甲斐性がないという言葉があるが、こんな原始的現実に対して対応能力がなくてもかまわないという考え方もある・ありだが、そうも言っていられないことになるαタッチ.原始自然というパワーは乱暴力がしかし強い.
個人的な思い・愚かであった体力だけれど・と、モチーフ付近のマイクロ蠢きと、世親の物象流れとを結び付ける考え方を思いついている.N的な真空の海と述べると全く悩む必要はなくなるが、心理的に例えばデリダの差異の依ってくるところ、フッサールの一挙の瓦解場とかとマイクロ蠢きとすれば困難さが
すっかり忘れていた空想という無責任領域の存在を
深淵はまだ考えないでよそうとした小学生、黒体輻射(封建的なカビの生えたようなアンティーク色ではなかった黒色の彼方の明るい点域を封建的になぞらえてしまった時が以前にあり)から、Bの動きを想定して、そこに老子の道を考えたことがあった.老子の道は深淵であるとせねばならない個的性質.
ラプラス関数だからアイネ・クライネがか、超関数までだよな、それは普通に無意識に想定しているはずなので、それもあったか.それにしてもモデルが判然としない、ピアニストの方がということにもなるが...、年に進展していたのではもう年以上前の話ではないか.遅すぎる知識-空白が.
ラプラス超関数は年とは、無限遠での状態は自然に任すといったところで、年にアイデアが出ていたとは全く知らず、空白中で・・.頭錯乱するポストモダンのころだったかな.だから無限遠でになるという考えとは異なるわけだ.ばかりではない想定があったのである.年とは*
無名の匿名の領域が偉大な歴史上の存在達の向こう側にあるというヴェイユの考えは想定しがたい.何を言わんとしたのだろう.彼岸なら仏者で誰か了解した人物はいそうだが.
記憶にある不快な言明を除去できないのは、それらが脊髄反射的言明だからではないのかと思った.それにしても人々はそのようなことを脊髄反射で述べる知力があるのかそれが信じがたくなのだが、除去困難さからはその乖離からそのように考えることができると
古池や蛙飛び込む水の音-は最高にしっくりくる味わいを体感したことあり、傑作であるとは思っている.太宰はこじつけ理由による評価なんだが、しかし油断も隙もない野郎だとはいっても昔に死去した人物だが.全く何だかんだいって、読まずにいたものを他人の思考が浮かび上がり時を費やさせるものだ.
太宰治はカザノヴァ型ではないのか、かく述べる当人もカザノヴァXXにほとんど呪われ・憑依される形でうんざりし過ぎの麻痺感をしつこく味わう羽目に.愚かしすぎるも名状しがたい不快を味わう羽目になった対象は、そんな人の心理を加味することなく、体現化して思考の自由の束縛生成となり
いろいろな観点から検証しても間違いなく始まりである.日本の現実は人々の承知しているところではあるが、どのようになっていくかほぼ自動的に変化するはずである.世紀になって早年以上過ぎてどうなるのかと思っていたが、このようなるとは、なるようになった・なるようにしかならなかったと
まずは間違いないようやく片付いた難点、現実には悪くはなかったがただ昔のきつい思い出が災いした・・.ようやく自覚したようで、まさかあるいは消えたのではと思うとドキッとしないこともない.他人の子持ちでどこにいるかも知らないのに、この昔の時間のままが続く観念形態をなんとする.
所詮は 渋江抽斎 であったことに思い至ったが、こんななんでもない簡単なことに、何十年も無駄な設定を構築していたとは、唖然とするばかりである.まさかのまずいXXとは露にも思わず、流れで全く不利益ばかりしたその日々.無駄に忍耐ばかりで非常にナンセンス過ぎた時間を埋めるのも不可能で.
宇宙上の存在ならば世界上の存在であることにもなる.
利用にせよ高笑いにせよ、どうも現存在的な浅さ・隙間感・単なる領域的なイメージでむしろ不快な邪魔になる、これは共和感覚でもあるような.そういえば著述にわたしたちという言葉を多見して不愉快にもなっている.
人は世界内存在であることは間違いない、あるいは生理時間有限体または認識無知体・・・、宇宙内存在というより宇宙上存在という範疇に存在していることも間違いではない.
それはともかく父親存在は、父親存在ばかりではないが、なぜ剽窃をして主体を蔑ろにし、理不尽を要請したのか、父親という存在価値保存のためだったのだろうが、どうもそんな父親は個人としてはダメと今は思え、そんなダメ存在に忍耐強要される・してしまったことは不甲斐ない事態だったなと.
人の主体に理不尽な邪魔をしたからでもある、当然だという想い.どうも忍耐をしている時は頭にきているということと同一意味のようで、経験上時は普通に思われていると思える時間内では、なかなか解決しないという認識である.
実証比較検分と例証要、トーラス的中間・ロビンタッチ、マトリョーシカ的ABC的段階、双対可能性とゲーデルとか徐に表現してみる.羅列の最後の言葉は、視野点がかなりの個別広がりを示すはずのものという想いを携えて.
+αに最近といっても数年前に知った、Yの関係の**性を用いる・援用する・利用するというアイデアが閃く.まさか冗談だろうと同時にそうしても悪くはなく面白面もあり、関係の**性がわからずに悩んだ結果は結局そんなことになっても差し支えないはずと.関係の**性自体は年以上前の考え
方法自由は実存意識と見るとアナーキーは実存的なものになる、これとは異なっているが似たような形で、No.にタイトルを設けてある.ただその実証根拠・証明証左はとりあえず前例結果を援用するくらいの曖昧さのままで、或る+α意識を保存したままに.
その後これといった名前を聞かず、科学哲学の細分化方向に-これはこれで悪いことではないが経済がそれに伴っていることは明らかで、ちょっとイージーなものを感じないこともない.要するに自明なことをトートロジー的といえるが、説明としているような、くだらなさという意識も先ほどまではあった.
科学主義というのは自然科学を科学と称する形か、それはよくわかる思想とするとそうなってしまうものである.科学といえば自然科学を意味するのはそう思っているからでもある.
マッハはニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を形而上学として否定したということか、あの桑の木の中の道へ行く坂道の眺望のところで、マッハがあとゲシュタルトが浮かんだ思い出.確か感覚感であったような、光の直動と結節点のころの話で、さすがにアインシュタインの名前は幼き日に浮かばず
科学自体は中立だろう、それを用いる人間が中立ではないことである.No.の結語にもなりそうな言葉だな.
年の書物か、それから少なくとも年以上、それ以前から思考していたはずで、年は少なくとも経ているアクチュアリズムならば、すでにあるXXの自覚など待つ必要はなく、また自覚したら叙事的になることが今判明した.なんという無駄をまたしたことか..ということが多すぎる.
”現実(リアリティ)は決して現実的(リアリスティック)ではない””仮構組織体はアクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、”--No.より、『見えない目よ粗い目よ』は網目構造意図である.
そうかシステムを量子でできているとすると・見ると、システムのそこにある解体できない現前に対する不快を脱却できそうだ.No.?
“アクチュアリズム”(actualism)・現在主義はドイツで好まれると、この言葉は一言性を持っていていいなとは感じた.そもそも“アクチュアリティ”(actuality)は独人であるハイゼンベルグが採用したものである.ともかく悪くはない.
この場合現実がマイ思考状態になっていないという意識・・
小学生の時に図画で想像部分を写実に対して描いてしまい、その絵は評価されたのだけれど、なぜか罪の意識を感じてずっとこだわった形を、いまその部分はファンタジーとすると許容できる形を覚え、罪の意識が消えた.忘れていたけれどリアリズムになぜこんな拘束意識を持ってしまったのか、たぶんXXが
科学はいいというのは、マートンのの”科学的真理は、人種、ジェンダー(性別)、民族性、国籍や特定の文化など影響を受けないのだ という普遍性(Universalism )への信念”と同じ考え方に拠っている.No.
埴谷の数千億年の数千億倍という逃避思考はよくわかる.あの国道の帰り道の小学生、向こうへ行ったその距離が今ここにいてという、例えば億年彼方の準星と聞けば人は神速で想像でき、しかし億光年も移動したわけではなく、今ここにいるという事態の応用で.最もサイクリック宇宙が今は.
最近はネットのおかげで結構平板になっているとも思える、困難に設定してあるある地点を引き寄せた形かなと、甘い感じでは思えるかな、それではシステム価値が下がる.人々は想定することは全く可能であるが、実際には全く不可な時間がまだまだ続くはずで、ということは人間にはまだまだ可能性があると
人類の悲しみ⁈--構築してあったシステム上は別にであったことに思いつく.すっかり実践生活上で失念しまっているので、この変なことになってしまっているのか、最も実践することは時間的に困難すぎる設定にしてあって..
最高にまずいのはきがつかなかったということ、、なぜ気が付かなかったのかいまだにその理由はわからず、失敗の連続で、意味がないという愚かな日々を過ごす羽目になっている.意味のない生活などつまらな過ぎてしょうがないが、今はヘルダーリンのように柔らかな春の日差しに包まれて生きるのもいいと
そんなことが多くあり過ぎたXXたちのおかげで(XYたちも)、その無理解でたらめさでXXを信用できなくなっている面は強い.そんな中でも無茶なランダム時間を過ごした中でも、全くその時には気が付かなっかったとはいえ、遭遇すべき存在にはきちんと遭遇しているのだから神秘的・超自然的なんだ.
ある大学のあるXXに此岸と彼岸の行ったり来たりは自由だったはずの心性を、その剛体感覚身体に邪魔され、しかも自己謙抑以下にされてしまい、えらい目にあっている.全くA期の幼稚で叙事的XXには閉口、イメージとしてその大学にふさわしくない存在で、その時には気が付かなかった退行的存在明白者
そもそもあそこの坂道でシラーの理想主義には閉口したスケールのなさを感じた幼き日も影響しているな、ベートーベンの第九は有名なのに.シラーはカント主義だそうでそれは理解できる.個人的にはヘルダーリンの方で、地中海の明るさに憧れその多くの時間をセロトニンの日々として過ごしたようなヘルダ
そもそも人類が悲しむという領域の思考をなんとす..なぜそんな思いをしたのか、向こうから歩いてくるSに緊張して・・の結果という事態なんだが、この対象は中途半端でまずいことに結局なり、逆になって実際にこのSは今は他人の子持ちだけれど意味がないはずなのに.いややはりこのSではだめなんだ
S県I市の路上での「人類が悲しんでいるようだ」と思ったことが躓きの元、内容はそんなはずはないのに、あるXXの性的意味合いと同一視したかもしれない.あと行動的なKJがゴミ箱に捨てたのを拾うべきなのに意地でも拾わなかったという些細な事象も寄与している.
非退化な臨界点は孤立点ということで集積ではないという離散はいいが、退化の壁がどうしても越えられない非退化というモース形式について、臨界点でもいいが双方の要素を持った中間度合いを想定として見る-ペンローズのミンコフスキー図も参照して.(ペンローズは仮想案者とずっと思っていた)
判断を思いつかない場合は、その対象の不利益になるということで、その対象からの圧力がかかっている-と何がしかの直接・間接を問わずと考えた.また利益になるケースでもこの形式は成立する.
穴の開いたトカマクはトーラスを抜ける空気量--意識量と似ているな.
言語比較に不確定性原理を援用した今日
エルゴードが等質がノイマンが・・・何G-Ntでコンヌ刺激と、葉層がアノマリーであるとするそのまま--ということだったのか.全く環論への志向趣から何十年、端緒はそれ以前に当然領域があるからなのだが.
様相とファジイとフラクタルと弁証法と・・諸々はそうかNo.24にもふさわしい.あるいはNo.23に位置させてもいい点もある.
西洋的思考、諸行無常ではない個的独立からやはり位置づけで終わると思った.あの時の子音の発語がきつく、こんなことをなぜしなければならないのか止めたと思った小学生、英語の子音形成を全く知らなかった日に.そんなことからLvsRはよくわかるが、それに関しては中世の秋が連なってくる時だった
中途半端に思ってしまうことが多すぎる.当人たちは中途半端とはおもっていないようであるが、何しろ中間存在は存在自体が中途半端、親鸞の悪人も自覚において中途半端など、昔に理解してしまった筈なのに、自らが無自覚的位相になっているという愚かしい時間の経過..
Masasi Kasaki @kasa Osaka-si Kita, Osaka
明日のSTS Networkのシンポジウムで「哲学研究の評価と課題」について発表します。日本の哲学のdemograpicsを集計したので、それも使います。是非哲学関係者に聞いてもらって、批判やコメントを頂きたいです。ttp://goo.gl/vJDSa
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どうやら諸々に接して読んでいると日本は境界域時間に位置しているようだ.それはそれで世界的に意味がある.
脊髄か海馬か-これはいい、いい表現を思いついた.
無理解は動機の錯誤ともあるな、こんな無理解は必要ない理解しあっているはずの二人であるはずなのに、遭遇現実で齟齬・錯誤を重ねてしまったという、現実の愚かレベル圧力では?、その寄与もまた愚かに向かってしまう、つまり愚かさ・無理解を擁護するとろくなことにならず、後には無駄ばかり生じる
XXの擁護のためにそうしたのであるが、それがいけなかった.今はこのXXはある女性に対して冗談的に思ったことを、その女性と認定して、述べているXX自体は私の主体ではないかという逆をよくわかっている.何なんだこの無茶苦茶な傾向は、この整理がうまくいかないのである.無理解すぎるXX
私は私であり、私以外の歴史上にせよ他者を用いて同様とするのは、類推解釈の禁止に当たるとか、それで困って、全く曖昧引用されてそれは間違いなのに・無意味なのに、やけ判断・条件反射的心理肯定行為をして後に悩むことに、ほんとは反対・否定的であり論理的に間違っていると思っていたのに
まなめ @maname
個人のページを作るからダメなわけで、ブログのFacebookページを作れば個人情報を登録しなくて良いのではなかったっけ? / “Facebookページ作り方と匿名利用方法~いいねは身バレ危険 - ポジ熊の人生記” ttp://tn.to/peKejuQq
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閉所嗜好症があるのか、閉所恐怖症はよく聞くが、それである作家の赤い繭は閉所嗜好的な物語ではと浮かんできた.自己成分がひも状にかなって、すべて変異・変移するとは奇怪な幻想ものであることは間違いなく、ありえない.浮遊する中間存在の自己疎外感の話なのかな.デラシネは仏語
マルクス関係の書物から昔に、罪の意識なく論理的人間として生きていくような形式感を感じたものである.いわゆる取り換え聞く歯車のような組織的なものではなく、システム上の歯車なので必要な存在だが、人間的感情の欠けるとものとして.この考えを今の体制である日本に当てはめて考えた人物がいたと
ネット心理によると女性の演技的性格は男の反社会的性格と同様であるそうだ.この女の演技的性格は苦手で、頭が麻痺する・男の場合もそうだが.そうすると男の演技的性格は女に反社会性を強要するようなことを想定する.男の演技的性格はどうやら策謀・陰謀の代償規制と見るとそのように思える.
自己思考形式ではなく普通に線形思考をたまに落ち込んで出した時に、矛盾・整合性の指摘を受けた時があり、その人物は誰かを探したが見つからず.たぶんあるXXの位相に倣って推定そのXXはこのような考えをするはずだと思ってツイートした記憶はある.
節度の止まらない脊髄反射人間たちともいえるな.まあこれらの存在故より個人的意図ゆえのはずだが、まあ多くの不条理・理不尽を行使していることも他者に対してあるな.それより可能性・役立ちさを引き出したい相手たちに、まさに役に立たない、原始回帰的な現象ばかり味わうことになったのが痛い.
XXの忍耐へこみの位相が・・ある昔のある男の不思議な不条理理不尽発言をまともに受けすぎたためが、一番のような.全く何を認知したのかその男は剛体ロボットに近い存在に何を述べても一生の認識到達可能性はたかが知れていると思い込だ故もあるな.
やや遠い将来にXY因子が消えるか弱くなる予想があるが、そうなるとXXが不死でない限り、魚類のような現象が発生することを予測する.不死になるのはかなり困難な身体構造と今の時点からは推定して、XX・XY因子変化が起こるとすればそちらが先だろうと
リルケに対する軽薄ではなくルベーグ測度論的な合点ツイートが消えてしまった.若き日のシュペルヴィエルの善意爆弾からありがたちの一言のみを印象記憶とし、中学生だったかな夏、熱風の中のネルヴァル情熱を記憶とする.
ある駅で電車を待っていた建屋の近くに靴屋があり、靴の文字から靭性の靭の文字を思い描いていた中学生、再度その駅の周りの広場を歩くケースがあり、その時に強靭の文字が苦痛を伴いながら、ずっとまとわりついていた.強靭は苦手である.きつ過ぎる思い出があり、ただしその強靭は有限であった.
温度相対論かそれはいえそうだ.しかしここでも時間作用を考えるべきなのでは、密度が無限大に近いと時間はどうなる-時間はゼロか.
粒子充満の宇宙において多層である粒子位相を考えることは意味ないか.
Rindler coordinateはともかくどうでもいいので、存在論を構想した.なんか相対論の圧力ということはニュートン・ユークリッドになってしまうが、そうでもなくなんだが、αタッチでは即物的にニュートン・ユークリッド圧がまだ強かった.
多世界で人間ひとりひとり区別するという文章を昼間見つけて、あまりにもその単純さ簡単さに唖然としていて、人それぞれは個性を持っている(一つだけの花とか)という考え方を結構シリアスにずっと持っていることから.
あのトンネルの信号のところで考えた若き日、剛体人間は嫌であるが、今日に至って叙事的ハードボイルドでロボット的で何とも感情力が単細胞すぎるという帰結的なものに到達した.時間がかかったな、剛体から見れば抒情は軟弱とかで忌避しがちな面はありそうだが、後システムが解体できない加担するかも
長い直線は無限遠点を越えているのではなかったか?
圧力と密度もゼロとなる星や流体の位置は表面と考えることができる--それで無限遠でポテンシャルはゼロと人は考えるのか.無限遠はこの世界の境界というわけだ.そう簡単にいえそうにもないのだけれど、実用上は全く差し支えない無責任の自由さがあってほっと安心するところだろう.
どうせそんなものだ・倫理観良心力の弱きもの・としていると、XX&XY双方のバイタリティにより双方からストックホルム症候群のように犠牲的情態を強いられる羽目になってしまう.武力型人間に対しては逆効果でどうにもならない乱暴なXX&XYというしか、エゴ増長発揮より良心力増長を望むのだが
自己分析と自己意図と他者認識・考察を一緒のところに保管しているためか、他人には混乱を呼び覚まし、他者認識を主体と思ってしまう・思われたことが多すぎて、それゆえに不快になり関係結節もうまくいかなくなるという事態が成立した結果、他者言明の記憶が不快になって除去処理ができないという悩み
実際にはは管理者が複雑管理を多様管理をしなければならないのだが、管理者世代にその意識はなく、若者は複雑さを感得しながら生きているという乖離構造があるのではと思っている.そうでなければ時間の無駄に納得しないがあるが、現実にやや老齢世代にも実感している存在がいることも確かである.
サルトルの弁証法批判領域の明るい実存か、渋みかもしくはエートスかはてまた昇華か、それを変位させた形をとってしまったことが、今になってその形式を保ちつつの面があり、それが不自然感を齎しているかも.
ホーキングに倣えば、困惑の深淵事象でもそれは蒸発する・何時かは消散する.個人的には深淵に時間と空間も想定しているので、十分な動きは存在することになっている.
明示空間においても取引コストとか過程の様々な操作・出来事対処があるが、暗黒域でそれをどのようにするかが問題な時間になっているのかもしれない.昔、中学生のころは深淵を散歩できたのに、今では桎梏の絶望的なイメージになってしまっている.でもブラックホールは暗黒想定十分な物理の今日時間
象限転回的でパターン類似のイメージは、連合事象というには概念域対象が異なると思いたい.政治的・権力的にはこの深淵から類推できる秘匿域の存在は必然的に存在してしまうのではないかとも考える.
状況は叙事的・情況は抒情的、悲壮は叙事的・悲愴は抒情的など、自然に言葉の区別が成立している.
この付近でほぼ妥協できる成果を得たが、結果から判断してなんと無駄にエネルギーを用いすぎたとしか言いようがない視点である.何とも今までの時間のかかりすぎには何ともやりきれない思いがしてくる.
ここの点を何とかして見たいという設問があって、意味合いはよくわからないのだが、対称設定上は必要かなという図形形式に対して、アイデアが進展したが果たして意味があるのか.まあ結構個性的なと思えるアイデアで、都合上のつながりを仮定できた.ミンコフスキー的な事柄で時間がかかりすぎだ・・・
個人的には意図的に演技をする場合がある・対象をくだらないと感じた時などは特にその意図に反した成果なのでそうせざるを得ないとか.中間存在はすべてにおいてそうなのだけれど、αタッチの現実からは考慮せざるを得ない領域が発生してしまい、ちょっと混乱になっている.これは図式のNo.に似て
本物の人間は演技をしない・する必要がない、普通に日常を生きる-この理屈からすると演技的性格者は偽物人間ということになる.全く昔にそう思っていたことを何十年ぶりに思いだした.全く予定才能を有していない存在によってと自己予定設定判断のミス・無駄などから、無駄な時間を構築したものだ.
自閉症スペクトラムの原因は線形性の壁によると思ってる.複雑性が表に出てきている時代では、線形人間は偏りとかを持たざるを得なくなるのではないかと、
自閉症⁈、或る情景のイメージが閉鎖的でそこで止まり、不快に進展しないイメージというのは自閉的ではないかと.現実の空間的場所にも自閉性は成立するとはあると想定可能で、そう思うと適確であるかな有限イメージのどうにもならない感覚に対して.
なんというかいわゆる足を引っ張るというのはまずいくらいに思っていると、他者から足を引っ張られる形になるという、こんな面での意図は同じにならないどころか逆になる.個人的にはこの逆は無駄なものとしか思わず、大体逆を志向して邪魔をするのは能力がないとまず無意識にせよ思っているはずで.
性的要素による反応状態と思え、ゆえに女性を普通には無視できるはずがないのだが、或る叙事的演技性格XYが、突如・女なんて・と発語した記憶がある.演技性は機能・官能の大いなる援助がなければでき得ない直感があり、この発言は矛盾している.まあこの存在も逆に主体を疎外する存在の内の一人
量子の重なりが個人的心理に浮上、ちょっと遅すぎるきらいを感じたが、或る時、人間的な昔の真理は単純である以前の心理情態にしてみるかと、つい最近数年前に思い起こして、そんな心理状態が今でもちらちら浮かんできていらだちを持っている.とにかくこの領域人間が多すぎるので、量の圧迫によるかと
ちなみに宇宙の熱的死は熱力学第零法則である.
空間的な場合を多く人はパラレルワールドと称している、ニイチェは時間的パラレルワールドが何回も成立すると述べたが、或る昔の時ニーチェは自己を道化師と思った点もあることを読んで気になりすぎて、流しの気分にならざるを得なくなった.フッサールのエポケーに無駄に戯れた頃の自動販売機の前で
相変わらず覇者的人間は機械的でロボット的で無機物的でA期的であるはずが、他の人には良く分かるらしいがわからず、幼稚的な存在でもあるにかかわらず、共同社会的になると有効に作用する・ということは共同体は無機的要素強く幼いことになってしまう.
接平面を点化すると無数に存在するその平面も動くのがバンドルとか、動く接面はリフト形式を考えて、静的射影物象に立体化を与えるという有限形式・であるような事象が印象に残って解けないという妙な具合に妨げを保有するという、ある古びた工場での一日の一時のそこの場所でのほんの数秒の出来事
位相上に局所座標を必要とするとなると複雑になるな、心理の深淵を体感してもそうだが現象事象に適用となるとまた違った趣の複雑さがある.これを客観的に表現しているだけなら簡単だが--現にそうしていて『奇妙な保管場所』と根本的に設定してある、その内容分析を否応でも人々は行っていて..
レム睡眠なく起きだしたその時に、選択した事象がのちに必然になるという・必然的自由(ワーズワース的なと思っているところのもの)のところで、選択の自由状態をサルトルは実存と規定していたと浮かぶ.
当の本人を目の前にして、当の本人の模倣を表明する人々というのは何なんだ.気が付かなった場合やトートロジーの不快を感じることが数多くあり、なぜ人々は逆になり、個人的にはどうでもいい存在に模倣という煩わしさ処理をしなければならないという無駄すぎることをせねばならないのかさっぱりである
現在の若き娘たちに個別対象を試みとして引き出しても目的対象と遭遇しない(最も試み回数が少なすぎるきらいがある、試みが成立しない場合も・もちろん強制ではないので)のでうまくいかないのだが・・・
ハッハッハ、評価してくれる女性がいなかったので自分でさすがというしかない.最も中身を知らないのとオーソドックス権威依存傾向強し女性が目についた形でもあった.いまだにだめで--一人だけ可能性のあるのがいたか、そばにいるときにはその可能性に全く気が付かなかったのが不思議で残念である.
そうなるとSTAP細胞的なことはすでに予測として昔に記述してある、今はそれを表現するポテンシャル・勇気力は弱まっているので、表現化は柔らかな形になるだろう.
あれSTAP現象というのは、今ある細胞がなくたっとしてもの要素を持っているものなのか、小学生年生の時のあの橋のたもとで考えていた忘れない記憶を思い出す.多少関係あることだったのかよ..
Benney 方程式にかなり引き寄せられたが、どうも少し種と異なるようだ、カオス領域に何か未知の方程式が潜んでいるのかもと浮かんだがどうだろう.
根本的に中間存在の閉鎖であるので奇形の定常性を加味したところでどうにも意味はなかったという無駄な労力を用いてしまい、全く中間存在が当然にしか思えない先天的桎梏にとらわれすぎている馬鹿げた存在であることにようやく気が付いた.まあ中間実存などいうのもあるのだが⁈中間実存-そうかこれか
クェーサーのジェットに乗って遊んでいると、地球などという星は原子顕微鏡で見てもわからない存在であるという想像力を用いることはできる..昔、必然的にそのような領域思考をしたことがあり、例えばアタカマの天文学者やホーキングなど、無意識にせよそうする理由があるからそうしていると思える.
進化論に関して多様時間進化という形態を思いついた.すでにだれか述べているかも?.何しろ何年たっても無知は無知が発生するし、シーラカンスがスラウェシ島とかギアナ高地の保存とかガラパゴスなども考慮できる(範囲内とすることができる).同類でも早く進化・変化することも許容になる.
細切れの積極的自由をいくら行使しても無限回数に到達することは人間にはできない.
積極的自由専ら人間にとっては、消極的自由者はいらいらする存在のようである.消極的自由者から見れば、積極的自由者は中途半端なところで邪魔をする・阻害をする、侵入してくるというもので、欲求不満を作り、その上強引処理という理不尽を行いがちである.積極的と消極的のスパンの違いが不明なのか
ふと冗談が現実リアルになってしまうのは、人々が責任を嫌がって、無責任を希求しているからに相違ないと浮かんだ.
レヴィナスをどうするか、カントの定言や芸術意識展開人間であることは疑いようがないが、説明を解釈を見解を陳述しただけとも言えるので.
ハイネか、政治にも革命にも関心を持たざるを得なかった詩人という位置づけで、まず間違いなな.かといって政治家でも革命家でもなく詩人であったのである.
叙事詩的存在か、ハイネをどう思うか発言すればよかったな・精神現象学やエロイカ変奏曲と共に浮かべ、まさかハイネの歌の本とかないと思い、よく知らなかった点も寄与して.とにかくなんというか、色気なるものがない、むしろアマゾネスというようなもの-と思えばそうだな、A期や叙事的XXたちは.
素数の億個の探査で、素数自体が固有性を持っていて、その出現確率はランダムではないと.ランダムというのは精神分裂病・統合失調症とは異なり、でたらめ・でたらめパターンでもないのでそれはありうる.ただそれらの素数をたとえば線で繋ぐという形式をまず考える連携を.
ある対象・XXに、私から見て君の印象はこれくらいのものであるという価値判断を・魅力度合いを持つとする、するとその対象はだめとか・くじけとか申す.なんという傲慢なのか、また他人のことを考えないエゴイストではあろう.ダメなのは君の魅力であり、くじけるのは君の魅力のなさゆえなのに
破滅型という文学人種がいたようである・明らかにタナトスに支配された人々というわけだ.
瞬く星の間にて微かに聴こゆ新星の
幻色の変生にたゆとう時が甦る
真白き雲の海の上眸に映える深遠を
想いつ跳ねて寝転べば昼の陽光穏やかに
久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
静かな内の沈黙が滲み出る時存在す
石川淳の聡明さはわかるが、集大成にせよ狂風記はなんだありゃという感想で、三島由紀夫の豊饒の海も評価しないな.最も両者の作品などどうかすると目を通してみたくらいのもので、読む気もしない.
森鴎外の舞姫も少しは寄与がと思って集中したが、舞姫では話にならないと直に思ったものだ.あの建物の入り口で渋江抽斎などが浮かんでしまったのがその与件だろう.で石川淳で冗談を思ったのが実際になる馬鹿らしさ.森鴎外になぜか呪われているような、中学生の時の安寿と厨子王のきつさには閉口した
とても長い時間なのだが、他の個人的な事柄はずっと保存・暖めている.挑戦しては見たけれど錯乱にしかならなので、畢生の対象に結局なるようなもの.大体ドストエフスキーのネヤ河飛び込みなどを想起して、まことに心外な思いをしたのだが、結局そのようなもので.秘匿の時間も必要なくなって来たな.
丸善で昔に徐に環論から始めるかと思った時から、全く始めていない.進展はなかったが、分類が今でも困難な領域部を知り、空白時間はまだ間に合うとなる.間に合うが、他者判断に任せるとしておいて・専門家に・である、それににしても空白時間は、普通にはとても長いと表現できる時間意識がある.
それにしてもなぜこんな計算間違いをしていたのだろう、これでは頭脳におかしみが発生してしまうのは否めなかった.どのような計算をしていたのか今では思い出すのも困難になってしまった.どこかでこだわった形にになっていたようである.
単純に計算違いをしていたようだ.この違いのずれは大きいと思うのは、アトラクタをどうやら設定してしまうようなので、No.あたりを引き寄せておくか.
わからんカントの判断力や実践理性批判のあらましを見ただけでは全く面食らってしまい、示唆していることがつかめない.純粋理性の定言はわかる.実践理性は宗教から混沌で道徳が-物自体という不明は専ら実践理性だそうで、美はそれ自体で崇高は純粋理性だったか.恣意的概念より内的美意識が優越なら
ふと埴谷雄高に会いに吉祥寺に行った時に取った態度を記憶から消失してみたら、自己主体がスムーズに動くようになった感じである.全く埴谷雄高は邪魔ではないはずとずっと思っていたので、盲点でこの人物が災いしていたのか❓!.まさかそんなはずはという心理を持っていたのだが、まさにまさかである
犠牲とはリルケによれば”どこにも拘束しておくことのできない無際限な決意”だそうで、ある人物の孤独に対する姿勢からの概念であろうと思われる関係とは、リルケにとっては犠牲になる.人間の持っている倫理とは犠牲のことか?、全く想定外で西洋史上のある宗教的位置時間とその伝統からの発生かも.
そして叙事的や覇者的なXXは精神分析観点からは子供である.実際そんな存在に悩んでいるというかしつこく蒸し返し状態を持続させる拷問的残酷な存在にも思える.そんな存在はどうも一生大人になりそうもない直感があるゆえにしつこいようである.昔は男は子供なのよとは普通だと思っていたが逆もある
身体有限性から身体優位で身体的生命をかけても不可能なものは数多く存在している.端的にここから精神優位を考えるのだが、類続のためには身体が必要でそこに相克が発生する.別に相克などを感じない人が普通だろう、またカントやニュートン・ヴィトゲンシュタインなどは独身であった.カフカは相克?
無限遠挙動に関して素朴というか未定の疑念を持っている存在はやはりいるんだ.紀伊国屋で無限遠での結論を出せという内部の声を聞いたときには、無限遠での挙動は複雑になるであろうと、現行境界複雑性からの類推のようでもあるけれど、考えていて、内部の声にはちょっと参ったものである.
理想流体が等速度運動している抵抗ない場では、無限遠でも速度ゼロにはならないはずであると--無限遠境界での挙動は消散するときには有限ポテンシャル基準思考で、無限遠で有限といってもその存在の境界状況はやはり存在してると複雑になり、無限遠で一様になるは射影的であるかなと、
人の主体を阻害する記憶にある言明者たち・態度者たちを除去できないのでいらだっていることもある.まあ人権蹂躙者たちであり、迷惑存在でもあり、でたらめ者たちでもあり、ひいては単なる未熟な無知存在でもあるとか.
糠に釘のような心理イメージを受ける存在は、心理対処優秀と思えるがその半面、詭弁能力(いわゆる無責任)も優れているようなと思うと、心理における苛立ちの説明がつく.帰納の帰結しない帰結の結果も懐疑・詭弁と無理に言えなくもないものになってしまうが、演技的性格の無責任もこの辺に登場しそう
-=という数式の当たり前さに幾何精神が追いつかず(あまりにも当たり前すぎるとさっぱり意識に浮上してこないことがかなりあり)、何のことはないと気が付く始末.
境界域個別事象は超平面にせよ同一面である-トーラス境界を思いついたのはいいが、それに対する思考不十分という事案
問題のある一点にはボヤイの定理とバナッハ=タルスキーのパラドックスが少し?は関係していることが分かった.もっと柔軟ににはリーマンなんだが、仮想線までしか至らず、その仮想自体が成立しないと.虚数線しかなくなる・・・
剽窃が原初からの謎として、つまり、どこから来てどこへ行くのかけっして言うこともなく、その始まりや方向を隠しているあることば、あるいは、ある物語として現われるのは、まずそれが、みずからがどこから来てどこへ行くのかを知らずにいるからである(『エクリチュールと差異』)
またまた指定難病がふえている、てんかん系が多すぎる分離項目にみえるが、そうする理由があるのだろう.遺伝子解析が進んで難病が増えたというのが直感感想であったが、他の理由がありそうなのだが思いつかない.てんかんとソリトンは関係がありそうな意識を持ったことがある.
模倣を許可して自己を主体を阻害する性格、保存で回避しているつもりが、虎的思考なのかその保存を他者が狙ってくるようで、あるいは内部をひっかきまわすとか、なり替わり映画で有名なのは太陽が一杯だが、主体疎外の忍耐も直に発生しているだろう.何しろ模倣なのだから-心理感情の模倣は無い?
人々は単純に現象記述・漱石の道草とか・していてまた、自然に何ら考えることもなく(抵抗もあるときも多い)変化するのは日常と対処している所に対して..ポテンシャルから他のポテンシャルに移行するエントロピー変化の図式に悩んでいるような・・
トーラスを抜ける時間、そこには空間も普通にだが、その抜けた近接地域・領域はさっぱり、ひょっとして境界の形はこうなっているのかも、どうにもこのイメージが気になってしょうがない.
ベルトラミの対象図形想定・鼓や砂時計とか、双曲空間の間やミンコフスキーの現在時間が少し幅を持っているときとか、前者も含めて後者はさっぱりに思考が止まる.
体力は衰えているのに、なぜか心は若返っているような・JKとか登場するツイート例・という不思議な矛盾
つまりマズローの人間は普通の人なので、奇人・変人はにはなれない素質を持っている.ただ共同性による欺瞞・これはくらいの位置で、自覚をまずしない、していてもごまかそうとする.奇人・変人には非線形を見たいが、共同的ではそんなことにはならず、無駄時間を持ったことがまだ最近の記憶に
奇人・変人が普通に人と同じことをしようとしている時、アドラーの補償・いわゆるコンプレックスを見る.その固有性を如実に理解できる人間にとっては、全くの欺瞞を見ることになり、疲れすぎる.奇行・変行を行うのならいいのだが、共同圧力があるというわけだ.ともかくやはり煩わしすぎる.
「情報は未来にちがいを作る差異」とはベイトソンの言葉、サヴァンは過去作用とすると、宗教的預言者は未来を示しているので、サヴァンに対して対極的な存在ではないか
サヴァン症候群についてのいくつかをみると、どうも過去現象か、現在現象までにその範疇が限られているようである.なれば明らかに記憶作用能力が関係している.
『---かくして生命の単純時間論理に従って、対象としての*の論理が飽和を加味して遂行が必然と当然とされるだろう---』-まだこのころは読める文字を書いていた昔の今でもそうである文章よりほんの一部分抜粋.全体文には明暗言葉が躍っている-明暗も抽象的にはNo.にしたためてあり・・
自己ドキュメントをしたためてずっとカバンの中にしまい込んである.他人にとっては自己ドキュメントと見ずに小説作品位に思うとも思えるので、これを作品化して--というアイデアを考えたが、自己筆記文字が自己草書になっていて、自分でも読めず掘り起こしが大変だ-というためらいの時間.
パスカルは頭がいい、宇宙は何も知らないゆえに人間の優位とか、実例の証明に実例を持っ手くるなど見ると、判例はかくある如しを連想してしまう.
それにしても人々は、理知的と脊髄反射の乖離に関してなんともおもわなのだろうか、多分No.でそんな乖離でうんざりしているのも問題なんだが.
脊髄反射に直面すると頭が壊れるか頭が痛くてしょうがない、XXの場合マヒするか思考進歩の阻害・停滞しか齎さないので、まず潜在的才能において役に立たないと考えてしまう.そもそも頭痛く、認識をわざわざ乱す存在をどのように知覚せよというのか、知覚・認識を乱して意識させないようにしている
なんのこちはない、ワイブル分布の正規分布より素早い頂点というのは、信頼工学上統計は従うのだろうが、現実に頻繁に起こりすぎている事象は脊髄反射によるものであることに、なんとようやく気がついた次第.
将棋やチェスが人工知能・AIに負けるのはまあ大体予測がつくが、囲碁までもか、そうなると囲碁も将棋やチェス系かと思うとちょっと異なるな.つまり叙事系ゲームはAIに解析されてしまうということ.
束縛を嫌う人間に抑圧や妨害や愚劣な態度、意図の反対などを行使してくるXXをまず好むわけにはいかない.
ストレンジアトラクタを持ってくるまでもなく、普通に人はランダムな場合には突飛な現象事態の発生というのは、直感できているものである.
妄想実験・思考実験などではなく、思考自体今ある現実であるような思考のこと
思想の思想たる所以を知っていれば、関係の絶対とかの啓蒙・自賛などに見える意識など必要ないんだが.
流血とか殉教とか瞑想の宗教手段はよくわかっていて、ほぼほとんどの所為に関しては記述済みで、ハタと思うと何を悩んでいるのかそれはすでに記述範囲内の事柄ではないかと、他人対象意識のはずがが自己対象意識に方向した場所・時もあったことを思い出す.どうにもまずかった意外にあの街である.
見ようによっては人間の形態は、宇宙の星々の位相と似ている気が、しばらくしている.
筆記している右手が思考する--この感触が環境世界“Umwelt”を知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同で作り上げているに結びついて、思い出す.
C++で理解できなかったものはNTM形式に似ていることの発見・気づき・NFAか.NPはnotPではないということはP≠NP予想問題が成立するわけだ.チューリングの停止問題で放置していた間に・不完全性定理が関与するものとは・NP問題に関して多種のアイデアがは生まれていた.
演技的性格者は偽善体になってしまっている--自己が演技をしていることすらわからなくなっている場合、これよりやや弱い偽善を行うのはほぼ日常であるという人間にも閉口する、なんだかそのセンスあるゆえかまた使用しないためか、麻痺してくるやや弱き日常演技者XX&XY.
その様相が時間的流れではなく、ピラミッド的な縦軸射影としてみているファイバータッチは葉要素あるのではないのかとしてみると、とりあえずは対象から逸脱してしまうので単にミクロのランダムさからの縦的でいいか.
思いが一瞬にふと広がった結果、様々な趣向思考のすべては自己自身とするとなんという人材能力かと自分自身で今感じてしまった.自己自身の制御あぐね様を感じて.
アスペは思想が偏心しているとか、殉教性・的が思想だからそれにこだわるが、どう見ても常識より非常識に近いものだろう.ある線にこだわるとどうしても非常識度は高くなり、常識がおろそかになるのが、今日段階の人間質レベルであると思う.そこにも多種多様な目的意識・スケーリングがある加味が必要
ひろびろとしているのをわざわざ狭くしよう、狭いままにしようとは思わないということを意味している.
自己言及・自己分析・自己把握の内容を当人に述べても、その述べられた当人は理解力を麻痺させてしまい、一体誰に発言しているのかわからない情態になってしまう.自己把握している私は他人ではなく、実に心外事態ということで.この発言者たちの才能・潜在才能はろくなものではないといことになる
うじ・有時と世親の時というか空間粒子的流れ・違うか、関係の考察を集中する意識状態にない、あまり思考しないようにしようと最近考え出したせいか...
ホワイト空間の+次元・ブラック空間の+次元&B空間の+次元と思考はできるが、応用となると・・別に現在空間事実がそうなるが.
混沌・いわゆる人々の無知カルマ・てんやわんやの多様様々思考現象がまとまる帰結によって、真理は単純であるという昔の幸福(?)な日々の時間に際して、今日、無知カルマ・てんやわんや現象が真理単純帰結を抑えて浮上しているという、「弁証法」的にも似た考え方が閃いた.
公式的をハレしかないというわけでもないが、ハレ的にとるのが通常である.TV力はその意味で結構まだ力があるように思える.ただ複雑系はやや膾炙と思え、ミクロ現象が公式に食い込んでいるような現在ともいえそうで.
大正池を始めた見たときにもその世界の果てのようなあるいは仏教的な三途の川のような気もしないでもない、この世の果てのような枯れ木立ちを見て感じるのはなぜか、不朽とも異なるその場所固有の枯れ木達.
枯れ木に不朽を見たことがあるから、枯木灘が若干気になるのだが、このセピア系の時間の止まった画像イメージはなんだかさっぱりわからない.中学生の時に見た体育館の裏の山肌に一本の枯れ木があって、その黒影が下草を従えてあったのを見て不朽を感じた記憶は鮮やかな--少し緩和気味になってきたが
量子エンタングルメントからエンタングルメントでおしどり夫婦や一目惚れは説明できそうである.
法律を制定する側-導く形で作るか・必要だから作るか・面倒で規制してしまおうと法律に従う側の、依存・義務・面倒に対して、こんなことを想定できるだろう.あと自然発生的法律も双方においてありそうだ.
法律-依存して従う・義務だから従う・面倒だから従う--この形式のほかになにか?.法律作成者は遵守をまぬかれているつもりの気分にはなるだろうな.
今日ではニュートンの同期時間と不確定の非同期時間の戦いだそうだ・それはよくわかっている.依然として明確区別・明晰識別が現実には必要で、明らかにニュートン的空間の帰結論である.実際には非同期からすればそれは当たり前すぎることであって問題にならないとのだが、実際現実には問題である.
択一問題はまず定義でそののち定理が存在する、あるいはそれぞれ分離している.まずは定義であったか、定義であるならばそれにふさわしいXXがいたな.あの時も定義という有限性で迷った.迷うことはない好みの存在なのに・・.現実上、規約・規則では有限定義がそこら中に転がりすぎている.
今よく考えてみるとその一種はそうであることに気が付いた.すっかり忘れきっていたことがそのプレッシャーのころにありで、なんともはや全く何やかやで次元劣化になってしまうものだった.他人にはその失念がわかるような気配のあったこともなきにしもあらず・・
若かりし日々の思考についての解説で・その辺にあるほとんどの書物は解説を読めば十分だとしていた頃の自力的な思考だが、いまネットで数学関係などを見ると解説どころの話ではないと、才能的な面を感じるが、そうでない記憶もあって、その辺の絡まりでしばらくは時の推移が続きそうだ.
契機的意地を持って、別の次元的位相思考ができるのではないかと挑戦したが、猥雑な思考・混乱混雑を齎すばかりで実りなく、結局、ある消した記述に対しての解説ばかりする事態・現在になっている.それでもほんの僅かばかり進展はあるのが、充実感につながる形に.
ある人物に対して『人間は有限外オートマトンである』と余裕をもって昔に述べたことがある.中間存在にとってはそれも進歩ではあるのだが、先ほどの『人は有限外オートマトン以上である』と余裕なき実態現実的に述べねばならなかったかもと思いつく.それほど余裕ある対象ではなかったかな?
アルトーの器官なき身体は、今は空想上かもだが、未来予定変化である意識体人間想定によく似ている.身体の衝動性から逃れられるなら、確かに人は自由になれる.人は生きているだけで生理・物理の束縛を持っている、畢竟人々はそれが人間だからと述べるだろうが、現状持続性に基づいた意見である・・
中間存在を超えた暗い側に深淵が・明るい側にオープンスペースがあるのは普通で、絶対空間のどこまでも依存している場合に、その依存領域に無限を持ってくるというなんでもない普通のこととの齟齬が中間存在とに発生しすぎている.人は、有限外オートマトン以上のものでありたい・あるはNo.に
自然発生した(?)市場に対して、深淵の壁を構築した記憶があり、明らかに暗の方であるので、消えた・沈み込んだ歴史過程をこちらに持ってくるという、未来志向のみではなく、過去事実に対して考慮すると幾分か深淵領域に進めることができそうだと思いつくが、意味を持てるか.失敗データベースは?
あの去る昔にエポケーなんぞをする必要もないのに、おもむろに戯れた形で操作してしまって、想定上のデリダ的深みに直ぐに到達・考えてみればこれはNo.のケースの内容にできるではないか.深淵型の有限性を加味した形なんだが、ハイデッガーの根源に対しての作用はいまだ浮かばず.
ある作家がか月しか住んでいなかったアパートの移築話を見かけた.何やかやでこの作家恵まれているな、つまびらかにか月間に文学的価値があるという掘り起こしが周囲から成立するように.富士はクリスマス菓子であるという、ケ(褻)意識十分な演技なのかやけくそなのか個性なのか疑念はある・・・
そんな中で結局不快を残したまま一人は消えていることは確かで、納得せずのために訂正に行ったのだがその人物の連れの存在で雰囲気上止め戻り、他の人間たちは今頃どのように生きているのか不明、まあ全く記憶に残っていない形で生きているだろうが、こちらは不快な記憶を持っているので面白くはない.
多分に理解力ないので、その現時点理解力によって強引判断をしてきたという判断をしているが、あまりにも愚かしいその強引判断なので唖然としている記憶である.もっともその発言時間では理解できずで、親切対応をしてしまったのもまた愚かしい仕業なのだが、そんな愚昧意見を述べる設定にはなかった
そのような意見はトートロジーであってなんの意味もなく、そのうえ対象設定自体を間違えていて、個人的に不愉快なXXに同値化してくるのが不思議でしょうがない、他者XX・XYの意見は、その不愉快なXX言おうとして言わずに我慢した私的考えなのに、それらの意見はそのXXに言うべきである.
例えばユークリッド幾何学は世界のどの国へ行ってもユークリッド幾何学であるのように同様である.No.に関して.
天網恢恢疎にして漏らさず・をやや今知った「知天有道守」の意味合い的に解釈していたのだった.もう少し何かありそうだが寡聞にして知らず.その辺の意図や感触を『見えない目よ粗い目よ』とはNo.に表現してあるはず.知るところにして知る・知っている・理解できる・理解力があるなどとかで
限定合理性はその限定ゆえにそれを強調すると無駄な束縛になる可能性が高い、ところが限定ゆえに様々・多種多様な規定が可能となり、また事実はそのようになっている.この規定をかなり網羅してある全書があり、この網羅能力でも全てという合理性ではない.いわゆるその実務はやはり多様の限定部になる
構想文章自体を帰結文とするとその量は当然少ないが、完成しているとすることもできるなと考え付く.冗談で挫折で終止符を打った形に・実際には単なる休止符にすぎないのだが・したところその冗談的になってしまっているような事態だ.どうも本来から落ち込んだところでシステムを考えていた点もあるな
そうするとコーシー関係なのであって、冗談をせざるを得ないほど馬鹿馬鹿示しさ、名状し難い不快感というやつだ、他者XY達は何を勘違いしているのか主体疎外を強要したものだった.つまりドン・キホーテ的認識力を持っている愚かしさに気が付かない間抜XY達であるように考えるしかないと
プロスペクト理論にちょっと不分明な(頭が作用しないだけだが)疑問点が直感できて、もっとも参照文章に難点があるだけなのかも.単純には利己的それから生存本能による損得感情やもろもろもあるだろうが、思い浮かべず.
サルトルの実存とは本質や正義がないものとして設定だそうだ.サルトルの実存的な頭脳気味でまことに不都合な事態になっている気がしている.ここに分析哲学や帰納形式や行動経済学が加わり・・まさに複雑系現実的状態に対してのこのことヤスパース的人間観をあるXXにより、徐化してしまい不都合に.
なんかへんだな、先ほどのツイート、頭の冴えがなく説明表現不足で、違うな.ちょっと表現しにくいことを述べたか、相変わらず諦念XXがそのレベル束縛を行使しているような.大体諦念的存在は一生を未熟で終わるからつまらない.ハイデッガーは現存在は往々にして未完に終わると擁護の形だが.
No..弘法筆を選ばず、空海の書はどんな粗末な筆を用いても、評価高いハイレベルにある文字を書けるという意味で、どちらかというと技術的側面のこと、また値段の高い低い筆を選ぶのは空海の自由である.同様にソクラテスの無知は知的面において、評価高いハイレベルをクリアしている意味である
古典とする時間と空間とすると、古典にもならないものを持ち上げることになり、古典以下とする時間と空間と訂正する.
にもかかわらず**結合でうまく宇宙は人間処理・類続をさせているものである.この構造はなぜそのように示唆されているのだろう.そんな疑問を普通の人は考えず、快楽に飛び込みその束縛に酔うのが当たり前と思っている.
潜在意識で役に立つどころか足を引っ張る要件しか反応しないXXは価値がない判断して、その数のあまりの多さに価値あるXXに抵抗感を感じてしまうほどになっている.潜在的ということは未来の可能性のあるなきのことで、すでに時も結構すぎたのだが、その頃の不快さは忘れがたく.
Z軸のマイナスは深さで、必ずしもマイナスではない.Y軸の+は視野ドップラーとみる近づいてくると大きくなるとか、X軸は反対方向かな.時間のマイナスは歴史.
境界域での選択とそれにおける高揚感のようなものは、人間にとって普遍的に遭遇する生理時間帯であることは間違いない.現実に成立している社会の諸々に適合しようとして、あるいは未完成から新機軸の導入という、若者がと特筆することでもなく当たり前で、いかに生きるかは結構その後に影響力を持つ.
ABC予想の考え方は巻き込み性を発揮しているような、ヘリウム流動のように視点に壁が発生して、認識視点に乱れがある・・
どうも変だな、実証がうまくいかない.勇気は下等な表現としている故が原因であるようなので、これは勇気を用いないといけないようだ.ずっとそんな調子に慣れているので変化に対して、固着感を形成してしまったかな.勇気は身体的ばかりではなく精神的面もあるはずだ、ただやはり身体意識を要する.
