2016-06-28

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 「クォ・ヴァディス」--の答えは「不完全の除去に向かっている」と閃いた.





無矛盾を無矛盾で説明できないので不快な言明者たちは、無理矢理に説明しようとして理不尽である矛盾(すなわちでたらめな言明)を強要したり、無矛盾を無矛盾であることに気がつかないという困った存在なのである.理不尽を構築しているところの存在が対象であることは何でもない普通のことなんだが.





完全に対して人間はいくらでも不完全をまだまだ持っている・遭遇するので完全を無数行ってもまだ余裕があると判断できる.





完全はすでに不完全であるので完全を説明するのに不完全から何かを用いねばならない.完全内部では不完全を説明することはできず、完全を説明するためには不完全をもちいねばならない.すなわち完全は完全で説明できない.完全はまた一般に説明しようとしないものである.





なんだかわからず悩ませていた虚無的メロディ性もある未達的叙事者はクレバーであることになった.悩ましいクレバー存在もいたものだ、陰険であると虚偽でも理不尽でも行使してしまうという倫理観の低さであるところの存在としたもの.神聖型クレバーという固有存在も閃いた.





時間を加味すると完全になったときすでにそれが成立しているということによって不完全となっている.完全を主張できるのは心理レベルにおいて、他者がその完全を理解できない時・未達の場合である.




完璧は不完全とゲーデルは述べている?とすると帰納の帰結は出ていて、帰納は不完全であり確率的になってしまう.不完全の中の完全で人は生活をしているということである.-ここでまたしても中間存在というその人自身は完璧を設けている厄介な中途半端すなわち不完全が出てくる.




フレーゲの形式言語とペンローズのループにそれほどアイデアの差があるとは思えない、ゆえにペレルマンは隠遁したと考えられる.




そんな過程を知ると世界が窮屈になり不自由な意識を感じることになってしまう.体感性者が-パンのみ優位者と思える存在が天皇制の無化とかいうのがおかしいのである.考えるに稲作が問題で稲作の無化ならとは思うが、いまさらことさらに稲作を否定できるものではなく、代替手段もなくである.




ゲーデルの定理は単なる心理学の問題?、普通に誰でも論理流れから判断でき、中学生でも当然できると、そう考えてよいのなら中学生の時に了解していることになる.




 
伊勢神宮ににも小さな社が別にあると聞いたことが.縄文の遺伝子を今に残している日本人ゆえか-表象は弥生で通底基盤は縄文という形で、縄文の遺伝子は淘汰される運命ではなかったという、世界的遺伝子類との比較を考えた.神国日本はどこから出ているか、縄文と弥生の軋轢の後なら神国は縄文的色彩に




 
昔、太陽の二つある映像を描いたことがある.不思議・・・今では核融合生成物と納得であるようなもの、その時も人工物とすぐにわかったが、その寿命は0年だった.果たしてこれは間違いなく未来の現象であるか、あまりにも鮮やかな記憶がある.




 
XXとXYの対立においてはどうにも弁証法的で、止揚がエクスタシーというケースを想定してしまう.このケースにおいては普通に繰り返しを想定でき、これがシジフォスの神話である、対立が石を上げる上げ終わるとまた石を上げるということにつながり、神話の根拠には性的な面がかなり寄与している




 
奇人的で奇形者は非線形で複雑系者と思い観察していたが、性的関心にとられてXX&XYともに対処に非常にエネルギーのロスを設けてしまった.ならば障碍者は非線形者になるではないかと思い、奇形者はどうもたかだかアノマリーとするのがよさそうだ.そもそもマズローはで、普通であると述べている






ホッブスの万人の闘争あたりから国際関係も、現実主義やリベラリズムの複数分派主義があるんだ.国際的権力闘争はパワーが均衡するようなメカニズムとな、仮想仕事の原理ではないか、とすると思い出の彼女は均衡者になる.小学生の時の定義と中学生の時の均衡、そうしてある場所で会ったが気が付かず





権威主義に責任がない?、演技的性格者はどうも権威主義者の要素が強いな、何しろ演技に責任は無いからである.真実まで無演技まで演技にしてしまうその動向は一体何なのか、ちょっと異常?





存在理由は記憶にあるあるXXが発語したが、存在理由は探索傾向をも加味できるのと性的な面もあるので、これを存在権利や存在正当性とかにもっていくと倫理に結びつく.別に表現できないようなものではない.存在権利ならいい表現に思える、Hトライアングルにも適合するようで.





関係の本質は単なる言葉である正当性かな、それならば真理が絶対になることに.正当性は倫理に結びつくのだが、カントの定言はこれらをほぼマスターしていると思える.





樽に住んだディオゲネスは大王の質問に対して、ポリス民ではなく世界市民と言ったという話が、コスモポリタンの発祥らしい.ディオゲネスの生活態度からはむしろヒッピー要素を思いついたが.ヒッピーと隠者は・寒山拾得・など相性がよさそうである.ヒッピー→隠者的な考えとすると理解できる自己性





弥生系がふん詰まり意識を持っているのでは?、それとも日本の旧石器人がこの先に・日本の先に島が見えずを体得していて、それが遺伝として残っているか?.それでも縄文中期の頃は開かれた社会を形成していた想いが強いのだが.





常世の国の稀人に依存すると甘えが生じることになる、これは厄介な.となると扶桑の国は伊豆や小笠原ではないはずで、何らかの認知のずれでやはり日本を指しているだろう.まさか米大陸?.ともかく閃いたが、どうも稀人は閉鎖意識がある.縄文の平和は世界に対して閉じてはいなかった想いが強いのに




 
良寛は僧名で生時名は山本栄蔵または文孝というのか.なんというか嫌味な僧名をつけたものだ.子供の純真な心と貞心尼相手はいくらか異なるとは思う、そうでなければ「男女歳にして席を同じゅうすべし」になってしまう.子供というのは一体何才くらいのことか?




 
ある若き日にある存在が良寛をやればというようなことを述べてきて、なんと不快な別に良寛など模倣をするつもりなど毛頭ないが今なお全く記憶にあり邪魔である.なぜそんなことをその人物は言ったのか、自分でやればいいではないか.他者のアドバイスは自由の邪魔にしかならない.意地悪なものである.




 
親鸞も見ようによっては悪いかも、凡庸脱出意識を無自覚や中途半端な善意として人々を阿弥陀の圧力に屈服させようとしたという見方をしてみると.阿弥陀が呼んでいるのは親鸞ただ一人で他の人は選ばれていないという、宗教創始者的存在者特有の優越感・エゴイズムの傲慢者とも取れないこともない.




 
そうか、あの0代最後の頃におもむろに浮かんだ市民は希望ではある、ただスケールは大きくなく暗黒域が付随して?、ここでは深淵を市民は持っていないと考えたようである.ところが悲惨なシェークスピアの悲劇度合いのような悲しみを結構市民は持っている観察記憶を持ってはいる-ポリスで閃いた深淵




 
ある作家が”何をやってもだめだから”と言ったそうだが、そこまでなくてもだめだと自覚すればそれだけでも凡庸からの脱出息吹になるのに、勇気が足りない.もっともこの作家は建前として、何をやってもだめと思うくらいに、苦悩・呻吟をしたんだという表明なんだが、そう発するべき必要性に直面したな




 
審美的君の魅力は中途半端でこれくらいであるという認識を、自己に向けられたものとは思わず、ダメとかくじけとか発語すXXたちは、君の魅力が「ダメ」で、君の魅力アップ努力に「くじけ」ているのは君なのに、この判断を認めず、判断している人間を自己と思い投射するというオルテガ的凡庸XX達




 
自己経験と他の現象例多数から、青春の日々は人間が現在社会生活時間に一致しようとする所の境界域時間であるのは疑いようがない.そこで境界症候群なるものが登場したりするのである.うまく使えば業績を残すことはできるアドレセンスというわけで、例でランボー・当たり前でしらけるといえばしらける




 
エレーヌ・グリモーは新鮮ではないか、普通に皇帝は新鮮なんだ.共感覚・シナスタジア?-ランボーの母音は共感覚か.ランボーの見者はまだいいが、私は他人であるというのは不快である.私はあたかも他人であるかのように私であるだろう、うまく境界時間を生きたものである.その後はだめなランボー




 
深淵には音がない沈黙世界だからいいが---音楽はあの考えあぐねていた中学生時の逡巡に当てはまることは当てはまることが判明・ことに閃く.No.tsであるではないか.特にピアノという楽器は白黒でもあり.





太平洋の両側の国はおもむろに想定してみただけ、日本から、この遺伝子に個性があるのは貴重だろ思われ.アイヌ系は多少他の民族度合いが異なるが、琉球系はどうなんだとなる.





トランスナショナル者たちは、ノマドで移動・移民していてアイデンティティが引き裂かれるだけかといえば、そうではなく複合・重合要因が発生してきているのであるとはなるほど.そういえばNo.thには直積があったな-むしろNo.thにはトランスナショナルも対象となると気が付く.





諸行無常はビジネスシーン(ビジネスばかりとは限らないか・・・)において、先延ばしという弊害・副作用を有すると考えてしまった.





まあその大学にもそんな存在の存在は十分だったのだが、しかし・・・くだらずばかばかしい印象者でもある.底浅単純ロボット的な叙事的陰謀の精神年齢低き虚無的原始性存在とか、こんなのがなまじその大学に入って突っ張るから世の中おかしくなるという面は大いにある.





ある大学にマズローのの低次要求しかできない存在がいて、人にそんな発言をしても無意味だというように理解力のない人を無視するXXがいて、まさかのバカらしさを味わうとは、謙虚にしたら余計にばかばかしさを味わう羽目になった.陰険な存在は思考に陰謀の香り十分で、いかにも罪を感じた演技を





体制に対して革命かそうでないかも個人的な恨みの連鎖を国家単位にしただけともとれる.





風車に突進するのは狂人か精神分裂病者かもしくは演技者か?--セルバンテスはどうやらリアルな道化存在を設定していたようである.ドン・キホーテのこのシーンは道化なんだとようやく判断できた.全く不思議な発想をするものだとわからなかった.





あるガタイがよく頑固な面構えでグロテスク気味の物書きがいて、その原稿を見ようとして防がれたが、ちらっと見てなんと女みたいな文字を書いていて、唖然としてしまったことがある.その時にこの人物は小心者という判断を浮かべたのだが、それから数十年後最近にネットの原稿を見て、間違っていないと


   

 
論理のNo.*に関して今やいろいろ考える弊害様況があるかなと思って考えていて、宗教の戒律などにイデオロギー的な主義という転倒をしてみると、はっきり浮かび上がってきたことがある.




 
東寺へ行ったからその影響あるか空海関係を導入タッチと.京都といえば覚えているのは、今年に当てはめて結構状況に適切なNo.を書いていた記憶がある.それ以前はいつ書いたかだが、この数値はたまたま偶然そうなっただけである.




 
量子を別にして、現象的に地球の自転により昼と夜は一致しない.飛行機などを用いて移動すれば渡が、あと宇宙ステーションも関係ないように移動するが、事実としてあるので、アドルノの否定弁証法に時間位置変化というこう交互性を考慮したくなる-否定と肯定の位置はそのままに並行持続を考えていた.




 
この自然主義に対して悩んでいるところにXXのリアリズム者がついてくるのである.ふいにインチキしたなとか、演技的性格者にその言葉を与えてくれであるのに、実に嫌味なXXたちである.身体実体でしか判断できないのは、有限的存在で自由の抑圧につながるのだが.有限的母性の暴力性は困る




 
口があるだけとともに暴言的なスタミナ・バイタリティもあるから疲れる.自らは権威主義的な位相・共同体意識なので、演技でカムフラージュの傾向も強い荀子的存在と無意識自認していて、他人は野蛮な教養のない存在と見る傾向も不快である.自らを見ろと、原始的・動物的存在に見えるのだが




 
出る杭というか叙事的存在は感情に欠けるきらいがあって、不快でしょうがない.自分はできないから単なる自由の邪魔ばかりする、底の浅い思考のパターンが決まりすぎている単純さしか感じないので、寿命体であるステムがそこに立っているだけのイメージで、電信柱のようなものでなまじ口があるだけ・・




 
記憶に浮かぶ超個性的なXXに会ったことがあり、その個性な魅惑だったが生かす方向が浮かばずだった残念な月の相合傘の思い出を出さずばなるまいと刺激を受けて.




 
レスボス島はチャナッカレとイズミルの間にあるギリシャ領の島で、詩人・サッポー(サッフォーでないとしっくりこないな)からXX&XXが言われ続けてきたわけなんだ.記憶も薄れて、イズミルではないやはりチャナッカレのほうだろう.トロイの木馬の観光拠点とかの・少しの思い出が




 
「罪ある母」まで行ったボーマルシェの作品は個人的には素直に人間的なあまりに人間的なといいうるものである(エレガンスと本居宣長をどうしようというアイデアが浮かんでしまうが).存在とヤスパースと必然的自由と存在論と**などなどが後に続くのだが.




 
アドルのの否定弁証法が持続する形はまさに煉獄のようなものである.いわゆる嫌な女に(男の場合)愛されると地獄のようなものと同様なケースになるのかな?.どこへ行っても嫌な存在が必ずいるという場合は、弁証法の止揚が出現している可能性が高い.またフラット局所のまとめ上司は止揚的存在かな




 
嫌な存在がXX&XYに限らずしつこいのは、弁証法の止揚の圧力としか考えることが今のところできない.この場合の止揚など無駄と思いきっているので単にエネルギーの浪費だけにしかならない.現に心裡ではそうである.そうなるとアドルのの否定弁証法が持続する形になってしまうのでこれも浪費だけ




 
ニートではなくSNEPなる概念ができていたんだ.まあヒッピーと変わりそうもないのであまり気にしたこともないとはいうが・・だ.なにヒッピー!で閃いた、αのの難点が片付く.全くなんという時間のかかることだ閃くのに.たっぷり揺動した精神形態をもったものである.悩みは無駄だっ...




 
アドルノはおそらく量子力学の素粒子を知らなかったが、素粒子的考えはできた.




 
低い精神年齢?!--ようやく遠くに位置していた認識が脳裡近くに、そうだったのかに過ぎずのなんと愚かな遊びになることよ--徒労に呪われていることは理解していたが実際の現実時間では忘れていた.




 
例えば、パラダイムに対するパラダイムでの止揚したパラダイムというようなもの




 
そんな古典的段階を忘れて、可換に対して可換における弁証法という視点ならありえてと思いつく.非可換は非可換とスラー結合をしてもらえるとなんだが、反発・排斥が出る可能性も.




 
ヘーゲル・マルクス的弁証法である弁証法、いやヘーゲル・マルクス以前からの弁証法である圧力が、ボーズ意識に対してフェルミの記憶を強要しているとも考える.しかしフェルミの縮退の孤独性、外部励起の他力依存性など煩わしいものに過ぎない.非可換的視点からはフェルミはいいだろうな.




 
まずはフェルミとボーズの否定的弁証法位置が自然であるならば、フェルミがボーズと同じとしたがるのは不自然である.その点がしつこく不快なパラノイア的な記憶として無数回よみがえる妨害者の記憶が災い過ぎて.否定弁証法維持ではなく、止揚を要求する超対称だが、感性は全く超対称を認めず.




 
アドルノの否定弁証法は、フェルミとボーズのそのままを意味している.物理学者は超対称設定に向かう傾向はどうにも致し方ないが、現実に交換と反交換が自然ならば、それをそのまま持続させようとするときに、交換は反交換が・反交換は交換が不快だろう.交換からは反交換の孤独性は不快であるが・・・




 
フェルミ型の縮退極端者が、可換なボーズ的存在に対して、同じであろうしたり・そのような発言をする.少なくとも極端者に見えるので、超対称的存在には見えず、ただしなぜか陰険な叙事的要素あり故か、陰謀的な無茶な虚偽をしても意に介さないという性格にしか見えない.そもそも演技的生格の男だった





しかし多士多才(多士済々)がいても000年以上、国文解析できないとは、クレイ問題もあるけれど、その国文者は相当になる.ドクターを持った教授もそれ以下存在でしかないという現実問題は成立する.そのような存在が数多くいる中で突出者が発生するというこの突出者をまずはモデルにしてある.





自然の時間を変えることはできなかったという結果事実を認識せざるを得ない、何とも何でもない普通の時間経過ではないかと.





深淵展開の反エンタングルで説明はできるが、これは哲学的なので--





混沌を無意識対象として、電子散乱や実存世界でもない領域展開能力のあった人物がいる.確かに共時的なフロイト・通時的なユングの歴史もあることにはあるが、他にも心理学展開史もある要素などから、リゾーム展開と.で器官なきはニュートリノ体では?.ダークマターというわけにもいくまい.





『口に描写された画像』は原始的・または旧石器人・あるいは縄文人に当てはまることに気が付き、自己自動記述の何気ない表現であるこれを、パーコレーション化として解釈できる.この点のが言語進化に対しての初期に戻るという指示性が不愉快と思ったことだったなのだろう.
 
   


不確定性からは明晰は違うで、明晰からは不確定は頭の弱い人間になるこの差異もまた演技傾向をもたらし、また発言の理不尽な強度差異ももたらす.





しだり尾は万葉集からだったとは.雑歌は宮廷賛歌主体ならばそれでよい分類になる茜さす、なぜ戯れ歌になってしまうのか.どうも返歌はそんな戯れ心情とは思えない.雑歌にしたのは宮廷ものだったからではないか.ちょっと返歌に憎しみがなぜ出てくるのか脈絡が少し違うのでは、時間距離があるとか





もののあはれはあわれからはかなさ主眼かと思っていたが、本居宣長によるともっと深甚なもののようである.確かに風土的面を考慮に入れると、日本的本質と考えてもよいだろうが、人間性からみると、最近聴いた、外国人作曲のあるギター曲やある序曲などにも同じような位相を感じて、風土以外を思える.
 

   

 
小学生の時に何を見たのか記憶にないが、本居宣長の文面からか、明るい滑らかな明鏡止水的とでもいうか、定性的なきれいな文面のイメージを味わった思いは記憶している.これは何と表現すべきか、とにかくきれいな感じであったと.(本居宣長という名前からのイメージだったかも)
   

 
人間が超不条理体であるとすると、禅のあるがままになってしまう、でそんな禅僧に会って見たいものとは思いもするが、目の前にするとあたふたとうろたえる気もする.




 
あの頃の不条理は非線形とともに今ではまま複雑系に変容していて、不条理が齎す混沌はその蓄積において真理という単純になる理知は、今ではパーコレーション理論のパターン化にもなっている.




 
不条理は人の本質的生存関係にかかわった言葉で、無機的世界の変容には直接にかかわらない考え方であるというのが直感として深底に渦巻いている.




 
不条理なる言葉を知りたくない・考えたくはないと抵抗していた0代最後の頃、どうしても抵抗できず混沌世界に進みこんでしまった.非線形は十分だったのだから不条理も当然にしてよかったのだが、視点が・位相が異なると結構連結しないものと思い出す.




 
世阿弥の初心には箇条あったとは、考えあぐねながら第三ステージを一応設定して、それが状況に結構適している面はありであるが、そうなるとその先も今は構想・思いついていて、これは結構必然的なので、実際にそうなるかどうかはあまり信頼できないのだが、設定だけは考えておく.




 
人が条理と不条理を持っているのは間違いないので、条理と不条理が一体となっている人は超不条理を獲得しているか?、弁証法的には超不条理を獲得していることにはなるが.




 
伊勢物語をようやく目通し終えた.収穫はこれだけ・”夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里”.あと伊勢物語には用い方も考慮できることが.
 

   

 
キラーストレス--明らかにストレスで胃潰瘍になった記憶がある.矛盾構造性をよく記憶している.ストレスは人の持つ矛盾構造上避けられないので、最もの原因は人の持つ矛盾構造という判断が個人的にはできる.不条理に対していかに対処するかが問題と思うことになる.




 
またしても愚かにも過ぎたるは及ばざるがごとしをやってしまったような気がする.よくわからないがディリクレ境界がそこにあるという普通すぎる形態を、中間存在外に拘るあまり…であるかのようなに直感でふと思いついた.全くある単なる直感で考えたことが考えすぎになってミスる形になった時期があり




 
縄文の遺伝子を多く受け継いでいるのは、アイヌ人と琉球人ということはどうやら事実のようであるので、縄文の相互互助性がこの両人に作用して顕現しているか-もっと低い遺伝子の受け継ぎたちの圧力が強い・数が多いので双人には顕現してもしようがない?、または志向の異なりが存在してとか




 
「横超」忌とはこれいかに、それもないはずの概念ではないのか.「横超」があるにしてもやはり呻吟を行った結果でしか存在しないものと考える.まあ展開はしたくない位相制御感があるので..横超的面からみると「竪超」のなんと疲れることよ、この典型例に葛飾北斎をまず挙げる.




 
試行を購入していたころで印象に残っているのは浮海啓なる人物の作品である.この幻想力は卓抜でハンサムであると.よく描けたものだと思った次第.あとは記憶にないな、武道の理論化もいいがこれは卓球の世界的な存在を考えていた頃に、その可能性を少しは思ったことがあり、ただ認める才能がないだけ




 
中心的ガウス分布思考ではなくフラットな関係結節的場所であるS県と比較設定モデル化にしていたのに、比較しようがなく思い違いのようになった.まあ冗長でなければ、パーコレーション前の過程であるフラクタル文を描いた存在をカフカというと、城については言える.




 
カントの判断力批判をわかっていない傲慢なエゴイスト女がいて、審美感を性的幻想で踏みにじる・混同しているxxがいる.実に不愉快である.




 
一様性と全体性は似ているゆえに射影には全体主義の匂いが付きまとっていると思うので、特にその傾向顕著な存在はいやなのであるが、とりついてきてしまうこの憑依的意図逆現象、まあそんな志向を自分でも持っていないことはないといえばそこに来るのかもしれぬが、射影専門家ではない.




 
一様性は発散するか収束するかで持続は考えもしなかった0代、一様の持続はその時間が発散・収束時間より短い場合には成立する可能性はある.物理者が考えるビッグリップとビッグクランチのようなものである発散と収斂は.




 
森羅万象に同体化する隠者存在などマルクスには思いもしなかった俗物存在ではとも思ったが、エンゲルスとともにの共産主義の成立世界は隠者達の世界でもあるようである.どうなっているんだ!




 
間文化主義は混血の進んだ国なら、多文化主義ともどもそう問題ではないだろうが、日本のような遺伝子構造の国では、多文化→間文化移行も表層的なものと考える.ただなるようになる・諸行無常で対処するだろうが.




 
理屈からの現象結果として、パスワードに超越数を使えば..




 
境界の双対d




 
ド・ガぼっとを眺めていると、ドゥルーズは無意識的に量子論的文章を展開しているように見える.量子力学の造詣はソーカルにちらっと確か名前が出てきたのでなさそうだが、量子力学の発展に伴う時代背景にマッチした形として.




 
ただし中間存在が深淵の邪魔をする.これでは中間存在は身体的存在になってしまうではないか.




 
絶望などする必要はない、ただ深淵に位置すればいいだけの話である.




 
ある上下本があって、上のほうはなんとかなんだが下巻を読む・手に入れる・遭遇する時がなく、それが気になっていた.深淵でなんでもない(深淵自体はなんでもなくはない)はずが、何らかの中間XXの寄与が全く災いして、思考を浅くしてしまったその頃の話に、反エンタングルメントの設定でOKかなと




 
”しづやしづ倭文のをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな”白拍子のいわれ枕草子だったか徒然草かにあったな.それほどに伊勢物語は説得力があったものなんだ.透明的な紀元後の歴史は瑞穂の国あたりまででいいだろうと設定してある.今では遺伝子的に縄文が必要とアイヌと琉球の解釈要と




 
雑草系悟性豊かな俗物系も卵形で全く捕まった愚劣さがある、イメージが悪すぎていくら何でも見苦しすぎるみっともなさは、まずやる気の邪魔をする白けとその傲慢な厚顔無恥さと無自覚のそらとぼけと、何より名状しがたいいわゆる愚劣感・不快さをこまねき、持続のしつこさから修復できずの難点がある.




 
卵で思い出した、あの夏の日の河原での高速回転にはローレンツ収縮が伴うと、もはや身体知覚能力ではとらえることができないのでそのままという




 
森鴎外という作家のヒステリーは色々と厄介な煩わしさがある.全く辟易する承認要求の強さの持ち主であったと想定できる考えを設ける.そのころの抜群の人気による圧力の寄与で、やや後世の人材で洗脳気味になったのもいるような.




 
全く記憶にある不快な発言者たちは、トランスヒューマンに程遠く、演技で自己納得をしているというアタリ的には未来的ではなく現在的らしいが、個人的には陳腐な古き存在で時間を戻す・停滞する固有性を持ったもの(当人たちは偽善だろうとなんだろうと時間に追随して陳腐などとは全く思わず存在だが)




 
全く古典とする時間と空間で持ち上げただけなのに、結果巻き込みに?.古典レベルを高くという設定は歴史反転未来にしてあるが、トランスヒューマンはマズローの第的存在は明らかに類似していて、アタリの予測する超民主主義では普通の存在(エリートではなく)ではないのか?.





No.ではなくVサインだったのかもとふと蘇る.モデル化しようとしてもうまくいかない、日常に遭遇する乙女たち...




 
最後のYに太宰治について述べていたところがあって、平明な文章でかつ通俗的ではないとか--これから連想して、和して同ぜずを思い至った.はちゃめちゃな現実生活はそうすると何なんだ、演技ではと思う所に.川端康成に対する芥川賞選考時のルサンチマンは自己の権威意識の擁護という事になる




 
有心と幽玄か、幽玄と玄妙ならわかるが、玄妙を有心とみると何とも当たらずとも遠からずで、俊成の幽玄を玄妙にして有心を幽玄と個人的には見たい気もするが、そうとも言い切れない.




 
”有心体は「深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体」
幽玄体は「言葉にしていない余情を漂わせ、かすかで奥深い情趣美を追究した歌体」”-幽玄と玄妙しか浮かべず、有心は後々まで知らず、ただ”佐野の渡り”に妖艶があるか?、スポットライトがあれば妖艶もあるが.




 
枕草子の枕とは、枕詞の枕以外にないではないか、研究者は一体何を考えているんだ、とは思ったが、まあもっと弱い表現で、そうでないだろうかと推定して見るのだけれど、やはり異なってはいないだろうと想える、と記してみる.-清少納言のセンスと性格とその階層位置・位相の謙虚さに即して見て-




 
承久の乱とは天皇の権限が薄まった事件だったのか、”ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり”-しのぶは味わいが風情がある植物で好みなんだが、荒廃の象徴なのかよ...昔は何事かを思わざりけり(cf・昔は物を思はざりけり)や「兵どもが夢の跡」には感傷沈潜があって良い.




 
これら人の主体をむちゃくちゃにしたがる存在に、すべて何らかの諸々不都合現象(不都合でない現象は起こらない)の責任は存在することになるからそれに関してはいいのだけれど、他人の標榜は自己欺瞞をして無責任に味占めて楽しんでいる連中であるのにも困ったものと.標榜自体偽物であるから.




