2016-05-08

my ft 04302016

 
記憶にある不快な言明達はたかだか短絡・脊髄反射でいいのではないかと思っているところに、吹き出しも短絡・脊髄反射のようなものであると、全く他者になにもいえなくなるではないか.まあ暴言理不尽脊髄反射と吹き出しは意味合いがずいぶん異なるので.




 
生理変化は保存しないことから、ポテンシャルのあまりかエントロピーの影かといったところを想う.




 
硬いXYはハードであることは間違いない身体特質を持っている、その思考にも如実に現れている人材に辟易している、その人物は身体的特質から自らを考えたことはなさそう、とにかく考えに考えた生活を送った割には..そんなことはなく自らの現存在的硬さ・剛性に気が付いていたかな?




 
アイネ・クライネのXXにはムンクの思春期を重ねていた、今見ると確かに立ち昇る黒い影があった、なんとなくあったように思うがそんなことは気にせずにであったので、思春期はまずかったなと今にして思う.




 
白い巨塔第回のチューブに遭遇して見た.面白いが跡が続かずあらすじで終わる.TVを見た記憶はないが、書物想定で非常な苦痛を味わったことがあり、よく覚えている書物である.リメイク版は全くつまらず見る気はしないが、この同様な苦痛をNo.f時に覚えたことがありそれもよく覚えている.




 
そう思ってみると、思想の思想たるゆえんは、我が心石に匪ず転ず可からずなり・・や朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとかまだまだ例証はありそうだ.わが心は関係の本質にありと柏舟は述べてもよく、孔子は道とは一生をかけても悔いのないものであるように絶対的なものであると述べても差し支えない




 
まさか吉本隆明が思想の思想たるゆえんを理解できているとは全く思わなかったので、今考えるに理解していたかもしれない・もしくは肉薄していたと、どうも表現を見る限り肉薄と考えるのだが.個人的な秘匿感があって、Yは暴露しているような形になるなという思いもある.しかし対象差異をどのように?




 
思想の思想たるゆえんを人々は持っている可能性はあるが、それを自覚できるかというとまず難しいと思え、ほとんど理解できない・把握できない・到達できないものであるように思っているのだが・・




 
思想の思想たるゆえんを関係と称しているかなY,そうなるとゆえんは関係の本質になり、思想の思想たるゆえんはその人物にとっては、絶対的なものということはわかる-つまりそれが生きていることの証であり、その指針に沿って生きることであり、それを基準にしていいようなものであることは知っている




 
何やらよくわからんが、個人的には重要な気がする時間対称論、そもそも”ブラックホールのエントロピーは、時空の対称性から導き出せる”ことは知らず、ネーターの定理は部分的な印象が、にもかかわらずかなりの箇所で有効という『小さいものは大きいものより大きい』のNo.を当てはめる形のもの




 
人間と人間との関係におけるどうにもならない身体の有限性のことでは?




 
そのXXの弟に実時間を年戻されて、つまりその陳腐に思える弟は年前の存在で、思い出してみると年前の思考を強制主張(聞きたくないのに強調主張をした・強勢圧力で)して、何を言っているんだと今では思い出して、あの中学校の階の廊下を歩きながら-西洋の没落が浮かびまさかそんなことはと




 
幽玄が登場して個人的にはこれで頂点という感じである.玄妙とか玄妙・・・




 
中間存在は、その心理的深さ、認識能力、視野、精神年齢、絶望力、忍耐力・上昇度・依存度・などにおいて浅く・低く・狭く・低く・浅く・軽く・低く・高く・・そのような有限人間をまた中間存在と称する.ただし次世代か何世代かの後に変化の可能性はある.




 
笑いは人の生理あるいは心理が極端な緊張状態の持続に耐えられないから、その緩和のために存在していると現象学的に見る.真面目とか真剣とかの事態を笑って楽しく過ごす傾向の人は知らないのではないかとも思ってしまうことがある.




 
No.fにおける重むろな補則的なものは、好まないポアンカレ要素を含んだ形のもの解析.




 
未来対象として不明なものは不明が明瞭であるが、過去対象に対して不明なものはすでに明瞭であることに気が付くことに時間を要してしまう.この時間自体に結構なエネルギーを用いるのだ.なんと表するか言葉による表現化できないといつまでも不快な性向がありて




 
何十年も悩み考えたせいか、イメージ上はまだあまり芳しくない映像としてよく記憶している対象について、特異点で説明できることに、麻痺しすぎている記憶映像はまだ消えないが、ようやく過日思いついて、相変わらず現時点でわからないものはすでに過去において把握しているものであったという例を想う




 
全く力学系の非保存とかロルの定理とかなるほどと思う膾炙物を、悩んでいた思考の人々による既知の提出物への遭遇という無駄なエネルギーを使用したという埋没感.




 
ル・クレジオのように、後には無機物が残るだけとさらっとエスプリを効かせる仏人もいる.




 
無限遠点で平衡するという考え方はしたことがなかった記憶である、それで宇宙の熱的死とかのエントロピー最大を人々は考えるのか、その場合最大値は何時まで続く時間を有する?、なにか最大になって終わりでその先は考えないは、生理から来る考え方で、ホワイトホールにつながる考え方のようでもあり、




 
吸引不動点がコルニュの螺旋意識の興味に現れていたNo.tt.クロソイドの道路設計おいて吸引は価値があるように思えるが、マイシステム上価値があるかな?、直感自然がおもむろにそうさせたので何かもっと未知の価値設定ができないといけない.




 
力学的エネルギーの非保存対象が存在した時、それは常に生理時間の増長に対して、心理的にまといついてくるという単純簡明なことに気が付いた.




 
人々の無限遠で収束するということに関して苛立ちを覚えるのだが、摂動は収束・消失するものであると考えていた事を思い出してしまった.科学的な面と心理的な面の錯綜が成立してしまう.摂動は一応そういうものであると特別意識を当てた記憶もあるが




 
身体表現性障害の心身症--少しは興味ある.慢性疲労症候群などと昔に冗談的に述べていた頃から、今日では結構まともな疾症となっているらしい.演技の虚言性冗談行使時の論理捩じれを構築した時があって、それが結構影響している可能性がある.やはりそんな対象実在存在も問題あるのではないか
 
 
   

 
λ≻の場合のリヤ指数自体になってしまって、その時に考えていたδ関数意識というより、リヤプノフ指数を考えてしまったような、この関連から逆δを連想してその逆から構想空間でNo.意識構造にヒントを得た.これでは知識を無視したままでは進展しない結果を判断するな...ディラック・・・




 
ある時リアプノフ指数的なことを行使してしまった調子づきを持ったことがある.指数でλは正の値・上半平面・立面上での出来だった.修正の必要とその踏み込み理由がわからずちょっと追求すべき自己所為.これは閉鎖的グリーン関数的な面の反動意識はまずあることはまあそうだろうなと自覚はある.




 
最近、思弁的実在論が流行していると、今日知った.概観を一度眺めただけだが、考え方が似ているように思えた.ネットで流行しているのも面白い特性である、当然身体意識型人間には信じがたい・手に取ることができないものなので、何かといいたくなることだろうな.


 
それ以前に非線形的だろうと思っていたことが、ほぼ線形答えでいいと判明した時の面白くなさ、勢いのしょげり、何だよという思いが一年前にあったなと思い出して.
 
ローティーンの頃ラジオキットの組み立てをやって定型通りに部品をセットしていくとラジオ使用可能になったことがあり、その時にその通りにすれば事はなるというパターンはもうどうでもいいと思ってしまったことが、いまだに心理了解ものの実践・実行を妨げることになっているようだ.




 
内部の無意識化にしたもの、現在の持続中の悩みを自分の主体のように言われると不快でしょうがない、なんという無視か間抜け化のどちらかでやはり後者でしかないだろう.いや双方でもあるな.無意識を蒸し返して言われると、俗にいうサルの潜りのような人間で、人間よりサルに近いのだが、




 
仮に対米従属を止めると今度は対中ソ従属の可能性が高まるのではないか、果たして独立を全うできるかは日本人の依存体質を止めるか、遺伝子の個性ある面・ほとんど特異点的な民族を主張するかに持っていかないとだろう.




 
過去に未来を持ってこれないというパラドックスの逆で、未来の見える現実を未来において避けることができないというエスパ-を知っている.




