2019-05-28

my fv 01.23.2019

"後悔しないとね"と言ったxxがいた.意味がわからない、後悔するようなxxは嫌で無視したい存在だけれど…好みの女性が嫌な事を述べる嫌なxxが誤解をして接近するいずれも嫌なものだ.


   
   






 

マキャベリストにとって情況を決定するのは現実であるはずである.現実が情況を決定するとなると情況も現実であるので、現実が現実を決定するとなる.



         






 

男の主体をダメにして快感を得る--とにかくゲーテ曰く悪魔は諦めろと囁くから、主体をダメにしたがるのは諦めの誘いに繋がり悪魔のようなものだと言える.実際悪魔のようにしつこいxxと思った存在がいた.石女かと思える教条感xxに呪われているかも、他者xyがxxがこのxxと無謀にも誤解勘違いをして


   
   





 

最大値の原理--歴史事実からは横のn-は縦であると見れるけれど.但し法の支配が成立していないとして、法の支配が成立すれば未然形がn-になる.横つまりモラルに対して権力志向が啓蒙をするのはおかしいのであるが、そうしたがる縦型は矛盾している.この辺に詭弁や陰謀とか出てくると考える



         






 

あと科学の帰納は未然を予定しているので、そこから疑似科学として詭弁や陰謀的な偽満性も登場するかな…


   
   






 

不条理を盲信ではなく合理的に考えた人物はいないと解釈すると関係は論理的に合理的超不条理の事になる.単に無神論からくる超不条理を不条理を超えた理性を関係としたのだろう.そこでは盲信は欺瞞か偽満か虚偽かに思われるだろうと推定できる.



         






 

条作成時のエピソードの死中に活は法の支配に依存するを予定するに期待するの意味合いと解釈した.まさかの法の支配を念頭にとは考えなかったな.しかし今までの歴史の流れからは権力の装置に向かってしまう.墨家の消滅やバチカンの成立とかの例のように.



         






 

政府無き経済無き世界は理想的な法の支配的と思えるけれど、それには世界の人々は全て聖人であるが悟った人間のみで無いと成立しないだろう.


   
   






 

諸行無常の消極的自由が通底しているのに積極的自由に日々直面しなければならないの事態か.あるエピソードの社会では決断の連続であるは行動論的か現象学的な実証だけの意見のようでもある.


   
   





 

空間が曲がるのなら時間も曲がる.空間が曲がるのはわかるけれど、時間が曲がるは盲点だった.時間重力か時間ダークもある事になりそうだ.


   
   





 

RNAはNAより先にできた?.利己的な遺伝子は遺伝子は利己的に束縛されるされていると見えるという事?.もし心身症が確実ならミームはあり得る可能性があるが、子は親を裏切る超克して進んでいく姿勢のケースは遺伝子にプログラムされている?、そうではなく子は親と協調する場合のプログラムは?


   
   





 

思考外にあった散逸構造論と利己的な遺伝子が視野に入ってきたなはいつだったかな.以前であるけれど昔ではないな、利己的と散逸性の関係はどうなのかなぁ.利己的な遺伝子はエントロピー因子とか


   
   





 

神の決定則はエントロピーと考えてしまう.決定の先にあるものはエントロピー変化性になる.利己的な遺伝子も自然淘汰もエントロピー変化に即しているはずになる.ダークマターはエントロピーを保証する可能性があるかとか色々アイデア出してみる.


   
   





 

仮想アイデアは経験則か科学的証明を必要とするけれど、詭弁意識者には科学的証明は不快なものとなりそう.詭弁や虚偽等論理不当は盲信への可能性または盲信の保証に支えられている盲信の劣化因子ではないか.わかりずらい反証可能性は例えば盲信に対しての位相なのか、また反証は何処から、弁証法故に?



         






 

狂信は思想に関与しているな


   
   






 

表参道のシャネルに行って例の所に行く予定の店は東急プラザだった.何かエントランスのTVシーンを見て行って見ようと思って.スターバックスは客が一杯だったけれど、川越は特別で別にスターバックスに行こうとは思わないな.木造風な階差テラスにかかっていた曲が酔えるトロピカル幻想感覚で良かった


   
   





 

いざ記憶を辿ろうとすると何とも不快に思い出せない心情になる.どこか愚かな但し自然だからのxxにより乱れているかも.しかしその自然はこちらには別に自然ではなくこちらの自然を乱すことが多いので、こちらの自然を認めずまるで権力の横暴のようなxxの自然生理意識に多く遭遇し過ぎている



         






 

特に叙事的xx達はその固有性が権力思考なのでもう処置無しは前提になっているが、にもかかわらず押し売りの記憶が悩ます.その心理は未発達であるとまた一生足りない可能性高いと思っていてである.


   
   






 

叙事的又はA的優位なxxは今では一杯いる事を思っている.このような存在にとっては母性がわからないという表現を見た事を考えるとそれはあると見るのは単純自然な直感である.全くxxは全てG期存在と思っていた昔から不快な存在が登場してきて、そう今では観察してA期性優位が多いのはわかっている.


   
   





 

次元を手に負えないと考えた昔を良く思い出してみると、領域があってそこの片側というか次元の底に当たるまで体積を剥ぎ取るたか考えたはずで、その領域の次元である現実のこちら側は残したままにだったな.剥ぎ取るのとポテンシャルのリダクション操作は似た形のような



         






 

そもそも次元などとは大仰なと思い馬鹿げた考えだとその導出方法を知らぬままに思って…今次元が虚数に消える形を取っているとしり、それならなんとなく次元もあるかなとは思った.



         






 

帰り道の崖の崩れの地層色の変化部分から、層状を人間に当てはめた小学生の時から、ネットの階層を何となく想定気味だったけれど、これも今物理サイズの階層考えを知り、そんな事は当然に考えていたのに全体が見えずこちらの物理からを層状組織に当てはめるのが趣味に合うとすると


   
   






 

昔黒い場の中により黒い場がありその中に水平的に天の川的写真に似た形の領域の線を浮かべた裏の家の階.これはかなり確実に言えるシビアな映像と思ったのにこの意味は何かいまだにわからない.インスタントンではないかとした無明の時でもそれと違いアクシオンの凝集でもなさそうな凝集だけれど


   
   





 

A期を尊重するためには位相をO期付近に持っていかないとならず、G期をO期に実際に冗談的に内的声に沿って行う羽目になった実際は過去xxと認識していたけれど気がつかなかったxxでするはめになり、理不尽な蒸し返しか再度の人生=生存過程を送るとかありえない現実遊びに直面している記憶はある.



         






 

これの正当な解決方法はA期xxがG期に進む事を促進する事であるけれど、一生G期に進めない不可能な存在の現実感が確定的にある.それでそんな存在を生まない事と言ってしまうのである.G→O
は不快な無駄で不自由な屈辱感もある故に.



         






 

甘えからそんなOとしての演技をするケースのあるxyがいる話は事実だろうとは思うけれど、昔はxxが科学は子供なのよと聞いた話なのに帰納的性xxの多さは何とするか


   
   






 

とにかく叙事的存在は蒸し返しを行使してきて知力を劣化させる存在が出てくる.端的には叙事的存在はそもそも単細胞的に見え現行ロボット的に見えるので、そんな時存在に取り憑かれると頭は麻痺して考えられなくなる経験多いことからそう思う.



         






 

反知性主義とか愚民とか何となくわかるけれと、歴史的には権力が-その多くはA期が誘う-幅を利かすようになるのはG期のマイナス次元の位相であるA期は最大値の原理に従っている故かなとしか今のところ考えられない.


   
   






 

地平線のドーリアを思い出し、ドーリアというと女性の名前の響きがしてロマンがあるなと思っていたけれど、ギリシャ旋法ではなくきようかいせんぼうから取ったようである.古代ギリシャ人やジェノバの貴族名や料理の名前などが登場.旋法に関しての知識知らずわからないけれど、ムードがなくなって来た


   
   





 

ミルナーで地平線というか水平線というかエビラの接続的かなを考えて結構いいかなから地平線のドーリアを思い出したのだけれど、ミルナーからの地平はまだ早計かも知れない.まあまあはあるかな…ノヴェンバーステップスは感性が他者だったように聴いた記憶がある.汚れた濁った神聖メロディーだったので


   
   





 

自滅者の押し売りの犠牲になっている感がある間主観性の面白くなさ.自分を気にしないとまずい事になるのに、逆を当然の如くに行うxx達はそれを許可していないのに自然とかいう暴力的な所作を行うけれど、こちら側には不自然な事であるの認識がないという不快さがあるのである.


   
   





 

日本がおかしい?、別におかしくはないだろう.それは正規分布的思考者達が立ちいかなくなるだけの状況の境界時間に日本が位置している話なのである.正規分布思考は当たり前で専らではなくそれの比重が下がっている複雑系化の時代という事であるだろうに.個人的には昔からそうで漸くそうなったかである


   
   





 

去年の大晦日近くに遂に貨幣の存在理由的なものを考えついて、数多ある経済理論にいずれぼちぼちと適用して見ようと思っている.


   
   





 

昔にもう混沌を想起するのは嫌だとは思った事はあるとは言うものの、マイナス整数域は混沌的とグリーン式のように無限遠で収束するとは繰り込み式に有用な平行線の交わり関連となるけれど、無限遠カオスも想定していて


   
   






 

カオス哲学はハイデッガーの原点の先と同じかな、原点の脱構築かも.ハイデッガーの未完の箇所の構想を知らないのと頭が動かず判断できない.万骨が枯れるようにカオスから判断の数多で真理に到達するのは正規分布的にはいいとして、この混沌自体を複雑系として展開するとしか対象を想定でき得ず



         






 

理解不明なわからぬはずはないものと思える対象はどうやら独断断定または偏見閉鎖に気がつかないか誘う世界の狭さを強調している可能性が高い.勿論明瞭に解けない問題は明瞭に過去とならない将来にある.


   
   






 

高名な人物が死去したそうだけれど、最近学問に関して文献が無いと太刀打ちできない様相らしいので、古代史とはいえそれも文献にタッチ可能なところまでだろうと.ただ視点のユニークさとかはそれでも持てるか.アニミズムも当然文献史料の時間からでしかない筈で、考古者はともかく縄文論を知らない


   
   






 

もう覚えていないACだけれど、先程"ブラックスワンを発見した"のツイート部分を見て発見とは違うのでは無いか、単に複雑系または非線形現象の事と思っていてので、別に発見では無く壮大な詐欺のベルカーブ=正規分布というやや極端を申したのでタレブはACを避けてのでは無いか.



         






 

単に非線形ならブラックスワンはそこにあると思うので.ちなみに正規分布は当たり前過ぎてと昔から思っていて、もうその思惟形式がなんだかわからななくなっているけれど.


   
   






 

京都の街での乱舞シーンのひとつひとつのひとつで正規分布思考を内蔵している形かも知れない."正規分布は地球に特有現象で宇宙はそうでは無い"とした文章に昔に接して良く記憶している.ブラックスワンはこの宇宙はそうではないの中に入る現象と捉えているので別にタレブの発見ではないだろう.



         






 

"ブラックスワンは科学哲学に衝撃を与えた"なる文章に接したけれど、そうなのか.科学に哲学とは考え難いけれど、そんな科学哲学はくだらないと視点を持つ事ができるな…



         






 

中学生の時にrtyのthの発音で苦い不快な思い出があり、最近ネイティブでも発音は難しいらしくthはそのうちに廃れる可能性があるとか知る


   
   





 

無風の厚い曇り空に太陽が鈍く透過してのこの温かみに包まれた冬の太陽が好みで、論理哲学論考が冬の太陽と言われるけれどこのイメージの冬の太陽とは異なるかな.そもそもTLPな冬の太陽のイメージは別段ない.


   
   





 

それにしても逆というかもはや既に模倣するしか能が無い無知存在に間主観性を使われて逆認識されると乗っ取り的で、そんな存在の逆になっても無知である存在の押し売りを受けるという馬鹿げた現象に付き合う形で、こんな存在達を排除しようにもバイタリティありしつこく無知を行うので疲れるものだ.



         






 

xx一般は乗っ取り的存在に見えないこともなく、また主体の阻害疎外を強要する馬鹿げた存在が登場かと無駄をまたしないと思う事に辟易はしている.畢竟xx一般は無自覚な卑劣性を行使する事に気がつかないかな.


   
   






 

嫌悪存在生理体質者に押し売りを受けてつまらない主体疎外を今も要らぬというのにしつこく受けている.宿命が嫌いなのにそんな宿命的権力志向存在などどうにもならん叙事的縦型人間で、無機的で味気ない思考しかできずのつまらんマンネリを当人達は無知故に自覚しないかしてもその劣性から欺瞞をしがち



         






 

またはそのタナトス志向を他者に押し付ける圧迫か、自らの資質に気がつかないか誤魔化しているか.元々そんな資質なら自ら別に自己責任を取ればとは思うと考えれば良いのか


   
   






 

創世記章節からヒント得てそうするとそうなるとかくかくしかじかと考えること思いついた事ありて


   
   





 

eloquenでtiaはつかないな.どこで間違えたかnemoはいいとしてparでは意味がつながらずその時何を考えていたのかわからなくなる.inSBulaは良いとしてpulcher etだったのかな.概観として美しい島国を表すのにで、瑞穂ばかりではなく自然の山々も入れて何だけれど、それで豊葦原は妥協的な気分だったかな


   
   






 

"誤差作用素と保存量の間の不確定性関係から一般測定相互作用の誤差の下限が得られることを示した."プローブの存在を考えずに想像しただけなのと、不確定性は全く考えずのつのものの区別に悩みどうしてもうまくいかないとしたまま…下限とは確かに不確定ならばはあるなそれと保存則か


   
   





 

彼女たちに遭遇したのは偶然が必然的な事態で奇跡的なんだけれど、だがしかし…この解析根拠を納得できるように説明する機会が訪れるかどうか



         






 

実存は本質に先立つ-世界が先にあると矛盾に対して孤独の自己思索は実存かなとも思えるけれど、本質から見ると実存は地獄的な混沌に見える蒸し返し的なもの.ではその本質はどうなのかとなると秘匿にあるが記憶にあらず.構造主義とか歴史の話中で本題への前提条件なのか


   
   





 

"今と言った時今はない"名言だなと思ったのはポスト構造なのか.差延か人々は差分的だからなと簡易な直感の頃は脱的な位相も持っていた.経験上幽霊の概念は時間的差異にあると認識してあるから、霊がそこにあるにも結びつきそうなんだけれど.


   
   





 

ローカルの重なりがあって良いは多世界的解釈になる.全体を見渡しても神の視点を持つことはできないはハイデッガーの現存在地平線に戻ると同様なので、解釈の視点として新実在なのか.ハイデッガーの原点を昔に設けたはいいけれど何十年経っても何にもアイデアが浮かばずただモデル対象を考えた事はある


   
   





 

昔はエビデンスとマニフェストのどちらを取って明白の意味合いとするか迷った事がある.語感からマニフェストにしたのだったかまたは使い分けの意識だったようなで、最近エビデンスの言葉を見て現実に使われているのかと、マニフェストも政党の公約で使われているけれど.意味上からエビデントにしたかな


   
   





 

社会が根拠無き共同幻想と見るならば冗談や虚偽無理解誤解が現実とはなり得るな.実際にはそうなって困っている.鏡像段階の自己おざなりの互いの反映ばかり社会でもそうなるので誠につまらないものだ.



         






 

幽霊は死者に関係しているように人々は見るけれど、過去の死者から見ればその後の現実に生きている存在は幽霊のように見えるだろう.


   
   





 

皇帝教信者を考えれるケースにおいて複数の皇帝存在からシステム的とすると、宗教の教祖もひとりのみのあるべき皇帝教の皇帝位相になっている敷衍を浮かべてみる


   
   





 

"自然的存在ばかりではなく人間的存在である"の場合叙情感を想定できるのだけれど、唯物と言い出すとどう見ても唯物は無機的で自然的存在ではあるが、非人間的存在と思えてくる.


   
   





 

阿弥陀は解脱を助けるもので六道の誰でも可能とするとまた個的六道を除去できるものの位置あるもので、実在性はとは思う.そう思えば宗教一般は非実在性があるけれど翻ってそれも人が考えた事なのである.



         






 

仏教の無始無終は諸行無常より強いな.諸行無常はバンのみに生きる欲望の生理感覚から見た視点の要素強いように見える.虚無は物理視点から見た場合かな


   
   






 

多様性が分離公理的にあると不愉快さはほぼ無くなるのではとは思うけれど.しかし好み存在が分離的ではあまり面白い事ではないな、普通分離的にはならないか.しかし嫌悪存在が分離的にならずの多様感はどうにも無駄ばかりで意味を無くすような形になりアドラーの自己満足感を阻害してくるので頂けない


   
   





 

叙事的存在と権威者のひとつの側面と権力志向者と権力者存在には、自己の叙情感が無いために、叙情他者達の叙情感を考慮する事ができず無視する見解しか持っていないとおおよそは考えることができる.で叙情者は不愉快な理不尽で憤慨する事になる


   
   





 

バッハは線描のフェルミ的かなと思いつき、ノヴェンバーステップスもフェルミ的な画像曲線イメージがある.揺らぐフェルミ線複数はレイノルズを超えると現れる山荘のもみの木の詩的木立の趣にて思う兜町勤めの女性達と会った夏の日の独りの部屋


   
   





 

最近話に聞く引きこもりの若者も良く引きこもっていられるなと思うような次第で、その心理解析困難.集団圧力は引きこもり要素の一つにもなるような気もする、むしろ第原因かもと思いついたけれど


   
   






 

シーケンス連続の切断もしくは離散の繰り返しに矛盾が入る空間時間性がある


   
   





 

マルクスは論理的には整合性があるかなと思っていたけれど、色気がないと思ったので多少齟齬のある関係がありそうになった昔の事がある.色気というか感情というか倫理であるという事か


   
   





 

まああるがままは塞翁が馬よりエントロピーに乗った森羅万象気分だろうけれど、ここで胡蝶夢を描くとボートを漕ぐので、捉え方に差異を設けないとは想う.


   
   





 

ともかくある人物昔に述べた事に対して他の意味がある事を知らず.知ってから暫くして漸くその述べた事に対しての応用ができたので、問題となっている社会現象が緩和傾向になる筈とは確信している.その点での他者を変えよう意識はあるけれど、個的他者への心理は保留だった…


   
   





 

他人の心理を操ると思える心理学を認めたくはないとした昔の意図が、他者の模倣による無理解な逆による主体歪めを不快に思うのと他者は操りたくないと思う心性の逆を弁証法対立的に面白がって快感としてしたかったのかもしたがるのかも知れないので、これは他者の心理を操らざるを得ないか……


   
   





 

過剰な無意味を擁護した事・その時になぜ過剰な曲解無理解をするのかわからなかった事また対象が愚かしい存在で主体を歪める歪めたがるとは信じられなかった事や他がある.周囲すべてのxx&xyがそうで多大な無理解圧力に囲まれている感覚があり主体の諦めを要請しているきらいがある.



         






 

何故自己偽造して他者の主体を横取りのような所為をして気づかないのかまたは意図的なのかまたは矜持がないのかまたはその矜持自体偏見を持っているのか、こちらが模倣しているたか述べたxxや曲解した無茶苦茶xxはいつのまにか消えたな.自己把握は他者を歪める事によっては成立しないのでは?



         






 

なんらかの権威権力意識の征服意識で無駄に劣化を要求したする恥知らずまたはみっともない恥さらし達のように見えるけれど.往生際の悪いくだらない価値引き出しのできない才能存在達の逆が自己だと思う不自然な反自然は自然が認めない筈なんだけれど、それに気づかないまま消えた人物もいるかな…


   
   






 

バブみとはさっぱりわからぬ.なんとそういう意味か、やり手の中年男がバブみオギャるをしたがるという話は聞いたことがあるその情態はオーラルなんだけれど、A期である存在に謙虚な態度を示すまたは横暴な権力圧力パワーでO期などをせねばの形を受けるのは理不尽以外のなにものでもなく



         






 

やはりA期の生理質を変えるべきかA期までしか行けない一生者も疲れて話もできかねるのでかなり困難なことだけれど発生に問題意識を考える.思いつくのはライ麦の崖物語もまたやや理不尽なのを考えつく.それに続いて越後の僧侶も浮かぶ/


   
   






 

実質を意図してくるだけれど、それは君の意見ではなく私の内部実質なんだけれどと言わなくても当たり前すぎると思ってそのままだと勘違いされたままになる.異様に変な人々がいるものだ.私とは他人ではないである.特にわけのわからん感性生理のタナトスフェルミ型の自己勘違い押し売りには閉口する



         






 

錬金術を否定しきれないと思った小学生の時を思えばユングは意味があるかな."空想的想像力ではなく真の想像力によって"の文言はそうであるとは思っている.


   
   





 

ところがそう限定志向を行う存在達の内実にはろくなものがないという不公平さがあるのが不快になるのだった.とにかく潜在化の可能性を評価しようにも無意味な不利益ばかり考えさせるxxやxyに遭遇した結果が今に不快ツイートとなっている


   
   






 

⁈単にミルグラムではなく積極的ミルグラムとかもあるのかなと考えさせるフラクタル感時間も加担してパーコレーションを想定したかな


   
   





 

ミネルバの梟に邪魔になる帰納の現実だけれど、出した結論は暫定的なものでまさに未決定の無責任さを示しているかのよう.しかしミネルバの梟性も個々人を考慮すれば個人差はあり中間存在梟の場合もあるので中途半端な未決定性未完成を持ち、切羽詰まると暴言を発揮せざるを得なくなるという経験がある


   
   





 

朝長振一郎の超多時間はどんなのかが必要になりパスしてきたけれど…教育大の朝長振一郎のイメージがあり、今し写真を見て頭いい人相をしていると思った.作用が光速以上で伝わらないはハッとや無限小まで行かないのではないかから接続示唆はあるけれど、ランダウの批判重力場はどうなっているのかな



         






 

塞翁が馬は具体的実践で諸行無常は帰納の未決定性をマスターしたものと解釈できるのだけれど、元の仏教の色即是空空即是色や輪廻転生と『万物は流転するはある意味において』とした時の何を考えたのか分からん昔があり、結びつけようにも頭動かずのその辺.



         






 

拗らせると言えば共同幻想論を傍に抱えて現れた女子大生にも参ってしまう記憶がある.連関したあるしつこいどうでもいいxxの意図外れの他者対自を即自と思い込んだような意味なき発言も意味なきに気がつかずまるで悪魔のようにしつこいと思えばそうなりて、拗れた女子大生の記憶も今では悪魔的かなと


   
   





 

それにしてもその発語発言は意味がないという事に気がつかない不快な存在が多いもので.無駄を構築している蒸し返しに過ぎない事に気がつかないか、過剰に疲弊を齎す非建設的な意味無い人にとっては明らかに損失でしかない非建設的要請を投射してきたかのような愚劣な不快達としか言いようがない気分


   
   






 

代々木体育館と言えばなんだかその近くでmリレーの遠望を、代々木ではなく東京体育館だったようで、代々木体育館は知らない.それより、東京カテドラル関口教会は昔何回も散歩に出かけて、パイプオルガンの練習中をひとりで聞いたりしていた丹下健三設計か、デザインセンスは全く見当つかずだった.