 
滅茶苦茶他者たちはひとの主体を他人化したがり、また自己主体を乗っ取られているような形で、他者たちは人の主体化と自分をしている、私はこのような他者たちではないので、困っているものである.自己主体の他者における標榜を全く許可した覚えなく、迷惑すぎて困っているという事態の続きばかり




 
全くいらざる嫌な陰険な射影人間の自己投射が相変わらず身体内部に存在している、無関係の見ず知らずの存在だったのに、不自由・不快でしょうがない.最もこの姉に関係意識ではない忍耐をしたことがあり、その余波がずっとである形.いらざる感性体でこんなの不要なんだが、嫌悪に限ってしつこすぎる




 
抒情性を持っているのが普通の人間という立場からは、叙事的存在は未熟で未来において抒情性を獲得するという将来性があるが、現行では抒情性を踏みにじる存在が多い.そんな存在は一生抒情性獲得は無理で、感情は事実・事実の塊でできているに違いない.





No.tt-記号化処理をしてしまい、その内部に有機を含んでしまう・含まざるを得ないが、内部でない有機性もある.





全責任を避けたがる・理解できない人材もいるので、そのような存在は特に他者に制限を加えざるを得ない.願わくばそのような存在は、全責任に対峙してもらいたいものだが、まず生きている間には無理という認識を、普通にずっと昔から持っている.





サルトルの全責任を負うという自由に対して、他者のまなざしが制限を加えるという、わざわざ不自由をするほど忍耐力はないという人材もいる.アジア国は工業国にならねばといった存在もいるが、アジア式というか仏教的色彩というか、森羅万象に溶け込むと、まなざしの制限は薄いものになるのだが.





叙事的存在と思うXX&XYにはその身体の硬さを鋼鉄体に感じてしまい、そこに硬い物体・鉄壁があり思考的に何も底の深さがない撥ね返し体があるだけを直接的に感じて、うんざりというか絶望的に疲れを覚えるつまらなさというか、無に溶け込むことのできない不可能さを見るのか-権力的硬さかも





射影には無限遠点でその内部に有機体を含んだものとして、有機体を記号化してしまう、その傾向は叙事的存在の心情にもあると思いつく、確かに叙事的存在も有機体なんだが、見た目には機械的・ロボット的に見えないこともない.そのような存在が人間的な感情を有する存在を記号的に見てしまうのは普通か





無限小は当然設定してあるからペンローズの思考パーコ電子もだけれど、実際に考慮すると煩わしさは、現状認識は成立してしまい、時間を必要とすることになる.





価値尺度、流通手段、価値貯蔵に関して、カントの空間についてを眺めて何かひているような直感が、対象認定と対象規定と対象の持続とその変化という.





不寛容-アタリの第四の波のネット上における光景というのは早すぎ・穿ちしすぎかな?.トランスヒューマンなる考え方があったのか、そうなることには賛成的.何しろ関心ある難病もエマージェンシー・ウイルスも見方がマイナス方向だが、強度意識上はトランスヒューマンの位相にあてはまるからである.





そんなわけで、ユークリッドとデカルトとニュートンは位相が似ているということである.





サルトルの責任は必然的自由と必然=自由と位相の度合いは異なるが、位相自体は似ている.





そんな誤解判断をする連中にはあきれてしまっていると同時にろくな存在ではないとも当然認識する・しているので、認めることができないのである.でたらめをしてもらうと、認めようとしても認める主体を無視・歪めてしまい、正当判断をさせなくするからである.まるで風車を人間と思うような存在と同じ




 
即自存在の自由を他者は制限する-そうなんだな.即自存在の自由を人は好まないというのはドストエフスキー.即自存在が中間存在であると自由は制限されたものでしかなく、また責任も世界に対して全責任を負うことはできないという存在が多くいる.




 
要するに自己主体を他人化・他人主体であるかのようにみる存在は一体何なんだということなのだが、認識・認知能力が低いことは歴然で、その割に思い上りが強く自分は低いとはい想っていないという傲慢さに対処すべきすべを構築できずずっと不快に思う羽目に.




 
即自記憶を横取りする対他存在者は、内部存在となることになるのだが、
自己記憶として内部にあるから対他存在者の反映的反応などいらず、また横取りしていることなどまさかと微塵も考えることのできない存在だからどうでもいいので、自己記憶でどうでもいいとした対象と他者措定をするという不快さ




 
対他存在者が、記憶上の即自を自己意見と思いつつ、記憶上の対他者を対他と認知して、発言してきた・今も発言してくることが不快なのである.対他存在者・君の即自などどうでもいいと思っていると、思っている人物の即自記憶を横取りして自己意見と思ってしまう対他存在者は不快で、鏡を要求していない




 
だが無機物世界であるこの宇宙が必然的に有機物体を発生させたという人間原理的考え方があり、そう想うものである.類続はここでは宇宙の意志的なものとなる.宇宙内存在より宇宙と共存しているという意識的であるかな.




 
生命が無機物の疎外であるという考え方は、確かに死後無機的骨になりその後その骨も消えてしまえば無機物になることは間違いない人間生理体だが、いわれるようにこれはタナトス的色彩の強い考え方である.何しろ無機から無機へという考えではそうなり、宇宙内存在としての人間存在の限界規定をしている




 
陰謀・策謀・武力型は消息通であり・情報獲得能力も優れているという形である.消息通・何しろ陰謀には策謀には情報が必要だからであるが、陰謀・策謀のためにでっちあげ・捏造・虚言はったりを行ってもそれが自然でああるので何とも思わないタイプでもある.普通常識では歪まった結果を齎す事も多い




 
しかしYと同位相にXX達の存在もあったことを今思い出し・描いている.なんとこの逆になっている主体阻害・主体疎外達の無理解と不自然と無責任と欺瞞感を理解してもらう・自覚させねばならないのだが.--疎外?!、悟性体は疎外的イメージがよく似合う.




 
少子化--別に独身をやる必要のない人間を独身化している障害者たちなどの方が問題で、妨害をしている人間たちに責任があるが、そんな深層心理を持ってるかどうか不明で判然としないので、そのようなことを述べても理解したがらない・理解できないのではないか.




 
縮退がそれ以下の縮退を要請するという不快さ、君の縮退をなぜ解かなければならないのか、勝手に解けばいいではないか、どうやら縮退は自らによって解けないようである.他力を必要とするのかな.世界内存在としては縮退世界内部に位置しているといってもいえ、またクォークは縮退しているともいえるが




 
不快な記憶の除去がなかなかできないということから、非可換だからできないのかもというアイデアが浮かんできた今日、不寛容も非可換性なら説明がつく・つきそうである.




 
いずれにしても建設意識なら何か結構当てはまりそうで、さっぱりわからなかった関係の本質は、やはりわかりきっていたことだった.おおよそ、わからないことわからない人物はすでに過去の対象であるという認識を持っているが、ほとんど理解できない人々である環境界とは何なのかになってくる




 
コンプライアンス意識の寄与はあるな、正義感が発生するのは建設的意識からである.建設意識?!-関係は建設意識に結び付いた倫理であると閃いた.何のことはない建設性かよ、唯物論・唯物史観は類続の保証に縋っているともいえそうであるので.




 
T家の歴史を鑑みるに、チャイテンの定数cより先、以前は神話的になってしまっている形であるという解釈の方法もある.





ほぼ同一時間・誕生日が同じ・や同一年存在たちは、時が平等なら一様に同一時間に死なねばならない理屈になるが、同一ケースはあるにせよ人はそんなことを考えてはいないはずである.同一時間に知力の差がつくや体力差は先天性で処理してしまうのか?.平等時間は物理的にしかまずは成立しない.





ある人物が人間には論評するようなことが可能ではないものを持っていると、証明不可能か人間の才能では判断できないようなものにそれはなってしまうが、それを持っているのも人間自身である.この辺は矛盾であるような気がしないでもないが、それがあるとホッブスの万人の闘争が成立することになるかな





まずいまずすぎる悟性的なけばけばしき生理質、低劣な帰納磁性色明らかな場合には、荒廃しかないではないか.乾燥するか腐るかの摩擦塑性食感というもの.





叙事性のけばり・悟性生理の廃人性感覚が、潤いを荒廃させる蒸し返し嫉妬心・嫉妬心そのものとも見えそうな感触.汚らしさを押し付けて、自己欺瞞に持っていく存在は-その家系遺伝ゆえなので、家系責任であるはずなので、別になのである.実に嫌味なかような存在・自己努力のサボタージュ明瞭





チャイテンの定数でまた惑乱となるこのXX関連からの圧力・抑圧・諦念-諦観要請-ゲーテの悪魔的・・・などなどが作用している乱雑さを齎す煩悩家たち、まったく一方的に時間が作用するのではなく多様なシジフォス情態は当然になってしまうのか.





刹那消滅という第二量子豊かな見解を述べた人物がいたそうな、刹那消滅をなぜ述べられたのか不思議になるんだが.述べる時間はないはずではないか・・・





ライプニッツのモナドやホワイトヘッドのエンティティが考察対象となるのか、まったく自明すぎる理である単に対象設定差異であるに過ぎないではないか.





まろやかな内容を想定していた徒然草、吉田(吉田に関しては後世の判断とかがあるようだ)兼好は教養が豊かなことはわかる.判断力の個性が強いことはあるが、精神年齢は低くはないと判断できるので、自説によって隠者的存在だったといえる.あと有名なのは鴨長明や西行か、松尾芭蕉はどうなんだとなる




 
ようやく枕草子を目を通し終えた.簡単に読める代物ではなかった.清少納言の美的心理過程記述なので、位相が一致している人はあえて読まずともや簡易にすらすらと読めるのだろうが.ただ時代の差・000年の時を経ても、人の心理構造は環境道具・物象・建造物などが変化だけで、変わってはいない




 
自由を十分知っている人に抑圧の窮屈さを与えようとする存在・与えた存在は、自然に対して逆らった不自然さを行使しているので、その当人たちの自然は成立しないことになるはずである.他者への抑圧が自然なる存在は始末に悪いのだが、他者もそんな自然は持っているということをまず判断できないのかも




 
関係が絶対的であるならばその関係は非相対的であるという論理対処.普通に人は必然的自由で物事に決定作用をしている.これに対して必然的不自由というのが問題になる.レーニンは、必然=自由が決定要因であるといったらしい、これはキャズムのイノベーターと同じようなものである.




 
”絡み目不変量として既約表現の数という完全に代数的な量が現れる”の背景は、ポテンシャルvsエントロピー関係ではないかと推察する.




 
絡み目は遺伝子工学に平行して存在すると単純明瞭に考えることに、化学・生理医学の問題対象図形に近い.でライデマイスターは基本中の基本P-E・E-P関係にも関係している.さて遺伝子はその鎖の畳みの有効体積利用とか続くが、ともかくRNAどうしようかでワトソンを知っていたのに何故に並行?




 
捩れを空想していた面がガラスの部屋、ムサビのレディを連れて行くのにしりあいが・理由は?・部屋にいたのを思い出し、まずった事の頃、回転のねじれさえ思いつかず、絡み目は捩れに回転をつければいいだけの話だったのに.手元にアウトドアロープワークがある、不変量固定は有効な所為になるが




 
「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」は昔に聞いたことがある、白居易の隠者生活の香りからきていることを今知る.なんなんだこれは簾を挙げて見るのがどうしたんだと思ったまま記憶のずっと思い出しもしない片隅に、枕草子にあったのか..
白居易は自説からは知力も精神年齢も高かった存在であるとなる




 
いわゆるXXに文句を言わないで・欺瞞的にダンディーを気取って、その代わりに人に八つ当たりというミュンンヒハウゼン代理の理不尽なケースであるかな.こまったなさけないXY達にならないか.ミュンヒハウゼン症候群のXX&XY達とすると、虚偽・演技的性格者の動向がフィットするような.




 
知的能力と精神年齢が比例している職業は普通に哲学者なんだが、わかりやすい例では隠者と称される存在である.




 
伏見城の戦いは家康の会津征伐との留守中を狙ったもので、既にその頃には対立していたのか、朝鮮出兵も遠因らしいが、武断派と文治派の対立が問題の主たる要因とは、それで関ケ原の戦いとなる.思うに徳川家康なる人物は驚異的な忍耐経過を持った存在に見える.それゆえに徳川は長期政権になったと.




 
シモーヌ・ヴェイユ論とかアンドロメダ忌とか多少たかり的要素を考えるのだが、実際に全く関係ないアイデアかもしれない面も.しかしいざ思考しようとすると邪魔になりしつこい災いになってしまうので、利用された感がある.こちらは全く不利で不利益で、いわゆる搾取的な存在達と思うが今は物故に




 
科学は、その還元・成果・結果形態が、叙事的・物理的、要するに無機的になるのが今のところ特徴で、それはエロス的に難点であることは否めない.ポパーの述べるように、ほぼすべての要素範疇を用いて科学的解決を設けていいのだけれど、まず難点だけは克服できそうにない.No,th




 
0億人だと億人と5億人で、こんな考えがあると戦争は叙事的存在で演技的存在がやりたがる(叙事は武力的経験要素の比重大であり、策謀・陰謀は演技的要素大だからである)のはわかりきっているが、責任論を考えると、他力的な要素0:0が行使した結果と言い訳ができる.




 
南十字星にはダンシング・クイーンも想定した.火の鳥から春の祭典や、アンドロメダとか--魅惑の女性であることは間違いないが、或る一言の発語・のちに知った・がまずかったか、最も思考的に悩んでいて、未来の労働規定時間も嫌だったとかいろいろ考えたが、今頃は?.再開すればの要素はあるXX達




 
明瞭に判明する心裡態度・行為・行動ではなく、無意識に作用する心裡意識を詳らかに検討すると、そのような帰結に到達する.歯を磨くとか一人でトイレにいくとか、人は自己認識をしながら日常生活を送っているはずなんだが、共同的には無知になるのか・自己認識している暇がない?




 
どう見ても実体とかで人の内部の剽窃暴露存在の不都合な意識薄め行為は不快である.その人物にしらけを与えていることに気が付かない得意感の快楽という無知さ・無自覚さの調子づきで、未来の希望意識としてはこの場合違うので、未来に生じることになった不都合はこのような存在に起因し原因もまたある




 
つまりマズローの段階の低次なケースがあるわけである.少なくとも日本ではそうじたばたすることは無い衆目の認知があるはずなんだが、例外やそこの境界に近い存在もまあ存在する可能性もまたあるだろうな.0:0はそうなることになっている.低次存在に関してプライドとの葛藤を要しないとかな




 
深淵はある種の人にとっては絶望かもしれないが、深淵が普通の人もいる、またある個性のある作家が得意としていた.市場原理の壁・明の領域から深淵域に進まねばと思いつつ、さっぱり考えられずは、叙事的存在が妨害している可能性があるのではないかと、それとも光円錐か.




 
フィボナッチ数列の逆数和には複数人材の結果があった.ゼッケンドルフでもいいけれど、超越数チェックはあの頃しなかった.これだけの超越数や不分明結論・過程中の段階であると、世界の現況はまだまだ変化する可能性が高くなる.




 
昔考えた種の特性規約方程式は、超越数ではないことは決まっていた.フィボナッチ数列を用いる超越数がクヌースによるということは、クヌースの業績で関連あるものはこれだった、ようやくいらだつクヌースの名前を消去できそうだ.チャイテンの定数でこれも決定済みかよ、しかし問題である.





道具論のハイデッガー、オブジェも考えてみれば道具には違いない.空想家であるのはわかっている道具的空想ファンタジー者をなぜか調子づいて記録したことがあり、不快なその排除が大変.その頃の周囲は何か勘違いをしたようで、質問に答えなったり、先輩ですよとか言ったりした質問対象者の思い出.





三体問題ゆえに?!-夏目漱石を関連付けてみたりして





いろいろな思考情態でさすがに夢も変なのを見てしまう.思うに他者たちの強いる抑圧カルマが大体においてそんなわけのわからない不利益な夢を見させるようである.





なぜか夢を見ているのだけれど、夢の中で現実・実際に起きていることのように思ってしまっているのである.これがなんとも悩ますところである.そのうちに実際になってしまうのではないかと思うが、そんなことはなく夢は夢のままであるはずなんだが、あまりにもリアルな意識を持ってしまう.





その不本意を味わったXXの発言、このXXも目の前の対象を(その時には思わなかったがちょっと前のミストレスに対する思いの未発言記憶)他者存在に認識当てはめをしたために、ある作家に対して悩む羽目になった.個人的には蛇のようにしつこくてうんざりする束縛力の強いある作家の認識であったのに





しかし件の人物はなぜそんなに親鸞にこだわったのだろう.悪意があるに違いないなどは嫉妬感を覚えるが、単に考えがまだまだ足りないか、素質的に無理だったのではないかとも思ってしまう.





枕草子を数ページ読んだところで、清少納言は生意気ではなく意外に善人のようである.ある詩人の善意爆弾という言葉を思い出すほどの生き方をしたような.紫式部と同時代性を持っているようで、天皇家形式に振り回されたというか、藤原家に結構関係した立場だった.それにして藤原家と天皇家は・・





形式でも悪法でもケルゼンの純粋法学には、正義や道徳は入っていないように見える.法実定には機械的処理ロボット的側面・論理的記号的実行的・また唯物論理物理的・形而上学的要素客観的など、深いというより無機的処理的である.なぜ深い思想が正義や道徳を嫌うのかな.単に無機的だけではないのか?
   



親鸞に関して、親鸞も悪徳があったに違いないとやや強調的と思えるように述べている人物の意見を知った.これルサンチマンのようである.この人物は何がいいたかったのか、自己の悪意を親鸞に仮託したのではないか




 
鬱的・・実存の明とばかり考えていた存在に可能性を気が付いた.曖昧さは十分なだが、枕草子は役に立つ・役にたった.嫌な清少納言だと避けていたものが役に立つとは、相変わらず想いと逆になる.あるいは毒には毒を持って制すというやつかな.




 
デルタをわざわざ収束にしない逆作用をもたらした意識は、不都合なんだがどうも無限でさえ自由の邪魔と思ったからだと思う.射影極限の平行線が交わるにも似ているデルタ関数とビッグクランチというわけで、ビッグリップへ向かわせると働いた作用.多分ビッグクランチになるだろうと思うが.




 
思い出せば等質区間的なイメージの厄介さに本能的に避けた時、それ以前にもあったような、度遭遇する羽目になったのか心裡よ.記憶が薄れてしまって、薄れるような対象の記憶ではなく、薄れるのは困るのだがなぜか思い出すのが困難な、或る街で東武線の電車を待っていた食堂・それ以前にも悩みの種が




 
とりあえずミンコフスキーの考えあぐねていたものは、構造設定問題として、妥協処理して置く.重力子とかでは三角形・デルタ形にすべて寄与するから説明上は分離化できずに、多様でもなく見かけは単純な射影構造・深度をもった図像の説明がつかずだった.幾何的には説明難点は妥協の言葉による.




 
重力子とダークマターは違うはずだよなと言いき聞かせてチェックすると、グラビトンに対しての超対称性パートナーを考えて、そのパートナー・グラビティーノがダークマター候補というAre Raklev准教授の0年度初頭記事を見た.素直に常識的にそのように考えることはできるとは思う.


   


クォーク設定の地平線を無意識化するという手段を思いついたが、その乖離感ががきついクォーク感を十分味わい過ぎたということである、実際にそれは慰今でもそうであるクォーク存在論.トップクォークは5年、タウニュートリノの発見は000年.まだ新しい事実なんだな実際は理論に対して.





ポストラモダン(どうもポストモダンと言いたくなく、揶揄かスラング的に用いてしまう)は、思想上のダダイズム的と見える.デリダの意向は明らかにダダ的という視点を設けることができる.
   


特定の他人にできたらばというくらいの感触でこうすべきだと思った事を、なんだかあずかり知らぬ人間が、自己要求しているものとして接してくるまたはその対象が.なぜ君が対象であり、またそんな反応を要求しているわけがないと理不尽・矛盾・出鱈目不自然反応をするのだろう.理解できない.





環界で複雑性圧力が自然発生して、それが直接作用してくるので結構対処能力を有する.環界は共同的・社会的な面において、まあ個人的にも圧力作用は十分受けているのだが.





個人・<個人と個人>・共同・個人と個人・個人と共同・個人と<個人と個人>・<個人と個人>と<個人と個人>・<個人と個人>と共同・共同と共同の冪的関係があって、これで世の中成立しているというものである.




 
霊は人の記憶にある死者の存在意識であるその変容と取り敢えず考えるか、そうなると伝統は霊的なものに近づいていくようである.




 
終止符は当然打ってはいず、遺書もひそみに過ぎない、バイブル(秘伝的な意味合い)はかなりリアルに近い.




 
弘法筆を選ばずと趣味が異なるは一致しなくなってくる、とすると弘法云々は技術レベルの話になるのか?.弘法筆を選ばずは人々に定評を齎す水準にあることを意味しているので、硬い毛や軟らかい毛を用いても文字のレベルは同一を意味している.そうなると、筆の選択が趣味であることになる.




 
オパーリンの生命の起源となぜか関係してパブロフの条件反射も(種の起源はその間に入っていたが)その頃の話で、悩みの発言者達の記憶は、脊髄反射・条件反射と思いつく、以前にも考えたような気もするが、その衝動反応の内容が動物的知性でもなかったと判断していたゆえ、今は模倣対処ならありうると




 
なんでだろう、ある作家にそういえば・小節メロディを考えて、献呈した記憶がある.手紙だったかな、どのように受け止めたかは知らない、気にもせずに忘れていたその家に行ったときにも.そんな態度をその作家に示すつもりは全くなく、むしろ無視したい意図だったのに逆作用をどうもしてしまった.




 
中学生のころおもむろに作曲ということをしようとして、ほんの・小節の意図を試みただけで、非常な苦痛を覚えてこれはダメだとが、無意識にあるせいか楽譜など避ける傾向によりある.後年、ショパンが好きとか若き日のモーツアルトとか述べてきたXX達がいたが、何かとんでもない幻想をしている-




 
背景画像はS県西部の鉄道終点近くの橋から見た下流方向の荒川の上流とその付近の風景である.記憶にある限り、この風景場所と京都周山街道からちょっとそれた寺の帰りに見た薄雨に煙るバスの中らの風景が、今までに日本的情緒を感じたたったか所で、そのうちの一つである




 
No.thの自己思考に悩んでいる難点は縦型設定であれば何でもない事だったことに気が付く.それにつれて横的に考えて、ある街の東口を歩きながら自虐意識的にしたことを思い出す.不利益な無駄を相対意識がさせてしまう、対象も別にそんな要求をしたわけではないが、想定しすぎという現象自覚例




 
とにかく古代よりの表現には幽玄と玄妙の中間のたしなみを感じる.




 
マクロの積極的自由はマクロの消極的自由から見るとミクロになる.




 
理解するか意図通りのXXであるかはその発言語彙表現によって明瞭にわかるのだが..いない場合は作ればよいのだが、未来夢時間上の存在は理解必然の権利を持っていてもいいはずか、もしくはかなり接近している存在・でもないか.




 
思想の思想たるゆえんはその人にとって絶対的なものであるが、そのゆえんからくる思想自体には絶対力はなく、戦いが待っているということは良くわかっているのだが.




 
それにしてもわかったようなわからずで、あいかわらず関係の絶対性の意味に納得できず.存在理由・生存本能・優越原理・全か無か・土壇場・瀬戸際・極限限界・自己本性対峙・唯独性・・・この辺の何かであるはずなんだが.




 
吉本孝明はその強情な自己言語意識で思考を展開していることから、街を歩いていて、『未分化』の状態から、思考を構築した存在であると思いつく.それならば、先人たちの業績に影響されることなく、ピュアな状態からのアイデア思考として、マイ論理の、『未分化な状態からの思考構築は新鮮』に適合する


さていよいよ暦の上では月である、しこりのテーマ類をすべて片付けていかないと何にもできず前に進まないが、難解すぎて処理にてこずり遅々として進まない.『知性などX歳で沢山だ』とした面があり、その時は危険だがと思ったのだが.その状態にただいま遭遇中となりて、空白が長すぎたこともあり





アイドル現象?-ちょっと待ったこの言葉にはある実践的な面があるかも‐そんな時間にやはりなったか.時間はいいがというかそれの持続折り返し時間があってもいいはず-ベルカーブの折り返しとPからEへは普通すぎること





平日の図書館午前ヘテロ達魅惑の翳りちらりほらりと





なんだかんだ-図書館で借りるのはいいが、返しに行くのが億劫だが-で、結局またソビエトものを借りて来てしまった.書架でぱっと目に入った”シベリア抑留50日”である.なぜかロシア関係にここしばらく集中、そのおかげで民主集中制もなぁ硬直しなければという持論の応用が閃いた.





「こころ」をようやく読み終わった.思い違いをしていた時間が長かったなという感想である.それにしても漱石の心理描写能力は鮮やか、多少弱いかなと思うところもあったが、とにかくよく展開できたものだと想うしか、そうなると例えば死の棘なんぞを読んで比較したくなるが、どうしたものかいなと





Kの告白のところだけれど、このあたりの心理描写能力は見事に実際の過程を表現していると思う.モデルはT大生明らかだが、実際に漱石は遭遇か近い情況を味わったのだろうか、漱石の小説には三角関係が多すぎるややしつこさがある.漱石は永遠コンプレックスと見ると確かに小説家である.





模倣者たちはシミュラークルとして、設定できるか.しかし自己認識の鏡を見てもトートロジーにしかならず意味はない.シミュラークル者たちは、それがシミュラでないと否定したいのか、オリジナル者の主体を異常に阻害するという事態には不快しか覚えないだろう.それとも愚かすぎて気が付かないか??





まあ単に、パンのみに生きる存在に重点を置いている立場の存在と見れば、それで射影一様度は成立するとは思うが、失格におけるいよいよのケースにおいて、矜持に対する反省的意識様は、果たしてパン型なのかロゴス的なのか判然としない疑問符状態ではある.これは関係の本質的な内在ものの様でもある.





田舎へ帰った主人公の父親の病気の危篤時に、先生からの遺書が届き主人公が汽車に飛び乗って遺書を読みだす展開のところ--この時点で先の結論を見たくはないが、昔から物騒な(厄介な)想いをしていた三角関係のイメージとは若干異なるなと.ポアンカレの三体問題像と似ていると気づく物騒な心裡





教育は生徒の自発力を伸ばすこと・自発化にすること、その一点が最ものものである.押し付け・押し売りは教育ではない.もし教育関係者で自発力開発傾向が強い教師がいたら適っていると思う.多少根気のいることでもある.





かような人物たちは自分たちが困った存在などとは露にも思わず、他人の誹謗による優越感に生きるという荀子的特徴を備えている.(全くその現実に直面しすぎるのである.何とも自己認識の無自覚者かもしくは開き直っているか)





自我と超自我&個人と社会的&ミクロとマクロ&ノルムと汎関数の関係などはトポロジー的に同相であると見る.





