2016-05-08

my ft 04302016

 
記憶にある不快な言明達はたかだか短絡・脊髄反射でいいのではないかと思っているところに、吹き出しも短絡・脊髄反射のようなものであると、全く他者になにもいえなくなるではないか.まあ暴言理不尽脊髄反射と吹き出しは意味合いがずいぶん異なるので.




 
生理変化は保存しないことから、ポテンシャルのあまりかエントロピーの影かといったところを想う.




 
硬いXYはハードであることは間違いない身体特質を持っている、その思考にも如実に現れている人材に辟易している、その人物は身体的特質から自らを考えたことはなさそう、とにかく考えに考えた生活を送った割には..そんなことはなく自らの現存在的硬さ・剛性に気が付いていたかな?




 
アイネ・クライネのXXにはムンクの思春期を重ねていた、今見ると確かに立ち昇る黒い影があった、なんとなくあったように思うがそんなことは気にせずにであったので、思春期はまずかったなと今にして思う.




 
白い巨塔第回のチューブに遭遇して見た.面白いが跡が続かずあらすじで終わる.TVを見た記憶はないが、書物想定で非常な苦痛を味わったことがあり、よく覚えている書物である.リメイク版は全くつまらず見る気はしないが、この同様な苦痛をNo.f時に覚えたことがありそれもよく覚えている.




 
そう思ってみると、思想の思想たるゆえんは、我が心石に匪ず転ず可からずなり・・や朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとかまだまだ例証はありそうだ.わが心は関係の本質にありと柏舟は述べてもよく、孔子は道とは一生をかけても悔いのないものであるように絶対的なものであると述べても差し支えない




 
まさか吉本隆明が思想の思想たるゆえんを理解できているとは全く思わなかったので、今考えるに理解していたかもしれない・もしくは肉薄していたと、どうも表現を見る限り肉薄と考えるのだが.個人的な秘匿感があって、Yは暴露しているような形になるなという思いもある.しかし対象差異をどのように?




 
思想の思想たるゆえんを人々は持っている可能性はあるが、それを自覚できるかというとまず難しいと思え、ほとんど理解できない・把握できない・到達できないものであるように思っているのだが・・




 
思想の思想たるゆえんを関係と称しているかなY,そうなるとゆえんは関係の本質になり、思想の思想たるゆえんはその人物にとっては、絶対的なものということはわかる-つまりそれが生きていることの証であり、その指針に沿って生きることであり、それを基準にしていいようなものであることは知っている




 
何やらよくわからんが、個人的には重要な気がする時間対称論、そもそも”ブラックホールのエントロピーは、時空の対称性から導き出せる”ことは知らず、ネーターの定理は部分的な印象が、にもかかわらずかなりの箇所で有効という『小さいものは大きいものより大きい』のNo.を当てはめる形のもの




 
人間と人間との関係におけるどうにもならない身体の有限性のことでは?




 
そのXXの弟に実時間を年戻されて、つまりその陳腐に思える弟は年前の存在で、思い出してみると年前の思考を強制主張(聞きたくないのに強調主張をした・強勢圧力で)して、何を言っているんだと今では思い出して、あの中学校の階の廊下を歩きながら-西洋の没落が浮かびまさかそんなことはと




 
幽玄が登場して個人的にはこれで頂点という感じである.玄妙とか玄妙・・・




 
中間存在は、その心理的深さ、認識能力、視野、精神年齢、絶望力、忍耐力・上昇度・依存度・などにおいて浅く・低く・狭く・低く・浅く・軽く・低く・高く・・そのような有限人間をまた中間存在と称する.ただし次世代か何世代かの後に変化の可能性はある.




 
笑いは人の生理あるいは心理が極端な緊張状態の持続に耐えられないから、その緩和のために存在していると現象学的に見る.真面目とか真剣とかの事態を笑って楽しく過ごす傾向の人は知らないのではないかとも思ってしまうことがある.




 
No.fにおける重むろな補則的なものは、好まないポアンカレ要素を含んだ形のもの解析.




 
未来対象として不明なものは不明が明瞭であるが、過去対象に対して不明なものはすでに明瞭であることに気が付くことに時間を要してしまう.この時間自体に結構なエネルギーを用いるのだ.なんと表するか言葉による表現化できないといつまでも不快な性向がありて




 
何十年も悩み考えたせいか、イメージ上はまだあまり芳しくない映像としてよく記憶している対象について、特異点で説明できることに、麻痺しすぎている記憶映像はまだ消えないが、ようやく過日思いついて、相変わらず現時点でわからないものはすでに過去において把握しているものであったという例を想う




 
全く力学系の非保存とかロルの定理とかなるほどと思う膾炙物を、悩んでいた思考の人々による既知の提出物への遭遇という無駄なエネルギーを使用したという埋没感.




 
ル・クレジオのように、後には無機物が残るだけとさらっとエスプリを効かせる仏人もいる.




 
無限遠点で平衡するという考え方はしたことがなかった記憶である、それで宇宙の熱的死とかのエントロピー最大を人々は考えるのか、その場合最大値は何時まで続く時間を有する?、なにか最大になって終わりでその先は考えないは、生理から来る考え方で、ホワイトホールにつながる考え方のようでもあり、




 
吸引不動点がコルニュの螺旋意識の興味に現れていたNo.tt.クロソイドの道路設計おいて吸引は価値があるように思えるが、マイシステム上価値があるかな?、直感自然がおもむろにそうさせたので何かもっと未知の価値設定ができないといけない.




 
力学的エネルギーの非保存対象が存在した時、それは常に生理時間の増長に対して、心理的にまといついてくるという単純簡明なことに気が付いた.




 
人々の無限遠で収束するということに関して苛立ちを覚えるのだが、摂動は収束・消失するものであると考えていた事を思い出してしまった.科学的な面と心理的な面の錯綜が成立してしまう.摂動は一応そういうものであると特別意識を当てた記憶もあるが




 
身体表現性障害の心身症--少しは興味ある.慢性疲労症候群などと昔に冗談的に述べていた頃から、今日では結構まともな疾症となっているらしい.演技の虚言性冗談行使時の論理捩じれを構築した時があって、それが結構影響している可能性がある.やはりそんな対象実在存在も問題あるのではないか
 
 
   

 
λ≻の場合のリヤ指数自体になってしまって、その時に考えていたδ関数意識というより、リヤプノフ指数を考えてしまったような、この関連から逆δを連想してその逆から構想空間でNo.意識構造にヒントを得た.これでは知識を無視したままでは進展しない結果を判断するな...ディラック・・・




 
ある時リアプノフ指数的なことを行使してしまった調子づきを持ったことがある.指数でλは正の値・上半平面・立面上での出来だった.修正の必要とその踏み込み理由がわからずちょっと追求すべき自己所為.これは閉鎖的グリーン関数的な面の反動意識はまずあることはまあそうだろうなと自覚はある.




 
最近、思弁的実在論が流行していると、今日知った.概観を一度眺めただけだが、考え方が似ているように思えた.ネットで流行しているのも面白い特性である、当然身体意識型人間には信じがたい・手に取ることができないものなので、何かといいたくなることだろうな.


 
それ以前に非線形的だろうと思っていたことが、ほぼ線形答えでいいと判明した時の面白くなさ、勢いのしょげり、何だよという思いが一年前にあったなと思い出して.
 
ローティーンの頃ラジオキットの組み立てをやって定型通りに部品をセットしていくとラジオ使用可能になったことがあり、その時にその通りにすれば事はなるというパターンはもうどうでもいいと思ってしまったことが、いまだに心理了解ものの実践・実行を妨げることになっているようだ.




 
内部の無意識化にしたもの、現在の持続中の悩みを自分の主体のように言われると不快でしょうがない、なんという無視か間抜け化のどちらかでやはり後者でしかないだろう.いや双方でもあるな.無意識を蒸し返して言われると、俗にいうサルの潜りのような人間で、人間よりサルに近いのだが、




 
仮に対米従属を止めると今度は対中ソ従属の可能性が高まるのではないか、果たして独立を全うできるかは日本人の依存体質を止めるか、遺伝子の個性ある面・ほとんど特異点的な民族を主張するかに持っていかないとだろう.




 
過去に未来を持ってこれないというパラドックスの逆で、未来の見える現実を未来において避けることができないというエスパ-を知っている.




 
ガウス曲率位相は不必要なのに人々が強制・強要して困る.その存在価値のために無理矢理不合理・理不尽要求をしてくるから何ともいやはや、どのみち愚かな存在だから遊んでいようという意識作用も働いた結果、結局閉鎖感を味わい苛立ち常にを醸して、またそれが当然だと思う要求者たちにも困ったもの




 
無限遠の消散はNo.に絡んできて、普通になんでもないことなのに、ガウス曲率的的判断位相で考えてしまっているからおかしくなる.最もどこかで対象XXを想起してそのように考えてしまった可能性が、いや中学生の時の顕微鏡の花粉を想起した時が原点であるな.




 
無限遠でブラウン運動は消散というときには、その消散する場がなくてはならない.そうなると消散は有限を強調しているようなものになる.この消散の意味が分かりかねるやや無責任な言い方で、消失するではない方だから仮に無限遠と称してるような形であると解釈.まあどちらも無限遠場は存在しているが
 

   

 
関係の本質は存在理由ではないのか、人が孤独になり自問自答するときに現れるのはその根拠だろう.存在理由ならそこに存在している人すべて持っているはずである.何しろそこに存在しているからである.存在根拠としてもよさそう.Yにとっては実在理由・実在根拠になるだろうが.




 
一般にルールというものはミクロな個人のみを対象としたものではないという発見というか、あまりにも当たり前のことに気が付く.ルールは共同的が一般である.
 

   

 
どうもここ一両日に気が付いたが、あるXXの母親がなぜか体内に巣くっているようなのである.あるXXには失敗で、その弟も非常まずい記憶のある形となり、総じて厄介すぎる悪魔的家庭に絡まる羽目になったものだという記憶がある.この母親は関係ないだろうになぜこんな不条理情態なのか参ったものだ

 
なぜ市民に希望なのか、どう見てもそのスケールは小さいのに、ただし明るい空間である.そう考えていると暗黒域を想起して、これを離そうとしたが離れず、そのことが漱石の明暗小論文につながったかのかも、今もそのパターンはある.一応地球にも昼と夜があってその色合いは明と暗、その他にも・だ.




 
普通の欲望の塊の人間が貨幣なき国家なき無神的人民になることができるか?.それならば精神的には仏教の世界がすでにそうである.とりあえず考えられるのは、その共産形態を構成することができるのは、現時点では聖人的人間のみの世界であるならば可能性があるとみている.




 
スピノザの神の決定論は責任転嫁のようにも思えてきたが、自己主体以外によって規定されるという考え方を親鸞から伺われるなどという文章を見ると、別にスピノザの神の決定論と同じではないかと、人神的なものになると封建制度や権力構造、宗教性と伝統などが出てくるので、自由からの恐れを齎すとか




 
超平面の一様性と相転移、乖離と多世界とか思いこんでいると、Sの猫の話は一様時空にこだわった話になる.当然のごとくこの地上とその延長である宇宙実在は、一様時空と人々は考えている.




 
”かってなくまたこれからもけしてありえないもの”は埴谷雄高の哲学的意地か単に哲学か唯一者とその所有にヒントを得たのか、それらは評論であって固有の精神構造から考え付いたものと見るのが正解だろう




 
とあることに不意に思い至りて修正を加えた、これは個人的に結構重要な事柄である.全くもう何年も過ぎ去っているにもかかわらず、思い至らず・いや考えて悩んだことはあったが、自然の時間をこれだけ要する運命的なものだったという結果論は、多くのケースで持っている.




 
映画音楽はなぜこんなに楽しいのか、特に画面と共にであると一層である、ドルーズ当たりに映画論があったが、映画とは何ぞやといわれても答えを持ってはいない.画像化した文章表現で理論より実践な内容ものは間違いないだろう.起承転結という懐かしい小学生の時に自然に悩み続けたものがNo.tnに




 
ゲーテの西東詩集の考え方はマイシステムと似ている、ゲーテだからその詩的直観で想像できたのかもしれない、まあ稚拙というかわかりやすいというかイージーというか、簡単に表現してしまっている.その点はまことに面白くもない.人相好みじゃないな.(翻訳からだが、原文もそうであると推定できる)




 
向こう年までの人類の文明進化・変化予想もなるほどと思うが、In the Year もまた黙示録で、モーツアルトのレクイエムも黙示録なのでレクイエム以上のものは作曲できなかっただろう.ノストラダムスも黙示録である.シャルダンも同じくその他終末論はすべて黙示録に係る




 
冗談が現実になるのは現実が遊戯・ホモルーデンスを要求している傾向にあると気が付く.娯楽やファンタジー映画・書物などはホモルーデンス的ではないかと・ついでに笑いもホモルーデンス的と気が付く.




 
観光のまなざしは自然と文化・混沌と秩序で、無数の過程の結果真理に到達と同様パターンでさほどの目新しさはない.ただし、自分は文化・文明人と思い込み自然人を軽蔑・蔑視する人間はまたいる.あるいは家父長的な縦秩序で横の自由な幸福などを不快に思う始末に悪い、エートスの低い人間もいる.




 
ジャイナにとって体内の微生物は生命体ではないのか、昔から疑問に思っている.自らの身体外に存在している生命体との分離ならわかるが-身体外にも無数の微生物は存在している-体内の微生物をどうにかジャイナでもできないのではないか、アポトーシスもそうだ.細胞増殖も問題とならないか・・




 
定数と均衡-仮想仕事の原理とXXと弁証法と・・・




 
初めて聞いた、スキナーが縁に関心があったとは、さてどのように捉えるか.昔は無縁の縁をフルに用いていた、今は個人的思考に偏心していてちょっとだけれど、その気配はまだまだあるはずで.




 
No.tsにこだわり過ぎたというより勇気のなさというか思考の限界がそうさせた記憶がある.それゆえに空白の時の流れが感じられないというまるでミステリアスな展開、小説のような現実である要素もあることは、それも考慮のうちになってしまうとしても差し支えないかな.




 
ほんとに全く障害でしかない脊髄反射反応・即物人間の暴力言明・あるいは嫉妬発言など不毛でしかないということに、歯止めのかからない節度しかない人間たちは動物に近く、また内部保存を模倣してしまう濁った鏡・不透明な色々味の悪い鏡などを見ても気分が悪くなるのは必定明らかなのに.




 
空間位置物象は何十年たってもそう変わらないが、時間は変化しているということに多少違和感を持つ、さりとて昔の風景が変わってしまうのもつまらない面はある.「夏草や兵どもが夢の跡」の時間変遷に寄せる想いはよいのだが、時間が過ぎていることは間違いないが、その過程がないという空白期間




 
古道に道崩れのところがあり、そこに昔から落石の名がついているところの頂点に佇んでで物思いに耽っている---(さすがにどうも文章を認めないといけない情況を加味して始めて見る冒頭の出だし構想文試み)---




 
大体小学生が量子を考えることに歯止めがかかったその心理はなぜなのか、周りの相対圧力を考慮してしまった.それでも数年後に黒体輻射的なものと、光子運動を考えてしまったことは確かなギフテッド的?と思える事柄.そうと時々ツイートする柿木の花咲き乱れる三叉路の目安のある石の近くで




 
今では記憶にあるとてもチャーミングな風景がある.そこへの道、葬送行進曲を思い浮かべた近くのカーブの風景で、客観か客体の言葉を思い浮かべ何か疎外感のようなものを覚えた記憶がある.これがNo.thhに寄与する進展のなさにつながっていたことを発見する.




 
「多世界の干渉性の喪失」という多世界解釈はわかる、これを方程式化するというのはなんというか、かなり困難、ただ喪失世界自体に多世界があるという解釈はできる.No.thi・No.tt・No.tth




 
なぜこんな自分にとっては不都合な心理形態が成立する出鱈目な倫理もない軽薄衝動体などに阻害されねばならないのかさっぱりわからず、主体の阻害要請者たちはなぜ逆になりたがるのか?、さっぱりわからず、自己認識に乱れを生じて非常に不快を過ごしている.対自認識を味わうのは私である他者ではない
 
自分がしている意図の対象は自分ではなく、意図を途中で止めようが止めまいが自由だろう.意図を模倣した存在は私ではない.何しろ私という個体は一つしか存在していないからである.私は私であり、模倣者ははあくまでも他人であり不透明な鏡を見るよなもので、まして私は意図の対象者なんかではない.




 
意図する対象は自分ではなく対象を意図しているのが自分である.その意図判断を途中でやめてもそれは諸々から来る自己判断である.他人は途中でやめた意図の模倣をしてしかもその意図の作成者である自己をその意図の対象と設定・思い込んだ形の現実・実際発言をいろいろいまだにされている

 
表参道でのコンプレックスに思い違いをしていたことに気が付く、いったい何十年無駄をしたことだろう、なぜかその他にもそのような回り道をする必要がない事柄が多いので、これはなぜなんだ、他者の精神年齢進展度合いの遅さがそうした圧力になっているとしか.




 
そこの川で泳いでいるのは鱒ではないか、楽しそうじゃないか、君は鱒ではないのになぜ楽しいとわかるんだ、では言い直して、センスあるじゃないか、君は鱒のようには泳げないだろう-しつこい名家の対話にセットしたシューベルトの鱒の昔の楽しき思いで.




 
マズローも孤独で悲劇的で未熟的な権力志向者などに同情すると疲れて意味がなくしょうがない、それ以外でもだが.疲弊して経済的には損失しか残らないもの、また甘えられてそこでもやはり損失でしかなくなる、またそこを狙われてやはり損失になる.それではどうにもならない.




 
ふと思い出した、昔に人間のタイプは、ファウスト・ドンファン・ハムレット・ドン・キホーテだったかな、4番目を忘れている.とにかく大別して四つのタイプであると、それで判断を少ししていた時期があった..




 
ある関係ないものと関係ないものを結び合わせる関係意識は深淵を介在させるか、あたかもXX&XYの関係のように--そうかNo.の難点はここにあったか.




 
功利主義は正規分布を機能・効率的に見た見方であるという判断ができる.全く最大多数の最大幸福は明らかに正規分布であることに気が付かなかったものだ.というより人々はいったい何を考えているのか、惑わしい過程を露呈されると無為な時間を過ごしてしまうものである.




 
ロルーズが個人は共同体や国家から自由という考え方で、サンデルはアリストテレス型の目的論(個人の自由は目的のために問題にならない)において、桎梏を排除した形の共通善を設ける形というわけだ.どっちもどっちで、ロルーズは芸術的視点、サンデルはカント的.芸術には共通善があると思う.




 
関係の本質は不変かもと想いついている.固有性はその人個人の不変なるもので、人間一般を通してみると、存在論的に人は持っていることを推定できる.




 
No.に関して「黒体を量子領域としたときそこのエネルギーは量子エネルギーになると仮想して..」と発見(自己文章だが失念記憶上)、小学生高学年の時の、あの柿木の花咲く花散る三叉路の小さすぎる小川の流れでの光子・ブラックホール・老子の道のころだから十分.




 
おっと経済面で閃いた.閉所形式のKの誘惑から一体何年経たことことだろう、最もハイティーンの日に考えたことが影響しているのだが.




 
オイラーのγの展開式やテータ関数の展開式を見るだけで苦手のワンパターンのうんざりさを覚えるが、遅かれ早かれ直面しそうな気がしている.大体周期そのものがワンパターンである.それもΘに考慮してあるのは当然なのだが.




 
となると『4が必要である』まで生きているかどうか不明になる.多分無理ではないかという思いがあり、ほんと遺書はドストエフスキーの倣いでほんの冗談なのに(冗談が本当になってしまうなぜかこの現実の不思議)、遺書みたいになるではないか、ある亡き作家にはバイブルとは言っておいたライフワーク




 
パターンを考えてもどうも納得いかないので、モチーフが周期というヒントから考えるが、オイラーのγあたりで、古典的定数は周期であるように考えてもということのような事態である.そうなるとやはり第三ステージとして古典的定数化でとりあえずということにしておくことも一つの手段である.




 
まあ単純に個人的限界に接している第二楽章・Θ・マイシステム・モニュメントなどというという同一表現記録の存在した事実なのである.

 
帰納は常に仮説になりうるので、ポパーの着眼点もいいものがある.ベーコンで頭がひりひりしたハイティーンの日々、政府機関的にもベーコンでは先がないと思ったが、不変的に帰納が作用して時間を過ごしている人々・科学者・数学者たちと、ポパーの存在はその頃は知らなった今はポパーにも批判展開ある




 
遺伝子・微生物にせよエンティテイ要素意識であることは間違いない、世の中哲学的にはまだまだ十分変わってはいない何十年後、夕暮れにミネルヴァのフクロウが飛んでも未来に対しては有効なのであるということ.




 
よく識者というかメンターが絶望すればよいというけれど、これはポテンシャルが擁護している場合に有用であって、エントロピー情態ではさほど意味がない.ベートーベンもポテンシャルが豊かであった場合の話であるはずである.




 
複雑性の体感は時が過ぎればわすれるかもしれない、心的記憶はそうではないはずで、それが有用になる.




 
せっぱつまり情況であると地震被災者とそう変わらない時間を持っているので、そんな人々は被災していなくても世の中には大勢いる




 
サルトルは傲慢さと見捨てられを味わっていたんだ、回想ならいいけれど最近のツイート内容はそのような様呈となりている.またそのように仕向けられた昔からは不快だが、何とも思わずなのである.




 
バイミメは独が進んでいて、日本は縦割り社会なので、フラット独立分断構造のハウスドルフ組織構造ゆえにらしい、粘菌の動きはどうなったか.独立しているなら横的には非可換で、縦的に不確定スラーを行うのが上司というわけだ.




 
そんなロボット・叙事的人間は、有機物発生以前の時間に生きているか、現在時間で成層圏を超えて酸素マスクなしで存在していろ--とか位を考えてしまう不愉快すぎる不快をXX&XY達から受け入ていて、未来の努力をしないで、この即物処理を行使したがる存在の問答無用の馬鹿らしさ.




 
逆になったり思い通りにならない以上責任は持たない、自己対象ではないもの責任を持とうとしても主体を発揮させないのでだめである.ゆえに何かあるとすれば逆になったり、主体を阻害した存在達に責任があり、加害者的なのであるのは自明なんだ.自己欺瞞で逃げていてもそれは許可しない.




 
科学理論はいまだ反証されていない仮説の総体-反証主義がどうもよくわからなくて、すでに膾炙となっている理論も仮説になってしまうのか、それは実体意識からは不愉快な気分になる.そもそも仮説という言葉自体反証可能性を含意しているではないか❓、同義反復延長のようなもの?




 
俗という言葉はいやーなイメージがあるなと小学生、それが数年後にイメージ的のそんな存在に遭遇してしまうという不都合さ、障害物になるという嫌悪対象は、嫌悪主体に抵抗してもそれは嫌悪主体を無視することにしかならない.別に好悪は自由だろう、自然意識を尊重したいものである.迷惑な不都合対象




 
世界が無から始まったも演繹的拡張・妄想・未定設定となり、根拠はない.まあそう決めつけるという矛盾的なものを受け入れるという宗教的考えを述べた人もいるが、・・そうなると太虚という考えは宗教性があるのかという思いが湧く.




 
モナドやエンティテイや原子命題はしらける.ループもパーコレーション的思考である.パターンはみなほぼ誰でも考え付くものである.--思惟の法則があると結局は面白くなくなるという考えとアルゴリズムとの錯綜があるかな.




 
ライプニッツのモナドの無機的、ホワイトヘッドのエンティテイは有機的で、対比すれば客観的と主観的.システム構想のころ、いずれも要素単位論でその思惟形式は当たり前すぎてなんら意味がない日常・限界・行き詰まり感を持っていた.この両者は当たり前すぎて面白くはない.TLPの原始命題も同じ.




 
脊髄反射言明だからデジャブにできた?.即物反応強迫性があるのではないか、確かに現実はそんなケースも多々だが、当人たちが即物反応的人間に偏っている存在であると、まず認識していないのでそれが義務・自然と思い込んでいるようである記憶からの判断.いわゆる動物的存在を欺瞞したがる人間多く




 
脊髄反射反応言明に対してそれを尊重・そもそも脊髄反射言明を尊重する考えはないのだ・してしまい非常にナンセンスな無駄を、それもまたそれらの言明はデジャブであり、それに気が付かなかったこともそうだが、デジャブである当人に述べるという言明者の認識能力にも困ったもの.

 
Kummer surfaceの映像を見て、エンブレムのデザイナーなどは参考にすればという考えが浮かぶ.カラビ・ヤウの複雑怪奇映像は芸術的かと思ったことも、今では何か違う・多分閉鎖性によると思われる.サルのしっぽも妙な具合で、アラベスクは双曲映像ではないかとも思ったりする.




 
あの時は次元でも困難で、4次元は高次元はというとI予想という名前が登場した今、数学の王道は代数多様体と昔から思っているが、今も年前とそう変わらないだろう、一般人に多様体思考をさせようと当てはめを考えていたのはまたその年前の話、無理なことを考えてもしょうがないと思った先ほど.




 
覚醒時≻入眠時≻夢形像の順で同心円を描く場合は空間単純表現で、夢形像を直後でも認識できるという関連と覚醒時内部の内部の夢形像を起きた時の覚醒時が認識できるそのつながりを第4種の何かにしないかとは思っている.ABC予想のように渡るもの.単に生きているから夢を起きて再現できるでは?




 
どのような意味づけをしたとしても、原生的疎外という観念が疎外であるとは不愉快・不快である.この叙事的感覚の権力的・覇者的視点が気に食わない体質者であることは今ではよくわかっているが、千駄木に行った時にはそんなことは露にも思わずだったな.無意識感覚・直感では認定していたかも.




 
考えなくてもいいのだが、しかし具体的表現を漸くした形になった.なんと具体的な権力構造を展開できたというかような単純さに頭脳作用が全く働かなった多大な時間.まあ離散分離をして具体者に任せるという抽象も大いにあるようであるが.




 
時間的過程における様々な試行錯誤の結果真理に到達したという時間路X軸を直交化して度回転してみると、真理は色々な具体作用を様々に含んだ形となるZ軸という縦構造になり、抽象化度合ごとに離散分離しているのではなく、その都度包含していると考えると、抽象思考が成立するではないか.



 
『過程が統御を内包する』--どうしてもそう考えざるを得なくなってしまった中学生の時の思考を前文に置いている.普通に人は統御が過程を内含すると思いたい、特にXYにはその傾向が強い・XXも権力志向的体質者はまたそう考えるが、このような考え方をしていると大いにそんな人間は邪魔になる.




 
定積分は有限明らかでそこには普通に責任あるが、積分範囲が±∞である不定積分の場合には、有限積分体は責任意識が希薄になる、諸行無常の如く.(この構造は『過程が統御を内包する』と同じになっていることは少し前までは当然の秘匿にしていたはずなのに、こんな考え方をしてしまう自己他者的)




 
問題は渋み的でもあるが、具体から具象へ抽象へと向かうヒエラルキー思考をどのように判断するかは、昔からそのまま何十年も止まっている.いわゆる官僚思考の位相である.単に凝縮・密度ハイ・稠密構造であるのだが.




 
リビドー情態にあると形式知を用いるのは困難である.たとえ人間はリビドーを理性に昇華できるとしても.経験者の直感の表意事実を渋みといい、それを意識していない直感判断を行使することは確かに有用である.