+∞のみの世界はそのような視点設定では可能である.ニュートン空間的なものにも見える.+∞のみの世界の双対はないのか?.零が双対になる?-そうであるとしても零と無限遠を合わせた世界の双対のことで.
対象に不平等がないと多様が成立しない.空海の弘法筆を選ばずの技術力がすべての対象から獲得できるのなら、そのレベルで平等といえるかな.人間が生きているということ自体は平等だけれど、スケーリングは一様性をスケーリング対象全体としないと成立しない.
そうなると非常にいらだつ生き方になる.すでにある現実の圧力は強く変化はするのだが、それを予測しておかないことには始まらない.
他人の考えの引用・利用は自力ではない-そうなると、コモンローや成立している考え方とかは、排除しなければならなくなるが、それを伝統にしたがっている日本語で行うことは矛盾であるが、意図はそのようなことで、すでにある現実に関してはその知見を要しないという志向は成立してくるのが自力.
勉学さえすれば不平等はなくなるような書物を読んだことはないが、しかし勉強してもやはり不平等的な知力しか獲得できな恐れを急に思いついた.緩和される事は確かだろうが、また実際に平等的が成立しているケースのあることも考えることもできるな.
荒廃感情・砂漠的都会に群れる若き女性たちならイメージすることはできる.優雅の典型であるような吉行淳之介は別に--優雅などとはその知らない書物を提示した人物の時に思ったことだった.隣の家のゆずの木のある前の道を歩いている時に、雨が降ってきたので驟雨はその記憶を連想させたりしたな.
あるXXが今頃は諦念の自覚をする・しているだろうというのを待っていたという無駄すぎる意味なき日々、このXXに対して陋劣ルサンチマン(ルサンチマンはほぼすべて陋劣と思うが)や、潜在蒸し返しにしかならない思考内容が成立するのも、その与件なのである.
結局、未だにその出発点構想に依存する事態となっている.なればその時に出発点としてもよかったかなと今思った.空白の歴史時間が生じている中で..
法案提出権において、国会議員にも偏りをなくすための数値上の縛りがあるわけだ.国会議員の給与は国家公務員の最高額以上のものとする規定があると、いわゆる議員立法の数は成立数が少ない-などなど少しアルファに傾くと法律が全く浮上しすぎるのは?、ちなみに乞食は軽犯罪法に引っかかる.
確率から、相対的確実と相対的不確実があり、宗教的な・細胞的な全か無は確率なしの・を意味している.
不変性は特異で可換できないとすると非可換が生じる.特異点解消定理は葉巻のないのと同じような考え方があるような
ネイピア数eは特異点に見える視点を持つことができる.多様体を点にするのなら、持続時間を一瞬にすることは同様な考え方と思うが
しかしアインシュタインには感心するな、今では当たり前のように思うけれど、時間を遡って想定した場合、不明瞭時点でよく思いつけたものだと.これも類的史上必然時間の出来事と言ってしまえばではあるが、問題は発見と発明という哲学的意味合いなのである.
そんな人がアンノウンではいけないはずという思いはあるが、いかんせんそんな多少不条理的な不愉快な情況にありて、また持続して...他者の存在を考えると実際はそれではよくないはずなんだが、理不尽的に正当で、その自己オリジナルを他者たちに模倣されまくっているかな勘違い者たちの甘え・逃避?
自分自身で納得する自己純粋視点・意識を他者たちが妨害してくる.
そうこのてんやわんやは”自力ですよ”と言われた人物だが、その頃は、そんなことは当たり前で、たとえ女性といえどその対象にあり、その寄与力も排除せねばという志向で、しらけたアドバイスでしかないかった想い出がある.今でもその傾向はありな点が、不利益・類的圧力を受けているなとも考える点に
同値的だが異なっているものの区別をどこまで行っても明確にできないと悩んでいたところに、量子の不確定性原理のあるのを思いついた.ペンローズは考えたらしいが、プランク定数でNo.を使えることにとにかくとりあえず気が付いた.少なくとも現在これを用いてもいいはずである.
中間存在は積極的自由に必然的にだが、やはり大局的に宇宙旅行をしていないか?
時間の壁か、タイムトラベルは現状不可思議である何らかの妨げが生じるだろうという推測可能な体験・経験を持っている.この辺で他者たちも不快な言明をしてくる与件・要素があると擁護してもだ、とにかく過去に蒸し返しをしているのに現在だと思い込んでいた他者達によって、過去に戻される形も不快
多幸症はストレンジアトラクターで対処すべきだった思いが浮かぶ、ここでもミスか、まったくミスの連続は中間存在xxの制御の強いことを物語っている.それにしても思い出せなかったのはなぜなんだ.まったく自己判断が働いてもよい既視記憶があるのに・・・、時間の壁が成立するからかもと気が付く.
線形エントロピーにおいても境界ではポテンシャルは複雑挙動を行うか、減衰転化で変化するので、普通には後者判断的事態で処理してきた今までの時間があるが、アトラクタ変化自然ではダイナミックな事態が成立するので、人はより対処が要求される形になる.
いや線形時間の経過が現在的に複雑系を醸しているということだ
動物的だからそう相手にすることもないというほどには、現実は叙事的要素まだまだ強く、日本の歴史は抒情的に思えるのだが.よくある宇宙存在が人間は人類は排除すべき存在だ云々という映画は、人類はまだまだ叙事的存在であるという認識観点に立つものであるという判断.
詩編編はそんなに有名なのか?、読んでみたドラスティックな内容ではあるが、シンプルすぎる翻訳で確かに意図はわかるが、その時期のその時代ではそうで、今日に結びつけるには過程の解析云々が必要だ.詩情に怨念を表明する西洋事情はなんというか楽な・・叙事詩的で別に差支えないのか・・・
JUNET・許可なくT大とK大をある個人がある時期に接続という記述を見て、氷解したことがある.まったく・・fjなるものがあったな.
多幸症的な幸福感を予期して自己セーブしてしまったKの店.神楽坂は音楽の友ホールの先だったのか、行ったことがない.つまり山吹町の坂から神楽坂駅までというコースだった.神楽坂は駅周辺を指すと思っていた.昔の記憶なのに全く時間距離がない、絶対記憶に近い?、今その時間にいるという・・・
詩編・あの返り咲きの一木の花を見ながら、歩く道・JKを避けてしまってどうにもまずったその道で、詩編の塊など読んだらたまったものではない幸福感的な予感を覚えた道.また暗黒面というか自虐ではない擁護的な忍耐形成的な記憶のある道.きつさ故自己過小評価につながる考えをしてしまった道.
自己気に入りのツイートはほぼナンバー空間に属しているはずで、選別・分別して番号整理すると作品にはなるが・・判別が難しい.ノスタルジーはNo.あたりになりそうだ.白歴史はまずNo.にうまく適合させるとか.なんとなくなんとなくの時間に本当になってきたかな..
埃にまみれた土間の片隅に転がっている道具類の画を松屋の展覧会で見たことがある.なんかいいなと思うのはノスタルジーの感性だそうだ.遠くに小さい明るさの円の見える封建的と思われるシビアな暗黒空間色彩にも似て(この封建的な(?)心理で生きている人が実際に一人いることを知ったが、今は?)
結構XXたちは魅力あったではないか、一人は他人の母親であることははっきりしている、他のXXたちもそれに準じて生きているか消えているだろうな.男はつらいよではなく、男は困ってしまうよという気分.それぞれに自己の不都合の自覚や魅力の不自覚の齟齬が災いして.
ヨブよオリオンを動かせるのかがあるのに、永遠が太陽と番った海とはと思っていると、母音にオメガの黙示録色彩が登場するのでわからなくなる.まあ黙示録の模倣だろう.モーツアルトのレクイエムも黙示録の模倣、(そうなるとモーツアルトのレクイエムといったXXは考えてみれば・・有限ばかり目に)
詩を放棄したのち歳までランボーという個体は連続していたはずで、まったく他人などになっていたはずがない.あたかも他人のようであるとおもったのなら、無知という衝動的存在であったことになる.
ランボーの母音の色はいいが、永遠は太陽と*は恒星というほどのものではない.ましては私とは他人であるは不快でしょうがない(他人という存在意識事態自己の才能部であるはずで、そう考えないとすると、詩を放棄した私は他人であるということになるぞ).私とは私であるのは当然あるゆえに.
そんな芸術的位相は全くよく知っていて、ただしその結果は永遠でなければならないのが芸術である.これはNo.に関連している事柄.
Yの延べていたことは、対幻想的には一目ぼれ・オシドリ夫婦・生まれ変わってもこの人と一緒になるといった関係はまさに関係だろう.芸術家は持っている内部の必然意識を使わねばならない存在で、いわゆるYの思想レベルにはある.普通には深い感動という表現も用いるが、どうもこれでよさそうなんだが
普通に社会生活をしている人間ではカルマを除去していないはずで、不都合な面はその場合誰にでもあるはずなんだが、それはそれで人々の了解していることだろう.そうではなく無意味な無駄な空白の歴史も問題で、生きていること自体に意味があるとはしていても、心理的に空白の歴史はどうにも今はならず
”「関係」は主体の意識にとって絶対性として現れるなにものかであり、問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物ではありえない。”普通に考えると、動物は”問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物”には関与しない.そうとも言い切れないことも最近は考慮しているが、ならば関係は普通には動物的なものになる
ダークマター表現を圧力素・圧子・圧素とか名づけるとフィットするように見える.
Yo-Yo Ma: Tcaikovsky "Andante Cantabile"はやはりトラークルの詩のように、落ち着き、セロトニンたっぷりである.他の演奏者では出せない.カザルス物は聴いたことがない..そう瞑想によいのである.
スターウォーズには暗黒面という考え方がある.暗黒面でなければ光明面が普通で、市場原理を考えていた時にその先という形で暗黒面・深淵に思考がどうしてももって行けなかった.暗黒と光明は漱石の明暗を出すまでもなく、人々十分認識済みの事柄.昔は深淵を散歩できたのに..
一度ツイートチェックされて矛盾点をしてきた人物がいたな.自我を超自我が見た時かその逆化か、超越論的相互対象記憶者の認識頭脳(劣的と想える)をなんらかの自然意識で用いてしまったものだったろうと弁明してみる.
対自対他・二項対立・視点の自由は自在だからといってそうも言っていられないツイートに対する矛盾的の指摘を受ける場合.悟性的だったとか超自我と自我の錯綜情態だったとか・・はまずしないはずだけれど一度指摘があったな. 03312016
kc14061:このブログ(夢・哲学・詩)は結局自叙伝的で記述は非線形的(時間自由)更新をします.autobiography at all--this blog have nonlinear timeline: マイシステム設定を一応使用する.my Religion is the Heaven of the Space. My-systemがあなたを導きます.0~30の数値の中で一つだけ自由に好きな数字を選んでください.
2016-03-31
2016-02-24
my ft 02242016
超自然的必然における善悪の不条理に納得がいかず、さっぱり発生理由・根拠がわからないが、事態結果にして(他者にとっては全くそうであるが)流すか、しかし過程の時間に不都合な思考発生なので、そうしてしまうのも難しい.いずれにしても思考寄与が自動的になるはずになるはずで..
映画で英語の特徴ある長調の長セリフには息切れしてしまう.どうも日本語とは異なる共時と通時の間の距離感覚で、共時的には長く通時的には短いということか.
何を考えていたかすっかり覚えていないが、論章を描いたことは確かなNo.
超意味なき実存分析感の圧力のようなものを感じる羽目に
極限的なことは実存は嫌で嫌いだと思っていると、逆状態になってくる.こうなると嫌いなものを好むという逆をすると思い通りになるということではないか.そんな矛盾はできかねるが、そうこうしているうちに逆の成立ではトライを考えてしまう.
時過ぎ去りて思考舞台が変容しすぎてしまった事実を知った.どうするか.ただ単に個人の記憶のみで、自然の形態は人工作用以外は変わらねど・・・ショックすら感じないこの精神、意図していたことは意図していても実際となると、全く不都合しか残らないものだ.意図自体もミスッた結果になってしまった
罪刑法定主義にはあの戯れに卑小に思えたフォイエルバッハでもと思ったあの部屋の父親が深く関与していたのか、この部屋の気分を忘れはしないが変更をしないという思いで.
そうなんだな動物も見栄を虚栄をする、そうなると陰謀や詭弁もすることになる.
反復して同じ結果を得る-信頼性の意味合い.そのような人物は安定して計算できるといういいかたがある.が飽和からするとマンネリ・ワンパターンのうんざりという見方にもなる、その距離の問題で、後者は荷物になってしまう.そこにある無機荷物はずっと同じようにある・・
典型的な複雑性社会の考え型に沿っていると考える.そうであるならば思い描いていた意図とほぼ同じ形をしている.それを実行することが望みだったので、いいかな.(個人としては一人の実行者・オブジェクトにしかならないが、まあ応援・サポートと取れないこともない.)
ABC予想、同一世界の入れ子・マトリョーシカ
うぬぼれというトートロジーに対する無知、あるいは不快な記憶
水平と垂直視点の交点で見るのはミンコフスキーの現在.別に空間に焦点・時間に焦点を合わせようとなんら矛盾が生じるか?.無限遠点での視線が必要なのは射影空間的でその思考をしているだけ.それでは別に価値は射影論発生時から変化してはいない
プランク定数未満に拡がればまた価値観もまた確かに変わるだろうが、それに整合した価値意識も類は考え出すことだろう.
ラカトシュ賞メンバー業績はNo.3に採用できるはずである・・・
経験・体験時間がある程度長くなると、意識的にせよ無意識的にせよその時間に拘束されてしまうのが現実的人間といえる.
矛盾にも度合いがあって・・・と考えると、あるいは矛盾の最大値とかを設定したりする考え方とか.そもそも矛盾が成立している場というものがまずあるはずとなる.
無底の自由という西田概念は、射影空間のイメージとよく似ている影像をもたらしている.
『疲れたら交代する』のはごく普通に維持上考えることだろう、昔に論理上に当然設定(No.12~15当たりのどこか)してあるのだが、今頃研究チームが騒いでいる時間をなんとしよう・・・
一歩下がる癖がありすぎて、抵抗体に遭遇するとすぐに避ける形を取ってしまう.下位か上位とかの位相に向かう傾向は、そもそも遭遇自体が必要ないということを意味している.普通にうまくとらえると、一歩下がりはN-1次元の境界を意味して、それはその対象体・対象領域に対して、優越する位置になる
おもむろ思索で正解なら方法論が非常にまずかったことになる.時間は無駄に流れて、おろかしい気付きの長々とした時間距離の為体さ
歳時でよかった?のなら、歳の月の一様関数XXでよかったのではという思い.いまごろ何をしているだろうXX、その時にはまったく気が付かずただ会話内容に錯綜邪悪な全く必要ないことを考えてしまい、今更取り消しは心理記憶でできるが、覆水時間は元に戻らず
感性の判断においてはその時々の心理気分で妄想・奇想・夢想・幻想・空想などを行ってしまい、現実際対象・事象を見間違うことあるので、線形と非線形ケースなどを判断のよすがとすることも、現実には有効であると考えるまでもなく、当たり前か.
おもむろに考えた、歳時のパターンでいいのか?
件の人物はその身体優位性が親鸞こだわりを齎していたのは間違いないところだろう.無底の自由という言葉はNo.にせねば、ここで有限を設定するかどうか迷って、有限言語化したのだが、有限はいつでもというほどによういではないようなだが、外してよいものである.
”我々は自己の個に徹すれば徹するほど、無底の自由を自覚する。”西田哲学だそうだ、人間はすべてこの無底の自由を持っていると同様なことを述べた人物がいて、どうにもいらだつわかりかねることだったのだが、西田幾多郎の哲学そのようなことがあったのか.個体にもつながるな.
しかしふと徐精神を持って見ると、どうも自分の考えを随所に用いているような現象を想起した.まあいいのである、それが意図でもあるので.原理的に持っていたのだが..いろいろ未知・無知人間の粋がり反発を受けすぎている今までの時間といった趣表現は当然できる.そうでない人々も多かった?
ポパ00年---この値の微妙さ、これではまずペーソス退行XXは役に立ちそうになく、もっとも他の面でもそう思っているのだが、無駄を間接的を超える以上に強制した存在ではどうにもならんことは、先の時間から明らかに.ちょっと傲慢を止めて謙虚さが必要だが、どうにもそんな能力があるとは
なんか最近フォン・ノイマンに一言いいたい気分になっているということは、環界の変化によるのと自己歴史の感慨からかな.ノイマンのリングがエルゴードならちょっと何も言わないことにしよう.なぜかなんだかわからない・思考刺激をしないノイマン環もまた不思議なもの.どこかで何か接触している?
とはいうものの、明らかに大丈夫なはずなんだが、帰納の帰結設定は心理にいらいらする心持をも齎している.共時的帰納も当然あるわけだが.
市場原理でも年前に暗黒空間が出現して、思考が進まなかった.そのかなり前に、市民は希望であると思ったときに、やはり暗黒空間が出現してこれはなぜなんだが不明であった.この両者のパターンは似ている.後者は等質空間のような、前者は深淵である.さて何かのヒントになるか?
つまり交換に対して反交換的人間が、交換性の邪魔をする.少なくともある視点では、反交換は反交換であるので、それを自覚するか、両親に文句を言うか(第一義的原因は両親にある)、変容しようとするかで、交換に無理やり割り込む必要はないのだが.
怜悧という線描曲線ではないか、心理印象では参った回もの.
アルファタッチにしたらもう面倒で、永劫回帰を無限回行うとしたら、超人的生き方など空しい(皮肉にも)というか、それがどうした・気にしてもいられないというような、ニーチェのどうでもいい扇動・説得力になってしまうように思いついて.
1/∞VS∞/1のような類比をすると、孤独であるの逆は全てと親和性があるということでもある
直感では不随意運動と脊髄反射は結びつく要素を想定してしまう.あれ、不快な記憶で悩んでいるものは、脊髄反射的反応言明ではないか?、さっぱり理知的には判明しない麻痺作用であることはわかるのだが.
ある視点から蛇足に過ぎない人間もいる設定を心理にしまっているとする(良心的面から)、その視点者ではなく対象としている他者に遠慮した形の良心的心理をその視点者と設定してしまう他者認識に悩まされて、そのような愚かさが障害となるケース多すぎて.
αからの障害とするより、愚かさ達からの障害と述べたほうが良いかな.まあαからの障害もないはずもなく、愚かさ達は全く疑いようはない.
記憶に残っている不快な言明者たちには、それなりにどうも責任を与えることにした無駄な擁護を強制される・不当に歪めを強いられた思いなので、歪める以上それなりに責任を持ってもらわないと困るという理由から、明白に一人は消えているのでどうにもしょうがない、+αでもう一人いるか
しかしフランクルが超意味設定していたのは知らず、それを考えるとまた困ってしまうが、フランクルはフランクルで、むしろ超意味の設定自体を知らなかったこと自体の方が、問題(先に言えという自己弁護も)ということになって、なんだという思いもする無駄な極限想定をしたものだというそこの信号の処
『疲れたら交代する』これは思考の内に記述してあることである.
結局、他社たちXX&XYの愚かさに付き合いすぎて、愚かさ以下の生存時間を過ごしている結果になっている.まったく不都合なものだ.何たることはなく、むさくるしいXXやむくつけきXXと当人が実行していない実行すべき事柄をはやどりして、実行や実行結果あてはめをされて、しらけすぎなXY達も
ようやくウィルバーの意図をほぼ了解したかな.インテグラルという言葉は嫌いであるので疑念をもつが、(個の外面と集合の外面の短絡があるような?)、マズローにせよウィルバーにせよ、一言表現をするならば”頭がいい”という領域・範疇の人物たちである.
過去の解説をするより新しいことを考えると決めたウィルバーのある時、こんな文に接すると、相変わらず解説ばかりでしかもその情況がまた伸びるという時間が続きそうで、なんとも.まあそう簡単に新しいことを考えることができるほど、過去が限界的ではないという面もある.
しかし人がワープとか考えるのはそれなりの思考構造を持っているのかも知れない.ベルトラミ構造からはまず普通にワープ形式を思え、トーラスにもその香りはある.トンネル効果の示唆はあるかも、むしろ相転移の示唆の方が強いかな.壁の向こう側はどうなっているのかという疑問感が要請する?
しかし物理にせよ宗教にせよとにかく人々の空想力(未実証もの)には恐れ入る.追随して・容易でもないか・判断はできるが、やたらと詭弁的頭脳になりがちになってしまう難しさがある.想像力はいいが空想力はいただけない考え方で、区別が他人には困難なのかも、確かに共通する点はある.
サイクリック宇宙*無限回&仏教周期*無限回のようなケースをかんがえることができ(仏教はちょっと大げさなはったり的大きさ表現をしていないか?、実践する精神では困難を齎す予測はあるが)、これらの逆もまた考えることができる.
普通には多元宇宙の一つから別の宇宙の自己に会うときには、若き自分が老いた自分に会うというケースであり、その修正を考えていたら、ボルヘスの砂の本の中の設定とそっくりなことを思いだした.ボルヘスは多元解釈的な面があって、複雑怪奇的と、そうなると多元映画は、ボルヘスの映画化かとすでに?
現象的には、良心の呵責・罪の意識は、類続構造の圧力からくると考えられるが、無機物には当然罪の意識などないことから、罪の意識がそう内容な指示的人間は無期物体に近いものとなる現象判断ができる.病的な場合、無機的な場合、状況的な場合(戦争状態)、動物的な場合にも、多くはそう言える.
数が多いはジップの法則判断においてなのだが、自分で考えない存在は往々にして共同体思考に依存してしまう、この存在の言明が往々にして悩ますという・容易にまた判断する傾向を覚えてしまうという点が、いろんなケース設定になる.大審問官や衆愚政治&その・・・
有限叙事的粘性虚無-虚無に有限があるのは盲点だった.まったく単純に考え難い
帰納-プラスでもありマイナスでもある.
どうも落ち込みに安楽を求める形になる、ドストの人は被害者意識を持つというような気配も覚えないこともない.これが変わるのだがその時間が成立するのかの時間無意識中--変わるというかずっと昔からその位相設定なんだ...
『古典とする時間と空間』などと過去を煽てたのでその付けが出ているが、ふと思うと現実はそんな形態で、卑屈を要請される形になってしまっているが、結構人々とこれ位相が同じなのかな.あるXXがここでも卑屈感をもたらしているという過去形なんだが、自らを全く過去にしてしまう意図せざる展開
一言はよかったが旧態持続型人間に辟易していることをまた忘れてしまっていた.結構システム圧力が強いので、というか急には変われないからだが.奇形系が持続意識を持っているという矛盾が問題なのである.奇形系はそれ自体変人であるのですでに変わっている.
常識は自然に無意識に当たり前なことなので全く面白くはないが、日常では頻繁に用いる.ただし区別して覚えるのには大変な量があるものがあり、つまらないと称している暇もない場合もある.
不快な記憶は不自然の強要な事態だからであるという帰結になりそうだ.
心理の次元が落ちているケースでのツイートで、昔に矛盾的を指摘されたことがあった.心理の次元が落ちているというか、蒙昧な女性が対他寄与しているか、非科学的な無知存在が影響しているかな存在を、こんなケースでは思い出す、科学はいいといった人物を.大体反映なんだなこれ、しかし相手でなく
宮沢賢治の世界はアドレッセンス・と自分で言っていたらしい、そうかなるほどそんな趣をそうとらえるとそう思えるな.銀河鉄道の夜という作品のあらましを知ったのは小学5年生の冬の時で、とてもついていけない空想物語と思った記憶がある.まあそんな小学生もいるわけだ...
つまり日本はポテンシャル<エントロピーの時代にほぼ正確には0年から転換したということになる.
ベルグソン・ベルクソンではなんといっても全く記憶にないが、笑いの哲学に目を通したこと.微笑や共鳴笑い、哄笑などなどパターンがいくつもあるその概念・身体減少.エラン・ヴィタ-ルは単なる飛躍ではなく、共鳴もあるだろうけれど、まあ相転移的ジャンプまで行くのではないか.
あいつは優越感ねと理解したが、現実に意識がわからなかった.深層的事態だったのかも.で普通に何のことはなく人は優越感によって生きていると思うのは、まったく当たり前すぎる自然すぎることなのだが、人間存在に存在論的に組こまれている物は優越感とすると結構つじつまがあうかな.
経験上遭遇したパリサイ人は視野が狭い気がしている、それと権力的にすぐ傾いてしまう、つまり進化論的に弱肉強食の動物界人間のように見えるということである.自己自身の良心が欠けるきらいがあるので、他人も良心が欠けていると思い込んでいるような存在と
ここに至って,Θではなくαタッチに注力しなければならないことに、まずはホイッグ史観に直面することに、デンマークのユダヤ人のスウェーデン移送から発生.つまりは社会進化論からで、スペンサーはまずエントロピー史観と現象的には見ることができる.『エントロピー史観』--この言葉結構いいな.
君はあきらめるんだあきらめるんだは悪魔のささやきとしてゲーテの箴言
それにしても気にしたいXX、ほぼやる気をなくさせることしか言わないのはなぜなんだ.まさにこのXXたちは悪魔的といわねばならない.まあXXに限らずXYも模倣乗っ取りのような悪魔的存在も多くいる.
生きていることは常に身体的不自由に直面しているということである.
創造を現代ではないと述べていた評論家の意見が気になっている.確かに実際に創造は難しいが、最初の試みというのはあり、それが起源・オリジナルという記録は残る.模倣ではなく起源的な所為は記録されてしかるべきものと考える.汎関数的?なシミュラークルでもなく.
JKが自分の年齢だろうが何だろうが1だったのでNo.1にするべきだった.なんというかやる気をなくしている頭というべきか、劣性XXが災いをしているのでは、その気持ち悪さで、インフェリオリティはアドラーが建前で優等表現をしても、やはり反動で厄介なものであるのが現実.
弥生の寄与が強まると太平洋戦争なるケースが生じたことになったとか、天皇家も縄文の遺伝子を持っているはずで、本来の日本人は縄文の遺伝子的存在なので、皮相的に倫理面で世界的に無理解されているところも無きにしも非ずがあるようで.
憲法第条は与えられた形や死中に活やウェルズの思想より、縄文の遺伝子が引き寄せたとする考え方が日本的かな.
マタギのすべてを取るのではなく、来年以降を考慮して調節しながらの自然に対する意識は、多分に縄文の分かち合いの遺産ではないか.縄文時代の島国は楽園であったことは想像に難くなく、遺伝子を受け継いでいる日本人の伝統に、憲法条も乗ってきているような感触がある.当然徳川幕府の鎖国政策も
多世界ジャンピング映画、一つの世界での死は他の世界ではそうではなく、まだ生きていると、なんと離散的世界のアイデアはわかる.人はそんな多世界・他世界位相解釈能力を持っていることも知っている.SFを見ていると個的アイデアに関してうかうかしていられないという思いで、アイデアが湧くかと
なんだかローレンツ変換ではないかと、それならNo.でスピノザ決定は時空が関与する.浦島太郎は当然の話で、むしろ日本の昔話が相対性を予期していた点があるとも.あとNo.にはスピノザから多元があり多世界もヒントしている.まだ今日風には要素があるが、とっさに結びつきの説明がつかぬ.
散乱場でも南場宇宙でもいいけれど、想像・想定するだけならいいのだが、生理心理で同様なケースをリアルに覚えて、冗談を設けたらそれが本当と他者達に見られるのは不快すぎることで、そのようにみる無茶苦茶な他者達は何なのかさっぱりわからない、おかしな存在であるとしかならない.
人間が人間として存在しているだけで持っているものは、先天的存在かつ後天的存在だけれど(最も多少どちらかが優勢な偏り人間はいるし、また日常においてどちらかに偏るけーすもある)、そのような存在が日常生活していると、その判断はそこからやってくることに間違いはない-という現象論
家父長制は精神分析的にはA期的事象といえる.帝国主義・覇権というニュアンスは家父長的色彩強く、A期的とするならば、戦後によって日本はG期を行う羽目になった形である.大人になるべき・なったという現象ともいえる.
親鸞の悪人正機説の応用で、どうも記憶にある不快な言明者たちの分析をすると、無自覚者は他人も無自覚者と思い、くだらない自覚者は他人を無自覚者かくだらない自覚者と判断する傾向が強い.くだらない自覚者はむしろ他人を無自覚者と思いたがるかな、それぞれ主体の阻害を行使してくることになると
古典と量子でDとD-1次元的考えは、ボーズ凝縮論とまず似ている.
現実論的には経済は歴史の圧力である
ユーパリノスは虚無に対してソクラテスが無能感を感じる物語、虚無=叙事的無ではなかったか.建築に関しては不朽性を持つと芸術になる.
ある不動点定理から、無限点でで消散するという考え方はストレートだなとは思う.消散してどうなる、消散とは明瞭なのか、消散しているところの場の様子はどうなんだとか、自然に任さないとするとそんなことを考える.保留中からは結論を出している消散やゼロは都合を除けば無責任感触もまた浮かぶ
そういえば今まで一番のお気に入りは、ボーズ凝縮数粒子は全体粒子よりも少ないという説明であったことを思い出した.気分よくなったその論理と方程式説明の記憶がある.
夏目漱石・道草より、一度起こったことは形を変えて続いてゆく・から、ある時点での形を変える以前のエントロピーは減少している、これは日常生活上頻繁に起こっていることで、形を変えたエントロピー量は以前のエントロピー量+形変化に対するエントロピー量として、エントロピーは増大していると見る
去る昔、新宿紀伊国屋のFで、想定WH側の無限挙動を考えていた時に、ちょっと想像しがたいので自然に任すとした時に、はっきりしろという内面の声が?、自然に任す(とりあえず)としたのに、この内面の声は何、誰か他人の要請としか思えず・これも自己主体のなせる業というのか・不思議な・・・
どうもブラックホール的ではなく、ホワイトホール近くで無限遠点挙動を考えるところが違うのかな?
知行合一は山がそこにあるからで知先行後はそこにある山に登ろうと意図して登る-単純には本能と理性(本能的理性もあるから語弊があるが)の違いのようなもの.(倶舎論の文字はちらっとは目に入っていたが、別にというようなものだろうと、そうではなかったのだが)--朱子学や陽明学が?
マルクス・エンゲルスが科学的と称して、唯物弁証法を用いて共産社会実現を夢想した.仮にその夢想が成立した(国家なく貨幣制度無き社会)として、用いた弁証法の寄与が、実現によって消えてしまうような影響力しかないと考えるのは、どうも非科学的なのでやはり共産社会の止揚はなければと考えるが?
差分を止めたらある存在が幽霊のようになった、これは一つの解答・解決策だが、実際になぜという感じは持つ.少しでも煩わしい悩みが減るのは(過去が想起する悩みが減ることは)、その悩みエネルギーを未来への悩みに向かって使えるのでいいことなのである.
大体、深層心理をこと細やかに配慮しても、対象が深層心理をもっていないや、心理すらないような物象的存在もいるではないかと.ところが自らが他者の全く配慮無き発言を受けた場合はどうなるのか・・不快な言明として記憶に残っているものは明らかにその対象である.
体育館のそばの陽だまりの中で、ケットベクトルを想起したことは、懐かしい出来事と思うべきかという想いが過り、危ういどうしたものか・心理を変えることになりこの瞬間先が見えなくなるゆえに・・・
過去は時間的に過ぎ去ったことだから、あまり過去に向かうという考え方はさほど、ただし非可換でないと未来の不明が成立しない理屈.未来が可換としたら現在から未来が判明することになる.まあ地球は明日も自転・公転をするだろうは可換的であり、地球実在はてまたこの宇宙の存在持続も未来的なこと
時空の連続体の量子化の候補が非可換幾何学とか、非可換の連続が不確定のスラーとかなんだが、わからないミンコフスキーを破れず・・・
実存は苦手不快で中途半端なもの通時的な場合も心情に災いする.深淵を歩き回る世界線やパスカルの実存世界はいいはずなんだが、封建的な通時的旧式を覚えさせる実存も結局まずい.
要するに帰納より演繹が好みの人間がいて、ただし演繹レベルの対象差があることが問題となる.まあある特徴作家が”自力ですよ”と、過剰にわかりきっているアドバイスを無駄だがそれ事態は貴重なので記憶している."愛読者ですよ"とその妻に.別にプロットは嫌いではないが、センスは好みではなく.
ちょっと面白くない知らせが、なるほどと思うことはあるが、判断材料にさせてもらうのはしょうがないないだろう.まあ厄介な帰納の不確定の煩わしさも見えないことではない.帰納はエントロピーに追随しているや甘えている・エントロピーゆえにとも思いつけることに.
楽園・幸福情態を予想させる考え方自体が、その楽園・幸福情態を否定しなければならない要素を含んでいるということは、それはタナトス的になる.これで、若かりし日、市民が希望であるが徐に浮かんだ時に、そこに付随していた暗黒空間の理由がほぼ解けたかな.(希望になぜ暗黒が付随するのか疑問で)
「エントロビーの溜まり場J-量子系の励起モードの数(これはインスタントか)に対応の歪みとは、なるほど.やはりこの面でも時を徒に過ごしたかという側面を感じるが、時間経過における結果を待っていた意図が優位にある.
亡霊はあまり考えられない.他者の怨念・未然愛惜が意識体に?、それは他人のことなので想像しがたい.ともかくタイムマシン的だけれど未来の場合にはゴーストはある可能性がある.(個人的には近未来年時間のみとして)
出る出ると言って出たためしがないのが幽霊なんだけれど、自己の未来の影像は揺らいだ液体で構成されている人体(表現はまるで映画プレデターの透明映像とよく似ている)のように見える.人の直感・幽霊という考えは結構当たっている.今のところ過去は見たことない・実体を持っているから.
昔、亡霊ではないがある存在の影像の動きを見たことがある.今考えると自分の未来の行動形態で当てはまる状況があり、未来の自己はまさに幽霊のような映像に見える.
カラビ・マルクス現象は普通で当たり前のことである.中間存在は普通自然に工夫して、依存的自由作用を持ってくるのが厄介.
ネットを別に用いていないのかどうかT大生すべてが有能とは思えないようなネット現象を感じるものである.しかしT大生一般はあるレベル以上であることは一般的に確かでもある.(ここが小学生の時からの問題で、昨日になって閉鎖という言葉を思いついた・かなり信憑性がありそうな個人的見解である)
不快な言明の記憶ある人物は倫理観が弱い・倫理観が悪いということなんだが、その子供の倫理がよくなるはずもないので、雲孫あたりまで行っても倫理面は良くならないだろうくらい言わないとしょうがないなという気分..まあ倫理などは無いと言っているが、あるでたらめの言い訳レベルを記憶していて.
「賢者の石」―藝術及世界に就ての考察―〔「水甕」卷1號 大正年1月〕詩集轉身の頌序---によれば日夏耿之介にとって、宗教と哲学と詩は区別さるるものとある.夢と哲学と詩は区別しているものとした話をある作家にした時、夢と詩は区別できないと申した.夢は宗教的意味合いが強いのだが.
不条理が人間存在にとって必須ならば、神はなぜ悪と善をの問題は人間世界だけを見れば問題ではなくなる.何しろ不条理が必須なのだから、ここには神は不条理のない存在と見ている前提がある.
理論と実践は異なるとかの確定出ない事柄は、さすがに現実のものとして直面するようになる.どうにもそうなってしまう不可避的でこれでは生存過程が
うまくいくはずないではないか.ただそんな問題を避けて、他人転化と他人依存状態化すれば回避できる(中間存在はそうしている)
”ストロミンガーの提唱した系は、同時に解かなければならない四つの微分方程式の系から構成されており--”えっこれひょっとして昔考えた種の特性方程式と似ていないか、一つ一つの解・既約方程式が難解そうではあるが極度に難解なものをまさか想定したはずもない・・・
どこまで行っても分離しないケースとどこまで行っても結合しないケースがあると仮定する.前者は一応思考できる.
徳川時代の鎖国や黒潮の潮流や縄文時代の寄与などから、日本はどうも閉鎖的な国の雰囲気が縄文より続いているような気がしてきた.ただ戻る場合には確固とした地域ではあるが、外部に向けてはオープンとは言えなくなるような形として.
そこからRNAi・RNA干渉を知るが、忘れていたテロメアに関係しているとは冗談ではないな.ヘテロクロマチンはできるならば種にして貰いたい気分がある.昔はRNAから皮肉位相的に考えようかと思ったことがあり、miRNAは予想していなかった次元記憶があるので確信的に時の流れを感じる
前提条件に有限があることを強く意識せざるを得ない.ヒュドラがそれ以上生成できないようになる時空域、foldを一つ一つその連結を断っていくようなものと考えてしまうとまずいことにはなる.それより分岐生成力が多様分岐を処分していって分岐が生じないようにするという考え方にしよう-なるほど
時間的に複雑自体が変化するものを定点化していたことが判明、愚かな自虐を行使した問題が解けた‼(全くなんでもない単純なことで徒に時を過ごす羽目になる-徒労に呪われているのとは多少異なった面で).時の流れに平行して動けばそれはそこにある現象にしかならないよくある解析感覚と同様である.
要するにパスカルの想像力は理性の邪魔であるということなんだが、想像力がないと視野がまた進まないことも確か.問題は複雑な理性以上に複雑な想像力ということで、またその想像力はそこに意味があることにもなる.
偏屈(でなくても)XY(XXも)的権力視野剛体強情自己欺瞞性演技擬態体人間は確かに剛性を持っているので変化にぶれはしないが(ぶれる能力を持ってないという見方もできるが)、柔軟性の欠如があり、硬度硬くステム的で・・・ある消えた人物を思い出してみるとそうである傾向にあったとしか見えず
どうもケインズの幸せな時代およそ%の物価上昇率は安定で理解できるが、時代の流れがケインズの時代と異なった変化をしていると考えざるを得ないのではないか、そうなると変化率も変化させる構造が出現してくると
リーマン球が無限遠点と称するとき、連続体仮説などは考慮していないようなのだが、その辺はこれから精緻になっていく可能性はあるか?
きょう徐に考えついたが、資本主義とプロレタリアでなぜプロレタリア独裁になるのか、文献類に目を通したことがないので理屈が不分明だが、素直に弁証法を適用すると止揚とは資本主義でもプロレタリア独裁でもなく、それらを混合した新たな局面になるはずではないかと.
単に小学生の頃の思考の方程式化ともいえる.全く遠慮することはなかったという思いである.この遠慮はすでに過去としたXXが足を引っ張る形で、常に欠如感をお垂らすように作用するという、不快な無駄ばかりを要請される形となる・何しろ潜在才能が役に立たないとう時間遅れ思考を非常に経験している
シュレディンガーや不確定性、生成・消滅も必要だったのか、これはちょっと勉強しないと直感では追っていけない対象であるは、素直に思える.
冗談には遊び的があり、自由には責任が伴うのに、冗談には責任がないというのは少し変である.冗談が事実的になるのはそれが責任に転化される形となると考える.なぜ他者は冗談を真面目にとるのか?.発散解消的なものなのに、有限実在束縛にしては意図が異なる.
経済に道徳はないと人の述べるとき、その人物は経済は薄情であると述べている.権力的叙事的つまり統合的人間にも道徳はあまりなく、薄情であるとXX&XY双方多く存在していることよ.
そうなると記憶にあり、ある人物の不快な言明にはその当人に責任を負わさねばならないと考えるが、すでにその当人は故人である.なんとしようか、蒸し返しで対象が全く異なるドン・キホーテ様言明をまさか行使するとは全くその時に考えず、消えた後から思いついても意味がないが、不快は不快である.
ζとBでが出てくるを今頃知ったという(避けられないことだったかという想い)、相当時間の無駄・ラプスと思うが、別にそうではない?.この数値に関してはそのときには直感では意味がない・大げさと思ったゆえ(少しは意味もあるかとは思ったが・次元の頃)--潜在的は考慮の内に第二楽章
トヨタのCMもあってやはりリスクは動物的か-身体的というか--非妥協にはリスクが付きまとう
昔考えた種の特性方程式(それぞれ既約)がまさか種の基本相互作用の解というような複雑なものではなかったな.ただ種の相互作用などは考えたことは記憶になく、たまたま種の特性で、また次元特徴もあって、種の特性は結構個人的に楽しみを齎している.
ディラック作用素はラプラシアンの平方根だそうである.クラウジウスとディラックの精確さは対象により差異はあるが、同レベルとしてよさそうな..しかし量子の精密さとは定性の度合いが違った.クラウジウスを考えていたのに、少し時が過ぎるとすっかり忘れて、ディラックの単子ムードに躊躇った廊下
弁証法的な超対称性を行使しない・心理感情的に似合わないので.超対称要請もしくは阻害強制を受けていて不快でしょうがない.不快な感性のフェルミ型がボーズ型をやればいいではないか、単体的なのでエゴ丸出しが自然だが、別にそんな自然を持っていない人間もいるのである・ことに苛立っても無理.
いわゆる覇者的や叙事的なども無機的要素強い.唯物は当然そうなるが唯物と観念も実践と理論で思考必要だが、無機的と有機的でホワイトヘッド傾向をこの場合考える.
剛体的・帝国的・道具的・行動的--おおよそ無機的傾向が強いことに気が付いた.道具的=オブジェ的も成立しそうで、幻想力自体がハード要素を持っているとしているので、ある作家の想像力についておおよその見当がつくことになった.もっともこの人物の固有性を考えていた結果無機的にたどり着いた.
あんまり反応ないと思えるので、やはり今の若者にしか理解できないのではという思い上がり的要素もあって、それでも即物現象に飛びつく存在はどうかと思うけれど、即物社会現象自体は共時線を突っ張っている点もあり、いくらな何でも時間が過ぎてそれ以上に古くなってしまったとか、それは歴史上になり
類群暗示から頂点代数暗示が出てきて、Jとか8個のテンソル積とかモンスター数と共形変換とか-全く昔からのモンスター暗示はよかった(ムーンシャインで区切りにしたが)けれど、例によってfold回避という分岐に関してこの辺であるという直感試みが共形に関連しそうとは、ラプス時間が長かった
前のツィートから偽善体・演技的性格のすでに自己主体を亡くした存在(無自覚人間が多そうであまり自己主体がわかなくなっても差し支えなさそうな存在もいそうで)は、生理的人間の範疇に入りそうなアイデア・可能性が今まで麻痺しすぎていた現象・事象対象時間から逃れ出てきた.あまりにも単純な・・
中間存在や実存人間&無機的傾向人間がとにかく有限束縛をしてくるという現実.生理有限から出れない人間たちの嫉妬心がよく言う勝手に動いているとかの表現になる.XXたちの生理必須条件がなければ存続不可能という事実に依存しているような意見として.
未来を見ていたが遭遇した時にはそのことに全く気が付かなった.その未来が過去となった今ははっきりわかっている.まあ未然未来の連続で、ろくな成果である未来ではなかったことに、根拠がわからないという悩みがある.個人の性格遺伝子と思えばだが、それにしても変で、他者たちの災いが一番ではと
全く冗談じゃなく帰納の原理的不可能性と哲学探究の煩わしさの時間を持つとは、ベーコンのヒステリック心性感受は原理的不可能性で理解はできたが.そうなるとエールのリンダも似たイメージなので了解できることになる.その上に定性メロディも帰納的曲状となることになる.
無機物からの進化・変化が人間に意識・思考構造を齎したと考えるが、ブラックホールという無機物構造がそこに立ちはだかるという情況.それはそれで自然宇宙の似姿が人間の思考構造とできないこともない.
G宇宙は理論的、ブラックホールは実践的でその関係の別の思索方策的な事柄.
類群で不快な心理変化を余儀なく・・・構造の単純化という.グロタンディークの宇宙とブラックホールの関係でまたまた不明な行き詰まりを覚えることに.
ありゃ事象の地平線の前では、グロタン宇宙は・・という実践理性と..
NBG集合論を用いた-フェルマーの最終定理証明にグロタンディークの宇宙を用いたのか、ZFCより弱い体系でも可能ではという心情はわかる・直感できる・・・
実数のある形の複雑さ=混沌に対しての位相.客体的と主体的数学者がいて、岡潔なる人物は主体的数学者だった気がする、悩みの観点からは主体的の方がその強度は強いという意味合いを与えた形として.
それらの間のなんやかやがイメージ接近を齎していて、しかし方程式はオブジェ的にも見え、近似的とも思える.今のイメージではそれらでいけるかもという感触を得た気がすると、しらけてつまらなくなってしまったという気分も湧いているが、そうなると前進を余儀なくされるのがパターンであるが、はて?
そんなかんやで個人的な直感が志向するのは頂点作用素である.これはモンスターの流れからきているのかもだが、実際には頭痛くなる以前の記憶があり、しばらくした今またどうも対象として浮上である.
しかし個人的感性では、類体という言葉のイメージが似合う女性はいて、好むスプライン&心性を持っていると、ある温泉施設の休憩所で遭遇したことがある.それほど難しいとは思えなく、そうなると類体という言葉に対するイメージが違うか、件の女性が実際は難解なのかもかである.
その昔に、時間があったら類体論を考えるとしたが、そのような気楽?な対象ではなさそうだ.イデアル類群がまず難しく、非可換類体論の定式化は初頭でも成立してない情況で、さて今は?おそらく今もだろう.
種の固有特性解を持つ方程式はひょっとしてスツルム=リウヴィル型微分方程式のことなのかも--特性値の判断から思いついたその昔
自己主体の疎外を要求してくる存在は、承認の要求を要請しているのだと思うけれど、そんな存在に限って他人の承認をしていないので、何しろ主体疎外を要求するのだから、当然そんな存在を承認するわけがないということを無理に押し切ろうとする、バカらしさを覚えさせ無いで・という不快な記憶
初めて行った小学生の時の霧藻ヶ峰のレリーフの印象はは何十年たっても鮮やかに覚えている.誰なのだろうなぜこの岩に描かれているのだろうと、眼前の樹木にかかっている鮮やかなサルオガセの塊の鮮やかな灰白色の印象と共に
supermanifoldでgrassmann oddをθにするのが常識になると困る、反対の記号意図を持っていて、でもそれとは区別すればいいか、そう帰結を急ぐこともない.
退化因子まで登場するなら、退行強制・要請存在に対して打つ手がありそうなというより、要請存在の方で手段を構築すべきである.退化ばかり要求するにもかかわらず退化しない状態を持つことはできないだろうから.それにしても昔には厄介なXXたちが眼前に出現したものだ、記憶内容が面白くなくて..
そうか単振動ではなく、まず最小複数で引き込みが起こる(これも知らなければいけなかったが)、これは中学生の時の少数循環繰り返しやどこまでも続くπの展開数列意識に関連していた.今でははっきりとわかるエンタングルメントが謙虚さを要求したためか、全くこれを思い出すこともなく自己判断欠如と
世界がなくなっても一杯のお茶があればいいはおかしな言明である.一杯のお茶のある場は世界だからである.これは言わずと知れた傲慢な心性を示す人間の心理が客観世界がないという無意識を表現した形である.
ゲーデル解・年”回転する一様な粒子を仮定した解。 宇宙項を入れている。 時間が輪を描いており、過去と未来が繋がっている。”--ゲーデルはそう考えていたんだ.そんな簡単だったのか?--多少困ったな、現実人間世界を基準にすると(宗教的は結構密接した地平になるか)考えずらい.
エンタングルメントと述べてしまうとしらけてしまったかたちになるが、それに気がつかなかった当時間が問題で、何が障害になったのか思い当たるような考えが浮かばず、さっぱり相変わらず説明がつかない.エンタングルメントは考慮中に登場しているのだが、距離はそれほど長いイメージは持たなかった.
ド・ジッター宇宙は事象の地平線を予測している結果、事象の地平線でド・ジッター宇宙は有限であることになる.(余計なエポケーをしたときに即座にデリダの暗黒に到達して動きが取れなくなったことを思い出す、ここでは脱構築は困難であり、ハイデッガーの限界でもある)
バネ振動子”バネの力がわずかにフックの法則からずれている状況”は大いにありうることであり、”そうなると振動の周期が元の状態からずれる”という帰結は・事象は全くありうることである.--非常に不明だった時期があり、何のことはなく全く実存的制約に陥っていたか、劣化XXの寄与が遠くから?
単純に重力球状天体に沿って光が曲がるとき、天体は+曲率を持っているが、当の光は-の曲率と見える
慣性の法則により、空間が曲がっていると一定速度なのに加速したように感じる相対性原理ゆえに.なるほど対象により変化して来るとはアインシュタイン.慣性の法則・等直線運動を考えていたある家の裏の道を思い出す.確実特定場所の記憶はないが、およその時間記憶はある.
”臨界点近傍における物理量の臨界挙動は漸近的に冪乗則に従うことが知られており”次の場合だけれど、臨界点がまず存在するという前提があればいいのだけれど、区別がどうしてもできない悩みがある.しかし、漸近的にべき乗則に従うという考え方は使えるな
foldに関して例えば”正標数の場合は暴分岐重複ファイバーが現れる”などがあり、好きな人はいるな.そういえば何とも言えない混沌暗黒についていけない理性を持ったことがあったのを思い出した.ちらちら見る組みひも論よりはるかに複雑怪奇な混沌像だった.
ホップ・ファイブレーションでも楕円でもいいけれど、変形方法はいろいろある.素線で領域を瞬時に埋め尽くすとか-紐は弦は行き着いた形?
回転楕円体関数がある以上微分方程式は避けられないものだったと今頃気が付く.foldが苦手なので結び目と当然苦手となる、複雑で・・ところがこれらに不変量を求めて鵜の目鷹の目のごとく挑戦者がいて、またその結果を出している.
普通に宗教の古今東西の開祖は神人化になっているな・もう人間実在の構造自体に機縁するものとしか思えない.日本人に甘えの構造あるが、宗教に依存する他国の人間はその宗教に甘えている形という表現を常々持っている.土居健朗は他国の宗教分析をしなかったのか?--カトリック信徒だったを知った.
想像力は肯定しているので(空想力はあまり肯定しない&妄想力も、夢想力はそうでもない)、そうなるとあの小学生の時の図画における想像力部分は、選者に対して騙したような写実意識における罪悪感を持たなくてもいいではないか、選者に遠慮した形と、写実の圧力を受けた記憶が離れない.
昔にランダムを否定できずに考えていた所の近くで、頭が何らかの構造の倍率的なものを構想したことを思い出した.これは今になって理解してみると拡大に相違ならないと.するとシステム内容構築時には、ガロア拡大的要素は持っていたことになる.(表現は幼稚かもしれないが、内容は難しいかもとなる)
『層状組織』に対して、共役断層と断層帯や活断層も考慮せばならないが、それによりより現実に近くはなる.『位相差を持つ』で含めることはできるが、初期単純直感視野には、アルキメデス的なものとして認識で、それからどう変形するかは考慮の内だった.
No.5に帰結もしくは結論を設けても良いというアイデアが浮かんだ.潜在的にはそういうことだったが.
分岐素点?、どこまでスラーを分離できるのか、非可換でもスラーを導入するはずで.
この現宇宙は部分ではあるが、BHでオービフォールドになっていると推定表現してみる
トンネル効果もニュートリノに関してはどうなるか、そのうちにニュートリノ何とかができてくる可能性は否定できない-質量があると閉鎖的になる--?そうなると重力も閉鎖を考えないといけなくなる.