長編小説だったのか夏目漱石のこころ、短編で先生と私の感情のもつれを解けないしつこさを読まずにただその存在事実から直感した中学生の時-それ以来ずっと何十年も忘れてはいない心.あるいは何か紹介文でも読んだのか教科書にあったとは考え難く、先生と私と自殺が出てくる関係の記憶が鮮やかすぎる





どうも権威主義系の暴言に出くわすケースが多い、いわゆる権力系存在に変貌したというやつに.それは一種の妬み・そねみ・心の不幸のいら立ちの発露なんだろうが、原因はそのような遺伝を齎した親にまず第一義があり、迷惑な侵害である.





物質的豊饒さでは幸福になれないと言いつつ、経済に道徳はないとか.どっぷり見栄張りに浸った演技的性格系は物質的豊饒さの権威主義者で、芸術的な昇華とは異なり、どうもそのセンスの束縛性・重さが不快なのである.権威主義系から見ると昇華は深いなのだろうが、昇華の方がいいとしているので・・・





味占め気どり見栄張り専門家は一種の宗教的にしてパスしたいものだ.その宗教はカルト系に近いが.またワンパターン人間も宗教的特徴の殉教意識性と見るとやはり宗教的存在でパス・スルーとしたいものである.まあイデオロギー凝り固まりもパススルーになるかな.





最も虚無とか砂上の楼閣・投機にはそんなに重さはない.カザノヴァ的な剛体が気どりに味を占めて見栄張りを専門としているような存在は数多くいるが、所詮元が重いのでそのセンスは重くくだらないと思うが、意地力としつこさ・傲慢力は強くまことに始末悪い愚劣見栄張りセンスで突っ張るもので辟易する





叙事者は自己認識・自己把握をしないのかな?、カムフラージュで誤魔化す傾向もあるが、何より絶望すると虚無に向かいと思われ、虚無は神聖的なスピリチュアル的でもあり、神聖型は悩みを知らないので、結局虚無型も悩まず叙事型はイージーと系列が完全的になるような.





心理的に映画太陽がいっぱいのようなストーリーで、ただしどうも映画と異なって対象の発覚・愚かなさの自覚はきっと成立していないな.これらは記憶にあるのみで、とにかく人の楽しみを邪魔した存在達だ.その傾向がまだまだ出現する傾向にあるのには閉口する.





反対・強引な出鱈目を受けるのは、そもそも未熟な存在とみっともない存在と認識してしまうので、そんな存在に遠慮すると実際に未熟やみっともない存在以下に未熟にみっともなくなってしまう.逆が明らかなのにその存在は無知なバカだと思いそのままにしてしまうので自己主体が変になることが多すぎる





考え違いもあるか共同化設定をした形でプレッシャーに負けている現実と体制形式のうんざりさを予測しすぎと何かと圧力条件が発生してくる折々と、他人に意図を取られたような記憶もあり、心を薄くされてしまった形で何かと不自然を余儀なくされていて、修正がうまくいかない.負けた形が最も重要か--





ついに昔から嫌であって、遭遇した時にも不愉快な思いをして、何十年も悩ました存在がなぜそこにいたのかの理由を構築した.妖気はキーワードでそれなら可能性があると、難しかった退行者の実在は精神レベルの低さの同時性になりて.しかし時間的にも覆水盆に返らずの要素寄与大なるまさに馬鹿げた事で





ある街のある通りを歩いているときに、真昼の異空間を浮かべたことがある.ふとある時にどうにもこれはニーチェの超人位相と同じ浮かべであることを知った.がそれとルサンチマン意識は別にしてだ.





で経験上陰険な宿命的射影がしつこいことに、生理の特質を変えて貰うかその存在の消失か、それが自然・普通に誰でも自然・だが、特に強調するので自らが証左をとは思うが、時が解決しないままに消えるケースも想定できるのは、対象がハイデッガーのように未完に終わるからと考えることができる





クライン・メビウス・ベルトラミ・タイヒュミラーが同時性を持つ-これ結構望んでいるもの、それに射影という文字が付くとは.単純射影一様性が不快なだけかな.





関係は、個人と個人・個人と共同・共同と共同のパターンしかないな.





しかし意志の自由において矛盾の成立しているケースで、その矛盾を孤独に思考して解いた存在がいるらしい、矛盾や不条理や理不尽根拠を明瞭に分別できるということがわからず、信じがたい.この場合の矛盾はどうも個人と共同の齟齬であり、その人物はのちに逆立と申しているので、解いていないのでは?





ラフマニノフには、ロストロポーヴィチの秋のダーチャの哀愁イメージとも異なり、ドヴォルザークの郷愁とも異なり、チャイコフスキーのロマンとも異なり、心理的にはさすがにそれら以上のものがある.チャイコフスキーのアンダンテだけはエートスが閉鎖的ではなく、演奏家にもよるが別のものして





記憶にある宿命的存在二人とも、他人の幸福をそねむ・ねたむ・妨害をする傾向を感じるが、どうにもその不幸さ・悲惨さは叙事的な単細胞的な甘さを覚えることができ、不幸さ・悲惨さが足りないのではないか、そねむやねたむ時間があれば、もっと絶望して自己修業をすべきではかなと考えてみる.





類続のための歴史を仮想した新旧約、その仮想力はかなりの才能ものである.仏教のこれでもかと展開するあらゆる事象に対するアイデア力も大したものではある.構想力の視点からは見事なものといえる.





個体としての個人は死を余儀なくされていることが、悪魔の存在を生み出したのではないか.普通の人間存在が復活をしてしまうと新約的にはまずいことになり、また旧約的には生命の樹の実を食べると永遠を獲得できるが、それのためには悪魔を構築して神の権威の保存を設定したとか考えることができる.





”先行理解と解釈の循環である”なるほど、レヴィナス的全体の枠組みに戻らねばならないハイデッガーのガウス曲率とでも申すか.





ガダマー・ハーバーマス・デリダ何をやっているんだろう、これらの人物たちの論争視点は、高々考える人の一つの頭脳に過ぎない.真理は帰結点であり、普遍は深層より超越的であり、帰納的視点と演繹的視点は異なるものである.





結局第三ステージのNo.*で今年は早くも行きそうだの結果・成果が出る.アルファタッチに傾き掛けたが、ちょっと面倒なことは残っただけではないか、結局No.*で行きそうだが、・か月もするとすっかり忘れてしまうここ数年の思考.底流が決まってしまい、自動性が成立することに拠る.





レヴィナスの述べるように終末論は全体性・歴史の彼方におけるものであり、パラダイム的革命的新しき世界構築意識でないことは当然そうである設定だろう.別にレヴィナスにしたり顔で言われなくてもそのように考えている人は史上に多数いると見る.





今この時の風景にせよそれから敷衍域を広げるという志向性からは、その逆に広大から今このひと時に集約するという一朝風月に示唆されて、有時を接続の無数回という形式化にしてしまい・・・今のあるがままは広大のつながりを体得するという禅のある種宗の本質と見る.





武力と陰謀・策謀で人を支配しようとする存在の存在を人々は周知しているはずである.その存在理由がそうであるような存在が多く実在していることを、しかもそのような存在は、存在理由がそうでない人間はダメと思いがちなことも確かである.その存在理由から戦争・紛争がなくならない事の理由になる





わかっていながらのこの始末、その上雑なXX・消耗品系を引き連れて、これまたムダエネルギー浪費という非建設に向かわせてしまう...類続上からはこのような存在一般には圧力がかかるはずなんだが、何しろ実際には非建設的・非類続的傾向だからである.この辺の混淆から戦争・紛争が発生するのかも





空白の要素に自己自身の結果もあるが、あるXXに対してに寄与もあることになる、このXXに絡まるとどうもろくなことはない位相で接してしまう・その理由はわかっているが、このXXはアルファ位相でしかなく、今にして思えばタナトス要素強く、穏やかな破滅に向かうものと予測は十分成立していたのに





不美なるXXは性的幻想の壟断により、カントの述べる性と美は異なるの美意識を排除する・もしくは美意識がわからない・わかったとしても性的人間を優位にする存在でしかない.それゆえに実践力・実戦力が強くなりがちであるのは、ある種の人間のパターン類である.





一服の朝の風の流れに妙味を味わうのと同様に、路傍の石垣の道の間に一輪のすみれが咲いているのを見るのも悪くはない.





狗奴国の誰かが海を渡って-高千穂の名前もあり&日向も登場するということで-紀伊半島のどこかに世紀以前に上陸して、その後奈良を適切な位置と決めたという説はどうか?、何しろ邪馬台国と狗奴国は対立していたということなのである.





TLに一人モデル化したXXがいるが、No.twに関して適合生存過程がある・何も論理内容を全く教えたわけではないのに・ということで証左の確認は当然している.





ある思考形式ヒステリックな反応をするXXは十中八九中間存在体である.忍耐力・愛情力・思考力その他もろもろが中途半端な限界を有するところの存在であって..それが日常普通と思い込んでいる存在でもある.--諦めているケースもあるが、諦めているというより妥協している存在と閃いた先ほど





裂いたディラック関数の修復ができず、この無謀すぎるドン・キホーテ式は如何.デルタ単一という遂次性のどうにもあるXXの寄与が作用すると、とんでもない非常識を無意識作用させて、もっと価値のあるXXでないと..それにつれる同時化的な雑XXも、とんでもない非常識を構想させた無駄があり





超多時間の種類の微分要素は・・単なる次元化時空を表しているだけで、種類の特性方程式を含んでいる多項式ではない.ただあるとすれば次元時空にその多項式は存在することになる-あるいは人の頭脳の中にだけに





あまりにも多すぎて無限と設定したがる、Yでさえ極論的に一瞬で無限素域の把握とか述べていたはず、そもそもこの無限はかなり数が多くても、有限値に納まっていると考えることができる.実際にはこの現宇宙に存在してい粒子の数は無限ではなく有限値であり、人の意識がそう思わせたがると.





そうなんだ実際に発散との戦いで繰り込みの朝永の超多時間が気になって、光子の自己エネルギーの有限値のところが気になる箇所までのところで、別な意識のオッペンハイマーは優秀だったのかよと思いが生じ、今までは単に祭りあげられた存在のイメージが強くて.--繰り込みと無限は両立しない--と





大体思考事実を無視して、生理実感のみ判断が現実と思い込んでいる実体は有限のみといって、無限すら無視するという存在の窮屈さが苦手で、XXなら無限は当然位なはずの前提があったのだが...





しかし現状は時間が物理主義(強制エントロピー変化様の道具主義的製作化)・行動主義(共和感覚)時間で動いているかな、アルファがそのようになっているのは複雑時間的多時間のコンパクトタイムとか構想してみる





自己欺瞞保存のために他人にその不都合な内容を転化したり他人を誹謗して貶めたりする演技的性格者XXが多いかな、--アドラーの補償の反動を考えていて関連しそうな思いを途中まで考えていたところで--なぜこんなツイートをしたのかしばらく考えていた暑い5月下旬に、暑い映画を見始める.





この雑草と自分を同一視した人材に辟易している.生理構造が全く異なり、、ウームなどを持ってはいずで、なんという理不尽というかどんな知覚能力・認知能力を持っている存在なのだろうか、あまりにも見当違いすぎてその排除に困難を、そんな存在は悩んでもたいした思考内容にならないと<当然>思う





障害である雑草存在をそれとは認識しなかった遭遇時、これもあるXXの許嫁的存在ゆえの登場だが、そのXXの実在など思わず、単に存在知らず・会ったこともなく、ただし同時に成長した意識時間を持っているという存在、いまは他人の子持ちであるというそのXXのの弟が、K大狂となるという関係心理





本命はやはり本命であるXXや好きなXXは固有が似ているとか、論理一番もそうで、モデルたちのうまくいっていない記憶の展開発展を記述しようとは思っているが、果たしてできるかと不安はある.単にドキュメントの記録でも面白い心理の展開面・交錯表現となっているはずだが.





全く無茶苦茶な連中だ、海馬が発達していないか、自己把握に無知で無自覚であるのはまちがいないとか、その無知に甘えて無責任を平然堂々と行使してそれが当たり前という認識視点しか持てない存在たちでもある.まだ我々はてんやわんやであると謙虚気味に述べた作家はましな方である.自覚している故に





まさか件の人物はいくら何でもそんなでたらめ態度をとるとは思っていなかったので、判断に思考に狂いを生じてしまったのだが、あたかも普通に人々は狂気的なんだと思っていた存在達と同位相になる.そうであってもそんな局面には遭遇しないだろうとしていたが、そんなことはなくかなり遭遇した.





太陽フレアー人的発生結果の映画をみている、放射能蔓延も問題だけれど、現在的急激影響は太陽磁気嵐が地球を襲ったらが、懸念の最もなもの、陽転で銀河旅行中に不測の事態に遭遇しないとは限らない.--そんなことを考えていると、恐竜絶滅現象は銀河旅行過程中に発生した不測事態だったのかもと





アンナ・カレーニナと二等辺三角形から合同で止まってしまい、相似形を考えていたことは確かだったが、フラクタルを知らなかった中学生、幸福な家庭は一様に似ているが、不幸な家庭は多様である.不幸な家庭は直ぐにわかるが、幸福な家庭が似ているがどうもよくわからず、先ほどフラクタル幸福度で納得





漱石の明暗のタイトルにはヒントを得る形となったある日の試験の小論項目の思い出.明暗はどうやら身体優位概念で、夜には眠る・昼には起きているという形態から、地球自転構造が第一義的に影響している.この明暗というのは心理的にも事情に重要と思われ、フラクタル・フーリエの要素をまずは見つけた





硬直した奇形身体が常識を行うと、そのルサンチマン・墓の内部は狂気的であるという頑固さを、最近の遭遇経験からいまだに拘束感という窮屈さを受けている.自由をよく知っているとこれらの家父長的ミソジニスト風な味わいが障害でしょうがない.限定合理の執念深さという、視野の狭さ限定力が.





あるおもむろ単純に意図と異なった表現意味を知って以来、何とか解釈に悩んでいたが昨夜ある表現を思いついて、その表現なら意図に近いと修正設定をした.まったくこんな単なる山がそこにあるから式の自らの表現に、経験時間という北斎風は意図していなのに、かけてしまうという不快さ.理性vs想像力





逆転のパーコレーション・ゲーデルは、constという発想をする.





ルサンチマンの言葉を導入するかどうかで迷ったあのころ、確かニーチェを参照にして結局言葉を導入しておいたNo.thi.ルサンチマンは0個の煩悩・カルマ的なもので、身体的な無意識領域から発露するものは、理性的に冗談なのだがかくいう偽善演技強力場では、事実になってしまう.





演技的性格者の現実は演技-虚偽-道化-冗談の類は真実と思うようである.偽善社会なら非真実が真実になり、真実は妨害をされやすい.人はなぜか無責任の気楽さを好むようにできているようだが、XX&XYの関係は冗談ではなく真実でなければならず、これら演技的性格者には愛情が持てないことになる





 


ミソジニー者にとって母親というのはどのような存在なのか、母親はXXであること確実存在である.普通に考えて母親に対する甘えをミソジニー者も持っていると思うのだが.ミサンドリーXXを思うのは、建設的意識の邪魔をするような存在か、もしくはXXであることに巻き込み・引き寄せをしたがるXX





XYの海馬と脊髄反射の乖離とXXの海馬と脊髄反射の乖離とXYとXXの乖離がある.
 


定積分とラプラスを間違ったか、非調和のポアソンが、調和定積分に災いされた形で、定積分はどうにも有限すぎるが、今頃いくら何でも有限を自覚しているだろう、それゆえにがわかったかな.全く単なるそれだけに時間を費やして、結局それ以上に災いのXX&その弟の登場で歪め要請ばかりの無駄ばかりと





ホッブスのリヴァイアサンは考えすぎというか、すでにあるマグナカルタとかを無視して仮想が入っていないか、無秩序に人はそうならない段階ですでにホッブスの頃もそうであったはず.日本の縄文時代はそんなに自我欲望が思い思いに発揮されていた日々とは考え難いのだが.





もう小学生の時から地球は干からびて爆裂霧散してしまう予知夢をみているからな、そんなSFは大団円にならないから米国では作らない・・・いやその頃には他の星に移住してしまっているだろう.今やSWもあることであるし、あるいは純然たるSFで時間を短期にしてだれか作るかも・・・






ステージのYものが理論的(論理方法論だが)に似合うような状況・情況になっている.次のYの予想は自然にある位相になる予感はある.とにかく今までの月日の情況は数値が適合しているのである.





自己分析・自己対自の記憶はできているところまでは自らきちんと把握しているのに、鏡になって反射する必要はないのに反射をするからおかしくなる.あたかも自己の思考のように、他人の自己分析を蔑ろ、その他人を無視するような態度はいけない.その辺の無理解で無駄ばかりする羽目になる.





コメディアンというのは、他人に優越感を与える商売とすると、それもうまいやり方である--(今頃何を気がついているのだろう・述懐)
ともかく一応他人に優越感を与えるか・保証を与えるかが掌握のコツであることは間違いないだろう.それはイソップの北風ではなく太陽であるから.





太宰治じゃない**あるxX曰く、論理比定は間違いであることは十分承知していたが、君の言うことなら間違いはない・間違ってはいけない存在だが、その擁護的に内心でその通りとやけ気味に思った.確か芸術至上主義の存在と聞いていて、よく知らん存在だったが、芸術至上とは何よ、何をわざわざと.





いつまでも一緒なのは、ある人物に書いた手紙の内容のことで、多少複合意識で自力性に齟齬が生じると思って、これはまずいかなと思い、その手紙の内容をある人物に与えないで自分のものに保持して置くため.最も手紙の対象は読んでいるか、また読んでも記憶しているかどうかは聞かなかったな





どうも遺伝子的に世界の中でも個性的だから、世界は犠牲的な反応を与えがちになるという類的な潜在意識があるのかも.しかし日本人としては個性的な遺伝子を無視するわけにはいかない.





埴谷雄高の”かってなくまたけっしてありえないもの”の哲学的意地を人々は理解しているのか疑問に思うな.





0年以上の時間間隔を開けて、明治神宮に行った帰りに新宿に寄り、紀伊国屋に入口の台箱に量子家族なる書がちょうどあった時で、立ち読みしたが記憶にあるのは並行宇宙の話であったようなうろ記憶しかなく、別段で、そんな対象に誠意をもって取り組むという姿勢はSF的?、どこか引っ張る点もあるな





なんか色々剽窃されているなという、つまり利用されてしまっているなという思いがしているのである.ちょっと一応社会的に有名な存在なんぞにのこのこと会いに行くとこんな思いをしてしまうことになる.自分はどうかというと無名のままで時が遥かに過ぎ去っての過程であるのに、影響を与えた?



いずれにしてもテント縦走をする山行者には、ヴェブレンの認識違いにせよギッフェンにせよ、納得できる様相を持ち得るはずである.なお良寛のたしなみも理解しやすいはずである.炉辺一束薪の話





表現の自由という言葉をTLでよく見かけるが、沈黙の場に対して言葉を紡ぐという事に関しては自由は全く保証されている、ただしできるかどうかは保証されてはいない.普通に見かける表現の自由というのは、社会関係における発言の自由ということであると思うので、ちょっと意味上に差異がある.





自由の邪魔をする存在は、不自由な存在であるという単純事実に気がついた





ある女子大生がいてまさかの権力的暴言を発する存在などと全く考えずに、いまだに邪魔障害物になっている.その大学に関してはかくあるべしという位相を持っていて、そうでないようにこのXXはみっともなく情けなく恥さらしで荷物のような存在で、クレイジーでもある.このXXがなぜ合格したのか疑問





主体の乗っ取りにせよ模倣にせよ剽窃にせよ、その存在達には影響力を行使した形にはなっている.





その昔、ある著名作家に電話した時、低音ボイスなのに(明らかに男の声であるはず)、女の子ですかと言われたことがある.??何を言い出したのか唖然としたのだが.考えてみればこの作家も滅茶苦茶なことをと今、かなり優秀と思うのだけれど、思想的にはどうでもよく時たま役に立つ利用をするだけ





ディクレの妻はメンデルスゾーンの妹、春のメンデルゾーンの華麗に思えたポピュラーなバイオリン協奏曲に酔い、翌月のみぞれの中でに対他の対自と即自、自己の即自と対自のつの顔とかの思考を見たりしたある年のフォーシーズン.





あれ主体阻害の模倣者というか反実在意識・思考に対する認識無知者、模倣しているとは思いもしない傲慢者達、記憶に残っている不快存在者たちは、まずはったり要素あり、自己欺瞞あり(無自覚可能性高い)詐称性もあることになって、ミュンヒハンゼン症候群者達ではないかと思いつく.





超現実はすでに言葉があるので、妄想現実や空想現実はてまた夢想現実(カフカは夢想家)とか考えたりしたが、反実在要素を取り入れて、越現実という表現もあるかなと思い至っている.観念か物質か・二元論をどこかに忘れてきてしまっている・・・





積極的自由思考タイプはなぜ0年も生きるのだろうか、0年も積極的自由に生きるる体力があるのだろうが、0年となると消極的自由時間よりどう見ても長い気がする.これは矛盾である.





殿様・大名商売で依存性豊かなのに依存されると自らが殿様になったような権威力があるといい気分になってしまうという反動があるのではないか、おだてに弱いということになるかな.権威に依存する形で資金供出と権威的意識で資金を供出するという世界対象性を持っているようだ.





荀子の性悪論はマズローの段階の承認要求を出ないのではないか、段階に対して引き込む暴力性を維持しているように思う.自らが段階を上げる努力をしないとなのにせずに、下げる事ばかりしかしないようである.もっとも無理とあきらめているので努力をしないのかも、ならば暴力的でなくてもいいはず





人の主体を乗っ取り?、その人物の主体を歪めたまま消えてしまった人物に対して記憶上から不快でしょうがないので、修正を試みているがなかなか、我がこころ石にあらず面を無視してしまう、荀子的優越感に浸っているメンター的うぬぼれ人間たち.てんやわんやは優越感に浸っている君達の方だということ





パリサイ批判というより現実リアリズムからだろうが、その現実意識自体が非リアルという演技になっていることに気が付かない.その演技はこちらの主体というこの不快さはなんなんだ.なぜか人々は主体を歪めようとしてくる.主体の乗っ取りのような、昔太陽が一杯という物質的乗っ取り映画があったが.





対他存在に対する意識認識を良識・両親から発言してはいけないと思いとどまり、考えたけれどそれを発言せず記憶に保留した場合に、それを保留するという判断をしたのは自己主体なんだが、他人にこの保留内容を主体と思われることが多すぎて困った記憶を持っている.他者には対他である違いがわからない





ミストレスの店で考えていた共時・通時のソシュールはあいかわらず有用の意識ありて.それぞれを記号的に分解する・展開するはようやくにして意識にまで浮上した昨夜の出来事、何十年かかったことか.





貨幣が自然発生した時の社会の状況はどんな世界だったのか.平等社会か宗教的社会だったか縦型格差社会だったか、多分十中八九縦型格差社会で生まれたものと考えると平等という無格差社会的なものにするのは困難なものを感じる.





トランスには少し頭に雪崩を聴いての感覚で多少気にした今は無い大宮ロフトのHMV.今はいない・会わないあるXXの寄与可能性があるのではと推測する、ソリトントランスは怖い.全くその時には信じがたいソリトンツナミ構造のパターン持続がなぜ出現したのか、頭がおかしくなる可能性が制御を・・・





人工知能はそこにあるというシステム的な有ではなく東洋的な無私の情態を自ら作れるか、作れたなら共存は可能で、また現行流れ・ロボット実在多が否定できない未来にはそれが望ましい.





逆になって主体を阻害する人間すべてXX&XY双方とも認めるわけにはいかない.社会や他の人間が認めてもまず絶対というほどに個人的には認めない.ただ単に不快であるゆえにである.





今日は白鵬のまさに横綱シーンに気が付いたり、ピアニストの指の動きの見事さに感心したり、最近体力技術センスに感心するようになってきたな.今までは哲学的な思惟に関心を寄せていたのだが.





渋みエートス、その閉鎖的重さによる束縛感から煩わしい自慢屋と思う、聡明であることは了解できるが.





モーツァルトではやはり思い出のKが一番いいかも、なんという心理情態で聴けばいいのかと迷いだす、セレナーデであると見るのが相応しいか、経緯はわからんが合同の小学校の運動会の練習時に初めてその女生徒を見た・・・





現実は厳しいと言う時、社会科学者なら政策科学でもいいが、流血が必要という実証データが出ていると、精神分析・心理学者なら、ある期間流血を行う存在対象実在は明白すぎるというだろう.これらそれ以上に大気圏内に置かれている有機体である人間存続には有機体同士もあるが無機物との戦にある.





史記的歴史は過去であるけれど、未来もそのようになるであろうとして、それは一般的に誰にでも当てはまるので、あまりにも当たり前としていたのに、あるXXに遭遇してそれを想起して、こじれてしまった.あまりにも当たり前すぎることが、かなり価値を持っている海馬レベルがいるとは想定しなかった





そうか第三ステージは別にして、脈絡のないと思える項目種を同時化してみる形故からだった.+のケースもあるが.+を使えば*





そんな中間存在に対して、有限域以下に気を小さくすると馬鹿の一つ覚えのように権威主義・権力志向者であったなら、頑固な視野の狭さで人を束縛したがるものであり、有限外の自由の邪魔をする心理構築という鬼の首を取ったような、カルト戒律的な態度を示して困ったもの、頑固さだけはスタミナがあり





偽善は妥協の産物であるに傾いているが、演技的産物とすると冗談は演技であるので偽善域に絡めとられる可能性が高い、経験上冗談が本当になってしまうということから(そんな馬鹿なとは思うのだが)、偽善社会-冗談-演技の相関度は高いことになる.冗談がリアルになるというまさかの了解獲得かな





0%は選挙用の頭数的なシビアではなく単純明快なジップの経験則・パレート性が.しかも00億人いればそのうち意味があるのは0億人なので、ある存在のネット噂では時間を予測し止めたその時の静的時間ではジップ的に正解だろう、ところが0億人のうち意味があるのは億人というフラクタルが





一様性・統一性に反対する人々が結集することは一様性・統一性に他ならず、平行線を形成するというのが本質である.





まあ社会通念・偽善などもあるが、性悪人間がその性悪を自覚するのは一生無理か、動物的な弱肉強食が自然であるという思い込みならぬ、そのようにしか考えられない存在でしかないのに、社会もまたその要素強いが、社会的なんだと思い込んでいる存在がそうであるならば、その社会は海馬未発達社会である





後年唐突にニーチェを読むといいですよいった人物がいて、そんなことは勝手だろうとは思ったが発言せず、まったく自発・自力なのでそんな余計なお世話を聞くとは思ってもいないためであるが、そのころはまだニーチェのサロメが不快だったころ、またこんな記憶を持っていること自体無駄だから助言不要と





ラヴェルのボレロ・レベルなのかインデックスとしてのラベルなのか多少混乱をきたした鍾乳石身近なトンネルの自転車通学の帰り道、ニーチェにサロメが出てきて、サロメには嫌な感じがあると思ったのは誤解で、ヨハネに対するサロメとニーチェのサロメは異なることに大分後になって了解した場所付近で.





その地位に自分だけがという罪的なものに摂理を応用するのは大げさすぎな、マルクス関係の書物からは論理的経過のみでそもそも罪的な要素自体がないと思うのは個人的直感で間違いないはず.大体現行唯物的なものは無機的でロボット的であろう、ロボットに罪の意識はない.物理・行動主義にも言える.