 
ガウス曲率位相は不必要なのに人々が強制・強要して困る.その存在価値のために無理矢理不合理・理不尽要求をしてくるから何ともいやはや、どのみち愚かな存在だから遊んでいようという意識作用も働いた結果、結局閉鎖感を味わい苛立ち常にを醸して、またそれが当然だと思う要求者たちにも困ったもの




 
無限遠の消散はNo.に絡んできて、普通になんでもないことなのに、ガウス曲率的的判断位相で考えてしまっているからおかしくなる.最もどこかで対象XXを想起してそのように考えてしまった可能性が、いや中学生の時の顕微鏡の花粉を想起した時が原点であるな.




 
無限遠でブラウン運動は消散というときには、その消散する場がなくてはならない.そうなると消散は有限を強調しているようなものになる.この消散の意味が分かりかねるやや無責任な言い方で、消失するではない方だから仮に無限遠と称してるような形であると解釈.まあどちらも無限遠場は存在しているが
 

   

 
関係の本質は存在理由ではないのか、人が孤独になり自問自答するときに現れるのはその根拠だろう.存在理由ならそこに存在している人すべて持っているはずである.何しろそこに存在しているからである.存在根拠としてもよさそう.Yにとっては実在理由・実在根拠になるだろうが.




 
一般にルールというものはミクロな個人のみを対象としたものではないという発見というか、あまりにも当たり前のことに気が付く.ルールは共同的が一般である.
 

   

 
どうもここ一両日に気が付いたが、あるXXの母親がなぜか体内に巣くっているようなのである.あるXXには失敗で、その弟も非常まずい記憶のある形となり、総じて厄介すぎる悪魔的家庭に絡まる羽目になったものだという記憶がある.この母親は関係ないだろうになぜこんな不条理情態なのか参ったものだ

 
なぜ市民に希望なのか、どう見てもそのスケールは小さいのに、ただし明るい空間である.そう考えていると暗黒域を想起して、これを離そうとしたが離れず、そのことが漱石の明暗小論文につながったかのかも、今もそのパターンはある.一応地球にも昼と夜があってその色合いは明と暗、その他にも・だ.




 
普通の欲望の塊の人間が貨幣なき国家なき無神的人民になることができるか?.それならば精神的には仏教の世界がすでにそうである.とりあえず考えられるのは、その共産形態を構成することができるのは、現時点では聖人的人間のみの世界であるならば可能性があるとみている.




 
スピノザの神の決定論は責任転嫁のようにも思えてきたが、自己主体以外によって規定されるという考え方を親鸞から伺われるなどという文章を見ると、別にスピノザの神の決定論と同じではないかと、人神的なものになると封建制度や権力構造、宗教性と伝統などが出てくるので、自由からの恐れを齎すとか




 
超平面の一様性と相転移、乖離と多世界とか思いこんでいると、Sの猫の話は一様時空にこだわった話になる.当然のごとくこの地上とその延長である宇宙実在は、一様時空と人々は考えている.




 
”かってなくまたこれからもけしてありえないもの”は埴谷雄高の哲学的意地か単に哲学か唯一者とその所有にヒントを得たのか、それらは評論であって固有の精神構造から考え付いたものと見るのが正解だろう




 
とあることに不意に思い至りて修正を加えた、これは個人的に結構重要な事柄である.全くもう何年も過ぎ去っているにもかかわらず、思い至らず・いや考えて悩んだことはあったが、自然の時間をこれだけ要する運命的なものだったという結果論は、多くのケースで持っている.




 
映画音楽はなぜこんなに楽しいのか、特に画面と共にであると一層である、ドルーズ当たりに映画論があったが、映画とは何ぞやといわれても答えを持ってはいない.画像化した文章表現で理論より実践な内容ものは間違いないだろう.起承転結という懐かしい小学生の時に自然に悩み続けたものがNo.tnに




 
ゲーテの西東詩集の考え方はマイシステムと似ている、ゲーテだからその詩的直観で想像できたのかもしれない、まあ稚拙というかわかりやすいというかイージーというか、簡単に表現してしまっている.その点はまことに面白くもない.人相好みじゃないな.(翻訳からだが、原文もそうであると推定できる)




 
向こう年までの人類の文明進化・変化予想もなるほどと思うが、In the Year もまた黙示録で、モーツアルトのレクイエムも黙示録なのでレクイエム以上のものは作曲できなかっただろう.ノストラダムスも黙示録である.シャルダンも同じくその他終末論はすべて黙示録に係る




 
冗談が現実になるのは現実が遊戯・ホモルーデンスを要求している傾向にあると気が付く.娯楽やファンタジー映画・書物などはホモルーデンス的ではないかと・ついでに笑いもホモルーデンス的と気が付く.




 
観光のまなざしは自然と文化・混沌と秩序で、無数の過程の結果真理に到達と同様パターンでさほどの目新しさはない.ただし、自分は文化・文明人と思い込み自然人を軽蔑・蔑視する人間はまたいる.あるいは家父長的な縦秩序で横の自由な幸福などを不快に思う始末に悪い、エートスの低い人間もいる.




 
ジャイナにとって体内の微生物は生命体ではないのか、昔から疑問に思っている.自らの身体外に存在している生命体との分離ならわかるが-身体外にも無数の微生物は存在している-体内の微生物をどうにかジャイナでもできないのではないか、アポトーシスもそうだ.細胞増殖も問題とならないか・・




 
定数と均衡-仮想仕事の原理とXXと弁証法と・・・




 
初めて聞いた、スキナーが縁に関心があったとは、さてどのように捉えるか.昔は無縁の縁をフルに用いていた、今は個人的思考に偏心していてちょっとだけれど、その気配はまだまだあるはずで.




 
No.tsにこだわり過ぎたというより勇気のなさというか思考の限界がそうさせた記憶がある.それゆえに空白の時の流れが感じられないというまるでミステリアスな展開、小説のような現実である要素もあることは、それも考慮のうちになってしまうとしても差し支えないかな.




 
ほんとに全く障害でしかない脊髄反射反応・即物人間の暴力言明・あるいは嫉妬発言など不毛でしかないということに、歯止めのかからない節度しかない人間たちは動物に近く、また内部保存を模倣してしまう濁った鏡・不透明な色々味の悪い鏡などを見ても気分が悪くなるのは必定明らかなのに.




 
空間位置物象は何十年たってもそう変わらないが、時間は変化しているということに多少違和感を持つ、さりとて昔の風景が変わってしまうのもつまらない面はある.「夏草や兵どもが夢の跡」の時間変遷に寄せる想いはよいのだが、時間が過ぎていることは間違いないが、その過程がないという空白期間




 
古道に道崩れのところがあり、そこに昔から落石の名がついているところの頂点に佇んでで物思いに耽っている---(さすがにどうも文章を認めないといけない情況を加味して始めて見る冒頭の出だし構想文試み)---




 
大体小学生が量子を考えることに歯止めがかかったその心理はなぜなのか、周りの相対圧力を考慮してしまった.それでも数年後に黒体輻射的なものと、光子運動を考えてしまったことは確かなギフテッド的?と思える事柄.そうと時々ツイートする柿木の花咲き乱れる三叉路の目安のある石の近くで




 
今では記憶にあるとてもチャーミングな風景がある.そこへの道、葬送行進曲を思い浮かべた近くのカーブの風景で、客観か客体の言葉を思い浮かべ何か疎外感のようなものを覚えた記憶がある.これがNo.thhに寄与する進展のなさにつながっていたことを発見する.




 
「多世界の干渉性の喪失」という多世界解釈はわかる、これを方程式化するというのはなんというか、かなり困難、ただ喪失世界自体に多世界があるという解釈はできる.No.thi・No.tt・No.tth




 
なぜこんな自分にとっては不都合な心理形態が成立する出鱈目な倫理もない軽薄衝動体などに阻害されねばならないのかさっぱりわからず、主体の阻害要請者たちはなぜ逆になりたがるのか?、さっぱりわからず、自己認識に乱れを生じて非常に不快を過ごしている.対自認識を味わうのは私である他者ではない
 
自分がしている意図の対象は自分ではなく、意図を途中で止めようが止めまいが自由だろう.意図を模倣した存在は私ではない.何しろ私という個体は一つしか存在していないからである.私は私であり、模倣者ははあくまでも他人であり不透明な鏡を見るよなもので、まして私は意図の対象者なんかではない.