 
組織・会社という構造体が成立・現前している以上、それは有限体である.組織にはヒエラルキー構造が付随しているのは必然的で、いわゆる縦構造で、積分作用が働く.有限である以上その判断には未定直面が存在するとサイモンは申していた.普通にそれは当然と誰でも考え付くことなのだが、




 
意識における想像ができなくなるそれは均衡・エントロピー最大であってそこが有限値自体的なものになっている.果たしてそれ以上変化しないか、限界なのかそれはそう考えたくはないが、しかしそうとも思える.




 
『層状組織』に断層・割れ目がありそれが動く可能性があるという地質を今頃になって気にする.自己自身の内部から見ている、それとも内部存在が妨害して視野を狭めているかな、そんな気がしている.多いのである抑圧をかけてくるXXが自己の狭さから自由意識の妨害をしてくるXXが、

 
しかしYも半端ではなくしつこい・さすがに本当に考えたことは確か.精神か物質か決定していない-同じ考え方-とか埴谷はねえ埴谷はねえと-これは異なる、埴谷雄高なんぞなんでもない.あと永続革命はいいとか、永続革命って何?で革命が永続なんぞするわけがない-トロツキーの頭はいいが.記憶より




 
まさかこんな無意味な時間を過ごす羽目になるとはその頃は全く想像もしなかった.不都合に向かうその他色々な障害発言者たちもいて、それら発言は単なるハイエナも食べない嫉妬のようだがどうも判然としない.ただ頭が麻痺する理不尽であるが-そんな発言者は愚かと優越感を持つというカルマがある?




 

 
公共選択が新製品開拓分野にかかわっていないはずはない現行仕組みではありそうで、そのような経済事象は昔から推定上あり(例えばダラスで倒れた大統領の父親あたり)、今もそれはありその辺が最も影響力強いと感じる.




 
無償の行為視点(芸術的視点)からは経済が成立しなくてもいいかという構想も成立するが、これはさすがに極論だな.芸術家にとってはしかし経済は無い、ゆえに経済他力が成立するというケースも多くある.人々が芸術は役に立たないというのは、経済視点第一義的に見ているからである.




 
自力から親鸞の歎異抄には強制力を感じるという、最近の米国メラネシア宗教研究結果から、宗教は支配者の地位保存に有用してということと同じく、親鸞もおそらく他者支配のために本願・他力を述べたことはまず間違いないだろう、強制力を感じるのでそう思わざるを得ない.




 
埴谷の自力ですよというアドバイスは先刻承知すぎていることで、こんなアドバイスはいらない.全くろくなことを言わない作家・評論家たちである、単に邪魔しているだけに過ぎない有名税というメンツプライドからまさかとは思ったのだろう.ゆえに他者の剽窃・模倣を見るのは自力の阻害になり不快であり




 
常微分方程式があったな、やはりこれも複雑さを予感して、ただし非線形方程式は避けてはいなかった.ともかく交代形式で外積の場というこじつけをまず強引にしてみたが、納得のいくものではない.それでも通らせることができることを思いつくのに、ラマヌジャンが出現してくるというネットリンク




 
まあ昔から数学は代数学だと直感していたが避けていたことがあり、その複雑さ予感で.そういえば避けていたものといえば、類体・カラビの次元・フェルマーの定理・代数学・ペンローズ・・・あとなんだ、ここまで思い出した.これらは現実的世界に価値があるという帰結になる.




 
おもむろに単にシステム上似ているので象徴させたΘの論理と個人的に表現しているので、テータ関数とか聞くとΘ文字を連想しないわけにはいかない.幼き日のあの暑い夏の川べりで浮かべた、楕円形の超想像的時間速度回転のイメージがそこにはあってと多分思う.そもそもこの超高速回転は何の意味か?




 
ラマヌジャンの擬テータ関数・年ハーディへ・が年に手がかりで年に全体像の一つの公式が発見さる(フェルマーの定理はどうかなという代物だが・どうもそう思ってしまう小学生の時の勘違いがある-ノートの余白で十分・多くても・枚で足りると)




 
”エタールとは、陰函数定理が代数幾何学でも成り立つと仮定すれば、これを適用することができるという条件である。(しかし、実際には陰函数定理は成り立たない。-”これ昔の理知的存在に今では遅すぎるが、見せたい文章を発見した.全く評価する連中はどうしょうもなくまた、自己自身も謙抑しすぎで




 
宇宙ホテルの時代になったか、第二楽章は『星間宇宙に瞬く星々たち』があり、これも結論部位でもあるので(ただし恒星間を想定していて、地球は記憶の彼方にというニュアンスを設けてはいる)、近づいたなとは思う.スターウォーズやアバターなどは意味なき空想物語漫画だが経済価値があるという不快さ




 
先ほど起き抜けにスマホのTV番組から、chを見ていると、ラフはホロにとんでもないアイデアを思いついたといいながら、4の狂詩曲をか月あまりで書き上げたと述べていた.変奏は主メロディを少し変置した結果、ややハードメロディが抒情感覚抜群になったという話だった.示唆的である.




 
太陽の寿命が億年とするならば、今神的移動でクエーサーに位置しているとすると、すでに太陽は存在していないことになる.何しろほぼ億年経ているのでという相対性理論.
 

   

 
ホモロジーをポテンシャルのみで考えてしまう傾向に気が付き..問題は本質台と波面集合と特異スペクトル(は同一)という種でいいのかとあまりにも明晰すぎないかと考えすぎてしまう、先に進もうとする意識が強いとどうもそうなり、それで失敗したローティーン時代がある.




 
人生で避けえないもの・それは関係の本質になると思うので、この場合エートスになる.




 
雨の日の構造を見ていた山道小道の抑揚の先で、やはり幼き日に考えていた事柄にエートスがある.エートス・これはこれから先の人生・未来を決定してしまうとその時に避けたもの.今想うにヨーヨーマのカンタービレやトラークルの詩にはエートスたっぷりであり、それがいいと想っている時間となりて.




 
推定、雨は降っているが私は知らないように生きた音楽家にアマデウス・モーツァルトというのがいるとほぼ確信できる.
 

 
昔幼き日に、あの雨の日のC山道の小道に佇んで構造自体を見つめていた楽しい時に関連して、雨は降っているが私は知らないのムーアのパラドックを常に思い出す.構造を見ていると眼前の雨は透過することができると、様相認識論につながるのか.答えはまずこれだな.




 
ホモロジー・コホモロジーはNo.teの何気な文面ではないかと気が付いたが、面食らう考え方、全くポアンカレの拘束感覚が嫌いで・にもかかわらずポアンカレの業績には価値があるという苛立ち.


 
「知的怠慢ね」といった女子大生がいたが意味がわからず、性的面かな満足した馬鹿のことかな、多分前者だと思う..要するにもうこの時点で、結ぶ思考に共通性がない.







 

 
科学者の描く今世紀の未来に超伝導道路があった、この発想はなかったな.あと壁が一瞬でスクリーンに変わるというのは未来だったか、昔に考えてうまく想像ができず、電子写真とともに自己にマイナス点数を与えた形である.共同的には十分パスのはずだが、一言余計なことを述べたXXがいて意地を張り




 
ところがそんなA期的演技的性格者は、自己欺瞞たっぷりゆえか、他人が野蛮に見えるらしい.A期人間自体未発達の原始的人間なのに、欺瞞でそう思いたく無さを隠したがる本能があるのだろうな.




 
くだらない人間を擁護する形として忍耐しても全く何の意味もないただ無駄な時間を過ごす羽目になるだけという如実すぎる経験値

 
論理ロボットには悟りとかは考慮することは不可能か、あるXYが急に女なんてと発語したことがある.同性意識かあるいは女性意識か境界症候の突っ張りか理解できぬが、君の母親も女であるという考えをしていないような間抜けさ加減大の発言は頭脳を麻痺させ理解不可にさせる.まさか母親憎悪があった?




 
関係の本質とは死を意味するタナトス的面か生理有限時間・その凝縮時間と思ってもそう違いはないだろう.悟りのための修行という宗教の伝統が日本にはあるのに、欲望的存在にこだわりすぎていたよと思える存在に、悟りとは?という質問をしてみたらよかったな.今はもう不可能ではある.

 
人間の生に存在論的に組み込まれているものに、生理時間有限がある.




 
昔、その視野は小さいけれど市民が希望になると思ったときに、それに付随して暗黒が離れない形で浮かんだ.これ実存の明暗や深淵・虚空のパターンと同じと気がついて、普通にカルマの人間は誰でも明暗を持っているのではないかとしてもよさそうだという帰結が生じた.
 
またついでに源氏物語もどうも内容は趣味ではないが、帖のタイトルのそこかしこの雰囲気はよい.それより「とはずがたり」を眺めてこれはいいと思った.解説には4歳から歳までの回想とあり、歳で出産とはいかに.そうかローティーンの物語でロリータかとちょっと思ったのを覆されて・・

 
Yは人は思想の思想たるゆえんはすべての人間が持っているという言い方をしているが、すべての人間は一様な固有性を持ってはいないので、普遍的に・存在論的組み込みであってもいいけれど・持っていていいのだけれど、個性がある・個性を設定できるように先天的差異があるとみる.




 
Yの関係の本質とは主体的行動・行為・判断のことではと思いチェックして見ると、やはり思想の思想たるゆえんのような気がする.Yにおいて思想の思想たるゆえんを把握できたと考えることが不快なのだが、表現力あるいは認識力の少し欠如感があるな.それで表現にはったりを覚えてしまう.


 
何かニッチがないかと考えてもアイデアが浮かばず、その後ソニーが電子ブックのいいのを早く出さないかと思ったりしたが、素直に出版関係を考えるべきだった.全く豪も思ったことはない.中学生の時に作家としては流だけれど、出版社としては成功している人物にやや不快感を覚えたことが記憶に?




 
問題すぎる記憶の烏帽子-鷲羽間で何も思い出さなかった.ひょっとして鷲羽-双六の間だったか?.こじれすぎていまだにこじれてる心理記憶.まあ相手は平穏な悩みも何もないのだろうと推定.




 
錐や正則はその定義が基本と、全く根本的に定義を把握していない、ただ無意識直感を使うのみ、それでもなぜか口から言葉が出てきて、大雑把ながら正当であるようだ-他者がそれに理知で懇切に展開するといった閉口さをよく覚えている.それも気にすることもないな.




 
実軸で三角形だと単に点にしかならないので楔まで出てくるとかなり曲的に考察、-にも無数の値があるのにとは思うが、象限のアナロジーなのか.ともかく単に点ではしょうがないないだろうと思うと連続になって、ハウスドルフはどうかなになる.




 
風が強い、春の嵐なる書物を昔読んだような記憶を思い出す.入院生活が長かったので中学年生、その時にちょっとしたことを思い浮かべてしまって、それをNo.Oに連用してある.
 

   

 
設定意図は明白空間の虚像=ある不明空間の実像の意味で用いている.結果不明空間・X空間のボキャを剽窃するXXが全く登場しないことに、高々身体的意識の剽窃関連などどうでもいいので、このX空間の言語要請なんだが..その意味では不明意図になってはいるが、別に隠すつもりはなかったが色々.




 
接・余接とラグランジュ・ハミルトンの関係から、ある空間の実像に対してある空間の虚像とはある空間の実像ではないことを意味している設定に関連付ける.おもむろに表現化したある空間に対して結構乱れる悩みをして、失敗だったかなとおもうけれど、単なる比喩的に用いただけであるので.




 
偏微分方程式とエンタングルメントについてだれかそのうちに述べるだろう、すでに述べている?としたら、せっかくサンクが埋まった形であると思ったのにがっかりであるということになるが、実際にどうなっているのか?.それでもそのくらいの意味があると直感を持った.




 
" 年・ Hans Lewy による解を持たない線形偏微分方程式の発見"この記述から、若き日に思いつた4種の明瞭な特性解のある方程式は、変数が4個ある偏微分方程式なら可能ではないかと思いついた.もしそうであるならば、なんという単純な解答・帰結だろうと




 
不確定性原理でカオス理論を説明できる可能性を直感した.果たして?




 
時空性は転がりすぎている.ts




 
結局心理想像力にシステムのタームを用いることになってしまったが、そのタームに当たり前すぎる認識を構築したくなかった・できなかった形のある昔の夏の暑い日.進展したが当たり前・普通すぎる要件になってしまいいいのかという思いで躊躇している.被覆で取り繕っておこう.




 
距離が存在すれば時間の影は設定できる.時間があれば一応距離を設定できる.No.ts




 
基数における長い直線が交わるようなものというのもきついな、フレアー点くらいでいいのでないか、そうしたほうが自然であるがだ...




 
グロタンディークの名前は昔に知ってもよかったはずなのに聞いたみたこともなかったけれど、ここで食い込んでいた気分を思い出せた.(こんな表現をすると後に厄介なことになるという懸念が浮かんできた記述後今を少し修正して、思いつくではなく思い出せたで緩和して)




 
無限小は例えば射影空間を一点に縮めたような意識を昔から持っている.それより古代のリッチ・フローの逆向きとか.無限小意識に対して時間を一瞬に思えば、縮めは成立するので、Gの多様体一点化とか方向視点差異を排除すれば、なんでもないことだった..




 
あまりにも普通に考えていた昔の視点からは・ニュートン空間でのことのような・相対性理論は男女関係に見えてくる.パリティの破れは不和とか.




 
集合論もこじつけといえばこじつけ気味にも思えるが、選択公理もそのようである.P≠NPがなんとなく片付いたような気分が発生したが、射影空間が広がってしまった.




 
ミンコフスキーの世界線の初見ではそんなものかという思いをした昔を思いだして、それが今では悩みの種になってしまっている点について可能性がこじつけ気味に閃く.さっぱり手がかりがなかった点から少し変化した妥協性を加味してもよさそうなことになって、これはまた自己自由の妨げにもなりそうだが




 
不動点・BMが消散するから、ロバの平行線は無限遠で交わるという不快な考え方を、使えると閃いた.




 
相対性理論が正しければ、時間は至る所で異なるので、時間は多様性を持っているならば、平等は絶対空間的考え方にならないか.相対論的には時間変換則は同じでも時間自体は異なっている・空間も同じで相対論的に平等は成立しない事象となる.




 
ダークマターかブラックホール的なものを体感的位相に持ってきてもしょうがない.リアルとバーチャルといって、リアルが精神的現実な人もいる.




 
対他と対自の差異がある.No.




 
発散と圧力は使いようで成立する.No.




 
藤山一郎を知らないとは歌手なのか若き?XX、それでは巷間いわれるように今の歌唱力は落ちているという示唆は事実だろうと推定できる.歌がうまいとか歌唱力があるとかなんだかわからなくなっている心性なのだけれど、フィッシャー=ディースカウの冬の旅はいいを思い出した.




 
αの偏微分でその世界と抽象する汎関数の関係は?、∂αはH定理とエルゴード関与傾向で、官僚システムは汎関数を意識せねばならないマクロ性、虚無と諸行無常関係などの解析・分析をまあだれか行っているだろう.




 
”創造的なものが見えないのは--過去の世界の虜囚となる”エンデはいみじくも言ってやがるな.そうは申されても実際にどんな対処を思いつかない、ある意味幸福な時間という感性.実在しているXX達の遭遇関係の中で見る記号システム論がそのようにさせるが、αに遠慮しすぎた若き日々が続いて・・・




 
そんなことが現実の圧力・状況で必然・自然にそうなるからαに関して何もしないという形になってしまう.仙人ではなく、隠者的な位相もないこともないからそう思ってしまうかな.問題は無自覚で熱烈に無知を生きねばならない人が多すぎるゆえにということにある.まあそれに巻き込まれ形という遅蒔き




 
α構想で覚えているのは、・家父長制について、・乞食にも愛を・・・まで構想したが全然手を付けていない.特にの項目は反貧困ネットワークや炊き出し・対ホームレスとかやっている人がいるというように、他の人が行うことが歴然的なことしか構想していないので、別に騒ぐこともないだろうと




 
しかし軌道に相変わらず乗らない点が問題だ.αの境界と虚無としらけと無意味な無味乾燥な感情と、αの錯綜関係による現実の巻き込みは記号メソッド内容で十分説得力あるはずなのに、無理解者に落ち込んでしまう体たらく、この束縛力対処を何とかしないとである.無意味な圧力が強すぎる現実生活関係




 
射影構造で現状を見るとどうしても虚無が登場する.道理でA期や叙事的色彩がまだまだ噴出出現するわけだ.現象把握は、考えるべきなのだろうけれ、歳の時に虚無を保留してから何十年、結局それを使うべきだったという、ほとんど避けているものが現実になってしまうとはどうにもまずかった形である




 
なぜ紫がωなのか--見者という他人であるわたしは、境界症候群時間に調子づいた詩を表したものだった.--セルバンテスのドン・キホーテのように夢を見ていたなる弁明をランボーは述べてはいないな.




 
一つの領域に対して全体把握をしないとという演繹思考、演繹体にも先天的や中間存在的とか領域面積・体積把握能力に差異があり、あと個性志向も差異があると-結果仕事の種類も多種ある--これ自体は多様性であることは歴然としている.




 
普通の人では節度や寸止め・衝迫力などは使えない、カルマ豊かで達人ではないからである.何しろ自然がそのように赴かせるが理由で、精神力を鍛えようとはしないものだからである.社会の圧力があると鍛えるが.




 
δ捻じれ・捩じれの構想が浮かぶ.捩じれか..そういえばそうだ、厄介といえば厄介、螺旋変容事態といえばしょうがないが.それは境界内外で普通のパターンなのに現象差異空間ではなかなか思いつかない.




 
認知科学の帰結は思惟の法則のためにありそう、人間であるならばそれは楽だけれどつまらないと思うはずである.実際にそう思った時間がある.現実は認知科学が進展している.指示言語作用が強すぎて無味乾燥な対象だが、当事者達は感情ポテンシャルのゆとりを持ちながら研究しているだろう.




 
皮肉は虚無の前座か友達であり、懐疑は猜疑の友達か皮肉の仲間でもありそう.純粋法学を浮かべたときに皮肉という言葉も追随させた記憶がある.犬儒とは後に知った言葉.




 
あるXXに対して子供を産んでも意味がないと思っているそのXXは今は子持ちである.この辺で意図が逆になっているのと位相が逆になっているという不自然さを想う.はたと思えば意味がない生がこの現実は有効なのか、これはタナトス・悪魔的な意向に沿っている.あの俗物XXも悪魔のようにしつこいと




 
オッカムにせよラッセルにせよその理屈付けは論理整合化だろうが、観念対象と空想対象を最初から判別できるものという前提に立脚しているようにみえる.ラッセルは絶対空間かとも思ったが、記述中に変な感じがして、どうやら英国伝統意識によるようだ.




 
記号はNo.4にどうしても入る.虚無をその詭弁色彩空間域と認めねばもう時間的にありえなくなる.代の体育館から時が過ぎ去り手である.通時的記号と虚無の認知関係を想定できるのだがどうだろう.




 
ヤスパースはまずいな、サルトルのボットは盛んに実存はヒューマニズム喧伝しているがヒューマニズムならワーズワースやヘルダーリンに感じ、怒りの葡萄や老人と海はどうかと考えて、合衆国は国歌のもとにまとまる多様性があったと気が付く.




 
自由なら昔から持っているが、他者がその自由を邪魔してくることが多く、一段自己レベルを下げる羽目になって、自己自身の思考位相を自己自身で追いかけるというなんというか、無知である他者に引きずり込まれているか、合わせてしまっているかの意味なきつまらない位相である.




   
なんか頭が理性がさえず、気持ち悪いと思うXX達のしつこい束縛に陋劣化を余儀なくされる形としか言いようがない.そんな対象、XXに限らずXYに責任意識を持つように考えても、さほどの責任能力は無いし、無理に要請すると何をするかわかったものではなく、危険要素がありそれもままならぬいら立ち




 
権力の作用を否定・超克・無視しえなかった小学生時、紛争理論なる単純さには明快さがあるが、なんというか当たり前すぎるきらいが付きまとう.現象学も似たようなもので、単純皮相感は否めないはずだったが、ある時エポケー戯れをしてしまい、愚かな心理内部を作成した羽目に、最も根源性直接であった




 
DNAオートマトンなる考えを浮かべてしまった.これでは人体物理的思考になってしまう.ゲノムゲノムと解析はあのころショウジョウバエのサンタフェのころ野田線大宮駅の改札口の朝.ショウジョウバエはモーガンがC初めから用いていた歴史があり、DNA発見が契機となってまた加速したハエと




 
記号といえばJREは山手線の駅に記号を設定とか、また無味乾燥が増えるが簡略便利性もないこともない.パースとかその付近からの知識で味わい設定量を確保しないとまたつまらずな生活感性になってしまう思いもある.ところがこの辺の問題はNo.4なんだが頭が動かない..




 
弧空間の問題がナッシュ予想で、『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』はこの領域を対象としていることを今知った.ナッシュといえば記号的なつまらないゲームの理論的なほかに何かやっているのは知っていたが、それも今知ることになった.




 
シンギュラリティがなくなるのは面白くないという性向があって、特異点解消定理にはいら立ちを常に覚える.『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』-直感でそうしたためてあることにもよるかな.




 
小学生の時に同級生・不都合な悪戯とは思わずにしてしまった・の家に何の理由か行ったときに、その名前がヒントになったのか、励起という言葉を思いついて、シビアさとしびれる感触を味わったことがある.今では人工的な光励起相転移とか




 
結論・結果が出なくても、またそれらを必要としないところでも、無理矢理に結果化を行うという不快な束縛力を発揮する存在でもある.特にその存在が中間的な場合や無自覚な場合は世界を狭くする才能しか持ってはいない(最もその狭くするにもさほど意味はない中途範囲でしかない).




 
P≠NPは結果判断とのことなのか、昔から出た結果を見ると判断が容易であるという性向を持つ存在に女性・XXというのがあるとは理解している及び設定している.直感ではマタイ伝に登場するユダという存在もその傾向を持っている認識である.




 
ザクロの木のある裏庭・池のほとりで浮かべた空孔は、断層撮影に用いられている形となっている.Psは水素のおよそ/の質量とは・・、幼き日のあの無花果の愛すべき形態のそばでの話でもある.




 
No.niダークマター空間で--なる文言もいいな




 
No.の難点に関して対称性の破れを導入するのも悪くないなと思い始める.そうなるとNo.に超新星なども入れて差し支えないことになる.




 
対称性と対称性の破れでできている人体、肺・眼・耳・両手両足・腎臓などは対称性、心臓・肝臓・膵臓など対称性が破れている.これにミトコンドリアの畳み込み(おそらく正解だろう)などが加わって、もうこれだけで難解な人体構造.No.&No.&No.に関連して




 
特性値の判断がつかないことから、一つの方程式からまずどう見ても一致しないと思える4種の既約方程式的なものが解になる方程式は存在するのかと考えたこと・見えたことが昔にあり、なんとなく楽しみで数学成果なんぞを眺めている節もある.




 
その弟あるいはその母親に引っ掻き回された感をいま強くしている.無駄でナンセンスな行う必要のない犠牲を強いられたようなもので、責任はその弟にあると設定するといいかな.でも演技的性格の偽善快楽にどっぷり浸って、陰謀的パリサイ人のようなもので全くつまらないものなのだが.




 
だましたのではなく、近くまで行って気分が変わったというだけのは話に、なぜか不快なルサンチマンを持ってきた存在も記憶に不愉快すぎて、あるいは他の面から言えばある存在が念頭にあり実際に会ってみてからということなのだが、これは非常なミス・間違いで全くその弟ゆえにどうもこうなったようで.




 
”G に値をとる定値関数の芽の層”ん?、定数・定値--まさかのある存在は定値人間か、イメージは全くそうではなく考え難き候なりだったが、ただ心理映像では間違いなくそうなることは見ていた.引用文から急に閃いた.では仮設設定が異なることになる.人々が誤解や無茶苦茶した対象のことである




 
何だコンプライアンスと黒人バス事象が顕著な例で、それから数十年後、その影響が日本にもというポリティカル・コレクトネスの波及によるものであるなと、そんなこともすっかり忘れていた.個人的には米国のPCなどより、日本古来の道徳倫理意識でいいではないかという思いがあり.




 
資本主義とプロレタリアの混融した何かになるのが弁証的止揚ではと一両日浮かんできている.
 

   

 
証明-数学証明・不在証明・形式証明・実感証明・・・、いろいろある.アリバイと形式証明は必ずしも一致せず、形式証明と実感証明も必ずしも一致はしない.
公式証明と疑似証明も一致しないものが多くある.一般に疑似証明はおおよそ一致しないのだが、空想証明や演技証明があれば一致する場合もある




 
この世には無駄な存在があって、それらの同調圧力的なものがあると思うと、その寄与があるかも.しかし遺伝子には無駄はないと思えるので、この無駄という判断はどこから来るか、構造価値か美的判断とか思うけれど、決定的ではないがそんな意向はある.遺伝子のみで人間が決定されるわけでもないとも.




 
たとえ--であたっとしても疲れが予測されるので、不毛になりまた不毛を肯定する思考の強制力はその対象ゆえにである.そんな存在であるとは設定していず、愚かにも後に気が付くという無駄をなぜ、この現実が存在させるのかその意図がわからずと.




 
自縄自縛XXに対して位相を持つと考えること自体に自縄の思考をする羽目になり、自己主体の本来性を歪めたことに対して、その考察に大いに悩むことになった.それ自体はナンセンスな無駄なだが意味づけをしてしまう形、愚かしすぎる.つまり対象選定がまずいことは明らかだが、その束縛力は強すぎ.




 
形成体の構造は不明というのは現在でもそうなのか?、充実した幼きアイデアの日々の事実と現在の発生学戦線の事態比較をするものであるが、思考が所で止まり、胚というまさに灰白色イメージのままでしか、ある程度思索をこれ以上しないと思ったような記憶もある・・・




 
実証実行実際の区別がつかなかった帰り道で、ふと道路わきの杉林にある篠の根は複雑な地下茎を持っているはずであることは知っていたので、これがのちにドゥルーズの根茎・リゾーム意識につながる.根茎の予期?




 
BSカードは推定天候不順により調子悪くなるという代物とはこれ如何に.なお参照から、重力波領域に電磁波は役に立たないと知った.




 
最近になって、自己対象で考えなくてはならないものが多少増えてきた、単純に難解な対象であるので厄介だなという思いはしている.空白期間中に他人の成果を期待してそれを用いる・それらを参考にするという意図だったのだが、参照以上に自己必然ものが発生するとは念頭になかったミスインテンション.




 
均衡と仮想仕事・仕事原理があったような対象から外れすぎた記憶があるな.均衡で、記憶からあるXXが急浮上した.定義と均衡には関連が彼女存在からいえそうだ.




 
どうもフラット上の現象だろうと垂直・縦・組織的構造だろうと、:の法則は大小をカバーして存立しているように思えるので、フラクタル相似形を:から持ってくることができそうである.:4でもある.世界がそうなっていて、またそうであるとするならば世界はつまらないものになる.




 
ヴェイユの人は不幸にならないと神を認識しないという考え方を特徴的と述べたらしい存在は何を考えているのか、とにかく神様お願いという事態はヴェイユの不幸絶望的状況であるし、この世に神も仏もいないのかといった事態を人々はよくわかり、なおかつEU歴史上有名なヨブ記という不幸圧力物語がある




 
日本人の天という考え方・ほぼ生得的に備わっていると思われる・は、ほぼ神という考えと同一意義を持っていると思う.天の声とか天罰とかを神の声と神の罰・神罰と考えると、納得・了解・諦観・流すというような傾向を日本人は持っていると思えば、天教なる宗教があってもよさそうである.




