基づく認識をできる.無知の無自覚かもともあるが
ゲーデルの定理はこうも言っている.人間は人間に対して説明できかねるので哲学は未完か徒労に終わる.人は他人を説明できない・理解できない可能性が非常に高い.犯罪には迷宮入りが付きまとう可能性がある・・などなど
しかし当人から見ると、古く旧式な陳腐な支配思考様式の存在が、支配しようとして・権威や権力を行使しようとして、自由意識を邪魔する結果、徒労及び無駄をする羽目になってしまっているようにしか思えず・である.
憎悪は不毛である、無駄をしたければ他人を憎めばいいということになるが、徒労に呪われているように思っている人は、他人を憎んでいるか?、どうもそのような帰結になってきた...
げーでるによれば、系において必ず説明できない現象が生じる・すなわち判断不能で曖昧なものが必ず存在している・と述べている.ということはそれを判断すれば必ず理不尽になるということである.つまりそれを判断する必要がないというのが他者に迷惑にならないということになる.
人々はなぜ関係を破壊するように不条理を齎してくるのだろう、愚かなとしか言いようがない.しつこい否定弁証法構築者たち、いつまでも反発平行線を持続・継続するだけの無駄なエネルギーのロスでしかない.
どうでもいいという対象は嫌いで邪魔で不快でその存在など見たくもないというのが実際なんだが、対象はなぜかその逆に非常にしつこく価値存在承認を要求してくるケースになってしまう.不条理で不条理は認めない、認めることはできない・認める必要はないその矛盾本質からである.
稲垣足穂の幾何ではなく吉田一穂の幾何ならなので、プラトンの幾何学云々もどうかと思いたい.
↓重力波のフィルターがかかっているものとすると適合するような
玄妙は等質空間の微妙な風の流れや芳しい風-宇宙空間の重力波のそれにも似て、幽玄はたまゆら的な音なき光の映像-宇宙に瞬く星が神秘的に見えるもの(ハッブルで見るものではなく)・昴と言いたいところだが、その趣を知らないので.
後世に残って000年近くも恥をさらしているとまで考えてしまった鶉、鴨長明の話は実際かどうかはわからぬが、俊成の代表作とはそれもありうる.またそれだけなのかとも、要するに平安・鎌倉の貴族・公家は立場上からくる要請であって、必ずしも芸術家たちではなく、その歌が多く残っていると
”野とならば鶉となりて鳴きをらむ. かりにだにやは君は来ざらむ”これ伊勢物語にあったな、幽玄と玄妙を合わせて?、幽妙という言葉・表現があったとは全く思いつかず.幽妙は幽玄自体の感覚表現に近いな.幽妙と玄妙を合わせたものが幽玄と言いたいところではある.
開き直れば誰でも理解可能な状況になってきた時間とも言えて、秘匿する必要もないことになる、最も秘匿も何も記憶すらしていない今の時間.事実が残っているのみで、その事実もほとんど誰も知らず、せいぜい・人でその人物らも記憶もしていない可能性が高いとなっている時間でもある.
ルパール壁の人物はローツェ南壁物にも挑戦しているそうで、視線はよくわかるが、ローツェの場合はおそらくなのでどうかなという思いを持つ.エベレスト南西壁もK対象もいいけれど、No.はルパールに設定していたので、ここを舞台にするとは時間が過ぎたなとしみじみ.ローツェはバリエーション
なんとなく人々から稲垣足穂的に見られた可能性の記憶がある.全くつまらないオブジェ型思考者の認識でしかないのだが、これだから他人を承認できないのである.何しろ誰のことを言っているんだ、目の前の対象について述べているのに、目の前に存在していない存在と認知しても何のことかわからない
北原白秋はカラマツとこの道しか知らないがまあそれくらいでも十分なのだ.西脇順三郎は怪物に見えて手が付かんが、超現実なら滝口修三・・やはり西脇順三郎はどこかの大学の教授ではないのかと想えるようにさらりと、奥深い思考内容を述べていたではないか、なんと本質をよく了解していた存在だった.
昔は塚本邦雄なんぞは絢爛な感性に見えたのだが、最近見た限りではほぼなんの感興もわかないつまらないものになっていた.ポテンシャル豊な時にはその幻想力も豊かで錯覚という潤色力も豊かなのであると言わざるを得ない.いわゆる若さというやつで、夭折の詩人とか持て囃される例の対象がこれ.
シミュラークルに対するシミュラークルは一体どうなるのか、ボードリャールは読んではいないが今少し見てみると、死の象徴交換で契機設定とある、困ったね現実をそのように見ていいのだけれど、それも有機性がややないかなと思える、要するに差異とは比較で前提が公理のような指摘に過ぎないのでは
あんまり当たり前すぎるので気にする必要はないとしていたが、中間存在という限り気にしなければならない現象考慮が必要な場合があった.定数ばかりにこだわりすぎ、人は生きているのである.ワンパターン教条的・戒律的人間や定評一定は定数的でもあるが..
心的現象論序説はいい書物なんだけれど、有機体が原生的疎外というのはいただけない、だれか疎外という見解に対して何やかやのこじつけ?的擁護をしているのを見たことあるが、唯物的思考者にとって疎外とは疎外以外の意味を持たない、そうでなければ観念的になるか、観念と唯物の中間の無責任になる
しかし予定ではそんなことは全く考慮していないので困ったことに、歪めた不当な現実が自然な現実であるかのようにしか判断できないおかしな存在たちは?、その存在たちが歪んでしまっているということになるなと気が付いた.クレイジーな狂人達か、まあ普通に人は狂気的という未熟な存在と思っているが
中学生の時実朝は悲劇的というか優雅の極限・はかなさの極限・哀れの極限などが迫ってきて、どうにもそれ以上実朝に関与することはできずのままがその後ずっと続いている.人々の解釈では実朝はセンスある人物となっているが、そんな悠長な心性は持てず実朝がセンスあるのかどうかは全く分からず
野田線や高崎線のホームでどうかすると浮かんでくる曲のある一部分がある.漸く措定できた・ベートーベンのロマンスである.どこかで聞いて記憶にしまい込んでしまっていたようであるロマンスの一部分.
バウンス論からは重力波とかセルンとかヒッグスとかそれは何、そんなことに大枚金をはたいて努力をした昔があったなという代物になる.こうなると無駄というのはいったい何ぞやになってしまい錯乱してくる事態になるな
”「ビッグバウンス」理論は、年に発表された”のかこれは正解だと思っている.ただし想像できかねるビッグバン.
強制ということは一方的という縦構造者になる、多分その人物も自意識で実際にそう思っていただろう.とにかくマルクス関係の翻訳ものの印象は、自動ロボット的な無責任人間を構築するように書物からは感じている.
独裁者や権威的地位や宗教創始者などは実際には政府を超えた存在真正アナーキスト(無い政府の意味で)なんだが、アナーキストとは本来それを示す存在であると思っている.そのような存在の前からは政府存在が実際は消える形でないとならない.
どうも存在論的というか時間差というか夢の中で思考・判断をしているので、現実的と思い込んでしまうような気分によくなる.
"夢は知覚の対象結果ではない"という考察がある、何この即物すぎる考え方は、即物的には当たり前すぎで、この現象学的現存在的な思考イメージは?、唯物的だからか.人は睡眠中に何らかの知覚を行使しているという未発見の何か作動をしているかも知れないではないか.とりあえずミオクロがあったり
認めずだったが認めることにすると、源氏物語とカントを結び付けて考えた存在はまずいないだろうということ.