回転でが変わるなら位相を動かせばいいわけだ、これである存在たちの不快な位相うおよび言明処理方法が見つかった.次元に組みひもでは、どうも不快に敬遠する直感を持つわけだった.
現状、秩序の原点は対称性の破れとして見る
生まれて何か月の赤子は後天的には清潔だが、先天的に清潔かどうかは不分明といえる.
”無限遠点での特異点は、正規化(整閉)の過程により、(曲線であるために、)除去される”-つまらない.とにかくn>ではn=が成立して、対象式があるとすれば特性になるが、エキゾチックであるかもしれない.
リーマン球は明暗や反交換も設定できそうなことに気が付き、だれが考えたのかリーマンか?、価値がありすぎるような直感がある.タイヒミュラーというか立体楕円のもう認識できないとすると、無限速度の概念を考えついてしまう.若きあの暑い夏の日の、砂上に一輪の花が咲いている河原で想起した日よ.
任意の直線(数直線でなく)が半径無限大の時、では直径はどうなるかというとリーマン球が登場して、タイヒミュラー的にしても記号θは成立するではないかと気が付いた.リーマン球に赤道を考えた場合、C平面に原点を置いてふつう考えるが、自由な回転をすることもでき・・.
孤立保存則と対称性の破れが階層構造を齎すとなるらしい、これによると縦型構造の存在説明ができそう(前者のみだと)と一瞬直感したが、後者によりむしろ日常現実根拠がそうなっているに傾いてしまった.
本能の固有性No.だけれど、これをどのように表現するか.
それにしてもすでに過去としたXXお対象設定にしようかとしていた時間の記憶が束縛・他者も巻き込ンでいるような事態感覚がある.存在理由的には逆になっていて不自然な情態であるのは確かであるが、人々はなぜかこの不自然が自然だと思いたがっている・またそう思い込んでいる.
現実に無限が全く実在しないから
ちょっと、0年間と残りの時間の体感時間はほぼ同じといって、全くこのことがおよそ真実なら、説明のつく思考体験事実がある・それに説明がつくような.
P≠NP予想はそこにある無限域であるなという考えが
相殺の圧力に超流動を浮かべる-そんな考え方は現実の心理には普通一般考えないが、この普通一般化しようとする傾向は、クリエイティブではないので、困ったことに・・.いろいろ思索方向時間点がある
励起-この懐かしい言葉、小学生の同級生に名前が恐らく励む意味でいたが、その家に行ったときに思いついた励起の言葉・手ごたえがあった記憶がある.
倫理観が悪い・弱いといった点は、良心的面が強いかな、良心と正義と道徳は異なるのか、正義や道徳を嫌う思想というのは、その思想が正義や道徳であって、他の思想はそうではないことを意味している殉教性であるはず.
『見えない目よ粗い目よ』-クワインの信念の体系は全体として網の目をなしている-という考え方も結構いいな.『』は老子の天網の誤解からきているフィルター感覚なんだが.
昔から暗記などしょうがないともってそうしてきた今、さっぱり記憶容量がなく、覚えた先から忘れて行き、記憶することができなくなってきた.考えるに暗記ということはスカラーではないかと今思いつき、それなら暗記を止めたことになるほどと思うが、ある対象に関して暗記すべき・記憶すべきことが多く
極が個ある-昔考えた特性の種-パンルベのは5・・3・に退化するとなると、解答は出ていたのか?.微分方程式の混沌・fold・結び目(結び目自体もそうだが)等を避けていた(ある線形中間XXが中途半端を齎したような)ので、パンルベは知らなかった.
ビッグバンを人間は想像できないだろう(繰り込み不可能な無限個の項と無限個のパラメータ)という直感観点からは有効場は有効であると、ただ無限個には興味があり、惜しいがこれは未来のこと歴然.ここでは摂動有効なことが、あの道路から埃立つ道を歩きながら摂動を考えてた懐かしさを覚える.
ヒッチン (Hitchin) のファイブレーションのミラー対称性-ヒッチンは新鮮な名前で、ファイブレーションがエタールで分岐像の変換で重複を排除できるとかだと、直感で避けてしまうfoldの理解化になる、このケース他にもあり人々がそうするのは、固有の納得感から言える.
ついでに述べるならQCDの無限の向こう側には絶対暗黒とでも思えるような、漆黒が見える.QCD場・領域自体は暗くはない.
無限小を考えるときは当然のごとく暗黒空間、無限大の時は明るい空間を個人的にはごく自然に設定してしまう、原点は暗くなく白色空間で、無限遠点の反はゼロに無限に近づくても暗くはならない.射影の無限遠点は暗い領域を持っている(部分的に見ている?)-人々は無限遠点を無限大としているようだ.
分岐する局所因子か、なるほどそう表現するのか、心理的には直に暗黒複雑稠密局所対象となってしまう(いわゆる真空は充満していると同様)ので、そこの現実事態はなんでもなくありふれすぎている事実なのである対象から考えたことだった.(--『記号より因子としたいこの頃、因子の乱舞とか』--)
ある任意の曲線を描いて、その曲線上に任意の距離に特異点風な粒子的な解答的な点を描いたことがある(そこまでしか描けなかったが)、安定ベクトル束は有限化可能とはここに当てはまるではないかと、それの拡大はどうなのかなとは思ってしまうが、そう考えたい気持ちはわかる.解消定理とかあるからな
時空に関して直線設定をしたとき、中間ガわからずに--考えて思いついてここにブラックホールを置けば結構論理的説明に納得できることがわかった.現実の世界にブラックホールを置く設定は全く考え難いものがあった.人の明暗にも関与してくるかなだが、こちらはダークマターが適切だろう.
要素論で壁にぶつかったころ(原子命題とかプランク定数未満の要素でもおなじこと)の展開から、分類論的に考えてある.記号はその象徴だが、3次元までで次元以上はまだという時間なのか・・この分野の比較からは何もしていない時間・ラプスは無駄ではないということになるが・・・.
射影がこれほど出てくるのは、現実世界と人間の知力構造の間に、投射関係があることを示唆させる。(少なくともそれが全てではないかもしれないが、部分かそのような側面はある)
foldに対してはミラー対称性なのか、次元に関しては昔から厄介なので避けた記憶がある、ただし弦は避けたつもりはない.foldに関して直感で避けるわけだ、次元の芸術的描像の記憶と数えあげを見るとその思いを納得させられる.
指数定理やスキームに対して『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』は応用・関連を想起できそうだが.結構やはり直感・自動記述的な面でもOKな文章化は成立している-というように解釈度を自由化させている.
人類の家族史の歴史は時空的というアイデアが浮かぶ.
これは調和形式・対称形式志向から来ているようで・・ネーターとの絡みとかや重力子が来るかも、時空の曲がりのタイヒミュラーなど結びつかず.空子・時子なる想定をしないとか、重力はそうなると除外できそう.
チューリング賞を獲得した人物は面白く有用な気分になる.ノーベル賞などもそうなのだろう.一応マイシステム上に弱く当てはめることができるような存在たちということなのである.
記憶にある不快な他者たち(XX&XY)の言明は、どうやら構造を無視して非構造化やありえない構造(ドン・キホーテ風な目茶苦茶をされる方はたまったものではなく、ドン・キホーテは夢を見ていたと後になって気が付いたが、これらの人間達は不明・恐らく-)を描いたものであるという解釈ができる
対症薬に副作用が発生するというのは、どうも人体構造がより複雑すぎることによるという思いがしてきた.
人はトートロジーを避けたがる傾向があるか?、反発はその極限的関係か.例えば陰謀的でたらめ構築者達に陰謀的と述べないのは、その人間たちに対してトートロジーだからか、それとも偽善的無責任ゆえか、または未熟な心性ということで優越感ゆえか、それらすべてに拠るか.
ミュンヒハウゼンのトリレンマあるいはアグリッパのトリレンマについては、思考する人なら必ずぶつかる対象でまた答えはまだ出ていないものとしている.盲信的答えは中国などででているが、故に派生するのが可謬主義-デュエム-クワイン・テーゼ (Duhem-Quine thesis)より転変
時相論理-時間と空間.ある女性の発言を聞き取れなかったことがあり、その解析に悩む.深層心理持続を今表明したという事態なんだったが.人々は時相であるものを、非時相論理に強制する故に、脳麻痺で記憶の障害になりしつこく悩ますということになっている.
Voronoi diagram図を見て、一瞬狂気映像を感じた.ここからどうしても判断でき無かった昔の精神分裂病者のパターン的な図を思いだして、knotが解ける次元構造を心理的に持っているようなのかも推定すると、なんとなく理屈に合いそうな気がしてくる.
人間を矛盾体とすると、普通に不自然と述べるタイプは理不尽に気がつかないことになる.矛盾が自然であるならば、そこには理不尽が成立する条件はまず存在するからである.人間的自然には理不尽が付随する.一応人間的人間がそれを修正する形であるが、
単純に双曲は時間的とミンコフスキーから見えるので、不確定に敷衍できそうなだが、時空は?.
ホッジもホップもいいと思うけれどうまくいかない、ラングランズ・ミラーにしても、コンヌにネータを考え難く、なれば南場とか.
”古典的なスケール不変性が共形異常であることを示している”--示唆的な文章だ.古典が量子によってアノマリーを齎しているとき、奇形と称する人間が発生している形をとるとか、倫理エートス心理面からではない解釈ができそうで.
中間存在にQEDが使えないいらだちがあり、QCDと見てよいがそれにしてはでかすぎる.依存的無責任や偽善で不確定性をやってもらっても困るが、現状ではそのとおり.教条中間存在の傲慢さには当然閉口しきっているのだが、そんな認識すらしない教条型中間存在に実存が加わると拷問しかなくなる
いくら才能があるからと言って、今この瞬間にこの地球上の樹々・植物の葉の数すべてを正確に答えよという命題が可能な人間はいないだろう.検証も困難で大雑把な推定値は出すだろう、何しろこの宇宙に存在する素粒子の数より多い数を考える人間だから.--瞬間葉数を昔考えた見たことがある.
サヴァンの絶対視覚者は、有機的な風景、夏の暑い日に葉が萎れているようなものも混じった風景を、そのまま瞬間時間映像として記憶するか・できるのか.葉層の時間ずれをどのように・どのような時間スパンで記憶するのか、個的志向のみの対象だけではないか.
ナビ派より、想像画を必ずしも写実領域に還元して見ると、それは明らかに虚偽(リアルにないものを描いた場合)であるが、想像域視点そのままであれば虚偽云々の解釈をする必要はなくなる-写実というそのときの時間現在に束縛される必要もない観点の根拠を思いついた.
論点のすり替えを行った存在はでたらめな批判的思考を偏見前提によって行う-から、偏見による即物的脊髄反射には閉口である.個人的な場合なので、「初めに敵ありき」的な存在が議論姿勢を改めることが解決手段だが、強調記憶と瞬間が重なってしまい..
不変ハール測度人間にいらだつのである.パターンか共同体思考者、味を占めた・うぬぼれる演技的性格者などが当てはまる.美的判断からは疎外を与えるような存在が多く自己欺瞞度高すぎてこまる.
時間不可逆の結論はその過程を示唆するような結論もあって・・・だ.
例えば「種類のコホモロジーが個別に成立するが、それらが一致する大きなクラスがある」--種の特性方程式と同じ意味合いの表現である.コホモロジーだったのか.ではまだ忘れる必要にない時間でもある変化度とはいえる.
不快な主体阻害の相手は実存的で本質余裕がないのかもしれない、何しろ心理を抉って、剔抉することが快感なようで検事型タイプかな.もしくは玉ねぎを一生懸命に剥く猿型と言えなくもないのだが.そのような存在の自己主体とは盲信型殉教性者か他者記憶剽窃型自己主体者とか諦念型依存性者とか
いやで苦手なこの言葉・殉教(エートスとか自己性質的は別に、思想所以も別にして)を不意にある街に当てはめて見る閃きが湧いた.最後に残った当て嵌めで、結構納得できる.こんなことに何十年も悩み続けていたことになる.
縦Vs横の対立がほぼ現実世界を席巻している.おうおうにして現実世界は縦的なので、偽善・詭弁・陰謀・阿り・・・他が成立していることになる.これらは愛情の阻害は明らかである.これらの存在には愛情能力が欠如している、またそのことを考慮しない・考慮できない傾向がある.
左加群と右加群で異なる空間が自然という一般論--接触したかな.これではこれであるはずの結果になるも致し方ないではないかという思いも浮かぶ.まあ近似圏ではあるだろうから、どうやら納得感ができそうで、いや納得であるといってもさしつかえなさそうな.
水素原子核磁化作用による歳差運動制御--このようなことを知識ない小学生が思いつくはずもないというわけにもいかないようなことを考えていたな.黒体輻射内部や光の直線状に丸い点が飛び飛びにできるとか
人の身体を『層状組織』としたとき、アルキメデス螺旋的構造かスライス脳スキャン的かストレート葉層的のように線形的に思い描いたような胡乱な記憶がある.ただし地層は幅に差異のある構造は一目瞭然.自らの進退をスライス状に思考することはある意味、何らかのずれを持たないとである.
語りえぬもの前では沈黙しなければならないや原子命題でウィトゲンシュタインはなぜ蠅取りツボを考えたのだろう、ポパーに対する態度もそうだけれど、これらで西洋哲学が変化することはない--ただTLPには文学的な面で価値がある項目がある・そうしてそれが最も重要な一文であるとは思っている
仏教では煩悩克服に修行をすることになっていて、おそらく普通一般の人々にとって、あるがままで煩悩克服などできるとは思っていないだろう.国家なく貨幣もない世界は煩悩克服後の人々のいる世界でもあるように思えて、そんな世界に唯物弁証で到達できるのだろうか、夢想かも.
Whittakerという名前はなぜか気になっていた.日本語ではホイッテーカーと表示するらしい.!なんと”ホイッテーカーはまた、有名な特殊相対論のE=mc^という公式はポアンカレが既に導出していたことを証明した.”とある.
ススリン線は存在するの辺りで、V=Lやグロ宇宙と、やはりさすがに数学者は設定せざるを得ないものであったと思う.仮説はまあ可能性はあることになるが・・・
多元宇宙論は”完全に分断された宇宙の無限の集合は"完全に検証不可能である"”というように今日現実的に想定できるが、今日でも無限の集合の存在する場は唯一と仮定もできる.--多元宇宙論と人の創作構造は似ている.
ほぼ思考している領域すべてで境界に直面していたんだ、これではどうにもならない時間のなさを覚えざるをえなかった若き日であることが判明した.このことをどのようにとらえるべきか、フラクタル文章でもよかったのではないかと.そうだな時間をかけてミストレスに会い行く生活をしようか迷った日
ネットサーフィンしていると、さすがに過去的になりそうな自己発案と思えてくる時間経過を覚える.それでも発案事実は他者には未公開ながら事実であるのでそれが依拠になる.ポアソン的に思いだして述べると、ある種のミステリー小説の一文でもあるかのようになっているという解釈をしてみる.
ドメインウォールがあれば多世界解釈的なものが可能で、そうして世界創作時間の短さもいえそうになってくる.
覇者型は線形に足りないのではないかという考えが浮かんできた、そうなると真理は単純であるという以前の混沌タイプであることになる.一般にてんやわんやの世界では有効に作用する可能性はあるな.どうも覇者型は脊髄反射が得意であるというのは特徴であるように考えてきている.
1/BPS状態を心理的に悩んでいる?、そうではなくてモノタイプが1/BPSを考慮すればいいだけの話.
対数ワイブルなどが出てくると、カストロフィーを横においておいていたことを思い出す.
昔に考えた種の特性方程式は、マチャセビッチのディオファントスの中に存在している可能性は十分ある.考えた事実だけで証明があるので忘れるかというには惜しく、まだとっておこう.
無限遠ゼロを原点化するのならば、1/無限ループというアイデアも浮かべることができる.
NEWS ZEROを始めて見た.この若いアンカーマンはだれ?.--そんなに若くはなかった、時々ネットで見かける優秀な大蔵省出身の存在だった.考えるに線形優秀ではないのか?.そうでなければ第三者的視点・傍観的視点を持っている存在が、T大話法なる表現を発揮することはなかったろうと思え
アーノルド拡散は権力心理にも使えそうだ、そう考えるとある不快すぎるXYが登場するが、アーノルド拡散ほど複雑な脳構造を持っているように思えないのがいら立つ点、白けすぎる意味なき無駄の強制にしかならない退行者というXY,脊髄反射言明とも思える単純さかつ身体的位相という不快さがある.
三体問題でまたしても無限遠に極限速度ゼロでどうのこうのが出てくる.都合よい処理の仕方で無限遠でゼロになるのはポテンシャルであって、エントロピーは強大になると考えるのだが.
それからX十年、今頃チェックしているという遅さを優雅とみるか、さぼり過ぎとみるか、まあ後者にはちがいない.それにしてもおもむろに思い浮かべた厚生経済や因子や質量は価値があるなと個人的認知中.
ある夏の日、確かK大を目指しているG県の男子高校生がN県の親戚の家にきていて、そのときに因数分解を質問されて答えに窮してだめだしされた.その時には因数分解など全どうでもいい心情であって.個人的には因子など知らず、質量にも曖昧さの疑問を持ち、計量経済なども考えて、頭脳作用せずだった
物理も宇宙の統一理論・素粒子と相対性理論の統一・という一様性を求めていることは間違いない.それで、人にはその固有性として一様性的なものが備わっているとしか言いようがない.
あの小学生の時の権力の権の文字の辟易した強烈な硬さか、これも自身の持っている才能か・そういってもよいはずで、神聖硬さ型性格的なものである.
昔考えた種の特性方程式は拡大次数というようなものではなくて、拡大変数の都合よくいけば種のみの拡大変数というようなもので、ファントスとの関連は?ファントスほど都合よくいくようには思えず.
カッシーニの卵形線・ベルヌーイのレムニスケートをNo.に使えるか.No.ではなくてNo.に直接像として無限大記号と行くか.
おっとそうなると縦型構造ではジップの法則のグレードがある可能性を思い付いた.いやむしろ現実はグレード・スケーリングがあるのが普通のようである.
大学生が貴重ではなく大学院生が貴重であったころと比して、今では大学院の梯子存在が貴重になっているのか?.そうか大学生0%は貴重であるという経験則からの導きもある-これで小学生以来の難問が、こじれて複雑になって解けずに曖昧のまま持続していた懸念がようやく.解けた
人は脊髄反射ばかりでなく海馬を使うものである(脊髄反射以外を).
いまや実用的プログラムでも数千以上だそうで、モチーフ的にプログラム言語を解釈したい要求が、プログラム言語意味論にはあるのだろう.思惟の法則があれば悩まなくても済む(機械的だ)と思った若き日の逃避的瞬間を思い出す、幸い停止性問題は決定不可能となっているので、そこには自由がある.
あいつで領域・ドメイン思考をして、年後に再帰・回帰で(ヘンリー・ミラー)で、それから1年後に結び目でなやみ・厄介なと(ザイルの結びを解析しても、自らほどいてしまう危険性が生じそうな葛藤想定心理と次元)、今並列において登場--この辺がリンダに頭をひりひりさせたわけなのかも
"再帰プログラムの意味論が,結び目の不変量の理論と共通した構造を持つという大きな見通しであり,そしてそれを裏付けるトレース付きモノイダル圏の構造である."--だそうで、厄介な結び目が再帰(最近になって不動点の関与-そういえば回帰線などではなかったあの時)に結びつくとは
生理-安全-社会的-尊厳-自己実現の次に晩年になって自己超越を加えてにしたということか.仏教またはインド教などの修行・瞑想からの影響が晩年にあったと思われる時間のマズロー.まあショーペンハウアーも解脱考察はしていたわけで.
ベズーの定理や接空間から『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』はなんでもない数学的思考になってしまうではないか.どのような意図でそう記したのか無意識自動記述で考えてはいなかった思考の還元作用によっている.点の表現にかなりの数があるとか、勾配はこの移動によるからとか、なんだろう.
アービトラージが世界的に消滅してフラット化になる--ある意味日本的でまあそんな事態は構想してあるが、おそらく80%の領域では成立して残り0%は違った・』異なった趣になるだろう.最も80%のミクロ内訳はにはそれぞれ差異があるものとして構想している.
”アブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた.”から見るへの配慮はを以前の1・・3域に退行させてしまう-という可能性が大いにあるが、現行社会は人間パワーが強い面があり・・(経済に道徳は必要ないという意見..)
そうか不快な人々はゼロ知識の健全性を意図的・無意識的・自然的に歪めるという表現もできる.その歪められたゼロ知識性の修復を行っている面は常に持っている.わが心石にあらずかつわが心不確定石にあらず(ちょっと違うようないま閃かない)のような心境により.
カレビ・クルの生物記号学の目標は成立するのか、中でも、”人文諸学と自然科学の両立不可能性を解消する () 。”付近で結論が出ず何十年も悩みっ放し
そうかグロタンディークはあの頃、簡単だと思った圏や層の範疇存在なのである.今ではややこしい展開を見せているので、複雑である.そもそも簡単だと思ったのが間違いだったか、ワーズワースのプレリュード的なものがそう判断させたのだったが・・
”この群の基底は標準単体のあらゆる像の無限集合である。”-こんな文章を目にしていると、仏教の三千大世界世界や周期のおよそ寿命の倍数化で(あるだろう)で表現されているものは、はったり的とおもえないこともない.ただし同値関係はある.無限数域が一瞬のうちにという物理傾向からもいえそう.
どうやらあの時、動機はモチベーションなんだがモチーフといいなぜこの言葉を考えねばと思った建物のFの廊下の曲がり角近く、考えあぐねてロシアより愛を込めても浮かべたので、後に意識が00にずっと向かってしまった.このときにグロタンダィークの名前を知るべきだったと思い出した.
単体人間は単体であるゆえに、他人の心がわからない・理解しがたく・また心が無いとも考えるかもしれない・およそそんな面はあるが、単体結合して複体になるといくらか複雑さを増してなんとか・・・意識は素ではないのだが、むしろ意識アマルガムのような単体人間.
羞明が発生しているので、眠るかネットを避けるべき判断を要求してきている頭脳.単純に疲れてきているということだが.(このような表現をしなければならないので、使用していずに他者からの歪めを多大に被っている頭脳修復をしていかないとの時間にさしかかりて・他者たちの記憶にある不快な言明等)
多分に、天命とは今のところ素粒子という無機でできている人間が、有機意識を用いて、無機的宇宙と同値化・同体化するような場合において発生するものと考えてみる.
”then its crystalline cohomology is a free rank module over the p-adic integers”--結局、あの若き日に類体は時間が得ればと思ったことは、全くそんな余裕はなく、類体は基礎的素養でなければならないと
実際に、天命的時間を過ごしたことはあり、その現実還元がまことに不合理・くだらないものであるので、信じがたくその理由根拠に納得せず、考えてはいる.個人の性格トいうのに根拠してもそうでもなく、双対心理で現象解釈もできるがだ・・・.
古い?そんなことはなく、むしろ発言者の精神年齢が低く、精神年齢高き位相基準からは、機会費用大で経済的にはロスなのである.つまり過去に引き戻しという暴力をおこなうのだが、それが自然なので説得するのをあきらめるという形をとる.
やはり現象設定の条件では全くうまくいかない、そもそも現状は創作ではないからでもある.結局、思考条件に持っていくことになった.そうでしかなかったシステム構成から半年後過ぎて以来何年経過していることだろう.人気の圧力に耐えられないは幻想であったかも.
Claude Berge なる人物が1から00まで生きていた.知らなかった.あの雪道の水上から土合までのバスの中で、不意に外を見たとき写像の縮小が浮かんだことを思い出す.こんな具合のことは多くあるが、最近は乏しいのでまことにつまらない.
想定するに日本の縄文時代は法の支配があったと、その後も東洋思想・日本アニミズム的に、自然との調和部位・意識では日本には法の支配意識はあると思っている.特に神羅万象という言葉に代表されるところのもの.
演技的性格のXX/XYに悩まされ、現実真実感を邪魔される.演技を強要する不愉快な存在たちはまず愛情が欠如することになる.自己疎外化をなぜするのだろう・まずは共同性同化意識だろうが、その根拠は自己嫌悪感であるような気がしてきた.となるとアドラーの権力への意志になるな-という一案
とにかく自己意識を鏡像段階時間まで掘り下げることは、やってはいけない本能判断的なものが働いていたが、若さのカーニバル的自己損失系でもあった.そもそも対象の先験・先天位相者が自らを動かさないという他者歪め意識しかない単細胞頭脳者だからいけないのであるのだが、煩わしい不合理無駄発生と
ソーカルにおいて、ラカンの数学・科学に対する無知が露呈されたということを、ある事柄から思い起こす.数学式・物理式一般をやはり知らないと科学に関しての発言にはでっち上げ的・疑似的なものが発生するとする思いに至ったため.
コボルディズムは5以上ということは目にしている.現実世界は3次元なので何かうまい説明方法はないものか、普通に人は単純簡明に理解できることなのだが、それでよいとしても・例えばカフカの作品のような...・実存と本質で置換すればよいか、これなら結構説得力はある.
もう忘れかかっている種の異なった(脈絡を感じないところの)解を持つ特性方程式は、超越的ではなく解があるので成立することになる.混沌方程式なるものがあり、種の解を含んでいるものとするならば存在することになる.--なぜそんなことを考えたのか理由がわからない青春の日
::A=0
”岩澤理論の主予想とはp-進L-函数と円分体のイデアル類群との間の深い関係”だそうだということを知る.無理数とp進の関係は?
昔からよくわかっているのだが、ユダ型人間はとにかく他者の結論が出るとそれに対して、時間有効な結論であっても無視するように動きすぎる.自己の結論はどうするのか、虚偽空間に発散させて無責任の安心自由感を育むのは特徴的と認識している.アイヒマン裁判やミルグラム心理はここに登場する.
”・・・操作で閉じている「素晴らしい」圏である”、素晴らしいかね、この有限性にはいささか不愉快さを覚える(昔から).結論を出して先に進むためには有限は理解できるが、それでは無限が登場しない.この宇宙はとりあえず<有限中>として悪くはないのだが.
D-braneとKで結構まとまる.思い出せば素領域を自然に構築しているD膜といったところか.そうなると多次元に対してのアイデアとの関連が・・少しは浮かぶところでもあるな.これもNo.3で多次元はNo.辺り加味したいところである.
記憶を辿ることは蒸し返しになることは当然で、不都合な場合の仮想修正をしがちな心情、そんなことをせずともいいのにというか、修正は不可能になるはずでとなると、克服ができないことになりまたそれはまずい.
とにかく自己把握無知存在が逆になって自己投射をして発言してくるので、自己投射されても理解できないというか、その自己投射存在など全くわからない対象なのに、無茶苦茶な理知現象になってしまうことを要求してくる人々.埴谷雄高のてんやわんやの謙遜はまず理解できそうにもないてんやわんや達が
埴谷雄高の死んだののは1年か、その時にはニュースなどでも気にしなかった.吉本隆明も気にせずややしばらくしてから同様に知った.まあ大体先蹤存在は煩わしい.埴谷雄高はそうでもないが、吉本隆明は全く不快すぎる思い出があっていけない.死霊は章で結局未完に終わったのか.
明らかに感性が異なるのに、「同じじゃないんか」などと申す不快さには呆れてものが言えん.--こんな言葉を思い出すとやはり逆になっていて、自己主体を第三者達に誤解されてしまう可能性が大である.全く残酷な侵入者である.(全く小説のような現実の記憶だ)
感性が狂ってしまう圧力を受ける・反交換的存在で嫌悪しか発揮しないような存在が妨げばかり行うのは当然なのだが、その邪魔さ加減を排除できないのが不快すぎる.
神聖型のきれいな単細胞から見ると、アマルガムは?なのかも.しかし神聖型もいろんな種類があって、陰険な陳腐で実存分析的存在もいて、その悲痛さ・嘆きに耐えられないほどのものを持っている存在に憑依されてしまった形・また逆になっている可能性がある人物に何十年も会わないがしつこく悩む.
0年まで宇宙ステーションの延長--ホピの予言で宇宙ステーションが空から落ちてくるという考えはどうも違うような形になってきた.太陽の裏側からの青い星はチェレンコフ光物体としか考えられないが、この宇宙というか太陽系でもそんな現象が発生しないという保証は思わない.
英雄物語には試練がつきものであるというのは誰でもわかることではないのか?.ただその試練がなぜ成立するのか不明であったが、超自然的作用によるものであったことがわかった.
マイナンバー制度はジャック・アタリの第三の波「超帝国」の中の、”インターネットが人を監視する技術革新が行われる。
政府からインターネットを通じて、厳しく監視される社会になる。”とよく似ている.まあ第四の波の超紛争も現実味がある時間でもある-第五は利他主義ならマズローの段階目だが
ちょっと待った、マイシステムにはアフリカ的段階というような設定をしてあるな.ただ先のみ・未来志向ばかりしていて・・形而上的システムというか、世界内解析というかその他で、視野は普通に原生的疎外とか称する時間以前を含んでいるのは当然のものだが、現代物理学のアイデアや仏教思考などと錯綜
Yの関係は単にリアリズムのことを示していると思いつく、それの極限として考えてもいいようなものでもありそうな.なんのことはなくリアリズムとは全く思い浮かばずの時間であった.考えついたYの実感は確かにリアリズム的な体幹を保有している.愚かすぎる時間を過ごしてしまった脳麻痺情況であった
ストークスの定理から、人間の思惟形式はジャンルが異なってもほぼ同じようなものと推察してみた.数学の諸々に思惟形式判断を入れてみると結構面白い.人の考え方・方法・方策が随所に如実に表れている.
間違った、フィガロの結婚からのメロディーだった.ともかくモーツアルトのレクイエムを後々にチェックしたところ、黙示録の模倣?ではないか、これではさすがのモーツアルトにもその独創センスを疑い、タナトスの宿命に倒れる・またそんな環境時間だったと考えてみる.
時は過ぎ去っているのに、記憶は全く時の流れを持っていない.ときめきというのだろうか、かって認識していた無時間性とも違う今の心情.ポテンシャルが強くなるという時間経過に対して逆作用のようなものだ.
特にそれを強調する存在は欲望型のカザノヴァ型であることは間違いなく、またこの当人もそのイメージに当てはまりすぎるという存在がいた.
身体的存在を否定しえず、奪うことができないものという考え方について、なぜそこに騒がなければならないのか、そんなことは当たり前で、生理の有限時間は生きている存在すべて持っている.
波動線が集まることによって粒子になると考えていたが、電子が波動線を持っているかととなると?、そうなると1/00万の粒子とクォーク・電子の関係などどうなるかと、熱風がさまよっている時間だそうだが、質量があると帰着点が存在するかもである.
クリフトン・ポールのトーラス(Clifton–Pohl torus)は、コンパクトであるが完備ではない擬リーマン多様体の例--これ頭を引き裂くイメージを齎した記憶に接触するような、これだけではあるいはすでに?
超弦をすっかり忘れていた、当然No.3には関係してくる.
myツイッターのACにはノストラダムスが関連している(と後に知った)数値を含んでいる.
No.3に直感でなぜか導入しているクロソイド曲線.
未完成の項目は構想のみで完成にしようかなと思いつつある.0.1.0
”システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。”--ルーマンのこれ意味がよくわからない.量子的現象では個々の個性があるほうが収束は速いことは現象である-複雑性もそうであるが.
急いで閉めたパンドラの蓋のように、他者達は希望を打ち砕くものである現象に数限りなく遭遇している.
なんだかんだ言っても世界・歴史は快感で動いていると浅く全体外観で思う.性的快感・優越感・感動感・・・・
有機無機の関係物が無機物として無機的有機存在がその無機物戦線を有するという現象---という表現例
ほんと、A期的XXに対してその潜在能力を推し量ってもまったく不都合な反建設的思考しかできなかったまた、顕在的に当然の如く反建設的発言を思いきり受けたものである.これからも遭遇時にはあるだろう.まったく縦思考しかできない横暴すぎる不条理・理不尽などは考慮できない物体である.
それにしても意図の完全に逆ばかり行う人材はよく理解したとして反交換的存在なのだが、そうすると反交換的存在は、交換的存在の考慮ができないのかとなる.それでは愚かではないか、まさか世の中反交換的世界しか存在していないようにしか見えないとは
この社会構成が分かったということは社会科学の地平は成立したことになるか.これはまったく長老シーンではないか.
最近、あるところで「仕事をした.」『これが俺の仕事だ』確信を得た.アルファ空間で何度かある思いである.安っぽいところでは発動しないはずなんだが--そうするとあるところはよくわからないんだが価値があることになる--.
シェマで思い出すのは隣の家で思いついたフレームという言葉、この時にひよこも考えたので意味は不明だったが、ピアジェのシェマをフレームとしてみるとかなりうまく説明できそうである.
フェルミ型は孤独で単体的を余儀なくされる先天的遺伝構造を持っていて、単体であるゆえにその生存時間の連続においてすぐに飽和する・飽きる・うんざりする形をとる.そこに承認の要求を強烈に発揮すると明らかに暴言・横暴になる.ここに白く塗りたる墓的であるとどうにもうぬぼれしかなくなる.
どうもYからは自己目的意図を実行されているような意識がないこともない.あの時の時間におもむろにYの家に行って話をしない方がよかったような、いまだに非常にいらだちを感じている悩みを持っている.あるいはY自身の才能で関係ないのかも知れないが、なんとなく感じる.
素粒子における身体意識は、よくある戦い前に、中国武術者の手などを動かして身体に焦点意識化を行うような場合をケース例としてあげる.霊に関してはどうしても歴史時間・先祖とかから続く時間を考慮せざるを得ない.
中学生の時通学自転車の帰り道で、固定-霊-気合い-スタンダードの流れの考えを思い出す.素粒子は小学生の時に自己制御して考えるのを止めよう(まだ早すぎると思って)から、その時に思い出さなかった.霊は心理的な素粒子分野・今日ではクォリアとかだが・気合は身体的な諸粒子の息吹とは思える
フェルミ型人間の分離・単体意識は、生存を連続しているという形をどのようにとらえるのか、少なくとも現象的には考えることには矛盾している.しかしYのハイイメージ論から素粒子領域まで考察していたことを知り、フェルミ型は電子・中性子がボーズ型よりはその比重が多いのだろうと推測仮定した.
集団強調ではなく集団協調の創発力は端倪すべからざるものがあると、縄文時代の名残・遺伝を考慮せざるを得ない.
田園の憂鬱は読んだことはなく、その自己的イメージ解釈がお気に入りであったのだった.今あらましをみて、佐藤春夫の感性は洗練されているなと思う.熱風の蒙昧の中、幻想中ともなんともわからぬ熱情のネルヴァルが少し過ぎった.
昨日の中学生の時からほったらかしの菊池寛だけれど、昨日ツイートした結果考えて、カーネギー流に、自分の不得手な領域は他人を利用するから、菊池寛は小説家としてはさほどなので、賞を設定して、他人の才能を発掘する側に回ったのはうまいやり方・賢明であるという解釈に、数十年ぶりに落ち着いた.
諸行無常に関しては、考えてあることがあってやはり考えからは諸行無常的になってしまう.
科学社会学や科学哲学の語からアインシュタインの本当かどうか実際にそう思っていたのか”「もしヒロシマとナガサキの事を予見していたなら、105年発見した公式は破棄していただろう」と語った。”そんなことになるはずがない夢想であるにすぎない、科学的事実はアインシュタインの夢想では消えず
関係が自己表出であるならば、吉本隆明著作すべては説明できる予感がする.吉本隆明は自己表出者とするならば・にしては指示表出者寄りに近い存在であることは明らかなので、またその点が不快なのである.
そのある作家が日本のロートレアモンとか言った、だれが?とは思ったがが問えず、いまだに曖昧のまま記憶している.ロートレアモンを参考にはしたが、関係はなく日本のなどと、世界を狭くする弁明は許しがたい.ロートレアモンの名前すらこの半年くらい前に、ある女子大生の持っていた書物で知ったこと
頑固という形で解けたと思えて、まあ全く意味ない時間を多大に過ごしたことになったのだが、ともかくこんな解答がわからず、単純にわからない存在に対してはすでに答えは出ているのに、それに対して現実浮上に時間がかかりすぎてナンセンスな時間を浪費してしまうということばかり続いている.
昨夜のネットチェックで吉本隆明は虚仮脅し造語という言葉をみかけて、おっそうだ確かにそんな面はあると.全くデジャブを剽窃の形でトートロジーとして大げさすぎるほどに言われ、まともな意見と思ってしまった(デジャブトートロジーに気が付かず)のが問題で、吉本隆明同位相の男達多すぎに辟易
哲学的行き詰まりは今もって解消しているとはいいがたい.ただし人々の考えるパラダイム的なものは、故にああそうだそうだが・・・となる.
人間ロボット化は物理主義的あるいは行動主義的また機能主義的匂いを持つ.戯れに思惟の法則ががあればと思った哲学的行き詰まりの若かったころに、それではまったくつまらない自動機械的なってしまうと、マルクスがすでに弁証法でやっていたとは知らずに.その後、経哲草だけ読んでみたが.
マチウ書試論を読んでYがシモーヌ・ヴェイユ論を描いた理由がわかった.なるほどその当人の書を読まないとある程度ダメなものだということを認識した.
弁証法が成立する背景を考えると、明らかに男女関係でその前は雄雌関係・植物でもで主体有限束縛による限定の時間繰り返し変化形なんだが、そのようにならしめている摂理の意向はよくわからない.
単純には関係責任論・関係責任主義とでもいえて、個人主体無責任論となり、主体はなんら責任を感じることなく突っ張って物事を述べることができるようなもの.マルクスの書物を眺めた昔の記憶では、マルクス書は論理的に正当性を見たことがある.がしかし色気がないのでちょっととは思ったものだった.
永劫回帰は一回の人生の繰り返し、輪廻転生は場が変転するということで、場の中に生きている存在・場とともに生きている存在も変転する、永劫回帰には場は当然のもので、考慮されてはいないのでは?.まあ永劫回帰は願望上のもの、輪廻もそうだが.
非妥協であるとするならば、偽善は妥協の産物であることになる
深淵を散歩できると陰陽は同等意識を持てるが、フッサールのエポケーなど使う必要がないのに、エポケー以上をエポケー化してしまった、ほとんど冗談が実際の現実になってしまうという、全く不快な事象.いわゆる名状しがたい愚劣さは二度と味わうつもりはないのに、類的状況が多く発生してくる.
カフカの城に法言語なるものを設定できるのか、法言語とは何だろう.法の支配用の言葉なのかな?.どうせカフカの城は例によって未到達の物語だろうから読む気もしない.こうなるとカフカはひねくれていて消耗文章を専ら描いたとしか言いようがなくなってきている.なぜ人々が評価するのかわからない.
フランツ・カフカはイデッシュとしての位相と、シオニズム勃興時の存在寄与もあったので、欠如文学とでもいう、本質に至らない実存情態作品になったということでは・・結核の影響は晩年からだった.
呪縛という言葉がある、あるからといって別にきにしなかったが、どうも現代でも有効に用いることができそうである.そうであるならば憑依という言葉も当然あることになる.呪縛-幻想の実存的混沌を描かせる言葉を、あるよく納得できない対象にも用いることができるか判断に未決定を持つ.
なるほど焦点化すると盲点もそれなりに発生する・確かに.明暗の解釈いまだ至らず、別に陰陽論でもないのだが、ふと陰陽の同等意識が疑念を想起してきた.
身体的優位か精神的優位かでその人の脳細胞活躍キャパシティは変化するものと考えて、身体的優位のタイプはやはり海馬をそれほど使わないだろうと考えてしまう.
誰にも言わなかったから疑念を持たれてもしょうがない.述べなかった・記述しなかった理由は必然的だったのか今でも判断はつきかねるが、述べなかったという事実は明らかである.そのことでまことに潜在的に悩む羽目にもなっている・この現実社会仕組みに遠慮して..
多分に推定である種の人間は迷信を信頼しているのは非科学的であるとともにシャーマン的であることに気が付いた.憑依という言葉は少なくとも平安時代のころの話で、0世紀には揶揄的な表現として考えていたのだが、憑依のように悩ますしつこい人間が多数存在しているとは...
中途半端が悩ましている?その結果は幻滅以外にありえず..
ネグリのマルチチュードもなるほど気になるものがある.シミュラークルも多少役に立つ点がある.しかしこれらはせいぜい評論家の指摘であるに過ぎないということだけは、了解できる.しかしなれど認識している人物たちがいるものだ.
哲学的XXが少ないとすると、想像力を用いて不条理をかなり自由に行う首尾一貫性のない発言を特徴とし過ぎる存在でもあることになる.その場合の責任力は?
XX/XYである前に人間であると考えると、XXにおいてもさほどの存在がいるとは思えなくなる観察経験を持っている.
X染色体の遺伝子は8個、Y染色体は8個とは、Yは少ないな.これから単純に病気的には、遺伝子疾病はX染色体の寄与が大きいかな、未来の可能性に関しても大きいともいえるか.
ハイデッガーは世界内存在、サルトルは世界存在---もしある存在が地位に罪の意識を持たないことが自然であるならば、悲惨な位置も自然であるのか、そうなると解釈をしたくなくなるのだが.世界の要請によることになり・・・
死?-死が不快なのはまず自己の死の後に生きている存在がいることで、最高に理想なのは最後の死者となることであることは明らかな人の存在というか、カルマの理由. No.1&No.&
日本全体を見ると謂われているように、諸行無常ばかりではなく、恥の文化も特徴としているゆえに、責任がアバウトにあるいは個に希薄さを齎しているのかも.
経済面でも、市場経済に対して考えると、その先側に暗黒域が登場してにっちもさっちもアイデアが浮かばなくなり、最近では考えることすらしなくなっている.ただベーシック・インカムは成立できないだろう・経済自体がなりたたくなることになるまでは予測推定考察している.
その昔、これからは卑小だけれど市民(陽的、明るい場所の)が価値を得る・希望であるようになるとおもったが、それに付随して陰陽的なのか、暗黒域も考えざるを得なかった.この暗黒域の存在はわからぬ、漱石に明暗という小説があるが、その頃は明と暗に結構こだわる時間だった.
ボードレールのシミュラークルはポストモダン用語であるか、ちょっと気になる視点を思い付いたのと、ペンローズのスピンネットワークの視点も考慮に値するかなとも.
インターフェロンは15年日本人による発見だったのか、0年代になって抗がん剤としてとは、この言葉は中学生の時にしったが、知りたかったもう何かは、サイトカインであったと思える.
陰日なたを陰陽とすると陰日なたなくは太極ということになる.陰陽論からは混沌ではなく調和とみるべきなのだろう.
蜘蛛の糸の主人公に対してから美徳に対する欠陥指摘をする存在に対して、ではその存在の指摘以外の部分はその自身の指摘と同一位相であるはずで・超克.小学生の帰りの階段状の道以来だ.
SF的に考えるに、宇宙線を燃料に使えるロケットはできないのか、宇宙線なら全くなくなることはロケット飛行にはありえないほどあるはずで.ついでにニュートリノ推進物体などができると抵抗がほとんどなくなり、デブリも関係ない.ただしニュートリノ構造物以外に乗せることはできない.
通時的だからスパンが長くゆとりがあると思っていると、結構中途半端なのである.そうなると通時的有限を導入しなければならない.むしろ通時的有限者が多く実在しているのが現実である.
科学に哲学が必要などとは全く考えもしなかったが、哲学から見ると科学に哲学がないのは不快というだろう.
根も葉もない植物は寄生の典型で、マタイ伝に登場するある存在は特にそのような存在と認識している.でも結局自殺したらしいので罪の意識はあったようである、後悔先に立たずという例証ともいえる.
自己主体の歪めを要請され、逆になり疎外ばかり受けるこの不自然・でたらめさ、逆を認めてはいない.むしろ模倣を不快すぎると思っている.なぜ当人に当人の模倣を知らすのか、トートロジー無知か頭脳の空っぽかうぬぼれか無責任の自由か--いずれにしても自己分析能力の侮辱であることはまちがない.
しかしだ、三千大世界とか輪廻は考えるか、中間存在という閉鎖域存在者達に考えることができるのか?.仏になれないないのではないか?.あれ中間存在は閉鎖人間たちだったか・・・.それでは他者に対するいじめ・抑圧はなくならず、(何しろ、原因は閉鎖的からくるという直感があり)
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yin yang symbol--太虚と言ってしまうのは、不条理の受け入れか盲信かはてまた?ちょっとどうにもならない無限下降対処である想いがあって.
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”サルトルは「我々は自由の刑に処せられている」”と言ったそうだが、芸術にとってはまず自由が前提であるのだが.
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扁桃体( Amygdala)かな『両耳の違和感的な感触』を覚えたときか設定してしまったか.
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カルマがあったとしてもなおかつ奇跡に対して再度の要求をするということはどういうことかと考えると、わからなかった内なる神がそれを言わせる・人々はすべて天上天下唯我独尊を持っているとすると説明がつく.人は仏になれるもそうであることになる.
父親をやめたらいい--ついに返し言葉を思い付いた-ある不愉快言明を受けた父親存在についてなのだが、位相を真似する人材が多くて、個別対処をする必要がない面白くなさ・不利益さ大ゆえによって.ある存在に対して女をやめたらよいもついでに関連できる.
無限の身体は人にはないが、これからもないだろうが、無限の精神なら人にはある.故に物理主義的考え方は無限を無視している物体的な思考法と考える.
埴谷の虚体・虚空のそよ風は吹いているのは知っている、懐かしい青春の日々.死霊は故に難しいということは別になく、普通の小説であった.
No.1より引用『・・余儀なくされるおまえ、それを考えると恐ろしいきがするのですが・・』
パンを石に変えろ、という問いは、身体の必要性も含んでいるが、パンのみに生きるにあらずからは、身体の有限性を意味していると考える.
つまり無限の身体は存在しない.身体が有限であるから関係において差異が生じている.ただ命の樹の実を食べたなら身体に死は存在しなくなるそうだ(多分これは幻想).
人間が存在しているだけで持っている倫理は命であることは明白なんだが、そのような言葉を敢えて用いなかった人物がいた.関係の本質とは、まだ考えているが、命がけもしくは命的なものであるに相違ない.
帰納の解決について不可能に近い結論を出した人物を最近チェックしたのだが忘れてしまい見つからず.グッドマンでないことは確かだが.全く帰納法とは・・さりとて演繹
整礎( well-founded)-問題のNo.,悩んだ中学生・・小学生で深淵はだが、老子の道は肯定しているのに--などを考慮すると、定義とあいまみえてNo.が出てくるな.
権力的存在が愛情を無視すると、魂を無視するようなもので、こうなると愛情を無視する権力的存在の性格自体も魂といえるようなものとは普通には思わないが、魂とすると同列設定ができることになると考えざるを得なくなって.
コンビニで小雨の情景を見ながら佇んでいた今閃いて、不条理解釈もそうだけれど、不確定性原理からNo.1の難点を克服できるとして、センス上差し支えないことに気が付いた.
自我と超自我をミクロ的とマクロ的とすると、自己弁証法を個体において構築できると考えているので、他者による結果待ち・結果無視・結果超克はかなり不快に思えるものである.この場合、対自・即自を他人に対して持ち、他者の対他即自・対他対自を考慮するように配慮するものとしている.
異邦人のムルソーの過程表現が単に太陽がまぶしかったからというわけではないのは明らかなのだが、太陽がまぶしかった点に強調留意して、不確定性原理から時間をかなり短くしたときの心理状態を形成したと考えてみると、人間の精神形態から太陽のまぶしさに連関した行為を行う可能性が十分ある
潜在モデルが悪いと詩など未然的欠落思想を述べて全くの桎梏になってしまう思いをしている.閉鎖中間存在がモデルでは全く不自由な面白くないものになる.ただし本義的本来的でなければ中間存在にとっては有用なのかもしれない---と今浮かんでびっくりしている.考えたこともなかった.
猿と人のDNAの違いはほんの数パーセントらしいから、ホモ・ナレディを読みながらアトラクタシーンを思い付いた.間違いないのではないかな.
常微分や常差分でレスラーやエノンと--そうだったか.常微分と非線形なら常微分を避ける必要もなかったのだが、フォールドしてくる混沌はさすがに一瞬の答えは出ずであったので.サドルノードはまあありそうな話し過ぎる.
身体意識の精神レベル低み存在は、乱暴で時間の蒸し返し過去帰りやり直しになり無駄なのだが、当人にとっては現在時間の充実時間の情動発露による発言だろうがが多すぎて、厄介な気分のナンセンスな体力消耗要請にしかならない無駄が全くやはり多すぎる日常.
器官なき身体は、フロイトのリビドーを客観させてこの現実・宇宙に当てはめたようなものか、エントロピーではないか.
映画で英語の特徴ある長調の長セリフには息切れしてしまう.どうも日本語とは異なる共時と通時の間の距離感覚で、共時的には長く通時的には短いということか.
何を考えていたかすっかり覚えていないが、論章を描いたことは確かなNo.
超意味なき実存分析感の圧力のようなものを感じる羽目に
極限的なことは実存は嫌で嫌いだと思っていると、逆状態になってくる.こうなると嫌いなものを好むという逆をすると思い通りになるということではないか.そんな矛盾はできかねるが、そうこうしているうちに逆の成立ではトライを考えてしまう.
時過ぎ去りて思考舞台が変容しすぎてしまった事実を知った.どうするか.ただ単に個人の記憶のみで、自然の形態は人工作用以外は変わらねど・・・ショックすら感じないこの精神、意図していたことは意図していても実際となると、全く不都合しか残らないものだ.意図自体もミスッた結果になってしまった
罪刑法定主義にはあの戯れに卑小に思えたフォイエルバッハでもと思ったあの部屋の父親が深く関与していたのか、この部屋の気分を忘れはしないが変更をしないという思いで.
そうなんだな動物も見栄を虚栄をする、そうなると陰謀や詭弁もすることになる.
反復して同じ結果を得る-信頼性の意味合い.そのような人物は安定して計算できるといういいかたがある.が飽和からするとマンネリ・ワンパターンのうんざりという見方にもなる、その距離の問題で、後者は荷物になってしまう.そこにある無機荷物はずっと同じようにある・・
典型的な複雑性社会の考え型に沿っていると考える.そうであるならば思い描いていた意図とほぼ同じ形をしている.それを実行することが望みだったので、いいかな.(個人としては一人の実行者・オブジェクトにしかならないが、まあ応援・サポートと取れないこともない.)
ABC予想、同一世界の入れ子・マトリョーシカ
うぬぼれというトートロジーに対する無知、あるいは不快な記憶
水平と垂直視点の交点で見るのはミンコフスキーの現在.別に空間に焦点・時間に焦点を合わせようとなんら矛盾が生じるか?.無限遠点での視線が必要なのは射影空間的でその思考をしているだけ.それでは別に価値は射影論発生時から変化してはいない
プランク定数未満に拡がればまた価値観もまた確かに変わるだろうが、それに整合した価値意識も類は考え出すことだろう.
