2016-08-01

my ft 08012016

表現をああだこうだと公理前提とした、物象的に対象をしている・いやそれでもいいけれど、充実した自然意識を味わえない虚構になりすぎないか.--どうもθ(しつこい雑草などはセンスが異なるが全くうんざりで強要的あてはめを変えないとだ)がかぶさってくる仏人の特徴思考・・・なんともである.
 
 
 

   
シミュラークルに対するシミュラークルは一体どうなるのか、ボードリャールは読んではいないが今少し見てみると、死の象徴交換で契機設定とある、困ったね現実をそのように見ていいのだけれど、それも有機性がややないかなと思える、要するに差異とは比較で前提が公理のような指摘に過ぎないのでは
 
 
 

   
あんまり当たり前すぎるので気にする必要はないとしていたが、中間存在という限り気にしなければならない現象考慮が必要な場合があった.定数ばかりにこだわりすぎ、人は生きているのである.ワンパターン教条的・戒律的人間や定評一定は定数的でもあるが..
 
 
 

 
心的現象論序説はいい書物なんだけれど、有機体が原生的疎外というのはいただけない、だれか疎外という見解に対して何やかやのこじつけ?的擁護をしているのを見たことあるが、唯物的思考者にとって疎外とは疎外以外の意味を持たない、そうでなければ観念的になるか、観念と唯物の中間の無責任になる
 
 
 

 
しかし予定ではそんなことは全く考慮していないので困ったことに、歪めた不当な現実が自然な現実であるかのようにしか判断できないおかしな存在たちは?、その存在たちが歪んでしまっているということになるなと気が付いた.クレイジーな狂人達か、まあ普通に人は狂気的という未熟な存在と思っているが
 
 
 


中学生の時実朝は悲劇的というか優雅の極限・はかなさの極限・哀れの極限などが迫ってきて、どうにもそれ以上実朝に関与することはできずのままがその後ずっと続いている.人々の解釈では実朝はセンスある人物となっているが、そんな悠長な心性は持てず実朝がセンスあるのかどうかは全く分からず
 
 
 


野田線や高崎線のホームでどうかすると浮かんでくる曲のある一部分がある.漸く措定できた・ベートーベンのロマンスである.どこかで聞いて記憶にしまい込んでしまっていたようであるロマンスの一部分.
 
 
 


バウンス論からは重力波とかセルンとかヒッグスとかそれは何、そんなことに大枚金をはたいて努力をした昔があったなという代物になる.こうなると無駄というのはいったい何ぞやになってしまい錯乱してくる事態になるな
 
 
 

 
”「ビッグバウンス」理論は、年に発表された”のかこれは正解だと思っている.ただし想像できかねるビッグバン.
 
 
 

 
強制ということは一方的という縦構造者になる、多分その人物も自意識で実際にそう思っていただろう.とにかくマルクス関係の翻訳ものの印象は、自動ロボット的な無責任人間を構築するように書物からは感じている.
 
 
 

 
独裁者や権威的地位や宗教創始者などは実際には政府を超えた存在真正アナーキスト(無い政府の意味で)なんだが、アナーキストとは本来それを示す存在であると思っている.そのような存在の前からは政府存在が実際は消える形でないとならない.
 
 
 

 
どうも存在論的というか時間差というか夢の中で思考・判断をしているので、現実的と思い込んでしまうような気分によくなる.
 
 
 

 
"夢は知覚の対象結果ではない"という考察がある、何この即物すぎる考え方は、即物的には当たり前すぎで、この現象学的現存在的な思考イメージは?、唯物的だからか.人は睡眠中に何らかの知覚を行使しているという未発見の何か作動をしているかも知れないではないか.とりあえずミオクロがあったり
 
 
 

 
認めずだったが認めることにすると、源氏物語とカントを結び付けて考えた存在はまずいないだろうということ.
 
 
 

 
ふと源氏物語必携を気分転換として手元にとれば、源氏物語にはモデルケースがあるとかあるではないか.なんとそう思えばさもありなんとはくるが.今の心理気分がそうさせるのか、源氏物語の文体はセロトニン豊かに感じるではないか.これもなんとと驚くが、さすればそうかと思うところはあるが認めず
 
 
 

 
未熟段階での甘えはいつか成熟の可能性余地に基づいている.未熟だから利益や不利益が生じるのはしかたがないという、よくありすぎる社会現象であるが、帰納の本質は未定にあり成熟が保証されているわけではない.帰納の未定に対するのは演繹のカバー域だが、演繹の未熟段階とは理論の不正確さか
 
 
 

 
陰謀的洗練主義は演技的性格者の得意とするところだろうが、その陰謀自体は演技に含まれるという虚偽性はともかく、その存在自体が陳腐だとエネルギーがストーカー的にしつこいバイタリティを持っていて、除去なかなかできず、自由の邪魔ばかりになるという、陳腐演技的性格者の権威・権力志向性.
 
 
 



 
   
 

 
どうも人々は言質を強要してくるな、別に言うべき意見なら述べるが、未定の意見を無理やり決定化にもっていこうとしても困る.嫌がらせにしかならない...そうではなく俗物の好む明晰さゆえの自然が要求するところのものという解釈もできないことはないが、それではその当人は俗物になってしまう-
 
 
 

 
科学の全盛かと思える時代の理由について考えてみると、宗教の物象化を科学というとかを考えて、ポパーの言わんとしたところもこのように思える.最も宗教は科学的解釈で科学的位相を持っていると弁明してそれがまた正解であるようにも思える記述を見たこともある.否定弁証法的かつ連携可能と.
 
 
 

 
神を持ち出している以上、ラプラスの悪魔・ニュートン空間思考判断がだ、が量子論で落ち着いても、スピノザはまだ有効性があるかも、すなわちペンローズあたりが電子は統合体とか申して、量子に一悶着を起こすようであるとだ.無限小から無限大まで解析できる知性というべきだったろう.
 
 
 

 
ミショーの不要情報はあまり関心ないがそれ以外はいいな.そういえば管理者の立場の存在として、ミショーの幻想旅行記をプレゼントした女性を思いだした.別になんとなくいい漠然とした感性のミショーだったが、本のタイトルはよく見ると対的だった.アジアにおける一野蛮人なるタイトルもいい.
 
 
 

 
Arnold M. Ludwig&Carle Tart-「Altered tate of concioune」を知らなかった.ベルグソンの偏在精神説も知らず、アンリ・ミショーは不要情報への挑戦を行ったということだったんだ.
 
 
 

 
宗教というのはその優越性優位性のために信仰者に強制を行うようなものに見えてしょうがない.阿片?アヘンとは何、権力の甘い汁もアヘン的といえばそういえる.演技的性格の快楽もアヘン的といえばそうではないか?
 
 
 

 
むしろ人間にパラダイムを想定したい、精神感応型と身体束縛型の混融から・どちらかというと今日も混融的な時代と思っているのだが、普通に人は精神感応型に進むと思うはずで、身体束縛型は旧式になると、ところがそうなると類続をどうするのかと不明になり、何らかの変転というパラダイムが必要と
 
 
 

 
試験管ベイビーも受精だが生理医学という科学を持ってくると、精卵結合の感情意義が薄れ出産に重きが行くことになってしまう.科学の存在・科学哲学の対象問題である.科学哲学はやはり無機的領域になってしまうか.
 
 
 

 
個人的に理由や根拠を述べ得ない直観では、与えられた形だが、現象的・事実的・本質的かな、受精・精卵結合が重要であるということになってはいるのだが.
 
 
 

 
トートロジーは無化でありしらけてやる気なくすか、いつまでも自己主体にとって不快な反発・異和としていらだちを継続させる.ここでは反語的に継続とは無駄あり徒労であることになってしまう.
 
 
 

 
不快な記憶の言明者は視点を変えて・・、普通に思考の後を記憶して保存している事柄を剽窃して蒸し返して発言してくるのは異性一般であり、特にXXであるので、これをXYが行うということは、そのXYがXX的であるではないかと、ふと思いついた.
 
 
 

 
のちに知ったアローの不可能性定理はその辺のところを示しているように思えるが、指摘だけで必要であるとする打開策は申していないと思っている.いわゆる啓蒙というやつで、最も定理的な啓蒙自体に到達するのも個人には大変な面もあるが.
 
 
 

 
民主集団が権力構造を持つと・横的水平的集団が縦的垂直的集団に変貌することになると、指導者は独裁傾向を持つ可能性があることは以前に考察してある.否定できないのである.縦構造になっても民主的集団とみる指導者からはフラットな塊に見える可能性が存在している.
 
 
 

 
ホップアトラクタそのスケーリング変容--という言葉を現象認知対象によりて考える
 
 
 

 
言論の自由というのは多くは自己利益のために申しているのではという考えから、言論の自由には自己不利益の面も含まれているなと思ってみた.
 
 
 

 
身体優位型人間は、身体存在自体が束縛を齎していると考えないのだろうか?、そんな人物に有限外と申しても全くの無駄であったかも・・
 
 
 

 
普通経験上によれば、不美なる存在はすべてを欲望対象と見がちで、対象は身体的存在であるとも見がちである.権力志向型存在も対象を身体的存在と見がちでもある.なぜならそもそもこれら存在の存在理由が身体的存在でしかないからである.
 
 
 

 
人は有限時空体であるというべきか、それは経験上明らかで作用上も明らかだが、それゆえに木の実を食べると永遠の命を獲得できるや、死者が復活したとか、また復活するとか、夢を子供に託すとか、宗教の開祖が戒律を守らせるようにするとか、芸術家が実在するとかである.
 
 
 

 
ただしいかなる個々人も有限の生理時間を保有していることは真実である.関係に規定されているという時には、この有限時間に規定されていることになる.そうなると関係とは有限時間のことか、人個々人の生にとって有限時間は絶対的なものとして存在していることは誰でもそうであるはずと思っている.
 
 
 

 
不快な記憶の言明者たちは僭主人間であると思い至る.大体権力的な不自然要求者だから人格は邪悪的で、無自覚である自己虚偽における自己投射を他者にして優越感を覚えるという他者には愚劣感を覚えさせる存在の記憶があると同時に、今なおそんな存在が登場して、思考愚劣気分になり苛立ちを覚えるのみ
 
 
 

 
水や火・数・リゾーマタ要素・アトモスとか、アナクシマンドロスが無限定・アペイロンをアルケーとしたとな、そうかアナクシマンドロスがなとは思う.アルケーとテロスをアレプとタウとも表現するらしい.これも思い出の戯れ要素はあるが、人はどうしてもαωを構想してしまうとしか言いようがない.
 
 
 

 
プラトンが幾何学からイデアという流れはよくわからない、ただドクサは当たり前の常識に思える直観という、ヘーゲルにとっては悟性だろうが.当たり前というのはプラトンは常識的な存在とみていることに.ワーズワースやヤスパースではなくて、個人的にはプラトンが人間的という考えをしているとなる
 
 
 

 
いや普通常識的に、リバティはゲゼルシャフト的でゲマインシャフトはフリーダム的な面は否めないな.確かに都会はゲゼルで地方はゲマイン的でもあるのはテンニースの考察は確かな現象事実である.ニュアンスがどうも異なるテンニース、リバティはクレバー的で、フリーダムはウィズダム的としているので
 
 
 

 
ようやく横柄なワンパターンXXが睥睨的存在であることに気が付く、ヘーゲル的悟性存在に睥睨型が実在するなど考えもせず、今ではそれ故にとも考えることもできるが.とにかく権力志向型は睥睨型であることは間違いない、ただその物理主義的叙事的イメージで、まるでロボットのようでもあるとも見える
 
 
 

 
先ほど市場原理で考えあぐねている明示領域から深淵領域へ思考ができたのにもう忘れてしまった.忘れたくないことだったのに.この明暗像は道教の陰陽もそうではないか?と思いついたところ.純粋志向の宗教・科学的困難な・でもなくて、貨幣重視の宗教も物象化で存在する理屈はある.
 
 
 

 
科学哲学が最も止まっていると思えて、憑依は科学ではないとの思い出しはヒントになるなと.コルニュの螺旋は無限小に収束方向を持っているが、妥協として地球点を想定して、スイングバイはコルニュの螺旋に類似できるのではというアイデアを先ほど持った.重力に関して脱出速度は地球上どこでも同じと
 
 
 

 
憑依-カルト・偏執狂・ストーカー・ファナティックなどを連想させる言葉、こうなると現代でもやはり成立することになる憑依的現象・存在の実在.自然がそこにあり、自然を持っていて、自然とともに生きる限り付きまといそうな現象では?、またかと思うXX達のヒステリーは実際は可愛くないがここに?
 
 
 

 
固有時空をありふれた表現化すると個性になる.固有時空から発せられたにせよ、情況は多数遭遇するもので、絶対的なものではない.その都度絶対かその都度塑性的か非可換的な記録ものになることは言える、”行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”なので.
 
 
 

 
写生はむしろ縄文的な牧歌的イメージがあるとすべきで、自然とともに育ちまた自然を慈しむ心がある存在ならば何でもない日常である.そこの生態系に詳しい存在はいて、だがしかしそのような人物が歌を詠むセンスあるとは珍しくもあるか.
 
 
 

 
”もも草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ”これが古今集当たりの作品内容とどのように異なるのか、単に明治に生きた今様性でしかないとしか思えず.もも草?とはどんなものか知らぬ.ちなみに黄檗の鮮黄色も見た記憶はない.写生の感性はワーズワース位相かヤスパース的かな?
 
 
 

 
”人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だ-ジョン・デューイ”これには賛同できるが、デューイ以外にもそう思っている人はやや多いイメージで見かけている気がする.なんのことはない多々単に平板なプラグマティズムという感じだったが、実験・協同という実験主義は気にしないと
 
 
 

 
不快な記憶者たちもそれに準ずる存在であり、なんというか人をドン・キホーテにしたがる・道化にしたがるのは、その存在人間自体が道化なんだということに気が付きつつある.とにかく理不尽な不自然な言明・人が風車に見えるようで全くこちらとしては困ってしまう対処という経験が不快すぎている.
 
 
 

 
キャロルやセルバンテンスは一応夢と気が付いたが、冗談などを真実と思い込んだまま消えた・消え去りそうな存在はまず如何ぬ存在には違いない.困ったものである
 
 
 

 
ふざけ・演技・遊戯・冗談・劣化謙遜など、意味のなく無駄でしかなく、徒労を齎すものを他人はなぜか真実と思う、また社会的にもそれらが事実になってくる--実際の真実は現れてこないことになってしまうという不快すぎる事態に直面する記憶やケースが多い.
 
 
 

 
自由の思想史にしろクオンタムユニバースにしろ世界の法律事情にしろ、今頃読むべき書物ではないと個人的には十分思うが、何しろ発行が今年なのであるという社会時間の遅さを思う.まあそのおかげで今頃書物を読もうということなんだが.
 
 
 

 
独裁者は一国家として設定して、その場所では超秩序的存在である.独裁者には秩序は他者に対しては存在するが、自己に関しては存在しないことになっている.そのとき独裁者はかなり自由な存在に近いが、それでも--.
 
 
 

 
睡眠をやめて起きて身体を動かしていると先手必勝的にその女性の言葉が・その状態心理が何度も想起してくる時間以上へてもいまだに邪魔な感覚で湧き上がる、何らかの心理の惑乱女で煩わしい不快な荷物的障害になる.それがXXを好まない理由になる、何しろそんな反応を好まない人材を無視している
 
 
 


スケーリング則がいつの間にかα戦線でも現実になっていたと認識することが多々ある.なんだか現実一般もそうなっているようなのだがどうもうまくキャッチできない.生政治とリゾームが普通の世界ならθの世界なんだが、αがΘに一致してきている.αのテーマは項目だけ設定したが考察は皆目せずで
 
 
 

 
物理的にはモジュラー関数関心で(Σ=Πもあるとか)、エネルギー&電荷状態の母関数なら超弦もかかわってきそうではある.この辺詳しい人はいるだろうが、空白時間が埋まらないほどに長いのと情報不足がある.モジュラーであるならばABCには必要だろうは想定できる.(対称行列はありふれすぎ)
 
 
 

 
エキスパートな楕円積分はテータ関数に関連すると、これと遠いアーベルの関連は今のところ無限乗積展開だが、無限乗積などは普通に存在するものとしてしまえば射影的で簡易だが、電子が確立でしか存在しない形をとる実際は困難になると.クォンタムユニバースは容易に見えたが読むのは難しかった.
 
 
 

 
ある夏の暑い日の河原で卵形回転が浮かんだ、地球自転よりその速度は明らかに早い設定であった.ここからテータのギリシャ文字を結びつけるのだが、意味合いはなんというか考えようとしない対象で記憶にあるのみ、宇宙の星で猛スピードで回転しているものは?--中性子星がまず
 
 
 

 
テータに平行四辺形積分モデルが出てきたが、小学生の時に平行四辺形の面積の出し方応用がわからなかった写実変形をいまだにというか常に思い出すプラトンの幾何学できねば哲学ができないというよくわかりかねる言葉に悩む.しかしだテータモデルをあの小学生の時予期したのではないかと引き寄せてみる
 
 
 

 
∞・-∞・∞-∞・∞⁺∞・∞*∞・∞*-∞・∞^∞:基数に行ってしまうテータチェック前に、メリン・ガンマ・連続体などなどの関連がABC
 
 
 

 
それ以上に西荻で不快なのは、魔弾の射手の狩人の合唱を聴きたかったが、何を勘違いしかそこにいたXXが奇天烈な反応をしたこと、?君にリクエストしたのではなく、何を自己に引き寄せて判断しているのか非常に不愉快な記憶として残っている.おかしなXX連中は多い.
 
 
 

 
XXは浦和で何かあったのではなく入試ミスでもなく単に高校卒業という転回点ゆえだったのが一番の可能性に今頃気が付いた.まったく何を疑ったのだろうと思うが、そんな生得的位相を持ったのもずれはあったということだ.
 
 
 

 
種の特性方程式はアルティン予想のように、全複素平面上で解析可能のような広い領域など考えたこともなく、K-理論と何ぞやでこれも考慮にあらず、そもそも非自明な既約ではないように考えたもので、これはもう単に個人的な戯れの対象となるな・・・
 
 
 

 
保型形式、人間の目・知覚から見てこの世界・宇宙が存在していることは確かなので、あるということは存在が持続しているということだから、その持続を保証している保型が想定されることになるという、自明についての何やかやの諸々がうんざり・煩わしいと思うときもあり・・
 
 
 

 
ある人物の理不尽によりどうも犠牲を強いられている気分である、まったくこの人物は理不尽を行うくらいだから、犠牲などする価値がない存在なんだが、無知の将来性時間というのはしつこく長時間の桎梏を形成するものである.全く徒労・無駄に呪われている-無知の余地時間の主張の長さという面倒臭さ
 
 
 

 
俗物は明晰を好む?・で閃いた、ある存在が荷物的な重さなのになぜ明晰なのかは俗物性豊かであるからだと.それでこんな明晰人物は不快でしょうがないと思っているのに、あるXXがその人物に対処した内部思考を当てはめてきて、ずっと不快に持っている.すなわち陋劣者のエゴ主張意識如実といいうやつ
 
 
 

 
ふざけるときは、対象がくだらないと思うがその対象を除去できず否定するわけにもいかないときや、その対象存在がくだらなすぎることに気がつかないときに行う.すなわちその対象存在やその対象言明やその対象との情況が陋劣である場合であるが
 
 
 

 
ふざけて自己劣化的演技をすると未来の現実がそのようになってしまう.自己劣化演技というのはその時点で敗北しているのかそれとも遊戯的か、演技は高々冗談に過ぎず直ぐに消え去る泡のように考えているのに、まともにとる存在もいるのは相当に無責任を味わいたいのだろう他人と見るしかないかな
 
 
 

 
アドルノの否定弁証法はFB関係もあるが、非可換にもつながるようでないと、それ自体の意味合いの存在性があるのかないかの判断要素にする.
 
 
 

 
いつも通りの渋滞・上尾夏祭り

 
 
 

 
”夏の日の午後、熟したリンゴが落ちて頭に当たって跳ね返ったときに、万有引力の法則が閃いた”らしい伝承があるとある、リンゴが落ちるのを見てではないではないか、この違いは個人的な閃きに結び付けることができるので大きい.個人的な閃きはなぜそのように考えたのかわからないものが多い.
 
 
 

 
あの時のどうやって無限というわけでもないけれど、有限型から繋げる・説明を設ける(その可能性は必要であるとした直感による)のか難しいと思ったもの、遠アーベルの着想をしていた人物の名をなぜか全く知らず、不思議である.類体論というしゃれたものをいつか時間があればの時に登場してもいいはず
 
 
 

 
p進についてある数学専攻院生XXに聞いた時に、短くは表現できないといわれたが、先ほど完全不連結空間という言葉に遭遇して、短く表現できるではないかと思った次第
 
   
 

 
勢いでカントの物自体に行ったけれど、はたっと考えるとこの物自体に行くというのはいい考えでパラレロを処理できるなと思ったが、素直な追随として物自体がそこにあるが、接近できず堂々巡りをしてしまう想定をした若き日を思い出してしまった.
 
 
 

 
呪われた写実の先にはカントの物自体があるとか、ブラマンクは物自体に近づいたとか出てくる.
 
 
 

 
だが、ちょっとした手違いがストレンジアトラクタ的な時間形成をして・・つまり無駄をさせて--ちょっとした手違いなのかどうにもほどけない強靭な偏執的があって、どうもちょっとした手違いでもないというより、ある存在がワンパターンで同一傾向を理不尽に発揮した蒸し返しトートロジーが問題かな
 
 
 

 
とりあえず考えた境界時間的時間でのシステムは、ミンコフスキー空間類似で、conic ectionの yperbola意識で ellipeの位相を構想したもので、現在に人は生きているとしたもの
 
 
 

 
”楕円曲線は整数点を有限個しか持たない”やモーデル予想とのファルティングスの定理なるものがある--特性方程式の種の既約方程式解を持つ一つの方程式は実在する可能性がある.それは楕円曲線のある形?なのか、なんだかおもむろに思いついた何のことはない方程式観が時間を保つ
 
 
 

 
叙事的存在やタナトス的存在をなくさないと平和はありえない.
 
 
 

 
目には目をという過剰防衛戒めにより、裏切りには裏切りを与えるという傾向を持つ.太宰治の駆け込み訴えをピックアップすれば太宰治は裏切り体質なので、XX的な要素あるかな、意識視点から駆け込み訴えの作者を認めるわけにはいかないことになる.太宰好み者達は俗に将来裏切りをする存在達となる
 
 
 

 
心射方位図法などどうも幾何的才能がないなさっぱりわからん測地線、最短距離が描けない.小学校の時に平行四辺形の面積だったか求め方がわからず、周りからわからないのかといわれた記憶があるが、やはり想定力が働かなかった.資質的面がある気がするな.ただしプラトンのイデアはよくわかる.
 
 
 

 
そうなるとワンパターン人間はマシン的存在になり辟易するパターン保持者という存在になる.人の固有性はそう変わるものではないので、その固有性を好むか好まないかを判断するものである.リアルであれば思考内容に増して感情が、生理・物理身体判断が成立するのは当然である.
 
 
 

 
なんだろうやや太宰治にも叙事的な抒情性のなさを感じる連中と同じような位相を感じるのだが、どうも底が浅いと思ってしまう思惟の法則的な思考能力というロボット・機械性を.ある意味太宰治は作品マシンとも感じることができるな.女性とだけは良さそうなだがこれもそのように考えるとやはりである
 
 
 

 
強靭さが嫌いでというかそのシビアな拷問一定力にとても不快な思いをしたことがあるので、ここではおそらく一定の強靭さに飽き飽きして拷問的なしつこさを覚えたある街のある駅での中学生というわけで.バイタリティがある存在も世の中にはいるというこの懸念が不快な存在の記憶を未だに覚えさせている
 
 
 

 
種の特性既約方程式はモジュライ性を持つと想定できたが、果たしてそんな特異と思えるひとつの既約方程式種を内包した方程式があるのだろうか、それはモジュライ方程式の可能性が高いことになる.こじつけ的に考えるとそれは次元方程式で、時間と空間方向に式を持つもの・すでにある?かどうか
 
 
 

 
秩序というのはその性質からしてエントロピーに逆行しているもの、エントロピーは増大するが、秩序は均衡を保とうとするので増大するわけではないが、増大しているエントロピーに対処しようとする均衡の度合いは増加していることになる.
 
 
 

 
「帰納は結論が出ない」と説得力ある判断であるなを見かけたのだが、誰だったか今は全く見つからないアメリカ人.懐疑は帰納の結論がないから導ける考えができたのもこの人物の寄与による、小学校の校庭で皮肉という言葉について知った頃が原点の犬儒
 
 
 

 
グロタンディークは数学史上の流れからとも、自己能力からとも、それは自然にともいえるけれどスキームは時間・空間多様体意識から、思惟の法則を当てはめて当たっていると思う
 
 
 

 
スキームの点が多様に、多様が点にについても、どうにもあちこちと揺れたのだが、たぶんよよのうたびと・千人万首から刺激を受けて、芭蕉の夢の跡もそうだが、時間多様体を空間的にみると点に、点を時間的にみると多様体になることがわかって・・思いついた.
 
 
 

 
メタ意識は普通に人は持っていて、マイナスメタ意識もあっていいはずの微細構造意識というものを考えてみる.エントロピーは実際にはマイナスメタを通常のメタにしているという矛盾的に思えるが対角性を排除して正常状態である.
 
 
 

 
普遍グラスマン多様体はライプニッツのモナド充満と似ているかな、無限素領域とも似ている、ファインマンダイアグラムも同じく散乱古代よりもほぼ同じ考え方という、思惟の法則があるとつまらないというアルゴリズムにも似てきて...
 
 
 

 
モジュライ空間における R の中で原点で交わる全ての直線に対応は、自由度と同じ考え方だった.モジュライはさすがに本質的であった.
 
 
 

 
蓮如は一体後世の人間をどのように考えたのか、大乗なのに秘書にするとは密教系に近づいたことになるではないか.蓮如は歎異抄の欠点を見抜いていた故にそうしたのかあるいは布教のための戦略だったのか、どうなんだろう.ニュアンスでは布教が強いが後世の人材をなめすぎた面を感じないこともない
 
 
 

 
これらの人間たちは何が不快かというと、当人の人格を認識レベルが低いとはいえ無視しているからである.そうして無視するのが都合いいように当人をある他人と同定設定措定してしまうという理不尽を受けた・受けるため.つまりそのセリフは言うのであれば他人と設定した人物に直接言うべきなのである.
 
 
 

 
ともかく無意識で自然なように見える、過去記憶既存もの発言者たちというのが始末に悪い.自覚させるのが大変でもう会わないので、そのようにうぬぼれ・偏見・無理解したまま死に至ることになるであろうが、無理解のままというのは不快ではある、ゆえに認識レベルの低さとかを言い出すのである.
 