ふと源氏物語必携を気分転換として手元にとれば、源氏物語にはモデルケースがあるとかあるではないか.なんとそう思えばさもありなんとはくるが.今の心理気分がそうさせるのか、源氏物語の文体はセロトニン豊かに感じるではないか.これもなんとと驚くが、さすればそうかと思うところはあるが認めず
未熟段階での甘えはいつか成熟の可能性余地に基づいている.未熟だから利益や不利益が生じるのはしかたがないという、よくありすぎる社会現象であるが、帰納の本質は未定にあり成熟が保証されているわけではない.帰納の未定に対するのは演繹のカバー域だが、演繹の未熟段階とは理論の不正確さか
陰謀的洗練主義は演技的性格者の得意とするところだろうが、その陰謀自体は演技に含まれるという虚偽性はともかく、その存在自体が陳腐だとエネルギーがストーカー的にしつこいバイタリティを持っていて、除去なかなかできず、自由の邪魔ばかりになるという、陳腐演技的性格者の権威・権力志向性.
どうも人々は言質を強要してくるな、別に言うべき意見なら述べるが、未定の意見を無理やり決定化にもっていこうとしても困る.嫌がらせにしかならない...そうではなく俗物の好む明晰さゆえの自然が要求するところのものという解釈もできないことはないが、それではその当人は俗物になってしまう-
科学の全盛かと思える時代の理由について考えてみると、宗教の物象化を科学というとかを考えて、ポパーの言わんとしたところもこのように思える.最も宗教は科学的解釈で科学的位相を持っていると弁明してそれがまた正解であるようにも思える記述を見たこともある.否定弁証法的かつ連携可能と.
神を持ち出している以上、ラプラスの悪魔・ニュートン空間思考判断がだ、が量子論で落ち着いても、スピノザはまだ有効性があるかも、すなわちペンローズあたりが電子は統合体とか申して、量子に一悶着を起こすようであるとだ.無限小から無限大まで解析できる知性というべきだったろう.
ミショーの不要情報はあまり関心ないがそれ以外はいいな.そういえば管理者の立場の存在として、ミショーの幻想旅行記をプレゼントした女性を思いだした.別になんとなくいい漠然とした感性のミショーだったが、本のタイトルはよく見ると対的だった.アジアにおける一野蛮人なるタイトルもいい.
Arnold M. Ludwig&Carle Tart-「Altered tate of concioune」を知らなかった.ベルグソンの偏在精神説も知らず、アンリ・ミショーは不要情報への挑戦を行ったということだったんだ.
宗教というのはその優越性優位性のために信仰者に強制を行うようなものに見えてしょうがない.阿片?アヘンとは何、権力の甘い汁もアヘン的といえばそういえる.演技的性格の快楽もアヘン的といえばそうではないか?
むしろ人間にパラダイムを想定したい、精神感応型と身体束縛型の混融から・どちらかというと今日も混融的な時代と思っているのだが、普通に人は精神感応型に進むと思うはずで、身体束縛型は旧式になると、ところがそうなると類続をどうするのかと不明になり、何らかの変転というパラダイムが必要と
試験管ベイビーも受精だが生理医学という科学を持ってくると、精卵結合の感情意義が薄れ出産に重きが行くことになってしまう.科学の存在・科学哲学の対象問題である.科学哲学はやはり無機的領域になってしまうか.
個人的に理由や根拠を述べ得ない直観では、与えられた形だが、現象的・事実的・本質的かな、受精・精卵結合が重要であるということになってはいるのだが.
トートロジーは無化でありしらけてやる気なくすか、いつまでも自己主体にとって不快な反発・異和としていらだちを継続させる.ここでは反語的に継続とは無駄あり徒労であることになってしまう.
不快な記憶の言明者は視点を変えて・・、普通に思考の後を記憶して保存している事柄を剽窃して蒸し返して発言してくるのは異性一般であり、特にXXであるので、これをXYが行うということは、そのXYがXX的であるではないかと、ふと思いついた.
のちに知ったアローの不可能性定理はその辺のところを示しているように思えるが、指摘だけで必要であるとする打開策は申していないと思っている.いわゆる啓蒙というやつで、最も定理的な啓蒙自体に到達するのも個人には大変な面もあるが.
民主集団が権力構造を持つと・横的水平的集団が縦的垂直的集団に変貌することになると、指導者は独裁傾向を持つ可能性があることは以前に考察してある.否定できないのである.縦構造になっても民主的集団とみる指導者からはフラットな塊に見える可能性が存在している.
ホップアトラクタそのスケーリング変容--という言葉を現象認知対象によりて考える
言論の自由というのは多くは自己利益のために申しているのではという考えから、言論の自由には自己不利益の面も含まれているなと思ってみた.
身体優位型人間は、身体存在自体が束縛を齎していると考えないのだろうか?、そんな人物に有限外と申しても全くの無駄であったかも・・
普通経験上によれば、不美なる存在はすべてを欲望対象と見がちで、対象は身体的存在であるとも見がちである.権力志向型存在も対象を身体的存在と見がちでもある.なぜならそもそもこれら存在の存在理由が身体的存在でしかないからである.
人は有限時空体であるというべきか、それは経験上明らかで作用上も明らかだが、それゆえに木の実を食べると永遠の命を獲得できるや、死者が復活したとか、また復活するとか、夢を子供に託すとか、宗教の開祖が戒律を守らせるようにするとか、芸術家が実在するとかである.
ただしいかなる個々人も有限の生理時間を保有していることは真実である.関係に規定されているという時には、この有限時間に規定されていることになる.そうなると関係とは有限時間のことか、人個々人の生にとって有限時間は絶対的なものとして存在していることは誰でもそうであるはずと思っている.
不快な記憶の言明者たちは僭主人間であると思い至る.大体権力的な不自然要求者だから人格は邪悪的で、無自覚である自己虚偽における自己投射を他者にして優越感を覚えるという他者には愚劣感を覚えさせる存在の記憶があると同時に、今なおそんな存在が登場して、思考愚劣気分になり苛立ちを覚えるのみ
水や火・数・リゾーマタ要素・アトモスとか、アナクシマンドロスが無限定・アペイロンをアルケーとしたとな、そうかアナクシマンドロスがなとは思う.アルケーとテロスをアレプとタウとも表現するらしい.これも思い出の戯れ要素はあるが、人はどうしてもαωを構想してしまうとしか言いようがない.
プラトンが幾何学からイデアという流れはよくわからない、ただドクサは当たり前の常識に思える直観という、ヘーゲルにとっては悟性だろうが.当たり前というのはプラトンは常識的な存在とみていることに.ワーズワースやヤスパースではなくて、個人的にはプラトンが人間的という考えをしているとなる
いや普通常識的に、リバティはゲゼルシャフト的でゲマインシャフトはフリーダム的な面は否めないな.確かに都会はゲゼルで地方はゲマイン的でもあるのはテンニースの考察は確かな現象事実である.ニュアンスがどうも異なるテンニース、リバティはクレバー的で、フリーダムはウィズダム的としているので
ようやく横柄なワンパターンXXが睥睨的存在であることに気が付く、ヘーゲル的悟性存在に睥睨型が実在するなど考えもせず、今ではそれ故にとも考えることもできるが.とにかく権力志向型は睥睨型であることは間違いない、ただその物理主義的叙事的イメージで、まるでロボットのようでもあるとも見える
先ほど市場原理で考えあぐねている明示領域から深淵領域へ思考ができたのにもう忘れてしまった.忘れたくないことだったのに.この明暗像は道教の陰陽もそうではないか?と思いついたところ.純粋志向の宗教・科学的困難な・でもなくて、貨幣重視の宗教も物象化で存在する理屈はある.