 
宗教性は人間存在自体が持っているものであると思うので、神をなだめる犠牲とか道徳力によるカムフラージュとか権力者による支配手段とかは後に発生したものと考える.




 
お気に入りのBE凝縮は有効だった.




 
ここ最近の思考から、ほぼほとんどの人間は権威を好むと帰結気味である.




 
何しろ一生叙事性を超えることはできないという直覚のために.親鸞がいわんや悪人おやと述べても、その無自覚者が他力で阿弥陀に依存しても、依存能力を発揮しているだけで、その当人・個人・個体としての存在自体は無知のままであり、親鸞の阿弥陀意識化はカムフラージュであるに過ぎないという考えが




 
相変わらず拘束窮屈表現協調存在が現れてくるな、実践秩序維持のためにだけれど、どうにも受容できる余地がない・当たり前すぎることを行使することにしらけすぎる心性を持っていることにもより、また自己思考の適用になっていない現実を認めないという傲岸さより・さほど認めては来なかった点があり-




 
:の経験則を考えるとホッブスの万人の闘争は成立しない.




 
アルファタッチへの趣を意図したが最近ではまた元に戻って・無理にそんな傾向を持たないで自己流になってきてしまっているが、要素はあり、思うに憲法から町内会規則まで、ルールが大小カバー域を違えて多層に絡み合っているという図式が当然浮かぶ.スケーリングの例がもうそこにすでに存在している.

a virtual affine space is not a affine space.

 
虚像は英語でvirtual imageでいいのか、virtualには名目上そうではないが、事実上の・実質上の・実際の・実際上のとかの意味合いがあるそうだ.小学生の時に、実際と実行と実証とかの区別がつかずどのような表現を取ったらいいのか悩んだことがある.virtualはいい言葉--




 
まあ自己認識・分析で女はダメなどと思える存在は優秀な女性には違いないのだけれど.私が悪い・完璧に関して欠落があるゆえに・のではないかという女性は優秀である.
 

   

 
どこで自己に自分自身で何かの作用を齎したようでもあるが、陋劣=見た目直感で肉感が気持ち悪い存在に、その偽善という欺瞞のためにエネルギー浪費・吸収されたようなことがままあり、どうもこの辺は阻害になっている.こんなXXはダメなのにダメと認識しない愚かさ達に束縛の憂き目を持つ羽目故か?




 
未然形なものは世にいくらでもある.不条理・理不尽・矛盾(大昔の盾と矛の話)など、カフカが強調しなくても昔から普通に存在している(その存在自体は不快だが)と推定でき、思想流行上の流れの中で出現した存在だけではないか.




 
その後には肺病かイデッシュ・シオニストか実存主義者かで中途半端明らかな作家がなぜそんなに価値があるのか著名なのかわからない、写真を見る限り聡明にみえ、翻訳文章も精密的な細かさを持ってはいるが、糞詰まり中途半端で何を言いたいのかわからず、不快な作家である.




 
男が悪い?-くだらなすぎる思い込み・無理解・誤解・歪めあてはめ・馬鹿馬鹿しくも無駄な演技要請・過ぎ去った過程の位置による蒸し返し専売特許あるいはサル?・--などを受けるとXXが悪いとしか思いようがない事態になる.




 
昔カフカを読むといいですよとおよそ覚えているか月くらいしつこく申していたXXがいた、誰かと誤解して・一瞬で把握できなかった自分に対して?、どうでもいいと思っているのに、発語しなかったが内心で、俺はカフカだ、カフカがカフカを読もうと自由だとそんな演技をしたために調子の狂う羽目に

干渉の顕著な例では演技的性格者のそれが快楽ゆえに変更に対して抵抗するところに向けることができる.最も変更自体演技としてしか受け取らないはずで、気にすることもないはずなんだが、快楽の誘惑に人間は抵抗することは難しい.(演技していることにすら気が付かなくなってしまった存在もいると-)




 
無限遠点での挙動がわからない場合自然に任すとするが、人々は無限遠において減衰するか発散するかで考えるようだ.まあ中間を考えないということも考えられないが、さてブラウン運動に対してどうするか.挙動がわからない場合には、無限大に発散というおよそありえない方程式上の話傾向ではある.




 
基礎の設定もかんがえていたな、基礎がハイレベルというか限界思考点・臨海思考レベルとしてあるそのときの日々.やはり時が過ぎれば、エントロピーが変化するので、過程要素がいろいろ出現して、進展の方向へ向かわせることはある.それも潜在意識に置いてあったような気がするという次第だが.





 
例の川面に反射する午後の陽光をみながら、第二楽章でセロトニンを味わいながら散歩していたころにしたためた、まさかの制御『間脳の両耳から煮え切らない様』という、文章が作用しているか.なぜこんな文章を描いたのかわからず、これによってだとしたら修正の必要あるか.




 
幼き日の坂道で、XXFのしつこさに妥協をした記憶がある.本当は嫌いなのに、全く妙な違和感を齎す生理感性体質者であることで、長じて現実になり相変わらずいつまでも悩ますとは、研究者は悩まず物質的に複合粒子研究などをしているだけという呑気そうに思える事態を想定するものである.




 
またXXFの存在も不快すぎて、XYF&XXFの感性はどうなっているのか、まあ不快を感じているかもしれないな.わざわざ縮退孤独になんぞ社会的になる必要もないと思うのだが、準位軌道だから必然的に縦構造を持ってしまうF人間の権力意識の強情さには辟易しすぎである.巻き込みも困ったもの




 
混合モットや相分離はそれ自体でも多分社会構造成立数あると不快だろうけれど、ここでは複合粒子の場合で、不快でしょうがない.XYFがXYBに対して同じを要求するときなどは現実温度では真に不快で、今もインベーダー的に邪魔で排除したい無駄エネルギーを用いる羽目に.




 
エフィモフ状態とC∞を考えてしまう.




 
その内部での変化に対してなぜそのように傲慢な心性を持つことができるのか、むしろどうでもよく単に利用するだけの心理がありありとうかがえて馬鹿馬鹿しいことこの上ないという代物である.それはともかくとして、エールのリンダのようなひりひり心理感情を齎す対象はまず集中だがそんな時間無く




 
”適当な意味で、すべての古典的定数は周期になる”はっ?.周期かよここまでくるとようやくというかなんだかわからんが、No.*を登場させねばと思いつく.そうなるとワンパターンの不快XX人間達とかソリトンとかどうしましょうという話になってきた・・・.気が付かなかったな、答は出ていた形




 
なんだかんだ人々は考えているので・・クォーク星があるのなら、クォークコンピュータやクォーク顕微鏡があっても、もっと飛躍するとこの宇宙はクォークの内部であるとも想定を働かせることができる.




 
ブラウン運動は昔に不動点から消散すると答が出ていた?!のを最近に知ったのだが、それが問題だったことに気が付いた.消散とはなにか?、薄く消えてしまう溶けて存在が不明になるような意味--、同化してそれが判別できなくなる事態だ、さてどうするか、東洋思想的に自然と同化するでまずは対処と




 
”:地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”これがうまく想像できない.まったく創世記の作者も淵を出してくるから、注思考しなければならなくなる.神の霊は闇の内側・内部存在として設定か?




 
悩んだ市場原理の壁と昔の公共政策の限界意識とその他(市民の希望に暗黒が憑くとか)に関連して、どうにも深淵志向思考の必要性を感じている.時間遺伝子による夜をどのようにとらえるか、植物のエフェメラルは時間幅だが、人の場合はどうなのか.飛躍すれば背景放射も関連してくるだろう.




 
幼き日よ、見上げる真昼の陽光に中に、見える透明鮮やかなブルーよ、クロノスが久遠を齎して---時間遺伝子を人は複数以上を持っているとは刺激剤すぎる---




 
扇とひよことフレームを結び付けるのはトーリックではなく、ウェーブレット・フレームではないかと思う幼き思い出、ではひよこはどうなるのか?




 
記憶に残っている不快な言明は、無視されないためにその発語をしたという、迷惑な絡まり・しつこさにならないのだが、そんな考えが浮かぶ.別にいらないのだが、煩わしい阻害と侵害と白けを合わせ持ち、単なる束縛で足を引っ張る成立している自由の邪魔でしかない.繰り返し蒸し返ってくる言明には参る




 
メモ:水素結合・超分子・DDS・素励起・マグネタイト




 
絶対温度から宇宙を黒体輻射とすると、億個?以上?ある星は、温度的に遠い彼方にある高温物質である想像がある、暗黒空間で遠い彼方にある明るい点を目指す・見えるなる心理映像は、このう宇宙黒体輻射単体星ケースにも似て




 
メモ.メタセシスとヒルベルト




 
なんか先ほどから条解釈を試みる気分に、解釈憲法条の第一項目の文章は覇者型人間が文章を描いたか、もしくは覇者型対象的文章のニュアンスがあるな、少し気になる.項目は明らかに単純すぎる文章で省略というか極端で、思考盲力があっても理解できる文章になっている.




 
笑いは人類最大の発明と誰か行ったらしい、笑いは緊張持続の緩和以外にないというのが認識.しかし笑いにも多様性があって、最大というには語弊があるものもある.喜びは人類最大の発明くらいなら行ってもいいような気もするが、笑いは反射で身体緩和・融和方面ではないか、忘却への示唆という面もある




 
不思議な気分になる、幼きというか発展的時間の距離感覚が、今定性定量時間となった視点からは、ずいぶん記憶印象が異なって、距離が近くに見えすぎて、麗しき記憶イメージが損なわれるという事態に..それはそれで面白くはないが、幼き記憶に感情も記憶しているのでそれを楽しくたしなんでいる.




 
ソリトンもワンパターンには違いない.




 
ダークマターの多様性をまずは設定というか、人の心理・ひいては個人的心理経験上そうしたいのである.ダークマターと人の心理構造の類似?!、個の念頭心理側概念的なものの内の一つにある意味=現状妥協点の設定の可能性があるとも思ってしまうアイデアだが、まずいので仮想にしておこう.




 
仮説予想されているダークマターが実在しているとすると、まだ不明の銀河系というかマター系というものがあっていい筈である.




 
青春、まともに読む必要のある書物などあるか、解説を読めばそれで十分だと思っていたころだからな.部分的に頭に入ることしか記憶はしない.




 
周囲の風景雰囲気がそうさせたとしか・・・(峠の伝説も全く知らなかったが反対に寄与したのかも)、一年前は全く逆のことを考えていたのに、何ともはやすっかり忘れて反対的なことを思い浮かべてしまう、今でもそれに類するパターンはそれぞれのグレードを持って生じている.多様の相克・錯綜とでも




 
ローティーン・日光白根山に行ったときに、あるところでまさかのあることを考えてしまい(この領域の存在なら何でもないが)、それが桎梏になっているかも.普通にはこんなことは全く考えない.




 
青春の渋江抽斎から今頃までなぜこんな無意味と思える時間を費やさねばならないのか、相当な身体の寿命の自然性のパワーが強いという想いをするばかりである.




 
何とかボブ・ディランの名前と風に吹かれてという曲名は知っているが、風に吹かれているだけでは逃避ではないのか、結論は武力行使型人間が存在しないことが必要条件であることは思考帰結上出てきて持っている.

2016-03-31

my ft 03312016

甲斐性がないという言葉があるが、こんな原始的現実に対して対応能力がなくてもかまわないという考え方もある・ありだが、そうも言っていられないことになるαタッチ.原始自然というパワーは乱暴力がしかし強い.



 
個人的な思い・愚かであった体力だけれど・と、モチーフ付近のマイクロ蠢きと、世親の物象流れとを結び付ける考え方を思いついている.N的な真空の海と述べると全く悩む必要はなくなるが、心理的に例えばデリダの差異の依ってくるところ、フッサールの一挙の瓦解場とかとマイクロ蠢きとすれば困難さが




 
すっかり忘れていた空想という無責任領域の存在を




 
深淵はまだ考えないでよそうとした小学生、黒体輻射(封建的なカビの生えたようなアンティーク色ではなかった黒色の彼方の明るい点域を封建的になぞらえてしまった時が以前にあり)から、Bの動きを想定して、そこに老子の道を考えたことがあった.老子の道は深淵であるとせねばならない個的性質.




 
ラプラス関数だからアイネ・クライネがか、超関数までだよな、それは普通に無意識に想定しているはずなので、それもあったか.それにしてもモデルが判然としない、ピアニストの方がということにもなるが...、年に進展していたのではもう年以上前の話ではないか.遅すぎる知識-空白が.




 
ラプラス超関数は年とは、無限遠での状態は自然に任すといったところで、年にアイデアが出ていたとは全く知らず、空白中で・・.頭錯乱するポストモダンのころだったかな.だから無限遠でになるという考えとは異なるわけだ.ばかりではない想定があったのである.年とは*




 
無名の匿名の領域が偉大な歴史上の存在達の向こう側にあるというヴェイユの考えは想定しがたい.何を言わんとしたのだろう.彼岸なら仏者で誰か了解した人物はいそうだが.




 
記憶にある不快な言明を除去できないのは、それらが脊髄反射的言明だからではないのかと思った.それにしても人々はそのようなことを脊髄反射で述べる知力があるのかそれが信じがたくなのだが、除去困難さからはその乖離からそのように考えることができると




 
古池や蛙飛び込む水の音-は最高にしっくりくる味わいを体感したことあり、傑作であるとは思っている.太宰はこじつけ理由による評価なんだが、しかし油断も隙もない野郎だとはいっても昔に死去した人物だが.全く何だかんだいって、読まずにいたものを他人の思考が浮かび上がり時を費やさせるものだ.




 
太宰治はカザノヴァ型ではないのか、かく述べる当人もカザノヴァXXにほとんど呪われ・憑依される形でうんざりし過ぎの麻痺感をしつこく味わう羽目に.愚かしすぎるも名状しがたい不快を味わう羽目になった対象は、そんな人の心理を加味することなく、体現化して思考の自由の束縛生成となり




 
いろいろな観点から検証しても間違いなく始まりである.日本の現実は人々の承知しているところではあるが、どのようになっていくかほぼ自動的に変化するはずである.世紀になって早年以上過ぎてどうなるのかと思っていたが、このようなるとは、なるようになった・なるようにしかならなかったと




 
まずは間違いないようやく片付いた難点、現実には悪くはなかったがただ昔のきつい思い出が災いした・・.ようやく自覚したようで、まさかあるいは消えたのではと思うとドキッとしないこともない.他人の子持ちでどこにいるかも知らないのに、この昔の時間のままが続く観念形態をなんとする.





所詮は 渋江抽斎 であったことに思い至ったが、こんななんでもない簡単なことに、何十年も無駄な設定を構築していたとは、唖然とするばかりである.まさかのまずいXXとは露にも思わず、流れで全く不利益ばかりしたその日々.無駄に忍耐ばかりで非常にナンセンス過ぎた時間を埋めるのも不可能で.




 
宇宙上の存在ならば世界上の存在であることにもなる.




 
利用にせよ高笑いにせよ、どうも現存在的な浅さ・隙間感・単なる領域的なイメージでむしろ不快な邪魔になる、これは共和感覚でもあるような.そういえば著述にわたしたちという言葉を多見して不愉快にもなっている.




 
人は世界内存在であることは間違いない、あるいは生理時間有限体または認識無知体・・・、宇宙内存在というより宇宙上存在という範疇に存在していることも間違いではない.




 
それはともかく父親存在は、父親存在ばかりではないが、なぜ剽窃をして主体を蔑ろにし、理不尽を要請したのか、父親という存在価値保存のためだったのだろうが、どうもそんな父親は個人としてはダメと今は思え、そんなダメ存在に忍耐強要される・してしまったことは不甲斐ない事態だったなと.




 
人の主体に理不尽な邪魔をしたからでもある、当然だという想い.どうも忍耐をしている時は頭にきているということと同一意味のようで、経験上時は普通に思われていると思える時間内では、なかなか解決しないという認識である.




 
実証比較検分と例証要、トーラス的中間・ロビンタッチ、マトリョーシカ的ABC的段階、双対可能性とゲーデルとか徐に表現してみる.羅列の最後の言葉は、視野点がかなりの個別広がりを示すはずのものという想いを携えて.




 
+αに最近といっても数年前に知った、Yの関係の**性を用いる・援用する・利用するというアイデアが閃く.まさか冗談だろうと同時にそうしても悪くはなく面白面もあり、関係の**性がわからずに悩んだ結果は結局そんなことになっても差し支えないはずと.関係の**性自体は年以上前の考え




 
方法自由は実存意識と見るとアナーキーは実存的なものになる、これとは異なっているが似たような形で、No.にタイトルを設けてある.ただその実証根拠・証明証左はとりあえず前例結果を援用するくらいの曖昧さのままで、或る+α意識を保存したままに.




 
その後これといった名前を聞かず、科学哲学の細分化方向に-これはこれで悪いことではないが経済がそれに伴っていることは明らかで、ちょっとイージーなものを感じないこともない.要するに自明なことをトートロジー的といえるが、説明としているような、くだらなさという意識も先ほどまではあった.




 
科学主義というのは自然科学を科学と称する形か、それはよくわかる思想とするとそうなってしまうものである.科学といえば自然科学を意味するのはそう思っているからでもある.




 
マッハはニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を形而上学として否定したということか、あの桑の木の中の道へ行く坂道の眺望のところで、マッハがあとゲシュタルトが浮かんだ思い出.確か感覚感であったような、光の直動と結節点のころの話で、さすがにアインシュタインの名前は幼き日に浮かばず




 
科学自体は中立だろう、それを用いる人間が中立ではないことである.No.の結語にもなりそうな言葉だな.




 
年の書物か、それから少なくとも年以上、それ以前から思考していたはずで、年は少なくとも経ているアクチュアリズムならば、すでにあるXXの自覚など待つ必要はなく、また自覚したら叙事的になることが今判明した.なんという無駄をまたしたことか..ということが多すぎる.




 
”現実(リアリティ)は決して現実的(リアリスティック)ではない””仮構組織体はアクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、”--No.より、『見えない目よ粗い目よ』は網目構造意図である.




 
そうかシステムを量子でできているとすると・見ると、システムのそこにある解体できない現前に対する不快を脱却できそうだ.No.?




 
“アクチュアリズム”(actualism)・現在主義はドイツで好まれると、この言葉は一言性を持っていていいなとは感じた.そもそも“アクチュアリティ”(actuality)は独人であるハイゼンベルグが採用したものである.ともかく悪くはない.




 
この場合現実がマイ思考状態になっていないという意識・・




 
小学生の時に図画で想像部分を写実に対して描いてしまい、その絵は評価されたのだけれど、なぜか罪の意識を感じてずっとこだわった形を、いまその部分はファンタジーとすると許容できる形を覚え、罪の意識が消えた.忘れていたけれどリアリズムになぜこんな拘束意識を持ってしまったのか、たぶんXXが




 
科学はいいというのは、マートンのの”科学的真理は、人種、ジェンダー(性別)、民族性、国籍や特定の文化など影響を受けないのだ という普遍性(Universalism )への信念”と同じ考え方に拠っている.No.




 
埴谷の数千億年の数千億倍という逃避思考はよくわかる.あの国道の帰り道の小学生、向こうへ行ったその距離が今ここにいてという、例えば億年彼方の準星と聞けば人は神速で想像でき、しかし億光年も移動したわけではなく、今ここにいるという事態の応用で.最もサイクリック宇宙が今は.




 
最近はネットのおかげで結構平板になっているとも思える、困難に設定してあるある地点を引き寄せた形かなと、甘い感じでは思えるかな、それではシステム価値が下がる.人々は想定することは全く可能であるが、実際には全く不可な時間がまだまだ続くはずで、ということは人間にはまだまだ可能性があると




 
人類の悲しみ⁈--構築してあったシステム上は別にであったことに思いつく.すっかり実践生活上で失念しまっているので、この変なことになってしまっているのか、最も実践することは時間的に困難すぎる設定にしてあって..




 
最高にまずいのはきがつかなかったということ、、なぜ気が付かなかったのかいまだにその理由はわからず、失敗の連続で、意味がないという愚かな日々を過ごす羽目になっている.意味のない生活などつまらな過ぎてしょうがないが、今はヘルダーリンのように柔らかな春の日差しに包まれて生きるのもいいと




 
そんなことが多くあり過ぎたXXたちのおかげで(XYたちも)、その無理解でたらめさでXXを信用できなくなっている面は強い.そんな中でも無茶なランダム時間を過ごした中でも、全くその時には気が付かなっかったとはいえ、遭遇すべき存在にはきちんと遭遇しているのだから神秘的・超自然的なんだ.




 
ある大学のあるXXに此岸と彼岸の行ったり来たりは自由だったはずの心性を、その剛体感覚身体に邪魔され、しかも自己謙抑以下にされてしまい、えらい目にあっている.全くA期の幼稚で叙事的XXには閉口、イメージとしてその大学にふさわしくない存在で、その時には気が付かなかった退行的存在明白者




 
そもそもあそこの坂道でシラーの理想主義には閉口したスケールのなさを感じた幼き日も影響しているな、ベートーベンの第九は有名なのに.シラーはカント主義だそうでそれは理解できる.個人的にはヘルダーリンの方で、地中海の明るさに憧れその多くの時間をセロトニンの日々として過ごしたようなヘルダ




 
そもそも人類が悲しむという領域の思考をなんとす..なぜそんな思いをしたのか、向こうから歩いてくるSに緊張して・・の結果という事態なんだが、この対象は中途半端でまずいことに結局なり、逆になって実際にこのSは今は他人の子持ちだけれど意味がないはずなのに.いややはりこのSではだめなんだ




 
S県I市の路上での「人類が悲しんでいるようだ」と思ったことが躓きの元、内容はそんなはずはないのに、あるXXの性的意味合いと同一視したかもしれない.あと行動的なKJがゴミ箱に捨てたのを拾うべきなのに意地でも拾わなかったという些細な事象も寄与している.




 
非退化な臨界点は孤立点ということで集積ではないという離散はいいが、退化の壁がどうしても越えられない非退化というモース形式について、臨界点でもいいが双方の要素を持った中間度合いを想定として見る-ペンローズのミンコフスキー図も参照して.(ペンローズは仮想案者とずっと思っていた)




 
判断を思いつかない場合は、その対象の不利益になるということで、その対象からの圧力がかかっている-と何がしかの直接・間接を問わずと考えた.また利益になるケースでもこの形式は成立する.




 
穴の開いたトカマクはトーラスを抜ける空気量--意識量と似ているな.




 
言語比較に不確定性原理を援用した今日




 
エルゴードが等質がノイマンが・・・何G-Ntでコンヌ刺激と、葉層がアノマリーであるとするそのまま--ということだったのか.全く環論への志向趣から何十年、端緒はそれ以前に当然領域があるからなのだが.




 
様相とファジイとフラクタルと弁証法と・・諸々はそうかNo.24にもふさわしい.あるいはNo.23に位置させてもいい点もある.




 
西洋的思考、諸行無常ではない個的独立からやはり位置づけで終わると思った.あの時の子音の発語がきつく、こんなことをなぜしなければならないのか止めたと思った小学生、英語の子音形成を全く知らなかった日に.そんなことからLvsRはよくわかるが、それに関しては中世の秋が連なってくる時だった




 
中途半端に思ってしまうことが多すぎる.当人たちは中途半端とはおもっていないようであるが、何しろ中間存在は存在自体が中途半端、親鸞の悪人も自覚において中途半端など、昔に理解してしまった筈なのに、自らが無自覚的位相になっているという愚かしい時間の経過..




 Masasi Kasaki ‏@kasa    Osaka-si Kita, Osaka
明日のSTS Networkのシンポジウムで「哲学研究の評価と課題」について発表します。日本の哲学のdemograpicsを集計したので、それも使います。是非哲学関係者に聞いてもらって、批判やコメントを頂きたいです。ttp://goo.gl/vJDSa
 

Liked  

 
どうやら諸々に接して読んでいると日本は境界域時間に位置しているようだ.それはそれで世界的に意味がある.




 
脊髄か海馬か-これはいい、いい表現を思いついた.




 
無理解は動機の錯誤ともあるな、こんな無理解は必要ない理解しあっているはずの二人であるはずなのに、遭遇現実で齟齬・錯誤を重ねてしまったという、現実の愚かレベル圧力では?、その寄与もまた愚かに向かってしまう、つまり愚かさ・無理解を擁護するとろくなことにならず、後には無駄ばかり生じる




 
XXの擁護のためにそうしたのであるが、それがいけなかった.今はこのXXはある女性に対して冗談的に思ったことを、その女性と認定して、述べているXX自体は私の主体ではないかという逆をよくわかっている.何なんだこの無茶苦茶な傾向は、この整理がうまくいかないのである.無理解すぎるXX




 
私は私であり、私以外の歴史上にせよ他者を用いて同様とするのは、類推解釈の禁止に当たるとか、それで困って、全く曖昧引用されてそれは間違いなのに・無意味なのに、やけ判断・条件反射的心理肯定行為をして後に悩むことに、ほんとは反対・否定的であり論理的に間違っていると思っていたのに




 まなめ ‏@maname  
個人のページを作るからダメなわけで、ブログのFacebookページを作れば個人情報を登録しなくて良いのではなかったっけ? / “Facebookページ作り方と匿名利用方法~いいねは身バレ危険 - ポジ熊の人生記” ttp://tn.to/peKejuQq
View sumy  retweet

Liked  

 
閉所嗜好症があるのか、閉所恐怖症はよく聞くが、それである作家の赤い繭は閉所嗜好的な物語ではと浮かんできた.自己成分がひも状にかなって、すべて変異・変移するとは奇怪な幻想ものであることは間違いなく、ありえない.浮遊する中間存在の自己疎外感の話なのかな.デラシネは仏語




 
マルクス関係の書物から昔に、罪の意識なく論理的人間として生きていくような形式感を感じたものである.いわゆる取り換え聞く歯車のような組織的なものではなく、システム上の歯車なので必要な存在だが、人間的感情の欠けるとものとして.この考えを今の体制である日本に当てはめて考えた人物がいたと




 
ネット心理によると女性の演技的性格は男の反社会的性格と同様であるそうだ.この女の演技的性格は苦手で、頭が麻痺する・男の場合もそうだが.そうすると男の演技的性格は女に反社会性を強要するようなことを想定する.男の演技的性格はどうやら策謀・陰謀の代償規制と見るとそのように思える.




 
自己思考形式ではなく普通に線形思考をたまに落ち込んで出した時に、矛盾・整合性の指摘を受けた時があり、その人物は誰かを探したが見つからず.たぶんあるXXの位相に倣って推定そのXXはこのような考えをするはずだと思ってツイートした記憶はある.




 
節度の止まらない脊髄反射人間たちともいえるな.まあこれらの存在故より個人的意図ゆえのはずだが、まあ多くの不条理・理不尽を行使していることも他者に対してあるな.それより可能性・役立ちさを引き出したい相手たちに、まさに役に立たない、原始回帰的な現象ばかり味わうことになったのが痛い.




 
XXの忍耐へこみの位相が・・ある昔のある男の不思議な不条理理不尽発言をまともに受けすぎたためが、一番のような.全く何を認知したのかその男は剛体ロボットに近い存在に何を述べても一生の認識到達可能性はたかが知れていると思い込だ故もあるな.