 
意図する対象は自分ではなく対象を意図しているのが自分である.その意図判断を途中でやめてもそれは諸々から来る自己判断である.他人は途中でやめた意図の模倣をしてしかもその意図の作成者である自己をその意図の対象と設定・思い込んだ形の現実・実際発言をいろいろいまだにされている

 
表参道でのコンプレックスに思い違いをしていたことに気が付く、いったい何十年無駄をしたことだろう、なぜかその他にもそのような回り道をする必要がない事柄が多いので、これはなぜなんだ、他者の精神年齢進展度合いの遅さがそうした圧力になっているとしか.




 
そこの川で泳いでいるのは鱒ではないか、楽しそうじゃないか、君は鱒ではないのになぜ楽しいとわかるんだ、では言い直して、センスあるじゃないか、君は鱒のようには泳げないだろう-しつこい名家の対話にセットしたシューベルトの鱒の昔の楽しき思いで.




 
マズローも孤独で悲劇的で未熟的な権力志向者などに同情すると疲れて意味がなくしょうがない、それ以外でもだが.疲弊して経済的には損失しか残らないもの、また甘えられてそこでもやはり損失でしかなくなる、またそこを狙われてやはり損失になる.それではどうにもならない.




 
ふと思い出した、昔に人間のタイプは、ファウスト・ドンファン・ハムレット・ドン・キホーテだったかな、4番目を忘れている.とにかく大別して四つのタイプであると、それで判断を少ししていた時期があった..




 
ある関係ないものと関係ないものを結び合わせる関係意識は深淵を介在させるか、あたかもXX&XYの関係のように--そうかNo.の難点はここにあったか.




 
功利主義は正規分布を機能・効率的に見た見方であるという判断ができる.全く最大多数の最大幸福は明らかに正規分布であることに気が付かなかったものだ.というより人々はいったい何を考えているのか、惑わしい過程を露呈されると無為な時間を過ごしてしまうものである.




 
ロルーズが個人は共同体や国家から自由という考え方で、サンデルはアリストテレス型の目的論(個人の自由は目的のために問題にならない)において、桎梏を排除した形の共通善を設ける形というわけだ.どっちもどっちで、ロルーズは芸術的視点、サンデルはカント的.芸術には共通善があると思う.




 
関係の本質は不変かもと想いついている.固有性はその人個人の不変なるもので、人間一般を通してみると、存在論的に人は持っていることを推定できる.




 
No.に関して「黒体を量子領域としたときそこのエネルギーは量子エネルギーになると仮想して..」と発見(自己文章だが失念記憶上)、小学生高学年の時の、あの柿木の花咲く花散る三叉路の小さすぎる小川の流れでの光子・ブラックホール・老子の道のころだから十分.




 
おっと経済面で閃いた.閉所形式のKの誘惑から一体何年経たことことだろう、最もハイティーンの日に考えたことが影響しているのだが.




 
オイラーのγの展開式やテータ関数の展開式を見るだけで苦手のワンパターンのうんざりさを覚えるが、遅かれ早かれ直面しそうな気がしている.大体周期そのものがワンパターンである.それもΘに考慮してあるのは当然なのだが.




 
となると『4が必要である』まで生きているかどうか不明になる.多分無理ではないかという思いがあり、ほんと遺書はドストエフスキーの倣いでほんの冗談なのに(冗談が本当になってしまうなぜかこの現実の不思議)、遺書みたいになるではないか、ある亡き作家にはバイブルとは言っておいたライフワーク




 
パターンを考えてもどうも納得いかないので、モチーフが周期というヒントから考えるが、オイラーのγあたりで、古典的定数は周期であるように考えてもということのような事態である.そうなるとやはり第三ステージとして古典的定数化でとりあえずということにしておくことも一つの手段である.




 
まあ単純に個人的限界に接している第二楽章・Θ・マイシステム・モニュメントなどというという同一表現記録の存在した事実なのである.

 
帰納は常に仮説になりうるので、ポパーの着眼点もいいものがある.ベーコンで頭がひりひりしたハイティーンの日々、政府機関的にもベーコンでは先がないと思ったが、不変的に帰納が作用して時間を過ごしている人々・科学者・数学者たちと、ポパーの存在はその頃は知らなった今はポパーにも批判展開ある




 
遺伝子・微生物にせよエンティテイ要素意識であることは間違いない、世の中哲学的にはまだまだ十分変わってはいない何十年後、夕暮れにミネルヴァのフクロウが飛んでも未来に対しては有効なのであるということ.




 
よく識者というかメンターが絶望すればよいというけれど、これはポテンシャルが擁護している場合に有用であって、エントロピー情態ではさほど意味がない.ベートーベンもポテンシャルが豊かであった場合の話であるはずである.




 
複雑性の体感は時が過ぎればわすれるかもしれない、心的記憶はそうではないはずで、それが有用になる.




 
せっぱつまり情況であると地震被災者とそう変わらない時間を持っているので、そんな人々は被災していなくても世の中には大勢いる




 
サルトルは傲慢さと見捨てられを味わっていたんだ、回想ならいいけれど最近のツイート内容はそのような様呈となりている.またそのように仕向けられた昔からは不快だが、何とも思わずなのである.




 
バイミメは独が進んでいて、日本は縦割り社会なので、フラット独立分断構造のハウスドルフ組織構造ゆえにらしい、粘菌の動きはどうなったか.独立しているなら横的には非可換で、縦的に不確定スラーを行うのが上司というわけだ.




 
そんなロボット・叙事的人間は、有機物発生以前の時間に生きているか、現在時間で成層圏を超えて酸素マスクなしで存在していろ--とか位を考えてしまう不愉快すぎる不快をXX&XY達から受け入ていて、未来の努力をしないで、この即物処理を行使したがる存在の問答無用の馬鹿らしさ.




 
逆になったり思い通りにならない以上責任は持たない、自己対象ではないもの責任を持とうとしても主体を発揮させないのでだめである.ゆえに何かあるとすれば逆になったり、主体を阻害した存在達に責任があり、加害者的なのであるのは自明なんだ.自己欺瞞で逃げていてもそれは許可しない.




 
科学理論はいまだ反証されていない仮説の総体-反証主義がどうもよくわからなくて、すでに膾炙となっている理論も仮説になってしまうのか、それは実体意識からは不愉快な気分になる.そもそも仮説という言葉自体反証可能性を含意しているではないか❓、同義反復延長のようなもの?




 
俗という言葉はいやーなイメージがあるなと小学生、それが数年後にイメージ的のそんな存在に遭遇してしまうという不都合さ、障害物になるという嫌悪対象は、嫌悪主体に抵抗してもそれは嫌悪主体を無視することにしかならない.別に好悪は自由だろう、自然意識を尊重したいものである.迷惑な不都合対象




 
世界が無から始まったも演繹的拡張・妄想・未定設定となり、根拠はない.まあそう決めつけるという矛盾的なものを受け入れるという宗教的考えを述べた人もいるが、・・そうなると太虚という考えは宗教性があるのかという思いが湧く.




 
モナドやエンティテイや原子命題はしらける.ループもパーコレーション的思考である.パターンはみなほぼ誰でも考え付くものである.--思惟の法則があると結局は面白くなくなるという考えとアルゴリズムとの錯綜があるかな.




 
ライプニッツのモナドの無機的、ホワイトヘッドのエンティテイは有機的で、対比すれば客観的と主観的.システム構想のころ、いずれも要素単位論でその思惟形式は当たり前すぎてなんら意味がない日常・限界・行き詰まり感を持っていた.この両者は当たり前すぎて面白くはない.TLPの原始命題も同じ.




 
脊髄反射言明だからデジャブにできた?.即物反応強迫性があるのではないか、確かに現実はそんなケースも多々だが、当人たちが即物反応的人間に偏っている存在であると、まず認識していないのでそれが義務・自然と思い込んでいるようである記憶からの判断.いわゆる動物的存在を欺瞞したがる人間多く




 
脊髄反射反応言明に対してそれを尊重・そもそも脊髄反射言明を尊重する考えはないのだ・してしまい非常にナンセンスな無駄を、それもまたそれらの言明はデジャブであり、それに気が付かなかったこともそうだが、デジャブである当人に述べるという言明者の認識能力にも困ったもの.

 
Kummer surfaceの映像を見て、エンブレムのデザイナーなどは参考にすればという考えが浮かぶ.カラビ・ヤウの複雑怪奇映像は芸術的かと思ったことも、今では何か違う・多分閉鎖性によると思われる.サルのしっぽも妙な具合で、アラベスクは双曲映像ではないかとも思ったりする.