ラカトシュ賞メンバー業績はNo.3に採用できるはずである・・・
経験・体験時間がある程度長くなると、意識的にせよ無意識的にせよその時間に拘束されてしまうのが現実的人間といえる.
矛盾にも度合いがあって・・・と考えると、あるいは矛盾の最大値とかを設定したりする考え方とか.そもそも矛盾が成立している場というものがまずあるはずとなる.
無底の自由という西田概念は、射影空間のイメージとよく似ている影像をもたらしている.
『疲れたら交代する』のはごく普通に維持上考えることだろう、昔に論理上に当然設定(No.12~15当たりのどこか)してあるのだが、今頃研究チームが騒いでいる時間をなんとしよう・・・
一歩下がる癖がありすぎて、抵抗体に遭遇するとすぐに避ける形を取ってしまう.下位か上位とかの位相に向かう傾向は、そもそも遭遇自体が必要ないということを意味している.普通にうまくとらえると、一歩下がりはN-1次元の境界を意味して、それはその対象体・対象領域に対して、優越する位置になる
おもむろ思索で正解なら方法論が非常にまずかったことになる.時間は無駄に流れて、おろかしい気付きの長々とした時間距離の為体さ
歳時でよかった?のなら、歳の月の一様関数XXでよかったのではという思い.いまごろ何をしているだろうXX、その時にはまったく気が付かずただ会話内容に錯綜邪悪な全く必要ないことを考えてしまい、今更取り消しは心理記憶でできるが、覆水時間は元に戻らず
感性の判断においてはその時々の心理気分で妄想・奇想・夢想・幻想・空想などを行ってしまい、現実際対象・事象を見間違うことあるので、線形と非線形ケースなどを判断のよすがとすることも、現実には有効であると考えるまでもなく、当たり前か.
おもむろに考えた、歳時のパターンでいいのか?
件の人物はその身体優位性が親鸞こだわりを齎していたのは間違いないところだろう.無底の自由という言葉はNo.にせねば、ここで有限を設定するかどうか迷って、有限言語化したのだが、有限はいつでもというほどによういではないようなだが、外してよいものである.
”我々は自己の個に徹すれば徹するほど、無底の自由を自覚する。”西田哲学だそうだ、人間はすべてこの無底の自由を持っていると同様なことを述べた人物がいて、どうにもいらだつわかりかねることだったのだが、西田幾多郎の哲学そのようなことがあったのか.個体にもつながるな.
しかしふと徐精神を持って見ると、どうも自分の考えを随所に用いているような現象を想起した.まあいいのである、それが意図でもあるので.原理的に持っていたのだが..いろいろ未知・無知人間の粋がり反発を受けすぎている今までの時間といった趣表現は当然できる.そうでない人々も多かった?
ポパ00年---この値の微妙さ、これではまずペーソス退行XXは役に立ちそうになく、もっとも他の面でもそう思っているのだが、無駄を間接的を超える以上に強制した存在ではどうにもならんことは、先の時間から明らかに.ちょっと傲慢を止めて謙虚さが必要だが、どうにもそんな能力があるとは
なんか最近フォン・ノイマンに一言いいたい気分になっているということは、環界の変化によるのと自己歴史の感慨からかな.ノイマンのリングがエルゴードならちょっと何も言わないことにしよう.なぜかなんだかわからない・思考刺激をしないノイマン環もまた不思議なもの.どこかで何か接触している?
とはいうものの、明らかに大丈夫なはずなんだが、帰納の帰結設定は心理にいらいらする心持をも齎している.共時的帰納も当然あるわけだが.
市場原理でも年前に暗黒空間が出現して、思考が進まなかった.そのかなり前に、市民は希望であると思ったときに、やはり暗黒空間が出現してこれはなぜなんだが不明であった.この両者のパターンは似ている.後者は等質空間のような、前者は深淵である.さて何かのヒントになるか?
つまり交換に対して反交換的人間が、交換性の邪魔をする.少なくともある視点では、反交換は反交換であるので、それを自覚するか、両親に文句を言うか(第一義的原因は両親にある)、変容しようとするかで、交換に無理やり割り込む必要はないのだが.
怜悧という線描曲線ではないか、心理印象では参った回もの.
アルファタッチにしたらもう面倒で、永劫回帰を無限回行うとしたら、超人的生き方など空しい(皮肉にも)というか、それがどうした・気にしてもいられないというような、ニーチェのどうでもいい扇動・説得力になってしまうように思いついて.
1/∞VS∞/1のような類比をすると、孤独であるの逆は全てと親和性があるということでもある
直感では不随意運動と脊髄反射は結びつく要素を想定してしまう.あれ、不快な記憶で悩んでいるものは、脊髄反射的反応言明ではないか?、さっぱり理知的には判明しない麻痺作用であることはわかるのだが.
ある視点から蛇足に過ぎない人間もいる設定を心理にしまっているとする(良心的面から)、その視点者ではなく対象としている他者に遠慮した形の良心的心理をその視点者と設定してしまう他者認識に悩まされて、そのような愚かさが障害となるケース多すぎて.
αからの障害とするより、愚かさ達からの障害と述べたほうが良いかな.まあαからの障害もないはずもなく、愚かさ達は全く疑いようはない.
記憶に残っている不快な言明者たちには、それなりにどうも責任を与えることにした無駄な擁護を強制される・不当に歪めを強いられた思いなので、歪める以上それなりに責任を持ってもらわないと困るという理由から、明白に一人は消えているのでどうにもしょうがない、+αでもう一人いるか
しかしフランクルが超意味設定していたのは知らず、それを考えるとまた困ってしまうが、フランクルはフランクルで、むしろ超意味の設定自体を知らなかったこと自体の方が、問題(先に言えという自己弁護も)ということになって、なんだという思いもする無駄な極限想定をしたものだというそこの信号の処
『疲れたら交代する』これは思考の内に記述してあることである.
結局、他社たちXX&XYの愚かさに付き合いすぎて、愚かさ以下の生存時間を過ごしている結果になっている.まったく不都合なものだ.何たることはなく、むさくるしいXXやむくつけきXXと当人が実行していない実行すべき事柄をはやどりして、実行や実行結果あてはめをされて、しらけすぎなXY達も
ようやくウィルバーの意図をほぼ了解したかな.インテグラルという言葉は嫌いであるので疑念をもつが、(個の外面と集合の外面の短絡があるような?)、マズローにせよウィルバーにせよ、一言表現をするならば”頭がいい”という領域・範疇の人物たちである.
過去の解説をするより新しいことを考えると決めたウィルバーのある時、こんな文に接すると、相変わらず解説ばかりでしかもその情況がまた伸びるという時間が続きそうで、なんとも.まあそう簡単に新しいことを考えることができるほど、過去が限界的ではないという面もある.
しかし人がワープとか考えるのはそれなりの思考構造を持っているのかも知れない.ベルトラミ構造からはまず普通にワープ形式を思え、トーラスにもその香りはある.トンネル効果の示唆はあるかも、むしろ相転移の示唆の方が強いかな.壁の向こう側はどうなっているのかという疑問感が要請する?
しかし物理にせよ宗教にせよとにかく人々の空想力(未実証もの)には恐れ入る.追随して・容易でもないか・判断はできるが、やたらと詭弁的頭脳になりがちになってしまう難しさがある.想像力はいいが空想力はいただけない考え方で、区別が他人には困難なのかも、確かに共通する点はある.
サイクリック宇宙*無限回&仏教周期*無限回のようなケースをかんがえることができ(仏教はちょっと大げさなはったり的大きさ表現をしていないか?、実践する精神では困難を齎す予測はあるが)、これらの逆もまた考えることができる.
普通には多元宇宙の一つから別の宇宙の自己に会うときには、若き自分が老いた自分に会うというケースであり、その修正を考えていたら、ボルヘスの砂の本の中の設定とそっくりなことを思いだした.ボルヘスは多元解釈的な面があって、複雑怪奇的と、そうなると多元映画は、ボルヘスの映画化かとすでに?
現象的には、良心の呵責・罪の意識は、類続構造の圧力からくると考えられるが、無機物には当然罪の意識などないことから、罪の意識がそう内容な指示的人間は無期物体に近いものとなる現象判断ができる.病的な場合、無機的な場合、状況的な場合(戦争状態)、動物的な場合にも、多くはそう言える.
数が多いはジップの法則判断においてなのだが、自分で考えない存在は往々にして共同体思考に依存してしまう、この存在の言明が往々にして悩ますという・容易にまた判断する傾向を覚えてしまうという点が、いろんなケース設定になる.大審問官や衆愚政治&その・・・
有限叙事的粘性虚無-虚無に有限があるのは盲点だった.まったく単純に考え難い
帰納-プラスでもありマイナスでもある.
どうも落ち込みに安楽を求める形になる、ドストの人は被害者意識を持つというような気配も覚えないこともない.これが変わるのだがその時間が成立するのかの時間無意識中--変わるというかずっと昔からその位相設定なんだ...
『古典とする時間と空間』などと過去を煽てたのでその付けが出ているが、ふと思うと現実はそんな形態で、卑屈を要請される形になってしまっているが、結構人々とこれ位相が同じなのかな.あるXXがここでも卑屈感をもたらしているという過去形なんだが、自らを全く過去にしてしまう意図せざる展開
一言はよかったが旧態持続型人間に辟易していることをまた忘れてしまっていた.結構システム圧力が強いので、というか急には変われないからだが.奇形系が持続意識を持っているという矛盾が問題なのである.奇形系はそれ自体変人であるのですでに変わっている.
常識は自然に無意識に当たり前なことなので全く面白くはないが、日常では頻繁に用いる.ただし区別して覚えるのには大変な量があるものがあり、つまらないと称している暇もない場合もある.
不快な記憶は不自然の強要な事態だからであるという帰結になりそうだ.
心理の次元が落ちているケースでのツイートで、昔に矛盾的を指摘されたことがあった.心理の次元が落ちているというか、蒙昧な女性が対他寄与しているか、非科学的な無知存在が影響しているかな存在を、こんなケースでは思い出す、科学はいいといった人物を.大体反映なんだなこれ、しかし相手でなく
宮沢賢治の世界はアドレッセンス・と自分で言っていたらしい、そうかなるほどそんな趣をそうとらえるとそう思えるな.銀河鉄道の夜という作品のあらましを知ったのは小学5年生の冬の時で、とてもついていけない空想物語と思った記憶がある.まあそんな小学生もいるわけだ...
つまり日本はポテンシャル<エントロピーの時代にほぼ正確には0年から転換したということになる.
ベルグソン・ベルクソンではなんといっても全く記憶にないが、笑いの哲学に目を通したこと.微笑や共鳴笑い、哄笑などなどパターンがいくつもあるその概念・身体減少.エラン・ヴィタ-ルは単なる飛躍ではなく、共鳴もあるだろうけれど、まあ相転移的ジャンプまで行くのではないか.
あいつは優越感ねと理解したが、現実に意識がわからなかった.深層的事態だったのかも.で普通に何のことはなく人は優越感によって生きていると思うのは、まったく当たり前すぎる自然すぎることなのだが、人間存在に存在論的に組こまれている物は優越感とすると結構つじつまがあうかな.
経験上遭遇したパリサイ人は視野が狭い気がしている、それと権力的にすぐ傾いてしまう、つまり進化論的に弱肉強食の動物界人間のように見えるということである.自己自身の良心が欠けるきらいがあるので、他人も良心が欠けていると思い込んでいるような存在と
ここに至って,Θではなくαタッチに注力しなければならないことに、まずはホイッグ史観に直面することに、デンマークのユダヤ人のスウェーデン移送から発生.つまりは社会進化論からで、スペンサーはまずエントロピー史観と現象的には見ることができる.『エントロピー史観』--この言葉結構いいな.
君はあきらめるんだあきらめるんだは悪魔のささやきとしてゲーテの箴言
それにしても気にしたいXX、ほぼやる気をなくさせることしか言わないのはなぜなんだ.まさにこのXXたちは悪魔的といわねばならない.まあXXに限らずXYも模倣乗っ取りのような悪魔的存在も多くいる.
生きていることは常に身体的不自由に直面しているということである.
創造を現代ではないと述べていた評論家の意見が気になっている.確かに実際に創造は難しいが、最初の試みというのはあり、それが起源・オリジナルという記録は残る.模倣ではなく起源的な所為は記録されてしかるべきものと考える.汎関数的?なシミュラークルでもなく.
JKが自分の年齢だろうが何だろうが1だったのでNo.1にするべきだった.なんというかやる気をなくしている頭というべきか、劣性XXが災いをしているのでは、その気持ち悪さで、インフェリオリティはアドラーが建前で優等表現をしても、やはり反動で厄介なものであるのが現実.
弥生の寄与が強まると太平洋戦争なるケースが生じたことになったとか、天皇家も縄文の遺伝子を持っているはずで、本来の日本人は縄文の遺伝子的存在なので、皮相的に倫理面で世界的に無理解されているところも無きにしも非ずがあるようで.
憲法第条は与えられた形や死中に活やウェルズの思想より、縄文の遺伝子が引き寄せたとする考え方が日本的かな.
マタギのすべてを取るのではなく、来年以降を考慮して調節しながらの自然に対する意識は、多分に縄文の分かち合いの遺産ではないか.縄文時代の島国は楽園であったことは想像に難くなく、遺伝子を受け継いでいる日本人の伝統に、憲法条も乗ってきているような感触がある.当然徳川幕府の鎖国政策も
多世界ジャンピング映画、一つの世界での死は他の世界ではそうではなく、まだ生きていると、なんと離散的世界のアイデアはわかる.人はそんな多世界・他世界位相解釈能力を持っていることも知っている.SFを見ていると個的アイデアに関してうかうかしていられないという思いで、アイデアが湧くかと
なんだかローレンツ変換ではないかと、それならNo.でスピノザ決定は時空が関与する.浦島太郎は当然の話で、むしろ日本の昔話が相対性を予期していた点があるとも.あとNo.にはスピノザから多元があり多世界もヒントしている.まだ今日風には要素があるが、とっさに結びつきの説明がつかぬ.
散乱場でも南場宇宙でもいいけれど、想像・想定するだけならいいのだが、生理心理で同様なケースをリアルに覚えて、冗談を設けたらそれが本当と他者達に見られるのは不快すぎることで、そのようにみる無茶苦茶な他者達は何なのかさっぱりわからない、おかしな存在であるとしかならない.
人間が人間として存在しているだけで持っているものは、先天的存在かつ後天的存在だけれど(最も多少どちらかが優勢な偏り人間はいるし、また日常においてどちらかに偏るけーすもある)、そのような存在が日常生活していると、その判断はそこからやってくることに間違いはない-という現象論
家父長制は精神分析的にはA期的事象といえる.帝国主義・覇権というニュアンスは家父長的色彩強く、A期的とするならば、戦後によって日本はG期を行う羽目になった形である.大人になるべき・なったという現象ともいえる.
親鸞の悪人正機説の応用で、どうも記憶にある不快な言明者たちの分析をすると、無自覚者は他人も無自覚者と思い、くだらない自覚者は他人を無自覚者かくだらない自覚者と判断する傾向が強い.くだらない自覚者はむしろ他人を無自覚者と思いたがるかな、それぞれ主体の阻害を行使してくることになると
古典と量子でDとD-1次元的考えは、ボーズ凝縮論とまず似ている.
現実論的には経済は歴史の圧力である
ユーパリノスは虚無に対してソクラテスが無能感を感じる物語、虚無=叙事的無ではなかったか.建築に関しては不朽性を持つと芸術になる.
ある不動点定理から、無限点でで消散するという考え方はストレートだなとは思う.消散してどうなる、消散とは明瞭なのか、消散しているところの場の様子はどうなんだとか、自然に任さないとするとそんなことを考える.保留中からは結論を出している消散やゼロは都合を除けば無責任感触もまた浮かぶ
そういえば今まで一番のお気に入りは、ボーズ凝縮数粒子は全体粒子よりも少ないという説明であったことを思い出した.気分よくなったその論理と方程式説明の記憶がある.
夏目漱石・道草より、一度起こったことは形を変えて続いてゆく・から、ある時点での形を変える以前のエントロピーは減少している、これは日常生活上頻繁に起こっていることで、形を変えたエントロピー量は以前のエントロピー量+形変化に対するエントロピー量として、エントロピーは増大していると見る
去る昔、新宿紀伊国屋のFで、想定WH側の無限挙動を考えていた時に、ちょっと想像しがたいので自然に任すとした時に、はっきりしろという内面の声が?、自然に任す(とりあえず)としたのに、この内面の声は何、誰か他人の要請としか思えず・これも自己主体のなせる業というのか・不思議な・・・
どうもブラックホール的ではなく、ホワイトホール近くで無限遠点挙動を考えるところが違うのかな?
知行合一は山がそこにあるからで知先行後はそこにある山に登ろうと意図して登る-単純には本能と理性(本能的理性もあるから語弊があるが)の違いのようなもの.(倶舎論の文字はちらっとは目に入っていたが、別にというようなものだろうと、そうではなかったのだが)--朱子学や陽明学が?
マルクス・エンゲルスが科学的と称して、唯物弁証法を用いて共産社会実現を夢想した.仮にその夢想が成立した(国家なく貨幣制度無き社会)として、用いた弁証法の寄与が、実現によって消えてしまうような影響力しかないと考えるのは、どうも非科学的なのでやはり共産社会の止揚はなければと考えるが?
差分を止めたらある存在が幽霊のようになった、これは一つの解答・解決策だが、実際になぜという感じは持つ.少しでも煩わしい悩みが減るのは(過去が想起する悩みが減ることは)、その悩みエネルギーを未来への悩みに向かって使えるのでいいことなのである.
大体、深層心理をこと細やかに配慮しても、対象が深層心理をもっていないや、心理すらないような物象的存在もいるではないかと.ところが自らが他者の全く配慮無き発言を受けた場合はどうなるのか・・不快な言明として記憶に残っているものは明らかにその対象である.
体育館のそばの陽だまりの中で、ケットベクトルを想起したことは、懐かしい出来事と思うべきかという想いが過り、危ういどうしたものか・心理を変えることになりこの瞬間先が見えなくなるゆえに・・・
過去は時間的に過ぎ去ったことだから、あまり過去に向かうという考え方はさほど、ただし非可換でないと未来の不明が成立しない理屈.未来が可換としたら現在から未来が判明することになる.まあ地球は明日も自転・公転をするだろうは可換的であり、地球実在はてまたこの宇宙の存在持続も未来的なこと
時空の連続体の量子化の候補が非可換幾何学とか、非可換の連続が不確定のスラーとかなんだが、わからないミンコフスキーを破れず・・・
実存は苦手不快で中途半端なもの通時的な場合も心情に災いする.深淵を歩き回る世界線やパスカルの実存世界はいいはずなんだが、封建的な通時的旧式を覚えさせる実存も結局まずい.
要するに帰納より演繹が好みの人間がいて、ただし演繹レベルの対象差があることが問題となる.まあある特徴作家が”自力ですよ”と、過剰にわかりきっているアドバイスを無駄だがそれ事態は貴重なので記憶している."愛読者ですよ"とその妻に.別にプロットは嫌いではないが、センスは好みではなく.
ちょっと面白くない知らせが、なるほどと思うことはあるが、判断材料にさせてもらうのはしょうがないないだろう.まあ厄介な帰納の不確定の煩わしさも見えないことではない.帰納はエントロピーに追随しているや甘えている・エントロピーゆえにとも思いつけることに.
楽園・幸福情態を予想させる考え方自体が、その楽園・幸福情態を否定しなければならない要素を含んでいるということは、それはタナトス的になる.これで、若かりし日、市民が希望であるが徐に浮かんだ時に、そこに付随していた暗黒空間の理由がほぼ解けたかな.(希望になぜ暗黒が付随するのか疑問で)
「エントロビーの溜まり場J-量子系の励起モードの数(これはインスタントか)に対応の歪みとは、なるほど.やはりこの面でも時を徒に過ごしたかという側面を感じるが、時間経過における結果を待っていた意図が優位にある.
亡霊はあまり考えられない.他者の怨念・未然愛惜が意識体に?、それは他人のことなので想像しがたい.ともかくタイムマシン的だけれど未来の場合にはゴーストはある可能性がある.(個人的には近未来年時間のみとして)
出る出ると言って出たためしがないのが幽霊なんだけれど、自己の未来の影像は揺らいだ液体で構成されている人体(表現はまるで映画プレデターの透明映像とよく似ている)のように見える.人の直感・幽霊という考えは結構当たっている.今のところ過去は見たことない・実体を持っているから.
昔、亡霊ではないがある存在の影像の動きを見たことがある.今考えると自分の未来の行動形態で当てはまる状況があり、未来の自己はまさに幽霊のような映像に見える.
カラビ・マルクス現象は普通で当たり前のことである.中間存在は普通自然に工夫して、依存的自由作用を持ってくるのが厄介.
ネットを別に用いていないのかどうかT大生すべてが有能とは思えないようなネット現象を感じるものである.しかしT大生一般はあるレベル以上であることは一般的に確かでもある.(ここが小学生の時からの問題で、昨日になって閉鎖という言葉を思いついた・かなり信憑性がありそうな個人的見解である)
不快な言明の記憶ある人物は倫理観が弱い・倫理観が悪いということなんだが、その子供の倫理がよくなるはずもないので、雲孫あたりまで行っても倫理面は良くならないだろうくらい言わないとしょうがないなという気分..まあ倫理などは無いと言っているが、あるでたらめの言い訳レベルを記憶していて.
「賢者の石」―藝術及世界に就ての考察―〔「水甕」卷1號 大正年1月〕詩集轉身の頌序---によれば日夏耿之介にとって、宗教と哲学と詩は区別さるるものとある.夢と哲学と詩は区別しているものとした話をある作家にした時、夢と詩は区別できないと申した.夢は宗教的意味合いが強いのだが.
不条理が人間存在にとって必須ならば、神はなぜ悪と善をの問題は人間世界だけを見れば問題ではなくなる.何しろ不条理が必須なのだから、ここには神は不条理のない存在と見ている前提がある.
理論と実践は異なるとかの確定出ない事柄は、さすがに現実のものとして直面するようになる.どうにもそうなってしまう不可避的でこれでは生存過程が
うまくいくはずないではないか.ただそんな問題を避けて、他人転化と他人依存状態化すれば回避できる(中間存在はそうしている)
”ストロミンガーの提唱した系は、同時に解かなければならない四つの微分方程式の系から構成されており--”えっこれひょっとして昔考えた種の特性方程式と似ていないか、一つ一つの解・既約方程式が難解そうではあるが極度に難解なものをまさか想定したはずもない・・・
どこまで行っても分離しないケースとどこまで行っても結合しないケースがあると仮定する.前者は一応思考できる.
徳川時代の鎖国や黒潮の潮流や縄文時代の寄与などから、日本はどうも閉鎖的な国の雰囲気が縄文より続いているような気がしてきた.ただ戻る場合には確固とした地域ではあるが、外部に向けてはオープンとは言えなくなるような形として.
そこからRNAi・RNA干渉を知るが、忘れていたテロメアに関係しているとは冗談ではないな.ヘテロクロマチンはできるならば種にして貰いたい気分がある.昔はRNAから皮肉位相的に考えようかと思ったことがあり、miRNAは予想していなかった次元記憶があるので確信的に時の流れを感じる
前提条件に有限があることを強く意識せざるを得ない.ヒュドラがそれ以上生成できないようになる時空域、foldを一つ一つその連結を断っていくようなものと考えてしまうとまずいことにはなる.それより分岐生成力が多様分岐を処分していって分岐が生じないようにするという考え方にしよう-なるほど
時間的に複雑自体が変化するものを定点化していたことが判明、愚かな自虐を行使した問題が解けた‼(全くなんでもない単純なことで徒に時を過ごす羽目になる-徒労に呪われているのとは多少異なった面で).時の流れに平行して動けばそれはそこにある現象にしかならないよくある解析感覚と同様である.
要するにパスカルの想像力は理性の邪魔であるということなんだが、想像力がないと視野がまた進まないことも確か.問題は複雑な理性以上に複雑な想像力ということで、またその想像力はそこに意味があることにもなる.
偏屈(でなくても)XY(XXも)的権力視野剛体強情自己欺瞞性演技擬態体人間は確かに剛性を持っているので変化にぶれはしないが(ぶれる能力を持ってないという見方もできるが)、柔軟性の欠如があり、硬度硬くステム的で・・・ある消えた人物を思い出してみるとそうである傾向にあったとしか見えず
どうもケインズの幸せな時代およそ%の物価上昇率は安定で理解できるが、時代の流れがケインズの時代と異なった変化をしていると考えざるを得ないのではないか、そうなると変化率も変化させる構造が出現してくると
リーマン球が無限遠点と称するとき、連続体仮説などは考慮していないようなのだが、その辺はこれから精緻になっていく可能性はあるか?
きょう徐に考えついたが、資本主義とプロレタリアでなぜプロレタリア独裁になるのか、文献類に目を通したことがないので理屈が不分明だが、素直に弁証法を適用すると止揚とは資本主義でもプロレタリア独裁でもなく、それらを混合した新たな局面になるはずではないかと.
単に小学生の頃の思考の方程式化ともいえる.全く遠慮することはなかったという思いである.この遠慮はすでに過去としたXXが足を引っ張る形で、常に欠如感をお垂らすように作用するという、不快な無駄ばかりを要請される形となる・何しろ潜在才能が役に立たないとう時間遅れ思考を非常に経験している
シュレディンガーや不確定性、生成・消滅も必要だったのか、これはちょっと勉強しないと直感では追っていけない対象であるは、素直に思える.
冗談には遊び的があり、自由には責任が伴うのに、冗談には責任がないというのは少し変である.冗談が事実的になるのはそれが責任に転化される形となると考える.なぜ他者は冗談を真面目にとるのか?.発散解消的なものなのに、有限実在束縛にしては意図が異なる.
経済に道徳はないと人の述べるとき、その人物は経済は薄情であると述べている.権力的叙事的つまり統合的人間にも道徳はあまりなく、薄情であるとXX&XY双方多く存在していることよ.
そうなると記憶にあり、ある人物の不快な言明にはその当人に責任を負わさねばならないと考えるが、すでにその当人は故人である.なんとしようか、蒸し返しで対象が全く異なるドン・キホーテ様言明をまさか行使するとは全くその時に考えず、消えた後から思いついても意味がないが、不快は不快である.
ζとBでが出てくるを今頃知ったという(避けられないことだったかという想い)、相当時間の無駄・ラプスと思うが、別にそうではない?.この数値に関してはそのときには直感では意味がない・大げさと思ったゆえ(少しは意味もあるかとは思ったが・次元の頃)--潜在的は考慮の内に第二楽章
トヨタのCMもあってやはりリスクは動物的か-身体的というか--非妥協にはリスクが付きまとう
昔考えた種の特性方程式(それぞれ既約)がまさか種の基本相互作用の解というような複雑なものではなかったな.ただ種の相互作用などは考えたことは記憶になく、たまたま種の特性で、また次元特徴もあって、種の特性は結構個人的に楽しみを齎している.
ディラック作用素はラプラシアンの平方根だそうである.クラウジウスとディラックの精確さは対象により差異はあるが、同レベルとしてよさそうな..しかし量子の精密さとは定性の度合いが違った.クラウジウスを考えていたのに、少し時が過ぎるとすっかり忘れて、ディラックの単子ムードに躊躇った廊下
弁証法的な超対称性を行使しない・心理感情的に似合わないので.超対称要請もしくは阻害強制を受けていて不快でしょうがない.不快な感性のフェルミ型がボーズ型をやればいいではないか、単体的なのでエゴ丸出しが自然だが、別にそんな自然を持っていない人間もいるのである・ことに苛立っても無理.
いわゆる覇者的や叙事的なども無機的要素強い.唯物は当然そうなるが唯物と観念も実践と理論で思考必要だが、無機的と有機的でホワイトヘッド傾向をこの場合考える.
剛体的・帝国的・道具的・行動的--おおよそ無機的傾向が強いことに気が付いた.道具的=オブジェ的も成立しそうで、幻想力自体がハード要素を持っているとしているので、ある作家の想像力についておおよその見当がつくことになった.もっともこの人物の固有性を考えていた結果無機的にたどり着いた.
あんまり反応ないと思えるので、やはり今の若者にしか理解できないのではという思い上がり的要素もあって、それでも即物現象に飛びつく存在はどうかと思うけれど、即物社会現象自体は共時線を突っ張っている点もあり、いくらな何でも時間が過ぎてそれ以上に古くなってしまったとか、それは歴史上になり
類群暗示から頂点代数暗示が出てきて、Jとか8個のテンソル積とかモンスター数と共形変換とか-全く昔からのモンスター暗示はよかった(ムーンシャインで区切りにしたが)けれど、例によってfold回避という分岐に関してこの辺であるという直感試みが共形に関連しそうとは、ラプス時間が長かった
前のツィートから偽善体・演技的性格のすでに自己主体を亡くした存在(無自覚人間が多そうであまり自己主体がわかなくなっても差し支えなさそうな存在もいそうで)は、生理的人間の範疇に入りそうなアイデア・可能性が今まで麻痺しすぎていた現象・事象対象時間から逃れ出てきた.あまりにも単純な・・
中間存在や実存人間&無機的傾向人間がとにかく有限束縛をしてくるという現実.生理有限から出れない人間たちの嫉妬心がよく言う勝手に動いているとかの表現になる.XXたちの生理必須条件がなければ存続不可能という事実に依存しているような意見として.
未来を見ていたが遭遇した時にはそのことに全く気が付かなった.その未来が過去となった今ははっきりわかっている.まあ未然未来の連続で、ろくな成果である未来ではなかったことに、根拠がわからないという悩みがある.個人の性格遺伝子と思えばだが、それにしても変で、他者たちの災いが一番ではと
全く冗談じゃなく帰納の原理的不可能性と哲学探究の煩わしさの時間を持つとは、ベーコンのヒステリック心性感受は原理的不可能性で理解はできたが.そうなるとエールのリンダも似たイメージなので了解できることになる.その上に定性メロディも帰納的曲状となることになる.
無機物からの進化・変化が人間に意識・思考構造を齎したと考えるが、ブラックホールという無機物構造がそこに立ちはだかるという情況.それはそれで自然宇宙の似姿が人間の思考構造とできないこともない.
G宇宙は理論的、ブラックホールは実践的でその関係の別の思索方策的な事柄.
類群で不快な心理変化を余儀なく・・・構造の単純化という.グロタンディークの宇宙とブラックホールの関係でまたまた不明な行き詰まりを覚えることに.
ありゃ事象の地平線の前では、グロタン宇宙は・・という実践理性と..
NBG集合論を用いた-フェルマーの最終定理証明にグロタンディークの宇宙を用いたのか、ZFCより弱い体系でも可能ではという心情はわかる・直感できる・・・
実数のある形の複雑さ=混沌に対しての位相.客体的と主体的数学者がいて、岡潔なる人物は主体的数学者だった気がする、悩みの観点からは主体的の方がその強度は強いという意味合いを与えた形として.
それらの間のなんやかやがイメージ接近を齎していて、しかし方程式はオブジェ的にも見え、近似的とも思える.今のイメージではそれらでいけるかもという感触を得た気がすると、しらけてつまらなくなってしまったという気分も湧いているが、そうなると前進を余儀なくされるのがパターンであるが、はて?
そんなかんやで個人的な直感が志向するのは頂点作用素である.これはモンスターの流れからきているのかもだが、実際には頭痛くなる以前の記憶があり、しばらくした今またどうも対象として浮上である.
しかし個人的感性では、類体という言葉のイメージが似合う女性はいて、好むスプライン&心性を持っていると、ある温泉施設の休憩所で遭遇したことがある.それほど難しいとは思えなく、そうなると類体という言葉に対するイメージが違うか、件の女性が実際は難解なのかもかである.
その昔に、時間があったら類体論を考えるとしたが、そのような気楽?な対象ではなさそうだ.イデアル類群がまず難しく、非可換類体論の定式化は初頭でも成立してない情況で、さて今は?おそらく今もだろう.
種の固有特性解を持つ方程式はひょっとしてスツルム=リウヴィル型微分方程式のことなのかも--特性値の判断から思いついたその昔
自己主体の疎外を要求してくる存在は、承認の要求を要請しているのだと思うけれど、そんな存在に限って他人の承認をしていないので、何しろ主体疎外を要求するのだから、当然そんな存在を承認するわけがないということを無理に押し切ろうとする、バカらしさを覚えさせ無いで・という不快な記憶
初めて行った小学生の時の霧藻ヶ峰のレリーフの印象はは何十年たっても鮮やかに覚えている.誰なのだろうなぜこの岩に描かれているのだろうと、眼前の樹木にかかっている鮮やかなサルオガセの塊の鮮やかな灰白色の印象と共に
supermanifoldでgrassmann oddをθにするのが常識になると困る、反対の記号意図を持っていて、でもそれとは区別すればいいか、そう帰結を急ぐこともない.
退化因子まで登場するなら、退行強制・要請存在に対して打つ手がありそうなというより、要請存在の方で手段を構築すべきである.退化ばかり要求するにもかかわらず退化しない状態を持つことはできないだろうから.それにしても昔には厄介なXXたちが眼前に出現したものだ、記憶内容が面白くなくて..
そうか単振動ではなく、まず最小複数で引き込みが起こる(これも知らなければいけなかったが)、これは中学生の時の少数循環繰り返しやどこまでも続くπの展開数列意識に関連していた.今でははっきりとわかるエンタングルメントが謙虚さを要求したためか、全くこれを思い出すこともなく自己判断欠如と
世界がなくなっても一杯のお茶があればいいはおかしな言明である.一杯のお茶のある場は世界だからである.これは言わずと知れた傲慢な心性を示す人間の心理が客観世界がないという無意識を表現した形である.
ゲーデル解・年”回転する一様な粒子を仮定した解。 宇宙項を入れている。 時間が輪を描いており、過去と未来が繋がっている。”--ゲーデルはそう考えていたんだ.そんな簡単だったのか?--多少困ったな、現実人間世界を基準にすると(宗教的は結構密接した地平になるか)考えずらい.
エンタングルメントと述べてしまうとしらけてしまったかたちになるが、それに気がつかなかった当時間が問題で、何が障害になったのか思い当たるような考えが浮かばず、さっぱり相変わらず説明がつかない.エンタングルメントは考慮中に登場しているのだが、距離はそれほど長いイメージは持たなかった.
ド・ジッター宇宙は事象の地平線を予測している結果、事象の地平線でド・ジッター宇宙は有限であることになる.(余計なエポケーをしたときに即座にデリダの暗黒に到達して動きが取れなくなったことを思い出す、ここでは脱構築は困難であり、ハイデッガーの限界でもある)
バネ振動子”バネの力がわずかにフックの法則からずれている状況”は大いにありうることであり、”そうなると振動の周期が元の状態からずれる”という帰結は・事象は全くありうることである.--非常に不明だった時期があり、何のことはなく全く実存的制約に陥っていたか、劣化XXの寄与が遠くから?
単純に重力球状天体に沿って光が曲がるとき、天体は+曲率を持っているが、当の光は-の曲率と見える
慣性の法則により、空間が曲がっていると一定速度なのに加速したように感じる相対性原理ゆえに.なるほど対象により変化して来るとはアインシュタイン.慣性の法則・等直線運動を考えていたある家の裏の道を思い出す.確実特定場所の記憶はないが、およその時間記憶はある.
”臨界点近傍における物理量の臨界挙動は漸近的に冪乗則に従うことが知られており”次の場合だけれど、臨界点がまず存在するという前提があればいいのだけれど、区別がどうしてもできない悩みがある.しかし、漸近的にべき乗則に従うという考え方は使えるな
foldに関して例えば”正標数の場合は暴分岐重複ファイバーが現れる”などがあり、好きな人はいるな.そういえば何とも言えない混沌暗黒についていけない理性を持ったことがあったのを思い出した.ちらちら見る組みひも論よりはるかに複雑怪奇な混沌像だった.
ホップ・ファイブレーションでも楕円でもいいけれど、変形方法はいろいろある.素線で領域を瞬時に埋め尽くすとか-紐は弦は行き着いた形?
回転楕円体関数がある以上微分方程式は避けられないものだったと今頃気が付く.foldが苦手なので結び目と当然苦手となる、複雑で・・ところがこれらに不変量を求めて鵜の目鷹の目のごとく挑戦者がいて、またその結果を出している.
普通に宗教の古今東西の開祖は神人化になっているな・もう人間実在の構造自体に機縁するものとしか思えない.日本人に甘えの構造あるが、宗教に依存する他国の人間はその宗教に甘えている形という表現を常々持っている.土居健朗は他国の宗教分析をしなかったのか?--カトリック信徒だったを知った.
想像力は肯定しているので(空想力はあまり肯定しない&妄想力も、夢想力はそうでもない)、そうなるとあの小学生の時の図画における想像力部分は、選者に対して騙したような写実意識における罪悪感を持たなくてもいいではないか、選者に遠慮した形と、写実の圧力を受けた記憶が離れない.
昔にランダムを否定できずに考えていた所の近くで、頭が何らかの構造の倍率的なものを構想したことを思い出した.これは今になって理解してみると拡大に相違ならないと.するとシステム内容構築時には、ガロア拡大的要素は持っていたことになる.(表現は幼稚かもしれないが、内容は難しいかもとなる)
『層状組織』に対して、共役断層と断層帯や活断層も考慮せばならないが、それによりより現実に近くはなる.『位相差を持つ』で含めることはできるが、初期単純直感視野には、アルキメデス的なものとして認識で、それからどう変形するかは考慮の内だった.
No.5に帰結もしくは結論を設けても良いというアイデアが浮かんだ.潜在的にはそういうことだったが.
分岐素点?、どこまでスラーを分離できるのか、非可換でもスラーを導入するはずで.
この現宇宙は部分ではあるが、BHでオービフォールドになっていると推定表現してみる
トンネル効果もニュートリノに関してはどうなるか、そのうちにニュートリノ何とかができてくる可能性は否定できない-質量があると閉鎖的になる--?そうなると重力も閉鎖を考えないといけなくなる.
回転でが変わるなら位相を動かせばいいわけだ、これである存在たちの不快な位相うおよび言明処理方法が見つかった.次元に組みひもでは、どうも不快に敬遠する直感を持つわけだった.
現状、秩序の原点は対称性の破れとして見る
生まれて何か月の赤子は後天的には清潔だが、先天的に清潔かどうかは不分明といえる.
”無限遠点での特異点は、正規化(整閉)の過程により、(曲線であるために、)除去される”-つまらない.とにかくn>ではn=が成立して、対象式があるとすれば特性になるが、エキゾチックであるかもしれない.
リーマン球は明暗や反交換も設定できそうなことに気が付き、だれが考えたのかリーマンか?、価値がありすぎるような直感がある.タイヒミュラーというか立体楕円のもう認識できないとすると、無限速度の概念を考えついてしまう.若きあの暑い夏の日の、砂上に一輪の花が咲いている河原で想起した日よ.
任意の直線(数直線でなく)が半径無限大の時、では直径はどうなるかというとリーマン球が登場して、タイヒミュラー的にしても記号θは成立するではないかと気が付いた.リーマン球に赤道を考えた場合、C平面に原点を置いてふつう考えるが、自由な回転をすることもでき・・.
孤立保存則と対称性の破れが階層構造を齎すとなるらしい、これによると縦型構造の存在説明ができそう(前者のみだと)と一瞬直感したが、後者によりむしろ日常現実根拠がそうなっているに傾いてしまった.
本能の固有性No.だけれど、これをどのように表現するか.
それにしてもすでに過去としたXXお対象設定にしようかとしていた時間の記憶が束縛・他者も巻き込ンでいるような事態感覚がある.存在理由的には逆になっていて不自然な情態であるのは確かであるが、人々はなぜかこの不自然が自然だと思いたがっている・またそう思い込んでいる.
現実に無限が全く実在しないから
ちょっと、0年間と残りの時間の体感時間はほぼ同じといって、全くこのことがおよそ真実なら、説明のつく思考体験事実がある・それに説明がつくような.
P≠NP予想はそこにある無限域であるなという考えが
相殺の圧力に超流動を浮かべる-そんな考え方は現実の心理には普通一般考えないが、この普通一般化しようとする傾向は、クリエイティブではないので、困ったことに・・.いろいろ思索方向時間点がある
励起-この懐かしい言葉、小学生の同級生に名前が恐らく励む意味でいたが、その家に行ったときに思いついた励起の言葉・手ごたえがあった記憶がある.
倫理観が悪い・弱いといった点は、良心的面が強いかな、良心と正義と道徳は異なるのか、正義や道徳を嫌う思想というのは、その思想が正義や道徳であって、他の思想はそうではないことを意味している殉教性であるはず.
『見えない目よ粗い目よ』-クワインの信念の体系は全体として網の目をなしている-という考え方も結構いいな.『』は老子の天網の誤解からきているフィルター感覚なんだが.
昔から暗記などしょうがないともってそうしてきた今、さっぱり記憶容量がなく、覚えた先から忘れて行き、記憶することができなくなってきた.考えるに暗記ということはスカラーではないかと今思いつき、それなら暗記を止めたことになるほどと思うが、ある対象に関して暗記すべき・記憶すべきことが多く
極が個ある-昔考えた特性の種-パンルベのは5・・3・に退化するとなると、解答は出ていたのか?.微分方程式の混沌・fold・結び目(結び目自体もそうだが)等を避けていた(ある線形中間XXが中途半端を齎したような)ので、パンルベは知らなかった.
ビッグバンを人間は想像できないだろう(繰り込み不可能な無限個の項と無限個のパラメータ)という直感観点からは有効場は有効であると、ただ無限個には興味があり、惜しいがこれは未来のこと歴然.ここでは摂動有効なことが、あの道路から埃立つ道を歩きながら摂動を考えてた懐かしさを覚える.
ヒッチン (Hitchin) のファイブレーションのミラー対称性-ヒッチンは新鮮な名前で、ファイブレーションがエタールで分岐像の変換で重複を排除できるとかだと、直感で避けてしまうfoldの理解化になる、このケース他にもあり人々がそうするのは、固有の納得感から言える.
ついでに述べるならQCDの無限の向こう側には絶対暗黒とでも思えるような、漆黒が見える.QCD場・領域自体は暗くはない.
無限小を考えるときは当然のごとく暗黒空間、無限大の時は明るい空間を個人的にはごく自然に設定してしまう、原点は暗くなく白色空間で、無限遠点の反はゼロに無限に近づくても暗くはならない.射影の無限遠点は暗い領域を持っている(部分的に見ている?)-人々は無限遠点を無限大としているようだ.
分岐する局所因子か、なるほどそう表現するのか、心理的には直に暗黒複雑稠密局所対象となってしまう(いわゆる真空は充満していると同様)ので、そこの現実事態はなんでもなくありふれすぎている事実なのである対象から考えたことだった.(--『記号より因子としたいこの頃、因子の乱舞とか』--)
ある任意の曲線を描いて、その曲線上に任意の距離に特異点風な粒子的な解答的な点を描いたことがある(そこまでしか描けなかったが)、安定ベクトル束は有限化可能とはここに当てはまるではないかと、それの拡大はどうなのかなとは思ってしまうが、そう考えたい気持ちはわかる.解消定理とかあるからな
時空に関して直線設定をしたとき、中間ガわからずに--考えて思いついてここにブラックホールを置けば結構論理的説明に納得できることがわかった.現実の世界にブラックホールを置く設定は全く考え難いものがあった.人の明暗にも関与してくるかなだが、こちらはダークマターが適切だろう.
要素論で壁にぶつかったころ(原子命題とかプランク定数未満の要素でもおなじこと)の展開から、分類論的に考えてある.記号はその象徴だが、3次元までで次元以上はまだという時間なのか・・この分野の比較からは何もしていない時間・ラプスは無駄ではないということになるが・・・.
射影がこれほど出てくるのは、現実世界と人間の知力構造の間に、投射関係があることを示唆させる。(少なくともそれが全てではないかもしれないが、部分かそのような側面はある)
foldに対してはミラー対称性なのか、次元に関しては昔から厄介なので避けた記憶がある、ただし弦は避けたつもりはない.foldに関して直感で避けるわけだ、次元の芸術的描像の記憶と数えあげを見るとその思いを納得させられる.
指数定理やスキームに対して『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』は応用・関連を想起できそうだが.結構やはり直感・自動記述的な面でもOKな文章化は成立している-というように解釈度を自由化させている.
人類の家族史の歴史は時空的というアイデアが浮かぶ.
これは調和形式・対称形式志向から来ているようで・・ネーターとの絡みとかや重力子が来るかも、時空の曲がりのタイヒミュラーなど結びつかず.空子・時子なる想定をしないとか、重力はそうなると除外できそう.
チューリング賞を獲得した人物は面白く有用な気分になる.ノーベル賞などもそうなのだろう.一応マイシステム上に弱く当てはめることができるような存在たちということなのである.
記憶にある不快な他者たち(XX&XY)の言明は、どうやら構造を無視して非構造化やありえない構造(ドン・キホーテ風な目茶苦茶をされる方はたまったものではなく、ドン・キホーテは夢を見ていたと後になって気が付いたが、これらの人間達は不明・恐らく-)を描いたものであるという解釈ができる
対症薬に副作用が発生するというのは、どうも人体構造がより複雑すぎることによるという思いがしてきた.
人はトートロジーを避けたがる傾向があるか?、反発はその極限的関係か.例えば陰謀的でたらめ構築者達に陰謀的と述べないのは、その人間たちに対してトートロジーだからか、それとも偽善的無責任ゆえか、または未熟な心性ということで優越感ゆえか、それらすべてに拠るか.
ミュンヒハウゼンのトリレンマあるいはアグリッパのトリレンマについては、思考する人なら必ずぶつかる対象でまた答えはまだ出ていないものとしている.盲信的答えは中国などででているが、故に派生するのが可謬主義-デュエム-クワイン・テーゼ (Duhem-Quine thesis)より転変
時相論理-時間と空間.ある女性の発言を聞き取れなかったことがあり、その解析に悩む.深層心理持続を今表明したという事態なんだったが.人々は時相であるものを、非時相論理に強制する故に、脳麻痺で記憶の障害になりしつこく悩ますということになっている.
Voronoi diagram図を見て、一瞬狂気映像を感じた.ここからどうしても判断でき無かった昔の精神分裂病者のパターン的な図を思いだして、knotが解ける次元構造を心理的に持っているようなのかも推定すると、なんとなく理屈に合いそうな気がしてくる.
人間を矛盾体とすると、普通に不自然と述べるタイプは理不尽に気がつかないことになる.矛盾が自然であるならば、そこには理不尽が成立する条件はまず存在するからである.人間的自然には理不尽が付随する.一応人間的人間がそれを修正する形であるが、
単純に双曲は時間的とミンコフスキーから見えるので、不確定に敷衍できそうなだが、時空は?.
ホッジもホップもいいと思うけれどうまくいかない、ラングランズ・ミラーにしても、コンヌにネータを考え難く、なれば南場とか.
”古典的なスケール不変性が共形異常であることを示している”--示唆的な文章だ.古典が量子によってアノマリーを齎しているとき、奇形と称する人間が発生している形をとるとか、倫理エートス心理面からではない解釈ができそうで.
中間存在にQEDが使えないいらだちがあり、QCDと見てよいがそれにしてはでかすぎる.依存的無責任や偽善で不確定性をやってもらっても困るが、現状ではそのとおり.教条中間存在の傲慢さには当然閉口しきっているのだが、そんな認識すらしない教条型中間存在に実存が加わると拷問しかなくなる
いくら才能があるからと言って、今この瞬間にこの地球上の樹々・植物の葉の数すべてを正確に答えよという命題が可能な人間はいないだろう.検証も困難で大雑把な推定値は出すだろう、何しろこの宇宙に存在する素粒子の数より多い数を考える人間だから.--瞬間葉数を昔考えた見たことがある.
サヴァンの絶対視覚者は、有機的な風景、夏の暑い日に葉が萎れているようなものも混じった風景を、そのまま瞬間時間映像として記憶するか・できるのか.葉層の時間ずれをどのように・どのような時間スパンで記憶するのか、個的志向のみの対象だけではないか.
ナビ派より、想像画を必ずしも写実領域に還元して見ると、それは明らかに虚偽(リアルにないものを描いた場合)であるが、想像域視点そのままであれば虚偽云々の解釈をする必要はなくなる-写実というそのときの時間現在に束縛される必要もない観点の根拠を思いついた.
論点のすり替えを行った存在はでたらめな批判的思考を偏見前提によって行う-から、偏見による即物的脊髄反射には閉口である.個人的な場合なので、「初めに敵ありき」的な存在が議論姿勢を改めることが解決手段だが、強調記憶と瞬間が重なってしまい..
不変ハール測度人間にいらだつのである.パターンか共同体思考者、味を占めた・うぬぼれる演技的性格者などが当てはまる.美的判断からは疎外を与えるような存在が多く自己欺瞞度高すぎてこまる.
時間不可逆の結論はその過程を示唆するような結論もあって・・・だ.
例えば「種類のコホモロジーが個別に成立するが、それらが一致する大きなクラスがある」--種の特性方程式と同じ意味合いの表現である.コホモロジーだったのか.ではまだ忘れる必要にない時間でもある変化度とはいえる.
不快な主体阻害の相手は実存的で本質余裕がないのかもしれない、何しろ心理を抉って、剔抉することが快感なようで検事型タイプかな.もしくは玉ねぎを一生懸命に剥く猿型と言えなくもないのだが.そのような存在の自己主体とは盲信型殉教性者か他者記憶剽窃型自己主体者とか諦念型依存性者とか
いやで苦手なこの言葉・殉教(エートスとか自己性質的は別に、思想所以も別にして)を不意にある街に当てはめて見る閃きが湧いた.最後に残った当て嵌めで、結構納得できる.こんなことに何十年も悩み続けていたことになる.
縦Vs横の対立がほぼ現実世界を席巻している.おうおうにして現実世界は縦的なので、偽善・詭弁・陰謀・阿り・・・他が成立していることになる.これらは愛情の阻害は明らかである.これらの存在には愛情能力が欠如している、またそのことを考慮しない・考慮できない傾向がある.
左加群と右加群で異なる空間が自然という一般論--接触したかな.これではこれであるはずの結果になるも致し方ないではないかという思いも浮かぶ.まあ近似圏ではあるだろうから、どうやら納得感ができそうで、いや納得であるといってもさしつかえなさそうな.
水素原子核磁化作用による歳差運動制御--このようなことを知識ない小学生が思いつくはずもないというわけにもいかないようなことを考えていたな.黒体輻射内部や光の直線状に丸い点が飛び飛びにできるとか
人の身体を『層状組織』としたとき、アルキメデス螺旋的構造かスライス脳スキャン的かストレート葉層的のように線形的に思い描いたような胡乱な記憶がある.ただし地層は幅に差異のある構造は一目瞭然.自らの進退をスライス状に思考することはある意味、何らかのずれを持たないとである.