 
やや遠い将来にXY因子が消えるか弱くなる予想があるが、そうなるとXXが不死でない限り、魚類のような現象が発生することを予測する.不死になるのはかなり困難な身体構造と今の時点からは推定して、XX・XY因子変化が起こるとすればそちらが先だろうと




 
リルケに対する軽薄ではなくルベーグ測度論的な合点ツイートが消えてしまった.若き日のシュペルヴィエルの善意爆弾からありがたちの一言のみを印象記憶とし、中学生だったかな夏、熱風の中のネルヴァル情熱を記憶とする.




 
ある駅で電車を待っていた建屋の近くに靴屋があり、靴の文字から靭性の靭の文字を思い描いていた中学生、再度その駅の周りの広場を歩くケースがあり、その時に強靭の文字が苦痛を伴いながら、ずっとまとわりついていた.強靭は苦手である.きつ過ぎる思い出があり、ただしその強靭は有限であった.




 
温度相対論かそれはいえそうだ.しかしここでも時間作用を考えるべきなのでは、密度が無限大に近いと時間はどうなる-時間はゼロか.




 
粒子充満の宇宙において多層である粒子位相を考えることは意味ないか.




 
Rindler coordinateはともかくどうでもいいので、存在論を構想した.なんか相対論の圧力ということはニュートン・ユークリッドになってしまうが、そうでもなくなんだが、αタッチでは即物的にニュートン・ユークリッド圧がまだ強かった.




 
多世界で人間ひとりひとり区別するという文章を昼間見つけて、あまりにもその単純さ簡単さに唖然としていて、人それぞれは個性を持っている(一つだけの花とか)という考え方を結構シリアスにずっと持っていることから.




 
あのトンネルの信号のところで考えた若き日、剛体人間は嫌であるが、今日に至って叙事的ハードボイルドでロボット的で何とも感情力が単細胞すぎるという帰結的なものに到達した.時間がかかったな、剛体から見れば抒情は軟弱とかで忌避しがちな面はありそうだが、後システムが解体できない加担するかも




 
長い直線は無限遠点を越えているのではなかったか?




 
圧力と密度もゼロとなる星や流体の位置は表面と考えることができる--それで無限遠でポテンシャルはゼロと人は考えるのか.無限遠はこの世界の境界というわけだ.そう簡単にいえそうにもないのだけれど、実用上は全く差し支えない無責任の自由さがあってほっと安心するところだろう.




 
どうせそんなものだ・倫理観良心力の弱きもの・としていると、XX&XY双方のバイタリティにより双方からストックホルム症候群のように犠牲的情態を強いられる羽目になってしまう.武力型人間に対しては逆効果でどうにもならない乱暴なXX&XYというしか、エゴ増長発揮より良心力増長を望むのだが




 
自己分析と自己意図と他者認識・考察を一緒のところに保管しているためか、他人には混乱を呼び覚まし、他者認識を主体と思ってしまう・思われたことが多すぎて、それゆえに不快になり関係結節もうまくいかなくなるという事態が成立した結果、他者言明の記憶が不快になって除去処理ができないという悩み




 
実際にはは管理者が複雑管理を多様管理をしなければならないのだが、管理者世代にその意識はなく、若者は複雑さを感得しながら生きているという乖離構造があるのではと思っている.そうでなければ時間の無駄に納得しないがあるが、現実にやや老齢世代にも実感している存在がいることも確かである.




 
サルトルの弁証法批判領域の明るい実存か、渋みかもしくはエートスかはてまた昇華か、それを変位させた形をとってしまったことが、今になってその形式を保ちつつの面があり、それが不自然感を齎しているかも.




 
ホーキングに倣えば、困惑の深淵事象でもそれは蒸発する・何時かは消散する.個人的には深淵に時間と空間も想定しているので、十分な動きは存在することになっている.




 
明示空間においても取引コストとか過程の様々な操作・出来事対処があるが、暗黒域でそれをどのようにするかが問題な時間になっているのかもしれない.昔、中学生のころは深淵を散歩できたのに、今では桎梏の絶望的なイメージになってしまっている.でもブラックホールは暗黒想定十分な物理の今日時間




 
象限転回的でパターン類似のイメージは、連合事象というには概念域対象が異なると思いたい.政治的・権力的にはこの深淵から類推できる秘匿域の存在は必然的に存在してしまうのではないかとも考える.




 
状況は叙事的・情況は抒情的、悲壮は叙事的・悲愴は抒情的など、自然に言葉の区別が成立している.




 
この付近でほぼ妥協できる成果を得たが、結果から判断してなんと無駄にエネルギーを用いすぎたとしか言いようがない視点である.何とも今までの時間のかかりすぎには何ともやりきれない思いがしてくる.




 
ここの点を何とかして見たいという設問があって、意味合いはよくわからないのだが、対称設定上は必要かなという図形形式に対して、アイデアが進展したが果たして意味があるのか.まあ結構個性的なと思えるアイデアで、都合上のつながりを仮定できた.ミンコフスキー的な事柄で時間がかかりすぎだ・・・




 
個人的には意図的に演技をする場合がある・対象をくだらないと感じた時などは特にその意図に反した成果なのでそうせざるを得ないとか.中間存在はすべてにおいてそうなのだけれど、αタッチの現実からは考慮せざるを得ない領域が発生してしまい、ちょっと混乱になっている.これは図式のNo.に似て




 
本物の人間は演技をしない・する必要がない、普通に日常を生きる-この理屈からすると演技的性格者は偽物人間ということになる.全く昔にそう思っていたことを何十年ぶりに思いだした.全く予定才能を有していない存在によってと自己予定設定判断のミス・無駄などから、無駄な時間を構築したものだ.




 
自閉症スペクトラムの原因は線形性の壁によると思ってる.複雑性が表に出てきている時代では、線形人間は偏りとかを持たざるを得なくなるのではないかと、




 
自閉症⁈、或る情景のイメージが閉鎖的でそこで止まり、不快に進展しないイメージというのは自閉的ではないかと.現実の空間的場所にも自閉性は成立するとはあると想定可能で、そう思うと適確であるかな有限イメージのどうにもならない感覚に対して.




 
なんというかいわゆる足を引っ張るというのはまずいくらいに思っていると、他者から足を引っ張られる形になるという、こんな面での意図は同じにならないどころか逆になる.個人的にはこの逆は無駄なものとしか思わず、大体逆を志向して邪魔をするのは能力がないとまず無意識にせよ思っているはずで.




 
性的要素による反応状態と思え、ゆえに女性を普通には無視できるはずがないのだが、或る叙事的演技性格XYが、突如・女なんて・と発語した記憶がある.演技性は機能・官能の大いなる援助がなければでき得ない直感があり、この発言は矛盾している.まあこの存在も逆に主体を疎外する存在の内の一人




 
量子の重なりが個人的心理に浮上、ちょっと遅すぎるきらいを感じたが、或る時、人間的な昔の真理は単純である以前の心理情態にしてみるかと、つい最近数年前に思い起こして、そんな心理状態が今でもちらちら浮かんできていらだちを持っている.とにかくこの領域人間が多すぎるので、量の圧迫によるかと




 
ちなみに宇宙の熱的死は熱力学第零法則である.




 
空間的な場合を多く人はパラレルワールドと称している、ニイチェは時間的パラレルワールドが何回も成立すると述べたが、或る昔の時ニーチェは自己を道化師と思った点もあることを読んで気になりすぎて、流しの気分にならざるを得なくなった.フッサールのエポケーに無駄に戯れた頃の自動販売機の前で




 
相変わらず覇者的人間は機械的でロボット的で無機物的でA期的であるはずが、他の人には良く分かるらしいがわからず、幼稚的な存在でもあるにかかわらず、共同社会的になると有効に作用する・ということは共同体は無機的要素強く幼いことになってしまう.




 
接平面を点化すると無数に存在するその平面も動くのがバンドルとか、動く接面はリフト形式を考えて、静的射影物象に立体化を与えるという有限形式・であるような事象が印象に残って解けないという妙な具合に妨げを保有するという、ある古びた工場での一日の一時のそこの場所でのほんの数秒の出来事




 
位相上に局所座標を必要とするとなると複雑になるな、心理の深淵を体感してもそうだが現象事象に適用となるとまた違った趣の複雑さがある.これを客観的に表現しているだけなら簡単だが--現にそうしていて『奇妙な保管場所』と根本的に設定してある、その内容分析を否応でも人々は行っていて..




 
レム睡眠なく起きだしたその時に、選択した事象がのちに必然になるという・必然的自由(ワーズワース的なと思っているところのもの)のところで、選択の自由状態をサルトルは実存と規定していたと浮かぶ.




 
当の本人を目の前にして、当の本人の模倣を表明する人々というのは何なんだ.気が付かなった場合やトートロジーの不快を感じることが数多くあり、なぜ人々は逆になり、個人的にはどうでもいい存在に模倣という煩わしさ処理をしなければならないという無駄すぎることをせねばならないのかさっぱりである




 
現在の若き娘たちに個別対象を試みとして引き出しても目的対象と遭遇しない(最も試み回数が少なすぎるきらいがある、試みが成立しない場合も・もちろん強制ではないので)のでうまくいかないのだが・・・




 
ハッハッハ、評価してくれる女性がいなかったので自分でさすがというしかない.最も中身を知らないのとオーソドックス権威依存傾向強し女性が目についた形でもあった.いまだにだめで--一人だけ可能性のあるのがいたか、そばにいるときにはその可能性に全く気が付かなかったのが不思議で残念である.




 
そうなるとSTAP細胞的なことはすでに予測として昔に記述してある、今はそれを表現するポテンシャル・勇気力は弱まっているので、表現化は柔らかな形になるだろう.




 
あれSTAP現象というのは、今ある細胞がなくたっとしてもの要素を持っているものなのか、小学生年生の時のあの橋のたもとで考えていた忘れない記憶を思い出す.多少関係あることだったのかよ..




 
Benney 方程式にかなり引き寄せられたが、どうも少し種と異なるようだ、カオス領域に何か未知の方程式が潜んでいるのかもと浮かんだがどうだろう.




 
根本的に中間存在の閉鎖であるので奇形の定常性を加味したところでどうにも意味はなかったという無駄な労力を用いてしまい、全く中間存在が当然にしか思えない先天的桎梏にとらわれすぎている馬鹿げた存在であることにようやく気が付いた.まあ中間実存などいうのもあるのだが⁈中間実存-そうかこれか




 
クェーサーのジェットに乗って遊んでいると、地球などという星は原子顕微鏡で見てもわからない存在であるという想像力を用いることはできる..昔、必然的にそのような領域思考をしたことがあり、例えばアタカマの天文学者やホーキングなど、無意識にせよそうする理由があるからそうしていると思える.




 
進化論に関して多様時間進化という形態を思いついた.すでにだれか述べているかも?.何しろ何年たっても無知は無知が発生するし、シーラカンスがスラウェシ島とかギアナ高地の保存とかガラパゴスなども考慮できる(範囲内とすることができる).同類でも早く進化・変化することも許容になる.




 
細切れの積極的自由をいくら行使しても無限回数に到達することは人間にはできない.




 
積極的自由専ら人間にとっては、消極的自由者はいらいらする存在のようである.消極的自由者から見れば、積極的自由者は中途半端なところで邪魔をする・阻害をする、侵入してくるというもので、欲求不満を作り、その上強引処理という理不尽を行いがちである.積極的と消極的のスパンの違いが不明なのか




 
ふと冗談が現実リアルになってしまうのは、人々が責任を嫌がって、無責任を希求しているからに相違ないと浮かんだ.




 
レヴィナスをどうするか、カントの定言や芸術意識展開人間であることは疑いようがないが、説明を解釈を見解を陳述しただけとも言えるので.




 
ハイネか、政治にも革命にも関心を持たざるを得なかった詩人という位置づけで、まず間違いなな.かといって政治家でも革命家でもなく詩人であったのである.




 
叙事詩的存在か、ハイネをどう思うか発言すればよかったな・精神現象学やエロイカ変奏曲と共に浮かべ、まさかハイネの歌の本とかないと思い、よく知らなかった点も寄与して.とにかくなんというか、色気なるものがない、むしろアマゾネスというようなもの-と思えばそうだな、A期や叙事的XXたちは.




   
素数の億個の探査で、素数自体が固有性を持っていて、その出現確率はランダムではないと.ランダムというのは精神分裂病・統合失調症とは異なり、でたらめ・でたらめパターンでもないのでそれはありうる.ただそれらの素数をたとえば線で繋ぐという形式をまず考える連携を.




 
ある対象・XXに、私から見て君の印象はこれくらいのものであるという価値判断を・魅力度合いを持つとする、するとその対象はだめとか・くじけとか申す.なんという傲慢なのか、また他人のことを考えないエゴイストではあろう.ダメなのは君の魅力であり、くじけるのは君の魅力のなさゆえなのに




 
破滅型という文学人種がいたようである・明らかにタナトスに支配された人々というわけだ.




 
瞬く星の間にて微かに聴こゆ新星の
幻色の変生にたゆとう時が甦る
真白き雲の海の上眸に映える深遠を
想いつ跳ねて寝転べば昼の陽光穏やかに




 
久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
静かな内の沈黙が滲み出る時存在す




 
石川淳の聡明さはわかるが、集大成にせよ狂風記はなんだありゃという感想で、三島由紀夫の豊饒の海も評価しないな.最も両者の作品などどうかすると目を通してみたくらいのもので、読む気もしない.




 
森鴎外の舞姫も少しは寄与がと思って集中したが、舞姫では話にならないと直に思ったものだ.あの建物の入り口で渋江抽斎などが浮かんでしまったのがその与件だろう.で石川淳で冗談を思ったのが実際になる馬鹿らしさ.森鴎外になぜか呪われているような、中学生の時の安寿と厨子王のきつさには閉口した




 
とても長い時間なのだが、他の個人的な事柄はずっと保存・暖めている.挑戦しては見たけれど錯乱にしかならなので、畢生の対象に結局なるようなもの.大体ドストエフスキーのネヤ河飛び込みなどを想起して、まことに心外な思いをしたのだが、結局そのようなもので.秘匿の時間も必要なくなって来たな.




 
丸善で昔に徐に環論から始めるかと思った時から、全く始めていない.進展はなかったが、分類が今でも困難な領域部を知り、空白時間はまだ間に合うとなる.間に合うが、他者判断に任せるとしておいて・専門家に・である、それににしても空白時間は、普通にはとても長いと表現できる時間意識がある.




 
それにしてもなぜこんな計算間違いをしていたのだろう、これでは頭脳におかしみが発生してしまうのは否めなかった.どのような計算をしていたのか今では思い出すのも困難になってしまった.どこかでこだわった形にになっていたようである.




 
単純に計算違いをしていたようだ.この違いのずれは大きいと思うのは、アトラクタをどうやら設定してしまうようなので、No.あたりを引き寄せておくか.




 
わからんカントの判断力や実践理性批判のあらましを見ただけでは全く面食らってしまい、示唆していることがつかめない.純粋理性の定言はわかる.実践理性は宗教から混沌で道徳が-物自体という不明は専ら実践理性だそうで、美はそれ自体で崇高は純粋理性だったか.恣意的概念より内的美意識が優越なら




 
ふと埴谷雄高に会いに吉祥寺に行った時に取った態度を記憶から消失してみたら、自己主体がスムーズに動くようになった感じである.全く埴谷雄高は邪魔ではないはずとずっと思っていたので、盲点でこの人物が災いしていたのか❓!.まさかそんなはずはという心理を持っていたのだが、まさにまさかである




 
犠牲とはリルケによれば”どこにも拘束しておくことのできない無際限な決意”だそうで、ある人物の孤独に対する姿勢からの概念であろうと思われる関係とは、リルケにとっては犠牲になる.人間の持っている倫理とは犠牲のことか?、全く想定外で西洋史上のある宗教的位置時間とその伝統からの発生かも.




 
そして叙事的や覇者的なXXは精神分析観点からは子供である.実際そんな存在に悩んでいるというかしつこく蒸し返し状態を持続させる拷問的残酷な存在にも思える.そんな存在はどうも一生大人になりそうもない直感があるゆえにしつこいようである.昔は男は子供なのよとは普通だと思っていたが逆もある




 
身体有限性から身体優位で身体的生命をかけても不可能なものは数多く存在している.端的にここから精神優位を考えるのだが、類続のためには身体が必要でそこに相克が発生する.別に相克などを感じない人が普通だろう、またカントやニュートン・ヴィトゲンシュタインなどは独身であった.カフカは相克?




 
無限遠挙動に関して素朴というか未定の疑念を持っている存在はやはりいるんだ.紀伊国屋で無限遠での結論を出せという内部の声を聞いたときには、無限遠での挙動は複雑になるであろうと、現行境界複雑性からの類推のようでもあるけれど、考えていて、内部の声にはちょっと参ったものである.




 
理想流体が等速度運動している抵抗ない場では、無限遠でも速度ゼロにはならないはずであると--無限遠境界での挙動は消散するときには有限ポテンシャル基準思考で、無限遠で有限といってもその存在の境界状況はやはり存在してると複雑になり、無限遠で一様になるは射影的であるかなと、




 
人の主体を阻害する記憶にある言明者たち・態度者たちを除去できないのでいらだっていることもある.まあ人権蹂躙者たちであり、迷惑存在でもあり、でたらめ者たちでもあり、ひいては単なる未熟な無知存在でもあるとか.




 
糠に釘のような心理イメージを受ける存在は、心理対処優秀と思えるがその半面、詭弁能力(いわゆる無責任)も優れているようなと思うと、心理における苛立ちの説明がつく.帰納の帰結しない帰結の結果も懐疑・詭弁と無理に言えなくもないものになってしまうが、演技的性格の無責任もこの辺に登場しそう




 
-=という数式の当たり前さに幾何精神が追いつかず(あまりにも当たり前すぎるとさっぱり意識に浮上してこないことがかなりあり)、何のことはないと気が付く始末.




   
境界域個別事象は超平面にせよ同一面である-トーラス境界を思いついたのはいいが、それに対する思考不十分という事案




 
問題のある一点にはボヤイの定理とバナッハ=タルスキーのパラドックスが少し?は関係していることが分かった.もっと柔軟ににはリーマンなんだが、仮想線までしか至らず、その仮想自体が成立しないと.虚数線しかなくなる・・・





 

剽窃が原初からの謎として、つまり、どこから来てどこへ行くのかけっして言うこともなく、その始まりや方向を隠しているあることば、あるいは、ある物語として現われるのは、まずそれが、みずからがどこから来てどこへ行くのかを知らずにいるからである(『エクリチュールと差異』)
 

 
またまた指定難病がふえている、てんかん系が多すぎる分離項目にみえるが、そうする理由があるのだろう.遺伝子解析が進んで難病が増えたというのが直感感想であったが、他の理由がありそうなのだが思いつかない.てんかんとソリトンは関係がありそうな意識を持ったことがある.




 
模倣を許可して自己を主体を阻害する性格、保存で回避しているつもりが、虎的思考なのかその保存を他者が狙ってくるようで、あるいは内部をひっかきまわすとか、なり替わり映画で有名なのは太陽が一杯だが、主体疎外の忍耐も直に発生しているだろう.何しろ模倣なのだから-心理感情の模倣は無い?




 
人々は単純に現象記述・漱石の道草とか・していてまた、自然に何ら考えることもなく(抵抗もあるときも多い)変化するのは日常と対処している所に対して..ポテンシャルから他のポテンシャルに移行するエントロピー変化の図式に悩んでいるような・・




 
トーラスを抜ける時間、そこには空間も普通にだが、その抜けた近接地域・領域はさっぱり、ひょっとして境界の形はこうなっているのかも、どうにもこのイメージが気になってしょうがない.




 
ベルトラミの対象図形想定・鼓や砂時計とか、双曲空間の間やミンコフスキーの現在時間が少し幅を持っているときとか、前者も含めて後者はさっぱりに思考が止まる.




 
体力は衰えているのに、なぜか心は若返っているような・JKとか登場するツイート例・という不思議な矛盾




 
つまりマズローの人間は普通の人なので、奇人・変人はにはなれない素質を持っている.ただ共同性による欺瞞・これはくらいの位置で、自覚をまずしない、していてもごまかそうとする.奇人・変人には非線形を見たいが、共同的ではそんなことにはならず、無駄時間を持ったことがまだ最近の記憶に




 
奇人・変人が普通に人と同じことをしようとしている時、アドラーの補償・いわゆるコンプレックスを見る.その固有性を如実に理解できる人間にとっては、全くの欺瞞を見ることになり、疲れすぎる.奇行・変行を行うのならいいのだが、共同圧力があるというわけだ.ともかくやはり煩わしすぎる.




 
「情報は未来にちがいを作る差異」とはベイトソンの言葉、サヴァンは過去作用とすると、宗教的預言者は未来を示しているので、サヴァンに対して対極的な存在ではないか




 
サヴァン症候群についてのいくつかをみると、どうも過去現象か、現在現象までにその範疇が限られているようである.なれば明らかに記憶作用能力が関係している.




 
『---かくして生命の単純時間論理に従って、対象としての*の論理が飽和を加味して遂行が必然と当然とされるだろう---』-まだこのころは読める文字を書いていた昔の今でもそうである文章よりほんの一部分抜粋.全体文には明暗言葉が躍っている-明暗も抽象的にはNo.にしたためてあり・・




 
自己ドキュメントをしたためてずっとカバンの中にしまい込んである.他人にとっては自己ドキュメントと見ずに小説作品位に思うとも思えるので、これを作品化して--というアイデアを考えたが、自己筆記文字が自己草書になっていて、自分でも読めず掘り起こしが大変だ-というためらいの時間.




 
パスカルは頭がいい、宇宙は何も知らないゆえに人間の優位とか、実例の証明に実例を持っ手くるなど見ると、判例はかくある如しを連想してしまう.




 
それにしても人々は、理知的と脊髄反射の乖離に関してなんともおもわなのだろうか、多分No.でそんな乖離でうんざりしているのも問題なんだが.




 
脊髄反射に直面すると頭が壊れるか頭が痛くてしょうがない、XXの場合マヒするか思考進歩の阻害・停滞しか齎さないので、まず潜在的才能において役に立たないと考えてしまう.そもそも頭痛く、認識をわざわざ乱す存在をどのように知覚せよというのか、知覚・認識を乱して意識させないようにしている




 
なんのこちはない、ワイブル分布の正規分布より素早い頂点というのは、信頼工学上統計は従うのだろうが、現実に頻繁に起こりすぎている事象は脊髄反射によるものであることに、なんとようやく気がついた次第.




 
将棋やチェスが人工知能・AIに負けるのはまあ大体予測がつくが、囲碁までもか、そうなると囲碁も将棋やチェス系かと思うとちょっと異なるな.つまり叙事系ゲームはAIに解析されてしまうということ.




 
束縛を嫌う人間に抑圧や妨害や愚劣な態度、意図の反対などを行使してくるXXをまず好むわけにはいかない.




 
ストレンジアトラクタを持ってくるまでもなく、普通に人はランダムな場合には突飛な現象事態の発生というのは、直感できているものである.




 
妄想実験・思考実験などではなく、思考自体今ある現実であるような思考のこと




 
思想の思想たる所以を知っていれば、関係の絶対とかの啓蒙・自賛などに見える意識など必要ないんだが.




 
流血とか殉教とか瞑想の宗教手段はよくわかっていて、ほぼほとんどの所為に関しては記述済みで、ハタと思うと何を悩んでいるのかそれはすでに記述範囲内の事柄ではないかと、他人対象意識のはずがが自己対象意識に方向した場所・時もあったことを思い出す.どうにもまずかった意外にあの街である.




 
見ようによっては人間の形態は、宇宙の星々の位相と似ている気が、しばらくしている.




 
筆記している右手が思考する--この感触が環境世界“Umwelt”を知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同で作り上げているに結びついて、思い出す.




 
C++で理解できなかったものはNTM形式に似ていることの発見・気づき・NFAか.NPはnotPではないということはP≠NP予想問題が成立するわけだ.チューリングの停止問題で放置していた間に・不完全性定理が関与するものとは・NP問題に関して多種のアイデアがは生まれていた.
 


 
演技的性格者は偽善体になってしまっている--自己が演技をしていることすらわからなくなっている場合、これよりやや弱い偽善を行うのはほぼ日常であるという人間にも閉口する、なんだかそのセンスあるゆえかまた使用しないためか、麻痺してくるやや弱き日常演技者XX&XY.



 
その様相が時間的流れではなく、ピラミッド的な縦軸射影としてみているファイバータッチは葉要素あるのではないのかとしてみると、とりあえずは対象から逸脱してしまうので単にミクロのランダムさからの縦的でいいか.




 
思いが一瞬にふと広がった結果、様々な趣向思考のすべては自己自身とするとなんという人材能力かと自分自身で今感じてしまった.自己自身の制御あぐね様を感じて.




 
アスペは思想が偏心しているとか、殉教性・的が思想だからそれにこだわるが、どう見ても常識より非常識に近いものだろう.ある線にこだわるとどうしても非常識度は高くなり、常識がおろそかになるのが、今日段階の人間質レベルであると思う.そこにも多種多様な目的意識・スケーリングがある加味が必要




 
ひろびろとしているのをわざわざ狭くしよう、狭いままにしようとは思わないということを意味している.




 
自己言及・自己分析・自己把握の内容を当人に述べても、その述べられた当人は理解力を麻痺させてしまい、一体誰に発言しているのかわからない情態になってしまう.自己把握している私は他人ではなく、実に心外事態ということで.この発言者たちの才能・潜在才能はろくなものではないといことになる




 
うじ・有時と世親の時というか空間粒子的流れ・違うか、関係の考察を集中する意識状態にない、あまり思考しないようにしようと最近考え出したせいか...




 
ホワイト空間の+次元・ブラック空間の+次元&B空間の+次元と思考はできるが、応用となると・・別に現在空間事実がそうなるが.




 
混沌・いわゆる人々の無知カルマ・てんやわんやの多様様々思考現象がまとまる帰結によって、真理は単純であるという昔の幸福(?)な日々の時間に際して、今日、無知カルマ・てんやわんや現象が真理単純帰結を抑えて浮上しているという、「弁証法」的にも似た考え方が閃いた.




 
公式的をハレしかないというわけでもないが、ハレ的にとるのが通常である.TV力はその意味で結構まだ力があるように思える.ただ複雑系はやや膾炙と思え、ミクロ現象が公式に食い込んでいるような現在ともいえそうで.
 

 
大正池を始めた見たときにもその世界の果てのようなあるいは仏教的な三途の川のような気もしないでもない、この世の果てのような枯れ木立ちを見て感じるのはなぜか、不朽とも異なるその場所固有の枯れ木達.




 
枯れ木に不朽を見たことがあるから、枯木灘が若干気になるのだが、このセピア系の時間の止まった画像イメージはなんだかさっぱりわからない.中学生の時に見た体育館の裏の山肌に一本の枯れ木があって、その黒影が下草を従えてあったのを見て不朽を感じた記憶は鮮やかな--少し緩和気味になってきたが




 
量子エンタングルメントからエンタングルメントでおしどり夫婦や一目惚れは説明できそうである.




 
法律を制定する側-導く形で作るか・必要だから作るか・面倒で規制してしまおうと法律に従う側の、依存・義務・面倒に対して、こんなことを想定できるだろう.あと自然発生的法律も双方においてありそうだ.




 
法律-依存して従う・義務だから従う・面倒だから従う--この形式のほかになにか?.法律作成者は遵守をまぬかれているつもりの気分にはなるだろうな.