科学哲学が最も止まっていると思えて、憑依は科学ではないとの思い出しはヒントになるなと.コルニュの螺旋は無限小に収束方向を持っているが、妥協として地球点を想定して、スイングバイはコルニュの螺旋に類似できるのではというアイデアを先ほど持った.重力に関して脱出速度は地球上どこでも同じと
憑依-カルト・偏執狂・ストーカー・ファナティックなどを連想させる言葉、こうなると現代でもやはり成立することになる憑依的現象・存在の実在.自然がそこにあり、自然を持っていて、自然とともに生きる限り付きまといそうな現象では?、またかと思うXX達のヒステリーは実際は可愛くないがここに?
固有時空をありふれた表現化すると個性になる.固有時空から発せられたにせよ、情況は多数遭遇するもので、絶対的なものではない.その都度絶対かその都度塑性的か非可換的な記録ものになることは言える、”行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”なので.
写生はむしろ縄文的な牧歌的イメージがあるとすべきで、自然とともに育ちまた自然を慈しむ心がある存在ならば何でもない日常である.そこの生態系に詳しい存在はいて、だがしかしそのような人物が歌を詠むセンスあるとは珍しくもあるか.
”もも草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ”これが古今集当たりの作品内容とどのように異なるのか、単に明治に生きた今様性でしかないとしか思えず.もも草?とはどんなものか知らぬ.ちなみに黄檗の鮮黄色も見た記憶はない.写生の感性はワーズワース位相かヤスパース的かな?
”人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だ-ジョン・デューイ”これには賛同できるが、デューイ以外にもそう思っている人はやや多いイメージで見かけている気がする.なんのことはない多々単に平板なプラグマティズムという感じだったが、実験・協同という実験主義は気にしないと
不快な記憶者たちもそれに準ずる存在であり、なんというか人をドン・キホーテにしたがる・道化にしたがるのは、その存在人間自体が道化なんだということに気が付きつつある.とにかく理不尽な不自然な言明・人が風車に見えるようで全くこちらとしては困ってしまう対処という経験が不快すぎている.
キャロルやセルバンテンスは一応夢と気が付いたが、冗談などを真実と思い込んだまま消えた・消え去りそうな存在はまず如何ぬ存在には違いない.困ったものである
ふざけ・演技・遊戯・冗談・劣化謙遜など、意味のなく無駄でしかなく、徒労を齎すものを他人はなぜか真実と思う、また社会的にもそれらが事実になってくる--実際の真実は現れてこないことになってしまうという不快すぎる事態に直面する記憶やケースが多い.
自由の思想史にしろクオンタムユニバースにしろ世界の法律事情にしろ、今頃読むべき書物ではないと個人的には十分思うが、何しろ発行が今年なのであるという社会時間の遅さを思う.まあそのおかげで今頃書物を読もうということなんだが.
独裁者は一国家として設定して、その場所では超秩序的存在である.独裁者には秩序は他者に対しては存在するが、自己に関しては存在しないことになっている.そのとき独裁者はかなり自由な存在に近いが、それでも--.
睡眠をやめて起きて身体を動かしていると先手必勝的にその女性の言葉が・その状態心理が何度も想起してくる時間以上へてもいまだに邪魔な感覚で湧き上がる、何らかの心理の惑乱女で煩わしい不快な荷物的障害になる.それがXXを好まない理由になる、何しろそんな反応を好まない人材を無視している
スケーリング則がいつの間にかα戦線でも現実になっていたと認識することが多々ある.なんだか現実一般もそうなっているようなのだがどうもうまくキャッチできない.生政治とリゾームが普通の世界ならθの世界なんだが、αがΘに一致してきている.αのテーマは項目だけ設定したが考察は皆目せずで
物理的にはモジュラー関数関心で(Σ=Πもあるとか)、エネルギー&電荷状態の母関数なら超弦もかかわってきそうではある.この辺詳しい人はいるだろうが、空白時間が埋まらないほどに長いのと情報不足がある.モジュラーであるならばABCには必要だろうは想定できる.(対称行列はありふれすぎ)
エキスパートな楕円積分はテータ関数に関連すると、これと遠いアーベルの関連は今のところ無限乗積展開だが、無限乗積などは普通に存在するものとしてしまえば射影的で簡易だが、電子が確立でしか存在しない形をとる実際は困難になると.クォンタムユニバースは容易に見えたが読むのは難しかった.
ある夏の暑い日の河原で卵形回転が浮かんだ、地球自転よりその速度は明らかに早い設定であった.ここからテータのギリシャ文字を結びつけるのだが、意味合いはなんというか考えようとしない対象で記憶にあるのみ、宇宙の星で猛スピードで回転しているものは?--中性子星がまず
テータに平行四辺形積分モデルが出てきたが、小学生の時に平行四辺形の面積の出し方応用がわからなかった写実変形をいまだにというか常に思い出すプラトンの幾何学できねば哲学ができないというよくわかりかねる言葉に悩む.しかしだテータモデルをあの小学生の時予期したのではないかと引き寄せてみる
∞・-∞・∞-∞・∞⁺∞・∞*∞・∞*-∞・∞^∞:基数に行ってしまうテータチェック前に、メリン・ガンマ・連続体などなどの関連がABC
それ以上に西荻で不快なのは、魔弾の射手の狩人の合唱を聴きたかったが、何を勘違いしかそこにいたXXが奇天烈な反応をしたこと、?君にリクエストしたのではなく、何を自己に引き寄せて判断しているのか非常に不愉快な記憶として残っている.おかしなXX連中は多い.
XXは浦和で何かあったのではなく入試ミスでもなく単に高校卒業という転回点ゆえだったのが一番の可能性に今頃気が付いた.まったく何を疑ったのだろうと思うが、そんな生得的位相を持ったのもずれはあったということだ.
種の特性方程式はアルティン予想のように、全複素平面上で解析可能のような広い領域など考えたこともなく、K-理論と何ぞやでこれも考慮にあらず、そもそも非自明な既約ではないように考えたもので、これはもう単に個人的な戯れの対象となるな・・・
保型形式、人間の目・知覚から見てこの世界・宇宙が存在していることは確かなので、あるということは存在が持続しているということだから、その持続を保証している保型が想定されることになるという、自明についての何やかやの諸々がうんざり・煩わしいと思うときもあり・・
ある人物の理不尽によりどうも犠牲を強いられている気分である、まったくこの人物は理不尽を行うくらいだから、犠牲などする価値がない存在なんだが、無知の将来性時間というのはしつこく長時間の桎梏を形成するものである.全く徒労・無駄に呪われている-無知の余地時間の主張の長さという面倒臭さ
俗物は明晰を好む?・で閃いた、ある存在が荷物的な重さなのになぜ明晰なのかは俗物性豊かであるからだと.それでこんな明晰人物は不快でしょうがないと思っているのに、あるXXがその人物に対処した内部思考を当てはめてきて、ずっと不快に持っている.すなわち陋劣者のエゴ主張意識如実といいうやつ
ふざけるときは、対象がくだらないと思うがその対象を除去できず否定するわけにもいかないときや、その対象存在がくだらなすぎることに気がつかないときに行う.すなわちその対象存在やその対象言明やその対象との情況が陋劣である場合であるが
ふざけて自己劣化的演技をすると未来の現実がそのようになってしまう.自己劣化演技というのはその時点で敗北しているのかそれとも遊戯的か、演技は高々冗談に過ぎず直ぐに消え去る泡のように考えているのに、まともにとる存在もいるのは相当に無責任を味わいたいのだろう他人と見るしかないかな
アドルノの否定弁証法はFB関係もあるが、非可換にもつながるようでないと、それ自体の意味合いの存在性があるのかないかの判断要素にする.