 
あの時は次元でも困難で、4次元は高次元はというとI予想という名前が登場した今、数学の王道は代数多様体と昔から思っているが、今も年前とそう変わらないだろう、一般人に多様体思考をさせようと当てはめを考えていたのはまたその年前の話、無理なことを考えてもしょうがないと思った先ほど.




 
覚醒時≻入眠時≻夢形像の順で同心円を描く場合は空間単純表現で、夢形像を直後でも認識できるという関連と覚醒時内部の内部の夢形像を起きた時の覚醒時が認識できるそのつながりを第4種の何かにしないかとは思っている.ABC予想のように渡るもの.単に生きているから夢を起きて再現できるでは?




 
どのような意味づけをしたとしても、原生的疎外という観念が疎外であるとは不愉快・不快である.この叙事的感覚の権力的・覇者的視点が気に食わない体質者であることは今ではよくわかっているが、千駄木に行った時にはそんなことは露にも思わずだったな.無意識感覚・直感では認定していたかも.




 
考えなくてもいいのだが、しかし具体的表現を漸くした形になった.なんと具体的な権力構造を展開できたというかような単純さに頭脳作用が全く働かなった多大な時間.まあ離散分離をして具体者に任せるという抽象も大いにあるようであるが.




 
時間的過程における様々な試行錯誤の結果真理に到達したという時間路X軸を直交化して度回転してみると、真理は色々な具体作用を様々に含んだ形となるZ軸という縦構造になり、抽象化度合ごとに離散分離しているのではなく、その都度包含していると考えると、抽象思考が成立するではないか.



 
『過程が統御を内包する』--どうしてもそう考えざるを得なくなってしまった中学生の時の思考を前文に置いている.普通に人は統御が過程を内含すると思いたい、特にXYにはその傾向が強い・XXも権力志向的体質者はまたそう考えるが、このような考え方をしていると大いにそんな人間は邪魔になる.




 
定積分は有限明らかでそこには普通に責任あるが、積分範囲が±∞である不定積分の場合には、有限積分体は責任意識が希薄になる、諸行無常の如く.(この構造は『過程が統御を内包する』と同じになっていることは少し前までは当然の秘匿にしていたはずなのに、こんな考え方をしてしまう自己他者的)




 
問題は渋み的でもあるが、具体から具象へ抽象へと向かうヒエラルキー思考をどのように判断するかは、昔からそのまま何十年も止まっている.いわゆる官僚思考の位相である.単に凝縮・密度ハイ・稠密構造であるのだが.




 
リビドー情態にあると形式知を用いるのは困難である.たとえ人間はリビドーを理性に昇華できるとしても.経験者の直感の表意事実を渋みといい、それを意識していない直感判断を行使することは確かに有用である.




 
組織・会社という構造体が成立・現前している以上、それは有限体である.組織にはヒエラルキー構造が付随しているのは必然的で、いわゆる縦構造で、積分作用が働く.有限である以上その判断には未定直面が存在するとサイモンは申していた.普通にそれは当然と誰でも考え付くことなのだが、




 
意識における想像ができなくなるそれは均衡・エントロピー最大であってそこが有限値自体的なものになっている.果たしてそれ以上変化しないか、限界なのかそれはそう考えたくはないが、しかしそうとも思える.




 
『層状組織』に断層・割れ目がありそれが動く可能性があるという地質を今頃になって気にする.自己自身の内部から見ている、それとも内部存在が妨害して視野を狭めているかな、そんな気がしている.多いのである抑圧をかけてくるXXが自己の狭さから自由意識の妨害をしてくるXXが、

 
しかしYも半端ではなくしつこい・さすがに本当に考えたことは確か.精神か物質か決定していない-同じ考え方-とか埴谷はねえ埴谷はねえと-これは異なる、埴谷雄高なんぞなんでもない.あと永続革命はいいとか、永続革命って何?で革命が永続なんぞするわけがない-トロツキーの頭はいいが.記憶より




 
まさかこんな無意味な時間を過ごす羽目になるとはその頃は全く想像もしなかった.不都合に向かうその他色々な障害発言者たちもいて、それら発言は単なるハイエナも食べない嫉妬のようだがどうも判然としない.ただ頭が麻痺する理不尽であるが-そんな発言者は愚かと優越感を持つというカルマがある?




 

 
公共選択が新製品開拓分野にかかわっていないはずはない現行仕組みではありそうで、そのような経済事象は昔から推定上あり(例えばダラスで倒れた大統領の父親あたり)、今もそれはありその辺が最も影響力強いと感じる.




 
無償の行為視点(芸術的視点)からは経済が成立しなくてもいいかという構想も成立するが、これはさすがに極論だな.芸術家にとってはしかし経済は無い、ゆえに経済他力が成立するというケースも多くある.人々が芸術は役に立たないというのは、経済視点第一義的に見ているからである.




 
自力から親鸞の歎異抄には強制力を感じるという、最近の米国メラネシア宗教研究結果から、宗教は支配者の地位保存に有用してということと同じく、親鸞もおそらく他者支配のために本願・他力を述べたことはまず間違いないだろう、強制力を感じるのでそう思わざるを得ない.




 
埴谷の自力ですよというアドバイスは先刻承知すぎていることで、こんなアドバイスはいらない.全くろくなことを言わない作家・評論家たちである、単に邪魔しているだけに過ぎない有名税というメンツプライドからまさかとは思ったのだろう.ゆえに他者の剽窃・模倣を見るのは自力の阻害になり不快であり




 
常微分方程式があったな、やはりこれも複雑さを予感して、ただし非線形方程式は避けてはいなかった.ともかく交代形式で外積の場というこじつけをまず強引にしてみたが、納得のいくものではない.それでも通らせることができることを思いつくのに、ラマヌジャンが出現してくるというネットリンク




 
まあ昔から数学は代数学だと直感していたが避けていたことがあり、その複雑さ予感で.そういえば避けていたものといえば、類体・カラビの次元・フェルマーの定理・代数学・ペンローズ・・・あとなんだ、ここまで思い出した.これらは現実的世界に価値があるという帰結になる.




 
おもむろに単にシステム上似ているので象徴させたΘの論理と個人的に表現しているので、テータ関数とか聞くとΘ文字を連想しないわけにはいかない.幼き日のあの暑い夏の川べりで浮かべた、楕円形の超想像的時間速度回転のイメージがそこにはあってと多分思う.そもそもこの超高速回転は何の意味か?




 
ラマヌジャンの擬テータ関数・年ハーディへ・が年に手がかりで年に全体像の一つの公式が発見さる(フェルマーの定理はどうかなという代物だが・どうもそう思ってしまう小学生の時の勘違いがある-ノートの余白で十分・多くても・枚で足りると)




 
”エタールとは、陰函数定理が代数幾何学でも成り立つと仮定すれば、これを適用することができるという条件である。(しかし、実際には陰函数定理は成り立たない。-”これ昔の理知的存在に今では遅すぎるが、見せたい文章を発見した.全く評価する連中はどうしょうもなくまた、自己自身も謙抑しすぎで




 
宇宙ホテルの時代になったか、第二楽章は『星間宇宙に瞬く星々たち』があり、これも結論部位でもあるので(ただし恒星間を想定していて、地球は記憶の彼方にというニュアンスを設けてはいる)、近づいたなとは思う.スターウォーズやアバターなどは意味なき空想物語漫画だが経済価値があるという不快さ




 
先ほど起き抜けにスマホのTV番組から、chを見ていると、ラフはホロにとんでもないアイデアを思いついたといいながら、4の狂詩曲をか月あまりで書き上げたと述べていた.変奏は主メロディを少し変置した結果、ややハードメロディが抒情感覚抜群になったという話だった.示唆的である.




 
太陽の寿命が億年とするならば、今神的移動でクエーサーに位置しているとすると、すでに太陽は存在していないことになる.何しろほぼ億年経ているのでという相対性理論.
 

   

 
ホモロジーをポテンシャルのみで考えてしまう傾向に気が付き..問題は本質台と波面集合と特異スペクトル(は同一)という種でいいのかとあまりにも明晰すぎないかと考えすぎてしまう、先に進もうとする意識が強いとどうもそうなり、それで失敗したローティーン時代がある.




 
人生で避けえないもの・それは関係の本質になると思うので、この場合エートスになる.




 
雨の日の構造を見ていた山道小道の抑揚の先で、やはり幼き日に考えていた事柄にエートスがある.エートス・これはこれから先の人生・未来を決定してしまうとその時に避けたもの.今想うにヨーヨーマのカンタービレやトラークルの詩にはエートスたっぷりであり、それがいいと想っている時間となりて.