 
今日ではニュートンの同期時間と不確定の非同期時間の戦いだそうだ・それはよくわかっている.依然として明確区別・明晰識別が現実には必要で、明らかにニュートン的空間の帰結論である.実際には非同期からすればそれは当たり前すぎることであって問題にならないとのだが、実際現実には問題である.




 
択一問題はまず定義でそののち定理が存在する、あるいはそれぞれ分離している.まずは定義であったか、定義であるならばそれにふさわしいXXがいたな.あの時も定義という有限性で迷った.迷うことはない好みの存在なのに・・.現実上、規約・規則では有限定義がそこら中に転がりすぎている.




 
今よく考えてみるとその一種はそうであることに気が付いた.すっかり忘れきっていたことがそのプレッシャーのころにありで、なんともはや全く何やかやで次元劣化になってしまうものだった.他人にはその失念がわかるような気配のあったこともなきにしもあらず・・




 
若かりし日々の思考についての解説で・その辺にあるほとんどの書物は解説を読めば十分だとしていた頃の自力的な思考だが、いまネットで数学関係などを見ると解説どころの話ではないと、才能的な面を感じるが、そうでない記憶もあって、その辺の絡まりでしばらくは時の推移が続きそうだ.




 
契機的意地を持って、別の次元的位相思考ができるのではないかと挑戦したが、猥雑な思考・混乱混雑を齎すばかりで実りなく、結局、ある消した記述に対しての解説ばかりする事態・現在になっている.それでもほんの僅かばかり進展はあるのが、充実感につながる形に.




 
ある人物に対して『人間は有限外オートマトンである』と余裕をもって昔に述べたことがある.中間存在にとってはそれも進歩ではあるのだが、先ほどの『人は有限外オートマトン以上である』と余裕なき実態現実的に述べねばならなかったかもと思いつく.それほど余裕ある対象ではなかったかな?




 
アルトーの器官なき身体は、今は空想上かもだが、未来予定変化である意識体人間想定によく似ている.身体の衝動性から逃れられるなら、確かに人は自由になれる.人は生きているだけで生理・物理の束縛を持っている、畢竟人々はそれが人間だからと述べるだろうが、現状持続性に基づいた意見である・・




 
中間存在を超えた暗い側に深淵が・明るい側にオープンスペースがあるのは普通で、絶対空間のどこまでも依存している場合に、その依存領域に無限を持ってくるというなんでもない普通のこととの齟齬が中間存在とに発生しすぎている.人は、有限外オートマトン以上のものでありたい・あるはNo.に




 
自然発生した(?)市場に対して、深淵の壁を構築した記憶があり、明らかに暗の方であるので、消えた・沈み込んだ歴史過程をこちらに持ってくるという、未来志向のみではなく、過去事実に対して考慮すると幾分か深淵領域に進めることができそうだと思いつくが、意味を持てるか.失敗データベースは?




 
あの去る昔にエポケーなんぞをする必要もないのに、おもむろに戯れた形で操作してしまって、想定上のデリダ的深みに直ぐに到達・考えてみればこれはNo.のケースの内容にできるではないか.深淵型の有限性を加味した形なんだが、ハイデッガーの根源に対しての作用はいまだ浮かばず.




 
ある作家がか月しか住んでいなかったアパートの移築話を見かけた.何やかやでこの作家恵まれているな、つまびらかにか月間に文学的価値があるという掘り起こしが周囲から成立するように.富士はクリスマス菓子であるという、ケ(褻)意識十分な演技なのかやけくそなのか個性なのか疑念はある・・・




 
そんな中で結局不快を残したまま一人は消えていることは確かで、納得せずのために訂正に行ったのだがその人物の連れの存在で雰囲気上止め戻り、他の人間たちは今頃どのように生きているのか不明、まあ全く記憶に残っていない形で生きているだろうが、こちらは不快な記憶を持っているので面白くはない.




 
多分に理解力ないので、その現時点理解力によって強引判断をしてきたという判断をしているが、あまりにも愚かしいその強引判断なので唖然としている記憶である.もっともその発言時間では理解できずで、親切対応をしてしまったのもまた愚かしい仕業なのだが、そんな愚昧意見を述べる設定にはなかった




 
そのような意見はトートロジーであってなんの意味もなく、そのうえ対象設定自体を間違えていて、個人的に不愉快なXXに同値化してくるのが不思議でしょうがない、他者XX・XYの意見は、その不愉快なXX言おうとして言わずに我慢した私的考えなのに、それらの意見はそのXXに言うべきである.




 
例えばユークリッド幾何学は世界のどの国へ行ってもユークリッド幾何学であるのように同様である.No.に関して.




 
天網恢恢疎にして漏らさず・をやや今知った「知天有道守」の意味合い的に解釈していたのだった.もう少し何かありそうだが寡聞にして知らず.その辺の意図や感触を『見えない目よ粗い目よ』とはNo.に表現してあるはず.知るところにして知る・知っている・理解できる・理解力があるなどとかで




 
限定合理性はその限定ゆえにそれを強調すると無駄な束縛になる可能性が高い、ところが限定ゆえに様々・多種多様な規定が可能となり、また事実はそのようになっている.この規定をかなり網羅してある全書があり、この網羅能力でも全てという合理性ではない.いわゆるその実務はやはり多様の限定部になる




 
構想文章自体を帰結文とするとその量は当然少ないが、完成しているとすることもできるなと考え付く.冗談で挫折で終止符を打った形に・実際には単なる休止符にすぎないのだが・したところその冗談的になってしまっているような事態だ.どうも本来から落ち込んだところでシステムを考えていた点もあるな




 
そうするとコーシー関係なのであって、冗談をせざるを得ないほど馬鹿馬鹿示しさ、名状し難い不快感というやつだ、他者XY達は何を勘違いしているのか主体疎外を強要したものだった.つまりドン・キホーテ的認識力を持っている愚かしさに気が付かない間抜XY達であるように考えるしかないと




 
プロスペクト理論にちょっと不分明な(頭が作用しないだけだが)疑問点が直感できて、もっとも参照文章に難点があるだけなのかも.単純には利己的それから生存本能による損得感情やもろもろもあるだろうが、思い浮かべず.




 
サルトルの実存とは本質や正義がないものとして設定だそうだ.サルトルの実存的な頭脳気味でまことに不都合な事態になっている気がしている.ここに分析哲学や帰納形式や行動経済学が加わり・・まさに複雑系現実的状態に対してのこのことヤスパース的人間観をあるXXにより、徐化してしまい不都合に.




 
なんかへんだな、先ほどのツイート、頭の冴えがなく説明表現不足で、違うな.ちょっと表現しにくいことを述べたか、相変わらず諦念XXがそのレベル束縛を行使しているような.大体諦念的存在は一生を未熟で終わるからつまらない.ハイデッガーは現存在は往々にして未完に終わると擁護の形だが.




 
No..弘法筆を選ばず、空海の書はどんな粗末な筆を用いても、評価高いハイレベルにある文字を書けるという意味で、どちらかというと技術的側面のこと、また値段の高い低い筆を選ぶのは空海の自由である.同様にソクラテスの無知は知的面において、評価高いハイレベルをクリアしている意味である




 
古典とする時間と空間とすると、古典にもならないものを持ち上げることになり、古典以下とする時間と空間と訂正する.




 
にもかかわらず**結合でうまく宇宙は人間処理・類続をさせているものである.この構造はなぜそのように示唆されているのだろう.そんな疑問を普通の人は考えず、快楽に飛び込みその束縛に酔うのが当たり前と思っている.




 
潜在意識で役に立つどころか足を引っ張る要件しか反応しないXXは価値がない判断して、その数のあまりの多さに価値あるXXに抵抗感を感じてしまうほどになっている.潜在的ということは未来の可能性のあるなきのことで、すでに時も結構すぎたのだが、その頃の不快さは忘れがたく.




 
Z軸のマイナスは深さで、必ずしもマイナスではない.Y軸の+は視野ドップラーとみる近づいてくると大きくなるとか、X軸は反対方向かな.時間のマイナスは歴史.




 
境界域での選択とそれにおける高揚感のようなものは、人間にとって普遍的に遭遇する生理時間帯であることは間違いない.現実に成立している社会の諸々に適合しようとして、あるいは未完成から新機軸の導入という、若者がと特筆することでもなく当たり前で、いかに生きるかは結構その後に影響力を持つ.




 
ABC予想の考え方は巻き込み性を発揮しているような、ヘリウム流動のように視点に壁が発生して、認識視点に乱れがある・・




 
どうも変だな、実証がうまくいかない.勇気は下等な表現としている故が原因であるようなので、これは勇気を用いないといけないようだ.ずっとそんな調子に慣れているので変化に対して、固着感を形成してしまったかな.勇気は身体的ばかりではなく精神的面もあるはずだ、ただやはり身体意識を要する.




 
+∞のみの世界はそのような視点設定では可能である.ニュートン空間的なものにも見える.+∞のみの世界の双対はないのか?.零が双対になる?-そうであるとしても零と無限遠を合わせた世界の双対のことで.




 
対象に不平等がないと多様が成立しない.空海の弘法筆を選ばずの技術力がすべての対象から獲得できるのなら、そのレベルで平等といえるかな.人間が生きているということ自体は平等だけれど、スケーリングは一様性をスケーリング対象全体としないと成立しない.




 
そうなると非常にいらだつ生き方になる.すでにある現実の圧力は強く変化はするのだが、それを予測しておかないことには始まらない.




 
他人の考えの引用・利用は自力ではない-そうなると、コモンローや成立している考え方とかは、排除しなければならなくなるが、それを伝統にしたがっている日本語で行うことは矛盾であるが、意図はそのようなことで、すでにある現実に関してはその知見を要しないという志向は成立してくるのが自力.




 
勉学さえすれば不平等はなくなるような書物を読んだことはないが、しかし勉強してもやはり不平等的な知力しか獲得できな恐れを急に思いついた.緩和される事は確かだろうが、また実際に平等的が成立しているケースのあることも考えることもできるな.




 
荒廃感情・砂漠的都会に群れる若き女性たちならイメージすることはできる.優雅の典型であるような吉行淳之介は別に--優雅などとはその知らない書物を提示した人物の時に思ったことだった.隣の家のゆずの木のある前の道を歩いている時に、雨が降ってきたので驟雨はその記憶を連想させたりしたな.




 
あるXXが今頃は諦念の自覚をする・しているだろうというのを待っていたという無駄すぎる意味なき日々、このXXに対して陋劣ルサンチマン(ルサンチマンはほぼすべて陋劣と思うが)や、潜在蒸し返しにしかならない思考内容が成立するのも、その与件なのである.




 
結局、未だにその出発点構想に依存する事態となっている.なればその時に出発点としてもよかったかなと今思った.空白の歴史時間が生じている中で..




 
法案提出権において、国会議員にも偏りをなくすための数値上の縛りがあるわけだ.国会議員の給与は国家公務員の最高額以上のものとする規定があると、いわゆる議員立法の数は成立数が少ない-などなど少しアルファに傾くと法律が全く浮上しすぎるのは?、ちなみに乞食は軽犯罪法に引っかかる.




 
確率から、相対的確実と相対的不確実があり、宗教的な・細胞的な全か無は確率なしの・を意味している.




 
不変性は特異で可換できないとすると非可換が生じる.特異点解消定理は葉巻のないのと同じような考え方があるような




 
ネイピア数eは特異点に見える視点を持つことができる.多様体を点にするのなら、持続時間を一瞬にすることは同様な考え方と思うが




 
しかしアインシュタインには感心するな、今では当たり前のように思うけれど、時間を遡って想定した場合、不明瞭時点でよく思いつけたものだと.これも類的史上必然時間の出来事と言ってしまえばではあるが、問題は発見と発明という哲学的意味合いなのである.




 
そんな人がアンノウンではいけないはずという思いはあるが、いかんせんそんな多少不条理的な不愉快な情況にありて、また持続して...他者の存在を考えると実際はそれではよくないはずなんだが、理不尽的に正当で、その自己オリジナルを他者たちに模倣されまくっているかな勘違い者たちの甘え・逃避?




 
自分自身で納得する自己純粋視点・意識を他者たちが妨害してくる.




 
そうこのてんやわんやは”自力ですよ”と言われた人物だが、その頃は、そんなことは当たり前で、たとえ女性といえどその対象にあり、その寄与力も排除せねばという志向で、しらけたアドバイスでしかないかった想い出がある.今でもその傾向はありな点が、不利益・類的圧力を受けているなとも考える点に




 
同値的だが異なっているものの区別をどこまで行っても明確にできないと悩んでいたところに、量子の不確定性原理のあるのを思いついた.ペンローズは考えたらしいが、プランク定数でNo.を使えることにとにかくとりあえず気が付いた.少なくとも現在これを用いてもいいはずである.




 
中間存在は積極的自由に必然的にだが、やはり大局的に宇宙旅行をしていないか?




 
時間の壁か、タイムトラベルは現状不可思議である何らかの妨げが生じるだろうという推測可能な体験・経験を持っている.この辺で他者たちも不快な言明をしてくる与件・要素があると擁護してもだ、とにかく過去に蒸し返しをしているのに現在だと思い込んでいた他者達によって、過去に戻される形も不快




 
多幸症はストレンジアトラクターで対処すべきだった思いが浮かぶ、ここでもミスか、まったくミスの連続は中間存在xxの制御の強いことを物語っている.それにしても思い出せなかったのはなぜなんだ.まったく自己判断が働いてもよい既視記憶があるのに・・・、時間の壁が成立するからかもと気が付く.




 
線形エントロピーにおいても境界ではポテンシャルは複雑挙動を行うか、減衰転化で変化するので、普通には後者判断的事態で処理してきた今までの時間があるが、アトラクタ変化自然ではダイナミックな事態が成立するので、人はより対処が要求される形になる.




 
いや線形時間の経過が現在的に複雑系を醸しているということだ




 
動物的だからそう相手にすることもないというほどには、現実は叙事的要素まだまだ強く、日本の歴史は抒情的に思えるのだが.よくある宇宙存在が人間は人類は排除すべき存在だ云々という映画は、人類はまだまだ叙事的存在であるという認識観点に立つものであるという判断.




 
詩編編はそんなに有名なのか?、読んでみたドラスティックな内容ではあるが、シンプルすぎる翻訳で確かに意図はわかるが、その時期のその時代ではそうで、今日に結びつけるには過程の解析云々が必要だ.詩情に怨念を表明する西洋事情はなんというか楽な・・叙事詩的で別に差支えないのか・・・




 
JUNET・許可なくT大とK大をある個人がある時期に接続という記述を見て、氷解したことがある.まったく・・fjなるものがあったな.




 
多幸症的な幸福感を予期して自己セーブしてしまったKの店.神楽坂は音楽の友ホールの先だったのか、行ったことがない.つまり山吹町の坂から神楽坂駅までというコースだった.神楽坂は駅周辺を指すと思っていた.昔の記憶なのに全く時間距離がない、絶対記憶に近い?、今その時間にいるという・・・




 
詩編・あの返り咲きの一木の花を見ながら、歩く道・JKを避けてしまってどうにもまずったその道で、詩編の塊など読んだらたまったものではない幸福感的な予感を覚えた道.また暗黒面というか自虐ではない擁護的な忍耐形成的な記憶のある道.きつさ故自己過小評価につながる考えをしてしまった道.




 
自己気に入りのツイートはほぼナンバー空間に属しているはずで、選別・分別して番号整理すると作品にはなるが・・判別が難しい.ノスタルジーはNo.あたりになりそうだ.白歴史はまずNo.にうまく適合させるとか.なんとなくなんとなくの時間に本当になってきたかな..




 
埃にまみれた土間の片隅に転がっている道具類の画を松屋の展覧会で見たことがある.なんかいいなと思うのはノスタルジーの感性だそうだ.遠くに小さい明るさの円の見える封建的と思われるシビアな暗黒空間色彩にも似て(この封建的な(?)心理で生きている人が実際に一人いることを知ったが、今は?)




 
結構XXたちは魅力あったではないか、一人は他人の母親であることははっきりしている、他のXXたちもそれに準じて生きているか消えているだろうな.男はつらいよではなく、男は困ってしまうよという気分.それぞれに自己の不都合の自覚や魅力の不自覚の齟齬が災いして.




 
ヨブよオリオンを動かせるのかがあるのに、永遠が太陽と番った海とはと思っていると、母音にオメガの黙示録色彩が登場するのでわからなくなる.まあ黙示録の模倣だろう.モーツアルトのレクイエムも黙示録の模倣、(そうなるとモーツアルトのレクイエムといったXXは考えてみれば・・有限ばかり目に)




 
詩を放棄したのち歳までランボーという個体は連続していたはずで、まったく他人などになっていたはずがない.あたかも他人のようであるとおもったのなら、無知という衝動的存在であったことになる.




 
ランボーの母音の色はいいが、永遠は太陽と*は恒星というほどのものではない.ましては私とは他人であるは不快でしょうがない(他人という存在意識事態自己の才能部であるはずで、そう考えないとすると、詩を放棄した私は他人であるということになるぞ).私とは私であるのは当然あるゆえに.




 
そんな芸術的位相は全くよく知っていて、ただしその結果は永遠でなければならないのが芸術である.これはNo.に関連している事柄.




 
Yの延べていたことは、対幻想的には一目ぼれ・オシドリ夫婦・生まれ変わってもこの人と一緒になるといった関係はまさに関係だろう.芸術家は持っている内部の必然意識を使わねばならない存在で、いわゆるYの思想レベルにはある.普通には深い感動という表現も用いるが、どうもこれでよさそうなんだが




 
普通に社会生活をしている人間ではカルマを除去していないはずで、不都合な面はその場合誰にでもあるはずなんだが、それはそれで人々の了解していることだろう.そうではなく無意味な無駄な空白の歴史も問題で、生きていること自体に意味があるとはしていても、心理的に空白の歴史はどうにも今はならず




 
”「関係」は主体の意識にとって絶対性として現れるなにものかであり、問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物ではありえない。”普通に考えると、動物は”問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物”には関与しない.そうとも言い切れないことも最近は考慮しているが、ならば関係は普通には動物的なものになる




 
ダークマター表現を圧力素・圧子・圧素とか名づけるとフィットするように見える.




 
Yo-Yo Ma: Tcaikovsky "Andante Cantabile"はやはりトラークルの詩のように、落ち着き、セロトニンたっぷりである.他の演奏者では出せない.カザルス物は聴いたことがない..そう瞑想によいのである.




 
スターウォーズには暗黒面という考え方がある.暗黒面でなければ光明面が普通で、市場原理を考えていた時にその先という形で暗黒面・深淵に思考がどうしてももって行けなかった.暗黒と光明は漱石の明暗を出すまでもなく、人々十分認識済みの事柄.昔は深淵を散歩できたのに..




一度ツイートチェックされて矛盾点をしてきた人物がいたな.自我を超自我が見た時かその逆化か、超越論的相互対象記憶者の認識頭脳(劣的と想える)をなんらかの自然意識で用いてしまったものだったろうと弁明してみる.
 

対自対他・二項対立・視点の自由は自在だからといってそうも言っていられないツイートに対する矛盾的の指摘を受ける場合.悟性的だったとか超自我と自我の錯綜情態だったとか・・はまずしないはずだけれど一度指摘があったな. 03312016

2016-02-24

my ft 02242016

超自然的必然における善悪の不条理に納得がいかず、さっぱり発生理由・根拠がわからないが、事態結果にして(他者にとっては全くそうであるが)流すか、しかし過程の時間に不都合な思考発生なので、そうしてしまうのも難しい.いずれにしても思考寄与が自動的になるはずになるはずで..

映画で英語の特徴ある長調の長セリフには息切れしてしまう.どうも日本語とは異なる共時と通時の間の距離感覚で、共時的には長く通時的には短いということか.

何を考えていたかすっかり覚えていないが、論章を描いたことは確かなNo.

超意味なき実存分析感の圧力のようなものを感じる羽目に
極限的なことは実存は嫌で嫌いだと思っていると、逆状態になってくる.こうなると嫌いなものを好むという逆をすると思い通りになるということではないか.そんな矛盾はできかねるが、そうこうしているうちに逆の成立ではトライを考えてしまう.

時過ぎ去りて思考舞台が変容しすぎてしまった事実を知った.どうするか.ただ単に個人の記憶のみで、自然の形態は人工作用以外は変わらねど・・・ショックすら感じないこの精神、意図していたことは意図していても実際となると、全く不都合しか残らないものだ.意図自体もミスッた結果になってしまった


罪刑法定主義にはあの戯れに卑小に思えたフォイエルバッハでもと思ったあの部屋の父親が深く関与していたのか、この部屋の気分を忘れはしないが変更をしないという思いで.

そうなんだな動物も見栄を虚栄をする、そうなると陰謀や詭弁もすることになる.


反復して同じ結果を得る-信頼性の意味合い.そのような人物は安定して計算できるといういいかたがある.が飽和からするとマンネリ・ワンパターンのうんざりという見方にもなる、その距離の問題で、後者は荷物になってしまう.そこにある無機荷物はずっと同じようにある・・




典型的な複雑性社会の考え型に沿っていると考える.そうであるならば思い描いていた意図とほぼ同じ形をしている.それを実行することが望みだったので、いいかな.(個人としては一人の実行者・オブジェクトにしかならないが、まあ応援・サポートと取れないこともない.)




ABC予想、同一世界の入れ子・マトリョーシカ





うぬぼれというトートロジーに対する無知、あるいは不快な記憶





水平と垂直視点の交点で見るのはミンコフスキーの現在.別に空間に焦点・時間に焦点を合わせようとなんら矛盾が生じるか?.無限遠点での視線が必要なのは射影空間的でその思考をしているだけ.それでは別に価値は射影論発生時から変化してはいない





プランク定数未満に拡がればまた価値観もまた確かに変わるだろうが、それに整合した価値意識も類は考え出すことだろう.




ラカトシュ賞メンバー業績はNo.3に採用できるはずである・・・




経験・体験時間がある程度長くなると、意識的にせよ無意識的にせよその時間に拘束されてしまうのが現実的人間といえる.


矛盾にも度合いがあって・・・と考えると、あるいは矛盾の最大値とかを設定したりする考え方とか.そもそも矛盾が成立している場というものがまずあるはずとなる.



無底の自由という西田概念は、射影空間のイメージとよく似ている影像をもたらしている.


『疲れたら交代する』のはごく普通に維持上考えることだろう、昔に論理上に当然設定(No.12~15当たりのどこか)してあるのだが、今頃研究チームが騒いでいる時間をなんとしよう・・・





一歩下がる癖がありすぎて、抵抗体に遭遇するとすぐに避ける形を取ってしまう.下位か上位とかの位相に向かう傾向は、そもそも遭遇自体が必要ないということを意味している.普通にうまくとらえると、一歩下がりはN-1次元の境界を意味して、それはその対象体・対象領域に対して、優越する位置になる





おもむろ思索で正解なら方法論が非常にまずかったことになる.時間は無駄に流れて、おろかしい気付きの長々とした時間距離の為体さ





歳時でよかった?のなら、歳の月の一様関数XXでよかったのではという思い.いまごろ何をしているだろうXX、その時にはまったく気が付かずただ会話内容に錯綜邪悪な全く必要ないことを考えてしまい、今更取り消しは心理記憶でできるが、覆水時間は元に戻らず





感性の判断においてはその時々の心理気分で妄想・奇想・夢想・幻想・空想などを行ってしまい、現実際対象・事象を見間違うことあるので、線形と非線形ケースなどを判断のよすがとすることも、現実には有効であると考えるまでもなく、当たり前か.





おもむろに考えた、歳時のパターンでいいのか?





件の人物はその身体優位性が親鸞こだわりを齎していたのは間違いないところだろう.無底の自由という言葉はNo.にせねば、ここで有限を設定するかどうか迷って、有限言語化したのだが、有限はいつでもというほどによういではないようなだが、外してよいものである.





”我々は自己の個に徹すれば徹するほど、無底の自由を自覚する。”西田哲学だそうだ、人間はすべてこの無底の自由を持っていると同様なことを述べた人物がいて、どうにもいらだつわかりかねることだったのだが、西田幾多郎の哲学そのようなことがあったのか.個体にもつながるな.

しかしふと徐精神を持って見ると、どうも自分の考えを随所に用いているような現象を想起した.まあいいのである、それが意図でもあるので.原理的に持っていたのだが..いろいろ未知・無知人間の粋がり反発を受けすぎている今までの時間といった趣表現は当然できる.そうでない人々も多かった?





ポパ00年---この値の微妙さ、これではまずペーソス退行XXは役に立ちそうになく、もっとも他の面でもそう思っているのだが、無駄を間接的を超える以上に強制した存在ではどうにもならんことは、先の時間から明らかに.ちょっと傲慢を止めて謙虚さが必要だが、どうにもそんな能力があるとは





なんか最近フォン・ノイマンに一言いいたい気分になっているということは、環界の変化によるのと自己歴史の感慨からかな.ノイマンのリングがエルゴードならちょっと何も言わないことにしよう.なぜかなんだかわからない・思考刺激をしないノイマン環もまた不思議なもの.どこかで何か接触している?





とはいうものの、明らかに大丈夫なはずなんだが、帰納の帰結設定は心理にいらいらする心持をも齎している.共時的帰納も当然あるわけだが.





市場原理でも年前に暗黒空間が出現して、思考が進まなかった.そのかなり前に、市民は希望であると思ったときに、やはり暗黒空間が出現してこれはなぜなんだが不明であった.この両者のパターンは似ている.後者は等質空間のような、前者は深淵である.さて何かのヒントになるか?





つまり交換に対して反交換的人間が、交換性の邪魔をする.少なくともある視点では、反交換は反交換であるので、それを自覚するか、両親に文句を言うか(第一義的原因は両親にある)、変容しようとするかで、交換に無理やり割り込む必要はないのだが.





怜悧という線描曲線ではないか、心理印象では参った回もの.





アルファタッチにしたらもう面倒で、永劫回帰を無限回行うとしたら、超人的生き方など空しい(皮肉にも)というか、それがどうした・気にしてもいられないというような、ニーチェのどうでもいい扇動・説得力になってしまうように思いついて.





1/∞VS∞/1のような類比をすると、孤独であるの逆は全てと親和性があるということでもある





直感では不随意運動と脊髄反射は結びつく要素を想定してしまう.あれ、不快な記憶で悩んでいるものは、脊髄反射的反応言明ではないか?、さっぱり理知的には判明しない麻痺作用であることはわかるのだが.





ある視点から蛇足に過ぎない人間もいる設定を心理にしまっているとする(良心的面から)、その視点者ではなく対象としている他者に遠慮した形の良心的心理をその視点者と設定してしまう他者認識に悩まされて、そのような愚かさが障害となるケース多すぎて.





αからの障害とするより、愚かさ達からの障害と述べたほうが良いかな.まあαからの障害もないはずもなく、愚かさ達は全く疑いようはない.


記憶に残っている不快な言明者たちには、それなりにどうも責任を与えることにした無駄な擁護を強制される・不当に歪めを強いられた思いなので、歪める以上それなりに責任を持ってもらわないと困るという理由から、明白に一人は消えているのでどうにもしょうがない、+αでもう一人いるか





しかしフランクルが超意味設定していたのは知らず、それを考えるとまた困ってしまうが、フランクルはフランクルで、むしろ超意味の設定自体を知らなかったこと自体の方が、問題(先に言えという自己弁護も)ということになって、なんだという思いもする無駄な極限想定をしたものだというそこの信号の処




『疲れたら交代する』これは思考の内に記述してあることである.