奇形は身体的アスペルガーともいえる.その変形にこだわらざるを得ないという特徴を持つ、まあ両親の近くは遺伝子によるのだが.変人は心理的アスペルガー的、奇人は身体的アスペルガー的特徴をそれぞれ持つのでは、人それぞれ大なり小なりそんな要素を持ってはいるだろうが、それが生得的であるならば





破滅型私小説者はdegeneration型になる





generateとdegenerateで後者表現を一般にロストと称する.ロスト世代とか、generationは使うのにdegenarationは用いないのは、エントロピー増大の圧力・寄与による時間の一方性だが、むしろポテンシャルの充実感予兆・時間保証の余裕感の方の寄与が高いか





中村光夫という名を初めて見た.中村といえば真一郎で、なぜこの名前をあのころ・あの時浮かべたのか?.ジェネラル一般と、発生と減退と輪廻転生と思考が纏まらなくなった思い出がある.それで世代という言葉には結構強く思いれがある?.文体表現に終生こだわった人物か-思惟の法則の徐の頃のこと





それで私小説なる言葉をチェックしてみた・陰気な暗い摩擦多き束縛感強すぎる文章のイメージがあったが、これは破滅型でどうも調和型というのもあるらしい.とにかく写実的で本人の実経験に基づいた内容だとか.今認め中のものも自力から当然私もので、反実在を当然取り入れているが.





輪廻でも転生でも永劫回帰でもサイクリック宇宙でも正法・像法・末法・法滅の繰り返しでもいいのだけれど、これらの場合に時間は一様に流れている一つなのか、空間は一つなのかと疑問に思うが、まずそれぞれ一つとしているだろうなと考える.





5000例も染色体異常があるという事実にはちょっと奇形に関して手に負えない気がする.複雑性とはいえ個人では無理という思いである.フォビアなんぞは心理的な忌避性で、アレルギーショック者は身体的忌避性-フォビアは身体にも使うか.忌避性は奇形的とも、時間と共に変化することも予想できる





ビッグリップだとすると当然フェルミ縮退も引き裂く予測になっているな





ビッグクランチとビッグバンの繰り返しなら、末法の時代が終わりまた新たな胎動期が始まるという仏教の考え方と遜色ない.







昔、そのころの回転アイデア時代の考えで、地球をすり抜けたニュートリノはどこへ向かうかでようやく思いついた.幾分あるいは多数・無数のニュートリノがブラックホールに捉えられているはずであると、一応ニュートリノの執着点には違いない.





VFTS 0の回転速度は時速0万㎞--記号のアイデアの基となった川原でのイメージに似ている星の存在があった.秒速㎞およそ、ジェットの高速に近い噴出速度には及ばないが、ジェットは回転はしていないはず.ほかにももっと高速回転している星がないとは言えない.





アルトーから来ているドゥルーズの器官なき身体は、無機的要素で宇宙無機物と同体化させる方が常識に適っているだろう.





木星の風は時速600㎞、液体水素や金属液体水素の内部に岩石があると推定の星で、放射能一杯の星ということから、量子的位相から量子に意識があるのなら、無機的一体感から木星の構造を感知して、地獄のイメージを構成するような意識を持てる構造に人はなっている可能性を考えた.宗教表現の要因と





南十字星と遭遇している時に、春の祭典や手塚治虫の火の鳥を思い浮かべたことがる.手塚治虫は鉄腕アトムやブラックジャックが代表作で、火の鳥は漫画空想物語としていたが、やはりきっかけはストラビンスキーの火の鳥だそう、信憑性葉どうかとは思うが.フェニックス伝説がそういえばあったな.





心理的うまくいったその対象に自らが陥っているという意図とまったく逆になっているあのT市での一方性に対する配慮が浮かんでしまった時を思い出す.対象は自らの心理世界ではなく、環境世界であるはずで働きかけがふつうであるはずなのに.





反交換顕著な人材は経験上、クレイジーで暴力的である.まさかそんなクレイジーな発言をする前提になかったので、それに接したらパワー圧力によって歪められてしまった形になってしまった.これを修正するためにその存在の記憶からの消去を狙っているのだが、不条理の矛盾なのでしつこく悩まされている





現実世界・社会・現実を認めないということは、現実の側からすればそのような存在を受け付けないということにもなる.--世界は思うような世界にはなかなかならないものだ.





終末が登場してまたまた筆が進まぬ.エントロピー最大の熱的死という考えは有限平衡で終わりと称しているようにしか思えず、なぜそれで終わりなんだ、視野の大きさにちょっと疑問を感じる.エントロピー最大はフルフィルだからのようである.それは・・・





荀子型人間が悟るなどという事は無いので(直感がそう示す)、そのアドバイスは余計なお世話にしかならず、アドバイスなんぞで権威感なんぞを満足させていないで、悟る努力をしろと不快な記憶にある言明者達に言わねばならないが、行方などは露知らずゆえにその発言を取り消せとあるXXにも言えず





強靭ワンパターン人間は拷問的存在にすぎないと思った、妖気的人間がそのパターンに当てはまる.タフで情熱的に突っ走って生きて、しかし知的に足りないロボット的な人間ゆえにだなと昔から認識している(考えて想定している)-また叙事的人間とも妖気的は異なる.





退行時間の保存という事も不快なことは明らかな、複合者の誤魔化しも覚えているな、そんな人物に遭遇がまた不快だが必然性もあるので、こんな人材に遭遇する必然性は全く思ったつもりもない、単なる拷問的存在で努力なしのうぬぼれ型人間などなんの価値もないのに.煩わしいものだ.





その昔、良寛のようにとかなんだか言われたことがあり、良寛という感触は意識の瓦解を齎すので、しかも気分悪く、助言のつもりでの人物は述べたのだろうが、不快すぎる.自己の悩みを転化したのかもしれない面もあり、自力の邪魔をしないで自分が良寛のようにだったかすればいいだろうに、不快である





現状は第3ステージのある項目に年間を当てはめることが適切にできる様な様相を示している.日単位だととてもじゃないが体力が持ちそうにもないので、時間間隔を拡げて見ている.実証記憶からはそれでも当てはまった記憶があるためである.





宗教は信仰・戒律遵守と引き換えに自己自身の生存過程に無責任になるような特徴を持つもの--とどうにもまず考慮せねばと





マナの夢を小学生の時に見たことがある.いまだにその現象に遭遇したことはない、これは実際に夢であるしかないか、白昼夢とは思わず予知夢であるはずと思っていた.それにしても申命記のほぼ引用とはマタイのそれとは知らなかった.思い出の柿の木の傍で、思想について考えていた、パンのみの話.






退行XXが陳腐なのは決まっていることにようやく、遅まきながら気が付く.なんとどうするか、そばを通るその映像が臆病を惹起させたことが長い時間をかけさせた.

2016-05-08

my ft 04302016

 
記憶にある不快な言明達はたかだか短絡・脊髄反射でいいのではないかと思っているところに、吹き出しも短絡・脊髄反射のようなものであると、全く他者になにもいえなくなるではないか.まあ暴言理不尽脊髄反射と吹き出しは意味合いがずいぶん異なるので.




 
生理変化は保存しないことから、ポテンシャルのあまりかエントロピーの影かといったところを想う.




 
硬いXYはハードであることは間違いない身体特質を持っている、その思考にも如実に現れている人材に辟易している、その人物は身体的特質から自らを考えたことはなさそう、とにかく考えに考えた生活を送った割には..そんなことはなく自らの現存在的硬さ・剛性に気が付いていたかな?




 
アイネ・クライネのXXにはムンクの思春期を重ねていた、今見ると確かに立ち昇る黒い影があった、なんとなくあったように思うがそんなことは気にせずにであったので、思春期はまずかったなと今にして思う.




 
白い巨塔第回のチューブに遭遇して見た.面白いが跡が続かずあらすじで終わる.TVを見た記憶はないが、書物想定で非常な苦痛を味わったことがあり、よく覚えている書物である.リメイク版は全くつまらず見る気はしないが、この同様な苦痛をNo.f時に覚えたことがありそれもよく覚えている.




 
そう思ってみると、思想の思想たるゆえんは、我が心石に匪ず転ず可からずなり・・や朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとかまだまだ例証はありそうだ.わが心は関係の本質にありと柏舟は述べてもよく、孔子は道とは一生をかけても悔いのないものであるように絶対的なものであると述べても差し支えない




 
まさか吉本隆明が思想の思想たるゆえんを理解できているとは全く思わなかったので、今考えるに理解していたかもしれない・もしくは肉薄していたと、どうも表現を見る限り肉薄と考えるのだが.個人的な秘匿感があって、Yは暴露しているような形になるなという思いもある.しかし対象差異をどのように?




 
思想の思想たるゆえんを人々は持っている可能性はあるが、それを自覚できるかというとまず難しいと思え、ほとんど理解できない・把握できない・到達できないものであるように思っているのだが・・




 
思想の思想たるゆえんを関係と称しているかなY,そうなるとゆえんは関係の本質になり、思想の思想たるゆえんはその人物にとっては、絶対的なものということはわかる-つまりそれが生きていることの証であり、その指針に沿って生きることであり、それを基準にしていいようなものであることは知っている




 
何やらよくわからんが、個人的には重要な気がする時間対称論、そもそも”ブラックホールのエントロピーは、時空の対称性から導き出せる”ことは知らず、ネーターの定理は部分的な印象が、にもかかわらずかなりの箇所で有効という『小さいものは大きいものより大きい』のNo.を当てはめる形のもの




 
人間と人間との関係におけるどうにもならない身体の有限性のことでは?




 
そのXXの弟に実時間を年戻されて、つまりその陳腐に思える弟は年前の存在で、思い出してみると年前の思考を強制主張(聞きたくないのに強調主張をした・強勢圧力で)して、何を言っているんだと今では思い出して、あの中学校の階の廊下を歩きながら-西洋の没落が浮かびまさかそんなことはと




 
幽玄が登場して個人的にはこれで頂点という感じである.玄妙とか玄妙・・・




 
中間存在は、その心理的深さ、認識能力、視野、精神年齢、絶望力、忍耐力・上昇度・依存度・などにおいて浅く・低く・狭く・低く・浅く・軽く・低く・高く・・そのような有限人間をまた中間存在と称する.ただし次世代か何世代かの後に変化の可能性はある.




 
笑いは人の生理あるいは心理が極端な緊張状態の持続に耐えられないから、その緩和のために存在していると現象学的に見る.真面目とか真剣とかの事態を笑って楽しく過ごす傾向の人は知らないのではないかとも思ってしまうことがある.




 
No.fにおける重むろな補則的なものは、好まないポアンカレ要素を含んだ形のもの解析.




 
未来対象として不明なものは不明が明瞭であるが、過去対象に対して不明なものはすでに明瞭であることに気が付くことに時間を要してしまう.この時間自体に結構なエネルギーを用いるのだ.なんと表するか言葉による表現化できないといつまでも不快な性向がありて




 
何十年も悩み考えたせいか、イメージ上はまだあまり芳しくない映像としてよく記憶している対象について、特異点で説明できることに、麻痺しすぎている記憶映像はまだ消えないが、ようやく過日思いついて、相変わらず現時点でわからないものはすでに過去において把握しているものであったという例を想う




 
全く力学系の非保存とかロルの定理とかなるほどと思う膾炙物を、悩んでいた思考の人々による既知の提出物への遭遇という無駄なエネルギーを使用したという埋没感.




 
ル・クレジオのように、後には無機物が残るだけとさらっとエスプリを効かせる仏人もいる.




 
無限遠点で平衡するという考え方はしたことがなかった記憶である、それで宇宙の熱的死とかのエントロピー最大を人々は考えるのか、その場合最大値は何時まで続く時間を有する?、なにか最大になって終わりでその先は考えないは、生理から来る考え方で、ホワイトホールにつながる考え方のようでもあり、




 
吸引不動点がコルニュの螺旋意識の興味に現れていたNo.tt.クロソイドの道路設計おいて吸引は価値があるように思えるが、マイシステム上価値があるかな?、直感自然がおもむろにそうさせたので何かもっと未知の価値設定ができないといけない.




 
力学的エネルギーの非保存対象が存在した時、それは常に生理時間の増長に対して、心理的にまといついてくるという単純簡明なことに気が付いた.




 
人々の無限遠で収束するということに関して苛立ちを覚えるのだが、摂動は収束・消失するものであると考えていた事を思い出してしまった.科学的な面と心理的な面の錯綜が成立してしまう.摂動は一応そういうものであると特別意識を当てた記憶もあるが




 
身体表現性障害の心身症--少しは興味ある.慢性疲労症候群などと昔に冗談的に述べていた頃から、今日では結構まともな疾症となっているらしい.演技の虚言性冗談行使時の論理捩じれを構築した時があって、それが結構影響している可能性がある.やはりそんな対象実在存在も問題あるのではないか
 
 
   

 
λ≻の場合のリヤ指数自体になってしまって、その時に考えていたδ関数意識というより、リヤプノフ指数を考えてしまったような、この関連から逆δを連想してその逆から構想空間でNo.意識構造にヒントを得た.これでは知識を無視したままでは進展しない結果を判断するな...ディラック・・・




 
ある時リアプノフ指数的なことを行使してしまった調子づきを持ったことがある.指数でλは正の値・上半平面・立面上での出来だった.修正の必要とその踏み込み理由がわからずちょっと追求すべき自己所為.これは閉鎖的グリーン関数的な面の反動意識はまずあることはまあそうだろうなと自覚はある.




 
最近、思弁的実在論が流行していると、今日知った.概観を一度眺めただけだが、考え方が似ているように思えた.ネットで流行しているのも面白い特性である、当然身体意識型人間には信じがたい・手に取ることができないものなので、何かといいたくなることだろうな.


 
それ以前に非線形的だろうと思っていたことが、ほぼ線形答えでいいと判明した時の面白くなさ、勢いのしょげり、何だよという思いが一年前にあったなと思い出して.
 
ローティーンの頃ラジオキットの組み立てをやって定型通りに部品をセットしていくとラジオ使用可能になったことがあり、その時にその通りにすれば事はなるというパターンはもうどうでもいいと思ってしまったことが、いまだに心理了解ものの実践・実行を妨げることになっているようだ.




 
内部の無意識化にしたもの、現在の持続中の悩みを自分の主体のように言われると不快でしょうがない、なんという無視か間抜け化のどちらかでやはり後者でしかないだろう.いや双方でもあるな.無意識を蒸し返して言われると、俗にいうサルの潜りのような人間で、人間よりサルに近いのだが、




 
仮に対米従属を止めると今度は対中ソ従属の可能性が高まるのではないか、果たして独立を全うできるかは日本人の依存体質を止めるか、遺伝子の個性ある面・ほとんど特異点的な民族を主張するかに持っていかないとだろう.




 
過去に未来を持ってこれないというパラドックスの逆で、未来の見える現実を未来において避けることができないというエスパ-を知っている.




 
ガウス曲率位相は不必要なのに人々が強制・強要して困る.その存在価値のために無理矢理不合理・理不尽要求をしてくるから何ともいやはや、どのみち愚かな存在だから遊んでいようという意識作用も働いた結果、結局閉鎖感を味わい苛立ち常にを醸して、またそれが当然だと思う要求者たちにも困ったもの




 
無限遠の消散はNo.に絡んできて、普通になんでもないことなのに、ガウス曲率的的判断位相で考えてしまっているからおかしくなる.最もどこかで対象XXを想起してそのように考えてしまった可能性が、いや中学生の時の顕微鏡の花粉を想起した時が原点であるな.




 
無限遠でブラウン運動は消散というときには、その消散する場がなくてはならない.そうなると消散は有限を強調しているようなものになる.この消散の意味が分かりかねるやや無責任な言い方で、消失するではない方だから仮に無限遠と称してるような形であると解釈.まあどちらも無限遠場は存在しているが
 

   

 
関係の本質は存在理由ではないのか、人が孤独になり自問自答するときに現れるのはその根拠だろう.存在理由ならそこに存在している人すべて持っているはずである.何しろそこに存在しているからである.存在根拠としてもよさそう.Yにとっては実在理由・実在根拠になるだろうが.




 
一般にルールというものはミクロな個人のみを対象としたものではないという発見というか、あまりにも当たり前のことに気が付く.ルールは共同的が一般である.
 

   

 
どうもここ一両日に気が付いたが、あるXXの母親がなぜか体内に巣くっているようなのである.あるXXには失敗で、その弟も非常まずい記憶のある形となり、総じて厄介すぎる悪魔的家庭に絡まる羽目になったものだという記憶がある.この母親は関係ないだろうになぜこんな不条理情態なのか参ったものだ

 
なぜ市民に希望なのか、どう見てもそのスケールは小さいのに、ただし明るい空間である.そう考えていると暗黒域を想起して、これを離そうとしたが離れず、そのことが漱石の明暗小論文につながったかのかも、今もそのパターンはある.一応地球にも昼と夜があってその色合いは明と暗、その他にも・だ.




 
普通の欲望の塊の人間が貨幣なき国家なき無神的人民になることができるか?.それならば精神的には仏教の世界がすでにそうである.とりあえず考えられるのは、その共産形態を構成することができるのは、現時点では聖人的人間のみの世界であるならば可能性があるとみている.




 
スピノザの神の決定論は責任転嫁のようにも思えてきたが、自己主体以外によって規定されるという考え方を親鸞から伺われるなどという文章を見ると、別にスピノザの神の決定論と同じではないかと、人神的なものになると封建制度や権力構造、宗教性と伝統などが出てくるので、自由からの恐れを齎すとか




 
超平面の一様性と相転移、乖離と多世界とか思いこんでいると、Sの猫の話は一様時空にこだわった話になる.当然のごとくこの地上とその延長である宇宙実在は、一様時空と人々は考えている.




 
”かってなくまたこれからもけしてありえないもの”は埴谷雄高の哲学的意地か単に哲学か唯一者とその所有にヒントを得たのか、それらは評論であって固有の精神構造から考え付いたものと見るのが正解だろう




 
とあることに不意に思い至りて修正を加えた、これは個人的に結構重要な事柄である.全くもう何年も過ぎ去っているにもかかわらず、思い至らず・いや考えて悩んだことはあったが、自然の時間をこれだけ要する運命的なものだったという結果論は、多くのケースで持っている.




 
映画音楽はなぜこんなに楽しいのか、特に画面と共にであると一層である、ドルーズ当たりに映画論があったが、映画とは何ぞやといわれても答えを持ってはいない.画像化した文章表現で理論より実践な内容ものは間違いないだろう.起承転結という懐かしい小学生の時に自然に悩み続けたものがNo.tnに




 
ゲーテの西東詩集の考え方はマイシステムと似ている、ゲーテだからその詩的直観で想像できたのかもしれない、まあ稚拙というかわかりやすいというかイージーというか、簡単に表現してしまっている.その点はまことに面白くもない.人相好みじゃないな.(翻訳からだが、原文もそうであると推定できる)




 
向こう年までの人類の文明進化・変化予想もなるほどと思うが、In the Year もまた黙示録で、モーツアルトのレクイエムも黙示録なのでレクイエム以上のものは作曲できなかっただろう.ノストラダムスも黙示録である.シャルダンも同じくその他終末論はすべて黙示録に係る




 
冗談が現実になるのは現実が遊戯・ホモルーデンスを要求している傾向にあると気が付く.娯楽やファンタジー映画・書物などはホモルーデンス的ではないかと・ついでに笑いもホモルーデンス的と気が付く.




 
観光のまなざしは自然と文化・混沌と秩序で、無数の過程の結果真理に到達と同様パターンでさほどの目新しさはない.ただし、自分は文化・文明人と思い込み自然人を軽蔑・蔑視する人間はまたいる.あるいは家父長的な縦秩序で横の自由な幸福などを不快に思う始末に悪い、エートスの低い人間もいる.




 
ジャイナにとって体内の微生物は生命体ではないのか、昔から疑問に思っている.自らの身体外に存在している生命体との分離ならわかるが-身体外にも無数の微生物は存在している-体内の微生物をどうにかジャイナでもできないのではないか、アポトーシスもそうだ.細胞増殖も問題とならないか・・




 
定数と均衡-仮想仕事の原理とXXと弁証法と・・・




 
初めて聞いた、スキナーが縁に関心があったとは、さてどのように捉えるか.昔は無縁の縁をフルに用いていた、今は個人的思考に偏心していてちょっとだけれど、その気配はまだまだあるはずで.




 
No.tsにこだわり過ぎたというより勇気のなさというか思考の限界がそうさせた記憶がある.それゆえに空白の時の流れが感じられないというまるでミステリアスな展開、小説のような現実である要素もあることは、それも考慮のうちになってしまうとしても差し支えないかな.




 
ほんとに全く障害でしかない脊髄反射反応・即物人間の暴力言明・あるいは嫉妬発言など不毛でしかないということに、歯止めのかからない節度しかない人間たちは動物に近く、また内部保存を模倣してしまう濁った鏡・不透明な色々味の悪い鏡などを見ても気分が悪くなるのは必定明らかなのに.




 
空間位置物象は何十年たってもそう変わらないが、時間は変化しているということに多少違和感を持つ、さりとて昔の風景が変わってしまうのもつまらない面はある.「夏草や兵どもが夢の跡」の時間変遷に寄せる想いはよいのだが、時間が過ぎていることは間違いないが、その過程がないという空白期間




 
古道に道崩れのところがあり、そこに昔から落石の名がついているところの頂点に佇んでで物思いに耽っている---(さすがにどうも文章を認めないといけない情況を加味して始めて見る冒頭の出だし構想文試み)---




 
大体小学生が量子を考えることに歯止めがかかったその心理はなぜなのか、周りの相対圧力を考慮してしまった.それでも数年後に黒体輻射的なものと、光子運動を考えてしまったことは確かなギフテッド的?と思える事柄.そうと時々ツイートする柿木の花咲き乱れる三叉路の目安のある石の近くで




 
今では記憶にあるとてもチャーミングな風景がある.そこへの道、葬送行進曲を思い浮かべた近くのカーブの風景で、客観か客体の言葉を思い浮かべ何か疎外感のようなものを覚えた記憶がある.これがNo.thhに寄与する進展のなさにつながっていたことを発見する.




 
「多世界の干渉性の喪失」という多世界解釈はわかる、これを方程式化するというのはなんというか、かなり困難、ただ喪失世界自体に多世界があるという解釈はできる.No.thi・No.tt・No.tth




 
なぜこんな自分にとっては不都合な心理形態が成立する出鱈目な倫理もない軽薄衝動体などに阻害されねばならないのかさっぱりわからず、主体の阻害要請者たちはなぜ逆になりたがるのか?、さっぱりわからず、自己認識に乱れを生じて非常に不快を過ごしている.対自認識を味わうのは私である他者ではない
 
自分がしている意図の対象は自分ではなく、意図を途中で止めようが止めまいが自由だろう.意図を模倣した存在は私ではない.何しろ私という個体は一つしか存在していないからである.私は私であり、模倣者ははあくまでも他人であり不透明な鏡を見るよなもので、まして私は意図の対象者なんかではない.




 
意図する対象は自分ではなく対象を意図しているのが自分である.その意図判断を途中でやめてもそれは諸々から来る自己判断である.他人は途中でやめた意図の模倣をしてしかもその意図の作成者である自己をその意図の対象と設定・思い込んだ形の現実・実際発言をいろいろいまだにされている

 
表参道でのコンプレックスに思い違いをしていたことに気が付く、いったい何十年無駄をしたことだろう、なぜかその他にもそのような回り道をする必要がない事柄が多いので、これはなぜなんだ、他者の精神年齢進展度合いの遅さがそうした圧力になっているとしか.




 
そこの川で泳いでいるのは鱒ではないか、楽しそうじゃないか、君は鱒ではないのになぜ楽しいとわかるんだ、では言い直して、センスあるじゃないか、君は鱒のようには泳げないだろう-しつこい名家の対話にセットしたシューベルトの鱒の昔の楽しき思いで.




 
マズローも孤独で悲劇的で未熟的な権力志向者などに同情すると疲れて意味がなくしょうがない、それ以外でもだが.疲弊して経済的には損失しか残らないもの、また甘えられてそこでもやはり損失でしかなくなる、またそこを狙われてやはり損失になる.それではどうにもならない.




 
ふと思い出した、昔に人間のタイプは、ファウスト・ドンファン・ハムレット・ドン・キホーテだったかな、4番目を忘れている.とにかく大別して四つのタイプであると、それで判断を少ししていた時期があった..




 
ある関係ないものと関係ないものを結び合わせる関係意識は深淵を介在させるか、あたかもXX&XYの関係のように--そうかNo.の難点はここにあったか.




 
功利主義は正規分布を機能・効率的に見た見方であるという判断ができる.全く最大多数の最大幸福は明らかに正規分布であることに気が付かなかったものだ.というより人々はいったい何を考えているのか、惑わしい過程を露呈されると無為な時間を過ごしてしまうものである.




 
ロルーズが個人は共同体や国家から自由という考え方で、サンデルはアリストテレス型の目的論(個人の自由は目的のために問題にならない)において、桎梏を排除した形の共通善を設ける形というわけだ.どっちもどっちで、ロルーズは芸術的視点、サンデルはカント的.芸術には共通善があると思う.




 
関係の本質は不変かもと想いついている.固有性はその人個人の不変なるもので、人間一般を通してみると、存在論的に人は持っていることを推定できる.




 
No.に関して「黒体を量子領域としたときそこのエネルギーは量子エネルギーになると仮想して..」と発見(自己文章だが失念記憶上)、小学生高学年の時の、あの柿木の花咲く花散る三叉路の小さすぎる小川の流れでの光子・ブラックホール・老子の道のころだから十分.




 
おっと経済面で閃いた.閉所形式のKの誘惑から一体何年経たことことだろう、最もハイティーンの日に考えたことが影響しているのだが.




 
オイラーのγの展開式やテータ関数の展開式を見るだけで苦手のワンパターンのうんざりさを覚えるが、遅かれ早かれ直面しそうな気がしている.大体周期そのものがワンパターンである.それもΘに考慮してあるのは当然なのだが.




 
となると『4が必要である』まで生きているかどうか不明になる.多分無理ではないかという思いがあり、ほんと遺書はドストエフスキーの倣いでほんの冗談なのに(冗談が本当になってしまうなぜかこの現実の不思議)、遺書みたいになるではないか、ある亡き作家にはバイブルとは言っておいたライフワーク




 
パターンを考えてもどうも納得いかないので、モチーフが周期というヒントから考えるが、オイラーのγあたりで、古典的定数は周期であるように考えてもということのような事態である.そうなるとやはり第三ステージとして古典的定数化でとりあえずということにしておくことも一つの手段である.




 
まあ単純に個人的限界に接している第二楽章・Θ・マイシステム・モニュメントなどというという同一表現記録の存在した事実なのである.