いつも通りの渋滞・上尾夏祭り
”夏の日の午後、熟したリンゴが落ちて頭に当たって跳ね返ったときに、万有引力の法則が閃いた”らしい伝承があるとある、リンゴが落ちるのを見てではないではないか、この違いは個人的な閃きに結び付けることができるので大きい.個人的な閃きはなぜそのように考えたのかわからないものが多い.
あの時のどうやって無限というわけでもないけれど、有限型から繋げる・説明を設ける(その可能性は必要であるとした直感による)のか難しいと思ったもの、遠アーベルの着想をしていた人物の名をなぜか全く知らず、不思議である.類体論というしゃれたものをいつか時間があればの時に登場してもいいはず
p進についてある数学専攻院生XXに聞いた時に、短くは表現できないといわれたが、先ほど完全不連結空間という言葉に遭遇して、短く表現できるではないかと思った次第
勢いでカントの物自体に行ったけれど、はたっと考えるとこの物自体に行くというのはいい考えでパラレロを処理できるなと思ったが、素直な追随として物自体がそこにあるが、接近できず堂々巡りをしてしまう想定をした若き日を思い出してしまった.
呪われた写実の先にはカントの物自体があるとか、ブラマンクは物自体に近づいたとか出てくる.
だが、ちょっとした手違いがストレンジアトラクタ的な時間形成をして・・つまり無駄をさせて--ちょっとした手違いなのかどうにもほどけない強靭な偏執的があって、どうもちょっとした手違いでもないというより、ある存在がワンパターンで同一傾向を理不尽に発揮した蒸し返しトートロジーが問題かな
とりあえず考えた境界時間的時間でのシステムは、ミンコフスキー空間類似で、conic ectionの yperbola意識で ellipeの位相を構想したもので、現在に人は生きているとしたもの
”楕円曲線は整数点を有限個しか持たない”やモーデル予想とのファルティングスの定理なるものがある--特性方程式の種の既約方程式解を持つ一つの方程式は実在する可能性がある.それは楕円曲線のある形?なのか、なんだかおもむろに思いついた何のことはない方程式観が時間を保つ
叙事的存在やタナトス的存在をなくさないと平和はありえない.
目には目をという過剰防衛戒めにより、裏切りには裏切りを与えるという傾向を持つ.太宰治の駆け込み訴えをピックアップすれば太宰治は裏切り体質なので、XX的な要素あるかな、意識視点から駆け込み訴えの作者を認めるわけにはいかないことになる.太宰好み者達は俗に将来裏切りをする存在達となる
心射方位図法などどうも幾何的才能がないなさっぱりわからん測地線、最短距離が描けない.小学校の時に平行四辺形の面積だったか求め方がわからず、周りからわからないのかといわれた記憶があるが、やはり想定力が働かなかった.資質的面がある気がするな.ただしプラトンのイデアはよくわかる.
そうなるとワンパターン人間はマシン的存在になり辟易するパターン保持者という存在になる.人の固有性はそう変わるものではないので、その固有性を好むか好まないかを判断するものである.リアルであれば思考内容に増して感情が、生理・物理身体判断が成立するのは当然である.
なんだろうやや太宰治にも叙事的な抒情性のなさを感じる連中と同じような位相を感じるのだが、どうも底が浅いと思ってしまう思惟の法則的な思考能力というロボット・機械性を.ある意味太宰治は作品マシンとも感じることができるな.女性とだけは良さそうなだがこれもそのように考えるとやはりである
強靭さが嫌いでというかそのシビアな拷問一定力にとても不快な思いをしたことがあるので、ここではおそらく一定の強靭さに飽き飽きして拷問的なしつこさを覚えたある街のある駅での中学生というわけで.バイタリティがある存在も世の中にはいるというこの懸念が不快な存在の記憶を未だに覚えさせている
種の特性既約方程式はモジュライ性を持つと想定できたが、果たしてそんな特異と思えるひとつの既約方程式種を内包した方程式があるのだろうか、それはモジュライ方程式の可能性が高いことになる.こじつけ的に考えるとそれは次元方程式で、時間と空間方向に式を持つもの・すでにある?かどうか
秩序というのはその性質からしてエントロピーに逆行しているもの、エントロピーは増大するが、秩序は均衡を保とうとするので増大するわけではないが、増大しているエントロピーに対処しようとする均衡の度合いは増加していることになる.
「帰納は結論が出ない」と説得力ある判断であるなを見かけたのだが、誰だったか今は全く見つからないアメリカ人.懐疑は帰納の結論がないから導ける考えができたのもこの人物の寄与による、小学校の校庭で皮肉という言葉について知った頃が原点の犬儒
グロタンディークは数学史上の流れからとも、自己能力からとも、それは自然にともいえるけれどスキームは時間・空間多様体意識から、思惟の法則を当てはめて当たっていると思う
スキームの点が多様に、多様が点にについても、どうにもあちこちと揺れたのだが、たぶんよよのうたびと・千人万首から刺激を受けて、芭蕉の夢の跡もそうだが、時間多様体を空間的にみると点に、点を時間的にみると多様体になることがわかって・・思いついた.
メタ意識は普通に人は持っていて、マイナスメタ意識もあっていいはずの微細構造意識というものを考えてみる.エントロピーは実際にはマイナスメタを通常のメタにしているという矛盾的に思えるが対角性を排除して正常状態である.
普遍グラスマン多様体はライプニッツのモナド充満と似ているかな、無限素領域とも似ている、ファインマンダイアグラムも同じく散乱古代よりもほぼ同じ考え方という、思惟の法則があるとつまらないというアルゴリズムにも似てきて...
モジュライ空間における R の中で原点で交わる全ての直線に対応は、自由度と同じ考え方だった.モジュライはさすがに本質的であった.
蓮如は一体後世の人間をどのように考えたのか、大乗なのに秘書にするとは密教系に近づいたことになるではないか.蓮如は歎異抄の欠点を見抜いていた故にそうしたのかあるいは布教のための戦略だったのか、どうなんだろう.ニュアンスでは布教が強いが後世の人材をなめすぎた面を感じないこともない
これらの人間たちは何が不快かというと、当人の人格を認識レベルが低いとはいえ無視しているからである.そうして無視するのが都合いいように当人をある他人と同定設定措定してしまうという理不尽を受けた・受けるため.つまりそのセリフは言うのであれば他人と設定した人物に直接言うべきなのである.
ともかく無意識で自然なように見える、過去記憶既存もの発言者たちというのが始末に悪い.自覚させるのが大変でもう会わないので、そのようにうぬぼれ・偏見・無理解したまま死に至ることになるであろうが、無理解のままというのは不快ではある、ゆえに認識レベルの低さとかを言い出すのである.
そんな人間が多いのである、対自的な思考の記憶はその即自の持ち主のものであり、いわゆる「マネするな」ということに今ではなるのだが、その時には何のことを述べているかわからない・ただ茫然と思考が麻痺しただけ、にもかかわらずそれはすでに自己既存思考内容と思わずに、他者主体のものと対処して
”埴谷雄高はねえ埴谷雄高はねえ”といったので、唐突にそう言いだされても答えようがなかったが、最近思うに埴谷雄高なんぞは何でもないと言ってやればよかったかなと浮かぶがそれも今となっては詮無いこと.いわゆる目の上のたん瘤だったようであるな.
違ったか、夏草や兵どもが夢の跡は空間的要素が強い一様時間を覚える.すなわち歴史には瞬間が成立しないことになる.
空間的には単一時間は成立するが時間的には単一空間は成立しない.