   
   





 

生け花・盆栽・庭園と流れる繋がるけれど、盆栽・庭園でこれはと思うもののはないかな.生け花もいいなと思うはあるけれど、儚美の瞬間的が念頭にありそれだけのものとなってしまう.ただし植物の有機継続となるとまた違うけれど.プラントハンター感もあり崑崙のメドゥーサもカシミールの花も見たいが


   
   





 

"花のある有能で美しい女性"の表現は職場では気持ち悪い表現なのか⁈.自然にそう思う心性を不自然に歪める必要はないと思うけれど、気持ち悪いものは気持ち悪く苦痛な忍耐を強制されても疲れてしょうがない思いはあるので、恐らく欲望視点からポリコレ感覚何だろうなと推定する.


   
         






 

何しろ民法規定のxxとxyはひとりだけで、なぜそのひとりを選別選定できたのかとは思う美を美と見せず気待ち悪いものを気持ち悪いと見せない方向の人たちにとっては区別しているのだけれど-もう少し強いと差別で選ぶ事が出来ないことになるのだが.


   
   






 

なぜそんな存在がいるんだで前提になく、またハイネなど読める生理特質のxxではなく誠にエロイカも奏でられないタナトス的存在では無機体が消えるまで通底するだけで無機物が待っているだけのつまらなさすぎる楽しさのない存在でもある



         






 

深淵もまた余帰納を覗く


   
   





 

中学生の時に書物の感想文を描くという命題を聞いて、感想文を書くとは何のことかとても書けそうにないと思ったけれど、随筆的になら書けそうだとは思ったな.今ツイートで感想的な表現が多いなと以前をチェックしながら、しかし離散的随筆の方があっているなとも想う.


   
   





 

人の究極知はまだ不明でAIが勝つようだと判明するか?.またソビエトなど現実が国家&経済無き社会を追いかけた形の歴史があるのだけれど


   
   






 

ヘーゲルの梟だけれど、絶対知は究極知極限知とするとミネルバの梟は過去に飛び立っている.またマルクスの経済&国家無きも梟は過去に飛び立っている.多く理想は現実より先に立つので、現実を捉えた時に既に現実は先に進んでいるのは序文には当てはまるけれど、絶対知には当てはまらないと考えてみた



         






 

覆水時間生理に返らず-濃密な苦悩時間も生理時間経過には返らずが実感だろう.


   
   





 

まずかったかないややはりまずかったようなだけれど気がついたのでその点はかなりまたは非常に?良かったけれどその間のこぼれた時間自体は元には戻らない不可逆性がある.心理的に経過時間の苦悩苦労は一挙に報われたはあるけれど、物理時間自体は冷酷に経過している生理感はあるのである.


   
   






 

ある時ある人物に猿の腰掛けと述べたことがある.最近に猿の腰掛けの幾何図を見たことがあり、少し意味合いが一方的だったかも知れないと気がついた事には意味があるはずだ.



         






 

哲学的支配の知性のよるものの他に宗教的支配というものもある事になる.


   
   






 

不老不死の薬を求めたとされる皇帝は有限の生理体継続に逆らった意識を持っていたことになる.あと宗教の創始者の教義も有限生理体継続的ではなくほぼ不変的性である.伝統もややその傾向はあるな.これらは個人の生理有限継続時間を無視した時間設定的なもので、そんな個人時間一般が無いと成立しないが



         






 

遺伝子操作による双子の話もここに絡んで来そうな


   
   






 

宇宙の摂理、人間の有機営み最も有機物一般はそうだけれど、有限の生理を繰り返していくことに対して何ら考えない人は甲斐性を持って子を鎹にしている.それが当然自然の周りも世界もそうで義務的だから何ら迷うことは無いと判断しているかのように.まあ考えてもそうする人もいるか…



         






 

まさか関係は脊髄反射の事では無いだろうな.脊髄反射が情況を決定する事は多いにあり得るし、矛盾が解けなくてヤケクソで脊髄反射に任せると思った可能性も最大値の原理を海馬に与えるとするとn-的にあるな.てんやわんやならありそうな可能性は高いが


   
   





 

やはり宗教の問責など脊髄反射には感じられず痛くもかゆくもないのではないか.確かに人はそこに存在しているだけで脊髄反射を持ってはいて、捨てる時間にはなっていないかな.それにしてもまさかとは思うけれど、理屈は成立する脊髄反射位相.思考しないことは考えられないのでほんと信じ難いけれど…



         






 

twistやperverseとかだけれど、他自覚はagainstやcontrary natureで倒錯弁証法とも.しかし世の中には不自然を自然と認知している存在もいて、自然を不自然と思い込む変な経験があるな.非常に不愉快な存在でもあるが.観念を生理的にperverseとして生理的認識してしまう変なのもいて、誠に厄介ではある.


   
   





 

ある昔のxに『時流に乗った気楽な遊旅行』の表現をしてあったのを思い出した.意図はなんだったか思い出せない今だけれど、そのxによる判断を一応はしている.なんだか見知らぬ他者もしているようなことがあり、少し注意をしているけれど.人々はそのxの内容を知らない知るはずないのに……


   
   






 

積極的自由でなんらかの制約倫理に基づく目的意識がある場合には、罪とか反省とか他者を無視または利用の形を持つかな.普通には消極的自由を思想識者達は優位に持つものなんだけれど.例えば叙事的思考者は積極的自由存在傾向明らかで、反省など無し若さもいいけれど、それ自体存在価値的には低い観点が


   
   





 

ムンクの叫びである作家の幼少の頃だったかな、黒雲が湧いてきての文章を見た事を思い出した.虚無の絶望感明瞭と思うけれど、ムンクのばあいは神経質的な実存の影だろうなので虚無手前かな.確かに背景に黒影があるのをいつの頃か知ったか記憶に無いけれど.その作家に同調しても意味はなく疲れるだけで


   
   





 

ロックに革命許容があったのは知らなかった.市民的不服従は非暴力ではある.抵抗権が自然ならば不快な記憶にある理不尽へ抵抗すべきだったわけとなるけれど、そんな理不尽を行う存在達とは全く思っていず、前提になく理解力ある存在達と設定していたため、許容できないが抵抗もせずだったのを今に修正を


   
   





 

マナを食べれば死ぬまで病気をしない事を保証できるものだったけれど


   
   





 

本居宣長・平田篤胤は日本はどこの国よりも優秀と設定していたのか、知らなかった.独自性志向を出すとそのようになるかも.幽冥界が離れた場所にあるのではなく、現世に遍在している考え方は驚きの霊論.御民から問題の英霊化が出てくるのかな.問題は一様と度合論の差になるのか.



         






 

模倣とか逆に気がつかない不快な存在達表現を他自覚の言葉で表現する事を思いついた.全く他自覚に気がつかない無自覚者達でそもそもの汝達自身の固有は模倣する事にあるのか、分からんてんやわんやのミルグラム無責任スノッブなのかも知れぬ.個人的に他自覚には余計なお世話と無自覚の愚劣さを感じる.


   
   





 

ハイデッガーは一般人とは言わないで現存在一般はほとんど未完の中途半端に終わると述べているのが壁で、未完完成で壁を超えられたかどうかはどうかに関しては、否定的な思考限界を持っていたと言える


   
   






 

一般人は自由を好まないんだは確かドストエフスキーの兄弟の中の話で、あるところで大審問官はそれらの人々の犠牲になっているんだを読み、この犠牲意識が確かならこれはノブリスオブリージュ要素あるなと思っている.一般人を中間存在とすると自由がわからない事になり、てんやわんやであることになる



         






 

感主観→間主観だけれど、ミスった感主観も使えるな.その間主観性により云々は現象学なはずで、現象学はまあスノッブ的と思っていてタッチしなかったからな.間主観性の顕著な例は恋愛中の男女で、別に哲学的に分析してもしらけるだけと思う.



         






 

未来へ依存した現在のミルグラム無責任所為はあるのか?.短期的利益による長期的視点の欠如の言葉を見て、ラプス時間は長期的視点だったと我田引水可能でもあると思いつく.


   
   





 

極端に言って良ければ日本陣社会は間主観性を皆マスターしている…かな.まあそうでないミクロケースも多くあるのは否めない個々人固有性の差異多様感はある事はある.外国生活をしたことないので差異多様に対する発言優位社会はよくわからないとこらがある.



         






 

ハードボイルド神聖型タイプの実在を思いつく.


   
   





 

女性は男性の主体を蔑ろにするのが快感であると昔の外国人の箴言を見たことあるけれど、それを受けると頭がおかしくなり対自観が乱れてくるので、過少要求のパワハラとほぼ明らかと思う.そんなxxもまた多いと思うので、女性権利も裏腹の面があるかな.主体を蔑ろにするとやはり蔑ろの報復があるのでは



         






 

まあ記憶に残っている不快はxxに限らずxyもで、一言で言えばパワハラというやつで、当然モラハラも含んでいるもので、その不快の除去志向が強いツイートの数々は現在様心理傾向でもある事になるなと考えつく


   
   






 

縮退・人間だから開放縮退あるか、いわゆる過飽和というやつとか超臨界とか、固有値は孤独の単体位相でしょうがない先天だけれど押し付けて貰っても困るな.どうも無自覚単体者にしか合わなかった記憶があるが、最近ズレたクーパーではなくみえるカップルを見た事がある.弁証法を励起としているのかな


   
   





 

象徴儀式と考えられなくはない.天皇家独自のもの的と考えたことはあるけれど、象徴性が欠けるかと今思いつく.そもそも現人神の時間が特異的でそれでも権力的ではなく権威的だったようなだけれど、昔から権力的容貌のあった時もあったかもだけれど、権威的存在として通底しているのではないか.



         






 

どうもそれで図太いやや発育遅滞xxを思い出す.なんとも疲れすぎるきあくがあり、名状しがたい不快に冗談から味わい、そのような状況に何度も直面しているが、麻痺ゆえにしかと認知できない愚劣感が多すぎる事態を味わう羽目に.やはり過去xxが不都合すぎる示唆を齎し、無自覚な棚上げの妨害者が勘違いを


   
   






 

加害されないケニヤの町は国の事情もあると思うけれど、嫌なxxが何を勘違いするのかより絡んでくるのには閉口する.逆に好みのxxが無駄に距離を置く発語にも閉口するけれど.どうもロゴス内容を重視する傾向にある.訳のわからないことを擁護するのは非常に疲れて無駄な時の浪費だけの無意味しか無く


   
   





 

好みのxxだけの街に住みたいね.まあ記憶に好みだけ残るのがいいのだけれど、嫌悪xxの記憶がしつこ過ぎて辟易している.好感xx達の記憶はおそらく無意識に十全していると思うけれど.この嫌悪が記憶に現前する構造は何なのか、全く徒労に呪われていると昔に思ってもそんな事はしたくないに決まっている



         






 

世の中徒労を齎す存在が多いかその強度が強いかだな.まあxyもそうだが現行F粒子vB粒子が自然な対立的とエロスvタナトスや抒情v叙事や縦v横や美v醜や快v不快と好感v嫌悪などがある事はあり、それらの絡み合い構造になっているからな.


   
   






 

現実は虚構ならば冗談が現実になってしまう理屈にはなるけれど、存在自体が虚構詭弁人間にとってはそれがそもそも現実存在となっているが、どうも現実はそんなものでは無いと思う.虚構詭弁人間は冗談虚偽的で真実がない存在で、むしろ真実がわからないか真実を歪めるしかしない辟易する存在なんだが


   
   





 

カントの誤解とは定言に対して仮言が厳しいと思う、つまりカルマはさとりを得るのに修行苦行を必要としないと無理の念が生じるからだろう.そこで他力依存観を出す人物がいるわけだ



         






 

例えば親鸞が悟っていたかどうかは不明だけれど、その辺に親鸞の悪人に対して単純に罪道徳としての判断からかあるいは他の視点からか親鸞も悟ってはいない悪徳を保有している意見がカルマ位相から出るケースがあるものだと解釈してみる文章を見た事がある


   
   






 

個人の記憶判断内の比重によるけれど、無意味無駄を齎す度合いが強いxxは-xyもだけれど-それだけ価値の低い存在と付随必然的になる.埴谷雄高から名状しがたい不快の言葉を覚えてそれに当てはまる不快窮まりない心情の表現に使っている.埴谷雄高も相当愚劣な事を味わっていたなはわかる.



         






 

行動主義に対してくだらないと思ったのも名状しがたいにより近づいた心情である.ゲーテの行動するバカは始末に悪いも少し絡まるように思えて


   
   






 

となると仰向けで見ていた雲ノ平の推定個の星の視野面には時間なく擬似空間のみで、距離感無いようなものと思いつく.サイズ差があるから空間距離はあるのだけれど一様面として見ることができて…もちろん光速度不変から潜在的時間差は充分にあるのだけれど


   
   





 

キロ先まで見渡せて目印が無いので遠近感がわからなくなるとは、フェルメールの透視図もまたロバチェフスキーの交点も現実の或る場所によっては意味がなくなるものと推定した.


   
   





 

時間に関して絶対空間に人々特に中間存在は依存しているけれど、絶対空間自体としての視点から見ると、時間自体になるのとそのような視点を量子視点を加味してできるはず若しくはアフィン空間的としても


   
   





 

どうも金閣寺の写真は趣味が違う.まるで義満の文字どおりをイメージさせる円錐台形式の比率が…


   
   





 

世界的にインパクトを与えた事象だからフランス人にとっては自慢の事だろうと推察するけれど、遅かれ早かれ絶対王政は変わる歴史時間の流れがあったと思う.国歌になった経緯は知らないが


   
   






 

万国の労働者諸君はロングテール的かなと浮かぶ.まあ万国のヘッドも結びつくかもはある.そんな思い付きの中で、日本の戦前現人神の時間は絶対王政的だったのではと浮かべると日本は仏革命より時間的に遅れていたかとなるとか思ったりして、鎖国時代の反動の体制のずれた相似形のまだの時間だったかと


   
   





 

三内丸山遺跡にしろパロールが無いと出来なかったと推定して、パロールの痕跡は何処かに無いのか…火焔土器から図を描くのもできたと思うのにそこから文字まで行かなかったのもやや納得できかねるけれど、証左は依然見つかってはいない.


   
   





 

権力の横暴とは言っても普通にあるミクロの四方山なんだけれど、受容したというかこんなxxのいるところはさっさと引き上げるに限るで、記憶にあるそのxxの言葉は全く頼りなくなんら暖簾に腕押しのようで、ほんと叙事的な横暴xxから意味を取り出すのは困難な浅さがある.明らかに死ぬまで進歩しないし



         






 

しつこく足を引っ張るだけの全くその存在を理解できない横暴なxxも記憶にあり、なんというか無意味な憤懣を発揮しても無駄だある事に気がつかない無知な自惚れ傲慢者で、やはりその先天的固有性は法の支配的に進歩しない事は明瞭な直感を育むので、荷物か…荷物とは今まで考えなかった退行者がいて


   
   






 

それにしても頭がなまくらになっていてシャキッとしない.頭を使ってはダメの昔のxx対峙時に浮かぶ言葉にもはやゆとりないのに従ってもしようがない.とにかく優越感を持ちたいために過少要求で多大な無駄をさせる存在が多くいるものだ.ジタバタ騒がず素直になればとは思うがなかなかのカルマ拘り者達で


   
   






 

森村桂の天国に番近い島は知っているけれども、なんとも微妙な南太平洋メラネシア空間の位置付けで、行くに行けずで、タヒチは考えたけれどカレドニアは思いつかなかった記憶がある.思いつけば行ったかもなのに思いつかせない存在では…卒業旅行やハネムーナーの島か.


   
   





 

個人的な見解では代が終わるともうおしまいで、なんとか我慢できるのが代までで、代になるともう他の年代と同じくらいの気分であったけれど、最近は何かもう開けてしまい余り区別しないな.無意識では区別しているかも


   
   





 

やはり縄文の遺伝子+旧石器の遺伝子が作用しているとしか


   
   






 

極夜のカ月は何故かと思えば咄嗟に小学生の時の漆黒の中からしばらくすると遠い高いところに小さな明るい円が見えあそこまで行かないとの心理状態を擬える.単純にはトンネルでもがいて向こう側の出口に出る意向の事で普通の事でもあると気付く.


   
   





 

嫌いな存在に無理して避ける為に忍耐していると、いつのまにか主体の内容を剽窃模倣されてしまう.嫌いな存在に真似されても不快でしょうか無いのだけれど、この状態は地獄的と記している文章を見た事がある.地獄的存在はしつこく常に苛立出せて記憶に絡まるものだ.いつまでも続くとは考えもしなかった


   
   





 

本末転倒もあるな、しかし唖然とするなそんな現象に出くわすと頭が麻痺してしまう、優越保持の為に思考低下要請をする存在はさほどの優越性を持ち得ていない図式がある


   
   





 

流れに従ってカサブランカのラストシーンを見たけれどボガードのイメージが違うな.次いで名作砂の器が登場、中身は忌まわしいけれど持って行き方はさすがの奥出雲の方言から…昭和年の映画だったのか.八つ墓村が流れて祟りじゃには吹き出してしまった.



         






 

生類憐みの令とバタイユの宗教の理論を思い出す.生類は詳しくは知らずバタイユはよく覚えていないけれど、動物論はややこじつけ的な記憶がある.


   
   





 

どうもデザインのこれはいいセンスだと思うものはあるけれど機能主義的なイメージが強く、デザイン経営からは余り説得力を感じない言葉で理解が足りないのかも.他に言葉は無いのかな.しかしMETIが大変革と述べるのなら、もう間違いなくラプスの時間は終わりで、かといってエンジンがかからない…


   
   





 

まあ昔に残された土地はもはや宇宙しか無いと短絡的に考えた事もあるので.今日宇宙への機運は高まっている…


   
   





 

ある宗教の勧誘者につかまって全くしつこく話をしだすものだ.既存宗教は一切邪魔意識を持っているので煩わしすぎる.また話しをするとかしつこいのはパワハラモラハラストーカーのようなものだな.信仰は死なないと治らないほどのものだが、他者依存だから自己思考と異なるので.そもそも無神論ではない.



         






 

八百万の神にはなんでもありとかあったけれど、別のところで貧乏神や疫病神もいると読み実際どうなのか.憑依神や依存神・甘え神や醜悪神とかその他不快神も多く存在してなんでも神になってしまいそうだけれど…貧乏神や甘え神などに憑依位相を感じるけれど、何か神も無理解誤解間が抜けた無駄をするな


   
   





 

考えてみると模倣した人間は模倣を嫌がっているトートロジーを歪めを嫌がっているところまで自然に模倣をする事になる自然がある筈と思いつく.その後どうなったかわからないけれど、模倣を嫌がっているそれ自体を模倣する事になるのではと、ちょっと実証データを知りたいものだ.引っ張った存在もいるが


   
   





 

どうも日常においてザリスキはザリスキであるとなるかな


   
   





 

宗教の信者に何か特別な思いをさせた場合、やはり信仰しているからだと思われるケースを想定して不快になる.非常に知らずに馬鹿げた思いをした事があり忘れない.一種の集団圧力共想うとまだイライラしているしつこいxxに勘違いされたようないつもの習慣事象によりて.折角落ち着ける難題を片付けたのに



         






 

直ぐに邪魔が入るなんとも不自由な存在がいて別に優越感など持つ権利はないのに、つまり他人の優越感を無視している事に気がつかないか無謀にも蹂躙する事に当然くらいに想う点がどうにも不快で.そんな存在がいるのに被害者思想ではなんともとは思う次第.まあ道徳感は無いモラハラタイプなんだが


   
   






 

相変わらず対処困難なのに接線スレスレの境界事象に遭遇しすぎというか外に出かけると日に一度はあるのに些かうんざり気味なんだけれど、なぜか生じてしまう.もう境界域は止めにすべきな体力情況ではあるな.複雑系もあるけれどある不快な作家とは異なってのなんらかの示唆はありなような…


   
   






 

雪を食べると深部体温が下がり熱量を必要とする⁈-ディスカバリー北極圏より.ある時の正月空きっ腹にガレ沢を急いで下り雪ばかり食べていて、今は無き小屋に着いて仰向けに休憩したら部屋が回っている不思議な現象に遭遇した.めまいを知った時.雪のせいでは無く急いでガレ沢を下ったからなんだけれど


   
   





 

そういえば利用されているなと感じた事があり、親切心で忍耐をすると他者を利用したがる志向者には御誂え向き存在に映っているようであると推定した.こちらはそんな存在はモラル的に価値がなくどうでもいい係りを持ちたく無い存在と思っているだけなのに、悪あがきをするのかしつこいものである.


   
   





 

深い思想は道徳や正義を嫌うものと述べる存在から非常識を受けた事があり、非常識理不尽などは深い考えになるというイライラし過ぎて、どうにも無茶苦茶では無いかと思っているが、どうにもよく分からない.実際はその人物は正義や道徳を知らないのでは無いかとも思う.或いは剥き出しをして配慮が無い?


   
   





 

HPを知る、その要素はあるな.しかし日常で悩んでいるのは何かが間違っているという感覚もある.間主観性で価値のない他者と思っている・どうでもいい他者と思っていると、その他者が逆に価値のない自己を投射してどうでもいい存在と認識してくる馬鹿馬鹿しすぎる間の抜けた他者を見る間主観性の不快さ



         






 

特にxx.この女は別そこにいるだけやさほど魅力が無いとか思った時に、自己を棚上げして、だめとか挫けとか言って来て、そこにいるだけな存在は関心的にダメで、さほど魅力がないから中途半端で切り上げているのに主体を無視して、図々しい所作をするので卑劣や卑怯なxx達と思う存在が多いのは…


   
   






 

恋人でもないのに煩わしい主体無視する存在や他者の妻である存在はどうでもいいに決まっている.仮に人妻を気にしても相手の男が非常にうるさい筈で煩わしさを十分予感させる為に距離を置くのは当然だけれど、押し売り的に干渉してくる人妻も多いかな.一応そんな存在は邪魔でしかない.