 
帰納は常に仮説になりうるので、ポパーの着眼点もいいものがある.ベーコンで頭がひりひりしたハイティーンの日々、政府機関的にもベーコンでは先がないと思ったが、不変的に帰納が作用して時間を過ごしている人々・科学者・数学者たちと、ポパーの存在はその頃は知らなった今はポパーにも批判展開ある




 
遺伝子・微生物にせよエンティテイ要素意識であることは間違いない、世の中哲学的にはまだまだ十分変わってはいない何十年後、夕暮れにミネルヴァのフクロウが飛んでも未来に対しては有効なのであるということ.




 
よく識者というかメンターが絶望すればよいというけれど、これはポテンシャルが擁護している場合に有用であって、エントロピー情態ではさほど意味がない.ベートーベンもポテンシャルが豊かであった場合の話であるはずである.




 
複雑性の体感は時が過ぎればわすれるかもしれない、心的記憶はそうではないはずで、それが有用になる.




 
せっぱつまり情況であると地震被災者とそう変わらない時間を持っているので、そんな人々は被災していなくても世の中には大勢いる




 
サルトルは傲慢さと見捨てられを味わっていたんだ、回想ならいいけれど最近のツイート内容はそのような様呈となりている.またそのように仕向けられた昔からは不快だが、何とも思わずなのである.




 
バイミメは独が進んでいて、日本は縦割り社会なので、フラット独立分断構造のハウスドルフ組織構造ゆえにらしい、粘菌の動きはどうなったか.独立しているなら横的には非可換で、縦的に不確定スラーを行うのが上司というわけだ.




 
そんなロボット・叙事的人間は、有機物発生以前の時間に生きているか、現在時間で成層圏を超えて酸素マスクなしで存在していろ--とか位を考えてしまう不愉快すぎる不快をXX&XY達から受け入ていて、未来の努力をしないで、この即物処理を行使したがる存在の問答無用の馬鹿らしさ.




 
逆になったり思い通りにならない以上責任は持たない、自己対象ではないもの責任を持とうとしても主体を発揮させないのでだめである.ゆえに何かあるとすれば逆になったり、主体を阻害した存在達に責任があり、加害者的なのであるのは自明なんだ.自己欺瞞で逃げていてもそれは許可しない.




 
科学理論はいまだ反証されていない仮説の総体-反証主義がどうもよくわからなくて、すでに膾炙となっている理論も仮説になってしまうのか、それは実体意識からは不愉快な気分になる.そもそも仮説という言葉自体反証可能性を含意しているではないか❓、同義反復延長のようなもの?




 
俗という言葉はいやーなイメージがあるなと小学生、それが数年後にイメージ的のそんな存在に遭遇してしまうという不都合さ、障害物になるという嫌悪対象は、嫌悪主体に抵抗してもそれは嫌悪主体を無視することにしかならない.別に好悪は自由だろう、自然意識を尊重したいものである.迷惑な不都合対象




 
世界が無から始まったも演繹的拡張・妄想・未定設定となり、根拠はない.まあそう決めつけるという矛盾的なものを受け入れるという宗教的考えを述べた人もいるが、・・そうなると太虚という考えは宗教性があるのかという思いが湧く.




 
モナドやエンティテイや原子命題はしらける.ループもパーコレーション的思考である.パターンはみなほぼ誰でも考え付くものである.--思惟の法則があると結局は面白くなくなるという考えとアルゴリズムとの錯綜があるかな.




 
ライプニッツのモナドの無機的、ホワイトヘッドのエンティテイは有機的で、対比すれば客観的と主観的.システム構想のころ、いずれも要素単位論でその思惟形式は当たり前すぎてなんら意味がない日常・限界・行き詰まり感を持っていた.この両者は当たり前すぎて面白くはない.TLPの原始命題も同じ.




 
脊髄反射言明だからデジャブにできた?.即物反応強迫性があるのではないか、確かに現実はそんなケースも多々だが、当人たちが即物反応的人間に偏っている存在であると、まず認識していないのでそれが義務・自然と思い込んでいるようである記憶からの判断.いわゆる動物的存在を欺瞞したがる人間多く




 
脊髄反射反応言明に対してそれを尊重・そもそも脊髄反射言明を尊重する考えはないのだ・してしまい非常にナンセンスな無駄を、それもまたそれらの言明はデジャブであり、それに気が付かなかったこともそうだが、デジャブである当人に述べるという言明者の認識能力にも困ったもの.

 
Kummer surfaceの映像を見て、エンブレムのデザイナーなどは参考にすればという考えが浮かぶ.カラビ・ヤウの複雑怪奇映像は芸術的かと思ったことも、今では何か違う・多分閉鎖性によると思われる.サルのしっぽも妙な具合で、アラベスクは双曲映像ではないかとも思ったりする.




 
あの時は次元でも困難で、4次元は高次元はというとI予想という名前が登場した今、数学の王道は代数多様体と昔から思っているが、今も年前とそう変わらないだろう、一般人に多様体思考をさせようと当てはめを考えていたのはまたその年前の話、無理なことを考えてもしょうがないと思った先ほど.




 
覚醒時≻入眠時≻夢形像の順で同心円を描く場合は空間単純表現で、夢形像を直後でも認識できるという関連と覚醒時内部の内部の夢形像を起きた時の覚醒時が認識できるそのつながりを第4種の何かにしないかとは思っている.ABC予想のように渡るもの.単に生きているから夢を起きて再現できるでは?




 
どのような意味づけをしたとしても、原生的疎外という観念が疎外であるとは不愉快・不快である.この叙事的感覚の権力的・覇者的視点が気に食わない体質者であることは今ではよくわかっているが、千駄木に行った時にはそんなことは露にも思わずだったな.無意識感覚・直感では認定していたかも.




 
考えなくてもいいのだが、しかし具体的表現を漸くした形になった.なんと具体的な権力構造を展開できたというかような単純さに頭脳作用が全く働かなった多大な時間.まあ離散分離をして具体者に任せるという抽象も大いにあるようであるが.




 
時間的過程における様々な試行錯誤の結果真理に到達したという時間路X軸を直交化して度回転してみると、真理は色々な具体作用を様々に含んだ形となるZ軸という縦構造になり、抽象化度合ごとに離散分離しているのではなく、その都度包含していると考えると、抽象思考が成立するではないか.



 
『過程が統御を内包する』--どうしてもそう考えざるを得なくなってしまった中学生の時の思考を前文に置いている.普通に人は統御が過程を内含すると思いたい、特にXYにはその傾向が強い・XXも権力志向的体質者はまたそう考えるが、このような考え方をしていると大いにそんな人間は邪魔になる.




 
定積分は有限明らかでそこには普通に責任あるが、積分範囲が±∞である不定積分の場合には、有限積分体は責任意識が希薄になる、諸行無常の如く.(この構造は『過程が統御を内包する』と同じになっていることは少し前までは当然の秘匿にしていたはずなのに、こんな考え方をしてしまう自己他者的)




 
問題は渋み的でもあるが、具体から具象へ抽象へと向かうヒエラルキー思考をどのように判断するかは、昔からそのまま何十年も止まっている.いわゆる官僚思考の位相である.単に凝縮・密度ハイ・稠密構造であるのだが.




 
リビドー情態にあると形式知を用いるのは困難である.たとえ人間はリビドーを理性に昇華できるとしても.経験者の直感の表意事実を渋みといい、それを意識していない直感判断を行使することは確かに有用である.




 
組織・会社という構造体が成立・現前している以上、それは有限体である.組織にはヒエラルキー構造が付随しているのは必然的で、いわゆる縦構造で、積分作用が働く.有限である以上その判断には未定直面が存在するとサイモンは申していた.普通にそれは当然と誰でも考え付くことなのだが、




 
意識における想像ができなくなるそれは均衡・エントロピー最大であってそこが有限値自体的なものになっている.果たしてそれ以上変化しないか、限界なのかそれはそう考えたくはないが、しかしそうとも思える.




 
『層状組織』に断層・割れ目がありそれが動く可能性があるという地質を今頃になって気にする.自己自身の内部から見ている、それとも内部存在が妨害して視野を狭めているかな、そんな気がしている.多いのである抑圧をかけてくるXXが自己の狭さから自由意識の妨害をしてくるXXが、

 
しかしYも半端ではなくしつこい・さすがに本当に考えたことは確か.精神か物質か決定していない-同じ考え方-とか埴谷はねえ埴谷はねえと-これは異なる、埴谷雄高なんぞなんでもない.あと永続革命はいいとか、永続革命って何?で革命が永続なんぞするわけがない-トロツキーの頭はいいが.記憶より




 
まさかこんな無意味な時間を過ごす羽目になるとはその頃は全く想像もしなかった.不都合に向かうその他色々な障害発言者たちもいて、それら発言は単なるハイエナも食べない嫉妬のようだがどうも判然としない.ただ頭が麻痺する理不尽であるが-そんな発言者は愚かと優越感を持つというカルマがある?




 

 
公共選択が新製品開拓分野にかかわっていないはずはない現行仕組みではありそうで、そのような経済事象は昔から推定上あり(例えばダラスで倒れた大統領の父親あたり)、今もそれはありその辺が最も影響力強いと感じる.




 
無償の行為視点(芸術的視点)からは経済が成立しなくてもいいかという構想も成立するが、これはさすがに極論だな.芸術家にとってはしかし経済は無い、ゆえに経済他力が成立するというケースも多くある.人々が芸術は役に立たないというのは、経済視点第一義的に見ているからである.




 
自力から親鸞の歎異抄には強制力を感じるという、最近の米国メラネシア宗教研究結果から、宗教は支配者の地位保存に有用してということと同じく、親鸞もおそらく他者支配のために本願・他力を述べたことはまず間違いないだろう、強制力を感じるのでそう思わざるを得ない.




 
埴谷の自力ですよというアドバイスは先刻承知すぎていることで、こんなアドバイスはいらない.全くろくなことを言わない作家・評論家たちである、単に邪魔しているだけに過ぎない有名税というメンツプライドからまさかとは思ったのだろう.ゆえに他者の剽窃・模倣を見るのは自力の阻害になり不快であり




 
常微分方程式があったな、やはりこれも複雑さを予感して、ただし非線形方程式は避けてはいなかった.ともかく交代形式で外積の場というこじつけをまず強引にしてみたが、納得のいくものではない.それでも通らせることができることを思いつくのに、ラマヌジャンが出現してくるというネットリンク




 
まあ昔から数学は代数学だと直感していたが避けていたことがあり、その複雑さ予感で.そういえば避けていたものといえば、類体・カラビの次元・フェルマーの定理・代数学・ペンローズ・・・あとなんだ、ここまで思い出した.これらは現実的世界に価値があるという帰結になる.




 
おもむろに単にシステム上似ているので象徴させたΘの論理と個人的に表現しているので、テータ関数とか聞くとΘ文字を連想しないわけにはいかない.幼き日のあの暑い夏の川べりで浮かべた、楕円形の超想像的時間速度回転のイメージがそこにはあってと多分思う.そもそもこの超高速回転は何の意味か?




 
ラマヌジャンの擬テータ関数・年ハーディへ・が年に手がかりで年に全体像の一つの公式が発見さる(フェルマーの定理はどうかなという代物だが・どうもそう思ってしまう小学生の時の勘違いがある-ノートの余白で十分・多くても・枚で足りると)




 
”エタールとは、陰函数定理が代数幾何学でも成り立つと仮定すれば、これを適用することができるという条件である。(しかし、実際には陰函数定理は成り立たない。-”これ昔の理知的存在に今では遅すぎるが、見せたい文章を発見した.全く評価する連中はどうしょうもなくまた、自己自身も謙抑しすぎで




 
宇宙ホテルの時代になったか、第二楽章は『星間宇宙に瞬く星々たち』があり、これも結論部位でもあるので(ただし恒星間を想定していて、地球は記憶の彼方にというニュアンスを設けてはいる)、近づいたなとは思う.スターウォーズやアバターなどは意味なき空想物語漫画だが経済価値があるという不快さ




 
先ほど起き抜けにスマホのTV番組から、chを見ていると、ラフはホロにとんでもないアイデアを思いついたといいながら、4の狂詩曲をか月あまりで書き上げたと述べていた.変奏は主メロディを少し変置した結果、ややハードメロディが抒情感覚抜群になったという話だった.示唆的である.




 
太陽の寿命が億年とするならば、今神的移動でクエーサーに位置しているとすると、すでに太陽は存在していないことになる.何しろほぼ億年経ているのでという相対性理論.
 

   

 
ホモロジーをポテンシャルのみで考えてしまう傾向に気が付き..問題は本質台と波面集合と特異スペクトル(は同一)という種でいいのかとあまりにも明晰すぎないかと考えすぎてしまう、先に進もうとする意識が強いとどうもそうなり、それで失敗したローティーン時代がある.




 
人生で避けえないもの・それは関係の本質になると思うので、この場合エートスになる.




 
雨の日の構造を見ていた山道小道の抑揚の先で、やはり幼き日に考えていた事柄にエートスがある.エートス・これはこれから先の人生・未来を決定してしまうとその時に避けたもの.今想うにヨーヨーマのカンタービレやトラークルの詩にはエートスたっぷりであり、それがいいと想っている時間となりて.




 
推定、雨は降っているが私は知らないように生きた音楽家にアマデウス・モーツァルトというのがいるとほぼ確信できる.
 

 
昔幼き日に、あの雨の日のC山道の小道に佇んで構造自体を見つめていた楽しい時に関連して、雨は降っているが私は知らないのムーアのパラドックを常に思い出す.構造を見ていると眼前の雨は透過することができると、様相認識論につながるのか.答えはまずこれだな.




 
ホモロジー・コホモロジーはNo.teの何気な文面ではないかと気が付いたが、面食らう考え方、全くポアンカレの拘束感覚が嫌いで・にもかかわらずポアンカレの業績には価値があるという苛立ち.


 
「知的怠慢ね」といった女子大生がいたが意味がわからず、性的面かな満足した馬鹿のことかな、多分前者だと思う..要するにもうこの時点で、結ぶ思考に共通性がない.







 

 
科学者の描く今世紀の未来に超伝導道路があった、この発想はなかったな.あと壁が一瞬でスクリーンに変わるというのは未来だったか、昔に考えてうまく想像ができず、電子写真とともに自己にマイナス点数を与えた形である.共同的には十分パスのはずだが、一言余計なことを述べたXXがいて意地を張り




 
ところがそんなA期的演技的性格者は、自己欺瞞たっぷりゆえか、他人が野蛮に見えるらしい.A期人間自体未発達の原始的人間なのに、欺瞞でそう思いたく無さを隠したがる本能があるのだろうな.




 
くだらない人間を擁護する形として忍耐しても全く何の意味もないただ無駄な時間を過ごす羽目になるだけという如実すぎる経験値

 
論理ロボットには悟りとかは考慮することは不可能か、あるXYが急に女なんてと発語したことがある.同性意識かあるいは女性意識か境界症候の突っ張りか理解できぬが、君の母親も女であるという考えをしていないような間抜けさ加減大の発言は頭脳を麻痺させ理解不可にさせる.まさか母親憎悪があった?




 
関係の本質とは死を意味するタナトス的面か生理有限時間・その凝縮時間と思ってもそう違いはないだろう.悟りのための修行という宗教の伝統が日本にはあるのに、欲望的存在にこだわりすぎていたよと思える存在に、悟りとは?という質問をしてみたらよかったな.今はもう不可能ではある.

 
人間の生に存在論的に組み込まれているものに、生理時間有限がある.




 
昔、その視野は小さいけれど市民が希望になると思ったときに、それに付随して暗黒が離れない形で浮かんだ.これ実存の明暗や深淵・虚空のパターンと同じと気がついて、普通にカルマの人間は誰でも明暗を持っているのではないかとしてもよさそうだという帰結が生じた.
 
またついでに源氏物語もどうも内容は趣味ではないが、帖のタイトルのそこかしこの雰囲気はよい.それより「とはずがたり」を眺めてこれはいいと思った.解説には4歳から歳までの回想とあり、歳で出産とはいかに.そうかローティーンの物語でロリータかとちょっと思ったのを覆されて・・

 
Yは人は思想の思想たるゆえんはすべての人間が持っているという言い方をしているが、すべての人間は一様な固有性を持ってはいないので、普遍的に・存在論的組み込みであってもいいけれど・持っていていいのだけれど、個性がある・個性を設定できるように先天的差異があるとみる.




 
Yの関係の本質とは主体的行動・行為・判断のことではと思いチェックして見ると、やはり思想の思想たるゆえんのような気がする.Yにおいて思想の思想たるゆえんを把握できたと考えることが不快なのだが、表現力あるいは認識力の少し欠如感があるな.それで表現にはったりを覚えてしまう.


 
何かニッチがないかと考えてもアイデアが浮かばず、その後ソニーが電子ブックのいいのを早く出さないかと思ったりしたが、素直に出版関係を考えるべきだった.全く豪も思ったことはない.中学生の時に作家としては流だけれど、出版社としては成功している人物にやや不快感を覚えたことが記憶に?




 
問題すぎる記憶の烏帽子-鷲羽間で何も思い出さなかった.ひょっとして鷲羽-双六の間だったか?.こじれすぎていまだにこじれてる心理記憶.まあ相手は平穏な悩みも何もないのだろうと推定.




 
錐や正則はその定義が基本と、全く根本的に定義を把握していない、ただ無意識直感を使うのみ、それでもなぜか口から言葉が出てきて、大雑把ながら正当であるようだ-他者がそれに理知で懇切に展開するといった閉口さをよく覚えている.それも気にすることもないな.




 
実軸で三角形だと単に点にしかならないので楔まで出てくるとかなり曲的に考察、-にも無数の値があるのにとは思うが、象限のアナロジーなのか.ともかく単に点ではしょうがないないだろうと思うと連続になって、ハウスドルフはどうかなになる.




 
風が強い、春の嵐なる書物を昔読んだような記憶を思い出す.入院生活が長かったので中学年生、その時にちょっとしたことを思い浮かべてしまって、それをNo.Oに連用してある.
 

   

 
設定意図は明白空間の虚像=ある不明空間の実像の意味で用いている.結果不明空間・X空間のボキャを剽窃するXXが全く登場しないことに、高々身体的意識の剽窃関連などどうでもいいので、このX空間の言語要請なんだが..その意味では不明意図になってはいるが、別に隠すつもりはなかったが色々.




 
接・余接とラグランジュ・ハミルトンの関係から、ある空間の実像に対してある空間の虚像とはある空間の実像ではないことを意味している設定に関連付ける.おもむろに表現化したある空間に対して結構乱れる悩みをして、失敗だったかなとおもうけれど、単なる比喩的に用いただけであるので.




 
偏微分方程式とエンタングルメントについてだれかそのうちに述べるだろう、すでに述べている?としたら、せっかくサンクが埋まった形であると思ったのにがっかりであるということになるが、実際にどうなっているのか?.それでもそのくらいの意味があると直感を持った.




 
" 年・ Hans Lewy による解を持たない線形偏微分方程式の発見"この記述から、若き日に思いつた4種の明瞭な特性解のある方程式は、変数が4個ある偏微分方程式なら可能ではないかと思いついた.もしそうであるならば、なんという単純な解答・帰結だろうと




 
不確定性原理でカオス理論を説明できる可能性を直感した.果たして?




 
時空性は転がりすぎている.ts




 
結局心理想像力にシステムのタームを用いることになってしまったが、そのタームに当たり前すぎる認識を構築したくなかった・できなかった形のある昔の夏の暑い日.進展したが当たり前・普通すぎる要件になってしまいいいのかという思いで躊躇している.被覆で取り繕っておこう.




 
距離が存在すれば時間の影は設定できる.時間があれば一応距離を設定できる.No.ts




 
基数における長い直線が交わるようなものというのもきついな、フレアー点くらいでいいのでないか、そうしたほうが自然であるがだ...




 
グロタンディークの名前は昔に知ってもよかったはずなのに聞いたみたこともなかったけれど、ここで食い込んでいた気分を思い出せた.(こんな表現をすると後に厄介なことになるという懸念が浮かんできた記述後今を少し修正して、思いつくではなく思い出せたで緩和して)




 
無限小は例えば射影空間を一点に縮めたような意識を昔から持っている.それより古代のリッチ・フローの逆向きとか.無限小意識に対して時間を一瞬に思えば、縮めは成立するので、Gの多様体一点化とか方向視点差異を排除すれば、なんでもないことだった..




 
あまりにも普通に考えていた昔の視点からは・ニュートン空間でのことのような・相対性理論は男女関係に見えてくる.パリティの破れは不和とか.




 
集合論もこじつけといえばこじつけ気味にも思えるが、選択公理もそのようである.P≠NPがなんとなく片付いたような気分が発生したが、射影空間が広がってしまった.




 
ミンコフスキーの世界線の初見ではそんなものかという思いをした昔を思いだして、それが今では悩みの種になってしまっている点について可能性がこじつけ気味に閃く.さっぱり手がかりがなかった点から少し変化した妥協性を加味してもよさそうなことになって、これはまた自己自由の妨げにもなりそうだが




 
不動点・BMが消散するから、ロバの平行線は無限遠で交わるという不快な考え方を、使えると閃いた.




 
相対性理論が正しければ、時間は至る所で異なるので、時間は多様性を持っているならば、平等は絶対空間的考え方にならないか.相対論的には時間変換則は同じでも時間自体は異なっている・空間も同じで相対論的に平等は成立しない事象となる.




 
ダークマターかブラックホール的なものを体感的位相に持ってきてもしょうがない.リアルとバーチャルといって、リアルが精神的現実な人もいる.




 
対他と対自の差異がある.No.




 
発散と圧力は使いようで成立する.No.




 
藤山一郎を知らないとは歌手なのか若き?XX、それでは巷間いわれるように今の歌唱力は落ちているという示唆は事実だろうと推定できる.歌がうまいとか歌唱力があるとかなんだかわからなくなっている心性なのだけれど、フィッシャー=ディースカウの冬の旅はいいを思い出した.




 
αの偏微分でその世界と抽象する汎関数の関係は?、∂αはH定理とエルゴード関与傾向で、官僚システムは汎関数を意識せねばならないマクロ性、虚無と諸行無常関係などの解析・分析をまあだれか行っているだろう.




 
”創造的なものが見えないのは--過去の世界の虜囚となる”エンデはいみじくも言ってやがるな.そうは申されても実際にどんな対処を思いつかない、ある意味幸福な時間という感性.実在しているXX達の遭遇関係の中で見る記号システム論がそのようにさせるが、αに遠慮しすぎた若き日々が続いて・・・




 
そんなことが現実の圧力・状況で必然・自然にそうなるからαに関して何もしないという形になってしまう.仙人ではなく、隠者的な位相もないこともないからそう思ってしまうかな.問題は無自覚で熱烈に無知を生きねばならない人が多すぎるゆえにということにある.まあそれに巻き込まれ形という遅蒔き




 
α構想で覚えているのは、・家父長制について、・乞食にも愛を・・・まで構想したが全然手を付けていない.特にの項目は反貧困ネットワークや炊き出し・対ホームレスとかやっている人がいるというように、他の人が行うことが歴然的なことしか構想していないので、別に騒ぐこともないだろうと




 
しかし軌道に相変わらず乗らない点が問題だ.αの境界と虚無としらけと無意味な無味乾燥な感情と、αの錯綜関係による現実の巻き込みは記号メソッド内容で十分説得力あるはずなのに、無理解者に落ち込んでしまう体たらく、この束縛力対処を何とかしないとである.無意味な圧力が強すぎる現実生活関係




 
射影構造で現状を見るとどうしても虚無が登場する.道理でA期や叙事的色彩がまだまだ噴出出現するわけだ.現象把握は、考えるべきなのだろうけれ、歳の時に虚無を保留してから何十年、結局それを使うべきだったという、ほとんど避けているものが現実になってしまうとはどうにもまずかった形である




 
なぜ紫がωなのか--見者という他人であるわたしは、境界症候群時間に調子づいた詩を表したものだった.--セルバンテスのドン・キホーテのように夢を見ていたなる弁明をランボーは述べてはいないな.




 
一つの領域に対して全体把握をしないとという演繹思考、演繹体にも先天的や中間存在的とか領域面積・体積把握能力に差異があり、あと個性志向も差異があると-結果仕事の種類も多種ある--これ自体は多様性であることは歴然としている.




 
普通の人では節度や寸止め・衝迫力などは使えない、カルマ豊かで達人ではないからである.何しろ自然がそのように赴かせるが理由で、精神力を鍛えようとはしないものだからである.社会の圧力があると鍛えるが.




 
δ捻じれ・捩じれの構想が浮かぶ.捩じれか..そういえばそうだ、厄介といえば厄介、螺旋変容事態といえばしょうがないが.それは境界内外で普通のパターンなのに現象差異空間ではなかなか思いつかない.




 
認知科学の帰結は思惟の法則のためにありそう、人間であるならばそれは楽だけれどつまらないと思うはずである.実際にそう思った時間がある.現実は認知科学が進展している.指示言語作用が強すぎて無味乾燥な対象だが、当事者達は感情ポテンシャルのゆとりを持ちながら研究しているだろう.




 
皮肉は虚無の前座か友達であり、懐疑は猜疑の友達か皮肉の仲間でもありそう.純粋法学を浮かべたときに皮肉という言葉も追随させた記憶がある.犬儒とは後に知った言葉.




 
あるXXに対して子供を産んでも意味がないと思っているそのXXは今は子持ちである.この辺で意図が逆になっているのと位相が逆になっているという不自然さを想う.はたと思えば意味がない生がこの現実は有効なのか、これはタナトス・悪魔的な意向に沿っている.あの俗物XXも悪魔のようにしつこいと




 
オッカムにせよラッセルにせよその理屈付けは論理整合化だろうが、観念対象と空想対象を最初から判別できるものという前提に立脚しているようにみえる.ラッセルは絶対空間かとも思ったが、記述中に変な感じがして、どうやら英国伝統意識によるようだ.




 
記号はNo.4にどうしても入る.虚無をその詭弁色彩空間域と認めねばもう時間的にありえなくなる.代の体育館から時が過ぎ去り手である.通時的記号と虚無の認知関係を想定できるのだがどうだろう.




 
ヤスパースはまずいな、サルトルのボットは盛んに実存はヒューマニズム喧伝しているがヒューマニズムならワーズワースやヘルダーリンに感じ、怒りの葡萄や老人と海はどうかと考えて、合衆国は国歌のもとにまとまる多様性があったと気が付く.




 
自由なら昔から持っているが、他者がその自由を邪魔してくることが多く、一段自己レベルを下げる羽目になって、自己自身の思考位相を自己自身で追いかけるというなんというか、無知である他者に引きずり込まれているか、合わせてしまっているかの意味なきつまらない位相である.




   
なんか頭が理性がさえず、気持ち悪いと思うXX達のしつこい束縛に陋劣化を余儀なくされる形としか言いようがない.そんな対象、XXに限らずXYに責任意識を持つように考えても、さほどの責任能力は無いし、無理に要請すると何をするかわかったものではなく、危険要素がありそれもままならぬいら立ち




 
権力の作用を否定・超克・無視しえなかった小学生時、紛争理論なる単純さには明快さがあるが、なんというか当たり前すぎるきらいが付きまとう.現象学も似たようなもので、単純皮相感は否めないはずだったが、ある時エポケー戯れをしてしまい、愚かな心理内部を作成した羽目に、最も根源性直接であった




 
DNAオートマトンなる考えを浮かべてしまった.これでは人体物理的思考になってしまう.ゲノムゲノムと解析はあのころショウジョウバエのサンタフェのころ野田線大宮駅の改札口の朝.ショウジョウバエはモーガンがC初めから用いていた歴史があり、DNA発見が契機となってまた加速したハエと




 
記号といえばJREは山手線の駅に記号を設定とか、また無味乾燥が増えるが簡略便利性もないこともない.パースとかその付近からの知識で味わい設定量を確保しないとまたつまらずな生活感性になってしまう思いもある.ところがこの辺の問題はNo.4なんだが頭が動かない..