紀伝体事実とはいえ、政権が代わるたびにあの手この手の制度を考えたり、民族勃興の歴史ありで、空間的には射影が成立するが、時間的にはパラダイム的な要素ありて、射影化は時間的に困難で結構な複雑さを、単一時間現在的には把握困難を呈するものだ.芭蕉の夏草や兵どもが夢の跡という時間性がある
同じだと自力個性がなくなるのでその点が不快なのである.それ以上にとんでもない認識違いをしたことが問題と父性的なアドバイスは自らが証左をすべきことで専制的な代物だったことも不快なこと.認識違いに関しては明らかに認識レベルの低さは明瞭なことはわかっているが、世間認知度量が圧力になると
野球のルールから考えたシジフォスの神話に、得点をあげる(石をあげ終わる)ために毎回下から(ノーランナー状態から)石(得点)を上げ始めるといった形は似ていると.TLのある人物曰く、そのような例は数多くあり不感症気味になっていると、確かに性的根拠・身体周期根拠物は多い.
B高側のスタンド最上段でヌードルを食べている、向こう側から歩いてくる若き乙女・二人連れの一人と視線が合い、もう位相設置の情態に、困ったな相手にしないとの状況明らかなだが、静かにその場を去りて...高のチアガールたちにも手をあげるかふりたかったがあまりにも厚かましいかと思い...
なぜか苗場なんだ、ところが歳の冬に、浦和で彼女は浮気をしたなどという思いをやや離れたところで想定してしまい心理に乱れを持ってしまった.今考えて入試で何かまずいことがありそのように思ってしまった気がする.そんなことは全く忘れていて会った時には聞くこともせずで、その弟は邪魔ばかり
一両日にふと中間存在の数が多すぎるので妥協しようかと思いついた..そうなると今は子持ちすぎるあるXXということになりだが、若き日の記憶しかないので・それも非常にまずすぎることも多いのだが・今の年を取った姿は知らない.亜麻色の髪の乙女をモデル化して、夏の苗場での草原でデートを夢見た
トレトレ・トコ・ピコ・トンはそのある人物に当てはめたつもりが、自己感性であったかのようだな..実際のバスケの試合ではいろいろのんびりしているわけにはいかないだろうが、ピコがシュートが決まった時で、トンは着地である.トレトレはリングに向かい拍子の助走で、トコがジャンプ
これらのXX&XYたちの認識能力自体のレベルが低いことは一目瞭然なのだが、これらはそんなことを露にも思わずと認定できる困った存在たちだ.一生レベルが上がらない可能性も高いかな.いろいろ不都合であるので、スーペリオリティ複合などが普通である生活などを強要してもらっては困る.
女としての物理・生理機能は十分持ってはいるが、叙事的指示性なので魅力がないのは明らかな存在が、権力志向で突っ張るのはマズロー曰く、承認要求の低次元位相であるということを、このXXは自覚していないのか・自覚してカムフラージュか、そんなことは愚かだという知力を持っている筈なのに・・・
流している曲の転回点で好奇心を呼び寄せるイントロが、あれこれは何だったかと.番の第楽章であった.ベートーベンの番といえば、変奏曲の味がない・出せそうにないつまらない女が共同的に突っ張ってあまりにも愚劣すぎる無理解を理解できず、ナンセンスに呪われてしまいいまだに不快すぎている
何しろ叙事的・指示的XX&XYは勘違いをしている、嫌な実在としか思っていないのに、説得力があると思っているかのような態度を取ってきて、邪魔でしょうがない.自力主体は権力志向者には不都合なのだろうが、自力意図が少なくともある人間には権力志向者は邪魔で偏執的なしつこい存在でしかない.
ジャワのスコール・バイカル湖の針葉樹・バルト海の何だったか、多分荒波・ではなったか.パタゴニアの風雪・中東の砂嵐・キリマンジェロの雪などとかも入れてもよかったが思いつかなかったな.
昔見た白昼夢的な、人工太陽はだれが作ったのだろう.核融合物体をそれも空間に浮かべることが可能でそれを00年以上続けるという構造物の時代は、当然惑星旅行は夏休みに行くところとなっていたが.未知との遭遇の一場面の映像は惑星旅行の映像を見ながらの風景に似ているところがあったな・・
ピーターパン症候群・・思い出の不快な存在の中に叙事的XXが巣くっていて煩わしいのだが、ピーターパニー症候群というのも想定できるなとは思う.大人になりたくないのではなく、大人になれないXX達の最低・最悪性というものが存在していないか、XYに関しては昔から常識的に言われていた...
これから先には遺伝子の違いを保存するか混淆するかが問題となるだろう.すでに混淆国家もあるようだが、しかしなれど米国など事象では差別は単純現象に見ることのできる区別であり、むしろ遺伝子の違いが極端な単純区別可能表層になっているからではないか.
国家が死滅して、貨幣もなくなってそれでそれがいつまで続く?のがないマルクスの科学もその先は観念・唯心的になりそうな予感があるが、いずれにせよマルクスは明示していないということで無責任のほったらかしということになる.そんな考え方でよいのなら楽なのではないか
複雑な変化はリゾーム的?、リゾームは複雑系?、ドルーズは否定弁証法的だったか?
坂倉登喜子もよく言うよと、単に荒沢岳が地図上に目に入って、秋の紅葉を見るのも一興のコースではと思い歩いただけの中の岳避難小屋での一フレーズをよく覚えている皮肉的な”荒沢から来た人だから”と連中はたき火を初めて、こちらがあたるわけにもいかずの秋の冷たさを忘れずの青春の一コマ
ヨゼフ・ピーパー「余暇と祝祭」なるトマス主義者がいたのか、ある時あるXXがエラスムスでしょうといった・(一体何のことだ、名前だけなら知っているが内容までは知らない)と思い、それならトマス・アクィナスを選択するという意味で、トマス・アクィナスと対抗発語したことがあることを思い出す
自由というのはリバティではない、自由に近いのはフリーダムであるが、これすら自由でもない.
ホッジに掛け算か、これでは考えれるわけもない、違いをどのように考えるかを勾配のついた道を歩きながら想定することは断念せざるを得ないとある若き日の思い出.そんな記憶から判断すると方向は良さそうだが.
フロベニオイド・・エタールテータとかなんというか、総力戦の気配があるな.楕円関数のエキスパート感触をのその後のテータまでは、ただ趣味で好きな人はいるものである.シータは角度や温度、テータはまあ大文字を使うな.(相変わらずのねじれをしつこい存在がいる)
あそこの昔は建物・人家があったのようなちょっと展望の開けるところで考えていたランダム・完全にランダムではないは、故にアトランダムという言葉が好みで、のサイドに道があるその緩やかな道を上りながら考えた、全体から全体へではあるが、その部分から部分へというのは不確かであると、
マルチバースから離散時間を思いついたエベレット性、これならうまくいくということ自体驚きなんだが.結構うまくいく長年の悩みに対して、時間自体が飛び飛びの値を持つなどとは全く考えもせずであった.
すなわち古いのはそのような陳腐な退行存在で、とにかく突っ張り往生際が悪いというか、未熟の未来余地が十分ででたらめを発揮していると思うが、現在時点で古い陳腐存在という認識を0歳付近の存在がするわけはないか.
マズロー曰く第の人間は憐れに同情する、カフカ曰く同情とはexである、カフカも無茶苦茶言うなとは思うがそんなケースは実際には多い.またマズローの場合、憐み対象者はその匂いを嗅ぎ付けるのが犬のように得意で、あたかもストーカーのようにしつこくたかり始めるものとなる傾向もまた多い.