   
   





 

アンビバレンツ、アンビバレンス.アンビバレント視点を時間の過去未来に対して持つ矛盾を見る方法意識の複眼的文章を見た.なるほど分かりやすい文章で、体力も関係しているかなであの頃の設定であるアンビバレンツ視点を最近はほとんど意図しない・出来ない形となっている…又はシーケンス的に思考かな


   
   





 

均衡が平衡かとにかくそんな視点はあるとした中学生の時



         






 

ミネルバのフクロウが黄昏に飛び立つのは、現実的な事象を説明するのに時間がかかり、既に現実を説明可能な時には現実は他の側面を見せているとの意図説明らしいのだけれど、現実の帰納事象が纏まる時は帰納の結果であるはずなのに、ヘーゲルの絶対知は帰納結果より演繹の想定視点を示していると見える


   
   





 

アンビバレンツを見る視点にプラトンのイデアがあるとは…


   
   





 

塾考を要する問題・塾考しても解けない問題が世にはあり、脳幹が太いと塾考以前の問題に対処するだけに傾くような気がするのだけれど.なんだか閉鎖優越感に良く遭遇して過少要求のリアルさを味わい股くぐりを要求される位相に多く遭遇するけれど、意味が価値がないなと思い主張を取ると反発反感が来る


   
   





 

反証可能性は帰納の未決定性に繋がる


   
   





 

カントの物自体はプラトンのイデアと同意義的なものか.物自体の文字から観念より現象的に捉えて現象の背後のもの的に考えていた.カントの動向ならば確かにプラトン的要素は高い.この位相はニイチェのディオアポで明暗であり陰陽的でもある.陰陽はアンビバレンツで大虚はそれを見る視点ともなる


   
   





 

常識を平均値であると仮想して、常識未満の存在は非常識存在で常識を志向する傾向があり、常識以上の存在もまた非常識的であり、常識は足を引っ張る不快なものになりがちとなる.常識未満からは常識以上の存在は信じ難い現象でありまず想定外となろう.常識以上から常識未満は地獄のようなものと考える



         






 

この考えを図式で表すとあるギリシャ文字で表現できるとした日があった.ただゼロ文字の回転を想起した夏の河原の小さな砂場もある…その文字の大文字の記号にまたある定理も当てはめて


   
   






 

経営デザインとしての鉄分要素が何になるか思いつかないけれど、宇宙は複雑系であるはずと以前から地球の正規分布性は特殊と読んでいて、大変革は宇宙同調性的と想定できるので、鉄が多い宇宙からキーになる可能性を想う.


   
   






 

絶対空間への依存は自由より無責任では無いのか.絶対空間的ミルグラムとか考えてみる


   
   





 

カントの定言は正義や道徳的と思うけれど、仮言はカルマ的と考えるとやはり理不尽者非常識はカルマ的で定言を知らないのではないかと思ってしまう.定言をカルマとして考えるのは意味合いが違ってしまう定言なんだけれど


   
   





 

ヒステリーを起こすxxは所詮は非芸術品で自由の障害を行うのが当たり前な自然と思っているものである.思うようにならないで癇癪を起こすか最初から癇癪を起こす自らを下らないxxと思えない意味なき傲慢な存在がまた数的には多いのは有限生理を基準にしているからだけれど.発作の可能性は躊躇いを生じる


   
   





 

科学的に説明のつかない超常現象に取り憑かれている若しくは自らがそうなるのも可能だと妄想を生きがいにする信仰者は科学のモルモットになるか.科学自体謎を抱えているので過負荷にはなるかな…帰納は未決定ならば帰納はいつまでもトンネル中とも言える.


   
   





 

お世話になったある開業医で媒体的な事を昔考えて、媒介カタリストがふさわしい事に思い当たる.浄化も考えた筈で、その時に何故か鉄分が必要重要だと思った.その後貧血には鉄分が不足していると何かで読んだけれど、意味合いは違う気がしている.ここでデザイン経営のキーに鉄分としたい誘惑があるが…


   
   





 

主客転倒なる言葉があったけれどそれであるな.窮屈な転倒者たちで自由を歪めるのをなんとも思わない傲慢者であると同時に間の抜けた存在でもあるとは思う.実際現実はまたも逆転者の図々しい存在の出現かでいつまで続く辟易うんざりさか.本末転倒は別線


   
   






 

だいたい不快な存在に要求するのは個人的に不満だからで、不満な存在が不満者の模倣をして不満者に自己投射するという形ばかりを受けているのは、理不尽でしかない形で、そのような世界は一体なんなんだでしかない.そこには欺瞞があり不自然なのだけれど、不快な存在達は気がついていないのかな?



         






 

その頃或る文庫本を読んだ後論理的思考はそのようになるが感情が無い点が気になる想いをしたな


   
   





 

対他を変えようと要求した内的思考をその対象者から要求していると思われるのは全く心外でこれが問題の種なんだけれど、何故そうなるのか…非常に傲慢に見える対象者だけれど、少し考えればそんな要求をする事など考えられないはずで、短絡したか無自覚の自己無知存在であるようである.



         






 

行動する◯◯ほど始末にわるいものはないと述べた人がいたらしいが、自惚れた◯◯ほど始末に悪いものはないと置き換えたりして見たりする


   
   






 

スキナーの名前を知らなかったけれど、昔に行動主義の名称を見た途端に名状しがたい愚劣感を覚えた事があるのを思い出して、AIが如何にその答えを出したのかわからないという話を思い出した.最近はそんな話も聞かなくなったのは解明したのかな?.



         






 

その頃思惟の法則があれば悩まなくても住むのにと冗談で思った事はある.但しそうなれば誠につまらない生存過程になるとも思ったけれど.他人達の発語がわからなくて悩むのは思惟の法則的思考か脊髄反射思考か他人の模倣思考か


   
   






 

しかし年になって、政治的な区別判断アロー的な事を考えていた時に、志向性の言葉を思い浮かべ現象学思考が発生した.その以前にする必要のないエポケーなど冗談でトライしたら現象学の混沌・その根源的と思う所に剥き出し的に移行して、頭おかしくなるというまたしても冗談が束縛という始末に


   
   
 





 

逆とか模倣とか主体の歪めとか無知ゆえの才能なさゆえの非認識性能力もあるかも知らないけれど、ともかく当人はそういう事をするなと思っているのにそうする事は当人を無視していることになり、無視されている方からは何にもなしようがない.なぜなら何か反応し"後悔しないとね"と言ったxxがいた.意味がわからない、後悔するようなxxは嫌で無視したい存在だけれど…好みの女性が嫌な事を述べる嫌なxxが誤解をして接近するいずれも嫌なものだ.


   
   






 

マキャベリストにとって情況を決定するのは現実であるはずである.現実が情況を決定するとなると情況も現実であるので、現実が現実を決定するとなる.



         






 

男の主体をダメにして快感を得る--とにかくゲーテ曰く悪魔は諦めろと囁くから、主体をダメにしたがるのは諦めの誘いに繋がり悪魔のようなものだと言える.実際悪魔のようにしつこいxxと思った存在がいた.石女かと思える教条感xxに呪われているかも、他者xyがxxがこのxxと無謀にも誤解勘違いをして


   
   





 

最大値の原理--歴史事実からは横のn-は縦であると見れるけれど.但し法の支配が成立していないとして、法の支配が成立すれば未然形がn-になる.横つまりモラルに対して権力志向が啓蒙をするのはおかしいのであるが、そうしたがる縦型は矛盾している.この辺に詭弁や陰謀とか出てくると考える



         






 

あと科学の帰納は未然を予定しているので、そこから疑似科学として詭弁や陰謀的な偽満性も登場するかな…


   
   






 

不条理を盲信ではなく合理的に考えた人物はいないと解釈すると関係は論理的に合理的超不条理の事になる.単に無神論からくる超不条理を不条理を超えた理性を関係としたのだろう.そこでは盲信は欺瞞か偽満か虚偽かに思われるだろうと推定できる.



         






 

条作成時のエピソードの死中に活は法の支配に依存するを予定するに期待するの意味合いと解釈した.まさかの法の支配を念頭にとは考えなかったな.しかし今までの歴史の流れからは権力の装置に向かってしまう.墨家の消滅やバチカンの成立とかの例のように.



         






 

政府無き経済無き世界は理想的な法の支配的と思えるけれど、それには世界の人々は全て聖人であるが悟った人間のみで無いと成立しないだろう.


   
   






 

諸行無常の消極的自由が通底しているのに積極的自由に日々直面しなければならないの事態か.あるエピソードの社会では決断の連続であるは行動論的か現象学的な実証だけの意見のようでもある.


   
   





 

空間が曲がるのなら時間も曲がる.空間が曲がるのはわかるけれど、時間が曲がるは盲点だった.時間重力か時間ダークもある事になりそうだ.


   
   





 

RNAはNAより先にできた?.利己的な遺伝子は遺伝子は利己的に束縛されるされていると見えるという事?.もし心身症が確実ならミームはあり得る可能性があるが、子は親を裏切る超克して進んでいく姿勢のケースは遺伝子にプログラムされている?、そうではなく子は親と協調する場合のプログラムは?


   
   





 

思考外にあった散逸構造論と利己的な遺伝子が視野に入ってきたなはいつだったかな.以前であるけれど昔ではないな、利己的と散逸性の関係はどうなのかなぁ.利己的な遺伝子はエントロピー因子とか


   
   





 

神の決定則はエントロピーと考えてしまう.決定の先にあるものはエントロピー変化性になる.利己的な遺伝子も自然淘汰もエントロピー変化に即しているはずになる.ダークマターはエントロピーを保証する可能性があるかとか色々アイデア出してみる.


   
   





 

仮想アイデアは経験則か科学的証明を必要とするけれど、詭弁意識者には科学的証明は不快なものとなりそう.詭弁や虚偽等論理不当は盲信への可能性または盲信の保証に支えられている盲信の劣化因子ではないか.わかりずらい反証可能性は例えば盲信に対しての位相なのか、また反証は何処から、弁証法故に?



         






 

狂信は思想に関与しているな


   
   






 

表参道のシャネルに行って例の所に行く予定の店は東急プラザだった.何かエントランスのTVシーンを見て行って見ようと思って.スターバックスは客が一杯だったけれど、川越は特別で別にスターバックスに行こうとは思わないな.木造風な階差テラスにかかっていた曲が酔えるトロピカル幻想感覚で良かった


   
   





 

いざ記憶を辿ろうとすると何とも不快に思い出せない心情になる.どこか愚かな但し自然だからのxxにより乱れているかも.しかしその自然はこちらには別に自然ではなくこちらの自然を乱すことが多いので、こちらの自然を認めずまるで権力の横暴のようなxxの自然生理意識に多く遭遇し過ぎている



         






 

特に叙事的xx達はその固有性が権力思考なのでもう処置無しは前提になっているが、にもかかわらず押し売りの記憶が悩ます.その心理は未発達であるとまた一生足りない可能性高いと思っていてである.


   
   






 

叙事的又はA的優位なxxは今では一杯いる事を思っている.このような存在にとっては母性がわからないという表現を見た事を考えるとそれはあると見るのは単純自然な直感である.全くxxは全てG期存在と思っていた昔から不快な存在が登場してきて、そう今では観察してA期性優位が多いのはわかっている.


   
   





 

次元を手に負えないと考えた昔を良く思い出してみると、領域があってそこの片側というか次元の底に当たるまで体積を剥ぎ取るたか考えたはずで、その領域の次元である現実のこちら側は残したままにだったな.剥ぎ取るのとポテンシャルのリダクション操作は似た形のような



         






 

そもそも次元などとは大仰なと思い馬鹿げた考えだとその導出方法を知らぬままに思って…今次元が虚数に消える形を取っているとしり、それならなんとなく次元もあるかなとは思った.



         






 

帰り道の崖の崩れの地層色の変化部分から、層状を人間に当てはめた小学生の時から、ネットの階層を何となく想定気味だったけれど、これも今物理サイズの階層考えを知り、そんな事は当然に考えていたのに全体が見えずこちらの物理からを層状組織に当てはめるのが趣味に合うとすると


   
   






 

昔黒い場の中により黒い場がありその中に水平的に天の川的写真に似た形の領域の線を浮かべた裏の家の階.これはかなり確実に言えるシビアな映像と思ったのにこの意味は何かいまだにわからない.インスタントンではないかとした無明の時でもそれと違いアクシオンの凝集でもなさそうな凝集だけれど


   
   





 

A期を尊重するためには位相をO期付近に持っていかないとならず、G期をO期に実際に冗談的に内的声に沿って行う羽目になった実際は過去xxと認識していたけれど気がつかなかったxxでするはめになり、理不尽な蒸し返しか再度の人生=生存過程を送るとかありえない現実遊びに直面している記憶はある.



         






 

これの正当な解決方法はA期xxがG期に進む事を促進する事であるけれど、一生G期に進めない不可能な存在の現実感が確定的にある.それでそんな存在を生まない事と言ってしまうのである.G→O
は不快な無駄で不自由な屈辱感もある故に.



         






 

甘えからそんなOとしての演技をするケースのあるxyがいる話は事実だろうとは思うけれど、昔はxxが科学は子供なのよと聞いた話なのに帰納的性xxの多さは何とするか


   
   






 

とにかく叙事的存在は蒸し返しを行使してきて知力を劣化させる存在が出てくる.端的には叙事的存在はそもそも単細胞的に見え現行ロボット的に見えるので、そんな時存在に取り憑かれると頭は麻痺して考えられなくなる経験多いことからそう思う.



         






 

反知性主義とか愚民とか何となくわかるけれと、歴史的には権力が-その多くはA期が誘う-幅を利かすようになるのはG期のマイナス次元の位相であるA期は最大値の原理に従っている故かなとしか今のところ考えられない.


   
   






 

地平線のドーリアを思い出し、ドーリアというと女性の名前の響きがしてロマンがあるなと思っていたけれど、ギリシャ旋法ではなくきようかいせんぼうから取ったようである.古代ギリシャ人やジェノバの貴族名や料理の名前などが登場.旋法に関しての知識知らずわからないけれど、ムードがなくなって来た


   
   





 

ミルナーで地平線というか水平線というかエビラの接続的かなを考えて結構いいかなから地平線のドーリアを思い出したのだけれど、ミルナーからの地平はまだ早計かも知れない.まあまあはあるかな…ノヴェンバーステップスは感性が他者だったように聴いた記憶がある.汚れた濁った神聖メロディーだったので


   
   





 

自滅者の押し売りの犠牲になっている感がある間主観性の面白くなさ.自分を気にしないとまずい事になるのに、逆を当然の如くに行うxx達はそれを許可していないのに自然とかいう暴力的な所作を行うけれど、こちら側には不自然な事であるの認識がないという不快さがあるのである.


   
   





 

日本がおかしい?、別におかしくはないだろう.それは正規分布的思考者達が立ちいかなくなるだけの状況の境界時間に日本が位置している話なのである.正規分布思考は当たり前で専らではなくそれの比重が下がっている複雑系化の時代という事であるだろうに.個人的には昔からそうで漸くそうなったかである


   
   





 

去年の大晦日近くに遂に貨幣の存在理由的なものを考えついて、数多ある経済理論にいずれぼちぼちと適用して見ようと思っている.


   
   





 

昔にもう混沌を想起するのは嫌だとは思った事はあるとは言うものの、マイナス整数域は混沌的とグリーン式のように無限遠で収束するとは繰り込み式に有用な平行線の交わり関連となるけれど、無限遠カオスも想定していて


   
   






 

カオス哲学はハイデッガーの原点の先と同じかな、原点の脱構築かも.ハイデッガーの未完の箇所の構想を知らないのと頭が動かず判断できない.万骨が枯れるようにカオスから判断の数多で真理に到達するのは正規分布的にはいいとして、この混沌自体を複雑系として展開するとしか対象を想定でき得ず



         






 

理解不明なわからぬはずはないものと思える対象はどうやら独断断定または偏見閉鎖に気がつかないか誘う世界の狭さを強調している可能性が高い.勿論明瞭に解けない問題は明瞭に過去とならない将来にある.


   
   






 

高名な人物が死去したそうだけれど、最近学問に関して文献が無いと太刀打ちできない様相らしいので、古代史とはいえそれも文献にタッチ可能なところまでだろうと.ただ視点のユニークさとかはそれでも持てるか.アニミズムも当然文献史料の時間からでしかない筈で、考古者はともかく縄文論を知らない


   
   






 

もう覚えていないACだけれど、先程"ブラックスワンを発見した"のツイート部分を見て発見とは違うのでは無いか、単に複雑系または非線形現象の事と思っていてので、別に発見では無く壮大な詐欺のベルカーブ=正規分布というやや極端を申したのでタレブはACを避けてのでは無いか.



         






 

単に非線形ならブラックスワンはそこにあると思うので.ちなみに正規分布は当たり前過ぎてと昔から思っていて、もうその思惟形式がなんだかわからななくなっているけれど.


   
   






 

京都の街での乱舞シーンのひとつひとつのひとつで正規分布思考を内蔵している形かも知れない."正規分布は地球に特有現象で宇宙はそうでは無い"とした文章に昔に接して良く記憶している.ブラックスワンはこの宇宙はそうではないの中に入る現象と捉えているので別にタレブの発見ではないだろう.



         






 

"ブラックスワンは科学哲学に衝撃を与えた"なる文章に接したけれど、そうなのか.科学に哲学とは考え難いけれど、そんな科学哲学はくだらないと視点を持つ事ができるな…



         






 

中学生の時にrtyのthの発音で苦い不快な思い出があり、最近ネイティブでも発音は難しいらしくthはそのうちに廃れる可能性があるとか知る


   
   





 

無風の厚い曇り空に太陽が鈍く透過してのこの温かみに包まれた冬の太陽が好みで、論理哲学論考が冬の太陽と言われるけれどこのイメージの冬の太陽とは異なるかな.そもそもTLPな冬の太陽のイメージは別段ない.


   
   





 

それにしても逆というかもはや既に模倣するしか能が無い無知存在に間主観性を使われて逆認識されると乗っ取り的で、そんな存在の逆になっても無知である存在の押し売りを受けるという馬鹿げた現象に付き合う形で、こんな存在達を排除しようにもバイタリティありしつこく無知を行うので疲れるものだ.



         






 

xx一般は乗っ取り的存在に見えないこともなく、また主体の阻害疎外を強要する馬鹿げた存在が登場かと無駄をまたしないと思う事に辟易はしている.畢竟xx一般は無自覚な卑劣性を行使する事に気がつかないかな.


   
   






 

嫌悪存在生理体質者に押し売りを受けてつまらない主体疎外を今も要らぬというのにしつこく受けている.宿命が嫌いなのにそんな宿命的権力志向存在などどうにもならん叙事的縦型人間で、無機的で味気ない思考しかできずのつまらんマンネリを当人達は無知故に自覚しないかしてもその劣性から欺瞞をしがち



         






 

またはそのタナトス志向を他者に押し付ける圧迫か、自らの資質に気がつかないか誤魔化しているか.元々そんな資質なら自ら別に自己責任を取ればとは思うと考えれば良いのか


   
   






 

創世記章節からヒント得てそうするとそうなるとかくかくしかじかと考えること思いついた事ありて


   
   





 

eloquenでtiaはつかないな.どこで間違えたかnemoはいいとしてparでは意味がつながらずその時何を考えていたのかわからなくなる.inSBulaは良いとしてpulcher etだったのかな.概観として美しい島国を表すのにで、瑞穂ばかりではなく自然の山々も入れて何だけれど、それで豊葦原は妥協的な気分だったかな


   
   






 

"誤差作用素と保存量の間の不確定性関係から一般測定相互作用の誤差の下限が得られることを示した."プローブの存在を考えずに想像しただけなのと、不確定性は全く考えずのつのものの区別に悩みどうしてもうまくいかないとしたまま…下限とは確かに不確定ならばはあるなそれと保存則か


   
   





 

彼女たちに遭遇したのは偶然が必然的な事態で奇跡的なんだけれど、だがしかし…この解析根拠を納得できるように説明する機会が訪れるかどうか



         






 

実存は本質に先立つ-世界が先にあると矛盾に対して孤独の自己思索は実存かなとも思えるけれど、本質から見ると実存は地獄的な混沌に見える蒸し返し的なもの.ではその本質はどうなのかとなると秘匿にあるが記憶にあらず.構造主義とか歴史の話中で本題への前提条件なのか


   
   





 

"今と言った時今はない"名言だなと思ったのはポスト構造なのか.差延か人々は差分的だからなと簡易な直感の頃は脱的な位相も持っていた.経験上幽霊の概念は時間的差異にあると認識してあるから、霊がそこにあるにも結びつきそうなんだけれど.


   
   





 

ローカルの重なりがあって良いは多世界的解釈になる.全体を見渡しても神の視点を持つことはできないはハイデッガーの現存在地平線に戻ると同様なので、解釈の視点として新実在なのか.ハイデッガーの原点を昔に設けたはいいけれど何十年経っても何にもアイデアが浮かばずただモデル対象を考えた事はある


   
   





 

昔はエビデンスとマニフェストのどちらを取って明白の意味合いとするか迷った事がある.語感からマニフェストにしたのだったかまたは使い分けの意識だったようなで、最近エビデンスの言葉を見て現実に使われているのかと、マニフェストも政党の公約で使われているけれど.意味上からエビデントにしたかな


   
   





 

社会が根拠無き共同幻想と見るならば冗談や虚偽無理解誤解が現実とはなり得るな.実際にはそうなって困っている.鏡像段階の自己おざなりの互いの反映ばかり社会でもそうなるので誠につまらないものだ.



         






 

幽霊は死者に関係しているように人々は見るけれど、過去の死者から見ればその後の現実に生きている存在は幽霊のように見えるだろう.


   
   





 

皇帝教信者を考えれるケースにおいて複数の皇帝存在からシステム的とすると、宗教の教祖もひとりのみのあるべき皇帝教の皇帝位相になっている敷衍を浮かべてみる


   
   





 

"自然的存在ばかりではなく人間的存在である"の場合叙情感を想定できるのだけれど、唯物と言い出すとどう見ても唯物は無機的で自然的存在ではあるが、非人間的存在と思えてくる.


   
   





 

阿弥陀は解脱を助けるもので六道の誰でも可能とするとまた個的六道を除去できるものの位置あるもので、実在性はとは思う.そう思えば宗教一般は非実在性があるけれど翻ってそれも人が考えた事なのである.



         






 

仏教の無始無終は諸行無常より強いな.諸行無常はバンのみに生きる欲望の生理感覚から見た視点の要素強いように見える.虚無は物理視点から見た場合かな


   
   






 

多様性が分離公理的にあると不愉快さはほぼ無くなるのではとは思うけれど.しかし好み存在が分離的ではあまり面白い事ではないな、普通分離的にはならないか.しかし嫌悪存在が分離的にならずの多様感はどうにも無駄ばかりで意味を無くすような形になりアドラーの自己満足感を阻害してくるので頂けない


   
   





 

叙事的存在と権威者のひとつの側面と権力志向者と権力者存在には、自己の叙情感が無いために、叙情他者達の叙情感を考慮する事ができず無視する見解しか持っていないとおおよそは考えることができる.で叙情者は不愉快な理不尽で憤慨する事になる


   
   





 

バッハは線描のフェルミ的かなと思いつき、ノヴェンバーステップスもフェルミ的な画像曲線イメージがある.揺らぐフェルミ線複数はレイノルズを超えると現れる山荘のもみの木の詩的木立の趣にて思う兜町勤めの女性達と会った夏の日の独りの部屋


   
   





 

最近話に聞く引きこもりの若者も良く引きこもっていられるなと思うような次第で、その心理解析困難.集団圧力は引きこもり要素の一つにもなるような気もする、むしろ第原因かもと思いついたけれど


   
   






 

シーケンス連続の切断もしくは離散の繰り返しに矛盾が入る空間時間性がある


   
   





 

マルクスは論理的には整合性があるかなと思っていたけれど、色気がないと思ったので多少齟齬のある関係がありそうになった昔の事がある.色気というか感情というか倫理であるという事か


   
   





 

まああるがままは塞翁が馬よりエントロピーに乗った森羅万象気分だろうけれど、ここで胡蝶夢を描くとボートを漕ぐので、捉え方に差異を設けないとは想う.