 
弧空間の問題がナッシュ予想で、『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』はこの領域を対象としていることを今知った.ナッシュといえば記号的なつまらないゲームの理論的なほかに何かやっているのは知っていたが、それも今知ることになった.




 
シンギュラリティがなくなるのは面白くないという性向があって、特異点解消定理にはいら立ちを常に覚える.『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』-直感でそうしたためてあることにもよるかな.




 
小学生の時に同級生・不都合な悪戯とは思わずにしてしまった・の家に何の理由か行ったときに、その名前がヒントになったのか、励起という言葉を思いついて、シビアさとしびれる感触を味わったことがある.今では人工的な光励起相転移とか




 
結論・結果が出なくても、またそれらを必要としないところでも、無理矢理に結果化を行うという不快な束縛力を発揮する存在でもある.特にその存在が中間的な場合や無自覚な場合は世界を狭くする才能しか持ってはいない(最もその狭くするにもさほど意味はない中途範囲でしかない).




 
P≠NPは結果判断とのことなのか、昔から出た結果を見ると判断が容易であるという性向を持つ存在に女性・XXというのがあるとは理解している及び設定している.直感ではマタイ伝に登場するユダという存在もその傾向を持っている認識である.




 
ザクロの木のある裏庭・池のほとりで浮かべた空孔は、断層撮影に用いられている形となっている.Psは水素のおよそ/の質量とは・・、幼き日のあの無花果の愛すべき形態のそばでの話でもある.




 
No.niダークマター空間で--なる文言もいいな




 
No.の難点に関して対称性の破れを導入するのも悪くないなと思い始める.そうなるとNo.に超新星なども入れて差し支えないことになる.




 
対称性と対称性の破れでできている人体、肺・眼・耳・両手両足・腎臓などは対称性、心臓・肝臓・膵臓など対称性が破れている.これにミトコンドリアの畳み込み(おそらく正解だろう)などが加わって、もうこれだけで難解な人体構造.No.&No.&No.に関連して




 
特性値の判断がつかないことから、一つの方程式からまずどう見ても一致しないと思える4種の既約方程式的なものが解になる方程式は存在するのかと考えたこと・見えたことが昔にあり、なんとなく楽しみで数学成果なんぞを眺めている節もある.




 
その弟あるいはその母親に引っ掻き回された感をいま強くしている.無駄でナンセンスな行う必要のない犠牲を強いられたようなもので、責任はその弟にあると設定するといいかな.でも演技的性格の偽善快楽にどっぷり浸って、陰謀的パリサイ人のようなもので全くつまらないものなのだが.




 
だましたのではなく、近くまで行って気分が変わったというだけのは話に、なぜか不快なルサンチマンを持ってきた存在も記憶に不愉快すぎて、あるいは他の面から言えばある存在が念頭にあり実際に会ってみてからということなのだが、これは非常なミス・間違いで全くその弟ゆえにどうもこうなったようで.




 
”G に値をとる定値関数の芽の層”ん?、定数・定値--まさかのある存在は定値人間か、イメージは全くそうではなく考え難き候なりだったが、ただ心理映像では間違いなくそうなることは見ていた.引用文から急に閃いた.では仮設設定が異なることになる.人々が誤解や無茶苦茶した対象のことである




 
何だコンプライアンスと黒人バス事象が顕著な例で、それから数十年後、その影響が日本にもというポリティカル・コレクトネスの波及によるものであるなと、そんなこともすっかり忘れていた.個人的には米国のPCなどより、日本古来の道徳倫理意識でいいではないかという思いがあり.




 
資本主義とプロレタリアの混融した何かになるのが弁証的止揚ではと一両日浮かんできている.
 

   

 
証明-数学証明・不在証明・形式証明・実感証明・・・、いろいろある.アリバイと形式証明は必ずしも一致せず、形式証明と実感証明も必ずしも一致はしない.
公式証明と疑似証明も一致しないものが多くある.一般に疑似証明はおおよそ一致しないのだが、空想証明や演技証明があれば一致する場合もある




 
この世には無駄な存在があって、それらの同調圧力的なものがあると思うと、その寄与があるかも.しかし遺伝子には無駄はないと思えるので、この無駄という判断はどこから来るか、構造価値か美的判断とか思うけれど、決定的ではないがそんな意向はある.遺伝子のみで人間が決定されるわけでもないとも.




 
たとえ--であたっとしても疲れが予測されるので、不毛になりまた不毛を肯定する思考の強制力はその対象ゆえにである.そんな存在であるとは設定していず、愚かにも後に気が付くという無駄をなぜ、この現実が存在させるのかその意図がわからずと.




 
自縄自縛XXに対して位相を持つと考えること自体に自縄の思考をする羽目になり、自己主体の本来性を歪めたことに対して、その考察に大いに悩むことになった.それ自体はナンセンスな無駄なだが意味づけをしてしまう形、愚かしすぎる.つまり対象選定がまずいことは明らかだが、その束縛力は強すぎ.




 
形成体の構造は不明というのは現在でもそうなのか?、充実した幼きアイデアの日々の事実と現在の発生学戦線の事態比較をするものであるが、思考が所で止まり、胚というまさに灰白色イメージのままでしか、ある程度思索をこれ以上しないと思ったような記憶もある・・・




 
実証実行実際の区別がつかなかった帰り道で、ふと道路わきの杉林にある篠の根は複雑な地下茎を持っているはずであることは知っていたので、これがのちにドゥルーズの根茎・リゾーム意識につながる.根茎の予期?




 
BSカードは推定天候不順により調子悪くなるという代物とはこれ如何に.なお参照から、重力波領域に電磁波は役に立たないと知った.




 
最近になって、自己対象で考えなくてはならないものが多少増えてきた、単純に難解な対象であるので厄介だなという思いはしている.空白期間中に他人の成果を期待してそれを用いる・それらを参考にするという意図だったのだが、参照以上に自己必然ものが発生するとは念頭になかったミスインテンション.




 
均衡と仮想仕事・仕事原理があったような対象から外れすぎた記憶があるな.均衡で、記憶からあるXXが急浮上した.定義と均衡には関連が彼女存在からいえそうだ.




 
どうもフラット上の現象だろうと垂直・縦・組織的構造だろうと、:の法則は大小をカバーして存立しているように思えるので、フラクタル相似形を:から持ってくることができそうである.:4でもある.世界がそうなっていて、またそうであるとするならば世界はつまらないものになる.




 
ヴェイユの人は不幸にならないと神を認識しないという考え方を特徴的と述べたらしい存在は何を考えているのか、とにかく神様お願いという事態はヴェイユの不幸絶望的状況であるし、この世に神も仏もいないのかといった事態を人々はよくわかり、なおかつEU歴史上有名なヨブ記という不幸圧力物語がある




 
日本人の天という考え方・ほぼ生得的に備わっていると思われる・は、ほぼ神という考えと同一意義を持っていると思う.天の声とか天罰とかを神の声と神の罰・神罰と考えると、納得・了解・諦観・流すというような傾向を日本人は持っていると思えば、天教なる宗教があってもよさそうである.




 
宗教性は人間存在自体が持っているものであると思うので、神をなだめる犠牲とか道徳力によるカムフラージュとか権力者による支配手段とかは後に発生したものと考える.




 
お気に入りのBE凝縮は有効だった.




 
ここ最近の思考から、ほぼほとんどの人間は権威を好むと帰結気味である.




 
何しろ一生叙事性を超えることはできないという直覚のために.親鸞がいわんや悪人おやと述べても、その無自覚者が他力で阿弥陀に依存しても、依存能力を発揮しているだけで、その当人・個人・個体としての存在自体は無知のままであり、親鸞の阿弥陀意識化はカムフラージュであるに過ぎないという考えが




 
相変わらず拘束窮屈表現協調存在が現れてくるな、実践秩序維持のためにだけれど、どうにも受容できる余地がない・当たり前すぎることを行使することにしらけすぎる心性を持っていることにもより、また自己思考の適用になっていない現実を認めないという傲岸さより・さほど認めては来なかった点があり-




 
:の経験則を考えるとホッブスの万人の闘争は成立しない.




 
アルファタッチへの趣を意図したが最近ではまた元に戻って・無理にそんな傾向を持たないで自己流になってきてしまっているが、要素はあり、思うに憲法から町内会規則まで、ルールが大小カバー域を違えて多層に絡み合っているという図式が当然浮かぶ.スケーリングの例がもうそこにすでに存在している.

a virtual affine space is not a affine space.

 
虚像は英語でvirtual imageでいいのか、virtualには名目上そうではないが、事実上の・実質上の・実際の・実際上のとかの意味合いがあるそうだ.小学生の時に、実際と実行と実証とかの区別がつかずどのような表現を取ったらいいのか悩んだことがある.virtualはいい言葉--




 
まあ自己認識・分析で女はダメなどと思える存在は優秀な女性には違いないのだけれど.私が悪い・完璧に関して欠落があるゆえに・のではないかという女性は優秀である.
 

   

 
どこで自己に自分自身で何かの作用を齎したようでもあるが、陋劣=見た目直感で肉感が気持ち悪い存在に、その偽善という欺瞞のためにエネルギー浪費・吸収されたようなことがままあり、どうもこの辺は阻害になっている.こんなXXはダメなのにダメと認識しない愚かさ達に束縛の憂き目を持つ羽目故か?




 
未然形なものは世にいくらでもある.不条理・理不尽・矛盾(大昔の盾と矛の話)など、カフカが強調しなくても昔から普通に存在している(その存在自体は不快だが)と推定でき、思想流行上の流れの中で出現した存在だけではないか.




 
その後には肺病かイデッシュ・シオニストか実存主義者かで中途半端明らかな作家がなぜそんなに価値があるのか著名なのかわからない、写真を見る限り聡明にみえ、翻訳文章も精密的な細かさを持ってはいるが、糞詰まり中途半端で何を言いたいのかわからず、不快な作家である.




 
男が悪い?-くだらなすぎる思い込み・無理解・誤解・歪めあてはめ・馬鹿馬鹿しくも無駄な演技要請・過ぎ去った過程の位置による蒸し返し専売特許あるいはサル?・--などを受けるとXXが悪いとしか思いようがない事態になる.




 
昔カフカを読むといいですよとおよそ覚えているか月くらいしつこく申していたXXがいた、誰かと誤解して・一瞬で把握できなかった自分に対して?、どうでもいいと思っているのに、発語しなかったが内心で、俺はカフカだ、カフカがカフカを読もうと自由だとそんな演技をしたために調子の狂う羽目に

干渉の顕著な例では演技的性格者のそれが快楽ゆえに変更に対して抵抗するところに向けることができる.最も変更自体演技としてしか受け取らないはずで、気にすることもないはずなんだが、快楽の誘惑に人間は抵抗することは難しい.(演技していることにすら気が付かなくなってしまった存在もいると-)




 
無限遠点での挙動がわからない場合自然に任すとするが、人々は無限遠において減衰するか発散するかで考えるようだ.まあ中間を考えないということも考えられないが、さてブラウン運動に対してどうするか.挙動がわからない場合には、無限大に発散というおよそありえない方程式上の話傾向ではある.




 
基礎の設定もかんがえていたな、基礎がハイレベルというか限界思考点・臨海思考レベルとしてあるそのときの日々.やはり時が過ぎれば、エントロピーが変化するので、過程要素がいろいろ出現して、進展の方向へ向かわせることはある.それも潜在意識に置いてあったような気がするという次第だが.





 
例の川面に反射する午後の陽光をみながら、第二楽章でセロトニンを味わいながら散歩していたころにしたためた、まさかの制御『間脳の両耳から煮え切らない様』という、文章が作用しているか.なぜこんな文章を描いたのかわからず、これによってだとしたら修正の必要あるか.




 
幼き日の坂道で、XXFのしつこさに妥協をした記憶がある.本当は嫌いなのに、全く妙な違和感を齎す生理感性体質者であることで、長じて現実になり相変わらずいつまでも悩ますとは、研究者は悩まず物質的に複合粒子研究などをしているだけという呑気そうに思える事態を想定するものである.




 
またXXFの存在も不快すぎて、XYF&XXFの感性はどうなっているのか、まあ不快を感じているかもしれないな.わざわざ縮退孤独になんぞ社会的になる必要もないと思うのだが、準位軌道だから必然的に縦構造を持ってしまうF人間の権力意識の強情さには辟易しすぎである.巻き込みも困ったもの




 
混合モットや相分離はそれ自体でも多分社会構造成立数あると不快だろうけれど、ここでは複合粒子の場合で、不快でしょうがない.XYFがXYBに対して同じを要求するときなどは現実温度では真に不快で、今もインベーダー的に邪魔で排除したい無駄エネルギーを用いる羽目に.




 
エフィモフ状態とC∞を考えてしまう.




 
その内部での変化に対してなぜそのように傲慢な心性を持つことができるのか、むしろどうでもよく単に利用するだけの心理がありありとうかがえて馬鹿馬鹿しいことこの上ないという代物である.それはともかくとして、エールのリンダのようなひりひり心理感情を齎す対象はまず集中だがそんな時間無く




 
”適当な意味で、すべての古典的定数は周期になる”はっ?.周期かよここまでくるとようやくというかなんだかわからんが、No.*を登場させねばと思いつく.そうなるとワンパターンの不快XX人間達とかソリトンとかどうしましょうという話になってきた・・・.気が付かなかったな、答は出ていた形




 
なんだかんだ人々は考えているので・・クォーク星があるのなら、クォークコンピュータやクォーク顕微鏡があっても、もっと飛躍するとこの宇宙はクォークの内部であるとも想定を働かせることができる.




 
ブラウン運動は昔に不動点から消散すると答が出ていた?!のを最近に知ったのだが、それが問題だったことに気が付いた.消散とはなにか?、薄く消えてしまう溶けて存在が不明になるような意味--、同化してそれが判別できなくなる事態だ、さてどうするか、東洋思想的に自然と同化するでまずは対処と




 
”:地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”これがうまく想像できない.まったく創世記の作者も淵を出してくるから、注思考しなければならなくなる.神の霊は闇の内側・内部存在として設定か?




 
悩んだ市場原理の壁と昔の公共政策の限界意識とその他(市民の希望に暗黒が憑くとか)に関連して、どうにも深淵志向思考の必要性を感じている.時間遺伝子による夜をどのようにとらえるか、植物のエフェメラルは時間幅だが、人の場合はどうなのか.飛躍すれば背景放射も関連してくるだろう.




 
幼き日よ、見上げる真昼の陽光に中に、見える透明鮮やかなブルーよ、クロノスが久遠を齎して---時間遺伝子を人は複数以上を持っているとは刺激剤すぎる---




 
扇とひよことフレームを結び付けるのはトーリックではなく、ウェーブレット・フレームではないかと思う幼き思い出、ではひよこはどうなるのか?




 
記憶に残っている不快な言明は、無視されないためにその発語をしたという、迷惑な絡まり・しつこさにならないのだが、そんな考えが浮かぶ.別にいらないのだが、煩わしい阻害と侵害と白けを合わせ持ち、単なる束縛で足を引っ張る成立している自由の邪魔でしかない.繰り返し蒸し返ってくる言明には参る




 
メモ:水素結合・超分子・DDS・素励起・マグネタイト




 
絶対温度から宇宙を黒体輻射とすると、億個?以上?ある星は、温度的に遠い彼方にある高温物質である想像がある、暗黒空間で遠い彼方にある明るい点を目指す・見えるなる心理映像は、このう宇宙黒体輻射単体星ケースにも似て




 
メモ.メタセシスとヒルベルト




 
なんか先ほどから条解釈を試みる気分に、解釈憲法条の第一項目の文章は覇者型人間が文章を描いたか、もしくは覇者型対象的文章のニュアンスがあるな、少し気になる.項目は明らかに単純すぎる文章で省略というか極端で、思考盲力があっても理解できる文章になっている.




 
笑いは人類最大の発明と誰か行ったらしい、笑いは緊張持続の緩和以外にないというのが認識.しかし笑いにも多様性があって、最大というには語弊があるものもある.喜びは人類最大の発明くらいなら行ってもいいような気もするが、笑いは反射で身体緩和・融和方面ではないか、忘却への示唆という面もある




 
不思議な気分になる、幼きというか発展的時間の距離感覚が、今定性定量時間となった視点からは、ずいぶん記憶印象が異なって、距離が近くに見えすぎて、麗しき記憶イメージが損なわれるという事態に..それはそれで面白くはないが、幼き記憶に感情も記憶しているのでそれを楽しくたしなんでいる.




 
ソリトンもワンパターンには違いない.




 
ダークマターの多様性をまずは設定というか、人の心理・ひいては個人的心理経験上そうしたいのである.ダークマターと人の心理構造の類似?!、個の念頭心理側概念的なものの内の一つにある意味=現状妥協点の設定の可能性があるとも思ってしまうアイデアだが、まずいので仮想にしておこう.




 
仮説予想されているダークマターが実在しているとすると、まだ不明の銀河系というかマター系というものがあっていい筈である.




 
青春、まともに読む必要のある書物などあるか、解説を読めばそれで十分だと思っていたころだからな.部分的に頭に入ることしか記憶はしない.




 
周囲の風景雰囲気がそうさせたとしか・・・(峠の伝説も全く知らなかったが反対に寄与したのかも)、一年前は全く逆のことを考えていたのに、何ともはやすっかり忘れて反対的なことを思い浮かべてしまう、今でもそれに類するパターンはそれぞれのグレードを持って生じている.多様の相克・錯綜とでも




 
ローティーン・日光白根山に行ったときに、あるところでまさかのあることを考えてしまい(この領域の存在なら何でもないが)、それが桎梏になっているかも.普通にはこんなことは全く考えない.




 
青春の渋江抽斎から今頃までなぜこんな無意味と思える時間を費やさねばならないのか、相当な身体の寿命の自然性のパワーが強いという想いをするばかりである.




 
何とかボブ・ディランの名前と風に吹かれてという曲名は知っているが、風に吹かれているだけでは逃避ではないのか、結論は武力行使型人間が存在しないことが必要条件であることは思考帰結上出てきて持っている.

2016-03-31

my ft 03312016

甲斐性がないという言葉があるが、こんな原始的現実に対して対応能力がなくてもかまわないという考え方もある・ありだが、そうも言っていられないことになるαタッチ.原始自然というパワーは乱暴力がしかし強い.



 
個人的な思い・愚かであった体力だけれど・と、モチーフ付近のマイクロ蠢きと、世親の物象流れとを結び付ける考え方を思いついている.N的な真空の海と述べると全く悩む必要はなくなるが、心理的に例えばデリダの差異の依ってくるところ、フッサールの一挙の瓦解場とかとマイクロ蠢きとすれば困難さが




 
すっかり忘れていた空想という無責任領域の存在を




 
深淵はまだ考えないでよそうとした小学生、黒体輻射(封建的なカビの生えたようなアンティーク色ではなかった黒色の彼方の明るい点域を封建的になぞらえてしまった時が以前にあり)から、Bの動きを想定して、そこに老子の道を考えたことがあった.老子の道は深淵であるとせねばならない個的性質.




 
ラプラス関数だからアイネ・クライネがか、超関数までだよな、それは普通に無意識に想定しているはずなので、それもあったか.それにしてもモデルが判然としない、ピアニストの方がということにもなるが...、年に進展していたのではもう年以上前の話ではないか.遅すぎる知識-空白が.




 
ラプラス超関数は年とは、無限遠での状態は自然に任すといったところで、年にアイデアが出ていたとは全く知らず、空白中で・・.頭錯乱するポストモダンのころだったかな.だから無限遠でになるという考えとは異なるわけだ.ばかりではない想定があったのである.年とは*




 
無名の匿名の領域が偉大な歴史上の存在達の向こう側にあるというヴェイユの考えは想定しがたい.何を言わんとしたのだろう.彼岸なら仏者で誰か了解した人物はいそうだが.




 
記憶にある不快な言明を除去できないのは、それらが脊髄反射的言明だからではないのかと思った.それにしても人々はそのようなことを脊髄反射で述べる知力があるのかそれが信じがたくなのだが、除去困難さからはその乖離からそのように考えることができると




 
古池や蛙飛び込む水の音-は最高にしっくりくる味わいを体感したことあり、傑作であるとは思っている.太宰はこじつけ理由による評価なんだが、しかし油断も隙もない野郎だとはいっても昔に死去した人物だが.全く何だかんだいって、読まずにいたものを他人の思考が浮かび上がり時を費やさせるものだ.




 
太宰治はカザノヴァ型ではないのか、かく述べる当人もカザノヴァXXにほとんど呪われ・憑依される形でうんざりし過ぎの麻痺感をしつこく味わう羽目に.愚かしすぎるも名状しがたい不快を味わう羽目になった対象は、そんな人の心理を加味することなく、体現化して思考の自由の束縛生成となり




 
いろいろな観点から検証しても間違いなく始まりである.日本の現実は人々の承知しているところではあるが、どのようになっていくかほぼ自動的に変化するはずである.世紀になって早年以上過ぎてどうなるのかと思っていたが、このようなるとは、なるようになった・なるようにしかならなかったと




 
まずは間違いないようやく片付いた難点、現実には悪くはなかったがただ昔のきつい思い出が災いした・・.ようやく自覚したようで、まさかあるいは消えたのではと思うとドキッとしないこともない.他人の子持ちでどこにいるかも知らないのに、この昔の時間のままが続く観念形態をなんとする.





所詮は 渋江抽斎 であったことに思い至ったが、こんななんでもない簡単なことに、何十年も無駄な設定を構築していたとは、唖然とするばかりである.まさかのまずいXXとは露にも思わず、流れで全く不利益ばかりしたその日々.無駄に忍耐ばかりで非常にナンセンス過ぎた時間を埋めるのも不可能で.




 
宇宙上の存在ならば世界上の存在であることにもなる.




 
利用にせよ高笑いにせよ、どうも現存在的な浅さ・隙間感・単なる領域的なイメージでむしろ不快な邪魔になる、これは共和感覚でもあるような.そういえば著述にわたしたちという言葉を多見して不愉快にもなっている.




 
人は世界内存在であることは間違いない、あるいは生理時間有限体または認識無知体・・・、宇宙内存在というより宇宙上存在という範疇に存在していることも間違いではない.




 
それはともかく父親存在は、父親存在ばかりではないが、なぜ剽窃をして主体を蔑ろにし、理不尽を要請したのか、父親という存在価値保存のためだったのだろうが、どうもそんな父親は個人としてはダメと今は思え、そんなダメ存在に忍耐強要される・してしまったことは不甲斐ない事態だったなと.




 
人の主体に理不尽な邪魔をしたからでもある、当然だという想い.どうも忍耐をしている時は頭にきているということと同一意味のようで、経験上時は普通に思われていると思える時間内では、なかなか解決しないという認識である.




 
実証比較検分と例証要、トーラス的中間・ロビンタッチ、マトリョーシカ的ABC的段階、双対可能性とゲーデルとか徐に表現してみる.羅列の最後の言葉は、視野点がかなりの個別広がりを示すはずのものという想いを携えて.




 
+αに最近といっても数年前に知った、Yの関係の**性を用いる・援用する・利用するというアイデアが閃く.まさか冗談だろうと同時にそうしても悪くはなく面白面もあり、関係の**性がわからずに悩んだ結果は結局そんなことになっても差し支えないはずと.関係の**性自体は年以上前の考え




 
方法自由は実存意識と見るとアナーキーは実存的なものになる、これとは異なっているが似たような形で、No.にタイトルを設けてある.ただその実証根拠・証明証左はとりあえず前例結果を援用するくらいの曖昧さのままで、或る+α意識を保存したままに.




 
その後これといった名前を聞かず、科学哲学の細分化方向に-これはこれで悪いことではないが経済がそれに伴っていることは明らかで、ちょっとイージーなものを感じないこともない.要するに自明なことをトートロジー的といえるが、説明としているような、くだらなさという意識も先ほどまではあった.




 
科学主義というのは自然科学を科学と称する形か、それはよくわかる思想とするとそうなってしまうものである.科学といえば自然科学を意味するのはそう思っているからでもある.




 
マッハはニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を形而上学として否定したということか、あの桑の木の中の道へ行く坂道の眺望のところで、マッハがあとゲシュタルトが浮かんだ思い出.確か感覚感であったような、光の直動と結節点のころの話で、さすがにアインシュタインの名前は幼き日に浮かばず




 
科学自体は中立だろう、それを用いる人間が中立ではないことである.No.の結語にもなりそうな言葉だな.




 
年の書物か、それから少なくとも年以上、それ以前から思考していたはずで、年は少なくとも経ているアクチュアリズムならば、すでにあるXXの自覚など待つ必要はなく、また自覚したら叙事的になることが今判明した.なんという無駄をまたしたことか..ということが多すぎる.




 
”現実(リアリティ)は決して現実的(リアリスティック)ではない””仮構組織体はアクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、”--No.より、『見えない目よ粗い目よ』は網目構造意図である.




 
そうかシステムを量子でできているとすると・見ると、システムのそこにある解体できない現前に対する不快を脱却できそうだ.No.?




 
“アクチュアリズム”(actualism)・現在主義はドイツで好まれると、この言葉は一言性を持っていていいなとは感じた.そもそも“アクチュアリティ”(actuality)は独人であるハイゼンベルグが採用したものである.ともかく悪くはない.




 
この場合現実がマイ思考状態になっていないという意識・・




 
小学生の時に図画で想像部分を写実に対して描いてしまい、その絵は評価されたのだけれど、なぜか罪の意識を感じてずっとこだわった形を、いまその部分はファンタジーとすると許容できる形を覚え、罪の意識が消えた.忘れていたけれどリアリズムになぜこんな拘束意識を持ってしまったのか、たぶんXXが




 
科学はいいというのは、マートンのの”科学的真理は、人種、ジェンダー(性別)、民族性、国籍や特定の文化など影響を受けないのだ という普遍性(Universalism )への信念”と同じ考え方に拠っている.No.




 
埴谷の数千億年の数千億倍という逃避思考はよくわかる.あの国道の帰り道の小学生、向こうへ行ったその距離が今ここにいてという、例えば億年彼方の準星と聞けば人は神速で想像でき、しかし億光年も移動したわけではなく、今ここにいるという事態の応用で.最もサイクリック宇宙が今は.




 
最近はネットのおかげで結構平板になっているとも思える、困難に設定してあるある地点を引き寄せた形かなと、甘い感じでは思えるかな、それではシステム価値が下がる.人々は想定することは全く可能であるが、実際には全く不可な時間がまだまだ続くはずで、ということは人間にはまだまだ可能性があると




 
人類の悲しみ⁈--構築してあったシステム上は別にであったことに思いつく.すっかり実践生活上で失念しまっているので、この変なことになってしまっているのか、最も実践することは時間的に困難すぎる設定にしてあって..