 
 

 
そんな人間が多いのである、対自的な思考の記憶はその即自の持ち主のものであり、いわゆる「マネするな」ということに今ではなるのだが、その時には何のことを述べているかわからない・ただ茫然と思考が麻痺しただけ、にもかかわらずそれはすでに自己既存思考内容と思わずに、他者主体のものと対処して
 
 
 

 
”埴谷雄高はねえ埴谷雄高はねえ”といったので、唐突にそう言いだされても答えようがなかったが、最近思うに埴谷雄高なんぞは何でもないと言ってやればよかったかなと浮かぶがそれも今となっては詮無いこと.いわゆる目の上のたん瘤だったようであるな.
 
 
 

 
違ったか、夏草や兵どもが夢の跡は空間的要素が強い一様時間を覚える.すなわち歴史には瞬間が成立しないことになる.
 
 
 

 
空間的には単一時間は成立するが時間的には単一空間は成立しない.
 
 
 

 
紀伝体事実とはいえ、政権が代わるたびにあの手この手の制度を考えたり、民族勃興の歴史ありで、空間的には射影が成立するが、時間的にはパラダイム的な要素ありて、射影化は時間的に困難で結構な複雑さを、単一時間現在的には把握困難を呈するものだ.芭蕉の夏草や兵どもが夢の跡という時間性がある
 
 
 

 
同じだと自力個性がなくなるのでその点が不快なのである.それ以上にとんでもない認識違いをしたことが問題と父性的なアドバイスは自らが証左をすべきことで専制的な代物だったことも不快なこと.認識違いに関しては明らかに認識レベルの低さは明瞭なことはわかっているが、世間認知度量が圧力になると
 
 
 

 
野球のルールから考えたシジフォスの神話に、得点をあげる(石をあげ終わる)ために毎回下から(ノーランナー状態から)石(得点)を上げ始めるといった形は似ていると.TLのある人物曰く、そのような例は数多くあり不感症気味になっていると、確かに性的根拠・身体周期根拠物は多い.
 
 
 

 
B高側のスタンド最上段でヌードルを食べている、向こう側から歩いてくる若き乙女・二人連れの一人と視線が合い、もう位相設置の情態に、困ったな相手にしないとの状況明らかなだが、静かにその場を去りて...高のチアガールたちにも手をあげるかふりたかったがあまりにも厚かましいかと思い...
 
 
 

 
なぜか苗場なんだ、ところが歳の冬に、浦和で彼女は浮気をしたなどという思いをやや離れたところで想定してしまい心理に乱れを持ってしまった.今考えて入試で何かまずいことがありそのように思ってしまった気がする.そんなことは全く忘れていて会った時には聞くこともせずで、その弟は邪魔ばかり
 
 
 

 
一両日にふと中間存在の数が多すぎるので妥協しようかと思いついた..そうなると今は子持ちすぎるあるXXということになりだが、若き日の記憶しかないので・それも非常にまずすぎることも多いのだが・今の年を取った姿は知らない.亜麻色の髪の乙女をモデル化して、夏の苗場での草原でデートを夢見た
 
 
 

 
トレトレ・トコ・ピコ・トンはそのある人物に当てはめたつもりが、自己感性であったかのようだな..実際のバスケの試合ではいろいろのんびりしているわけにはいかないだろうが、ピコがシュートが決まった時で、トンは着地である.トレトレはリングに向かい拍子の助走で、トコがジャンプ
 
 
 

 
これらのXX&XYたちの認識能力自体のレベルが低いことは一目瞭然なのだが、これらはそんなことを露にも思わずと認定できる困った存在たちだ.一生レベルが上がらない可能性も高いかな.いろいろ不都合であるので、スーペリオリティ複合などが普通である生活などを強要してもらっては困る.
 
 
 

 
女としての物理・生理機能は十分持ってはいるが、叙事的指示性なので魅力がないのは明らかな存在が、権力志向で突っ張るのはマズロー曰く、承認要求の低次元位相であるということを、このXXは自覚していないのか・自覚してカムフラージュか、そんなことは愚かだという知力を持っている筈なのに・・・
 
 
 

 
流している曲の転回点で好奇心を呼び寄せるイントロが、あれこれは何だったかと.番の第楽章であった.ベートーベンの番といえば、変奏曲の味がない・出せそうにないつまらない女が共同的に突っ張ってあまりにも愚劣すぎる無理解を理解できず、ナンセンスに呪われてしまいいまだに不快すぎている
 
 
 

 
何しろ叙事的・指示的XX&XYは勘違いをしている、嫌な実在としか思っていないのに、説得力があると思っているかのような態度を取ってきて、邪魔でしょうがない.自力主体は権力志向者には不都合なのだろうが、自力意図が少なくともある人間には権力志向者は邪魔で偏執的なしつこい存在でしかない.
 
 
 

 
ジャワのスコール・バイカル湖の針葉樹・バルト海の何だったか、多分荒波・ではなったか.パタゴニアの風雪・中東の砂嵐・キリマンジェロの雪などとかも入れてもよかったが思いつかなかったな.
 
 
 

 
昔見た白昼夢的な、人工太陽はだれが作ったのだろう.核融合物体をそれも空間に浮かべることが可能でそれを00年以上続けるという構造物の時代は、当然惑星旅行は夏休みに行くところとなっていたが.未知との遭遇の一場面の映像は惑星旅行の映像を見ながらの風景に似ているところがあったな・・
 
 
 

 
ピーターパン症候群・・思い出の不快な存在の中に叙事的XXが巣くっていて煩わしいのだが、ピーターパニー症候群というのも想定できるなとは思う.大人になりたくないのではなく、大人になれないXX達の最低・最悪性というものが存在していないか、XYに関しては昔から常識的に言われていた...
 
 
 

 
これから先には遺伝子の違いを保存するか混淆するかが問題となるだろう.すでに混淆国家もあるようだが、しかしなれど米国など事象では差別は単純現象に見ることのできる区別であり、むしろ遺伝子の違いが極端な単純区別可能表層になっているからではないか.
 
 
 

 
国家が死滅して、貨幣もなくなってそれでそれがいつまで続く?のがないマルクスの科学もその先は観念・唯心的になりそうな予感があるが、いずれにせよマルクスは明示していないということで無責任のほったらかしということになる.そんな考え方でよいのなら楽なのではないか
 
 
 

 
複雑な変化はリゾーム的?、リゾームは複雑系?、ドルーズは否定弁証法的だったか?
 
 
 


坂倉登喜子もよく言うよと、単に荒沢岳が地図上に目に入って、秋の紅葉を見るのも一興のコースではと思い歩いただけの中の岳避難小屋での一フレーズをよく覚えている皮肉的な”荒沢から来た人だから”と連中はたき火を初めて、こちらがあたるわけにもいかずの秋の冷たさを忘れずの青春の一コマ
 
 
 


ヨゼフ・ピーパー「余暇と祝祭」なるトマス主義者がいたのか、ある時あるXXがエラスムスでしょうといった・(一体何のことだ、名前だけなら知っているが内容までは知らない)と思い、それならトマス・アクィナスを選択するという意味で、トマス・アクィナスと対抗発語したことがあることを思い出す
 
 
 


自由というのはリバティではない、自由に近いのはフリーダムであるが、これすら自由でもない.
 
 
 

 
ホッジに掛け算か、これでは考えれるわけもない、違いをどのように考えるかを勾配のついた道を歩きながら想定することは断念せざるを得ないとある若き日の思い出.そんな記憶から判断すると方向は良さそうだが.
 
 
 

 
フロベニオイド・・エタールテータとかなんというか、総力戦の気配があるな.楕円関数のエキスパート感触をのその後のテータまでは、ただ趣味で好きな人はいるものである.シータは角度や温度、テータはまあ大文字を使うな.(相変わらずのねじれをしつこい存在がいる)
 
 
 

 
あそこの昔は建物・人家があったのようなちょっと展望の開けるところで考えていたランダム・完全にランダムではないは、故にアトランダムという言葉が好みで、のサイドに道があるその緩やかな道を上りながら考えた、全体から全体へではあるが、その部分から部分へというのは不確かであると、
 
 
 

 
マルチバースから離散時間を思いついたエベレット性、これならうまくいくということ自体驚きなんだが.結構うまくいく長年の悩みに対して、時間自体が飛び飛びの値を持つなどとは全く考えもせずであった.
 
 
 

 
すなわち古いのはそのような陳腐な退行存在で、とにかく突っ張り往生際が悪いというか、未熟の未来余地が十分ででたらめを発揮していると思うが、現在時点で古い陳腐存在という認識を0歳付近の存在がするわけはないか.
 
 
 

 
マズロー曰く第の人間は憐れに同情する、カフカ曰く同情とはexである、カフカも無茶苦茶言うなとは思うがそんなケースは実際には多い.またマズローの場合、憐み対象者はその匂いを嗅ぎ付けるのが犬のように得意で、あたかもストーカーのようにしつこくたかり始めるものとなる傾向もまた多い.
 
 
 

 
論理的に明瞭なことはどうでもいいと思った事があり、故に線形的な事柄は排除して生きた日々がある.当然線形対象を要求されることはどうでもよいので、畢竟…そういうことになる.かといって非線形も困難なんだが.その結果どっちも駄目のまま非線形には偏ったままだが時が過ぎ去り..
 
 
 

 
理解してもらっては困ると同時に理解できないだろう理解しても歪めるだけとか思いつつ、やはり理解できないのだけれど理解してもらいたいが理解しなくてもいいなどいう思いのまま勢いでの手紙なので、遠慮のブレーキがかかったままの思考内容文面であるはずのものだったはず.
 
 
 

 
そうそう演技的性格者はどうも洗練コンプレックスであるようだと気が付いた.
 
 
 

 
”熱い紅茶にプチット・マドレーヌを浸して食べた時に、”しかもコンブレーの情景を思い出したのだったのか?・・、水道の蛇口をひねった途端に過去の記憶がよみがえった・という文章を記憶していた、なにかでそんなところを読んだのか、はてまた自分で創作してしまっていたのか
 
 
 

 
失われし時を求めては章のタイトルセンスがいい、特に「花咲く乙女たちのかげに」という、花咲く乙女たちという言葉はいい.
 
 
 

 
人はそれが未来に生じるとは気が付かず、それが現実になっている時にも気がつかず、相手のXX達は今にして思えば直感で気が付いていたと思えるが、なぜ気が付かなかったのか、現在は過去ではなく過去は未来ではなかったのだが、未来は不明かまたは障害XX達が邪魔をしたか、または自己心理が?
 
 
 

 
そんな夢物語を描いていると思い出す、消え去ったアルベルチーヌはスワン家へ行ったのかどうなのか(落馬?で死亡だった)、そんなアルベルチーヌのような女性を描いたXXがいた、かなり独身をやめようかとまで思ったが気が付かず、今では止めてもよい女性のうちの一人だったことはよくわかっている.
 
 
 

 
夢にまで見るというのは、幸福な場合と悪夢な場合と懊悩の場合と種類に大別できるかな?、もっとありそうだが、インスピレーション性もあるかも(これは起きているときの物事の結び付けが強そう)、そうか想像域での夢もある可能性が高いな.概観では夢は忍耐の反動忍耐に刺激を受けて作動するかな
 
 
 

 
アンナカレーニナの一様情態での夢にまで見るというのはまあいいでしょうというしかないが、最近では、夢を見ながらまた厄介なことにな・・た、までいかないところで目が覚めて、茫然漠然としながらしばらくして、夢だったと気が付き、幸いを感じることがよくあった.
 
 
 

 
反発心をなぜ起こそうとするのか、それはほぼ無駄なんだが.そのような存在はまず認めず、その存在は無理解であるゆえに、すなわち何らかのうぬぼれか何かで、反発励起対象を無視しているからである、無視しているような存在に何を言えばいいのかばからしいものだ.
 
 
 

 
陰陽をボーズ・フェルミ粒子になぞらえると、太極は近いものでヒッグス場か超対称空間にはなるが、まあ想定対象は異なっているのだろう、無物質を想定してあるのだから
 
 
 

 
限定合理理性は限定合理領域なら有効である.その場合に限定合理者は限定合理のために非限定を限定にしたがるので、理不尽が生じるのは明瞭なことになる.
 
 
 

 
新井白石・室鳩巣まではその名を見たことあるが、雨森芳洲は知らず.日本史も百科全書オンパレードの様呈となる.その結果の後で結局それがどうしたになる位相が到来することになるが、そこまでには時間というものが介在する.一歌--「つまびらか事案の流れいたづらに時をめぐりて位相落着き」
 
 
 

 
自分の他者にした行為を模倣して、第三者が自分に対して他者にした行為をしてくるという現象はどんなものか.まったく自分の行為はほぼ意識しているので記憶にあり、その記憶の模倣をトートロジーという不快な蒸し返しをなぜ他者・あるいは第三者から受けねばならないのか、そんな人間ばかりで・・・
 
 
 

 
諏訪根自子は知らなかったが、安川加寿子なら名前だけは知っている.アンドロメダの時に考えてはいたな.
 
 
 

 
久方の芽出度春にぬばたまの微笑みを見てもそれとなく去り--ぬばたまが出てくるとある女子大生を浮かべるのはおろかな知識の苦きゆえに..
 
 
 

 
そうなると甘えの構造の壁を破る可能性ができることになる・・.または大陸と離れてから遺伝子が変化してという考えや、また島国になったという限定風土はかなりのインパクトで、影響をもたらした歴史時間パワーは強いかも.それ以上に遺伝子の特徴が強いのは当然なので、遺伝子はどこで成立したのか?
 
 
 

 
稀人・常世の国の考え方はユートピア要素強い、依存性や甘えはこの考え方によっちえると推察.地続きの日々を忘れてしまったか、渡って来た旧石器人よ.しかし連綿と遺伝子を受け継いでいるなら、大陸と地続きであった日々の記憶をD型日本人は持っているはずである.
 
 
 

 
嫌いな対象の場合は否定弁証法が成立すべきになる.無理に普通の弁証法を行おうとして、理不尽・不条理感情などお構いなしの単細胞性が多いことになる経験を持っている.無機的叙事的指示的人間はまずそのような存在である.マクロ的視点は指示的な面が強いことは歴然としている.
 
 
 

 
他人に事ばかり考えている--普通にはその場合、その他人も君のことを考えるものである.作品を描かない代わりに他人は何かほかのことをしているが、薬中毒や自殺未遂なんぞを普通はせず、そんな存在を考えても疲れるだけで、意味がないやそんな存在に考えられても迷惑とかまず考えるだろう.
 
 
 

 
どうもそんな存在を擁護してしまいますます反対に自己自身を愚かな位相にもっていくことになってしまう.何しろ無自覚存在などどうにもならないではないか、それでもいくらかは自覚しているはずなんだが、どうも自分のことを考えずに、変な無責任というかおかしな存在を考える身にはまたなれないと
 
 
 

 
君自身をそのように思っているという対象に対して、自分がその対象をそのように思っているのだと、思考内部保存意識をもたらす存在が多すぎて、無茶苦茶に認識を乱す存在が多すぎて大変な記憶を持っている.まず間違いなく親鸞的に自己自身分析など何も無く、自己の不明な存在達を修正しないとだが.
 
 
 

 
権力的志向存在には扱いやすい事態なのかも、避けたがり遠慮するということは単純にみるしかない才能には、自己権力力の有効性の証左の思えることだろうな.個的対象とみると問題外の人格保有者なんだが、そう思われても、無自覚の親鸞的悪人ならまた考えることも何もできないことになり不愉快すぎる.
 
 
 

 
人が集まれば自然に秩序が生まれるのは想像体感している.ただ時間がかかる消極的自由的な面は確かにある.スミスは神とは言っていないらしいので、そうなれば自然成立の秩序のことを指していることになる.それを積極的自由状況で行う経済活動が時間相克を齎している形と市場を見る事も可能になる.
 
 
 

 
そうなると市民の希望も実存性を持つことになるのだが、このひらめいた実存の地平は当たっているのかもしれない.なんのことはなく悩ませた思考停滞・思考の壁は、実存へであるのならばなんとか何かアイデアを出せそうだ、というかもうそれがアイデアにはなっている.
 
 
 

 
主体を自我でも超自我でもなく、XXをXYに誤解する多くの存在と同一意識を持つ所の理由がわからない、推定すれば、かくしかじかのXX&XYたちの男女関係には同一化の欠如がまずあるなと、独身者は当然にして、子供がいて何年も育てていても愛情の欠落がないと説明がつかないことになると.
 
 
 

 
あるコーヒーのCMが登場してこの歌手はと思い勘違いをしたことはともかく、大河の一滴なる五木寛之の随筆があるとは、そもそもこの表現に対して、「揚子江に浮かぶ一枚の笹の葉」という表現を考えたことがあり、あまりにも謙虚すぎてどうかと思う人々の中でゆえに、今ではやめているがを思い出した.
 
 
 

 
山上憶良など言う存在もいたな、すっかり忘れていた.この記憶のどこかもまた楽しからずやなのだが、「世間の住り難きを哀しぶる歌」には、徒然草と方丈記を彷彿させる、多分後者たちには参考になったことだろう.”蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ”--いいね霜とは.
 
 
 

 
中学生の時に家の二階でふと、源実朝の優雅でなおかつ悲劇の憐れさにどうしょうもない感覚を味わったことがある.実朝運命の事象を詳しくは知らないが、強烈に印象にかかった人物である.近日、これは不条理ではないかと思い至り、後年に不条理いやだと思いつつ知ったが、以前に知っていたかのかもと
 
 
 

 
なんだろうこれは、味わいがあるが新古今集的感性ではない柿本人麻呂、長調的だなこれは、明るく短調の悲哀性がない人間と見た.
 
 
 

 
不透明に見える身体持ち主は荷物的障害に見え、ほぼ確定的に窮鼠猫を噛む反応をする視野の狭い人間存在である.ただしスタミナだけはあり、本能的なバイタリティ自慢から、無知である余地にも甘えて、横暴反応矛盾構築など平然とするものであるという経験はある.
 
 
 

 
最悪な雑草俗物の即物存在なのに持続力苦痛や、冷たい空気しかないエゴ家庭・家族とか、特に不快な記憶を覚えすぎ、そもそも持続者という言葉には一定無変化の苦痛イメージと低レベル身体イメージしかなく、美的要素がない特殊存在に見える.きっと美学はないハード処理型うんざり授与者なのだ.
 
 
 

 
その昔著名で少なくとも評価の対象としたした人物に、今頃になって不快な事柄を知り、胃に否定弁証法持続的なストレスを覚え、他の要素も応援してるだろうが、ムカついて苦痛を感じている.全く他者には苦痛を覚える存在多すぎる気がする.
 
 
 

 
旧約最大の疑問は、命の木の実を食べると永遠を得るとあるが、不死の身体になるのか?それとも永遠性のことか、後者なら何でもないのだが.
 
 
 

 
つまり地球は特権を持った星ではなく、宇宙にある一つの星でしかない.地球は回っているのである.
 
 
 

 
タレブのベル・カーブは壮大な詐欺というのは言い過ぎとは思うが、線形に一石を投じたことはまちがいないが、遅すぎている.ツイッターの反応は線形意識者の数が多かったか、無理解者たちに辟易したかのタレブと推定できる.そうなるとサンタフェもやや遅きにであったことに行き着いてくる..
 
 
 

 
「影媛の青丹つかまり坂東へ」-歴史の紐解き時間を多少となったが、豊葦原瑞穂国は神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称とは、であるならば古事記・日本書紀の成立時を指すと思っていたので、これでは勘違いだがそうならば都合は非常にいいことになる.
 
 
 

 
民主の数の同一性を考えるとその領域自体は全体的であるな確かに、全会一致という考え方で一致自体がバイアスという場合もあるという考え方もあると.全体が来ると確かに権力の強制面を感じる.問題は民主主義でも駄目であるということの先が生まれていない?ことにある.
 
 
 

 
ビュリダンのロバとネーターの定理の強度差同相を示唆される書物を読み始めて面白い.新潮に選書があったんだ.山吹の坂を上って神楽坂の駅に向かった時に、右手に新潮社の看板が見えた昔、こんなところに新潮社がという意外性・今でもそのままのようだ.
 
 
 

 
積極的自由と消極的自由はバーリンなる人物が言い出したそうだ.この人物は知らないが、この言葉は本質的なのでよく用いる.国家が単一性で多様ではないとか、書物を読みだすと楽しい発見があるものだな.ビュリダンのロバ
と宇治の平等院は幾何的な位置は同様だが、心理加味のあるなしがある.
 
 
 

 
今日どこかで見たのにもう忘れている、「エジプトで奴隷生活が00年も続くだろう」という予言性はいかにもでまさかと思い、旧約聖書の成立時期を調べると、出エジプトが全Cで旧約自体は前・Cあたりから書き始められたようなので、それなら理解できると同時にその所の神秘性はなくなる--
 
 
 

 
有限有限と有限にこだわりすぎた嫌いに気が付く.有限的存在は数多く実際問題として存在事実はわかっているが、直接位相をそう持ちたくないということで.生理の有限は明らかすぎるがそれゆえにその有限を不快とする.
 
 
 

 
混沌とした/・/・//とかの遺伝子形態の行く末は知らない、またそれが単純化する周期的なのかも、より混沌度が増せば同一性はなくなっていき、互いの差異でホッブス的に争うようになるかも、その辺は均衡点・平衡点で止まるのだろうと思う.
 
 
 

 
「大相七兄爪謁気」は昔夢に見た限り、情景が浮かんだときには、兵士たち多数が近づいてきていますよ節度を保ってではなったかな・記憶が些少よみがえってきた.---そして何事もなかったようにそこに凛ととしてお立ち下さいと想像したはず.
 
 
 

 
粋とは九鬼周藏によれば寸止めのできること、すなわち衝迫力ということで、それが実際のリアルになる前の趣とか確か述べていたと記憶している.紫式部にはそれがありそうなのである.源氏物語のタイトルにはこれはいいなと思うそばからいやだめだという・ダメというより少し欠けているというもの多く
 
 
 

 
” めくりあひてみしやそれとも分ぬまに 雲かくれにしよはの月哉
”と”よをこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさし

”あふさかの関はうんざりするほど昔に聞いた・見たものだ.これは洗練狂の積極的自由の清少納言だったのか.紫式部は粋の余韻で消極的自由者と見た.
 
 
 

 
諸行無常は天にその責任を委託しているとも思え、すなわち想定外という責任外意識をもたらす結果も生じるかなと.
 
 
 

 
思考の自由-軽い気分および広い空間で・を肉体体現化してしまう欲望的存在がいる.肉体が広い空間で軽く動き回ることはありえず、不自由な束縛をする存在となる.自覚すればよいがそれが自然かつ当たり前と思っている存在は親鸞的に悪人である.
 
 
 

 
実践という言葉には多少古さを感じないこともない、叙事的虚無的な色彩も感じる.実行や実際や実質には等質空間の現在性を覚えるがである.それにしても実際の空間では有象無象のカルマ実態が強制的に出現してくるので煩わしさは免れない.
 
 
 

 
極楽浄土の明るさと地獄の暗さ、希望の市民の明るい風景とそれに付随なぜか暗黒、市場原理の明示空間と深淵へ進む必要はと考えるも、深淵の暗い領域アイデア浮かばず--これらは地球の自転の昼と夜、暗黒場とそこにきらめく星々たちなどが寄与しているのでは?.明暗とは宇宙形態が示唆している様態か
 
 
 

 
弥勒は妄想より空想的だな、ところがこれを否定しきれない宗教の存在束縛性というものがある.万が一出現するかもという奇跡事項が.(弥勒や奈落何ぞを導入してることを思い出した、ナラカは調子に乗りすぎたか?、自力から当然とりあえず密教ではあった.)
 
 
 

 
公務員というか司法的になぞらえたが、仏教において閻魔とはどこから発生したものなのだろう.仏教の開祖である釈迦が前史を参照したところで、釈迦の内部に閻魔がいないとおかしくならないか?.神の存在と悪の存在にも比して、あるいは剣のキリストか.涅槃と地獄では道教の陰陽的でもある.
 
 
 

 
ふと考えるけれど、動物愛護と人の差別・コンプライアンスをあてはめてみて、キュートな子猫と成長したライオン・虎・ゴリラ・熊などを愛護しなければならないのか?、理屈上はそうなってしまうので、人間も多様な感性と体力差があって同一地平で見るのは、記号的側面からしか成立しないかなと.
 
 
 

 
トマトの色はそういえば鈍い赤色をしている.しかしEUなどでは十分すぎるほどに料理に用いられているらしい.このような色は大体邪悪なイメージを持ってしまうのだが、そうでないものがあるか.邪悪というか、噂の妖刀村正を昔に想定したことがあり、どうにも妖気的人間からは類似を想定してしまう
 
 
 

 
無自覚な存在または自己分析能力の低い存在は自己固有性を他者に投影して、それは自己であるにも関わらず他人と認識してしまう傾向が強い.投影される方は大体どうでもいい煩わしい存在で下らないくらいに思っているので、自己卑下もいいとこ損ばかり・赤字ばかりになる.そんなものはいらないのに
 
 
 

 
交換的存在には反交換的存在が、反交換的存在には交換的存在が不快となるのは自然である今のところの状況・情況である.ただそのことに無自覚なのが多く拗れが生じることになる.
 
 
 


柿本朝臣人麻呂-柿本人麻呂なる人物がいたな、あまりにもオーソドックスですっかり忘れていた.山部赤人や藤原不比等も同時代か、大友家持は?やや遅れで、その父・旅人と同時代となるか.大友家持は今のところ、長きものには巻かれよが憑依のように見えている.ともかく秩父の銅発見のころの話か
 
 
 


莫囂圓隣之は、夜の風景の中で何事なかったかのようにそこにお立ち下さい--そんな情景を想像したことがある.たぶんこの額田王のこれの情景に違いない.となるとたぶん合っているな、男女の関係性が確か絡んでいるかいなかったかよく思い出せない?、いや絡んでいなかったかな?--白い装束も見た
 
 
 


高天ヶ原は明るく、八島は泥土の色鈍き土くれが所々にで、古色過ぎ。それにしても八島神話自体知らずだったので、困った。ただ古事記と日本書紀をほぼ同時期に編纂とは賢い。この仕組みに思い当たるxxイメージを持っている・当てはめたくなる記憶があり、そう解釈したい気分のある事...
 