   
   





 

ともかくある人物昔に述べた事に対して他の意味がある事を知らず.知ってから暫くして漸くその述べた事に対しての応用ができたので、問題となっている社会現象が緩和傾向になる筈とは確信している.その点での他者を変えよう意識はあるけれど、個的他者への心理は保留だった…


   
   





 

他人の心理を操ると思える心理学を認めたくはないとした昔の意図が、他者の模倣による無理解な逆による主体歪めを不快に思うのと他者は操りたくないと思う心性の逆を弁証法対立的に面白がって快感としてしたかったのかもしたがるのかも知れないので、これは他者の心理を操らざるを得ないか……


   
   





 

過剰な無意味を擁護した事・その時になぜ過剰な曲解無理解をするのかわからなかった事また対象が愚かしい存在で主体を歪める歪めたがるとは信じられなかった事や他がある.周囲すべてのxx&xyがそうで多大な無理解圧力に囲まれている感覚があり主体の諦めを要請しているきらいがある.



         






 

何故自己偽造して他者の主体を横取りのような所為をして気づかないのかまたは意図的なのかまたは矜持がないのかまたはその矜持自体偏見を持っているのか、こちらが模倣しているたか述べたxxや曲解した無茶苦茶xxはいつのまにか消えたな.自己把握は他者を歪める事によっては成立しないのでは?



         






 

なんらかの権威権力意識の征服意識で無駄に劣化を要求したする恥知らずまたはみっともない恥さらし達のように見えるけれど.往生際の悪いくだらない価値引き出しのできない才能存在達の逆が自己だと思う不自然な反自然は自然が認めない筈なんだけれど、それに気づかないまま消えた人物もいるかな…


   
   






 

バブみとはさっぱりわからぬ.なんとそういう意味か、やり手の中年男がバブみオギャるをしたがるという話は聞いたことがあるその情態はオーラルなんだけれど、A期である存在に謙虚な態度を示すまたは横暴な権力圧力パワーでO期などをせねばの形を受けるのは理不尽以外のなにものでもなく



         






 

やはりA期の生理質を変えるべきかA期までしか行けない一生者も疲れて話もできかねるのでかなり困難なことだけれど発生に問題意識を考える.思いつくのはライ麦の崖物語もまたやや理不尽なのを考えつく.それに続いて越後の僧侶も浮かぶ/


   
   






 

実質を意図してくるだけれど、それは君の意見ではなく私の内部実質なんだけれどと言わなくても当たり前すぎると思ってそのままだと勘違いされたままになる.異様に変な人々がいるものだ.私とは他人ではないである.特にわけのわからん感性生理のタナトスフェルミ型の自己勘違い押し売りには閉口する



         






 

錬金術を否定しきれないと思った小学生の時を思えばユングは意味があるかな."空想的想像力ではなく真の想像力によって"の文言はそうであるとは思っている.


   
   





 

ところがそう限定志向を行う存在達の内実にはろくなものがないという不公平さがあるのが不快になるのだった.とにかく潜在化の可能性を評価しようにも無意味な不利益ばかり考えさせるxxやxyに遭遇した結果が今に不快ツイートとなっている


   
   






 

⁈単にミルグラムではなく積極的ミルグラムとかもあるのかなと考えさせるフラクタル感時間も加担してパーコレーションを想定したかな


   
   





 

ミネルバの梟に邪魔になる帰納の現実だけれど、出した結論は暫定的なものでまさに未決定の無責任さを示しているかのよう.しかしミネルバの梟性も個々人を考慮すれば個人差はあり中間存在梟の場合もあるので中途半端な未決定性未完成を持ち、切羽詰まると暴言を発揮せざるを得なくなるという経験がある


   
   





 

朝長振一郎の超多時間はどんなのかが必要になりパスしてきたけれど…教育大の朝長振一郎のイメージがあり、今し写真を見て頭いい人相をしていると思った.作用が光速以上で伝わらないはハッとや無限小まで行かないのではないかから接続示唆はあるけれど、ランダウの批判重力場はどうなっているのかな



         






 

塞翁が馬は具体的実践で諸行無常は帰納の未決定性をマスターしたものと解釈できるのだけれど、元の仏教の色即是空空即是色や輪廻転生と『万物は流転するはある意味において』とした時の何を考えたのか分からん昔があり、結びつけようにも頭動かずのその辺.



         






 

拗らせると言えば共同幻想論を傍に抱えて現れた女子大生にも参ってしまう記憶がある.連関したあるしつこいどうでもいいxxの意図外れの他者対自を即自と思い込んだような意味なき発言も意味なきに気がつかずまるで悪魔のようにしつこいと思えばそうなりて、拗れた女子大生の記憶も今では悪魔的かなと


   
   





 

それにしてもその発語発言は意味がないという事に気がつかない不快な存在が多いもので.無駄を構築している蒸し返しに過ぎない事に気がつかないか、過剰に疲弊を齎す非建設的な意味無い人にとっては明らかに損失でしかない非建設的要請を投射してきたかのような愚劣な不快達としか言いようがない気分


   
   






 

代々木体育館と言えばなんだかその近くでmリレーの遠望を、代々木ではなく東京体育館だったようで、代々木体育館は知らない.それより、東京カテドラル関口教会は昔何回も散歩に出かけて、パイプオルガンの練習中をひとりで聞いたりしていた丹下健三設計か、デザインセンスは全く見当つかずだった.


   
   





 

生け花・盆栽・庭園と流れる繋がるけれど、盆栽・庭園でこれはと思うもののはないかな.生け花もいいなと思うはあるけれど、儚美の瞬間的が念頭にありそれだけのものとなってしまう.ただし植物の有機継続となるとまた違うけれど.プラントハンター感もあり崑崙のメドゥーサもカシミールの花も見たいが


   
   





 

"花のある有能で美しい女性"の表現は職場では気持ち悪い表現なのか⁈.自然にそう思う心性を不自然に歪める必要はないと思うけれど、気持ち悪いものは気持ち悪く苦痛な忍耐を強制されても疲れてしょうがない思いはあるので、恐らく欲望視点からポリコレ感覚何だろうなと推定する.


   
         






 

何しろ民法規定のxxとxyはひとりだけで、なぜそのひとりを選別選定できたのかとは思う美を美と見せず気待ち悪いものを気持ち悪いと見せない方向の人たちにとっては区別しているのだけれど-もう少し強いと差別で選ぶ事が出来ないことになるのだが.


   
   






 

なぜそんな存在がいるんだで前提になく、またハイネなど読める生理特質のxxではなく誠にエロイカも奏でられないタナトス的存在では無機体が消えるまで通底するだけで無機物が待っているだけのつまらなさすぎる楽しさのない存在でもある



         






 

深淵もまた余帰納を覗く


   
   





 

中学生の時に書物の感想文を描くという命題を聞いて、感想文を書くとは何のことかとても書けそうにないと思ったけれど、随筆的になら書けそうだとは思ったな.今ツイートで感想的な表現が多いなと以前をチェックしながら、しかし離散的随筆の方があっているなとも想う.


   
   





 

人の究極知はまだ不明でAIが勝つようだと判明するか?.またソビエトなど現実が国家&経済無き社会を追いかけた形の歴史があるのだけれど


   
   






 

ヘーゲルの梟だけれど、絶対知は究極知極限知とするとミネルバの梟は過去に飛び立っている.またマルクスの経済&国家無きも梟は過去に飛び立っている.多く理想は現実より先に立つので、現実を捉えた時に既に現実は先に進んでいるのは序文には当てはまるけれど、絶対知には当てはまらないと考えてみた



         






 

覆水時間生理に返らず-濃密な苦悩時間も生理時間経過には返らずが実感だろう.


   
   





 

まずかったかないややはりまずかったようなだけれど気がついたのでその点はかなりまたは非常に?良かったけれどその間のこぼれた時間自体は元には戻らない不可逆性がある.心理的に経過時間の苦悩苦労は一挙に報われたはあるけれど、物理時間自体は冷酷に経過している生理感はあるのである.


   
   






 

ある時ある人物に猿の腰掛けと述べたことがある.最近に猿の腰掛けの幾何図を見たことがあり、少し意味合いが一方的だったかも知れないと気がついた事には意味があるはずだ.



         






 

哲学的支配の知性のよるものの他に宗教的支配というものもある事になる.


   
   






 

不老不死の薬を求めたとされる皇帝は有限の生理体継続に逆らった意識を持っていたことになる.あと宗教の創始者の教義も有限生理体継続的ではなくほぼ不変的性である.伝統もややその傾向はあるな.これらは個人の生理有限継続時間を無視した時間設定的なもので、そんな個人時間一般が無いと成立しないが



         






 

遺伝子操作による双子の話もここに絡んで来そうな


   
   






 

宇宙の摂理、人間の有機営み最も有機物一般はそうだけれど、有限の生理を繰り返していくことに対して何ら考えない人は甲斐性を持って子を鎹にしている.それが当然自然の周りも世界もそうで義務的だから何ら迷うことは無いと判断しているかのように.まあ考えてもそうする人もいるか…



         






 

まさか関係は脊髄反射の事では無いだろうな.脊髄反射が情況を決定する事は多いにあり得るし、矛盾が解けなくてヤケクソで脊髄反射に任せると思った可能性も最大値の原理を海馬に与えるとするとn-的にあるな.てんやわんやならありそうな可能性は高いが


   
   





 

やはり宗教の問責など脊髄反射には感じられず痛くもかゆくもないのではないか.確かに人はそこに存在しているだけで脊髄反射を持ってはいて、捨てる時間にはなっていないかな.それにしてもまさかとは思うけれど、理屈は成立する脊髄反射位相.思考しないことは考えられないのでほんと信じ難いけれど…



         






 

twistやperverseとかだけれど、他自覚はagainstやcontrary natureで倒錯弁証法とも.しかし世の中には不自然を自然と認知している存在もいて、自然を不自然と思い込む変な経験があるな.非常に不愉快な存在でもあるが.観念を生理的にperverseとして生理的認識してしまう変なのもいて、誠に厄介ではある.


   
   





 

ある昔のxに『時流に乗った気楽な遊旅行』の表現をしてあったのを思い出した.意図はなんだったか思い出せない今だけれど、そのxによる判断を一応はしている.なんだか見知らぬ他者もしているようなことがあり、少し注意をしているけれど.人々はそのxの内容を知らない知るはずないのに……


   
   






 

積極的自由でなんらかの制約倫理に基づく目的意識がある場合には、罪とか反省とか他者を無視または利用の形を持つかな.普通には消極的自由を思想識者達は優位に持つものなんだけれど.例えば叙事的思考者は積極的自由存在傾向明らかで、反省など無し若さもいいけれど、それ自体存在価値的には低い観点が


   
   





 

ムンクの叫びである作家の幼少の頃だったかな、黒雲が湧いてきての文章を見た事を思い出した.虚無の絶望感明瞭と思うけれど、ムンクのばあいは神経質的な実存の影だろうなので虚無手前かな.確かに背景に黒影があるのをいつの頃か知ったか記憶に無いけれど.その作家に同調しても意味はなく疲れるだけで


   
   





 

ロックに革命許容があったのは知らなかった.市民的不服従は非暴力ではある.抵抗権が自然ならば不快な記憶にある理不尽へ抵抗すべきだったわけとなるけれど、そんな理不尽を行う存在達とは全く思っていず、前提になく理解力ある存在達と設定していたため、許容できないが抵抗もせずだったのを今に修正を


   
   





 

マナを食べれば死ぬまで病気をしない事を保証できるものだったけれど


   
   





 

本居宣長・平田篤胤は日本はどこの国よりも優秀と設定していたのか、知らなかった.独自性志向を出すとそのようになるかも.幽冥界が離れた場所にあるのではなく、現世に遍在している考え方は驚きの霊論.御民から問題の英霊化が出てくるのかな.問題は一様と度合論の差になるのか.



         






 

模倣とか逆に気がつかない不快な存在達表現を他自覚の言葉で表現する事を思いついた.全く他自覚に気がつかない無自覚者達でそもそもの汝達自身の固有は模倣する事にあるのか、分からんてんやわんやのミルグラム無責任スノッブなのかも知れぬ.個人的に他自覚には余計なお世話と無自覚の愚劣さを感じる.


   
   





 

ハイデッガーは一般人とは言わないで現存在一般はほとんど未完の中途半端に終わると述べているのが壁で、未完完成で壁を超えられたかどうかはどうかに関しては、否定的な思考限界を持っていたと言える


   
   






 

一般人は自由を好まないんだは確かドストエフスキーの兄弟の中の話で、あるところで大審問官はそれらの人々の犠牲になっているんだを読み、この犠牲意識が確かならこれはノブリスオブリージュ要素あるなと思っている.一般人を中間存在とすると自由がわからない事になり、てんやわんやであることになる



         






 

感主観→間主観だけれど、ミスった感主観も使えるな.その間主観性により云々は現象学なはずで、現象学はまあスノッブ的と思っていてタッチしなかったからな.間主観性の顕著な例は恋愛中の男女で、別に哲学的に分析してもしらけるだけと思う.



         






 

未来へ依存した現在のミルグラム無責任所為はあるのか?.短期的利益による長期的視点の欠如の言葉を見て、ラプス時間は長期的視点だったと我田引水可能でもあると思いつく.


   
   





 

極端に言って良ければ日本陣社会は間主観性を皆マスターしている…かな.まあそうでないミクロケースも多くあるのは否めない個々人固有性の差異多様感はある事はある.外国生活をしたことないので差異多様に対する発言優位社会はよくわからないとこらがある.



         






 

ハードボイルド神聖型タイプの実在を思いつく.


   
   





 

女性は男性の主体を蔑ろにするのが快感であると昔の外国人の箴言を見たことあるけれど、それを受けると頭がおかしくなり対自観が乱れてくるので、過少要求のパワハラとほぼ明らかと思う.そんなxxもまた多いと思うので、女性権利も裏腹の面があるかな.主体を蔑ろにするとやはり蔑ろの報復があるのでは



         






 

まあ記憶に残っている不快はxxに限らずxyもで、一言で言えばパワハラというやつで、当然モラハラも含んでいるもので、その不快の除去志向が強いツイートの数々は現在様心理傾向でもある事になるなと考えつく


   
   






 

縮退・人間だから開放縮退あるか、いわゆる過飽和というやつとか超臨界とか、固有値は孤独の単体位相でしょうがない先天だけれど押し付けて貰っても困るな.どうも無自覚単体者にしか合わなかった記憶があるが、最近ズレたクーパーではなくみえるカップルを見た事がある.弁証法を励起としているのかな


   
   





 

象徴儀式と考えられなくはない.天皇家独自のもの的と考えたことはあるけれど、象徴性が欠けるかと今思いつく.そもそも現人神の時間が特異的でそれでも権力的ではなく権威的だったようなだけれど、昔から権力的容貌のあった時もあったかもだけれど、権威的存在として通底しているのではないか.



         






 

どうもそれで図太いやや発育遅滞xxを思い出す.なんとも疲れすぎるきあくがあり、名状しがたい不快に冗談から味わい、そのような状況に何度も直面しているが、麻痺ゆえにしかと認知できない愚劣感が多すぎる事態を味わう羽目に.やはり過去xxが不都合すぎる示唆を齎し、無自覚な棚上げの妨害者が勘違いを


   
   






 

加害されないケニヤの町は国の事情もあると思うけれど、嫌なxxが何を勘違いするのかより絡んでくるのには閉口する.逆に好みのxxが無駄に距離を置く発語にも閉口するけれど.どうもロゴス内容を重視する傾向にある.訳のわからないことを擁護するのは非常に疲れて無駄な時の浪費だけの無意味しか無く


   
   





 

好みのxxだけの街に住みたいね.まあ記憶に好みだけ残るのがいいのだけれど、嫌悪xxの記憶がしつこ過ぎて辟易している.好感xx達の記憶はおそらく無意識に十全していると思うけれど.この嫌悪が記憶に現前する構造は何なのか、全く徒労に呪われていると昔に思ってもそんな事はしたくないに決まっている



         






 

世の中徒労を齎す存在が多いかその強度が強いかだな.まあxyもそうだが現行F粒子vB粒子が自然な対立的とエロスvタナトスや抒情v叙事や縦v横や美v醜や快v不快と好感v嫌悪などがある事はあり、それらの絡み合い構造になっているからな.


   
   






 

現実は虚構ならば冗談が現実になってしまう理屈にはなるけれど、存在自体が虚構詭弁人間にとってはそれがそもそも現実存在となっているが、どうも現実はそんなものでは無いと思う.虚構詭弁人間は冗談虚偽的で真実がない存在で、むしろ真実がわからないか真実を歪めるしかしない辟易する存在なんだが


   
   





 

カントの誤解とは定言に対して仮言が厳しいと思う、つまりカルマはさとりを得るのに修行苦行を必要としないと無理の念が生じるからだろう.そこで他力依存観を出す人物がいるわけだ



         






 

例えば親鸞が悟っていたかどうかは不明だけれど、その辺に親鸞の悪人に対して単純に罪道徳としての判断からかあるいは他の視点からか親鸞も悟ってはいない悪徳を保有している意見がカルマ位相から出るケースがあるものだと解釈してみる文章を見た事がある


   
   






 

個人の記憶判断内の比重によるけれど、無意味無駄を齎す度合いが強いxxは-xyもだけれど-それだけ価値の低い存在と付随必然的になる.埴谷雄高から名状しがたい不快の言葉を覚えてそれに当てはまる不快窮まりない心情の表現に使っている.埴谷雄高も相当愚劣な事を味わっていたなはわかる.



         






 

行動主義に対してくだらないと思ったのも名状しがたいにより近づいた心情である.ゲーテの行動するバカは始末に悪いも少し絡まるように思えて


   
   






 

となると仰向けで見ていた雲ノ平の推定個の星の視野面には時間なく擬似空間のみで、距離感無いようなものと思いつく.サイズ差があるから空間距離はあるのだけれど一様面として見ることができて…もちろん光速度不変から潜在的時間差は充分にあるのだけれど


   
   





 

キロ先まで見渡せて目印が無いので遠近感がわからなくなるとは、フェルメールの透視図もまたロバチェフスキーの交点も現実の或る場所によっては意味がなくなるものと推定した.


   
   





 

時間に関して絶対空間に人々特に中間存在は依存しているけれど、絶対空間自体としての視点から見ると、時間自体になるのとそのような視点を量子視点を加味してできるはず若しくはアフィン空間的としても


   
   





 

どうも金閣寺の写真は趣味が違う.まるで義満の文字どおりをイメージさせる円錐台形式の比率が…


   
   





 

世界的にインパクトを与えた事象だからフランス人にとっては自慢の事だろうと推察するけれど、遅かれ早かれ絶対王政は変わる歴史時間の流れがあったと思う.国歌になった経緯は知らないが


   
   






 

万国の労働者諸君はロングテール的かなと浮かぶ.まあ万国のヘッドも結びつくかもはある.そんな思い付きの中で、日本の戦前現人神の時間は絶対王政的だったのではと浮かべると日本は仏革命より時間的に遅れていたかとなるとか思ったりして、鎖国時代の反動の体制のずれた相似形のまだの時間だったかと


   
   





 

三内丸山遺跡にしろパロールが無いと出来なかったと推定して、パロールの痕跡は何処かに無いのか…火焔土器から図を描くのもできたと思うのにそこから文字まで行かなかったのもやや納得できかねるけれど、証左は依然見つかってはいない.


   
   





 

権力の横暴とは言っても普通にあるミクロの四方山なんだけれど、受容したというかこんなxxのいるところはさっさと引き上げるに限るで、記憶にあるそのxxの言葉は全く頼りなくなんら暖簾に腕押しのようで、ほんと叙事的な横暴xxから意味を取り出すのは困難な浅さがある.明らかに死ぬまで進歩しないし



         






 

しつこく足を引っ張るだけの全くその存在を理解できない横暴なxxも記憶にあり、なんというか無意味な憤懣を発揮しても無駄だある事に気がつかない無知な自惚れ傲慢者で、やはりその先天的固有性は法の支配的に進歩しない事は明瞭な直感を育むので、荷物か…荷物とは今まで考えなかった退行者がいて


   
   






 

それにしても頭がなまくらになっていてシャキッとしない.頭を使ってはダメの昔のxx対峙時に浮かぶ言葉にもはやゆとりないのに従ってもしようがない.とにかく優越感を持ちたいために過少要求で多大な無駄をさせる存在が多くいるものだ.ジタバタ騒がず素直になればとは思うがなかなかのカルマ拘り者達で


   
   






 

森村桂の天国に番近い島は知っているけれども、なんとも微妙な南太平洋メラネシア空間の位置付けで、行くに行けずで、タヒチは考えたけれどカレドニアは思いつかなかった記憶がある.思いつけば行ったかもなのに思いつかせない存在では…卒業旅行やハネムーナーの島か.


   
   





 

個人的な見解では代が終わるともうおしまいで、なんとか我慢できるのが代までで、代になるともう他の年代と同じくらいの気分であったけれど、最近は何かもう開けてしまい余り区別しないな.無意識では区別しているかも


   
   





 

やはり縄文の遺伝子+旧石器の遺伝子が作用しているとしか


   
   






 

極夜のカ月は何故かと思えば咄嗟に小学生の時の漆黒の中からしばらくすると遠い高いところに小さな明るい円が見えあそこまで行かないとの心理状態を擬える.単純にはトンネルでもがいて向こう側の出口に出る意向の事で普通の事でもあると気付く.


   
   





 

嫌いな存在に無理して避ける為に忍耐していると、いつのまにか主体の内容を剽窃模倣されてしまう.嫌いな存在に真似されても不快でしょうか無いのだけれど、この状態は地獄的と記している文章を見た事がある.地獄的存在はしつこく常に苛立出せて記憶に絡まるものだ.いつまでも続くとは考えもしなかった


   
   





 

本末転倒もあるな、しかし唖然とするなそんな現象に出くわすと頭が麻痺してしまう、優越保持の為に思考低下要請をする存在はさほどの優越性を持ち得ていない図式がある


   
   





 

流れに従ってカサブランカのラストシーンを見たけれどボガードのイメージが違うな.次いで名作砂の器が登場、中身は忌まわしいけれど持って行き方はさすがの奥出雲の方言から…昭和年の映画だったのか.八つ墓村が流れて祟りじゃには吹き出してしまった.