 
推定、雨は降っているが私は知らないように生きた音楽家にアマデウス・モーツァルトというのがいるとほぼ確信できる.
 

 
昔幼き日に、あの雨の日のC山道の小道に佇んで構造自体を見つめていた楽しい時に関連して、雨は降っているが私は知らないのムーアのパラドックを常に思い出す.構造を見ていると眼前の雨は透過することができると、様相認識論につながるのか.答えはまずこれだな.




 
ホモロジー・コホモロジーはNo.teの何気な文面ではないかと気が付いたが、面食らう考え方、全くポアンカレの拘束感覚が嫌いで・にもかかわらずポアンカレの業績には価値があるという苛立ち.


 
「知的怠慢ね」といった女子大生がいたが意味がわからず、性的面かな満足した馬鹿のことかな、多分前者だと思う..要するにもうこの時点で、結ぶ思考に共通性がない.







 

 
科学者の描く今世紀の未来に超伝導道路があった、この発想はなかったな.あと壁が一瞬でスクリーンに変わるというのは未来だったか、昔に考えてうまく想像ができず、電子写真とともに自己にマイナス点数を与えた形である.共同的には十分パスのはずだが、一言余計なことを述べたXXがいて意地を張り




 
ところがそんなA期的演技的性格者は、自己欺瞞たっぷりゆえか、他人が野蛮に見えるらしい.A期人間自体未発達の原始的人間なのに、欺瞞でそう思いたく無さを隠したがる本能があるのだろうな.




 
くだらない人間を擁護する形として忍耐しても全く何の意味もないただ無駄な時間を過ごす羽目になるだけという如実すぎる経験値

 
論理ロボットには悟りとかは考慮することは不可能か、あるXYが急に女なんてと発語したことがある.同性意識かあるいは女性意識か境界症候の突っ張りか理解できぬが、君の母親も女であるという考えをしていないような間抜けさ加減大の発言は頭脳を麻痺させ理解不可にさせる.まさか母親憎悪があった?




 
関係の本質とは死を意味するタナトス的面か生理有限時間・その凝縮時間と思ってもそう違いはないだろう.悟りのための修行という宗教の伝統が日本にはあるのに、欲望的存在にこだわりすぎていたよと思える存在に、悟りとは?という質問をしてみたらよかったな.今はもう不可能ではある.

 
人間の生に存在論的に組み込まれているものに、生理時間有限がある.




 
昔、その視野は小さいけれど市民が希望になると思ったときに、それに付随して暗黒が離れない形で浮かんだ.これ実存の明暗や深淵・虚空のパターンと同じと気がついて、普通にカルマの人間は誰でも明暗を持っているのではないかとしてもよさそうだという帰結が生じた.
 
またついでに源氏物語もどうも内容は趣味ではないが、帖のタイトルのそこかしこの雰囲気はよい.それより「とはずがたり」を眺めてこれはいいと思った.解説には4歳から歳までの回想とあり、歳で出産とはいかに.そうかローティーンの物語でロリータかとちょっと思ったのを覆されて・・

 
Yは人は思想の思想たるゆえんはすべての人間が持っているという言い方をしているが、すべての人間は一様な固有性を持ってはいないので、普遍的に・存在論的組み込みであってもいいけれど・持っていていいのだけれど、個性がある・個性を設定できるように先天的差異があるとみる.




 
Yの関係の本質とは主体的行動・行為・判断のことではと思いチェックして見ると、やはり思想の思想たるゆえんのような気がする.Yにおいて思想の思想たるゆえんを把握できたと考えることが不快なのだが、表現力あるいは認識力の少し欠如感があるな.それで表現にはったりを覚えてしまう.


 
何かニッチがないかと考えてもアイデアが浮かばず、その後ソニーが電子ブックのいいのを早く出さないかと思ったりしたが、素直に出版関係を考えるべきだった.全く豪も思ったことはない.中学生の時に作家としては流だけれど、出版社としては成功している人物にやや不快感を覚えたことが記憶に?




 
問題すぎる記憶の烏帽子-鷲羽間で何も思い出さなかった.ひょっとして鷲羽-双六の間だったか?.こじれすぎていまだにこじれてる心理記憶.まあ相手は平穏な悩みも何もないのだろうと推定.




 
錐や正則はその定義が基本と、全く根本的に定義を把握していない、ただ無意識直感を使うのみ、それでもなぜか口から言葉が出てきて、大雑把ながら正当であるようだ-他者がそれに理知で懇切に展開するといった閉口さをよく覚えている.それも気にすることもないな.




 
実軸で三角形だと単に点にしかならないので楔まで出てくるとかなり曲的に考察、-にも無数の値があるのにとは思うが、象限のアナロジーなのか.ともかく単に点ではしょうがないないだろうと思うと連続になって、ハウスドルフはどうかなになる.




 
風が強い、春の嵐なる書物を昔読んだような記憶を思い出す.入院生活が長かったので中学年生、その時にちょっとしたことを思い浮かべてしまって、それをNo.Oに連用してある.
 

   

 
設定意図は明白空間の虚像=ある不明空間の実像の意味で用いている.結果不明空間・X空間のボキャを剽窃するXXが全く登場しないことに、高々身体的意識の剽窃関連などどうでもいいので、このX空間の言語要請なんだが..その意味では不明意図になってはいるが、別に隠すつもりはなかったが色々.




 
接・余接とラグランジュ・ハミルトンの関係から、ある空間の実像に対してある空間の虚像とはある空間の実像ではないことを意味している設定に関連付ける.おもむろに表現化したある空間に対して結構乱れる悩みをして、失敗だったかなとおもうけれど、単なる比喩的に用いただけであるので.




 
偏微分方程式とエンタングルメントについてだれかそのうちに述べるだろう、すでに述べている?としたら、せっかくサンクが埋まった形であると思ったのにがっかりであるということになるが、実際にどうなっているのか?.それでもそのくらいの意味があると直感を持った.




 
" 年・ Hans Lewy による解を持たない線形偏微分方程式の発見"この記述から、若き日に思いつた4種の明瞭な特性解のある方程式は、変数が4個ある偏微分方程式なら可能ではないかと思いついた.もしそうであるならば、なんという単純な解答・帰結だろうと




 
不確定性原理でカオス理論を説明できる可能性を直感した.果たして?




 
時空性は転がりすぎている.ts




 
結局心理想像力にシステムのタームを用いることになってしまったが、そのタームに当たり前すぎる認識を構築したくなかった・できなかった形のある昔の夏の暑い日.進展したが当たり前・普通すぎる要件になってしまいいいのかという思いで躊躇している.被覆で取り繕っておこう.




 
距離が存在すれば時間の影は設定できる.時間があれば一応距離を設定できる.No.ts




 
基数における長い直線が交わるようなものというのもきついな、フレアー点くらいでいいのでないか、そうしたほうが自然であるがだ...




 
グロタンディークの名前は昔に知ってもよかったはずなのに聞いたみたこともなかったけれど、ここで食い込んでいた気分を思い出せた.(こんな表現をすると後に厄介なことになるという懸念が浮かんできた記述後今を少し修正して、思いつくではなく思い出せたで緩和して)




 
無限小は例えば射影空間を一点に縮めたような意識を昔から持っている.それより古代のリッチ・フローの逆向きとか.無限小意識に対して時間を一瞬に思えば、縮めは成立するので、Gの多様体一点化とか方向視点差異を排除すれば、なんでもないことだった..




 
あまりにも普通に考えていた昔の視点からは・ニュートン空間でのことのような・相対性理論は男女関係に見えてくる.パリティの破れは不和とか.




 
集合論もこじつけといえばこじつけ気味にも思えるが、選択公理もそのようである.P≠NPがなんとなく片付いたような気分が発生したが、射影空間が広がってしまった.




 
ミンコフスキーの世界線の初見ではそんなものかという思いをした昔を思いだして、それが今では悩みの種になってしまっている点について可能性がこじつけ気味に閃く.さっぱり手がかりがなかった点から少し変化した妥協性を加味してもよさそうなことになって、これはまた自己自由の妨げにもなりそうだが




 
不動点・BMが消散するから、ロバの平行線は無限遠で交わるという不快な考え方を、使えると閃いた.