語りえぬもの前では沈黙しなければならないや原子命題でウィトゲンシュタインはなぜ蠅取りツボを考えたのだろう、ポパーに対する態度もそうだけれど、これらで西洋哲学が変化することはない--ただTLPには文学的な面で価値がある項目がある・そうしてそれが最も重要な一文であるとは思っている
仏教では煩悩克服に修行をすることになっていて、おそらく普通一般の人々にとって、あるがままで煩悩克服などできるとは思っていないだろう.国家なく貨幣もない世界は煩悩克服後の人々のいる世界でもあるように思えて、そんな世界に唯物弁証で到達できるのだろうか、夢想かも.
Whittakerという名前はなぜか気になっていた.日本語ではホイッテーカーと表示するらしい.!なんと”ホイッテーカーはまた、有名な特殊相対論のE=mc^という公式はポアンカレが既に導出していたことを証明した.”とある.
ススリン線は存在するの辺りで、V=Lやグロ宇宙と、やはりさすがに数学者は設定せざるを得ないものであったと思う.仮説はまあ可能性はあることになるが・・・
多元宇宙論は”完全に分断された宇宙の無限の集合は"完全に検証不可能である"”というように今日現実的に想定できるが、今日でも無限の集合の存在する場は唯一と仮定もできる.--多元宇宙論と人の創作構造は似ている.
ほぼ思考している領域すべてで境界に直面していたんだ、これではどうにもならない時間のなさを覚えざるをえなかった若き日であることが判明した.このことをどのようにとらえるべきか、フラクタル文章でもよかったのではないかと.そうだな時間をかけてミストレスに会い行く生活をしようか迷った日
ネットサーフィンしていると、さすがに過去的になりそうな自己発案と思えてくる時間経過を覚える.それでも発案事実は他者には未公開ながら事実であるのでそれが依拠になる.ポアソン的に思いだして述べると、ある種のミステリー小説の一文でもあるかのようになっているという解釈をしてみる.
ドメインウォールがあれば多世界解釈的なものが可能で、そうして世界創作時間の短さもいえそうになってくる.
覇者型は線形に足りないのではないかという考えが浮かんできた、そうなると真理は単純であるという以前の混沌タイプであることになる.一般にてんやわんやの世界では有効に作用する可能性はあるな.どうも覇者型は脊髄反射が得意であるというのは特徴であるように考えてきている.
1/BPS状態を心理的に悩んでいる?、そうではなくてモノタイプが1/BPSを考慮すればいいだけの話.
対数ワイブルなどが出てくると、カストロフィーを横においておいていたことを思い出す.
昔に考えた種の特性方程式は、マチャセビッチのディオファントスの中に存在している可能性は十分ある.考えた事実だけで証明があるので忘れるかというには惜しく、まだとっておこう.
無限遠ゼロを原点化するのならば、1/無限ループというアイデアも浮かべることができる.
NEWS ZEROを始めて見た.この若いアンカーマンはだれ?.--そんなに若くはなかった、時々ネットで見かける優秀な大蔵省出身の存在だった.考えるに線形優秀ではないのか?.そうでなければ第三者的視点・傍観的視点を持っている存在が、T大話法なる表現を発揮することはなかったろうと思え
アーノルド拡散は権力心理にも使えそうだ、そう考えるとある不快すぎるXYが登場するが、アーノルド拡散ほど複雑な脳構造を持っているように思えないのがいら立つ点、白けすぎる意味なき無駄の強制にしかならない退行者というXY,脊髄反射言明とも思える単純さかつ身体的位相という不快さがある.
三体問題でまたしても無限遠に極限速度ゼロでどうのこうのが出てくる.都合よい処理の仕方で無限遠でゼロになるのはポテンシャルであって、エントロピーは強大になると考えるのだが.
それからX十年、今頃チェックしているという遅さを優雅とみるか、さぼり過ぎとみるか、まあ後者にはちがいない.それにしてもおもむろに思い浮かべた厚生経済や因子や質量は価値があるなと個人的認知中.
ある夏の日、確かK大を目指しているG県の男子高校生がN県の親戚の家にきていて、そのときに因数分解を質問されて答えに窮してだめだしされた.その時には因数分解など全どうでもいい心情であって.個人的には因子など知らず、質量にも曖昧さの疑問を持ち、計量経済なども考えて、頭脳作用せずだった
物理も宇宙の統一理論・素粒子と相対性理論の統一・という一様性を求めていることは間違いない.それで、人にはその固有性として一様性的なものが備わっているとしか言いようがない.
あの小学生の時の権力の権の文字の辟易した強烈な硬さか、これも自身の持っている才能か・そういってもよいはずで、神聖硬さ型性格的なものである.
昔考えた種の特性方程式は拡大次数というようなものではなくて、拡大変数の都合よくいけば種のみの拡大変数というようなもので、ファントスとの関連は?ファントスほど都合よくいくようには思えず.
カッシーニの卵形線・ベルヌーイのレムニスケートをNo.に使えるか.No.ではなくてNo.に直接像として無限大記号と行くか.
おっとそうなると縦型構造ではジップの法則のグレードがある可能性を思い付いた.いやむしろ現実はグレード・スケーリングがあるのが普通のようである.
大学生が貴重ではなく大学院生が貴重であったころと比して、今では大学院の梯子存在が貴重になっているのか?.そうか大学生0%は貴重であるという経験則からの導きもある-これで小学生以来の難問が、こじれて複雑になって解けずに曖昧のまま持続していた懸念がようやく.解けた
人は脊髄反射ばかりでなく海馬を使うものである(脊髄反射以外を).
いまや実用的プログラムでも数千以上だそうで、モチーフ的にプログラム言語を解釈したい要求が、プログラム言語意味論にはあるのだろう.思惟の法則があれば悩まなくても済む(機械的だ)と思った若き日の逃避的瞬間を思い出す、幸い停止性問題は決定不可能となっているので、そこには自由がある.
あいつで領域・ドメイン思考をして、年後に再帰・回帰で(ヘンリー・ミラー)で、それから1年後に結び目でなやみ・厄介なと(ザイルの結びを解析しても、自らほどいてしまう危険性が生じそうな葛藤想定心理と次元)、今並列において登場--この辺がリンダに頭をひりひりさせたわけなのかも
"再帰プログラムの意味論が,結び目の不変量の理論と共通した構造を持つという大きな見通しであり,そしてそれを裏付けるトレース付きモノイダル圏の構造である."--だそうで、厄介な結び目が再帰(最近になって不動点の関与-そういえば回帰線などではなかったあの時)に結びつくとは
生理-安全-社会的-尊厳-自己実現の次に晩年になって自己超越を加えてにしたということか.仏教またはインド教などの修行・瞑想からの影響が晩年にあったと思われる時間のマズロー.まあショーペンハウアーも解脱考察はしていたわけで.
ベズーの定理や接空間から『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』はなんでもない数学的思考になってしまうではないか.どのような意図でそう記したのか無意識自動記述で考えてはいなかった思考の還元作用によっている.点の表現にかなりの数があるとか、勾配はこの移動によるからとか、なんだろう.
アービトラージが世界的に消滅してフラット化になる--ある意味日本的でまあそんな事態は構想してあるが、おそらく80%の領域では成立して残り0%は違った・』異なった趣になるだろう.最も80%のミクロ内訳はにはそれぞれ差異があるものとして構想している.
”アブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた.”から見るへの配慮はを以前の1・・3域に退行させてしまう-という可能性が大いにあるが、現行社会は人間パワーが強い面があり・・(経済に道徳は必要ないという意見..)
そうか不快な人々はゼロ知識の健全性を意図的・無意識的・自然的に歪めるという表現もできる.その歪められたゼロ知識性の修復を行っている面は常に持っている.わが心石にあらずかつわが心不確定石にあらず(ちょっと違うようないま閃かない)のような心境により.
カレビ・クルの生物記号学の目標は成立するのか、中でも、”人文諸学と自然科学の両立不可能性を解消する () 。”付近で結論が出ず何十年も悩みっ放し
そうかグロタンディークはあの頃、簡単だと思った圏や層の範疇存在なのである.今ではややこしい展開を見せているので、複雑である.そもそも簡単だと思ったのが間違いだったか、ワーズワースのプレリュード的なものがそう判断させたのだったが・・
”この群の基底は標準単体のあらゆる像の無限集合である。”-こんな文章を目にしていると、仏教の三千大世界世界や周期のおよそ寿命の倍数化で(あるだろう)で表現されているものは、はったり的とおもえないこともない.ただし同値関係はある.無限数域が一瞬のうちにという物理傾向からもいえそう.
どうやらあの時、動機はモチベーションなんだがモチーフといいなぜこの言葉を考えねばと思った建物のFの廊下の曲がり角近く、考えあぐねてロシアより愛を込めても浮かべたので、後に意識が00にずっと向かってしまった.このときにグロタンダィークの名前を知るべきだったと思い出した.
単体人間は単体であるゆえに、他人の心がわからない・理解しがたく・また心が無いとも考えるかもしれない・およそそんな面はあるが、単体結合して複体になるといくらか複雑さを増してなんとか・・・意識は素ではないのだが、むしろ意識アマルガムのような単体人間.
羞明が発生しているので、眠るかネットを避けるべき判断を要求してきている頭脳.単純に疲れてきているということだが.(このような表現をしなければならないので、使用していずに他者からの歪めを多大に被っている頭脳修復をしていかないとの時間にさしかかりて・他者たちの記憶にある不快な言明等)
多分に、天命とは今のところ素粒子という無機でできている人間が、有機意識を用いて、無機的宇宙と同値化・同体化するような場合において発生するものと考えてみる.
”then its crystalline cohomology is a free rank module over the p-adic integers”--結局、あの若き日に類体は時間が得ればと思ったことは、全くそんな余裕はなく、類体は基礎的素養でなければならないと
実際に、天命的時間を過ごしたことはあり、その現実還元がまことに不合理・くだらないものであるので、信じがたくその理由根拠に納得せず、考えてはいる.個人の性格トいうのに根拠してもそうでもなく、双対心理で現象解釈もできるがだ・・・.
古い?そんなことはなく、むしろ発言者の精神年齢が低く、精神年齢高き位相基準からは、機会費用大で経済的にはロスなのである.つまり過去に引き戻しという暴力をおこなうのだが、それが自然なので説得するのをあきらめるという形をとる.
やはり現象設定の条件では全くうまくいかない、そもそも現状は創作ではないからでもある.結局、思考条件に持っていくことになった.そうでしかなかったシステム構成から半年後過ぎて以来何年経過していることだろう.人気の圧力に耐えられないは幻想であったかも.
Claude Berge なる人物が1から00まで生きていた.知らなかった.あの雪道の水上から土合までのバスの中で、不意に外を見たとき写像の縮小が浮かんだことを思い出す.こんな具合のことは多くあるが、最近は乏しいのでまことにつまらない.
想定するに日本の縄文時代は法の支配があったと、その後も東洋思想・日本アニミズム的に、自然との調和部位・意識では日本には法の支配意識はあると思っている.特に神羅万象という言葉に代表されるところのもの.
演技的性格のXX/XYに悩まされ、現実真実感を邪魔される.演技を強要する不愉快な存在たちはまず愛情が欠如することになる.自己疎外化をなぜするのだろう・まずは共同性同化意識だろうが、その根拠は自己嫌悪感であるような気がしてきた.となるとアドラーの権力への意志になるな-という一案
とにかく自己意識を鏡像段階時間まで掘り下げることは、やってはいけない本能判断的なものが働いていたが、若さのカーニバル的自己損失系でもあった.そもそも対象の先験・先天位相者が自らを動かさないという他者歪め意識しかない単細胞頭脳者だからいけないのであるのだが、煩わしい不合理無駄発生と
ソーカルにおいて、ラカンの数学・科学に対する無知が露呈されたということを、ある事柄から思い起こす.数学式・物理式一般をやはり知らないと科学に関しての発言にはでっち上げ的・疑似的なものが発生するとする思いに至ったため.
コボルディズムは5以上ということは目にしている.現実世界は3次元なので何かうまい説明方法はないものか、普通に人は単純簡明に理解できることなのだが、それでよいとしても・例えばカフカの作品のような...・実存と本質で置換すればよいか、これなら結構説得力はある.
もう忘れかかっている種の異なった(脈絡を感じないところの)解を持つ特性方程式は、超越的ではなく解があるので成立することになる.混沌方程式なるものがあり、種の解を含んでいるものとするならば存在することになる.--なぜそんなことを考えたのか理由がわからない青春の日
::A=0
”岩澤理論の主予想とはp-進L-函数と円分体のイデアル類群との間の深い関係”だそうだということを知る.無理数とp進の関係は?
昔からよくわかっているのだが、ユダ型人間はとにかく他者の結論が出るとそれに対して、時間有効な結論であっても無視するように動きすぎる.自己の結論はどうするのか、虚偽空間に発散させて無責任の安心自由感を育むのは特徴的と認識している.アイヒマン裁判やミルグラム心理はここに登場する.
”・・・操作で閉じている「素晴らしい」圏である”、素晴らしいかね、この有限性にはいささか不愉快さを覚える(昔から).結論を出して先に進むためには有限は理解できるが、それでは無限が登場しない.この宇宙はとりあえず<有限中>として悪くはないのだが.
D-braneとKで結構まとまる.思い出せば素領域を自然に構築しているD膜といったところか.そうなると多次元に対してのアイデアとの関連が・・少しは浮かぶところでもあるな.これもNo.3で多次元はNo.辺り加味したいところである.
記憶を辿ることは蒸し返しになることは当然で、不都合な場合の仮想修正をしがちな心情、そんなことをせずともいいのにというか、修正は不可能になるはずでとなると、克服ができないことになりまたそれはまずい.
とにかく自己把握無知存在が逆になって自己投射をして発言してくるので、自己投射されても理解できないというか、その自己投射存在など全くわからない対象なのに、無茶苦茶な理知現象になってしまうことを要求してくる人々.埴谷雄高のてんやわんやの謙遜はまず理解できそうにもないてんやわんや達が
埴谷雄高の死んだののは1年か、その時にはニュースなどでも気にしなかった.吉本隆明も気にせずややしばらくしてから同様に知った.まあ大体先蹤存在は煩わしい.埴谷雄高はそうでもないが、吉本隆明は全く不快すぎる思い出があっていけない.死霊は章で結局未完に終わったのか.
明らかに感性が異なるのに、「同じじゃないんか」などと申す不快さには呆れてものが言えん.--こんな言葉を思い出すとやはり逆になっていて、自己主体を第三者達に誤解されてしまう可能性が大である.全く残酷な侵入者である.(全く小説のような現実の記憶だ)
感性が狂ってしまう圧力を受ける・反交換的存在で嫌悪しか発揮しないような存在が妨げばかり行うのは当然なのだが、その邪魔さ加減を排除できないのが不快すぎる.
神聖型のきれいな単細胞から見ると、アマルガムは?なのかも.しかし神聖型もいろんな種類があって、陰険な陳腐で実存分析的存在もいて、その悲痛さ・嘆きに耐えられないほどのものを持っている存在に憑依されてしまった形・また逆になっている可能性がある人物に何十年も会わないがしつこく悩む.
0年まで宇宙ステーションの延長--ホピの予言で宇宙ステーションが空から落ちてくるという考えはどうも違うような形になってきた.太陽の裏側からの青い星はチェレンコフ光物体としか考えられないが、この宇宙というか太陽系でもそんな現象が発生しないという保証は思わない.
英雄物語には試練がつきものであるというのは誰でもわかることではないのか?.ただその試練がなぜ成立するのか不明であったが、超自然的作用によるものであったことがわかった.
マイナンバー制度はジャック・アタリの第三の波「超帝国」の中の、”インターネットが人を監視する技術革新が行われる。
政府からインターネットを通じて、厳しく監視される社会になる。”とよく似ている.まあ第四の波の超紛争も現実味がある時間でもある-第五は利他主義ならマズローの段階目だが
ちょっと待った、マイシステムにはアフリカ的段階というような設定をしてあるな.ただ先のみ・未来志向ばかりしていて・・形而上的システムというか、世界内解析というかその他で、視野は普通に原生的疎外とか称する時間以前を含んでいるのは当然のものだが、現代物理学のアイデアや仏教思考などと錯綜
Yの関係は単にリアリズムのことを示していると思いつく、それの極限として考えてもいいようなものでもありそうな.なんのことはなくリアリズムとは全く思い浮かばずの時間であった.考えついたYの実感は確かにリアリズム的な体幹を保有している.愚かすぎる時間を過ごしてしまった脳麻痺情況であった
ストークスの定理から、人間の思惟形式はジャンルが異なってもほぼ同じようなものと推察してみた.数学の諸々に思惟形式判断を入れてみると結構面白い.人の考え方・方法・方策が随所に如実に表れている.
間違った、フィガロの結婚からのメロディーだった.ともかくモーツアルトのレクイエムを後々にチェックしたところ、黙示録の模倣?ではないか、これではさすがのモーツアルトにもその独創センスを疑い、タナトスの宿命に倒れる・またそんな環境時間だったと考えてみる.
時は過ぎ去っているのに、記憶は全く時の流れを持っていない.ときめきというのだろうか、かって認識していた無時間性とも違う今の心情.ポテンシャルが強くなるという時間経過に対して逆作用のようなものだ.
特にそれを強調する存在は欲望型のカザノヴァ型であることは間違いなく、またこの当人もそのイメージに当てはまりすぎるという存在がいた.
身体的存在を否定しえず、奪うことができないものという考え方について、なぜそこに騒がなければならないのか、そんなことは当たり前で、生理の有限時間は生きている存在すべて持っている.
波動線が集まることによって粒子になると考えていたが、電子が波動線を持っているかととなると?、そうなると1/00万の粒子とクォーク・電子の関係などどうなるかと、熱風がさまよっている時間だそうだが、質量があると帰着点が存在するかもである.
クリフトン・ポールのトーラス(Clifton–Pohl torus)は、コンパクトであるが完備ではない擬リーマン多様体の例--これ頭を引き裂くイメージを齎した記憶に接触するような、これだけではあるいはすでに?
超弦をすっかり忘れていた、当然No.3には関係してくる.
myツイッターのACにはノストラダムスが関連している(と後に知った)数値を含んでいる.
No.3に直感でなぜか導入しているクロソイド曲線.
未完成の項目は構想のみで完成にしようかなと思いつつある.0.1.0
”システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。”--ルーマンのこれ意味がよくわからない.量子的現象では個々の個性があるほうが収束は速いことは現象である-複雑性もそうであるが.
急いで閉めたパンドラの蓋のように、他者達は希望を打ち砕くものである現象に数限りなく遭遇している.
なんだかんだ言っても世界・歴史は快感で動いていると浅く全体外観で思う.性的快感・優越感・感動感・・・・
有機無機の関係物が無機物として無機的有機存在がその無機物戦線を有するという現象---という表現例
ほんと、A期的XXに対してその潜在能力を推し量ってもまったく不都合な反建設的思考しかできなかったまた、顕在的に当然の如く反建設的発言を思いきり受けたものである.これからも遭遇時にはあるだろう.まったく縦思考しかできない横暴すぎる不条理・理不尽などは考慮できない物体である.
それにしても意図の完全に逆ばかり行う人材はよく理解したとして反交換的存在なのだが、そうすると反交換的存在は、交換的存在の考慮ができないのかとなる.それでは愚かではないか、まさか世の中反交換的世界しか存在していないようにしか見えないとは
この社会構成が分かったということは社会科学の地平は成立したことになるか.これはまったく長老シーンではないか.
最近、あるところで「仕事をした.」『これが俺の仕事だ』確信を得た.アルファ空間で何度かある思いである.安っぽいところでは発動しないはずなんだが--そうするとあるところはよくわからないんだが価値があることになる--.
シェマで思い出すのは隣の家で思いついたフレームという言葉、この時にひよこも考えたので意味は不明だったが、ピアジェのシェマをフレームとしてみるとかなりうまく説明できそうである.
フェルミ型は孤独で単体的を余儀なくされる先天的遺伝構造を持っていて、単体であるゆえにその生存時間の連続においてすぐに飽和する・飽きる・うんざりする形をとる.そこに承認の要求を強烈に発揮すると明らかに暴言・横暴になる.ここに白く塗りたる墓的であるとどうにもうぬぼれしかなくなる.
どうもYからは自己目的意図を実行されているような意識がないこともない.あの時の時間におもむろにYの家に行って話をしない方がよかったような、いまだに非常にいらだちを感じている悩みを持っている.あるいはY自身の才能で関係ないのかも知れないが、なんとなく感じる.
素粒子における身体意識は、よくある戦い前に、中国武術者の手などを動かして身体に焦点意識化を行うような場合をケース例としてあげる.霊に関してはどうしても歴史時間・先祖とかから続く時間を考慮せざるを得ない.
中学生の時通学自転車の帰り道で、固定-霊-気合い-スタンダードの流れの考えを思い出す.素粒子は小学生の時に自己制御して考えるのを止めよう(まだ早すぎると思って)から、その時に思い出さなかった.霊は心理的な素粒子分野・今日ではクォリアとかだが・気合は身体的な諸粒子の息吹とは思える
フェルミ型人間の分離・単体意識は、生存を連続しているという形をどのようにとらえるのか、少なくとも現象的には考えることには矛盾している.しかしYのハイイメージ論から素粒子領域まで考察していたことを知り、フェルミ型は電子・中性子がボーズ型よりはその比重が多いのだろうと推測仮定した.
集団強調ではなく集団協調の創発力は端倪すべからざるものがあると、縄文時代の名残・遺伝を考慮せざるを得ない.
田園の憂鬱は読んだことはなく、その自己的イメージ解釈がお気に入りであったのだった.今あらましをみて、佐藤春夫の感性は洗練されているなと思う.熱風の蒙昧の中、幻想中ともなんともわからぬ熱情のネルヴァルが少し過ぎった.
昨日の中学生の時からほったらかしの菊池寛だけれど、昨日ツイートした結果考えて、カーネギー流に、自分の不得手な領域は他人を利用するから、菊池寛は小説家としてはさほどなので、賞を設定して、他人の才能を発掘する側に回ったのはうまいやり方・賢明であるという解釈に、数十年ぶりに落ち着いた.
諸行無常に関しては、考えてあることがあってやはり考えからは諸行無常的になってしまう.
科学社会学や科学哲学の語からアインシュタインの本当かどうか実際にそう思っていたのか”「もしヒロシマとナガサキの事を予見していたなら、105年発見した公式は破棄していただろう」と語った。”そんなことになるはずがない夢想であるにすぎない、科学的事実はアインシュタインの夢想では消えず
関係が自己表出であるならば、吉本隆明著作すべては説明できる予感がする.吉本隆明は自己表出者とするならば・にしては指示表出者寄りに近い存在であることは明らかなので、またその点が不快なのである.
そのある作家が日本のロートレアモンとか言った、だれが?とは思ったがが問えず、いまだに曖昧のまま記憶している.ロートレアモンを参考にはしたが、関係はなく日本のなどと、世界を狭くする弁明は許しがたい.ロートレアモンの名前すらこの半年くらい前に、ある女子大生の持っていた書物で知ったこと
頑固という形で解けたと思えて、まあ全く意味ない時間を多大に過ごしたことになったのだが、ともかくこんな解答がわからず、単純にわからない存在に対してはすでに答えは出ているのに、それに対して現実浮上に時間がかかりすぎてナンセンスな時間を浪費してしまうということばかり続いている.
昨夜のネットチェックで吉本隆明は虚仮脅し造語という言葉をみかけて、おっそうだ確かにそんな面はあると.全くデジャブを剽窃の形でトートロジーとして大げさすぎるほどに言われ、まともな意見と思ってしまった(デジャブトートロジーに気が付かず)のが問題で、吉本隆明同位相の男達多すぎに辟易
哲学的行き詰まりは今もって解消しているとはいいがたい.ただし人々の考えるパラダイム的なものは、故にああそうだそうだが・・・となる.
人間ロボット化は物理主義的あるいは行動主義的また機能主義的匂いを持つ.戯れに思惟の法則ががあればと思った哲学的行き詰まりの若かったころに、それではまったくつまらない自動機械的なってしまうと、マルクスがすでに弁証法でやっていたとは知らずに.その後、経哲草だけ読んでみたが.
マチウ書試論を読んでYがシモーヌ・ヴェイユ論を描いた理由がわかった.なるほどその当人の書を読まないとある程度ダメなものだということを認識した.
弁証法が成立する背景を考えると、明らかに男女関係でその前は雄雌関係・植物でもで主体有限束縛による限定の時間繰り返し変化形なんだが、そのようにならしめている摂理の意向はよくわからない.
単純には関係責任論・関係責任主義とでもいえて、個人主体無責任論となり、主体はなんら責任を感じることなく突っ張って物事を述べることができるようなもの.マルクスの書物を眺めた昔の記憶では、マルクス書は論理的に正当性を見たことがある.がしかし色気がないのでちょっととは思ったものだった.
永劫回帰は一回の人生の繰り返し、輪廻転生は場が変転するということで、場の中に生きている存在・場とともに生きている存在も変転する、永劫回帰には場は当然のもので、考慮されてはいないのでは?.まあ永劫回帰は願望上のもの、輪廻もそうだが.
非妥協であるとするならば、偽善は妥協の産物であることになる
深淵を散歩できると陰陽は同等意識を持てるが、フッサールのエポケーなど使う必要がないのに、エポケー以上をエポケー化してしまった、ほとんど冗談が実際の現実になってしまうという、全く不快な事象.いわゆる名状しがたい愚劣さは二度と味わうつもりはないのに、類的状況が多く発生してくる.
カフカの城に法言語なるものを設定できるのか、法言語とは何だろう.法の支配用の言葉なのかな?.どうせカフカの城は例によって未到達の物語だろうから読む気もしない.こうなるとカフカはひねくれていて消耗文章を専ら描いたとしか言いようがなくなってきている.なぜ人々が評価するのかわからない.
フランツ・カフカはイデッシュとしての位相と、シオニズム勃興時の存在寄与もあったので、欠如文学とでもいう、本質に至らない実存情態作品になったということでは・・結核の影響は晩年からだった.
呪縛という言葉がある、あるからといって別にきにしなかったが、どうも現代でも有効に用いることができそうである.そうであるならば憑依という言葉も当然あることになる.呪縛-幻想の実存的混沌を描かせる言葉を、あるよく納得できない対象にも用いることができるか判断に未決定を持つ.
なるほど焦点化すると盲点もそれなりに発生する・確かに.明暗の解釈いまだ至らず、別に陰陽論でもないのだが、ふと陰陽の同等意識が疑念を想起してきた.
身体的優位か精神的優位かでその人の脳細胞活躍キャパシティは変化するものと考えて、身体的優位のタイプはやはり海馬をそれほど使わないだろうと考えてしまう.
誰にも言わなかったから疑念を持たれてもしょうがない.述べなかった・記述しなかった理由は必然的だったのか今でも判断はつきかねるが、述べなかったという事実は明らかである.そのことでまことに潜在的に悩む羽目にもなっている・この現実社会仕組みに遠慮して..
多分に推定である種の人間は迷信を信頼しているのは非科学的であるとともにシャーマン的であることに気が付いた.憑依という言葉は少なくとも平安時代のころの話で、0世紀には揶揄的な表現として考えていたのだが、憑依のように悩ますしつこい人間が多数存在しているとは...
中途半端が悩ましている?その結果は幻滅以外にありえず..
ネグリのマルチチュードもなるほど気になるものがある.シミュラークルも多少役に立つ点がある.しかしこれらはせいぜい評論家の指摘であるに過ぎないということだけは、了解できる.しかしなれど認識している人物たちがいるものだ.
哲学的XXが少ないとすると、想像力を用いて不条理をかなり自由に行う首尾一貫性のない発言を特徴とし過ぎる存在でもあることになる.その場合の責任力は?
XX/XYである前に人間であると考えると、XXにおいてもさほどの存在がいるとは思えなくなる観察経験を持っている.
X染色体の遺伝子は8個、Y染色体は8個とは、Yは少ないな.これから単純に病気的には、遺伝子疾病はX染色体の寄与が大きいかな、未来の可能性に関しても大きいともいえるか.
ハイデッガーは世界内存在、サルトルは世界存在---もしある存在が地位に罪の意識を持たないことが自然であるならば、悲惨な位置も自然であるのか、そうなると解釈をしたくなくなるのだが.世界の要請によることになり・・・
死?-死が不快なのはまず自己の死の後に生きている存在がいることで、最高に理想なのは最後の死者となることであることは明らかな人の存在というか、カルマの理由. No.1&No.&
日本全体を見ると謂われているように、諸行無常ばかりではなく、恥の文化も特徴としているゆえに、責任がアバウトにあるいは個に希薄さを齎しているのかも.
経済面でも、市場経済に対して考えると、その先側に暗黒域が登場してにっちもさっちもアイデアが浮かばなくなり、最近では考えることすらしなくなっている.ただベーシック・インカムは成立できないだろう・経済自体がなりたたくなることになるまでは予測推定考察している.
その昔、これからは卑小だけれど市民(陽的、明るい場所の)が価値を得る・希望であるようになるとおもったが、それに付随して陰陽的なのか、暗黒域も考えざるを得なかった.この暗黒域の存在はわからぬ、漱石に明暗という小説があるが、その頃は明と暗に結構こだわる時間だった.
ボードレールのシミュラークルはポストモダン用語であるか、ちょっと気になる視点を思い付いたのと、ペンローズのスピンネットワークの視点も考慮に値するかなとも.
インターフェロンは15年日本人による発見だったのか、0年代になって抗がん剤としてとは、この言葉は中学生の時にしったが、知りたかったもう何かは、サイトカインであったと思える.
陰日なたを陰陽とすると陰日なたなくは太極ということになる.陰陽論からは混沌ではなく調和とみるべきなのだろう.
蜘蛛の糸の主人公に対してから美徳に対する欠陥指摘をする存在に対して、ではその存在の指摘以外の部分はその自身の指摘と同一位相であるはずで・超克.小学生の帰りの階段状の道以来だ.
SF的に考えるに、宇宙線を燃料に使えるロケットはできないのか、宇宙線なら全くなくなることはロケット飛行にはありえないほどあるはずで.ついでにニュートリノ推進物体などができると抵抗がほとんどなくなり、デブリも関係ない.ただしニュートリノ構造物以外に乗せることはできない.
通時的だからスパンが長くゆとりがあると思っていると、結構中途半端なのである.そうなると通時的有限を導入しなければならない.むしろ通時的有限者が多く実在しているのが現実である.
科学に哲学が必要などとは全く考えもしなかったが、哲学から見ると科学に哲学がないのは不快というだろう.
根も葉もない植物は寄生の典型で、マタイ伝に登場するある存在は特にそのような存在と認識している.でも結局自殺したらしいので罪の意識はあったようである、後悔先に立たずという例証ともいえる.
自己主体の歪めを要請され、逆になり疎外ばかり受けるこの不自然・でたらめさ、逆を認めてはいない.むしろ模倣を不快すぎると思っている.なぜ当人に当人の模倣を知らすのか、トートロジー無知か頭脳の空っぽかうぬぼれか無責任の自由か--いずれにしても自己分析能力の侮辱であることはまちがない.
しかしだ、三千大世界とか輪廻は考えるか、中間存在という閉鎖域存在者達に考えることができるのか?.仏になれないないのではないか?.あれ中間存在は閉鎖人間たちだったか・・・.それでは他者に対するいじめ・抑圧はなくならず、(何しろ、原因は閉鎖的からくるという直感があり)
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yin yang symbol--太虚と言ってしまうのは、不条理の受け入れか盲信かはてまた?ちょっとどうにもならない無限下降対処である想いがあって.
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”サルトルは「我々は自由の刑に処せられている」”と言ったそうだが、芸術にとってはまず自由が前提であるのだが.
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扁桃体( Amygdala)かな『両耳の違和感的な感触』を覚えたときか設定してしまったか.
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カルマがあったとしてもなおかつ奇跡に対して再度の要求をするということはどういうことかと考えると、わからなかった内なる神がそれを言わせる・人々はすべて天上天下唯我独尊を持っているとすると説明がつく.人は仏になれるもそうであることになる.
父親をやめたらいい--ついに返し言葉を思い付いた-ある不愉快言明を受けた父親存在についてなのだが、位相を真似する人材が多くて、個別対処をする必要がない面白くなさ・不利益さ大ゆえによって.ある存在に対して女をやめたらよいもついでに関連できる.
無限の身体は人にはないが、これからもないだろうが、無限の精神なら人にはある.故に物理主義的考え方は無限を無視している物体的な思考法と考える.
埴谷の虚体・虚空のそよ風は吹いているのは知っている、懐かしい青春の日々.死霊は故に難しいということは別になく、普通の小説であった.
No.1より引用『・・余儀なくされるおまえ、それを考えると恐ろしいきがするのですが・・』
パンを石に変えろ、という問いは、身体の必要性も含んでいるが、パンのみに生きるにあらずからは、身体の有限性を意味していると考える.
つまり無限の身体は存在しない.身体が有限であるから関係において差異が生じている.ただ命の樹の実を食べたなら身体に死は存在しなくなるそうだ(多分これは幻想).
人間が存在しているだけで持っている倫理は命であることは明白なんだが、そのような言葉を敢えて用いなかった人物がいた.関係の本質とは、まだ考えているが、命がけもしくは命的なものであるに相違ない.
帰納の解決について不可能に近い結論を出した人物を最近チェックしたのだが忘れてしまい見つからず.グッドマンでないことは確かだが.全く帰納法とは・・さりとて演繹
整礎( well-founded)-問題のNo.,悩んだ中学生・・小学生で深淵はだが、老子の道は肯定しているのに--などを考慮すると、定義とあいまみえてNo.が出てくるな.
権力的存在が愛情を無視すると、魂を無視するようなもので、こうなると愛情を無視する権力的存在の性格自体も魂といえるようなものとは普通には思わないが、魂とすると同列設定ができることになると考えざるを得なくなって.
コンビニで小雨の情景を見ながら佇んでいた今閃いて、不条理解釈もそうだけれど、不確定性原理からNo.1の難点を克服できるとして、センス上差し支えないことに気が付いた.
自我と超自我をミクロ的とマクロ的とすると、自己弁証法を個体において構築できると考えているので、他者による結果待ち・結果無視・結果超克はかなり不快に思えるものである.この場合、対自・即自を他人に対して持ち、他者の対他即自・対他対自を考慮するように配慮するものとしている.
異邦人のムルソーの過程表現が単に太陽がまぶしかったからというわけではないのは明らかなのだが、太陽がまぶしかった点に強調留意して、不確定性原理から時間をかなり短くしたときの心理状態を形成したと考えてみると、人間の精神形態から太陽のまぶしさに連関した行為を行う可能性が十分ある
潜在モデルが悪いと詩など未然的欠落思想を述べて全くの桎梏になってしまう思いをしている.閉鎖中間存在がモデルでは全く不自由な面白くないものになる.ただし本義的本来的でなければ中間存在にとっては有用なのかもしれない---と今浮かんでびっくりしている.考えたこともなかった.
猿と人のDNAの違いはほんの数パーセントらしいから、ホモ・ナレディを読みながらアトラクタシーンを思い付いた.間違いないのではないかな.
常微分や常差分でレスラーやエノンと--そうだったか.常微分と非線形なら常微分を避ける必要もなかったのだが、フォールドしてくる混沌はさすがに一瞬の答えは出ずであったので.サドルノードはまあありそうな話し過ぎる.
身体意識の精神レベル低み存在は、乱暴で時間の蒸し返し過去帰りやり直しになり無駄なのだが、当人にとっては現在時間の充実時間の情動発露による発言だろうがが多すぎて、厄介な気分のナンセンスな体力消耗要請にしかならない無駄が全くやはり多すぎる日常.
器官なき身体は、フロイトのリビドーを客観させてこの現実・宇宙に当てはめたようなものか、エントロピーではないか.
02242016
2015-11-03
my ft 11022015
世界に意味がないで憎悪は不毛であるを連想、人間にとって不可能とは意味が今はさっぱりわからない(故に信仰・宗教が登場する・有意味の存在者として例えば神が?).これでは哲学はナンセンスになる.
”カミュは不条理を<非合理な世界と明晰を求める人間の共存の中での対立関係>と定義”--これは想像力は理性の邪魔をするというパスカルと同じことを述べている.仏の伝統も何もあったものではないカミュの社会科学的側面を見る
無限がもつれる・ボルヘス--やはりギターは無限を離散化するように思える(単なる契機としてならある)ので、ヴァイオリンでないと無限はもつれないのではないか-個人的直感認識故もあり
ドン・キホーテという物語は一体なんなのだろう.昔姪に頼んで借りてきてもらって読もうとしたことがあったが、長すぎて読む気もせず.風車とロバとサンチョとなにか昔の騎士道小説を読んで、気がふれたというまずこのあり得ない設定がわからない.考えるに宗教コメディ物語かな.
No.24 宿業とシステムとクリプキの条件付き解決パラドックスを入れておく.
無知・無理解・誤解は意味なき弁証法作用を強制・強要する無自覚・無責任を有する.
ただし無知(一生の場合もある)な原始心性は自覚に時間がかかることもありそうな無責任は無責任である.
私は私である自我トートロジーの剽窃・模倣・乗っ取り的な所為で、対象自我存在者を歪める存在者たちは、自己欺瞞的な無責任を行っていると想定する、そうなると無責任は無責任であるというトートロジーにぶつかり、そのような所為自体の成立がなくなることになると考えた.
カントの第二のアンチノミーから、無限小の無限小はまた無限小であるので、原子命題はもちろんのこと、ペンローズのスピンネットワークも思考要請であって・・・、マルクスの対象が生きだすということになってもいいのだけれど・・
双曲線が無限遠点で漸近線に近づくということは、双曲線は無限の彼方でゼロになるというこれもまたポテンシャルと同様だったのか.3番目の懸念は無意識に双曲線を示唆していたかなという、つまらないある若き冬の日のおもむろに詩的文章を描いた内容に、自縄自縛の憂き目にあって、まだ問題点があり
超離散化といって、普通の人は差分的に思考するはごく自然な直観普通すぎることだったのだが、悟性的人間は差分思考をする・あるいは老子の俗人もまた差分思考をしそうだな.
いわゆるその所作は、名状しがたい不快故に発生してきているもの、このXXの実在感をなぜか他者達は想定できずの、ここにまた愚劣な馬鹿馬鹿しさが逆パンドラの上に重なって成立してくる二重三重のくだらなさというわけだ.そもそもこの無理解・誤解を行使する他者たちの存在理由は何なんだ?.
No.23 人間に傲慢があると想定外という認識が発生するか、それとも謙虚であると発生するのか
宗教の戒律というのは服従の強制ではないか、似たようなものをレーニンが述べていたかも
No.17 規則のパラドックスはいわゆる帰納の結論として部分的な要素を取り入れての解決というのは致し方ないだろう.極論として今ある秩序が正当なものとは言えないということにもなってしまう・・・
No.17 哲学探究は帰納の未然的結論なしからは意味がないように思うのだが、フラクタル的には十分満足できるもの.帰納は自然に現実上登場するから、その帰納過程についての考察としてならモデルとして意味がある.
芸術的な人間は勝手なことをやるものだ-という意見は、ホッブスの万人の闘争を念頭に置いていて、なおかつ自らは自由の責任を回避している発言と解釈する.
No.17「語りえぬものの前では沈黙しなければならない」から、哲学は蠅取りツボなんぞになっていないことがよくわかる.沈黙してしまっては哲学の敗退は明らか過ぎるので.ゆえに哲学探究という努力の跡の成立は評価できるが、ほぼ無意味といえなくもない.
No.21にbeingを記録しておく.与太郎や与太子たちのバカ力バイタリティによって、自らの記憶をふざけて消失させてしまうことが多き故.
立石寺のところの奥の細道文章は読ませるな.おやっと思った、奥の細道を通読してもよさそうな書物かも.その昔若き日に、書物なんぞはあとがきを読むだけで沢山だとそれ以来まあ大体そんなところだ.
「剛よく柔を断つ」は後に対句的に加えられたのか?となると今日の考えがあやふやになる.つまりこう考えた.「柔能く剛を制す」・「剛よく柔を断つ」に対して、<有機よく無機を制す・無機よく有機を断つ>にして成立しないかと、そう考えると都合よいことがあって・・
もし言葉が原初の発生時期に戻るとしたら、それは通底底流している先験的・先天的領域のなにがしかがクローズアップされた場合と考える.個人にせよ集団にせよ元型的なものは流れていると思う.
みんな同じようにというある主体の考え方は消極的自由的社会主義ともいえなくもないな.ある時代の楽園的の時経ての趣ともいえる.
現実は決断の連続とはある人物のある時の発言ということをよく覚えているのだが、それらとも関連して、情況が決定するということは事実化になったということで、例の紀伝体項目に載るというなことでもあり、結果論的には後世からは単なる事実ということになっている.ただ心理判断はそうでもない・・
共産主義が成立した世界は聖人のみ存在している世界しか今のところ考えられない・もしくは高度に道徳力ある人間たちのみの世界をしか.それを共産主義とは言わずに聖人主義とでも言えなくもない.もっとも神話における神々も争ったという話があるが、宗教の世界には高度の道徳者たちは存在してはいる
それにしても無限遠点のみで-∞がない実射影はどんなに0に近づいても-にはならないと想定するがどうなんだろう.常に+であるということは精神の経験時間・生理時間によって複雑になるばかりであるということでもあるか.射影-は常に有限内部に収まるが、実際に射影の消滅がないとはいえないので?
運動量一定は、どのような場合でも一定エネルギーしか用いないので、一定エネルギー以上の忙しく負荷のかかる処理対象に関して、他者の援用を必然とする.かくして人が増えると仕事が増えるのは運動量一定によることになる.
A期的存在は明晰を好むのだった、正確な解答の出る試験問題なら偽善色彩があろうとパスすることは可能であることにようやく気が付く.なお、うんざりするワンパターン存在も運動量一定実在とまず見ることのできる証左がわかっていたことにも気が付いた.
No.23に関してアインシュタインの相対性理論は哲学である.-という文章は成立する.
No.22とハイデッガーの原存在はヴィトゲンシュタインのTLPのある項目であってもよいとする.とにかく普通に考えると超越の壁が現存在一般に引き戻しを行うことは現状歴然としているゆえに.
No.16に関してまま妥協できるアイデアを思い付いた.でもこれは現象上似ているものが多数ある、その中でもインターネットが最も例として出せる.宇宙ケースもあるが・・
春の燕の出るころの生温かさは不気味な感触を与えるが、黒く常に夜のような人間は多少不気味さにも似て、タナトス型人間であろうと気が付いた.おそらくあたっているだろう、そのようにしか実在判断ができないから.
疎外がマルクスの言うような対象であるとするならば、疎外となった対象の歴史が唯物的始まっていることになると考えると、経済に道徳はないわけではないが、それは分けていると考えたい、そうでなければ叙事的対象である経済であるということだ.ここでは疎外対象が資本主義的に進んでいるとするが.
悪人正機説は、悪人ならより阿弥陀の慈悲心をリアルにはありがたく思うはずである(善人よりかは)という、エゴ的な親鸞を垣間見るが.エゴイズムではなく真摯な思いから悪人正機説を表現したかもしれないが.最も宿業からはそのような凡俗心は排除になるが、では宿業はなぜ成立するのかと言ったら??
無限遠点射影空間とNo.3の自由度は似ている.ニュートン的ともいえるが通底した意図はあったはず.それにしても射影型人間に一様に付随している陰険さは不快すぎる.明るさが欠如しているがバイタリティはあるな.大体バイタリティ型は身体的・パンのみが優位するタイプと相場が決まっている.
仏教にサイクリック宇宙論があったのは知らなかった、そうであるあるならば末法の世というのは単にサイクルの部分でしかないので、説得力に欠けることになるが
現宇宙は内部であるから外側を自由に動けることができると、内部を見てタイムマシンとか内部宇宙時間に対して未来も過去も見ることができる設定になる.
射影平面では平行線は存在しない--それでフェルミ型陰険存在の強調発言がしつこく追いかけてくるのか、フェルミ型はまた射影型人間ともいえるので.延々と交点化を要求するのが自然ということなんだ.辟易するしつこさと射影ユダ型はまた権力束縛をしたがるものでもある.窮屈で自然を歪め過ぎる.
一応拡張実数と有限実数に対して区別をするのか、拡張実数が基本であり普通でありではないのか.まああのころ・小4・数直線に無限大の付加は考えてはいなかった.ただし・・・
書は確かにアレンジだな、言うねえ.規則のアレンジ・文字もそうなのだが語を重ねて・並べて・結合させて言葉を形成しないと・待たした時があった.誰もそれを剽窃する者が今までいない.単に罪の意識の忍耐自己分析を剽窃して、それをオリジナル当人に述べる存在は多くいる.しかもそれが普通と全く否
甘えの構造を避けようとすると確かに日本ではきついものがある.プライバシーを平然と壊してくるあるいは逆が当たり前の自己疎外の要求もしてくる-この自己疎外は自己認識の大いなる邪魔になるもので、配慮がないとは常に感じている.
相転移は劈開やダイヤモンド崩壊としてみると、ペンローズ蓄積電子でもない見方をできるのではないか、相変わらずNo.16の未完の不快部分が未完ゆえに刺激している.海馬を刺激する発火反応と考えると本能が危険予知を発してくる.でもこの辺も関係してくる予感はある.脊髄反射では味がない.
そんなわけでなぜハイネなのかわからず、チェックをしていてあのボワーンとしたフィヒテやサンシモン・カントが登場したわけである.フィヒテも結構まともな考え方をしていたではないか、シェリングは最初から導入しているのだが.
その時に浮かべたハイネの名を口に出すことができず、ちょっと鬱的イメージのハイネをなぜ浮かべたのかわからず、まあ精神現象学でも読めばも浮かべたが口には出さず.ちょっと陰険体質のいささか汚い体質の個的には愚劣な存在と思った対象.睥睨カザノヴァ型かな.
定義というものの制約に悩んだ小学6年生がいた.長じて好みの女性に判断をつけることができなかった苦い思い出を持っているようである.なぜならば彼女は定義的存在と思ったからである.単純には非線形が邪魔をしたのであるが.
定言は純粋実践理性だったのか、実践理性が前提するものは物自体とは、倫理は16・17歳くらいでは難しい対象であるとその年には思ったのだが、カント的にはまず正解であると言っても差し支えないといってもいいようである.なお社会的に有利な職業は裁判官であるとその2・3年後には考えた.
そうか関係は『前提**・・・』の範疇対象でもあったことに気が付いた.というよりむしろ『前提**・・・』考察でよかったことになる.ゆえにあるX人物はどうでもいいということで、大いに無駄をしすぎたのである.結局最初からそう思っていたので、単に無意味な時間を過ごしすぎたことになった.
理性と想像力の桎梏で自己戦いをしているがどうやら双方とも自然な趣でたしなみは都合よさそうな雰囲気になることになりそうだ.哲学は芸術を認めるが、非芸術は認めないといったことも自己戦い中のことでほぼ結論は正解となりそうだ.
定性通時的メロディ線描的の厳しすぎる映像に2度も辟易したことがあるが、何のことはないいざその情態に身体感覚を覚えたら厳しくはなく快感的なものであった.所詮というか何しろ自己内部の映像で確認の結果全く厳しくはなかったのである.推定違いとは何とも時を悪戯に過ごす羽目になったものだ.
特にカザノヴァ型存在はそのこと・実践理性優位に関して近視眼的であろうと当然と思うことだろう.何も石をパンに変えろというのは実践理性を強調するとかいうより無視できない状態にあるという規定的なものであろう.
内部形態でバリアが強い領域があるとすると、その領域はユートピア的であることに気が付いた.何年何十年このことに関して不思議だわからないと考えたことだろう.イメージはそうでもないのだが論理的帰結はそうなる.
いろいろ悩んでいる意味なき無駄を要請する発言をした人物たちは、自己否定をするのは非常に困難だろうが、実際はそれが現実なのである.そう調子づいてエゴを発揮したけれどそのエゴはくだらないものだったのが実際の現実なのに、まず認めることはできないだろうなそんな精神レベルにすぎないから.
そんなわけで昨日から考えて、日本人には『天教』なる宗教が通底しているに至った.No.30をこれにするか、あるいは非公式に新宗教とするとか考えは弾む
宿業や思し召しや関係は位相が似ていると判断したが、まさか宗教的なものを登場させる羽目になるとは全く考えていず、気にはなるがさっぱりわからなかったわけだ.深いというよりやはり超越的な考え方であった.まず文章がつながるのでこの辺でいいだろう、なんとなく次が大変だという気もするが.
なんというかYにとって思想は宗教的な位相で、もしくは宗教の無神論的転化であるようである.これに関して第二楽章より『べらぼうという魚がいる.食べたくはないが魚のにおいがする(ちょっと幻覚的な感触を持ったが、川べりの小道を歩いていてそう思ったのであながち))』を思い出した.
現に生きている人間実在として単体的認識位相からは、個人という単体を超えた存在を考えるのはある種の人物達には必定ということだろう.また普通にひとは神も仏もいないのかという心理を誰でも持つことはできる.
ハイデッガーの世界内存在は人間関係存在的であるから、無機的宇宙を加味するならば、とりあえず宇宙内存在と人間をしてみると、人間関係存在を超えた関係の寄与を想定できる.これも個々人は有限生理・物理体であるからといえる.ここに心を持ちえた人間は手繰れば無機的宇宙に接続しているが、
Yは超理性や純粋知覚はないと言っていた、だが超理性があるとしたらどうだろうか(はっはっは..)・Yの映像から受ける後の直感では、Yは超理性の理解はできかねる実存在体人間であると認知した.
カルマか、㋅の薄雨の小林の小道を歩きながら想起した昔、きつい・深淵を抉ってしまうので考えるのをやめた歩みの先で、そぼ降る雨を眺めながら時が止まる構造を見ることになった思い出がある.この心理パターンは今でもよく使う.雨は降っているが構造を見ているので透過していると.
なるほどなるほど関係の絶対性と親鸞の宿業か、ここでスピノザの神の決定論を想起するのだがどうだろう.神の決定論を無神論の決定論と解釈してみると・・.大体宿業となると業・カルマを普通に想起する.
論理的には自由な意思の選択という相対性を成立させる場というか因子の世界というか、その位相においての思考内容というものでありそうな.
Yの関係は本質としていいかな、フッサールのエポケーは本質の前では必要ないものとするところの本質(あるときこの本質位相でさえ捨象してみたことあって、頭脳に狂いを生じさせてしまったことがある・愚かな・・・)としてみてもよさそうなNo.1
なにかペレルマンのポアンカレ予想解決側タッチになってきた.大昔(有効度合は現在的と設定中)に『位相差を持つ層状組織である』と考えてあるのに、応用・展開・結び付けがうまくいかずという面も考慮して.
フェルミ型とボーズ型で超対称性という考え方は、いまのところ弁証法の基礎を構築しているとして差し支えなさそうである.
マンハイムの思想の存在被拘束性はそう思うな.思想が自由なのはそれを本人が構築するまでで、構築した思想は捨てる・除去しない限り宗教の戒律のように本人に保存されるはずである.