 
 

 
人間原理ならぬ宇宙原理があると思いつく-クロ現+
 
 
 

 
フラクタルと中途半端は意識上異なるものと考えている.それにしてもようやくフラクタル心理学化、時代はますます意図通りになってきた.ようやくであるが.空白はこのためにしていたと考えることもできる.ちなみに結論は出たの女性は、プロポーズ要請ものであるが、残念だが関係に気が付かなった
 
 
 

 
何!、フラクタル心理学とな・いいじゃないか.もっと早くできるべき代物と、ただ使いこなせる能力を必要とするので扱い者が問題になりそう.ある去る昔、あるXXが結論が出たと発語してきた.不意に言われても何のことか、すでに結論は出ている・なぜならばフラクタルだからであると未発語の思い出
 
 
 

 
像変遷など別に古典で有名な書物など関係なく、誰でも当たり前に普通の事としていることである.方丈記はどちらかというとその時代の叙事的記録であると一瞥的一読からはそう思ったな.ただ無名抄なる隠し技があったとは知らなかった.そのうち深草の里ものだけは知ったが.悪くはない深草の里もの.
 
 
 

 
政治学者はなるほど、市民が希望だけれど暗黒が付随していると思ったあの若き時の不明を、簡明に説明しているようである.民主主義の負の側面を当てはめると一応の説明はできそうだ...数年前に考えて民主主義も欠陥があるがどうもそれに対してアイデアが浮かばずアローの定理で妥協としていた.
 
 
 

 
ある映画監督による000後に紫式部の意図がわかるといったやや手前的な見解にも刺激を受けて、光源氏は男の<ファム・ファタル>というべき存在になることになる.
 
 
 

 
後、与えると玉ねぎの皮を一生懸命剥き始める猿のような侵入性もあり、インベーダーのイメージに近い存在であるが、カムフラージュもまた特異な演技力があってだ・・・自己欺瞞をするという倫理の弱さから他人の親切心を利用する傾向があるという経験に基づく認識をできる.無知の無自覚かもともあるが
 
 
 

 
ゲーデルの定理はこうも言っている.人間は人間に対して説明できかねるので哲学は未完か徒労に終わる.人は他人を説明できない・理解できない可能性が非常に高い.犯罪には迷宮入りが付きまとう可能性がある・・などなど
 
 
 

 
しかし当人から見ると、古く旧式な陳腐な支配思考様式の存在が、支配しようとして・権威や権力を行使しようとして、自由意識を邪魔する結果、徒労及び無駄をする羽目になってしまっているようにしか思えず・である.
 
 
 

 
憎悪は不毛である、無駄をしたければ他人を憎めばいいということになるが、徒労に呪われているように思っている人は、他人を憎んでいるか?、どうもそのような帰結になってきた...
 
 
 

 
げーでるによれば、系において必ず説明できない現象が生じる・すなわち判断不能で曖昧なものが必ず存在している・と述べている.ということはそれを判断すれば必ず理不尽になるということである.つまりそれを判断する必要がないというのが他者に迷惑にならないということになる.
 
 
 

 
人々はなぜ関係を破壊するように不条理を齎してくるのだろう、愚かなとしか言いようがない.しつこい否定弁証法構築者たち、いつまでも反発平行線を持続・継続するだけの無駄なエネルギーのロスでしかない.
 
 
 

 
どうでもいいという対象は嫌いで邪魔で不快でその存在など見たくもないというのが実際なんだが、対象はなぜかその逆に非常にしつこく価値存在承認を要求してくるケースになってしまう.不条理で不条理は認めない、認めることはできない・認める必要はないその矛盾本質からである.
 
 
 

 
稲垣足穂の幾何ではなく吉田一穂の幾何ならなので、プラトンの幾何学云々もどうかと思いたい.
 
 
 

 
↓重力波のフィルターがかかっているものとすると適合するような
 
 
 

 
玄妙は等質空間の微妙な風の流れや芳しい風-宇宙空間の重力波のそれにも似て、幽玄はたまゆら的な音なき光の映像-宇宙に瞬く星が神秘的に見えるもの(ハッブルで見るものではなく)・昴と言いたいところだが、その趣を知らないので.
 
 
 

 
後世に残って000年近くも恥をさらしているとまで考えてしまった鶉、鴨長明の話は実際かどうかはわからぬが、俊成の代表作とはそれもありうる.またそれだけなのかとも、要するに平安・鎌倉の貴族・公家は立場上からくる要請であって、必ずしも芸術家たちではなく、その歌が多く残っていると
 
 
 

 
”野とならば鶉となりて鳴きをらむ. かりにだにやは君は来ざらむ”これ伊勢物語にあったな、幽玄と玄妙を合わせて?、幽妙という言葉・表現があったとは全く思いつかず.幽妙は幽玄自体の感覚表現に近いな.幽妙と玄妙を合わせたものが幽玄と言いたいところではある.
 
 
 

 
開き直れば誰でも理解可能な状況になってきた時間とも言えて、秘匿する必要もないことになる、最も秘匿も何も記憶すらしていない今の時間.事実が残っているのみで、その事実もほとんど誰も知らず、せいぜい・人でその人物らも記憶もしていない可能性が高いとなっている時間でもある.
 
 
 

 
ルパール壁の人物はローツェ南壁物にも挑戦しているそうで、視線はよくわかるが、ローツェの場合はおそらくなのでどうかなという思いを持つ.エベレスト南西壁もK対象もいいけれど、No.はルパールに設定していたので、ここを舞台にするとは時間が過ぎたなとしみじみ.ローツェはバリエーション
 
 
 

 
なんとなく人々から稲垣足穂的に見られた可能性の記憶がある.全くつまらないオブジェ型思考者の認識でしかないのだが、これだから他人を承認できないのである.何しろ誰のことを言っているんだ、目の前の対象について述べているのに、目の前に存在していない存在と認知しても何のことかわからない

   
 

 
北原白秋はカラマツとこの道しか知らないがまあそれくらいでも十分なのだ.西脇順三郎は怪物に見えて手が付かんが、超現実なら滝口修三・・やはり西脇順三郎はどこかの大学の教授ではないのかと想えるようにさらりと、奥深い思考内容を述べていたではないか、なんと本質をよく了解していた存在だった.
 
 
 

 
昔は塚本邦雄なんぞは絢爛な感性に見えたのだが、最近見た限りではほぼなんの感興もわかないつまらないものになっていた.ポテンシャル豊な時にはその幻想力も豊かで錯覚という潤色力も豊かなのであると言わざるを得ない.いわゆる若さというやつで、夭折の詩人とか持て囃される例の対象がこれ.

2016-06-28

my ft 06272016

 「クォ・ヴァディス」--の答えは「不完全の除去に向かっている」と閃いた.





無矛盾を無矛盾で説明できないので不快な言明者たちは、無理矢理に説明しようとして理不尽である矛盾(すなわちでたらめな言明)を強要したり、無矛盾を無矛盾であることに気がつかないという困った存在なのである.理不尽を構築しているところの存在が対象であることは何でもない普通のことなんだが.





完全に対して人間はいくらでも不完全をまだまだ持っている・遭遇するので完全を無数行ってもまだ余裕があると判断できる.





完全はすでに不完全であるので完全を説明するのに不完全から何かを用いねばならない.完全内部では不完全を説明することはできず、完全を説明するためには不完全をもちいねばならない.すなわち完全は完全で説明できない.完全はまた一般に説明しようとしないものである.





なんだかわからず悩ませていた虚無的メロディ性もある未達的叙事者はクレバーであることになった.悩ましいクレバー存在もいたものだ、陰険であると虚偽でも理不尽でも行使してしまうという倫理観の低さであるところの存在としたもの.神聖型クレバーという固有存在も閃いた.





時間を加味すると完全になったときすでにそれが成立しているということによって不完全となっている.完全を主張できるのは心理レベルにおいて、他者がその完全を理解できない時・未達の場合である.




完璧は不完全とゲーデルは述べている?とすると帰納の帰結は出ていて、帰納は不完全であり確率的になってしまう.不完全の中の完全で人は生活をしているということである.-ここでまたしても中間存在というその人自身は完璧を設けている厄介な中途半端すなわち不完全が出てくる.




フレーゲの形式言語とペンローズのループにそれほどアイデアの差があるとは思えない、ゆえにペレルマンは隠遁したと考えられる.




そんな過程を知ると世界が窮屈になり不自由な意識を感じることになってしまう.体感性者が-パンのみ優位者と思える存在が天皇制の無化とかいうのがおかしいのである.考えるに稲作が問題で稲作の無化ならとは思うが、いまさらことさらに稲作を否定できるものではなく、代替手段もなくである.




ゲーデルの定理は単なる心理学の問題?、普通に誰でも論理流れから判断でき、中学生でも当然できると、そう考えてよいのなら中学生の時に了解していることになる.




 
伊勢神宮ににも小さな社が別にあると聞いたことが.縄文の遺伝子を今に残している日本人ゆえか-表象は弥生で通底基盤は縄文という形で、縄文の遺伝子は淘汰される運命ではなかったという、世界的遺伝子類との比較を考えた.神国日本はどこから出ているか、縄文と弥生の軋轢の後なら神国は縄文的色彩に




 
昔、太陽の二つある映像を描いたことがある.不思議・・・今では核融合生成物と納得であるようなもの、その時も人工物とすぐにわかったが、その寿命は0年だった.果たしてこれは間違いなく未来の現象であるか、あまりにも鮮やかな記憶がある.




 
XXとXYの対立においてはどうにも弁証法的で、止揚がエクスタシーというケースを想定してしまう.このケースにおいては普通に繰り返しを想定でき、これがシジフォスの神話である、対立が石を上げる上げ終わるとまた石を上げるということにつながり、神話の根拠には性的な面がかなり寄与している




 
奇人的で奇形者は非線形で複雑系者と思い観察していたが、性的関心にとられてXX&XYともに対処に非常にエネルギーのロスを設けてしまった.ならば障碍者は非線形者になるではないかと思い、奇形者はどうもたかだかアノマリーとするのがよさそうだ.そもそもマズローはで、普通であると述べている






ホッブスの万人の闘争あたりから国際関係も、現実主義やリベラリズムの複数分派主義があるんだ.国際的権力闘争はパワーが均衡するようなメカニズムとな、仮想仕事の原理ではないか、とすると思い出の彼女は均衡者になる.小学生の時の定義と中学生の時の均衡、そうしてある場所で会ったが気が付かず





権威主義に責任がない?、演技的性格者はどうも権威主義者の要素が強いな、何しろ演技に責任は無いからである.真実まで無演技まで演技にしてしまうその動向は一体何なのか、ちょっと異常?





存在理由は記憶にあるあるXXが発語したが、存在理由は探索傾向をも加味できるのと性的な面もあるので、これを存在権利や存在正当性とかにもっていくと倫理に結びつく.別に表現できないようなものではない.存在権利ならいい表現に思える、Hトライアングルにも適合するようで.





関係の本質は単なる言葉である正当性かな、それならば真理が絶対になることに.正当性は倫理に結びつくのだが、カントの定言はこれらをほぼマスターしていると思える.





樽に住んだディオゲネスは大王の質問に対して、ポリス民ではなく世界市民と言ったという話が、コスモポリタンの発祥らしい.ディオゲネスの生活態度からはむしろヒッピー要素を思いついたが.ヒッピーと隠者は・寒山拾得・など相性がよさそうである.ヒッピー→隠者的な考えとすると理解できる自己性





弥生系がふん詰まり意識を持っているのでは?、それとも日本の旧石器人がこの先に・日本の先に島が見えずを体得していて、それが遺伝として残っているか?.それでも縄文中期の頃は開かれた社会を形成していた想いが強いのだが.





常世の国の稀人に依存すると甘えが生じることになる、これは厄介な.となると扶桑の国は伊豆や小笠原ではないはずで、何らかの認知のずれでやはり日本を指しているだろう.まさか米大陸?.ともかく閃いたが、どうも稀人は閉鎖意識がある.縄文の平和は世界に対して閉じてはいなかった想いが強いのに




 
良寛は僧名で生時名は山本栄蔵または文孝というのか.なんというか嫌味な僧名をつけたものだ.子供の純真な心と貞心尼相手はいくらか異なるとは思う、そうでなければ「男女歳にして席を同じゅうすべし」になってしまう.子供というのは一体何才くらいのことか?




 
ある若き日にある存在が良寛をやればというようなことを述べてきて、なんと不快な別に良寛など模倣をするつもりなど毛頭ないが今なお全く記憶にあり邪魔である.なぜそんなことをその人物は言ったのか、自分でやればいいではないか.他者のアドバイスは自由の邪魔にしかならない.意地悪なものである.




 
親鸞も見ようによっては悪いかも、凡庸脱出意識を無自覚や中途半端な善意として人々を阿弥陀の圧力に屈服させようとしたという見方をしてみると.阿弥陀が呼んでいるのは親鸞ただ一人で他の人は選ばれていないという、宗教創始者的存在者特有の優越感・エゴイズムの傲慢者とも取れないこともない.




 
そうか、あの0代最後の頃におもむろに浮かんだ市民は希望ではある、ただスケールは大きくなく暗黒域が付随して?、ここでは深淵を市民は持っていないと考えたようである.ところが悲惨なシェークスピアの悲劇度合いのような悲しみを結構市民は持っている観察記憶を持ってはいる-ポリスで閃いた深淵




 
ある作家が”何をやってもだめだから”と言ったそうだが、そこまでなくてもだめだと自覚すればそれだけでも凡庸からの脱出息吹になるのに、勇気が足りない.もっともこの作家は建前として、何をやってもだめと思うくらいに、苦悩・呻吟をしたんだという表明なんだが、そう発するべき必要性に直面したな




 
審美的君の魅力は中途半端でこれくらいであるという認識を、自己に向けられたものとは思わず、ダメとかくじけとか発語すXXたちは、君の魅力が「ダメ」で、君の魅力アップ努力に「くじけ」ているのは君なのに、この判断を認めず、判断している人間を自己と思い投射するというオルテガ的凡庸XX達




 
自己経験と他の現象例多数から、青春の日々は人間が現在社会生活時間に一致しようとする所の境界域時間であるのは疑いようがない.そこで境界症候群なるものが登場したりするのである.うまく使えば業績を残すことはできるアドレセンスというわけで、例でランボー・当たり前でしらけるといえばしらける




 
エレーヌ・グリモーは新鮮ではないか、普通に皇帝は新鮮なんだ.共感覚・シナスタジア?-ランボーの母音は共感覚か.ランボーの見者はまだいいが、私は他人であるというのは不快である.私はあたかも他人であるかのように私であるだろう、うまく境界時間を生きたものである.その後はだめなランボー




 
深淵には音がない沈黙世界だからいいが---音楽はあの考えあぐねていた中学生時の逡巡に当てはまることは当てはまることが判明・ことに閃く.No.tsであるではないか.特にピアノという楽器は白黒でもあり.





太平洋の両側の国はおもむろに想定してみただけ、日本から、この遺伝子に個性があるのは貴重だろ思われ.アイヌ系は多少他の民族度合いが異なるが、琉球系はどうなんだとなる.





トランスナショナル者たちは、ノマドで移動・移民していてアイデンティティが引き裂かれるだけかといえば、そうではなく複合・重合要因が発生してきているのであるとはなるほど.そういえばNo.thには直積があったな-むしろNo.thにはトランスナショナルも対象となると気が付く.





諸行無常はビジネスシーン(ビジネスばかりとは限らないか・・・)において、先延ばしという弊害・副作用を有すると考えてしまった.





まあその大学にもそんな存在の存在は十分だったのだが、しかし・・・くだらずばかばかしい印象者でもある.底浅単純ロボット的な叙事的陰謀の精神年齢低き虚無的原始性存在とか、こんなのがなまじその大学に入って突っ張るから世の中おかしくなるという面は大いにある.





ある大学にマズローのの低次要求しかできない存在がいて、人にそんな発言をしても無意味だというように理解力のない人を無視するXXがいて、まさかのバカらしさを味わうとは、謙虚にしたら余計にばかばかしさを味わう羽目になった.陰険な存在は思考に陰謀の香り十分で、いかにも罪を感じた演技を





体制に対して革命かそうでないかも個人的な恨みの連鎖を国家単位にしただけともとれる.





風車に突進するのは狂人か精神分裂病者かもしくは演技者か?--セルバンテスはどうやらリアルな道化存在を設定していたようである.ドン・キホーテのこのシーンは道化なんだとようやく判断できた.全く不思議な発想をするものだとわからなかった.





あるガタイがよく頑固な面構えでグロテスク気味の物書きがいて、その原稿を見ようとして防がれたが、ちらっと見てなんと女みたいな文字を書いていて、唖然としてしまったことがある.その時にこの人物は小心者という判断を浮かべたのだが、それから数十年後最近にネットの原稿を見て、間違っていないと


   

 
論理のNo.*に関して今やいろいろ考える弊害様況があるかなと思って考えていて、宗教の戒律などにイデオロギー的な主義という転倒をしてみると、はっきり浮かび上がってきたことがある.




 
東寺へ行ったからその影響あるか空海関係を導入タッチと.京都といえば覚えているのは、今年に当てはめて結構状況に適切なNo.を書いていた記憶がある.それ以前はいつ書いたかだが、この数値はたまたま偶然そうなっただけである.




 
量子を別にして、現象的に地球の自転により昼と夜は一致しない.飛行機などを用いて移動すれば渡が、あと宇宙ステーションも関係ないように移動するが、事実としてあるので、アドルノの否定弁証法に時間位置変化というこう交互性を考慮したくなる-否定と肯定の位置はそのままに並行持続を考えていた.




 
この自然主義に対して悩んでいるところにXXのリアリズム者がついてくるのである.ふいにインチキしたなとか、演技的性格者にその言葉を与えてくれであるのに、実に嫌味なXXたちである.身体実体でしか判断できないのは、有限的存在で自由の抑圧につながるのだが.有限的母性の暴力性は困る




 
口があるだけとともに暴言的なスタミナ・バイタリティもあるから疲れる.自らは権威主義的な位相・共同体意識なので、演技でカムフラージュの傾向も強い荀子的存在と無意識自認していて、他人は野蛮な教養のない存在と見る傾向も不快である.自らを見ろと、原始的・動物的存在に見えるのだが




 
出る杭というか叙事的存在は感情に欠けるきらいがあって、不快でしょうがない.自分はできないから単なる自由の邪魔ばかりする、底の浅い思考のパターンが決まりすぎている単純さしか感じないので、寿命体であるステムがそこに立っているだけのイメージで、電信柱のようなものでなまじ口があるだけ・・




 
記憶に浮かぶ超個性的なXXに会ったことがあり、その個性な魅惑だったが生かす方向が浮かばずだった残念な月の相合傘の思い出を出さずばなるまいと刺激を受けて.




 
レスボス島はチャナッカレとイズミルの間にあるギリシャ領の島で、詩人・サッポー(サッフォーでないとしっくりこないな)からXX&XXが言われ続けてきたわけなんだ.記憶も薄れて、イズミルではないやはりチャナッカレのほうだろう.トロイの木馬の観光拠点とかの・少しの思い出が




 
「罪ある母」まで行ったボーマルシェの作品は個人的には素直に人間的なあまりに人間的なといいうるものである(エレガンスと本居宣長をどうしようというアイデアが浮かんでしまうが).存在とヤスパースと必然的自由と存在論と**などなどが後に続くのだが.




 
アドルのの否定弁証法が持続する形はまさに煉獄のようなものである.いわゆる嫌な女に(男の場合)愛されると地獄のようなものと同様なケースになるのかな?.どこへ行っても嫌な存在が必ずいるという場合は、弁証法の止揚が出現している可能性が高い.またフラット局所のまとめ上司は止揚的存在かな




 
嫌な存在がXX&XYに限らずしつこいのは、弁証法の止揚の圧力としか考えることが今のところできない.この場合の止揚など無駄と思いきっているので単にエネルギーの浪費だけにしかならない.現に心裡ではそうである.そうなるとアドルのの否定弁証法が持続する形になってしまうのでこれも浪費だけ




 
ニートではなくSNEPなる概念ができていたんだ.まあヒッピーと変わりそうもないのであまり気にしたこともないとはいうが・・だ.なにヒッピー!で閃いた、αのの難点が片付く.全くなんという時間のかかることだ閃くのに.たっぷり揺動した精神形態をもったものである.悩みは無駄だっ...




 
アドルノはおそらく量子力学の素粒子を知らなかったが、素粒子的考えはできた.




 
低い精神年齢?!--ようやく遠くに位置していた認識が脳裡近くに、そうだったのかに過ぎずのなんと愚かな遊びになることよ--徒労に呪われていることは理解していたが実際の現実時間では忘れていた.




 
例えば、パラダイムに対するパラダイムでの止揚したパラダイムというようなもの




 
そんな古典的段階を忘れて、可換に対して可換における弁証法という視点ならありえてと思いつく.非可換は非可換とスラー結合をしてもらえるとなんだが、反発・排斥が出る可能性も.




 
ヘーゲル・マルクス的弁証法である弁証法、いやヘーゲル・マルクス以前からの弁証法である圧力が、ボーズ意識に対してフェルミの記憶を強要しているとも考える.しかしフェルミの縮退の孤独性、外部励起の他力依存性など煩わしいものに過ぎない.非可換的視点からはフェルミはいいだろうな.




 
まずはフェルミとボーズの否定的弁証法位置が自然であるならば、フェルミがボーズと同じとしたがるのは不自然である.その点がしつこく不快なパラノイア的な記憶として無数回よみがえる妨害者の記憶が災い過ぎて.否定弁証法維持ではなく、止揚を要求する超対称だが、感性は全く超対称を認めず.




 
アドルノの否定弁証法は、フェルミとボーズのそのままを意味している.物理学者は超対称設定に向かう傾向はどうにも致し方ないが、現実に交換と反交換が自然ならば、それをそのまま持続させようとするときに、交換は反交換が・反交換は交換が不快だろう.交換からは反交換の孤独性は不快であるが・・・




 
フェルミ型の縮退極端者が、可換なボーズ的存在に対して、同じであろうしたり・そのような発言をする.少なくとも極端者に見えるので、超対称的存在には見えず、ただしなぜか陰険な叙事的要素あり故か、陰謀的な無茶な虚偽をしても意に介さないという性格にしか見えない.そもそも演技的生格の男だった





しかし多士多才(多士済々)がいても000年以上、国文解析できないとは、クレイ問題もあるけれど、その国文者は相当になる.ドクターを持った教授もそれ以下存在でしかないという現実問題は成立する.そのような存在が数多くいる中で突出者が発生するというこの突出者をまずはモデルにしてある.





自然の時間を変えることはできなかったという結果事実を認識せざるを得ない、何とも何でもない普通の時間経過ではないかと.





深淵展開の反エンタングルで説明はできるが、これは哲学的なので--





混沌を無意識対象として、電子散乱や実存世界でもない領域展開能力のあった人物がいる.確かに共時的なフロイト・通時的なユングの歴史もあることにはあるが、他にも心理学展開史もある要素などから、リゾーム展開と.で器官なきはニュートリノ体では?.ダークマターというわけにもいくまい.





『口に描写された画像』は原始的・または旧石器人・あるいは縄文人に当てはまることに気が付き、自己自動記述の何気ない表現であるこれを、パーコレーション化として解釈できる.この点のが言語進化に対しての初期に戻るという指示性が不愉快と思ったことだったなのだろう.
 
   


不確定性からは明晰は違うで、明晰からは不確定は頭の弱い人間になるこの差異もまた演技傾向をもたらし、また発言の理不尽な強度差異ももたらす.





しだり尾は万葉集からだったとは.雑歌は宮廷賛歌主体ならばそれでよい分類になる茜さす、なぜ戯れ歌になってしまうのか.どうも返歌はそんな戯れ心情とは思えない.雑歌にしたのは宮廷ものだったからではないか.ちょっと返歌に憎しみがなぜ出てくるのか脈絡が少し違うのでは、時間距離があるとか





もののあはれはあわれからはかなさ主眼かと思っていたが、本居宣長によるともっと深甚なもののようである.確かに風土的面を考慮に入れると、日本的本質と考えてもよいだろうが、人間性からみると、最近聴いた、外国人作曲のあるギター曲やある序曲などにも同じような位相を感じて、風土以外を思える.
 

   

 
小学生の時に何を見たのか記憶にないが、本居宣長の文面からか、明るい滑らかな明鏡止水的とでもいうか、定性的なきれいな文面のイメージを味わった思いは記憶している.これは何と表現すべきか、とにかくきれいな感じであったと.(本居宣長という名前からのイメージだったかも)
   

 
人間が超不条理体であるとすると、禅のあるがままになってしまう、でそんな禅僧に会って見たいものとは思いもするが、目の前にするとあたふたとうろたえる気もする.




 
あの頃の不条理は非線形とともに今ではまま複雑系に変容していて、不条理が齎す混沌はその蓄積において真理という単純になる理知は、今ではパーコレーション理論のパターン化にもなっている.




 
不条理は人の本質的生存関係にかかわった言葉で、無機的世界の変容には直接にかかわらない考え方であるというのが直感として深底に渦巻いている.




 
不条理なる言葉を知りたくない・考えたくはないと抵抗していた0代最後の頃、どうしても抵抗できず混沌世界に進みこんでしまった.非線形は十分だったのだから不条理も当然にしてよかったのだが、視点が・位相が異なると結構連結しないものと思い出す.




 
世阿弥の初心には箇条あったとは、考えあぐねながら第三ステージを一応設定して、それが状況に結構適している面はありであるが、そうなるとその先も今は構想・思いついていて、これは結構必然的なので、実際にそうなるかどうかはあまり信頼できないのだが、設定だけは考えておく.




 
人が条理と不条理を持っているのは間違いないので、条理と不条理が一体となっている人は超不条理を獲得しているか?、弁証法的には超不条理を獲得していることにはなるが.




 
伊勢物語をようやく目通し終えた.収穫はこれだけ・”夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里”.あと伊勢物語には用い方も考慮できることが.
 

   

 
キラーストレス--明らかにストレスで胃潰瘍になった記憶がある.矛盾構造性をよく記憶している.ストレスは人の持つ矛盾構造上避けられないので、最もの原因は人の持つ矛盾構造という判断が個人的にはできる.不条理に対していかに対処するかが問題と思うことになる.




 
またしても愚かにも過ぎたるは及ばざるがごとしをやってしまったような気がする.よくわからないがディリクレ境界がそこにあるという普通すぎる形態を、中間存在外に拘るあまり…であるかのようなに直感でふと思いついた.全くある単なる直感で考えたことが考えすぎになってミスる形になった時期があり




 
縄文の遺伝子を多く受け継いでいるのは、アイヌ人と琉球人ということはどうやら事実のようであるので、縄文の相互互助性がこの両人に作用して顕現しているか-もっと低い遺伝子の受け継ぎたちの圧力が強い・数が多いので双人には顕現してもしようがない?、または志向の異なりが存在してとか




 
「横超」忌とはこれいかに、それもないはずの概念ではないのか.「横超」があるにしてもやはり呻吟を行った結果でしか存在しないものと考える.まあ展開はしたくない位相制御感があるので..横超的面からみると「竪超」のなんと疲れることよ、この典型例に葛飾北斎をまず挙げる.