結局、他社たちXX&XYの愚かさに付き合いすぎて、愚かさ以下の生存時間を過ごしている結果になっている.まったく不都合なものだ.何たることはなく、むさくるしいXXやむくつけきXXと当人が実行していない実行すべき事柄をはやどりして、実行や実行結果あてはめをされて、しらけすぎなXY達も


ようやくウィルバーの意図をほぼ了解したかな.インテグラルという言葉は嫌いであるので疑念をもつが、(個の外面と集合の外面の短絡があるような?)、マズローにせよウィルバーにせよ、一言表現をするならば”頭がいい”という領域・範疇の人物たちである.
 
過去の解説をするより新しいことを考えると決めたウィルバーのある時、こんな文に接すると、相変わらず解説ばかりでしかもその情況がまた伸びるという時間が続きそうで、なんとも.まあそう簡単に新しいことを考えることができるほど、過去が限界的ではないという面もある.
 
しかし人がワープとか考えるのはそれなりの思考構造を持っているのかも知れない.ベルトラミ構造からはまず普通にワープ形式を思え、トーラスにもその香りはある.トンネル効果の示唆はあるかも、むしろ相転移の示唆の方が強いかな.壁の向こう側はどうなっているのかという疑問感が要請する?


しかし物理にせよ宗教にせよとにかく人々の空想力(未実証もの)には恐れ入る.追随して・容易でもないか・判断はできるが、やたらと詭弁的頭脳になりがちになってしまう難しさがある.想像力はいいが空想力はいただけない考え方で、区別が他人には困難なのかも、確かに共通する点はある.


サイクリック宇宙*無限回&仏教周期*無限回のようなケースをかんがえることができ(仏教はちょっと大げさなはったり的大きさ表現をしていないか?、実践する精神では困難を齎す予測はあるが)、これらの逆もまた考えることができる.


普通には多元宇宙の一つから別の宇宙の自己に会うときには、若き自分が老いた自分に会うというケースであり、その修正を考えていたら、ボルヘスの砂の本の中の設定とそっくりなことを思いだした.ボルヘスは多元解釈的な面があって、複雑怪奇的と、そうなると多元映画は、ボルヘスの映画化かとすでに?





現象的には、良心の呵責・罪の意識は、類続構造の圧力からくると考えられるが、無機物には当然罪の意識などないことから、罪の意識がそう内容な指示的人間は無期物体に近いものとなる現象判断ができる.病的な場合、無機的な場合、状況的な場合(戦争状態)、動物的な場合にも、多くはそう言える.





数が多いはジップの法則判断においてなのだが、自分で考えない存在は往々にして共同体思考に依存してしまう、この存在の言明が往々にして悩ますという・容易にまた判断する傾向を覚えてしまうという点が、いろんなケース設定になる.大審問官や衆愚政治&その・・・





有限叙事的粘性虚無-虚無に有限があるのは盲点だった.まったく単純に考え難い





帰納-プラスでもありマイナスでもある.





どうも落ち込みに安楽を求める形になる、ドストの人は被害者意識を持つというような気配も覚えないこともない.これが変わるのだがその時間が成立するのかの時間無意識中--変わるというかずっと昔からその位相設定なんだ...





『古典とする時間と空間』などと過去を煽てたのでその付けが出ているが、ふと思うと現実はそんな形態で、卑屈を要請される形になってしまっているが、結構人々とこれ位相が同じなのかな.あるXXがここでも卑屈感をもたらしているという過去形なんだが、自らを全く過去にしてしまう意図せざる展開





一言はよかったが旧態持続型人間に辟易していることをまた忘れてしまっていた.結構システム圧力が強いので、というか急には変われないからだが.奇形系が持続意識を持っているという矛盾が問題なのである.奇形系はそれ自体変人であるのですでに変わっている.





常識は自然に無意識に当たり前なことなので全く面白くはないが、日常では頻繁に用いる.ただし区別して覚えるのには大変な量があるものがあり、つまらないと称している暇もない場合もある.





不快な記憶は不自然の強要な事態だからであるという帰結になりそうだ.



 
心理の次元が落ちているケースでのツイートで、昔に矛盾的を指摘されたことがあった.心理の次元が落ちているというか、蒙昧な女性が対他寄与しているか、非科学的な無知存在が影響しているかな存在を、こんなケースでは思い出す、科学はいいといった人物を.大体反映なんだなこれ、しかし相手でなく




 
宮沢賢治の世界はアドレッセンス・と自分で言っていたらしい、そうかなるほどそんな趣をそうとらえるとそう思えるな.銀河鉄道の夜という作品のあらましを知ったのは小学5年生の冬の時で、とてもついていけない空想物語と思った記憶がある.まあそんな小学生もいるわけだ...




 
つまり日本はポテンシャル<エントロピーの時代にほぼ正確には0年から転換したということになる.




 
ベルグソン・ベルクソンではなんといっても全く記憶にないが、笑いの哲学に目を通したこと.微笑や共鳴笑い、哄笑などなどパターンがいくつもあるその概念・身体減少.エラン・ヴィタ-ルは単なる飛躍ではなく、共鳴もあるだろうけれど、まあ相転移的ジャンプまで行くのではないか.




 
あいつは優越感ねと理解したが、現実に意識がわからなかった.深層的事態だったのかも.で普通に何のことはなく人は優越感によって生きていると思うのは、まったく当たり前すぎる自然すぎることなのだが、人間存在に存在論的に組こまれている物は優越感とすると結構つじつまがあうかな.




 
経験上遭遇したパリサイ人は視野が狭い気がしている、それと権力的にすぐ傾いてしまう、つまり進化論的に弱肉強食の動物界人間のように見えるということである.自己自身の良心が欠けるきらいがあるので、他人も良心が欠けていると思い込んでいるような存在と




 
ここに至って,Θではなくαタッチに注力しなければならないことに、まずはホイッグ史観に直面することに、デンマークのユダヤ人のスウェーデン移送から発生.つまりは社会進化論からで、スペンサーはまずエントロピー史観と現象的には見ることができる.『エントロピー史観』--この言葉結構いいな.




 
君はあきらめるんだあきらめるんだは悪魔のささやきとしてゲーテの箴言
それにしても気にしたいXX、ほぼやる気をなくさせることしか言わないのはなぜなんだ.まさにこのXXたちは悪魔的といわねばならない.まあXXに限らずXYも模倣乗っ取りのような悪魔的存在も多くいる.




 
生きていることは常に身体的不自由に直面しているということである.




 
創造を現代ではないと述べていた評論家の意見が気になっている.確かに実際に創造は難しいが、最初の試みというのはあり、それが起源・オリジナルという記録は残る.模倣ではなく起源的な所為は記録されてしかるべきものと考える.汎関数的?なシミュラークルでもなく.




 
JKが自分の年齢だろうが何だろうが1だったのでNo.1にするべきだった.なんというかやる気をなくしている頭というべきか、劣性XXが災いをしているのでは、その気持ち悪さで、インフェリオリティはアドラーが建前で優等表現をしても、やはり反動で厄介なものであるのが現実.




 
弥生の寄与が強まると太平洋戦争なるケースが生じたことになったとか、天皇家も縄文の遺伝子を持っているはずで、本来の日本人は縄文の遺伝子的存在なので、皮相的に倫理面で世界的に無理解されているところも無きにしも非ずがあるようで.




 
憲法第条は与えられた形や死中に活やウェルズの思想より、縄文の遺伝子が引き寄せたとする考え方が日本的かな.




 
マタギのすべてを取るのではなく、来年以降を考慮して調節しながらの自然に対する意識は、多分に縄文の分かち合いの遺産ではないか.縄文時代の島国は楽園であったことは想像に難くなく、遺伝子を受け継いでいる日本人の伝統に、憲法条も乗ってきているような感触がある.当然徳川幕府の鎖国政策も





多世界ジャンピング映画、一つの世界での死は他の世界ではそうではなく、まだ生きていると、なんと離散的世界のアイデアはわかる.人はそんな多世界・他世界位相解釈能力を持っていることも知っている.SFを見ていると個的アイデアに関してうかうかしていられないという思いで、アイデアが湧くかと




 
なんだかローレンツ変換ではないかと、それならNo.でスピノザ決定は時空が関与する.浦島太郎は当然の話で、むしろ日本の昔話が相対性を予期していた点があるとも.あとNo.にはスピノザから多元があり多世界もヒントしている.まだ今日風には要素があるが、とっさに結びつきの説明がつかぬ.




 
散乱場でも南場宇宙でもいいけれど、想像・想定するだけならいいのだが、生理心理で同様なケースをリアルに覚えて、冗談を設けたらそれが本当と他者達に見られるのは不快すぎることで、そのようにみる無茶苦茶な他者達は何なのかさっぱりわからない、おかしな存在であるとしかならない.




 
人間が人間として存在しているだけで持っているものは、先天的存在かつ後天的存在だけれど(最も多少どちらかが優勢な偏り人間はいるし、また日常においてどちらかに偏るけーすもある)、そのような存在が日常生活していると、その判断はそこからやってくることに間違いはない-という現象論




 
家父長制は精神分析的にはA期的事象といえる.帝国主義・覇権というニュアンスは家父長的色彩強く、A期的とするならば、戦後によって日本はG期を行う羽目になった形である.大人になるべき・なったという現象ともいえる.




 
親鸞の悪人正機説の応用で、どうも記憶にある不快な言明者たちの分析をすると、無自覚者は他人も無自覚者と思い、くだらない自覚者は他人を無自覚者かくだらない自覚者と判断する傾向が強い.くだらない自覚者はむしろ他人を無自覚者と思いたがるかな、それぞれ主体の阻害を行使してくることになると




 
古典と量子でDとD-1次元的考えは、ボーズ凝縮論とまず似ている.





現実論的には経済は歴史の圧力である





ユーパリノスは虚無に対してソクラテスが無能感を感じる物語、虚無=叙事的無ではなかったか.建築に関しては不朽性を持つと芸術になる.





ある不動点定理から、無限点でで消散するという考え方はストレートだなとは思う.消散してどうなる、消散とは明瞭なのか、消散しているところの場の様子はどうなんだとか、自然に任さないとするとそんなことを考える.保留中からは結論を出している消散やゼロは都合を除けば無責任感触もまた浮かぶ





そういえば今まで一番のお気に入りは、ボーズ凝縮数粒子は全体粒子よりも少ないという説明であったことを思い出した.気分よくなったその論理と方程式説明の記憶がある.





夏目漱石・道草より、一度起こったことは形を変えて続いてゆく・から、ある時点での形を変える以前のエントロピーは減少している、これは日常生活上頻繁に起こっていることで、形を変えたエントロピー量は以前のエントロピー量+形変化に対するエントロピー量として、エントロピーは増大していると見る




 
去る昔、新宿紀伊国屋のFで、想定WH側の無限挙動を考えていた時に、ちょっと想像しがたいので自然に任すとした時に、はっきりしろという内面の声が?、自然に任す(とりあえず)としたのに、この内面の声は何、誰か他人の要請としか思えず・これも自己主体のなせる業というのか・不思議な・・・




 
どうもブラックホール的ではなく、ホワイトホール近くで無限遠点挙動を考えるところが違うのかな?




 
知行合一は山がそこにあるからで知先行後はそこにある山に登ろうと意図して登る-単純には本能と理性(本能的理性もあるから語弊があるが)の違いのようなもの.(倶舎論の文字はちらっとは目に入っていたが、別にというようなものだろうと、そうではなかったのだが)--朱子学や陽明学が?




 
マルクス・エンゲルスが科学的と称して、唯物弁証法を用いて共産社会実現を夢想した.仮にその夢想が成立した(国家なく貨幣制度無き社会)として、用いた弁証法の寄与が、実現によって消えてしまうような影響力しかないと考えるのは、どうも非科学的なのでやはり共産社会の止揚はなければと考えるが?




 
差分を止めたらある存在が幽霊のようになった、これは一つの解答・解決策だが、実際になぜという感じは持つ.少しでも煩わしい悩みが減るのは(過去が想起する悩みが減ることは)、その悩みエネルギーを未来への悩みに向かって使えるのでいいことなのである.




 
大体、深層心理をこと細やかに配慮しても、対象が深層心理をもっていないや、心理すらないような物象的存在もいるではないかと.ところが自らが他者の全く配慮無き発言を受けた場合はどうなるのか・・不快な言明として記憶に残っているものは明らかにその対象である.




 
体育館のそばの陽だまりの中で、ケットベクトルを想起したことは、懐かしい出来事と思うべきかという想いが過り、危ういどうしたものか・心理を変えることになりこの瞬間先が見えなくなるゆえに・・・




 
過去は時間的に過ぎ去ったことだから、あまり過去に向かうという考え方はさほど、ただし非可換でないと未来の不明が成立しない理屈.未来が可換としたら現在から未来が判明することになる.まあ地球は明日も自転・公転をするだろうは可換的であり、地球実在はてまたこの宇宙の存在持続も未来的なこと


 
時空の連続体の量子化の候補が非可換幾何学とか、非可換の連続が不確定のスラーとかなんだが、わからないミンコフスキーを破れず・・・


 
実存は苦手不快で中途半端なもの通時的な場合も心情に災いする.深淵を歩き回る世界線やパスカルの実存世界はいいはずなんだが、封建的な通時的旧式を覚えさせる実存も結局まずい.




 
要するに帰納より演繹が好みの人間がいて、ただし演繹レベルの対象差があることが問題となる.まあある特徴作家が”自力ですよ”と、過剰にわかりきっているアドバイスを無駄だがそれ事態は貴重なので記憶している."愛読者ですよ"とその妻に.別にプロットは嫌いではないが、センスは好みではなく.




 
ちょっと面白くない知らせが、なるほどと思うことはあるが、判断材料にさせてもらうのはしょうがないないだろう.まあ厄介な帰納の不確定の煩わしさも見えないことではない.帰納はエントロピーに追随しているや甘えている・エントロピーゆえにとも思いつけることに.




 
楽園・幸福情態を予想させる考え方自体が、その楽園・幸福情態を否定しなければならない要素を含んでいるということは、それはタナトス的になる.これで、若かりし日、市民が希望であるが徐に浮かんだ時に、そこに付随していた暗黒空間の理由がほぼ解けたかな.(希望になぜ暗黒が付随するのか疑問で)





「エントロビーの溜まり場J-量子系の励起モードの数(これはインスタントか)に対応の歪みとは、なるほど.やはりこの面でも時を徒に過ごしたかという側面を感じるが、時間経過における結果を待っていた意図が優位にある.





亡霊はあまり考えられない.他者の怨念・未然愛惜が意識体に?、それは他人のことなので想像しがたい.ともかくタイムマシン的だけれど未来の場合にはゴーストはある可能性がある.(個人的には近未来年時間のみとして)





出る出ると言って出たためしがないのが幽霊なんだけれど、自己の未来の影像は揺らいだ液体で構成されている人体(表現はまるで映画プレデターの透明映像とよく似ている)のように見える.人の直感・幽霊という考えは結構当たっている.今のところ過去は見たことない・実体を持っているから.





昔、亡霊ではないがある存在の影像の動きを見たことがある.今考えると自分の未来の行動形態で当てはまる状況があり、未来の自己はまさに幽霊のような映像に見える.





カラビ・マルクス現象は普通で当たり前のことである.中間存在は普通自然に工夫して、依存的自由作用を持ってくるのが厄介.





ネットを別に用いていないのかどうかT大生すべてが有能とは思えないようなネット現象を感じるものである.しかしT大生一般はあるレベル以上であることは一般的に確かでもある.(ここが小学生の時からの問題で、昨日になって閉鎖という言葉を思いついた・かなり信憑性がありそうな個人的見解である)





不快な言明の記憶ある人物は倫理観が弱い・倫理観が悪いということなんだが、その子供の倫理がよくなるはずもないので、雲孫あたりまで行っても倫理面は良くならないだろうくらい言わないとしょうがないなという気分..まあ倫理などは無いと言っているが、あるでたらめの言い訳レベルを記憶していて.


「賢者の石」―藝術及世界に就ての考察―〔「水甕」卷1號 大正年1月〕詩集轉身の頌序---によれば日夏耿之介にとって、宗教と哲学と詩は区別さるるものとある.夢と哲学と詩は区別しているものとした話をある作家にした時、夢と詩は区別できないと申した.夢は宗教的意味合いが強いのだが.





不条理が人間存在にとって必須ならば、神はなぜ悪と善をの問題は人間世界だけを見れば問題ではなくなる.何しろ不条理が必須なのだから、ここには神は不条理のない存在と見ている前提がある.





理論と実践は異なるとかの確定出ない事柄は、さすがに現実のものとして直面するようになる.どうにもそうなってしまう不可避的でこれでは生存過程が
うまくいくはずないではないか.ただそんな問題を避けて、他人転化と他人依存状態化すれば回避できる(中間存在はそうしている)





”ストロミンガーの提唱した系は、同時に解かなければならない四つの微分方程式の系から構成されており--”えっこれひょっとして昔考えた種の特性方程式と似ていないか、一つ一つの解・既約方程式が難解そうではあるが極度に難解なものをまさか想定したはずもない・・・



どこまで行っても分離しないケースとどこまで行っても結合しないケースがあると仮定する.前者は一応思考できる.





徳川時代の鎖国や黒潮の潮流や縄文時代の寄与などから、日本はどうも閉鎖的な国の雰囲気が縄文より続いているような気がしてきた.ただ戻る場合には確固とした地域ではあるが、外部に向けてはオープンとは言えなくなるような形として.





そこからRNAi・RNA干渉を知るが、忘れていたテロメアに関係しているとは冗談ではないな.ヘテロクロマチンはできるならば種にして貰いたい気分がある.昔はRNAから皮肉位相的に考えようかと思ったことがあり、miRNAは予想していなかった次元記憶があるので確信的に時の流れを感じる





前提条件に有限があることを強く意識せざるを得ない.ヒュドラがそれ以上生成できないようになる時空域、foldを一つ一つその連結を断っていくようなものと考えてしまうとまずいことにはなる.それより分岐生成力が多様分岐を処分していって分岐が生じないようにするという考え方にしよう-なるほど





時間的に複雑自体が変化するものを定点化していたことが判明、愚かな自虐を行使した問題が解けた‼(全くなんでもない単純なことで徒に時を過ごす羽目になる-徒労に呪われているのとは多少異なった面で).時の流れに平行して動けばそれはそこにある現象にしかならないよくある解析感覚と同様である.





要するにパスカルの想像力は理性の邪魔であるということなんだが、想像力がないと視野がまた進まないことも確か.問題は複雑な理性以上に複雑な想像力ということで、またその想像力はそこに意味があることにもなる.





偏屈(でなくても)XY(XXも)的権力視野剛体強情自己欺瞞性演技擬態体人間は確かに剛性を持っているので変化にぶれはしないが(ぶれる能力を持ってないという見方もできるが)、柔軟性の欠如があり、硬度硬くステム的で・・・ある消えた人物を思い出してみるとそうである傾向にあったとしか見えず





どうもケインズの幸せな時代およそ%の物価上昇率は安定で理解できるが、時代の流れがケインズの時代と異なった変化をしていると考えざるを得ないのではないか、そうなると変化率も変化させる構造が出現してくると





リーマン球が無限遠点と称するとき、連続体仮説などは考慮していないようなのだが、その辺はこれから精緻になっていく可能性はあるか?





きょう徐に考えついたが、資本主義とプロレタリアでなぜプロレタリア独裁になるのか、文献類に目を通したことがないので理屈が不分明だが、素直に弁証法を適用すると止揚とは資本主義でもプロレタリア独裁でもなく、それらを混合した新たな局面になるはずではないかと.





単に小学生の頃の思考の方程式化ともいえる.全く遠慮することはなかったという思いである.この遠慮はすでに過去としたXXが足を引っ張る形で、常に欠如感をお垂らすように作用するという、不快な無駄ばかりを要請される形となる・何しろ潜在才能が役に立たないとう時間遅れ思考を非常に経験している





シュレディンガーや不確定性、生成・消滅も必要だったのか、これはちょっと勉強しないと直感では追っていけない対象であるは、素直に思える.





冗談には遊び的があり、自由には責任が伴うのに、冗談には責任がないというのは少し変である.冗談が事実的になるのはそれが責任に転化される形となると考える.なぜ他者は冗談を真面目にとるのか?.発散解消的なものなのに、有限実在束縛にしては意図が異なる.




 
経済に道徳はないと人の述べるとき、その人物は経済は薄情であると述べている.権力的叙事的つまり統合的人間にも道徳はあまりなく、薄情であるとXX&XY双方多く存在していることよ.




 
そうなると記憶にあり、ある人物の不快な言明にはその当人に責任を負わさねばならないと考えるが、すでにその当人は故人である.なんとしようか、蒸し返しで対象が全く異なるドン・キホーテ様言明をまさか行使するとは全くその時に考えず、消えた後から思いついても意味がないが、不快は不快である.




 
ζとBでが出てくるを今頃知ったという(避けられないことだったかという想い)、相当時間の無駄・ラプスと思うが、別にそうではない?.この数値に関してはそのときには直感では意味がない・大げさと思ったゆえ(少しは意味もあるかとは思ったが・次元の頃)--潜在的は考慮の内に第二楽章




 
トヨタのCMもあってやはりリスクは動物的か-身体的というか--非妥協にはリスクが付きまとう




 
昔考えた種の特性方程式(それぞれ既約)がまさか種の基本相互作用の解というような複雑なものではなかったな.ただ種の相互作用などは考えたことは記憶になく、たまたま種の特性で、また次元特徴もあって、種の特性は結構個人的に楽しみを齎している.




 
ディラック作用素はラプラシアンの平方根だそうである.クラウジウスとディラックの精確さは対象により差異はあるが、同レベルとしてよさそうな..しかし量子の精密さとは定性の度合いが違った.クラウジウスを考えていたのに、少し時が過ぎるとすっかり忘れて、ディラックの単子ムードに躊躇った廊下




 
弁証法的な超対称性を行使しない・心理感情的に似合わないので.超対称要請もしくは阻害強制を受けていて不快でしょうがない.不快な感性のフェルミ型がボーズ型をやればいいではないか、単体的なのでエゴ丸出しが自然だが、別にそんな自然を持っていない人間もいるのである・ことに苛立っても無理.




 
いわゆる覇者的や叙事的なども無機的要素強い.唯物は当然そうなるが唯物と観念も実践と理論で思考必要だが、無機的と有機的でホワイトヘッド傾向をこの場合考える.




 
剛体的・帝国的・道具的・行動的--おおよそ無機的傾向が強いことに気が付いた.道具的=オブジェ的も成立しそうで、幻想力自体がハード要素を持っているとしているので、ある作家の想像力についておおよその見当がつくことになった.もっともこの人物の固有性を考えていた結果無機的にたどり着いた.




 
あんまり反応ないと思えるので、やはり今の若者にしか理解できないのではという思い上がり的要素もあって、それでも即物現象に飛びつく存在はどうかと思うけれど、即物社会現象自体は共時線を突っ張っている点もあり、いくらな何でも時間が過ぎてそれ以上に古くなってしまったとか、それは歴史上になり




 
類群暗示から頂点代数暗示が出てきて、Jとか8個のテンソル積とかモンスター数と共形変換とか-全く昔からのモンスター暗示はよかった(ムーンシャインで区切りにしたが)けれど、例によってfold回避という分岐に関してこの辺であるという直感試みが共形に関連しそうとは、ラプス時間が長かった




 
前のツィートから偽善体・演技的性格のすでに自己主体を亡くした存在(無自覚人間が多そうであまり自己主体がわかなくなっても差し支えなさそうな存在もいそうで)は、生理的人間の範疇に入りそうなアイデア・可能性が今まで麻痺しすぎていた現象・事象対象時間から逃れ出てきた.あまりにも単純な・・




 
中間存在や実存人間&無機的傾向人間がとにかく有限束縛をしてくるという現実.生理有限から出れない人間たちの嫉妬心がよく言う勝手に動いているとかの表現になる.XXたちの生理必須条件がなければ存続不可能という事実に依存しているような意見として.




 
未来を見ていたが遭遇した時にはそのことに全く気が付かなった.その未来が過去となった今ははっきりわかっている.まあ未然未来の連続で、ろくな成果である未来ではなかったことに、根拠がわからないという悩みがある.個人の性格遺伝子と思えばだが、それにしても変で、他者たちの災いが一番ではと





全く冗談じゃなく帰納の原理的不可能性と哲学探究の煩わしさの時間を持つとは、ベーコンのヒステリック心性感受は原理的不可能性で理解はできたが.そうなるとエールのリンダも似たイメージなので了解できることになる.その上に定性メロディも帰納的曲状となることになる.





無機物からの進化・変化が人間に意識・思考構造を齎したと考えるが、ブラックホールという無機物構造がそこに立ちはだかるという情況.それはそれで自然宇宙の似姿が人間の思考構造とできないこともない.





G宇宙は理論的、ブラックホールは実践的でその関係の別の思索方策的な事柄.





類群で不快な心理変化を余儀なく・・・構造の単純化という.グロタンディークの宇宙とブラックホールの関係でまたまた不明な行き詰まりを覚えることに.





ありゃ事象の地平線の前では、グロタン宇宙は・・という実践理性と..





NBG集合論を用いた-フェルマーの最終定理証明にグロタンディークの宇宙を用いたのか、ZFCより弱い体系でも可能ではという心情はわかる・直感できる・・・





実数のある形の複雑さ=混沌に対しての位相.客体的と主体的数学者がいて、岡潔なる人物は主体的数学者だった気がする、悩みの観点からは主体的の方がその強度は強いという意味合いを与えた形として.





それらの間のなんやかやがイメージ接近を齎していて、しかし方程式はオブジェ的にも見え、近似的とも思える.今のイメージではそれらでいけるかもという感触を得た気がすると、しらけてつまらなくなってしまったという気分も湧いているが、そうなると前進を余儀なくされるのがパターンであるが、はて?





そんなかんやで個人的な直感が志向するのは頂点作用素である.これはモンスターの流れからきているのかもだが、実際には頭痛くなる以前の記憶があり、しばらくした今またどうも対象として浮上である.





しかし個人的感性では、類体という言葉のイメージが似合う女性はいて、好むスプライン&心性を持っていると、ある温泉施設の休憩所で遭遇したことがある.それほど難しいとは思えなく、そうなると類体という言葉に対するイメージが違うか、件の女性が実際は難解なのかもかである.





その昔に、時間があったら類体論を考えるとしたが、そのような気楽?な対象ではなさそうだ.イデアル類群がまず難しく、非可換類体論の定式化は初頭でも成立してない情況で、さて今は?おそらく今もだろう.





種の固有特性解を持つ方程式はひょっとしてスツルム=リウヴィル型微分方程式のことなのかも--特性値の判断から思いついたその昔





自己主体の疎外を要求してくる存在は、承認の要求を要請しているのだと思うけれど、そんな存在に限って他人の承認をしていないので、何しろ主体疎外を要求するのだから、当然そんな存在を承認するわけがないということを無理に押し切ろうとする、バカらしさを覚えさせ無いで・という不快な記憶





初めて行った小学生の時の霧藻ヶ峰のレリーフの印象はは何十年たっても鮮やかに覚えている.誰なのだろうなぜこの岩に描かれているのだろうと、眼前の樹木にかかっている鮮やかなサルオガセの塊の鮮やかな灰白色の印象と共に




 
supermanifoldでgrassmann oddをθにするのが常識になると困る、反対の記号意図を持っていて、でもそれとは区別すればいいか、そう帰結を急ぐこともない.