あるひとつの縦構造を考えていると、ふと全体としてパーコレーション構造体になっているかなと
とにかく他者たちから不自然に自虐を要請されること多く、不快である.もっとも超常的に自己自虐をすることもあり・その理由根拠が全く分からずであるが・なのだが、やはり自己の場合は自己責任であるから忍耐できるが、他者たちのものには忍耐する気はないのだけれど、忍耐をしてしまうマズローの第6
不可能性は巷間周知の如くだが、ここに至って無可能性という考えを導入しようかと思っている.ゲーデルと強制法近辺を援用して
連続するとき、ルベーグの深淵とそう簡単ではない現実部位が数多くある.
ミクロの決死圏の難点がある知識によってしばらくしてからの結実として2・3日前にひらめいた.個人的に重要だったかな、それと定性通時メロディの厳しさを何とかしないともある.これも自己感性の才能なんだが自己的不快でもあることである.
『アンビバレンツ情態を保存する-それ自体をみる位相』と設定しているが、最近ではきつい、これはアーノルドの否定弁証法のようなものであった.
abc予想は直感が示している夢の構造にパターンが類似している.特に同心を渡る存在が
層状構造というのも『人間は位相差を持つ層状組織である』という第二楽章の中に結実した個人的考えや、夢の構造認識に対しても興味深い.またてんかんに対する閾値が低いというのもちょっと大宮赤十字病院の名前とともに気にする羽目になってしまったかも.
勝算あり、ただし長期間の実践時間を必要とする=基礎研究.このとき勝算は演繹的直感確信がある場合がほぼほとんどであるはず、人材そうやみくもに研究対象を設定するはずはない.そうでなければもともと人材ミスキャスティングである.
思い出そうとしても思い出せない何かツイートしておこうと思ったこと.-としたら思い出した、共産主義の成立には、聖人のみの世界しか考えられないということ、知る限り聖人が多く出てくるのはキリスト教専ら
一段階でも二段階でも、ロシア・中国に資本主義が十全に発達した時は?、中国はいまそうでこれからプロ独裁に向かう??、およそ想定できないのでやはりマルクスの考えは?をつける.これからある可能性もないとはいえないが、そもそも国家なく貨幣制度ない世界に普通の人々の平和な生活保証が可能か?
『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』--昔、無意識に描いたこの意味は、接空間・余接空間を暗示していると検証中.
クリプキをNo.24に入れるというのはネット上にもいるが、現実にたまに遭遇するある若き存在試みがいてそれゆえにと、未完のために思考が難しいという思いの圧力を感じていることもあって、必然性に関して考えている.様相でアイデアが予感はあったが出なかった記憶に対しても必要でもある
『余裕の挫折で終止符が打たれた』--終止符ではなく休止符のつもりが筆が滑ったということなんだが、つまり未完の部分を残していても、それ以前で説得力があるはずであるという思いだった.これを当てはめると、ハイデッガーの「存在と時間」は未完にもかかわらず一定の寄与力・影響力を持っていると
それでニュートリノ研究が爆発しているわけだったのか、ニュートリノ振動.昔に、隣の家の裏の坂道を歩きながら、地球をすり抜けるニュートリノはいいけれど、この宇宙のどこに到達するのだろうか不明であると考えたことを思い出す.
この時間水平線上に想定できる無数の機会から必然情況になると考えたとき(昔、坂道を下りながらから)、この水平線を無限遠直線と考えて、無数の機会を可能世界として、平行線が一点に交わるとするリーマン球に応用すると、クリプキの可能世界全てに真であることになり、必然的ということになる.
相変わらず書店で読んだ吉本関係に、悪行をやれば悟りに近くなるが堂々と載っていた.それなら、悪魔は悟りに近く、堕天使も悟って十分のはずだが、悟ったという設定は多分どこの記述にもないだろう.
還俗して非知がいいとそれをしたのは親鸞というY論を書店で立ち読みしてきた.一体世界のどこを見ているのかYは、ソクラテスのわからないことを知っているは、どう見てもYの言う非知ではないか.世界位相のYのエゴ的展開ゆえにソクラテスは浮上しなかったと見える.
秩序と無秩序が一般的であるが、<非・極・不・否・超・優・劣・・・あと何だったか>秩序と何種類かの秩序種類を考えてみた.
そうか東京の多様による収束速度強ということで、説明が付く初期量子論への手引きから.
”いつも論文に「これは理論ではなくいまだ見取り図である」「これは実質的な主張ではなく方法論上の議論にすぎない」といった留保を付ける。”--それで説得力あるということは、『余裕の挫折』と表現しても良いクリプキとならないか.全く慎重さではなく実際にクリプキは実感している事だろうに.
-あの動かしがたい坂道での必然という束縛感の思い出が様相につながっていたとは、後に様相を考えていた時には行き詰ってしまった・ただし何らかの考え方がある予感はあった・ファジーなどかな.
”現実世界の他に無数の「可能世界」を想定し、「必然的に真」とは「あらゆる可能世界で真」、「可能的に真」とは「ある可能世界で真」と定義する”--無数の可能世界から一つを選んで必然とすることは可能性でしかない?.
どう見てもA期的な指示言語好み存在は脊髄反射が得意な観察結果を得ている.演技の偽善を行うから一見洗練の形だが、実際は弱肉強食のアフリカのサバンナを素足で走り回るか、ボルネオの密林をこれまた素足でウータンと遊びまわっても大丈夫なほどにタフとしか見えない.
個人的に困難と同時に日常空間がそうなっている筈なのだが、・・・先天的存在が過去の存在であるという人物の思考形式とはいかなるものか、全く他者である女性で、表現を剽窃した存在はいない・・・・・
先天的先験的などカントや埴谷でよく知っているのに、先天を強調する存在を見る馬鹿馬鹿しさ、ただし他者達はさほどバカバカしいと思わなそうで、これらの圧力に引きずり込まれてしまう、この先天存在は過去存在であることに全く気が付かず、自虐的忍耐をし過ぎと、過去存在とした思考形式表現が困難に
悟性と鬱感覚について何十年もわからなかった.この単純すぎる技.直感では結びつくならば諸々の不都合すぎる事柄も説明できそう.しかしこの悟性女と同一視という無茶苦茶すぎる認識誤解・性倒錯的見解をどうも理解しないまま死んでいった存在がいるとしか思えず、認識誤解はどうやら死ぬまで続くと
可能的世界の中で、機会にせよ判断にせよある選択をするということは自由で、それを選択してしまったあとではそれは必然であったかのようにになってしまうゆえに、必然的自由ということになる.これを自然に行って全く当たり前とする存在が多数いるが、どこかで疑似的・迷信を携えているケースが多い.
”何をやっても駄目だから作家になったんだ”と喚いた作家がいたらしいが、厳密には作家も何のうちに入るがそれを除いて加担的に解釈してやると、苦悩に次ぐ苦悩と絶望を他の誰よりもしたからということなのだが、そうなると他人の悩みなどは取るに足らないものだというプライドが見え隠れする.
先天的存在特に優位な存在がいて、義務的にレール上を生きていくだけというワンパターンには閉口した・つまらな過ぎる変化なし-のちに判明した過去の存在であるはずなのに、憂慮するとこの存在が出現するのはちょっとまずいのである.
傍観者効果は--ではなく傍観者は客観的認識ができるので自然科学的な観点を持っているか、最も内容が政治的な場合にはそうではないな.啓蒙のプライドに見えるが、全体に対して傍観者視点を用いると独裁的意見ともなりうる.
恥というか権威意識というか、他者の名誉心ゆえに忍耐を被るケースが多い分析結果がでた.他者の名誉心はいいが、他人は名誉心を持っていないという前提に立ってエゴを発揮する単純すぎる暴力的存在達ともいえる経験がある.
リーマン予想は知らなかったな、今でもさして興味はない.その価値を理解できないといえばそういえる.自然対数と素数の関係が一致点に近づくだろうとガウスが--ここでeの登場で、e自体の存在は無にならず不快に思っている点に示唆的なものを感じないこともない.
素数の5000万個の出現度合いはランダムであるそうだ.とりあえずランダムの根拠はここにしておこう.
”境界にフラクタルな曲線が存在する”4種の特性解は元の方程式が、多変数であるならば可能性があると気が付くが、そうであるかはわからない.多変数複素解析論のチェックをやるべきか、青春の思い出としてそのままにするか、岡潔が登場するそうだが.とりあえずそのままにしておく.
秩序に対して対抗するのは、その秩序体制に反逆する革命意識的存在と、クリエイティブな創造意識タイプがある.
不確定性原理で思ったけれど、ペンローズはUpに関してどのような位相を取っていたのかそういえば知っていない.無限下降に関してどのような見解をもっているのかも知らない.
人が二者択一対象を極限選択せねばならないとしたら、全か無かのいわゆる宗教的な信仰するかしないかの択一となる.
相対論によると光は曲がるは事実らしい、とすると光は直進するというのが直観的に普通・ノーマルで、そこに捻じれた思考・曲がった思考をしても良いことになる.そこには何らかの連結過程がある.
3次元基数域でブラウン運動はどうなっている?
人々は人間原理の部分で満足している・あきらめている・かぎ取っている・・等ゆえに、落ち着いているように見える.
ところがまたそのころ思惟の法則があればこんな・・という思いをしたこともあり、しかし思惟の法則があれば生は単純になり過ぎてそれは部分でしかなくなり面白くもないとも思ったのである.選択公理や情報理論の複雑性問題や機能主義・物理主義に対してのチェック楽しみの所以である.
想像力は理性に阻害をあたえるとはパスカルの言葉を最近に知り、苦い深淵の思い出時に知っていたならば、そんな思いはしなかったものを.しかしなれどこの複雑すぎる映像はなんだという次第である.ひょっとしてこれを絵画にしたらかなりの存在感を持つかもしれないかも.
むしろ明暗であって、多少は弾圧とは異なる配色かも、弾圧色は領域が狭くまた旧態イメージのする色であって、明暗の暗は深淵であるからである.どちらも黒色であるが、この深淵黒色が動的な場合の複雑さには理性が付いていけない苦すぎる自己内部の深淵に対しての思い出がある.
草莽崛起(そうもうくっき)と読んで、吉田松陰が唱えたとか、昔、思考の帰結が市民が希望であるになってしまった10代の頃があったが、それに付随して暗黒が去らなかった.この暗黒は今日の先ほど、弾圧の文字イメージと似ていることに気が付いた.
0を入れるか1から始めるか非常に悩んだが、なんのことはない0歳という時間をすでに持ったのだから=0として差し支えなかったということだった.
真夜中のイントクシ、梅ノ木のそばにいたのはフクロウかミミズクかムササビだったか、昔の夢時間の記憶・鮮やかに
清水寺の胎内巡りは示唆的である.小学一年生ノ冬・正月に母親の実家に行ったときに、暗い空間の中で遠い向こうに小さい明るい点が一か所あるという映像を浮かべたことがある.この時の暗さイメージは守旧的なもので封建的なものを描いたのだが、5年生の時には黒体輻射の内部から光の一点を描いたので
まあ権力型のXXも抑圧強要で全くやる気をなくさせるものだが、やる気のためにはかような存在を排除せねばならぬ・といって排除が難しく無駄に遊んで意味なき時間ばかりを構築することになる.身体の自由のために他者を抑圧するからで、永遠に足るを知ることはない存在、心の自由がわからないのかも
まあ不自然を強要して、変なことになると現実も変になるはずで、偽善的な無責任のために無責任を構築するという姿勢で、自己欺瞞主義な存在達なのかも.まあそんな部分は持っているが、そんな存在者達のようにほぼ全体としてとまではいかないから.要するに現実に生きているから諸々の要素は持っている
どうもある女子大を卒業したての存在は、SS(XX)と曲解したようだ.なぜかほとんどの存在は主体の阻害・疎外を要求して、逆を行使して時間差トートロジーを強要するのはなぜか、また主体を真似して非対象と同一化したがる存在はなんなのか.明らかに不自然・理不尽を強いられることは、不快すぎる
秘匿してしまった乱舞はどうやら無存在と人々には、事実はなかったとも思われるようである.Kが見せた2・3枚の変形まとめをゴミ箱にとっさに捨ててしまい意地でそれを拾わなかったことや、多分にミス認識の人類の悲しみを想定してしまった春うららのI市のある女子学生と遭遇中の路上などが重なり-
直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?と思い描いた小学5年生、今ではそれは光子のことと判明しているが、不思議な映像だった..このころにまだいろんな重要なことを考えていた・・それらが俗物空間で体力情動の圧力を受けすぎている今日.
例の柿の木の花が咲き、三差路に岩がおいてあり、上り路にのわきにささやかな小川が流れ、それがやや大きな沢と合流するところにプール上となった体積があり、三差路の道はそこに小橋を架けていた場所で、直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?
古今東西の宗教の創始者を鑑みるにつけ、押しなべて傲慢・極端なエゴイストが多い.これは人間存在の本質的な何かを指示していると言わざるを得ない.深いかな聖書の、”神はご自身と同じ形に人を創造された”の意味するところの含蓄は.
人々に公開とはいっても秘匿的公開だからわかれば雰囲気までを、自己に用いる羽目になってきた.
小学生だったか中学生だったか、坂道を下り歩きながら、必然という言葉にぶち当たり、果て困った身動きが取れないと思ったことがある.今日はこれに際して、システム的をとりあえず取り入れるアイデアを浮かべた.可能的世界どうのこうのもイージーなんだが、システムの還元不可能性を判断しておく.
論理ではなく理論にしようか今日考えてみた.岩のゴロゴロした川原で考えていたときは、方法論という言葉が浮かびいささかつまらない気がしたが、今日までずっとそのまま.
昔描いた夏休みに隣はしばらく姿が見えないが地球外旅行に行っているという話の映像で、未知との遭遇のある1シーンと映像がよく似ているのは多少不思議であると漠然と思っている.もちろん監督得意の漫画のようには、別に未知なるものなど登場してはいなかったが
未完項目はあるけれど、結論(遠い未来に有効な)を出していたことを昨日思いだしたというか結論にしてもいいものであったことに気が付いた.
モジュラー群に”分数 a/b, a/c, c/d と b/d がすべて既約であること”がのっていた.昔考えた4種の特性方程式である解は規約である事は条件なので、考え方自体は似ている. 直感で見るモジュラー形式ほどに単純な方程式ではなかった記憶ではあるが.
ビッグリップの前には、地球崩壊拡散は微小なものに過ぎないが、その映像を思いついた時にはちょっと困り果てた.止めることができない・・小学生3年生.その記憶は地球の軌道変更に結実したがそれもまた不可能であるが、『軌道を変更した地球に幸いあれ』を第二楽章の帰結文にしたことは間違いない
言うまでもなく中間存在は演技そのもである.上に限界を持ち下に限界を持ち、上下左右前後に有界である存在であるので、あたかも足が地についていない(足がないのと同じとすると幽霊と同じ)空中浮揚中のようなものである.その底の浅さには不快しか感じない.
まあ演技的性格者にはユダ型人間の特徴を顕著に取る.ローマ軍は神様ですとかのような、権威・権力者は神様です・依存させてくださいという長いものにまかれろ性があり、自らは権威・権力者の代理人であるかのような所為を行うクラウンのような存在でもある.根底には権力志向が流れていることになる.
セルバンテスの作品の主人公であるドン・キホーテは奇人・変人である考えが浮かんだ.
構造自体や時間の流れは自体を見るはNo.26ni導入.世親は何を述べていたか気にはなるが-大体無自体それすらないが仏教の奥義であるはずで、輪廻はそれ以下とふつう素直に考えることができる.
情況は単純にエントロピーが決定することは明瞭ではないか・何を今まで悩んでいたのだろう.ポテンシャルパワーはいろいろ思考・思念に災いとなるな.
"科学と非科学の境界設定基準という科学哲学における最大の問題"--科学哲学の最大問題は非科学との境界設定だったのか・・未完・未定のNo.23の参考にはまずなる.デルタ関数は無限を保証するか有限な無限はあるのかという素朴な直感が、頭脳分離・乖離を余儀なく構築してしまったことがあり
漸く考え付いて、その延長は退行圧力であるので、その将来結果はまずいことになるが如実で、私はそれについて何も思わないことにする・すなわち退行圧力を全く欲してはいないということで、その存在者のモラル感覚によることである--を思いついて二重虹を見た.
そんなことがあるとケルゼンを純粋法学意識を小学生の時に浮かべたのが、今では信じがたい.
荀子自体は性悪のまま馴致をしたと推測する、何らかの相転移があって善人になったという記述を見たことはない(それほどチェックしたわけではないが、それでもそんな事態があったのなら目につくように表現されているはずである、結局性悪固有のまま死去したに違いないだろう.)
太宰治は帰納的におもえるが、それと荀子的ではないかとも思える.それにしても実人生は非道徳的所為が多すぎて、作品を書けば実現実の不道徳的行為は許される実例ともいえそうだ.
共同幻想の奴隷なる言葉が朝閃いた.
利己的な遺伝子の複製優越性と人間の建設意識の相克で現実は説明できると直感がとりあえず示している.
非対称な一つの双曲線とミクロとマクロ(古典と量子)のずれた双対感あたりの関係をむすびつけようとして
『位相差を持つ層状組織』は縦構造にも、スケーリングにも使えるではないか.人間はそんな側面・層状を持っていると直感した、小学校の帰り道の崖の崩れた堆積の跡をみて、近くの沢の上部はどこにつながっているのかと考えている.地球の崩壊や男女の乖離などもこの付近で思いついたことが懐かしく
ゲーデルは位相差にありそうだが同位相に存在するか、この辺の思考に壁をもたらす件の幼児期女性なのであるゆえに、他人の母親.でもアルファ空間では人気ある・その理由も良くわかるが咄嗟の出来事で対処はできなかったな.咄嗟に判断しなくてもよかったのだが、そんな前提になかった.
(夢にもでてきたし、常に絡むようなことは、他の女性も成立する・<夢にまで見るというのは別になんでもないありふれた普通の事>)
で他人の母親になっている記憶から離れない女性に対して、しつこく浮かび来て、種の与件からこの事態はまずく、またあまり浮かぶので位相を戯れに・不本意に同値化させてしまい、なおさらまずいことになる.それでは幼児期に退行と同じくなるからである.つまりこの女性は幼児期対象存在のだ・
振り子の等時性-振動に関係あるとは思いつかなかった.何かが欠けていると思っていたの楕円積分だったか、減衰振動でも考えねばならなかった昔の話を懐かしむ.
ボーズ凝縮の最大値論には感心する
どうも人々はある女と同一視してきた不快な記憶が強すぎて、そのある女自体も逆に剽窃で自己自身を内的思考かして、疎外を要求していることに気が付かない愚かさを持っていたが、誤解・曲解・歪めなどは全く意味がなく不快なものである.それにしてもこの不快すぎるある女と同一視されるのには閉口した
この悪魔はキリストをあくまでも俗物扱いを意図している、邪念の化身として現れているようである.世界の栄華を悪魔が持っているのではなく、単に持っていると空想をしているのだろう.人間悟っている筈はなく、心理の葛藤を持っている筈であると.
指揮者・積極的自由の調節者とか、いなくても消極的自由の多様化をかなり進めて短時間調節は可能であるとすると、いくらか齟齬をきたす事柄が成立するが..
しかし全く自己疎外を強要して、逆によくわからぬXXと同一視するXYと、剽窃して自己自身の内的思考を当人に述べるXXがこうも大勢いたのだろう、今でもそんなでたらめを受けている気がする.自己疎外修復が大変である.
道すがら、人々の庭先に相変わらず桃色の花をつけた庭木が目立つ日々、時には白い色も見かけます.はて如何に猿が滑るものかと疑問に思うところです.、つきましてはギンバイカの香りなども浮かぶところでありまして、そうなりますといろいろな思念が湧いてくものであります.
残暑厳しき折、久方に認める文面に、失礼を存知あげる振る舞いをご許し願いたく思います.とはいえこの部屋の暑さには、気温以上の温度差感を覚えまして、些少いらだつ気分ではありますので、文章がつながるかどうかは判断しかねる次第でございます・・・・
20-25年無駄にしたことに気が付く、なんと強烈な思いでゆえに時間がマヒしていて・・・
私の予言によれば今の20歳代前半から日本が変わる・この世代が日本を変える
いずれにしても絶対性などと絶対を使った大仰な強迫性はあまり関心しない、思想だけということではなく、『思想の思想たる所以』だけで、やんわりと対処したい.
『余儀なくされる』は用いている、ただしその心情は「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」の両価性とともに、またオープン領域への実存的とも言えなくもない.(これは中学生の時の入院中にベッドの上であることに自然に推移して、そのときの心情をもとにしている)
何しろ神はヨブにありとあらゆる厄災を与えて不幸にしようとした・・そもそも旧約の神が悪を作り出していることになる.
ナッシュ均衡から、宇宙の熱的死を連想するけれど、人々はこの現宇宙を有限なものと設定してそう考えている・そのようにして安心感を得ているともいえる.がサイクリックは回帰的もまた仏教の反復思考に似て、そんな考え方もある.この宇宙がどうなるかは結論はまだ出ない・未定であるはずと考えている
「ナッシュ」を知っていたならば取り入れたかな、ゲームの理論は好まないので入れなかっただろうな.どこかで知っていてもいいはずだったのに、ブールとか騒いでいた頃の娘の弾くピアノの音が聞こえる庭との裏側の二階の部屋・・しゃれこうべで酒を飲むも浮かべたこの庭・後に知ったバイロンではないか
中学生の時にある市のある駅の靴屋の看板文字から強靭を考えて、強靭の一定持続の厳しさに音をあげたことがある(自らの脳内のイメージではあるが).今でもそのままの意識で、他者の強靭の厳しさに拷問を感じていたが、今日、そうであるならば逆作用・反作用方向の強靭もできるはずと漸く思いついた.
ハイジャンプは見ていてなぜかスリルを感じる、女子も面白い.小学5年生の時に1mが飛べて無意識に大喜びをして走り回ったことを思い出す.同級生たちに真似をすれば飛べるとされたが、その現象自体に何かを感じて..
深淵について考えるのはやめておこうと思った小学生の時、が自然に道やブラックホール様を考えてしまい、後からチャンドラセカール限界やトルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界が付いてきた.
中性子星の外部爆発とするまではいかないだろう.”自転周期は30秒から1/100秒”ではΘの回転イメージより遅い・・・
一般に今不快すぎる思いを持っている他者たちのトートロジーに気が付かず、強制的に不自然を要望することは、次元低下要請で進歩時間遅らせは明瞭であるという決定的認識に達した.ゆえに他者たちのトートロジー言明は意味のないものとする、そうしないと『第二楽章』のレベルがままならなくなる.
とりあえずの大きさで、素粒子でできている存在が生きている--推定、素粒子でできているが”関係”でそれは生きているに対して”絶対的なもの”として現れていると考えていいのではないか.
そもそもざっとマルクスの翻訳物を眺めたとき、論理的には納得いくが、とにかくエロスがない.ほぼ自動ロボット的な感触を受けた若き日のすごく意外にひなびた渋谷のある駅のいとこカップルの部屋
『位相差を持つ層状組織』と人間精神を規定したとき、表表現として組織形態に似ていると、何十年も経て気が付いた.ピラミッド型やコーポレーショニズムとかの理論に結びつけることができる.スケーリング面もあるが別対象意識として.
とかなんとかそんなわけで、太宰治は昔に聞いた?見た?芸術至上主義者(そんな主義があったか?)なんぞではなく、マタイの述べる律法学者・パリサイ人に良く当てはまるのだが.
「想像力に科学は有用である」をNo.23に置く
荀子の性悪説だけれど、元性悪(今は?)が馴致するとなると、固有的には性悪が性悪を馴致することになり、結局性悪に終わらないか.どこで相転移が起きて善人なり馴致することになるのだろう.経験記憶の不快から、性悪人間が性悪を隠すためか、他者に対して馴致意識が高いようである.
自転車通学の帰り道、固定・気合いを考えつつ、角を曲がるとスタンダードを思いつく.そんな記憶・思い出と共に、量子現象をNo.16に取り入れて妥協点を想像ではなく、理性的に置いておく.
全く完備で有限なものを無理やり無限非完備的に考えてしまい、過ぎたるは及ばざるがごとしを堂々と行使してしまった青春の時間を思い出している.
人間は無機物内有機物として存在しているのだから、存在理由は有機体故になる.過去・現在そうしてしばらくの未来はそうだろうが、その先もそうかというとはっきりはしていない.変化の可能性がないわけではない.クレジオなどは現状維持の有機体として、有機物の後に無機物のみが残るとしているが.
大体その存在が(すでに)不明で理解し難い対象はいたずらに喚きを構築し、有限にもかかわらず、その延長としての世界領域に依存して、内面を見ずに倨傲を行使するから煩わしい.
そうなるとニーチェの永劫回帰は、キリストの復活的なものを何回もあるいは無限回繰り返すことになり、アンチキリストがねぇとなる.
記憶にあり消去したく悩んでいる他者たちの言明は「冒涜」という言葉で表現できると思いつく.冒涜を尊重する羽目にというか除去できないこの構造は問題だけれど、冒涜発言をする他者たちの存在悪性はなんというか無神経というか無自覚なのか陋劣判断能力しか持ってはいないと考えるしかないではないか
超対称まで行かずとも、F-B分離したセット形態を考慮せねばならない・・、そんな心理情態は不快でしょうがないのだが、XX-XYの乖離とともにそれぞれの関係を考慮するような形式・形態とでも表現化.
そんな存在は、男はいつまでたっても子供なのよとは言えないはずである.なぜならば自らがいつまでたっても子供だからである.傲慢な割に甘えもする極端な性格を大体感じるタイプがそうである.傲慢なパワーがあるのなら甘えなどしなくてもよいものをと.
ポテンシャルが強く、荷物に感じるうんざりする肉体の持ち主は、唯物的・物質的な存在であるという認識に至り、精神力・思考力は欠如の存在にあると見るにたどり着く--他の人々にとっては、あまりにも明白・単純すぎる事柄のような気もする.
思い出せば、覇者型の女性にかなり遭遇している.大体脊髄反射だがなんだかわからない暴言を吐いて不快な記憶を残している存在達を.今でいえばパワハラ固有性確かな、まるでロボットのような生理体を意識させるもので、暴言などより色気を出せと言うべきだったのである.まあマシーン頭には一生無理
完璧にダメではないかなんだが、どうも現実と乖離を持っている.やや最高はいいとしてやや最悪は失敗なんだけれど、それも必然的な事柄だったから、なぜの理由がわからない.最高と最悪があるということで納得が依然いかず、個人の素質かあるいは風土の障害があったのかわからず・判断がつかず.
稲垣足穂の何が面白いのか全く分からんが、一両日前に、ホモ・ファーベルと思いついて、まず間違いないところだろう.作品と晩年の毒舌が結びつかないが、気に食わない遠慮をまたしても持っていてそれが悩みの種でもある.人間的には達人の趣があることは否めないが.
超自然という言葉がある.超理性や純粋知覚はないといった人物について、昔はあまり気にせず、一つだけとんでもないことを述べられてそれの処理に悩んではいるが、その後TVの映像をみて、顔貌直感からまず純粋知覚などは無理、超理性もその欲望意識から無理とまあ納得している.
メタンハイドレート開発にシャカリキになれないのなら、核融合に向かうはずだが.現状の現実を見る限りではのんびりしているようである.『太陽が2つある』-予知夢を見ている人間として.(一つは当然空間に浮かべた核融合物体・それは太陽とそっくりである)
ある女子学生に際して、精神現象学を読めばやエロイカ変奏曲の味わいは当然ないなとかに際して浮かべたのは、ハイネの名前である.まさかハイネはないだろうと沈黙したが、そうでもなくハイネを読めるようでないとと思うべきだった.
超自然の束縛がやや最高とやや最悪の時間を持って、超自然を現実時間で渦中にいるときには想起できず・この不可思議な現象.超自然を現実化すると全く煩わしいことになってしまうので、超自然的に現実をせねばということだった.
ネーターを考えたくなるが、事実は小説よりも奇なりで、ラプラスがポアソンを内含しているように曲がっているとか.
無限大か来る双曲系1/2がデルタ関数と類似させて考える--そんな体験があって.その逆に無限大が0で原点に向かって発散する場合に積分が1になるということの又その逆で、原点からベルトラミ形を考えてその広がりは・・・全くR^3に無限加えたものが3次元球面とは簡単に表現してくれるものだ.
葉隠れの武士道をドストエフスキーのようにとらえると被害者であり、クリエイティブのとらえると秩序空間に安寧とはしていないとみてみるケース.
グロタンディーク宇宙Uを知った.グロタンディークは賢明というかまともというか常識的というか、笑ってしまう.これではなんの理屈をつけようとピレネーの田舎町に隠遁をしたくなるというものだ.-言いえぬことは沈黙しなければならないとはTLPの言明.
強烈すぎる個性のXXに対してなぜかレゾルベントとした思い出がある.強烈なのはスペクトルであるのだが、この直感は全く脈絡なく出現した.
なぜ蒸し返しや自己疎外強要をするのか無駄でしかないというのは無駄な存在か・無意味多き存在としか思いようがないではないか、無自覚傲慢者でもあるが、悟りに向かう無知過程存在者という観点もあり、困ったものである.いたずらに時間を遅らせる宇宙旅行者達でもある.
カラビ予想の解は、個人的に考えた特性解4種にヒントにはなるが、中身の豊穣さが異なる.
想像力と無限に関しての理性を考えると、ヘーゲルの論理構築の説得性しか知見していない.想像力には非線形が登場しているが、時間が一方的に流れていると、混沌の位置が真理に関して無意識にならざるを得ないが、+-のない空間であるならば、素直にカオスが登場する.
アポロンとデュオニソスと分けると、想像力と理性になるが、フロイトは超自我と無意識(自我は境界)としたろう、そうなると混沌と真理になる.そうするとというより有限理性というXXが災いしている--一般に中間存在は有限理性を行使する.
物質がそこにある以上、発生機序が複雑であろうと、有限結果(線形)は成立している-これに関して過大評価をしてドン・キホーテのように、非線形を求めたために失敗した記憶を忘れない(過ぎたるは及ばざるがごとしである)、しかしなれどその姿勢を崩しはしなかった.それが余計なアドバイス誘発に
サピア=ウォーフの仮説とチョムスキーの心的言語の間で、形式言語と宗教心を連想.サピア=ウォーフの仮説において形式言語・公理的なものと、相対宗教・宗教の多様性ではなく統一宗教心があれば、心的言語は成立するが
再帰とチューリングならここかな、埃立つ道を歩きながら摂動を考えていたころだから、非決定になるのに無限後退を考慮しない定義にいささか少しアイデアが必要ではと考える
数値予報にNS方程式が重要に用いられているとは考えもしなかったが、当然すぎるほどに当たり前のことである.この隠れマルコフ的な頭脳・・・自然科学の伝統に対しての追認はかなり困難であるであるので、人々は隠れマルコフ操作を用いるのが常であるとか考えてみる.
思い出した、ランダム設定・ランダムを考えていたあのちょっと裏道の坂を歩きながら、空間は自然に自由領域を不随させたことを、射影の無限遠を用いて掃散などと示していると、まったく思い出せずにいらいらしてしまったものである.
水分子は室温で平均でおよそ500 m/sで動き回っているとは、ブラウン運動の掃散してからということが、有限時間のやはり頭脳追跡が伴わなかったゆえにという進み具合でよさそうだ.
おおやはりネルヴァルはヨハネの黙示録から影響を受けていた.熱風の夏・中学2・3年生だったか、トイレに行きながらネルヴァルの湿度高き暑さを感じた、今はそのころの情熱が・ポテンシャルが消え失せて
マイ・システムの位相上の対象について考察している人間はいるものである.無名の領域にたいして離散的持続者は香りを持たすこともできるがとは考えている.
競争や他者に対する優越感(それが小さくても次元を落としても)などは戦いといえば戦いで、穏やかな気分は足るを知るか悟りを得るかを獲得しないと、出来えないような人間存在にとって、平和とは調和という言葉で表現しうるものだろう.
ある人物に対して他者引用してあてはめたりするのは論理的に間違いというのは認知していたはずなのに、矛盾潜在意識を前面に出して(対象の信頼ゆえに、わかっているミスを行使するというXXの責任保有性無自覚)
ラプラスはKでポアソンがよろしくない?(ふつうのカップルはポアソン的、阿吽はラプラスとしてもよいか).ブラウンの掃散はポテンシャルの限界ということになるが、どうにも不快な頭脳の鈍さがある.Sのブラウン実存的にたして太宰治ではという冗談思いに今でも悩む羽目になるとは
未来史の記述はマルコフ過程を示すだろうが普通すぎる考え方で、事実的人間にはそれが自然かつ限界であるから、強意表現を用いざるを得ないという解釈になる.その強意はエゴイズム主張にすぎない、無自覚がやけくそでもあるか退行強制ともなる.
細胞の動きが重力の影響よりブラウン運動が勝る無重力空間では奇形の発生する可能性がある-そうだ.なるほど、現地上でかような形態存在はかなりブラウン運動の影響が強く出ているものととりあえず判断できる.人類類族上の犠牲ではないかと倫理的に考えた昔を思い出す.
ポアンカレの回帰定理とダフィング方程式があの時に必要な対象であることが分かった.回帰は地球上の緯度ではなく再帰でもなく、減衰には加速度も考慮する必要があったのだった(?潜在的には十分思っていたような気もする加速度).でもカオスは考えなかった.
双極性障害はポテンシャルとエントロピーの齟齬により・・と思いついたが、そうなるとうつ病はエントロピー障害になる.(双対的にポテンシャル要請圧力とか)
別に意味はないのだが、つまり本質に対して判断停止をしても不都合な心理になるだけで、等質ならぬ深淵という非等質を形成するゆえに、進展がそのままではなくなる.まあ有限深淵という深遠ではなく深淵を持ってきてもよいNo.27なんだが.
回転楕円体には扁球と長球があるのは基本中の基本であるが、さる時間設定中に夏の川原で浮かべた時には長球回転のとらえられない速度であった.
Mathematics Genealogy Missionで思うのは、難問に挑戦して一生をあたかも棒に振ったという数学妻帯者の多くいるという推定である.
有限内オートマトンはまさにロボット的で、コンピュータがその仕事をとってかわるというのは、この有限内オートマトン的人間・仕事内容を示している.しかし、有限内オートマトンというあたかもユートピアを好む人々も多数存在している相変わらずの現状である.
乖離-相転移・フラクタル、そうして普通になってパーコレーションとこれでいいのかNo.16
フェルミ型人間はその励起のために他人を利用する・必要とする、あるいは外力を外部を---これはなんか悩んでいた全く思考が進まなかったある概念に似ている形式ではないかとも
プラトンに詩人追放論があったとは.、理屈的にはペンローズ的かな、最初に結果的なものがあってゆえにそれ以前の過程は排除する--これ自体も時間変遷論になってしまっているが、イデアが普遍であるなら時間もないので.まあイデアは永遠を示しているように想える.
筋肉を動かして判断するのは脊髄思考で、これを理性から見るとどうしょうもない乖離が存在している・その壁の消去思考が・・-No.4からNo.16に関連して.
アブダクションもあるけれど、帰納の限界とかクラインの壺とかメビウスの輪もあるので、小説が理性的(空想・空想理性ではなく)であるならば、事実は小説より奇なりはいえているのかも
国家が死滅したとして、ルールはどのように守るのだろう.やはり生の欲求があるはずだから欲望の自由がまだありそうで、結局ホッブスあたりに戻ってしまうのでは?.つまり世界を変えるのではなく人間を変えることだろう.国家が死滅しなくても人間を変えることは可能であるという想いに立ち・・・
悪人正機説の悪人・少し良くして悪人と善人の中間的なふん詰まり人間の傲慢さには閉口する.全く自覚ない束縛が当然と思い込んでいる世界の狭さには.通時と共時の中間存在にも言えて、また覇者と王者の中間存在にも言えるうんざりさ.
自己の生存過程を振り返って気に食わない時間があることに苛立っている.どうにもうまく価値をとらえることの困難な時のあることに
現状、世界に宗教は一つではなく多数ある.おそらく個々人は自己の信仰している宗教が絶対なものという認識だろうが、多数存在しているということは相対的となる.
何処へ行っても、目障りな存在が出現してくる経験をしている.これはゲーデルの不完全性定理ゆえか、それともアローの不可能性定理ゆえなのかとケース設定を試みたが、結論はまだだが接近しているのではないかとは思う.
一様関数の愚問と浦和での心理の不快な暗黒ねじれ感-後者はあるJKが一つの 大学入試に落ちた故ではないかと今日不意に・その頃は浮気を感じた(これはこれは・・)--出てきた心理葛藤
ネットのレイヤーで物理層へ行くにしたがって、暴力的になるあるいは感情が消えてゆくと、人間存在の固有性を考えて、あてはめてしまう.(小学生の時に、崩れたがけの地層の縞模様を見て、人間とは位相差を持つ層状組織であると、思いついた観点から.そのように見ても差し支えない現象は存在する)
そんなわけで今日考えたのは、無限小は無限小が無限数集まった場合に無限小になるということ、現代集合論によろしくであるのだが、この余地は第二楽章に十分とってあること
それもこれも嫌いな・苦手なポアンカレが非線形をの文を見かけて(思い出したのは3体問題の懸賞修正の話だったかな)、ヒントを得た昨日から今日の朝、本来ならば真理は単純であるは到達前に混沌から種の形成をした結果ととらえるべきだったのだが.-思考方法はスピンネットワークと同様.
モナドやエンティティでちょっと行き詰まり、そのころスピンネットワークは・ペンローズはインチキ臭いと思っていて(今日ではガンマーバースト観察で証明可能だそうだ)だが、ふと構想自体は了解する羽目になってしまった.(超弦はそれが本命だったのだが)
1990年代でよかったのか、自然が自然であるならば思い当たることがある、そのことに関して結びつきを思わなかったのはミスというより、現実の倫理が作用したことになる.
どうも昔、密着空間に対して無理に区別しようとして、身体異変を構築したようである.かって・・今も?、密着位相の国があるようで、密着の圧力があったか、まだ覚えているある女性の”みんなそういいますよ”は事大主義の同調圧力当然のもでもあったか.しかしクリエイティブに対してはまずい...
生成文法は少しは考えざるを得ないほどに有名人がいるが、認知文法はそうでもない.さて認知文法のグラデーションと普遍性の畳み込み様況を如何にするか.形式主義は部分でしかなくなる、あるいは理不尽が被さっている可能性がある.
イギリスの海岸線はとりあえず不確定まで行けば測れ、その値は有限となる.今日ではプランク定数以下サイズも思考要件になっているが.
”無限集合S に対し、補集合が有限であるようなS の部分集合すべての集まりは S 上のフレシェフィルターと呼ばれる”-無限に対して有限である中間存在はこのようになる.(数学上の文章の解釈によってすでに明瞭な形が出ている、だが数学者はそんな解釈はしていないだろう)
?!間脳の両耳なども考えていた・・・そういえば
精神か肉体か・・昔に少し筋肉などを動かして決定していると端緒は考えていた事に思い至る.今では脳内細胞を意識しつつ判断するという方向も考えられるが、内観にそのようなことを考えたくはない面の方が強くある.
No.4---かくして人は筋肉も動かすのだがその形で決定していることは間違いない
”吉本隆明・言葉はその発生原点に戻るケースがある”いやそれ以上、言葉無き時間まで戻るだろうに、そこには沈黙が生じているかな、なにしろ『奇妙な保管場所』はそういうものだから.ゆえに言語の限界が世界の限界というのは理解しがたいTLP・沈黙しなければならないのは理解できるが.
もっと純度高くとは自己をとらえないのか、そうであるために邪悪なイメージを齎す虚偽意識を発揮(詭弁か虚偽・その演技)するか、カムフラージュのために神聖感覚に依存するのかもしれないが、それ自体やはり下賎なイメージであるので、どうにも先天的資質生理から不可能としかいえそうにない.
全く遅すぎる量子確率、これではある諦念女の生理時間と一致しているに過ぎないではないか、おもしろくもないが時間を待っていた事もあり・・それにしても失敗した灰燼である.証左が残っていないということはないに等しいと普通に人々は考えるだろう.今はその思考形式を用いる感性を全く使っていない
0と1の間でさまようのは古典的とか、確かに0と1には確率がないのは当たり前過ぎていた.がフラクタルと不確定は全く何十年もまえから取り入れ・表明してある.『・・これらはなぜか』は帰結文である.『あれか・これか・それか』も帰結文.今日量子確率過程を考えようという時代になってきたらしい
試験問題で他者に答えのわかっているものをまた不明なものとして考え・記述することは馬鹿馬鹿しい(これが無意識量子力学の寄与)としたあのころ-量子確率論.
フェルミ型は結構偽善にとりつかれているのかも.この陰険生理男は男の演技的性格で、四六時中気取っていたな.不快な陰険生理をごまかすために気取っているのではないかと・・.演技していることがすでにわからない?.もっとも演技をすると責任をとらずに済み気楽に生きていける点が一番なのだろう.
フェルミ粒子自体がどうにも濁ったイメージで、アポロンはもっと清潔な透明体である.またそんなアポロン女性も存在しているのであるが.ゆえに陰険汚濁的生理体に野蛮人いわれるのは心外であるが、野性力は別に捨てない.ただ記憶上障害の言明で不愉快すぎる.こんなタイプは不快な言明を必ず齎す.
陰険な薄汚い身体感覚のある女性もいて、なぜかしつこく憑依的に取り付いている感触を持つしつこい拷問者のようなもの.その濁った生理色をもっときれいにならないものか、濁った生理には毒があるというものなのに.そんな人物はバイタリティはまず強い.傲慢な覇者型人間のパターンをみている事になる
?!フラクタルのエントロピー、エントロピーのフラクタルは漱石の道草で、それは日常ありふれた減衰の転換点
杉林の中の笹は地下茎が発達している筈の小学生はそれをもっとダイナミックに想像した.後に知るDのリゾームに似たイメージを、結局こんな手しかないのか、最も並列形式は当然とは思っている.(知事選が近くなってきたような・・)
過日、調子に乗ったわけでもないが、自伝的(大体自伝的はどこかで宣言してある)な不用意的ツイートをしてしまって、今心理対策を抗じる羽目になっている.削除すべきか、時過ぎればなんでもなくなるでもなさそうな予感もある.というか現実生活に寄与反応が出現してしまって.追憶なのに今に影響が出
ロシアが独自の宇宙ステーションを計画中?、上海機構の協力事案だろう.中国との折衝が問題となるが、宇宙移住が2億人になる時代の後にくる予測上の意識体人間はまずAD3000年でも無理だと今日直感した.ささやかには、行動主義心理学のその名称を初見しただけで愚劣感を覚えた昔があり...
いわゆる破滅型と称される太宰治がそれなりの世代に何故人気あるのか急に- 閃いた感.境界域の場合、境界以前の時間を消去するように境界以後は作用するからという、極普通の事柄なんだけれど.破滅傾向を境界以前と照合させる形として.
そもそも子音を浮かべたとき、キツイのでどうでもいいやとおもった時点で、ハーバード云々は消えていたのでは、その後中学生の時には、英語など誰でも使えるからどうでもいいとも思い、まずこれでだめだ.さらにある学校と教科書が同じと聞いて、これでへんに矜持を発揮して、結局英語は苦手となる.
このどうでもいいやあたりから惰性になったのかも・まさに蛇尾というか・・・.目的はあったのに全くすっかり忘れてしまっていたあのころ、但し無意識には持続していた.そんななんやかやで一歩間違えればあのような人生になったかもというあるギフテッド者の言明の対象者的生存過程を行使している・・
昔ハーバードにいこうかな、とおもいつつ日本の大学などとは言い切れずの思いをしたことがあり、そもそも大を学ぶ?・今でもよくわからない.その後、これを使えばT大に受かる筈(その証左は個人的秘匿として)とおもいつつ、T大にいって何をするのか目的が浮かばず、どうでもいいやとしてしまった→
デュフィのニースの窓辺かな?、昔見た画像で鮮やか過ぎる海の色が印象に残っているタイトルは、今見てみるとニースの窓辺はそんなに鮮やかではないな.サントリーニ島の写真を見ると、デュフィはフォーブでギリシャまで足を伸ばすことは考えなかったのだろうか.
偽善者も善意力(建設的・たとえば類続性とか)を実際にわかっている筈で、責任逃れ的要素が実際には強く作用していそうだ(諸行無常という言葉もあるが、これは宗教用語だったのでは?).演技的性格者はそれゆえ無責任主義ともいえる.XYにもいるので、そんな人物はやはり責任逃れを志向している筈
建設的な事柄は善意であるはずだが、存在証明ならぬ仕事証明や権威にむくつけきもあり、なかなか建設的社会とはいい難い.しかしなれど偽善を齎すその根拠は性意識・いわゆるリビドーにしか求められないと思っていたが、体質自体のセンスや人の存在原理である優越感・優越意識が作用するかもとも.
通時的定性曲線はなんのことはないα型-共同体的であったことに全く気がつかず.ずっとΘ的に考えていたから、いまはα的からθを見てしまっているので、まずい心理情態である.なぜそうであるかはある確実な心理経験があって・である.間違いない自然なのにある存在によって無駄すぎる時間を・・・
プラトンの立体の基本形は正四面体で黄金螺旋とフィットすると、コルニュの螺旋を黄金螺旋に変化させても全く問題はないNo.23.プラトンの幾何学意識がNo.23にくるとはこれは多少問題になる--アブダクション如実で面白みが出現・可能性が登場したということ.
昔に色んな人からアドバイス的な言明を受けたが、それが障害記憶となって煩わしいものになっていて、除去するのが困難な不快となっている.別にそんなものを要求した覚えもなく、余計なお世話として自力観点から邪魔になっている.
中間存在のバイタリティはとにかく自由の邪魔をする・中間存在は中途の制約を受けていて、世界がユートピア事大かニュートン絶対空間(中間存在に無限は不可)に依存している不自由な存在だからなのだが.
逆反応を考えた日に、対称性の破れの案者が5日に死去の記事を読む.交換の意図に反交換はほぼ必ず逆の応答をする.交換からみると疲れてしょうがない.対立は先天的特質上消えず、反交換は交換をできずに交換を引き裂くように反応・応答をするために.
昔ES、遊びながらコンクリートの防護壁のところで、0101・・11111・・・とかの羅列を浮かべたとき、とてもこんな記号値を気にすることはできないと思ったのである.それが16進数表現とかになっている今日以前から.--久しぶりにちょっと古き数学辞典を開いてみようとして記憶を思いだす
摂動に対して、ゆらぎかフラクタルかといったところだな.摂動自体はそれはそれでよかったが、摂動以外の示唆もまた強かった.なぜそのとき回帰を考えたのか以前に少し理解を持った気がするが、忘れている.摂動域以外でもっと詳しくといった想い.
”アインシュタイン-観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在する”-これは当たり前だろう.これを認めないのは屁理屈を述べているとしか考えられない.観測したときに実在するは、実在していたものをその時に捉えたということで、単に独立した世界を普段は全く気にしていないということ
フラクソンは1961年だったか、摂動はいいとして回帰を考えてしまう場合は超流動へのいざないだったか.摂動に関してフラクタル的意図であったように思う.これは完備の1形式を想起させて.
マイスナー効果・1933年--帰納はここでは成立しないという感触を得たが・・
因果律の証明はむずかしいところもあるが、独立に存在していることは否定できない.ただし人はそれを行使しているにもかかわらず無視することもできる点で、すったもんだが出てくる.
英語はSVであるが実際にSVではないかと漸く捉えた.説明というのとは方向が違うのではないか.後は関係分析がある.ちなみに子音で悩んだのは小学校5年生の時であるから、個人的基準からは小学校5年生から英語を始めてもよいのではないかと思うのである.
メラトニンで思いだす昔は、限りなく鮮やかなブルーのクロノスイメージ
ESで遠慮しなければよかったと思うことは、量子に関していくらなんでもまだはやいだろうと思って考えるのを止めてしまったこと(通底では進んでいたかな)と子音の連続を浮かべたときキツイので、別これは意味ないだろうと思ってやめたこと(その結果英語が苦手に・英語の成り立ちなど知る由なく)
基本的発想のほとんどは義務教育時代、それからx年も重要だが・・・
日本という国は釈迦にとって特筆すべき国なのか、特異点なのか.末法的状況なら縄文末期がそのようなはずで、もっとも仏教などはまだ存在していなかった.日本に宗教があるのなら縄文教がもっともふさわしいはず.在日諸外国人の違和感は縄文教とでもいうべき底流を取り込むことができないからだろう
昔、深淵に方向が別にあると浮かべた時きつかった.可換のインスタントンと非可換のインスタントンは異なると今--インスタントンの線形感覚が気になっていたが、不確定的インスタントンはおもしろい.
クォークが見えず、無限力がそれを示唆しているとすると、すでに小さな領域に無限が成立していることになる.クォークの無限遠は内部であるという仮定が..(無限力雰囲気想定で)
小学生の時から天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずが疑念で、告白を浮かべたのは中学生になってからだが、或る書物に教育を受けなければ・・とあるらしい.つまり教育や勉強をしない人もまま多くいるはずで、その書物はそのような人に対しては造ることになる.
インスタントンはディラックにでてくる.結局あの建物の2階の廊下でディラックをどうしようかで保留・避けた形は、今頃になって避けられないものとなっている.3次元のラプラシアンを考えていなかったような雲間草、k/4では彼女はまとまりすぎていたかも.
真理に関してはある女性がいてむしろ専門的存在とみて、真理発言をしても貰わないとだが、擁護して真理域思考をするのにも疲れて止めたことがある.この女性は自らの才能の自覚をそのときにはしていなかったが、潜在的には確証していたようである.今は?.
ハイデッガーの詩は、存在の真理に近づく考えや発言で、バタイユのように想像力を用いた神話象徴のものではないと、そんな考え方もあったのか、このところで非常に悩んでいる自ら徐に記述した・考えた詩的言明について、ハイデッガー風には問題のないことになる.
ミラー対称性?!、特性方程式にちょっとはヒントの要素があるかなと、がしかし違うな.カオスではなくて混沌方程式があれば、しかしながらブルバキなんぞがあって、方程式は整序力が強く.
深淵の双対--超準の無限小の双対はやはり想像しがたいというか、考えたくない何か抑制力が働いている.双対より表裏・補空間か鏡映か.鏡映より共役?
ペンローズによってまた煩わしくも深淵の双対などを考えてしまった.考え自体はおもしろいのだが.ペンローズのようにホワイトホールになってしまうことも考えるなやはり.それで相転移に無限がなんらかの形で関係しているのではとも思いつく.ありそうな話では?.
”完全な無限級数が考慮される極限においてのみ、時空は”突然に”曲がるのである.”--この辺から深淵の双対を思いつく.深淵の双対ならばなんらかのものが実在するかも知れないので.複素よりここは深淵に対してブラックホールをどうするかの方が浮かぶが、これも物理学者達がすでに考えている筈
まあ見えない6次元もその考え方自体は浮かべたが、その先の思考は止めてしまった若き日があるから、近年に見るヤンミルの図像は何か芸術的とも思ったことがある.