 
試行を購入していたころで印象に残っているのは浮海啓なる人物の作品である.この幻想力は卓抜でハンサムであると.よく描けたものだと思った次第.あとは記憶にないな、武道の理論化もいいがこれは卓球の世界的な存在を考えていた頃に、その可能性を少しは思ったことがあり、ただ認める才能がないだけ




 
中心的ガウス分布思考ではなくフラットな関係結節的場所であるS県と比較設定モデル化にしていたのに、比較しようがなく思い違いのようになった.まあ冗長でなければ、パーコレーション前の過程であるフラクタル文を描いた存在をカフカというと、城については言える.




 
カントの判断力批判をわかっていない傲慢なエゴイスト女がいて、審美感を性的幻想で踏みにじる・混同しているxxがいる.実に不愉快である.




 
一様性と全体性は似ているゆえに射影には全体主義の匂いが付きまとっていると思うので、特にその傾向顕著な存在はいやなのであるが、とりついてきてしまうこの憑依的意図逆現象、まあそんな志向を自分でも持っていないことはないといえばそこに来るのかもしれぬが、射影専門家ではない.




 
一様性は発散するか収束するかで持続は考えもしなかった0代、一様の持続はその時間が発散・収束時間より短い場合には成立する可能性はある.物理者が考えるビッグリップとビッグクランチのようなものである発散と収斂は.




 
森羅万象に同体化する隠者存在などマルクスには思いもしなかった俗物存在ではとも思ったが、エンゲルスとともにの共産主義の成立世界は隠者達の世界でもあるようである.どうなっているんだ!




 
間文化主義は混血の進んだ国なら、多文化主義ともどもそう問題ではないだろうが、日本のような遺伝子構造の国では、多文化→間文化移行も表層的なものと考える.ただなるようになる・諸行無常で対処するだろうが.




 
理屈からの現象結果として、パスワードに超越数を使えば..




 
境界の双対d




 
ド・ガぼっとを眺めていると、ドゥルーズは無意識的に量子論的文章を展開しているように見える.量子力学の造詣はソーカルにちらっと確か名前が出てきたのでなさそうだが、量子力学の発展に伴う時代背景にマッチした形として.




 
ただし中間存在が深淵の邪魔をする.これでは中間存在は身体的存在になってしまうではないか.




 
絶望などする必要はない、ただ深淵に位置すればいいだけの話である.




 
ある上下本があって、上のほうはなんとかなんだが下巻を読む・手に入れる・遭遇する時がなく、それが気になっていた.深淵でなんでもない(深淵自体はなんでもなくはない)はずが、何らかの中間XXの寄与が全く災いして、思考を浅くしてしまったその頃の話に、反エンタングルメントの設定でOKかなと




 
”しづやしづ倭文のをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな”白拍子のいわれ枕草子だったか徒然草かにあったな.それほどに伊勢物語は説得力があったものなんだ.透明的な紀元後の歴史は瑞穂の国あたりまででいいだろうと設定してある.今では遺伝子的に縄文が必要とアイヌと琉球の解釈要と




 
雑草系悟性豊かな俗物系も卵形で全く捕まった愚劣さがある、イメージが悪すぎていくら何でも見苦しすぎるみっともなさは、まずやる気の邪魔をする白けとその傲慢な厚顔無恥さと無自覚のそらとぼけと、何より名状しがたいいわゆる愚劣感・不快さをこまねき、持続のしつこさから修復できずの難点がある.




 
卵で思い出した、あの夏の日の河原での高速回転にはローレンツ収縮が伴うと、もはや身体知覚能力ではとらえることができないのでそのままという




 
森鴎外という作家のヒステリーは色々と厄介な煩わしさがある.全く辟易する承認要求の強さの持ち主であったと想定できる考えを設ける.そのころの抜群の人気による圧力の寄与で、やや後世の人材で洗脳気味になったのもいるような.




 
全く記憶にある不快な発言者たちは、トランスヒューマンに程遠く、演技で自己納得をしているというアタリ的には未来的ではなく現在的らしいが、個人的には陳腐な古き存在で時間を戻す・停滞する固有性を持ったもの(当人たちは偽善だろうとなんだろうと時間に追随して陳腐などとは全く思わず存在だが)




 
全く古典とする時間と空間で持ち上げただけなのに、結果巻き込みに?.古典レベルを高くという設定は歴史反転未来にしてあるが、トランスヒューマンはマズローの第的存在は明らかに類似していて、アタリの予測する超民主主義では普通の存在(エリートではなく)ではないのか?.





No.ではなくVサインだったのかもとふと蘇る.モデル化しようとしてもうまくいかない、日常に遭遇する乙女たち...




 
最後のYに太宰治について述べていたところがあって、平明な文章でかつ通俗的ではないとか--これから連想して、和して同ぜずを思い至った.はちゃめちゃな現実生活はそうすると何なんだ、演技ではと思う所に.川端康成に対する芥川賞選考時のルサンチマンは自己の権威意識の擁護という事になる




 
有心と幽玄か、幽玄と玄妙ならわかるが、玄妙を有心とみると何とも当たらずとも遠からずで、俊成の幽玄を玄妙にして有心を幽玄と個人的には見たい気もするが、そうとも言い切れない.




 
”有心体は「深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体」
幽玄体は「言葉にしていない余情を漂わせ、かすかで奥深い情趣美を追究した歌体」”-幽玄と玄妙しか浮かべず、有心は後々まで知らず、ただ”佐野の渡り”に妖艶があるか?、スポットライトがあれば妖艶もあるが.




 
枕草子の枕とは、枕詞の枕以外にないではないか、研究者は一体何を考えているんだ、とは思ったが、まあもっと弱い表現で、そうでないだろうかと推定して見るのだけれど、やはり異なってはいないだろうと想える、と記してみる.-清少納言のセンスと性格とその階層位置・位相の謙虚さに即して見て-




 
承久の乱とは天皇の権限が薄まった事件だったのか、”ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり”-しのぶは味わいが風情がある植物で好みなんだが、荒廃の象徴なのかよ...昔は何事かを思わざりけり(cf・昔は物を思はざりけり)や「兵どもが夢の跡」には感傷沈潜があって良い.




 
これら人の主体をむちゃくちゃにしたがる存在に、すべて何らかの諸々不都合現象(不都合でない現象は起こらない)の責任は存在することになるからそれに関してはいいのだけれど、他人の標榜は自己欺瞞をして無責任に味占めて楽しんでいる連中であるのにも困ったものと.標榜自体偽物であるから.




 
滅茶苦茶他者たちはひとの主体を他人化したがり、また自己主体を乗っ取られているような形で、他者たちは人の主体化と自分をしている、私はこのような他者たちではないので、困っているものである.自己主体の他者における標榜を全く許可した覚えなく、迷惑すぎて困っているという事態の続きばかり




 
全くいらざる嫌な陰険な射影人間の自己投射が相変わらず身体内部に存在している、無関係の見ず知らずの存在だったのに、不自由・不快でしょうがない.最もこの姉に関係意識ではない忍耐をしたことがあり、その余波がずっとである形.いらざる感性体でこんなの不要なんだが、嫌悪に限ってしつこすぎる




 
抒情性を持っているのが普通の人間という立場からは、叙事的存在は未熟で未来において抒情性を獲得するという将来性があるが、現行では抒情性を踏みにじる存在が多い.そんな存在は一生抒情性獲得は無理で、感情は事実・事実の塊でできているに違いない.





No.tt-記号化処理をしてしまい、その内部に有機を含んでしまう・含まざるを得ないが、内部でない有機性もある.





全責任を避けたがる・理解できない人材もいるので、そのような存在は特に他者に制限を加えざるを得ない.願わくばそのような存在は、全責任に対峙してもらいたいものだが、まず生きている間には無理という認識を、普通にずっと昔から持っている.





サルトルの全責任を負うという自由に対して、他者のまなざしが制限を加えるという、わざわざ不自由をするほど忍耐力はないという人材もいる.アジア国は工業国にならねばといった存在もいるが、アジア式というか仏教的色彩というか、森羅万象に溶け込むと、まなざしの制限は薄いものになるのだが.





叙事的存在と思うXX&XYにはその身体の硬さを鋼鉄体に感じてしまい、そこに硬い物体・鉄壁があり思考的に何も底の深さがない撥ね返し体があるだけを直接的に感じて、うんざりというか絶望的に疲れを覚えるつまらなさというか、無に溶け込むことのできない不可能さを見るのか-権力的硬さかも





射影には無限遠点でその内部に有機体を含んだものとして、有機体を記号化してしまう、その傾向は叙事的存在の心情にもあると思いつく、確かに叙事的存在も有機体なんだが、見た目には機械的・ロボット的に見えないこともない.そのような存在が人間的な感情を有する存在を記号的に見てしまうのは普通か





無限小は当然設定してあるからペンローズの思考パーコ電子もだけれど、実際に考慮すると煩わしさは、現状認識は成立してしまい、時間を必要とすることになる.





価値尺度、流通手段、価値貯蔵に関して、カントの空間についてを眺めて何かひているような直感が、対象認定と対象規定と対象の持続とその変化という.





不寛容-アタリの第四の波のネット上における光景というのは早すぎ・穿ちしすぎかな?.トランスヒューマンなる考え方があったのか、そうなることには賛成的.何しろ関心ある難病もエマージェンシー・ウイルスも見方がマイナス方向だが、強度意識上はトランスヒューマンの位相にあてはまるからである.





そんなわけで、ユークリッドとデカルトとニュートンは位相が似ているということである.





サルトルの責任は必然的自由と必然=自由と位相の度合いは異なるが、位相自体は似ている.





そんな誤解判断をする連中にはあきれてしまっていると同時にろくな存在ではないとも当然認識する・しているので、認めることができないのである.でたらめをしてもらうと、認めようとしても認める主体を無視・歪めてしまい、正当判断をさせなくするからである.まるで風車を人間と思うような存在と同じ




 
即自存在の自由を他者は制限する-そうなんだな.即自存在の自由を人は好まないというのはドストエフスキー.即自存在が中間存在であると自由は制限されたものでしかなく、また責任も世界に対して全責任を負うことはできないという存在が多くいる.




 
要するに自己主体を他人化・他人主体であるかのようにみる存在は一体何なんだということなのだが、認識・認知能力が低いことは歴然で、その割に思い上りが強く自分は低いとはい想っていないという傲慢さに対処すべきすべを構築できずずっと不快に思う羽目に.




 
即自記憶を横取りする対他存在者は、内部存在となることになるのだが、
自己記憶として内部にあるから対他存在者の反映的反応などいらず、また横取りしていることなどまさかと微塵も考えることのできない存在だからどうでもいいので、自己記憶でどうでもいいとした対象と他者措定をするという不快さ




 
対他存在者が、記憶上の即自を自己意見と思いつつ、記憶上の対他者を対他と認知して、発言してきた・今も発言してくることが不快なのである.対他存在者・君の即自などどうでもいいと思っていると、思っている人物の即自記憶を横取りして自己意見と思ってしまう対他存在者は不快で、鏡を要求していない




 
だが無機物世界であるこの宇宙が必然的に有機物体を発生させたという人間原理的考え方があり、そう想うものである.類続はここでは宇宙の意志的なものとなる.宇宙内存在より宇宙と共存しているという意識的であるかな.




 
生命が無機物の疎外であるという考え方は、確かに死後無機的骨になりその後その骨も消えてしまえば無機物になることは間違いない人間生理体だが、いわれるようにこれはタナトス的色彩の強い考え方である.何しろ無機から無機へという考えではそうなり、宇宙内存在としての人間存在の限界規定をしている




 
陰謀・策謀・武力型は消息通であり・情報獲得能力も優れているという形である.消息通・何しろ陰謀には策謀には情報が必要だからであるが、陰謀・策謀のためにでっちあげ・捏造・虚言はったりを行ってもそれが自然でああるので何とも思わないタイプでもある.普通常識では歪まった結果を齎す事も多い




 
しかしYと同位相にXX達の存在もあったことを今思い出し・描いている.なんとこの逆になっている主体阻害・主体疎外達の無理解と不自然と無責任と欺瞞感を理解してもらう・自覚させねばならないのだが.--疎外?!、悟性体は疎外的イメージがよく似合う.




 
少子化--別に独身をやる必要のない人間を独身化している障害者たちなどの方が問題で、妨害をしている人間たちに責任があるが、そんな深層心理を持ってるかどうか不明で判然としないので、そのようなことを述べても理解したがらない・理解できないのではないか.




 
縮退がそれ以下の縮退を要請するという不快さ、君の縮退をなぜ解かなければならないのか、勝手に解けばいいではないか、どうやら縮退は自らによって解けないようである.他力を必要とするのかな.世界内存在としては縮退世界内部に位置しているといってもいえ、またクォークは縮退しているともいえるが




 
不快な記憶の除去がなかなかできないということから、非可換だからできないのかもというアイデアが浮かんできた今日、不寛容も非可換性なら説明がつく・つきそうである.




 
いずれにしても建設意識なら何か結構当てはまりそうで、さっぱりわからなかった関係の本質は、やはりわかりきっていたことだった.おおよそ、わからないことわからない人物はすでに過去の対象であるという認識を持っているが、ほとんど理解できない人々である環境界とは何なのかになってくる




 
コンプライアンス意識の寄与はあるな、正義感が発生するのは建設的意識からである.建設意識?!-関係は建設意識に結び付いた倫理であると閃いた.何のことはない建設性かよ、唯物論・唯物史観は類続の保証に縋っているともいえそうであるので.




 
T家の歴史を鑑みるに、チャイテンの定数cより先、以前は神話的になってしまっている形であるという解釈の方法もある.





ほぼ同一時間・誕生日が同じ・や同一年存在たちは、時が平等なら一様に同一時間に死なねばならない理屈になるが、同一ケースはあるにせよ人はそんなことを考えてはいないはずである.同一時間に知力の差がつくや体力差は先天性で処理してしまうのか?.平等時間は物理的にしかまずは成立しない.





ある人物が人間には論評するようなことが可能ではないものを持っていると、証明不可能か人間の才能では判断できないようなものにそれはなってしまうが、それを持っているのも人間自身である.この辺は矛盾であるような気がしないでもないが、それがあるとホッブスの万人の闘争が成立することになるかな





まずいまずすぎる悟性的なけばけばしき生理質、低劣な帰納磁性色明らかな場合には、荒廃しかないではないか.乾燥するか腐るかの摩擦塑性食感というもの.





叙事性のけばり・悟性生理の廃人性感覚が、潤いを荒廃させる蒸し返し嫉妬心・嫉妬心そのものとも見えそうな感触.汚らしさを押し付けて、自己欺瞞に持っていく存在は-その家系遺伝ゆえなので、家系責任であるはずなので、別になのである.実に嫌味なかような存在・自己努力のサボタージュ明瞭





チャイテンの定数でまた惑乱となるこのXX関連からの圧力・抑圧・諦念-諦観要請-ゲーテの悪魔的・・・などなどが作用している乱雑さを齎す煩悩家たち、まったく一方的に時間が作用するのではなく多様なシジフォス情態は当然になってしまうのか.





刹那消滅という第二量子豊かな見解を述べた人物がいたそうな、刹那消滅をなぜ述べられたのか不思議になるんだが.述べる時間はないはずではないか・・・





ライプニッツのモナドやホワイトヘッドのエンティティが考察対象となるのか、まったく自明すぎる理である単に対象設定差異であるに過ぎないではないか.





まろやかな内容を想定していた徒然草、吉田(吉田に関しては後世の判断とかがあるようだ)兼好は教養が豊かなことはわかる.判断力の個性が強いことはあるが、精神年齢は低くはないと判断できるので、自説によって隠者的存在だったといえる.あと有名なのは鴨長明や西行か、松尾芭蕉はどうなんだとなる




 
ようやく枕草子を目を通し終えた.簡単に読める代物ではなかった.清少納言の美的心理過程記述なので、位相が一致している人はあえて読まずともや簡易にすらすらと読めるのだろうが.ただ時代の差・000年の時を経ても、人の心理構造は環境道具・物象・建造物などが変化だけで、変わってはいない




 
自由を十分知っている人に抑圧の窮屈さを与えようとする存在・与えた存在は、自然に対して逆らった不自然さを行使しているので、その当人たちの自然は成立しないことになるはずである.他者への抑圧が自然なる存在は始末に悪いのだが、他者もそんな自然は持っているということをまず判断できないのかも




 
関係が絶対的であるならばその関係は非相対的であるという論理対処.普通に人は必然的自由で物事に決定作用をしている.これに対して必然的不自由というのが問題になる.レーニンは、必然=自由が決定要因であるといったらしい、これはキャズムのイノベーターと同じようなものである.




 
”絡み目不変量として既約表現の数という完全に代数的な量が現れる”の背景は、ポテンシャルvsエントロピー関係ではないかと推察する.




 
絡み目は遺伝子工学に平行して存在すると単純明瞭に考えることに、化学・生理医学の問題対象図形に近い.でライデマイスターは基本中の基本P-E・E-P関係にも関係している.さて遺伝子はその鎖の畳みの有効体積利用とか続くが、ともかくRNAどうしようかでワトソンを知っていたのに何故に並行?




 
捩れを空想していた面がガラスの部屋、ムサビのレディを連れて行くのにしりあいが・理由は?・部屋にいたのを思い出し、まずった事の頃、回転のねじれさえ思いつかず、絡み目は捩れに回転をつければいいだけの話だったのに.手元にアウトドアロープワークがある、不変量固定は有効な所為になるが




 
「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」は昔に聞いたことがある、白居易の隠者生活の香りからきていることを今知る.なんなんだこれは簾を挙げて見るのがどうしたんだと思ったまま記憶のずっと思い出しもしない片隅に、枕草子にあったのか..
白居易は自説からは知力も精神年齢も高かった存在であるとなる




 
いわゆるXXに文句を言わないで・欺瞞的にダンディーを気取って、その代わりに人に八つ当たりというミュンンヒハウゼン代理の理不尽なケースであるかな.こまったなさけないXY達にならないか.ミュンヒハウゼン症候群のXX&XY達とすると、虚偽・演技的性格者の動向がフィットするような.




 
知的能力と精神年齢が比例している職業は普通に哲学者なんだが、わかりやすい例では隠者と称される存在である.




 
伏見城の戦いは家康の会津征伐との留守中を狙ったもので、既にその頃には対立していたのか、朝鮮出兵も遠因らしいが、武断派と文治派の対立が問題の主たる要因とは、それで関ケ原の戦いとなる.思うに徳川家康なる人物は驚異的な忍耐経過を持った存在に見える.それゆえに徳川は長期政権になったと.




 
シモーヌ・ヴェイユ論とかアンドロメダ忌とか多少たかり的要素を考えるのだが、実際に全く関係ないアイデアかもしれない面も.しかしいざ思考しようとすると邪魔になりしつこい災いになってしまうので、利用された感がある.こちらは全く不利で不利益で、いわゆる搾取的な存在達と思うが今は物故に




 
科学は、その還元・成果・結果形態が、叙事的・物理的、要するに無機的になるのが今のところ特徴で、それはエロス的に難点であることは否めない.ポパーの述べるように、ほぼすべての要素範疇を用いて科学的解決を設けていいのだけれど、まず難点だけは克服できそうにない.No,th




 
0億人だと億人と5億人で、こんな考えがあると戦争は叙事的存在で演技的存在がやりたがる(叙事は武力的経験要素の比重大であり、策謀・陰謀は演技的要素大だからである)のはわかりきっているが、責任論を考えると、他力的な要素0:0が行使した結果と言い訳ができる.




 
南十字星にはダンシング・クイーンも想定した.火の鳥から春の祭典や、アンドロメダとか--魅惑の女性であることは間違いないが、或る一言の発語・のちに知った・がまずかったか、最も思考的に悩んでいて、未来の労働規定時間も嫌だったとかいろいろ考えたが、今頃は?.再開すればの要素はあるXX達




 
明瞭に判明する心裡態度・行為・行動ではなく、無意識に作用する心裡意識を詳らかに検討すると、そのような帰結に到達する.歯を磨くとか一人でトイレにいくとか、人は自己認識をしながら日常生活を送っているはずなんだが、共同的には無知になるのか・自己認識している暇がない?




 
どう見ても実体とかで人の内部の剽窃暴露存在の不都合な意識薄め行為は不快である.その人物にしらけを与えていることに気が付かない得意感の快楽という無知さ・無自覚さの調子づきで、未来の希望意識としてはこの場合違うので、未来に生じることになった不都合はこのような存在に起因し原因もまたある




 
つまりマズローの段階の低次なケースがあるわけである.少なくとも日本ではそうじたばたすることは無い衆目の認知があるはずなんだが、例外やそこの境界に近い存在もまあ存在する可能性もまたあるだろうな.0:0はそうなることになっている.低次存在に関してプライドとの葛藤を要しないとかな




 
深淵はある種の人にとっては絶望かもしれないが、深淵が普通の人もいる、またある個性のある作家が得意としていた.市場原理の壁・明の領域から深淵域に進まねばと思いつつ、さっぱり考えられずは、叙事的存在が妨害している可能性があるのではないかと、それとも光円錐か.




 
フィボナッチ数列の逆数和には複数人材の結果があった.ゼッケンドルフでもいいけれど、超越数チェックはあの頃しなかった.これだけの超越数や不分明結論・過程中の段階であると、世界の現況はまだまだ変化する可能性が高くなる.




 
昔考えた種の特性規約方程式は、超越数ではないことは決まっていた.フィボナッチ数列を用いる超越数がクヌースによるということは、クヌースの業績で関連あるものはこれだった、ようやくいらだつクヌースの名前を消去できそうだ.チャイテンの定数でこれも決定済みかよ、しかし問題である.





道具論のハイデッガー、オブジェも考えてみれば道具には違いない.空想家であるのはわかっている道具的空想ファンタジー者をなぜか調子づいて記録したことがあり、不快なその排除が大変.その頃の周囲は何か勘違いをしたようで、質問に答えなったり、先輩ですよとか言ったりした質問対象者の思い出.





三体問題ゆえに?!-夏目漱石を関連付けてみたりして





いろいろな思考情態でさすがに夢も変なのを見てしまう.思うに他者たちの強いる抑圧カルマが大体においてそんなわけのわからない不利益な夢を見させるようである.





なぜか夢を見ているのだけれど、夢の中で現実・実際に起きていることのように思ってしまっているのである.これがなんとも悩ますところである.そのうちに実際になってしまうのではないかと思うが、そんなことはなく夢は夢のままであるはずなんだが、あまりにもリアルな意識を持ってしまう.





その不本意を味わったXXの発言、このXXも目の前の対象を(その時には思わなかったがちょっと前のミストレスに対する思いの未発言記憶)他者存在に認識当てはめをしたために、ある作家に対して悩む羽目になった.個人的には蛇のようにしつこくてうんざりする束縛力の強いある作家の認識であったのに





しかし件の人物はなぜそんなに親鸞にこだわったのだろう.悪意があるに違いないなどは嫉妬感を覚えるが、単に考えがまだまだ足りないか、素質的に無理だったのではないかとも思ってしまう.





枕草子を数ページ読んだところで、清少納言は生意気ではなく意外に善人のようである.ある詩人の善意爆弾という言葉を思い出すほどの生き方をしたような.紫式部と同時代性を持っているようで、天皇家形式に振り回されたというか、藤原家に結構関係した立場だった.それにして藤原家と天皇家は・・





形式でも悪法でもケルゼンの純粋法学には、正義や道徳は入っていないように見える.法実定には機械的処理ロボット的側面・論理的記号的実行的・また唯物論理物理的・形而上学的要素客観的など、深いというより無機的処理的である.なぜ深い思想が正義や道徳を嫌うのかな.単に無機的だけではないのか?
   



親鸞に関して、親鸞も悪徳があったに違いないとやや強調的と思えるように述べている人物の意見を知った.これルサンチマンのようである.この人物は何がいいたかったのか、自己の悪意を親鸞に仮託したのではないか




 
鬱的・・実存の明とばかり考えていた存在に可能性を気が付いた.曖昧さは十分なだが、枕草子は役に立つ・役にたった.嫌な清少納言だと避けていたものが役に立つとは、相変わらず想いと逆になる.あるいは毒には毒を持って制すというやつかな.




 
デルタをわざわざ収束にしない逆作用をもたらした意識は、不都合なんだがどうも無限でさえ自由の邪魔と思ったからだと思う.射影極限の平行線が交わるにも似ているデルタ関数とビッグクランチというわけで、ビッグリップへ向かわせると働いた作用.多分ビッグクランチになるだろうと思うが.




 
思い出せば等質区間的なイメージの厄介さに本能的に避けた時、それ以前にもあったような、度遭遇する羽目になったのか心裡よ.記憶が薄れてしまって、薄れるような対象の記憶ではなく、薄れるのは困るのだがなぜか思い出すのが困難な、或る街で東武線の電車を待っていた食堂・それ以前にも悩みの種が




 
とりあえずミンコフスキーの考えあぐねていたものは、構造設定問題として、妥協処理して置く.重力子とかでは三角形・デルタ形にすべて寄与するから説明上は分離化できずに、多様でもなく見かけは単純な射影構造・深度をもった図像の説明がつかずだった.幾何的には説明難点は妥協の言葉による.




 
重力子とダークマターは違うはずだよなと言いき聞かせてチェックすると、グラビトンに対しての超対称性パートナーを考えて、そのパートナー・グラビティーノがダークマター候補というAre Raklev准教授の0年度初頭記事を見た.素直に常識的にそのように考えることはできるとは思う.


   


クォーク設定の地平線を無意識化するという手段を思いついたが、その乖離感ががきついクォーク感を十分味わい過ぎたということである、実際にそれは慰今でもそうであるクォーク存在論.トップクォークは5年、タウニュートリノの発見は000年.まだ新しい事実なんだな実際は理論に対して.





ポストラモダン(どうもポストモダンと言いたくなく、揶揄かスラング的に用いてしまう)は、思想上のダダイズム的と見える.デリダの意向は明らかにダダ的という視点を設けることができる.
   


特定の他人にできたらばというくらいの感触でこうすべきだと思った事を、なんだかあずかり知らぬ人間が、自己要求しているものとして接してくるまたはその対象が.なぜ君が対象であり、またそんな反応を要求しているわけがないと理不尽・矛盾・出鱈目不自然反応をするのだろう.理解できない.





環界で複雑性圧力が自然発生して、それが直接作用してくるので結構対処能力を有する.環界は共同的・社会的な面において、まあ個人的にも圧力作用は十分受けているのだが.