論理的に明瞭なことはどうでもいいと思った事があり、故に線形的な事柄は排除して生きた日々がある.当然線形対象を要求されることはどうでもよいので、畢竟…そういうことになる.かといって非線形も困難なんだが.その結果どっちも駄目のまま非線形には偏ったままだが時が過ぎ去り..
理解してもらっては困ると同時に理解できないだろう理解しても歪めるだけとか思いつつ、やはり理解できないのだけれど理解してもらいたいが理解しなくてもいいなどいう思いのまま勢いでの手紙なので、遠慮のブレーキがかかったままの思考内容文面であるはずのものだったはず.
そうそう演技的性格者はどうも洗練コンプレックスであるようだと気が付いた.
”熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に、”しかもコンブレーの情景を思い出したのだったのか?・・、水道の蛇口をひねった途端に過去の記憶がよみがえった・という文章を記憶していた、なにかでそんなところを読んだのか、はてまた自分で創作してしまっていたのか
失われし時を求めては章のタイトルセンスがいい、特に「花咲く乙女たちのかげに」という、花咲く乙女たちという言葉はいい.
人はそれが未来に生じるとは気が付かず、それが現実になっている時にも気がつかず、相手のXX達は今にして思えば直感で気が付いていたと思えるが、なぜ気が付かなかったのか、現在は過去ではなく過去は未来ではなかったのだが、未来は不明かまたは障害XX達が邪魔をしたか、または自己心理が?
そんな夢物語を描いていると思い出す、消え去ったアルベルチーヌはスワン家へ行ったのかどうなのか(落馬?で死亡だった)、そんなアルベルチーヌのような女性を描いたXXがいた、かなり独身をやめようかとまで思ったが気が付かず、今では止めてもよい女性のうちの一人だったことはよくわかっている.
夢にまで見るというのは、幸福な場合と悪夢な場合と懊悩の場合と種類に大別できるかな?、もっとありそうだが、インスピレーション性もあるかも(これは起きているときの物事の結び付けが強そう)、そうか想像域での夢もある可能性が高いな.概観では夢は忍耐の反動忍耐に刺激を受けて作動するかな
アンナカレーニナの一様情態での夢にまで見るというのはまあいいでしょうというしかないが、最近では、夢を見ながらまた厄介なことにな・・た、までいかないところで目が覚めて、茫然漠然としながらしばらくして、夢だったと気が付き、幸いを感じることがよくあった.
反発心をなぜ起こそうとするのか、それはほぼ無駄なんだが.そのような存在はまず認めず、その存在は無理解であるゆえに、すなわち何らかのうぬぼれか何かで、反発励起対象を無視しているからである、無視しているような存在に何を言えばいいのかばからしいものだ.
陰陽をボーズ・フェルミ粒子になぞらえると、太極は近いものでヒッグス場か超対称空間にはなるが、まあ想定対象は異なっているのだろう、無物質を想定してあるのだから
限定合理理性は限定合理領域なら有効である.その場合に限定合理者は限定合理のために非限定を限定にしたがるので、理不尽が生じるのは明瞭なことになる.
新井白石・室鳩巣まではその名を見たことあるが、雨森芳洲は知らず.日本史も百科全書オンパレードの様呈となる.その結果の後で結局それがどうしたになる位相が到来することになるが、そこまでには時間というものが介在する.一歌--「つまびらか事案の流れいたづらに時をめぐりて位相落着き」
自分の他者にした行為を模倣して、第三者が自分に対して他者にした行為をしてくるという現象はどんなものか.まったく自分の行為はほぼ意識しているので記憶にあり、その記憶の模倣をトートロジーという不快な蒸し返しをなぜ他者・あるいは第三者から受けねばならないのか、そんな人間ばかりで・・・
諏訪根自子は知らなかったが、安川加寿子なら名前だけは知っている.アンドロメダの時に考えてはいたな.
久方の芽出度春にぬばたまの微笑みを見てもそれとなく去り--ぬばたまが出てくるとある女子大生を浮かべるのはおろかな知識の苦きゆえに..
そうなると甘えの構造の壁を破る可能性ができることになる・・.または大陸と離れてから遺伝子が変化してという考えや、また島国になったという限定風土はかなりのインパクトで、影響をもたらした歴史時間パワーは強いかも.それ以上に遺伝子の特徴が強いのは当然なので、遺伝子はどこで成立したのか?
稀人・常世の国の考え方はユートピア要素強い、依存性や甘えはこの考え方によっちえると推察.地続きの日々を忘れてしまったか、渡って来た旧石器人よ.しかし連綿と遺伝子を受け継いでいるなら、大陸と地続きであった日々の記憶をD型日本人は持っているはずである.
嫌いな対象の場合は否定弁証法が成立すべきになる.無理に普通の弁証法を行おうとして、理不尽・不条理感情などお構いなしの単細胞性が多いことになる経験を持っている.無機的叙事的指示的人間はまずそのような存在である.マクロ的視点は指示的な面が強いことは歴然としている.
他人に事ばかり考えている--普通にはその場合、その他人も君のことを考えるものである.作品を描かない代わりに他人は何かほかのことをしているが、薬中毒や自殺未遂なんぞを普通はせず、そんな存在を考えても疲れるだけで、意味がないやそんな存在に考えられても迷惑とかまず考えるだろう.
どうもそんな存在を擁護してしまいますます反対に自己自身を愚かな位相にもっていくことになってしまう.何しろ無自覚存在などどうにもならないではないか、それでもいくらかは自覚しているはずなんだが、どうも自分のことを考えずに、変な無責任というかおかしな存在を考える身にはまたなれないと
君自身をそのように思っているという対象に対して、自分がその対象をそのように思っているのだと、思考内部保存意識をもたらす存在が多すぎて、無茶苦茶に認識を乱す存在が多すぎて大変な記憶を持っている.まず間違いなく親鸞的に自己自身分析など何も無く、自己の不明な存在達を修正しないとだが.
権力的志向存在には扱いやすい事態なのかも、避けたがり遠慮するということは単純にみるしかない才能には、自己権力力の有効性の証左の思えることだろうな.個的対象とみると問題外の人格保有者なんだが、そう思われても、無自覚の親鸞的悪人ならまた考えることも何もできないことになり不愉快すぎる.
人が集まれば自然に秩序が生まれるのは想像体感している.ただ時間がかかる消極的自由的な面は確かにある.スミスは神とは言っていないらしいので、そうなれば自然成立の秩序のことを指していることになる.それを積極的自由状況で行う経済活動が時間相克を齎している形と市場を見る事も可能になる.
そうなると市民の希望も実存性を持つことになるのだが、このひらめいた実存の地平は当たっているのかもしれない.なんのことはなく悩ませた思考停滞・思考の壁は、実存へであるのならばなんとか何かアイデアを出せそうだ、というかもうそれがアイデアにはなっている.
主体を自我でも超自我でもなく、XXをXYに誤解する多くの存在と同一意識を持つ所の理由がわからない、推定すれば、かくしかじかのXX&XYたちの男女関係には同一化の欠如がまずあるなと、独身者は当然にして、子供がいて何年も育てていても愛情の欠落がないと説明がつかないことになると.
あるコーヒーのCMが登場してこの歌手はと思い勘違いをしたことはともかく、大河の一滴なる五木寛之の随筆があるとは、そもそもこの表現に対して、「揚子江に浮かぶ一枚の笹の葉」という表現を考えたことがあり、あまりにも謙虚すぎてどうかと思う人々の中でゆえに、今ではやめているがを思い出した.