 
退化因子まで登場するなら、退行強制・要請存在に対して打つ手がありそうなというより、要請存在の方で手段を構築すべきである.退化ばかり要求するにもかかわらず退化しない状態を持つことはできないだろうから.それにしても昔には厄介なXXたちが眼前に出現したものだ、記憶内容が面白くなくて..




 
そうか単振動ではなく、まず最小複数で引き込みが起こる(これも知らなければいけなかったが)、これは中学生の時の少数循環繰り返しやどこまでも続くπの展開数列意識に関連していた.今でははっきりとわかるエンタングルメントが謙虚さを要求したためか、全くこれを思い出すこともなく自己判断欠如と





世界がなくなっても一杯のお茶があればいいはおかしな言明である.一杯のお茶のある場は世界だからである.これは言わずと知れた傲慢な心性を示す人間の心理が客観世界がないという無意識を表現した形である.





ゲーデル解・年”回転する一様な粒子を仮定した解。 宇宙項を入れている。 時間が輪を描いており、過去と未来が繋がっている。”--ゲーデルはそう考えていたんだ.そんな簡単だったのか?--多少困ったな、現実人間世界を基準にすると(宗教的は結構密接した地平になるか)考えずらい.





エンタングルメントと述べてしまうとしらけてしまったかたちになるが、それに気がつかなかった当時間が問題で、何が障害になったのか思い当たるような考えが浮かばず、さっぱり相変わらず説明がつかない.エンタングルメントは考慮中に登場しているのだが、距離はそれほど長いイメージは持たなかった.





ド・ジッター宇宙は事象の地平線を予測している結果、事象の地平線でド・ジッター宇宙は有限であることになる.(余計なエポケーをしたときに即座にデリダの暗黒に到達して動きが取れなくなったことを思い出す、ここでは脱構築は困難であり、ハイデッガーの限界でもある)





バネ振動子”バネの力がわずかにフックの法則からずれている状況”は大いにありうることであり、”そうなると振動の周期が元の状態からずれる”という帰結は・事象は全くありうることである.--非常に不明だった時期があり、何のことはなく全く実存的制約に陥っていたか、劣化XXの寄与が遠くから?





単純に重力球状天体に沿って光が曲がるとき、天体は+曲率を持っているが、当の光は-の曲率と見える





慣性の法則により、空間が曲がっていると一定速度なのに加速したように感じる相対性原理ゆえに.なるほど対象により変化して来るとはアインシュタイン.慣性の法則・等直線運動を考えていたある家の裏の道を思い出す.確実特定場所の記憶はないが、およその時間記憶はある.

”臨界点近傍における物理量の臨界挙動は漸近的に冪乗則に従うことが知られており”次の場合だけれど、臨界点がまず存在するという前提があればいいのだけれど、区別がどうしてもできない悩みがある.しかし、漸近的にべき乗則に従うという考え方は使えるな





foldに関して例えば”正標数の場合は暴分岐重複ファイバーが現れる”などがあり、好きな人はいるな.そういえば何とも言えない混沌暗黒についていけない理性を持ったことがあったのを思い出した.ちらちら見る組みひも論よりはるかに複雑怪奇な混沌像だった.





ホップ・ファイブレーションでも楕円でもいいけれど、変形方法はいろいろある.素線で領域を瞬時に埋め尽くすとか-紐は弦は行き着いた形?





回転楕円体関数がある以上微分方程式は避けられないものだったと今頃気が付く.foldが苦手なので結び目と当然苦手となる、複雑で・・ところがこれらに不変量を求めて鵜の目鷹の目のごとく挑戦者がいて、またその結果を出している.




 
普通に宗教の古今東西の開祖は神人化になっているな・もう人間実在の構造自体に機縁するものとしか思えない.日本人に甘えの構造あるが、宗教に依存する他国の人間はその宗教に甘えている形という表現を常々持っている.土居健朗は他国の宗教分析をしなかったのか?--カトリック信徒だったを知った.





想像力は肯定しているので(空想力はあまり肯定しない&妄想力も、夢想力はそうでもない)、そうなるとあの小学生の時の図画における想像力部分は、選者に対して騙したような写実意識における罪悪感を持たなくてもいいではないか、選者に遠慮した形と、写実の圧力を受けた記憶が離れない.





昔にランダムを否定できずに考えていた所の近くで、頭が何らかの構造の倍率的なものを構想したことを思い出した.これは今になって理解してみると拡大に相違ならないと.するとシステム内容構築時には、ガロア拡大的要素は持っていたことになる.(表現は幼稚かもしれないが、内容は難しいかもとなる)





『層状組織』に対して、共役断層と断層帯や活断層も考慮せばならないが、それによりより現実に近くはなる.『位相差を持つ』で含めることはできるが、初期単純直感視野には、アルキメデス的なものとして認識で、それからどう変形するかは考慮の内だった.




 
No.5に帰結もしくは結論を設けても良いというアイデアが浮かんだ.潜在的にはそういうことだったが.




 
分岐素点?、どこまでスラーを分離できるのか、非可換でもスラーを導入するはずで.




 
この現宇宙は部分ではあるが、BHでオービフォールドになっていると推定表現してみる




 
トンネル効果もニュートリノに関してはどうなるか、そのうちにニュートリノ何とかができてくる可能性は否定できない-質量があると閉鎖的になる--?そうなると重力も閉鎖を考えないといけなくなる.




 
回転でが変わるなら位相を動かせばいいわけだ、これである存在たちの不快な位相うおよび言明処理方法が見つかった.次元に組みひもでは、どうも不快に敬遠する直感を持つわけだった.




 
現状、秩序の原点は対称性の破れとして見る




 
生まれて何か月の赤子は後天的には清潔だが、先天的に清潔かどうかは不分明といえる.




 
”無限遠点での特異点は、正規化(整閉)の過程により、(曲線であるために、)除去される”-つまらない.とにかくn>ではn=が成立して、対象式があるとすれば特性になるが、エキゾチックであるかもしれない.




 
リーマン球は明暗や反交換も設定できそうなことに気が付き、だれが考えたのかリーマンか?、価値がありすぎるような直感がある.タイヒミュラーというか立体楕円のもう認識できないとすると、無限速度の概念を考えついてしまう.若きあの暑い夏の日の、砂上に一輪の花が咲いている河原で想起した日よ.





任意の直線(数直線でなく)が半径無限大の時、では直径はどうなるかというとリーマン球が登場して、タイヒミュラー的にしても記号θは成立するではないかと気が付いた.リーマン球に赤道を考えた場合、C平面に原点を置いてふつう考えるが、自由な回転をすることもでき・・.





孤立保存則と対称性の破れが階層構造を齎すとなるらしい、これによると縦型構造の存在説明ができそう(前者のみだと)と一瞬直感したが、後者によりむしろ日常現実根拠がそうなっているに傾いてしまった.





本能の固有性No.だけれど、これをどのように表現するか.





それにしてもすでに過去としたXXお対象設定にしようかとしていた時間の記憶が束縛・他者も巻き込ンでいるような事態感覚がある.存在理由的には逆になっていて不自然な情態であるのは確かであるが、人々はなぜかこの不自然が自然だと思いたがっている・またそう思い込んでいる.





現実に無限が全く実在しないから





ちょっと、0年間と残りの時間の体感時間はほぼ同じといって、全くこのことがおよそ真実なら、説明のつく思考体験事実がある・それに説明がつくような.





P≠NP予想はそこにある無限域であるなという考えが




 
相殺の圧力に超流動を浮かべる-そんな考え方は現実の心理には普通一般考えないが、この普通一般化しようとする傾向は、クリエイティブではないので、困ったことに・・.いろいろ思索方向時間点がある




 
励起-この懐かしい言葉、小学生の同級生に名前が恐らく励む意味でいたが、その家に行ったときに思いついた励起の言葉・手ごたえがあった記憶がある.




 
倫理観が悪い・弱いといった点は、良心的面が強いかな、良心と正義と道徳は異なるのか、正義や道徳を嫌う思想というのは、その思想が正義や道徳であって、他の思想はそうではないことを意味している殉教性であるはず.




 
『見えない目よ粗い目よ』-クワインの信念の体系は全体として網の目をなしている-という考え方も結構いいな.『』は老子の天網の誤解からきているフィルター感覚なんだが.




 
昔から暗記などしょうがないともってそうしてきた今、さっぱり記憶容量がなく、覚えた先から忘れて行き、記憶することができなくなってきた.考えるに暗記ということはスカラーではないかと今思いつき、それなら暗記を止めたことになるほどと思うが、ある対象に関して暗記すべき・記憶すべきことが多く




 
極が個ある-昔考えた特性の種-パンルベのは5・・3・に退化するとなると、解答は出ていたのか?.微分方程式の混沌・fold・結び目(結び目自体もそうだが)等を避けていた(ある線形中間XXが中途半端を齎したような)ので、パンルベは知らなかった.




 
ビッグバンを人間は想像できないだろう(繰り込み不可能な無限個の項と無限個のパラメータ)という直感観点からは有効場は有効であると、ただ無限個には興味があり、惜しいがこれは未来のこと歴然.ここでは摂動有効なことが、あの道路から埃立つ道を歩きながら摂動を考えてた懐かしさを覚える.




 
ヒッチン (Hitchin) のファイブレーションのミラー対称性-ヒッチンは新鮮な名前で、ファイブレーションがエタールで分岐像の変換で重複を排除できるとかだと、直感で避けてしまうfoldの理解化になる、このケース他にもあり人々がそうするのは、固有の納得感から言える.




 
ついでに述べるならQCDの無限の向こう側には絶対暗黒とでも思えるような、漆黒が見える.QCD場・領域自体は暗くはない.





無限小を考えるときは当然のごとく暗黒空間、無限大の時は明るい空間を個人的にはごく自然に設定してしまう、原点は暗くなく白色空間で、無限遠点の反はゼロに無限に近づくても暗くはならない.射影の無限遠点は暗い領域を持っている(部分的に見ている?)-人々は無限遠点を無限大としているようだ.





分岐する局所因子か、なるほどそう表現するのか、心理的には直に暗黒複雑稠密局所対象となってしまう(いわゆる真空は充満していると同様)ので、そこの現実事態はなんでもなくありふれすぎている事実なのである対象から考えたことだった.(--『記号より因子としたいこの頃、因子の乱舞とか』--)





ある任意の曲線を描いて、その曲線上に任意の距離に特異点風な粒子的な解答的な点を描いたことがある(そこまでしか描けなかったが)、安定ベクトル束は有限化可能とはここに当てはまるではないかと、それの拡大はどうなのかなとは思ってしまうが、そう考えたい気持ちはわかる.解消定理とかあるからな





時空に関して直線設定をしたとき、中間ガわからずに--考えて思いついてここにブラックホールを置けば結構論理的説明に納得できることがわかった.現実の世界にブラックホールを置く設定は全く考え難いものがあった.人の明暗にも関与してくるかなだが、こちらはダークマターが適切だろう.





要素論で壁にぶつかったころ(原子命題とかプランク定数未満の要素でもおなじこと)の展開から、分類論的に考えてある.記号はその象徴だが、3次元までで次元以上はまだという時間なのか・・この分野の比較からは何もしていない時間・ラプスは無駄ではないということになるが・・・.





射影がこれほど出てくるのは、現実世界と人間の知力構造の間に、投射関係があることを示唆させる。(少なくともそれが全てではないかもしれないが、部分かそのような側面はある)




 
foldに対してはミラー対称性なのか、次元に関しては昔から厄介なので避けた記憶がある、ただし弦は避けたつもりはない.foldに関して直感で避けるわけだ、次元の芸術的描像の記憶と数えあげを見るとその思いを納得させられる.




 
指数定理やスキームに対して『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』は応用・関連を想起できそうだが.結構やはり直感・自動記述的な面でもOKな文章化は成立している-というように解釈度を自由化させている.




 
人類の家族史の歴史は時空的というアイデアが浮かぶ.




 
これは調和形式・対称形式志向から来ているようで・・ネーターとの絡みとかや重力子が来るかも、時空の曲がりのタイヒミュラーなど結びつかず.空子・時子なる想定をしないとか、重力はそうなると除外できそう.





チューリング賞を獲得した人物は面白く有用な気分になる.ノーベル賞などもそうなのだろう.一応マイシステム上に弱く当てはめることができるような存在たちということなのである.





記憶にある不快な他者たち(XX&XY)の言明は、どうやら構造を無視して非構造化やありえない構造(ドン・キホーテ風な目茶苦茶をされる方はたまったものではなく、ドン・キホーテは夢を見ていたと後になって気が付いたが、これらの人間達は不明・恐らく-)を描いたものであるという解釈ができる





対症薬に副作用が発生するというのは、どうも人体構造がより複雑すぎることによるという思いがしてきた.





人はトートロジーを避けたがる傾向があるか?、反発はその極限的関係か.例えば陰謀的でたらめ構築者達に陰謀的と述べないのは、その人間たちに対してトートロジーだからか、それとも偽善的無責任ゆえか、または未熟な心性ということで優越感ゆえか、それらすべてに拠るか.





ミュンヒハウゼンのトリレンマあるいはアグリッパのトリレンマについては、思考する人なら必ずぶつかる対象でまた答えはまだ出ていないものとしている.盲信的答えは中国などででているが、故に派生するのが可謬主義-デュエム-クワイン・テーゼ (Duhem-Quine thesis)より転変




 
時相論理-時間と空間.ある女性の発言を聞き取れなかったことがあり、その解析に悩む.深層心理持続を今表明したという事態なんだったが.人々は時相であるものを、非時相論理に強制する故に、脳麻痺で記憶の障害になりしつこく悩ますということになっている.




 
Voronoi diagram図を見て、一瞬狂気映像を感じた.ここからどうしても判断でき無かった昔の精神分裂病者のパターン的な図を思いだして、knotが解ける次元構造を心理的に持っているようなのかも推定すると、なんとなく理屈に合いそうな気がしてくる.



人間を矛盾体とすると、普通に不自然と述べるタイプは理不尽に気がつかないことになる.矛盾が自然であるならば、そこには理不尽が成立する条件はまず存在するからである.人間的自然には理不尽が付随する.一応人間的人間がそれを修正する形であるが、





単純に双曲は時間的とミンコフスキーから見えるので、不確定に敷衍できそうなだが、時空は?.





ホッジもホップもいいと思うけれどうまくいかない、ラングランズ・ミラーにしても、コンヌにネータを考え難く、なれば南場とか.





”古典的なスケール不変性が共形異常であることを示している”--示唆的な文章だ.古典が量子によってアノマリーを齎しているとき、奇形と称する人間が発生している形をとるとか、倫理エートス心理面からではない解釈ができそうで.





中間存在にQEDが使えないいらだちがあり、QCDと見てよいがそれにしてはでかすぎる.依存的無責任や偽善で不確定性をやってもらっても困るが、現状ではそのとおり.教条中間存在の傲慢さには当然閉口しきっているのだが、そんな認識すらしない教条型中間存在に実存が加わると拷問しかなくなる




 
いくら才能があるからと言って、今この瞬間にこの地球上の樹々・植物の葉の数すべてを正確に答えよという命題が可能な人間はいないだろう.検証も困難で大雑把な推定値は出すだろう、何しろこの宇宙に存在する素粒子の数より多い数を考える人間だから.--瞬間葉数を昔考えた見たことがある.




サヴァンの絶対視覚者は、有機的な風景、夏の暑い日に葉が萎れているようなものも混じった風景を、そのまま瞬間時間映像として記憶するか・できるのか.葉層の時間ずれをどのように・どのような時間スパンで記憶するのか、個的志向のみの対象だけではないか.





ナビ派より、想像画を必ずしも写実領域に還元して見ると、それは明らかに虚偽(リアルにないものを描いた場合)であるが、想像域視点そのままであれば虚偽云々の解釈をする必要はなくなる-写実というそのときの時間現在に束縛される必要もない観点の根拠を思いついた.





論点のすり替えを行った存在はでたらめな批判的思考を偏見前提によって行う-から、偏見による即物的脊髄反射には閉口である.個人的な場合なので、「初めに敵ありき」的な存在が議論姿勢を改めることが解決手段だが、強調記憶と瞬間が重なってしまい..





不変ハール測度人間にいらだつのである.パターンか共同体思考者、味を占めた・うぬぼれる演技的性格者などが当てはまる.美的判断からは疎外を与えるような存在が多く自己欺瞞度高すぎてこまる.





時間不可逆の結論はその過程を示唆するような結論もあって・・・だ.





例えば「種類のコホモロジーが個別に成立するが、それらが一致する大きなクラスがある」--種の特性方程式と同じ意味合いの表現である.コホモロジーだったのか.ではまだ忘れる必要にない時間でもある変化度とはいえる.





不快な主体阻害の相手は実存的で本質余裕がないのかもしれない、何しろ心理を抉って、剔抉することが快感なようで検事型タイプかな.もしくは玉ねぎを一生懸命に剥く猿型と言えなくもないのだが.そのような存在の自己主体とは盲信型殉教性者か他者記憶剽窃型自己主体者とか諦念型依存性者とか





いやで苦手なこの言葉・殉教(エートスとか自己性質的は別に、思想所以も別にして)を不意にある街に当てはめて見る閃きが湧いた.最後に残った当て嵌めで、結構納得できる.こんなことに何十年も悩み続けていたことになる.





縦Vs横の対立がほぼ現実世界を席巻している.おうおうにして現実世界は縦的なので、偽善・詭弁・陰謀・阿り・・・他が成立していることになる.これらは愛情の阻害は明らかである.これらの存在には愛情能力が欠如している、またそのことを考慮しない・考慮できない傾向がある.





左加群と右加群で異なる空間が自然という一般論--接触したかな.これではこれであるはずの結果になるも致し方ないではないかという思いも浮かぶ.まあ近似圏ではあるだろうから、どうやら納得感ができそうで、いや納得であるといってもさしつかえなさそうな.





水素原子核磁化作用による歳差運動制御--このようなことを知識ない小学生が思いつくはずもないというわけにもいかないようなことを考えていたな.黒体輻射内部や光の直線状に丸い点が飛び飛びにできるとか





人の身体を『層状組織』としたとき、アルキメデス螺旋的構造かスライス脳スキャン的かストレート葉層的のように線形的に思い描いたような胡乱な記憶がある.ただし地層は幅に差異のある構造は一目瞭然.自らの進退をスライス状に思考することはある意味、何らかのずれを持たないとである.



語りえぬもの前では沈黙しなければならないや原子命題でウィトゲンシュタインはなぜ蠅取りツボを考えたのだろう、ポパーに対する態度もそうだけれど、これらで西洋哲学が変化することはない--ただTLPには文学的な面で価値がある項目がある・そうしてそれが最も重要な一文であるとは思っている





仏教では煩悩克服に修行をすることになっていて、おそらく普通一般の人々にとって、あるがままで煩悩克服などできるとは思っていないだろう.国家なく貨幣もない世界は煩悩克服後の人々のいる世界でもあるように思えて、そんな世界に唯物弁証で到達できるのだろうか、夢想かも.




 
Whittakerという名前はなぜか気になっていた.日本語ではホイッテーカーと表示するらしい.!なんと”ホイッテーカーはまた、有名な特殊相対論のE=mc^という公式はポアンカレが既に導出していたことを証明した.”とある.

 
ススリン線は存在するの辺りで、V=Lやグロ宇宙と、やはりさすがに数学者は設定せざるを得ないものであったと思う.仮説はまあ可能性はあることになるが・・・




 
多元宇宙論は”完全に分断された宇宙の無限の集合は"完全に検証不可能である"”というように今日現実的に想定できるが、今日でも無限の集合の存在する場は唯一と仮定もできる.--多元宇宙論と人の創作構造は似ている.

 
ほぼ思考している領域すべてで境界に直面していたんだ、これではどうにもならない時間のなさを覚えざるをえなかった若き日であることが判明した.このことをどのようにとらえるべきか、フラクタル文章でもよかったのではないかと.そうだな時間をかけてミストレスに会い行く生活をしようか迷った日




 
ネットサーフィンしていると、さすがに過去的になりそうな自己発案と思えてくる時間経過を覚える.それでも発案事実は他者には未公開ながら事実であるのでそれが依拠になる.ポアソン的に思いだして述べると、ある種のミステリー小説の一文でもあるかのようになっているという解釈をしてみる.




 
ドメインウォールがあれば多世界解釈的なものが可能で、そうして世界創作時間の短さもいえそうになってくる.




 
覇者型は線形に足りないのではないかという考えが浮かんできた、そうなると真理は単純であるという以前の混沌タイプであることになる.一般にてんやわんやの世界では有効に作用する可能性はあるな.どうも覇者型は脊髄反射が得意であるというのは特徴であるように考えてきている.




 
1/BPS状態を心理的に悩んでいる?、そうではなくてモノタイプが1/BPSを考慮すればいいだけの話.




 
対数ワイブルなどが出てくると、カストロフィーを横においておいていたことを思い出す.




 
昔に考えた種の特性方程式は、マチャセビッチのディオファントスの中に存在している可能性は十分ある.考えた事実だけで証明があるので忘れるかというには惜しく、まだとっておこう.




 
無限遠ゼロを原点化するのならば、1/無限ループというアイデアも浮かべることができる.




 
NEWS ZEROを始めて見た.この若いアンカーマンはだれ?.--そんなに若くはなかった、時々ネットで見かける優秀な大蔵省出身の存在だった.考えるに線形優秀ではないのか?.そうでなければ第三者的視点・傍観的視点を持っている存在が、T大話法なる表現を発揮することはなかったろうと思え




 
アーノルド拡散は権力心理にも使えそうだ、そう考えるとある不快すぎるXYが登場するが、アーノルド拡散ほど複雑な脳構造を持っているように思えないのがいら立つ点、白けすぎる意味なき無駄の強制にしかならない退行者というXY,脊髄反射言明とも思える単純さかつ身体的位相という不快さがある.




 
三体問題でまたしても無限遠に極限速度ゼロでどうのこうのが出てくる.都合よい処理の仕方で無限遠でゼロになるのはポテンシャルであって、エントロピーは強大になると考えるのだが.





それからX十年、今頃チェックしているという遅さを優雅とみるか、さぼり過ぎとみるか、まあ後者にはちがいない.それにしてもおもむろに思い浮かべた厚生経済や因子や質量は価値があるなと個人的認知中.





ある夏の日、確かK大を目指しているG県の男子高校生がN県の親戚の家にきていて、そのときに因数分解を質問されて答えに窮してだめだしされた.その時には因数分解など全どうでもいい心情であって.個人的には因子など知らず、質量にも曖昧さの疑問を持ち、計量経済なども考えて、頭脳作用せずだった





物理も宇宙の統一理論・素粒子と相対性理論の統一・という一様性を求めていることは間違いない.それで、人にはその固有性として一様性的なものが備わっているとしか言いようがない.





あの小学生の時の権力の権の文字の辟易した強烈な硬さか、これも自身の持っている才能か・そういってもよいはずで、神聖硬さ型性格的なものである.





昔考えた種の特性方程式は拡大次数というようなものではなくて、拡大変数の都合よくいけば種のみの拡大変数というようなもので、ファントスとの関連は?ファントスほど都合よくいくようには思えず.





カッシーニの卵形線・ベルヌーイのレムニスケートをNo.に使えるか.No.ではなくてNo.に直接像として無限大記号と行くか.





おっとそうなると縦型構造ではジップの法則のグレードがある可能性を思い付いた.いやむしろ現実はグレード・スケーリングがあるのが普通のようである.





大学生が貴重ではなく大学院生が貴重であったころと比して、今では大学院の梯子存在が貴重になっているのか?.そうか大学生0%は貴重であるという経験則からの導きもある-これで小学生以来の難問が、こじれて複雑になって解けずに曖昧のまま持続していた懸念がようやく.解けた





人は脊髄反射ばかりでなく海馬を使うものである(脊髄反射以外を).





いまや実用的プログラムでも数千以上だそうで、モチーフ的にプログラム言語を解釈したい要求が、プログラム言語意味論にはあるのだろう.思惟の法則があれば悩まなくても済む(機械的だ)と思った若き日の逃避的瞬間を思い出す、幸い停止性問題は決定不可能となっているので、そこには自由がある.





あいつで領域・ドメイン思考をして、年後に再帰・回帰で(ヘンリー・ミラー)で、それから1年後に結び目でなやみ・厄介なと(ザイルの結びを解析しても、自らほどいてしまう危険性が生じそうな葛藤想定心理と次元)、今並列において登場--この辺がリンダに頭をひりひりさせたわけなのかも





"再帰プログラムの意味論が,結び目の不変量の理論と共通した構造を持つという大きな見通しであり,そしてそれを裏付けるトレース付きモノイダル圏の構造である."--だそうで、厄介な結び目が再帰(最近になって不動点の関与-そういえば回帰線などではなかったあの時)に結びつくとは




 
生理-安全-社会的-尊厳-自己実現の次に晩年になって自己超越を加えてにしたということか.仏教またはインド教などの修行・瞑想からの影響が晩年にあったと思われる時間のマズロー.まあショーペンハウアーも解脱考察はしていたわけで.




 
ベズーの定理や接空間から『接線の影に隠された無数の曲線を見よ』はなんでもない数学的思考になってしまうではないか.どのような意図でそう記したのか無意識自動記述で考えてはいなかった思考の還元作用によっている.点の表現にかなりの数があるとか、勾配はこの移動によるからとか、なんだろう.




 
アービトラージが世界的に消滅してフラット化になる--ある意味日本的でまあそんな事態は構想してあるが、おそらく80%の領域では成立して残り0%は違った・』異なった趣になるだろう.最も80%のミクロ内訳はにはそれぞれ差異があるものとして構想している.





”アブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた.”から見るへの配慮はを以前の1・・3域に退行させてしまう-という可能性が大いにあるが、現行社会は人間パワーが強い面があり・・(経済に道徳は必要ないという意見..)




 
そうか不快な人々はゼロ知識の健全性を意図的・無意識的・自然的に歪めるという表現もできる.その歪められたゼロ知識性の修復を行っている面は常に持っている.わが心石にあらずかつわが心不確定石にあらず(ちょっと違うようないま閃かない)のような心境により.




 
カレビ・クルの生物記号学の目標は成立するのか、中でも、”人文諸学と自然科学の両立不可能性を解消する () 。”付近で結論が出ず何十年も悩みっ放し




 
そうかグロタンディークはあの頃、簡単だと思った圏や層の範疇存在なのである.今ではややこしい展開を見せているので、複雑である.そもそも簡単だと思ったのが間違いだったか、ワーズワースのプレリュード的なものがそう判断させたのだったが・・


 
”この群の基底は標準単体のあらゆる像の無限集合である。”-こんな文章を目にしていると、仏教の三千大世界世界や周期のおよそ寿命の倍数化で(あるだろう)で表現されているものは、はったり的とおもえないこともない.ただし同値関係はある.無限数域が一瞬のうちにという物理傾向からもいえそう.



どうやらあの時、動機はモチベーションなんだがモチーフといいなぜこの言葉を考えねばと思った建物のFの廊下の曲がり角近く、考えあぐねてロシアより愛を込めても浮かべたので、後に意識が00にずっと向かってしまった.このときにグロタンダィークの名前を知るべきだったと思い出した.





