甲斐性がないという言葉があるが、こんな原始的現実に対して対応能力がなくてもかまわないという考え方もある・ありだが、そうも言っていられないことになるαタッチ.原始自然というパワーは乱暴力がしかし強い.
個人的な思い・愚かであった体力だけれど・と、モチーフ付近のマイクロ蠢きと、世親の物象流れとを結び付ける考え方を思いついている.N的な真空の海と述べると全く悩む必要はなくなるが、心理的に例えばデリダの差異の依ってくるところ、フッサールの一挙の瓦解場とかとマイクロ蠢きとすれば困難さが
すっかり忘れていた空想という無責任領域の存在を
深淵はまだ考えないでよそうとした小学生、黒体輻射(封建的なカビの生えたようなアンティーク色ではなかった黒色の彼方の明るい点域を封建的になぞらえてしまった時が以前にあり)から、Bの動きを想定して、そこに老子の道を考えたことがあった.老子の道は深淵であるとせねばならない個的性質.
ラプラス関数だからアイネ・クライネがか、超関数までだよな、それは普通に無意識に想定しているはずなので、それもあったか.それにしてもモデルが判然としない、ピアニストの方がということにもなるが...、年に進展していたのではもう年以上前の話ではないか.遅すぎる知識-空白が.
ラプラス超関数は年とは、無限遠での状態は自然に任すといったところで、年にアイデアが出ていたとは全く知らず、空白中で・・.頭錯乱するポストモダンのころだったかな.だから無限遠でになるという考えとは異なるわけだ.ばかりではない想定があったのである.年とは*
無名の匿名の領域が偉大な歴史上の存在達の向こう側にあるというヴェイユの考えは想定しがたい.何を言わんとしたのだろう.彼岸なら仏者で誰か了解した人物はいそうだが.
記憶にある不快な言明を除去できないのは、それらが脊髄反射的言明だからではないのかと思った.それにしても人々はそのようなことを脊髄反射で述べる知力があるのかそれが信じがたくなのだが、除去困難さからはその乖離からそのように考えることができると
古池や蛙飛び込む水の音-は最高にしっくりくる味わいを体感したことあり、傑作であるとは思っている.太宰はこじつけ理由による評価なんだが、しかし油断も隙もない野郎だとはいっても昔に死去した人物だが.全く何だかんだいって、読まずにいたものを他人の思考が浮かび上がり時を費やさせるものだ.
太宰治はカザノヴァ型ではないのか、かく述べる当人もカザノヴァXXにほとんど呪われ・憑依される形でうんざりし過ぎの麻痺感をしつこく味わう羽目に.愚かしすぎるも名状しがたい不快を味わう羽目になった対象は、そんな人の心理を加味することなく、体現化して思考の自由の束縛生成となり
いろいろな観点から検証しても間違いなく始まりである.日本の現実は人々の承知しているところではあるが、どのようになっていくかほぼ自動的に変化するはずである.世紀になって早年以上過ぎてどうなるのかと思っていたが、このようなるとは、なるようになった・なるようにしかならなかったと
まずは間違いないようやく片付いた難点、現実には悪くはなかったがただ昔のきつい思い出が災いした・・.ようやく自覚したようで、まさかあるいは消えたのではと思うとドキッとしないこともない.他人の子持ちでどこにいるかも知らないのに、この昔の時間のままが続く観念形態をなんとする.
所詮は 渋江抽斎 であったことに思い至ったが、こんななんでもない簡単なことに、何十年も無駄な設定を構築していたとは、唖然とするばかりである.まさかのまずいXXとは露にも思わず、流れで全く不利益ばかりしたその日々.無駄に忍耐ばかりで非常にナンセンス過ぎた時間を埋めるのも不可能で.
宇宙上の存在ならば世界上の存在であることにもなる.
利用にせよ高笑いにせよ、どうも現存在的な浅さ・隙間感・単なる領域的なイメージでむしろ不快な邪魔になる、これは共和感覚でもあるような.そういえば著述にわたしたちという言葉を多見して不愉快にもなっている.
人は世界内存在であることは間違いない、あるいは生理時間有限体または認識無知体・・・、宇宙内存在というより宇宙上存在という範疇に存在していることも間違いではない.
それはともかく父親存在は、父親存在ばかりではないが、なぜ剽窃をして主体を蔑ろにし、理不尽を要請したのか、父親という存在価値保存のためだったのだろうが、どうもそんな父親は個人としてはダメと今は思え、そんなダメ存在に忍耐強要される・してしまったことは不甲斐ない事態だったなと.
人の主体に理不尽な邪魔をしたからでもある、当然だという想い.どうも忍耐をしている時は頭にきているということと同一意味のようで、経験上時は普通に思われていると思える時間内では、なかなか解決しないという認識である.
実証比較検分と例証要、トーラス的中間・ロビンタッチ、マトリョーシカ的ABC的段階、双対可能性とゲーデルとか徐に表現してみる.羅列の最後の言葉は、視野点がかなりの個別広がりを示すはずのものという想いを携えて.
+αに最近といっても数年前に知った、Yの関係の**性を用いる・援用する・利用するというアイデアが閃く.まさか冗談だろうと同時にそうしても悪くはなく面白面もあり、関係の**性がわからずに悩んだ結果は結局そんなことになっても差し支えないはずと.関係の**性自体は年以上前の考え
方法自由は実存意識と見るとアナーキーは実存的なものになる、これとは異なっているが似たような形で、No.にタイトルを設けてある.ただその実証根拠・証明証左はとりあえず前例結果を援用するくらいの曖昧さのままで、或る+α意識を保存したままに.
その後これといった名前を聞かず、科学哲学の細分化方向に-これはこれで悪いことではないが経済がそれに伴っていることは明らかで、ちょっとイージーなものを感じないこともない.要するに自明なことをトートロジー的といえるが、説明としているような、くだらなさという意識も先ほどまではあった.
科学主義というのは自然科学を科学と称する形か、それはよくわかる思想とするとそうなってしまうものである.科学といえば自然科学を意味するのはそう思っているからでもある.
マッハはニュートンの「絶対時間」「絶対空間」を形而上学として否定したということか、あの桑の木の中の道へ行く坂道の眺望のところで、マッハがあとゲシュタルトが浮かんだ思い出.確か感覚感であったような、光の直動と結節点のころの話で、さすがにアインシュタインの名前は幼き日に浮かばず
科学自体は中立だろう、それを用いる人間が中立ではないことである.No.の結語にもなりそうな言葉だな.
年の書物か、それから少なくとも年以上、それ以前から思考していたはずで、年は少なくとも経ているアクチュアリズムならば、すでにあるXXの自覚など待つ必要はなく、また自覚したら叙事的になることが今判明した.なんという無駄をまたしたことか..ということが多すぎる.
”現実(リアリティ)は決して現実的(リアリスティック)ではない””仮構組織体はアクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、”--No.より、『見えない目よ粗い目よ』は網目構造意図である.
そうかシステムを量子でできているとすると・見ると、システムのそこにある解体できない現前に対する不快を脱却できそうだ.No.?
“アクチュアリズム”(actualism)・現在主義はドイツで好まれると、この言葉は一言性を持っていていいなとは感じた.そもそも“アクチュアリティ”(actuality)は独人であるハイゼンベルグが採用したものである.ともかく悪くはない.
この場合現実がマイ思考状態になっていないという意識・・
小学生の時に図画で想像部分を写実に対して描いてしまい、その絵は評価されたのだけれど、なぜか罪の意識を感じてずっとこだわった形を、いまその部分はファンタジーとすると許容できる形を覚え、罪の意識が消えた.忘れていたけれどリアリズムになぜこんな拘束意識を持ってしまったのか、たぶんXXが
科学はいいというのは、マートンのの”科学的真理は、人種、ジェンダー(性別)、民族性、国籍や特定の文化など影響を受けないのだ という普遍性(Universalism )への信念”と同じ考え方に拠っている.No.