人文と自然科学がインスタントンで結びつきそうな考えが浮かんできた.社会科学がインスタントン化をしているのではとか(実際にはインスタントンはよくわからない、イメージで追っている.インスタントン的なある何かといったところで).
ただその思いつきを考えていた暗黒空間での差異の映像時はきつく、途中で思考を止めてしまったまま-が、インスタントンで思い出させるとは.(大体、強靭は柔軟対処はいいのだけれど、一定パターンの連続の閉鎖束縛はきつく、不愉快な有限障害意識がそこにあって)
パラメーターが極限0で可換になる--昔考えた4種の特性方程式について、関係ありそうな気もあるけれど、イメージが異なる.インスタントンは裏の建物の2階で思いついてしまった暗黒空間の一定値連続のイメージである.これは強靭のイメージとも似ている.それでおもしろくないと思った-
神の能力は自由自在で万能ということになっているのに、それぞれの宗教には戒律とかの制約があり、不自由の束縛があるのは神意識にずれがあるのではないか.神自体に多様性があるとしか設定できないことになる.宗教多様論が成立する.
『余裕の挫折で終止符が打たれた』と筆が滑ったことに関して例を述べれば、マルクスの資本論とハイデッガーの存在と時間が浮かんだ.これらは未完成にもかかわらず、今日「説得力を持って膾炙されている」ものである.前者は追記述があったらしいが.そんなつもりであったが、諸々ゆえに秘匿に・・・
ヘーゲルのようにシャルダン的にオメガ点を設定してはいないがしかし・・
なぜ阿弥陀でなければならないのか、日蓮も強制的なことを述べている.これは宗教という存在に絶対的力意識を持たせる本質的出来事のようである.心理学は魂をもてあそぶところがないかと若き日に思った事がある、それを宗教にあてはめると魂の自由を強制的に束縛してしまう・・・
超弦の進み方はまず遅いはずであると昔に、それは他者まかせであるのだがかなりの比重を意識してある.これNo.23に十分来ることに気がつく.
20:80で80の方が中間存在とすると、マルクスが世界を変えるという時の倣いから、20を中間存在として80を中間存在以外とすれば、確実に世界は変わる.がその方法と時間のかかり方は未定
ペンローズ図は形式的にネーターでそろえたのか、中身は対称的意味合いだけれど.特異点と別宇宙の関係が未定のキーポイントという想いである.
今となっては不必要な忍耐をしていたのだが、そのしがらみを自己自身で作って漸く外れた.何年かかったことだろう.覚悟が必要だったのだが、出来得ない心理感情があった(雑念といえば雑念であるが)
昔、史記狂の人物がいたな、全く変わった人物なのかスケールが大きいのか判然とはしなかった.なんらかの実績をそのごあげたみたいだが、史記があれだけ述べていても、それ以外にも多書あるのに現中国は他聞によれば、さほど昔と変わってはいなそうだ.人間は徐々にしか変化しないものと見える.
No.26に勇気のなさで、妥協した『像変遷』という言葉での認識、あまりにも当たり前過ぎてつまらないとは思ったが、その後どうしてもこの言葉が消えない.それだけ有効ということなんだけれど・・.編年体や紀伝体で未来の事象も記述されることは、しばらくの間確かなことである.
時間には、心理的・生理的・物理的がある、ゆえに身体も心理的か生理的か物理的かであるような特徴優位の人間が実在する.
抵抗権の担い手に公権力もなる・・とは、それ以前の市民的不服従は承認に値する原理に国家が依拠している場合のみとハーバーマス.--しかしアローの定理が成立するので、承認に値する原理は全体を被覆しない.さてそれならばとするとむずかしい.
悪魔は、人は呼吸しなければ生きていけないということを強調したとした表現と解釈してみると、そんなことは誰でも知っていることであり、誰でも同じことであるをことさら人々は日常において強調自覚を別にしていない.
”神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)”--聖書でもっとも重要なと思うこの”ご自身のかたちとして創造された”から、人の脳内現象は現宇宙の現象と似ているなと最近考え出している.
宇宙・・・地球上の類としての存在は単純明快に宇宙の摂理によって動いていると認識できる.もろもろの現象も・情況もその根拠を摂理に拠っているとしても間違いではないと現宇宙的には考えることができる.
”国家に奉仕するという方が通りがよい”そうだな、それで厄介な秩序維持者=共同体同調思考が幅を持っているわけだ.それらの人々にとっては権力・権威保持者になる形なので、優越感をまたそうでない人々に持てるからでもある.被対象者がいなければ無理やりにも作り出す傾向のあるところもあり...
意味を汲み取ろうとするが果てしなき徒労を齎すだけ
倒錯思考・でたらめ思考の主張などに同情する無意味すぎる6段階
個人・個体の生存を決定する・決定しているのは、思想の思想たる所以ということは、***の時からわかっている.たとえば人の考えを変える事はできないは、ここから演繹できる.
ともかく1972年・から2.3年も用意して・が転換点という考えの根拠がわからない.個人的にはそうだとすると有益になるが、早くその考え方を知れば徒労をせずに済んだものをという想いも当然ある.つい最近に知ったばかり・・・
南部の自発的対称性の破れには価値のあることがわかった.
300人でも多いのではないか?・は、システムから容易(?)に登場してくる
そもそも性悪はどこまでいっても性悪ではないのか、仏教の修行ならなんとかかもだが、ふつうに煩悩の塊はなかなかで、現存在は未完に終わるや中間存在は一生中間という中途半端にしかならないことが決定している・またその数が多く80%かも.ゆえに形式上修業終わりという○○が繁栄することになる?
ゲーデルの不完全性定理を離散4種・フラクタル化とか思いついた.若き日の特性方程式の4種は4次元や5次方程式解不可や3次元球面とかに結びつけることができると考え付き、全くあの寮の近くでよく(ごく自然にだが)浮かべたものだ.
ディラックや微分方程式を避けていた事が時間ロスを構築したことは否めない.ブラケット浮かべは権利十分ではないか.有限時間で爆発する方程式を最近知ったばかり、ナイスな事だ.
惰性群より極大イデアル意識なのだろうけれど、違うのである.アルファの色彩がそうさせていることはわかる.
俊才・俊才はどうでも・・遠い昔に考えたことがおぼろに有りて、何年かかって思いついたことか、ある大学に俊才ならなんとかでなくても合格することはできるはずであると.全く昔に処理していたことがわからず何十年も無意味・無駄な時を過ごしてしまうのである.惰性を要請するXX達の一人としての
αは共同的、Θは個体的、αはまず誰でも対処する筈で、、構想はしたけれどΘ専らしか考えていない.時代はαがΘに近づいてきているのは読みどおりだ.
ハイイメージ論の南島ものは少し頭脳に刺激域を齎すのでいいかなとは思ったが、実存的暗黒で頭痛き刺激がしているようで(文章の硬さ・固さが趣味に合わない)、その部位意識を消去しないと
境界域までに人間の歴史を辿るのならば、言語発生時期も通過するはずで、無論無言語時間も通過することになっている.経過に持っている言語発生時期を思い出せば、理性言語ではなくて未発達言語を人は用いることは可能である.遡れば沈黙は無言語時期ともいえるが、空間意識が入っていない考え方とも
ゆえに中間存在は絶対空間のユートピアンと思える.それは無限に対して抑圧を齎す.(有限身体がそのように考えている)-抑圧・あたかも有限身体は有限しか考えないのは当然であるかのように.
おっと気がついた、デイラックのδ分離はランダム・ウォークの消散象徴形式としてもよいのではないか.
逆というより乗っ取り的存在も多く、自我の妨害をしてくるものである.今まで乗っ取り的存在に気がつかず尊重して自我疎外を構築し過ぎてしまって、その修正を試みているがその傲岸な塊体により困難を来たしている.
30
揺らぎ成分が斥力を透過的にして原点に戻るというニュートリノ的要素を考えることができるので、ある人物の言葉が退行以上をして発生起源点に戻るという考え方ができないわけでもなさそうだ.でも場を直ぐに考えてしまうな.あるいは時間経過を.
射影としての筒集合を中間存在に設定できる-拡大ができるとなると、実際にそうなればだが、内部存在として拡大意識はニュートン的心理を伺う.
「かってなく、また決してありえないもの」は埴谷雄高の不滅に対する哲学的意識・自己矜持なことは明らか過ぎる.
思いだすのは『余裕の挫折で終止符が打たれた』などと筆が滑ってしまったことである.別に挫折したわけでも終止したわけでもないのに、ちょっとした現状補足を付け足したもろもろの事柄が、非常に重要な意味合いを帯びてしまう・のはまたなぜなのか.
”大江健三郎--『死霊』は未定稿をふくむ九章で完結したのであり、この作品は「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」だ”これはいえる.ロマンス小説とも.”『死霊』を書きつぐ埴谷さんの力の終りを意味しても、『死霊』の終りを意味しない”という意見も賛同できる.
自由運動から自発的対称の破れで何処かで相転移が起きて有限になる-中間存在は相転移の結果?、で有限な中間存在に自由を与えようとするのは逆行になる?などと考えてしまう相転移.相転移に関して思いつくのはパーコレーション傾向、ただその細かさはペンローズのように小さいかも.-限子なる考え-
”たとえば粒子1が原点に固定されているような場合には,右辺の 2 倍の因子が現れない”--こんな文章が非常にヒントになる.揺動力は全く思いもしなかったというか、気がつかなかった.十分その視点意識は多面では持っていたのに.
他者の言明によって頭が麻痺するということは、調和・均衡の視点からは、他者が麻痺的存在であるということになる.
オルガネラのブラウン運動に対する重力の影響発生事象が存在すると・・でちょっと個体差が生じるとは直ぐに考えられて、心理的な判断からはなかなかとらえられなかった視点を得たことになる.
爆発方程式の時間や離散構造などを眺めていると、「芸術は爆発だ」といった人物の言明は当たっている.
fleshボディの不快さがある.強靭な粘性柔軟肉の不透明さは、邪悪でなければ未熟という未達明らかすぎるだろう.一般に無私は透明的
今、メルロ・ポンティの概要を眺めていると、メルロ・ポンティは小説家としてすばらしいという想いがしている.めずらしく数多き面白い意味ある文章内容の小説として.
幼き日に、Kの道の他家の畑の縁で、蓼食う虫も好き好きが浮かんだ時、感覚ではなくて知覚をどうするかも浮かんだ.この感覚的なもののリアルな意識を.若き日に知覚の現象学を読む時間がなくてはこのことに起因しているようだ.
”それは二つの存在の間において、「事物の言葉」として──すなわち「沈黙の声」の呼びかけとして──生まれてくるような超越的な意味である。”--沈黙の声の呼びかけか、システムの場は一応沈黙している.ただし動くと複雑すぎる.
ロシアαリトアニア侵攻でも明瞭な決断ができなかった、それに対して以上に個人的予知を思っていたからでもあるが、ソビエト変化は昔から考えていて、その後にその示唆意識は内的顕在化として個人的流血意識を持ったことは、不自然であることにさほどの意識を持たなかったことも、今では大失敗だった.
”街々の建築のかげで風は突然生理のようにおちていった”此の文章を目にしたとき、不快なおもいを感じたのは、生理のようにという表現で、そこには叙事的認識を感じたからに違いない.なんというか抒情感がない生理構造の持ち主としておもしろみがないと.
別の作家に何回か会って、そのときの話の中で、世界を狭くする言明を聞いて、その処理に長いことかかったが、ふと
昨日に<しらけた言明>ということで処理できた感がある.<しらけた言明>を受けているケースは他にも多くあるが、記憶の邪魔は複数ある.確かに<しらけ>で統一はできるが.
そういえばその面において若き日にそんな性格面もあることを思い出した.鋭さというのは切断をしてそれで終わりで延長がないのでおもしろくないと思ったのは、義務教育の日.その後に極点というものがあり、少なくともこの極点を理解・了解していたと考えられる作家に一度短分会ったことがある.
考えると宗教戦争は他宗教との殉教の戦いであった.流血が最も特徴なのは女性の生理構造であるのだが、理念から・ほぼ殉教的色彩を帯びた・戦いが始まることもあった.
常微分は複雑混沌を予期させるので敬遠して、非線形をとか若き日.非線形の方が困難なのは日常当たり前には思っていることになっているが、常微分の混沌複雑に際して、爆発を思い出してチェックしてみると、なんというか値が∞になるということではないか、半線形・準線形など・・
覇者型や叙事的人間・A期的は征服欲強いが、思考はどうも単純素直なところがある.これは男女にもいえる・つまり女性にもA期・G期以前しか認知できない・存在が数多くいるようである.単純素直さで足りないところはひねりや虚偽性が入ってくるが、ともかく直情的傾向は強い.
宗教戦争は言わずもがなで、戦争は宗教の流血特徴からくると、世界の宗教パワーから判断してみた.
「智に働けば角が立つ」は智を働かすのは20%で角を立てるのは80%という例の法則を考えてみた.情に棹さして流血自体を数多く構築し、意地を通せばは偽善の要求が強すぎると、(意地を通せないので窮屈である考え方もあるのだが)
中間存在のブラウン頭・映像はどうみても原点回帰するゆえに、いつまでも不自由な不快さを感じることという解釈になる.消散する頭は非自然科学的なイメージを持つと思えるが判然としないので・おそらくそうだろうと.(-苛立つXX種に対する考察-)
記憶からは減衰振動と消散が浮かぶ.縮小・縮減であるならばそうであるが、実際にそのように考えるらしい.位置エネルギー・ポテンシャルが消えるということと考えると、別に相転移的は領域カバーによるとなって・・(大体解けたかな・・)
アンナ・カレーニナの分析は、双対がまず浮かび、アンナカップルはランダム粒子で極大イデアルが登場する場面もあるらしい(読んだことはないが、有名すぎる「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」自体よくわからない.幸福とは一様であることになるが・・)
”三次元以上のブラウン運動の軌道は、 時間の経過とともに無限遠点に消散すること-1944年・角谷静夫”なんと1944年とは、相似はフラクタルを意図していたような.アンナカレーニナの幸福な家庭は・・を考えていた場所で、合同とか考えていた中学生、フラクタルは知らなかった.
摂理は人の場合鮮やかに快感を与えて制御している.
自由には責任があるから、宗教に責任があるまでいくことになる.
まあ限界外でなくても理解可能なものもあるが、時間短縮作用も十分なので、展開すると何十年も有効であるようにしたものが、No.xで示すところのもの.(有効であるか否かは毎日チェック中).タイトルを不明にしておいて、推理のミステリアス保存もたしなみとして展開中・およそ推測がつく場合も?
アドレッセンスといえば、べつにそうではない認識であるが、昔に『限界外で判断してくれ、そうすればそこにいる』と宣言していた筈が、内面で個人的に思っていただけのようであった.普通人は限界外で思考できないのだが・・さすれば理解できると.
私とは他人である-ランボー、私とはあたかも他人に思えるほどに私であるという解釈しかできない.私が死体になると実際には他人が死んだことになる事は全くありえないことである.
自由には責任がある--から、自由には自己責任があるとすると、権力的自由責任に犠牲があるわけではない.優越感にも自己責任がある・・
”ブラウン運動の非保存性は、(フーリエの熱方程式に従う)熱や確率過程が無限伝播速度をもつことと密接に関係します”--ヒント
グルーのパラドックスは超準解析が無限小をいっても、ペンローズがフラクタル素子を述べても、デデキントが切断をしても区別ができない思考対象をかって設定せざるを得ず、無限下降の哲学対象の存在となりて.
”規則は、われわれが受け入れたくない推理をもたらすとき、修正され、推理は、われわれが修正したくない規則を破るとき、拒絶される”--拒絶される・・前提にある、理解されない・その実践も困難は.
”小説家の幸田露伴は贄川宿から望む情景はスイスに似ていると「知々夫紀行」に記している”--多分にこの風景のところ、今まで行ったところではここと、京都・周山街道の小雨に煙る京北の道を振り返ったところの2箇所のみ、日本画の風景が実際にあるなと想ったところなのである.
しかし内的時空などと考えて『保管場所』を意図すると物理主義的になってつまらなくなるものである.安易な気分になる事は確かだが、深淵の快楽はなくなる...
エントロピーという概念は一様だけれど、エントロピーの内容は一様ではない.一様に変化はしない.
心的現象論序説の覚醒時の領域⊃入眠時の領域⊃夢形像の領域という同心円図を考えて(個別考察は目にしていない中で)、夢を覚えている場合はこれら3種が一点域に集まっているとすると、同心円構造からはずれる.ABC予想のように同心円を動ける第4の構造を直感しているが.それは段階より構造的
内的時空なるアイデアが浮かんだ.No.23あたりに使える.人が持っている歴史が保管されている場所を客観的に表現した場合であるから、心理的な懊悩はあまり気にしなくてすむ.
宗教の特徴は瞑想と流血と殉教だから、これを宗教に限らず現実の事象に全く適用して差し支えない.また現実はこれらの組み合わせになることもまた多いのである.
昔、坂道を登りながらかく考えた、殉教-わからない・確信を得ない.(信仰に殉じて死去することとあるが)、生きているので実際には体感出来得ないということだったのか..生前に対する・生きている当人に対する殉教意識は・・そうか戒律ということなのか・・はともかく信仰=生存のように設定すると
中間存在は不快といいつつ、身体の生存には中庸・バランスが必要で、ただ芸術的観点からは中間存在は否というしかない.芸術は役に立たないというのは非芸術的数があまりにも多くいるからではないか.とにかく日常には芸術はあまりでてこない、芸術的といえる技術・才能がそう多くいるとは思えない
システムネットワークで3次元+1を設定してみると思いついたらこれを思いだした--『見えない目よ粗い目よ-No.10より』
はっと気がついた、脊髄反射は行動以外には考えられないではないか、行動主義の文字を最初にみたときに苦笑の愚劣さを感じたのは・・
縄文中期のみならず、ネアンデルタール・デニソワ人以前の原人も弁証法を用いていたことは確かだろう.
”カミュは不条理を<非合理な世界と明晰を求める人間の共存の中での対立関係>と定義”--これは想像力は理性の邪魔をするというパスカルと同じことを述べている.仏の伝統も何もあったものではないカミュの社会科学的側面を見る
無限がもつれる・ボルヘス--やはりギターは無限を離散化するように思える(単なる契機としてならある)ので、ヴァイオリンでないと無限はもつれないのではないか-個人的直感認識故もあり
ドン・キホーテという物語は一体なんなのだろう.昔姪に頼んで借りてきてもらって読もうとしたことがあったが、長すぎて読む気もせず.風車とロバとサンチョとなにか昔の騎士道小説を読んで、気がふれたというまずこのあり得ない設定がわからない.考えるに宗教コメディ物語かな.
No.24 宿業とシステムとクリプキの条件付き解決パラドックスを入れておく.
無知・無理解・誤解は意味なき弁証法作用を強制・強要する無自覚・無責任を有する.
ただし無知(一生の場合もある)な原始心性は自覚に時間がかかることもありそうな無責任は無責任である.
私は私である自我トートロジーの剽窃・模倣・乗っ取り的な所為で、対象自我存在者を歪める存在者たちは、自己欺瞞的な無責任を行っていると想定する、そうなると無責任は無責任であるというトートロジーにぶつかり、そのような所為自体の成立がなくなることになると考えた.
カントの第二のアンチノミーから、無限小の無限小はまた無限小であるので、原子命題はもちろんのこと、ペンローズのスピンネットワークも思考要請であって・・・、マルクスの対象が生きだすということになってもいいのだけれど・・
双曲線が無限遠点で漸近線に近づくということは、双曲線は無限の彼方でゼロになるというこれもまたポテンシャルと同様だったのか.3番目の懸念は無意識に双曲線を示唆していたかなという、つまらないある若き冬の日のおもむろに詩的文章を描いた内容に、自縄自縛の憂き目にあって、まだ問題点があり
超離散化といって、普通の人は差分的に思考するはごく自然な直観普通すぎることだったのだが、悟性的人間は差分思考をする・あるいは老子の俗人もまた差分思考をしそうだな.
いわゆるその所作は、名状しがたい不快故に発生してきているもの、このXXの実在感をなぜか他者達は想定できずの、ここにまた愚劣な馬鹿馬鹿しさが逆パンドラの上に重なって成立してくる二重三重のくだらなさというわけだ.そもそもこの無理解・誤解を行使する他者たちの存在理由は何なんだ?.
No.23 人間に傲慢があると想定外という認識が発生するか、それとも謙虚であると発生するのか
宗教の戒律というのは服従の強制ではないか、似たようなものをレーニンが述べていたかも
No.17 規則のパラドックスはいわゆる帰納の結論として部分的な要素を取り入れての解決というのは致し方ないだろう.極論として今ある秩序が正当なものとは言えないということにもなってしまう・・・
No.17 哲学探究は帰納の未然的結論なしからは意味がないように思うのだが、フラクタル的には十分満足できるもの.帰納は自然に現実上登場するから、その帰納過程についての考察としてならモデルとして意味がある.
芸術的な人間は勝手なことをやるものだ-という意見は、ホッブスの万人の闘争を念頭に置いていて、なおかつ自らは自由の責任を回避している発言と解釈する.
No.17「語りえぬものの前では沈黙しなければならない」から、哲学は蠅取りツボなんぞになっていないことがよくわかる.沈黙してしまっては哲学の敗退は明らか過ぎるので.ゆえに哲学探究という努力の跡の成立は評価できるが、ほぼ無意味といえなくもない.
No.21にbeingを記録しておく.与太郎や与太子たちのバカ力バイタリティによって、自らの記憶をふざけて消失させてしまうことが多き故.
立石寺のところの奥の細道文章は読ませるな.おやっと思った、奥の細道を通読してもよさそうな書物かも.その昔若き日に、書物なんぞはあとがきを読むだけで沢山だとそれ以来まあ大体そんなところだ.
「剛よく柔を断つ」は後に対句的に加えられたのか?となると今日の考えがあやふやになる.つまりこう考えた.「柔能く剛を制す」・「剛よく柔を断つ」に対して、<有機よく無機を制す・無機よく有機を断つ>にして成立しないかと、そう考えると都合よいことがあって・・
もし言葉が原初の発生時期に戻るとしたら、それは通底底流している先験的・先天的領域のなにがしかがクローズアップされた場合と考える.個人にせよ集団にせよ元型的なものは流れていると思う.
みんな同じようにというある主体の考え方は消極的自由的社会主義ともいえなくもないな.ある時代の楽園的の時経ての趣ともいえる.
現実は決断の連続とはある人物のある時の発言ということをよく覚えているのだが、それらとも関連して、情況が決定するということは事実化になったということで、例の紀伝体項目に載るというなことでもあり、結果論的には後世からは単なる事実ということになっている.ただ心理判断はそうでもない・・
共産主義が成立した世界は聖人のみ存在している世界しか今のところ考えられない・もしくは高度に道徳力ある人間たちのみの世界をしか.それを共産主義とは言わずに聖人主義とでも言えなくもない.もっとも神話における神々も争ったという話があるが、宗教の世界には高度の道徳者たちは存在してはいる
それにしても無限遠点のみで-∞がない実射影はどんなに0に近づいても-にはならないと想定するがどうなんだろう.常に+であるということは精神の経験時間・生理時間によって複雑になるばかりであるということでもあるか.射影-は常に有限内部に収まるが、実際に射影の消滅がないとはいえないので?
運動量一定は、どのような場合でも一定エネルギーしか用いないので、一定エネルギー以上の忙しく負荷のかかる処理対象に関して、他者の援用を必然とする.かくして人が増えると仕事が増えるのは運動量一定によることになる.
A期的存在は明晰を好むのだった、正確な解答の出る試験問題なら偽善色彩があろうとパスすることは可能であることにようやく気が付く.なお、うんざりするワンパターン存在も運動量一定実在とまず見ることのできる証左がわかっていたことにも気が付いた.
No.23に関してアインシュタインの相対性理論は哲学である.-という文章は成立する.
No.22とハイデッガーの原存在はヴィトゲンシュタインのTLPのある項目であってもよいとする.とにかく普通に考えると超越の壁が現存在一般に引き戻しを行うことは現状歴然としているゆえに.
No.16に関してまま妥協できるアイデアを思い付いた.でもこれは現象上似ているものが多数ある、その中でもインターネットが最も例として出せる.宇宙ケースもあるが・・
春の燕の出るころの生温かさは不気味な感触を与えるが、黒く常に夜のような人間は多少不気味さにも似て、タナトス型人間であろうと気が付いた.おそらくあたっているだろう、そのようにしか実在判断ができないから.
疎外がマルクスの言うような対象であるとするならば、疎外となった対象の歴史が唯物的始まっていることになると考えると、経済に道徳はないわけではないが、それは分けていると考えたい、そうでなければ叙事的対象である経済であるということだ.ここでは疎外対象が資本主義的に進んでいるとするが.
悪人正機説は、悪人ならより阿弥陀の慈悲心をリアルにはありがたく思うはずである(善人よりかは)という、エゴ的な親鸞を垣間見るが.エゴイズムではなく真摯な思いから悪人正機説を表現したかもしれないが.最も宿業からはそのような凡俗心は排除になるが、では宿業はなぜ成立するのかと言ったら??
無限遠点射影空間とNo.3の自由度は似ている.ニュートン的ともいえるが通底した意図はあったはず.それにしても射影型人間に一様に付随している陰険さは不快すぎる.明るさが欠如しているがバイタリティはあるな.大体バイタリティ型は身体的・パンのみが優位するタイプと相場が決まっている.
仏教にサイクリック宇宙論があったのは知らなかった、そうであるあるならば末法の世というのは単にサイクルの部分でしかないので、説得力に欠けることになるが
現宇宙は内部であるから外側を自由に動けることができると、内部を見てタイムマシンとか内部宇宙時間に対して未来も過去も見ることができる設定になる.
射影平面では平行線は存在しない--それでフェルミ型陰険存在の強調発言がしつこく追いかけてくるのか、フェルミ型はまた射影型人間ともいえるので.延々と交点化を要求するのが自然ということなんだ.辟易するしつこさと射影ユダ型はまた権力束縛をしたがるものでもある.窮屈で自然を歪め過ぎる.
一応拡張実数と有限実数に対して区別をするのか、拡張実数が基本であり普通でありではないのか.まああのころ・小4・数直線に無限大の付加は考えてはいなかった.ただし・・・
書は確かにアレンジだな、言うねえ.規則のアレンジ・文字もそうなのだが語を重ねて・並べて・結合させて言葉を形成しないと・待たした時があった.誰もそれを剽窃する者が今までいない.単に罪の意識の忍耐自己分析を剽窃して、それをオリジナル当人に述べる存在は多くいる.しかもそれが普通と全く否
甘えの構造を避けようとすると確かに日本ではきついものがある.プライバシーを平然と壊してくるあるいは逆が当たり前の自己疎外の要求もしてくる-この自己疎外は自己認識の大いなる邪魔になるもので、配慮がないとは常に感じている.
相転移は劈開やダイヤモンド崩壊としてみると、ペンローズ蓄積電子でもない見方をできるのではないか、相変わらずNo.16の未完の不快部分が未完ゆえに刺激している.海馬を刺激する発火反応と考えると本能が危険予知を発してくる.でもこの辺も関係してくる予感はある.脊髄反射では味がない.
そんなわけでなぜハイネなのかわからず、チェックをしていてあのボワーンとしたフィヒテやサンシモン・カントが登場したわけである.フィヒテも結構まともな考え方をしていたではないか、シェリングは最初から導入しているのだが.
その時に浮かべたハイネの名を口に出すことができず、ちょっと鬱的イメージのハイネをなぜ浮かべたのかわからず、まあ精神現象学でも読めばも浮かべたが口には出さず.ちょっと陰険体質のいささか汚い体質の個的には愚劣な存在と思った対象.睥睨カザノヴァ型かな.
定義というものの制約に悩んだ小学6年生がいた.長じて好みの女性に判断をつけることができなかった苦い思い出を持っているようである.なぜならば彼女は定義的存在と思ったからである.単純には非線形が邪魔をしたのであるが.
定言は純粋実践理性だったのか、実践理性が前提するものは物自体とは、倫理は16・17歳くらいでは難しい対象であるとその年には思ったのだが、カント的にはまず正解であると言っても差し支えないといってもいいようである.なお社会的に有利な職業は裁判官であるとその2・3年後には考えた.
そうか関係は『前提**・・・』の範疇対象でもあったことに気が付いた.というよりむしろ『前提**・・・』考察でよかったことになる.ゆえにあるX人物はどうでもいいということで、大いに無駄をしすぎたのである.結局最初からそう思っていたので、単に無意味な時間を過ごしすぎたことになった.
理性と想像力の桎梏で自己戦いをしているがどうやら双方とも自然な趣でたしなみは都合よさそうな雰囲気になることになりそうだ.哲学は芸術を認めるが、非芸術は認めないといったことも自己戦い中のことでほぼ結論は正解となりそうだ.
定性通時的メロディ線描的の厳しすぎる映像に2度も辟易したことがあるが、何のことはないいざその情態に身体感覚を覚えたら厳しくはなく快感的なものであった.所詮というか何しろ自己内部の映像で確認の結果全く厳しくはなかったのである.推定違いとは何とも時を悪戯に過ごす羽目になったものだ.
特にカザノヴァ型存在はそのこと・実践理性優位に関して近視眼的であろうと当然と思うことだろう.何も石をパンに変えろというのは実践理性を強調するとかいうより無視できない状態にあるという規定的なものであろう.
内部形態でバリアが強い領域があるとすると、その領域はユートピア的であることに気が付いた.何年何十年このことに関して不思議だわからないと考えたことだろう.イメージはそうでもないのだが論理的帰結はそうなる.
いろいろ悩んでいる意味なき無駄を要請する発言をした人物たちは、自己否定をするのは非常に困難だろうが、実際はそれが現実なのである.そう調子づいてエゴを発揮したけれどそのエゴはくだらないものだったのが実際の現実なのに、まず認めることはできないだろうなそんな精神レベルにすぎないから.
そんなわけで昨日から考えて、日本人には『天教』なる宗教が通底しているに至った.No.30をこれにするか、あるいは非公式に新宗教とするとか考えは弾む
宿業や思し召しや関係は位相が似ていると判断したが、まさか宗教的なものを登場させる羽目になるとは全く考えていず、気にはなるがさっぱりわからなかったわけだ.深いというよりやはり超越的な考え方であった.まず文章がつながるのでこの辺でいいだろう、なんとなく次が大変だという気もするが.
なんというかYにとって思想は宗教的な位相で、もしくは宗教の無神論的転化であるようである.これに関して第二楽章より『べらぼうという魚がいる.食べたくはないが魚のにおいがする(ちょっと幻覚的な感触を持ったが、川べりの小道を歩いていてそう思ったのであながち))』を思い出した.
現に生きている人間実在として単体的認識位相からは、個人という単体を超えた存在を考えるのはある種の人物達には必定ということだろう.また普通にひとは神も仏もいないのかという心理を誰でも持つことはできる.
ハイデッガーの世界内存在は人間関係存在的であるから、無機的宇宙を加味するならば、とりあえず宇宙内存在と人間をしてみると、人間関係存在を超えた関係の寄与を想定できる.これも個々人は有限生理・物理体であるからといえる.ここに心を持ちえた人間は手繰れば無機的宇宙に接続しているが、
Yは超理性や純粋知覚はないと言っていた、だが超理性があるとしたらどうだろうか(はっはっは..)・Yの映像から受ける後の直感では、Yは超理性の理解はできかねる実存在体人間であると認知した.
カルマか、㋅の薄雨の小林の小道を歩きながら想起した昔、きつい・深淵を抉ってしまうので考えるのをやめた歩みの先で、そぼ降る雨を眺めながら時が止まる構造を見ることになった思い出がある.この心理パターンは今でもよく使う.雨は降っているが構造を見ているので透過していると.
なるほどなるほど関係の絶対性と親鸞の宿業か、ここでスピノザの神の決定論を想起するのだがどうだろう.神の決定論を無神論の決定論と解釈してみると・・.大体宿業となると業・カルマを普通に想起する.
論理的には自由な意思の選択という相対性を成立させる場というか因子の世界というか、その位相においての思考内容というものでありそうな.
Yの関係は本質としていいかな、フッサールのエポケーは本質の前では必要ないものとするところの本質(あるときこの本質位相でさえ捨象してみたことあって、頭脳に狂いを生じさせてしまったことがある・愚かな・・・)としてみてもよさそうなNo.1
なにかペレルマンのポアンカレ予想解決側タッチになってきた.大昔(有効度合は現在的と設定中)に『位相差を持つ層状組織である』と考えてあるのに、応用・展開・結び付けがうまくいかずという面も考慮して.
フェルミ型とボーズ型で超対称性という考え方は、いまのところ弁証法の基礎を構築しているとして差し支えなさそうである.
マンハイムの思想の存在被拘束性はそう思うな.思想が自由なのはそれを本人が構築するまでで、構築した思想は捨てる・除去しない限り宗教の戒律のように本人に保存されるはずである.
あるひとつの縦構造を考えていると、ふと全体としてパーコレーション構造体になっているかなと
とにかく他者たちから不自然に自虐を要請されること多く、不快である.もっとも超常的に自己自虐をすることもあり・その理由根拠が全く分からずであるが・なのだが、やはり自己の場合は自己責任であるから忍耐できるが、他者たちのものには忍耐する気はないのだけれど、忍耐をしてしまうマズローの第6
不可能性は巷間周知の如くだが、ここに至って無可能性という考えを導入しようかと思っている.ゲーデルと強制法近辺を援用して
連続するとき、ルベーグの深淵とそう簡単ではない現実部位が数多くある.
ミクロの決死圏の難点がある知識によってしばらくしてからの結実として2・3日前にひらめいた.個人的に重要だったかな、それと定性通時メロディの厳しさを何とかしないともある.これも自己感性の才能なんだが自己的不快でもあることである.
『アンビバレンツ情態を保存する-それ自体をみる位相』と設定しているが、最近ではきつい、これはアーノルドの否定弁証法のようなものであった.
abc予想は直感が示している夢の構造にパターンが類似している.特に同心を渡る存在が
層状構造というのも『人間は位相差を持つ層状組織である』という第二楽章の中に結実した個人的考えや、夢の構造認識に対しても興味深い.またてんかんに対する閾値が低いというのもちょっと大宮赤十字病院の名前とともに気にする羽目になってしまったかも.
勝算あり、ただし長期間の実践時間を必要とする=基礎研究.このとき勝算は演繹的直感確信がある場合がほぼほとんどであるはず、人材そうやみくもに研究対象を設定するはずはない.そうでなければもともと人材ミスキャスティングである.
思い出そうとしても思い出せない何かツイートしておこうと思ったこと.-としたら思い出した、共産主義の成立には、聖人のみの世界しか考えられないということ、知る限り聖人が多く出てくるのはキリスト教専ら
一段階でも二段階でも、ロシア・中国に資本主義が十全に発達した時は?、中国はいまそうでこれからプロ独裁に向かう??、およそ想定できないのでやはりマルクスの考えは?をつける.これからある可能性もないとはいえないが、そもそも国家なく貨幣制度ない世界に普通の人々の平和な生活保証が可能か?
『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』--昔、無意識に描いたこの意味は、接空間・余接空間を暗示していると検証中.
クリプキをNo.24に入れるというのはネット上にもいるが、現実にたまに遭遇するある若き存在試みがいてそれゆえにと、未完のために思考が難しいという思いの圧力を感じていることもあって、必然性に関して考えている.様相でアイデアが予感はあったが出なかった記憶に対しても必要でもある
『余裕の挫折で終止符が打たれた』--終止符ではなく休止符のつもりが筆が滑ったということなんだが、つまり未完の部分を残していても、それ以前で説得力があるはずであるという思いだった.これを当てはめると、ハイデッガーの「存在と時間」は未完にもかかわらず一定の寄与力・影響力を持っていると
それでニュートリノ研究が爆発しているわけだったのか、ニュートリノ振動.昔に、隣の家の裏の坂道を歩きながら、地球をすり抜けるニュートリノはいいけれど、この宇宙のどこに到達するのだろうか不明であると考えたことを思い出す.
この時間水平線上に想定できる無数の機会から必然情況になると考えたとき(昔、坂道を下りながらから)、この水平線を無限遠直線と考えて、無数の機会を可能世界として、平行線が一点に交わるとするリーマン球に応用すると、クリプキの可能世界全てに真であることになり、必然的ということになる.
相変わらず書店で読んだ吉本関係に、悪行をやれば悟りに近くなるが堂々と載っていた.それなら、悪魔は悟りに近く、堕天使も悟って十分のはずだが、悟ったという設定は多分どこの記述にもないだろう.
還俗して非知がいいとそれをしたのは親鸞というY論を書店で立ち読みしてきた.一体世界のどこを見ているのかYは、ソクラテスのわからないことを知っているは、どう見てもYの言う非知ではないか.世界位相のYのエゴ的展開ゆえにソクラテスは浮上しなかったと見える.
秩序と無秩序が一般的であるが、<非・極・不・否・超・優・劣・・・あと何だったか>秩序と何種類かの秩序種類を考えてみた.
そうか東京の多様による収束速度強ということで、説明が付く初期量子論への手引きから.
”いつも論文に「これは理論ではなくいまだ見取り図である」「これは実質的な主張ではなく方法論上の議論にすぎない」といった留保を付ける。”--それで説得力あるということは、『余裕の挫折』と表現しても良いクリプキとならないか.全く慎重さではなく実際にクリプキは実感している事だろうに.
-あの動かしがたい坂道での必然という束縛感の思い出が様相につながっていたとは、後に様相を考えていた時には行き詰ってしまった・ただし何らかの考え方がある予感はあった・ファジーなどかな.
”現実世界の他に無数の「可能世界」を想定し、「必然的に真」とは「あらゆる可能世界で真」、「可能的に真」とは「ある可能世界で真」と定義する”--無数の可能世界から一つを選んで必然とすることは可能性でしかない?.
どう見てもA期的な指示言語好み存在は脊髄反射が得意な観察結果を得ている.演技の偽善を行うから一見洗練の形だが、実際は弱肉強食のアフリカのサバンナを素足で走り回るか、ボルネオの密林をこれまた素足でウータンと遊びまわっても大丈夫なほどにタフとしか見えない.
個人的に困難と同時に日常空間がそうなっている筈なのだが、・・・先天的存在が過去の存在であるという人物の思考形式とはいかなるものか、全く他者である女性で、表現を剽窃した存在はいない・・・・・
先天的先験的などカントや埴谷でよく知っているのに、先天を強調する存在を見る馬鹿馬鹿しさ、ただし他者達はさほどバカバカしいと思わなそうで、これらの圧力に引きずり込まれてしまう、この先天存在は過去存在であることに全く気が付かず、自虐的忍耐をし過ぎと、過去存在とした思考形式表現が困難に
悟性と鬱感覚について何十年もわからなかった.この単純すぎる技.直感では結びつくならば諸々の不都合すぎる事柄も説明できそう.しかしこの悟性女と同一視という無茶苦茶すぎる認識誤解・性倒錯的見解をどうも理解しないまま死んでいった存在がいるとしか思えず、認識誤解はどうやら死ぬまで続くと
可能的世界の中で、機会にせよ判断にせよある選択をするということは自由で、それを選択してしまったあとではそれは必然であったかのようにになってしまうゆえに、必然的自由ということになる.これを自然に行って全く当たり前とする存在が多数いるが、どこかで疑似的・迷信を携えているケースが多い.
”何をやっても駄目だから作家になったんだ”と喚いた作家がいたらしいが、厳密には作家も何のうちに入るがそれを除いて加担的に解釈してやると、苦悩に次ぐ苦悩と絶望を他の誰よりもしたからということなのだが、そうなると他人の悩みなどは取るに足らないものだというプライドが見え隠れする.
先天的存在特に優位な存在がいて、義務的にレール上を生きていくだけというワンパターンには閉口した・つまらな過ぎる変化なし-のちに判明した過去の存在であるはずなのに、憂慮するとこの存在が出現するのはちょっとまずいのである.
傍観者効果は--ではなく傍観者は客観的認識ができるので自然科学的な観点を持っているか、最も内容が政治的な場合にはそうではないな.啓蒙のプライドに見えるが、全体に対して傍観者視点を用いると独裁的意見ともなりうる.
恥というか権威意識というか、他者の名誉心ゆえに忍耐を被るケースが多い分析結果がでた.他者の名誉心はいいが、他人は名誉心を持っていないという前提に立ってエゴを発揮する単純すぎる暴力的存在達ともいえる経験がある.
リーマン予想は知らなかったな、今でもさして興味はない.その価値を理解できないといえばそういえる.自然対数と素数の関係が一致点に近づくだろうとガウスが--ここでeの登場で、e自体の存在は無にならず不快に思っている点に示唆的なものを感じないこともない.
素数の5000万個の出現度合いはランダムであるそうだ.とりあえずランダムの根拠はここにしておこう.
”境界にフラクタルな曲線が存在する”4種の特性解は元の方程式が、多変数であるならば可能性があると気が付くが、そうであるかはわからない.多変数複素解析論のチェックをやるべきか、青春の思い出としてそのままにするか、岡潔が登場するそうだが.とりあえずそのままにしておく.
秩序に対して対抗するのは、その秩序体制に反逆する革命意識的存在と、クリエイティブな創造意識タイプがある.
不確定性原理で思ったけれど、ペンローズはUpに関してどのような位相を取っていたのかそういえば知っていない.無限下降に関してどのような見解をもっているのかも知らない.
人が二者択一対象を極限選択せねばならないとしたら、全か無かのいわゆる宗教的な信仰するかしないかの択一となる.
相対論によると光は曲がるは事実らしい、とすると光は直進するというのが直観的に普通・ノーマルで、そこに捻じれた思考・曲がった思考をしても良いことになる.そこには何らかの連結過程がある.
3次元基数域でブラウン運動はどうなっている?
人々は人間原理の部分で満足している・あきらめている・かぎ取っている・・等ゆえに、落ち着いているように見える.
ところがまたそのころ思惟の法則があればこんな・・という思いをしたこともあり、しかし思惟の法則があれば生は単純になり過ぎてそれは部分でしかなくなり面白くもないとも思ったのである.選択公理や情報理論の複雑性問題や機能主義・物理主義に対してのチェック楽しみの所以である.
想像力は理性に阻害をあたえるとはパスカルの言葉を最近に知り、苦い深淵の思い出時に知っていたならば、そんな思いはしなかったものを.しかしなれどこの複雑すぎる映像はなんだという次第である.ひょっとしてこれを絵画にしたらかなりの存在感を持つかもしれないかも.
むしろ明暗であって、多少は弾圧とは異なる配色かも、弾圧色は領域が狭くまた旧態イメージのする色であって、明暗の暗は深淵であるからである.どちらも黒色であるが、この深淵黒色が動的な場合の複雑さには理性が付いていけない苦すぎる自己内部の深淵に対しての思い出がある.
草莽崛起(そうもうくっき)と読んで、吉田松陰が唱えたとか、昔、思考の帰結が市民が希望であるになってしまった10代の頃があったが、それに付随して暗黒が去らなかった.この暗黒は今日の先ほど、弾圧の文字イメージと似ていることに気が付いた.
0を入れるか1から始めるか非常に悩んだが、なんのことはない0歳という時間をすでに持ったのだから=0として差し支えなかったということだった.
真夜中のイントクシ、梅ノ木のそばにいたのはフクロウかミミズクかムササビだったか、昔の夢時間の記憶・鮮やかに
清水寺の胎内巡りは示唆的である.小学一年生ノ冬・正月に母親の実家に行ったときに、暗い空間の中で遠い向こうに小さい明るい点が一か所あるという映像を浮かべたことがある.この時の暗さイメージは守旧的なもので封建的なものを描いたのだが、5年生の時には黒体輻射の内部から光の一点を描いたので
まあ権力型のXXも抑圧強要で全くやる気をなくさせるものだが、やる気のためにはかような存在を排除せねばならぬ・といって排除が難しく無駄に遊んで意味なき時間ばかりを構築することになる.身体の自由のために他者を抑圧するからで、永遠に足るを知ることはない存在、心の自由がわからないのかも
まあ不自然を強要して、変なことになると現実も変になるはずで、偽善的な無責任のために無責任を構築するという姿勢で、自己欺瞞主義な存在達なのかも.まあそんな部分は持っているが、そんな存在者達のようにほぼ全体としてとまではいかないから.要するに現実に生きているから諸々の要素は持っている
どうもある女子大を卒業したての存在は、SS(XX)と曲解したようだ.なぜかほとんどの存在は主体の阻害・疎外を要求して、逆を行使して時間差トートロジーを強要するのはなぜか、また主体を真似して非対象と同一化したがる存在はなんなのか.明らかに不自然・理不尽を強いられることは、不快すぎる
秘匿してしまった乱舞はどうやら無存在と人々には、事実はなかったとも思われるようである.Kが見せた2・3枚の変形まとめをゴミ箱にとっさに捨ててしまい意地でそれを拾わなかったことや、多分にミス認識の人類の悲しみを想定してしまった春うららのI市のある女子学生と遭遇中の路上などが重なり-
直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?と思い描いた小学5年生、今ではそれは光子のことと判明しているが、不思議な映像だった..このころにまだいろんな重要なことを考えていた・・それらが俗物空間で体力情動の圧力を受けすぎている今日.
例の柿の木の花が咲き、三差路に岩がおいてあり、上り路にのわきにささやかな小川が流れ、それがやや大きな沢と合流するところにプール上となった体積があり、三差路の道はそこに小橋を架けていた場所で、直線上に連続しているが、同様な円環領域がまたそこに離散的に乗っているというものは何だろう?
古今東西の宗教の創始者を鑑みるにつけ、押しなべて傲慢・極端なエゴイストが多い.これは人間存在の本質的な何かを指示していると言わざるを得ない.深いかな聖書の、”神はご自身と同じ形に人を創造された”の意味するところの含蓄は.
人々に公開とはいっても秘匿的公開だからわかれば雰囲気までを、自己に用いる羽目になってきた.
小学生だったか中学生だったか、坂道を下り歩きながら、必然という言葉にぶち当たり、果て困った身動きが取れないと思ったことがある.今日はこれに際して、システム的をとりあえず取り入れるアイデアを浮かべた.可能的世界どうのこうのもイージーなんだが、システムの還元不可能性を判断しておく.
論理ではなく理論にしようか今日考えてみた.岩のゴロゴロした川原で考えていたときは、方法論という言葉が浮かびいささかつまらない気がしたが、今日までずっとそのまま.
昔描いた夏休みに隣はしばらく姿が見えないが地球外旅行に行っているという話の映像で、未知との遭遇のある1シーンと映像がよく似ているのは多少不思議であると漠然と思っている.もちろん監督得意の漫画のようには、別に未知なるものなど登場してはいなかったが
未完項目はあるけれど、結論(遠い未来に有効な)を出していたことを昨日思いだしたというか結論にしてもいいものであったことに気が付いた.
モジュラー群に”分数 a/b, a/c, c/d と b/d がすべて既約であること”がのっていた.昔考えた4種の特性方程式である解は規約である事は条件なので、考え方自体は似ている. 直感で見るモジュラー形式ほどに単純な方程式ではなかった記憶ではあるが.
ビッグリップの前には、地球崩壊拡散は微小なものに過ぎないが、その映像を思いついた時にはちょっと困り果てた.止めることができない・・小学生3年生.その記憶は地球の軌道変更に結実したがそれもまた不可能であるが、『軌道を変更した地球に幸いあれ』を第二楽章の帰結文にしたことは間違いない
言うまでもなく中間存在は演技そのもである.上に限界を持ち下に限界を持ち、上下左右前後に有界である存在であるので、あたかも足が地についていない(足がないのと同じとすると幽霊と同じ)空中浮揚中のようなものである.その底の浅さには不快しか感じない.
まあ演技的性格者にはユダ型人間の特徴を顕著に取る.ローマ軍は神様ですとかのような、権威・権力者は神様です・依存させてくださいという長いものにまかれろ性があり、自らは権威・権力者の代理人であるかのような所為を行うクラウンのような存在でもある.根底には権力志向が流れていることになる.
セルバンテスの作品の主人公であるドン・キホーテは奇人・変人である考えが浮かんだ.
構造自体や時間の流れは自体を見るはNo.26ni導入.世親は何を述べていたか気にはなるが-大体無自体それすらないが仏教の奥義であるはずで、輪廻はそれ以下とふつう素直に考えることができる.
情況は単純にエントロピーが決定することは明瞭ではないか・何を今まで悩んでいたのだろう.ポテンシャルパワーはいろいろ思考・思念に災いとなるな.
"科学と非科学の境界設定基準という科学哲学における最大の問題"--科学哲学の最大問題は非科学との境界設定だったのか・・未完・未定のNo.23の参考にはまずなる.デルタ関数は無限を保証するか有限な無限はあるのかという素朴な直感が、頭脳分離・乖離を余儀なく構築してしまったことがあり
漸く考え付いて、その延長は退行圧力であるので、その将来結果はまずいことになるが如実で、私はそれについて何も思わないことにする・すなわち退行圧力を全く欲してはいないということで、その存在者のモラル感覚によることである--を思いついて二重虹を見た.
そんなことがあるとケルゼンを純粋法学意識を小学生の時に浮かべたのが、今では信じがたい.
荀子自体は性悪のまま馴致をしたと推測する、何らかの相転移があって善人になったという記述を見たことはない(それほどチェックしたわけではないが、それでもそんな事態があったのなら目につくように表現されているはずである、結局性悪固有のまま死去したに違いないだろう.)
太宰治は帰納的におもえるが、それと荀子的ではないかとも思える.それにしても実人生は非道徳的所為が多すぎて、作品を書けば実現実の不道徳的行為は許される実例ともいえそうだ.
共同幻想の奴隷なる言葉が朝閃いた.
利己的な遺伝子の複製優越性と人間の建設意識の相克で現実は説明できると直感がとりあえず示している.
非対称な一つの双曲線とミクロとマクロ(古典と量子)のずれた双対感あたりの関係をむすびつけようとして
『位相差を持つ層状組織』は縦構造にも、スケーリングにも使えるではないか.人間はそんな側面・層状を持っていると直感した、小学校の帰り道の崖の崩れた堆積の跡をみて、近くの沢の上部はどこにつながっているのかと考えている.地球の崩壊や男女の乖離などもこの付近で思いついたことが懐かしく
ゲーデルは位相差にありそうだが同位相に存在するか、この辺の思考に壁をもたらす件の幼児期女性なのであるゆえに、他人の母親.でもアルファ空間では人気ある・その理由も良くわかるが咄嗟の出来事で対処はできなかったな.咄嗟に判断しなくてもよかったのだが、そんな前提になかった.