         






 

生類憐みの令とバタイユの宗教の理論を思い出す.生類は詳しくは知らずバタイユはよく覚えていないけれど、動物論はややこじつけ的な記憶がある.


   
   





 

どうもデザインのこれはいいセンスだと思うものはあるけれど機能主義的なイメージが強く、デザイン経営からは余り説得力を感じない言葉で理解が足りないのかも.他に言葉は無いのかな.しかしMETIが大変革と述べるのなら、もう間違いなくラプスの時間は終わりで、かといってエンジンがかからない…


   
   





 

まあ昔に残された土地はもはや宇宙しか無いと短絡的に考えた事もあるので.今日宇宙への機運は高まっている…


   
   





 

ある宗教の勧誘者につかまって全くしつこく話をしだすものだ.既存宗教は一切邪魔意識を持っているので煩わしすぎる.また話しをするとかしつこいのはパワハラモラハラストーカーのようなものだな.信仰は死なないと治らないほどのものだが、他者依存だから自己思考と異なるので.そもそも無神論ではない.



         






 

八百万の神にはなんでもありとかあったけれど、別のところで貧乏神や疫病神もいると読み実際どうなのか.憑依神や依存神・甘え神や醜悪神とかその他不快神も多く存在してなんでも神になってしまいそうだけれど…貧乏神や甘え神などに憑依位相を感じるけれど、何か神も無理解誤解間が抜けた無駄をするな


   
   





 

考えてみると模倣した人間は模倣を嫌がっているトートロジーを歪めを嫌がっているところまで自然に模倣をする事になる自然がある筈と思いつく.その後どうなったかわからないけれど、模倣を嫌がっているそれ自体を模倣する事になるのではと、ちょっと実証データを知りたいものだ.引っ張った存在もいるが


   
   





 

どうも日常においてザリスキはザリスキであるとなるかな


   
   





 

宗教の信者に何か特別な思いをさせた場合、やはり信仰しているからだと思われるケースを想定して不快になる.非常に知らずに馬鹿げた思いをした事があり忘れない.一種の集団圧力共想うとまだイライラしているしつこいxxに勘違いされたようないつもの習慣事象によりて.折角落ち着ける難題を片付けたのに



         






 

直ぐに邪魔が入るなんとも不自由な存在がいて別に優越感など持つ権利はないのに、つまり他人の優越感を無視している事に気がつかないか無謀にも蹂躙する事に当然くらいに想う点がどうにも不快で.そんな存在がいるのに被害者思想ではなんともとは思う次第.まあ道徳感は無いモラハラタイプなんだが


   
   






 

相変わらず対処困難なのに接線スレスレの境界事象に遭遇しすぎというか外に出かけると日に一度はあるのに些かうんざり気味なんだけれど、なぜか生じてしまう.もう境界域は止めにすべきな体力情況ではあるな.複雑系もあるけれどある不快な作家とは異なってのなんらかの示唆はありなような…


   
   






 

雪を食べると深部体温が下がり熱量を必要とする⁈-ディスカバリー北極圏より.ある時の正月空きっ腹にガレ沢を急いで下り雪ばかり食べていて、今は無き小屋に着いて仰向けに休憩したら部屋が回っている不思議な現象に遭遇した.めまいを知った時.雪のせいでは無く急いでガレ沢を下ったからなんだけれど


   
   





 

そういえば利用されているなと感じた事があり、親切心で忍耐をすると他者を利用したがる志向者には御誂え向き存在に映っているようであると推定した.こちらはそんな存在はモラル的に価値がなくどうでもいい係りを持ちたく無い存在と思っているだけなのに、悪あがきをするのかしつこいものである.


   
   





 

深い思想は道徳や正義を嫌うものと述べる存在から非常識を受けた事があり、非常識理不尽などは深い考えになるというイライラし過ぎて、どうにも無茶苦茶では無いかと思っているが、どうにもよく分からない.実際はその人物は正義や道徳を知らないのでは無いかとも思う.或いは剥き出しをして配慮が無い?


   
   





 

HPを知る、その要素はあるな.しかし日常で悩んでいるのは何かが間違っているという感覚もある.間主観性で価値のない他者と思っている・どうでもいい他者と思っていると、その他者が逆に価値のない自己を投射してどうでもいい存在と認識してくる馬鹿馬鹿しすぎる間の抜けた他者を見る間主観性の不快さ



         






 

特にxx.この女は別そこにいるだけやさほど魅力が無いとか思った時に、自己を棚上げして、だめとか挫けとか言って来て、そこにいるだけな存在は関心的にダメで、さほど魅力がないから中途半端で切り上げているのに主体を無視して、図々しい所作をするので卑劣や卑怯なxx達と思う存在が多いのは…


   
   






 

恋人でもないのに煩わしい主体無視する存在や他者の妻である存在はどうでもいいに決まっている.仮に人妻を気にしても相手の男が非常にうるさい筈で煩わしさを十分予感させる為に距離を置くのは当然だけれど、押し売り的に干渉してくる人妻も多いかな.一応そんな存在は邪魔でしかない.


   
   





 

アンビバレンツ、アンビバレンス.アンビバレント視点を時間の過去未来に対して持つ矛盾を見る方法意識の複眼的文章を見た.なるほど分かりやすい文章で、体力も関係しているかなであの頃の設定であるアンビバレンツ視点を最近はほとんど意図しない・出来ない形となっている…又はシーケンス的に思考かな


   
   





 

均衡が平衡かとにかくそんな視点はあるとした中学生の時



         






 

ミネルバのフクロウが黄昏に飛び立つのは、現実的な事象を説明するのに時間がかかり、既に現実を説明可能な時には現実は他の側面を見せているとの意図説明らしいのだけれど、現実の帰納事象が纏まる時は帰納の結果であるはずなのに、ヘーゲルの絶対知は帰納結果より演繹の想定視点を示していると見える


   
   





 

アンビバレンツを見る視点にプラトンのイデアがあるとは…


   
   





 

塾考を要する問題・塾考しても解けない問題が世にはあり、脳幹が太いと塾考以前の問題に対処するだけに傾くような気がするのだけれど.なんだか閉鎖優越感に良く遭遇して過少要求のリアルさを味わい股くぐりを要求される位相に多く遭遇するけれど、意味が価値がないなと思い主張を取ると反発反感が来る


   
   





 

反証可能性は帰納の未決定性に繋がる


   
   





 

カントの物自体はプラトンのイデアと同意義的なものか.物自体の文字から観念より現象的に捉えて現象の背後のもの的に考えていた.カントの動向ならば確かにプラトン的要素は高い.この位相はニイチェのディオアポで明暗であり陰陽的でもある.陰陽はアンビバレンツで大虚はそれを見る視点ともなる


   
   





 

常識を平均値であると仮想して、常識未満の存在は非常識存在で常識を志向する傾向があり、常識以上の存在もまた非常識的であり、常識は足を引っ張る不快なものになりがちとなる.常識未満からは常識以上の存在は信じ難い現象でありまず想定外となろう.常識以上から常識未満は地獄のようなものと考える



         






 

この考えを図式で表すとあるギリシャ文字で表現できるとした日があった.ただゼロ文字の回転を想起した夏の河原の小さな砂場もある…その文字の大文字の記号にまたある定理も当てはめて


   
   






 

経営デザインとしての鉄分要素が何になるか思いつかないけれど、宇宙は複雑系であるはずと以前から地球の正規分布性は特殊と読んでいて、大変革は宇宙同調性的と想定できるので、鉄が多い宇宙からキーになる可能性を想う.


   
   






 

絶対空間への依存は自由より無責任では無いのか.絶対空間的ミルグラムとか考えてみる


   
   





 

カントの定言は正義や道徳的と思うけれど、仮言はカルマ的と考えるとやはり理不尽者非常識はカルマ的で定言を知らないのではないかと思ってしまう.定言をカルマとして考えるのは意味合いが違ってしまう定言なんだけれど


   
   





 

ヒステリーを起こすxxは所詮は非芸術品で自由の障害を行うのが当たり前な自然と思っているものである.思うようにならないで癇癪を起こすか最初から癇癪を起こす自らを下らないxxと思えない意味なき傲慢な存在がまた数的には多いのは有限生理を基準にしているからだけれど.発作の可能性は躊躇いを生じる


   
   





 

科学的に説明のつかない超常現象に取り憑かれている若しくは自らがそうなるのも可能だと妄想を生きがいにする信仰者は科学のモルモットになるか.科学自体謎を抱えているので過負荷にはなるかな…帰納は未決定ならば帰納はいつまでもトンネル中とも言える.


   
   





 

お世話になったある開業医で媒体的な事を昔考えて、媒介カタリストがふさわしい事に思い当たる.浄化も考えた筈で、その時に何故か鉄分が必要重要だと思った.その後貧血には鉄分が不足していると何かで読んだけれど、意味合いは違う気がしている.ここでデザイン経営のキーに鉄分としたい誘惑があるが…


   
   





 

主客転倒なる言葉があったけれどそれであるな.窮屈な転倒者たちで自由を歪めるのをなんとも思わない傲慢者であると同時に間の抜けた存在でもあるとは思う.実際現実はまたも逆転者の図々しい存在の出現かでいつまで続く辟易うんざりさか.本末転倒は別線


   
   






 

だいたい不快な存在に要求するのは個人的に不満だからで、不満な存在が不満者の模倣をして不満者に自己投射するという形ばかりを受けているのは、理不尽でしかない形で、そのような世界は一体なんなんだでしかない.そこには欺瞞があり不自然なのだけれど、不快な存在達は気がついていないのかな?



         






 

その頃或る文庫本を読んだ後論理的思考はそのようになるが感情が無い点が気になる想いをしたな


   
   





 

対他を変えようと要求した内的思考をその対象者から要求していると思われるのは全く心外でこれが問題の種なんだけれど、何故そうなるのか…非常に傲慢に見える対象者だけれど、少し考えればそんな要求をする事など考えられないはずで、短絡したか無自覚の自己無知存在であるようである.



         






 

行動する◯◯ほど始末にわるいものはないと述べた人がいたらしいが、自惚れた◯◯ほど始末に悪いものはないと置き換えたりして見たりする


   
   






 

スキナーの名前を知らなかったけれど、昔に行動主義の名称を見た途端に名状しがたい愚劣感を覚えた事があるのを思い出して、AIが如何にその答えを出したのかわからないという話を思い出した.最近はそんな話も聞かなくなったのは解明したのかな?.



         






 

その頃思惟の法則があれば悩まなくても住むのにと冗談で思った事はある.但しそうなれば誠につまらない生存過程になるとも思ったけれど.他人達の発語がわからなくて悩むのは思惟の法則的思考か脊髄反射思考か他人の模倣思考か


   
   






 

しかし年になって、政治的な区別判断アロー的な事を考えていた時に、志向性の言葉を思い浮かべ現象学思考が発生した.その以前にする必要のないエポケーなど冗談でトライしたら現象学の混沌・その根源的と思う所に剥き出し的に移行して、頭おかしくなるというまたしても冗談が束縛という始末に


   
   
 





 

逆とか模倣とか主体の歪めとか無知ゆえの才能なさゆえの非認識性能力もあるかも知らないけれど、ともかく当人はそういう事をするなと思っているのにそうする事は当人を無視していることになり、無視されている方からは何にもなしようがない.なぜなら何か反応しようにも主体の使いようがないから、



         






 

それが狙い?、まさかそれができるくらいなら独自の何かを行使するだろう.とてもそうとは思えない逆者達
ようにも主体の使いようがないから、



         






 

それが狙い?、まさかそれができるくらいなら独自の何かを行使するだろう.とてもそうとは思えない逆者達

2018-12-05

my ft 11301018

ふと彼を知らずまた己も知らずの存在がいるのではないかと浮かんでいる.感主観的には彼を知るが己は知らない人が多いのではないか.彼を知るより己を知った方がいいと思うけれど.何でも個人情報保護法があり、彼を知りづらい状況時間でもあるので


   
           








しかし年になって、政治的な区別判断アロー的な事を考えていた時に、志向性の言葉を思い浮かべ現象学思考が発生した.その以前にする必要のないエポケーなど冗談でトライしたら現象学の混沌・その根源的と思う所に剥き出し的に移行して、頭おかしくなるというまたしても冗談が束縛という始末に


   
           








啓蒙的存在の不快さはその存在がスノッブ的でしかもスノッブにプライドを持っているからだな


   
           







逆とか模倣とか主体の歪めとか無知ゆえの才能なさゆえの非認識性能力もあるかも知らないけれど、ともかく当人はそういう事をするなと思っているのにそうする事は当人を無視していることになり、無視されている方からは何にもなしようがない.なぜなら何か反応しようにも主体の使いようがないから、


   


それが狙い?、まさかそれができるくらいなら独自の何かを行使するだろう.とてもそうとは思えない逆者達


   
           






 

権威に従って自己を同調かする存在は一般的にユダ的で厄介なものだと思っていたそれはスノッブタイプであると判明した.スノッブちょっと気持ち悪い言葉で、その存在事実はよくわからん頭錯乱してくるような存在、君自身は一体なに?で分からんもの


   
           





 

普通詩人はスノッブを軽蔑するはずで要するに大衆=一般存在はスノッブに近い存在だから人気あり、詩人は忙しき日々の営み中の一般存在には遠いもので、一般存在保身からは石を投げるということになる


   
           





 

線形も重なると難しいけれど、まさか線形有限でいいとは思わず非線形的未定問題だろうと勘違いをした事を今更取り返せないと思った時があり、それは失敗とそれなのに応用力の無さに困ると思ってしまうその後の事は、どう見てもあるxxへの落ち込み的の寄与が所々にの感じである


   
           





 

'思想はいかなる至上物から自由になりうる'これがわからない.そうである時にその思想は至上物に対して責任を持つ事はわかる.翻ったかたちかな、人間とは何かの哲学問いの答えは出ていないのはわかっていた筈だけれど今は何かレベルが下がっていて考える事かなぜかできなくなっている.


   
           






 

そんな謎を持っている現人間存在だから、およそ未来に出ると思っている答えを持っている存在として引き寄せた事を考える.単純には関係とはその謎になる.カントもアンチノミー迄で答えを出しているわけではない.カントのアンチノミーの先に謎はある.もし解けたら人間は存在しないか別のものになるだろう


   
           






 

グリー系の会社のやり方を見て、考えている事を広汎性対象でやっているとびっくりしたな、先端であると.マイノリティやダイバーシティではなく、ダイバーシティは関わるか、日常一般社会がそうなることを昔から考えている.様子見ラプスを費やしていたために現実時間に合う羽目になってしまった…


   
           






 

帰納の未完は現存在のほとんど未完に終わると連動性を持っている直感がある


   
           





 

中間存在とか叙事的存在は深さに置いてそれ以上は深くなれない.即ち認識度に置いて浅いとなり、愚かしい存在であるのに自らを愚かしい存在と認めることができない自然さを持っているのがふしぎである.自らを不快存在に擬態化とか、世界は浅いものであるとか即物的なもので不自然を自然と思う傾向がある


   
           






 

模倣して演技であった人生になったとしてもそれだけの存在でしかなかったらそうしてもなんでもないわけと気がついた.模倣者自体そんな存在なので得るものがない損失ばかりだから不快なんだけれど、模倣者に取っては快楽でしかも被模倣者が自らを卑下して遠慮して忍耐我慢をしてくれると尚更になるな…


   
           






 

ただし模倣者には責任が伴う事を考慮していない目の前快楽による短慮なので考えはしないのだけれど単に自然がそのような事を認めない筈になっているだな.何しろ不自然だからである.まあ間違っていた程に情報知識不足はあったけれどそれは別としても余りにも明白過ぎた夢故がある


   
           






 

日常の生理異常や性格の特異点があれば自己心理わ自覚するだろうけれど、どうやら無自覚者にその陶冶をしろと言っても、無自覚なので陶冶をする方向など持つわけがなかったと漸く気がついた.それで他者変化意図なのに妙な反応で変な理解による誤解を齎してきたという納得理由がある


   
           






 

模倣とか剽窃とか逆とか述べている対象者達は不快だというのは、その対象者達が無自覚による自己無知の対依存という模倣なのに気がつく才能がない無自覚自己無知で、模倣して自己自体演技者になっている事にもしかして一生気がつかないタイプか、エゴ優越感だけは本能で持っているやはり自覚なしだろう


   
           






 

まるで模倣者達にとって阿弥陀的にもなり、また逆に模倣者が阿弥陀的意識を持っているかも.啓蒙的存在はいるがやはり阿弥陀的意識で無責任な干渉妨害だにもまた気がつかない無自覚者達でもあるな.それも自己陶冶が未発達な段階であるからだけれど、それすら自覚することができない未発達中というわけか


   
           





 

また良寛云々を思い出した啓蒙意識者の不快な思い出が湧く.良寛などなぜ気にしなければならないのか全く思考外の存在で、勝手に押し付けるなと思ったまあ苦手な理解できない存在で、人に押しつけないで自分で良寛的生活でもすればいいではないか.実に自惚れた束縛者でもある無関係な割り込み者がいた


   
           





 

ブラマンクがわからないのも面白く無いので一連の絵を眺めてみた.位相空間の分離公理から離散的と考えたけれど、それから変位して多世界解釈的な一枚のキャンバスに表現したかとも思うけれど、何処かずれているような


   
           





 

しかし嫌いな存在や不快な存在や冗談存在が主体意図に反して記憶に残り過ぎる事態で、自己疎外を要求されすぎのつまらない日々を送ったものである.なぜ他者に主体を阻害される羽目になるのは平衡感覚の需給均衡的なものか、若しくは現実が虚偽で出来ているかである.仮想現実がネットでなくリアルにある


   
           






 

それで先ほど考えた、無限遠で平行線は収束するについて、無限遠またはとか無限遠にも差がある筈で一様直線もいい加減と、極点化も内容には点が無数にある事になり、そうなると新たな今のところ実用的に十分であるかの射影もより新たな視点が登場する事を予見してみる…


   
     



 

虚栄の官能快楽に染まっている事を自覚しているのかいないのか分からんしつこいxyがいて、単なる偽善者というやつだった事に気がつく.


   
           





 

大陸文化が縄文文化に対して育成変容化を行使した弥生時代からはまず間違い無いだろう歴史のその大陸文化に軸足を持っていると半島意識は強くなるだろうが、縄文遺伝子を持っている自己自身を忘れているかも.持っていない当地存在者達は異なるけれど、既に遺伝子を持っているので過剰は要らずとは思う


   
           





 

一般に嫌な嫌いな存在はやはり嫌な不快な不都合な事を齎すものである.ところが好ましい存在も嫌な不都合を齎すもので、寧ろ嫌いな存在は都合を齎しがちだけれどもとが嫌いなのでどうにも不快感がある.好ましい存在は何故無意味無駄の徒労を要請するのかな.好ましきは好ましいを齎す筈なのに…


   
           





 

ちょっと理解しがたい存在がいて、その生理本質を好まないのだけれど、位相が進んでしまいのつまらない記憶がある事にこれはなんだと思った事を後にそのまま聞く羽目になり、その以前のなんだを思い出さずそれ故にしつこく悩むことに.所謂徒労を要請する愚かしいxxなのでそれに対する返答的なものが


   
           






 

それなりにある事に、一応なんだまではわかっているので、何も徒労を要請しなくてもいいのだけれど.一般にそんなxxが多いルベーグ性を思うが意味がないものを意味付ける為に主体を歪めてしまう無駄をさせる形になるので無縁設定とならざるを得ない.要するに融和をわざわざ引き裂いている存在達なのだ


   
           






 

後存在理由的に陳腐なのに自らをそう思わずまたは思いたくないか無意識に自己弁護しているかの逆者達には困る.こちらが陳腐と思っているのに逆になると自己投射をして即ち自分を当てはめて陳腐な存在と思われる可能性がある無自覚な自己認識者にも閉口する.閉口しても一生気がつかない無自覚もありで


   
           






 

何故かずっと考えていて共同順応型の応援があればこそそこの位置にいると漸く思いついた.全く何でもないスクエア性を当てはめられずに何故こんな無駄な時間を持ったものか.余りにも無駄過ぎて麻痺させるだけなのに.そうそう退行を考えた存在とイメージが似ていてと昔の悩みもあるかもがあるのだけれど


   
           






 

ある雑誌にボロメオの結び目がありなんのことかと、そこにフィネガンズウェイクが登場して、昔は調子付いて翻訳物を手にした事あるけれどどうも原書でないとまずい作品と思う.ただし別に川流れで何のことやらでとばしているけれど.クォークの謂れ本で、ジョイスは中学生の時にダブリン市民しか浮かばず


   
           





 

そうかアフォーダンスはなんだったかなとそれでゲシュタルトへか.マッハを浮かべたあの坂道と桑畑の道でゲシュタルトを浮かべ、マッハは何故?とゲシュタルトは単なる形態要素なのだろうとずっと放っておいて、今あらましを読んで見ると面白かった.


   
           






 

連れ子がかすがいにならない時の四方山は関係に原因があると思うけれど、ゲシュタルトからハイダーのバランス理論がある事を知ったが考察はまだ.ケーラーの類人猿の洞察学習やブーバ/キキやレヴィンのツァイガルニク効果などと境界人も役に立つなと認識した桑の木の間から何十年後


   
           






 

この混沌故に帰納の未完成があると同時に可能性もある理性と想像力の境界位相.パスカルはここに憤懣あるからその実存は評価できるとしている.ベクトル想像力の混沌は今はもう味わえないので貴重な記憶であり、その後の等質遷移もまたかのうんざりさのあの頃


   
           






 

芭蕉の天の川をオマージュしたつもりが論理的になり過ぎた.想像力のベクトル混沌が理性に諦めを齎すのは体力的に切りがなくであって、何も情けなくは無いのだけれど、他者達ここにつけ込んでくる冗談を真に受ける天邪鬼性を非常に不快を味わい過ぎてそんな他者達は愚かな事はそれが証明しているが


   
           






 

タナトス型は破滅型かな、どうもタナトス型の犠牲になっているような遭遇性があるのでそれが理解できない.そもそもタナトス型は自己自身でタナトス的をやるのが必然な筈で、自己欺瞞虚偽の為にタナトス性を押し付けられても困るものである.全く嫌な存在が実在しているものだ.宿命の必然感は不自由で


   
           






 

T双対は現実に思える


   
           





 

パワハラに過少要求があるとは、トートロジーは過少要求でまた主体倒錯要求は過剰過少要求になる.ある人物から、あるxxに言っても白けるだけだと述べるのを止めた事を時間蒸し返して言われて対処にそのxx風の状態になって、その時に思った事から止めた発言を実際に述べればそのxxはそう思ったかなと


   
           






 

それである人物は非常におかしいので、理不尽非常識不条理と述べるわけだけれど、そもそもそんな発言をするとは信じがたく前提になく、まさかのトートロジー存在とは無駄な存在では無いか.でもそんな薄達に遠慮してしまう自虐心があるのは発達待ちにギャップを感じて一種のからかいをするからかな


   
           






 

でもそのおかげでコンプロマイズの自己卑下でその分は不満の不快ツイートになってしまうので、はっきり述べるべきなのだけれど、その時にはそれほどくだらない存在とは思っていなくて気がつかなかったので


   
           






 

弁証法は対立を要求して、故にどうでもいいくらいにあるのは当たり前だけれど目くじらをたてることもないと思っているのは、対立をあまり歓迎しないからと気がついた.