埴谷の数千億年の数千億倍という逃避思考はよくわかる.あの国道の帰り道の小学生、向こうへ行ったその距離が今ここにいてという、例えば億年彼方の準星と聞けば人は神速で想像でき、しかし億光年も移動したわけではなく、今ここにいるという事態の応用で.最もサイクリック宇宙が今は.
最近はネットのおかげで結構平板になっているとも思える、困難に設定してあるある地点を引き寄せた形かなと、甘い感じでは思えるかな、それではシステム価値が下がる.人々は想定することは全く可能であるが、実際には全く不可な時間がまだまだ続くはずで、ということは人間にはまだまだ可能性があると
人類の悲しみ⁈--構築してあったシステム上は別にであったことに思いつく.すっかり実践生活上で失念しまっているので、この変なことになってしまっているのか、最も実践することは時間的に困難すぎる設定にしてあって..
最高にまずいのはきがつかなかったということ、、なぜ気が付かなかったのかいまだにその理由はわからず、失敗の連続で、意味がないという愚かな日々を過ごす羽目になっている.意味のない生活などつまらな過ぎてしょうがないが、今はヘルダーリンのように柔らかな春の日差しに包まれて生きるのもいいと
そんなことが多くあり過ぎたXXたちのおかげで(XYたちも)、その無理解でたらめさでXXを信用できなくなっている面は強い.そんな中でも無茶なランダム時間を過ごした中でも、全くその時には気が付かなっかったとはいえ、遭遇すべき存在にはきちんと遭遇しているのだから神秘的・超自然的なんだ.
ある大学のあるXXに此岸と彼岸の行ったり来たりは自由だったはずの心性を、その剛体感覚身体に邪魔され、しかも自己謙抑以下にされてしまい、えらい目にあっている.全くA期の幼稚で叙事的XXには閉口、イメージとしてその大学にふさわしくない存在で、その時には気が付かなかった退行的存在明白者
そもそもあそこの坂道でシラーの理想主義には閉口したスケールのなさを感じた幼き日も影響しているな、ベートーベンの第九は有名なのに.シラーはカント主義だそうでそれは理解できる.個人的にはヘルダーリンの方で、地中海の明るさに憧れその多くの時間をセロトニンの日々として過ごしたようなヘルダ
そもそも人類が悲しむという領域の思考をなんとす..なぜそんな思いをしたのか、向こうから歩いてくるSに緊張して・・の結果という事態なんだが、この対象は中途半端でまずいことに結局なり、逆になって実際にこのSは今は他人の子持ちだけれど意味がないはずなのに.いややはりこのSではだめなんだ
S県I市の路上での「人類が悲しんでいるようだ」と思ったことが躓きの元、内容はそんなはずはないのに、あるXXの性的意味合いと同一視したかもしれない.あと行動的なKJがゴミ箱に捨てたのを拾うべきなのに意地でも拾わなかったという些細な事象も寄与している.
非退化な臨界点は孤立点ということで集積ではないという離散はいいが、退化の壁がどうしても越えられない非退化というモース形式について、臨界点でもいいが双方の要素を持った中間度合いを想定として見る-ペンローズのミンコフスキー図も参照して.(ペンローズは仮想案者とずっと思っていた)
判断を思いつかない場合は、その対象の不利益になるということで、その対象からの圧力がかかっている-と何がしかの直接・間接を問わずと考えた.また利益になるケースでもこの形式は成立する.
穴の開いたトカマクはトーラスを抜ける空気量--意識量と似ているな.
言語比較に不確定性原理を援用した今日
エルゴードが等質がノイマンが・・・何G-Ntでコンヌ刺激と、葉層がアノマリーであるとするそのまま--ということだったのか.全く環論への志向趣から何十年、端緒はそれ以前に当然領域があるからなのだが.
様相とファジイとフラクタルと弁証法と・・諸々はそうかNo.24にもふさわしい.あるいはNo.23に位置させてもいい点もある.
西洋的思考、諸行無常ではない個的独立からやはり位置づけで終わると思った.あの時の子音の発語がきつく、こんなことをなぜしなければならないのか止めたと思った小学生、英語の子音形成を全く知らなかった日に.そんなことからLvsRはよくわかるが、それに関しては中世の秋が連なってくる時だった
中途半端に思ってしまうことが多すぎる.当人たちは中途半端とはおもっていないようであるが、何しろ中間存在は存在自体が中途半端、親鸞の悪人も自覚において中途半端など、昔に理解してしまった筈なのに、自らが無自覚的位相になっているという愚かしい時間の経過..
Masasi Kasaki @kasa Osaka-si Kita, Osaka
明日のSTS Networkのシンポジウムで「哲学研究の評価と課題」について発表します。日本の哲学のdemograpicsを集計したので、それも使います。是非哲学関係者に聞いてもらって、批判やコメントを頂きたいです。ttp://goo.gl/vJDSa
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どうやら諸々に接して読んでいると日本は境界域時間に位置しているようだ.それはそれで世界的に意味がある.
脊髄か海馬か-これはいい、いい表現を思いついた.
無理解は動機の錯誤ともあるな、こんな無理解は必要ない理解しあっているはずの二人であるはずなのに、遭遇現実で齟齬・錯誤を重ねてしまったという、現実の愚かレベル圧力では?、その寄与もまた愚かに向かってしまう、つまり愚かさ・無理解を擁護するとろくなことにならず、後には無駄ばかり生じる
XXの擁護のためにそうしたのであるが、それがいけなかった.今はこのXXはある女性に対して冗談的に思ったことを、その女性と認定して、述べているXX自体は私の主体ではないかという逆をよくわかっている.何なんだこの無茶苦茶な傾向は、この整理がうまくいかないのである.無理解すぎるXX
私は私であり、私以外の歴史上にせよ他者を用いて同様とするのは、類推解釈の禁止に当たるとか、それで困って、全く曖昧引用されてそれは間違いなのに・無意味なのに、やけ判断・条件反射的心理肯定行為をして後に悩むことに、ほんとは反対・否定的であり論理的に間違っていると思っていたのに
まなめ @maname
個人のページを作るからダメなわけで、ブログのFacebookページを作れば個人情報を登録しなくて良いのではなかったっけ? / “Facebookページ作り方と匿名利用方法~いいねは身バレ危険 - ポジ熊の人生記” ttp://tn.to/peKejuQq
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閉所嗜好症があるのか、閉所恐怖症はよく聞くが、それである作家の赤い繭は閉所嗜好的な物語ではと浮かんできた.自己成分がひも状にかなって、すべて変異・変移するとは奇怪な幻想ものであることは間違いなく、ありえない.浮遊する中間存在の自己疎外感の話なのかな.デラシネは仏語
マルクス関係の書物から昔に、罪の意識なく論理的人間として生きていくような形式感を感じたものである.いわゆる取り換え聞く歯車のような組織的なものではなく、システム上の歯車なので必要な存在だが、人間的感情の欠けるとものとして.この考えを今の体制である日本に当てはめて考えた人物がいたと
ネット心理によると女性の演技的性格は男の反社会的性格と同様であるそうだ.この女の演技的性格は苦手で、頭が麻痺する・男の場合もそうだが.そうすると男の演技的性格は女に反社会性を強要するようなことを想定する.男の演技的性格はどうやら策謀・陰謀の代償規制と見るとそのように思える.
自己思考形式ではなく普通に線形思考をたまに落ち込んで出した時に、矛盾・整合性の指摘を受けた時があり、その人物は誰かを探したが見つからず.たぶんあるXXの位相に倣って推定そのXXはこのような考えをするはずだと思ってツイートした記憶はある.
節度の止まらない脊髄反射人間たちともいえるな.まあこれらの存在故より個人的意図ゆえのはずだが、まあ多くの不条理・理不尽を行使していることも他者に対してあるな.それより可能性・役立ちさを引き出したい相手たちに、まさに役に立たない、原始回帰的な現象ばかり味わうことになったのが痛い.