 
相対性理論が正しければ、時間は至る所で異なるので、時間は多様性を持っているならば、平等は絶対空間的考え方にならないか.相対論的には時間変換則は同じでも時間自体は異なっている・空間も同じで相対論的に平等は成立しない事象となる.




 
ダークマターかブラックホール的なものを体感的位相に持ってきてもしょうがない.リアルとバーチャルといって、リアルが精神的現実な人もいる.




 
対他と対自の差異がある.No.




 
発散と圧力は使いようで成立する.No.




 
藤山一郎を知らないとは歌手なのか若き?XX、それでは巷間いわれるように今の歌唱力は落ちているという示唆は事実だろうと推定できる.歌がうまいとか歌唱力があるとかなんだかわからなくなっている心性なのだけれど、フィッシャー=ディースカウの冬の旅はいいを思い出した.




 
αの偏微分でその世界と抽象する汎関数の関係は?、∂αはH定理とエルゴード関与傾向で、官僚システムは汎関数を意識せねばならないマクロ性、虚無と諸行無常関係などの解析・分析をまあだれか行っているだろう.




 
”創造的なものが見えないのは--過去の世界の虜囚となる”エンデはいみじくも言ってやがるな.そうは申されても実際にどんな対処を思いつかない、ある意味幸福な時間という感性.実在しているXX達の遭遇関係の中で見る記号システム論がそのようにさせるが、αに遠慮しすぎた若き日々が続いて・・・




 
そんなことが現実の圧力・状況で必然・自然にそうなるからαに関して何もしないという形になってしまう.仙人ではなく、隠者的な位相もないこともないからそう思ってしまうかな.問題は無自覚で熱烈に無知を生きねばならない人が多すぎるゆえにということにある.まあそれに巻き込まれ形という遅蒔き




 
α構想で覚えているのは、・家父長制について、・乞食にも愛を・・・まで構想したが全然手を付けていない.特にの項目は反貧困ネットワークや炊き出し・対ホームレスとかやっている人がいるというように、他の人が行うことが歴然的なことしか構想していないので、別に騒ぐこともないだろうと




 
しかし軌道に相変わらず乗らない点が問題だ.αの境界と虚無としらけと無意味な無味乾燥な感情と、αの錯綜関係による現実の巻き込みは記号メソッド内容で十分説得力あるはずなのに、無理解者に落ち込んでしまう体たらく、この束縛力対処を何とかしないとである.無意味な圧力が強すぎる現実生活関係




 
射影構造で現状を見るとどうしても虚無が登場する.道理でA期や叙事的色彩がまだまだ噴出出現するわけだ.現象把握は、考えるべきなのだろうけれ、歳の時に虚無を保留してから何十年、結局それを使うべきだったという、ほとんど避けているものが現実になってしまうとはどうにもまずかった形である




 
なぜ紫がωなのか--見者という他人であるわたしは、境界症候群時間に調子づいた詩を表したものだった.--セルバンテスのドン・キホーテのように夢を見ていたなる弁明をランボーは述べてはいないな.




 
一つの領域に対して全体把握をしないとという演繹思考、演繹体にも先天的や中間存在的とか領域面積・体積把握能力に差異があり、あと個性志向も差異があると-結果仕事の種類も多種ある--これ自体は多様性であることは歴然としている.




 
普通の人では節度や寸止め・衝迫力などは使えない、カルマ豊かで達人ではないからである.何しろ自然がそのように赴かせるが理由で、精神力を鍛えようとはしないものだからである.社会の圧力があると鍛えるが.




 
δ捻じれ・捩じれの構想が浮かぶ.捩じれか..そういえばそうだ、厄介といえば厄介、螺旋変容事態といえばしょうがないが.それは境界内外で普通のパターンなのに現象差異空間ではなかなか思いつかない.




 
認知科学の帰結は思惟の法則のためにありそう、人間であるならばそれは楽だけれどつまらないと思うはずである.実際にそう思った時間がある.現実は認知科学が進展している.指示言語作用が強すぎて無味乾燥な対象だが、当事者達は感情ポテンシャルのゆとりを持ちながら研究しているだろう.




 
皮肉は虚無の前座か友達であり、懐疑は猜疑の友達か皮肉の仲間でもありそう.純粋法学を浮かべたときに皮肉という言葉も追随させた記憶がある.犬儒とは後に知った言葉.




 
あるXXに対して子供を産んでも意味がないと思っているそのXXは今は子持ちである.この辺で意図が逆になっているのと位相が逆になっているという不自然さを想う.はたと思えば意味がない生がこの現実は有効なのか、これはタナトス・悪魔的な意向に沿っている.あの俗物XXも悪魔のようにしつこいと




 
オッカムにせよラッセルにせよその理屈付けは論理整合化だろうが、観念対象と空想対象を最初から判別できるものという前提に立脚しているようにみえる.ラッセルは絶対空間かとも思ったが、記述中に変な感じがして、どうやら英国伝統意識によるようだ.




 
記号はNo.4にどうしても入る.虚無をその詭弁色彩空間域と認めねばもう時間的にありえなくなる.代の体育館から時が過ぎ去り手である.通時的記号と虚無の認知関係を想定できるのだがどうだろう.




 
ヤスパースはまずいな、サルトルのボットは盛んに実存はヒューマニズム喧伝しているがヒューマニズムならワーズワースやヘルダーリンに感じ、怒りの葡萄や老人と海はどうかと考えて、合衆国は国歌のもとにまとまる多様性があったと気が付く.




 
自由なら昔から持っているが、他者がその自由を邪魔してくることが多く、一段自己レベルを下げる羽目になって、自己自身の思考位相を自己自身で追いかけるというなんというか、無知である他者に引きずり込まれているか、合わせてしまっているかの意味なきつまらない位相である.




   
なんか頭が理性がさえず、気持ち悪いと思うXX達のしつこい束縛に陋劣化を余儀なくされる形としか言いようがない.そんな対象、XXに限らずXYに責任意識を持つように考えても、さほどの責任能力は無いし、無理に要請すると何をするかわかったものではなく、危険要素がありそれもままならぬいら立ち




 
権力の作用を否定・超克・無視しえなかった小学生時、紛争理論なる単純さには明快さがあるが、なんというか当たり前すぎるきらいが付きまとう.現象学も似たようなもので、単純皮相感は否めないはずだったが、ある時エポケー戯れをしてしまい、愚かな心理内部を作成した羽目に、最も根源性直接であった




 
DNAオートマトンなる考えを浮かべてしまった.これでは人体物理的思考になってしまう.ゲノムゲノムと解析はあのころショウジョウバエのサンタフェのころ野田線大宮駅の改札口の朝.ショウジョウバエはモーガンがC初めから用いていた歴史があり、DNA発見が契機となってまた加速したハエと




 
記号といえばJREは山手線の駅に記号を設定とか、また無味乾燥が増えるが簡略便利性もないこともない.パースとかその付近からの知識で味わい設定量を確保しないとまたつまらずな生活感性になってしまう思いもある.ところがこの辺の問題はNo.4なんだが頭が動かない..




 
弧空間の問題がナッシュ予想で、『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』はこの領域を対象としていることを今知った.ナッシュといえば記号的なつまらないゲームの理論的なほかに何かやっているのは知っていたが、それも今知ることになった.




 
シンギュラリティがなくなるのは面白くないという性向があって、特異点解消定理にはいら立ちを常に覚える.『接線の陰に隠された無数の曲線を見よ』-直感でそうしたためてあることにもよるかな.




 
小学生の時に同級生・不都合な悪戯とは思わずにしてしまった・の家に何の理由か行ったときに、その名前がヒントになったのか、励起という言葉を思いついて、シビアさとしびれる感触を味わったことがある.今では人工的な光励起相転移とか




 
結論・結果が出なくても、またそれらを必要としないところでも、無理矢理に結果化を行うという不快な束縛力を発揮する存在でもある.特にその存在が中間的な場合や無自覚な場合は世界を狭くする才能しか持ってはいない(最もその狭くするにもさほど意味はない中途範囲でしかない).




 
P≠NPは結果判断とのことなのか、昔から出た結果を見ると判断が容易であるという性向を持つ存在に女性・XXというのがあるとは理解している及び設定している.直感ではマタイ伝に登場するユダという存在もその傾向を持っている認識である.




 
ザクロの木のある裏庭・池のほとりで浮かべた空孔は、断層撮影に用いられている形となっている.Psは水素のおよそ/の質量とは・・、幼き日のあの無花果の愛すべき形態のそばでの話でもある.