 
最高にまずいのはきがつかなかったということ、、なぜ気が付かなかったのかいまだにその理由はわからず、失敗の連続で、意味がないという愚かな日々を過ごす羽目になっている.意味のない生活などつまらな過ぎてしょうがないが、今はヘルダーリンのように柔らかな春の日差しに包まれて生きるのもいいと




 
そんなことが多くあり過ぎたXXたちのおかげで(XYたちも)、その無理解でたらめさでXXを信用できなくなっている面は強い.そんな中でも無茶なランダム時間を過ごした中でも、全くその時には気が付かなっかったとはいえ、遭遇すべき存在にはきちんと遭遇しているのだから神秘的・超自然的なんだ.




 
ある大学のあるXXに此岸と彼岸の行ったり来たりは自由だったはずの心性を、その剛体感覚身体に邪魔され、しかも自己謙抑以下にされてしまい、えらい目にあっている.全くA期の幼稚で叙事的XXには閉口、イメージとしてその大学にふさわしくない存在で、その時には気が付かなかった退行的存在明白者




 
そもそもあそこの坂道でシラーの理想主義には閉口したスケールのなさを感じた幼き日も影響しているな、ベートーベンの第九は有名なのに.シラーはカント主義だそうでそれは理解できる.個人的にはヘルダーリンの方で、地中海の明るさに憧れその多くの時間をセロトニンの日々として過ごしたようなヘルダ




 
そもそも人類が悲しむという領域の思考をなんとす..なぜそんな思いをしたのか、向こうから歩いてくるSに緊張して・・の結果という事態なんだが、この対象は中途半端でまずいことに結局なり、逆になって実際にこのSは今は他人の子持ちだけれど意味がないはずなのに.いややはりこのSではだめなんだ




 
S県I市の路上での「人類が悲しんでいるようだ」と思ったことが躓きの元、内容はそんなはずはないのに、あるXXの性的意味合いと同一視したかもしれない.あと行動的なKJがゴミ箱に捨てたのを拾うべきなのに意地でも拾わなかったという些細な事象も寄与している.




 
非退化な臨界点は孤立点ということで集積ではないという離散はいいが、退化の壁がどうしても越えられない非退化というモース形式について、臨界点でもいいが双方の要素を持った中間度合いを想定として見る-ペンローズのミンコフスキー図も参照して.(ペンローズは仮想案者とずっと思っていた)




 
判断を思いつかない場合は、その対象の不利益になるということで、その対象からの圧力がかかっている-と何がしかの直接・間接を問わずと考えた.また利益になるケースでもこの形式は成立する.




 
穴の開いたトカマクはトーラスを抜ける空気量--意識量と似ているな.




 
言語比較に不確定性原理を援用した今日




 
エルゴードが等質がノイマンが・・・何G-Ntでコンヌ刺激と、葉層がアノマリーであるとするそのまま--ということだったのか.全く環論への志向趣から何十年、端緒はそれ以前に当然領域があるからなのだが.




 
様相とファジイとフラクタルと弁証法と・・諸々はそうかNo.24にもふさわしい.あるいはNo.23に位置させてもいい点もある.




 
西洋的思考、諸行無常ではない個的独立からやはり位置づけで終わると思った.あの時の子音の発語がきつく、こんなことをなぜしなければならないのか止めたと思った小学生、英語の子音形成を全く知らなかった日に.そんなことからLvsRはよくわかるが、それに関しては中世の秋が連なってくる時だった




 
中途半端に思ってしまうことが多すぎる.当人たちは中途半端とはおもっていないようであるが、何しろ中間存在は存在自体が中途半端、親鸞の悪人も自覚において中途半端など、昔に理解してしまった筈なのに、自らが無自覚的位相になっているという愚かしい時間の経過..




 Masasi Kasaki ‏@kasa    Osaka-si Kita, Osaka
明日のSTS Networkのシンポジウムで「哲学研究の評価と課題」について発表します。日本の哲学のdemograpicsを集計したので、それも使います。是非哲学関係者に聞いてもらって、批判やコメントを頂きたいです。ttp://goo.gl/vJDSa
 

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どうやら諸々に接して読んでいると日本は境界域時間に位置しているようだ.それはそれで世界的に意味がある.




 
脊髄か海馬か-これはいい、いい表現を思いついた.




 
無理解は動機の錯誤ともあるな、こんな無理解は必要ない理解しあっているはずの二人であるはずなのに、遭遇現実で齟齬・錯誤を重ねてしまったという、現実の愚かレベル圧力では?、その寄与もまた愚かに向かってしまう、つまり愚かさ・無理解を擁護するとろくなことにならず、後には無駄ばかり生じる




 
XXの擁護のためにそうしたのであるが、それがいけなかった.今はこのXXはある女性に対して冗談的に思ったことを、その女性と認定して、述べているXX自体は私の主体ではないかという逆をよくわかっている.何なんだこの無茶苦茶な傾向は、この整理がうまくいかないのである.無理解すぎるXX




 
私は私であり、私以外の歴史上にせよ他者を用いて同様とするのは、類推解釈の禁止に当たるとか、それで困って、全く曖昧引用されてそれは間違いなのに・無意味なのに、やけ判断・条件反射的心理肯定行為をして後に悩むことに、ほんとは反対・否定的であり論理的に間違っていると思っていたのに




 まなめ ‏@maname  
個人のページを作るからダメなわけで、ブログのFacebookページを作れば個人情報を登録しなくて良いのではなかったっけ? / “Facebookページ作り方と匿名利用方法~いいねは身バレ危険 - ポジ熊の人生記” ttp://tn.to/peKejuQq
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閉所嗜好症があるのか、閉所恐怖症はよく聞くが、それである作家の赤い繭は閉所嗜好的な物語ではと浮かんできた.自己成分がひも状にかなって、すべて変異・変移するとは奇怪な幻想ものであることは間違いなく、ありえない.浮遊する中間存在の自己疎外感の話なのかな.デラシネは仏語




 
マルクス関係の書物から昔に、罪の意識なく論理的人間として生きていくような形式感を感じたものである.いわゆる取り換え聞く歯車のような組織的なものではなく、システム上の歯車なので必要な存在だが、人間的感情の欠けるとものとして.この考えを今の体制である日本に当てはめて考えた人物がいたと




 
ネット心理によると女性の演技的性格は男の反社会的性格と同様であるそうだ.この女の演技的性格は苦手で、頭が麻痺する・男の場合もそうだが.そうすると男の演技的性格は女に反社会性を強要するようなことを想定する.男の演技的性格はどうやら策謀・陰謀の代償規制と見るとそのように思える.




 
自己思考形式ではなく普通に線形思考をたまに落ち込んで出した時に、矛盾・整合性の指摘を受けた時があり、その人物は誰かを探したが見つからず.たぶんあるXXの位相に倣って推定そのXXはこのような考えをするはずだと思ってツイートした記憶はある.




 
節度の止まらない脊髄反射人間たちともいえるな.まあこれらの存在故より個人的意図ゆえのはずだが、まあ多くの不条理・理不尽を行使していることも他者に対してあるな.それより可能性・役立ちさを引き出したい相手たちに、まさに役に立たない、原始回帰的な現象ばかり味わうことになったのが痛い.




 
XXの忍耐へこみの位相が・・ある昔のある男の不思議な不条理理不尽発言をまともに受けすぎたためが、一番のような.全く何を認知したのかその男は剛体ロボットに近い存在に何を述べても一生の認識到達可能性はたかが知れていると思い込だ故もあるな.




 
やや遠い将来にXY因子が消えるか弱くなる予想があるが、そうなるとXXが不死でない限り、魚類のような現象が発生することを予測する.不死になるのはかなり困難な身体構造と今の時点からは推定して、XX・XY因子変化が起こるとすればそちらが先だろうと




 
リルケに対する軽薄ではなくルベーグ測度論的な合点ツイートが消えてしまった.若き日のシュペルヴィエルの善意爆弾からありがたちの一言のみを印象記憶とし、中学生だったかな夏、熱風の中のネルヴァル情熱を記憶とする.




 
ある駅で電車を待っていた建屋の近くに靴屋があり、靴の文字から靭性の靭の文字を思い描いていた中学生、再度その駅の周りの広場を歩くケースがあり、その時に強靭の文字が苦痛を伴いながら、ずっとまとわりついていた.強靭は苦手である.きつ過ぎる思い出があり、ただしその強靭は有限であった.




 
温度相対論かそれはいえそうだ.しかしここでも時間作用を考えるべきなのでは、密度が無限大に近いと時間はどうなる-時間はゼロか.




 
粒子充満の宇宙において多層である粒子位相を考えることは意味ないか.




 
Rindler coordinateはともかくどうでもいいので、存在論を構想した.なんか相対論の圧力ということはニュートン・ユークリッドになってしまうが、そうでもなくなんだが、αタッチでは即物的にニュートン・ユークリッド圧がまだ強かった.




 
多世界で人間ひとりひとり区別するという文章を昼間見つけて、あまりにもその単純さ簡単さに唖然としていて、人それぞれは個性を持っている(一つだけの花とか)という考え方を結構シリアスにずっと持っていることから.




 
あのトンネルの信号のところで考えた若き日、剛体人間は嫌であるが、今日に至って叙事的ハードボイルドでロボット的で何とも感情力が単細胞すぎるという帰結的なものに到達した.時間がかかったな、剛体から見れば抒情は軟弱とかで忌避しがちな面はありそうだが、後システムが解体できない加担するかも




 
長い直線は無限遠点を越えているのではなかったか?




 
圧力と密度もゼロとなる星や流体の位置は表面と考えることができる--それで無限遠でポテンシャルはゼロと人は考えるのか.無限遠はこの世界の境界というわけだ.そう簡単にいえそうにもないのだけれど、実用上は全く差し支えない無責任の自由さがあってほっと安心するところだろう.




 
どうせそんなものだ・倫理観良心力の弱きもの・としていると、XX&XY双方のバイタリティにより双方からストックホルム症候群のように犠牲的情態を強いられる羽目になってしまう.武力型人間に対しては逆効果でどうにもならない乱暴なXX&XYというしか、エゴ増長発揮より良心力増長を望むのだが




 
自己分析と自己意図と他者認識・考察を一緒のところに保管しているためか、他人には混乱を呼び覚まし、他者認識を主体と思ってしまう・思われたことが多すぎて、それゆえに不快になり関係結節もうまくいかなくなるという事態が成立した結果、他者言明の記憶が不快になって除去処理ができないという悩み




 
実際にはは管理者が複雑管理を多様管理をしなければならないのだが、管理者世代にその意識はなく、若者は複雑さを感得しながら生きているという乖離構造があるのではと思っている.そうでなければ時間の無駄に納得しないがあるが、現実にやや老齢世代にも実感している存在がいることも確かである.




 
サルトルの弁証法批判領域の明るい実存か、渋みかもしくはエートスかはてまた昇華か、それを変位させた形をとってしまったことが、今になってその形式を保ちつつの面があり、それが不自然感を齎しているかも.




 
ホーキングに倣えば、困惑の深淵事象でもそれは蒸発する・何時かは消散する.個人的には深淵に時間と空間も想定しているので、十分な動きは存在することになっている.




 
明示空間においても取引コストとか過程の様々な操作・出来事対処があるが、暗黒域でそれをどのようにするかが問題な時間になっているのかもしれない.昔、中学生のころは深淵を散歩できたのに、今では桎梏の絶望的なイメージになってしまっている.でもブラックホールは暗黒想定十分な物理の今日時間




 
象限転回的でパターン類似のイメージは、連合事象というには概念域対象が異なると思いたい.政治的・権力的にはこの深淵から類推できる秘匿域の存在は必然的に存在してしまうのではないかとも考える.




 
状況は叙事的・情況は抒情的、悲壮は叙事的・悲愴は抒情的など、自然に言葉の区別が成立している.




 
この付近でほぼ妥協できる成果を得たが、結果から判断してなんと無駄にエネルギーを用いすぎたとしか言いようがない視点である.何とも今までの時間のかかりすぎには何ともやりきれない思いがしてくる.




 
ここの点を何とかして見たいという設問があって、意味合いはよくわからないのだが、対称設定上は必要かなという図形形式に対して、アイデアが進展したが果たして意味があるのか.まあ結構個性的なと思えるアイデアで、都合上のつながりを仮定できた.ミンコフスキー的な事柄で時間がかかりすぎだ・・・




 
個人的には意図的に演技をする場合がある・対象をくだらないと感じた時などは特にその意図に反した成果なのでそうせざるを得ないとか.中間存在はすべてにおいてそうなのだけれど、αタッチの現実からは考慮せざるを得ない領域が発生してしまい、ちょっと混乱になっている.これは図式のNo.に似て




 
本物の人間は演技をしない・する必要がない、普通に日常を生きる-この理屈からすると演技的性格者は偽物人間ということになる.全く昔にそう思っていたことを何十年ぶりに思いだした.全く予定才能を有していない存在によってと自己予定設定判断のミス・無駄などから、無駄な時間を構築したものだ.




 
自閉症スペクトラムの原因は線形性の壁によると思ってる.複雑性が表に出てきている時代では、線形人間は偏りとかを持たざるを得なくなるのではないかと、




 
自閉症⁈、或る情景のイメージが閉鎖的でそこで止まり、不快に進展しないイメージというのは自閉的ではないかと.現実の空間的場所にも自閉性は成立するとはあると想定可能で、そう思うと適確であるかな有限イメージのどうにもならない感覚に対して.




 
なんというかいわゆる足を引っ張るというのはまずいくらいに思っていると、他者から足を引っ張られる形になるという、こんな面での意図は同じにならないどころか逆になる.個人的にはこの逆は無駄なものとしか思わず、大体逆を志向して邪魔をするのは能力がないとまず無意識にせよ思っているはずで.




 
性的要素による反応状態と思え、ゆえに女性を普通には無視できるはずがないのだが、或る叙事的演技性格XYが、突如・女なんて・と発語した記憶がある.演技性は機能・官能の大いなる援助がなければでき得ない直感があり、この発言は矛盾している.まあこの存在も逆に主体を疎外する存在の内の一人




 
量子の重なりが個人的心理に浮上、ちょっと遅すぎるきらいを感じたが、或る時、人間的な昔の真理は単純である以前の心理情態にしてみるかと、つい最近数年前に思い起こして、そんな心理状態が今でもちらちら浮かんできていらだちを持っている.とにかくこの領域人間が多すぎるので、量の圧迫によるかと




 
ちなみに宇宙の熱的死は熱力学第零法則である.




 
空間的な場合を多く人はパラレルワールドと称している、ニイチェは時間的パラレルワールドが何回も成立すると述べたが、或る昔の時ニーチェは自己を道化師と思った点もあることを読んで気になりすぎて、流しの気分にならざるを得なくなった.フッサールのエポケーに無駄に戯れた頃の自動販売機の前で




 
相変わらず覇者的人間は機械的でロボット的で無機物的でA期的であるはずが、他の人には良く分かるらしいがわからず、幼稚的な存在でもあるにかかわらず、共同社会的になると有効に作用する・ということは共同体は無機的要素強く幼いことになってしまう.




 
接平面を点化すると無数に存在するその平面も動くのがバンドルとか、動く接面はリフト形式を考えて、静的射影物象に立体化を与えるという有限形式・であるような事象が印象に残って解けないという妙な具合に妨げを保有するという、ある古びた工場での一日の一時のそこの場所でのほんの数秒の出来事




 
位相上に局所座標を必要とするとなると複雑になるな、心理の深淵を体感してもそうだが現象事象に適用となるとまた違った趣の複雑さがある.これを客観的に表現しているだけなら簡単だが--現にそうしていて『奇妙な保管場所』と根本的に設定してある、その内容分析を否応でも人々は行っていて..




 
レム睡眠なく起きだしたその時に、選択した事象がのちに必然になるという・必然的自由(ワーズワース的なと思っているところのもの)のところで、選択の自由状態をサルトルは実存と規定していたと浮かぶ.




 
当の本人を目の前にして、当の本人の模倣を表明する人々というのは何なんだ.気が付かなった場合やトートロジーの不快を感じることが数多くあり、なぜ人々は逆になり、個人的にはどうでもいい存在に模倣という煩わしさ処理をしなければならないという無駄すぎることをせねばならないのかさっぱりである




 
現在の若き娘たちに個別対象を試みとして引き出しても目的対象と遭遇しない(最も試み回数が少なすぎるきらいがある、試みが成立しない場合も・もちろん強制ではないので)のでうまくいかないのだが・・・




 
ハッハッハ、評価してくれる女性がいなかったので自分でさすがというしかない.最も中身を知らないのとオーソドックス権威依存傾向強し女性が目についた形でもあった.いまだにだめで--一人だけ可能性のあるのがいたか、そばにいるときにはその可能性に全く気が付かなかったのが不思議で残念である.




 
そうなるとSTAP細胞的なことはすでに予測として昔に記述してある、今はそれを表現するポテンシャル・勇気力は弱まっているので、表現化は柔らかな形になるだろう.




 
あれSTAP現象というのは、今ある細胞がなくたっとしてもの要素を持っているものなのか、小学生年生の時のあの橋のたもとで考えていた忘れない記憶を思い出す.多少関係あることだったのかよ..




 
Benney 方程式にかなり引き寄せられたが、どうも少し種と異なるようだ、カオス領域に何か未知の方程式が潜んでいるのかもと浮かんだがどうだろう.




 
根本的に中間存在の閉鎖であるので奇形の定常性を加味したところでどうにも意味はなかったという無駄な労力を用いてしまい、全く中間存在が当然にしか思えない先天的桎梏にとらわれすぎている馬鹿げた存在であることにようやく気が付いた.まあ中間実存などいうのもあるのだが⁈中間実存-そうかこれか




 
クェーサーのジェットに乗って遊んでいると、地球などという星は原子顕微鏡で見てもわからない存在であるという想像力を用いることはできる..昔、必然的にそのような領域思考をしたことがあり、例えばアタカマの天文学者やホーキングなど、無意識にせよそうする理由があるからそうしていると思える.




 
進化論に関して多様時間進化という形態を思いついた.すでにだれか述べているかも?.何しろ何年たっても無知は無知が発生するし、シーラカンスがスラウェシ島とかギアナ高地の保存とかガラパゴスなども考慮できる(範囲内とすることができる).同類でも早く進化・変化することも許容になる.




 
細切れの積極的自由をいくら行使しても無限回数に到達することは人間にはできない.




 
積極的自由専ら人間にとっては、消極的自由者はいらいらする存在のようである.消極的自由者から見れば、積極的自由者は中途半端なところで邪魔をする・阻害をする、侵入してくるというもので、欲求不満を作り、その上強引処理という理不尽を行いがちである.積極的と消極的のスパンの違いが不明なのか




 
ふと冗談が現実リアルになってしまうのは、人々が責任を嫌がって、無責任を希求しているからに相違ないと浮かんだ.




 
レヴィナスをどうするか、カントの定言や芸術意識展開人間であることは疑いようがないが、説明を解釈を見解を陳述しただけとも言えるので.




 
ハイネか、政治にも革命にも関心を持たざるを得なかった詩人という位置づけで、まず間違いなな.かといって政治家でも革命家でもなく詩人であったのである.




 
叙事詩的存在か、ハイネをどう思うか発言すればよかったな・精神現象学やエロイカ変奏曲と共に浮かべ、まさかハイネの歌の本とかないと思い、よく知らなかった点も寄与して.とにかくなんというか、色気なるものがない、むしろアマゾネスというようなもの-と思えばそうだな、A期や叙事的XXたちは.




   
素数の億個の探査で、素数自体が固有性を持っていて、その出現確率はランダムではないと.ランダムというのは精神分裂病・統合失調症とは異なり、でたらめ・でたらめパターンでもないのでそれはありうる.ただそれらの素数をたとえば線で繋ぐという形式をまず考える連携を.




 
ある対象・XXに、私から見て君の印象はこれくらいのものであるという価値判断を・魅力度合いを持つとする、するとその対象はだめとか・くじけとか申す.なんという傲慢なのか、また他人のことを考えないエゴイストではあろう.ダメなのは君の魅力であり、くじけるのは君の魅力のなさゆえなのに




 
破滅型という文学人種がいたようである・明らかにタナトスに支配された人々というわけだ.




 
瞬く星の間にて微かに聴こゆ新星の
幻色の変生にたゆとう時が甦る
真白き雲の海の上眸に映える深遠を
想いつ跳ねて寝転べば昼の陽光穏やかに




 
久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
静かな内の沈黙が滲み出る時存在す




 
石川淳の聡明さはわかるが、集大成にせよ狂風記はなんだありゃという感想で、三島由紀夫の豊饒の海も評価しないな.最も両者の作品などどうかすると目を通してみたくらいのもので、読む気もしない.




 
森鴎外の舞姫も少しは寄与がと思って集中したが、舞姫では話にならないと直に思ったものだ.あの建物の入り口で渋江抽斎などが浮かんでしまったのがその与件だろう.で石川淳で冗談を思ったのが実際になる馬鹿らしさ.森鴎外になぜか呪われているような、中学生の時の安寿と厨子王のきつさには閉口した




 
とても長い時間なのだが、他の個人的な事柄はずっと保存・暖めている.挑戦しては見たけれど錯乱にしかならなので、畢生の対象に結局なるようなもの.大体ドストエフスキーのネヤ河飛び込みなどを想起して、まことに心外な思いをしたのだが、結局そのようなもので.秘匿の時間も必要なくなって来たな.




 
丸善で昔に徐に環論から始めるかと思った時から、全く始めていない.進展はなかったが、分類が今でも困難な領域部を知り、空白時間はまだ間に合うとなる.間に合うが、他者判断に任せるとしておいて・専門家に・である、それににしても空白時間は、普通にはとても長いと表現できる時間意識がある.




 
それにしてもなぜこんな計算間違いをしていたのだろう、これでは頭脳におかしみが発生してしまうのは否めなかった.どのような計算をしていたのか今では思い出すのも困難になってしまった.どこかでこだわった形にになっていたようである.




 
単純に計算違いをしていたようだ.この違いのずれは大きいと思うのは、アトラクタをどうやら設定してしまうようなので、No.あたりを引き寄せておくか.




 
わからんカントの判断力や実践理性批判のあらましを見ただけでは全く面食らってしまい、示唆していることがつかめない.純粋理性の定言はわかる.実践理性は宗教から混沌で道徳が-物自体という不明は専ら実践理性だそうで、美はそれ自体で崇高は純粋理性だったか.恣意的概念より内的美意識が優越なら




 
ふと埴谷雄高に会いに吉祥寺に行った時に取った態度を記憶から消失してみたら、自己主体がスムーズに動くようになった感じである.全く埴谷雄高は邪魔ではないはずとずっと思っていたので、盲点でこの人物が災いしていたのか❓!.まさかそんなはずはという心理を持っていたのだが、まさにまさかである




 
犠牲とはリルケによれば”どこにも拘束しておくことのできない無際限な決意”だそうで、ある人物の孤独に対する姿勢からの概念であろうと思われる関係とは、リルケにとっては犠牲になる.人間の持っている倫理とは犠牲のことか?、全く想定外で西洋史上のある宗教的位置時間とその伝統からの発生かも.




 
そして叙事的や覇者的なXXは精神分析観点からは子供である.実際そんな存在に悩んでいるというかしつこく蒸し返し状態を持続させる拷問的残酷な存在にも思える.そんな存在はどうも一生大人になりそうもない直感があるゆえにしつこいようである.昔は男は子供なのよとは普通だと思っていたが逆もある




 
身体有限性から身体優位で身体的生命をかけても不可能なものは数多く存在している.端的にここから精神優位を考えるのだが、類続のためには身体が必要でそこに相克が発生する.別に相克などを感じない人が普通だろう、またカントやニュートン・ヴィトゲンシュタインなどは独身であった.カフカは相克?




 
無限遠挙動に関して素朴というか未定の疑念を持っている存在はやはりいるんだ.紀伊国屋で無限遠での結論を出せという内部の声を聞いたときには、無限遠での挙動は複雑になるであろうと、現行境界複雑性からの類推のようでもあるけれど、考えていて、内部の声にはちょっと参ったものである.




 
理想流体が等速度運動している抵抗ない場では、無限遠でも速度ゼロにはならないはずであると--無限遠境界での挙動は消散するときには有限ポテンシャル基準思考で、無限遠で有限といってもその存在の境界状況はやはり存在してると複雑になり、無限遠で一様になるは射影的であるかなと、




 
人の主体を阻害する記憶にある言明者たち・態度者たちを除去できないのでいらだっていることもある.まあ人権蹂躙者たちであり、迷惑存在でもあり、でたらめ者たちでもあり、ひいては単なる未熟な無知存在でもあるとか.




 
糠に釘のような心理イメージを受ける存在は、心理対処優秀と思えるがその半面、詭弁能力(いわゆる無責任)も優れているようなと思うと、心理における苛立ちの説明がつく.帰納の帰結しない帰結の結果も懐疑・詭弁と無理に言えなくもないものになってしまうが、演技的性格の無責任もこの辺に登場しそう




 
-=という数式の当たり前さに幾何精神が追いつかず(あまりにも当たり前すぎるとさっぱり意識に浮上してこないことがかなりあり)、何のことはないと気が付く始末.




   
境界域個別事象は超平面にせよ同一面である-トーラス境界を思いついたのはいいが、それに対する思考不十分という事案




 
問題のある一点にはボヤイの定理とバナッハ=タルスキーのパラドックスが少し?は関係していることが分かった.もっと柔軟ににはリーマンなんだが、仮想線までしか至らず、その仮想自体が成立しないと.虚数線しかなくなる・・・





 

剽窃が原初からの謎として、つまり、どこから来てどこへ行くのかけっして言うこともなく、その始まりや方向を隠しているあることば、あるいは、ある物語として現われるのは、まずそれが、みずからがどこから来てどこへ行くのかを知らずにいるからである(『エクリチュールと差異』)
 

 
またまた指定難病がふえている、てんかん系が多すぎる分離項目にみえるが、そうする理由があるのだろう.遺伝子解析が進んで難病が増えたというのが直感感想であったが、他の理由がありそうなのだが思いつかない.てんかんとソリトンは関係がありそうな意識を持ったことがある.




 
模倣を許可して自己を主体を阻害する性格、保存で回避しているつもりが、虎的思考なのかその保存を他者が狙ってくるようで、あるいは内部をひっかきまわすとか、なり替わり映画で有名なのは太陽が一杯だが、主体疎外の忍耐も直に発生しているだろう.何しろ模倣なのだから-心理感情の模倣は無い?




 
人々は単純に現象記述・漱石の道草とか・していてまた、自然に何ら考えることもなく(抵抗もあるときも多い)変化するのは日常と対処している所に対して..ポテンシャルから他のポテンシャルに移行するエントロピー変化の図式に悩んでいるような・・




 
トーラスを抜ける時間、そこには空間も普通にだが、その抜けた近接地域・領域はさっぱり、ひょっとして境界の形はこうなっているのかも、どうにもこのイメージが気になってしょうがない.