XXの忍耐へこみの位相が・・ある昔のある男の不思議な不条理理不尽発言をまともに受けすぎたためが、一番のような.全く何を認知したのかその男は剛体ロボットに近い存在に何を述べても一生の認識到達可能性はたかが知れていると思い込だ故もあるな.
やや遠い将来にXY因子が消えるか弱くなる予想があるが、そうなるとXXが不死でない限り、魚類のような現象が発生することを予測する.不死になるのはかなり困難な身体構造と今の時点からは推定して、XX・XY因子変化が起こるとすればそちらが先だろうと
リルケに対する軽薄ではなくルベーグ測度論的な合点ツイートが消えてしまった.若き日のシュペルヴィエルの善意爆弾からありがたちの一言のみを印象記憶とし、中学生だったかな夏、熱風の中のネルヴァル情熱を記憶とする.
ある駅で電車を待っていた建屋の近くに靴屋があり、靴の文字から靭性の靭の文字を思い描いていた中学生、再度その駅の周りの広場を歩くケースがあり、その時に強靭の文字が苦痛を伴いながら、ずっとまとわりついていた.強靭は苦手である.きつ過ぎる思い出があり、ただしその強靭は有限であった.
温度相対論かそれはいえそうだ.しかしここでも時間作用を考えるべきなのでは、密度が無限大に近いと時間はどうなる-時間はゼロか.
粒子充満の宇宙において多層である粒子位相を考えることは意味ないか.
Rindler coordinateはともかくどうでもいいので、存在論を構想した.なんか相対論の圧力ということはニュートン・ユークリッドになってしまうが、そうでもなくなんだが、αタッチでは即物的にニュートン・ユークリッド圧がまだ強かった.
多世界で人間ひとりひとり区別するという文章を昼間見つけて、あまりにもその単純さ簡単さに唖然としていて、人それぞれは個性を持っている(一つだけの花とか)という考え方を結構シリアスにずっと持っていることから.
あのトンネルの信号のところで考えた若き日、剛体人間は嫌であるが、今日に至って叙事的ハードボイルドでロボット的で何とも感情力が単細胞すぎるという帰結的なものに到達した.時間がかかったな、剛体から見れば抒情は軟弱とかで忌避しがちな面はありそうだが、後システムが解体できない加担するかも
長い直線は無限遠点を越えているのではなかったか?
圧力と密度もゼロとなる星や流体の位置は表面と考えることができる--それで無限遠でポテンシャルはゼロと人は考えるのか.無限遠はこの世界の境界というわけだ.そう簡単にいえそうにもないのだけれど、実用上は全く差し支えない無責任の自由さがあってほっと安心するところだろう.
どうせそんなものだ・倫理観良心力の弱きもの・としていると、XX&XY双方のバイタリティにより双方からストックホルム症候群のように犠牲的情態を強いられる羽目になってしまう.武力型人間に対しては逆効果でどうにもならない乱暴なXX&XYというしか、エゴ増長発揮より良心力増長を望むのだが
自己分析と自己意図と他者認識・考察を一緒のところに保管しているためか、他人には混乱を呼び覚まし、他者認識を主体と思ってしまう・思われたことが多すぎて、それゆえに不快になり関係結節もうまくいかなくなるという事態が成立した結果、他者言明の記憶が不快になって除去処理ができないという悩み
実際にはは管理者が複雑管理を多様管理をしなければならないのだが、管理者世代にその意識はなく、若者は複雑さを感得しながら生きているという乖離構造があるのではと思っている.そうでなければ時間の無駄に納得しないがあるが、現実にやや老齢世代にも実感している存在がいることも確かである.
サルトルの弁証法批判領域の明るい実存か、渋みかもしくはエートスかはてまた昇華か、それを変位させた形をとってしまったことが、今になってその形式を保ちつつの面があり、それが不自然感を齎しているかも.
ホーキングに倣えば、困惑の深淵事象でもそれは蒸発する・何時かは消散する.個人的には深淵に時間と空間も想定しているので、十分な動きは存在することになっている.
明示空間においても取引コストとか過程の様々な操作・出来事対処があるが、暗黒域でそれをどのようにするかが問題な時間になっているのかもしれない.昔、中学生のころは深淵を散歩できたのに、今では桎梏の絶望的なイメージになってしまっている.でもブラックホールは暗黒想定十分な物理の今日時間
象限転回的でパターン類似のイメージは、連合事象というには概念域対象が異なると思いたい.政治的・権力的にはこの深淵から類推できる秘匿域の存在は必然的に存在してしまうのではないかとも考える.
状況は叙事的・情況は抒情的、悲壮は叙事的・悲愴は抒情的など、自然に言葉の区別が成立している.
この付近でほぼ妥協できる成果を得たが、結果から判断してなんと無駄にエネルギーを用いすぎたとしか言いようがない視点である.何とも今までの時間のかかりすぎには何ともやりきれない思いがしてくる.
ここの点を何とかして見たいという設問があって、意味合いはよくわからないのだが、対称設定上は必要かなという図形形式に対して、アイデアが進展したが果たして意味があるのか.まあ結構個性的なと思えるアイデアで、都合上のつながりを仮定できた.ミンコフスキー的な事柄で時間がかかりすぎだ・・・
個人的には意図的に演技をする場合がある・対象をくだらないと感じた時などは特にその意図に反した成果なのでそうせざるを得ないとか.中間存在はすべてにおいてそうなのだけれど、αタッチの現実からは考慮せざるを得ない領域が発生してしまい、ちょっと混乱になっている.これは図式のNo.に似て
本物の人間は演技をしない・する必要がない、普通に日常を生きる-この理屈からすると演技的性格者は偽物人間ということになる.全く昔にそう思っていたことを何十年ぶりに思いだした.全く予定才能を有していない存在によってと自己予定設定判断のミス・無駄などから、無駄な時間を構築したものだ.
自閉症スペクトラムの原因は線形性の壁によると思ってる.複雑性が表に出てきている時代では、線形人間は偏りとかを持たざるを得なくなるのではないかと、
自閉症⁈、或る情景のイメージが閉鎖的でそこで止まり、不快に進展しないイメージというのは自閉的ではないかと.現実の空間的場所にも自閉性は成立するとはあると想定可能で、そう思うと適確であるかな有限イメージのどうにもならない感覚に対して.
なんというかいわゆる足を引っ張るというのはまずいくらいに思っていると、他者から足を引っ張られる形になるという、こんな面での意図は同じにならないどころか逆になる.個人的にはこの逆は無駄なものとしか思わず、大体逆を志向して邪魔をするのは能力がないとまず無意識にせよ思っているはずで.
性的要素による反応状態と思え、ゆえに女性を普通には無視できるはずがないのだが、或る叙事的演技性格XYが、突如・女なんて・と発語した記憶がある.演技性は機能・官能の大いなる援助がなければでき得ない直感があり、この発言は矛盾している.まあこの存在も逆に主体を疎外する存在の内の一人
量子の重なりが個人的心理に浮上、ちょっと遅すぎるきらいを感じたが、或る時、人間的な昔の真理は単純である以前の心理情態にしてみるかと、つい最近数年前に思い起こして、そんな心理状態が今でもちらちら浮かんできていらだちを持っている.とにかくこの領域人間が多すぎるので、量の圧迫によるかと
ちなみに宇宙の熱的死は熱力学第零法則である.
空間的な場合を多く人はパラレルワールドと称している、ニイチェは時間的パラレルワールドが何回も成立すると述べたが、或る昔の時ニーチェは自己を道化師と思った点もあることを読んで気になりすぎて、流しの気分にならざるを得なくなった.フッサールのエポケーに無駄に戯れた頃の自動販売機の前で
相変わらず覇者的人間は機械的でロボット的で無機物的でA期的であるはずが、他の人には良く分かるらしいがわからず、幼稚的な存在でもあるにかかわらず、共同社会的になると有効に作用する・ということは共同体は無機的要素強く幼いことになってしまう.