   
           





 

そんな存在達に要求している事を自分が要求していると思ってしまう逆な存在達の存在とはなんなんだ.まさか自分達が否定的な存在と思われるとは思いもしない傲慢な存在達だけれど、その結果非常識不条理理不尽を行なってもなんとも思わない無責任さの持ち主達で、それ故に結局否定的なんだが


   
           






 

ユダ的存在は長いものには巻かれろが自然で、特にはとんとのxx達はそんな存在だと思っているが…そうなるとミルグラム的な無責任者達となるが、そんな存在は日常多いように思う.自力思考の邪魔者達で、特に目の前の存在の内的思考を当人に言って返す存在に対処しかねて、自己を歪めてしまうのがまずい


   
           





 

目が痛く眠ろうとして少し我慢したら今度は眠れなくなってしまった.ふと夢を見ている時間で思考ツイートをしているかもと浮かぶ目の痛さを我慢しながらの今


   
           





 

世の中には皮肉嫌味のつもりがまともに受け取ってしまう存在がいて、まさかの想いをして唖然となる存在がいる.都合のいいように受け取るのか額面通りの存在論や双対意識はないのかといったところで、どう見ても非常識な事を述べたつもりなのに額面で受け取る事はその存在が非常識な存在である事になる


   
           




 

徳川代将軍において豊臣秀吉の惣無事令を要素は持っているとしても未だ発展中のものと見て、参勤交代のソフトランディングで出来上がった感を受ける


   
           





 

で昨日の新センター試験についてわからないので、シュール式やバウムクーヘン式などがある事を知る.そんな何やかやで問題と問題内容の解答過程から、感性的に機能主義的問題だなと思った.


   
           





 

しかし経験内容と未然思考内容意図を模倣して述べて来て、やる気の阻害を十分要請する存在は、それが意味のない事に一生気がつかないままの可能性があると思うと愕然とするな.いつまで愚か者達の暴言を聞かねばならないのかと.なんと表現すべきなのか、無知の狂気の不当優越感とか


   
           






 

未完と見るとフロイトが登場すると見る.未完で閃いた昔に見た精神分裂病者の絵がワンパターン模様連続でどうにも理解できない苛立つ不快感はワンパターン者の未完的なもののケースであるとすればなんとなく答えかなと.ツイートのやり取りでパターンを示唆したxxがいた事を思い出す.今もいるけれど


   
           






 

世の中にはまるで詭弁体若しくは虚偽体にかなり近い存在もいるもので、そんな存在の真実や事実観がうまく想定できない.想定できないというより真実を虚偽化的にして無責任意識の自由観を持っている台無しの虚無的なのかも知れぬ.その極限は統合失調症であるだろうが、失調症は未完的にも見えて…


   
           


 

旅行とか花の育て方とか検索するだけでなぜ少女監禁だの人妻寝盗られだの性奴隷などの広告を見せられなきゃならないの。それを問題にするとなぜ「馬鹿な女」扱いされるの。なぜこんな理不尽にNOと言えないの。








 

これら一般は背伸びをしているな、昔は本物は背伸びなどする必要なくただ単に自然であれば良いとは思っていたけれど、その後のてんやわんやや対抗心者達や模倣逆者達などでもう煩わしく面倒でわからない感情となりであまり考えなくなってしまっている.


   
           






 

相変わらず自己欺瞞xxに遭遇してその不快を我慢していると他者のしたくもない忍耐に甘えるかパワハラ意識発揮の優越感者が出現する.あのう性格悪いと思う円やか無きハードボイルドxxでマシーンなどロボットに任せたい気分なのだけれど.無駄に体力消耗するだけでこれがパワハラ的な特権性に見えるのだ


   
           






 

またxx達は当然の権利としてパワハラ志向を持っているのは特権のようにも見える.何となく人々は男女の役割を逆にしているかも.xyにしてみればこの特権感に反抗とかの可能性も視野にある.それに対してあるタイプの存在達は対抗を構築するという図式かな.そもそもこの特権的にみえる意識がなければと思う


   
           






 

タナトス意識を他人に向かわせないで自己に向かわせれば迷惑ではないのにとは思うが、いずれ自らがタナトス型である事を味わうことは必然であるとは明白過ぎるが、または無自覚のままの可能性もあるが事態は味わう事になる.当然非タナトス型も直面するけれど、生きている間に味わう必要はなく不自然で


   
           






 

なんとも残虐な言明を態度を行使してきて嫌な感情を齎している事に気がつかない無知なタナトス型タイプだった事に今では気がついているけれど.この他人に対して考えている事や自己認識している事を述べてくるxx達の非建設的意識には呆れる-無自覚-かなである.


   
           






 

昔にある存在にある不快なxxを処理しろとした意図で意識を用いたことがあるけれど、対他存在に対して保存している考えを自分だと思われてつまり無理解の誤解なんだけれど、それに親切にも乗った形でする必要のない事を思い出しこの無意味な不快を排除をしないとと思いついた.


   
           






 

リダクション-お手上げの次元の時は位相が最大値的にだったかな.次元とあ次元のセットから次元をピックした時にその次元を捨象して考えないとだったので、あたまが窮屈になり過ぎだったかな.数年前に感心した凝縮理論の最大値感は、現実の世界の方がポテンシャルが強いが落差があり深さが浅い感


   
           





 

叙事のn-が原人か動物とするとなんらかの形で暴力要素が発生する可能性はあると思いつく.この考えを洗練させて適用すると、この先は頭複雑になるので考えないことにする


   
           





 

縄文時代は文字的に先史時代になる?.それで弥生から日本の歴史が始まるとか、原日本人とかの考え方があるわけか.個人的には日本人は縄文人が真性だと思っているけれど.言葉がないのはまずいけれど、見かける弥生の文化コンプレックス感はあまり無いが、そんな意識を考えるのであることはありそう


   
           






 

まあ縄文遺伝子以外に漢系朝鮮系の遺伝子も待っているミクストだと思う視点を感じることはある.縄文遺伝子以前はとなるとグローバル性を考えねばならななくなるかな、それでもまだ区別はあるか…そこの先史時代にも文化はあった点に留意点は持つけれど


   
           






 

そうか対象に対して不快になるのはその対象に失望絶望を感じるからなんだ.変化の兆し無く、これが間主観性どこかで逆になったりすると、対象が優越感を保つためにその失望絶望感をこちらに押し付けてくるというバカらしさがあるからとなる.この無駄すぎる意味無きさの道化性は無駄に疲れる


   
           






 

ドストエフスキーの大審問官はそれが導く人から見れば自由でありそれに対して責任を持っている.その位相は説得力を持つ権威であり、その権威が齎す義務がその説得力を持続継続させる.これノブリスオブリージュの事かな?


   
           






 

液体ヘリウムの沸点は.K=-℃で、関係ないけれど車の速度はkm/hが分岐点とした直感数値を連想する.の液体ヘリウムは.Kで粘性なくなる、のフェルミオンヘリウムも年度に粘性欠如が確認されている.このことはある項目に関係する昇華utbletyに用いている


   
           





 

全く模倣を許可した覚えはないのにそうされるのが不快で、ましては主体疎外を要求してくるというわけのわからないデタラメさには閉口する強引さがある.そんな模倣存在はバイタリティだけは強く強い強制力を持つから、不自由さを強いて、無理に自己思考を強制はしないとしていると逆に強制の形を取る


   
           






 

例えば中間存在外に位置しているとすると、中間存在が多く中間存在感覚が普通当然で、過ぎたるは及ばざるが如しとして、及ばざるのように未熟のように見てくるという理不尽性を考えて見た.実際そのようなパターンが多く当てはまることがあり、なんだか啓蒙者が調子付いた経験多くある不快がある


   
           






 

なおグレードグラデーションを持っているからそこを狙った限界人間の自己主張の忍耐要請犠牲推進力にも困るのだけれど、限界以上を考えない考えられないからな.そういえば『限界外で考えてくれ』は取り入れてあった.そうなると必然自然的に自己主体が不明になるが、そもそも主体自覚が無いのもいるとか


   
           






 

模倣的に限界外で考えてもそれは模倣という無責任なのでそこのところは不快な面があるけれど…主体的な無責任を持たなくても良く発言してもいいかなと思いついた.ネヤ河に飛び込むつもりの遺書的程にドスト程に真面目に真摯に描いたつもりなので、模倣者にとって遺書ほどのものになるとは到底思えず


   
           





 

そうか今の項目はほぼ限界的で、コンピュータを次の項目展開としてもいいわけだと気がつく.様相心理から気まぐれを考えてしまい忘れてはいないけれど、この項目にその気まぐれは範囲外は明瞭で、ただ何故その気まぐれをここに持ってきたかと考えるとパスカルやカント的要素や懐かしの必然の坂道下りを


   
           





 

叙情のn-は叙事とすると、叙事のn-は何かと悩み考え思いついて、原人か類人猿かはてまた動物であるかになると.叙事的存在とってケース他者位相はn-とすると野蛮人ということになる.その時にn+の位相存在の実在に気がつかないもしくは理解できない若しくは利用価値の定数と見るかもしれない.


   
           






 

感覚経験では叙事的存在は提供的存在なのと物質的価値優位存在でもある.サプライサイドはフェルミ的と思いつく.そうだったのかあの時区別がつかずはっきりしなかったのは


   
           






 

なぜかパターナリズムを惹起させてしまう要素を持っていると無理解されがちな対他者性を持っているようでもある.他人の不幸に同情する精神を最近は止めようとしているけれど


   
           






 

思えばどうでもいいxx&xyや嫌いなxx&xyが逆になるという所謂地獄形成の憂き目にあっているかな.どうでもいい存在や嫌いな存在の存在理由や固有性など要らないのに何故か押し付けられる羽目になるのは弁証法の圧力や平衡エネルギー物理性や悪人格の欺瞞に呪われているのかも.


   
           






 

ある対象にしらけると思い発言せずに忍耐した事をどうでもいい存在から受けそのある対象設定的から発言すればそうだったのかの思いを昔にして相変わらずその事態が浮かんでくるという不快さなどがあるためなんだけれど.この存在は既に生きていないにもかかわらずしつこく悩ましているので他者達も準と


   
           






 

文句と愚痴は多いな.ルサンチマンを取り入れるか入れないか迷って入れた形にしてしまった事を思い出す.文句と愚痴だけの作品があっても面白いかなとは思うけれど.しかしだ優等生を気取っていてルサンチマンを溜め込み爆発させるかも知れない存在も多そうなんだけれど.


   
           





 

蓋し関係における直感にヘーゲル的矛盾感をパウリ的に作用とする浮かびがあるが、先進を悪酔いxxが思念を妨げている抑圧束縛の憂き目中で治らない不自由さがあり、不快感がある.これがあるからxxを選択せねばならず、第印象では判断できかねる事にもなる理由だけれど、第印象そのままパスもある


   
           






 

エントロピーの変化はホロノミーというのは一定ワンパターンの場合を考えるにしても通りの分類に当てはまらないので非常に偏った一通りになる事が欠陥的な束縛性になる…スピノルが度回転で方向が反対になるとはそんな簡単な事を思いつきもしなかった.


   
           






 

セルマーという字幕からすっかり忘れ気味のガロアの隙間があったのを思い出した.未完のこれらの項目は全てタブルような視点を持つけれど、本来は区別しなければならず.遠くの輝点もixtheventhにeconも絡まる…


   
           





 

フェルミ型に幸福感を表現していたらせせら笑いをされたことがあり、それから幸福感を出しづらくなった気分があるのは馬鹿げているのだが、そのせせら笑いをした男の性格が悪いとは思わずとにかく不快な反対意図ばかり行う存在だった.


   
           






 

その天皇制で古事記日本書紀に個人的には気にくわないところがあるのを知る.なんらかの自意識作用ゆえとも言えるけれど、それでももっと差異があっていい筈の記述になっている事を最近知り、中学生の時にお手上げの書物だとした事もそう悪い観点では無いなと自認気味


   
           





 

フロムは自由からの逃走をしない事と述べていて、権威主義が倫理の破綻とするのはもう視点が権威主義をみる地点からの文言なので、それを一生不可能な人間には無理な相談でそんな人々を不可能領域に引き込もう陥らせようとするので、そんな存在をなくす事が自由からの逃走をしなくてすむ手段である


   
           






 

つまりは誕生させない事なんだけれどまだまだ生じている.この本質的事態を考えないで条どうのこうの言っても説得はできないだろう.日本国だけでなく他の国もそうならなければだけれどなかなか.


   
           






 

時代的前に作家兼医者存在がいて、死ぬ間際にばかばかしいと述べたらしいけれど、無自覚者の可能性があるのでは無いか、そうだとすると馬鹿馬鹿しいなどと発言されるとそれこそ馬鹿馬鹿しいのだけれど.まあロウユアボートの番の人生は夢の実感だったのだろうけれど


   
           





 

するならば現状維持無限変革の言葉をパクって貰いたいものである.他にもあるけれど.なんとかクリエイティブ志向をしようと考えている人間にパクリとか述べてきたxxはそれ自体逆になりパクっていたのでは無いかと今ふと考える.いつの間にか消えてしまったのはそんな事を述べてきたからとか我田引水的に


   
           






 

テイラースウィフトはこれからくるのだったか、なんか今年しばらく前に日本に来たような印象だったけれど.ミレニアルズは理論的に個人的に関与性が自然にはあるのだけれど、愚か過ぎるかもしれない不自然意図により、変更して立ち直れず今に至る.論理整合的に説明がどうしてもつかなかったがあるのだが


   
           






 

文学部どうのこうの騒いでいるけれど、哲学事典はまず丸暗記が要請されるだろうが基準かなと思っている.ところが自分では暗記していると思った哲学事典に漏れているところが何箇所もあった事に気がついた以前のそのままにだけれども…


   
           





 

図書館に寄って科学雑誌を眺めそこでデジタルダブルの言葉を見つけた.まあそれは明示的になるな…だ自己分析をしているアナログデジタルに対して、心理の剽窃模倣から蒸し返した自己分析内容を自己分析者当人に述べても意味がないトートロジーだというのである.


   
           






 

AはAであるを指摘しても何ら余計な負荷感を冗長するだけの事でしか無い.まあ自己分析など無自覚な存在が自己分析者を自己と同様な無自覚者と見るしかできないことが問題なのだけれど.おまけに成り代わりなりすまし的存在もいてオリジナルを倒錯化要求してくる無知無茶な変態気狂い者もいたものだ


   
           






 

インストールに現実抵抗がありすぎのよたりだったのかも.要するに現行抵抗が無駄をさせたのか…それとも個人的な勇気のなさか、多幸心を怖がった時もあったその時には自己を忘れまた不当な不利益に遭遇した時も自己を忘れ、自己意図でもまた忘れたりと謙虚な姿勢と現行現実圧力を想定し過ぎたりしたか


   
           





 

例外には孤独感寂寥感が付き纏うから避けたがるなかな、ところがフェルミ型人間は孤独感たっぷりの日常を送っていて、感性的に見ただけでなんとも言えない不可能というか不快な抵抗感強を持つのはボーズ型だからかな.ところがフェルミ家庭に関わってしかもそなフェルミ意識を押し付けられる羽目になり


   
           






 

排除困難な事態になっているのは何故か…しつこく嫌悪者は取り付いてくる意図と反対になりすぎる現実があり過ぎる


   
           






 

実存の荒廃的な漆黒の旧時間位相像を見ていて全く忘れていた遭遇時とその後の暫くのあまりにも無駄な時間.荒廃過去イメージがするやはり退行的なものになるかな.一様条件ではフェルミもボーズも関係ないとあるが、それ狙いのその家庭かなで、それでは位相が明らかに違うのに同じに見るという矛盾となる


   
           






 

または理想条件か皮相認識か.皮相へ表出は思考が敷衍状態になる予定を意味していたけれども、現実にそのような面を感じないこともないけれど、なぜかわかるはずか判断する困難になっている.明瞭にわかるほどに敷衍していないという事になるかな


   
           






 

アダマールゲートは聞いたことかああるような、アダマールの人物名からそんな感じだった.マリーフランツの直感元型なものとする無意識パーコレーションを知り、ある記憶があり無意識直感解答に他者が論理解釈をして、やはり直感だけではいけないかとコンプレックスを持った事を思い出した.


   
           






 

よく覚えていないけれど、ユング的には論理解釈はできていたのかもとは思ってみるけれど、論理展開の長さを思えばやはり足りなかったかとも.しかし無意識解答は全く記憶に無い事が口から出てきてしまった事だけは覚えている


   
           






 

無駄な反映をして強引な束縛を形成してくる不自由を無駄に好むxx達が災いして同類xyも自由の妨害者となる形なのかも.その時束縛形成時のxxの心的状況及び情況が問題で、生理摂理を用いてもその範囲差異の苦痛感がある事に及びもしない動物的xxが不快になるのは当然かな


   
           






 

グーグルのリッチスニペット?、セマンティックとオートエンコーダの合体をよくわからないけれど直感する


   
           





 

死後の事を考えない宗教はないとか、で先祖はどうだったかの事を考えてもなんとも思えず、祖先が死後に何を思っていたのか取りきれない.最も無神論者だったかもがあるけれど.遺伝心理としてはあるかも知れないな.個人的にはごく自然に宗教的意識に生理時間を大幅に超えた考えを持っているけれど


   
           





 

今まで地球が太陽系から逸脱軌道を持つようになるF映画は無かったのではないか.これも小学生の時の事柄からのあの時あの頃の夏の日に


   
           





 

現状維持無限変革は太陽寿命億年は考慮していないけれど、考慮した場合のひとつのエピローグとして、太陽系から軌道を外した地球の設定をしてある.しかしどうもそれも不可的で仮にそうなったとしてその先が見えず、地球存続できるか不明だけれどのFエピローグを想定済み


   
           





 

死んでも勝ってこいや獲得してこいや死ぬ気でやれば何でもできるについて考えているのは、一晩で白髪にはならないとかは未達の理屈ではとか、その気になれば日で燃え尽きてしまうと想定したことがあるので、死ぬ気になっても無理なものは無理で、命を賭けてもできないものはできないと思っている


   
           






 

ただしこれらの表現が不味く、生きる気になれば何でもできはしないができるが正解で、死ぬ気になればといってもどうせ死ぬのなら何もする必要が無いと思うのは天邪鬼かな?.冴えず落ち込み元気がない時に死んでいるよという表現を聞いたな.また自分でもこんな事をしていると死んだも同然と思った事も


   
           






 

少なくともカルマ存在が他人に迷惑をかけない事はあり得ない.そんな教育を学校でしているのか、記憶にないな.最も教師の話など小学生の時から聞く耳など待たないようにしていた.まあ耳に入ってくる関心事は記憶したつもりだけれど、自己思考の方が断然だったな


   
           





 

幸福度のパワーは不快度に関してはパレート的に%で不快嫌悪感は%のパワーを持ってくると考えると、嫌いなxxのしつこさを了解できるかなと思いつく.


   
           





 

そう多くの逆的タイプはなぜか自己投射しているのかそれは既に了解把握済みの事柄をトートロジーとして述べてくる来たのは、無知で知らない事だからの認識視点によるとしか.無知なのは逆になるタイプなんだけれど.あんまり多いと弁明出来なくなる圧力感を覚えるこの事態はなんなんだ.


   
           






 

自動模倣機械人間達となるけれど、どうもその模倣思考に付随する責任意識が欠如しているようで、その思考発想は不明な無知のミルグラム人間たちになるか.他者の心理を操るのは倫理的によろしくないとしているのに、自動で模倣するとは…それだけの価値がある事になると自認してもいいのかな


   
           






 

オリジナルが寧ろ模倣しているんだと言われそうである.自己特質の表明をしておかないといけないかな、いつかはするだろうがまだ…とある期間の自伝記述中だからそれによってある程度理解されるだろうが.それをオープンにするかどうかは不明.ある程度の弁明や特質点は既にネットに出しているけれど


   
           






 

超越的視点または絶対的視点-親鸞にとっては自覚と無自覚を真性自覚としての阿弥陀に、思弁的実在論者は主観と客観をそのようにだけれど.ある人物が元論を決定していないと言い出してこの人物も内面を標榜タイプで逆にしていたタイプと後に今は気がついていて、実に不快な無理解の侮辱を覚えるのみ


   
           






 

歴史修正とは?、聖徳太子の見解にも多様な視点があるようだけれど、和を以ってはその通りではないかと思う.その後の歴史が有為転変の形を取ったのも事実だけれど、通底には和は流れている筈である.何しろ縄文時代を考え推察してもそういえる.他民族の遺伝子の侵入がその後の歴史の彷徨いにとも思う


   
           





 

この世界には意味が欠如しているするニヒリズムは…アングリカンにとって神は自身に似せて人を造ったではないのか、神は世界に無意味を齎していることになるのはアングリカンを無視しているかのようである.それともヨブの分析か.ポストカント?


   
           






 

'思考不可能なものが存在する事は不可能ではないとは思考できる'に食ってかかったメイヤスーで狂信の擁護になるからだはなるほど…小学生の時に考えた不可知は壁になっているけれどあまり考えなかったのはカントが既にもうしていたからかな?.その時に皮肉を考えて…犬儒は不可知を原理としているか?


   
           





 

ただし最近考えた有機原理を思弁的実在論は用いている感触であるな.無機有機を截然と区別するのはも思弁的位相とすると、生命は原生的疎外とした人物は…となる.相関に対する絶対者は両価を認識する視点にも似ている.敵対双方にの漁夫の利も位相は同じことだけれど


   
           






 

批判的転回以降をポストカントと呼ぶらしいけれど批判的転回がいつ頃な事なのか知らず.批判的転回に対してシェリングの自然哲学が登場するのだけれど、シェリングを取り入れたのは昔の事で思弁的が志向するシェリングについては直感でわかり、取り入れとして置く.ある女子大生がライヒを唐突にの頃の話


   
           






 

が彷徨いが重要でがちらつきとなるの複数最小数の重要視点を取り入れたか幻想の対


   
           






 

そもそもアイデアが出てこないので解説を述べるといったツイート空間設定があったことが進みようのない事態を招いているもある.あの頃は何でも目につく対象から文書は溢れ出る感覚だったのに今ではそんな感覚は持てず…難解設定項目は相変わらず難しいけれど、一応の説明は記述項目でしてある筈で


   
           






 

その後が皆目見当もつかない展開性で背理を使うかも.後は中学生の時に有限底基底を考えたもので、不定深遠の深淵をどうするかがあり、その次はロマンなんだけれどこれは心理状態が問題な嫌悪者の排除でその次は一応できていてその後は…ゼロ記述でもいいとしているといった構想.