個人・<個人と個人>・共同・個人と個人・個人と共同・個人と<個人と個人>・<個人と個人>と<個人と個人>・<個人と個人>と共同・共同と共同の冪的関係があって、これで世の中成立しているというものである.




 
霊は人の記憶にある死者の存在意識であるその変容と取り敢えず考えるか、そうなると伝統は霊的なものに近づいていくようである.




 
終止符は当然打ってはいず、遺書もひそみに過ぎない、バイブル(秘伝的な意味合い)はかなりリアルに近い.




 
弘法筆を選ばずと趣味が異なるは一致しなくなってくる、とすると弘法云々は技術レベルの話になるのか?.弘法筆を選ばずは人々に定評を齎す水準にあることを意味しているので、硬い毛や軟らかい毛を用いても文字のレベルは同一を意味している.そうなると、筆の選択が趣味であることになる.




 
オパーリンの生命の起源となぜか関係してパブロフの条件反射も(種の起源はその間に入っていたが)その頃の話で、悩みの発言者達の記憶は、脊髄反射・条件反射と思いつく、以前にも考えたような気もするが、その衝動反応の内容が動物的知性でもなかったと判断していたゆえ、今は模倣対処ならありうると




 
なんでだろう、ある作家にそういえば・小節メロディを考えて、献呈した記憶がある.手紙だったかな、どのように受け止めたかは知らない、気にもせずに忘れていたその家に行ったときにも.そんな態度をその作家に示すつもりは全くなく、むしろ無視したい意図だったのに逆作用をどうもしてしまった.




 
中学生のころおもむろに作曲ということをしようとして、ほんの・小節の意図を試みただけで、非常な苦痛を覚えてこれはダメだとが、無意識にあるせいか楽譜など避ける傾向によりある.後年、ショパンが好きとか若き日のモーツアルトとか述べてきたXX達がいたが、何かとんでもない幻想をしている-




 
背景画像はS県西部の鉄道終点近くの橋から見た下流方向の荒川の上流とその付近の風景である.記憶にある限り、この風景場所と京都周山街道からちょっとそれた寺の帰りに見た薄雨に煙るバスの中らの風景が、今までに日本的情緒を感じたたったか所で、そのうちの一つである




 
No.thの自己思考に悩んでいる難点は縦型設定であれば何でもない事だったことに気が付く.それにつれて横的に考えて、ある街の東口を歩きながら自虐意識的にしたことを思い出す.不利益な無駄を相対意識がさせてしまう、対象も別にそんな要求をしたわけではないが、想定しすぎという現象自覚例




 
とにかく古代よりの表現には幽玄と玄妙の中間のたしなみを感じる.




 
マクロの積極的自由はマクロの消極的自由から見るとミクロになる.




 
理解するか意図通りのXXであるかはその発言語彙表現によって明瞭にわかるのだが..いない場合は作ればよいのだが、未来夢時間上の存在は理解必然の権利を持っていてもいいはずか、もしくはかなり接近している存在・でもないか.




 
思想の思想たるゆえんはその人にとって絶対的なものであるが、そのゆえんからくる思想自体には絶対力はなく、戦いが待っているということは良くわかっているのだが.




 
それにしてもわかったようなわからずで、あいかわらず関係の絶対性の意味に納得できず.存在理由・生存本能・優越原理・全か無か・土壇場・瀬戸際・極限限界・自己本性対峙・唯独性・・・この辺の何かであるはずなんだが.




 
吉本孝明はその強情な自己言語意識で思考を展開していることから、街を歩いていて、『未分化』の状態から、思考を構築した存在であると思いつく.それならば、先人たちの業績に影響されることなく、ピュアな状態からのアイデア思考として、マイ論理の、『未分化な状態からの思考構築は新鮮』に適合する


さていよいよ暦の上では月である、しこりのテーマ類をすべて片付けていかないと何にもできず前に進まないが、難解すぎて処理にてこずり遅々として進まない.『知性などX歳で沢山だ』とした面があり、その時は危険だがと思ったのだが.その状態にただいま遭遇中となりて、空白が長すぎたこともあり





アイドル現象?-ちょっと待ったこの言葉にはある実践的な面があるかも‐そんな時間にやはりなったか.時間はいいがというかそれの持続折り返し時間があってもいいはず-ベルカーブの折り返しとPからEへは普通すぎること





平日の図書館午前ヘテロ達魅惑の翳りちらりほらりと





なんだかんだ-図書館で借りるのはいいが、返しに行くのが億劫だが-で、結局またソビエトものを借りて来てしまった.書架でぱっと目に入った”シベリア抑留50日”である.なぜかロシア関係にここしばらく集中、そのおかげで民主集中制もなぁ硬直しなければという持論の応用が閃いた.





「こころ」をようやく読み終わった.思い違いをしていた時間が長かったなという感想である.それにしても漱石の心理描写能力は鮮やか、多少弱いかなと思うところもあったが、とにかくよく展開できたものだと想うしか、そうなると例えば死の棘なんぞを読んで比較したくなるが、どうしたものかいなと





Kの告白のところだけれど、このあたりの心理描写能力は見事に実際の過程を表現していると思う.モデルはT大生明らかだが、実際に漱石は遭遇か近い情況を味わったのだろうか、漱石の小説には三角関係が多すぎるややしつこさがある.漱石は永遠コンプレックスと見ると確かに小説家である.





模倣者たちはシミュラークルとして、設定できるか.しかし自己認識の鏡を見てもトートロジーにしかならず意味はない.シミュラークル者たちは、それがシミュラでないと否定したいのか、オリジナル者の主体を異常に阻害するという事態には不快しか覚えないだろう.それとも愚かすぎて気が付かないか??





まあ単に、パンのみに生きる存在に重点を置いている立場の存在と見れば、それで射影一様度は成立するとは思うが、失格におけるいよいよのケースにおいて、矜持に対する反省的意識様は、果たしてパン型なのかロゴス的なのか判然としない疑問符状態ではある.これは関係の本質的な内在ものの様でもある.





田舎へ帰った主人公の父親の病気の危篤時に、先生からの遺書が届き主人公が汽車に飛び乗って遺書を読みだす展開のところ--この時点で先の結論を見たくはないが、昔から物騒な(厄介な)想いをしていた三角関係のイメージとは若干異なるなと.ポアンカレの三体問題像と似ていると気づく物騒な心裡





教育は生徒の自発力を伸ばすこと・自発化にすること、その一点が最ものものである.押し付け・押し売りは教育ではない.もし教育関係者で自発力開発傾向が強い教師がいたら適っていると思う.多少根気のいることでもある.





かような人物たちは自分たちが困った存在などとは露にも思わず、他人の誹謗による優越感に生きるという荀子的特徴を備えている.(全くその現実に直面しすぎるのである.何とも自己認識の無自覚者かもしくは開き直っているか)





自我と超自我&個人と社会的&ミクロとマクロ&ノルムと汎関数の関係などはトポロジー的に同相であると見る.





長編小説だったのか夏目漱石のこころ、短編で先生と私の感情のもつれを解けないしつこさを読まずにただその存在事実から直感した中学生の時-それ以来ずっと何十年も忘れてはいない心.あるいは何か紹介文でも読んだのか教科書にあったとは考え難く、先生と私と自殺が出てくる関係の記憶が鮮やかすぎる





どうも権威主義系の暴言に出くわすケースが多い、いわゆる権力系存在に変貌したというやつに.それは一種の妬み・そねみ・心の不幸のいら立ちの発露なんだろうが、原因はそのような遺伝を齎した親にまず第一義があり、迷惑な侵害である.





物質的豊饒さでは幸福になれないと言いつつ、経済に道徳はないとか.どっぷり見栄張りに浸った演技的性格系は物質的豊饒さの権威主義者で、芸術的な昇華とは異なり、どうもそのセンスの束縛性・重さが不快なのである.権威主義系から見ると昇華は深いなのだろうが、昇華の方がいいとしているので・・・





味占め気どり見栄張り専門家は一種の宗教的にしてパスしたいものだ.その宗教はカルト系に近いが.またワンパターン人間も宗教的特徴の殉教意識性と見るとやはり宗教的存在でパス・スルーとしたいものである.まあイデオロギー凝り固まりもパススルーになるかな.





最も虚無とか砂上の楼閣・投機にはそんなに重さはない.カザノヴァ的な剛体が気どりに味を占めて見栄張りを専門としているような存在は数多くいるが、所詮元が重いのでそのセンスは重くくだらないと思うが、意地力としつこさ・傲慢力は強くまことに始末悪い愚劣見栄張りセンスで突っ張るもので辟易する





叙事者は自己認識・自己把握をしないのかな?、カムフラージュで誤魔化す傾向もあるが、何より絶望すると虚無に向かいと思われ、虚無は神聖的なスピリチュアル的でもあり、神聖型は悩みを知らないので、結局虚無型も悩まず叙事型はイージーと系列が完全的になるような.





心理的に映画太陽がいっぱいのようなストーリーで、ただしどうも映画と異なって対象の発覚・愚かなさの自覚はきっと成立していないな.これらは記憶にあるのみで、とにかく人の楽しみを邪魔した存在達だ.その傾向がまだまだ出現する傾向にあるのには閉口する.





反対・強引な出鱈目を受けるのは、そもそも未熟な存在とみっともない存在と認識してしまうので、そんな存在に遠慮すると実際に未熟やみっともない存在以下に未熟にみっともなくなってしまう.逆が明らかなのにその存在は無知なバカだと思いそのままにしてしまうので自己主体が変になることが多すぎる





考え違いもあるか共同化設定をした形でプレッシャーに負けている現実と体制形式のうんざりさを予測しすぎと何かと圧力条件が発生してくる折々と、他人に意図を取られたような記憶もあり、心を薄くされてしまった形で何かと不自然を余儀なくされていて、修正がうまくいかない.負けた形が最も重要か--





ついに昔から嫌であって、遭遇した時にも不愉快な思いをして、何十年も悩ました存在がなぜそこにいたのかの理由を構築した.妖気はキーワードでそれなら可能性があると、難しかった退行者の実在は精神レベルの低さの同時性になりて.しかし時間的にも覆水盆に返らずの要素寄与大なるまさに馬鹿げた事で





ある街のある通りを歩いているときに、真昼の異空間を浮かべたことがある.ふとある時にどうにもこれはニーチェの超人位相と同じ浮かべであることを知った.がそれとルサンチマン意識は別にしてだ.





で経験上陰険な宿命的射影がしつこいことに、生理の特質を変えて貰うかその存在の消失か、それが自然・普通に誰でも自然・だが、特に強調するので自らが証左をとは思うが、時が解決しないままに消えるケースも想定できるのは、対象がハイデッガーのように未完に終わるからと考えることができる





クライン・メビウス・ベルトラミ・タイヒュミラーが同時性を持つ-これ結構望んでいるもの、それに射影という文字が付くとは.単純射影一様性が不快なだけかな.





関係は、個人と個人・個人と共同・共同と共同のパターンしかないな.





しかし意志の自由において矛盾の成立しているケースで、その矛盾を孤独に思考して解いた存在がいるらしい、矛盾や不条理や理不尽根拠を明瞭に分別できるということがわからず、信じがたい.この場合の矛盾はどうも個人と共同の齟齬であり、その人物はのちに逆立と申しているので、解いていないのでは?





ラフマニノフには、ロストロポーヴィチの秋のダーチャの哀愁イメージとも異なり、ドヴォルザークの郷愁とも異なり、チャイコフスキーのロマンとも異なり、心理的にはさすがにそれら以上のものがある.チャイコフスキーのアンダンテだけはエートスが閉鎖的ではなく、演奏家にもよるが別のものして





記憶にある宿命的存在二人とも、他人の幸福をそねむ・ねたむ・妨害をする傾向を感じるが、どうにもその不幸さ・悲惨さは叙事的な単細胞的な甘さを覚えることができ、不幸さ・悲惨さが足りないのではないか、そねむやねたむ時間があれば、もっと絶望して自己修業をすべきではかなと考えてみる.





類続のための歴史を仮想した新旧約、その仮想力はかなりの才能ものである.仏教のこれでもかと展開するあらゆる事象に対するアイデア力も大したものではある.構想力の視点からは見事なものといえる.





個体としての個人は死を余儀なくされていることが、悪魔の存在を生み出したのではないか.普通の人間存在が復活をしてしまうと新約的にはまずいことになり、また旧約的には生命の樹の実を食べると永遠を獲得できるが、それのためには悪魔を構築して神の権威の保存を設定したとか考えることができる.





”先行理解と解釈の循環である”なるほど、レヴィナス的全体の枠組みに戻らねばならないハイデッガーのガウス曲率とでも申すか.





ガダマー・ハーバーマス・デリダ何をやっているんだろう、これらの人物たちの論争視点は、高々考える人の一つの頭脳に過ぎない.真理は帰結点であり、普遍は深層より超越的であり、帰納的視点と演繹的視点は異なるものである.





結局第三ステージのNo.*で今年は早くも行きそうだの結果・成果が出る.アルファタッチに傾き掛けたが、ちょっと面倒なことは残っただけではないか、結局No.*で行きそうだが、・か月もするとすっかり忘れてしまうここ数年の思考.底流が決まってしまい、自動性が成立することに拠る.





レヴィナスの述べるように終末論は全体性・歴史の彼方におけるものであり、パラダイム的革命的新しき世界構築意識でないことは当然そうである設定だろう.別にレヴィナスにしたり顔で言われなくてもそのように考えている人は史上に多数いると見る.





今この時の風景にせよそれから敷衍域を広げるという志向性からは、その逆に広大から今このひと時に集約するという一朝風月に示唆されて、有時を接続の無数回という形式化にしてしまい・・・今のあるがままは広大のつながりを体得するという禅のある種宗の本質と見る.





武力と陰謀・策謀で人を支配しようとする存在の存在を人々は周知しているはずである.その存在理由がそうであるような存在が多く実在していることを、しかもそのような存在は、存在理由がそうでない人間はダメと思いがちなことも確かである.その存在理由から戦争・紛争がなくならない事の理由になる





わかっていながらのこの始末、その上雑なXX・消耗品系を引き連れて、これまたムダエネルギー浪費という非建設に向かわせてしまう...類続上からはこのような存在一般には圧力がかかるはずなんだが、何しろ実際には非建設的・非類続的傾向だからである.この辺の混淆から戦争・紛争が発生するのかも





空白の要素に自己自身の結果もあるが、あるXXに対してに寄与もあることになる、このXXに絡まるとどうもろくなことはない位相で接してしまう・その理由はわかっているが、このXXはアルファ位相でしかなく、今にして思えばタナトス要素強く、穏やかな破滅に向かうものと予測は十分成立していたのに





不美なるXXは性的幻想の壟断により、カントの述べる性と美は異なるの美意識を排除する・もしくは美意識がわからない・わかったとしても性的人間を優位にする存在でしかない.それゆえに実践力・実戦力が強くなりがちであるのは、ある種の人間のパターン類である.





一服の朝の風の流れに妙味を味わうのと同様に、路傍の石垣の道の間に一輪のすみれが咲いているのを見るのも悪くはない.





狗奴国の誰かが海を渡って-高千穂の名前もあり&日向も登場するということで-紀伊半島のどこかに世紀以前に上陸して、その後奈良を適切な位置と決めたという説はどうか?、何しろ邪馬台国と狗奴国は対立していたということなのである.





TLに一人モデル化したXXがいるが、No.twに関して適合生存過程がある・何も論理内容を全く教えたわけではないのに・ということで証左の確認は当然している.





ある思考形式ヒステリックな反応をするXXは十中八九中間存在体である.忍耐力・愛情力・思考力その他もろもろが中途半端な限界を有するところの存在であって..それが日常普通と思い込んでいる存在でもある.--諦めているケースもあるが、諦めているというより妥協している存在と閃いた先ほど





裂いたディラック関数の修復ができず、この無謀すぎるドン・キホーテ式は如何.デルタ単一という遂次性のどうにもあるXXの寄与が作用すると、とんでもない非常識を無意識作用させて、もっと価値のあるXXでないと..それにつれる同時化的な雑XXも、とんでもない非常識を構想させた無駄があり





超多時間の種類の微分要素は・・単なる次元化時空を表しているだけで、種類の特性方程式を含んでいる多項式ではない.ただあるとすれば次元時空にその多項式は存在することになる-あるいは人の頭脳の中にだけに





あまりにも多すぎて無限と設定したがる、Yでさえ極論的に一瞬で無限素域の把握とか述べていたはず、そもそもこの無限はかなり数が多くても、有限値に納まっていると考えることができる.実際にはこの現宇宙に存在してい粒子の数は無限ではなく有限値であり、人の意識がそう思わせたがると.





そうなんだ実際に発散との戦いで繰り込みの朝永の超多時間が気になって、光子の自己エネルギーの有限値のところが気になる箇所までのところで、別な意識のオッペンハイマーは優秀だったのかよと思いが生じ、今までは単に祭りあげられた存在のイメージが強くて.--繰り込みと無限は両立しない--と





大体思考事実を無視して、生理実感のみ判断が現実と思い込んでいる実体は有限のみといって、無限すら無視するという存在の窮屈さが苦手で、XXなら無限は当然位なはずの前提があったのだが...





しかし現状は時間が物理主義(強制エントロピー変化様の道具主義的製作化)・行動主義(共和感覚)時間で動いているかな、アルファがそのようになっているのは複雑時間的多時間のコンパクトタイムとか構想してみる





自己欺瞞保存のために他人にその不都合な内容を転化したり他人を誹謗して貶めたりする演技的性格者XXが多いかな、--アドラーの補償の反動を考えていて関連しそうな思いを途中まで考えていたところで--なぜこんなツイートをしたのかしばらく考えていた暑い5月下旬に、暑い映画を見始める.





この雑草と自分を同一視した人材に辟易している.生理構造が全く異なり、、ウームなどを持ってはいずで、なんという理不尽というかどんな知覚能力・認知能力を持っている存在なのだろうか、あまりにも見当違いすぎてその排除に困難を、そんな存在は悩んでもたいした思考内容にならないと<当然>思う





障害である雑草存在をそれとは認識しなかった遭遇時、これもあるXXの許嫁的存在ゆえの登場だが、そのXXの実在など思わず、単に存在知らず・会ったこともなく、ただし同時に成長した意識時間を持っているという存在、いまは他人の子持ちであるというそのXXのの弟が、K大狂となるという関係心理





本命はやはり本命であるXXや好きなXXは固有が似ているとか、論理一番もそうで、モデルたちのうまくいっていない記憶の展開発展を記述しようとは思っているが、果たしてできるかと不安はある.単にドキュメントの記録でも面白い心理の展開面・交錯表現となっているはずだが.





全く無茶苦茶な連中だ、海馬が発達していないか、自己把握に無知で無自覚であるのはまちがいないとか、その無知に甘えて無責任を平然堂々と行使してそれが当たり前という認識視点しか持てない存在たちでもある.まだ我々はてんやわんやであると謙虚気味に述べた作家はましな方である.自覚している故に





まさか件の人物はいくら何でもそんなでたらめ態度をとるとは思っていなかったので、判断に思考に狂いを生じてしまったのだが、あたかも普通に人々は狂気的なんだと思っていた存在達と同位相になる.そうであってもそんな局面には遭遇しないだろうとしていたが、そんなことはなくかなり遭遇した.





太陽フレアー人的発生結果の映画をみている、放射能蔓延も問題だけれど、現在的急激影響は太陽磁気嵐が地球を襲ったらが、懸念の最もなもの、陽転で銀河旅行中に不測の事態に遭遇しないとは限らない.--そんなことを考えていると、恐竜絶滅現象は銀河旅行過程中に発生した不測事態だったのかもと





アンナ・カレーニナと二等辺三角形から合同で止まってしまい、相似形を考えていたことは確かだったが、フラクタルを知らなかった中学生、幸福な家庭は一様に似ているが、不幸な家庭は多様である.不幸な家庭は直ぐにわかるが、幸福な家庭が似ているがどうもよくわからず、先ほどフラクタル幸福度で納得





漱石の明暗のタイトルにはヒントを得る形となったある日の試験の小論項目の思い出.明暗はどうやら身体優位概念で、夜には眠る・昼には起きているという形態から、地球自転構造が第一義的に影響している.この明暗というのは心理的にも事情に重要と思われ、フラクタル・フーリエの要素をまずは見つけた





硬直した奇形身体が常識を行うと、そのルサンチマン・墓の内部は狂気的であるという頑固さを、最近の遭遇経験からいまだに拘束感という窮屈さを受けている.自由をよく知っているとこれらの家父長的ミソジニスト風な味わいが障害でしょうがない.限定合理の執念深さという、視野の狭さ限定力が.





あるおもむろ単純に意図と異なった表現意味を知って以来、何とか解釈に悩んでいたが昨夜ある表現を思いついて、その表現なら意図に近いと修正設定をした.まったくこんな単なる山がそこにあるから式の自らの表現に、経験時間という北斎風は意図していなのに、かけてしまうという不快さ.理性vs想像力





逆転のパーコレーション・ゲーデルは、constという発想をする.





ルサンチマンの言葉を導入するかどうかで迷ったあのころ、確かニーチェを参照にして結局言葉を導入しておいたNo.thi.ルサンチマンは0個の煩悩・カルマ的なもので、身体的な無意識領域から発露するものは、理性的に冗談なのだがかくいう偽善演技強力場では、事実になってしまう.





演技的性格者の現実は演技-虚偽-道化-冗談の類は真実と思うようである.偽善社会なら非真実が真実になり、真実は妨害をされやすい.人はなぜか無責任の気楽さを好むようにできているようだが、XX&XYの関係は冗談ではなく真実でなければならず、これら演技的性格者には愛情が持てないことになる





 


ミソジニー者にとって母親というのはどのような存在なのか、母親はXXであること確実存在である.普通に考えて母親に対する甘えをミソジニー者も持っていると思うのだが.ミサンドリーXXを思うのは、建設的意識の邪魔をするような存在か、もしくはXXであることに巻き込み・引き寄せをしたがるXX





XYの海馬と脊髄反射の乖離とXXの海馬と脊髄反射の乖離とXYとXXの乖離がある.
 


定積分とラプラスを間違ったか、非調和のポアソンが、調和定積分に災いされた形で、定積分はどうにも有限すぎるが、今頃いくら何でも有限を自覚しているだろう、それゆえにがわかったかな.全く単なるそれだけに時間を費やして、結局それ以上に災いのXX&その弟の登場で歪め要請ばかりの無駄ばかりと





ホッブスのリヴァイアサンは考えすぎというか、すでにあるマグナカルタとかを無視して仮想が入っていないか、無秩序に人はそうならない段階ですでにホッブスの頃もそうであったはず.日本の縄文時代はそんなに自我欲望が思い思いに発揮されていた日々とは考え難いのだが.





もう小学生の時から地球は干からびて爆裂霧散してしまう予知夢をみているからな、そんなSFは大団円にならないから米国では作らない・・・いやその頃には他の星に移住してしまっているだろう.今やSWもあることであるし、あるいは純然たるSFで時間を短期にしてだれか作るかも・・・






ステージのYものが理論的(論理方法論だが)に似合うような状況・情況になっている.次のYの予想は自然にある位相になる予感はある.とにかく今までの月日の情況は数値が適合しているのである.





自己分析・自己対自の記憶はできているところまでは自らきちんと把握しているのに、鏡になって反射する必要はないのに反射をするからおかしくなる.あたかも自己の思考のように、他人の自己分析を蔑ろ、その他人を無視するような態度はいけない.その辺の無理解で無駄ばかりする羽目になる.





コメディアンというのは、他人に優越感を与える商売とすると、それもうまいやり方である--(今頃何を気がついているのだろう・述懐)
ともかく一応他人に優越感を与えるか・保証を与えるかが掌握のコツであることは間違いないだろう.それはイソップの北風ではなく太陽であるから.





太宰治じゃない**あるxX曰く、論理比定は間違いであることは十分承知していたが、君の言うことなら間違いはない・間違ってはいけない存在だが、その擁護的に内心でその通りとやけ気味に思った.確か芸術至上主義の存在と聞いていて、よく知らん存在だったが、芸術至上とは何よ、何をわざわざと.





いつまでも一緒なのは、ある人物に書いた手紙の内容のことで、多少複合意識で自力性に齟齬が生じると思って、これはまずいかなと思い、その手紙の内容をある人物に与えないで自分のものに保持して置くため.最も手紙の対象は読んでいるか、また読んでも記憶しているかどうかは聞かなかったな





どうも遺伝子的に世界の中でも個性的だから、世界は犠牲的な反応を与えがちになるという類的な潜在意識があるのかも.しかし日本人としては個性的な遺伝子を無視するわけにはいかない.





埴谷雄高の”かってなくまたけっしてありえないもの”の哲学的意地を人々は理解しているのか疑問に思うな.





0年以上の時間間隔を開けて、明治神宮に行った帰りに新宿に寄り、紀伊国屋に入口の台箱に量子家族なる書がちょうどあった時で、立ち読みしたが記憶にあるのは並行宇宙の話であったようなうろ記憶しかなく、別段で、そんな対象に誠意をもって取り組むという姿勢はSF的?、どこか引っ張る点もあるな





なんか色々剽窃されているなという、つまり利用されてしまっているなという思いがしているのである.ちょっと一応社会的に有名な存在なんぞにのこのこと会いに行くとこんな思いをしてしまうことになる.自分はどうかというと無名のままで時が遥かに過ぎ去っての過程であるのに、影響を与えた?



いずれにしてもテント縦走をする山行者には、ヴェブレンの認識違いにせよギッフェンにせよ、納得できる様相を持ち得るはずである.なお良寛のたしなみも理解しやすいはずである.炉辺一束薪の話





表現の自由という言葉をTLでよく見かけるが、沈黙の場に対して言葉を紡ぐという事に関しては自由は全く保証されている、ただしできるかどうかは保証されてはいない.普通に見かける表現の自由というのは、社会関係における発言の自由ということであると思うので、ちょっと意味上に差異がある.





自由の邪魔をする存在は、不自由な存在であるという単純事実に気がついた





ある女子大生がいてまさかの権力的暴言を発する存在などと全く考えずに、いまだに邪魔障害物になっている.その大学に関してはかくあるべしという位相を持っていて、そうでないようにこのXXはみっともなく情けなく恥さらしで荷物のような存在で、クレイジーでもある.このXXがなぜ合格したのか疑問





主体の乗っ取りにせよ模倣にせよ剽窃にせよ、その存在達には影響力を行使した形にはなっている.





その昔、ある著名作家に電話した時、低音ボイスなのに(明らかに男の声であるはず)、女の子ですかと言われたことがある.??何を言い出したのか唖然としたのだが.考えてみればこの作家も滅茶苦茶なことをと今、かなり優秀と思うのだけれど、思想的にはどうでもよく時たま役に立つ利用をするだけ





ディクレの妻はメンデルスゾーンの妹、春のメンデルゾーンの華麗に思えたポピュラーなバイオリン協奏曲に酔い、翌月のみぞれの中でに対他の対自と即自、自己の即自と対自のつの顔とかの思考を見たりしたある年のフォーシーズン.