接平面を点化すると無数に存在するその平面も動くのがバンドルとか、動く接面はリフト形式を考えて、静的射影物象に立体化を与えるという有限形式・であるような事象が印象に残って解けないという妙な具合に妨げを保有するという、ある古びた工場での一日の一時のそこの場所でのほんの数秒の出来事
位相上に局所座標を必要とするとなると複雑になるな、心理の深淵を体感してもそうだが現象事象に適用となるとまた違った趣の複雑さがある.これを客観的に表現しているだけなら簡単だが--現にそうしていて『奇妙な保管場所』と根本的に設定してある、その内容分析を否応でも人々は行っていて..
レム睡眠なく起きだしたその時に、選択した事象がのちに必然になるという・必然的自由(ワーズワース的なと思っているところのもの)のところで、選択の自由状態をサルトルは実存と規定していたと浮かぶ.
当の本人を目の前にして、当の本人の模倣を表明する人々というのは何なんだ.気が付かなった場合やトートロジーの不快を感じることが数多くあり、なぜ人々は逆になり、個人的にはどうでもいい存在に模倣という煩わしさ処理をしなければならないという無駄すぎることをせねばならないのかさっぱりである
現在の若き娘たちに個別対象を試みとして引き出しても目的対象と遭遇しない(最も試み回数が少なすぎるきらいがある、試みが成立しない場合も・もちろん強制ではないので)のでうまくいかないのだが・・・
ハッハッハ、評価してくれる女性がいなかったので自分でさすがというしかない.最も中身を知らないのとオーソドックス権威依存傾向強し女性が目についた形でもあった.いまだにだめで--一人だけ可能性のあるのがいたか、そばにいるときにはその可能性に全く気が付かなかったのが不思議で残念である.
そうなるとSTAP細胞的なことはすでに予測として昔に記述してある、今はそれを表現するポテンシャル・勇気力は弱まっているので、表現化は柔らかな形になるだろう.
あれSTAP現象というのは、今ある細胞がなくたっとしてもの要素を持っているものなのか、小学生年生の時のあの橋のたもとで考えていた忘れない記憶を思い出す.多少関係あることだったのかよ..
Benney 方程式にかなり引き寄せられたが、どうも少し種と異なるようだ、カオス領域に何か未知の方程式が潜んでいるのかもと浮かんだがどうだろう.
根本的に中間存在の閉鎖であるので奇形の定常性を加味したところでどうにも意味はなかったという無駄な労力を用いてしまい、全く中間存在が当然にしか思えない先天的桎梏にとらわれすぎている馬鹿げた存在であることにようやく気が付いた.まあ中間実存などいうのもあるのだが⁈中間実存-そうかこれか
クェーサーのジェットに乗って遊んでいると、地球などという星は原子顕微鏡で見てもわからない存在であるという想像力を用いることはできる..昔、必然的にそのような領域思考をしたことがあり、例えばアタカマの天文学者やホーキングなど、無意識にせよそうする理由があるからそうしていると思える.
進化論に関して多様時間進化という形態を思いついた.すでにだれか述べているかも?.何しろ何年たっても無知は無知が発生するし、シーラカンスがスラウェシ島とかギアナ高地の保存とかガラパゴスなども考慮できる(範囲内とすることができる).同類でも早く進化・変化することも許容になる.
細切れの積極的自由をいくら行使しても無限回数に到達することは人間にはできない.
積極的自由専ら人間にとっては、消極的自由者はいらいらする存在のようである.消極的自由者から見れば、積極的自由者は中途半端なところで邪魔をする・阻害をする、侵入してくるというもので、欲求不満を作り、その上強引処理という理不尽を行いがちである.積極的と消極的のスパンの違いが不明なのか
ふと冗談が現実リアルになってしまうのは、人々が責任を嫌がって、無責任を希求しているからに相違ないと浮かんだ.
レヴィナスをどうするか、カントの定言や芸術意識展開人間であることは疑いようがないが、説明を解釈を見解を陳述しただけとも言えるので.
ハイネか、政治にも革命にも関心を持たざるを得なかった詩人という位置づけで、まず間違いなな.かといって政治家でも革命家でもなく詩人であったのである.
叙事詩的存在か、ハイネをどう思うか発言すればよかったな・精神現象学やエロイカ変奏曲と共に浮かべ、まさかハイネの歌の本とかないと思い、よく知らなかった点も寄与して.とにかくなんというか、色気なるものがない、むしろアマゾネスというようなもの-と思えばそうだな、A期や叙事的XXたちは.
素数の億個の探査で、素数自体が固有性を持っていて、その出現確率はランダムではないと.ランダムというのは精神分裂病・統合失調症とは異なり、でたらめ・でたらめパターンでもないのでそれはありうる.ただそれらの素数をたとえば線で繋ぐという形式をまず考える連携を.
ある対象・XXに、私から見て君の印象はこれくらいのものであるという価値判断を・魅力度合いを持つとする、するとその対象はだめとか・くじけとか申す.なんという傲慢なのか、また他人のことを考えないエゴイストではあろう.ダメなのは君の魅力であり、くじけるのは君の魅力のなさゆえなのに
破滅型という文学人種がいたようである・明らかにタナトスに支配された人々というわけだ.
瞬く星の間にて微かに聴こゆ新星の
幻色の変生にたゆとう時が甦る
真白き雲の海の上眸に映える深遠を
想いつ跳ねて寝転べば昼の陽光穏やかに
久遠は中に存在し不朽は傍に実在す
幽かに見える点滅はざわめき過ごす存在と
視野無き海の底ににてたゆとう熟れは過ぎ去りて
静かな内の沈黙が滲み出る時存在す
石川淳の聡明さはわかるが、集大成にせよ狂風記はなんだありゃという感想で、三島由紀夫の豊饒の海も評価しないな.最も両者の作品などどうかすると目を通してみたくらいのもので、読む気もしない.
森鴎外の舞姫も少しは寄与がと思って集中したが、舞姫では話にならないと直に思ったものだ.あの建物の入り口で渋江抽斎などが浮かんでしまったのがその与件だろう.で石川淳で冗談を思ったのが実際になる馬鹿らしさ.森鴎外になぜか呪われているような、中学生の時の安寿と厨子王のきつさには閉口した
とても長い時間なのだが、他の個人的な事柄はずっと保存・暖めている.挑戦しては見たけれど錯乱にしかならなので、畢生の対象に結局なるようなもの.大体ドストエフスキーのネヤ河飛び込みなどを想起して、まことに心外な思いをしたのだが、結局そのようなもので.秘匿の時間も必要なくなって来たな.
丸善で昔に徐に環論から始めるかと思った時から、全く始めていない.進展はなかったが、分類が今でも困難な領域部を知り、空白時間はまだ間に合うとなる.間に合うが、他者判断に任せるとしておいて・専門家に・である、それににしても空白時間は、普通にはとても長いと表現できる時間意識がある.
それにしてもなぜこんな計算間違いをしていたのだろう、これでは頭脳におかしみが発生してしまうのは否めなかった.どのような計算をしていたのか今では思い出すのも困難になってしまった.どこかでこだわった形にになっていたようである.
単純に計算違いをしていたようだ.この違いのずれは大きいと思うのは、アトラクタをどうやら設定してしまうようなので、No.あたりを引き寄せておくか.