   
           






 

今の題材履歴物語でいい可能性を見出した.となると問題の今で、知識不足故に困難な対象項目になる.その次の要素の発案はできたけれどそれもだその次はブラマンクの不定ベクトルかザリスキやイデアルが登場しそうな理念現実もか.理念現実は流石にたの項目にもかかりそう


   
           






 

その空白は無碍にハエトリ壺とするわけにもいかない意識はあるもので


   
           





 

次も難しく結論は出ているけれど展開が難しい.難しいも何も言葉が出てこない.現存在はほとんど未完に終わるや中間存在の不快が関わるが、これも空白のある項目に関わる関連的で、その項目が櫛の隙間若しくは散在的になってしまっているか、若しくはミネルバの梟感あるかな評論傾向になってしまうかも.


   
           






 

無限遠で収束するか発散するかは普通に単純な択一なのを思い出した.妙に境界のままを考えていたことになる.最も収束と発散の間に複雑な境界事態は存在するとは思うけれど


   
           





 

その無すら存在しないと道教の太極との関係は?、仏教の無すら存在しないは衝撃的だったな、埴谷雄高の前提結論の対話の存在しないジャイナ教者との対話が成立しなくなると思うのは早計の至りかどうか…シェリングの無はどのような位相意識だったのか、忘れたシェリングの何かを用いてあるあの頃


   
           





 

ワンパターン人間はo的存在かもその周期繰り返しのうんざりさで.嫌で嫌いな存在に取り憑かれるのは地獄である箴言を見たことがある.何故か嫌悪のxx&xyが何か勘違いをした複数記憶があり、その消去ができない不自然な不快記憶がツイートに悩み過程表現を齎している.この悩み過程は地獄になるようだ


   
           






 

問題が解けていないないのに新たな問題が発生する・発見する・発明する?でどうにも苛立ちが発生する.個人的にそうなので他者からの余計な煩わしさは取り敢えず必要ないのだけれど、関わってくる存在もまた生じるのでそれは煩わしさを過剰にする.問題発生意識思考はクリエイティブ性につきものかな


   
           






 

イータ星があるのならシータ星もありそうだと見るとペルセウスとさそり座に登場.ラーマヤナにも登場でACにも見かける漠然とギリシャ文字当てはめをどうしようかと考える.あとまずい押し切り当てはめもありで.全くあまりにもナンセンスを行っている羽目になるのは信じがたく不快すぎる不都合になり過ぎ


   
           





 

お手上げしていてもしようがない.乖離場で接続しているとアイデアが閃いたその要素を取り入れるしかないというかこれは結論的か、そうであるならばシステム設定の場に関してもそうなるがあるが、物理的な位相の場と脳裡現象位相とでは趣きが異なるものとする.閃いた結論的はダークマター的になる


   
           






 

そうなると人の脳構造は物理的な宇宙を射影していると思い出す.神は自身に似せて人をつくったは見事な洞察力になる…


   
           






 

否定弁証法的な両価性認識も最近は疲れてやる気はしないのにと記述したら、一様化自体非線形考慮していたのに登場は過去xx作用明らかと思える今に、一様的で両価感を想定せずに失敗したとハタと気がつくあの頃のこと.


   
           






 

無時間と不変量は異なる.想定している無限遠の複雑境界は無時間なら捨象できて考慮しなくて済むけれど、今度は無時間が非常に問題となる限界を示してくる


   
           





 

パウリの排他律の強さは原子により異なるか…結局はフェルミ型とボーズ型の差異になるその差異についての乖離感覚は男と女の差異にも似ているように思える.


   
           






 

無知的タナトス型が自己把握無自覚で他者に自己投射してそれを自己ではなく他者の固有的なものと見る-多くの蒙昧な鏡もそのようにしがち-とタナトス型ではない存在にとっては非常に心外で、自己自身に投射して自覚しろよと言いたくなる場合がある.


   
           






 

つまりタナトス型の自己責任についてで、他者に自己投射したり鏡の反射などは無責任な迷惑で自己責任ではない.無自覚無知な人間に自己責任は無理となる.親鸞は無自覚無知な人間を悪人であると称した筈で、そのような存在に阿弥陀救済があるのなら潜在的に阿弥陀理解力を持っている事になる.


   
           






 

自覚した善人もその自覚量が足りないと申しているわけだけれど-普通当然に阿弥陀なる存在より自覚量は善人も少ないとは思えるが、救済理解力は持っているわけであるとして、親鸞はこの世には無自覚人間と中途半端自覚の人間の種類が存在していると規定したわけである


   
           






 

ミラニウムではなくミレニアム問題を想起して排他原理の強度から思考がずれてきてしまった…超選択則と観察不可能性を考慮していないから、理不尽な脳麻痺を形成した記憶上の一群達と言えそうだ.真空ゼロから最低エネルギー値なんだけれど、帰納的には陰陽の太極が存在する事の証明的なものかな?


   
           






 

太極問題はアルファ的な種のひとつとしての設定だった『前提の中の前提・根本前提』とは何か不明であるとしてのそれで、公理の根拠とか哲学の難問-カントのアンチノミーとか-としてや宗教的不条理代用とかに関しての説明である.何のことかさっぱりわからない物自体は根本前提の事か⁈と閃く


   
           






 

反映するものとは中学生の時に入院中に考えたことだけれど、鏡にも色々な種類があって当然のごとくに個性固有性があるものである.


   
           





 

叙事的な存在は経験上底が浅いので詭弁的戦略を用いる傾向があると思う.つまり悩まずに直ぐに発狂するようなもので、脊髄反射的もあるか瞬間湯沸し器とか.思うにゴルギアスの結び目に対した伝説話の存在は底が浅い悩めない人物なのでイライラして単純作用である切断を行使したのではないか.


   
           






 

そんな人物は戦闘的な征服欲だけは異常者的に持っていたとも.それが後世の然るべき存在達には英雄に映るとなる.最も知的に征服欲のある分野の人間もまた多く存在していて、ミネルバの梟に褒められるとかはある?けれど、英雄とは普通に言わないな


   
           






 

暗黒場を歩きながら世界線上人々より一歩先を行っているかある優越的世界線上にいると思えた中学生の時の心情が、今や味わえなくてつまらない.


   
           





 

市民の希望に付随する暗黒は混沌の場と理解できると思考が進む.ひとは明るい希望のみではなく暗い混沌場も有している.明暗や陰陽やアポロンとディオニソスの例のようにと言えると気がついた.


   
           





 

ワンパターンの安心不動性はブラックホール依存意識がある可能性を見る.そうなるとある項目になる考え方で、日毎に応用するとずっと不快な項目に何回も浮かんでくるのはこのアイデアが示唆していたとも思える.


   
           






 

エディントン光度で降着円盤の沈殿か、渋みの深さはまるでブラックホール的位相の訳の分からぬ苛立たせる束縛感を感じるので嫌いである.沈殿的存在は行動が鈍いただし安定はしている.ブラックホールは安定しているとも言えるただし変化するとは昔から思っている.長時間後に蒸発を構想した人物がいたな


   
           






 

真実を述べると世界が凍れるという妄想は白けとも取れるけれど、それより非常識理不尽な勘違い無理解で世界を麻痺させるという経験があるな…まあ多く明晰にしたがる線形思考者は理不尽勘違い無理解などものともせず、とにかく完備結論を無理やりに出したがるものだ.何も結論を出さずともいいものに…


   
           






 

そうそう枕草子の作者は公家の視点からの文章とここ数日に思いついた.そうであるならば全体の書式流れは納得できる.帆掛け舟の段は記憶にないけれど、TLで見た帆掛け舟が若き青春を表現しているの解釈は取りすぎではないか.そんな心情はありそうだけれど、清少納言には単なる思いつきとしか思えず


   
           





 

伝統があるのと多勢があるので、くだらないというかより思考の方法を肯定すべきなのにそれらを古典として持ち上げた別に戯れ的な思考時の一連に悩み、この悩みも既に解決は明瞭になっているのに想定xx関連のレベルが無理解位相な事をすっかり忘れていた表現なのにで、この古典持ち上げを取り下げないと


   
           






 

あるxxを見かけて、悩めるほどに頭が深く無いの考えが浮かび、当てはまる不快なxx達の記憶があるなと.そうかどちらかといえば、権威的横暴性の覇者的存在は叙事的とも似て、思考が浅いといわけだ.無知-親鸞的悪人も思考が浅いので悩む事ない神聖型と結構適切になるのかと思いつく


   
           






 

いろんな衰退滅亡観や不祥事頻発などに対して、未来は明るく無い気分などとの不気味な発想を見ると、取り下げか変更のつまり元々の考え方をしないととは思う.まあその考え方を誰も模倣せず、経験リアルな悩みなどの模倣では無意味的としているのにで、それは自己認識で了解済みの無意味反復でしか無い


   
           






 

人の事ばかり考えていると建前に迎合した阿り作家がいたらしいが、別にそんな人物に考えて貰わなくて結構だという存在には邪魔でしか無いんだが.その辺を多くの他者の事ばかり人間は考慮しないので他者の事を考えているとは言えず、単に自己エゴの押し売りをしているだけになる事に思い至らないものだ


   
           





 

個人的にはそのような存在に掴まり無駄をする羽目になっている形でで、ここにはどう見ても個人的に自己よりその存在の束縛を排除せねばにも邪魔しているので、その存在に責任があると十分に言える配慮無さ存在の記憶がある.相変わらず意図の逆の無理解存在が障害にある


   
           






 

物理や数学では無限が登場しないと話にならない…物理では無限が登場すると繰り込みしないとでまずいか、しかし無限数宇宙論とかが生じている.論理にも登場させる予定がある…


   
           





 

そんなに結果を見たければ自分自身の結果を見ろとは言いたいけれど、どこかで自己の成立している以前に自己を落として成立していないものとして自己を追いかけていた昔の意味なき日々を思い出す.どこかで自己を忘れてしまいなぜか自己を追いかけるというおかしな事態になったのは、未達他者が妨害か


   
           





 

ミスインターからベダーセンの超分子クラウンエーテルのあまりにもできすぎの対称形を知るが、そこでエンタルピーで待ったの感覚がある.閉鎖系存在のエンタルピーの美的低さとその潜在力の高さが美的に向かわないエントロピーハイの不快さの他者による倒錯意識による不条理理不尽が相変わらず登場と


   
           





 

無駄な遺伝子は無いの直感から、何十年未だ遺伝子の無為箇所の本質は捉えられていなそうである.ならばtap細胞以外にやる事もありそうな分子生物.細胞が死んでもそれを補う何かを人は持っているかどうか、なぜ映画はゾンビを登場させるのか…自己発生万能細胞を出来る骨とかからの何かは無いか…


   
           






 

テロメアが減ると生対処できかねる直感はある.テロメア維持を長引かせるのは寿命延長にはそれ故に有効だろうといえる.


   
           






 

xyはxxに対して物理的に優位と思え、xxは生理的にxyに対して優位と思える.直感ではxxは何か潜在的に特権意識を持っているようでもある.


   
           





 

既に中間存在は限界まで追い詰めている形だから、日常その反動が大きすぎて疲れまくるという事態が多すぎて辟易である.現存在は殆ど未完に終わるなは中間存在には全く当てはまり、反動圧力に妥協や遠慮しても愚劣を味わうだけの先に進めずの抵抗体が存在している形過ぎの徒労の無駄をするだけ


   
           






 

他者達は簡単に像イメージ位相を持って来ているように見えるけれど、パスカルの乖離である想像力と理性の相剋には悩む.空想力にはまあそんな事もなさそうな、空想と想像には差異があるとはしている.悩むのは中間存在の有限圧力があるからだけれど、またその数多いとしている


   
           






 

昔ある人間に少なくとも人間は有限外オートマトンと述べたことがある.人間をオートマトンと述べるのはよろしくないのだけれど、ノイマンのセルに置き換えてとか.要するに中間存在外であるべきだという主旨だったのだけれど


   
           






 

時間に依存しないから、時間依存を考えると陳腐で当たり前すぎて情けないアイデア力と思ったことがあり、それも後に遭遇したあるxxにイメージが似ていて、再度リアル意味で愚劣を招く事になってしまった事がある.ふと時間に依存しない方程式があったなと思い


   
           






 

像を描いてかなりきつい殆ど極限を味わった昔の夏の日が無残に白ける感じがあるけれど、無時間自体と時間変化無しとでは違うかな.固有を見る限り同じとするのには…不変的で無時間には不変すら考える事が出来ないもの的だったけれど


   
           






 

裸の王様の話はなんなのかよくわからなかった、マヌエル作アンデルセン翻案の童話で、複雑事情を持つ大人とそうではないストレート子供の対比もので、難点は着た王様がその服の重みを感じないという無重力服が地上に存在するという非科学的ナンセンス話な事で、有名な比喩としての使用はよくわからない


   
           






 

個人的に民主制と共和制はそのエネルギー感覚に差異があり、民主国の名を持つ国はさ暫時台湾にあったらしいけれど現在無いのでは?.民主共和国・共和国・人民共和国とかあるけれど


   
           






 

テロメアのTループループは判然としていない段階なのか…


   
           





 

ラギング&リーディングで無駄なNA存在論は今はどうなっているのか、これも直感で中学生の時には無駄なものは無いとしたので、ただ休眠中というケースは想定.全てのNAが爆発的活動を一挙にしたらとは想像つかないもしくはしたくない.恐らく超人的な現象になるだろうが…


   
           






 

NAが一本鎖になってまた結合する複製を今まで考えた事はなかった.昔には気持ち悪いRNAから始めるかなどと考えた事はあり、複製起点にNAブライマーゼがRNAプライマーを合成するのなら直感はまあまあだけれど逆転写となるとどうなっているのかで頭混乱の記憶がある岡崎フラグメントなど知らず段階での


   
           






 

自由である事を求めていると権力志向型が必ず邪魔をしてくる災いとして出現してくる.また経験上多すぎる逆になる成り代わり的存在が自由を求めている事の逆作用をしてくる事もある理不尽要請をする.間主観性も役に立つならいいけれど殆ど-作用しか来ない印象が強い.+作用は記憶に残らないがち…


   
           






 

日本書紀第神武記に太歳が天祖降跡以来万余年経った--とあるそうな.そうすると確かに降臨以来長い間経った事になるけれど…初代天皇即位のBC年の西暦対照表の日本長歴による時間計算を正しいとして、神話の話で判然とはしない初代即位の年という値がどうにも独立性に苛立ちを齎す……


   
           





 

ある事に罪の意識を持ったりして忍耐をしたりするケースにおいて、そこに付け入る存在が現れるが、そのような即物的判断しかできない人間またはその誘惑に負けてしまう人間でしかあり得ないと思われる事は念頭に無いタイプでない存在はおっやるなとは思う信頼度は高くなる存在である.


   
           






 

いつか若しくはそれなりの期間に悔い改めるだろうの翌桧明日なるだろうの期待は死ぬまで無理不可能という人間も実在している事を想定している.どうもここに親鸞が登場して不快な気分になるけれど、不可能な悪人を回避させるには自力は無理で他力的な宗教性が必要とも考えられることになるか…


   
           






 

普通にはそんな状況を楽しんでいる人物が少なくとも人は存在していると考えられるが…ある対象xxをまるで気がつかない裸的存在と思い、その発語をしないで認識記憶をしたままにしていると、自らをその対象xx的な位相に繰り込まれの形になり、全く不都合な犠牲性に追い込まれるケースが他にもありで


   
           






 

ミッドナイト・丑一つ時から丑三つ時にかけての梟が大きな目を開けて佇んでいる樹木映像のそばでの気分が尚更いいのだけれど.神聖響きで情景鮮明から.飛び立った梟は今は落ち着いて静かに枝に止まって見下ろしている…


   
           





 

ふと気がつくと秋深まりのひとりじっくりとした久しぶりに静かなひと時を過ごしている.この落ち着きを希求して待っていたんだ.ただやや閉鎖位相は芳しくはないが…


   
           





 

最近は現状維持有限変革もあり得るのと考えている.昔は単に諸行無常的に無限変革とした気分だけれど、永続革命の言葉を知り革命が永続するとはいつまで革命が続くのかと想定できず、また最近知った無限革命論も同じくいつまでとなる無責任依存性があるのではと、永続&無限革命論の永続と無限の時間は?


   
           





 

現状維持無限変革と像変遷は似ていると最近は思っている.像変遷を考える前に現状維持無限変革を考えていたのに、項目違いで忘れていて、像変遷などは当たり前すぎる陳腐な誰でも可能なアイデアに過ぎないと思ったけれど勇気が無かった.原因はあるA的フェルミ型xxのしつこき絡み意識によるとほぼ


   
           






 

ところが今では面倒になったのかこの陳腐で流すようにもなったかな.しかし像変遷には事実記録的で無限変革には有機心情も含めている差異はある.その項目に現状維持無限変革を用いればいいわけだと気がつく.時間に関しては対処が困難になるようにてんやわんや達が出現し過ぎかな、否元々難しい対象とも


   
           






 

境界ディリクレ境界の圧力を人々は普通に感じているのか、特に中間存在はそうだな.それで色々煩わしい暴力的なものを覚えるわけか


   
           





 

どうも違いというかなんだか神聖型の覇者の存在を考慮しないとになる.少し邪悪な神聖という撞着的がある存在が浮かび、パワハラ型神聖がいるとは.そういえば暴力示唆的な神聖型もいたな.神聖型は悩みをしないのが特徴だけれど体質に幸福要素を持っているからかな.となるとカレーニナの幸福は神聖感か?


   
           





 

無機物以降に人間は有機物は発生したと考えるしかこの乖離は説明がつかない


   
           






 

無自覚として本当に無知な人間であるかまたは本能的に自己の不利益を排除か隠そうと無意識作用をしているか…どうも後者程の存在とは思えない場合には無知人間の表明で後者は既に成立していない.仮に後者であるとすると演技歴然で人生は操り人形のような存在でしかない.


   
           






 

それにしても主体発揮の邪魔をする存在が必ず出現してくるのはなんなのか.弁証法に操られているのではないか


   
           






 

栄枯盛衰はエントロピー所為でそれを見ると無常感を覚えて儚さを感じるという美意識があるとか.無常がわからないとかだったかなある書のあらましを見て、別にエントロピーを見る位相なら無常は常にあり、積極的自由のスパンの短さが無常感無しにしているだけだな


   
           






 

あるxxが逆というかオリジナルの心的記憶を剽窃してそのオリジナルに述べるという無駄やナンセンスに気がつかない上に頭がいいのか悪いのかわからないという時に、そんな気がつかない愚か女だは当然頭悪くなるなるだろうと思ったのだが


   
           






 

更にその上にこの愚かなxxと同一視してくるAは非Aであるという、またしてもオリジナルを剽窃してナンセンスなxw&xy達が出現するという幾重にも重なる馬鹿馬鹿しさを味わっている.なんなんだこの汝自身を知らぬ無責任な迷惑者達は自己固有を剽窃で偽るというその固有性は愚劣でしかないのだけれど


   
           






 

そんなxx自身を知らぬ能力者が自己を偽って他者に愚かな自己を投射してまた他者を偽るそのような固有xxも大いに出現するので不快になっている記憶があり、この修正に多大な労力を有するという損失感がありすぎてしょうがない


   
           






 

用事で記憶ある存在がいて素晴らしいひと時を過ごしたけれど、石畳の道を往復して神社の帰りにちょっと話した女性がその時はカルトとは思えなかった水取りとか言い出して頭が変になる/全くどこに宗教的信念が潜んでいるかわからないものだ.折角の用事の気分の良さが台無し的に…デジャブ的かもがあるが


   
           





 

それも公共非難を避ける事からかな.集団圧力は疲れるからでもある.権威権力圧力と消極的自由が決める公共とには積極的権威権力と時間位相が同じ場合もあるけれど、ずれと説得力感パワーの差異がある束縛と自由さの差異的として


   
           






 

権威権力的存在者は巧言令色度強く、自由はルール感の無いホッブス的な赴きとして未開か野蛮的に見る可能性があるが、巧言令色こそ暴力志向の束縛好みの倫理未熟未開未発達人間なのだけれど


   
           





 

外見で判断してはを見かけるけれど、外見とは服装の事か?人相の事か?.普通人は外見と内面を分かる範囲で見ながら判断するはずだけれど.見た目は一応の要素にはなる、あと人相もである.他者に無闇に侵入してもまずいのではと思うけれど、日本では侵入した方がの感じ.しかし煩わしい干渉者はいるもので


   
           





 

あるしつこいxyはひとことで巧言令色系存在だった.機能官能を用いているのに用いていないかのような偽善が混じった啓蒙意識性も持つなんというかしぶとくそこに障害的になるもの.そういえば障害物と気がつかなかったあるxxがいてこれもしつこく邪魔をする.つまりは無駄ばかりする羽目になる存在達で


   
           






 

そのように非建設的にばかり向かわせようとする不愉快不快な存在達に出くわすものである.最も建設的なxx達にも遭遇しているのだけれど、これらが邪魔をするのと個人的意図が妨げる結果にもなりて…建設的位相者は悩まさないけれど非建設的として登場のxx&xy達は無駄ばかり要請してくるものだ


   
           






 

マズローの自己超越の番目の他者の不幸に罪悪感を抱くが非常に問題で非常に困る.人々は無駄をナンセンスを道化を要求し、権力的存在の扱いやすさにもつながるかな、また人々に甘えを増長させる事にもなるので.