(夢にもでてきたし、常に絡むようなことは、他の女性も成立する・<夢にまで見るというのは別になんでもないありふれた普通の事>)
で他人の母親になっている記憶から離れない女性に対して、しつこく浮かび来て、種の与件からこの事態はまずく、またあまり浮かぶので位相を戯れに・不本意に同値化させてしまい、なおさらまずいことになる.それでは幼児期に退行と同じくなるからである.つまりこの女性は幼児期対象存在のだ・
振り子の等時性-振動に関係あるとは思いつかなかった.何かが欠けていると思っていたの楕円積分だったか、減衰振動でも考えねばならなかった昔の話を懐かしむ.
ボーズ凝縮の最大値論には感心する
どうも人々はある女と同一視してきた不快な記憶が強すぎて、そのある女自体も逆に剽窃で自己自身を内的思考かして、疎外を要求していることに気が付かない愚かさを持っていたが、誤解・曲解・歪めなどは全く意味がなく不快なものである.それにしてもこの不快すぎるある女と同一視されるのには閉口した
この悪魔はキリストをあくまでも俗物扱いを意図している、邪念の化身として現れているようである.世界の栄華を悪魔が持っているのではなく、単に持っていると空想をしているのだろう.人間悟っている筈はなく、心理の葛藤を持っている筈であると.
指揮者・積極的自由の調節者とか、いなくても消極的自由の多様化をかなり進めて短時間調節は可能であるとすると、いくらか齟齬をきたす事柄が成立するが..
しかし全く自己疎外を強要して、逆によくわからぬXXと同一視するXYと、剽窃して自己自身の内的思考を当人に述べるXXがこうも大勢いたのだろう、今でもそんなでたらめを受けている気がする.自己疎外修復が大変である.
道すがら、人々の庭先に相変わらず桃色の花をつけた庭木が目立つ日々、時には白い色も見かけます.はて如何に猿が滑るものかと疑問に思うところです.、つきましてはギンバイカの香りなども浮かぶところでありまして、そうなりますといろいろな思念が湧いてくものであります.
残暑厳しき折、久方に認める文面に、失礼を存知あげる振る舞いをご許し願いたく思います.とはいえこの部屋の暑さには、気温以上の温度差感を覚えまして、些少いらだつ気分ではありますので、文章がつながるかどうかは判断しかねる次第でございます・・・・
20-25年無駄にしたことに気が付く、なんと強烈な思いでゆえに時間がマヒしていて・・・
私の予言によれば今の20歳代前半から日本が変わる・この世代が日本を変える
いずれにしても絶対性などと絶対を使った大仰な強迫性はあまり関心しない、思想だけということではなく、『思想の思想たる所以』だけで、やんわりと対処したい.
『余儀なくされる』は用いている、ただしその心情は「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」の両価性とともに、またオープン領域への実存的とも言えなくもない.(これは中学生の時の入院中にベッドの上であることに自然に推移して、そのときの心情をもとにしている)
何しろ神はヨブにありとあらゆる厄災を与えて不幸にしようとした・・そもそも旧約の神が悪を作り出していることになる.
ナッシュ均衡から、宇宙の熱的死を連想するけれど、人々はこの現宇宙を有限なものと設定してそう考えている・そのようにして安心感を得ているともいえる.がサイクリックは回帰的もまた仏教の反復思考に似て、そんな考え方もある.この宇宙がどうなるかは結論はまだ出ない・未定であるはずと考えている
「ナッシュ」を知っていたならば取り入れたかな、ゲームの理論は好まないので入れなかっただろうな.どこかで知っていてもいいはずだったのに、ブールとか騒いでいた頃の娘の弾くピアノの音が聞こえる庭との裏側の二階の部屋・・しゃれこうべで酒を飲むも浮かべたこの庭・後に知ったバイロンではないか
中学生の時にある市のある駅の靴屋の看板文字から強靭を考えて、強靭の一定持続の厳しさに音をあげたことがある(自らの脳内のイメージではあるが).今でもそのままの意識で、他者の強靭の厳しさに拷問を感じていたが、今日、そうであるならば逆作用・反作用方向の強靭もできるはずと漸く思いついた.
ハイジャンプは見ていてなぜかスリルを感じる、女子も面白い.小学5年生の時に1mが飛べて無意識に大喜びをして走り回ったことを思い出す.同級生たちに真似をすれば飛べるとされたが、その現象自体に何かを感じて..
深淵について考えるのはやめておこうと思った小学生の時、が自然に道やブラックホール様を考えてしまい、後からチャンドラセカール限界やトルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界が付いてきた.
中性子星の外部爆発とするまではいかないだろう.”自転周期は30秒から1/100秒”ではΘの回転イメージより遅い・・・
一般に今不快すぎる思いを持っている他者たちのトートロジーに気が付かず、強制的に不自然を要望することは、次元低下要請で進歩時間遅らせは明瞭であるという決定的認識に達した.ゆえに他者たちのトートロジー言明は意味のないものとする、そうしないと『第二楽章』のレベルがままならなくなる.
とりあえずの大きさで、素粒子でできている存在が生きている--推定、素粒子でできているが”関係”でそれは生きているに対して”絶対的なもの”として現れていると考えていいのではないか.
そもそもざっとマルクスの翻訳物を眺めたとき、論理的には納得いくが、とにかくエロスがない.ほぼ自動ロボット的な感触を受けた若き日のすごく意外にひなびた渋谷のある駅のいとこカップルの部屋
『位相差を持つ層状組織』と人間精神を規定したとき、表表現として組織形態に似ていると、何十年も経て気が付いた.ピラミッド型やコーポレーショニズムとかの理論に結びつけることができる.スケーリング面もあるが別対象意識として.
とかなんとかそんなわけで、太宰治は昔に聞いた?見た?芸術至上主義者(そんな主義があったか?)なんぞではなく、マタイの述べる律法学者・パリサイ人に良く当てはまるのだが.
「想像力に科学は有用である」をNo.23に置く
荀子の性悪説だけれど、元性悪(今は?)が馴致するとなると、固有的には性悪が性悪を馴致することになり、結局性悪に終わらないか.どこで相転移が起きて善人なり馴致することになるのだろう.経験記憶の不快から、性悪人間が性悪を隠すためか、他者に対して馴致意識が高いようである.
自転車通学の帰り道、固定・気合いを考えつつ、角を曲がるとスタンダードを思いつく.そんな記憶・思い出と共に、量子現象をNo.16に取り入れて妥協点を想像ではなく、理性的に置いておく.
全く完備で有限なものを無理やり無限非完備的に考えてしまい、過ぎたるは及ばざるがごとしを堂々と行使してしまった青春の時間を思い出している.
人間は無機物内有機物として存在しているのだから、存在理由は有機体故になる.過去・現在そうしてしばらくの未来はそうだろうが、その先もそうかというとはっきりはしていない.変化の可能性がないわけではない.クレジオなどは現状維持の有機体として、有機物の後に無機物のみが残るとしているが.
大体その存在が(すでに)不明で理解し難い対象はいたずらに喚きを構築し、有限にもかかわらず、その延長としての世界領域に依存して、内面を見ずに倨傲を行使するから煩わしい.
そうなるとニーチェの永劫回帰は、キリストの復活的なものを何回もあるいは無限回繰り返すことになり、アンチキリストがねぇとなる.
記憶にあり消去したく悩んでいる他者たちの言明は「冒涜」という言葉で表現できると思いつく.冒涜を尊重する羽目にというか除去できないこの構造は問題だけれど、冒涜発言をする他者たちの存在悪性はなんというか無神経というか無自覚なのか陋劣判断能力しか持ってはいないと考えるしかないではないか
超対称まで行かずとも、F-B分離したセット形態を考慮せねばならない・・、そんな心理情態は不快でしょうがないのだが、XX-XYの乖離とともにそれぞれの関係を考慮するような形式・形態とでも表現化.
そんな存在は、男はいつまでたっても子供なのよとは言えないはずである.なぜならば自らがいつまでたっても子供だからである.傲慢な割に甘えもする極端な性格を大体感じるタイプがそうである.傲慢なパワーがあるのなら甘えなどしなくてもよいものをと.
ポテンシャルが強く、荷物に感じるうんざりする肉体の持ち主は、唯物的・物質的な存在であるという認識に至り、精神力・思考力は欠如の存在にあると見るにたどり着く--他の人々にとっては、あまりにも明白・単純すぎる事柄のような気もする.
思い出せば、覇者型の女性にかなり遭遇している.大体脊髄反射だがなんだかわからない暴言を吐いて不快な記憶を残している存在達を.今でいえばパワハラ固有性確かな、まるでロボットのような生理体を意識させるもので、暴言などより色気を出せと言うべきだったのである.まあマシーン頭には一生無理
完璧にダメではないかなんだが、どうも現実と乖離を持っている.やや最高はいいとしてやや最悪は失敗なんだけれど、それも必然的な事柄だったから、なぜの理由がわからない.最高と最悪があるということで納得が依然いかず、個人の素質かあるいは風土の障害があったのかわからず・判断がつかず.
稲垣足穂の何が面白いのか全く分からんが、一両日前に、ホモ・ファーベルと思いついて、まず間違いないところだろう.作品と晩年の毒舌が結びつかないが、気に食わない遠慮をまたしても持っていてそれが悩みの種でもある.人間的には達人の趣があることは否めないが.
超自然という言葉がある.超理性や純粋知覚はないといった人物について、昔はあまり気にせず、一つだけとんでもないことを述べられてそれの処理に悩んではいるが、その後TVの映像をみて、顔貌直感からまず純粋知覚などは無理、超理性もその欲望意識から無理とまあ納得している.
メタンハイドレート開発にシャカリキになれないのなら、核融合に向かうはずだが.現状の現実を見る限りではのんびりしているようである.『太陽が2つある』-予知夢を見ている人間として.(一つは当然空間に浮かべた核融合物体・それは太陽とそっくりである)
ある女子学生に際して、精神現象学を読めばやエロイカ変奏曲の味わいは当然ないなとかに際して浮かべたのは、ハイネの名前である.まさかハイネはないだろうと沈黙したが、そうでもなくハイネを読めるようでないとと思うべきだった.
超自然の束縛がやや最高とやや最悪の時間を持って、超自然を現実時間で渦中にいるときには想起できず・この不可思議な現象.超自然を現実化すると全く煩わしいことになってしまうので、超自然的に現実をせねばということだった.
ネーターを考えたくなるが、事実は小説よりも奇なりで、ラプラスがポアソンを内含しているように曲がっているとか.
無限大か来る双曲系1/2がデルタ関数と類似させて考える--そんな体験があって.その逆に無限大が0で原点に向かって発散する場合に積分が1になるということの又その逆で、原点からベルトラミ形を考えてその広がりは・・・全くR^3に無限加えたものが3次元球面とは簡単に表現してくれるものだ.
葉隠れの武士道をドストエフスキーのようにとらえると被害者であり、クリエイティブのとらえると秩序空間に安寧とはしていないとみてみるケース.
グロタンディーク宇宙Uを知った.グロタンディークは賢明というかまともというか常識的というか、笑ってしまう.これではなんの理屈をつけようとピレネーの田舎町に隠遁をしたくなるというものだ.-言いえぬことは沈黙しなければならないとはTLPの言明.
強烈すぎる個性のXXに対してなぜかレゾルベントとした思い出がある.強烈なのはスペクトルであるのだが、この直感は全く脈絡なく出現した.
なぜ蒸し返しや自己疎外強要をするのか無駄でしかないというのは無駄な存在か・無意味多き存在としか思いようがないではないか、無自覚傲慢者でもあるが、悟りに向かう無知過程存在者という観点もあり、困ったものである.いたずらに時間を遅らせる宇宙旅行者達でもある.
カラビ予想の解は、個人的に考えた特性解4種にヒントにはなるが、中身の豊穣さが異なる.
想像力と無限に関しての理性を考えると、ヘーゲルの論理構築の説得性しか知見していない.想像力には非線形が登場しているが、時間が一方的に流れていると、混沌の位置が真理に関して無意識にならざるを得ないが、+-のない空間であるならば、素直にカオスが登場する.
アポロンとデュオニソスと分けると、想像力と理性になるが、フロイトは超自我と無意識(自我は境界)としたろう、そうなると混沌と真理になる.そうするとというより有限理性というXXが災いしている--一般に中間存在は有限理性を行使する.
物質がそこにある以上、発生機序が複雑であろうと、有限結果(線形)は成立している-これに関して過大評価をしてドン・キホーテのように、非線形を求めたために失敗した記憶を忘れない(過ぎたるは及ばざるがごとしである)、しかしなれどその姿勢を崩しはしなかった.それが余計なアドバイス誘発に
サピア=ウォーフの仮説とチョムスキーの心的言語の間で、形式言語と宗教心を連想.サピア=ウォーフの仮説において形式言語・公理的なものと、相対宗教・宗教の多様性ではなく統一宗教心があれば、心的言語は成立するが
再帰とチューリングならここかな、埃立つ道を歩きながら摂動を考えていたころだから、非決定になるのに無限後退を考慮しない定義にいささか少しアイデアが必要ではと考える
数値予報にNS方程式が重要に用いられているとは考えもしなかったが、当然すぎるほどに当たり前のことである.この隠れマルコフ的な頭脳・・・自然科学の伝統に対しての追認はかなり困難であるであるので、人々は隠れマルコフ操作を用いるのが常であるとか考えてみる.
思い出した、ランダム設定・ランダムを考えていたあのちょっと裏道の坂を歩きながら、空間は自然に自由領域を不随させたことを、射影の無限遠を用いて掃散などと示していると、まったく思い出せずにいらいらしてしまったものである.
水分子は室温で平均でおよそ500 m/sで動き回っているとは、ブラウン運動の掃散してからということが、有限時間のやはり頭脳追跡が伴わなかったゆえにという進み具合でよさそうだ.
おおやはりネルヴァルはヨハネの黙示録から影響を受けていた.熱風の夏・中学2・3年生だったか、トイレに行きながらネルヴァルの湿度高き暑さを感じた、今はそのころの情熱が・ポテンシャルが消え失せて
マイ・システムの位相上の対象について考察している人間はいるものである.無名の領域にたいして離散的持続者は香りを持たすこともできるがとは考えている.
競争や他者に対する優越感(それが小さくても次元を落としても)などは戦いといえば戦いで、穏やかな気分は足るを知るか悟りを得るかを獲得しないと、出来えないような人間存在にとって、平和とは調和という言葉で表現しうるものだろう.
ある人物に対して他者引用してあてはめたりするのは論理的に間違いというのは認知していたはずなのに、矛盾潜在意識を前面に出して(対象の信頼ゆえに、わかっているミスを行使するというXXの責任保有性無自覚)
ラプラスはKでポアソンがよろしくない?(ふつうのカップルはポアソン的、阿吽はラプラスとしてもよいか).ブラウンの掃散はポテンシャルの限界ということになるが、どうにも不快な頭脳の鈍さがある.Sのブラウン実存的にたして太宰治ではという冗談思いに今でも悩む羽目になるとは
未来史の記述はマルコフ過程を示すだろうが普通すぎる考え方で、事実的人間にはそれが自然かつ限界であるから、強意表現を用いざるを得ないという解釈になる.その強意はエゴイズム主張にすぎない、無自覚がやけくそでもあるか退行強制ともなる.
細胞の動きが重力の影響よりブラウン運動が勝る無重力空間では奇形の発生する可能性がある-そうだ.なるほど、現地上でかような形態存在はかなりブラウン運動の影響が強く出ているものととりあえず判断できる.人類類族上の犠牲ではないかと倫理的に考えた昔を思い出す.
ポアンカレの回帰定理とダフィング方程式があの時に必要な対象であることが分かった.回帰は地球上の緯度ではなく再帰でもなく、減衰には加速度も考慮する必要があったのだった(?潜在的には十分思っていたような気もする加速度).でもカオスは考えなかった.
双極性障害はポテンシャルとエントロピーの齟齬により・・と思いついたが、そうなるとうつ病はエントロピー障害になる.(双対的にポテンシャル要請圧力とか)
別に意味はないのだが、つまり本質に対して判断停止をしても不都合な心理になるだけで、等質ならぬ深淵という非等質を形成するゆえに、進展がそのままではなくなる.まあ有限深淵という深遠ではなく深淵を持ってきてもよいNo.27なんだが.
回転楕円体には扁球と長球があるのは基本中の基本であるが、さる時間設定中に夏の川原で浮かべた時には長球回転のとらえられない速度であった.
Mathematics Genealogy Missionで思うのは、難問に挑戦して一生をあたかも棒に振ったという数学妻帯者の多くいるという推定である.
有限内オートマトンはまさにロボット的で、コンピュータがその仕事をとってかわるというのは、この有限内オートマトン的人間・仕事内容を示している.しかし、有限内オートマトンというあたかもユートピアを好む人々も多数存在している相変わらずの現状である.
乖離-相転移・フラクタル、そうして普通になってパーコレーションとこれでいいのかNo.16
フェルミ型人間はその励起のために他人を利用する・必要とする、あるいは外力を外部を---これはなんか悩んでいた全く思考が進まなかったある概念に似ている形式ではないかとも
プラトンに詩人追放論があったとは.、理屈的にはペンローズ的かな、最初に結果的なものがあってゆえにそれ以前の過程は排除する--これ自体も時間変遷論になってしまっているが、イデアが普遍であるなら時間もないので.まあイデアは永遠を示しているように想える.
筋肉を動かして判断するのは脊髄思考で、これを理性から見るとどうしょうもない乖離が存在している・その壁の消去思考が・・-No.4からNo.16に関連して.
アブダクションもあるけれど、帰納の限界とかクラインの壺とかメビウスの輪もあるので、小説が理性的(空想・空想理性ではなく)であるならば、事実は小説より奇なりはいえているのかも
国家が死滅したとして、ルールはどのように守るのだろう.やはり生の欲求があるはずだから欲望の自由がまだありそうで、結局ホッブスあたりに戻ってしまうのでは?.つまり世界を変えるのではなく人間を変えることだろう.国家が死滅しなくても人間を変えることは可能であるという想いに立ち・・・
悪人正機説の悪人・少し良くして悪人と善人の中間的なふん詰まり人間の傲慢さには閉口する.全く自覚ない束縛が当然と思い込んでいる世界の狭さには.通時と共時の中間存在にも言えて、また覇者と王者の中間存在にも言えるうんざりさ.
自己の生存過程を振り返って気に食わない時間があることに苛立っている.どうにもうまく価値をとらえることの困難な時のあることに
現状、世界に宗教は一つではなく多数ある.おそらく個々人は自己の信仰している宗教が絶対なものという認識だろうが、多数存在しているということは相対的となる.
何処へ行っても、目障りな存在が出現してくる経験をしている.これはゲーデルの不完全性定理ゆえか、それともアローの不可能性定理ゆえなのかとケース設定を試みたが、結論はまだだが接近しているのではないかとは思う.
一様関数の愚問と浦和での心理の不快な暗黒ねじれ感-後者はあるJKが一つの 大学入試に落ちた故ではないかと今日不意に・その頃は浮気を感じた(これはこれは・・)--出てきた心理葛藤
ネットのレイヤーで物理層へ行くにしたがって、暴力的になるあるいは感情が消えてゆくと、人間存在の固有性を考えて、あてはめてしまう.(小学生の時に、崩れたがけの地層の縞模様を見て、人間とは位相差を持つ層状組織であると、思いついた観点から.そのように見ても差し支えない現象は存在する)
そんなわけで今日考えたのは、無限小は無限小が無限数集まった場合に無限小になるということ、現代集合論によろしくであるのだが、この余地は第二楽章に十分とってあること
それもこれも嫌いな・苦手なポアンカレが非線形をの文を見かけて(思い出したのは3体問題の懸賞修正の話だったかな)、ヒントを得た昨日から今日の朝、本来ならば真理は単純であるは到達前に混沌から種の形成をした結果ととらえるべきだったのだが.-思考方法はスピンネットワークと同様.
モナドやエンティティでちょっと行き詰まり、そのころスピンネットワークは・ペンローズはインチキ臭いと思っていて(今日ではガンマーバースト観察で証明可能だそうだ)だが、ふと構想自体は了解する羽目になってしまった.(超弦はそれが本命だったのだが)
1990年代でよかったのか、自然が自然であるならば思い当たることがある、そのことに関して結びつきを思わなかったのはミスというより、現実の倫理が作用したことになる.
どうも昔、密着空間に対して無理に区別しようとして、身体異変を構築したようである.かって・・今も?、密着位相の国があるようで、密着の圧力があったか、まだ覚えているある女性の”みんなそういいますよ”は事大主義の同調圧力当然のもでもあったか.しかしクリエイティブに対してはまずい...
生成文法は少しは考えざるを得ないほどに有名人がいるが、認知文法はそうでもない.さて認知文法のグラデーションと普遍性の畳み込み様況を如何にするか.形式主義は部分でしかなくなる、あるいは理不尽が被さっている可能性がある.
イギリスの海岸線はとりあえず不確定まで行けば測れ、その値は有限となる.今日ではプランク定数以下サイズも思考要件になっているが.
”無限集合S に対し、補集合が有限であるようなS の部分集合すべての集まりは S 上のフレシェフィルターと呼ばれる”-無限に対して有限である中間存在はこのようになる.(数学上の文章の解釈によってすでに明瞭な形が出ている、だが数学者はそんな解釈はしていないだろう)
?!間脳の両耳なども考えていた・・・そういえば
精神か肉体か・・昔に少し筋肉などを動かして決定していると端緒は考えていた事に思い至る.今では脳内細胞を意識しつつ判断するという方向も考えられるが、内観にそのようなことを考えたくはない面の方が強くある.
No.4---かくして人は筋肉も動かすのだがその形で決定していることは間違いない
”吉本隆明・言葉はその発生原点に戻るケースがある”いやそれ以上、言葉無き時間まで戻るだろうに、そこには沈黙が生じているかな、なにしろ『奇妙な保管場所』はそういうものだから.ゆえに言語の限界が世界の限界というのは理解しがたいTLP・沈黙しなければならないのは理解できるが.
もっと純度高くとは自己をとらえないのか、そうであるために邪悪なイメージを齎す虚偽意識を発揮(詭弁か虚偽・その演技)するか、カムフラージュのために神聖感覚に依存するのかもしれないが、それ自体やはり下賎なイメージであるので、どうにも先天的資質生理から不可能としかいえそうにない.
全く遅すぎる量子確率、これではある諦念女の生理時間と一致しているに過ぎないではないか、おもしろくもないが時間を待っていた事もあり・・それにしても失敗した灰燼である.証左が残っていないということはないに等しいと普通に人々は考えるだろう.今はその思考形式を用いる感性を全く使っていない
0と1の間でさまようのは古典的とか、確かに0と1には確率がないのは当たり前過ぎていた.がフラクタルと不確定は全く何十年もまえから取り入れ・表明してある.『・・これらはなぜか』は帰結文である.『あれか・これか・それか』も帰結文.今日量子確率過程を考えようという時代になってきたらしい
試験問題で他者に答えのわかっているものをまた不明なものとして考え・記述することは馬鹿馬鹿しい(これが無意識量子力学の寄与)としたあのころ-量子確率論.
フェルミ型は結構偽善にとりつかれているのかも.この陰険生理男は男の演技的性格で、四六時中気取っていたな.不快な陰険生理をごまかすために気取っているのではないかと・・.演技していることがすでにわからない?.もっとも演技をすると責任をとらずに済み気楽に生きていける点が一番なのだろう.
フェルミ粒子自体がどうにも濁ったイメージで、アポロンはもっと清潔な透明体である.またそんなアポロン女性も存在しているのであるが.ゆえに陰険汚濁的生理体に野蛮人いわれるのは心外であるが、野性力は別に捨てない.ただ記憶上障害の言明で不愉快すぎる.こんなタイプは不快な言明を必ず齎す.
陰険な薄汚い身体感覚のある女性もいて、なぜかしつこく憑依的に取り付いている感触を持つしつこい拷問者のようなもの.その濁った生理色をもっときれいにならないものか、濁った生理には毒があるというものなのに.そんな人物はバイタリティはまず強い.傲慢な覇者型人間のパターンをみている事になる
?!フラクタルのエントロピー、エントロピーのフラクタルは漱石の道草で、それは日常ありふれた減衰の転換点
杉林の中の笹は地下茎が発達している筈の小学生はそれをもっとダイナミックに想像した.後に知るDのリゾームに似たイメージを、結局こんな手しかないのか、最も並列形式は当然とは思っている.(知事選が近くなってきたような・・)
過日、調子に乗ったわけでもないが、自伝的(大体自伝的はどこかで宣言してある)な不用意的ツイートをしてしまって、今心理対策を抗じる羽目になっている.削除すべきか、時過ぎればなんでもなくなるでもなさそうな予感もある.というか現実生活に寄与反応が出現してしまって.追憶なのに今に影響が出
ロシアが独自の宇宙ステーションを計画中?、上海機構の協力事案だろう.中国との折衝が問題となるが、宇宙移住が2億人になる時代の後にくる予測上の意識体人間はまずAD3000年でも無理だと今日直感した.ささやかには、行動主義心理学のその名称を初見しただけで愚劣感を覚えた昔があり...
いわゆる破滅型と称される太宰治がそれなりの世代に何故人気あるのか急に- 閃いた感.境界域の場合、境界以前の時間を消去するように境界以後は作用するからという、極普通の事柄なんだけれど.破滅傾向を境界以前と照合させる形として.
そもそも子音を浮かべたとき、キツイのでどうでもいいやとおもった時点で、ハーバード云々は消えていたのでは、その後中学生の時には、英語など誰でも使えるからどうでもいいとも思い、まずこれでだめだ.さらにある学校と教科書が同じと聞いて、これでへんに矜持を発揮して、結局英語は苦手となる.
このどうでもいいやあたりから惰性になったのかも・まさに蛇尾というか・・・.目的はあったのに全くすっかり忘れてしまっていたあのころ、但し無意識には持続していた.そんななんやかやで一歩間違えればあのような人生になったかもというあるギフテッド者の言明の対象者的生存過程を行使している・・
昔ハーバードにいこうかな、とおもいつつ日本の大学などとは言い切れずの思いをしたことがあり、そもそも大を学ぶ?・今でもよくわからない.その後、これを使えばT大に受かる筈(その証左は個人的秘匿として)とおもいつつ、T大にいって何をするのか目的が浮かばず、どうでもいいやとしてしまった→
デュフィのニースの窓辺かな?、昔見た画像で鮮やか過ぎる海の色が印象に残っているタイトルは、今見てみるとニースの窓辺はそんなに鮮やかではないな.サントリーニ島の写真を見ると、デュフィはフォーブでギリシャまで足を伸ばすことは考えなかったのだろうか.
偽善者も善意力(建設的・たとえば類続性とか)を実際にわかっている筈で、責任逃れ的要素が実際には強く作用していそうだ(諸行無常という言葉もあるが、これは宗教用語だったのでは?).演技的性格者はそれゆえ無責任主義ともいえる.XYにもいるので、そんな人物はやはり責任逃れを志向している筈
建設的な事柄は善意であるはずだが、存在証明ならぬ仕事証明や権威にむくつけきもあり、なかなか建設的社会とはいい難い.しかしなれど偽善を齎すその根拠は性意識・いわゆるリビドーにしか求められないと思っていたが、体質自体のセンスや人の存在原理である優越感・優越意識が作用するかもとも.
通時的定性曲線はなんのことはないα型-共同体的であったことに全く気がつかず.ずっとΘ的に考えていたから、いまはα的からθを見てしまっているので、まずい心理情態である.なぜそうであるかはある確実な心理経験があって・である.間違いない自然なのにある存在によって無駄すぎる時間を・・・
プラトンの立体の基本形は正四面体で黄金螺旋とフィットすると、コルニュの螺旋を黄金螺旋に変化させても全く問題はないNo.23.プラトンの幾何学意識がNo.23にくるとはこれは多少問題になる--アブダクション如実で面白みが出現・可能性が登場したということ.
昔に色んな人からアドバイス的な言明を受けたが、それが障害記憶となって煩わしいものになっていて、除去するのが困難な不快となっている.別にそんなものを要求した覚えもなく、余計なお世話として自力観点から邪魔になっている.
中間存在のバイタリティはとにかく自由の邪魔をする・中間存在は中途の制約を受けていて、世界がユートピア事大かニュートン絶対空間(中間存在に無限は不可)に依存している不自由な存在だからなのだが.
逆反応を考えた日に、対称性の破れの案者が5日に死去の記事を読む.交換の意図に反交換はほぼ必ず逆の応答をする.交換からみると疲れてしょうがない.対立は先天的特質上消えず、反交換は交換をできずに交換を引き裂くように反応・応答をするために.
昔ES、遊びながらコンクリートの防護壁のところで、0101・・11111・・・とかの羅列を浮かべたとき、とてもこんな記号値を気にすることはできないと思ったのである.それが16進数表現とかになっている今日以前から.--久しぶりにちょっと古き数学辞典を開いてみようとして記憶を思いだす
摂動に対して、ゆらぎかフラクタルかといったところだな.摂動自体はそれはそれでよかったが、摂動以外の示唆もまた強かった.なぜそのとき回帰を考えたのか以前に少し理解を持った気がするが、忘れている.摂動域以外でもっと詳しくといった想い.
”アインシュタイン-観測者とは独立した、因果律に従う世界がたしかに実在する”-これは当たり前だろう.これを認めないのは屁理屈を述べているとしか考えられない.観測したときに実在するは、実在していたものをその時に捉えたということで、単に独立した世界を普段は全く気にしていないということ
フラクソンは1961年だったか、摂動はいいとして回帰を考えてしまう場合は超流動へのいざないだったか.摂動に関してフラクタル的意図であったように思う.これは完備の1形式を想起させて.
マイスナー効果・1933年--帰納はここでは成立しないという感触を得たが・・
因果律の証明はむずかしいところもあるが、独立に存在していることは否定できない.ただし人はそれを行使しているにもかかわらず無視することもできる点で、すったもんだが出てくる.
英語はSVであるが実際にSVではないかと漸く捉えた.説明というのとは方向が違うのではないか.後は関係分析がある.ちなみに子音で悩んだのは小学校5年生の時であるから、個人的基準からは小学校5年生から英語を始めてもよいのではないかと思うのである.
メラトニンで思いだす昔は、限りなく鮮やかなブルーのクロノスイメージ
ESで遠慮しなければよかったと思うことは、量子に関していくらなんでもまだはやいだろうと思って考えるのを止めてしまったこと(通底では進んでいたかな)と子音の連続を浮かべたときキツイので、別これは意味ないだろうと思ってやめたこと(その結果英語が苦手に・英語の成り立ちなど知る由なく)
基本的発想のほとんどは義務教育時代、それからx年も重要だが・・・
日本という国は釈迦にとって特筆すべき国なのか、特異点なのか.末法的状況なら縄文末期がそのようなはずで、もっとも仏教などはまだ存在していなかった.日本に宗教があるのなら縄文教がもっともふさわしいはず.在日諸外国人の違和感は縄文教とでもいうべき底流を取り込むことができないからだろう
昔、深淵に方向が別にあると浮かべた時きつかった.可換のインスタントンと非可換のインスタントンは異なると今--インスタントンの線形感覚が気になっていたが、不確定的インスタントンはおもしろい.
クォークが見えず、無限力がそれを示唆しているとすると、すでに小さな領域に無限が成立していることになる.クォークの無限遠は内部であるという仮定が..(無限力雰囲気想定で)
小学生の時から天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずが疑念で、告白を浮かべたのは中学生になってからだが、或る書物に教育を受けなければ・・とあるらしい.つまり教育や勉強をしない人もまま多くいるはずで、その書物はそのような人に対しては造ることになる.
インスタントンはディラックにでてくる.結局あの建物の2階の廊下でディラックをどうしようかで保留・避けた形は、今頃になって避けられないものとなっている.3次元のラプラシアンを考えていなかったような雲間草、k/4では彼女はまとまりすぎていたかも.
真理に関してはある女性がいてむしろ専門的存在とみて、真理発言をしても貰わないとだが、擁護して真理域思考をするのにも疲れて止めたことがある.この女性は自らの才能の自覚をそのときにはしていなかったが、潜在的には確証していたようである.今は?.
ハイデッガーの詩は、存在の真理に近づく考えや発言で、バタイユのように想像力を用いた神話象徴のものではないと、そんな考え方もあったのか、このところで非常に悩んでいる自ら徐に記述した・考えた詩的言明について、ハイデッガー風には問題のないことになる.
ミラー対称性?!、特性方程式にちょっとはヒントの要素があるかなと、がしかし違うな.カオスではなくて混沌方程式があれば、しかしながらブルバキなんぞがあって、方程式は整序力が強く.
深淵の双対--超準の無限小の双対はやはり想像しがたいというか、考えたくない何か抑制力が働いている.双対より表裏・補空間か鏡映か.鏡映より共役?
ペンローズによってまた煩わしくも深淵の双対などを考えてしまった.考え自体はおもしろいのだが.ペンローズのようにホワイトホールになってしまうことも考えるなやはり.それで相転移に無限がなんらかの形で関係しているのではとも思いつく.ありそうな話では?.
”完全な無限級数が考慮される極限においてのみ、時空は”突然に”曲がるのである.”--この辺から深淵の双対を思いつく.深淵の双対ならばなんらかのものが実在するかも知れないので.複素よりここは深淵に対してブラックホールをどうするかの方が浮かぶが、これも物理学者達がすでに考えている筈
まあ見えない6次元もその考え方自体は浮かべたが、その先の思考は止めてしまった若き日があるから、近年に見るヤンミルの図像は何か芸術的とも思ったことがある.
人文と自然科学がインスタントンで結びつきそうな考えが浮かんできた.社会科学がインスタントン化をしているのではとか(実際にはインスタントンはよくわからない、イメージで追っている.インスタントン的なある何かといったところで).
ただその思いつきを考えていた暗黒空間での差異の映像時はきつく、途中で思考を止めてしまったまま-が、インスタントンで思い出させるとは.(大体、強靭は柔軟対処はいいのだけれど、一定パターンの連続の閉鎖束縛はきつく、不愉快な有限障害意識がそこにあって)
パラメーターが極限0で可換になる--昔考えた4種の特性方程式について、関係ありそうな気もあるけれど、イメージが異なる.インスタントンは裏の建物の2階で思いついてしまった暗黒空間の一定値連続のイメージである.これは強靭のイメージとも似ている.それでおもしろくないと思った-
神の能力は自由自在で万能ということになっているのに、それぞれの宗教には戒律とかの制約があり、不自由の束縛があるのは神意識にずれがあるのではないか.神自体に多様性があるとしか設定できないことになる.宗教多様論が成立する.
『余裕の挫折で終止符が打たれた』と筆が滑ったことに関して例を述べれば、マルクスの資本論とハイデッガーの存在と時間が浮かんだ.これらは未完成にもかかわらず、今日「説得力を持って膾炙されている」ものである.前者は追記述があったらしいが.そんなつもりであったが、諸々ゆえに秘匿に・・・
ヘーゲルのようにシャルダン的にオメガ点を設定してはいないがしかし・・
なぜ阿弥陀でなければならないのか、日蓮も強制的なことを述べている.これは宗教という存在に絶対的力意識を持たせる本質的出来事のようである.心理学は魂をもてあそぶところがないかと若き日に思った事がある、それを宗教にあてはめると魂の自由を強制的に束縛してしまう・・・
超弦の進み方はまず遅いはずであると昔に、それは他者まかせであるのだがかなりの比重を意識してある.これNo.23に十分来ることに気がつく.
20:80で80の方が中間存在とすると、マルクスが世界を変えるという時の倣いから、20を中間存在として80を中間存在以外とすれば、確実に世界は変わる.がその方法と時間のかかり方は未定
ペンローズ図は形式的にネーターでそろえたのか、中身は対称的意味合いだけれど.特異点と別宇宙の関係が未定のキーポイントという想いである.
今となっては不必要な忍耐をしていたのだが、そのしがらみを自己自身で作って漸く外れた.何年かかったことだろう.覚悟が必要だったのだが、出来得ない心理感情があった(雑念といえば雑念であるが)
昔、史記狂の人物がいたな、全く変わった人物なのかスケールが大きいのか判然とはしなかった.なんらかの実績をそのごあげたみたいだが、史記があれだけ述べていても、それ以外にも多書あるのに現中国は他聞によれば、さほど昔と変わってはいなそうだ.人間は徐々にしか変化しないものと見える.
No.26に勇気のなさで、妥協した『像変遷』という言葉での認識、あまりにも当たり前過ぎてつまらないとは思ったが、その後どうしてもこの言葉が消えない.それだけ有効ということなんだけれど・・.編年体や紀伝体で未来の事象も記述されることは、しばらくの間確かなことである.
時間には、心理的・生理的・物理的がある、ゆえに身体も心理的か生理的か物理的かであるような特徴優位の人間が実在する.
抵抗権の担い手に公権力もなる・・とは、それ以前の市民的不服従は承認に値する原理に国家が依拠している場合のみとハーバーマス.--しかしアローの定理が成立するので、承認に値する原理は全体を被覆しない.さてそれならばとするとむずかしい.
悪魔は、人は呼吸しなければ生きていけないということを強調したとした表現と解釈してみると、そんなことは誰でも知っていることであり、誰でも同じことであるをことさら人々は日常において強調自覚を別にしていない.
”神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)”--聖書でもっとも重要なと思うこの”ご自身のかたちとして創造された”から、人の脳内現象は現宇宙の現象と似ているなと最近考え出している.
宇宙・・・地球上の類としての存在は単純明快に宇宙の摂理によって動いていると認識できる.もろもろの現象も・情況もその根拠を摂理に拠っているとしても間違いではないと現宇宙的には考えることができる.
”国家に奉仕するという方が通りがよい”そうだな、それで厄介な秩序維持者=共同体同調思考が幅を持っているわけだ.それらの人々にとっては権力・権威保持者になる形なので、優越感をまたそうでない人々に持てるからでもある.被対象者がいなければ無理やりにも作り出す傾向のあるところもあり...
意味を汲み取ろうとするが果てしなき徒労を齎すだけ
倒錯思考・でたらめ思考の主張などに同情する無意味すぎる6段階
個人・個体の生存を決定する・決定しているのは、思想の思想たる所以ということは、***の時からわかっている.たとえば人の考えを変える事はできないは、ここから演繹できる.
ともかく1972年・から2.3年も用意して・が転換点という考えの根拠がわからない.個人的にはそうだとすると有益になるが、早くその考え方を知れば徒労をせずに済んだものをという想いも当然ある.つい最近に知ったばかり・・・
南部の自発的対称性の破れには価値のあることがわかった.
300人でも多いのではないか?・は、システムから容易(?)に登場してくる
そもそも性悪はどこまでいっても性悪ではないのか、仏教の修行ならなんとかかもだが、ふつうに煩悩の塊はなかなかで、現存在は未完に終わるや中間存在は一生中間という中途半端にしかならないことが決定している・またその数が多く80%かも.ゆえに形式上修業終わりという○○が繁栄することになる?
ゲーデルの不完全性定理を離散4種・フラクタル化とか思いついた.若き日の特性方程式の4種は4次元や5次方程式解不可や3次元球面とかに結びつけることができると考え付き、全くあの寮の近くでよく(ごく自然にだが)浮かべたものだ.
ディラックや微分方程式を避けていた事が時間ロスを構築したことは否めない.ブラケット浮かべは権利十分ではないか.有限時間で爆発する方程式を最近知ったばかり、ナイスな事だ.
惰性群より極大イデアル意識なのだろうけれど、違うのである.アルファの色彩がそうさせていることはわかる.
俊才・俊才はどうでも・・遠い昔に考えたことがおぼろに有りて、何年かかって思いついたことか、ある大学に俊才ならなんとかでなくても合格することはできるはずであると.全く昔に処理していたことがわからず何十年も無意味・無駄な時を過ごしてしまうのである.惰性を要請するXX達の一人としての
αは共同的、Θは個体的、αはまず誰でも対処する筈で、、構想はしたけれどΘ専らしか考えていない.時代はαがΘに近づいてきているのは読みどおりだ.
ハイイメージ論の南島ものは少し頭脳に刺激域を齎すのでいいかなとは思ったが、実存的暗黒で頭痛き刺激がしているようで(文章の硬さ・固さが趣味に合わない)、その部位意識を消去しないと
境界域までに人間の歴史を辿るのならば、言語発生時期も通過するはずで、無論無言語時間も通過することになっている.経過に持っている言語発生時期を思い出せば、理性言語ではなくて未発達言語を人は用いることは可能である.遡れば沈黙は無言語時期ともいえるが、空間意識が入っていない考え方とも
ゆえに中間存在は絶対空間のユートピアンと思える.それは無限に対して抑圧を齎す.(有限身体がそのように考えている)-抑圧・あたかも有限身体は有限しか考えないのは当然であるかのように.
おっと気がついた、デイラックのδ分離はランダム・ウォークの消散象徴形式としてもよいのではないか.
逆というより乗っ取り的存在も多く、自我の妨害をしてくるものである.今まで乗っ取り的存在に気がつかず尊重して自我疎外を構築し過ぎてしまって、その修正を試みているがその傲岸な塊体により困難を来たしている.
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揺らぎ成分が斥力を透過的にして原点に戻るというニュートリノ的要素を考えることができるので、ある人物の言葉が退行以上をして発生起源点に戻るという考え方ができないわけでもなさそうだ.でも場を直ぐに考えてしまうな.あるいは時間経過を.
射影としての筒集合を中間存在に設定できる-拡大ができるとなると、実際にそうなればだが、内部存在として拡大意識はニュートン的心理を伺う.
「かってなく、また決してありえないもの」は埴谷雄高の不滅に対する哲学的意識・自己矜持なことは明らか過ぎる.
思いだすのは『余裕の挫折で終止符が打たれた』などと筆が滑ってしまったことである.別に挫折したわけでも終止したわけでもないのに、ちょっとした現状補足を付け足したもろもろの事柄が、非常に重要な意味合いを帯びてしまう・のはまたなぜなのか.
”大江健三郎--『死霊』は未定稿をふくむ九章で完結したのであり、この作品は「三輪与志と津田安壽子の愛の物語」だ”これはいえる.ロマンス小説とも.”『死霊』を書きつぐ埴谷さんの力の終りを意味しても、『死霊』の終りを意味しない”という意見も賛同できる.
自由運動から自発的対称の破れで何処かで相転移が起きて有限になる-中間存在は相転移の結果?、で有限な中間存在に自由を与えようとするのは逆行になる?などと考えてしまう相転移.相転移に関して思いつくのはパーコレーション傾向、ただその細かさはペンローズのように小さいかも.-限子なる考え-
”たとえば粒子1が原点に固定されているような場合には,右辺の 2 倍の因子が現れない”--こんな文章が非常にヒントになる.揺動力は全く思いもしなかったというか、気がつかなかった.十分その視点意識は多面では持っていたのに.
他者の言明によって頭が麻痺するということは、調和・均衡の視点からは、他者が麻痺的存在であるということになる.
オルガネラのブラウン運動に対する重力の影響発生事象が存在すると・・でちょっと個体差が生じるとは直ぐに考えられて、心理的な判断からはなかなかとらえられなかった視点を得たことになる.
爆発方程式の時間や離散構造などを眺めていると、「芸術は爆発だ」といった人物の言明は当たっている.
fleshボディの不快さがある.強靭な粘性柔軟肉の不透明さは、邪悪でなければ未熟という未達明らかすぎるだろう.一般に無私は透明的
今、メルロ・ポンティの概要を眺めていると、メルロ・ポンティは小説家としてすばらしいという想いがしている.めずらしく数多き面白い意味ある文章内容の小説として.
幼き日に、Kの道の他家の畑の縁で、蓼食う虫も好き好きが浮かんだ時、感覚ではなくて知覚をどうするかも浮かんだ.この感覚的なもののリアルな意識を.若き日に知覚の現象学を読む時間がなくてはこのことに起因しているようだ.
”それは二つの存在の間において、「事物の言葉」として──すなわち「沈黙の声」の呼びかけとして──生まれてくるような超越的な意味である。”--沈黙の声の呼びかけか、システムの場は一応沈黙している.ただし動くと複雑すぎる.
ロシアαリトアニア侵攻でも明瞭な決断ができなかった、それに対して以上に個人的予知を思っていたからでもあるが、ソビエト変化は昔から考えていて、その後にその示唆意識は内的顕在化として個人的流血意識を持ったことは、不自然であることにさほどの意識を持たなかったことも、今では大失敗だった.
”街々の建築のかげで風は突然生理のようにおちていった”此の文章を目にしたとき、不快なおもいを感じたのは、生理のようにという表現で、そこには叙事的認識を感じたからに違いない.なんというか抒情感がない生理構造の持ち主としておもしろみがないと.
別の作家に何回か会って、そのときの話の中で、世界を狭くする言明を聞いて、その処理に長いことかかったが、ふと
昨日に<しらけた言明>ということで処理できた感がある.<しらけた言明>を受けているケースは他にも多くあるが、記憶の邪魔は複数ある.確かに<しらけ>で統一はできるが.
そういえばその面において若き日にそんな性格面もあることを思い出した.鋭さというのは切断をしてそれで終わりで延長がないのでおもしろくないと思ったのは、義務教育の日.その後に極点というものがあり、少なくともこの極点を理解・了解していたと考えられる作家に一度短分会ったことがある.
考えると宗教戦争は他宗教との殉教の戦いであった.流血が最も特徴なのは女性の生理構造であるのだが、理念から・ほぼ殉教的色彩を帯びた・戦いが始まることもあった.
常微分は複雑混沌を予期させるので敬遠して、非線形をとか若き日.非線形の方が困難なのは日常当たり前には思っていることになっているが、常微分の混沌複雑に際して、爆発を思い出してチェックしてみると、なんというか値が∞になるということではないか、半線形・準線形など・・
覇者型や叙事的人間・A期的は征服欲強いが、思考はどうも単純素直なところがある.これは男女にもいえる・つまり女性にもA期・G期以前しか認知できない・存在が数多くいるようである.単純素直さで足りないところはひねりや虚偽性が入ってくるが、ともかく直情的傾向は強い.
宗教戦争は言わずもがなで、戦争は宗教の流血特徴からくると、世界の宗教パワーから判断してみた.
「智に働けば角が立つ」は智を働かすのは20%で角を立てるのは80%という例の法則を考えてみた.情に棹さして流血自体を数多く構築し、意地を通せばは偽善の要求が強すぎると、(意地を通せないので窮屈である考え方もあるのだが)
中間存在のブラウン頭・映像はどうみても原点回帰するゆえに、いつまでも不自由な不快さを感じることという解釈になる.消散する頭は非自然科学的なイメージを持つと思えるが判然としないので・おそらくそうだろうと.(-苛立つXX種に対する考察-)
記憶からは減衰振動と消散が浮かぶ.縮小・縮減であるならばそうであるが、実際にそのように考えるらしい.位置エネルギー・ポテンシャルが消えるということと考えると、別に相転移的は領域カバーによるとなって・・(大体解けたかな・・)
アンナ・カレーニナの分析は、双対がまず浮かび、アンナカップルはランダム粒子で極大イデアルが登場する場面もあるらしい(読んだことはないが、有名すぎる「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」自体よくわからない.幸福とは一様であることになるが・・)
”三次元以上のブラウン運動の軌道は、 時間の経過とともに無限遠点に消散すること-1944年・角谷静夫”なんと1944年とは、相似はフラクタルを意図していたような.アンナカレーニナの幸福な家庭は・・を考えていた場所で、合同とか考えていた中学生、フラクタルは知らなかった.
摂理は人の場合鮮やかに快感を与えて制御している.
自由には責任があるから、宗教に責任があるまでいくことになる.
まあ限界外でなくても理解可能なものもあるが、時間短縮作用も十分なので、展開すると何十年も有効であるようにしたものが、No.xで示すところのもの.(有効であるか否かは毎日チェック中).タイトルを不明にしておいて、推理のミステリアス保存もたしなみとして展開中・およそ推測がつく場合も?
アドレッセンスといえば、べつにそうではない認識であるが、昔に『限界外で判断してくれ、そうすればそこにいる』と宣言していた筈が、内面で個人的に思っていただけのようであった.普通人は限界外で思考できないのだが・・さすれば理解できると.
私とは他人である-ランボー、私とはあたかも他人に思えるほどに私であるという解釈しかできない.私が死体になると実際には他人が死んだことになる事は全くありえないことである.
自由には責任がある--から、自由には自己責任があるとすると、権力的自由責任に犠牲があるわけではない.優越感にも自己責任がある・・
”ブラウン運動の非保存性は、(フーリエの熱方程式に従う)熱や確率過程が無限伝播速度をもつことと密接に関係します”--ヒント
グルーのパラドックスは超準解析が無限小をいっても、ペンローズがフラクタル素子を述べても、デデキントが切断をしても区別ができない思考対象をかって設定せざるを得ず、無限下降の哲学対象の存在となりて.
”規則は、われわれが受け入れたくない推理をもたらすとき、修正され、推理は、われわれが修正したくない規則を破るとき、拒絶される”--拒絶される・・前提にある、理解されない・その実践も困難は.
”小説家の幸田露伴は贄川宿から望む情景はスイスに似ていると「知々夫紀行」に記している”--多分にこの風景のところ、今まで行ったところではここと、京都・周山街道の小雨に煙る京北の道を振り返ったところの2箇所のみ、日本画の風景が実際にあるなと想ったところなのである.
しかし内的時空などと考えて『保管場所』を意図すると物理主義的になってつまらなくなるものである.安易な気分になる事は確かだが、深淵の快楽はなくなる...
エントロピーという概念は一様だけれど、エントロピーの内容は一様ではない.一様に変化はしない.
心的現象論序説の覚醒時の領域⊃入眠時の領域⊃夢形像の領域という同心円図を考えて(個別考察は目にしていない中で)、夢を覚えている場合はこれら3種が一点域に集まっているとすると、同心円構造からはずれる.ABC予想のように同心円を動ける第4の構造を直感しているが.それは段階より構造的
内的時空なるアイデアが浮かんだ.No.23あたりに使える.人が持っている歴史が保管されている場所を客観的に表現した場合であるから、心理的な懊悩はあまり気にしなくてすむ.
宗教の特徴は瞑想と流血と殉教だから、これを宗教に限らず現実の事象に全く適用して差し支えない.また現実はこれらの組み合わせになることもまた多いのである.
昔、坂道を登りながらかく考えた、殉教-わからない・確信を得ない.(信仰に殉じて死去することとあるが)、生きているので実際には体感出来得ないということだったのか..生前に対する・生きている当人に対する殉教意識は・・そうか戒律ということなのか・・はともかく信仰=生存のように設定すると
中間存在は不快といいつつ、身体の生存には中庸・バランスが必要で、ただ芸術的観点からは中間存在は否というしかない.芸術は役に立たないというのは非芸術的数があまりにも多くいるからではないか.とにかく日常には芸術はあまりでてこない、芸術的といえる技術・才能がそう多くいるとは思えない
システムネットワークで3次元+1を設定してみると思いついたらこれを思いだした--『見えない目よ粗い目よ-No.10より』
はっと気がついた、脊髄反射は行動以外には考えられないではないか、行動主義の文字を最初にみたときに苦笑の愚劣さを感じたのは・・
縄文中期のみならず、ネアンデルタール・デニソワ人以前の原人も弁証法を用いていたことは確かだろう.
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