わからんカントの判断力や実践理性批判のあらましを見ただけでは全く面食らってしまい、示唆していることがつかめない.純粋理性の定言はわかる.実践理性は宗教から混沌で道徳が-物自体という不明は専ら実践理性だそうで、美はそれ自体で崇高は純粋理性だったか.恣意的概念より内的美意識が優越なら
ふと埴谷雄高に会いに吉祥寺に行った時に取った態度を記憶から消失してみたら、自己主体がスムーズに動くようになった感じである.全く埴谷雄高は邪魔ではないはずとずっと思っていたので、盲点でこの人物が災いしていたのか❓!.まさかそんなはずはという心理を持っていたのだが、まさにまさかである
犠牲とはリルケによれば”どこにも拘束しておくことのできない無際限な決意”だそうで、ある人物の孤独に対する姿勢からの概念であろうと思われる関係とは、リルケにとっては犠牲になる.人間の持っている倫理とは犠牲のことか?、全く想定外で西洋史上のある宗教的位置時間とその伝統からの発生かも.
そして叙事的や覇者的なXXは精神分析観点からは子供である.実際そんな存在に悩んでいるというかしつこく蒸し返し状態を持続させる拷問的残酷な存在にも思える.そんな存在はどうも一生大人になりそうもない直感があるゆえにしつこいようである.昔は男は子供なのよとは普通だと思っていたが逆もある
身体有限性から身体優位で身体的生命をかけても不可能なものは数多く存在している.端的にここから精神優位を考えるのだが、類続のためには身体が必要でそこに相克が発生する.別に相克などを感じない人が普通だろう、またカントやニュートン・ヴィトゲンシュタインなどは独身であった.カフカは相克?
無限遠挙動に関して素朴というか未定の疑念を持っている存在はやはりいるんだ.紀伊国屋で無限遠での結論を出せという内部の声を聞いたときには、無限遠での挙動は複雑になるであろうと、現行境界複雑性からの類推のようでもあるけれど、考えていて、内部の声にはちょっと参ったものである.
理想流体が等速度運動している抵抗ない場では、無限遠でも速度ゼロにはならないはずであると--無限遠境界での挙動は消散するときには有限ポテンシャル基準思考で、無限遠で有限といってもその存在の境界状況はやはり存在してると複雑になり、無限遠で一様になるは射影的であるかなと、
人の主体を阻害する記憶にある言明者たち・態度者たちを除去できないのでいらだっていることもある.まあ人権蹂躙者たちであり、迷惑存在でもあり、でたらめ者たちでもあり、ひいては単なる未熟な無知存在でもあるとか.
糠に釘のような心理イメージを受ける存在は、心理対処優秀と思えるがその半面、詭弁能力(いわゆる無責任)も優れているようなと思うと、心理における苛立ちの説明がつく.帰納の帰結しない帰結の結果も懐疑・詭弁と無理に言えなくもないものになってしまうが、演技的性格の無責任もこの辺に登場しそう
-=という数式の当たり前さに幾何精神が追いつかず(あまりにも当たり前すぎるとさっぱり意識に浮上してこないことがかなりあり)、何のことはないと気が付く始末.
境界域個別事象は超平面にせよ同一面である-トーラス境界を思いついたのはいいが、それに対する思考不十分という事案
問題のある一点にはボヤイの定理とバナッハ=タルスキーのパラドックスが少し?は関係していることが分かった.もっと柔軟ににはリーマンなんだが、仮想線までしか至らず、その仮想自体が成立しないと.虚数線しかなくなる・・・
剽窃が原初からの謎として、つまり、どこから来てどこへ行くのかけっして言うこともなく、その始まりや方向を隠しているあることば、あるいは、ある物語として現われるのは、まずそれが、みずからがどこから来てどこへ行くのかを知らずにいるからである(『エクリチュールと差異』)
またまた指定難病がふえている、てんかん系が多すぎる分離項目にみえるが、そうする理由があるのだろう.遺伝子解析が進んで難病が増えたというのが直感感想であったが、他の理由がありそうなのだが思いつかない.てんかんとソリトンは関係がありそうな意識を持ったことがある.
模倣を許可して自己を主体を阻害する性格、保存で回避しているつもりが、虎的思考なのかその保存を他者が狙ってくるようで、あるいは内部をひっかきまわすとか、なり替わり映画で有名なのは太陽が一杯だが、主体疎外の忍耐も直に発生しているだろう.何しろ模倣なのだから-心理感情の模倣は無い?
人々は単純に現象記述・漱石の道草とか・していてまた、自然に何ら考えることもなく(抵抗もあるときも多い)変化するのは日常と対処している所に対して..ポテンシャルから他のポテンシャルに移行するエントロピー変化の図式に悩んでいるような・・
トーラスを抜ける時間、そこには空間も普通にだが、その抜けた近接地域・領域はさっぱり、ひょっとして境界の形はこうなっているのかも、どうにもこのイメージが気になってしょうがない.
ベルトラミの対象図形想定・鼓や砂時計とか、双曲空間の間やミンコフスキーの現在時間が少し幅を持っているときとか、前者も含めて後者はさっぱりに思考が止まる.
体力は衰えているのに、なぜか心は若返っているような・JKとか登場するツイート例・という不思議な矛盾
つまりマズローの人間は普通の人なので、奇人・変人はにはなれない素質を持っている.ただ共同性による欺瞞・これはくらいの位置で、自覚をまずしない、していてもごまかそうとする.奇人・変人には非線形を見たいが、共同的ではそんなことにはならず、無駄時間を持ったことがまだ最近の記憶に
奇人・変人が普通に人と同じことをしようとしている時、アドラーの補償・いわゆるコンプレックスを見る.その固有性を如実に理解できる人間にとっては、全くの欺瞞を見ることになり、疲れすぎる.奇行・変行を行うのならいいのだが、共同圧力があるというわけだ.ともかくやはり煩わしすぎる.
「情報は未来にちがいを作る差異」とはベイトソンの言葉、サヴァンは過去作用とすると、宗教的預言者は未来を示しているので、サヴァンに対して対極的な存在ではないか
サヴァン症候群についてのいくつかをみると、どうも過去現象か、現在現象までにその範疇が限られているようである.なれば明らかに記憶作用能力が関係している.
『---かくして生命の単純時間論理に従って、対象としての*の論理が飽和を加味して遂行が必然と当然とされるだろう---』-まだこのころは読める文字を書いていた昔の今でもそうである文章よりほんの一部分抜粋.全体文には明暗言葉が躍っている-明暗も抽象的にはNo.にしたためてあり・・
自己ドキュメントをしたためてずっとカバンの中にしまい込んである.他人にとっては自己ドキュメントと見ずに小説作品位に思うとも思えるので、これを作品化して--というアイデアを考えたが、自己筆記文字が自己草書になっていて、自分でも読めず掘り起こしが大変だ-というためらいの時間.
パスカルは頭がいい、宇宙は何も知らないゆえに人間の優位とか、実例の証明に実例を持っ手くるなど見ると、判例はかくある如しを連想してしまう.
それにしても人々は、理知的と脊髄反射の乖離に関してなんともおもわなのだろうか、多分No.でそんな乖離でうんざりしているのも問題なんだが.
脊髄反射に直面すると頭が壊れるか頭が痛くてしょうがない、XXの場合マヒするか思考進歩の阻害・停滞しか齎さないので、まず潜在的才能において役に立たないと考えてしまう.そもそも頭痛く、認識をわざわざ乱す存在をどのように知覚せよというのか、知覚・認識を乱して意識させないようにしている
なんのこちはない、ワイブル分布の正規分布より素早い頂点というのは、信頼工学上統計は従うのだろうが、現実に頻繁に起こりすぎている事象は脊髄反射によるものであることに、なんとようやく気がついた次第.
将棋やチェスが人工知能・AIに負けるのはまあ大体予測がつくが、囲碁までもか、そうなると囲碁も将棋やチェス系かと思うとちょっと異なるな.つまり叙事系ゲームはAIに解析されてしまうということ.
束縛を嫌う人間に抑圧や妨害や愚劣な態度、意図の反対などを行使してくるXXをまず好むわけにはいかない.
ストレンジアトラクタを持ってくるまでもなく、普通に人はランダムな場合には突飛な現象事態の発生というのは、直感できているものである.