山上憶良など言う存在もいたな、すっかり忘れていた.この記憶のどこかもまた楽しからずやなのだが、「世間の住り難きを哀しぶる歌」には、徒然草と方丈記を彷彿させる、多分後者たちには参考になったことだろう.”蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ”--いいね霜とは.
中学生の時に家の二階でふと、源実朝の優雅でなおかつ悲劇の憐れさにどうしょうもない感覚を味わったことがある.実朝運命の事象を詳しくは知らないが、強烈に印象にかかった人物である.近日、これは不条理ではないかと思い至り、後年に不条理いやだと思いつつ知ったが、以前に知っていたかのかもと
なんだろうこれは、味わいがあるが新古今集的感性ではない柿本人麻呂、長調的だなこれは、明るく短調の悲哀性がない人間と見た.
不透明に見える身体持ち主は荷物的障害に見え、ほぼ確定的に窮鼠猫を噛む反応をする視野の狭い人間存在である.ただしスタミナだけはあり、本能的なバイタリティ自慢から、無知である余地にも甘えて、横暴反応矛盾構築など平然とするものであるという経験はある.
最悪な雑草俗物の即物存在なのに持続力苦痛や、冷たい空気しかないエゴ家庭・家族とか、特に不快な記憶を覚えすぎ、そもそも持続者という言葉には一定無変化の苦痛イメージと低レベル身体イメージしかなく、美的要素がない特殊存在に見える.きっと美学はないハード処理型うんざり授与者なのだ.
その昔著名で少なくとも評価の対象としたした人物に、今頃になって不快な事柄を知り、胃に否定弁証法持続的なストレスを覚え、他の要素も応援してるだろうが、ムカついて苦痛を感じている.全く他者には苦痛を覚える存在多すぎる気がする.
旧約最大の疑問は、命の木の実を食べると永遠を得るとあるが、不死の身体になるのか?それとも永遠性のことか、後者なら何でもないのだが.
つまり地球は特権を持った星ではなく、宇宙にある一つの星でしかない.地球は回っているのである.
タレブのベル・カーブは壮大な詐欺というのは言い過ぎとは思うが、線形に一石を投じたことはまちがいないが、遅すぎている.ツイッターの反応は線形意識者の数が多かったか、無理解者たちに辟易したかのタレブと推定できる.そうなるとサンタフェもやや遅きにであったことに行き着いてくる..
「影媛の青丹つかまり坂東へ」-歴史の紐解き時間を多少となったが、豊葦原瑞穂国は神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称とは、であるならば古事記・日本書紀の成立時を指すと思っていたので、これでは勘違いだがそうならば都合は非常にいいことになる.
民主の数の同一性を考えるとその領域自体は全体的であるな確かに、全会一致という考え方で一致自体がバイアスという場合もあるという考え方もあると.全体が来ると確かに権力の強制面を感じる.問題は民主主義でも駄目であるということの先が生まれていない?ことにある.
ビュリダンのロバとネーターの定理の強度差同相を示唆される書物を読み始めて面白い.新潮に選書があったんだ.山吹の坂を上って神楽坂の駅に向かった時に、右手に新潮社の看板が見えた昔、こんなところに新潮社がという意外性・今でもそのままのようだ.
積極的自由と消極的自由はバーリンなる人物が言い出したそうだ.この人物は知らないが、この言葉は本質的なのでよく用いる.国家が単一性で多様ではないとか、書物を読みだすと楽しい発見があるものだな.ビュリダンのロバ
と宇治の平等院は幾何的な位置は同様だが、心理加味のあるなしがある.
今日どこかで見たのにもう忘れている、「エジプトで奴隷生活が00年も続くだろう」という予言性はいかにもでまさかと思い、旧約聖書の成立時期を調べると、出エジプトが全Cで旧約自体は前・Cあたりから書き始められたようなので、それなら理解できると同時にその所の神秘性はなくなる--
有限有限と有限にこだわりすぎた嫌いに気が付く.有限的存在は数多く実際問題として存在事実はわかっているが、直接位相をそう持ちたくないということで.生理の有限は明らかすぎるがそれゆえにその有限を不快とする.
混沌とした/・/・//とかの遺伝子形態の行く末は知らない、またそれが単純化する周期的なのかも、より混沌度が増せば同一性はなくなっていき、互いの差異でホッブス的に争うようになるかも、その辺は均衡点・平衡点で止まるのだろうと思う.
「大相七兄爪謁気」は昔夢に見た限り、情景が浮かんだときには、兵士たち多数が近づいてきていますよ節度を保ってではなったかな・記憶が些少よみがえってきた.---そして何事もなかったようにそこに凛ととしてお立ち下さいと想像したはず.
粋とは九鬼周藏によれば寸止めのできること、すなわち衝迫力ということで、それが実際のリアルになる前の趣とか確か述べていたと記憶している.紫式部にはそれがありそうなのである.源氏物語のタイトルにはこれはいいなと思うそばからいやだめだという・ダメというより少し欠けているというもの多く
” めくりあひてみしやそれとも分ぬまに 雲かくれにしよはの月哉
”と”よをこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさし
”あふさかの関はうんざりするほど昔に聞いた・見たものだ.これは洗練狂の積極的自由の清少納言だったのか.紫式部は粋の余韻で消極的自由者と見た.
諸行無常は天にその責任を委託しているとも思え、すなわち想定外という責任外意識をもたらす結果も生じるかなと.
思考の自由-軽い気分および広い空間で・を肉体体現化してしまう欲望的存在がいる.肉体が広い空間で軽く動き回ることはありえず、不自由な束縛をする存在となる.自覚すればよいがそれが自然かつ当たり前と思っている存在は親鸞的に悪人である.
実践という言葉には多少古さを感じないこともない、叙事的虚無的な色彩も感じる.実行や実際や実質には等質空間の現在性を覚えるがである.それにしても実際の空間では有象無象のカルマ実態が強制的に出現してくるので煩わしさは免れない.
極楽浄土の明るさと地獄の暗さ、希望の市民の明るい風景とそれに付随なぜか暗黒、市場原理の明示空間と深淵へ進む必要はと考えるも、深淵の暗い領域アイデア浮かばず--これらは地球の自転の昼と夜、暗黒場とそこにきらめく星々たちなどが寄与しているのでは?.明暗とは宇宙形態が示唆している様態か
弥勒は妄想より空想的だな、ところがこれを否定しきれない宗教の存在束縛性というものがある.万が一出現するかもという奇跡事項が.(弥勒や奈落何ぞを導入してることを思い出した、ナラカは調子に乗りすぎたか?、自力から当然とりあえず密教ではあった.)
公務員というか司法的になぞらえたが、仏教において閻魔とはどこから発生したものなのだろう.仏教の開祖である釈迦が前史を参照したところで、釈迦の内部に閻魔がいないとおかしくならないか?.神の存在と悪の存在にも比して、あるいは剣のキリストか.涅槃と地獄では道教の陰陽的でもある.
ふと考えるけれど、動物愛護と人の差別・コンプライアンスをあてはめてみて、キュートな子猫と成長したライオン・虎・ゴリラ・熊などを愛護しなければならないのか?、理屈上はそうなってしまうので、人間も多様な感性と体力差があって同一地平で見るのは、記号的側面からしか成立しないかなと.
トマトの色はそういえば鈍い赤色をしている.しかしEUなどでは十分すぎるほどに料理に用いられているらしい.このような色は大体邪悪なイメージを持ってしまうのだが、そうでないものがあるか.邪悪というか、噂の妖刀村正を昔に想定したことがあり、どうにも妖気的人間からは類似を想定してしまう
無自覚な存在または自己分析能力の低い存在は自己固有性を他者に投影して、それは自己であるにも関わらず他人と認識してしまう傾向が強い.投影される方は大体どうでもいい煩わしい存在で下らないくらいに思っているので、自己卑下もいいとこ損ばかり・赤字ばかりになる.そんなものはいらないのに
交換的存在には反交換的存在が、反交換的存在には交換的存在が不快となるのは自然である今のところの状況・情況である.ただそのことに無自覚なのが多く拗れが生じることになる.