 
No.niダークマター空間で--なる文言もいいな




 
No.の難点に関して対称性の破れを導入するのも悪くないなと思い始める.そうなるとNo.に超新星なども入れて差し支えないことになる.




 
対称性と対称性の破れでできている人体、肺・眼・耳・両手両足・腎臓などは対称性、心臓・肝臓・膵臓など対称性が破れている.これにミトコンドリアの畳み込み(おそらく正解だろう)などが加わって、もうこれだけで難解な人体構造.No.&No.&No.に関連して




 
特性値の判断がつかないことから、一つの方程式からまずどう見ても一致しないと思える4種の既約方程式的なものが解になる方程式は存在するのかと考えたこと・見えたことが昔にあり、なんとなく楽しみで数学成果なんぞを眺めている節もある.




 
その弟あるいはその母親に引っ掻き回された感をいま強くしている.無駄でナンセンスな行う必要のない犠牲を強いられたようなもので、責任はその弟にあると設定するといいかな.でも演技的性格の偽善快楽にどっぷり浸って、陰謀的パリサイ人のようなもので全くつまらないものなのだが.




 
だましたのではなく、近くまで行って気分が変わったというだけのは話に、なぜか不快なルサンチマンを持ってきた存在も記憶に不愉快すぎて、あるいは他の面から言えばある存在が念頭にあり実際に会ってみてからということなのだが、これは非常なミス・間違いで全くその弟ゆえにどうもこうなったようで.




 
”G に値をとる定値関数の芽の層”ん?、定数・定値--まさかのある存在は定値人間か、イメージは全くそうではなく考え難き候なりだったが、ただ心理映像では間違いなくそうなることは見ていた.引用文から急に閃いた.では仮設設定が異なることになる.人々が誤解や無茶苦茶した対象のことである




 
何だコンプライアンスと黒人バス事象が顕著な例で、それから数十年後、その影響が日本にもというポリティカル・コレクトネスの波及によるものであるなと、そんなこともすっかり忘れていた.個人的には米国のPCなどより、日本古来の道徳倫理意識でいいではないかという思いがあり.




 
資本主義とプロレタリアの混融した何かになるのが弁証的止揚ではと一両日浮かんできている.
 

   

 
証明-数学証明・不在証明・形式証明・実感証明・・・、いろいろある.アリバイと形式証明は必ずしも一致せず、形式証明と実感証明も必ずしも一致はしない.
公式証明と疑似証明も一致しないものが多くある.一般に疑似証明はおおよそ一致しないのだが、空想証明や演技証明があれば一致する場合もある




 
この世には無駄な存在があって、それらの同調圧力的なものがあると思うと、その寄与があるかも.しかし遺伝子には無駄はないと思えるので、この無駄という判断はどこから来るか、構造価値か美的判断とか思うけれど、決定的ではないがそんな意向はある.遺伝子のみで人間が決定されるわけでもないとも.




 
たとえ--であたっとしても疲れが予測されるので、不毛になりまた不毛を肯定する思考の強制力はその対象ゆえにである.そんな存在であるとは設定していず、愚かにも後に気が付くという無駄をなぜ、この現実が存在させるのかその意図がわからずと.




 
自縄自縛XXに対して位相を持つと考えること自体に自縄の思考をする羽目になり、自己主体の本来性を歪めたことに対して、その考察に大いに悩むことになった.それ自体はナンセンスな無駄なだが意味づけをしてしまう形、愚かしすぎる.つまり対象選定がまずいことは明らかだが、その束縛力は強すぎ.




 
形成体の構造は不明というのは現在でもそうなのか?、充実した幼きアイデアの日々の事実と現在の発生学戦線の事態比較をするものであるが、思考が所で止まり、胚というまさに灰白色イメージのままでしか、ある程度思索をこれ以上しないと思ったような記憶もある・・・




 
実証実行実際の区別がつかなかった帰り道で、ふと道路わきの杉林にある篠の根は複雑な地下茎を持っているはずであることは知っていたので、これがのちにドゥルーズの根茎・リゾーム意識につながる.根茎の予期?




 
BSカードは推定天候不順により調子悪くなるという代物とはこれ如何に.なお参照から、重力波領域に電磁波は役に立たないと知った.




 
最近になって、自己対象で考えなくてはならないものが多少増えてきた、単純に難解な対象であるので厄介だなという思いはしている.空白期間中に他人の成果を期待してそれを用いる・それらを参考にするという意図だったのだが、参照以上に自己必然ものが発生するとは念頭になかったミスインテンション.




 
均衡と仮想仕事・仕事原理があったような対象から外れすぎた記憶があるな.均衡で、記憶からあるXXが急浮上した.定義と均衡には関連が彼女存在からいえそうだ.




 
どうもフラット上の現象だろうと垂直・縦・組織的構造だろうと、:の法則は大小をカバーして存立しているように思えるので、フラクタル相似形を:から持ってくることができそうである.:4でもある.世界がそうなっていて、またそうであるとするならば世界はつまらないものになる.




 
ヴェイユの人は不幸にならないと神を認識しないという考え方を特徴的と述べたらしい存在は何を考えているのか、とにかく神様お願いという事態はヴェイユの不幸絶望的状況であるし、この世に神も仏もいないのかといった事態を人々はよくわかり、なおかつEU歴史上有名なヨブ記という不幸圧力物語がある




 
日本人の天という考え方・ほぼ生得的に備わっていると思われる・は、ほぼ神という考えと同一意義を持っていると思う.天の声とか天罰とかを神の声と神の罰・神罰と考えると、納得・了解・諦観・流すというような傾向を日本人は持っていると思えば、天教なる宗教があってもよさそうである.




 
宗教性は人間存在自体が持っているものであると思うので、神をなだめる犠牲とか道徳力によるカムフラージュとか権力者による支配手段とかは後に発生したものと考える.




 
お気に入りのBE凝縮は有効だった.




 
ここ最近の思考から、ほぼほとんどの人間は権威を好むと帰結気味である.




 
何しろ一生叙事性を超えることはできないという直覚のために.親鸞がいわんや悪人おやと述べても、その無自覚者が他力で阿弥陀に依存しても、依存能力を発揮しているだけで、その当人・個人・個体としての存在自体は無知のままであり、親鸞の阿弥陀意識化はカムフラージュであるに過ぎないという考えが




 
相変わらず拘束窮屈表現協調存在が現れてくるな、実践秩序維持のためにだけれど、どうにも受容できる余地がない・当たり前すぎることを行使することにしらけすぎる心性を持っていることにもより、また自己思考の適用になっていない現実を認めないという傲岸さより・さほど認めては来なかった点があり-




 
:の経験則を考えるとホッブスの万人の闘争は成立しない.




 
アルファタッチへの趣を意図したが最近ではまた元に戻って・無理にそんな傾向を持たないで自己流になってきてしまっているが、要素はあり、思うに憲法から町内会規則まで、ルールが大小カバー域を違えて多層に絡み合っているという図式が当然浮かぶ.スケーリングの例がもうそこにすでに存在している.

a virtual affine space is not a affine space.

 
虚像は英語でvirtual imageでいいのか、virtualには名目上そうではないが、事実上の・実質上の・実際の・実際上のとかの意味合いがあるそうだ.小学生の時に、実際と実行と実証とかの区別がつかずどのような表現を取ったらいいのか悩んだことがある.virtualはいい言葉--




 
まあ自己認識・分析で女はダメなどと思える存在は優秀な女性には違いないのだけれど.私が悪い・完璧に関して欠落があるゆえに・のではないかという女性は優秀である.
 

   

 
どこで自己に自分自身で何かの作用を齎したようでもあるが、陋劣=見た目直感で肉感が気持ち悪い存在に、その偽善という欺瞞のためにエネルギー浪費・吸収されたようなことがままあり、どうもこの辺は阻害になっている.こんなXXはダメなのにダメと認識しない愚かさ達に束縛の憂き目を持つ羽目故か?




 
未然形なものは世にいくらでもある.不条理・理不尽・矛盾(大昔の盾と矛の話)など、カフカが強調しなくても昔から普通に存在している(その存在自体は不快だが)と推定でき、思想流行上の流れの中で出現した存在だけではないか.




 
その後には肺病かイデッシュ・シオニストか実存主義者かで中途半端明らかな作家がなぜそんなに価値があるのか著名なのかわからない、写真を見る限り聡明にみえ、翻訳文章も精密的な細かさを持ってはいるが、糞詰まり中途半端で何を言いたいのかわからず、不快な作家である.