 
ベルトラミの対象図形想定・鼓や砂時計とか、双曲空間の間やミンコフスキーの現在時間が少し幅を持っているときとか、前者も含めて後者はさっぱりに思考が止まる.




 
体力は衰えているのに、なぜか心は若返っているような・JKとか登場するツイート例・という不思議な矛盾




 
つまりマズローの人間は普通の人なので、奇人・変人はにはなれない素質を持っている.ただ共同性による欺瞞・これはくらいの位置で、自覚をまずしない、していてもごまかそうとする.奇人・変人には非線形を見たいが、共同的ではそんなことにはならず、無駄時間を持ったことがまだ最近の記憶に




 
奇人・変人が普通に人と同じことをしようとしている時、アドラーの補償・いわゆるコンプレックスを見る.その固有性を如実に理解できる人間にとっては、全くの欺瞞を見ることになり、疲れすぎる.奇行・変行を行うのならいいのだが、共同圧力があるというわけだ.ともかくやはり煩わしすぎる.




 
「情報は未来にちがいを作る差異」とはベイトソンの言葉、サヴァンは過去作用とすると、宗教的預言者は未来を示しているので、サヴァンに対して対極的な存在ではないか




 
サヴァン症候群についてのいくつかをみると、どうも過去現象か、現在現象までにその範疇が限られているようである.なれば明らかに記憶作用能力が関係している.




 
『---かくして生命の単純時間論理に従って、対象としての*の論理が飽和を加味して遂行が必然と当然とされるだろう---』-まだこのころは読める文字を書いていた昔の今でもそうである文章よりほんの一部分抜粋.全体文には明暗言葉が躍っている-明暗も抽象的にはNo.にしたためてあり・・




 
自己ドキュメントをしたためてずっとカバンの中にしまい込んである.他人にとっては自己ドキュメントと見ずに小説作品位に思うとも思えるので、これを作品化して--というアイデアを考えたが、自己筆記文字が自己草書になっていて、自分でも読めず掘り起こしが大変だ-というためらいの時間.




 
パスカルは頭がいい、宇宙は何も知らないゆえに人間の優位とか、実例の証明に実例を持っ手くるなど見ると、判例はかくある如しを連想してしまう.




 
それにしても人々は、理知的と脊髄反射の乖離に関してなんともおもわなのだろうか、多分No.でそんな乖離でうんざりしているのも問題なんだが.




 
脊髄反射に直面すると頭が壊れるか頭が痛くてしょうがない、XXの場合マヒするか思考進歩の阻害・停滞しか齎さないので、まず潜在的才能において役に立たないと考えてしまう.そもそも頭痛く、認識をわざわざ乱す存在をどのように知覚せよというのか、知覚・認識を乱して意識させないようにしている




 
なんのこちはない、ワイブル分布の正規分布より素早い頂点というのは、信頼工学上統計は従うのだろうが、現実に頻繁に起こりすぎている事象は脊髄反射によるものであることに、なんとようやく気がついた次第.




 
将棋やチェスが人工知能・AIに負けるのはまあ大体予測がつくが、囲碁までもか、そうなると囲碁も将棋やチェス系かと思うとちょっと異なるな.つまり叙事系ゲームはAIに解析されてしまうということ.




 
束縛を嫌う人間に抑圧や妨害や愚劣な態度、意図の反対などを行使してくるXXをまず好むわけにはいかない.




 
ストレンジアトラクタを持ってくるまでもなく、普通に人はランダムな場合には突飛な現象事態の発生というのは、直感できているものである.




 
妄想実験・思考実験などではなく、思考自体今ある現実であるような思考のこと




 
思想の思想たる所以を知っていれば、関係の絶対とかの啓蒙・自賛などに見える意識など必要ないんだが.




 
流血とか殉教とか瞑想の宗教手段はよくわかっていて、ほぼほとんどの所為に関しては記述済みで、ハタと思うと何を悩んでいるのかそれはすでに記述範囲内の事柄ではないかと、他人対象意識のはずがが自己対象意識に方向した場所・時もあったことを思い出す.どうにもまずかった意外にあの街である.




 
見ようによっては人間の形態は、宇宙の星々の位相と似ている気が、しばらくしている.




 
筆記している右手が思考する--この感触が環境世界“Umwelt”を知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同で作り上げているに結びついて、思い出す.




 
C++で理解できなかったものはNTM形式に似ていることの発見・気づき・NFAか.NPはnotPではないということはP≠NP予想問題が成立するわけだ.チューリングの停止問題で放置していた間に・不完全性定理が関与するものとは・NP問題に関して多種のアイデアがは生まれていた.
 


 
演技的性格者は偽善体になってしまっている--自己が演技をしていることすらわからなくなっている場合、これよりやや弱い偽善を行うのはほぼ日常であるという人間にも閉口する、なんだかそのセンスあるゆえかまた使用しないためか、麻痺してくるやや弱き日常演技者XX&XY.



 
その様相が時間的流れではなく、ピラミッド的な縦軸射影としてみているファイバータッチは葉要素あるのではないのかとしてみると、とりあえずは対象から逸脱してしまうので単にミクロのランダムさからの縦的でいいか.




 
思いが一瞬にふと広がった結果、様々な趣向思考のすべては自己自身とするとなんという人材能力かと自分自身で今感じてしまった.自己自身の制御あぐね様を感じて.




 
アスペは思想が偏心しているとか、殉教性・的が思想だからそれにこだわるが、どう見ても常識より非常識に近いものだろう.ある線にこだわるとどうしても非常識度は高くなり、常識がおろそかになるのが、今日段階の人間質レベルであると思う.そこにも多種多様な目的意識・スケーリングがある加味が必要




 
ひろびろとしているのをわざわざ狭くしよう、狭いままにしようとは思わないということを意味している.




 
自己言及・自己分析・自己把握の内容を当人に述べても、その述べられた当人は理解力を麻痺させてしまい、一体誰に発言しているのかわからない情態になってしまう.自己把握している私は他人ではなく、実に心外事態ということで.この発言者たちの才能・潜在才能はろくなものではないといことになる




 
うじ・有時と世親の時というか空間粒子的流れ・違うか、関係の考察を集中する意識状態にない、あまり思考しないようにしようと最近考え出したせいか...




 
ホワイト空間の+次元・ブラック空間の+次元&B空間の+次元と思考はできるが、応用となると・・別に現在空間事実がそうなるが.




 
混沌・いわゆる人々の無知カルマ・てんやわんやの多様様々思考現象がまとまる帰結によって、真理は単純であるという昔の幸福(?)な日々の時間に際して、今日、無知カルマ・てんやわんや現象が真理単純帰結を抑えて浮上しているという、「弁証法」的にも似た考え方が閃いた.




 
公式的をハレしかないというわけでもないが、ハレ的にとるのが通常である.TV力はその意味で結構まだ力があるように思える.ただ複雑系はやや膾炙と思え、ミクロ現象が公式に食い込んでいるような現在ともいえそうで.
 

 
大正池を始めた見たときにもその世界の果てのようなあるいは仏教的な三途の川のような気もしないでもない、この世の果てのような枯れ木立ちを見て感じるのはなぜか、不朽とも異なるその場所固有の枯れ木達.




 
枯れ木に不朽を見たことがあるから、枯木灘が若干気になるのだが、このセピア系の時間の止まった画像イメージはなんだかさっぱりわからない.中学生の時に見た体育館の裏の山肌に一本の枯れ木があって、その黒影が下草を従えてあったのを見て不朽を感じた記憶は鮮やかな--少し緩和気味になってきたが




 
量子エンタングルメントからエンタングルメントでおしどり夫婦や一目惚れは説明できそうである.




 
法律を制定する側-導く形で作るか・必要だから作るか・面倒で規制してしまおうと法律に従う側の、依存・義務・面倒に対して、こんなことを想定できるだろう.あと自然発生的法律も双方においてありそうだ.




 
法律-依存して従う・義務だから従う・面倒だから従う--この形式のほかになにか?.法律作成者は遵守をまぬかれているつもりの気分にはなるだろうな.




 
今日ではニュートンの同期時間と不確定の非同期時間の戦いだそうだ・それはよくわかっている.依然として明確区別・明晰識別が現実には必要で、明らかにニュートン的空間の帰結論である.実際には非同期からすればそれは当たり前すぎることであって問題にならないとのだが、実際現実には問題である.




 
択一問題はまず定義でそののち定理が存在する、あるいはそれぞれ分離している.まずは定義であったか、定義であるならばそれにふさわしいXXがいたな.あの時も定義という有限性で迷った.迷うことはない好みの存在なのに・・.現実上、規約・規則では有限定義がそこら中に転がりすぎている.




 
今よく考えてみるとその一種はそうであることに気が付いた.すっかり忘れきっていたことがそのプレッシャーのころにありで、なんともはや全く何やかやで次元劣化になってしまうものだった.他人にはその失念がわかるような気配のあったこともなきにしもあらず・・




 
若かりし日々の思考についての解説で・その辺にあるほとんどの書物は解説を読めば十分だとしていた頃の自力的な思考だが、いまネットで数学関係などを見ると解説どころの話ではないと、才能的な面を感じるが、そうでない記憶もあって、その辺の絡まりでしばらくは時の推移が続きそうだ.




 
契機的意地を持って、別の次元的位相思考ができるのではないかと挑戦したが、猥雑な思考・混乱混雑を齎すばかりで実りなく、結局、ある消した記述に対しての解説ばかりする事態・現在になっている.それでもほんの僅かばかり進展はあるのが、充実感につながる形に.




 
ある人物に対して『人間は有限外オートマトンである』と余裕をもって昔に述べたことがある.中間存在にとってはそれも進歩ではあるのだが、先ほどの『人は有限外オートマトン以上である』と余裕なき実態現実的に述べねばならなかったかもと思いつく.それほど余裕ある対象ではなかったかな?




 
アルトーの器官なき身体は、今は空想上かもだが、未来予定変化である意識体人間想定によく似ている.身体の衝動性から逃れられるなら、確かに人は自由になれる.人は生きているだけで生理・物理の束縛を持っている、畢竟人々はそれが人間だからと述べるだろうが、現状持続性に基づいた意見である・・




 
中間存在を超えた暗い側に深淵が・明るい側にオープンスペースがあるのは普通で、絶対空間のどこまでも依存している場合に、その依存領域に無限を持ってくるというなんでもない普通のこととの齟齬が中間存在とに発生しすぎている.人は、有限外オートマトン以上のものでありたい・あるはNo.に




 
自然発生した(?)市場に対して、深淵の壁を構築した記憶があり、明らかに暗の方であるので、消えた・沈み込んだ歴史過程をこちらに持ってくるという、未来志向のみではなく、過去事実に対して考慮すると幾分か深淵領域に進めることができそうだと思いつくが、意味を持てるか.失敗データベースは?




 
あの去る昔にエポケーなんぞをする必要もないのに、おもむろに戯れた形で操作してしまって、想定上のデリダ的深みに直ぐに到達・考えてみればこれはNo.のケースの内容にできるではないか.深淵型の有限性を加味した形なんだが、ハイデッガーの根源に対しての作用はいまだ浮かばず.




 
ある作家がか月しか住んでいなかったアパートの移築話を見かけた.何やかやでこの作家恵まれているな、つまびらかにか月間に文学的価値があるという掘り起こしが周囲から成立するように.富士はクリスマス菓子であるという、ケ(褻)意識十分な演技なのかやけくそなのか個性なのか疑念はある・・・




 
そんな中で結局不快を残したまま一人は消えていることは確かで、納得せずのために訂正に行ったのだがその人物の連れの存在で雰囲気上止め戻り、他の人間たちは今頃どのように生きているのか不明、まあ全く記憶に残っていない形で生きているだろうが、こちらは不快な記憶を持っているので面白くはない.




 
多分に理解力ないので、その現時点理解力によって強引判断をしてきたという判断をしているが、あまりにも愚かしいその強引判断なので唖然としている記憶である.もっともその発言時間では理解できずで、親切対応をしてしまったのもまた愚かしい仕業なのだが、そんな愚昧意見を述べる設定にはなかった




 
そのような意見はトートロジーであってなんの意味もなく、そのうえ対象設定自体を間違えていて、個人的に不愉快なXXに同値化してくるのが不思議でしょうがない、他者XX・XYの意見は、その不愉快なXX言おうとして言わずに我慢した私的考えなのに、それらの意見はそのXXに言うべきである.




 
例えばユークリッド幾何学は世界のどの国へ行ってもユークリッド幾何学であるのように同様である.No.に関して.




 
天網恢恢疎にして漏らさず・をやや今知った「知天有道守」の意味合い的に解釈していたのだった.もう少し何かありそうだが寡聞にして知らず.その辺の意図や感触を『見えない目よ粗い目よ』とはNo.に表現してあるはず.知るところにして知る・知っている・理解できる・理解力があるなどとかで




 
限定合理性はその限定ゆえにそれを強調すると無駄な束縛になる可能性が高い、ところが限定ゆえに様々・多種多様な規定が可能となり、また事実はそのようになっている.この規定をかなり網羅してある全書があり、この網羅能力でも全てという合理性ではない.いわゆるその実務はやはり多様の限定部になる




 
構想文章自体を帰結文とするとその量は当然少ないが、完成しているとすることもできるなと考え付く.冗談で挫折で終止符を打った形に・実際には単なる休止符にすぎないのだが・したところその冗談的になってしまっているような事態だ.どうも本来から落ち込んだところでシステムを考えていた点もあるな




 
そうするとコーシー関係なのであって、冗談をせざるを得ないほど馬鹿馬鹿示しさ、名状し難い不快感というやつだ、他者XY達は何を勘違いしているのか主体疎外を強要したものだった.つまりドン・キホーテ的認識力を持っている愚かしさに気が付かない間抜XY達であるように考えるしかないと




 
プロスペクト理論にちょっと不分明な(頭が作用しないだけだが)疑問点が直感できて、もっとも参照文章に難点があるだけなのかも.単純には利己的それから生存本能による損得感情やもろもろもあるだろうが、思い浮かべず.




 
サルトルの実存とは本質や正義がないものとして設定だそうだ.サルトルの実存的な頭脳気味でまことに不都合な事態になっている気がしている.ここに分析哲学や帰納形式や行動経済学が加わり・・まさに複雑系現実的状態に対してのこのことヤスパース的人間観をあるXXにより、徐化してしまい不都合に.




 
なんかへんだな、先ほどのツイート、頭の冴えがなく説明表現不足で、違うな.ちょっと表現しにくいことを述べたか、相変わらず諦念XXがそのレベル束縛を行使しているような.大体諦念的存在は一生を未熟で終わるからつまらない.ハイデッガーは現存在は往々にして未完に終わると擁護の形だが.




 
No..弘法筆を選ばず、空海の書はどんな粗末な筆を用いても、評価高いハイレベルにある文字を書けるという意味で、どちらかというと技術的側面のこと、また値段の高い低い筆を選ぶのは空海の自由である.同様にソクラテスの無知は知的面において、評価高いハイレベルをクリアしている意味である




 
古典とする時間と空間とすると、古典にもならないものを持ち上げることになり、古典以下とする時間と空間と訂正する.




 
にもかかわらず**結合でうまく宇宙は人間処理・類続をさせているものである.この構造はなぜそのように示唆されているのだろう.そんな疑問を普通の人は考えず、快楽に飛び込みその束縛に酔うのが当たり前と思っている.




 
潜在意識で役に立つどころか足を引っ張る要件しか反応しないXXは価値がない判断して、その数のあまりの多さに価値あるXXに抵抗感を感じてしまうほどになっている.潜在的ということは未来の可能性のあるなきのことで、すでに時も結構すぎたのだが、その頃の不快さは忘れがたく.




 
Z軸のマイナスは深さで、必ずしもマイナスではない.Y軸の+は視野ドップラーとみる近づいてくると大きくなるとか、X軸は反対方向かな.時間のマイナスは歴史.




 
境界域での選択とそれにおける高揚感のようなものは、人間にとって普遍的に遭遇する生理時間帯であることは間違いない.現実に成立している社会の諸々に適合しようとして、あるいは未完成から新機軸の導入という、若者がと特筆することでもなく当たり前で、いかに生きるかは結構その後に影響力を持つ.




 
ABC予想の考え方は巻き込み性を発揮しているような、ヘリウム流動のように視点に壁が発生して、認識視点に乱れがある・・




 
どうも変だな、実証がうまくいかない.勇気は下等な表現としている故が原因であるようなので、これは勇気を用いないといけないようだ.ずっとそんな調子に慣れているので変化に対して、固着感を形成してしまったかな.勇気は身体的ばかりではなく精神的面もあるはずだ、ただやはり身体意識を要する.




 
+∞のみの世界はそのような視点設定では可能である.ニュートン空間的なものにも見える.+∞のみの世界の双対はないのか?.零が双対になる?-そうであるとしても零と無限遠を合わせた世界の双対のことで.




 
対象に不平等がないと多様が成立しない.空海の弘法筆を選ばずの技術力がすべての対象から獲得できるのなら、そのレベルで平等といえるかな.人間が生きているということ自体は平等だけれど、スケーリングは一様性をスケーリング対象全体としないと成立しない.




 
そうなると非常にいらだつ生き方になる.すでにある現実の圧力は強く変化はするのだが、それを予測しておかないことには始まらない.




 
他人の考えの引用・利用は自力ではない-そうなると、コモンローや成立している考え方とかは、排除しなければならなくなるが、それを伝統にしたがっている日本語で行うことは矛盾であるが、意図はそのようなことで、すでにある現実に関してはその知見を要しないという志向は成立してくるのが自力.




 
勉学さえすれば不平等はなくなるような書物を読んだことはないが、しかし勉強してもやはり不平等的な知力しか獲得できな恐れを急に思いついた.緩和される事は確かだろうが、また実際に平等的が成立しているケースのあることも考えることもできるな.




 
荒廃感情・砂漠的都会に群れる若き女性たちならイメージすることはできる.優雅の典型であるような吉行淳之介は別に--優雅などとはその知らない書物を提示した人物の時に思ったことだった.隣の家のゆずの木のある前の道を歩いている時に、雨が降ってきたので驟雨はその記憶を連想させたりしたな.




 
あるXXが今頃は諦念の自覚をする・しているだろうというのを待っていたという無駄すぎる意味なき日々、このXXに対して陋劣ルサンチマン(ルサンチマンはほぼすべて陋劣と思うが)や、潜在蒸し返しにしかならない思考内容が成立するのも、その与件なのである.




 
結局、未だにその出発点構想に依存する事態となっている.なればその時に出発点としてもよかったかなと今思った.空白の歴史時間が生じている中で..




 
法案提出権において、国会議員にも偏りをなくすための数値上の縛りがあるわけだ.国会議員の給与は国家公務員の最高額以上のものとする規定があると、いわゆる議員立法の数は成立数が少ない-などなど少しアルファに傾くと法律が全く浮上しすぎるのは?、ちなみに乞食は軽犯罪法に引っかかる.




 
確率から、相対的確実と相対的不確実があり、宗教的な・細胞的な全か無は確率なしの・を意味している.




 
不変性は特異で可換できないとすると非可換が生じる.特異点解消定理は葉巻のないのと同じような考え方があるような




 
ネイピア数eは特異点に見える視点を持つことができる.多様体を点にするのなら、持続時間を一瞬にすることは同様な考え方と思うが




 
しかしアインシュタインには感心するな、今では当たり前のように思うけれど、時間を遡って想定した場合、不明瞭時点でよく思いつけたものだと.これも類的史上必然時間の出来事と言ってしまえばではあるが、問題は発見と発明という哲学的意味合いなのである.




 
そんな人がアンノウンではいけないはずという思いはあるが、いかんせんそんな多少不条理的な不愉快な情況にありて、また持続して...他者の存在を考えると実際はそれではよくないはずなんだが、理不尽的に正当で、その自己オリジナルを他者たちに模倣されまくっているかな勘違い者たちの甘え・逃避?




 
自分自身で納得する自己純粋視点・意識を他者たちが妨害してくる.




 
そうこのてんやわんやは”自力ですよ”と言われた人物だが、その頃は、そんなことは当たり前で、たとえ女性といえどその対象にあり、その寄与力も排除せねばという志向で、しらけたアドバイスでしかないかった想い出がある.今でもその傾向はありな点が、不利益・類的圧力を受けているなとも考える点に




 
同値的だが異なっているものの区別をどこまで行っても明確にできないと悩んでいたところに、量子の不確定性原理のあるのを思いついた.ペンローズは考えたらしいが、プランク定数でNo.を使えることにとにかくとりあえず気が付いた.少なくとも現在これを用いてもいいはずである.




 
中間存在は積極的自由に必然的にだが、やはり大局的に宇宙旅行をしていないか?




 
時間の壁か、タイムトラベルは現状不可思議である何らかの妨げが生じるだろうという推測可能な体験・経験を持っている.この辺で他者たちも不快な言明をしてくる与件・要素があると擁護してもだ、とにかく過去に蒸し返しをしているのに現在だと思い込んでいた他者達によって、過去に戻される形も不快




 
多幸症はストレンジアトラクターで対処すべきだった思いが浮かぶ、ここでもミスか、まったくミスの連続は中間存在xxの制御の強いことを物語っている.それにしても思い出せなかったのはなぜなんだ.まったく自己判断が働いてもよい既視記憶があるのに・・・、時間の壁が成立するからかもと気が付く.




 
線形エントロピーにおいても境界ではポテンシャルは複雑挙動を行うか、減衰転化で変化するので、普通には後者判断的事態で処理してきた今までの時間があるが、アトラクタ変化自然ではダイナミックな事態が成立するので、人はより対処が要求される形になる.




 
いや線形時間の経過が現在的に複雑系を醸しているということだ




 
動物的だからそう相手にすることもないというほどには、現実は叙事的要素まだまだ強く、日本の歴史は抒情的に思えるのだが.よくある宇宙存在が人間は人類は排除すべき存在だ云々という映画は、人類はまだまだ叙事的存在であるという認識観点に立つものであるという判断.




 
詩編編はそんなに有名なのか?、読んでみたドラスティックな内容ではあるが、シンプルすぎる翻訳で確かに意図はわかるが、その時期のその時代ではそうで、今日に結びつけるには過程の解析云々が必要だ.詩情に怨念を表明する西洋事情はなんというか楽な・・叙事詩的で別に差支えないのか・・・




 
JUNET・許可なくT大とK大をある個人がある時期に接続という記述を見て、氷解したことがある.まったく・・fjなるものがあったな.




 
多幸症的な幸福感を予期して自己セーブしてしまったKの店.神楽坂は音楽の友ホールの先だったのか、行ったことがない.つまり山吹町の坂から神楽坂駅までというコースだった.神楽坂は駅周辺を指すと思っていた.昔の記憶なのに全く時間距離がない、絶対記憶に近い?、今その時間にいるという・・・




 
詩編・あの返り咲きの一木の花を見ながら、歩く道・JKを避けてしまってどうにもまずったその道で、詩編の塊など読んだらたまったものではない幸福感的な予感を覚えた道.また暗黒面というか自虐ではない擁護的な忍耐形成的な記憶のある道.きつさ故自己過小評価につながる考えをしてしまった道.




 
自己気に入りのツイートはほぼナンバー空間に属しているはずで、選別・分別して番号整理すると作品にはなるが・・判別が難しい.ノスタルジーはNo.あたりになりそうだ.白歴史はまずNo.にうまく適合させるとか.なんとなくなんとなくの時間に本当になってきたかな..




 
埃にまみれた土間の片隅に転がっている道具類の画を松屋の展覧会で見たことがある.なんかいいなと思うのはノスタルジーの感性だそうだ.遠くに小さい明るさの円の見える封建的と思われるシビアな暗黒空間色彩にも似て(この封建的な(?)心理で生きている人が実際に一人いることを知ったが、今は?)




 
結構XXたちは魅力あったではないか、一人は他人の母親であることははっきりしている、他のXXたちもそれに準じて生きているか消えているだろうな.男はつらいよではなく、男は困ってしまうよという気分.それぞれに自己の不都合の自覚や魅力の不自覚の齟齬が災いして.




 
ヨブよオリオンを動かせるのかがあるのに、永遠が太陽と番った海とはと思っていると、母音にオメガの黙示録色彩が登場するのでわからなくなる.まあ黙示録の模倣だろう.モーツアルトのレクイエムも黙示録の模倣、(そうなるとモーツアルトのレクイエムといったXXは考えてみれば・・有限ばかり目に)




 
詩を放棄したのち歳までランボーという個体は連続していたはずで、まったく他人などになっていたはずがない.あたかも他人のようであるとおもったのなら、無知という衝動的存在であったことになる.




 
ランボーの母音の色はいいが、永遠は太陽と*は恒星というほどのものではない.ましては私とは他人であるは不快でしょうがない(他人という存在意識事態自己の才能部であるはずで、そう考えないとすると、詩を放棄した私は他人であるということになるぞ).私とは私であるのは当然あるゆえに.




 
そんな芸術的位相は全くよく知っていて、ただしその結果は永遠でなければならないのが芸術である.これはNo.に関連している事柄.




 
Yの延べていたことは、対幻想的には一目ぼれ・オシドリ夫婦・生まれ変わってもこの人と一緒になるといった関係はまさに関係だろう.芸術家は持っている内部の必然意識を使わねばならない存在で、いわゆるYの思想レベルにはある.普通には深い感動という表現も用いるが、どうもこれでよさそうなんだが




 
普通に社会生活をしている人間ではカルマを除去していないはずで、不都合な面はその場合誰にでもあるはずなんだが、それはそれで人々の了解していることだろう.そうではなく無意味な無駄な空白の歴史も問題で、生きていること自体に意味があるとはしていても、心理的に空白の歴史はどうにも今はならず




 
”「関係」は主体の意識にとって絶対性として現れるなにものかであり、問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物ではありえない。”普通に考えると、動物は”問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物”には関与しない.そうとも言い切れないことも最近は考慮しているが、ならば関係は普通には動物的なものになる




 
ダークマター表現を圧力素・圧子・圧素とか名づけるとフィットするように見える.




 
Yo-Yo Ma: Tcaikovsky "Andante Cantabile"はやはりトラークルの詩のように、落ち着き、セロトニンたっぷりである.他の演奏者では出せない.カザルス物は聴いたことがない..そう瞑想によいのである.




 
スターウォーズには暗黒面という考え方がある.暗黒面でなければ光明面が普通で、市場原理を考えていた時にその先という形で暗黒面・深淵に思考がどうしてももって行けなかった.暗黒と光明は漱石の明暗を出すまでもなく、人々十分認識済みの事柄.昔は深淵を散歩できたのに..




一度ツイートチェックされて矛盾点をしてきた人物がいたな.自我を超自我が見た時かその逆化か、超越論的相互対象記憶者の認識頭脳(劣的と想える)をなんらかの自然意識で用いてしまったものだったろうと弁明してみる.
 

対自対他・二項対立・視点の自由は自在だからといってそうも言っていられないツイートに対する矛盾的の指摘を受ける場合.悟性的だったとか超自我と自我の錯綜情態だったとか・・はまずしないはずだけれど一度指摘があったな. 03312016