妄想実験・思考実験などではなく、思考自体今ある現実であるような思考のこと
思想の思想たる所以を知っていれば、関係の絶対とかの啓蒙・自賛などに見える意識など必要ないんだが.
流血とか殉教とか瞑想の宗教手段はよくわかっていて、ほぼほとんどの所為に関しては記述済みで、ハタと思うと何を悩んでいるのかそれはすでに記述範囲内の事柄ではないかと、他人対象意識のはずがが自己対象意識に方向した場所・時もあったことを思い出す.どうにもまずかった意外にあの街である.
見ようによっては人間の形態は、宇宙の星々の位相と似ている気が、しばらくしている.
筆記している右手が思考する--この感触が環境世界“Umwelt”を知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同で作り上げているに結びついて、思い出す.
C++で理解できなかったものはNTM形式に似ていることの発見・気づき・NFAか.NPはnotPではないということはP≠NP予想問題が成立するわけだ.チューリングの停止問題で放置していた間に・不完全性定理が関与するものとは・NP問題に関して多種のアイデアがは生まれていた.
演技的性格者は偽善体になってしまっている--自己が演技をしていることすらわからなくなっている場合、これよりやや弱い偽善を行うのはほぼ日常であるという人間にも閉口する、なんだかそのセンスあるゆえかまた使用しないためか、麻痺してくるやや弱き日常演技者XX&XY.
その様相が時間的流れではなく、ピラミッド的な縦軸射影としてみているファイバータッチは葉要素あるのではないのかとしてみると、とりあえずは対象から逸脱してしまうので単にミクロのランダムさからの縦的でいいか.
思いが一瞬にふと広がった結果、様々な趣向思考のすべては自己自身とするとなんという人材能力かと自分自身で今感じてしまった.自己自身の制御あぐね様を感じて.
アスペは思想が偏心しているとか、殉教性・的が思想だからそれにこだわるが、どう見ても常識より非常識に近いものだろう.ある線にこだわるとどうしても非常識度は高くなり、常識がおろそかになるのが、今日段階の人間質レベルであると思う.そこにも多種多様な目的意識・スケーリングがある加味が必要
ひろびろとしているのをわざわざ狭くしよう、狭いままにしようとは思わないということを意味している.
自己言及・自己分析・自己把握の内容を当人に述べても、その述べられた当人は理解力を麻痺させてしまい、一体誰に発言しているのかわからない情態になってしまう.自己把握している私は他人ではなく、実に心外事態ということで.この発言者たちの才能・潜在才能はろくなものではないといことになる
うじ・有時と世親の時というか空間粒子的流れ・違うか、関係の考察を集中する意識状態にない、あまり思考しないようにしようと最近考え出したせいか...
ホワイト空間の+次元・ブラック空間の+次元&B空間の+次元と思考はできるが、応用となると・・別に現在空間事実がそうなるが.
混沌・いわゆる人々の無知カルマ・てんやわんやの多様様々思考現象がまとまる帰結によって、真理は単純であるという昔の幸福(?)な日々の時間に際して、今日、無知カルマ・てんやわんや現象が真理単純帰結を抑えて浮上しているという、「弁証法」的にも似た考え方が閃いた.
公式的をハレしかないというわけでもないが、ハレ的にとるのが通常である.TV力はその意味で結構まだ力があるように思える.ただ複雑系はやや膾炙と思え、ミクロ現象が公式に食い込んでいるような現在ともいえそうで.
大正池を始めた見たときにもその世界の果てのようなあるいは仏教的な三途の川のような気もしないでもない、この世の果てのような枯れ木立ちを見て感じるのはなぜか、不朽とも異なるその場所固有の枯れ木達.
枯れ木に不朽を見たことがあるから、枯木灘が若干気になるのだが、このセピア系の時間の止まった画像イメージはなんだかさっぱりわからない.中学生の時に見た体育館の裏の山肌に一本の枯れ木があって、その黒影が下草を従えてあったのを見て不朽を感じた記憶は鮮やかな--少し緩和気味になってきたが
量子エンタングルメントからエンタングルメントでおしどり夫婦や一目惚れは説明できそうである.
法律を制定する側-導く形で作るか・必要だから作るか・面倒で規制してしまおうと法律に従う側の、依存・義務・面倒に対して、こんなことを想定できるだろう.あと自然発生的法律も双方においてありそうだ.
法律-依存して従う・義務だから従う・面倒だから従う--この形式のほかになにか?.法律作成者は遵守をまぬかれているつもりの気分にはなるだろうな.
今日ではニュートンの同期時間と不確定の非同期時間の戦いだそうだ・それはよくわかっている.依然として明確区別・明晰識別が現実には必要で、明らかにニュートン的空間の帰結論である.実際には非同期からすればそれは当たり前すぎることであって問題にならないとのだが、実際現実には問題である.
択一問題はまず定義でそののち定理が存在する、あるいはそれぞれ分離している.まずは定義であったか、定義であるならばそれにふさわしいXXがいたな.あの時も定義という有限性で迷った.迷うことはない好みの存在なのに・・.現実上、規約・規則では有限定義がそこら中に転がりすぎている.
今よく考えてみるとその一種はそうであることに気が付いた.すっかり忘れきっていたことがそのプレッシャーのころにありで、なんともはや全く何やかやで次元劣化になってしまうものだった.他人にはその失念がわかるような気配のあったこともなきにしもあらず・・
若かりし日々の思考についての解説で・その辺にあるほとんどの書物は解説を読めば十分だとしていた頃の自力的な思考だが、いまネットで数学関係などを見ると解説どころの話ではないと、才能的な面を感じるが、そうでない記憶もあって、その辺の絡まりでしばらくは時の推移が続きそうだ.
契機的意地を持って、別の次元的位相思考ができるのではないかと挑戦したが、猥雑な思考・混乱混雑を齎すばかりで実りなく、結局、ある消した記述に対しての解説ばかりする事態・現在になっている.それでもほんの僅かばかり進展はあるのが、充実感につながる形に.
ある人物に対して『人間は有限外オートマトンである』と余裕をもって昔に述べたことがある.中間存在にとってはそれも進歩ではあるのだが、先ほどの『人は有限外オートマトン以上である』と余裕なき実態現実的に述べねばならなかったかもと思いつく.それほど余裕ある対象ではなかったかな?
アルトーの器官なき身体は、今は空想上かもだが、未来予定変化である意識体人間想定によく似ている.身体の衝動性から逃れられるなら、確かに人は自由になれる.人は生きているだけで生理・物理の束縛を持っている、畢竟人々はそれが人間だからと述べるだろうが、現状持続性に基づいた意見である・・
中間存在を超えた暗い側に深淵が・明るい側にオープンスペースがあるのは普通で、絶対空間のどこまでも依存している場合に、その依存領域に無限を持ってくるというなんでもない普通のこととの齟齬が中間存在とに発生しすぎている.人は、有限外オートマトン以上のものでありたい・あるはNo.に
自然発生した(?)市場に対して、深淵の壁を構築した記憶があり、明らかに暗の方であるので、消えた・沈み込んだ歴史過程をこちらに持ってくるという、未来志向のみではなく、過去事実に対して考慮すると幾分か深淵領域に進めることができそうだと思いつくが、意味を持てるか.失敗データベースは?
あの去る昔にエポケーなんぞをする必要もないのに、おもむろに戯れた形で操作してしまって、想定上のデリダ的深みに直ぐに到達・考えてみればこれはNo.のケースの内容にできるではないか.深淵型の有限性を加味した形なんだが、ハイデッガーの根源に対しての作用はいまだ浮かばず.
ある作家がか月しか住んでいなかったアパートの移築話を見かけた.何やかやでこの作家恵まれているな、つまびらかにか月間に文学的価値があるという掘り起こしが周囲から成立するように.富士はクリスマス菓子であるという、ケ(褻)意識十分な演技なのかやけくそなのか個性なのか疑念はある・・・
そんな中で結局不快を残したまま一人は消えていることは確かで、納得せずのために訂正に行ったのだがその人物の連れの存在で雰囲気上止め戻り、他の人間たちは今頃どのように生きているのか不明、まあ全く記憶に残っていない形で生きているだろうが、こちらは不快な記憶を持っているので面白くはない.