単体人間は単体であるゆえに、他人の心がわからない・理解しがたく・また心が無いとも考えるかもしれない・およそそんな面はあるが、単体結合して複体になるといくらか複雑さを増してなんとか・・・意識は素ではないのだが、むしろ意識アマルガムのような単体人間.





羞明が発生しているので、眠るかネットを避けるべき判断を要求してきている頭脳.単純に疲れてきているということだが.(このような表現をしなければならないので、使用していずに他者からの歪めを多大に被っている頭脳修復をしていかないとの時間にさしかかりて・他者たちの記憶にある不快な言明等)





多分に、天命とは今のところ素粒子という無機でできている人間が、有機意識を用いて、無機的宇宙と同値化・同体化するような場合において発生するものと考えてみる.





”then its crystalline cohomology is a free rank module over the p-adic integers”--結局、あの若き日に類体は時間が得ればと思ったことは、全くそんな余裕はなく、類体は基礎的素養でなければならないと





実際に、天命的時間を過ごしたことはあり、その現実還元がまことに不合理・くだらないものであるので、信じがたくその理由根拠に納得せず、考えてはいる.個人の性格トいうのに根拠してもそうでもなく、双対心理で現象解釈もできるがだ・・・.





古い?そんなことはなく、むしろ発言者の精神年齢が低く、精神年齢高き位相基準からは、機会費用大で経済的にはロスなのである.つまり過去に引き戻しという暴力をおこなうのだが、それが自然なので説得するのをあきらめるという形をとる.





やはり現象設定の条件では全くうまくいかない、そもそも現状は創作ではないからでもある.結局、思考条件に持っていくことになった.そうでしかなかったシステム構成から半年後過ぎて以来何年経過していることだろう.人気の圧力に耐えられないは幻想であったかも.




 
Claude Berge なる人物が1から00まで生きていた.知らなかった.あの雪道の水上から土合までのバスの中で、不意に外を見たとき写像の縮小が浮かんだことを思い出す.こんな具合のことは多くあるが、最近は乏しいのでまことにつまらない.




 
想定するに日本の縄文時代は法の支配があったと、その後も東洋思想・日本アニミズム的に、自然との調和部位・意識では日本には法の支配意識はあると思っている.特に神羅万象という言葉に代表されるところのもの.




 
演技的性格のXX/XYに悩まされ、現実真実感を邪魔される.演技を強要する不愉快な存在たちはまず愛情が欠如することになる.自己疎外化をなぜするのだろう・まずは共同性同化意識だろうが、その根拠は自己嫌悪感であるような気がしてきた.となるとアドラーの権力への意志になるな-という一案




 
とにかく自己意識を鏡像段階時間まで掘り下げることは、やってはいけない本能判断的なものが働いていたが、若さのカーニバル的自己損失系でもあった.そもそも対象の先験・先天位相者が自らを動かさないという他者歪め意識しかない単細胞頭脳者だからいけないのであるのだが、煩わしい不合理無駄発生と




 
ソーカルにおいて、ラカンの数学・科学に対する無知が露呈されたということを、ある事柄から思い起こす.数学式・物理式一般をやはり知らないと科学に関しての発言にはでっち上げ的・疑似的なものが発生するとする思いに至ったため.


 
コボルディズムは5以上ということは目にしている.現実世界は3次元なので何かうまい説明方法はないものか、普通に人は単純簡明に理解できることなのだが、それでよいとしても・例えばカフカの作品のような...・実存と本質で置換すればよいか、これなら結構説得力はある.




 
もう忘れかかっている種の異なった(脈絡を感じないところの)解を持つ特性方程式は、超越的ではなく解があるので成立することになる.混沌方程式なるものがあり、種の解を含んでいるものとするならば存在することになる.--なぜそんなことを考えたのか理由がわからない青春の日




 
::A=0



 
”岩澤理論の主予想とはp-進L-函数と円分体のイデアル類群との間の深い関係”だそうだということを知る.無理数とp進の関係は?





昔からよくわかっているのだが、ユダ型人間はとにかく他者の結論が出るとそれに対して、時間有効な結論であっても無視するように動きすぎる.自己の結論はどうするのか、虚偽空間に発散させて無責任の安心自由感を育むのは特徴的と認識している.アイヒマン裁判やミルグラム心理はここに登場する.





”・・・操作で閉じている「素晴らしい」圏である”、素晴らしいかね、この有限性にはいささか不愉快さを覚える(昔から).結論を出して先に進むためには有限は理解できるが、それでは無限が登場しない.この宇宙はとりあえず<有限中>として悪くはないのだが.





D-braneとKで結構まとまる.思い出せば素領域を自然に構築しているD膜といったところか.そうなると多次元に対してのアイデアとの関連が・・少しは浮かぶところでもあるな.これもNo.3で多次元はNo.辺り加味したいところである.





記憶を辿ることは蒸し返しになることは当然で、不都合な場合の仮想修正をしがちな心情、そんなことをせずともいいのにというか、修正は不可能になるはずでとなると、克服ができないことになりまたそれはまずい.





とにかく自己把握無知存在が逆になって自己投射をして発言してくるので、自己投射されても理解できないというか、その自己投射存在など全くわからない対象なのに、無茶苦茶な理知現象になってしまうことを要求してくる人々.埴谷雄高のてんやわんやの謙遜はまず理解できそうにもないてんやわんや達が





埴谷雄高の死んだののは1年か、その時にはニュースなどでも気にしなかった.吉本隆明も気にせずややしばらくしてから同様に知った.まあ大体先蹤存在は煩わしい.埴谷雄高はそうでもないが、吉本隆明は全く不快すぎる思い出があっていけない.死霊は章で結局未完に終わったのか.





明らかに感性が異なるのに、「同じじゃないんか」などと申す不快さには呆れてものが言えん.--こんな言葉を思い出すとやはり逆になっていて、自己主体を第三者達に誤解されてしまう可能性が大である.全く残酷な侵入者である.(全く小説のような現実の記憶だ)





感性が狂ってしまう圧力を受ける・反交換的存在で嫌悪しか発揮しないような存在が妨げばかり行うのは当然なのだが、その邪魔さ加減を排除できないのが不快すぎる.





神聖型のきれいな単細胞から見ると、アマルガムは?なのかも.しかし神聖型もいろんな種類があって、陰険な陳腐で実存分析的存在もいて、その悲痛さ・嘆きに耐えられないほどのものを持っている存在に憑依されてしまった形・また逆になっている可能性がある人物に何十年も会わないがしつこく悩む.





0年まで宇宙ステーションの延長--ホピの予言で宇宙ステーションが空から落ちてくるという考えはどうも違うような形になってきた.太陽の裏側からの青い星はチェレンコフ光物体としか考えられないが、この宇宙というか太陽系でもそんな現象が発生しないという保証は思わない.





英雄物語には試練がつきものであるというのは誰でもわかることではないのか?.ただその試練がなぜ成立するのか不明であったが、超自然的作用によるものであったことがわかった.




 
マイナンバー制度はジャック・アタリの第三の波「超帝国」の中の、”インターネットが人を監視する技術革新が行われる。
政府からインターネットを通じて、厳しく監視される社会になる。”とよく似ている.まあ第四の波の超紛争も現実味がある時間でもある-第五は利他主義ならマズローの段階目だが




 
ちょっと待った、マイシステムにはアフリカ的段階というような設定をしてあるな.ただ先のみ・未来志向ばかりしていて・・形而上的システムというか、世界内解析というかその他で、視野は普通に原生的疎外とか称する時間以前を含んでいるのは当然のものだが、現代物理学のアイデアや仏教思考などと錯綜




 
Yの関係は単にリアリズムのことを示していると思いつく、それの極限として考えてもいいようなものでもありそうな.なんのことはなくリアリズムとは全く思い浮かばずの時間であった.考えついたYの実感は確かにリアリズム的な体幹を保有している.愚かすぎる時間を過ごしてしまった脳麻痺情況であった




 
ストークスの定理から、人間の思惟形式はジャンルが異なってもほぼ同じようなものと推察してみた.数学の諸々に思惟形式判断を入れてみると結構面白い.人の考え方・方法・方策が随所に如実に表れている.




 
間違った、フィガロの結婚からのメロディーだった.ともかくモーツアルトのレクイエムを後々にチェックしたところ、黙示録の模倣?ではないか、これではさすがのモーツアルトにもその独創センスを疑い、タナトスの宿命に倒れる・またそんな環境時間だったと考えてみる.




 
時は過ぎ去っているのに、記憶は全く時の流れを持っていない.ときめきというのだろうか、かって認識していた無時間性とも違う今の心情.ポテンシャルが強くなるという時間経過に対して逆作用のようなものだ.




 
特にそれを強調する存在は欲望型のカザノヴァ型であることは間違いなく、またこの当人もそのイメージに当てはまりすぎるという存在がいた.




 
身体的存在を否定しえず、奪うことができないものという考え方について、なぜそこに騒がなければならないのか、そんなことは当たり前で、生理の有限時間は生きている存在すべて持っている.




 
波動線が集まることによって粒子になると考えていたが、電子が波動線を持っているかととなると?、そうなると1/00万の粒子とクォーク・電子の関係などどうなるかと、熱風がさまよっている時間だそうだが、質量があると帰着点が存在するかもである.





クリフトン・ポールのトーラス(Clifton–Pohl torus)は、コンパクトであるが完備ではない擬リーマン多様体の例--これ頭を引き裂くイメージを齎した記憶に接触するような、これだけではあるいはすでに?




 
超弦をすっかり忘れていた、当然No.3には関係してくる.




myツイッターのACにはノストラダムスが関連している(と後に知った)数値を含んでいる.



No.3に直感でなぜか導入しているクロソイド曲線.





未完成の項目は構想のみで完成にしようかなと思いつつある.0.1.0




”システムは複雑性の縮減を行うことで安定した秩序を作り出す。すなわち、あるべき状態を予期し、その状態に適合しようとする。”--ルーマンのこれ意味がよくわからない.量子的現象では個々の個性があるほうが収束は速いことは現象である-複雑性もそうであるが.




急いで閉めたパンドラの蓋のように、他者達は希望を打ち砕くものである現象に数限りなく遭遇している.





なんだかんだ言っても世界・歴史は快感で動いていると浅く全体外観で思う.性的快感・優越感・感動感・・・・





有機無機の関係物が無機物として無機的有機存在がその無機物戦線を有するという現象---という表現例




ほんと、A期的XXに対してその潜在能力を推し量ってもまったく不都合な反建設的思考しかできなかったまた、顕在的に当然の如く反建設的発言を思いきり受けたものである.これからも遭遇時にはあるだろう.まったく縦思考しかできない横暴すぎる不条理・理不尽などは考慮できない物体である.




それにしても意図の完全に逆ばかり行う人材はよく理解したとして反交換的存在なのだが、そうすると反交換的存在は、交換的存在の考慮ができないのかとなる.それでは愚かではないか、まさか世の中反交換的世界しか存在していないようにしか見えないとは




この社会構成が分かったということは社会科学の地平は成立したことになるか.これはまったく長老シーンではないか.




最近、あるところで「仕事をした.」『これが俺の仕事だ』確信を得た.アルファ空間で何度かある思いである.安っぽいところでは発動しないはずなんだが--そうするとあるところはよくわからないんだが価値があることになる--.



シェマで思い出すのは隣の家で思いついたフレームという言葉、この時にひよこも考えたので意味は不明だったが、ピアジェのシェマをフレームとしてみるとかなりうまく説明できそうである.





フェルミ型は孤独で単体的を余儀なくされる先天的遺伝構造を持っていて、単体であるゆえにその生存時間の連続においてすぐに飽和する・飽きる・うんざりする形をとる.そこに承認の要求を強烈に発揮すると明らかに暴言・横暴になる.ここに白く塗りたる墓的であるとどうにもうぬぼれしかなくなる.





どうもYからは自己目的意図を実行されているような意識がないこともない.あの時の時間におもむろにYの家に行って話をしない方がよかったような、いまだに非常にいらだちを感じている悩みを持っている.あるいはY自身の才能で関係ないのかも知れないが、なんとなく感じる.





素粒子における身体意識は、よくある戦い前に、中国武術者の手などを動かして身体に焦点意識化を行うような場合をケース例としてあげる.霊に関してはどうしても歴史時間・先祖とかから続く時間を考慮せざるを得ない.





中学生の時通学自転車の帰り道で、固定-霊-気合い-スタンダードの流れの考えを思い出す.素粒子は小学生の時に自己制御して考えるのを止めよう(まだ早すぎると思って)から、その時に思い出さなかった.霊は心理的な素粒子分野・今日ではクォリアとかだが・気合は身体的な諸粒子の息吹とは思える




フェルミ型人間の分離・単体意識は、生存を連続しているという形をどのようにとらえるのか、少なくとも現象的には考えることには矛盾している.しかしYのハイイメージ論から素粒子領域まで考察していたことを知り、フェルミ型は電子・中性子がボーズ型よりはその比重が多いのだろうと推測仮定した.



集団強調ではなく集団協調の創発力は端倪すべからざるものがあると、縄文時代の名残・遺伝を考慮せざるを得ない.





田園の憂鬱は読んだことはなく、その自己的イメージ解釈がお気に入りであったのだった.今あらましをみて、佐藤春夫の感性は洗練されているなと思う.熱風の蒙昧の中、幻想中ともなんともわからぬ熱情のネルヴァルが少し過ぎった.



昨日の中学生の時からほったらかしの菊池寛だけれど、昨日ツイートした結果考えて、カーネギー流に、自分の不得手な領域は他人を利用するから、菊池寛は小説家としてはさほどなので、賞を設定して、他人の才能を発掘する側に回ったのはうまいやり方・賢明であるという解釈に、数十年ぶりに落ち着いた.





諸行無常に関しては、考えてあることがあってやはり考えからは諸行無常的になってしまう.





科学社会学や科学哲学の語からアインシュタインの本当かどうか実際にそう思っていたのか”「もしヒロシマとナガサキの事を予見していたなら、105年発見した公式は破棄していただろう」と語った。”そんなことになるはずがない夢想であるにすぎない、科学的事実はアインシュタインの夢想では消えず





関係が自己表出であるならば、吉本隆明著作すべては説明できる予感がする.吉本隆明は自己表出者とするならば・にしては指示表出者寄りに近い存在であることは明らかなので、またその点が不快なのである.





そのある作家が日本のロートレアモンとか言った、だれが?とは思ったがが問えず、いまだに曖昧のまま記憶している.ロートレアモンを参考にはしたが、関係はなく日本のなどと、世界を狭くする弁明は許しがたい.ロートレアモンの名前すらこの半年くらい前に、ある女子大生の持っていた書物で知ったこと





頑固という形で解けたと思えて、まあ全く意味ない時間を多大に過ごしたことになったのだが、ともかくこんな解答がわからず、単純にわからない存在に対してはすでに答えは出ているのに、それに対して現実浮上に時間がかかりすぎてナンセンスな時間を浪費してしまうということばかり続いている.





昨夜のネットチェックで吉本隆明は虚仮脅し造語という言葉をみかけて、おっそうだ確かにそんな面はあると.全くデジャブを剽窃の形でトートロジーとして大げさすぎるほどに言われ、まともな意見と思ってしまった(デジャブトートロジーに気が付かず)のが問題で、吉本隆明同位相の男達多すぎに辟易





哲学的行き詰まりは今もって解消しているとはいいがたい.ただし人々の考えるパラダイム的なものは、故にああそうだそうだが・・・となる.





人間ロボット化は物理主義的あるいは行動主義的また機能主義的匂いを持つ.戯れに思惟の法則ががあればと思った哲学的行き詰まりの若かったころに、それではまったくつまらない自動機械的なってしまうと、マルクスがすでに弁証法でやっていたとは知らずに.その後、経哲草だけ読んでみたが.





マチウ書試論を読んでYがシモーヌ・ヴェイユ論を描いた理由がわかった.なるほどその当人の書を読まないとある程度ダメなものだということを認識した.





弁証法が成立する背景を考えると、明らかに男女関係でその前は雄雌関係・植物でもで主体有限束縛による限定の時間繰り返し変化形なんだが、そのようにならしめている摂理の意向はよくわからない.





単純には関係責任論・関係責任主義とでもいえて、個人主体無責任論となり、主体はなんら責任を感じることなく突っ張って物事を述べることができるようなもの.マルクスの書物を眺めた昔の記憶では、マルクス書は論理的に正当性を見たことがある.がしかし色気がないのでちょっととは思ったものだった.





永劫回帰は一回の人生の繰り返し、輪廻転生は場が変転するということで、場の中に生きている存在・場とともに生きている存在も変転する、永劫回帰には場は当然のもので、考慮されてはいないのでは?.まあ永劫回帰は願望上のもの、輪廻もそうだが.





非妥協であるとするならば、偽善は妥協の産物であることになる





深淵を散歩できると陰陽は同等意識を持てるが、フッサールのエポケーなど使う必要がないのに、エポケー以上をエポケー化してしまった、ほとんど冗談が実際の現実になってしまうという、全く不快な事象.いわゆる名状しがたい愚劣さは二度と味わうつもりはないのに、類的状況が多く発生してくる.





カフカの城に法言語なるものを設定できるのか、法言語とは何だろう.法の支配用の言葉なのかな?.どうせカフカの城は例によって未到達の物語だろうから読む気もしない.こうなるとカフカはひねくれていて消耗文章を専ら描いたとしか言いようがなくなってきている.なぜ人々が評価するのかわからない.





フランツ・カフカはイデッシュとしての位相と、シオニズム勃興時の存在寄与もあったので、欠如文学とでもいう、本質に至らない実存情態作品になったということでは・・結核の影響は晩年からだった.





呪縛という言葉がある、あるからといって別にきにしなかったが、どうも現代でも有効に用いることができそうである.そうであるならば憑依という言葉も当然あることになる.呪縛-幻想の実存的混沌を描かせる言葉を、あるよく納得できない対象にも用いることができるか判断に未決定を持つ.





なるほど焦点化すると盲点もそれなりに発生する・確かに.明暗の解釈いまだ至らず、別に陰陽論でもないのだが、ふと陰陽の同等意識が疑念を想起してきた.



身体的優位か精神的優位かでその人の脳細胞活躍キャパシティは変化するものと考えて、身体的優位のタイプはやはり海馬をそれほど使わないだろうと考えてしまう.





誰にも言わなかったから疑念を持たれてもしょうがない.述べなかった・記述しなかった理由は必然的だったのか今でも判断はつきかねるが、述べなかったという事実は明らかである.そのことでまことに潜在的に悩む羽目にもなっている・この現実社会仕組みに遠慮して..





多分に推定である種の人間は迷信を信頼しているのは非科学的であるとともにシャーマン的であることに気が付いた.憑依という言葉は少なくとも平安時代のころの話で、0世紀には揶揄的な表現として考えていたのだが、憑依のように悩ますしつこい人間が多数存在しているとは...





中途半端が悩ましている?その結果は幻滅以外にありえず..





ネグリのマルチチュードもなるほど気になるものがある.シミュラークルも多少役に立つ点がある.しかしこれらはせいぜい評論家の指摘であるに過ぎないということだけは、了解できる.しかしなれど認識している人物たちがいるものだ.




哲学的XXが少ないとすると、想像力を用いて不条理をかなり自由に行う首尾一貫性のない発言を特徴とし過ぎる存在でもあることになる.その場合の責任力は?





XX/XYである前に人間であると考えると、XXにおいてもさほどの存在がいるとは思えなくなる観察経験を持っている.





X染色体の遺伝子は8個、Y染色体は8個とは、Yは少ないな.これから単純に病気的には、遺伝子疾病はX染色体の寄与が大きいかな、未来の可能性に関しても大きいともいえるか.





ハイデッガーは世界内存在、サルトルは世界存在---もしある存在が地位に罪の意識を持たないことが自然であるならば、悲惨な位置も自然であるのか、そうなると解釈をしたくなくなるのだが.世界の要請によることになり・・・





死?-死が不快なのはまず自己の死の後に生きている存在がいることで、最高に理想なのは最後の死者となることであることは明らかな人の存在というか、カルマの理由. No.1&No.&



日本全体を見ると謂われているように、諸行無常ばかりではなく、恥の文化も特徴としているゆえに、責任がアバウトにあるいは個に希薄さを齎しているのかも.





経済面でも、市場経済に対して考えると、その先側に暗黒域が登場してにっちもさっちもアイデアが浮かばなくなり、最近では考えることすらしなくなっている.ただベーシック・インカムは成立できないだろう・経済自体がなりたたくなることになるまでは予測推定考察している.




その昔、これからは卑小だけれど市民(陽的、明るい場所の)が価値を得る・希望であるようになるとおもったが、それに付随して陰陽的なのか、暗黒域も考えざるを得なかった.この暗黒域の存在はわからぬ、漱石に明暗という小説があるが、その頃は明と暗に結構こだわる時間だった.





ボードレールのシミュラークルはポストモダン用語であるか、ちょっと気になる視点を思い付いたのと、ペンローズのスピンネットワークの視点も考慮に値するかなとも.





インターフェロンは15年日本人による発見だったのか、0年代になって抗がん剤としてとは、この言葉は中学生の時にしったが、知りたかったもう何かは、サイトカインであったと思える.





陰日なたを陰陽とすると陰日なたなくは太極ということになる.陰陽論からは混沌ではなく調和とみるべきなのだろう.




蜘蛛の糸の主人公に対してから美徳に対する欠陥指摘をする存在に対して、ではその存在の指摘以外の部分はその自身の指摘と同一位相であるはずで・超克.小学生の帰りの階段状の道以来だ.





SF的に考えるに、宇宙線を燃料に使えるロケットはできないのか、宇宙線なら全くなくなることはロケット飛行にはありえないほどあるはずで.ついでにニュートリノ推進物体などができると抵抗がほとんどなくなり、デブリも関係ない.ただしニュートリノ構造物以外に乗せることはできない.





通時的だからスパンが長くゆとりがあると思っていると、結構中途半端なのである.そうなると通時的有限を導入しなければならない.むしろ通時的有限者が多く実在しているのが現実である.





科学に哲学が必要などとは全く考えもしなかったが、哲学から見ると科学に哲学がないのは不快というだろう.





根も葉もない植物は寄生の典型で、マタイ伝に登場するある存在は特にそのような存在と認識している.でも結局自殺したらしいので罪の意識はあったようである、後悔先に立たずという例証ともいえる.





自己主体の歪めを要請され、逆になり疎外ばかり受けるこの不自然・でたらめさ、逆を認めてはいない.むしろ模倣を不快すぎると思っている.なぜ当人に当人の模倣を知らすのか、トートロジー無知か頭脳の空っぽかうぬぼれか無責任の自由か--いずれにしても自己分析能力の侮辱であることはまちがない.





しかしだ、三千大世界とか輪廻は考えるか、中間存在という閉鎖域存在者達に考えることができるのか?.仏になれないないのではないか?.あれ中間存在は閉鎖人間たちだったか・・・.それでは他者に対するいじめ・抑圧はなくならず、(何しろ、原因は閉鎖的からくるという直感があり)




1
yin yang symbol--太虚と言ってしまうのは、不条理の受け入れか盲信かはてまた?ちょっとどうにもならない無限下降対処である想いがあって.




1
”サルトルは「我々は自由の刑に処せられている」”と言ったそうだが、芸術にとってはまず自由が前提であるのだが.




1
扁桃体( Amygdala)かな『両耳の違和感的な感触』を覚えたときか設定してしまったか.




1
カルマがあったとしてもなおかつ奇跡に対して再度の要求をするということはどういうことかと考えると、わからなかった内なる神がそれを言わせる・人々はすべて天上天下唯我独尊を持っているとすると説明がつく.人は仏になれるもそうであることになる.





父親をやめたらいい--ついに返し言葉を思い付いた-ある不愉快言明を受けた父親存在についてなのだが、位相を真似する人材が多くて、個別対処をする必要がない面白くなさ・不利益さ大ゆえによって.ある存在に対して女をやめたらよいもついでに関連できる.





無限の身体は人にはないが、これからもないだろうが、無限の精神なら人にはある.故に物理主義的考え方は無限を無視している物体的な思考法と考える.





埴谷の虚体・虚空のそよ風は吹いているのは知っている、懐かしい青春の日々.死霊は故に難しいということは別になく、普通の小説であった.





No.1より引用『・・余儀なくされるおまえ、それを考えると恐ろしいきがするのですが・・』





パンを石に変えろ、という問いは、身体の必要性も含んでいるが、パンのみに生きるにあらずからは、身体の有限性を意味していると考える.





つまり無限の身体は存在しない.身体が有限であるから関係において差異が生じている.ただ命の樹の実を食べたなら身体に死は存在しなくなるそうだ(多分これは幻想).





人間が存在しているだけで持っている倫理は命であることは明白なんだが、そのような言葉を敢えて用いなかった人物がいた.関係の本質とは、まだ考えているが、命がけもしくは命的なものであるに相違ない.





帰納の解決について不可能に近い結論を出した人物を最近チェックしたのだが忘れてしまい見つからず.グッドマンでないことは確かだが.全く帰納法とは・・さりとて演繹





整礎( well-founded)-問題のNo.,悩んだ中学生・・小学生で深淵はだが、老子の道は肯定しているのに--などを考慮すると、定義とあいまみえてNo.が出てくるな.





権力的存在が愛情を無視すると、魂を無視するようなもので、こうなると愛情を無視する権力的存在の性格自体も魂といえるようなものとは普通には思わないが、魂とすると同列設定ができることになると考えざるを得なくなって.





コンビニで小雨の情景を見ながら佇んでいた今閃いて、不条理解釈もそうだけれど、不確定性原理からNo.1の難点を克服できるとして、センス上差し支えないことに気が付いた.




自我と超自我をミクロ的とマクロ的とすると、自己弁証法を個体において構築できると考えているので、他者による結果待ち・結果無視・結果超克はかなり不快に思えるものである.この場合、対自・即自を他人に対して持ち、他者の対他即自・対他対自を考慮するように配慮するものとしている.


異邦人のムルソーの過程表現が単に太陽がまぶしかったからというわけではないのは明らかなのだが、太陽がまぶしかった点に強調留意して、不確定性原理から時間をかなり短くしたときの心理状態を形成したと考えてみると、人間の精神形態から太陽のまぶしさに連関した行為を行う可能性が十分ある




潜在モデルが悪いと詩など未然的欠落思想を述べて全くの桎梏になってしまう思いをしている.閉鎖中間存在がモデルでは全く不自由な面白くないものになる.ただし本義的本来的でなければ中間存在にとっては有用なのかもしれない---と今浮かんでびっくりしている.考えたこともなかった.





猿と人のDNAの違いはほんの数パーセントらしいから、ホモ・ナレディを読みながらアトラクタシーンを思い付いた.間違いないのではないかな.





常微分や常差分でレスラーやエノンと--そうだったか.常微分と非線形なら常微分を避ける必要もなかったのだが、フォールドしてくる混沌はさすがに一瞬の答えは出ずであったので.サドルノードはまあありそうな話し過ぎる.





身体意識の精神レベル低み存在は、乱暴で時間の蒸し返し過去帰りやり直しになり無駄なのだが、当人にとっては現在時間の充実時間の情動発露による発言だろうがが多すぎて、厄介な気分のナンセンスな体力消耗要請にしかならない無駄が全くやはり多すぎる日常.





器官なき身体は、フロイトのリビドーを客観させてこの現実・宇宙に当てはめたようなものか、エントロピーではないか.
02242016