柿本朝臣人麻呂-柿本人麻呂なる人物がいたな、あまりにもオーソドックスですっかり忘れていた.山部赤人や藤原不比等も同時代か、大友家持は?やや遅れで、その父・旅人と同時代となるか.大友家持は今のところ、長きものには巻かれよが憑依のように見えている.ともかく秩父の銅発見のころの話か
莫囂圓隣之は、夜の風景の中で何事なかったかのようにそこにお立ち下さい--そんな情景を想像したことがある.たぶんこの額田王のこれの情景に違いない.となるとたぶん合っているな、男女の関係性が確か絡んでいるかいなかったかよく思い出せない?、いや絡んでいなかったかな?--白い装束も見た
高天ヶ原は明るく、八島は泥土の色鈍き土くれが所々にで、古色過ぎ。それにしても八島神話自体知らずだったので、困った。ただ古事記と日本書紀をほぼ同時期に編纂とは賢い。この仕組みに思い当たるxxイメージを持っている・当てはめたくなる記憶があり、そう解釈したい気分のある事...
人間原理ならぬ宇宙原理があると思いつく-クロ現+
フラクタルと中途半端は意識上異なるものと考えている.それにしてもようやくフラクタル心理学化、時代はますます意図通りになってきた.ようやくであるが.空白はこのためにしていたと考えることもできる.ちなみに結論は出たの女性は、プロポーズ要請ものであるが、残念だが関係に気が付かなった
何!、フラクタル心理学とな・いいじゃないか.もっと早くできるべき代物と、ただ使いこなせる能力を必要とするので扱い者が問題になりそう.ある去る昔、あるXXが結論が出たと発語してきた.不意に言われても何のことか、すでに結論は出ている・なぜならばフラクタルだからであると未発語の思い出
像変遷など別に古典で有名な書物など関係なく、誰でも当たり前に普通の事としていることである.方丈記はどちらかというとその時代の叙事的記録であると一瞥的一読からはそう思ったな.ただ無名抄なる隠し技があったとは知らなかった.そのうち深草の里ものだけは知ったが.悪くはない深草の里もの.
政治学者はなるほど、市民が希望だけれど暗黒が付随していると思ったあの若き時の不明を、簡明に説明しているようである.民主主義の負の側面を当てはめると一応の説明はできそうだ...数年前に考えて民主主義も欠陥があるがどうもそれに対してアイデアが浮かばずアローの定理で妥協としていた.
ある映画監督による000後に紫式部の意図がわかるといったやや手前的な見解にも刺激を受けて、光源氏は男の<ファム・ファタル>というべき存在になることになる.
後、与えると玉ねぎの皮を一生懸命剥き始める猿のような侵入性もあり、インベーダーのイメージに近い存在であるが、カムフラージュもまた特異な演技力があってだ・・・自己欺瞞をするという倫理の弱さから他人の親切心を利用する傾向があるという経験に基づく認識をできる.無知の無自覚かもともあるが
ゲーデルの定理はこうも言っている.人間は人間に対して説明できかねるので哲学は未完か徒労に終わる.人は他人を説明できない・理解できない可能性が非常に高い.犯罪には迷宮入りが付きまとう可能性がある・・などなど
しかし当人から見ると、古く旧式な陳腐な支配思考様式の存在が、支配しようとして・権威や権力を行使しようとして、自由意識を邪魔する結果、徒労及び無駄をする羽目になってしまっているようにしか思えず・である.
憎悪は不毛である、無駄をしたければ他人を憎めばいいということになるが、徒労に呪われているように思っている人は、他人を憎んでいるか?、どうもそのような帰結になってきた...
げーでるによれば、系において必ず説明できない現象が生じる・すなわち判断不能で曖昧なものが必ず存在している・と述べている.ということはそれを判断すれば必ず理不尽になるということである.つまりそれを判断する必要がないというのが他者に迷惑にならないということになる.
人々はなぜ関係を破壊するように不条理を齎してくるのだろう、愚かなとしか言いようがない.しつこい否定弁証法構築者たち、いつまでも反発平行線を持続・継続するだけの無駄なエネルギーのロスでしかない.
どうでもいいという対象は嫌いで邪魔で不快でその存在など見たくもないというのが実際なんだが、対象はなぜかその逆に非常にしつこく価値存在承認を要求してくるケースになってしまう.不条理で不条理は認めない、認めることはできない・認める必要はないその矛盾本質からである.
稲垣足穂の幾何ではなく吉田一穂の幾何ならなので、プラトンの幾何学云々もどうかと思いたい.
↓重力波のフィルターがかかっているものとすると適合するような
玄妙は等質空間の微妙な風の流れや芳しい風-宇宙空間の重力波のそれにも似て、幽玄はたまゆら的な音なき光の映像-宇宙に瞬く星が神秘的に見えるもの(ハッブルで見るものではなく)・昴と言いたいところだが、その趣を知らないので.
後世に残って000年近くも恥をさらしているとまで考えてしまった鶉、鴨長明の話は実際かどうかはわからぬが、俊成の代表作とはそれもありうる.またそれだけなのかとも、要するに平安・鎌倉の貴族・公家は立場上からくる要請であって、必ずしも芸術家たちではなく、その歌が多く残っていると
”野とならば鶉となりて鳴きをらむ. かりにだにやは君は来ざらむ”これ伊勢物語にあったな、幽玄と玄妙を合わせて?、幽妙という言葉・表現があったとは全く思いつかず.幽妙は幽玄自体の感覚表現に近いな.幽妙と玄妙を合わせたものが幽玄と言いたいところではある.
開き直れば誰でも理解可能な状況になってきた時間とも言えて、秘匿する必要もないことになる、最も秘匿も何も記憶すらしていない今の時間.事実が残っているのみで、その事実もほとんど誰も知らず、せいぜい・人でその人物らも記憶もしていない可能性が高いとなっている時間でもある.
ルパール壁の人物はローツェ南壁物にも挑戦しているそうで、視線はよくわかるが、ローツェの場合はおそらくなのでどうかなという思いを持つ.エベレスト南西壁もK対象もいいけれど、No.はルパールに設定していたので、ここを舞台にするとは時間が過ぎたなとしみじみ.ローツェはバリエーション
なんとなく人々から稲垣足穂的に見られた可能性の記憶がある.全くつまらないオブジェ型思考者の認識でしかないのだが、これだから他人を承認できないのである.何しろ誰のことを言っているんだ、目の前の対象について述べているのに、目の前に存在していない存在と認知しても何のことかわからない
北原白秋はカラマツとこの道しか知らないがまあそれくらいでも十分なのだ.西脇順三郎は怪物に見えて手が付かんが、超現実なら滝口修三・・やはり西脇順三郎はどこかの大学の教授ではないのかと想えるようにさらりと、奥深い思考内容を述べていたではないか、なんと本質をよく了解していた存在だった.
昔は塚本邦雄なんぞは絢爛な感性に見えたのだが、最近見た限りではほぼなんの感興もわかないつまらないものになっていた.ポテンシャル豊な時にはその幻想力も豊かで錯覚という潤色力も豊かなのであると言わざるを得ない.いわゆる若さというやつで、夭折の詩人とか持て囃される例の対象がこれ.
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