多分に理解力ないので、その現時点理解力によって強引判断をしてきたという判断をしているが、あまりにも愚かしいその強引判断なので唖然としている記憶である.もっともその発言時間では理解できずで、親切対応をしてしまったのもまた愚かしい仕業なのだが、そんな愚昧意見を述べる設定にはなかった
そのような意見はトートロジーであってなんの意味もなく、そのうえ対象設定自体を間違えていて、個人的に不愉快なXXに同値化してくるのが不思議でしょうがない、他者XX・XYの意見は、その不愉快なXX言おうとして言わずに我慢した私的考えなのに、それらの意見はそのXXに言うべきである.
例えばユークリッド幾何学は世界のどの国へ行ってもユークリッド幾何学であるのように同様である.No.に関して.
天網恢恢疎にして漏らさず・をやや今知った「知天有道守」の意味合い的に解釈していたのだった.もう少し何かありそうだが寡聞にして知らず.その辺の意図や感触を『見えない目よ粗い目よ』とはNo.に表現してあるはず.知るところにして知る・知っている・理解できる・理解力があるなどとかで
限定合理性はその限定ゆえにそれを強調すると無駄な束縛になる可能性が高い、ところが限定ゆえに様々・多種多様な規定が可能となり、また事実はそのようになっている.この規定をかなり網羅してある全書があり、この網羅能力でも全てという合理性ではない.いわゆるその実務はやはり多様の限定部になる
構想文章自体を帰結文とするとその量は当然少ないが、完成しているとすることもできるなと考え付く.冗談で挫折で終止符を打った形に・実際には単なる休止符にすぎないのだが・したところその冗談的になってしまっているような事態だ.どうも本来から落ち込んだところでシステムを考えていた点もあるな
そうするとコーシー関係なのであって、冗談をせざるを得ないほど馬鹿馬鹿示しさ、名状し難い不快感というやつだ、他者XY達は何を勘違いしているのか主体疎外を強要したものだった.つまりドン・キホーテ的認識力を持っている愚かしさに気が付かない間抜XY達であるように考えるしかないと
プロスペクト理論にちょっと不分明な(頭が作用しないだけだが)疑問点が直感できて、もっとも参照文章に難点があるだけなのかも.単純には利己的それから生存本能による損得感情やもろもろもあるだろうが、思い浮かべず.
サルトルの実存とは本質や正義がないものとして設定だそうだ.サルトルの実存的な頭脳気味でまことに不都合な事態になっている気がしている.ここに分析哲学や帰納形式や行動経済学が加わり・・まさに複雑系現実的状態に対してのこのことヤスパース的人間観をあるXXにより、徐化してしまい不都合に.
なんかへんだな、先ほどのツイート、頭の冴えがなく説明表現不足で、違うな.ちょっと表現しにくいことを述べたか、相変わらず諦念XXがそのレベル束縛を行使しているような.大体諦念的存在は一生を未熟で終わるからつまらない.ハイデッガーは現存在は往々にして未完に終わると擁護の形だが.
No..弘法筆を選ばず、空海の書はどんな粗末な筆を用いても、評価高いハイレベルにある文字を書けるという意味で、どちらかというと技術的側面のこと、また値段の高い低い筆を選ぶのは空海の自由である.同様にソクラテスの無知は知的面において、評価高いハイレベルをクリアしている意味である
古典とする時間と空間とすると、古典にもならないものを持ち上げることになり、古典以下とする時間と空間と訂正する.
にもかかわらず**結合でうまく宇宙は人間処理・類続をさせているものである.この構造はなぜそのように示唆されているのだろう.そんな疑問を普通の人は考えず、快楽に飛び込みその束縛に酔うのが当たり前と思っている.
潜在意識で役に立つどころか足を引っ張る要件しか反応しないXXは価値がない判断して、その数のあまりの多さに価値あるXXに抵抗感を感じてしまうほどになっている.潜在的ということは未来の可能性のあるなきのことで、すでに時も結構すぎたのだが、その頃の不快さは忘れがたく.
Z軸のマイナスは深さで、必ずしもマイナスではない.Y軸の+は視野ドップラーとみる近づいてくると大きくなるとか、X軸は反対方向かな.時間のマイナスは歴史.
境界域での選択とそれにおける高揚感のようなものは、人間にとって普遍的に遭遇する生理時間帯であることは間違いない.現実に成立している社会の諸々に適合しようとして、あるいは未完成から新機軸の導入という、若者がと特筆することでもなく当たり前で、いかに生きるかは結構その後に影響力を持つ.
ABC予想の考え方は巻き込み性を発揮しているような、ヘリウム流動のように視点に壁が発生して、認識視点に乱れがある・・
どうも変だな、実証がうまくいかない.勇気は下等な表現としている故が原因であるようなので、これは勇気を用いないといけないようだ.ずっとそんな調子に慣れているので変化に対して、固着感を形成してしまったかな.勇気は身体的ばかりではなく精神的面もあるはずだ、ただやはり身体意識を要する.
+∞のみの世界はそのような視点設定では可能である.ニュートン空間的なものにも見える.+∞のみの世界の双対はないのか?.零が双対になる?-そうであるとしても零と無限遠を合わせた世界の双対のことで.
対象に不平等がないと多様が成立しない.空海の弘法筆を選ばずの技術力がすべての対象から獲得できるのなら、そのレベルで平等といえるかな.人間が生きているということ自体は平等だけれど、スケーリングは一様性をスケーリング対象全体としないと成立しない.
そうなると非常にいらだつ生き方になる.すでにある現実の圧力は強く変化はするのだが、それを予測しておかないことには始まらない.
他人の考えの引用・利用は自力ではない-そうなると、コモンローや成立している考え方とかは、排除しなければならなくなるが、それを伝統にしたがっている日本語で行うことは矛盾であるが、意図はそのようなことで、すでにある現実に関してはその知見を要しないという志向は成立してくるのが自力.
勉学さえすれば不平等はなくなるような書物を読んだことはないが、しかし勉強してもやはり不平等的な知力しか獲得できな恐れを急に思いついた.緩和される事は確かだろうが、また実際に平等的が成立しているケースのあることも考えることもできるな.
荒廃感情・砂漠的都会に群れる若き女性たちならイメージすることはできる.優雅の典型であるような吉行淳之介は別に--優雅などとはその知らない書物を提示した人物の時に思ったことだった.隣の家のゆずの木のある前の道を歩いている時に、雨が降ってきたので驟雨はその記憶を連想させたりしたな.
あるXXが今頃は諦念の自覚をする・しているだろうというのを待っていたという無駄すぎる意味なき日々、このXXに対して陋劣ルサンチマン(ルサンチマンはほぼすべて陋劣と思うが)や、潜在蒸し返しにしかならない思考内容が成立するのも、その与件なのである.
結局、未だにその出発点構想に依存する事態となっている.なればその時に出発点としてもよかったかなと今思った.空白の歴史時間が生じている中で..
法案提出権において、国会議員にも偏りをなくすための数値上の縛りがあるわけだ.国会議員の給与は国家公務員の最高額以上のものとする規定があると、いわゆる議員立法の数は成立数が少ない-などなど少しアルファに傾くと法律が全く浮上しすぎるのは?、ちなみに乞食は軽犯罪法に引っかかる.
確率から、相対的確実と相対的不確実があり、宗教的な・細胞的な全か無は確率なしの・を意味している.
不変性は特異で可換できないとすると非可換が生じる.特異点解消定理は葉巻のないのと同じような考え方があるような
ネイピア数eは特異点に見える視点を持つことができる.多様体を点にするのなら、持続時間を一瞬にすることは同様な考え方と思うが
しかしアインシュタインには感心するな、今では当たり前のように思うけれど、時間を遡って想定した場合、不明瞭時点でよく思いつけたものだと.これも類的史上必然時間の出来事と言ってしまえばではあるが、問題は発見と発明という哲学的意味合いなのである.