 
男が悪い?-くだらなすぎる思い込み・無理解・誤解・歪めあてはめ・馬鹿馬鹿しくも無駄な演技要請・過ぎ去った過程の位置による蒸し返し専売特許あるいはサル?・--などを受けるとXXが悪いとしか思いようがない事態になる.




 
昔カフカを読むといいですよとおよそ覚えているか月くらいしつこく申していたXXがいた、誰かと誤解して・一瞬で把握できなかった自分に対して?、どうでもいいと思っているのに、発語しなかったが内心で、俺はカフカだ、カフカがカフカを読もうと自由だとそんな演技をしたために調子の狂う羽目に

干渉の顕著な例では演技的性格者のそれが快楽ゆえに変更に対して抵抗するところに向けることができる.最も変更自体演技としてしか受け取らないはずで、気にすることもないはずなんだが、快楽の誘惑に人間は抵抗することは難しい.(演技していることにすら気が付かなくなってしまった存在もいると-)




 
無限遠点での挙動がわからない場合自然に任すとするが、人々は無限遠において減衰するか発散するかで考えるようだ.まあ中間を考えないということも考えられないが、さてブラウン運動に対してどうするか.挙動がわからない場合には、無限大に発散というおよそありえない方程式上の話傾向ではある.




 
基礎の設定もかんがえていたな、基礎がハイレベルというか限界思考点・臨海思考レベルとしてあるそのときの日々.やはり時が過ぎれば、エントロピーが変化するので、過程要素がいろいろ出現して、進展の方向へ向かわせることはある.それも潜在意識に置いてあったような気がするという次第だが.





 
例の川面に反射する午後の陽光をみながら、第二楽章でセロトニンを味わいながら散歩していたころにしたためた、まさかの制御『間脳の両耳から煮え切らない様』という、文章が作用しているか.なぜこんな文章を描いたのかわからず、これによってだとしたら修正の必要あるか.




 
幼き日の坂道で、XXFのしつこさに妥協をした記憶がある.本当は嫌いなのに、全く妙な違和感を齎す生理感性体質者であることで、長じて現実になり相変わらずいつまでも悩ますとは、研究者は悩まず物質的に複合粒子研究などをしているだけという呑気そうに思える事態を想定するものである.




 
またXXFの存在も不快すぎて、XYF&XXFの感性はどうなっているのか、まあ不快を感じているかもしれないな.わざわざ縮退孤独になんぞ社会的になる必要もないと思うのだが、準位軌道だから必然的に縦構造を持ってしまうF人間の権力意識の強情さには辟易しすぎである.巻き込みも困ったもの




 
混合モットや相分離はそれ自体でも多分社会構造成立数あると不快だろうけれど、ここでは複合粒子の場合で、不快でしょうがない.XYFがXYBに対して同じを要求するときなどは現実温度では真に不快で、今もインベーダー的に邪魔で排除したい無駄エネルギーを用いる羽目に.




 
エフィモフ状態とC∞を考えてしまう.




 
その内部での変化に対してなぜそのように傲慢な心性を持つことができるのか、むしろどうでもよく単に利用するだけの心理がありありとうかがえて馬鹿馬鹿しいことこの上ないという代物である.それはともかくとして、エールのリンダのようなひりひり心理感情を齎す対象はまず集中だがそんな時間無く




 
”適当な意味で、すべての古典的定数は周期になる”はっ?.周期かよここまでくるとようやくというかなんだかわからんが、No.*を登場させねばと思いつく.そうなるとワンパターンの不快XX人間達とかソリトンとかどうしましょうという話になってきた・・・.気が付かなかったな、答は出ていた形




 
なんだかんだ人々は考えているので・・クォーク星があるのなら、クォークコンピュータやクォーク顕微鏡があっても、もっと飛躍するとこの宇宙はクォークの内部であるとも想定を働かせることができる.




 
ブラウン運動は昔に不動点から消散すると答が出ていた?!のを最近に知ったのだが、それが問題だったことに気が付いた.消散とはなにか?、薄く消えてしまう溶けて存在が不明になるような意味--、同化してそれが判別できなくなる事態だ、さてどうするか、東洋思想的に自然と同化するでまずは対処と




 
”:地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。”これがうまく想像できない.まったく創世記の作者も淵を出してくるから、注思考しなければならなくなる.神の霊は闇の内側・内部存在として設定か?




 
悩んだ市場原理の壁と昔の公共政策の限界意識とその他(市民の希望に暗黒が憑くとか)に関連して、どうにも深淵志向思考の必要性を感じている.時間遺伝子による夜をどのようにとらえるか、植物のエフェメラルは時間幅だが、人の場合はどうなのか.飛躍すれば背景放射も関連してくるだろう.




 
幼き日よ、見上げる真昼の陽光に中に、見える透明鮮やかなブルーよ、クロノスが久遠を齎して---時間遺伝子を人は複数以上を持っているとは刺激剤すぎる---




 
扇とひよことフレームを結び付けるのはトーリックではなく、ウェーブレット・フレームではないかと思う幼き思い出、ではひよこはどうなるのか?




 
記憶に残っている不快な言明は、無視されないためにその発語をしたという、迷惑な絡まり・しつこさにならないのだが、そんな考えが浮かぶ.別にいらないのだが、煩わしい阻害と侵害と白けを合わせ持ち、単なる束縛で足を引っ張る成立している自由の邪魔でしかない.繰り返し蒸し返ってくる言明には参る




 
メモ:水素結合・超分子・DDS・素励起・マグネタイト




 
絶対温度から宇宙を黒体輻射とすると、億個?以上?ある星は、温度的に遠い彼方にある高温物質である想像がある、暗黒空間で遠い彼方にある明るい点を目指す・見えるなる心理映像は、このう宇宙黒体輻射単体星ケースにも似て




 
メモ.メタセシスとヒルベルト




 
なんか先ほどから条解釈を試みる気分に、解釈憲法条の第一項目の文章は覇者型人間が文章を描いたか、もしくは覇者型対象的文章のニュアンスがあるな、少し気になる.項目は明らかに単純すぎる文章で省略というか極端で、思考盲力があっても理解できる文章になっている.




 
笑いは人類最大の発明と誰か行ったらしい、笑いは緊張持続の緩和以外にないというのが認識.しかし笑いにも多様性があって、最大というには語弊があるものもある.喜びは人類最大の発明くらいなら行ってもいいような気もするが、笑いは反射で身体緩和・融和方面ではないか、忘却への示唆という面もある




 
不思議な気分になる、幼きというか発展的時間の距離感覚が、今定性定量時間となった視点からは、ずいぶん記憶印象が異なって、距離が近くに見えすぎて、麗しき記憶イメージが損なわれるという事態に..それはそれで面白くはないが、幼き記憶に感情も記憶しているのでそれを楽しくたしなんでいる.




 
ソリトンもワンパターンには違いない.




 
ダークマターの多様性をまずは設定というか、人の心理・ひいては個人的心理経験上そうしたいのである.ダークマターと人の心理構造の類似?!、個の念頭心理側概念的なものの内の一つにある意味=現状妥協点の設定の可能性があるとも思ってしまうアイデアだが、まずいので仮想にしておこう.




 
仮説予想されているダークマターが実在しているとすると、まだ不明の銀河系というかマター系というものがあっていい筈である.




 
青春、まともに読む必要のある書物などあるか、解説を読めばそれで十分だと思っていたころだからな.部分的に頭に入ることしか記憶はしない.




 
周囲の風景雰囲気がそうさせたとしか・・・(峠の伝説も全く知らなかったが反対に寄与したのかも)、一年前は全く逆のことを考えていたのに、何ともはやすっかり忘れて反対的なことを思い浮かべてしまう、今でもそれに類するパターンはそれぞれのグレードを持って生じている.多様の相克・錯綜とでも




 
ローティーン・日光白根山に行ったときに、あるところでまさかのあることを考えてしまい(この領域の存在なら何でもないが)、それが桎梏になっているかも.普通にはこんなことは全く考えない.




 
青春の渋江抽斎から今頃までなぜこんな無意味と思える時間を費やさねばならないのか、相当な身体の寿命の自然性のパワーが強いという想いをするばかりである.




 
何とかボブ・ディランの名前と風に吹かれてという曲名は知っているが、風に吹かれているだけでは逃避ではないのか、結論は武力行使型人間が存在しないことが必要条件であることは思考帰結上出てきて持っている.