   
           






 

アジア初演が徳島での第とは知らなんだ.楽の歓喜の歌はシラーか、あそこの坂道でシラーの大胆なというか大仰というか理想の歌い上げを思い浮かべて、とてもそんなスケール気分にはなれないなと思ったスミレ咲く野の花にや帰巣本能と稲の病気対処の難しさなど考えた近くの坂道


   
           





 

ポンティの身体は対自観的な世界への投げ出されから完全認識状態への達成は哲学者にも難しいだろうは、カントを読んでないか理解していないか実存圧力による変容表現をせざるを得なかったような認識視点だな.ポンティを読もうとして読む時間を持てなかったあの頃の元論意識の疑問錯綜観を懐かしむ


   
           





 

反省するだけの表現ならは現象学に過ぎず…構造自体がそうなっているとするのでは妥協に過ぎないし、なんら代わり映えのしない当たり前でしかないので単なる日常世界意識でしかない


   
           





 

あの親鸞でさえ悪人として推定一生無自覚存在を肯定していて悪人と善人を区別していた…これを現在時間にあてはめると任意現象に区別ではなく差別だと騒ぐ人々がいる形かな


   
           






 

代理である事大者が自由からの逃走を強制する最大に馬鹿げた事象.そんな強制者の人格には見るべきものはないが、生きている事実同相故に強制をしてくるのだろうけれど、同相ならば馬鹿げた性格と思わせなくてもいいはずではないか.まあ性格変容を一生不可能とはおもうってはいるが…


   
           





 

なんだかモーツァルトのドン・ジョバンニをモチーフ的にした小説があるらしく-年の晩冬ものらしい-あらましを眺めていて、あるxxが嫌なレクイエム発言でどんな曲が知らないけれど、それならドン・ジョバンニだろうと意識した時間があったある所を思い出した…


   
           






 

レクイエム性を要求したのはそのxxに対してなんだけれど、嫌なモーツァルトの楽家なんぞ要求するわけがないだろう.他者達は他者達自身に要求している事をこちらが求めているような態度ばかり取るのは何故なんだ.それでツイートに記憶上にせよ現在的にせよ不快の文字が踊りすぎるわけで


   
           






 

第ステージを仮想していて今年のテーマは決まっていてそれに即している形を未完に注力している為に忘れ気味だけれど、一応決定的ではない仮想なのに現実は仮想的になっている事に気づく.第ステージの要請が現実事実からあるけれど生理が許容可能とするかは難しいと判断している今の時間


   
           






 

数学を人文的に解釈できる-物理的の方があの頃は正当感を持ついそうだったけれど、逆に数学が人文的なものを正当化していると気づきどっちもどっちというか、人文系は敬遠気味の数学かなだけれど、前順序からどうすると思う次のテーマに関連を思う.考えが交錯している…来年のテーマと仮想が一致せずで


   
           






 

神々の山嶺はどこかに消えたという映画観.小説原作のモデルの話は書物て読んだだけだけれど、何かと尖った性格の人物のように描かれていて悲劇的なその立場位相になってしまうという経緯は間違っていないと思い、そのような人物をモデルにした小説自体少し無理な設定になるのではと思えるものがある感


   
           





 

序説しか目を通していないので原生的疎外や純粋疎外は雑把で今では暴力的的に思えて苦痛で仕方ない.後は労働パワーとしている心的現象のミクロ展開をしているはずだけれど見た事ないな.それでもこの固いフレーム感を覚える文章展開枠的の感触自体不自由な束縛拘束感は嫌だな.思索の妨害となりて不自由


   
           





 

別にデータテーブルを作ると複雑になり処理が遅くなるのではと考えたりした仕組みは別に然程の遅延はなく、またルート選択もどこのルートであろうと全くナノピコの差でしかないから騒ぐ事ではない形式かもと判断がなぜか急に浮かび、AIの不明も行列散乱感からエールのリンダのタプル批判に似ていると


   
           





 

京都のベストか、去る日にあるxxと歩いた記憶がある.嵐山・竹林の道・南禅寺から哲学の道を通って銀閣寺だが、どうも聞き忘れたけれど宗教的な面で不便でしょうがなかったな.ある書物を求めて知りうる書店に行ったけれど無く、京大の図書館を思い出し行った時にはもう閉館的で不明のままに


   
           






 

東寺の縁日が良かったかな.どうもそこで言うべきでない言葉が口からでてしまいまずかった.三千院の苔と庭園は知らなかった.大原のある店が今は見つからず廃業したのかなの思い出とある事を考えてしまいや、今はイルミのある階段での若き女性も切符を買ってしまい時間が取れずとか…最近はそう京都も


   
           






 

嵐山で湯豆腐も食べたけれど.銀閣寺の垣根道は意外だった.なぜか金閣寺は脳裡に浮かばず見た事はないな.ある作家の小説があるのが抵抗感を齎している気分がある.


   
           






 

考えると京都の街は寺院が多く驚異的な街に思えてくる最近、寺数の街では明らかに世界一は確かだろう.京都へ行ったら冷やしそうめんを食べるのが目的で、南禅寺から近くの小さな店で人も入れなかったかな食べた夏.センスいい冷やしそうめんで文句はなかった洗練度だったな.


   
           






 

矛盾を不条理を作成したものが関係の本質でその本質は理屈論理上宗教の戒律などからも自由である事になり、それは絶対的なもので、それに関する思想はなかったとは言えるな.まさかの先の未来志向で抉るというか掘り下げるのはモンキースタイルと思っていて盲点だったところの簡単すぎる認識点だった


   
           






 

昔そんなケース的にあるxyに遭遇したことがあってなんなんだ侵入してくるなとまるで皮を剥かれているかのような気分を味わったことがある.猿的と共にインベーダーと思ったそのxyはそう侵略志向の倨傲さを持った存在で、今は内部に巣食い逆的で主体発揮の邪魔ばかりする他者からの誤解を招く邪魔となり


   
           






 

放射能の言葉はキュリー夫人で、ワルシャワ生まれとはあの青のナポリを教えてくれた女性との話にバナッハは出てきたのにキュリー夫人やショパンが出てこなかったのは何故か、有名すぎて?ワレサの名は登場したのに


   
           






 

物理学賞の人は女性だった.ならばあの家のそばの坂道を下りながらキュリー夫人の回は偉いと考えた事を思い出す.女性は人だけとは驚きの歴史で、少ないな.自然科学系は人でノーベル賞全体の女性比率は%か、フェミ系は自然科学系のノーベル賞女性獲得に力を入れないとと考える方策もあるなと


   
           






 

知識に罪とか幻想とかは生理物理身体の有限性が作用している、それ故に知識を行うので、知識は性的な快楽に必要ないなら猿人原人でもその通りで、動物植物でも構造的には例外を除いて当てはまる.とにかく現実とは生理的事象専らから来ているのは当たり前なので、それを強調するのはそれ故に以前の話


   
           





 

モーツアルトは歳にして弘法筆を選ばずの才能だったとすれば、疾走する悲しみは考えていたのと少し違うかも、溢れ出る才能が自己自身の曲を自己自身でじっくり味わえないという生き方故に客去りし後に余韻を味わう時を作れないいやもっと長い味わい時間かを持てない悲しみと考えていた


   
           






 

ハイドンとモーツァルトでは素質が違うの歴然でベートーベンは健全常識な作曲家なので他の作曲家達はそれぞれにベートーベンから分散を持っているがその分散表現可能なほどに知見はない.特に皇帝は必然的自由的に普通かな


   
           






 

啓蒙的で勝手なアドバイスを押し付けるそれは無意味で迷惑であるのに他者を考えない傲慢者は巧言令色型の邪悪系存在と不快な記憶者達に当てはめることができるなと、機能を使っているのに使わないかのようなソフィストタッチに快感を覚える多数の存在は巧言令色的だった事に気がついた感あり.


   
           






 

小学生の時に怪我をした近くで、朝に道を聞かば夕べに死すともかなりだけは浮かべて知っている.夕べで無くとも昼に決めてしまう或いはその直後か、愛する女性への決定の一目惚れはこののたまわきと同じであるオシドリ感阿吽感を想定する.又一生の仕事を発見した時の表現でもある.


   
           






 

欺瞞世界なら、嫌で嫌いなxxが好まれていると思うケース多々ありも頷ける.まあxyもそうだけれど…しかしそんな本来性ではなく虚偽的をするわけにはいかないが、このケースもしつこく記憶上不快で悩ます.虚偽をすると無責任でスムーズに世界が動くがあるから、欺瞞が成立するとか.


   
           





 

イソクラテスのエートスは特に道徳で話者の生涯と結びついている-ほぼこの図式をエートスと見たあの小道のところ.ウェーバーの外的な賞罰によるものはエートスではないのもそうだな.説得方とか関係なく倫理的態度をエートスとしていて、専門を考えるのなら例えばT大がそこで登場した形のエートスかも


   
           






 

中間存在質的エートスを見たのかも.なぜこの閉鎖感の向こう側にいけないのか、こちら側別側には広々とした世界があるのに、このポイントは渋味の重さと似ていて、渋味はエートス的なものと親和力あるけれど、深さとか簡潔さより個人の資質が寄与大きい感じだな.


   
           






 

ロゴスにはエートスが必要でパトスがあると権力的になる・・しかしエートス解けず.経験思考上ある種のxx達はウェーバー的エートスを用いるようになりそれで一生を終える解釈を持っているとするとタナトスの影があるかも、ありそうな


   
           






 

ある作家曰く人は皆先生である、ソクラテス曰く人は皆先生ではない


   
           





 

この現実が欺瞞世界なら冗談が現実になり、他者が自己を他者と思い込む洗脳された形の他者性もそれは自己欺瞞的なので成立する事になる逆になる模倣群のオリジナルに対する欺瞞化圧力も頷けると漸く理由根拠に至った.


   
           






 

創作的者には模倣群の存在根拠など必要としない立場があるのにそこに自己投射する無知化要求や第者要求の論理不当や何故か性的倒錯要求者とかが出現する一切は不愉快不当不快なものでしか無くその解除を当然必要とする


   
           






 

指示言語は共時というか現在的な離散的とのよくわからない意見を見て、そうならば全く底が浅すぎてまるで板塀が立っているようなxxや意外に通時的でスパン長さを肯定出来そうなxyがやはり単純頭展開の浅さでしか無い自由の狭さを構築してくる不快さ記憶.つまり速度を速くする思考で数をこなす積極性的


   
           


 

とにかく指示言語がその場かぎり的ならば面白い.ただし間主観性で逆になり自己投射押し付けを無自覚にする無知存在は長々とその可能性時間のなさからそうなる.それがしつこい事になり、また責任力は短的でしかないフェルミ型がよく当てはまる.そんな自己理由をフェルミ型は自覚したくなさそうで欺瞞的


   
           






 

徒労にのらわれている形だけれど、過剰でナンセンスなダブりである自己記憶の他者による蒸し返しは愚劣な無駄という他者の無知無自覚な無知覚にはしつこく悩まされる.昔の常識では、頭のいい人は馬鹿とか愚劣を使わないのが普通なんだけれど、もはや多すぎてそんな余裕を持てない記憶となった感ありで


   
           





 

フェルミ型がしつこく絡まり諸々に災い的な記憶を除去できない事もありなので、端的には相剋経験から貨幣に関してはそう言えるけれど、倫理道徳的面からは不快過ぎるxx&xy達で、まあ積分は往々にして指示言語的な統合感覚だけれど.xxとxyの双方に別位置で絡まりなので双方にクーパー対感があったのかも


   
           





 

中央・中核と半周辺と周辺の世界システム論の区分けには個人的な考えに於いて考えるところがある.人についても物理的には、個人<家族<社会の種同心円的区分を考える.


   
           





 

人の経験的な悩み思考から離れている時に何故か他者が蒸し返して恰も自己の思考のように述べてくる無理解というか図々しいというか無知というか思い上がりうぬぼれというか、どうにも不思議でしょうがない.端的に侮辱でしかないのだけれどやはり知恵が足りないか錯覚者で風車と見ているような


   
           






 

人間なのに風車に見られてはたまったものではない.夢を見ていることに気がつけばまだましだけれど、どうも一生気がつきそうにない.またそんなにそんな存在が経験的に非常に多い気がする.特に当然的にxxが理解できる範囲で逆をする事が問題だと思っている.無自覚者が多いから無知無自覚に引き込もうとか


   
           






 

あの昔に霙の中で自己を見ている自分とその自己と他者の見る自己とそのまた他者の見る自己的なある詩的人物の鮮烈な思い出が霙の降る月の天候と相まって.この頃人のミリガンを知った気がするけれど定かではない.春にはメンデルゾーンの軽く華やかなVCに酔い的なその付近で


   
           






 

経験保存記憶の横取りによって当の当人に無駄に指摘的発言をしてくる存在根拠がまだわからない.当人そのままならまだしもその当人を当人で無い他者と見るのはもう論理的ますなのはあきらで頂け無さすぎるのだけれど、足るを知るを知らずではなく足らずを知らずとしか言いようがないとなるが


   
           





 

このサルトルの考えはベルグソンの笑いを惹起させて、笑いへの解答にもなっているように見える.反省存在論は存在対自がまた存在論対自を行うやその後の逆の自由を考えざるを得ない.サルトルの幸福は乖離解離分離剥離を前提とした所にあるかなの感想を持った.何故ならそのギャップに壁を持った昔故に


   
           






 

どちらかといえば負の側面の方が結局のに今は思えるが、未来の必然性もあるのでその点はだけれど、モルモット的な面を感じないこともない.ある日病床に見舞った時に何を書いてもとかまたしても自己を忘れた質問などをした事を思い出す.


   
           






 

シギ立つ沢の夕暮れがあったな、シギは昔から題材鳥なんだな、見た事は無いかな…秋の夕暮れは今の季節より後の月になった頃の趣きか、今初めて西行と知った.幼き?若き日に西行を浮かべた小道は今は野生のままに道が消えて…


   
           






 

エーテルの話を知ったあの頃にはちょっと待てよとは思った.光媒体としてのエーテルは却下だろうけれど、ヒッグス媒体としてのダークマター・エネルギーをエーテル的なものと考えると結構良さそうなエーテル仮想なんだけれど.最もヒッグス媒体が正当かどうかは?


   
           






 

それからおかしくなった.その人物を他の存在と同一視するのは論理的に間違いとわかっていたのに、そのxxを尊重する形で…その後大いに誤解を受ける事になる太宰治など嫌いな蛇のようにしつこいイメージの存在で、仮想した手前色々その疲れる現実生活に呪われたような形となってしまう.仮想は冗談的で…


   
           






 

太宰治は父死去の時に歳だったとは、話が少し違って来る.別に太宰治に騒いでもしようがない、あるxxにしつこい太宰治を相手にすればいいのでは無いかと単に仮想した事を、そんな事はすっかり忘れていて、別のあるxxから太宰治じゃないと言われそれでヤケでもその通りとその論理不当なのに擁護で


   
           






 

スラングは格調無いので使いたくないけれど経営者変更したらしいTIME紙にはよく使われているのでどうかはある.でパクリ剽窃者達はそれが剽窃と気がつかないようなので、どうにも社会をインチキ化している要因者達となるが…実際はパクリ者達模倣者存在達は既に消化されているのだが・・


   
           





 

単純直感ではパウリの排他に乗るフェルミ型存在はその単体性から孤独を好む存在となるので、シングルはその特徴となりポーズ型がフェルミの犠牲になってシングルを行うのは不自然である.フェルミxxとフェルミxyは物理的に偶数となり成立するので、FがBにそのままで干渉するとインベーダー的にBを裂く


   
           






 

そんな妨害を受けるしつこいフェルミ型xxを小学生の時に坂道を登り歩きながら考えて辟易していたヤケクソを思い出すが、嫌いなので現実はそうならずだけれど記憶にはあるfとBの違いを知らなかった小学生の記憶.ふとxxだからその柔軟にスキルが加わっていたかもはある権力主張xxの無謀な無理解さ
の記憶


   
           






 

指示表出で騒いだかなな人物かいたけれど、指示的言語に関して『○○介在伝達』と考えていたのを思い出した.○○が思い出せないけれど、要は指示言語は伝達を主眼とするものであるとしている.形式的に有効であり、特に叙事的人間が得意な伝達言語でもある、その反面叙事的存在は自己表現は苦手となる


   
           





 

他者の保存記憶内容を自己だと思う他者達が多過ぎて、保存記憶を蔑ろにされてしまうので、取り敢えず記述してしまおうとか考えたりする始末である.それで逆とか良くツイするのだけれど、主体を発揮させないように出てくる他者達が妨害するという憂き目に遭遇するので己無知のミルグラムは困ったもの


   
           





 

尚個人的には普通日常に取るに足らない良心呵責のささやかすぎる行為や発言が多大に膨らんだ罪の意識を感じてしまう経験は多い…
この反対で罪の意識の無いと思われる存在の日常自然発言は頭に痛すぎるか心理を抉ってくる発言となるケースが多すぎる


   
           





 

女性の自然権によるのかな?自由闊達な理不尽をものともしない本能によるのか矛盾相克お構いないの発露は全体的に見ると○○○的と考えた記憶がある.何故そのような特権的エゴイズムを有しているのか自己表出体と考えるとあり得る話だけれど、中間存在や叙事的xx達の自己表出は惑乱を齎すだけにも見え


   
           






 

ただ万国の労働者諸君のような世界共和主義的なことではないけれど.何故プロレタリア獨裁は正しいと述べる人がいるのかよくわからない.資本主義の中から自然に発生するのは新人類か超人間的な存在が自然に発生するとしか考えられないので、プロレタリア独裁はルサンチマンに訴えたやり方ではないのか?


   
           





 

ヴィトゲンシユタインは幸せな『生存過程』といって死んだらしい.ある人物の意見では幸福とは思えないは、男女関係家庭家族の安寧が幸福の定義だと思えるゆえにそう判断するしか無い意見であるが、自己のやりたい事を徹底した生はそれはそれで個人的に満ち溢れていて個人的に幸福だったろうに


   
           






 

昔残るのは市民の希望だけと浮かべた事があり、しかし何故か暗黒部が付随して…ハバーマスの市民公共性は絶対主義的家父長制があるななら、それを暗黒部に当てはめる事も出来るけれど、明るさと暗さに当てはめも出来ると思いつく.(老子のタオは嫌いではないな)


   
           






 

そこの国の思想に陰陽の表裏一体的なものがあるのと市民希望時に描いた希望の明るさに対しての暗黒部位は陰と当てはめも出来るけれど、表があれば裏があるからは、市民公共性の表の明るさに対する裏側は何になるのか思いつかない-希望は共時的でそれに通時時間が付随するとなれば発展と発達的だけれど


   
           






 

他者達に倫理陶冶力を要求したケースを悉く性的意味合いに取られたのはなぜなんだろう?.そんな事を想定していないので、そのような存在は無視する必要が生じる妨害者たち妨げになるのは、所詮自己権利主張の倫理レベルでしかないからのようである


   
           





 

考慮するけれどガロアの隙間とかエートスベクトルとか難しい


   
           





 

まあコンプレックスを軽減する筈の予定が裏目に出て増長する羽目になるや心外な不自然なる攻撃を受け災い障害者達のプライドの愚かさに同情し過ぎ、つまりはこれらの存在はどうでもいい意味なき無関与としたいのに、干渉してくる妨害者に過ぎない存在達によって上手くはいかなかった歳となりてしまう


   
           






 

小学年性の時で二十歳過ぎればただの人に挑戦してみようかなと思った頃の話でもある.


   
           






 

ただし小学生の時に細胞について考えていて、『全細胞に死の浮き彫り』があってもそれを補う何かが生じないものかと思った形なんだけれど.


   
           






 

しかし中間存在的xxもまた多く、中間存在的な幅はあるにしても-それはxyも同じく極端には%そうではないかと推定してしまう-その幅は即物的に狭くさほどの時間幅価値を持っているとは思えない.


   
           





 

未来な変転していくだろう像変遷としての像は編年体の事象記述だけより、紀伝体の列までまとわりつく事象の領域までを像と意図したい、またしている.


   
           






 

鬱的と渋みとエートスのイメージは直感で似ている.となるとエートス的な存在は鬱病になりやすいか渋み的存在は鬱屈感を覚える束縛感を感じる事なのでとなる.エートス自体の生き方は道徳的に悪くないけれど、その閉鎖束縛感は苦痛でしょうがないのに、逆に自らが鬱的になるとは…いたずらに逆を受け過ぎ


   
           





 

対自化となった意識思考を対自的に展開するは複雑化と存在-存在論位相的もあるなと---なぜ遠い昔に分かりきった事を今頃こんな表現化しないとなんだの思いがある.無為な時間が長過ぎたのとその無為根拠的xxになぞらえたやけな心理混沌ゆえがある持つ必要のない変に乱れた位相を持ったからも一因かな.


   
           






 

とにかく嫌いなどうでもいいと思う存在に限って逆になり主体を阻害してくるのはなんなんだ.嫌いな存在はどこまでいっても嫌いで否定弁証法が成立するのに、弁証法の止揚を持ってくるという矛盾要請は不快でしかないのは明瞭で、どこかでこの迷惑を打ち消さないとである.


   
           






 

違和感は発達的で異和感は発展的、文化は発展的で文明は発達的、つまりソシュールの共時的は発展的で通時的は発達的な位相の事である.まあ鬱になってもしょうがなくまずいけれど、言うなれば新型形は確かだろう.やりたい事に相変わらず専念できない能力的立場に自らを追い込んだまたは自然が赴かせたも


   
           






 

とにかく逆は不当でこちらは逆者達の存在理由など全く必要としないのに、逆者達は逆を好むようで誠に心外でしかない.鬱といえばメランコリーを最近味わえないのは面白くないな.郷愁も味わい難くなるのは理不尽なxxに合わせた・専ら否定すべき存在達やその言明に合わせてしまうから鬱的にもなるとかな


   
           






 

後退ばかりで退行者に遭遇した時にも退行者であることに気がつかず合わせて、その結果酷い目にあっている形となる.叙事的存在は残酷な存在理由を持っているのだけれどそれに気がついていないかのように自然と認識しているかもしれない.しかしその反面甘えなんぞも強いので非常に困る.


   
           






 

『言語は口に描写された画像である』は自動表出ならぬ自動記述的に表現していたのを思い出した…この場合はパロール的で内的言語思考についてはそれを保存する形のイメージだったな.まあイメージ言語像自体はイメージ論など関係なく既にキャッチしていたわけだけれど.寧ろ刺激したかもである.


   
           






 

尚自伝は義務教育終了時までの予定にしてある.如何様に考えても思考は結局自己に行き着きその結果自伝になってしまうと世紀初頭の思考事から.ツイートもその対象を多くしてあり、踏襲するケース多にはなるけれど


   
           






 

汗を直ぐになぜかかくようになって、今まである事により汗をかかないと心理制御をしていたその箍が外れた感じである.いたずらに無駄な冗談に巻き込まれる事が多くあり過ぎのパターンのひとつでしたくもない不合理感を無くしていくことは健全だけれど、愚かな不合理ばかり考えさせる存在が多すぎている


   
           






 

始めたのはいいけれどじっくり集中出来ずの環境にありそれが苛立たせて妙に体調異変か復活かを齎しているか、又は父親に遠慮しての意識ありエディプス感覚に自らをした形かもしれぬ.とこんな明白根拠だけの単純な理由だけで説明できるわけではないが、思考展開の結果の論理帰結からの自伝作成中の時間


   
           






 

シュティルナー的個人位相からはランボーの私とは他人であるを人々は誤解しすぎの間主観性に利用しすぎているかな.ランボーにとって見者的なトランスを日常自我から見て恰も他人かのように自認していただけの表現で、原始宗教の祈祷師の乗り移りトランスと位相は変わらないはずで


   
           





 

クロソイド道路や台風の北極南極視点やローレンツアトラクターもさほどのアイデアでは無いので、ブラックホールとホワイトホールを結ぶ線は螺旋を描くと仮想して見るのならば、その形態不明で不当としてもアイデア自体はパスする視点がある.


   
           





 

最近思うのだけれど、キリストとユダの実力はそう差がなかったをみて、それなら十字架ではなく、一本の柱で磔くらいになった物語があっても良さそうなのに、金を返して首吊りをしたとか崖から飛び降りたとかの物語では随分違いかあり差があり過ぎるようにも思えるけれど…