そんな人がアンノウンではいけないはずという思いはあるが、いかんせんそんな多少不条理的な不愉快な情況にありて、また持続して...他者の存在を考えると実際はそれではよくないはずなんだが、理不尽的に正当で、その自己オリジナルを他者たちに模倣されまくっているかな勘違い者たちの甘え・逃避?
自分自身で納得する自己純粋視点・意識を他者たちが妨害してくる.
そうこのてんやわんやは”自力ですよ”と言われた人物だが、その頃は、そんなことは当たり前で、たとえ女性といえどその対象にあり、その寄与力も排除せねばという志向で、しらけたアドバイスでしかないかった想い出がある.今でもその傾向はありな点が、不利益・類的圧力を受けているなとも考える点に
同値的だが異なっているものの区別をどこまで行っても明確にできないと悩んでいたところに、量子の不確定性原理のあるのを思いついた.ペンローズは考えたらしいが、プランク定数でNo.を使えることにとにかくとりあえず気が付いた.少なくとも現在これを用いてもいいはずである.
中間存在は積極的自由に必然的にだが、やはり大局的に宇宙旅行をしていないか?
時間の壁か、タイムトラベルは現状不可思議である何らかの妨げが生じるだろうという推測可能な体験・経験を持っている.この辺で他者たちも不快な言明をしてくる与件・要素があると擁護してもだ、とにかく過去に蒸し返しをしているのに現在だと思い込んでいた他者達によって、過去に戻される形も不快
多幸症はストレンジアトラクターで対処すべきだった思いが浮かぶ、ここでもミスか、まったくミスの連続は中間存在xxの制御の強いことを物語っている.それにしても思い出せなかったのはなぜなんだ.まったく自己判断が働いてもよい既視記憶があるのに・・・、時間の壁が成立するからかもと気が付く.
線形エントロピーにおいても境界ではポテンシャルは複雑挙動を行うか、減衰転化で変化するので、普通には後者判断的事態で処理してきた今までの時間があるが、アトラクタ変化自然ではダイナミックな事態が成立するので、人はより対処が要求される形になる.
いや線形時間の経過が現在的に複雑系を醸しているということだ
動物的だからそう相手にすることもないというほどには、現実は叙事的要素まだまだ強く、日本の歴史は抒情的に思えるのだが.よくある宇宙存在が人間は人類は排除すべき存在だ云々という映画は、人類はまだまだ叙事的存在であるという認識観点に立つものであるという判断.
詩編編はそんなに有名なのか?、読んでみたドラスティックな内容ではあるが、シンプルすぎる翻訳で確かに意図はわかるが、その時期のその時代ではそうで、今日に結びつけるには過程の解析云々が必要だ.詩情に怨念を表明する西洋事情はなんというか楽な・・叙事詩的で別に差支えないのか・・・
JUNET・許可なくT大とK大をある個人がある時期に接続という記述を見て、氷解したことがある.まったく・・fjなるものがあったな.
多幸症的な幸福感を予期して自己セーブしてしまったKの店.神楽坂は音楽の友ホールの先だったのか、行ったことがない.つまり山吹町の坂から神楽坂駅までというコースだった.神楽坂は駅周辺を指すと思っていた.昔の記憶なのに全く時間距離がない、絶対記憶に近い?、今その時間にいるという・・・
詩編・あの返り咲きの一木の花を見ながら、歩く道・JKを避けてしまってどうにもまずったその道で、詩編の塊など読んだらたまったものではない幸福感的な予感を覚えた道.また暗黒面というか自虐ではない擁護的な忍耐形成的な記憶のある道.きつさ故自己過小評価につながる考えをしてしまった道.
自己気に入りのツイートはほぼナンバー空間に属しているはずで、選別・分別して番号整理すると作品にはなるが・・判別が難しい.ノスタルジーはNo.あたりになりそうだ.白歴史はまずNo.にうまく適合させるとか.なんとなくなんとなくの時間に本当になってきたかな..
埃にまみれた土間の片隅に転がっている道具類の画を松屋の展覧会で見たことがある.なんかいいなと思うのはノスタルジーの感性だそうだ.遠くに小さい明るさの円の見える封建的と思われるシビアな暗黒空間色彩にも似て(この封建的な(?)心理で生きている人が実際に一人いることを知ったが、今は?)
結構XXたちは魅力あったではないか、一人は他人の母親であることははっきりしている、他のXXたちもそれに準じて生きているか消えているだろうな.男はつらいよではなく、男は困ってしまうよという気分.それぞれに自己の不都合の自覚や魅力の不自覚の齟齬が災いして.
ヨブよオリオンを動かせるのかがあるのに、永遠が太陽と番った海とはと思っていると、母音にオメガの黙示録色彩が登場するのでわからなくなる.まあ黙示録の模倣だろう.モーツアルトのレクイエムも黙示録の模倣、(そうなるとモーツアルトのレクイエムといったXXは考えてみれば・・有限ばかり目に)
詩を放棄したのち歳までランボーという個体は連続していたはずで、まったく他人などになっていたはずがない.あたかも他人のようであるとおもったのなら、無知という衝動的存在であったことになる.
ランボーの母音の色はいいが、永遠は太陽と*は恒星というほどのものではない.ましては私とは他人であるは不快でしょうがない(他人という存在意識事態自己の才能部であるはずで、そう考えないとすると、詩を放棄した私は他人であるということになるぞ).私とは私であるのは当然あるゆえに.
そんな芸術的位相は全くよく知っていて、ただしその結果は永遠でなければならないのが芸術である.これはNo.に関連している事柄.
Yの延べていたことは、対幻想的には一目ぼれ・オシドリ夫婦・生まれ変わってもこの人と一緒になるといった関係はまさに関係だろう.芸術家は持っている内部の必然意識を使わねばならない存在で、いわゆるYの思想レベルにはある.普通には深い感動という表現も用いるが、どうもこれでよさそうなんだが
普通に社会生活をしている人間ではカルマを除去していないはずで、不都合な面はその場合誰にでもあるはずなんだが、それはそれで人々の了解していることだろう.そうではなく無意味な無駄な空白の歴史も問題で、生きていること自体に意味があるとはしていても、心理的に空白の歴史はどうにも今はならず
”「関係」は主体の意識にとって絶対性として現れるなにものかであり、問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物ではありえない。”普通に考えると、動物は”問責や謝罪や負い目や疚しさの相関物”には関与しない.そうとも言い切れないことも最近は考慮しているが、ならば関係は普通には動物的なものになる
ダークマター表現を圧力素・圧子・圧素とか名づけるとフィットするように見える.
Yo-Yo Ma: Tcaikovsky "Andante Cantabile"はやはりトラークルの詩のように、落ち着き、セロトニンたっぷりである.他の演奏者では出せない.カザルス物は聴いたことがない..そう瞑想によいのである.
スターウォーズには暗黒面という考え方がある.暗黒面でなければ光明面が普通で、市場原理を考えていた時にその先という形で暗黒面・深淵に思考がどうしてももって行けなかった.暗黒と光明は漱石の明暗を出すまでもなく、人々十分認識済みの事柄.昔は深淵を散歩できたのに..
一度ツイートチェックされて矛盾点をしてきた人物がいたな.自我を超自我が見た時かその逆化か、超越論的相互対象記憶者の認識頭脳(劣的と想える)をなんらかの自然意識で用いてしまったものだったろうと弁明してみる.
対自対他・二項対立・視点の自由は自在だからといってそうも言っていられないツイートに対する矛盾的の指摘を受ける場合.悟性的だったとか超自我と自我の錯綜情態だったとか・・はまずしないはずだけれど一度指摘があったな. 03312016