あれ主体阻害の模倣者というか反実在意識・思考に対する認識無知者、模倣しているとは思いもしない傲慢者達、記憶に残っている不快存在者たちは、まずはったり要素あり、自己欺瞞あり(無自覚可能性高い)詐称性もあることになって、ミュンヒハンゼン症候群者達ではないかと思いつく.





超現実はすでに言葉があるので、妄想現実や空想現実はてまた夢想現実(カフカは夢想家)とか考えたりしたが、反実在要素を取り入れて、越現実という表現もあるかなと思い至っている.観念か物質か・二元論をどこかに忘れてきてしまっている・・・





積極的自由思考タイプはなぜ0年も生きるのだろうか、0年も積極的自由に生きるる体力があるのだろうが、0年となると消極的自由時間よりどう見ても長い気がする.これは矛盾である.





殿様・大名商売で依存性豊かなのに依存されると自らが殿様になったような権威力があるといい気分になってしまうという反動があるのではないか、おだてに弱いということになるかな.権威に依存する形で資金供出と権威的意識で資金を供出するという世界対象性を持っているようだ.





荀子の性悪論はマズローの段階の承認要求を出ないのではないか、段階に対して引き込む暴力性を維持しているように思う.自らが段階を上げる努力をしないとなのにせずに、下げる事ばかりしかしないようである.もっとも無理とあきらめているので努力をしないのかも、ならば暴力的でなくてもいいはず





人の主体を乗っ取り?、その人物の主体を歪めたまま消えてしまった人物に対して記憶上から不快でしょうがないので、修正を試みているがなかなか、我がこころ石にあらず面を無視してしまう、荀子的優越感に浸っているメンター的うぬぼれ人間たち.てんやわんやは優越感に浸っている君達の方だということ





パリサイ批判というより現実リアリズムからだろうが、その現実意識自体が非リアルという演技になっていることに気が付かない.その演技はこちらの主体というこの不快さはなんなんだ.なぜか人々は主体を歪めようとしてくる.主体の乗っ取りのような、昔太陽が一杯という物質的乗っ取り映画があったが.





対他存在に対する意識認識を良識・両親から発言してはいけないと思いとどまり、考えたけれどそれを発言せず記憶に保留した場合に、それを保留するという判断をしたのは自己主体なんだが、他人にこの保留内容を主体と思われることが多すぎて困った記憶を持っている.他者には対他である違いがわからない





ミストレスの店で考えていた共時・通時のソシュールはあいかわらず有用の意識ありて.それぞれを記号的に分解する・展開するはようやくにして意識にまで浮上した昨夜の出来事、何十年かかったことか.





貨幣が自然発生した時の社会の状況はどんな世界だったのか.平等社会か宗教的社会だったか縦型格差社会だったか、多分十中八九縦型格差社会で生まれたものと考えると平等という無格差社会的なものにするのは困難なものを感じる.





トランスには少し頭に雪崩を聴いての感覚で多少気にした今は無い大宮ロフトのHMV.今はいない・会わないあるXXの寄与可能性があるのではと推測する、ソリトントランスは怖い.全くその時には信じがたいソリトンツナミ構造のパターン持続がなぜ出現したのか、頭がおかしくなる可能性が制御を・・・





人工知能はそこにあるというシステム的な有ではなく東洋的な無私の情態を自ら作れるか、作れたなら共存は可能で、また現行流れ・ロボット実在多が否定できない未来にはそれが望ましい.





逆になって主体を阻害する人間すべてXX&XY双方とも認めるわけにはいかない.社会や他の人間が認めてもまず絶対というほどに個人的には認めない.ただ単に不快であるゆえにである.





今日は白鵬のまさに横綱シーンに気が付いたり、ピアニストの指の動きの見事さに感心したり、最近体力技術センスに感心するようになってきたな.今までは哲学的な思惟に関心を寄せていたのだが.





渋みエートス、その閉鎖的重さによる束縛感から煩わしい自慢屋と思う、聡明であることは了解できるが.





モーツァルトではやはり思い出のKが一番いいかも、なんという心理情態で聴けばいいのかと迷いだす、セレナーデであると見るのが相応しいか、経緯はわからんが合同の小学校の運動会の練習時に初めてその女生徒を見た・・・





現実は厳しいと言う時、社会科学者なら政策科学でもいいが、流血が必要という実証データが出ていると、精神分析・心理学者なら、ある期間流血を行う存在対象実在は明白すぎるというだろう.これらそれ以上に大気圏内に置かれている有機体である人間存続には有機体同士もあるが無機物との戦にある.





史記的歴史は過去であるけれど、未来もそのようになるであろうとして、それは一般的に誰にでも当てはまるので、あまりにも当たり前としていたのに、あるXXに遭遇してそれを想起して、こじれてしまった.あまりにも当たり前すぎることが、かなり価値を持っている海馬レベルがいるとは想定しなかった





そうか第三ステージは別にして、脈絡のないと思える項目種を同時化してみる形故からだった.+のケースもあるが.+を使えば*





そんな中間存在に対して、有限域以下に気を小さくすると馬鹿の一つ覚えのように権威主義・権力志向者であったなら、頑固な視野の狭さで人を束縛したがるものであり、有限外の自由の邪魔をする心理構築という鬼の首を取ったような、カルト戒律的な態度を示して困ったもの、頑固さだけはスタミナがあり





偽善は妥協の産物であるに傾いているが、演技的産物とすると冗談は演技であるので偽善域に絡めとられる可能性が高い、経験上冗談が本当になってしまうということから(そんな馬鹿なとは思うのだが)、偽善社会-冗談-演技の相関度は高いことになる.冗談がリアルになるというまさかの了解獲得かな





0%は選挙用の頭数的なシビアではなく単純明快なジップの経験則・パレート性が.しかも00億人いればそのうち意味があるのは0億人なので、ある存在のネット噂では時間を予測し止めたその時の静的時間ではジップ的に正解だろう、ところが0億人のうち意味があるのは億人というフラクタルが





一様性・統一性に反対する人々が結集することは一様性・統一性に他ならず、平行線を形成するというのが本質である.





まあ社会通念・偽善などもあるが、性悪人間がその性悪を自覚するのは一生無理か、動物的な弱肉強食が自然であるという思い込みならぬ、そのようにしか考えられない存在でしかないのに、社会もまたその要素強いが、社会的なんだと思い込んでいる存在がそうであるならば、その社会は海馬未発達社会である





後年唐突にニーチェを読むといいですよいった人物がいて、そんなことは勝手だろうとは思ったが発言せず、まったく自発・自力なのでそんな余計なお世話を聞くとは思ってもいないためであるが、そのころはまだニーチェのサロメが不快だったころ、またこんな記憶を持っていること自体無駄だから助言不要と





ラヴェルのボレロ・レベルなのかインデックスとしてのラベルなのか多少混乱をきたした鍾乳石身近なトンネルの自転車通学の帰り道、ニーチェにサロメが出てきて、サロメには嫌な感じがあると思ったのは誤解で、ヨハネに対するサロメとニーチェのサロメは異なることに大分後になって了解した場所付近で.





その地位に自分だけがという罪的なものに摂理を応用するのは大げさすぎな、マルクス関係の書物からは論理的経過のみでそもそも罪的な要素自体がないと思うのは個人的直感で間違いないはず.大体現行唯物的なものは無機的でロボット的であろう、ロボットに罪の意識はない.物理・行動主義にも言える.





奇形は身体的アスペルガーともいえる.その変形にこだわらざるを得ないという特徴を持つ、まあ両親の近くは遺伝子によるのだが.変人は心理的アスペルガー的、奇人は身体的アスペルガー的特徴をそれぞれ持つのでは、人それぞれ大なり小なりそんな要素を持ってはいるだろうが、それが生得的であるならば





破滅型私小説者はdegeneration型になる





generateとdegenerateで後者表現を一般にロストと称する.ロスト世代とか、generationは使うのにdegenarationは用いないのは、エントロピー増大の圧力・寄与による時間の一方性だが、むしろポテンシャルの充実感予兆・時間保証の余裕感の方の寄与が高いか





中村光夫という名を初めて見た.中村といえば真一郎で、なぜこの名前をあのころ・あの時浮かべたのか?.ジェネラル一般と、発生と減退と輪廻転生と思考が纏まらなくなった思い出がある.それで世代という言葉には結構強く思いれがある?.文体表現に終生こだわった人物か-思惟の法則の徐の頃のこと





それで私小説なる言葉をチェックしてみた・陰気な暗い摩擦多き束縛感強すぎる文章のイメージがあったが、これは破滅型でどうも調和型というのもあるらしい.とにかく写実的で本人の実経験に基づいた内容だとか.今認め中のものも自力から当然私もので、反実在を当然取り入れているが.





輪廻でも転生でも永劫回帰でもサイクリック宇宙でも正法・像法・末法・法滅の繰り返しでもいいのだけれど、これらの場合に時間は一様に流れている一つなのか、空間は一つなのかと疑問に思うが、まずそれぞれ一つとしているだろうなと考える.





5000例も染色体異常があるという事実にはちょっと奇形に関して手に負えない気がする.複雑性とはいえ個人では無理という思いである.フォビアなんぞは心理的な忌避性で、アレルギーショック者は身体的忌避性-フォビアは身体にも使うか.忌避性は奇形的とも、時間と共に変化することも予想できる





ビッグリップだとすると当然フェルミ縮退も引き裂く予測になっているな





ビッグクランチとビッグバンの繰り返しなら、末法の時代が終わりまた新たな胎動期が始まるという仏教の考え方と遜色ない.







昔、そのころの回転アイデア時代の考えで、地球をすり抜けたニュートリノはどこへ向かうかでようやく思いついた.幾分あるいは多数・無数のニュートリノがブラックホールに捉えられているはずであると、一応ニュートリノの執着点には違いない.





VFTS 0の回転速度は時速0万㎞--記号のアイデアの基となった川原でのイメージに似ている星の存在があった.秒速㎞およそ、ジェットの高速に近い噴出速度には及ばないが、ジェットは回転はしていないはず.ほかにももっと高速回転している星がないとは言えない.





アルトーから来ているドゥルーズの器官なき身体は、無機的要素で宇宙無機物と同体化させる方が常識に適っているだろう.





木星の風は時速600㎞、液体水素や金属液体水素の内部に岩石があると推定の星で、放射能一杯の星ということから、量子的位相から量子に意識があるのなら、無機的一体感から木星の構造を感知して、地獄のイメージを構成するような意識を持てる構造に人はなっている可能性を考えた.宗教表現の要因と





南十字星と遭遇している時に、春の祭典や手塚治虫の火の鳥を思い浮かべたことがる.手塚治虫は鉄腕アトムやブラックジャックが代表作で、火の鳥は漫画空想物語としていたが、やはりきっかけはストラビンスキーの火の鳥だそう、信憑性葉どうかとは思うが.フェニックス伝説がそういえばあったな.





心理的うまくいったその対象に自らが陥っているという意図とまったく逆になっているあのT市での一方性に対する配慮が浮かんでしまった時を思い出す.対象は自らの心理世界ではなく、環境世界であるはずで働きかけがふつうであるはずなのに.





反交換顕著な人材は経験上、クレイジーで暴力的である.まさかそんなクレイジーな発言をする前提になかったので、それに接したらパワー圧力によって歪められてしまった形になってしまった.これを修正するためにその存在の記憶からの消去を狙っているのだが、不条理の矛盾なのでしつこく悩まされている





現実世界・社会・現実を認めないということは、現実の側からすればそのような存在を受け付けないということにもなる.--世界は思うような世界にはなかなかならないものだ.





終末が登場してまたまた筆が進まぬ.エントロピー最大の熱的死という考えは有限平衡で終わりと称しているようにしか思えず、なぜそれで終わりなんだ、視野の大きさにちょっと疑問を感じる.エントロピー最大はフルフィルだからのようである.それは・・・





荀子型人間が悟るなどという事は無いので(直感がそう示す)、そのアドバイスは余計なお世話にしかならず、アドバイスなんぞで権威感なんぞを満足させていないで、悟る努力をしろと不快な記憶にある言明者達に言わねばならないが、行方などは露知らずゆえにその発言を取り消せとあるXXにも言えず





強靭ワンパターン人間は拷問的存在にすぎないと思った、妖気的人間がそのパターンに当てはまる.タフで情熱的に突っ走って生きて、しかし知的に足りないロボット的な人間ゆえにだなと昔から認識している(考えて想定している)-また叙事的人間とも妖気的は異なる.





退行時間の保存という事も不快なことは明らかな、複合者の誤魔化しも覚えているな、そんな人物に遭遇がまた不快だが必然性もあるので、こんな人材に遭遇する必然性は全く思ったつもりもない、単なる拷問的存在で努力なしのうぬぼれ型人間などなんの価値もないのに.煩わしいものだ.





その昔、良寛のようにとかなんだか言われたことがあり、良寛という感触は意識の瓦解を齎すので、しかも気分悪く、助言のつもりでの人物は述べたのだろうが、不快すぎる.自己の悩みを転化したのかもしれない面もあり、自力の邪魔をしないで自分が良寛のようにだったかすればいいだろうに、不快である





現状は第3ステージのある項目に年間を当てはめることが適切にできる様な様相を示している.日単位だととてもじゃないが体力が持ちそうにもないので、時間間隔を拡げて見ている.実証記憶からはそれでも当てはまった記憶があるためである.





宗教は信仰・戒律遵守と引き換えに自己自身の生存過程に無責任になるような特徴を持つもの--とどうにもまず考慮せねばと





マナの夢を小学生の時に見たことがある.いまだにその現象に遭遇したことはない、これは実際に夢であるしかないか、白昼夢とは思わず予知夢であるはずと思っていた.それにしても申命記のほぼ引用とはマタイのそれとは知らなかった.思い出の柿の木の傍で、思想について考えていた、パンのみの話.






退行XXが陳腐なのは決まっていることにようやく、遅まきながら気が付く.なんとどうするか、そばを通るその映像が臆病を惹起させたことが長い時間をかけさせた.

2016-05-08

my ft 04302016

 
記憶にある不快な言明達はたかだか短絡・脊髄反射でいいのではないかと思っているところに、吹き出しも短絡・脊髄反射のようなものであると、全く他者になにもいえなくなるではないか.まあ暴言理不尽脊髄反射と吹き出しは意味合いがずいぶん異なるので.




 
生理変化は保存しないことから、ポテンシャルのあまりかエントロピーの影かといったところを想う.




 
硬いXYはハードであることは間違いない身体特質を持っている、その思考にも如実に現れている人材に辟易している、その人物は身体的特質から自らを考えたことはなさそう、とにかく考えに考えた生活を送った割には..そんなことはなく自らの現存在的硬さ・剛性に気が付いていたかな?




 
アイネ・クライネのXXにはムンクの思春期を重ねていた、今見ると確かに立ち昇る黒い影があった、なんとなくあったように思うがそんなことは気にせずにであったので、思春期はまずかったなと今にして思う.




 
白い巨塔第回のチューブに遭遇して見た.面白いが跡が続かずあらすじで終わる.TVを見た記憶はないが、書物想定で非常な苦痛を味わったことがあり、よく覚えている書物である.リメイク版は全くつまらず見る気はしないが、この同様な苦痛をNo.f時に覚えたことがありそれもよく覚えている.




 
そう思ってみると、思想の思想たるゆえんは、我が心石に匪ず転ず可からずなり・・や朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとかまだまだ例証はありそうだ.わが心は関係の本質にありと柏舟は述べてもよく、孔子は道とは一生をかけても悔いのないものであるように絶対的なものであると述べても差し支えない




 
まさか吉本隆明が思想の思想たるゆえんを理解できているとは全く思わなかったので、今考えるに理解していたかもしれない・もしくは肉薄していたと、どうも表現を見る限り肉薄と考えるのだが.個人的な秘匿感があって、Yは暴露しているような形になるなという思いもある.しかし対象差異をどのように?




 
思想の思想たるゆえんを人々は持っている可能性はあるが、それを自覚できるかというとまず難しいと思え、ほとんど理解できない・把握できない・到達できないものであるように思っているのだが・・




 
思想の思想たるゆえんを関係と称しているかなY,そうなるとゆえんは関係の本質になり、思想の思想たるゆえんはその人物にとっては、絶対的なものということはわかる-つまりそれが生きていることの証であり、その指針に沿って生きることであり、それを基準にしていいようなものであることは知っている




 
何やらよくわからんが、個人的には重要な気がする時間対称論、そもそも”ブラックホールのエントロピーは、時空の対称性から導き出せる”ことは知らず、ネーターの定理は部分的な印象が、にもかかわらずかなりの箇所で有効という『小さいものは大きいものより大きい』のNo.を当てはめる形のもの




 
人間と人間との関係におけるどうにもならない身体の有限性のことでは?




 
そのXXの弟に実時間を年戻されて、つまりその陳腐に思える弟は年前の存在で、思い出してみると年前の思考を強制主張(聞きたくないのに強調主張をした・強勢圧力で)して、何を言っているんだと今では思い出して、あの中学校の階の廊下を歩きながら-西洋の没落が浮かびまさかそんなことはと




 
幽玄が登場して個人的にはこれで頂点という感じである.玄妙とか玄妙・・・




 
中間存在は、その心理的深さ、認識能力、視野、精神年齢、絶望力、忍耐力・上昇度・依存度・などにおいて浅く・低く・狭く・低く・浅く・軽く・低く・高く・・そのような有限人間をまた中間存在と称する.ただし次世代か何世代かの後に変化の可能性はある.




 
笑いは人の生理あるいは心理が極端な緊張状態の持続に耐えられないから、その緩和のために存在していると現象学的に見る.真面目とか真剣とかの事態を笑って楽しく過ごす傾向の人は知らないのではないかとも思ってしまうことがある.




 
No.fにおける重むろな補則的なものは、好まないポアンカレ要素を含んだ形のもの解析.




 
未来対象として不明なものは不明が明瞭であるが、過去対象に対して不明なものはすでに明瞭であることに気が付くことに時間を要してしまう.この時間自体に結構なエネルギーを用いるのだ.なんと表するか言葉による表現化できないといつまでも不快な性向がありて




 
何十年も悩み考えたせいか、イメージ上はまだあまり芳しくない映像としてよく記憶している対象について、特異点で説明できることに、麻痺しすぎている記憶映像はまだ消えないが、ようやく過日思いついて、相変わらず現時点でわからないものはすでに過去において把握しているものであったという例を想う




 
全く力学系の非保存とかロルの定理とかなるほどと思う膾炙物を、悩んでいた思考の人々による既知の提出物への遭遇という無駄なエネルギーを使用したという埋没感.




 
ル・クレジオのように、後には無機物が残るだけとさらっとエスプリを効かせる仏人もいる.




 
無限遠点で平衡するという考え方はしたことがなかった記憶である、それで宇宙の熱的死とかのエントロピー最大を人々は考えるのか、その場合最大値は何時まで続く時間を有する?、なにか最大になって終わりでその先は考えないは、生理から来る考え方で、ホワイトホールにつながる考え方のようでもあり、




 
吸引不動点がコルニュの螺旋意識の興味に現れていたNo.tt.クロソイドの道路設計おいて吸引は価値があるように思えるが、マイシステム上価値があるかな?、直感自然がおもむろにそうさせたので何かもっと未知の価値設定ができないといけない.




 
力学的エネルギーの非保存対象が存在した時、それは常に生理時間の増長に対して、心理的にまといついてくるという単純簡明なことに気が付いた.




 
人々の無限遠で収束するということに関して苛立ちを覚えるのだが、摂動は収束・消失するものであると考えていた事を思い出してしまった.科学的な面と心理的な面の錯綜が成立してしまう.摂動は一応そういうものであると特別意識を当てた記憶もあるが




 
身体表現性障害の心身症--少しは興味ある.慢性疲労症候群などと昔に冗談的に述べていた頃から、今日では結構まともな疾症となっているらしい.演技の虚言性冗談行使時の論理捩じれを構築した時があって、それが結構影響している可能性がある.やはりそんな対象実在存在も問題あるのではないか
 
 
   

 
λ≻の場合のリヤ指数自体になってしまって、その時に考えていたδ関数意識というより、リヤプノフ指数を考えてしまったような、この関連から逆δを連想してその逆から構想空間でNo.意識構造にヒントを得た.これでは知識を無視したままでは進展しない結果を判断するな...ディラック・・・




 
ある時リアプノフ指数的なことを行使してしまった調子づきを持ったことがある.指数でλは正の値・上半平面・立面上での出来だった.修正の必要とその踏み込み理由がわからずちょっと追求すべき自己所為.これは閉鎖的グリーン関数的な面の反動意識はまずあることはまあそうだろうなと自覚はある.




 
最近、思弁的実在論が流行していると、今日知った.概観を一度眺めただけだが、考え方が似ているように思えた.ネットで流行しているのも面白い特性である、当然身体意識型人間には信じがたい・手に取ることができないものなので、何かといいたくなることだろうな.


 
それ以前に非線形的だろうと思っていたことが、ほぼ線形答えでいいと判明した時の面白くなさ、勢いのしょげり、何だよという思いが一年前にあったなと思い出して.
 
ローティーンの頃ラジオキットの組み立てをやって定型通りに部品をセットしていくとラジオ使用可能になったことがあり、その時にその通りにすれば事はなるというパターンはもうどうでもいいと思ってしまったことが、いまだに心理了解ものの実践・実行を妨げることになっているようだ.




 
内部の無意識化にしたもの、現在の持続中の悩みを自分の主体のように言われると不快でしょうがない、なんという無視か間抜け化のどちらかでやはり後者でしかないだろう.いや双方でもあるな.無意識を蒸し返して言われると、俗にいうサルの潜りのような人間で、人間よりサルに近いのだが、




 
仮に対米従属を止めると今度は対中ソ従属の可能性が高まるのではないか、果たして独立を全うできるかは日本人の依存体質を止めるか、遺伝子の個性ある面・ほとんど特異点的な民族を主張するかに持っていかないとだろう.




 
過去に未来を持ってこれないというパラドックスの逆で、未来の見える現実を未来において避けることができないというエスパ-を知っている.




 
ガウス曲率位相は不必要なのに人々が強制・強要して困る.その存在価値のために無理矢理不合理・理不尽要求をしてくるから何ともいやはや、どのみち愚かな存在だから遊んでいようという意識作用も働いた結果、結局閉鎖感を味わい苛立ち常にを醸して、またそれが当然だと思う要求者たちにも困ったもの




 
無限遠の消散はNo.に絡んできて、普通になんでもないことなのに、ガウス曲率的的判断位相で考えてしまっているからおかしくなる.最もどこかで対象XXを想起してそのように考えてしまった可能性が、いや中学生の時の顕微鏡の花粉を想起した時が原点であるな.




 
無限遠でブラウン運動は消散というときには、その消散する場がなくてはならない.そうなると消散は有限を強調しているようなものになる.この消散の意味が分かりかねるやや無責任な言い方で、消失するではない方だから仮に無限遠と称してるような形であると解釈.まあどちらも無限遠場は存在しているが
 

   

 
関係の本質は存在理由ではないのか、人が孤独になり自問自答するときに現れるのはその根拠だろう.存在理由ならそこに存在している人すべて持っているはずである.何しろそこに存在しているからである.存在根拠としてもよさそう.Yにとっては実在理由・実在根拠になるだろうが.




 
一般にルールというものはミクロな個人のみを対象としたものではないという発見というか、あまりにも当たり前のことに気が付く.ルールは共同的が一般である.
 

   

 
どうもここ一両日に気が付いたが、あるXXの母親がなぜか体内に巣くっているようなのである.あるXXには失敗で、その弟も非常まずい記憶のある形となり、総じて厄介すぎる悪魔的家庭に絡まる羽目になったものだという記憶がある.この母親は関係ないだろうになぜこんな不条理情態なのか参ったものだ

 
なぜ市民に希望なのか、どう見てもそのスケールは小さいのに、ただし明るい空間である.そう考えていると暗黒域を想起して、これを離そうとしたが離れず、そのことが漱石の明暗小論文につながったかのかも、今もそのパターンはある.一応地球にも昼と夜があってその色合いは明と暗、その他にも・だ.




 
普通の欲望の塊の人間が貨幣なき国家なき無神的人民になることができるか?.それならば精神的には仏教の世界がすでにそうである.とりあえず考えられるのは、その共産形態を構成することができるのは、現時点では聖人的人間のみの世界であるならば可能性があるとみている.




 
スピノザの神の決定論は責任転嫁のようにも思えてきたが、自己主体以外によって規定されるという考え方を親鸞から伺われるなどという文章を見ると、別にスピノザの神の決定論と同じではないかと、人神的なものになると封建制度や権力構造、宗教性と伝統などが出てくるので、自由からの恐れを齎すとか




 
超平面の一様性と相転移、乖離と多世界とか思いこんでいると、Sの猫の話は一様時空にこだわった話になる.当然のごとくこの地上とその延長である宇宙実在は、一様時空と人々は考えている.




 
”かってなくまたこれからもけしてありえないもの”は埴谷雄高の哲学的意地か単に哲学か唯一者とその所有にヒントを得たのか、それらは評論であって固有の精神構造から考え付いたものと見るのが正解だろう




 
とあることに不意に思い至りて修正を加えた、これは個人的に結構重要な事柄である.全くもう何年も過ぎ去っているにもかかわらず、思い至らず・いや考えて悩んだことはあったが、自然の時間をこれだけ要する運命的なものだったという結果論は、多くのケースで持っている.




 
映画音楽はなぜこんなに楽しいのか、特に画面と共にであると一層である、ドルーズ当たりに映画論があったが、映画とは何ぞやといわれても答えを持ってはいない.画像化した文章表現で理論より実践な内容ものは間違いないだろう.起承転結という懐かしい小学生の時に自然に悩み続けたものがNo.tnに




 
ゲーテの西東詩集の考え方はマイシステムと似ている、ゲーテだからその詩的直観で想像できたのかもしれない、まあ稚拙というかわかりやすいというかイージーというか、簡単に表現してしまっている.その点はまことに面白くもない.人相好みじゃないな.(翻訳からだが、原文もそうであると推定できる)




 
向こう年までの人類の文明進化・変化予想もなるほどと思うが、In the Year もまた黙示録で、モーツアルトのレクイエムも黙示録なのでレクイエム以上のものは作曲できなかっただろう.ノストラダムスも黙示録である.シャルダンも同じくその他終末論はすべて黙示録に係る




 
冗談が現実になるのは現実が遊戯・ホモルーデンスを要求している傾向にあると気が付く.娯楽やファンタジー映画・書物などはホモルーデンス的ではないかと・ついでに笑いもホモルーデンス的と気が付く.




 
観光のまなざしは自然と文化・混沌と秩序で、無数の過程の結果真理に到達と同様パターンでさほどの目新しさはない.ただし、自分は文化・文明人と思い込み自然人を軽蔑・蔑視する人間はまたいる.あるいは家父長的な縦秩序で横の自由な幸福などを不快に思う始末に悪い、エートスの低い人間もいる.




 
ジャイナにとって体内の微生物は生命体ではないのか、昔から疑問に思っている.自らの身体外に存在している生命体との分離ならわかるが-身体外にも無数の微生物は存在している-体内の微生物をどうにかジャイナでもできないのではないか、アポトーシスもそうだ.細胞増殖も問題とならないか・・




 
定数と均衡-仮想仕事の原理とXXと弁証法と・・・




 
初めて聞いた、スキナーが縁に関心があったとは、さてどのように捉えるか.昔は無縁の縁をフルに用いていた、今は個人的思考に偏心していてちょっとだけれど、その気配はまだまだあるはずで.




 
No.tsにこだわり過ぎたというより勇気のなさというか思考の限界がそうさせた記憶がある.それゆえに空白の時の流れが感じられないというまるでミステリアスな展開、小説のような現実である要素もあることは、それも考慮のうちになってしまうとしても差し支えないかな.




 
ほんとに全く障害でしかない脊髄反射反応・即物人間の暴力言明・あるいは嫉妬発言など不毛でしかないということに、歯止めのかからない節度しかない人間たちは動物に近く、また内部保存を模倣してしまう濁った鏡・不透明な色々味の悪い鏡などを見ても気分が悪くなるのは必定明らかなのに.




 
空間位置物象は何十年たってもそう変わらないが、時間は変化しているということに多少違和感を持つ、さりとて昔の風景が変わってしまうのもつまらない面はある.「夏草や兵どもが夢の跡」の時間変遷に寄せる想いはよいのだが、時間が過ぎていることは間違いないが、その過程がないという空白期間




 
古道に道崩れのところがあり、そこに昔から落石の名がついているところの頂点に佇んでで物思いに耽っている---(さすがにどうも文章を認めないといけない情況を加味して始めて見る冒頭の出だし構想文試み)---




 
大体小学生が量子を考えることに歯止めがかかったその心理はなぜなのか、周りの相対圧力を考慮してしまった.それでも数年後に黒体輻射的なものと、光子運動を考えてしまったことは確かなギフテッド的?と思える事柄.そうと時々ツイートする柿木の花咲き乱れる三叉路の目安のある石の近くで




 
今では記憶にあるとてもチャーミングな風景がある.そこへの道、葬送行進曲を思い浮かべた近くのカーブの風景で、客観か客体の言葉を思い浮かべ何か疎外感のようなものを覚えた記憶がある.これがNo.thhに寄与する進展のなさにつながっていたことを発見する.




 
「多世界の干渉性の喪失」という多世界解釈はわかる、これを方程式化するというのはなんというか、かなり困難、ただ喪失世界自体に多世界があるという解釈はできる.No.thi・No.tt・No.tth




 
なぜこんな自分にとっては不都合な心理形態が成立する出鱈目な倫理もない軽薄衝動体などに阻害されねばならないのかさっぱりわからず、主体の阻害要請者たちはなぜ逆になりたがるのか?、さっぱりわからず、自己認識に乱れを生じて非常に不快を過ごしている.対自認識を味わうのは私である他者ではない
 
自分がしている意図の対象は自分ではなく、意図を途中で止めようが止めまいが自由だろう.意図を模倣した存在は私ではない.何しろ私という個体は一つしか存在していないからである.私は私であり、模倣者ははあくまでも他人であり不透明な鏡を見るよなもので、まして私は意図の対象者なんかではない.




 
意図する対象は自分ではなく対象を意図しているのが自分である.その意図判断を途中でやめてもそれは諸々から来る自己判断である.他人は途中でやめた意図の模倣をしてしかもその意図の作成者である自己をその意図の対象と設定・思い込んだ形の現実・実際発言をいろいろいまだにされている

 
表参道でのコンプレックスに思い違いをしていたことに気が付く、いったい何十年無駄をしたことだろう、なぜかその他にもそのような回り道をする必要がない事柄が多いので、これはなぜなんだ、他者の精神年齢進展度合いの遅さがそうした圧力になっているとしか.




 
そこの川で泳いでいるのは鱒ではないか、楽しそうじゃないか、君は鱒ではないのになぜ楽しいとわかるんだ、では言い直して、センスあるじゃないか、君は鱒のようには泳げないだろう-しつこい名家の対話にセットしたシューベルトの鱒の昔の楽しき思いで.




 
マズローも孤独で悲劇的で未熟的な権力志向者などに同情すると疲れて意味がなくしょうがない、それ以外でもだが.疲弊して経済的には損失しか残らないもの、また甘えられてそこでもやはり損失でしかなくなる、またそこを狙われてやはり損失になる.それではどうにもならない.




 
ふと思い出した、昔に人間のタイプは、ファウスト・ドンファン・ハムレット・ドン・キホーテだったかな、4番目を忘れている.とにかく大別して四つのタイプであると、それで判断を少ししていた時期があった..




 
ある関係ないものと関係ないものを結び合わせる関係意識は深淵を介在させるか、あたかもXX&XYの関係のように--そうかNo.の難点はここにあったか.




 
功利主義は正規分布を機能・効率的に見た見方であるという判断ができる.全く最大多数の最大幸福は明らかに正規分布であることに気が付かなかったものだ.というより人々はいったい何を考えているのか、惑わしい過程を露呈されると無為な時間を過ごしてしまうものである.




 
ロルーズが個人は共同体や国家から自由という考え方で、サンデルはアリストテレス型の目的論(個人の自由は目的のために問題にならない)において、桎梏を排除した形の共通善を設ける形というわけだ.どっちもどっちで、ロルーズは芸術的視点、サンデルはカント的.芸術には共通善があると思う.




 
関係の本質は不変かもと想いついている.固有性はその人個人の不変なるもので、人間一般を通してみると、存在論的に人は持っていることを推定できる.




 
No.に関して「黒体を量子領域としたときそこのエネルギーは量子エネルギーになると仮想して..」と発見(自己文章だが失念記憶上)、小学生高学年の時の、あの柿木の花咲く花散る三叉路の小さすぎる小川の流れでの光子・ブラックホール・老子の道のころだから十分.




 
おっと経済面で閃いた.閉所形式のKの誘惑から一体何年経たことことだろう、最もハイティーンの日に考えたことが影響しているのだが.




 
オイラーのγの展開式やテータ関数の展開式を見るだけで苦手のワンパターンのうんざりさを覚えるが、遅かれ早かれ直面しそうな気がしている.大体周期そのものがワンパターンである.それもΘに考慮してあるのは当然なのだが.




 
となると『4が必要である』まで生きているかどうか不明になる.多分無理ではないかという思いがあり、ほんと遺書はドストエフスキーの倣いでほんの冗談なのに(冗談が本当になってしまうなぜかこの現実の不思議)、遺書みたいになるではないか、ある亡き作家にはバイブルとは言っておいたライフワーク




 
パターンを考えてもどうも納得いかないので、モチーフが周期というヒントから考えるが、オイラーのγあたりで、古典的定数は周期であるように考えてもということのような事態である.そうなるとやはり第三ステージとして古典的定数化でとりあえずということにしておくことも一つの手段である.




 
まあ単純に個人的限界に接している第二楽章・Θ・マイシステム・モニュメントなどというという同一表現記録の存在した事実なのである.

 
帰納は常に仮説になりうるので、ポパーの着眼点もいいものがある.ベーコンで頭がひりひりしたハイティーンの日々、政府機関的にもベーコンでは先がないと思ったが、不変的に帰納が作用して時間を過ごしている人々・科学者・数学者たちと、ポパーの存在はその頃は知らなった今はポパーにも批判展開ある




 
遺伝子・微生物にせよエンティテイ要素意識であることは間違いない、世の中哲学的にはまだまだ十分変わってはいない何十年後、夕暮れにミネルヴァのフクロウが飛んでも未来に対しては有効なのであるということ.




 
よく識者というかメンターが絶望すればよいというけれど、これはポテンシャルが擁護している場合に有用であって、エントロピー情態ではさほど意味がない.ベートーベンもポテンシャルが豊かであった場合の話であるはずである.




 
複雑性の体感は時が過ぎればわすれるかもしれない、心的記憶はそうではないはずで、それが有用になる.




 
せっぱつまり情況であると地震被災者とそう変わらない時間を持っているので、そんな人々は被災していなくても世の中には大勢いる




 
サルトルは傲慢さと見捨てられを味わっていたんだ、回想ならいいけれど最近のツイート内容はそのような様呈となりている.またそのように仕向けられた昔からは不快だが、何とも思わずなのである.




 
バイミメは独が進んでいて、日本は縦割り社会なので、フラット独立分断構造のハウスドルフ組織構造ゆえにらしい、粘菌の動きはどうなったか.独立しているなら横的には非可換で、縦的に不確定スラーを行うのが上司というわけだ.




 
そんなロボット・叙事的人間は、有機物発生以前の時間に生きているか、現在時間で成層圏を超えて酸素マスクなしで存在していろ--とか位を考えてしまう不愉快すぎる不快をXX&XY達から受け入ていて、未来の努力をしないで、この即物処理を行使したがる存在の問答無用の馬鹿らしさ.




 
逆になったり思い通りにならない以上責任は持たない、自己対象ではないもの責任を持とうとしても主体を発揮させないのでだめである.ゆえに何かあるとすれば逆になったり、主体を阻害した存在達に責任があり、加害者的なのであるのは自明なんだ.自己欺瞞で逃げていてもそれは許可しない.




 
科学理論はいまだ反証されていない仮説の総体-反証主義がどうもよくわからなくて、すでに膾炙となっている理論も仮説になってしまうのか、それは実体意識からは不愉快な気分になる.そもそも仮説という言葉自体反証可能性を含意しているではないか❓、同義反復延長のようなもの?




 
俗という言葉はいやーなイメージがあるなと小学生、それが数年後にイメージ的のそんな存在に遭遇してしまうという不都合さ、障害物になるという嫌悪対象は、嫌悪主体に抵抗してもそれは嫌悪主体を無視することにしかならない.別に好悪は自由だろう、自然意識を尊重したいものである.迷惑な不都合対象




 
世界が無から始まったも演繹的拡張・妄想・未定設定となり、根拠はない.まあそう決めつけるという矛盾的なものを受け入れるという宗教的考えを述べた人もいるが、・・そうなると太虚という考えは宗教性があるのかという思いが湧く.




 
モナドやエンティテイや原子命題はしらける.ループもパーコレーション的思考である.パターンはみなほぼ誰でも考え付くものである.--思惟の法則があると結局は面白くなくなるという考えとアルゴリズムとの錯綜があるかな.




 
ライプニッツのモナドの無機的、ホワイトヘッドのエンティテイは有機的で、対比すれば客観的と主観的.システム構想のころ、いずれも要素単位論でその思惟形式は当たり前すぎてなんら意味がない日常・限界・行き詰まり感を持っていた.この両者は当たり前すぎて面白くはない.TLPの原始命題も同じ.




 
脊髄反射言明だからデジャブにできた?.即物反応強迫性があるのではないか、確かに現実はそんなケースも多々だが、当人たちが即物反応的人間に偏っている存在であると、まず認識していないのでそれが義務・自然と思い込んでいるようである記憶からの判断.いわゆる動物的存在を欺瞞したがる人間多く




 
脊髄反射反応言明に対してそれを尊重・そもそも脊髄反射言明を尊重する考えはないのだ・してしまい非常にナンセンスな無駄を、それもまたそれらの言明はデジャブであり、それに気が付かなかったこともそうだが、デジャブである当人に述べるという言明者の認識能力にも困ったもの.

 
Kummer surfaceの映像を見て、エンブレムのデザイナーなどは参考にすればという考えが浮かぶ.カラビ・ヤウの複雑怪奇映像は芸術的かと思ったことも、今では何か違う・多分閉鎖性によると思われる.サルのしっぽも妙な具合で、アラベスクは双曲映像ではないかとも思ったりする.




 
あの時は次元でも困難で、4次元は高次元はというとI予想という名前が登場した今、数学の王道は代数多様体と昔から思っているが、今も年前とそう変わらないだろう、一般人に多様体思考をさせようと当てはめを考えていたのはまたその年前の話、無理なことを考えてもしょうがないと思った先ほど.




 
覚醒時≻入眠時≻夢形像の順で同心円を描く場合は空間単純表現で、夢形像を直後でも認識できるという関連と覚醒時内部の内部の夢形像を起きた時の覚醒時が認識できるそのつながりを第4種の何かにしないかとは思っている.ABC予想のように渡るもの.単に生きているから夢を起きて再現できるでは?




 
どのような意味づけをしたとしても、原生的疎外という観念が疎外であるとは不愉快・不快である.この叙事的感覚の権力的・覇者的視点が気に食わない体質者であることは今ではよくわかっているが、千駄木に行った時にはそんなことは露にも思わずだったな.無意識感覚・直感では認定していたかも.




 
考えなくてもいいのだが、しかし具体的表現を漸くした形になった.なんと具体的な権力構造を展開できたというかような単純さに頭脳作用が全く働かなった多大な時間.まあ離散分離をして具体者に任せるという抽象も大いにあるようであるが.




 
時間的過程における様々な試行錯誤の結果真理に到達したという時間路X軸を直交化して度回転してみると、真理は色々な具体作用を様々に含んだ形となるZ軸という縦構造になり、抽象化度合ごとに離散分離しているのではなく、その都度包含していると考えると、抽象思考が成立するではないか.



 
『過程が統御を内包する』--どうしてもそう考えざるを得なくなってしまった中学生の時の思考を前文に置いている.普通に人は統御が過程を内含すると思いたい、特にXYにはその傾向が強い・XXも権力志向的体質者はまたそう考えるが、このような考え方をしていると大いにそんな人間は邪魔になる.




 
定積分は有限明らかでそこには普通に責任あるが、積分範囲が±∞である不定積分の場合には、有限積分体は責任意識が希薄になる、諸行無常の如く.(この構造は『過程が統御を内包する』と同じになっていることは少し前までは当然の秘匿にしていたはずなのに、こんな考え方をしてしまう自己他者的)




 
問題は渋み的でもあるが、具体から具象へ抽象へと向かうヒエラルキー思考をどのように判断するかは、昔からそのまま何十年も止まっている.いわゆる官僚思考の位相である.単に凝縮・密度ハイ・稠密構造であるのだが.




 
リビドー情態にあると形式知を用いるのは困難である.たとえ人間はリビドーを理性に昇華できるとしても.経験者の直感の表意事実を渋みといい、それを意識していない直感判断を行使することは確かに有用である.




 
組織・会社という構造体が成立・現前している以上、それは有限体である.組織にはヒエラルキー構造が付随しているのは必然的で、いわゆる縦構造で、積分作用が働く.有限である以上その判断には未定直面が存在するとサイモンは申していた.普通にそれは当然と誰でも考え付くことなのだが、




 
意識における想像ができなくなるそれは均衡・エントロピー最大であってそこが有限値自体的なものになっている.果たしてそれ以上変化しないか、限界なのかそれはそう考えたくはないが、しかしそうとも思える.




 
『層状組織』に断層・割れ目がありそれが動く可能性があるという地質を今頃になって気にする.自己自身の内部から見ている、それとも内部存在が妨害して視野を狭めているかな、そんな気がしている.多いのである抑圧をかけてくるXXが自己の狭さから自由意識の妨害をしてくるXXが、

 
しかしYも半端ではなくしつこい・さすがに本当に考えたことは確か.精神か物質か決定していない-同じ考え方-とか埴谷はねえ埴谷はねえと-これは異なる、埴谷雄高なんぞなんでもない.あと永続革命はいいとか、永続革命って何?で革命が永続なんぞするわけがない-トロツキーの頭はいいが.記憶より




 
まさかこんな無意味な時間を過ごす羽目になるとはその頃は全く想像もしなかった.不都合に向かうその他色々な障害発言者たちもいて、それら発言は単なるハイエナも食べない嫉妬のようだがどうも判然としない.ただ頭が麻痺する理不尽であるが-そんな発言者は愚かと優越感を持つというカルマがある?




 

 
公共選択が新製品開拓分野にかかわっていないはずはない現行仕組みではありそうで、そのような経済事象は昔から推定上あり(例えばダラスで倒れた大統領の父親あたり)、今もそれはありその辺が最も影響力強いと感じる.




 
無償の行為視点(芸術的視点)からは経済が成立しなくてもいいかという構想も成立するが、これはさすがに極論だな.芸術家にとってはしかし経済は無い、ゆえに経済他力が成立するというケースも多くある.人々が芸術は役に立たないというのは、経済視点第一義的に見ているからである.




 
自力から親鸞の歎異抄には強制力を感じるという、最近の米国メラネシア宗教研究結果から、宗教は支配者の地位保存に有用してということと同じく、親鸞もおそらく他者支配のために本願・他力を述べたことはまず間違いないだろう、強制力を感じるのでそう思わざるを得ない.




 
埴谷の自力ですよというアドバイスは先刻承知すぎていることで、こんなアドバイスはいらない.全くろくなことを言わない作家・評論家たちである、単に邪魔しているだけに過ぎない有名税というメンツプライドからまさかとは思ったのだろう.ゆえに他者の剽窃・模倣を見るのは自力の阻害になり不快であり




 
常微分方程式があったな、やはりこれも複雑さを予感して、ただし非線形方程式は避けてはいなかった.ともかく交代形式で外積の場というこじつけをまず強引にしてみたが、納得のいくものではない.それでも通らせることができることを思いつくのに、ラマヌジャンが出現してくるというネットリンク




 
まあ昔から数学は代数学だと直感していたが避けていたことがあり、その複雑さ予感で.そういえば避けていたものといえば、類体・カラビの次元・フェルマーの定理・代数学・ペンローズ・・・あとなんだ、ここまで思い出した.これらは現実的世界に価値があるという帰結になる.




 
おもむろに単にシステム上似ているので象徴させたΘの論理と個人的に表現しているので、テータ関数とか聞くとΘ文字を連想しないわけにはいかない.幼き日のあの暑い夏の川べりで浮かべた、楕円形の超想像的時間速度回転のイメージがそこにはあってと多分思う.そもそもこの超高速回転は何の意味か?




 
ラマヌジャンの擬テータ関数・年ハーディへ・が年に手がかりで年に全体像の一つの公式が発見さる(フェルマーの定理はどうかなという代物だが・どうもそう思ってしまう小学生の時の勘違いがある-ノートの余白で十分・多くても・枚で足りると)




 
”エタールとは、陰函数定理が代数幾何学でも成り立つと仮定すれば、これを適用することができるという条件である。(しかし、実際には陰函数定理は成り立たない。-”これ昔の理知的存在に今では遅すぎるが、見せたい文章を発見した.全く評価する連中はどうしょうもなくまた、自己自身も謙抑しすぎで




 
宇宙ホテルの時代になったか、第二楽章は『星間宇宙に瞬く星々たち』があり、これも結論部位でもあるので(ただし恒星間を想定していて、地球は記憶の彼方にというニュアンスを設けてはいる)、近づいたなとは思う.スターウォーズやアバターなどは意味なき空想物語漫画だが経済価値があるという不快さ




 
先ほど起き抜けにスマホのTV番組から、chを見ていると、ラフはホロにとんでもないアイデアを思いついたといいながら、4の狂詩曲をか月あまりで書き上げたと述べていた.変奏は主メロディを少し変置した結果、ややハードメロディが抒情感覚抜群になったという話だった.示唆的である.




 
太陽の寿命が億年とするならば、今神的移動でクエーサーに位置しているとすると、すでに太陽は存在していないことになる.何しろほぼ億年経ているのでという相対性理論.
 

   

 
ホモロジーをポテンシャルのみで考えてしまう傾向に気が付き..問題は本質台と波面集合と特異スペクトル(は同一)という種でいいのかとあまりにも明晰すぎないかと考えすぎてしまう、先に進もうとする意識が強いとどうもそうなり、それで失敗したローティーン時代がある.




 
人生で避けえないもの・それは関係の本質になると思うので、この場合エートスになる.




 
雨の日の構造を見ていた山道小道の抑揚の先で、やはり幼き日に考えていた事柄にエートスがある.エートス・これはこれから先の人生・未来を決定してしまうとその時に避けたもの.今想うにヨーヨーマのカンタービレやトラークルの詩にはエートスたっぷりであり、それがいいと想っている時間となりて.




 
推定、雨は降っているが私は知らないように生きた音楽家にアマデウス・モーツァルトというのがいるとほぼ確信できる.
 

 
昔幼き日に、あの雨の日のC山道の小道に佇んで構造自体を見つめていた楽しい時に関連して、雨は降っているが私は知らないのムーアのパラドックを常に思い出す.構造を見ていると眼前の雨は透過することができると、様相認識論につながるのか.答えはまずこれだな.




 
ホモロジー・コホモロジーはNo.teの何気な文面ではないかと気が付いたが、面食らう考え方、全くポアンカレの拘束感覚が嫌いで・にもかかわらずポアンカレの業績には価値があるという苛立ち.


 
「知的怠慢ね」といった女子大生がいたが意味がわからず、性的面かな満足した馬鹿のことかな、多分前者だと思う..要するにもうこの時点で、結ぶ思考に共通性がない.







 

 
科学者の描く今世紀の未来に超伝導道路があった、この発想はなかったな.あと壁が一瞬でスクリーンに変わるというのは未来だったか、昔に考えてうまく想像ができず、電子写真とともに自己にマイナス点数を与えた形である.共同的には十分パスのはずだが、一言余計なことを述べたXXがいて意地を張り




 
ところがそんなA期的演技的性格者は、自己欺瞞たっぷりゆえか、他人が野蛮に見えるらしい.A期人間自体未発達の原始的人間なのに、欺瞞でそう思いたく無さを隠したがる本能があるのだろうな.




 
くだらない人間を擁護する形として忍耐しても全く何の意味もないただ無駄な時間を過ごす羽目になるだけという如実すぎる経験値

 
論理ロボットには悟りとかは考慮することは不可能か、あるXYが急に女なんてと発語したことがある.同性意識かあるいは女性意識か境界症候の突っ張りか理解できぬが、君の母親も女であるという考えをしていないような間抜けさ加減大の発言は頭脳を麻痺させ理解不可にさせる.まさか母親憎悪があった?




 
関係の本質とは死を意味するタナトス的面か生理有限時間・その凝縮時間と思ってもそう違いはないだろう.悟りのための修行という宗教の伝統が日本にはあるのに、欲望的存在にこだわりすぎていたよと思える存在に、悟りとは?という質問をしてみたらよかったな.今はもう不可能ではある.

 
人間の生に存在論的に組み込まれているものに、生理時間有限がある.




 
昔、その視野は小さいけれど市民が希望になると思ったときに、それに付随して暗黒が離れない形で浮かんだ.これ実存の明暗や深淵・虚空のパターンと同じと気がついて、普通にカルマの人間は誰でも明暗を持っているのではないかとしてもよさそうだという帰結が生じた.
 
またついでに源氏物語もどうも内容は趣味ではないが、帖のタイトルのそこかしこの雰囲気はよい.それより「とはずがたり」を眺めてこれはいいと思った.解説には4歳から歳までの回想とあり、歳で出産とはいかに.そうかローティーンの物語でロリータかとちょっと思ったのを覆されて・・

 
Yは人は思想の思想たるゆえんはすべての人間が持っているという言い方をしているが、すべての人間は一様な固有性を持ってはいないので、普遍的に・存在論的組み込みであってもいいけれど・持っていていいのだけれど、個性がある・個性を設定できるように先天的差異があるとみる.




 
Yの関係の本質とは主体的行動・行為・判断のことではと思いチェックして見ると、やはり思想の思想たるゆえんのような気がする.Yにおいて思想の思想たるゆえんを把握できたと考えることが不快なのだが、表現力あるいは認識力の少し欠如感があるな.それで表現にはったりを覚えてしまう.


 
何かニッチがないかと考えてもアイデアが浮かばず、その後ソニーが電子ブックのいいのを早く出さないかと思ったりしたが、素直に出版関係を考えるべきだった.全く豪も思ったことはない.中学生の時に作家としては流だけれど、出版社としては成功している人物にやや不快感を覚えたことが記憶に?




 
問題すぎる記憶の烏帽子-鷲羽間で何も思い出さなかった.ひょっとして鷲羽-双六の間だったか?.こじれすぎていまだにこじれてる心理記憶.まあ相手は平穏な悩みも何もないのだろうと推定.




 
錐や正則はその定義が基本と、全く根本的に定義を把握していない、ただ無意識直感を使うのみ、それでもなぜか口から言葉が出てきて、大雑把ながら正当であるようだ-他者がそれに理知で懇切に展開するといった閉口さをよく覚えている.それも気にすることもないな.




 
実軸で三角形だと単に点にしかならないので楔まで出てくるとかなり曲的に考察、-にも無数の値があるのにとは思うが、象限のアナロジーなのか.ともかく単に点ではしょうがないないだろうと思うと連続になって、ハウスドルフはどうかなになる.




 
風が強い、春の嵐なる書物を昔読んだような記憶を思い出す.入院生活が長かったので中学年生、その時にちょっとしたことを思い浮かべてしまって、それをNo.Oに連用してある.
 

   

 
設定意図は明白空間の虚像=ある不明空間の実像の意味で用いている.結果不明空間・X空間のボキャを剽窃するXXが全く登場しないことに、高々身体的意識の剽窃関連などどうでもいいので、このX空間の言語要請なんだが..その意味では不明意図になってはいるが、別に隠すつもりはなかったが色々.




 
接・余接とラグランジュ・ハミルトンの関係から、ある空間の実像に対してある空間の虚像とはある空間の実像ではないことを意味している設定に関連付ける.おもむろに表現化したある空間に対して結構乱れる悩みをして、失敗だったかなとおもうけれど、単なる比喩的に用いただけであるので.




 
偏微分方程式とエンタングルメントについてだれかそのうちに述べるだろう、すでに述べている?としたら、せっかくサンクが埋まった形であると思ったのにがっかりであるということになるが、実際にどうなっているのか?.それでもそのくらいの意味があると直感を持った.




 
" 年・ Hans Lewy による解を持たない線形偏微分方程式の発見"この記述から、若き日に思いつた4種の明瞭な特性解のある方程式は、変数が4個ある偏微分方程式なら可能ではないかと思いついた.もしそうであるならば、なんという単純な解答・帰結だろうと




 
不確定性原理でカオス理論を説明できる可能性を直感した.果たして?




 
時空性は転がりすぎている.ts




 
結局心理想像力にシステムのタームを用いることになってしまったが、そのタームに当たり前すぎる認識を構築したくなかった・できなかった形のある昔の夏の暑い日.進展したが当たり前・普通すぎる要件になってしまいいいのかという思いで躊躇している.被覆で取り繕っておこう.




 
距離が存在すれば時間の影は設定できる.時間があれば一応距離を設定できる.No.ts




 
基数における長い直線が交わるようなものというのもきついな、フレアー点くらいでいいのでないか、そうしたほうが自然であるがだ...




 
グロタンディークの名前は昔に知ってもよかったはずなのに聞いたみたこともなかったけれど、ここで食い込んでいた気分を思い出せた.(こんな表現をすると後に厄介なことになるという懸念が浮かんできた記述後今を少し修正して、思いつくではなく思い出せたで緩和して)




 
無限小は例えば射影空間を一点に縮めたような意識を昔から持っている.それより古代のリッチ・フローの逆向きとか.無限小意識に対して時間を一瞬に思えば、縮めは成立するので、Gの多様体一点化とか方向視点差異を排除すれば、なんでもないことだった..




 
あまりにも普通に考えていた昔の視点からは・ニュートン空間でのことのような・相対性理論は男女関係に見えてくる.パリティの破れは不和とか.




 
集合論もこじつけといえばこじつけ気味にも思えるが、選択公理もそのようである.P≠NPがなんとなく片付いたような気分が発生したが、射影空間が広がってしまった.




 
ミンコフスキーの世界線の初見ではそんなものかという思いをした昔を思いだして、それが今では悩みの種になってしまっている点について可能性がこじつけ気味に閃く.さっぱり手がかりがなかった点から少し変化した妥協性を加味してもよさそうなことになって、これはまた自己自由の妨げにもなりそうだが




 
不動点・BMが消散するから、ロバの平行線は無限遠で交わるという不快な考え方を、使えると閃いた.




 
相対性理論が正しければ、時間は至る所で異なるので、時間は多様性を持っているならば、平等は絶対空間的考え方にならないか.相対論的には時間変換則は同じでも時間自体は異なっている・空間も同じで相対論的に平等は成立しない事象となる.




 
ダークマターかブラックホール的なものを体感的位相に持ってきてもしょうがない.リアルとバーチャルといって、リアルが精神的現実な人もいる.




 
対他と対自の差異がある.No.




 
発散と圧力は使いようで成立する.No.




 
藤山一郎を知らないとは歌手なのか若き?XX、それでは巷間いわれるように今の歌唱力は落ちているという示唆は事実だろうと推定できる.歌がうまいとか歌唱力があるとかなんだかわからなくなっている心性なのだけれど、フィッシャー=ディースカウの冬の旅はいいを思い出した.




 
αの偏微分でその世界と抽象する汎関数の関係は?、∂αはH定理とエルゴード関与傾向で、官僚システムは汎関数を意識せねばならないマクロ性、虚無と諸行無常関係などの解析・分析をまあだれか行っているだろう.




 
”創造的なものが見えないのは--過去の世界の虜囚となる”エンデはいみじくも言ってやがるな.そうは申されても実際にどんな対処を思いつかない、ある意味幸福な時間という感性.実在しているXX達の遭遇関係の中で見る記号システム論がそのようにさせるが、αに遠慮しすぎた若き日々が続いて・・・




 
そんなことが現実の圧力・状況で必然・自然にそうなるからαに関して何もしないという形になってしまう.仙人ではなく、隠者的な位相もないこともないからそう思ってしまうかな.問題は無自覚で熱烈に無知を生きねばならない人が多すぎるゆえにということにある.まあそれに巻き込まれ形という遅蒔き




 
α構想で覚えているのは、・家父長制について、・乞食にも愛を・・・まで構想したが全然手を付けていない.特にの項目は反貧困ネットワークや炊き出し・対ホームレスとかやっている人がいるというように、他の人が行うことが歴然的なことしか構想していないので、別に騒ぐこともないだろうと




 
しかし軌道に相変わらず乗らない点が問題だ.αの境界と虚無としらけと無意味な無味乾燥な感情と、αの錯綜関係による現実の巻き込みは記号メソッド内容で十分説得力あるはずなのに、無理解者に落ち込んでしまう体たらく、この束縛力対処を何とかしないとである.無意味な圧力が強すぎる現実生活関係




 
射影構造で現状を見るとどうしても虚無が登場する.道理でA期や叙事的色彩がまだまだ噴出出現するわけだ.現象把握は、考えるべきなのだろうけれ、歳の時に虚無を保留してから何十年、結局それを使うべきだったという、ほとんど避けているものが現実になってしまうとはどうにもまずかった形である




 
なぜ紫がωなのか--見者という他人であるわたしは、境界症候群時間に調子づいた詩を表したものだった.--セルバンテスのドン・キホーテのように夢を見ていたなる弁明をランボーは述べてはいないな.




 
一つの領域に対して全体把握をしないとという演繹思考、演繹体にも先天的や中間存在的とか領域面積・体積把握能力に差異があり、あと個性志向も差異があると-結果仕事の種類も多種ある--これ自体は多様性であることは歴然としている.




 
普通の人では節度や寸止め・衝迫力などは使えない、カルマ豊かで達人ではないからである.何しろ自然がそのように赴かせるが理由で、精神力を鍛えようとはしないものだからである.社会の圧力があると鍛えるが.




 
δ捻じれ・捩じれの構想が浮かぶ.捩じれか..そういえばそうだ、厄介といえば厄介、螺旋変容事態といえばしょうがないが.それは境界内外で普通のパターンなのに現象差異空間ではなかなか思いつかない.




 
認知科学の帰結は思惟の法則のためにありそう、人間であるならばそれは楽だけれどつまらないと思うはずである.実際にそう思った時間がある.現実は認知科学が進展している.指示言語作用が強すぎて無味乾燥な対象だが、当事者達は感情ポテンシャルのゆとりを持ちながら研究しているだろう.




 
皮肉は虚無の前座か友達であり、懐疑は猜疑の友達か皮肉の仲間でもありそう.純粋法学を浮かべたときに皮肉という言葉も追随させた記憶がある.犬儒とは後に知った言葉.




 
あるXXに対して子供を産んでも意味がないと思っているそのXXは今は子持ちである.この辺で意図が逆になっているのと位相が逆になっているという不自然さを想う.はたと思えば意味がない生がこの現実は有効なのか、これはタナトス・悪魔的な意向に沿っている.あの俗物XXも悪魔のようにしつこいと




 
オッカムにせよラッセルにせよその理屈付けは論理整合化だろうが、観念対象と空想対象を最初から判別できるものという前提に立脚しているようにみえる.ラッセルは絶対空間かとも思ったが、記述中に変な感じがして、どうやら英国伝統意識によるようだ.




 
記号はNo.4にどうしても入る.虚無をその詭弁色彩空間域と認めねばもう時間的にありえなくなる.代の体育館から時が過ぎ去り手である.通時的記号と虚無の認知関係を想定できるのだがどうだろう.




 
ヤスパースはまずいな、サルトルのボットは盛んに実存はヒューマニズム喧伝しているがヒューマニズムならワーズワースやヘルダーリンに感じ、怒りの葡萄や老人と海はどうかと考えて、合衆国は国歌のもとにまとまる多様性があったと気が付く.




 
自由なら昔から持っているが、他者がその自由を邪魔してくることが多く、一段自己レベルを下げる羽目になって、自己自身の思考位相を自己自身で追いかけるというなんというか、無知である他者に引きずり込まれているか、合わせてしまっているかの意味なきつまらない位相である.




   
なんか頭が理性がさえず、気持ち悪いと思うXX達のしつこい束縛に陋劣化を余儀なくされる形としか言いようがない.そんな対象、XXに限らずXYに責任意識を持つように考えても、さほどの責任能力は無いし、無理に要請すると何をするかわかったものではなく、危険要素がありそれもままならぬいら立ち




 
権力の作用を否定・超克・無視しえなかった小学生時、紛争理論なる単純さには明快さがあるが、なんというか当たり前すぎるきらいが付きまとう.現象学も似たようなもので、単純皮相感は否めないはずだったが、ある時エポケー戯れをしてしまい、愚かな心理内部を作成した羽目に、最も根源性直接であった




 
DNAオートマトンなる考えを浮かべてしまった.これでは人体物理的思考になってしまう.ゲノムゲノムと解析はあのころショウジョウバエのサンタフェのころ野田線大宮駅の改札口の朝.ショウジョウバエはモーガンがC初めから用いていた歴史があり、DNA発見が契機となってまた加速したハエと




 
記号といえばJREは山手線の駅に記号を設定とか、また無味乾燥が増えるが簡略便利性もないこともない.パースとかその付近からの知識で味わい設定量を確保しないとまたつまらずな生活感性になってしまう思いもある.ところがこの辺の問題はNo.4なんだが頭が動かない..




 
弧空間の問題がナッシュ予想で、『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』はこの領域を対象としていることを今知った.ナッシュといえば記号的なつまらないゲームの理論的なほかに何かやっているのは知っていたが、それも今知ることになった.




 
シンギュラリティがなくなるのは面白くないという性向があって、特異点解消定理にはいら立ちを常に覚える.『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』-直感でそうしたためてあることにもよるかな.




 
小学生の時に同級生・不都合な悪戯とは思わずにしてしまった・の家に何の理由か行ったときに、その名前がヒントになったのか、励起という言葉を思いついて、シビアさとしびれる感触を味わったことがある.今では人工的な光励起相転移とか




 
結論・結果が出なくても、またそれらを必要としないところでも、無理矢理に結果化を行うという不快な束縛力を発揮する存在でもある.特にその存在が中間的な場合や無自覚な場合は世界を狭くする才能しか持ってはいない(最もその狭くするにもさほど意味はない中途範囲でしかない).




 
P≠NPは結果判断とのことなのか、昔から出た結果を見ると判断が容易であるという性向を持つ存在に女性・XXというのがあるとは理解している及び設定している.直感ではマタイ伝に登場するユダという存在もその傾向を持っている認識である.




 
ザクロの木のある裏庭・池のほとりで浮かべた空孔は、断層撮影に用いられている形となっている.Psは水素のおよそ/の質量とは・・、幼き日のあの無花果の愛すべき形態のそばでの話でもある.




 
No.niダークマター空間で--なる文言もいいな




 
No.の難点に関して対称性の破れを導入するのも悪くないなと思い始める.そうなるとNo.に超新星なども入れて差し支えないことになる.




 
対称性と対称性の破れでできている人体、肺・眼・耳・両手両足・腎臓などは対称性、心臓・肝臓・膵臓など対称性が破れている.これにミトコンドリアの畳み込み(おそらく正解だろう)などが加わって、もうこれだけで難解な人体構造.No.&No.&No.に関連して




 
特性値の判断がつかないことから、一つの方程式からまずどう見ても一致しないと思える4種の既約方程式的なものが解になる方程式は存在するのかと考えたこと・見えたことが昔にあり、なんとなく楽しみで数学成果なんぞを眺めている節もある.




 
その弟あるいはその母親に引っ掻き回された感をいま強くしている.無駄でナンセンスな行う必要のない犠牲を強いられたようなもので、責任はその弟にあると設定するといいかな.でも演技的性格の偽善快楽にどっぷり浸って、陰謀的パリサイ人のようなもので全くつまらないものなのだが.




 
だましたのではなく、近くまで行って気分が変わったというだけのは話に、なぜか不快なルサンチマンを持ってきた存在も記憶に不愉快すぎて、あるいは他の面から言えばある存在が念頭にあり実際に会ってみてからということなのだが、これは非常なミス・間違いで全くその弟ゆえにどうもこうなったようで.




 
”G に値をとる定値関数の芽の層”ん?、定数・定値--まさかのある存在は定値人間か、イメージは全くそうではなく考え難き候なりだったが、ただ心理映像では間違いなくそうなることは見ていた.引用文から急に閃いた.では仮設設定が異なることになる.人々が誤解や無茶苦茶した対象のことである




 
何だコンプライアンスと黒人バス事象が顕著な例で、それから数十年後、その影響が日本にもというポリティカル・コレクトネスの波及によるものであるなと、そんなこともすっかり忘れていた.個人的には米国のPCなどより、日本古来の道徳倫理意識でいいではないかという思いがあり.




 
資本主義とプロレタリアの混融した何かになるのが弁証的止揚ではと一両日浮かんできている.
 

   

 
証明-数学証明・不在証明・形式証明・実感証明・・・、いろいろある.アリバイと形式証明は必ずしも一致せず、形式証明と実感証明も必ずしも一致はしない.
公式証明と疑似証明も一致しないものが多くある.一般に疑似証明はおおよそ一致しないのだが、空想証明や演技証明があれば一致する場合もある




 
この世には無駄な存在があって、それらの同調圧力的なものがあると思うと、その寄与があるかも.しかし遺伝子には無駄はないと思えるので、この無駄という判断はどこから来るか、構造価値か美的判断とか思うけれど、決定的ではないがそんな意向はある.遺伝子のみで人間が決定されるわけでもないとも.




 
たとえ--であたっとしても疲れが予測されるので、不毛になりまた不毛を肯定する思考の強制力はその対象ゆえにである.そんな存在であるとは設定していず、愚かにも後に気が付くという無駄をなぜ、この現実が存在させるのかその意図がわからずと.




 
自縄自縛XXに対して位相を持つと考えること自体に自縄の思考をする羽目になり、自己主体の本来性を歪めたことに対して、その考察に大いに悩むことになった.それ自体はナンセンスな無駄なだが意味づけをしてしまう形、愚かしすぎる.つまり対象選定がまずいことは明らかだが、その束縛力は強すぎ.




 
形成体の構造は不明というのは現在でもそうなのか?、充実した幼きアイデアの日々の事実と現在の発生学戦線の事態比較をするものであるが、思考が所で止まり、胚というまさに灰白色イメージのままでしか、ある程度思索をこれ以上しないと思ったような記憶もある・・・




 
実証実行実際の区別がつかなかった帰り道で、ふと道路わきの杉林にある篠の根は複雑な地下茎を持っているはずであることは知っていたので、これがのちにドゥルーズの根茎・リゾーム意識につながる.根茎の予期?




 
BSカードは推定天候不順により調子悪くなるという代物とはこれ如何に.なお参照から、重力波領域に電磁波は役に立たないと知った.




 
最近になって、自己対象で考えなくてはならないものが多少増えてきた、単純に難解な対象であるので厄介だなという思いはしている.空白期間中に他人の成果を期待してそれを用いる・それらを参考にするという意図だったのだが、参照以上に自己必然ものが発生するとは念頭になかったミスインテンション.




 
均衡と仮想仕事・仕事原理があったような対象から外れすぎた記憶があるな.均衡で、記憶からあるXXが急浮上した.定義と均衡には関連が彼女存在からいえそうだ.




 
どうもフラット上の現象だろうと垂直・縦・組織的構造だろうと、:の法則は大小をカバーして存立しているように思えるので、フラクタル相似形を:から持ってくることができそうである.:4でもある.世界がそうなっていて、またそうであるとするならば世界はつまらないものになる.




 
ヴェイユの人は不幸にならないと神を認識しないという考え方を特徴的と述べたらしい存在は何を考えているのか、とにかく神様お願いという事態はヴェイユの不幸絶望的状況であるし、この世に神も仏もいないのかといった事態を人々はよくわかり、なおかつEU歴史上有名なヨブ記という不幸圧力物語がある




 
日本人の天という考え方・ほぼ生得的に備わっていると思われる・は、ほぼ神という考えと同一意義を持っていると思う.天の声とか天罰とかを神の声と神の罰・神罰と考えると、納得・了解・諦観・流すというような傾向を日本人は持っていると思えば、天教なる宗教があってもよさそうである.




 
宗教性は人間存在自体が持っているものであると思うので、神をなだめる犠牲とか道徳力によるカムフラージュとか権力者による支配手段とかは後に発生したものと考える.




 
お気に入りのBE凝縮は有効だった.




 
ここ最近の思考から、ほぼほとんどの人間は権威を好むと帰結気味である.




 
何しろ一生叙事性を超えることはできないという直覚のために.親鸞がいわんや悪人おやと述べても、その無自覚者が他力で阿弥陀に依存しても、依存能力を発揮しているだけで、その当人・個人・個体としての存在自体は無知のままであり、親鸞の阿弥陀意識化はカムフラージュであるに過ぎないという考えが




 
相変わらず拘束窮屈表現協調存在が現れてくるな、実践秩序維持のためにだけれど、どうにも受容できる余地がない・当たり前すぎることを行使することにしらけすぎる心性を持っていることにもより、また自己思考の適用になっていない現実を認めないという傲岸さより・さほど認めては来なかった点があり-




 
:の経験則を考えるとホッブスの万人の闘争は成立しない.




 
アルファタッチへの趣を意図したが最近ではまた元に戻って・無理にそんな傾向を持たないで自己流になってきてしまっているが、要素はあり、思うに憲法から町内会規則まで、ルールが大小カバー域を違えて多層に絡み合っているという図式が当然浮かぶ.スケーリングの例がもうそこにすでに存在している.

a virtual affine space is not a affine space.

 
虚像は英語でvirtual imageでいいのか、virtualには名目上そうではないが、事実上の・実質上の・実際の・実際上のとかの意味合いがあるそうだ.小学生の時に、実際と実行と実証とかの区別がつかずどのような表現を取ったらいいのか悩んだことがある.virtualはいい言葉--




 
まあ自己認識・分析で女はダメなどと思える存在は優秀な女性には違いないのだけれど.私が悪い・完璧に関して欠落があるゆえに・のではないかという女性は優秀である.
 

   

 
どこで自己に自分自身で何かの作用を齎したようでもあるが、陋劣=見た目直感で肉感が気持ち悪い存在に、その偽善という欺瞞のためにエネルギー浪費・吸収されたようなことがままあり、どうもこの辺は阻害になっている.こんなXXはダメなのにダメと認識しない愚かさ達に束縛の憂き目を持つ羽目故か?




 
未然形なものは世にいくらでもある.不条理・理不尽・矛盾(大昔の盾と矛の話)など、カフカが強調しなくても昔から普通に存在している(その存在自体は不快だが)と推定でき、思想流行上の流れの中で出現した存在だけではないか.




 
その後には肺病かイデッシュ・シオニストか実存主義者かで中途半端明らかな作家がなぜそんなに価値があるのか著名なのかわからない、写真を見る限り聡明にみえ、翻訳文章も精密的な細かさを持ってはいるが、糞詰まり中途半端で何を言いたいのかわからず、不快な作家である.




 
男が悪い?-くだらなすぎる思い込み・無理解・誤解・歪めあてはめ・馬鹿馬鹿しくも無駄な演技要請・過ぎ去った過程の位置による蒸し返し専売特許あるいはサル?・--などを受けるとXXが悪いとしか思いようがない事態になる.




 
昔カフカを読むといいですよとおよそ覚えているか月くらいしつこく申していたXXがいた、誰かと誤解して・一瞬で把握できなかった自分に対して?、どうでもいいと思っているのに、発語しなかったが内心で、俺はカフカだ、カフカがカフカを読もうと自由だとそんな演技をしたために調子の狂う羽目に

干渉の顕著な例では演技的性格者のそれが快楽ゆえに変更に対して抵抗するところに向けることができる.最も変更自体演技としてしか受け取らないはずで、気にすることもないはずなんだが、快楽の誘惑に人間は抵抗することは難しい.(演技していることにすら気が付かなくなってしまった存在もいると-)




 
無限遠点での挙動がわからない場合自然に任すとするが、人々は無限遠において減衰するか発散するかで考えるようだ.まあ中間を考えないということも考えられないが、さてブラウン運動に対してどうするか.挙動がわからない場合には、無限大に発散というおよそありえない方程式上の話傾向ではある.




 
基礎の設定もかんがえていたな、基礎がハイレベルというか限界思考点・臨海思考レベルとしてあるそのときの日々.やはり時が過ぎれば、エントロピーが変化するので、過程要素がいろいろ出現して、進展の方向へ向かわせることはある.それも潜在意識に置いてあったような気がするという次第だが.





 
例の川面に反射する午後の陽光をみながら、第二楽章でセロトニンを味わいながら散歩していたころにしたためた、まさかの制御『間脳の両耳から煮え切らない様』という、文章が作用しているか.なぜこんな文章を描いたのかわからず、これによってだとしたら修正の必要あるか.




 
幼き日の坂道で、XXFのしつこさに妥協をした記憶がある.本当は嫌いなのに、全く妙な違和感を齎す生理感性体質者であることで、長じて現実になり相変わらずいつまでも悩ますとは、研究者は悩まず物質的に複合粒子研究などをしているだけという呑気そうに思える事態を想定するものである.




 
またXXFの存在も不快すぎて、XYF&XXFの感性はどうなっているのか、まあ不快を感じているかもしれないな.わざわざ縮退孤独になんぞ社会的になる必要もないと思うのだが、準位軌道だから必然的に縦構造を持ってしまうF人間の権力意識の強情さには辟易しすぎである.巻き込みも困ったもの




 
混合モットや相分離はそれ自体でも多分社会構造成立数あると不快だろうけれど、ここでは複合粒子の場合で、不快でしょうがない.XYFがXYBに対して同じを要求するときなどは現実温度では真に不快で、今もインベーダー的に邪魔で排除したい無駄エネルギーを用いる羽目に.




 
エフィモフ状態とC∞を考えてしまう.




 
その内部での変化に対してなぜそのように傲慢な心性を持つことができるのか、むしろどうでもよく単に利用するだけの心理がありありとうかがえて馬鹿馬鹿しいことこの上ないという代物である.それはともかくとして、エールのリンダのようなひりひり心理感情を齎す対象はまず集中だがそんな時間無く




 
”適当な意味で、すべての古典的定数は周期になる”はっ?.周期かよここまでくるとようやくというかなんだかわからんが、No.*を登場させねばと思いつく.そうなるとワンパターンの不快XX人間達とかソリトンとかどうしましょうという話になってきた・・・.気が付かなかったな、答は出ていた形




 
なんだかんだ人々は考えているので・・クォーク星があるのなら、クォークコンピュータやクォーク顕微鏡があっても、もっと飛躍するとこの宇宙はクォークの内部であるとも想定を働かせることができる.




 
ブラウン運動は昔に不動点から消散すると答が出ていた?!のを最近に知ったのだが、それが問題だったことに気が付いた.消散とはなにか?、薄く消えてしまう溶けて存在が不明になるような意味--、同化してそれが判別できなくなる事態だ、さてどうするか、東洋思想的に自然と同化するでまずは対処と




 
”:地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”これがうまく想像できない.まったく創世記の作者も淵を出してくるから、注思考しなければならなくなる.神の霊は闇の内側・内部存在として設定か?




 
悩んだ市場原理の壁と昔の公共政策の限界意識とその他(市民の希望に暗黒が憑くとか)に関連して、どうにも深淵志向思考の必要性を感じている.時間遺伝子による夜をどのようにとらえるか、植物のエフェメラルは時間幅だが、人の場合はどうなのか.飛躍すれば背景放射も関連してくるだろう.




 
幼き日よ、見上げる真昼の陽光に中に、見える透明鮮やかなブルーよ、クロノスが久遠を齎して---時間遺伝子を人は複数以上を持っているとは刺激剤すぎる---




 
扇とひよことフレームを結び付けるのはトーリックではなく、ウェーブレット・フレームではないかと思う幼き思い出、ではひよこはどうなるのか?




 
記憶に残っている不快な言明は、無視されないためにその発語をしたという、迷惑な絡まり・しつこさにならないのだが、そんな考えが浮かぶ.別にいらないのだが、煩わしい阻害と侵害と白けを合わせ持ち、単なる束縛で足を引っ張る成立している自由の邪魔でしかない.繰り返し蒸し返ってくる言明には参る




 
メモ:水素結合・超分子・DDS・素励起・マグネタイト




 
絶対温度から宇宙を黒体輻射とすると、億個?以上?ある星は、温度的に遠い彼方にある高温物質である想像がある、暗黒空間で遠い彼方にある明るい点を目指す・見えるなる心理映像は、このう宇宙黒体輻射単体星ケースにも似て




 
メモ.メタセシスとヒルベルト




 
なんか先ほどから条解釈を試みる気分に、解釈憲法条の第一項目の文章は覇者型人間が文章を描いたか、もしくは覇者型対象的文章のニュアンスがあるな、少し気になる.項目は明らかに単純すぎる文章で省略というか極端で、思考盲力があっても理解できる文章になっている.




 
笑いは人類最大の発明と誰か行ったらしい、笑いは緊張持続の緩和以外にないというのが認識.しかし笑いにも多様性があって、最大というには語弊があるものもある.喜びは人類最大の発明くらいなら行ってもいいような気もするが、笑いは反射で身体緩和・融和方面ではないか、忘却への示唆という面もある




 
不思議な気分になる、幼きというか発展的時間の距離感覚が、今定性定量時間となった視点からは、ずいぶん記憶印象が異なって、距離が近くに見えすぎて、麗しき記憶イメージが損なわれるという事態に..それはそれで面白くはないが、幼き記憶に感情も記憶しているのでそれを楽しくたしなんでいる.




 
ソリトンもワンパターンには違いない.




 
ダークマターの多様性をまずは設定というか、人の心理・ひいては個人的心理経験上そうしたいのである.ダークマターと人の心理構造の類似?!、個の念頭心理側概念的なものの内の一つにある意味=現状妥協点の設定の可能性があるとも思ってしまうアイデアだが、まずいので仮想にしておこう.




 
仮説予想されているダークマターが実在しているとすると、まだ不明の銀河系というかマター系というものがあっていい筈である.




 
青春、まともに読む必要のある書物などあるか、解説を読めばそれで十分だと思っていたころだからな.部分的に頭に入ることしか記憶はしない.




 
周囲の風景雰囲気がそうさせたとしか・・・(峠の伝説も全く知らなかったが反対に寄与したのかも)、一年前は全く逆のことを考えていたのに、何ともはやすっかり忘れて反対的なことを思い浮かべてしまう、今でもそれに類するパターンはそれぞれのグレードを持って生じている.多様の相克・錯綜とでも




 
ローティーン・日光白根山に行ったときに、あるところでまさかのあることを考えてしまい(この領域の存在なら何でもないが)、それが桎梏になっているかも.普通にはこんなことは全く考えない.




 
青春の渋江抽斎から今頃までなぜこんな無意味と思える時間を費やさねばならないのか、相当な身体の寿命の自然性のパワーが強いという想いをするばかりである.




 
何とかボブ・ディランの名前と風に吹かれてという曲名は知っているが、風に吹かれているだけでは逃避ではないのか、結論は武力行使型人間が存在しないことが必要条件であることは思考帰結上出てきて持っている.